(タイトルはいろいろありまして言えないのです)
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さとるは川崎市の読売ランド前という街のワンルームに住み、多摩川沿いのインク・ジェット工場まで原付バイクで通勤していた。二年目に五千円の昇給とともに派遣社員のリーダーをすることになった彼は数人の派遣仲間に連休の出勤をお願いしなければならなくなった時に、ノルマを達成したら、少しだけ親睦会をしようと甘い言葉で彼らを誘った。二日間の休日出勤を終え、仲間たちと休憩室で一時間、ビールを飲み、証拠を残さず、帰ったつもりだったが、翌週、彼が出社すると、ビールの空き缶がすでに休憩室のゴミ箱から発見、回収されており、職場は大騒ぎになっていた。派遣社員の身分での不始末、さとるは責任をとり、工場を辞めることになった。

本当にやりたい事をしたい、その修行から始めたいと、彼は思っていた。お金を貰える仕事さえあれば、幸せと言うわけではなかった。仕事が終わると、一時、解放された高揚感はあったが、出勤前の彼はいつも惨い精神状態で、よくお酒を飲みたくなった。何年も、その繰り返しだった。彼はその仕事をしている自分が好きだ、と自らを受け入れられる事がしたかった。

そう思いつつも、さとるはもう少し、貯金を作りたくて、派遣会社の担当社員が探してくれた新しい仕事を始めた。新幹線や発電所で使われる手のひら大の大型半導体製造工場で、半導体が高温の環境でも壊れず機能するか検査する仕事だった。彼はまだ仕事があるだけありがたいと自分に言い聞かせ、原付バイクで横浜市の工場まで一時間半程かけて通勤した。しかし、山々を切り開いた起伏のある通勤の道は常に危険が付きまとった。特に夜。カーブする対向車線の闇から大型トラックが突如、彼の視界に入ってきて、あわやという時が何度もあった。

いつか死ぬと思ったので、さとるは貯金をはたいて工場に三十分で通勤できる川崎市の中原区というところに引っ越した。同じ検査課の社員と派遣社員はなんでも話せる、いい職場だったが、彼はまた二年目に価格が百万円と言われていた大型半導体を、検査課と対立する組み立て課の陣地のクリーンルームで落としてしまい、部品の一部を傷つけてしまった。その後、部品の傷は修復され、弁償する必要もなく、出荷もされたらしかったが、彼は職場に居にくくもなり、ここが去る時と思い、工場を辞めた。

毎日、さとるは部屋に閉じこもっていた。外出して、男女が手をつなぎ、幸せそうに歩いていても、今は仕方がないと思うようにしていた。彼は本当に愛するひとを見つけたいという気持ちはあったが、今度こそ、自分を殺すことなく、やってみたい事の修行をするのだと心を決めていた。しかし、一日中、誰とも話さない生活も辛いもので、彼は朝から夕方まで、深い憂鬱の森にいて、特別、なにもできなかった。起きるとき、寝るとき、金曜、土曜、日曜、無為な日々を過ごしてしまっていると、心がネガティブな気持ちに支配された時、たまに、この世から消えたくなったりしたので、彼は両手首に数珠とお守りを絡ませて眠るようになった。

ある日、さとるは駅前の古本屋で、世界の人々が長年にわたり、教えられてきたこととは全く違う本を見つけた。「隠された歴史」「フラット・アース」。彼はそんな世界にずっと興味があったので、すぐ買った。また、「自己を癒す」という本も見つけた。手に取り、中を見てみると、「あなたの求める安らぎは、一日の労働の後にあります」と書いてあった。彼はその安らぎをずっと求めていた。これもかなり浮世離れした本だったが、美しく道徳的な言葉であふれていて、三百円と安く、自身に必要な本だと思って買った。本には心に響く言葉がたくさん書いてあり、彼はとても好きになった。そして、本は自分を守ってくれるような気もするのだった。夜、布団の中で、あれこれ考えすぎて眠れない時、本を自身の胸の上に置き、
「ぼくの心をお守りください」「本でブロックしてください・・・ネガティブなこととか・・・惨めなこと・・・あとー・・・ぼくを嫌っている人とか・・・攻撃してくる人とか・・・もー、たくさんのことから」と彼が願いをかけると、いつのまにか眠れるのだった。

それから、さとるは仕事や一人暮らしでつくづく感じたことをコンビニで売っていた百円のメモ帳に書き始めた。外出する時、彼はメモ帳から十枚くらいを切り離し、ボールペンとともに服のポケットに入れるようになり、外で思いついたことをメモに書きつけたりしていった。彼は道端で呼吸するのも忘れんばかりに数分間、心に浮かんだことを書きなぐり、メモをどんどんズボンのポケットに押し込んだ。最後には少しばかり酸欠状態になり、芯が出たままのボールペンをズボンのポケットに入れ損なうので、ポケット周りは黒ボールペンの這った跡が少しずつ増えていったが、彼の心は少しずつ安定していった。

アパートに帰ると、彼はメモを机上に宝物のように並べ、順番にホッチキスでつなげ、清書してセロハンテープで何枚もつなげた。これが、さとるがずっとやってみたいと思っていた事の試行錯誤で、人が寝静まる夜間にはかどったので、彼は昼夜逆転の生活になった。
深夜は感動しやすい時間だった。さとるは普段、何気なく使っているセロハンテープ、ホッチキスにも感動してしまった。こんな便利なものを創った人たちはなんて素晴らしいのだと思った。

夜、さとるがカーテンを閉め切ると、部屋は地上にある宇宙船のようになった。たわいもない労働かもしれなかったが、毎日の単独夜間飛行で清書されたメモは少しずつ増えていった。昨日、頑張ったから、今日はできないと、怠けていると彼の心は苦しくなった。どうやら、なにかしらの見えない存在が彼に鞭を打ち、苦しくしているようだった。

未清書のメモを三十分でも清書すると、彼の苦しい気分は消えた。波に乗ってメモの束をパソコンのワードに打ち込み、文字を付け加えたり、消したりしていると、特急の電車に飛び乗れた感覚になった。そんな労働が終わると、朝方、部屋の掃除や食事の作り置き作業など、それまでやる気の起こらなかったことが一気にできた。彼はこんな生活をしばらく続け、経験した仕事やどうもうまくいかない人生を自分の中で消化するために作文していたが、全然、面白くなかったので、そのうち、古本屋で手に入れた本のとても短い作文を書いた。

「・・・信じられないことだが、地球は丸くない。フラット、平らなんだ。国連のシンボルマークは平らで円形の地球世界を描いている。地球世界はひとつのクレーターの内側にあるようだ。この地球クレーターとも言える領域で世界の人々は生活している。平らで円形の地球世界をぐるっと囲っているのが、南極の氷の壁だ。南極は大陸ではないんだ。南極の外側には誰も知らない島や陸がたくさんあるようだ。また、人類は月にも行ってない。地球世界という生態系から決して外には出られないのだ。ぼくらは実際に南極やその向こうを見には行けないので、疑問に思うことは、NASAが用意した地球の姿の映像や地理、物理、世界史など学校教育を通じて教えられてきた。真実は一部の政府機関の人、軍隊、飛行機操縦士たちなどしか知らないわけだが、もし、それを暴露したら、暗殺者がやってくるんだ。だから、世界中が知らない。今、ぼくらは歴史など、多くを学び直して、日本や世界を戦争のない、真実が皆に行き渡り、誰もが衣食住に困らず、税金や借金地獄が存在しない、より幸せに生きられる環境にしていかなければならないんだ。人は幸せになるために生まれてくるのだから・・・」

彼は満足だった。一般に受け入れられることのない文とはわかっていたが、生きがいというもののきっかけをつかめたような気持ちになったからだった。ひとつの区切りができると、さとるは誰かと話したくて仕方がなくなっていた。彼は中原区新丸子の宇宙船から、どこかに人間種の女性、男性の姿を見に行こうと思い、東京の六本木に行った。一年間、六本木のレストランでアルバイトをしたことがあったので、街自体には慣れていたが、成就することのない愛をいつも夢みて生きてきた男が、週末の夜、ひとりでバーに行ったところで、誰かと知り合えることはなかった。そして、少しはお金もないと、元気もでなかった。

昼間、さとるが原付バイクに乗り、郵便局の前で信号待ちしていた時、郵便配達のアルバイト募集の張り紙が目についた。アパートからは多少距離のある郵便局だったが、屋外の肉体労働で、言葉を送り、受け取る手紙を扱う仕事に惹かれ、彼は連絡先をメモに書きとめ、面接を受けた。人手不足もあり、彼は雇ってもらえ、今度は毎日、お金を稼げることに興奮しつつ、郵便局に通勤し始めた。非正規雇用を渡り歩いている限り、何を夢みても、それは幻想で、勝ち目のない戦いを続けるようなものかもしれなかったが、さとるには身体を目一杯、使ってする仕事が一番尊いもののように思えた。彼は朝から夕方まで郵便を配り、部屋に戻り、痺れた身体ベッドで休めていると、肉体による労働後の安らぎを感じた。

さとるはその週末、夜の六本木に出かけた。とあるワン・ショットバー。彼の隣の隣の椅子には可愛らしい女の人が座っていて、彼がちらっと彼女の横顔を見てみると、毎月、抗不安剤をもらいに行く薬局の女の人にとても似ていた。薬剤師の女の人は窓口が混んでいると、いつも座っている椅子まで来てくれて、ひざまずき、薬の説明をしてくれ、さとるはすごくいい人と気に入っていたが、彼女の上司が窓口から見張っていて、毎回、彼女に話しかけることはできなかった。そんな彼女が隣の隣の椅子で白衣ではなく、白のタートルネックセーターに黒のズボン、足元は黒のパンプスを履いているようで、なんとも魅力的だった。

結局、さとるは彼女に話しかけられなかった。郵便局のアルバイト、「郵メイト」の少なめの給料、月末の給料日まで二週間もあるのに、八千円ぽっきりの財布の中、いつの日か、彼女の親に会いに行く時、ある程度、男の経済力に納得できなかったら、何のために苦労して娘を育ててきたのだ? と彼女の親は思うだろうということが、さとるの脳内をあっという間に埋め尽くした。それから、十年後、二十年後の悲観的なシミュレーションで、彼の脳内はぐちゃぐちゃになり、さとるは十分、二十分と座ったまま、お地蔵様のごとく固まった。彼女は溜息をついた後、帰宅するのか、カバンを持ち、グレーのコートを着て、女友達とバーから出て行った。
「今、飲んでるのは何ですか? もう一杯、どうですか?」と明るく訊いてみるべきだったと後悔するさとるだったが、相手の親の顔が想像できると、楽観的になれないのだった。

翌週、出会いは突然やってきた。十一月の土曜の夜、日付変わって、日曜、午前二時を過ぎていた。さとるは外国人の集まる、安く飲めるクラブに行こうと心を決め、六本木の繁華街を歩いていた。道は車やタクシーで混雑し、歩道は日本人、外国人の老若男女であふれていた。歩道から細い路地に入ると、彼はズボンのポケットにあったメモを見てみた。そこには夜の街で何回も失敗した末に決心したことが書いてあった。
1、八杯以上は飲まないこと。
2、酔っぱらったら、ラーメン屋。
3、悩んでる時は、飲みに行かない。
悩みはなくならないし、いまさら遅い。さとるはぶつぶつ言いながら、電飾スタンド看板の間を通り抜け、メタリック・グレーのビルの入口から地下に階段を下りて行き、カウンターにたどり着いた。日本人や外国人がお酒を求めて雑然と列を作っていた。彼はその列に並び、ラム・コークを手に入れ、カウンターの椅子に腰かけた。

「スパスィーバ」
彼女はカウンターの外国人バーテンダーからカクテルを受け取ると、にこっと笑って、そう言った。
スパスィーバ? ありがとうってことか?
さとるにはその言葉がなんとも美しく聞こえた。カクテルを両手に彼女が歩き始めると、さとるはカウンターの椅子から飛び降り、人混みをかきわけ彼女を追いかけた。連れの外国人女性のもとにたどり着いた彼女の隣で、さとるは呼吸を整え、自分に言い聞かせた。
お地蔵様のように固まるんじゃないぞ。勇気をだせよ。終戦記念日にテレビでやってた神風特攻隊を思えば、彼女に拒絶され、傷ついたとしても死ぬことはない。相手は人間、戦車でも空母でもないのだ、と。しかし、死にはしないが、何を話す? 思いついたことから話せばいいんだよ。そのうち熱がこもってくる。そう雑誌に書いてあった。まず名前を訊く。それから、どこの国から来たのか? と訊くんだよ。

さとるはダンス・ミュージックが大音量で鳴り響く中、彼女の肩を人差し指でトントンと叩き、彼女の注意を引き寄せて、
「ハロー。アイ・アム・サトル。ファット・ユア・ネイム?」
と名前を訊いてみた。茶色の瞳の彼女はさとるの顔を見て、
「ジュリアともうします」
と日本語で答えた。黒いスウェット・シャツにブルー・ジーンズ、白いスニーカーを履いた彼女は外国人にしては小柄で、褐色の髪は七三に分けられ、肩に触れることなく短くしてあった。
眼鏡をかけたさとるもジーンズに灰色のスニーカー姿だったが、清潔に見えるように、黒セーターの上に紺のジャケットでおしゃれしてきていた。そんなさとるはまた彼女に訊いた。
「ホエア・ユー・フロム?」
「わたしぃ、ロシアのかた。カーチャ、リトアニアのかた」
そう言うと、彼女は長い黒髪で、少しばかりグラマラスな雰囲気の女の人をさとるに紹介した。
「あなたは?」
「日本のかた」
さとるは好奇心のおもむくまま、また質問した。
「ファット・ユー・ドゥー・イン・トーキョー?」
「わたし、ホステス。にほんごでいいです」 
彼女はまた日本語で答えた。日本語でいいのか。ふー。

さとるは照明が暗かったので、落ち着いた気分にはなっていたが、彼女と話し続けるには、もっとカクテルが必要だった。彼女もマルガリータが飲みたいと言うので、さとるはまた、人混みをかき分け、カウンターまでカクテルを買いに行った。そして、ラム・コークとマルガリータを手に入れたが、彼女の元へ帰る途中に、通り道を塞いでいた大柄な外国人男にぶつかってしまい、さとるの手は濡れ、彼女のマルガリータがグラスの半分になってしまった。
「どーして、すこし?」
「ごめん。こぼしちゃった」
彼女はいかにも残念そうだったが、マルガリータの残りをぐいっと飲み干すと、黒のスウェット・シャツを脱ぎ、首回りから胸のあたりまでハサミで切り取られた、胸元が少し見えるような、紫とピンクのボーダー・シャツ姿になった。
「レズゴ(レッツゴー)」
彼女はさとるに一緒に踊ろうと促した。
「ONE・MORE・TIME! ONE・MORE・TIME!」
お酒の入ったふたりはダンスフロアーを飛び跳ねた。彼女の身体が勢い余って、さとるの身体に当たった。周りの男女が曲のサビを歌っていたので、彼女もさとるも小さく声をだした。
「ONE・MORE・TIME・・・ONE・MORE・TIME・・・」

それから、照明が落ち、美しいスロー・ダンスの曲、「レディ・イン・レッド」のイントロが聞えてきた。彼女が両手を差し出したので、さとるはその手を握った。あぁ。人肌との接触。いつ以来だろう? さとるは人が元気になるには、こういうことがどうしても必要なことに思えた。
さとるは美しい曲が終わると勝負をかけて、これからの話をするために、彼女を壁際に誘導した。大音量の音楽の中、さとるは彼女に語りかけた。今の自分は郵便配達のアルバイトだが、夢はあるんだということを。彼女といつのまにか彼女の隣にいたリトアニアの友達も、さとるの言葉を真剣に聞いていた。
ジュリアは薄化粧で、笑顔が可愛らしく、ぽっちゃりとした体形と相まって、洋画のDVDで見たコメディ女優に似てないこともないような、どこかユーモラスな雰囲気もあって、さとるは彼女に一目惚れしていた。さとるは彼女と出会ったばかりだったが、自分の人生、この人がいいと思うのだった。いつのまにか、さとるの口から言葉が飛び出していた。
「・・・おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」
「・・・・・」
彼女はびっくりしたように目を大きくした。それから、
「あなたの電話番号が欲しい」
とさとるが言うと、汗で髪が濡れ、顔を紅潮させていた彼女は、さとるの顔をしばらくじっと見つめた後に、右手でものを書くジェスチャーをした。さとるがズボンのポケットに常備していたメモとポールペンを彼女に渡すと、しばらくして携帯番号が書かれたメモがさとるに手渡された。さとるがカタカナで書かれたジュリアという文字と十一桁の数字を胸一杯になって見つめていると、彼女は、
「あのね、わたし、かえる」
と帰り支度をし始めた。さとるは急かされるように紙ナプキンを折りたたみ、財布にしまい込んだ。それから、彼女は手を振りながら、
「パカパカ!」
とあっという間に、女友達とクラブから出ていった。バカバカではなく、パカパカに聞こえたが、意味はわからなかった。さとるもカクテルを飲み干し、帰ることにした。彼は始発の地下鉄の時間まで、近くのハンバーガーショップで時間を潰し、朝の五時になり、駅に向かい、地下鉄に乗った。ジュリアともうします、と言う彼女の真面目な日本語はさとるには新鮮で、ロシアを悪の帝国だとか仮想敵国のように言う人がいようが、そんなことはどうでもよかった。彼はすっかり明るくなった朝方、多摩川のそばのアパートに戻った。


陽も沈んだ夕方、さとるはジュリアに言った言葉とともに目覚め、少し後悔した。
「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」というのは責任が伴う、大きなこと。
一目で彼女を気に入ったのはいいが、言葉は取り消せない。それを言うのを我慢して電話番号をもらわないといけなかった。あぁ。
彼は無性にお酒が飲みたくなり、冷蔵庫のカルピス・サワーを一気に飲んだ。夜になり、彼はジュリアに電話した。彼女はすぐに電話に出た。
「もしもし。さとるです・・・」 
「今、しごと中」
ジュリアは日曜日も彼女のお店に出勤していた。
「わかった・・・また電話する」
さとるがそう言うと、
「わかりました」
と丁寧な日本語が返ってきた。

翌日、月曜日の夜、さとるの携帯電話が鳴った。
「もしぃもしぃ?」
ジュリアは日本人のように、「も」に力を入れるのではなく、「し」に力を入れて発音した。その調子外れな日本語がさとるには新鮮だった。
「すぐ、でんわ」
彼女はそう言って電話を切った。さとるが電話をかけ直すと、
「アロー(もしもし)!」
と彼女の声が聞こえた。
「いま、どこ?」
「アパート」
「ひとり?」
「そう」
「今日、お店、欲しい?」
「お店?」
「あまり欲しくない」
「今日、お店安い。九時まで四千円。あと五千円。指名、二千円。女の子のドリンク、千円」
そんなジュリアのヒソヒソ声が、さとるに狭い空間で響くように聞こえてきた。
「今、どこから電話してるの?」
「トイレ! スタッフ、見る。わたしぃ、あぶない。あなた、今、くる。一時間だけ」 
ジュリアは隣にいたお客さんが男子トイレに行った隙に、女子トイレに行き、さとるに電話していた。
「わたし、まだあなたのこと、しらない」
「・・・・・」
「男の人、すとか、かもしれない」
「すとか? ストーカーのこと?」
電話のジュリアが切羽詰まった様子だったので、さとるは彼女のお店に行ってみることにした。
「わかった。今週、なんとか行く」
「オッキー(OK)。おまちあります」
彼女はさとるを変な日本語で誘った。



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「この週末、合衆国大統領が来日します。制服、自転車などを盗まれないように」
班長が皆にそう話し、朝のミーティングが終わると、さとるは机上の郵便物を番地ごとに分け、紐で縛り、黒革の集配用カバンに詰め込んだ。彼は黒カバンと大きなかご一杯の郵便物を二階に止まるエレベーターに載せ、スーパー・カブが並ぶ地下駐車場に向かった。彼は割り当てられた赤いスーパー・カブの前方に黒カバンを設置し、後ろの荷台の赤ボックスにかご一杯の郵便物を詰め込んだ。皆の荷物は多く、通常業務の普通郵便や書留に加え、大きさや量が増す、ゆうパックがあった。

さとるは郵便局を出発し、赤バイクで走ること十五分、持ち場の地域に着いた。そこを出発点として一日の配達が始まり、毎日、ほとんど同じ場所で、清掃車、宅急便の車、犬を連れた散歩中のおじさんとすれ違うのだった。さとるがエアーメールを一通、庭木に登る庭師の足元の郵便受けにポイっと入れ、公営団地、マンションをいくつか回り、赤バイクを道に止め、残りの郵便物を確認していると、
「三丁目どこですか?」
と、どこかのお母さんから声がかかった。お母さんだけではなかった。
「この辺に酒屋さんってあります?」
皆がさとるに道を訊いた。赤バイクの横に車を停車させ、車の窓から顔をだす白髪のお父さんも、
「ここで郵便物、預けるわけにはいかない?」
と無理を言った。
「ここじゃ困ります。郵便局でお願いします」
紺色の制服を着て、屋外にいると、いろいろな人から声がかかるのだった。さとるは煩わしくもなく、誰かと会話できることはいいことなのかもと思った。失業していた時は、一日中、口を動かすことがなくて、「おはよう・・・あいうえお・・・かきくけこ」と誰もいない部屋で、意味不明に声を出したりしたものだった。このストレスが一番苦しかった。彼は人と話す機会がなくなってしまうと、頭がおかしくなってしまうのだった。

さとるはある女子寮で、三十通程の郵便物を部屋番号順に郵便受けに入れていた。一通、郵便受けを間違えたので、彼は郵便受けに手を入れて、葉書を取り戻そうとしていた。すると、
「そこのあなた、なんですかぁ!」
と大きな声が彼の頭上で響いた。このごろは監視カメラですべてを見ているのだった。
「入れる郵便受けを間違えまして」
「こちら、管理人ですが、そこでウロチョロされると困るんです」

そして、山の内荘。四部屋あるこのアパートは、どのドアにも、どの郵便受けにも部屋番号も名前も書いてなかったが、郵便局員は郵便受けを作ってくださいとか、郵便受けに名前を書いてくださいとは言えないのだった。
仕事に出ているのだろう、どのインターホンを鳴らしても応答はなかった。土佐犬だけが今日もどこからか飛び出してきて、アパート周りの庭を走り回り、さとるに吠えかかった。
山の内荘に何度も足を運び、不在届を入れたりしているうちに、さとるは自分のアパートの郵便受けの名前だけは油性マジックではっきりと書き、できたらもっと大きな郵便受けにしたいと強く思うのだった。ほとんどの荷物が入ってしまえば、郵便局員、宅急便業者などの無駄足も減るからだ。

彼を助けてくれる人もいた。
「どこ、探してる?」
八百屋のお父さんは、郵便物を両手で抱え、右往左往しているさとるを見つけると、彼がわからない入り組んだ道の奥のアパートなどの場所を教えてくれるのだった。
さとるはそんな人情に気をよくして、クリーニング店の衣類がアイロンがけされた匂いの中を、中華料理店裏口の香ばしい匂いの中を、赤バイクで駆け抜け、広告葉書を届けるため、担当地域の果ての建設会社を目指した。
「郵便でーす」
無骨な男がカラスがカーカー鳴いている中、眠そうにプレハブから出てきて、無言で広告葉書を受け取った。それから、彼は郵便局に帰り、新たな郵便物を黒カバンと赤いボックスに詰め込み、自動車のショールーム、建設会社、警官が常駐している代議士の家などを回り、夕方、新聞の夕刊の配達が終わる頃、さとるの一日の仕事は終わった。  
身体が疲れた彼は、ジュリアに救いを求めて電話した。
「アロー!(もしもし)。わたし、いま、電車のる」
「今日、行くけど、ジュリアの店ってどこにあるの?」
「きんしちょ」
「錦糸町のどこ? 店の住所」
「じゅしょ?」
「アドレス! アドレス!」
「わたし、がいじん。わからない。おみせ、シャレード」
シャレード。行ってみるのだ。

                 
夜の錦糸町。シャレードはレトロ風な六階建てビルの二階にあった。古いレンガのようなタイルがビルの外壁に敷きつめられ、いくつかのスポットライトに照らし出されていた。二階へのらせん階段周りには、「海老かき揚げ・もつ鍋」、「ジンギスカン」、「シャレード」、「メンバーズ・クラブ」などいくつかの電飾スタンドが並んでいた。さとるはネットでなんとか店の場所を知ることができたのだった。
彼はらせん階段を上り、シャレードの入口扉前まで来ると、中に入る前にお酒が必要だと思った。彼はコンビニに行き、缶チューハイを一本、二本と飲み、シャレードに戻り、重い扉を開けると、暗い室内の小さなステージで、五十代くらいの男性が英語で、イーグルスの、「ホテル・カリフォルニア」を歌っていた。隣には頭だけを左右にぎこちなく振ってリズムをとりながら、お客さんをエスコートしているジュリアがいた。
すぐに上下黒スーツを着た欧州か中東出身と思われる男が近づいてきた。彼に料金システムを教えてもらい、店の片隅のソファに案内されると、さとるは黒いブルゾンを脱ぎ、青のギンガム・チェック・シャツ姿になった。
ソファに座ったさとるを見つけると、ジュリアはまるで刑務所に面会に来てくれた家族でも見つけたようにうれしそうだった。彼女はかかとが恐ろしく高いハイヒールでよろよろと歩いてきた。そして、さとるの隣になんとか腰掛けた。ジュリアは白と黒のゼブラ模様のシャツに、黒いスカートをはいていた。
「足、大丈夫?」
さとるは彼女のハイヒールを指さし訊いてみた。
「これしかない。借りてる」
「何センチ、大きくなったの?」
「十二センチ。わたし、こわい。転ぶ、足、折れる」
「・・・・・」
「何、飲む?」
ジュリアは言った。テーブルには何杯飲んでも料金に含まれている焼酎とブランデーのボトル、水の入ったピッチャー、そして、氷の入ったアイスペールが置いてあり、ジュリアはブランデーの水割りを作ってくれた。
「わたし、ドリンク、オッキー(OK)?」
「OK」
彼女は右手を高くあげ、
「お願いしまーす!」
とスタッフを呼び、トマトジュースを注文し、それからまじまじとさとるの顔を見つめた。
「あなた、目の下、くろぉーい。どした?」
「・・・・」
「太陽にあたらないといけなーい」
外国人の日本語で、そんなことを言われると、さとるはありがたいやら情けないやら、なんとも言えない気持ちになった。
「わたしぃ、イチゴ食べたい。オッキー?」
「オッキー」
「あなた、仕事、なに?」
 最初にクラブで話したはずだったが、さとるはもう一度、言った。
「郵便局。ポストオフィスマン」
「あなた、おくさん、ない?」
「ない」
「リング、ポケットない?」
「ないよ。最初、会ったとき、ひとりって思わなかったの?」
「思ったけど」
「最初、会ったとき、どう思った?」
「まじめ」
「なんで?」
「服、ジャケットだた」
そうか。これからは寒かろうが暑かろうがジャケットを着よう。ユニクロしかないけど。結婚しているかどうか訊かれたさとるも訊いてみた。
「あなたは結婚したことある?」
彼女は視線を落として答えた。
「あのね・・・・ロシアとき、けこん。でも、わかれた」
「・・・いくつのとき?」
「あのね・・・・二十。一年、けこん」
「あのね、あのね、って、どうしたの?」
「わたし、きんちょ(緊張)してるかも」
「子供いる?」
「子供いたら、日本、こない!」
自分から指輪とか結婚関係の話をだしておきながら、不本意な離婚の話になったためか、ジュリアは両目を閉じ、ふーと息を吐き出し、悟りを開いた仏様のように右手をあげて言った。
「こいはもうもく。わかげのいたり」
「どこでそんな言葉おぼえたの?」
「東京」

皿に盛ったイチゴがテーブルにやってきたと思ったら、店のスタッフが右手でジュリアに向かって合図した。彼女は言った。
「あとで、カムバック。今度、たのしい話する」
彼女は他のお客さんからの指名があったのだ。

ジュリアが席を外すと、代わりにカーチャがやってきた。
「わたし、のみもの、いいですか?」
女の子のお酒は千円ずつだった。
「いいよ」
彼女はジュリアのためなのか、探りを入れるように言った。
「あなた、こういうお店、よく行く? 日本の女の店とか」
「キャバクラとか?」
キャバクラという言葉自体がおもしろかったのか、カーチャははじけるように笑った。
「ぼくは行けないなぁ。たぶん、日本人のお店はすごいお金がかかると思う。プレゼントとか、すごいって聞いたことある」
「オィ、それ、しってる。わたし、丸井、一万円、カバン、すごぉい、うれしー。でも、日本人、ルイ・ヴィトンもってる。四十万円」
カーチャは故郷の家族に仕送りする必要もなく、主に自分のためにお金を使える日本人女性が羨ましそうだった。そんな彼女も将来、日本で働いたお金をリトアニアに持ち帰り、生涯、住める場所を買うと言うのだった。
「アパート?」
「ちがぁう。うち、買える」
旧ソ連邦の時代には家族ごとに誰もがアパートを支給されていたが、ソ連邦崩壊後の世代は、家族から独立しようにも、もうアパートの支給もなく、自分の居場所を持てなくなっていた。
彼女は日本で給料を貯金しつづければ、いつかリトアニアで一軒家が買えると信じていた。
さとるはカーチャの家よりずっと気になることがあったので彼女に訊いてみた。
「このイチゴって、一万とかしないよね?」
「ナイ、ナイ。やっすーい」
L字になった店の構造上、さとるにはジュリアがどこにいるのかわからなかった。二股、三股かけるのが彼女たちの仕事のようで、ホステスが複数のお客さんの間で、がちあうことなく、お互い見えないように店は工夫して作ってあった。

「ただいま」
しばらくして、ジュリアがテーブルに戻ってくると、つなぎ役だったカーチャが別のお客さんのところへ移動していった。今度は楽しい話をすると言っていた彼女はさとるにまた水割りをつくり始めた。
「あなた、きょうだい、ある?」
ジュリアは言った。
「妹、いる」
「子供、いる?」
「まだ結婚してない」
「しごと?」
「うん。会社で働いてる」
 さとるも訊いてみた。
「ジュリアは兄弟いる?」
「いない。わたしだけ」
「お父さんは元気にしてる?」
「・・・お父さん、昔、死んじゃった」
ジュリアは水割りをさとるの前に置くと、天井の遥か彼方に向かって、元気でね、とばかりに右手を振った。さとるは話題を変えようと思った。
「・・・お母さんは元気?」
「・・・・・」
 彼女は少し困ったような表情をした。でも、すぐに明るく振舞って、小さな布袋から旧式のデジタル・カメラを取り出し、さとるにお母さんの写真を見せてくれた。
お母さんは太っていた。お母さんと暮らす飼い猫の写真もあった。猫も太っていた。
「おでぶちゃんだから。八キロある」

ふたりのテーブルの右隣は楽しそうだった。テーブルの上のプラスチック容器には、MOETという文字が読めるボトルが空のようで逆さに入っていて、金髪の女が顔色の悪い六十代くらいの男の隣に座っていた。彼らは時々、大きな声で笑っていた。
「なに? あれ」
「シャンパン」
そう言っている間に、隣に二本目のMOETがやってきた。さとるがそのシャンパンをじっと見ていると、ジュリアは、
「あれ、三万円。もっと安いは、二万円。ワインのボトル、一万五千円」
と注文してほしそうに言ったが、彼はそれを聞き流した。
「一杯、千円のがいい」
「じゃ、わたし、ナマ」
ジュリアがサラリーマンみたいな言い方でビールを注文すると、すぐ冷えたビールが大きなグラスで運ばれてきた。彼女はビールを一口飲み、グラスをテーブルに置いた。いつのまにかワンセット料金の一時間が近づいていた。
「エンチョ?」
電話で一時間だけと言っていたが、彼女は営業にも余念がなかった。三十分、時間延長ができるかは、イチゴの値段次第だったので、通りかかったスタッフに訊いてみた。
「このイチゴっていくらですか?」
「五ですね」
彼は甲高い声で言った。
こんな少しで五千円!
「エンチョ?」
「・・・今度の日曜日、デートしてくれる?」
「まだ、はやい。男の人、すぐわからない。なまけものかもしれない」
「なんでそんなに警戒するの?」
「まちがえるといけない」
さとるはまだまだ警戒されていて小さなショックを感じた。ぼったくりのイチゴのショックも加わり、最後には険悪とも言える雰囲気の中、さとるとジュリアは意地の張り合いとなり、お互い無言で座っているだけだった。
「なにかある?」
帰る前になにか優しい一言ある? と言った意味だったのだろうか、ジュリアは尋ねたが、お金が足らないと店にはいられないわけで、さとるが、
「ない!」
と答えると、ぶふっ、と彼女はふきだして笑った。結局、さとるは延長もできず、逃げるように店を後にした。


それから、しばらくしてさとるはアパートからジュリアに電話した。
「あなた、今度の日曜日、休み?」
「しごと」
「休み、あるって言ってたのに」
「わたし、休まない」
「全然、休まないの?」
「わたしのお休み、そうじ、せんたく、アイロン、エステ」
「はぁ・・わかった。また電話する」
「いつ、電話する?」
「・・・・・・」
「電話、待ってますからねぇ」
なんか、うまい日本語だった。

さとるはなんとかもう少し二人の距離を短くしたかったので、プレゼント作戦でいこうと思った。彼はお金に余裕がなかったので、パソコンで音楽CDを作り、店に夜八時から九時の時間指定の宅急便で送った。
「いろいろな歌手の歌ね。ぼくのベスト。百曲はある」
と彼女に電話で知らせた三日後、さとるは気に入ったかどうか電話で確かめた。彼女は電話をすれば、駆け引きなく、すぐ電話に出る人だった。
「CD聞いた?」
「聞かない」
オー・マイ・ガー。                    
「どーして?」
「音、出ない」
「・・・・・」
どうしようもなかった。翌日、さとるは家電量販店でアイ・ポッドを買い、アパートでCDと同じ音楽をアイ・ポッドに入れた。彼はついでに買ったクマのぬいぐるみも小箱に入れ、クマの両耳にアイ・ポッドのイヤホンをあてがい、ガムテープで強引にとめて、クマがアイ・ポッドを聞く形にすると、我ながら素晴らしいアイデアだと思った。二百円のチョコレートも四つ、グミも三つ、いかにも愛情がこもったように、クマのまわりにちりばめた。
そして彼はジュリアに電話した。
「今度は大丈夫。アイ・ポッド、買った。愛するジュリアのために。直接、渡したいから、どっかで会おう」
「・・・・・・」
「いらない?」
「・・・いっるう!」
彼女は待ち合わせ場所の渋谷駅、恵比寿側の端のプラットホームに、餌に引っかかった小鳥のごとくしずしずと、プレゼントを回収にやってきた。紺色のダウン・ジャケットを着こみ、薄黄色のマフラーをしていた。
「うりしー(うれしい)。ありがとー」
さとるがそのふたを開けてプレゼントの小箱を渡すと、ジュリアは確かにうれしそうだった。
「ロシアでも使えるバッテリー・チャージ(充電器)も欲しい?」
「・・・・・・」
「いらない?」
「欲っしー」
そう、ジュリアはさとるに言うと、ホームに入ってきた山手線に乗り込み、仕事に向かった。



3

 
 3

来日前、ジュリアはモスクワの叔母が住む集合住宅の一室にいた。日本で働くためのオーディションがこの街であるからで、仕事の内容は接客業とのことだった。
彼女はモスクワ市最果ての駅である最寄りの地下鉄駅の階段を下りて行き、無人の改札の隣で切符を買った。地下鉄はどこまでも行っても五ルーブル、約二十円だった。
ホームは人もまばらだった。地方の街出身のジュリアはモスクワの地下鉄に慣れていなかった。路線地図を見ると、オーディション会場になっていたホテルのあるイズマイロフスキー駅に行くには、2号線から途中で乗り換え、環状線に乗った後、3号線に乗り換えなければならなかった。 
彼女がホームに入ってきた地下鉄に乗り込むやいなや、激しく扉が閉まった。地下鉄は老朽化が激しく、節電のため、照明も暗かった。彼女はかたくクッションのほとんどない長椅子に座り、駅にとまるたびに、駅名を確認した。あと四駅目で乗り換えだった。知らない大都会は緊張した。彼女は乗り換えの駅に着くと、地下鉄を降り、モスクワの人たちの流れについて行き、エスカレーターに乗った。エスカレーターの長さはとてつもなかった。65メートルの地中深くまで続いていた。ビルの十八階から一階まで降りていくような感覚だった。ずいぶん時間がかかった。階段など作られているわけがなかった。ホーム、コンコースなどは第二次世界大戦前から計画、建設された巨大なシェルターでもあった。
アメリカやNATOとの核戦争時には、地下鉄職員の制服を着たロシア軍幹部たちがホームの隠し扉からトンネルを経て、地下深い核戦争作戦会議室にたどり着けるようになっていて、三か月間、二千五百人が会議室周りのシェルター施設で生活できるらしかった。
簡潔な造りのホームもあれば、地下の宮殿のようにシャンデリア、ステンドグラス、大理石などで装飾が施され、アーチ形の天井が駅の端まで続くコンコースやホームもあった。戦争になった時、ホームやコンコースで人々が長期間、過ごすことができるように作られているとジュリアは聞いていた。
最も地下深くにあるホームに着くと、彼女は環状線に乗り込んだ。隣に座っていた大学生らしき眼鏡の女性は暗い車内で、「放射物理」と書かれた本を開いていた。また、手すりにつかまり、立っている髭が伸び放題の中高年男性の持つビニールバックは一年以上、毎日使っているような擦り切れかただった。
しばらくして、彼女は3号線に乗り換えた。・・・・一・・・・・・・・・二・・・・・・三・・・・・四・・・・・五・・・そして、目的地のイズマイロフスキー駅に着いた。ここにオーディション会場のあるイズマイロヴォ・ホテルがあるはずだった。
ジュリアが地下から地上に出ると、目の前に公園があって、樹木が密集していた。公園の入口では、ビールの小瓶をそれぞれ持った男と女が抱き合っていた。後ろを振り返ると、いくつかの高層建築があった。彼女はホテルらしき高層建築の方に向かった。入口の石材には、ИЗМАЙЛОВОと刻まれていた。ここだ。入口から高層ホテルが四棟見えたが、早く来すぎたようだった。
彼女は公園に向かい、ベンチに座り、バックから冷えてしまったピザを取り出し、食べ始めた。ピザが匂うのか、足元にハトがトコトコとやってきた。ジュリアは、ハトにピザをちぎって与えた。そのピザにつられ、すぐに十羽のハトが、彼女の足元に集まってきた。もう一切れ、地面の上に落とすと、新たに十羽ほど。いつのまにか、三十羽ほどのハトが彼女の周りに集まってきた。
ピザを食べ、満足して飛び去っていくハトもいれば、ピザを食べられないままのハトもいた。そんな要領の悪いハトに、何回も集中的にピザを放り投げても、飛んでくるピザに驚き、後ろにジャンプしてしまい、出足で遅れ、くちばしでピザに触るところまではいくが、他のハトにピザを取られ続けていた。
彼女はピザを二つ同時に用意して、右の強いハトと左の要領の悪いハトに、同時にピザを放ると、やっと要領の悪いハトはピザを取り、空へ飛んでいった。
 オーディションの時間が近づいてきた。会場はデルタ棟。・・・デルタ、デルタ。彼女は広い石畳の敷地をかなり歩いて外国人専用のホテルのデルタ棟に、そして、エレベーターで会場にたどり着いた。大きな部屋に二十人程の女性がいた。窓からは広大なモスクワが見渡せた。日本人のプロモーターが日本語で仕事の説明をして、ロシア人通訳がロシア語に訳していた。接客業というのは、だいたい想像できたが、ホステスであろうと思っていた。

それでも、ジュリアはどうしても日本に行きたかった。母の家があるサラトフに仕事は少なかった。外国に行くなら、日本が一番よかった。ヨーロッパで出稼ぎが働こうとすると、エロチックな店ばかりを紹介され、セックスさえ強要され、売春婦とさえ悪口を言われると、彼女は女友達から聞いていた。
日本から帰ってきた幼なじみによると、日本人はロシア人に優しく、男性のお客さんと話をするだけで、ロシアよりずっといい給料が貰えるとのことだった。夜の仕事でも、セックスを拒否できるというのが、一番大きかった。元々、彼女は日本に興味があって、十分な貯金ができたら、京都の紫式部の世界や広島の原爆ドームを自分の目で見てみたかった。

ジュリアはそんな日本に対する思いも日本人プロモーターとの面接で話した。彼女は思いがけなく、ダンサーをやってもらうと言われ、人に見せられるようなダンスなどできないと言ったら、素人レベルで十分で、ダンスレッスンもあるとのことだった。素人ダンサーなら、日本語能力もそれほど必要なくありがたかった。面接の最後に、「大阪で会いましょう」とプロモーターに言われたので、オーディションには合格したようだった。面接は二十分で終わった。日本に行ける! ジュリアの気持ちは高揚した。
彼女は自分へのご褒美でホテル内のレストランで食事をとろうと思ったが、どこも自分の予算より高かった。彼女は石畳の敷地を歩き続け、ホテルの外に出ると、小規模な商店街があった。彼女は朝からピザしか食べてなかったので、パンとジュースを買った。小さな商店の壁一面に、ロシアのありとあらゆるお酒が、何段もの棚に並べられていた。
作業服姿の男たちやビジネスマン、その服装に関係なく、男たちが壁の酒を見つめる目は異様にギラギラしていた。商店街の回りには、靴下やシャツ、あめ玉やお菓子などを抱えて、道を通る人々に売ろうとしているおばさんたちがいた。おばあさんもいた。今日の商売を終えて帰り支度の年配の女性たちもいた。
ジュリアはパンとジュースを買った後に思った。今夜、泊まれる叔母の家があって本当に良かったと。そして、このおばさんたち、おばあさんたちが、ちゃんと年金で生活でき、道端で毎日、商売しなくてもいい時代が早く来るといいなと。
夜、遅くジュリアは叔母の家に戻った。翌日から大阪行きの準備をしたあと、彼女は日本に飛び、関西空港から入国した。

ジュリアが大阪に来てみると、ダンスレッスンもダンサーの仕事もなく、やはり、お客さんの隣でお酒を作って、話したり聞いたりするホステスの仕事だった。彼女は初めての来日ゆえ、日本語が話せず、日本語がわかる女性が来るまでの、つなぎ役として、お客さんと片言の英語、または持ち歩いていた日本語ノートで筆談したりして、コミュニケーションをとり、ニコニコしながら、たらい回しにされるしかなかった。
一日の給料がゼロ円のときもあった。ロシアで聞いていた話とは違い、ブラジル人がほとんどの店でジュリアは孤独だった。
彼女は清潔とはいえない生活環境と、コミュニケーションが難しい仕事ゆえ、体調を崩し、もう、挫けそうなとき、旧ソ連邦のリトアニア出身でロシア語の通じるカーチャが入店した。ジュリアはカーチャと一緒に、必死に日本語を勉強しながら、日本語を話し、指名される女性たちのつなぎ役をしているうちに、ふたりは仲良くなった。そして、独学で、なんとか日本語を覚えた頃、ジュリアとカーチャは、入店してきたロシア女性から東京のシャレードを紹介してあげると言われた。一ヶ月に六万の貯金ができ、四日の休みが確実にもらえるという話だったので、ふたりは貯めたお金を持って、東京に出てきたのだった。



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 4
 
二月。ふたりが出会ってから、三ヶ月が過ぎていた。ジュリアは毎日、忙しい日々を過ごしていた。出勤前にお客さんと会い、そのまま店に連れていく同伴をすると、二千五百円、日給がアップするらしく、彼女が仕事を休むことはなかった。
さとるが彼女にプレゼントしたアイ・ポッドも、「いい音楽、いいセンス」とは言ってもらうも、あまり効果はないようだった。ジュリアはSNSはやらなかったが、メールのアドレスはあったので、さとるは働く女性の気持ちを支える一言メールを送りつづけることにした。電話では恥ずかしくて言えない言葉で彼女の心をつかみたかった。欠かせない言葉は、「すごいすき」、「おれたち、うんめい」、「ジュリア・ラブ・フォーエバー」この三つ。ジュリアはすでに、ひらがなもカタカナも読めるようになっていたで、さとるはこの三パターンを中心に週に五回くらい、彼女にメールを送った。言葉をあまりに簡単に送れてしまうところがメールの怖いところだが、ずっと、好き好き言ってれば、相手もこちらを好きになる・・・。たぶん・・・とさとるは思った。

ジュリアはメールを返さなかった。さとるのことがまだ、よくわからなかったからだ。円の強さが来日の一番の動機ではあったが、ロシアより一時的に豊かな時を過ごす国のお金に屈服したくなかった。ジュリアは彼女の弱みを突くことなく、献身的になってくれる日本人男性を探していた。ロシアで離婚を経験して以来、今度こそ、愛で失敗しない、成功させると心に決めていた。親友のカーチャだけがそんなジュリアを理解していた。

さとるはジュリアの気持ちを知りたくて、彼女に電話した。ジュリアは、「新しい女の子、五人、入った」、「いそがしい」、「疲れてる」だから、「会えない」と言うだけで、もう無理かなと、さとるは思うのだった。
そんな冬の日曜日、ジュリアから電話があった。
「今日、あなた、わたし、会いたい?」
「会いたいよ。でも、あなたの仕事までに、少しの時間しかないよ。去年と同じ」
「今日、わたし、休み。上野公園。パンダ、みる、オッキー(OK)」
思いがけない展開。さとるはしばらくぶりに、ジュリアに会うために、JR上野駅に急いだ。そして、駅の改札が見える場所で彼女を待った。
待ち合わせ時間がすぎ、しばらくすると、金髪の外国人女性が改札を出たところで、きょろきょろ、辺りを見回していた。
あれ?? 紺色のダウン・ジャケットにブルー・ジーンズ。背格好もやたら似ているけど。ジュリアは金髪じゃない! しかし、女はさとるにどんどん近づいてきて、何かをポーンと放り投げた。彼がキャッチしたのは眠そうな顔をした猫のぬいぐるみだった。
「ジュリア?」
「オィ(あぁ)、わたしのかお、わすれた? わたし、いま、イメジ、チェンジ」
彼女の髪の毛は黄色といってもいいような、明るい金髪に変わっていた。
それから、新品には見えず、お客さんからのもらいものに見えた、猫のぬいぐるみをさとるが抱え、ふたりは上野動物園を目指して歩いた。彼女は、
「あなた、まだ、顔の色、わるい。お店、くる、元気、なる」
と言うので、さとるは、
「おれ、あんまりお金ない。お金のない奴、嫌い?」
と彼女に訊いてみた。
「・・・人間、みんな同じでしょ」
そのジュリアの言葉がさとるの心に、じわりとしみこんだ。そして、彼女はさとるの腕に自分の腕を絡ませた。彼はそんなボディ・タッチに弱く、服の上から感じる女性の温かい体温を感じながら、彼女と道を歩いた。
「あなた、どこ住んでる?」
「新丸子」
さとるは電話で何回も話していたが、ジュリアにはわからなかったようだった。
「わたしのアパト(アパート)、小さい」
「おれのアパート、小さくはない。古いけど」
「どんなふう?」
「・・・東京の宇宙みたい」
「東京、うちゅう、ない」
「宇宙船にひとりで乗ってる感じ」
「うちゅうせん?」
「スペース・シップ」
「・・・・・・」
「ナイト・スカイ、星、五個、見える」
「・・・・・・」
さとるのアパートは二階建ての駐車場と隣接していて、区切りの塀と部屋の間には洗濯物を干すためのスペースがあった。彼は夜になると、そこに古いベッドパッドを敷いて深呼吸しながら、大都会の夜空の星を見上げた。
「アイ・ラブ・ナイト」
「・・・・・・」

そのうち、ふたりの目の前に、夕暮れの動物園が現れた。しかし、動物園は五時で閉館していた。あたりはすっかり暗くなり、人もまばらな入口で、ふたりはユーターンして、再び上野駅に向かって歩き始めた。
「あなた、キラじゃない?」
ジュリアは歩きながら言った。
「キラ?」
「キラー(人殺し)! 外人の女、殺すニュースあた」
「おれ、全然、キラーじゃない」
「・・・キラかもしれないけど」
それから、ふたりは無言で歩き続け、上野駅に着くと、JRに乗った。
「わたし、いま、アパト(アパート)探してる・・・あなたのアパト、見る」
ジュリアは窓の外の東京の街並みを見ながら言った。
「レズゴ(レッツ・ゴー)。いろいろ考えたいだから」
若くてきれいな数名の新人ホステスがお店のアパートに入居するらしく、彼女は部屋から退去しなければならないらしかった。それを聞いて、さとるは少しばかりニンマリして、年末年始を思い出した。彼はジュリアにクリスマス前から、お店と関係なくお正月休みとか会ってくれと何回も頼んでいたが、相変わらず毎日、忙しいと冷たさ満点で、年が改まり、一月になると、もう、どうなってもいい、薬剤師の女の人に話しかけてみようじゃないか! と思った。そうなると、彼は最後に電話で、ジュリアの気持ちを試してみたくなった。
「あなた、まだ、チャンスある。今日、おれのアパート、くる? しごと、休みでしょ?」
 とさとるは彼女に言ってみた。そうしたら、
「くる、じゃない! あなた、(店に)くる! ピノキオ、だめでしょ?」
とジュリアにぴしゃりと言い返され、高慢になっていると指摘されたりしていた。そんなこともあったので、まさか彼女がアパートを見たいと言い出すとは思わなかった。
ジュリアは、出会ってから三ヶ月の間に、さとるについて偏執狂のストーカーでもなく、裏表のないロシア人のようなわかりやすい男と結論づけていて、そろそろ自分の困った状況を少しでも助けてもらえるように、さとるに近づく時だと考えていた。パンダよりさとるの住み家のほうが見たかったのだった。
「わたし、東京、すき。ずと、住みたい」
さとるはジュリアにそう言われても、うれしくはなかった。名古屋から来ていた彼は地方からの上京者が集まるこの大都会が孤独な街と身にしみて感じていたからだった。
「本当にいいところだと思う?」
「はい。しごと、チャンス、たくさんある」
彼女の言葉は世界の現実かもしれなかった。

さとるの住む部屋は築四十五年の四階建てビルの一階にあった。入口ドアと窓を除いた壁には、四十五年前に流行ったような茶色のタイルが敷きつめてあった。
ふたりが部屋の入口前に来ると、ジュリアはなにやらロシア語をつぶやいた。
「なに? こわい? 入るの」
「・・・・・・」
ジュリアはタイル壁の真下にいたが、大丈夫そうだった。暑すぎる夏の日や雨の後の寒すぎる冬の日には、手のひら大のタイルが、三階からはがれ落ち、さとるの足元で砕け散ることもあったが、暖かめの一日で、大丈夫のようだった。
胸の前で十字を切り、恐る恐る、自分の部屋に入っていくジュリアを見て、彼はとうとうこの日が来たと頭がくらくらした。部屋、風呂、トイレはきれいになっていた。さとるは風呂のカビとり、油汚れのマジックリン、パイプクリーナーなどを買うのが好きで、百均は、なんでも安く、掃除は嫌いではなかった。新しいバスタオルと新しい歯ブラシの用意はもちろんのこと、風呂の水も、すぐ追い焚きできるように、新しくためておいた。ジュリアに見られてはいけないものは、押し入れやキッチン・シンクの下に隠した。
彼女が紺のダウン・ジャケットを脱ぎ、ブルー・ジーンズにピンクのセーター姿になろうとしていたその時だった。ベッドの横に凶器となりうるダンベルを二つ、発見!
まだ、よく知らない元ソビエト社会主義共和国連邦の女が、何かの拍子に発狂して、殺されないように、ささっと、ダンベルを押入れに移動させると、さとるは目出たいことが起こった時のために用意してあった高価なエビせんべい、「金魚の水遊び」と冷えたビールをジュリアがすでに入っていたコタツの上に置いた。

「あのね、わたし、はじめて日本、来たとき、日本語、わからない。お客さん、指名ない。六時間、働く。でも、お給料、ゼロだた」
さとるもジュリアに対面してコタツに入ると、彼女はビールをちびちびと飲みながら、話し始めた。
「アパートとかごはんはどうしてたの?」
「お店のアパート。ごはんもお店」
彼は相槌をうちながら、ジュリアの話を真剣そうに聞いた。
「ジュリアって、いつごろ日本に来たの?」
「いちねん、はんぶん、まえ」
「短い間で、すごい、日本語、覚えたんだね」
「毎日、べんきょう」
 彼女はお客さんの話す日本語から勉強し、教材でも勉強していると言った。
「一人、お客さんに指名されると、ジュリアはいくらもらえるの?」 
「あのとき、五百円」
「・・・・・」
「でも、ロシア、一日、千円、稼ぐ、ムリだた」
「じゃ、日本語おぼえた子は、一晩でいくら稼げたの?」
「五人指名、二千五千円」
「そんとき、一ヶ月の休みって何日?」
「一日」
ジュリアはエビせんべいセットの中でも、四枚程度しか入っていない一番美味しいエビの形のせんべいを食べながら、思いつめた顔で言った。
「オーマイゴォ」
 出稼ぎの弱みにつけこむ、奴隷労働は許せない、日本人を代表して恥ずかしいとばかり、さとるは両目を閉じ、外国人のように首を横に振った。
「そんなら、その休みの日にバーテンダーとか、他の仕事、探したほうがずっといいよ」
「勝手なこと、できなーい、けいやく」
「お店の女の子、みんな、一ヶ月、六百ドル貯金してる・・・ジュリア、頑張る」

ジュリア、頑張る。その言葉は、いつのまにか彼女の隣にコタツをずれてずれて移動していたさとるの心に染み入るように入っていった。
「なんで、あなた、いままで、けこん(結婚)なかた?」
彼女は言った。
「・・・うん。できなかったんだよ。時間がたつとさ、こっちは好きになってくけど、向こうは、どうしよっかなぁって感じでさ。で、お金がなくなってきて、やけくそっぽくなる。なんで言うこと聞いてくれない! とか、悪い言葉のメール、たくさん送って、終わる。そればっか」
さとるが自分の持病を説明し終わると、ジュリアは、
「もう・・・。悪い、メル、だめ」
と優しい声で言い、彼に背を向けた。
「肩、背中、ずっと、おかしい。ちょっと、マッサージ・・・」
「・・・・・」
さとるの心は浮き立った。何かが起こる予感がした。チャンスだと思って、すべての指に力を入れて、ピンク色のセーターの上から、彼女の肩と背中、特に肩甲骨周りをほぐしつづけた。そして、最後にジュリアのわきの下から両手を伸ばし、一瞬、両胸を触って、すぐ手を引っ込めた。ありきたりな表現だが、それはマシュマロみたいに柔らかく、彼の両手はほんわかした。ジュリアは怒りもせず、何もなかったように振舞った。彼女は明るい蛍光灯を見上げて言った。
「・・・電気いらない」
コタツの上の電気を消すと、部屋はジュリアの姿がなんとか見えるくらいの薄暗さになった。彼女の髪の毛やセーターからいい匂いがするなか、さとるがジュリアの頬にキスをしようとした時、ジュリアはさとるの唇にキスして、少し、舌を入れた。さとるは少し驚いたが、これですべてが変わった。さとるはジュリアの手を探し、ドキドキしながらセミダブルのベッドまで引いていった。それから、さとるとジュリアは結ばれた。思った以上に、短時間で終わってしまったので、さとるは謝った。
「ごめんね。・・・今度、がんばる」
「・・・だいじょうぶ」
ジュリアは優しく言った。

 ふたりはしばらくベッドの中でまどろんでいた。突然、ジュリアに何か疑問が湧いたようだった。
「あなた、まえ、なんで、昼、寝てた?」
「いつ?」
「ちょと、まえ」
「夜、仕事するときもある」
「ヨォール! ポスト・オフィスじゃない?」
「ポスト・オフィスだよ」
「キス、うまい。・・・ホストかも」
ジュリアは、急にさとるを信用できなくなったのか、ベッドから降りて、彼のティシャツと自分の下着をすばやく身につけた。
「おれ、キスうまい? ほんと?」
彼女は、むっとしていた。
「うれしい。ホストなんて一度でいいからやってみたい。お金、いいはず」
「・・・・・」
さとるは思った。女の人と一緒にいるって、いいなぁ、と。彼は元気になって、救われた。この世から消えてしまいたいなんて思わない。信頼できる友達がいるだけで、毎日が勇気づけられ、エネルギーが湧いてくる。自分はひとりぼっちではないんだという気持ちが、一日のスタートの後押しをしてくれる。すごく大きい。女の人がいてくれるなら、もっと大きい。愛だから。愛ってやつがあれば、うつ病にはなれない。ジュリア、すごい!
結婚かな? 婚姻届けは区役所かな? ロシア人の場合、籍を入れるだけってできるのかな? 手続きって難しいのかな? 
さとるはちょっと気が早すぎると思った。とりあえず、アパートに来る途中で買った外国人向けの情報誌で、お得な部屋を探してあげることにした。しかし、その必要はなかったようだった。
ジュリアはなにを思ったか、ベッドの横の観葉植物に手を伸ばして、枯れた葉を何本か抜き始めた。そして、それをゴミ箱に捨てていた。まるで、よく気がつく女の子とアピールしているようだった。彼女はまた、アパートの外で猫がニャーニャー鳴いているのも、気になってしかたがないようで、
「あの猫、水ある?」
と繰り返し、さとるに訊いた。これもまた自分はよく気がつく上に、家もない小動物を心配する優しい女で、いいお母さんになりますよ、とアピールしているようだった。
さとるは、となりの猫などどうでもよかった。
「あるある。いつもだよ。家に入れてもらえないだけ。朝になったら入れてもらえる」
彼が仏頂面で答えると、ジュリアは甘ったるい声で言った。
「ふたりで猫、飼う」
「・・・・」
「・・・わたし、ここ、住んでいい?」
「毎日?」
「はい」
「・・・・・・」
さとるは眠れず、ベッドの隣で、彼のティシャツを着たジュリアが寝返りをうち、彼女の手や足が、彼に触れるので、三時間くらい寝たふりをしていた。ジュリアも似たりよったりで、少し眠っただけだった。さとるは眠れないので、そっとジュリアを触ってみると、高熱でもあるのかというほど、背中も太腿も身体中、熱かった。彼は女の人を知らないので、女の身体は男より熱いんだなと思った。

すっかり陽が昇り、さとるが浅く眠ったり、起きたりしていると、ジュリアが起きた。ふたりは少し話し合い、彼女の引っ越しをすませることにした。
さとるは仕事仲間に頼み、出勤日を代わってもらい、亀戸までジュリアとJRで行った。そこは古い旅館のような一軒家だった。四人の中国人らしき男たちが座り込んでいた六畳間の真ん中を通らせてもらって廊下にでると、下町の露店で買ったようなアディダスのロゴのついた大きなボストンバックが二つ置いてあった。
それが彼女のすべての荷物のようで、彼はバッグを両手に持ち、また出稼ぎらしき中国男たちの間を通って外に出た。
小雨がぱらぱらと降り始めていた。
「ふー、寒いね」
とさとるが言うと、ジュリアは、
「プレジェント」
と言い、彼女のしていたマフラーを、彼の首に巻いた。
「大丈夫、大丈夫。傘、買おうか?」
「いらない。ちょっとの雨、ロシア人歩く」
二つのバッグを電車で運び、引越しが終わると、彼はなにか、すごいことになってきたという人生、初めての興奮もあって、彼女に南から朝の陽が入る、畳の六畳間を使ってもらうことにした。アパートはかなり古いものであったが、六畳とダイニング・キッチンの八畳間があったので、なんとか、ふたりが生活できそうであった。
さとるは荷ほどきをするジュリアの傍らで、自分の部屋の小さな玄関に置かれた彼女のかわいいサイズのグレーのスニーカーを見て、胸いっぱいになっていた。
「ジュリアは靴のサイズ、いくつ?」
「23・5」
そんな靴や私服は大丈夫らしかったが、彼女は店で着る服がなく、私服で仕事をしているようだった。さとるは映画「プリティ・ウーマン」の美男美女の俳優のようにこの状況を乗り越えないといけないと燃えてくるのだった。彼はジュリアを連れてイトーヨーカドーに行き、ホステス・クラブで着るには地味ではあったが、違和感もそれほどなさそうなドレスを一着、そして、バーコードのようなストライプ・シャツ、豹柄のセクシーなシャツと私服数着を買った。

思いがけず新たな服を手に入れたジュリアは部屋に帰ると、今まで使っていた服を選別し始めた。彼女は毛玉だらけのセーターと帽子を部屋のごみ箱に力を込めて押し込んだ。さとるは外国の寒い地方の人々が、よく頭からすっぽりかぶり、耳まで隠す、白の毛糸で編んである使い込んだ帽子が捨てられたのを見て、なんとも切ない気持ちになった。ジュリアのお母さんが編んだようなその帽子は、捨ててしまうには惜しかったので、さとるがごみ箱から取り出すと、ジュリアは眉間に皺を寄せ、不満そうだった。
「わたし、むかし、いらない」
彼女は辛かった過去を忘れるのだとばかりに、力をこめて再び帽子をごみ箱にねじ込んだ。そんなこんなで東京での生き残り競争に疲れたさとると自国の経済破綻で仕事がなくなり、出稼ぎに来たジュリアはひとつ屋根の下で一緒に暮らし始めた。

 
  

5


5

「元気? 今、入院してます。やせすぎが原因で、今、35キロです。アルバム早くできるといいね」
さとるが赤いスーパー・カブを道端に停め、落としてしまった葉書を拾い上げると、女性らしき字が目に入った。郵便局員は葉書でも、本当は読んではいけなかったが、すでに読んでしまっていた。
スーパーマーケットの駐車場で、軽トラックを誘導する年配の警備員。また、ビール瓶を台車に乗せて運ぶ中高年男性。今日も皆、働き始めていた。
住宅地の豊かそうな一軒家に、定形外の郵便物がひとつあった。
ポストに入る郵便は定形というが、郵便受けに入らない郵便は定形外といい、その大きな郵便を直接手渡しするため、さとるはインターホンを鳴らした。
「はーい」
中から女性の声がした。
「郵便でーす」
大きめの郵便と葉書を一枚、夫人に渡したあと、彼は考えてしまった。
このような豊かそうな一軒家に限って、長期間ローンのプレッシャーだったのか、主人が入院中とか、主人も夫人も共々、通院中とか入院中とか、そんな家が多いと感じていたからだった。
「二人の息子夫婦が助けてくれて・・・・」
いつも読んでいるわけではなかったが、葉書は名前の確認の時、目に入ってしまうのだった。
午後、また、美しい言葉がきれいな字で書かれた葉書を見つけた。
「・・・ご無沙汰しております。その後、お母様の具合はいかがでしょうか。登紀子様もお身体を大切にご自愛下さいませ」
さとるはいけないと思いつつ、またバイクを道端に停め、一気に読んだ。ご無沙汰。いかがでしょうか。ご自愛。上品な日本語だった。許されるなら、葉書をコンビニでコピーしたいと思うほどだったが、ルール違反の罰なのか、いつのまにか灰色になっていた雨雲から大きな雨粒が激しく落ちてきた。さらに、強烈な便意までもがさとるを襲った。商売道具の雨ガッパは忘れてきてしまっていた。住宅地に公衆便所があるはずもなく、バイクであちこち走り回った末に、建築現場を見つけ、作業中の男の人にお願いして簡易トイレを使わせてもらった。
彼は狭いトイレで用を足しながら昨日、ジュリアから聞いた話を思い出した。
「お店の友達。サハリンの女の子。妹、目の病気。十五歳までオペレーション(手術)必要。・・・三百万円、つくらないといけない。マリーナ、八時から二時、お店。寝るは四時間。朝、九時、日本語の学校、勉強する。昼、ロシア語の先生。子供とビジネスマン、教える。すごい頑張る。あなたも、がんばる」
出稼ぎの外国人たちも大変なのだった。さとるは妹を助けるために頑張るサハリンの女の子に負けてはいられなかった。配達マシーンになって、頑張るしかなかった。さとるは郵便局に戻り、新たな配達物をバイクに積み込み、雨ガッパを着込み、配達し、暗くなった町並みの中、雨の一日が終わった。


夜、八時。ジュリアの仕事が始まった。彼女は最近、常連客と揉めたばかりだった。その客は上下、白一色のスーツ姿で、演歌のカラオケを歌いながら、店内をねり歩き、ほとんどすべてのホステスを指名して、店に結構なお金を落としていく六十代の大柄な男だった。その晩はジュリアが指名された。ジュリアは常連客が話す日本語を真面目にとりすぎるのか、人をからかったような笑い話をうまく笑えず、ふたりの話は弾まなかった。そのうち、常連客は高いお酒をどんどん飲み始め、彼女の腰からお尻に手を滑り込ませた。ジュリアは多少のボディ・タッチは我慢して、なるべく明るく振舞っていたが、お客さんにお尻を触られるのは嫌だった。男は年齢的に性が弱くなり、虚無感いっぱいの毎日で、飲めば飲むほど性欲を失う処方薬も飲んでいた。高いボトルを入れてお金を使うから、若い女性の丸みを帯びた身体を少しお触りさせてもらい、自分がまだ男であることを確認したかった。それだけだった。ジュリアにはそんな事情は迷惑で、男の手を払いのけ続けた。男は意地になって、ジュリアにしがみついた。我慢が限界のジュリアは男の手を叩いた。太腿も叩いた。最後に頭も叩いた。ジュリアは男に言った。
「やめてください! わたし、モノじゃない!」
と。店内のホステス達もボーイも黙り込んだ。店長と外国人社長がやってきて、常連客に、
「すいません。申し訳ない」とあたふた謝罪し、会計だけはきっちりクレジット・カードで頂いた。常連客は帰り際に、たぶん、もう来ないと怒って帰っていった。
それから、二十代後半の順平というボーイが給料の未払いなのか、店に来なくなったのもあり、ジュリアはしばらくの間、ホステス兼ボーイに格下げになった。外国人社長はプライベートのトラブルで、店に来れなくなり、店長も病気で入院した。
ジュリアはカウンター内で、回収されてきた灰皿を洗い、おしぼりで拭き、口紅のついたシャンパン・グラスやワイン・グラスを洗い、おつまみのチャームも簡単に作り、お客さんのテーブルまで運んだ。

シャレードにやってくる男たちは、若者も中年も年配者も数人で来たり、ひとりで来たり、他府県から来たりとまちまちだったが、誰もが孤独を抱えていた。お金をたくさん使ってくれそうな男や男たちには数人の女たちが取り囲むように席に座り、お酒を飲んでもらい、彼女たちは男の肩に手を親しげに置き、肩を抱き、ひと時の癒しと王様気分を提供した。いい気分になった男は、「今月、わたしの誕生日だからシャンパン入れて」と初対面の女から甘えられると、連絡先の交換とそれ以上の見返りがあるに違いないと思い、三万五千円のシャンパンを注文してしまう。五千円のキックバックが給料に加算されたホステスは、シャンパンを一緒に楽しげに飲むだけで、特別な見返りの義務はなく、男はそこで大きく失望するのだった。
ビールの注文が入ると、ジュリアはカウンターの奥の冷蔵庫から中瓶のビールを取り出し、グラスとともにフロアーのテーブルまで持っていく。カウンターに戻る途中にホステスからシャンパンの注文が入ったと伝えられると、彼女はカウンターの下に設置してある冷蔵庫から750mlのシャンパンを取り出し、ホステスに渡して準備してもらう。小さなボトルの350mlのシャンパンのオーダーも来る。
それから、ジュリアはカラオケで曲や歌手を検索して歌いたい曲を探す、タッチパネル式のリモコンであるデンモク(電子目次本)とマイクをお客さんのいるテーブルまで持っていく。ホステスたちはお客さんの話に笑い、楽しそうに振舞っていたが、これも仕事なのだった。

二時間が過ぎ、酔いがまわった二番テーブルのワイシャツ姿の男は理性が飛び、すけべ丸出しで、女たちにおさわりして、なんとか支払うお金の元を取ろうとしていた。六番テーブルでは、四十歳くらいの男が、「終電が・・・終電が・・・」と帰りの電車を気にしつつ、会社での自分の頑張りと不遇さを大きな声でルーマニア人ホステスに聞かせていた。男たちは様々な事情を抱え、会社で自分を殺して仕事をしていた。女が男の話に頷き、優しげに微笑みながら聞いていると、男はさらに大きな声で言った。 
「おまえ、男いるか? おれと付き合うか?」
ルーマニア人ホステスは、ありえないとも言えず、少しばかり困惑した顔をつくって対応するのだった。ジュリアはカウンターからその光景を見ながら、ホステス仲間にも日本の男たちにも同情した。
 
 三番テーブルの年配のお客さんがトイレに行くと、その隙に、ホステスのひとりはシャンパンを氷の入ったアイスペールの中に捨て、違うホステスはグラスをキッチンに戻した。ホステスは毎日、お酒を飲んでいたら病気になってしまうので、お客さんがトイレにいかないかなと思うホステスもいた。
予算の少ないお客さんがホステスのためにグラス・シャンパンを頼んだとする。新しいシャンパン・ボトルをお客さんの前で開けなくていいので、シャンパン・グラスにソーダを注ぎ、ウーロン茶で色をつけ、シャンパンということにして、お客の伝票には二千円が追加される。ジュリアが以前いた大阪のお店でもジンジャーエールにわずかな赤ワインで色を付け、ホステス用の飲み物をつくっていた。夜の街なら、どこでもやっていることだった。シャレードでも体調不良のホステスは極力、アルコールを薄くしたり、ウーロン茶を飲んだりしていたが、ホステスが酔わないと、面白くないとお客さんが怒るのだった。
ジュリアは戻ってきたほとんどのグラスを洗い終わると、カウンターから、仲間のホステスがお客さんを抱きしめているのを見ていた。これは寂しい男たちを抱きしめてあげて、幻想を売るビジネスなのだった。お店のサービスでお客さんにテキーラをふるまうこともしばしばだった。テキーラで早く酔いがまわってくれれば、高価なシャンパンなどを注文してくれ、店の売上げが増え、ホステスたちにもおこぼれがまわってくるからだった。日付が変わった遅い時間に、二十代に見える四人の男たちがお店に入ってきた。「いらっしゃいませー」とホステスたちはお客さんを歓迎した後、四人の男たちは四人のホステスに隣に座ってもらい、まず、サービスのテキーラを飲んだ。そのうち、カラオケを歌い始め、ホステスたちは笑顔で手拍子したが、彼らにシャンパン・ボトルを入れる予算はないようだった。時間が来て、お客さんがすべて帰ると、その日の仕事は終わりだった。ジュリアはカーチャと深夜のファミリーレストランでご飯を食べた後、始発の電車を乗り継いでアパートに帰った。

陽がすっかり落ち、さとるがどこかで野菜や花の種を買って部屋に戻っていた。彼は隣の塀までの土がむき出しになった場所やプランターにいろいろな種を植えようと思っていた。種はいつか芽がでて、花が咲くかもしれないと種と自分を重ね合わせたい男が問題なく買えるものだった。
彼がテーブルの上にトマト、枝豆、とうもろこし、にんじん、バジル、ミント、ひまわりの種などを置いておくと、大きな袋の中がそれぞれ半分になっていて、残りの種を手に出勤前、ジュリアはこそこそと小包を作っていた。さとるは訊いた。
「どうするの?」
「ロシア、送る。大丈夫?」
「種でいいなら、全部送ればいい」
さとるは彼女が百ドル紙幣を小さく折り畳み、アルミホイールに包んでいたのが気になった。
「お金、どーすんの?」
「ひみつー」
小包ができると、彼女はそれを近くの郵便局から、ロシアに送るように言った。
「・・・・・・」
 さとるは非常勤のアルバイトでも郵便局員は国家公務員と思ってはいたが、いつも怪しげなことばかりに加担する人生だった。
「ダイジョウブだから」
「何が入ってる?」
「・・・・・」 
小包の中身は、ロシアのお母さんへの数百ドルとさとるの花と野菜の種、そして、お母さんへの手紙だった。
「日本、郵便、すごい、いい。ロシアはお金、送る、とどかない」
「どうして?」
「ロシア、郵便の会社、日本から何かくる、中、お金ある思うだから、あける」
「本当?」
「今まで十、こづつーみ、送った。お母さん、三だけ、こづつーみ、もらた」
「むこうの銀行に送るんだよ」
「銀行、もっと、わるい!」
だから彼女はアルミホイールに、お金を包んで、花の種の入った袋の中に忍ばせたわけだった。
「お母さんに今までどのくらい送ったの?」
「できるだけ」
彼女は言いにくそうに言った。
「でも、なんで、花の種なの?」
「今、ロシア、希望、少ない。でも、これ、未来、花」
ジュリアは人の心を揺さぶる、いい言葉を持っていた。彼女の魂の小包は翌日、郵便局員である、さとるが泥棒しない郵便局に運んだ。一人っ子の彼女は一か月に二回、ドル札を複数の小包に分散させて、ロシアのお母さんの元へ送っていた。


翌週、ふたりは隣町のロシア・レストランにいた。さとるはジュリアがお店でセクハラされた話を聞いていたので、少しは彼女の慰みになるかと思ったのだった。ジュリアはロシア語で、ロシア人ウェイトレスにメニューを見ながら、あれこれ注文し、赤ワインも飲みたいようだった。
「これ、グルジアワイン。はい、ザナス(乾杯)」
料理も次々にでてきた。ピラフ、ポテトサラダ、ニシンのサラダ、ナス、ハムとサーモン、ジェリー状のお肉。もう、そんなに注文したのかとさとるは内心思いながら、ジュリアがポテトサラダを小皿に分けてくれるのを見ていた。
「まぜる? 下のほう、葉っぱ、ばっかだよ」
葉っぱ? レタスのことか?
ジュリアは赤ワインをおかわりすると、沈んだ声で言った。
「日本だけ、ミズワリ、いう。なんで?」
「?」
「お店の女の子、いうです。コリア、チャイナ、水割りない。日本だけ」
「ロシア、ウイスキー、水割りしないの?」
「ない」
「不思議だね」
「・・・・・」
彼女は憂鬱そうな顔で、赤ワインを飲んでいた。
「わたしのお母さん、問題ある。むつかしい話」
「なに?」
「・・・・・」
ジュリアが赤ワインを飲み干した時、さとるもお酒を飲みたくなり、お金もないくせに、焼酎のボトルを頼んだ。そして、ふたりで焼酎を飲んだ。
「・・・お父さんって、何の病気だったの?」
「病気ない。なんで死んだか、お母さんもわからない。見たらダメなこと、見たからかもしれない・・・」
「なに、見た?」
「世界のタブーかも」
「ジュリアのお父さん、何の仕事してたの?」
「ミリタリー(ロシア軍)」
「タブーって、なに?」
「お父さん、わたしにちょっと教えた。日記、ちょっと書いた」
「なにを? なにを?」
「昔、コールドウォー。アメリカ、エナミー(敵)。(ソ)連邦とアメリカ、動物ウィルス、リサーチしてた。バイオ・ウェポン(生物武器)なるから。ウクライナ、(ソ)連邦だったから、バイオ・ラボ(生物研究所)あちこち、あちこち。お父さん、ウクライナ、仕事、行った。ウクライナ、(ソ)連邦、さよならした時、アメリカ、来た。バイオ・ラボ、泥棒した。それからお父さん、死んだ」
「・・・・・・」
「アメリカ、ウクライナのロシア人、たくさん殺してロシア怒らせたい。戦争したい。バイオ・ラボやもっと悪いことのセンターも守って、ロシアのオイル、ガス、泥棒したい。だから、アメリカからウクライナ、たくさんお金くる」
ジュリアが興奮して、そう語ると、さとるはすごい話だなと思いながら、思ったことを言った。
「・・・ジュリアのお父さん、アサシン(暗殺人)にやられたと思う」
「・・・怖い」
「世界は陰謀ばっか」
「インボウ、なに?」
「シークレット・バッド・プラン。・・・教科書、地球の形、お金、薬、食べ物、911、全部、陰謀」
「・・・・・・」
「地球ってさ、丸くて、くるくる回ってるって教えられるよね。違うんだよ。丸い腕時計の上みたいに、まっすぐらしい。本で読んだ」
「・・・・・・」
さとるはジュリアに南極のことも話したかったので、携帯電話のインターネット検索で、「南極 ロシア語」と入れた。「Ю́жный по́люс」と検索結果が出てきたので、彼は、
「これこれ」
とジュリアに携帯電話の画面のロシア語を見せた。
「南極、大きい島じゃない。氷の壁。ぼくらは腕時計の中に住んでて、周りはずっと南極つー氷の壁。その向こうに、知らない島、大陸、たくさんあるらしい」
「・・・・・・」
「人間、月、行ってない。人間、地球の外に出られない。嘘ばっか」
「嘘、秘密、多い、わかる。タルタリアも。ロシア人、知ってる」
「タルタリアって、なに?」
「昔の大きい国。自然のテクノロジー。お金いらない」
「知らない」
いつのまにか、焼酎のボトルは空になっていた。ジュリアの残した料理もすべて食べ、会計を済ませ帰ろうかと思ったら、テキーラのショットが塩とレモンとともに、飲めと言わんばかりにテーブルの上に置いてあった。
ふたりともへべれけになったところでお開きとなり、アパートへの夜道を歩くことにした。ジュリアは言った。
「あなたも陰謀かも」
「???」
「わたしにインボウしてる?」
「・・・愛の陰謀」
 彼女はくすっと笑った。
「きょわ、ありがと」
「いいよ。ボルシチ、おいしかった」
「わたし、つくる、ボル(シ)チ、もっと、おいしい」
「今度、作ってね」
 ジュリアは嬉しそうにうなずいた。
「わたし、あとで、うこ、ほしい」
「トイレ行きたい?」
「ちがう。うこ!」
「ウコンか?」
「そー」
そのうち、ジュリアはコンビニを見つけた。
「わたし、東京、来たとき、ごはん、デイリー(ヤマザキ)、デイリー、デイリー。十キロ太った」
彼女はぶつぶつ言いながらコンビニに入って行った。さとるはついて行った。ジュリアは慣れた手つきで、さとるが持つかごの中に日本のおじさん好みのつまみなどを放り込んでいった。三千円ちょっとですんだか・・・。さとるはレジでため息をついた。やっぱり、ビールだけでは済まなかった。こっちはソイジョイ二つと惣菜パンを選んだだけだ。
コンビニの外に出ると、ジュリアがふざけて肩をぶつけてきた。さとるがため息をついて歩いていると、ジュリアは、
「もしもーし、サトルチカ、わたし、バンパイヤ(吸血鬼)、思てるですか?」
と言った。
「しかたないよ。サトルチカってどういう意味?」
「さとるちゃん」
「愛してるみたいな意味?」
「ちがう。こどもにつかう」 

ふたりはアパートにたどり着き、冷え切った部屋に入ると、ジュリアはガス・ファンヒーターのボタンを慣れた手つきで押した。さとるがこたつに入ると、彼女はキッチン前で、人差し指と中指でちょきちょきと、はさみのジェスチャーをして、
「カット、カットする」
と言った。さとるは彼女のアパートに入れてもらったように感じながら答えた。
「はさみね」
「あー、はさみぃ」
 彼女の聞いたことがある日本語のようだった。それから、
「おさら」
と言った。ひとつ皿を渡すと、
「ふたつ」
と言い、サラミなどおつまみの袋をどんどん、はさみで切って皿に盛りつけた。
さとるがおつまみをジュリアに負けまいと食べ始めると、
「ハイ」
と彼女はテレビのリモコンをパカっと蓋が開いた状態でさとるに渡した。雰囲気を明るくしたかったのか、テレビをつけようとして、リモコンのいろいろなボタンを押して、元のチャンネル設定をダメにしたようで、テレビはつかなかった。

「かんぱーい!」
ふたりともまだ眠くはなかったので、こたつで少しだけ飲むことにした。それならと、さとるは台所に行き、ホーニー・ゴート・ウィード(ムラムラするヤギの草)という精力サプリメントを普段の倍の倍、飲み、音楽をかけた。
「これ、いい歌。なに?」
「つなみ」
 ジュリアは缶ビールを飲み終わると、畳の上に寝転がり、紺色のジーンズの股間から太腿にかけて、また、白いティシャツの胸元も小ぶりながら、むちっとさせて、眠そうな目でさとるを見ていた。無防備そのもので、初めて彼女がアパートに来た時以来のビッグチャンスだった。
でも、さとるは気持ち悪かった。外でたくさん飲んできたのに加え、ムラムラするヤギの草サプリを飲んだのがよくなかったのか、胃の中から何かがあふれてきていて、吐きそうだった。さとるはトイレに行き、便器の横にしゃがみ込み、右手の指、三本を口の中に突っ込み、何度も無理やり吐いた。
胃の中はすっきりしたが、涙がぼろぼろ、ぼろぼろとでてきた。鏡を見ると、両目が涙で真っ赤になっていた。彼は精力サプリのボトルを確認してみると、三年前に消費期限が切れていた。もったいないから、ものを簡単に捨てないのがよくなかった。
口の中が臭いに決まっているので、さとるは何度もうがいして歯を磨いた後、こたつのジュリアの隣に戻り、自分の右手の臭いを嗅いだ。臭かった。
「どして、泣いてる?」
「気持ち悪かったから吐いた」
ふたりの一日の最後の素晴しい雰囲気はいつのまにか消えていた。


6


6       
                      
ジュリアはクラブでさとるが言った、「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」という言葉を決して忘れてはいなかった。さとるがジュリアにふざけて抱きつこうとすると、彼女は両拳が下向きの妙な構えのファイティング・ポーズを取って、女の真剣さを見せた。人をぶったこともなければ喧嘩したこともないようなポーズに、さとるが笑うと、
「なに、ヒヒハハ」
とジュリアは彼のお腹に変なパンチを一発くりだした。
「おれ、ヒヒハハなんて笑わない」
「あなた、ヒヒヒ、ハハハ」
また、「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」との言葉に、ふたりの現実が近づくまで、彼女がキッチンのセミダブルベッドで寝て、彼は隣の畳部屋の布団で寝ることになっていた。ジュリアは毎日の勤労で疲れているからか、布団から足裏だけ覗かせ、身体をねじるように寝ていた。昼過ぎに起き、食事をすませると、長い時間、風呂に閉じこもった。こないだ、さとるが、「お願いしまーす」と、少しだけ風呂の扉を開けようとしたら、本気で怒ったし、彼は風呂の方をちらちら見ながら、女って、一時間もお風呂で何をしてるんだろう? と不思議で仕方なかった。そのうち、彼女は風呂から出てきた。
「一時間もお風呂でなにしてるの?」
「女のメンテナンス、いろいろある!」
「はい。わかりました」
「日本の女の子、どして、ほそい?」
「???」
ジュリアは自分の骨太のぽっちゃり体形と日本人女性のスリムな体形を比較し、ロシアとは違う美の基準にショックを受け、とにかく痩せようとしていた。
さとるが二人分のスパゲティを作っても、
「ドント・ウォント(ほしくない)。わたし、小麦、食べたくない」
と言い、彼女が冷蔵庫の中で食べられるものは、サラダくらいで、レトルトの海老チリやカレー、まぐろ缶詰などは、自然のものを食べるのが当たり前のロシア人には毒に見えた。彼女はそれらに手をつけることもなく、小食だった。また、ジュリアは部屋においてもらう以外で、「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」を邪魔するような借りを彼に作ってはいけないと思っていた。

さとるには、すっぴんの女の人が化粧で変わるのは興味深かった。彼女は使い込まれた絵の具箱のようなプラスチック製の化粧箱をひっくり返し、まだ使える化粧品を探し、顔に数色塗り、なんとなく化けた。彼はわざわざ時間をかけ不自然できつい顔をつくる女を観察しつつ、訊いてみた。
「ちょっと、すいませんけど・・・ホステスの仕事って、結構、疲れますか? お金もいいし、楽そうにも見えたけど・・・」
お化粧中の女王様は教えてくれた。
「気、使う。脳みそ、使う。サイコロジー(心理)、考える。趣味、なに? とか、イマジネーション、いる。あと、忙しい。あちこち行く」

夕方、さとるは出勤の準備が整ったジュリアをカッターナイフの悪戯で座席がボロボロになった原付バイクの後ろに乗せ、近くの新丸子駅より大きくて便利な武蔵小杉駅が見えるところまで送ることになっていた。
ジュリアは赤いセーターとベージュのズボンに紺色のダウン・ジャケットという通勤服になり、スニーカーを履くと、自分用のバイクのヘルメットをかぶり、
「わたし、スーパーウーマン。あなた、悪いエイリアン」
と無邪気だった。
「悪いエイリアンはレプテリアン。でも、いいエイリアンもいるらしい。人間を守ってくれる家族みたいなんだってさ」
さとるは陰謀論者として一応、彼女に言っておきたかった。
「はいはい」
彼女はさらっと受け流した。それより彼女は原付バイクに再挑戦したかった。以前、さとるがエンジン音は聞こえていたが、原付バイクに跨る彼女を見ていなかった時があった。すぐ悲鳴が聞こえた。彼が走って見に行くと、彼女は原付バイクに足を挟まれ、道に倒れていた。腕の骨にひびが入ったと大騒ぎしたが、そんなこともなかった。それにもめげず、今日も彼女は原付バイクに跨り、エンジンをふかし、アパート前の道をよろよろと前進していた。しかし、彼女は思い切りが悪いので、スピードに乗れず、止まるしかなかった。それでも、諦めなければ、公道を原付バイクで突っ走るジュリアが見られる日が来るのかもしれなかった。
さとるはジュリアの出勤まで時間がある時には、彼女を原付バイクの後ろに乗せて新丸子の町を一周したりした。ふたりには楽しい時間だった。ちょっとしたルールを破るのは快感だったし、彼女も喜んだ。
六時半。さとるはジュリアを原付バイクの後部に乗せて走り出した。彼女が、
「はやくー。ちこくー」
と叫ぶなか、十分くらい走り、新丸子の商店街を通り抜け、武蔵小杉駅がかろうじて見える場所まで行くと、駅前の交番も見え、交番の前にはたいてい警察官が立っていた。原付バイクの二人乗りはまずいのでこれ以上は危険ということで、いつもそこで後部座席からジュリアを降ろした。
「パカ」 
彼女はそう言って駅に向かった。こうして毎日、ジュリアは店のある錦糸町まで出勤した。彼はすでにパカはバカという意味ではなく、またすぐ会おうね、という意味なのを学習していた。スパスィーバ(ありがとう)、ダー(はい)、ニェット(いいえ)、ザナス(乾杯)、ダバイ(OK)、ルブル(アイ・ラブ・ユー)。このくらいのロシア語は覚えていた。 
彼女も片言の日本語と勉強中の英語で、お客さんに話しかけ仕事をした。仕事が終わると、彼女は、まだ夜の明けていない真っ暗な東京で始発の電車を乗り換え、新丸子に帰ってきた。朝の新丸子駅から出勤途中のサラリーマンやOLとすれ違いながら、彼女は左に曲がり、まっすぐ歩いて、右に曲がり、アパートに戻ってきた。ジュリアにとって物価の高い東京で、サービス付き、無料の宿はさとるのアパートしかなく、安心できる場所でもあった。

「おかえり」
「つかれたです。たくさん歩いた」
ジュリアはそう言うと、玄関にスニーカーをとりに行き、洗濯機に放り込み、スイッチを押した。しばらくして、靴のひもがどこかに引っかかったのか、洗濯機がものすごい音を立て止まった。彼女は部分的にでも布がついているものなら何でも、日本製エレクトロニクスに入れれば、首尾よくきれいにしてくれると信じていた。彼女は蓋、キャップ類とも相性が良くなかった。化粧品の蓋が閉まらない時は、力ずくで新しい溝を作って閉めた。腕力はあった。網戸も開けようとすると必ず外した。彼女はなんで、いつもこうなる? という顔をして、力、入れすぎなんだよと思いつつ、網戸を元通りにする、さとるを見ていた。広大な大陸育ちの彼女に微妙な力の調整とかを望んではいけないようだった。
この性格はBかOか。さとるが手首を切るジェスチャーをしながら、彼女に尋ねたことがあった。
「ジュリア、血液型なに?」
「赤」
「惜しいけど、ちがう・・・・血の種類」
「? ? ? ? もっとわからない」
「あなた、A? B? O? AB?」
「あぁ。日本人、よく言う」
 彼女は血液型より星座が人の性格に影響するとロシアやヨーロッパでは思われていると主張した。
「わたし、アクエリアス(水瓶座)。あなたは?」
マドモアゼル愛さんのユー・チューブが好きなさとるは、占星術が日本で広まらないのも陰謀に違いないと思うのだった。
「ふたご座」


春が近づく、ある日曜日だった。さとるはジュリアの秘密を知ることになった。彼女は毎日、二十五万円分の全財産を布製のトート・バックに入れて電車通勤していた。安く見えるバックゆえ、かえって安全かもしれなかったが、それでも、さとるはそんな大金が連日連夜、東京のあちこちに連れまわされていることが信じられなかった。
「そのお金、見せてよ。お金の安全、安心のため」
彼女は畳の上でトート・バックから、ピンク色の大きな財布を取り出した。さとるが初めて見る財布の中には、多くの千円札、五千円札、一万円札、ドル札、そして、ロシアのお金らしき紙幣が入っていた。ジュリアが毎月、二万五千円平均で貯めてきたお金だった。さとるはこつこつ貯金する意志の強さと羨ましさを彼女に感じ、動揺した。
「大金だよ。わかるよね? ビッグ・マネー。仕事のあと、疲れてる」
「・・・・・・」
「電車、ねむーい。悪い人、かばん、チュっと持ってく。東京、悪い人、いっぱい。ぼくが責任もってあずかる。電車はまずい」
「・・・・・・」
「お金は、日本では、銀行にあずける」
「わかってる。わたし、ばーか、じゃない」
「じゃ、銀行、行こか」
「わたし、銀行、信じない。貯金、出せなくなる」
「出せるよ」
「あなた、知らない。前、ルーブル、紙のゴミになった。カバンの貯金、悪くない」
さとるは自国の銀行に裏切られた経験のない日本人なのだった。
「この部屋に置いとけば?」
「あなた、借金ある」
ジュリアはそう言うと、ゆっくり立ち上がり、カーテンを開け、窓から外を眺め、大きく呼吸して、さとるの前に正座した。
「わたし、ひみつ、ある」
「なに?」
彼女はこの日本人をどこまで信用していいのか? とばかり、さとるの顔をじっと見るので、さとるも正座した。彼女は言った。
「わたし、オーバー・ステイ」
「?」
「これ、パスポート」
ジュリアはトート・バックからパスポートを取り出し、さとるに渡した。パスポートには、上目づかいで口をすぼめた短髪のジュリアの写真があり、ロシアのアルファベット表記とともに、YULIYA・LEBEDEVAと印刷されていた。彼女のビザの有効期限は切れていた。彼女が銀行口座を持とうとせず、奇跡の移動トート・バック預金を続けていたのは、在留カードがなかったからだった。
「これ、なに? なんと読む?」
「レベデバ」
「レベデバ、意味とかある?」
「スワン(白鳥)」
「スワンが、なんで、オーバー・ステイなったの?」
「お母さん、手術だから、お金いる」
「・・・・・・」
「わたし、お母さん、大事。たくさん勉強、教えてくれた」
「・・・・・」
「でも、お父さん、死んだあと、お母さん、身体、悪くなった」
「・・・・・」
「ビザ終わたら、ロシア帰る、思ってた。でも、お母さん、また、手術いる。お金いる。オーバー・ステイしかなかった」
「お母さん、どんな人?」
「いつも本、読んでる。サイエンスの女。レニングラードの大学行った。お父さんと同じクラス。卒業した。結婚した。でも、(ソ)連邦の時だった。自由ない。どこ、働きたい、選べない。みんなそう。国、どこ、働く、決めた。小さい村、なっちゃう、ある。お父さん、ウズベキスタン、行きなさい、言われた。タシュケント。わたし、生まれた」
「お父さん、なにやってた?」
「エンジニア」
「何のエンジニア?」
「ハイドロ・ポンプ」
「???」
「お父さん、生まれて、一回も海、見たことなかった。オレンブルグ、生まれたから」
「オレンブルグってどのへん?」
「ウラル山の南」
「で、海、見てないとか・・・どうなったの?」
「お父さん、海、見たことないから、見たかった。わたしたち、ウラジオストク、街、見ないで、引っ越した。(ソ)連邦の時、あちこち、行けなかった。アパート、マンション、売る、買うもできなかった。今と違う」
「へー。で?」
「私たち、新聞、調べた。いいアパート、見つけた。電話と手紙で、ウラジオストクにいた家族と話した。タシュケントのアパート、ウラジオストクのアパート、同じサイズだった。私たち、交換した。ウラジオストクの家族も冬、すごい寒いから引っ越ししたかった。どっちもよかった。わたし、十一歳の時、(ソ)連邦、なくなった」
「お父さん、普通の人みたい。なんでエンジニアなのに、ミリタリーの仕事になった?」
「いろいろコネクションある。お父さん、ウクライナの後、頭、おかしくなた。お母さんの家、帰った。お母さん、すごいショック」
「・・・・・」
「お母さんはどこが悪いの?」
「心臓」
「・・・・・」
「一回、手術した。もう一回。血、流れるところ。掃除。髪の毛より薄い。ワイヤーいれる。心臓、四つ、バルブある。一つ、詰まった。手術しないといけない。カテーテル」
「・・・・・」
ソ連邦時代は医療費が無料だったが、今は手術で四十万円程、必要とのことで、ロシアの医療レベルは、低くはないが、大病院はお金次第らしく、外国で手術を受けるお金持ちもいると彼女は言うのだった。
さとるは今まで、さっとお金を用意できたためしがなかったので、解決策はジュリアのトート・バックの中で毎日、安らぐことのない二十五万円を銀行口座に預けることしか思い浮かばなかった。


月末、銀行のATM前にできた列に、ジュリアとさとるは並んでいた。
「8810。カードの秘密の番号。この口座、ジュリアが使えばいい。オッケー?」
 さとるがジュリアに声をかけても、彼女は茫然としていた。
「給料入れる。貯金もいれる。ジュリアの心、安心」
さとるは口座の暗証番号は知っていたが、手術が必要な母に仕送りしている彼女を裏切ることはありえなかった。しかし、列の順番が進み、ATMに近づくたびに彼女は今までの努力の結晶を失ってしまうかもしれないとばかりに、どんどん険しく深刻な顔になっていった。
「わたし、おかね、なくなたら、死ぬ同じ」
「大丈夫、大丈夫」
ふたりの順番になると、ATMの前で、自分の空の銀行口座を譲ることにした男とピンクの大きな財布を両手で胸に押し付けて持つ女の切羽詰ったやりとりが、変な日本語と変な英語で始まった。
「その穴にお金、入れる。グッバイ・マネー」
「・・・・・」
「ポイポイ!」
「・・・・・・・」
「ぼくは取らないよ。あたりまえー」
ジュリアはしばらく万札を握り締め、さとるの顔を見ていたが、彼女は誰も信じない女となっていた。大阪時代からつらい思いをしながら、貯めてきたお金だった。
「あのね、これ、あなたのもの・・・」
ジュリアは自分でキャンセルのボタンを押し、出てきた通帳とキャッシュ・カードを、さとるに返すとATMの前で黙りこくった。ふたりは入金するかどうかであまりに時間がかかったので、順番を待つお客さんたちはイライラしていた。ジュリアはそんな雰囲気を敏感に感じ取り、右手にピンクの財布、左手にトート・バックを引っつかみ、泣きそうな顔で銀行を飛び出して行った。それからまた、彼女は毎日、全財産をハンドバックに入れて電車で通勤する生活に戻っていった。

      
桜が咲く季節になっていた。ジュリアとさとるはすでに二か月、一緒に生活していた。
休みの夜、さとるは、「桜桃の味」という中東映画のDVDを見ていた。こんな物語だった。これから死にたい男が自分で決めた場所で死ぬのを手助けしてくれる男を探し、お金を見返りにやっと年長の男を見つけた。しかし、その年長の男は以前、自身も死のうと試みた男で、今、死にたい男に彼の経験談とこの世の素晴しさを語った。昔、彼が死に場所と決めていた木に夜、登ると、枝のさくらんぼが彼の手に当たった。彼はひとつ、さくらんぼを食べてみた。おいしくて、また、ひとつ、またひとつと食べた。そのうち、何かが吹っ切れて、生きているのもいいものかもしれないと考え直し、彼が木々のさくらんぼを沢山持って家に帰ると、そこには親しき人が待っていた。その経験談を聞いて、今、死にたい男は結局、どうしたのかという話だった。

病気。愛。お金。確かに死にたくなるような時がある。だけど、それはとても孤立していて、心がものすごく弱っている時だからで、本当は誰もがすごく生き続けたい。だって、口では死にたいとつぶやきながら、必死の思いで病院にも行くし、ごはんもたべるし、サプリだって飲んだりする。自分を理解してくれる人さえいれば、気持ちは変わるものなのだ・・・。
さとるが胸を打たれて映画を見終えると、「あなた、暗い話、好きね」と壁にもたれてロシア語の本を読んでいたジュリアがテレビの前にやってきた。

「とうしょう、いちぶ。なんですか?」
しばらくして、彼女は言った。
「・・・東京の証券」
「しょうけん、なに?」
「・・・・・」
「日本語けど、わからない?」
「ストック・マーケット」
「ストッキング、売る、ですか?」
さとるは笑ってしまった。
「ヒヒハハ・・・なんですか?」
「ごめんごめん」
「・・・・」
「なんでストッキングするの? 女って。すぐ伝線して、捨てるのに」
「さむいだから。ある、ない、全然、ちがう。あなた、女、しらないね」
 ジュリアはさとるの顔を見て、くすっと笑った。
「全然、知らないですよ」
「しょうけん、なに?」
「・・・みんな信じちゃう紙。会社とか国が約束した紙。ガーっと上がって、ドーンと落ちて、あれ? みんな怒る紙」
「・・・・」
「テレビはDVD見るだけでいい。本当のことをうまく隠すのがテレビの仕事。あなたのお父さんの話が本当。どうでもいいことで、本当のことから目、そらせて、毒、食べまくって早く病気になって死んでくださいで、給料もらってる」
「・・・・・・」
「・・・ずっと続くのかな。みんな会社に勤めて、車に乗るスタイル」
「会社、だいじぃ」
「そんな大事か?」
「会社、もし、ない、日本、アフリカになる。あなた、こどもぉ」
「子供でいいもん。逆さまの狂った社会、勝ち組になりたくない。贅沢できるけど、なにもわからなくなって、ひどい目にあう」
「あなた、日本のクレージーさん」
「あなたもロシアのクレージーさん」
 ジュリアはため息をついた。
「あなた、車のライセンス、ある?」
「ない。前あった」
「前、車あった?」
「会社の車。運転ってめちゃストレス。乗りたくないし、お金もない。道で猫、よく死んでるよ。濡れたバスタオルみたいにぺっしゃんこ。おれ、やりかねない」
「・・・・・・」
「とにかくね、国は当てにならん。自分しかない。広告の罠にはまって死にたくない。賢く生きて、あとは神様に任せる。それだけ」
「・・・・・」
「社会主義ってどんな生活なの? ジュリアのお母さん、ソビエトのとき、国からアパート、もらえたでしょ。今となれば、そーゆーの、いいかも」
「小さいアパート、十人住む。それ、いい?」
「・・・よくないね」
「ソビエトの時、怖かった?」
「あたりまえ。なにもできない」
「友達と居酒屋行く、クラブ行くとかあった?」
「ない!」
「どうやって楽しむの? 週末とか、みんな何しているの?」
「みんなテレビ、見てる。命令のことだけできる」
「もうね、どこもソビエト。中国並みの監視社会。東京で働くのやめてさ、どっか逃げよっか?」
「どこ、行く?」
「山。畑やる。自分で作って食べる」
「わたし、東京」
「・・・そうね、お金を稼ぎに来たんだもんね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あれ、電気つくる?」
彼女は話題を変えたかったのか、テレビの画面を指さした。
原子力発電所のトラブルのようだった。
「そうみたい」
「もし、あれ、壊れる、畑、葉っぱ、動物、ぜんぶ、おわる。ずっと」
ジュリアはチェルノブイリ原発事故を知っているので、実感がこもっていた。

「・・・わたしの葉っぱ、だいじょうぶかな?」
ジュリアはそう言って立ち上がり、庭に向かった。少し前に、ふたりは物干し竿の向こうに、レタス、トマト、枝豆、とうもろこし、にんじん、バジル、そしてミントの種を植えていた。
「芽、出てるの、ある?」
 さとるが大きな声で訊くと、ジュリアはうれしそうに言った。
「あります! あります! トメート!」 
さとるはジュリアの日本語に心を洗われるような気持ちになった。さとるも芽なのか実なのかわからなかったが、そのトマトを見に行った。彼女は土の上にサンダルでしゃがみ込み、うれしそうに赤く小さなトマトの実を指さしていた。


翌日、真夜中にアパートのチャイムが鳴った。さとるはトイレに起きた後、布団の中で眠れなくなっていた。パジャマのまま、玄関の戸を開けると、充血した目のジュリアが立っていた。一度、泣いたかのような顔だった。ジュリアの後ろにはカーチャがいた。そのまた後ろに、カーチャよりももっと背が高く、ハーフのような彫りの深い整った顔立ちの男がいて、ベージュのスーツを、格好良く着こなしていた。そして、道路に白いプリウスが停まっていた。ジュリアは彼に車で送ってもらったようだった。
カーチャのフィアンセに違いなかった。さとるはこの人だったのかと思った。佐々木という人で、どんな職種かは知らないが、十人ほどを雇っている四十代の社長のはずだった。佐々木とカーチャは美男美女のカップルだった。
ジュリアはカーチャや店の女の子と共に、奥多摩キャンプ場に、佐々木の運転で行ったこともあった。
同じ運転でも、彼は車で奥多摩、こちらは原付での最寄りの駅への送り。もっている余裕が違うなと思いつつ、さとるは佐々木に軽く会釈をした。

旧ソ連邦、リトアニア出身のカーチャ。店で話した時、故郷に帰って、いつか家を買いたいと言っていた彼女だった。元々、妖艶な雰囲気をもっていたカーチャだったが、贅沢も望まず、言葉の壁のある日本で困難を経験しているうちに、運が向いたようだった。 
佐々木は少しロシア語がわかるらしく、年収もちゃんとあるはずで、彼のような経営者と結婚すれば、カーチャは問題なく、日本に永住できるようだった。カーチャはデンマーク製の婚約指輪を貰ったと、ジュリアは羨ましげに言っていた。

さとるは皆に部屋の中に入るように促し、キッチン・シンク前の古びたフローリングに、二つしかない座布団を敷いた。佐々木は言った。
「さとるさん、ジュリアさん、またセクハラですよ・・・」
ジュリアも言った。
「そう。また」
ベッドの上でぺたんこ座りの、ジュリアは悔しそうに言った。
「なにされた?」
 とさとるが訊くと、ジュリアは言った。
「スカートの中、手入れた。店長、お客さんの味方した」
だからジュリアは泣いた顔で帰ってきたわけだった。
「こないだの客?」
「ちがう人」
「・・・・・」
「わたし、おもちゃじゃない。人間です」
ジュリアは悔しそうだった。
「お給料も、もらてません」
「いくらくらい?」
「十五万円」
さとるは先月分の給料がまだ貰えてないことは聞いていたが、十五万円とは知らなかった。カーチャもベッドのジュリアの隣に腰かけ、発言した。
「あなた、ジュリアのため、お店に近いアパート、かりる、できる? ジュリアのもんだい、少し、よくなる」
 新丸子駅や武蔵小杉駅から、錦糸町は遠かった。片道、一時間以上かかり、ジュリアがへとへとになって、帰ってくるのはわかっていた。でも、引っ越してきたばかりなのに、また引っ越すお金はなかった。失業時に消費者金融で数万円を借りたのが、すでに四十万円になっていたし、郵便局の稼ぎがあっても、女性と住めばお金は自然と出ていくのだった。
佐々木は言った。
「あと、店長さんから電話ありますよ」
「うわっ。ここの電話番号、教えてあるの?」
「・・・・・」
「電話は教えんでもいいの!」
あぐらをかいて聞いていたさとるは頭が痛かった。

陽が昇り、部屋の中に朝日が入ってきた。ジュリアのために圧力をかけに来たカーチャと佐々木が帰った。八時になると、さとるは暗澹たる気持ちで郵便局に向かった。仕事から帰ったら店に電話して、未払いの給料の件を頼んでみようと思った。
夜、さとるはカルピス・サワーを一気に飲みして、店に電話した。誰かが電話にでた。
「あの、ジュリアの友達なんですが」
「・・・・・」
「いろいろ事情はあると思いますが、彼女の給料、なんとか、払ってやってもらえませんでしょうか?」
ジュリアはその晩、給料不払いの店に出勤するつもりはないようで、神妙な顔をしてさとるに、にじり寄ってきた。
「入管法、知ってます?」
「はい・・・」
さとるは全く知らなかった。
「オーバー・ステイの子を雇うとね、懲役や罰金になるんですよ。わかります?」
「はい・・・」
彼は耳に不快な、甲高い声をしていた。シャレードで皿に盛ったイチゴの値段を尋ねた時、「五ですね」とキンキン声で答えた男に違いなかった。
「在留カードないですよね?」
「・・・・・」
「パスポートも見せませんが、ビザの期限、切れてるんでしょ?」
「・・・そんなことないと思いますけど」
小さな声で嘘をついてみた。
「じゃ、持ってきてください」
こう言われると負けだった。
ジュリアも店の売上げに貢献はしていたが、立場が弱すぎた。
「知らない国に出稼ぎに来てるわけですし、働いた分くらい、払ってやってもいいじゃないっすか。店長さんも日本男児でしょ!」
そうさとるが口走ると、
「こっちも看板張ってやっとんや! 遊びちゃうで!」
そんな大阪弁に押され、何も言えなくなってしまった。
「在留カード」
「・・・・・」
「ほらね」
「彼女は遅刻が多いから、六万もないよ。昨日も常連さん、怒らせるし」
「スカートの中に手を入れられたって泣いてますよ。お金は十五万って。お母さん、心臓手術するんです。お金いるんです。払ってやってください」
「・・・・・・・・・」
電話の向こうで、不気味な沈黙が続いた。
「今年、お客さん、激減してるの。もう、やっていけないかもしれない。だから払えないんだよ」
「そんなこといって。彼女は実際、店の売上げに貢献したわけだし、働いた分くらい・・・」
「じゃ、もうね、彼女は店に来なくていい。お兄さんから、それ、言っといて。まぁ、頑張って、面倒みてやってな」
「もう、来なくていい?」
「そーだよ」
そこで電話は切れた。
「切れちゃった。給料、六万だって。でも、それも払えないって」
「おきゅうりょ、ない?」
「ない」
「・・・・・・・」
「店長が、もう、来なくていいって言ってた・・・」
「わたし、クビ?」
ジュリアはショックで、どんどん泣き顔になっていき、これはやばいと思った。なんとかクビだけは、つなげてもらわないと・・・。さとるはまた店に電話した。低姿勢で店長らしき彼に、クビだけは勘弁してくださいとお願いしたが、話は覆らなかった。
ジュリアは悔しかったのだろう、いつものぺたんとした、おばあちゃん座りで、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。

東京都は、二〇二〇年東京オリンピック誘致のため、より安全でクリーンな東京のイメージを、世界に発信しなければならなく、外国人の入国ビザ取得審査を、より厳しくし、あらゆる国のホステス・ダンサーの締め出しを進めていた。
外国人のホステスやダンサーは今のビザの期限が切れたら、もう日本に戻れず、彼らの国では仕事自体がなかったり、あっても給料が日本の半分とか四分の一では、家族にお金を渡せなかった。ゆえに、お金を仲介者や日本男性に払い、虚偽の婚姻の届けをして、配偶者ビザを獲得する偽装結婚という法律違反をしてまでも日本で働き続けるか、すべてを諦め、自国に帰るか、二つに一つしかないを外国人に迫る状況なのだった。一か月のオリンピックのため、怪しい外国人は出ていけということなのだった。
入国管理局ホームページには、
『法務省入国管理局では「ルールを守って国際化」を合い言葉に出入国管理行政を通じて日本と世界を結び、人々の国際的な交流の円滑化を図るとともに、我が国にとって好ましくない外国人を強制的に国外に退去させることにより、健全な日本社会の発展に寄与しています』と書いてあった。ジュリアのオーバー・ステイはもちろん、法律に触れていて、彼女は、「好ましくない外国人」だった。そんな外国人は、利用できるときは声をかけられ、利用し終わったら、給料も払われず、お払い箱になるしかなかった。
 
「おれ、思うけど、ジュリアは人間が作った法律は守ってないけど、神様の法律は守ってるよ。お母さん、助けて偉いよ。自分の物もなんも買わないで、仕送りばっか。どこの国の女の子だって毎日、馬車馬のように働きたくないさ」
「・・・・・・」
「おれもクビになったことある」
「もう、仕事、さがす、できない」
「ジュリアは働かなくていいよ。この部屋にいればいい。時々、図書館に行ったり、スーパーに行ったりは、つまらないか? ママのために、まだ稼いで、仕送りしないと、どうしてもだめ?」
「・・・・・・・」
「おれが助けるよ」
さとるがジュリアの背中をさすって、優しくすればするほど、彼女はより激しく泣いた。
「・・・ティッチュ」
涙をぬぐうティッシュを頂戴の意味だった。ジュリアはティッシュで、鼻をかみ、猫のぬいぐるみを抱くと電気を消して、ベッドにもぐりこんだ。彼女はすすり泣いていた。さとるがベッドの横から、ジュリアの後頭部を撫ぜて慰めていると、彼女はさとるの手をつかみ、久しぶりにベッドに入れてくれた。しばらく、さとるはジュリアの背中の熱を頬で感じつつ、じっとしていた。さとるは彼女の給料を少しでも給料を取り返えさないといけないのだった。



7



7

週末、さとるは夜中の閉店時間に合わせて、シャレードに行ってみた。店には客もホステスもいなかった。電話の甲高い声の店長らしき男さえいなかった。以前、料金システムを教えてくれたと思われるグレーのスーツを着た外国人の男だけがいた。お腹が少し出っ張ってはいたが、彫りの深い顔は端正で、その黒髪はカールしていた。四十代半ばに見えた。
「ジュリアさんのことで、お話があるんですが」
さとるは彼に要件を伝えた。
「わたしが経営者です。外の空気を吸いたいです。公園で話しませんか?」
彼は弱々しい笑顔を見せて歩き始め、公園を通り過ぎ、コンビニに入り、缶酎ハイを四缶買い、公園のなかに入っていった。さとるは彼の後をついていった。ベンチに腰掛けると、缶酎ハイを一缶、さとるに渡した。彼はプシュっと、自分の缶酎ハイを開けた。
「あなたが電話で話した店長は辞めました。・・・あなたのお名前は?」
彼の日本語は流暢だった。
「さとるです」
「わたしはアバスです」 
彼は缶酎ハイを飲みながら、語った。
「・・・店の家賃も払えなくなってましてね。月末には支払いがたくさんあります。家賃、給料、お酒、電気、カラオケ・・・。元気なくなりました。わたし、糖尿病ですし。親も歳を取りまして。少し国に帰りたいくらいです」
さとるは彼の話を聞くしかなかった。彼は言った。
「・・・さとるさん、わたしを信用してもらって、お金、貸してもらえませんか? 四十万でも、百万でもあれば・・・店にお金、出してもらって、折半でもやれるんです。わたしも経営者。信用は守ります」 
「お金、ないですよ。銀行で借りればいいじゃないですか?」
「外人には貸してくれないですよ」
「錦糸町で店やってる人に相談するとか」
「プライドもありますし、店、潰されます。噂で」
アバスはコンビニ袋から、缶酎ハイをもう一缶、さとるに渡し、自分も二缶目を開け、飲み始めた。彼はすでに店で飲んでいたのだろう、目がとろんとしていた。
ジュリアのお金を諦めさせるために、言っているのかもしれないと思って、さとるは言ってみた。
「六万でも給料あれば、彼女は納得します。悔しいんですよ。プライドありますし」
 彼は苦笑いして、首を垂れた。
「三万、四万くらいは今月、渡してるはずです。女の子たちは、みんな日払いですから。ジュリアは売上げ、少ないです。前は頑張って、同伴してましたが、川崎の方に引っ越してから、自分のお客さん、作ろうとしなくなりましたから」
「そうなんですか?」
「はい」
アパートに来てから、お客さんを減らしていったのか? ぼくのためにか? 
それから彼の話したい話に戻った。
「いろいろありましてね。わたしもストレートな人間。ケンカしてしまう」
「ケンカ?」
「別れた奥さんとか、ほかの店の男です。・・・最初、日本人の奥さんと結婚しましたが、離婚しました。それから、ロシア人と籍を入れました。彼女の日本での労働ビザ、わたしが日本人じゃないから、ダメでした。家から奥さん、逃げました。子供、連れて。子供に会いに行ったとき、わたし、感情的になりました。ケンカになりました。手を出したと言われ、裁判になって、一か月、ブタ箱に入りました」
「・・・・・・・」
「去年、わたし、出所しました。頑張ってお客さん入れて、忙しくなりました。今年、近くに新しい店ができて、売上げ、落ちました。少しだけ高い給料で、うちの女の子たち、引き抜きました。わたしはその店のスタッフと、ケンカして、また、ブタ箱に入りました」
「何日間?」
「十日」
「どこのブタ箱?」
「本所警察」
「?」
怪しく暗い話ばかりで、ジュリアの六万円が返ってくる気配はなかった。
「・・・さとるさんは今の収入に満足してます?」
「してないです。毎月、赤字だし」
「わたしの店で働きませんか? 日本人のパートナー、ほしいです。儲かる時期は、七月から十二月です」
「・・・・・・」
「最初の一ヶ月は三十から三十五万です。仕事ができるようになったら、一日一万五千円×二十五日で三十七万円です・・・」
彼は暗算が早く、ちょっとばかり羨ましかった。店や会社を経営できる人は数字に強く、複雑な暗算ができると思っていたから。
「まぁ、いいお金ですが、やめときます。数字に弱いから向かないんですよ」

もう一時間も話していた。彼の話はまんざら嘘でもないとも思った。思ったことは、彼の知り合いや東南アジアの人たちもすべて、ライバルというのは、違うんじゃないかということ。
「アバスさん、プライドとか言わないで、外国人同士、助け合ったほうがいいですよ。糖尿病、悪くなっちゃいますよ」
彼は言った。
「そうですかね?」
「仕事と身体、どっちが大事かってなったら、身体じゃないですか」
「そうですね」
「そうですよ」
「・・・・」
「あなたのアバスって、映画監督のアッバスなんとかさんと同じですか?」
「???」
「おうとうのあじ(桜桃の味)って映画、知ってます? こないだ、観たけど、すごくよかった」
「???」
「・・・今、死にたいと思ってる男が、昔、死にたかった男から言われるんです。木に登って死のうとしたら、さくらんぼがあって、食べてるうちに、死にたくなくなったって」 
「テイスト・オブ・チェリーですよ。アッバス・キアロスタミ! みんな尊敬しています」
「さとるさん、イラン行ったことあります?」
「ないです」
「行ってください」
「なんか危ないイメージ」
「行ってみればわかります。悪魔の国はイランを悪い国にしたいんです」
「わかりますよ」
 さとるは陰謀論者だったので、なんとなく理解できた。
「ブラジル、ロシア、インド、チャイナはブリックスです。彼らはイランの味方ですよ。悪魔の国たちは、ずっと秘密で、クライム・アゲインスト・ヒューマニティ(人道に対する犯罪)、やってたんですよね。いつかどっちが本当に悪かったかわかりますよ」
「・・・・・・」
西側の国々から常に母国を非難されてきたイラン人のアバスは悔しい思いから、SNSなどで母国の真実を知ろうとしてきた。彼がさとるに言いたかったのは、この世界には、人道に対する犯罪を日常的に行ってきた世界的な悪の存在があるということだった。それは陰謀論者のさとるも本で読んで知っていたが、SNSをやってなかったので、現在進行形のことは知らなかった。現代のクライム・アゲインスト・ヒューマニティ(人道に対する犯罪)。このことがいつ、世界的に開示されるのかはわからない。でも、そんな世界的な悪の組織と戦う米軍とその兵士たちは現代の英雄だ。彼らは決して表には現れないが、人類を長い長い抑圧から解き放つために日夜、懸命に働き、戦ってくれている。激しい戦闘の中で、多くの兵士たちの命が失われてきた。そのことを決して忘れてはならない。無神論を教育され、それを信じる者の魂はずっと眠ったままの状態だ。もし、生まれてから亡くなるまで覚醒することなく、眠り続けたら、本当にもったいない話だ。

小雨がぽつぽつと降り始めていた。アバスは見るからに眠そうで、さとるも眠たかった。彼は言った。
「帰ります。ジュリアのこと、頼みます」
「・・・・・」
アバスはさとるに別れを告げると、小雨が気持ち良いとばかりに夜空を見上げて歩いていった。お酒も入って足元が不確かなようだったが、公園の狭くなった出口を出ていった。 
さとるも駅裏のカプセル・ホテルに戻ることにした。歩いていると眼鏡に小さな雨粒が溜まった。服も濡れてきたが、酸素いっぱいの夜の空気に改めて気づいたさとるは立ち止まり、深く呼吸をしてみた。車が走っていき、ひとりの男とすれ違った。結局、ジュリアの給料で直談判に来たのに、お金は取り戻せなかった。

 仕事を失ってからのジュリアは意気消沈し、日本語や英語の勉強もやめてしまっていた。松田聖子の、「赤いスイートピー」や中島美嘉の、「雪の華」を覚えようとしていたが、それもやる気にならず、毎日、アパートに閉じこもっていた。
シャレードはあれから店を閉めたようだった。カーチャも仕事がなくなって、佐々木のマンションに引っ越し、店は鍵がかかったままで、服も取りに行けないと、ジュリアに連絡が入った。困難は自分だけではないとわかり、気持ちが少しは和らいだのか、ジュリアは、
「あなた、たまがーわ、いく? 雨ない。レズ・ゴー」
とさとるを誘った。さとるは食料だけを買い込んで、部屋で寝ていたかったが、ジュリアはじゃんけんで決めようと言った。
「最初はグー。じゃんけんポン!」
 ジュリアが勝ち、多摩川に行くことになった。

アパートを出ると、ジュリアはサングラスをかけた。さとるは質問した。
「なんで、サングラスするの?」
「太陽、ある」
「サングラスしちゃうと、脳、晴れなのに曇りって間違える。脳に栄養いかなくて、病気になるんじゃない? インド人、サングラスするか?」 
「インド、しらない! わたしたち、目の色、ちがう! 目、弱い! 太陽、みる、できない! なみだ、でる!」
「・・・わかりました」
「日本、太陽、きつい! ロシア、冬、サングラスいる。雪、多い。すごい、まぶしい! グラス、大きいがいい」
「わかりました。ごめんなさい」
多摩川までジュリアは大袈裟に深呼吸を繰り返して、無言で歩いた。

雨あがりの午後、多摩川の土手から河川敷に下りていくと、ジュリアのイライラは収まった。大きな水溜りで数え切れないくらいのハトたちが、水浴びをしていて、ハトに混じってスズメも、水に濡れた羽根の毛づくろいをしていて美しい光景だったからだ。ふたりはそんな光景を川べりのベンチから眺めていたが、しばらくして大きなカラスがやってきて、ハトたちの平和な時間は終わってしまった。ジュリアは急に鼻息が荒くなり、手に持っていた小さな枯れ木をポイと放り捨てるやいなや、カラスに向かって走って行った。カラスは遠くに飛べないのか、少し飛んで移動しては、ジュリアに追いつかれ、また逃げては追いつかれていた。
弱き生き物のハトやスズメに自分を重ねた懲らしめのようだった。ジュリアはいつまでも、カラスを追いかけまわしていた。この大きくてしつこい生き物はなんだ? とばかりにカラスも迷惑そうで、ジュリアも途中から笑い出し、ひと時、もらえなかった給料やすべての悩みを忘れるのだった。天真爛漫だなと、さとるは思った。

長い冬が終わり、春がやってきていた。このごろは暖かくなっていたので、多摩川の芝生は緑色に変わっていた。
タクシーや外回りの営業マンは、土手に車を止め昼寝中で、川べりの野球グラウンドでは、まっ白のユニホームを着た大学生らしき野球部員たちが内野でボールを回していた。外野の向こうにはホームレスの掘っ立て小屋があり、その隣の犬小屋から犬が顔だけ外にだして昼寝中だった。掘っ立て小屋の裏には、畑まであった。小屋の主人らしき白髪の男が畑で携帯電話を耳元に当てていた。
「いいな。自由そうで。おれたちも小屋を作って住まないか?」
「あなた、やっぱり、おかしい」
「・・・・」
「でも、慣れた」
ジュリアはさとるに大事な話があった。彼女はサングラスを外して、さとるの目をじっと見てから言った。
「お父さん、お母さん、元気?」
「たぶんね」
「どこ、いる?」
「名古屋」
「なごや、どこ?」
「東京と大阪のあいだ」
「・・・・・」
「どうしたの? 今日はなにかあるの?」
「・・・いままで、わたし、男みたい、働いた。でも幸せ、ない。ずっと、待ってた。あなた、どうするか」
「・・・・・」
「ディスコで言たこと、うそだた? いっしょになりたい、言た。いっしょになりたいは、けこんのこと」
「・・・・・」
「あのとき、酔っ払いだた? おこたえください」
「少しはお酒飲んでたけど」
「わたし、ホステス、やめたい。となりのおみせ、けいさつ、きた」
「バイトのおれでいいのかな?」
さとるが逃げ腰でそう言うと、ジュリアは深くため息をついた。
「バイトだしなぁ・・・稼ぎも足らないし・・・いろいろ大変だよ・・・うん」
「・・・・」
「しばらく今のままでいいんじゃない?」
さとるがそう言うと、
「いいわー!」
 とジュリアは声をはりあげた。少し前までカラスを追いかけ走り回り、今度は大声を出すので、グラウンドの野球部員たちはボール回しを止めてしまい、なにがいいわ? とばかりに、ふたりの方を見るのだった。
「なにがいいの?」
「日本人、言うでしょ?」
「あぁ、もー、いいわのことか」 
「わたし、つかれた。オーバー・ステイ、地獄、いるみたい」
ジュリアは言った。


ベンチの上で羽根を休めていたカラスはどこかへ飛び去り、初めて外国人を見たといった顔をしていたホームレスのおじさんもいなくなっていた。
虚無感一杯のジュリアは転がっていたサッカーボールをじっと見つめ、走り出し、ビーチサンダルでボールを蹴り上げた。しかし、足は空気の抜けたボールにかすっただけで、ボールは彼女の真横に弱々しくコロコロ転がっていった。赤いビーチサンダルが、ボールの代わりに空に飛んで行った。
「ゴル」
ジュリアはあらぬ方向に転がるボールを見つめて言った。とにかく、ゴールなのだった。それから、片足でぴょんぴょん飛んで、ビーチサンダルを取りに行った。
「あぱと、帰りましょ」
ジュリアの一言でアパートに帰ることになった。歩き始めると、さとるは訊いた。
「おれ、ロシアで働くと、一ヶ月いくらくらいだろうね?」
ジュリアはしばらくして答えた。
「四万」
「・・・だめだなぁ。カード・ローン、返せん」
さとるが小さくつぶやくと、地獄耳のジュリアは、ロシアのプライドを傷つけられ、さとるに向かって両拳が下向きの妙なファイティング・ポーズを取った。変なポーズと、さとるが笑うと、ジュリアはふくれっ面して言った。
「なに? ヒヒハハ」
 ジュリアは無邪気な魅力があった。
「ごめん、ごめん。ジュリアってさ、この頃、日本語もすごくなってきてるよね。地獄とか連邦とか言うし」
「わたし、電車、なか、べんきょうする。どりょくない、しょうらい、ない」
「・・・・・・・」
「・・・でもなぁ、ほんとに毎日働いて、四万?」
「わたしの友達、ナース、五万」
「ドクターは?」
「十万。でも、賄賂、百万」
そう言ってジュリアはお尻を振ってどんどん歩いていった。
芝生の坂をのぼり、土手沿いの道路まで来ると、どの車も何かを避けるようように、ふたりの前を通り過ぎて行った。
道路に猫が横たわっていた。車に轢かれたのだ。
ジュリアは猫に近づいていった。三毛猫は、とがった歯が不気味に見える口と両目が開いたままで、生きていないのがわかった。道路にも赤い血がついていて、このまま道路に横たわっていれば、また轢かれかねない状況だった。
ジュリアは胸の前で十字を切ると、猫の首と背中を両手の親指と人差し指でつまんで持ちあげた。そして、土手の下まで猫を運び、地面に横たえた。彼女はロシアの実家におでぶちゃんの猫がいたので、扱いには慣れていた。さとるも猫の背中あたりを触ってみた。生きている猫と同じくらいの温かさで、轢かれてからほとんど時間が経っていないように思えた。三歳から五歳くらいの猫のようだった。ジュリアは言った。
「そうしゅき、するです」
 草を少しむしり、土をむき出し、穴を掘り、亡骸を埋めるしかなかった。猫の前でしゃがみこむ、さとるに向かって、ジュリアは目を大きくして、スコップで土を掘り起こすジェスチャーを二回、三回と繰り返した。レタスやトマトを植えた時に買ったスコップがアパートにあったので、さとるは取りに戻った。
十分くらいでジュリアと猫のもとに帰ってくると、人が歩かなさそうな場所の草むしりが終わっていて、土が露出していた。さとるはそこをスコップで掘り、猫を入れてみた。穴がまだ小さかった。もっと大きく掘ると、なんとか猫座りが崩れるような感じで横たえることができた。草を亡骸の上にちりばめ、土を十分にかけて、さとるは手を合わせた。
ジュリアも真似をして、胸の前で手を合わせた。
今、世界が闇ならば、ぼくらが「光」になればいい。ぼくらがこの世界にいる時は、ぼくらは世界の光なのだ。たとえ、小さなことでも。ジュリアを見ていて、さとるはそんな言葉を思い出した。


8



8

ジュリアの光になるためには、十万円くらい必要だった。さとるは借金を重ねることにした。彼は武蔵小杉駅前のカード会社のATMの前に立ち、⑦か➀➀か、深い霧の中にいるように迷った。結局、➀➀、万、円、と暗い気持ちでタッチパネルを触り、十一万円を引き出した。一万円を自分の財布に入れていると、「限度額まで残り五万円」と印字されたレシートが出てきた。いつのまにか借金まみれだ。もっと稼げる仕事に変わらないと本当はいけないのだった。
さとるは部屋に戻ると、十万円をジュリアに渡した。
「???」
彼女は不思議そうな顔でお金を受け取った。
「給料、取り返した。利子もついてる」
「どやって?」
「アバス、ちょっとしめた」
「うそー」
「さとるくん、トリプル・アングリー。怖いよ」
「お願いした?」
「ありえない」
「・・・・・」
「おれとあいつ。納得して終わった。だから連絡しなくていい。国に帰るって言ってたな。もう、東京にいないかも」
「わかた。ほんと、ありがとう」
 ジュリアは嬉しそうに、十万円を大きな財布の中に入れた。
「今日、区民プール行こか?」
さとるは言った。ふたりとも休みの日曜日は、近くてもいいから外出しようということになっていた。
「ジュリアの水着、見たい・・・」
「わたし、水着、ない。・・・ジェトコスタ、いきましょ」
ということで、ふたりは東京ドームに隣接する遊園地に行くことになった。

遊園地のジュリアは、背景が噴水のような美しい絵になるところを見つけると、すぐに、その前で彼女たちの流行りなのか、人差し指と小指を立て、拳を外に見せる変なポーズを、顔の周りや顎の下で取り、さとるに写真を撮るようにせがんだ。
ジュリアは東京での冒険という人生の記録に、さとるの顔は特に必要はなく、うつりのいい自分の写真が欲しかった。一時の写真撮影の後、さとるは長い順番を待ち、ジュリアの希望するジェットコースターに付き合うことになった。
オレンジ色のジェットコースターが、直角に近い角度で、高所へと伸びるレールの上を、早いスピードで登って行くと、眼下に小さくなった建物や米粒大の人々が見えた。さとるは目の前の手すりを両手でしっかり握った。ジュリアは動揺のかけらも見せず、平然とスリルを楽しもうとしていた。
一番の高所に登りつめたジェットコースターは、猛烈なスピードで直角に落ちていった。さとるは決して目を開けないつもりだった。薄目を開けると、乗り物は地面に叩きつけられる瞬間で、勢いを増し、また高みに向かっているようだった。
スピードが緩んだ気配がして、また、薄目を開けると、狂った乗り物がカーブしながら45度傾いていた。ジュリアは両手でバンザイしていた。
強風で彼女の髪の毛が顔を覆っていた。前列のカップルも万歳をしていた。さとるは彼らが信じられなかった。
さとるも手すりから少し左手を離し、一瞬だけ、片手バンザイをしたが、腰が固定されていて宙に放り出されることはなかった。
急角度の下り坂で、大きく波打つ仕掛けのコース、回転ループコース・・・。
ジェットコースターが出発した場所に戻ると、待っていた次の客たちが、さとるたち乗客に向かって拍手した。乗るときに、拍手させられた意味がわかった。がんばったねという意味。さとるが座席から這い出て、空の大きな白い雲を見上げ、出口で立ち尽くしていると、ジュリアはさとるが置き忘れてきたショルダーバッグを肩にかけてやってきた。
「次、いきましょ」
「・・・・もう、帰ろうよ」
「いま、来た」
「怖くないの?」
「キモチイイ」
「じゃ、ひとりで乗って。おれ、お金だす人」
「ひとり、イヤ」
「おれはもう、絶対、乗らない」

彼女は横に大きく揺れる高速ブランコにも乗った。外国人で長い行列に並んでまで乗ろうとしていたのは、ジュリアだけだった。高速ブランコに揺られるジュリアの写真をデジタル・カメラで撮って、その場でズームアップすると、彼女は目をつぶり、口元が絶叫していた。さとるには絶叫しながらブランコに乗る人の気持ちが理解できなかった。
彼女はまだ足らないとばかり、くるくる回転するゴーカートのような車にも乗った。さとるは遊園地が全然、面白くなかったので、アパートで十万円をあげただけにしておけばよかったと思った。
それから、ジュリアはさとるを観覧車に連れて行った。観覧車は安全そうに思えたのか、さとるはぶつぶつ言いながらついていった。観覧車にはすぐ乗れた。動きだすと、さとるは言った。
「この頃、全然、セックスないね。おれ、かなり、頑張ってるのに」
「今日はほんとにありがとう。でも、あなた、あの時、泣いただから」
「・・・・・」
「この前の話、あれ、どうなりました?」
「この前の話って?」
「わたしのしあわせ。一番大事。おこたえください」
「しあわせ? どうなったんだろう?」
「・・・・」
「おれのライバルって何人いるのかな?」
「さとるだけ」
 本当か? さとるは何も言い返せなかった。観覧車が高みに達した時、ジュリアはさとるの膝をポンと叩き、さとるをじっと見つめた。
「いま、ロマンチク。なにか、いう、ない?」
「なに、言う?」
「あなた、ほんとの愛かな?」
「ほんとの愛ですよ。すごいルブル(ロシア語のアイ・ラブ・ユー)じゃん。あなたのカバンの中、ぼくの命の十万、あるでしょ?」
「ダー。じゃ、もう、ちょとだけ、お願いある」
「何よ?」
「わたし、ママ仕送り、がんばる。あなた、わたしの携帯のお金。それだけ。OK?」
さとるはOKした。なぜなら、お互い吸血鬼のようなものであっても、何事も交渉なのだった。


翌週、さとるは川崎市中原区役所に行ってみた。婚姻届というものを理解しようと思ったのだ。彼はぺらぺらの用紙の婚姻届を貰い、間違えた時のための、予備の用紙も説明用紙も貰い、最後に係りの女の人に訊いた。
「この婚姻要件具備証明書ってのはどこで貰うんですか?」
「どちらの国の方ですか?」
「ロシア」
「なら、ロシア大使館ですねぇ」
「なんとか証明書の和訳文も絶対いるんですか?」
「必要ですよ」
ジュリアはロシア大使館で作ってもらう婚姻要件具備証明書とその和訳文が必要だった。パスポートも必要と書いてあった。
「もしもですけど、万が一、女性側のビザが勘違いで切れてしまって、オーバー・ステイになっていた場合、どーしたらいいんですかね?」
「えっ! オーバー・ステイですか?」
「・・・・・・・」
さとるは早足で区役所から逃げ去った。
 
 カーチャのフィアンセの佐々木はロシア女性との結婚経験者だった。
さとるが佐々木に電話したら、六本木で待ち合わせて居酒屋で彼の体験談を聞かせてもらえることになった。
彼は八年前にアナスタシアというロシア人女性と結婚した。
アナスタシアは、佐々木と結婚する前に、ダンスショーなどの特別な興行タレントという肩書で、すでに何回も来日していた。その来日の書類を作ったプロモーターが、彼女はロシアで歌手をしていたとか、ダンサーだったとか、適当に毎回違う経歴を書いて、日本入国をさせていた。国は書類の不実記載を理由に、佐々木の妻、アナスタシアに日本国からの退去命令を出した。
国の判断で、強制的に別離させられたと、佐々木はウーロン茶を飲みながら、憤っていた。
彼は行政書士に再審査を依頼したが、国からは放置され、それに耐えきれなかった佐々木は妻、アナスタシアとタイで落ち合った。つかの間の再会の後、一年が過ぎ、彼は妻とタイで撮ったツーショットの写真を、別の審査官に提出した。
その新しい審査官は、以前の疑り深い審査官とは違い、親切な感じの人で、ロシア人の妻のビザを発給してくれた。
その新しい審査官には、
「当時は、偽装結婚が増えていたので、担当者が慎重になっていたと思います」と言われたらしかった。
しかし、もうビザが出ることはなく、日本に戻れないと諦めていた彼の妻は、ロシアで生活の基盤を作りかけていた。妻の母親も佐々木のビジネスがうまくいっていなかったのを知ってか、日本行きについて反対し、そのまま離婚したということだった。

さとるは帰りの電車の中で思った。
すべてはビザの発給が問題なのだと。外国人女性は日本のビザが必要で、外国人女性との結婚は日本人女性との結婚よりずっと難しいことをさとるは初めて理解した。ジュリアは何回もいい加減な肩書で来日してはいなかった。しかし、初来日のビザは期限オーバーで、不法滞在者となっているわけだった。
不法滞在でもなかった佐々木の元奥さんは、疑惑の中、ビザも発行されず、国から退去命令が下ったりするわけだから、現在、不法滞在中の外国人のビザ発給などありえないのじゃないか? 
さとるはジュリアに口止めされていたのもあって、佐々木にオーバー・ステイの場合はどうなるのだろうとは訊けなかった。佐々木はカーチャから聞いていて、知っていたのかもしれなかったが・・・。

ジュリアに問題があれば、さとるにも問題があった。さとるは提出する収入証明書のために、もっと収入が必要だった。会社で働く正社員なら、きちんとした収入証明書によって、事はスムーズに運ぶのだった。
不法滞在であろうが、なかろうが、外国人と結婚する場合、男性側の収入面で不安がないということが、審査の条件の一つだった。
また、不法滞在の外国人女性の場合、日本の在留許可が出にくいのは当然のことだった。
とはいえ、わけあり男女であろうが、結婚はできないこともなかった。また、法に触れる事情を知りながら助ければ、なんらかの幇助になったりもするのだった。とにかく、結婚だけして、あとはビザ申請を根気良くやるしかないわけだった。
日本の在留許可がでなければ、日本にいられない。それが当たり前の厳しい現実だった。
「彼女が大学を出ているのなら、会社を設立して通訳とか、その他の専門職で雇ってしまってもいいですね。そうすれば一年間のビザが出ます」と書いてある文章をインターネットで読む、さとるは経営者どころか、一アルバイトだなぁと思った。ふたりとも話の外の存在だった。愛に関して人間をわけ隔てするとは、実に嫌らしいとさとるは思った。

一方、ジュリアは新たな職場を獲得していた。彼女は不法滞在なのに、なぜか人材として、さとるより需要があり、日本でのサバイバル能力もさとる以上だった。
新たな職場には、カーチャの知り合いがいたのだった。旧ソ連邦・団結・ネットワークは強力で、ジュリアはまた錦糸町でカーチャと共に働くことになったが、店の名前はタランチュラ(毒蜘蛛)と不吉だった。


郵便局には社員、アルバイト、いろいろな男たちがいた。
「書留、二十一通できる?」
「・・・はい」
休憩まであと一分の時にも、アルバイトに何か仕事を与え、人を使いきろうとして、嫌気がさして数人以上のアルバイトが辞めていったという噂の二十代後半だが、強面の社員、松本はさとるに言った。
「絶対、手抜きするなよ」
さとる用のスーパー・カブはブレーキ部分の修理中で、赤い自転車で配達するしかなく、普通郵便に加え、書留二十一通は通常より多く、時間内には配達できそうもなかった。

日本料理店の男はいつも不機嫌だった。
「郵便でーす」
さとるが笑顔をつくり、数枚の郵便を手渡ししようとすると、言われるのだった。
「ポストがあるだろ! 見えねーのか?」
「・・・・・」
午後三時、男は寝起きなのか、いつもお客さんにぺこぺこせざるをえなく、郵便配達を許せなかったのかもしれなかった。本人がいるのだから、手渡してほしいというひともいて、難しいのだった。

夕方、六時が近くなり、もうすぐ配達が終わるところだった。
あたりは暗くなり、家の表札が見えなくなっていた。
さとるは車やバスが途切れることない、杉並区の狭い道路を、引っかけられることなく、自転車で抜け出した。そして、買い物帰りの自転車のおばさんやスーツ姿の男たちが歩く、車の少ない道に入り、一息ついていた。
誰もが早く家に帰り、横になりたいと家路を急ぐ時間帯ゆえ、そこが抜け道と知っている軽トラックやワゴン車がスピードを落とすことなく侵入してきて、さとるの自転車は車の勢いにハンドルをとられ倒れた。車が次々に通り過ぎていった。

車もバスも通る東京の狭い道路での死に物狂いの移動、これは局員が必死でやればなんとかなるものだった。
しかし、郵便局の抱える膨大な無駄、非効率さは、なんともならない問題だった。
職場に、「地域の豊かさ向上のために」という郵便局のポスターが貼られていたが、それはスーパーマンならできる話だった。
一人暮らしの会社員のアパートに、昼間は在宅していないのをわかっていながら、郵便受けに入らない小包を持っていき、また持ち帰ることを毎日、繰り返すのは、建前ばかりの無駄なことだった。
もっと厄介なのは、十年前の住所データで、自社の広告葉書をばらまく会社がたくさんあることだった。ほとんどがその十年の間に引っ越していて、広告葉書を持ち帰り、残業で新住所を転送シールに印刷し、夜にかけて広告葉書に張りまくるしかなかった。

経済状況が厳しい中で、お客さんであれば誰でも、そのわがままを聞くしかなく、郵便受けを作ってください、そして、郵便受けにしっかりと油性のマジックで、名前を書いてくださいとも言えない弱い立場だった。もちろん荷物が遅いとの苦情の電話など数えきれなかった。
だから、局内では誰もにこりともしなかった。
昼休みに配達から戻ると、多くの局員たちが靴と靴下を脱いで、休憩用の畳のベッドに寝転び、目を閉じていた。
さとるは休憩室で強烈な靴下の臭いの中、コンビニ弁当を食べるのが嫌だったので、遅くなっても食堂に行った。その食堂でも男たちは、両手で顔を覆ったまま動かなかった。みな何かに怒っていた。
郵便局はすでに疲弊していた。
先輩局員のストレスは、アルバイトに飛び火した。
仕事が終われば、両手両足はくたくたで、疲労困憊。こちらに非もないのに、これ以上謝りたくもなく、人と接したくなくなった。
さとるは少しあった笑顔も、少しは芽生えた自信も消え、上半身は痩せていき、夢の中で書籍、教材、アルバム、抱えきれない郵便を胸に抱え、人間の全くいない町で立ち尽くした。東京に来たころの感動が、いつのまにかなくなったように、アルバイトで採用されたときの感動もとっくに消えていた。

ジュリアも毎日、通勤と仕事で疲れ切っていた。さとるがアパートに帰ると、部屋に異臭が漂っていた。トイレの戸を開けると床に除菌のドメストが、横倒しになって大量に漏れていた。
「これ、あぶない毒ね。わかる?」
「わからない」
 遊園地で気分が回復したジュリアだったが、新しい店、タランチュラにはまた問題があった。店長の小笠原は店の女に手を付ける男で、フィリピンの奥さんと子供が国に帰っているのに、店の女を狙っていた。それだけでなく、小笠原はパワハラとセクハラの権化で、自分の思うようにならないホステスには、「国に帰れ!  国に帰れ!」と頻繁に暴言を吐くのだった。スタッフとホステスたちのミーティング中に、ホステスが私語をしゃべると、小笠原は、「うるせー!」とホステスの耳を引っ張り、ドレッシング・ルームに閉じ込め、泣かせ、気に入らない客にも、「うるせー! おめー、帰れ!」と怒鳴りつけた。お客の評判も勿論、悪かった。
店にはホステスを選んでお客のテーブルにつけたり、他のお客のテーブルに回したりする三十代の主任がいた。彼は暇な時間があれば、ルーマニア語の本を見ていたので、ほとんどのホステスたちは主任がミキと内緒で付き合っていることを知っていた。
そんなことが先々週、小笠原にバレて、「どうしてくれる?」となり、主任は給料を下げられ、ミキは店を辞めさせられた。翌週、主任は突然、アパートと店から消えた。主任とミキはルーマニアの三番目に大きな街、クルージュ・ナポカに逃げて、ふたりはそこで結婚し、日本料理のお店をオープンするとのことだった。

主任の事件に激怒した小笠原はホステス全員に、「売上げ、あげろ」と圧力をかけ続けた。多くの店が軒を連ねる錦糸町だったが、ジュリアが働けるのは、このようなブラックな店しかなかった。
お客さんたちが彼女のために店で使う金額の合計は、ホステスたちの中でも少ない方で助けが必要だった。ジュリアは、さとるにメモ帳を見せた。
じきゅう・・1500えん×●じかん×●にち、しめい・・・500えん×●かい、どうはん・・・2500えん×●かい、ドリンク・・・100えん×●かい、ボトル、フードの10%・・・。
ジュリアが今月売り上げた、それぞれの回数が書いたり消したりしてあった。店は高価なボトルやドリンク、食事などでしっかり儲けるしかなく、さとるがジュリアやカーチャのために千円のドリンクを買っても、彼女たちにはそれぞれ百円しか入らなかった。ホステスたちの人件費が店の一番大きな支出だったからだった。

ジュリアは明日か明後日、タランチュラに来てほしいとさとるに頼んだ。二時間飲んでも、一万円でいいのことだった。さとるは協力することにした。

 新しい店はシャレードの社長と話した公園のそばの花壇街と呼ばれているところにあった。あたりはラブホテルだらけで、あちこち塗装のはげた、古く茶色い外壁にネオンが光るラブホテルの隣に、無機質な黒いメタリック調のビルがあった。エレベーターを六階で降りると、目の前の木製扉に、Tarantulaと彫ってあった。
 扉を開け、中に入ると、カウンターがあり、ショーケースにお客たちが入れたボトルが並べられていた。
さとるが入口で突っ立っていると、ジュリアが現れた。カウンターの右と左に白いソファの並ぶスペースがあった。ジュリアがさとるを案内し、ソファに座らせると、カーチャもさとるのテーブルにやってきた。ジュリアとカーチャは大阪から、いつも一緒の親友なのだった。

さとるはカーチャとジュリアに挟まれ、ソファに座っていた。
作戦でも練ってあったのか、左側に座ったカーチャがさとるに身体を寄せ、耳に口を近づけ、ひそひそ声で話した。
ジュリアは売り上げが少ないから、シャンパンを入れましょう、スパークリングの安いやつでいい、全部の会計は、二万五千円でいいと彼女は言った。さとるが、
「一万というから来たのに!」
とわめくと、隣のジュリアが嬉しそうに、
「シャンパン、シャンパン」
と同調した。さとるは陰謀にはまった気分だった。
カーチャは店ができて三周年とも言った。
「・・・・・」
「さとる、ジュリアのため、お店、来ない。サポートしない」
「・・・・・・」
「三周年。あなた、おめでとうの気持ち、ない?」
カーチャはプレッシャーをかけてきた。
「ジュリア、この店、嫌いって言ってたけど、好きなの? ここ」
「しかたないこと、がまんするでしょ」
「・・・そんならね、カードの手数料とか全部コミコミで、一万五千円までならいい」
さとるは異国で仕事に苦労している同居人へのサポートと思って、シャンパンを頼んだ。ジュリアとカーチャは小さく拍手したが、さとるは間違いなく破滅への道を突き進んでると思った。

カーチャはさとるのズボンの股間のふくらみを指さし、
「なにそれ?」
と言った。
「おしっことセックスのとき、がんばるところ」
と答えると、
「ちがぁう!」
とカーチャ。もう一度、ズボンの右ポケットのふくらみを指さし、
「それ」
と言った。
「さいふだよ。お金持ちは、ほとんど長財布らしいけど、ぼくは嫌いなんだ。長いのは、すってくれと言わんばかりだからね」
さとるはカーチャにこげ茶の使い古した三つ折りの財布を見せた。
カーチャは千円札ばかりの中身を確認すると、万札がないわねと言わんばかりに、にやにやした。
「目立たないのがいい」
さとるが言い訳していると、カーチャは財布の中にクレジット・カードを見つけた。
「これ、ください」
「だめだよ」
とさとるが言うとカーチャの胸の谷間で、カードのデータを読み取るスキャンのマネごとをして笑いをとろうとした。ちょっとおもしろかった。
「カーチャの胸でたくさんお金やられたって、帰りに警察、行こっと」
彼女は冗談よという顔で、財布とカードをさとるに返した。

それから、シャンパンがテーブルに運ばれ、女性ふたりはシャンパンを一杯ずつ飲むと、席を立とうとした。シャンパンが入ったのを見届けたカーチャとジュリアは急に予定変更なのか、坊主頭の店長もやってきて、ふたりとも他に呼ばれたようだった。
この男が小笠原かとさとるは思った。カーチャはジュリアの残したシャンパンが入ったグラスをじっと見つめていて、薄くついた口紅のあとを見つけると、きれいにナプキンで拭いて、新たにシャンパンを注ぎ足して、にこっと笑った。そして、次の女の子に、あなたのために用意しておいたと言えばいいと、言い残し、去って行った。

黒いドレスを着た黒髪の女の子がやってきた。
彼女はテーブルの上の、シャンパンが注がれたグラスを見て、
「ディス・イズ・マイ・グラス?」
とさとるに訊いた。何も言えなかった。彼女はグラスに口紅のかすかな痕跡を見つけ、眉間にしわを寄せた。さとるは急いでカウンターまで、新しいグラスを取りに行き、彼女に渡した。彼女はシャンパンを自分で注ぎ、一口飲んだ。
「アイ・アム・モレーナ」
ルーマニア出身の彼女は店の名刺をハンドバックから取り出し、その名刺にひらがなで、「もれーな」と書きたかったようだった。「J」をまず名刺に書き、一、一、こんな横線を二本、「J」の上に引いて、「も」を書いたつもりで、それに「れ」と「な」を続けた。
名刺の上に日本語の、「もれな」が完成したが、「も」の、はねる向きが逆なところが面白かったが、彼女の表情は暗かった。
「ジュリアの彼?」
「・・・友達と彼のあいだかな」
「わたし、しずかしてて、いい?」
「どうしたの?」
「頭、痛い」
「なんで痛い?」
「痛いから」
「・・・・・・」
「きのう、救急車、よんだ」
「どーして?」
「ママ、パパにつきとばされた。きぃ、うしなった」
「きぃ、戻った?」
「はい。今日、仕事、行った」
「パパは日本人なの?」
「そう。でも、リストラなって、いま、タクシードライバー。生活、きびしい」
「みんな、生活、厳しい・・・」
 彼女は朝まで仕事をして、始発で埼玉まで帰るのが苦痛だと言った。そんな話をしていたら、目つきの鋭い小笠原店長がやってきた。少し話をしただけで、グラスにシャンパンを余らせ、彼女は次のお客さんのテーブルに移って行った。
シャンパンがかなり余っていて、もったいなかった。さとるはひとりでペースを上げて飲み始めたら、中島美嘉の「雪の華」のカラオケが始まった。さとるのテーブルの前で女の人たちに囲まれて座っていたスーツ姿の中高年集団の中から、恰幅のいいおじさんが立ち上がった。そして、プラスティク・ケースから楽器を取り出し、レゲエ調にアレンジされた、「雪の華」に合わせて頭と身体を揺らして、尺八らしき楽器を吹き始めた。美しい音色だった。いつのまにか、スリムで背の高そうな女性がさとるの隣に座っていた。
「エレーナです。よろしく・・・お酒、一杯、いいですか?」
「はい」
店のペースに乗せられ、さとるは断れなかった。
「ありがとう」
ジュリアは最初だけで戻ってくる気配はなかった。さとるは思った。こんな生活をしていていいのだろうか? この頃は飲んでばかりだ、と。
エレーナは黙っていたので、さとるは話をするしかなかった。
「あなたはどこから来たんですか?」
「ウクライナ」
「ウクライナのどこから?」
「ドォニィプロォペェトゥロォヴスク」
「ドォニィ?」
「だれも言えない名前」
「そうだね」
残りのシャンパンを片付けながら、外国の勉強でもしよう。
さとるは訊いてみた。
「ウクライナはロシア語?」
「違う。ウクライナ語」
「ウクライナ語とロシア語は、だいたい同じ?」
「ちがう。早く話すウクライナ語、ロシア人わからない。ロシア人、ウクライナ語、半分、わからない」
「ウクライナでスパスィーバ(ありがとう)とかルブル(愛してる)とか言わないの?」
「言わない。ウクライナのありがとうは、ザクユ。ロシア語、話すときのありがとう、スパスィーバ。書くとき、スパスィーボ。ウクライナの愛してるは、コハユ」
 彼女はさとるの顔を見て言った。
「何歳? あなた」
「三十五。でも、気持ちがこの頃、どんどん歳とってきてる」
「わたしも、みそじ(三十路)になりました。でも、ウクライナにこんな言葉あります。魂、おばあちゃんにならない」
「いい言葉だね」
「はい」
「それ、ウクライナ語で言うと、どうなるの?」
「ドゥシャ(魂)・ニェ・スターレイットゥ(おばあちゃんにならない)」
「へー、あなたの言うこと、すごい勉強になるよ」
「そうですか? 今、言ったこと、別料金ですよ」
「えっ?」
さとるがとまどっていると、エレーナはふふふと笑った。
しばらくすると、エレーナはスタッフに呼ばれて反対側の部屋に移って行った。結局、さとるはジュリアのためにお金を使い、その晩の任務を果たしたわけだった。


さとるは駅に向かって歩いた。「魂、おばあちゃんにならない」という言葉が頭に残っていた。
失業して夜中に作文を書いていた頃、ひらめきの言葉がどこからかやってきた。なにか大きな存在とつながり、こちらのアンテナで受信する感覚で、その時、物欲がなければひらめきは与えられるが、物欲まみれだと与えられないルールだった。
さとるには、そんな見えない世界をまず知って、信頼して、つながることは大切で、幸福の絶対条件にさえ思えた。目に見えないからと言ってそれらを否定する無神論的生活スタイルだと、大きな権威に右向け右と言われた時に、直感が働かず、命を失うことでも従い、右を向いてしまうからだ。
ひらめきや直感は本当の自分自身を持たせてくれる。独自の判断ができる。それって、お金をもつ以上の価値。うん。そんなことを思いながら、さとるは夜の街を歩き続けた。


9



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人がやっとすれ違える狭い歩道を赤い自転車で走るのは歩行者にとても迷惑なので、さとるは交通量の多い車道を走らざるをえなかった。車道では心拍数が上がった。郵便物が自転車の前のカバンと後ろのボックスにぎっしりと重く、バランスがとりにくく、バスに引っかけられたら終わりだった。
午後の配達が終わり、郵便局に帰ると、なんだかんだと松本にからまれたので、さとるは数人の男たちが大画面のテレビを見ている社員食堂に逃げ込み、時間をつぶした。
夕方、アパートに帰る道の交差点、さとるは原付バイクにまたがり、信号待ちをしていた。年上のアルバイトをどうしても隷属させたいのか、いつも絡んできて、一言、余計なんだよ・・・あの野郎と松本を呪っていると、さとるの背後に車がゆっくりと近づいた。赤信号を見た運転手は少しずつブレーキをかけていたが、携帯電話の話に気を取られ、そのまま原付バイクに追突した。さとるは十メートルほど宙を飛び、道路に転がった。

「大丈夫ですか?」
背広姿の男が倒れていたさとるの顔を覗き込みんだ。もうひとり、年配の男も心配して走ってきた。さとるは動転していたが、身体に耐えられないほどの痛みはなかった。
「大丈夫です・・・」
それから、道路に寝転ぶさとるは少し遠くの車から、人が走ってくるのをぼんやりと見ていた。腰を押さえて、立ち上がると、後部が破損した原付バイクが道端に転がっていた。
「大丈夫ですか?」
車から走ってきた男は動揺していた。
「なんでぶつかるんだよ・・・」
さとるも動転していて、答えようのないことしか言えなかった。
黒いスーツの中年男は、慌ててさとるに名刺を差し出すと、お金を払うから内密にできないか? そんなことを動揺しながら言った。お金。もらった名刺に書いてあった企業名は新聞の書籍広告で見たことがあった。男はコンサルティング会社の幹部のようだった。さとるは腰が痛かったが、一生懸命考えた。お金での解決。ノー・プロブレムだった。
「じぁ、百万、もらえるなら・・・」
「・・・」
「八十万」
「・・・」
「六十万」
「高いですよ」
「そっかな?」
「高い!」
「四十万!」
「三十・・・」
「いいですよ」
「本当にいいの?」
男は言った。
「いいって言ってるじゃないすか・・・医者もそれで行ってくださいね」
「・・・はい」
「じゃ、名刺返してください」
「えっ?」
返す? 名刺、返したら連絡できないんじゃないの? 証拠隠滅でとんずらじゃん? 名刺は返したらあかん・・・そんな天の声が心が聞こえ、どうしようと思っていると男は名刺を諦め、出張があるから二週間後に連絡してくれと言い残し、あと数百メートルでその男の自宅があると言っていた方向に動転しっぱなしで、高級車に違いない威厳のある黒い車を走らせ去って行った。

一歩、間違えば今頃、届ける郵便もないのに、あの世地区に旅立っていたのを、目に見えない何かが守ってくれたのかもしれない。アパートに帰り、内出血した肘、膝、擦りむいた傷を見つめ、さとるは思った。

二週間も待つのは愚かだという声が翌日、心の中で響いた。もっと強気にお金を請求してもよかったのかもしれない。翌々日に、さとるは犯罪者になったような気持ちで名刺の連絡先に電話した。電話はすぐつながり、秘書らしき女性が、その男はアメリカの大統領選挙の準備でニューヨークに出張していると言った。

アメリカ大統領選挙! 思ったより全然、大物!

さとるは使い物にならなくなった原付バイクの買い替え分の請求を忘れていたことにふと気づいた。よって、示談金、十万円の追加請求のため、男の秘書にもう一度電話した。
「先ほど電話したものですが、わたしの原付が使い物にならなくなってですね・・・新車で弁償してほしいところですが、中古で我慢しますので、プラス十万円になりましたとアメリカにお伝えくださいませ」
と言い、電話を切った。すると、その日のうちに、男の弁護士からさとるに電話がかかった。
「三十万って話じゃなかったんですか?」
「・・・原付のこと、忘れてたんです。新品が欲しいなんて言ってません。謙虚に中古でいいって言ってます。・・・ひじも痛いし、膝も痛い」
「・・・・・」
電話が終わると、じっと話を聞いていたジュリアが言った。
「だれですか?」
「郵便局の人」

渋谷にある中級ホテルの喫茶コーナー。
「これ以上は一切出せないですからね。わかりましたね?」
「はい」
紺色のスーツを着た弁護士の指示通り、テーブルの上の法的な書類に印鑑を押すと、さとるは四十万円を現金で受け取った。そのお金でジュリアがロシアに帰ることもでき、日本でもしばらく働けるビザつきのパスポートが買えたが、なんとしてでも、消費者金融と縁を切る方向に向かいたかったので、医者にもいかず、原付バイクも買い替えることなく、さっそく消費者金融の借金を返しに行った。すっきり。幸せ。

さとるがジュリアに事の顛末と、お金を借金返済に充てたことを話すと、不法滞在の身分から脱出できるパスポートを買ってほしかったジュリアは悲しげに数秒、さとるを見つめ、誰かに電話した。
「誰と話すの?」
「ママ」
ジュリアは出会った時の約束を守りそうもない男とこれからどうしたらいいのか、ロシアのママとしばらく深刻そうに話していた。ジュリアが電話を終えると、さとるは言った。
「もう少ししたら、パスポート、頑張るよ」
「いま、できない。あとで、できない」
「・・・・・」
「ママ、会いたい。ロシア、帰りたい。すごいホームシック」

翌日、さとるはキッチンでロシアについての本を読んでいた。ロシアは西欧社会と比べると、他の人種への差別意識がまだまだ残っていると書いてあった。ロシアに行ったら、ぼくは差別されたり、ひどい目にあうのか? 彼がショックを受けていると、トート・バックを持ったジュリアは畳の部屋から出てきて言った。
「さよなら」 
「えぇ? どこ行くの? こんな時間に」
 ジュリアは無言で靴を履き、外へ出ていった。家出のつもりだった。
さとるは急いで、ジュリアの部屋を見に行った。部屋のあちこちに彼女の私物があったので、また、戻ってくるだろうと思った。動くと身体も痛かったので、彼女を追いかけず、ジュリアの布団に包まり、読みかけのロシアの本を読み始めた。
本によるとロシアの犯罪件数は日本より断然多く、野良猫も凍死する極寒の冬には、マイナス三十度にもなり、素手で屋外の手すりを触ると、人の皮膚がはがれ、目はちかちかして、涙もボロボロ出るらしかった。・・・怖い。誰にとっても環境や言葉が違う外国で働くことは大変だ。ジュリアは親に仕送りさえしている。ぼくにそんなことができるだろうか?
それから、寝落ちしてしまったさとるは、隣のマンションの部屋に閉じ込められた子犬のうるさい鳴き声で、夜中に目を覚ました。ジュリアが部屋に戻っていた。キッチンの椅子に座り、缶ビールを飲んでいた。
「ごめんね」
さとるは布団の中からジュリアに声をかけたが、彼女は無言でベッドに入っていった。布団もベッドもジュリアが優先して使えることは暗黙の掟だった。

原付バイクの事故以来、夕方にさとるが仕事から戻っても、ジュリアはもう、部屋にいなくて、歩いて駅に向かった。そして、翌朝、七時になっても戻ってこなくなった。
嫌な予感。ジュリアも事故に遭うような、もう、帰ってこないような不安を感じて、さとるは駅に向かった。朝のジュリアは各駅停車に乗り、新丸子駅で下車するのだ。

新丸子駅。
背中を向けた通勤客が改札に吸い込まれ、次々にエスカレーターに足をかけていく風景をさとるがぼんやり見ていると、エスカレーターの横の階段をジュリアが歩いて降りてきた。
あっ、生きてた。手を振ると改札から出てきたジュリアが言った。
「なにしてる?」
「待ってた。いつもより遅いから」
「心配ですか?」
「心配・・・」
疲れた顔のジュリアは小さくうなずいた。なにも話すことなく、ふたりはアパートに向かって歩いた。重い空気の中、ジュリアはコンビニに入って行った。彼女はスポーツ新聞だけ買って外で待っていたさとるに親子丼とシーザーサラダが入った袋を渡した。ジュリアがさとるのためにお金を使った初めてのものだった。彼は部屋の冷蔵庫の中を知っていた。ジュリアの顔パック用の輪切りに切られたきゅうりがあるだけで空っぽのはずだった。
「よし! 寿司でも食べに行くか! 次の次の日曜日にしよう」
 やっぱり、彼女を幸せな気分にしてあげたいのだった。

次の次の日曜日がやってきた。
夕方、ジュリアはさとるを店の女の子たちがよく行く美味しくて、リーズナブルな錦糸町の寿司屋に連れていった。ジュリアは日ごろの我慢が爆発したように注文した。
「これ、ほしいです」
「まぐろね」
「これ」
「サーモンね・・・」
「・・・これ、これ、これ・・・お願いしまーす」
「・・・ぼくも同じのお願いします」
「わたし、おあさぁり、スープ、すきです」
「おあさぁり?」
「おあさぁり!」
「あさりのこと?」
「ちがう! おあさぁり!」
 おあさぁり??? おいしい外食のお店を知らないさとるは大あさりを知らなかった。お店の人に、
「そういうもの、ありますか?」と訊いてみると、メニューにないとのことだったが、
「おあさぁり・スープ、お願いしまーす!」
と彼女がおあさぁりに燃えていたので、特別に、あさりのスープを作ってもらえることになった。

ふたりは百円の寿司をどんどん注文し、ぱくぱく食べた。さとるはビールを飲みながら寿司を食べていたが、ビールが勢いあまってこぼれて、数滴、彼のズボンに落ちた。ジュリアは不幸そうな顔でズボンを見て言った。
「汚れた・・・」
「・・・おれを汚いみたいにいうけどさぁ、ジュリアだって、おならするでしょ?」
「しない。トイレだけ」
ジュリアはバイク事故で得たお金でパスポートも買ってもらえず、心はまだ癒えてなかった。
彼女は席を立ち、トイレに行き、しばらくして戻ってきた。
「わすれたぁ!」
と再びトイレにUターン。忘れた自分の化粧ポーチを手にして、また戻ってきた。そして、ポーチの中をガサガサとチェックした。
「リップスティク、ない・・・」
「・・・・・」
食事も終わり、錦糸町の北口駅前の道を歩いていると、ジュリアは言った。
「わたしのこと、愛してるですか?」
「・・・うん」
「なに? うん」
「はい」
 さとるが言いなおすと、ジュリアは言った。
「お台場公園、いくです」
「今?」
「はい」
ジュリアはロマンチックな場所に行きたかった。さとるはもうアパートに帰りたかったが、結局、彼女に手を引っ張られ、地下鉄、錦糸町駅の階段を引きずられるように降りて行くしかなかった。
「ほんとにお台場、行くの? もう公園、終わってるんじゃない?」
「終わてないよ。お店の女の子、いうです。夜の海、きれい。行くです」
 さとるは改札の駅員に、
「お台場の夜景がきれいで、ロマンチックらしい公園って、なんという駅で降りればいいんですか?」
とデートスポットの駅を訊いてみた。しかし、二十代の駅員もさとる同様、デートスポットに疎くて、知らなかった。だいたい、さとるはお台場というところに行ったことがなかった。

夜の十時を過ぎていた。さとるは地下鉄の改札から、またジュリアに引きずられて、地上に戻った。ジュリアは夜道を走っていたタクシーを、無言で指差した。
結局、タクシーでお台場に行くことになった。
走り出したタクシーの中で、運転手にお台場までの料金を訊くと、結構、かかりますよと、予想のつきそうなことを言った。
「ロマンチックな海の見える公園に行きたいみたいで、お台場らしいんですが、近場で代わりになるようなところないですか?」
「晴海とかどうですか?」
「あ! それでいい! お台場に夜、行って、帰りのタクシー、つかまらなかったら大変だ。そういう可能性もありますよね?」
「ありますね」
「晴海でいいです」
 晴海もロマンチックかもしれないのだ。これで少し節約。
ジュリアは不気味に沈黙していた。三十分くらいたっただろうか、海岸方面に立ち並ぶ高層マンション、海らしき空間、その海につながる川が見えた。十分、ロマンチックじゃないか? タクシーのナビには、なんとか公園と表示されていた。
よし、これでいこう! さとるはメーターがどんどん上がるタクシーから降りたくて仕方がなかった。
「もうこの辺でいいです」
ジュリアはロシア語でぶつぶつ言いながら、最後に、
「ディスコのうそつき」
と後部座席でつぶやいた。さとるは聞き逃さなかった。タクシーを降りると、ジュリアは憂鬱そうに歩道に突っ立ったままだった。さとるが歩いてもジュリアはついて来なかったので、ジュリアの元に戻り、
「まだ、嘘つきかどうかわからないでしょ?」
と夜道で切れかかると、ジュリアも言った。
「あなた、いうだけ。にげる、じんせい」
「・・・・・」
「わたし、だまされたかもです」
「・・・・・」
「こうえん、どこ?」
「ここ、公園、ある」
 歩いていると、コンビニがあったので、ふたりともトイレを借りて、夜勤の店員に、ナビに存在した公園の場所を訊いたら、
「小さい公園ですよ」
と言われた。
店の裏手にあるらしかった。
ふたりは行ってみたが、結局、柵に鍵がかかっていて、中に入れなかった。
晴海という所に行くとしても、まだまだ先のようだった。
「おなか、へった」
ジュリアはそう言い、むっとしたまま、夜道で動こうとしないので、さとるは再びコンビニに戻り、このあたりにレストランはないかと訊くと、サイゼリアが少し歩くと、ビルの中にあると教えられた。
今まで来たこともない、がらんとした夜の町を、ふたりはサイゼリアを求め、あちこち歩いたが、サイゼリアのあるらしいビルさえ、わからなかった。


「お台場公園に行けばよかったね。ケチって悪かったよ」
「・・・・」
「ジュリアにプレゼント買う。なに、欲しい? ネックレス?」
「リング」
「ブルー・サファイア?」
「ダイヤモンド」
「・・・とにかく指輪にしよう」

大きな通りに出ると、タクシーが走っていた。よかった。全く見当がつかない場所から脱出するには、タクシーしかなかった。
さとるはタクシーに向かって手を振った。六本木が案外、近い気がした。おそらく六本木に向かうのが、一番わかりやすいだろうと思った。運転手さんに訊くと、少し乗るだけで着くとのことだった。
タクシーの中で、ジュリアは、
「あたぁ!」
と声を出した。
「何があったの?」
「リップスティク」
六本木に着くと、ジュリアは交差点近くにロシア料理店を目ざとく見つけた。
特別、美味しくもない、量の少ないロシア料理にまた一万円を使い、さとるは意気消沈した。それから、ふたりは、終電間近の地下鉄などを乗り継いで、新丸子に帰った。

翌日の夜。
いろいろうまくいかなかったが、さとるは指輪で挽回しようと思い、ネットで調べてみた。さとるは女の人に指輪を買った経験がなかったので、よくわからなかった。ダイヤモンドはやはり高価で、ピンク・ゴールドというのが手ごろな値段だった。
アパートから仕事中のジュリアに、携帯でメールしてみた。
「ダイヤモンド、いまは、むり。ピンク・ゴールドでOK?」
と尋ねると、
「ピンク、すきじゃない。しろ。ホワイト・ゴールド、すき。サイズ11。ブランド、かんけいない」
 ブランドはどうでもいいんだね。よしよし。

その週、さとるは仕事帰りにイトーヨーカドーに行った。高くない指輪をひとつ買うつもりだった。手ごろな値段なのに、高価にも見える、シンプルな指輪があった。ガラスケースから出してもらった指輪を携帯で写真を撮り、その写真を添付してジュリアにメールした。
「これでOKかな?」
と訊いてみると、
「きれい」
と返信が来た。ジュリアが仕事を終えて帰ってきた時に、小さな箱に入った指輪を渡したら、すぐに箱を開け、左手の薬指につけた。ジュリアは目を輝かせ、上機嫌で、さとるにキスした。その晩はさとるにも久しぶりにいいことがあった。

翌日、ジュリアはさとるの仕事の昼休みに電話した。
「あなた、いろいろ、がんばらないね」
「どうしたの? どうしたの? なにかあったの?」
彼女は何も答えず、電話は切れた。さとるは失敗していた。ジュリアに渡した紙袋の中に、ケースとともに指輪の保証書が入っていて、「イトーヨーカドー」と印字されていた。婚約指輪のつもりではなかった。まだ、本気の指輪を買うつもりはなく、そんな余裕もなかった。彼女の気分を一時的によくしたかっただけだった。さとるは安い指輪ゆえ、その保証書はいらないと女性店員に主張したが、なにかあった時のため、絶対あった方がいいと女性店員が言い張ったので、不本意ながら従ったのだ。
ジュリアはさとるから指輪を貰ったと、すでに佐々木から五十万円相当の指輪を貰っていたカーチャに電話で報告した。そして、ふたりはイトーヨーカドーに指輪の値段をチェックしに行った。指輪が一万二千円というのが一日でばれて、さとるの状況は悪化した。

数日後、ジュリアはトート・バッグから高価そうな携帯電話を取り出し、これ見よがしに充電し始めた。
「なにそれ?」
「アイ・フォーン」
「・・・・・」
アイ・フォーンには、ご丁寧に皮のカバーケースまでついていた。
「もらたー。うりしー」
ジュリアはさとるの目の前で、また、これ見よがしに、タッチパネルで遊び始めた。
「誰にもらったの?」
「コジンジョーホー」
「・・・・・」
プリペイド・カードのアイ・フォーンなんてないはず。お客さんか誰かの身分証明で契約して、渡されたに決まってる。男は下心があって、プレゼントしたはずで、何かでお返しするのが普通だ。さとるはアイ・フォーンに関わる人たちの陰謀が許せなかった。
「なんか、すごく嫌らしい。そんな携帯二台、持ってる女いない」
「いるいる」
「・・・・」
「古い携帯、ロシアとメール、ダメです。ママのこと、わからない」
「・・・・・」
「これ、ロシアにメール、できるです。ロシア語、キーボード。ママ、れんらく、やったです」
「十万はするはず」
「・・・・・・」
「明日、同伴ある?」
「ありまーす」
その言葉を聞いた瞬間、さとるはジュリアがアイ・フォーンを渡した男とエッチしている妄想にかられた。その男とは、少なくともお台場くらい、一緒に行っとるな・・・。
「誰かいるんじゃないか?」
「・・・・・」
「もうエッチした?」
「オー・マイ・ガー。あなた、しばくです」
「・・・・・」
「誘われる、あるけど、レッド・デイ(生理)、ペイン・イン・マイ・ストマック(胃に痛みがある)いって、おことわりです」
「ほんとか? でも、一回は同伴でホテル行ったことあるでしょ?」
「でたでた、あなたの病気」
「その人、好きならその人と住めばいい」
「・・・いない。そゆう人。・・・わたし、まごころ」
「・・・・・」

たくさんの野良犬に手や足を噛みつかれる夢。人が誰もいない町で立ちつくし、どこに行ったらいいのかわからなくなる夢。さとるは暗い夢をよく見るようになっていた。彼は派遣社員だった頃のよくない精神状態に戻っていて、自分を殺しつつ、頑張ることをまた、受け入れられなくなってきていた。女の頼みをきき、サポートしてあげるのが愛で、頑張って働き続ければ、よい方向に行くはずだったが、さとるは女のために自分を犠牲にして、お金を稼ぐという気持ちを何年も持ち続けられない男なのかもしれなかった。出勤の憂鬱さから、また、お酒を飲むようになり、小さな作文を作っていた頃に戻りたくなった。ジュリアに文句が多くなった時もあり、それは八つ当たりだった。悲しそうに我慢していた彼女を見て、自分みたいな変わり者はひとりで生きた方がいいと思ったりした。バイク事故の示談金のおかげで、カード・ローンは減ったが、生身の女と暮らしていれば、どうしてもお金がいるし、ローンが膨らんでいくのは当たり前だった。

「おれ、これからひとりの生活に戻る」
さとるはいつのまにかジュリアにそう言い放っていた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「ひとり?」
「ジュリアは貯金もある。カーチャもいる。カーチャと一緒に暮らしたっていい」
「・・・・・」
 彼女は暗く沈んだ声で言った。
「アイ・フォーン、返しましょ。いらないし」
「・・・・・」
「ほんと?」
「それしかないと思う」
「メモ、やりたい?」
「それより、借金、なんとかしないと」
「・・・・・」
「愛もほしい、夢もほしいは無理」
「・・・・・」
「寂しいから、ジュリアを利用してるのかも」
「・・・・・」
「おれ、いなくなったら、どうする?」
「選ぶ、できない」
ジュリアは消え入るような声で言った。
「仕事、ずっとするしかない」
彼女の現実がさとるの胸にずしんときた。ジュリアに刺さった棘も抜いてあげたかったが、自分に刺さった棘も抜きたかった。本当につまらない棘だったが、カード・ローンは自分でなんとかしなければならなかった。
「東京から出る」
「・・・・・」
「アパートの契約も終わらせる」
「・・・・・」
ジュリアはぐすぐすと泣き始めた。
「おれ、ジュリア、好きだよ。借金づけのダメなやつでも一緒にいてくれたんだから」
「好きでも終わり?」
「・・・・・」

ベッドの中でもジュリアは泣いていた。すっかり朝になっていた。部屋の小窓から見えるアパート前の駐車場では、出勤のため、誰かの車のエンジンがかかっていた。


10



 10

わたし、かわいくない? 普通と思うけど・・・。オーバー・ステイだからダメだった? ジュリアはさとるがいない間に荷物をまとめ、部屋の鍵を郵便受けの中に入れると、彼に貰ったスーツケースを引きずりながら駅に向かった。目には涙が一杯溜まり、いつもの道がよく見えなかった。
さとるがアパートに帰ると、彼の妹が送ってくれた服、数着がベッドの上に折りたたまれて置いてあった。押入れには、忘れていったのか、ジュリアが電車の中や部屋で勉強していた日本語勉強ノートが置いてあった。いろんな日本語や英単語がロシア語と共に繰り返し、手書きで書いてあり、ノートの最後は「ざんこく」という日本語だった。南に面したサッシを開けると、ふたりで植えた小さなトマトはしぼんで土にまみれ、ただ雑草だけが生えていた。
さとるは岐阜県、下呂温泉での住み込みの仕事に応募した。求人情報にあった建設系の仕事で日給も良く、作文もできる孤独になれる土地かもしれなかった。彼が、「杉プランニング」に電話し、履歴書を送ると、名古屋の事務所へ面接に来るようにと連絡が来た。まだ運が残っていた。彼が面接に行くと仕事がもらえた。
さとるは郵便局に感謝とともに、アルバイトを辞める意志を伝え、配達の仕事はあと一ヵ月を切っていたが、ジュリアを裏切った罪悪感もあり、マンションで書留を郵便受けに入れてしまったりしていた。書留は直接、受取人に手渡さねばならなかった。彼は鍵のかかった郵便受けに手を突っ込み、書留を取り戻そうとしたが回収できず、先輩社員の米田に連絡した。しばらくすると、さとるが苦手で仕方なかった社員の松本が赤いスクーターで駆けつけてくれ、郵便受けの外から針金で中の書留を引っ掛け、回収してくれた。
「人生いろいろだよ。温泉の仕事、頑張ってな」
 松本はそう言って赤いスクーターで局に戻っていった。さとるが自転車で局に着くと騒ぎになっていた。班長にきつく注意され、十歳年下の後輩アルバイトにも軽蔑の目で見られた。それでも、一週間、二週間と時間は過ぎて行った。

郵便局、最後の日は小雨が降っていた。夕方、さとるが最後の郵便はがきを持ち、一軒家に歩いていくと、グァーグァーと三羽のアヒルたちが、開け放たれた玄関から路地まで出てきた。郵便配達が始まった最初の週、雨の日に、この家の入口を入ると、アヒルたちが出て来てびっくりだった。アヒルたちは雨を楽しんでいて、さとるがすぐそばに近づいても、逃げていかなかった。この日も、アヒルたちは羽についた雨を振り払い、植木鉢の雑草を食べていた。彼は足元を歩きまわるアヒルたちに、さよならを言った。
     
いつもと同じ、どこか外国にあるような風景だった。ジュリアは廃墟のような巨大なビルの中にいた。目も鼻も口もない顔の入国管理官の男たちに囲まれて、パスポートを見せるように言われて、ハンドバックから取り出したパスポートを能面のような入国管理官に渡すと彼女は泣けてきた。それから、逃げだした。トイレの窓から外へ出ると、黒い服の男たち数人が追いかけてきた。建築中の建物に逃げ込み、二階、三階と階段を駆け上がっても行き止まり。出口がなかった。隣の建物に飛びうつろうとしても、ものすごく高い場所だった。追い詰められたところで、彼女は目が覚めた。

東京入国管理局に行ってみよう。品川駅から徒歩で行ける。行かなきゃいけない。
ジュリアは品川駅で電車を降り、海に向かって歩いた。あたりの駐車場には船から降ろしたコンテナが並び、大型トラックはエンジンをかけたまま止まっていた。東京入国管理局のような施設は街中につくるわけにはいかないのかもしれなかった。街から離れ、海に近い、品川埠頭にあった。 
ジュリアは運河をふたつ越えた埠頭に、十二階建ての細長いビル二棟が直角に交差した建物を見つけた。空から俯瞰して見ることができるならば、十字架の形をしていると想像できる建物。これ。夢に出てくるのは。入口には「不法就労外国人対策キャンペーン月間」と横断幕があった。
ジュリアは施設の中に入った。入国管理局や警察に出頭することも頭の中にあった。日本で働いても、逃亡者のような生活で、ロシアには帰るに帰れず、街で警官の姿を見つけると、こそこそと逃げていた。自ら出頭すれば罪は軽くなり、長い年数をおくことなく、日本にも帰って来ることができることを仕事仲間から聞いていた。「出頭申告のご案内、不法滞在で悩んでいる外国人の方へ」という英語のチラシもハンドバッグの中にあった。日本語にすれば、「オーバー・ステイのあなた、一緒に考えましょう。もし、退去強制手続であなたの国に戻るなら、最低でも五年間は、再び、日本に来ることはできません。でも、出国命令制度で戻るなら、戻れない期間は一年間だけです。摘発とかで違反が発覚したら基本的に収容されます。でも、自分で出頭申告、つまり、自首するなら仮放免の許可で収容されずに、手続きを進めることが可能です。入国管理局に出頭してください」
こんな内容だった。

入国管理局は強制退去になるまでの期間、一時的に身柄を拘束される場所だった。収容された人は、刑事罰を受けたわけでもないので懲罰はなかった。しかし、日本で家族となった愛する人たちとの別れなどで、未来を悲観し、絶望の中にいる収容者たちもたくさんいて自殺する人もいた。世界における自国の政治的立場ゆえ、国に仕事がなく、家族を助けるために、一大決心して、日本にたどり着き、日本政府を信じて難民申請したら、収容されてしまった人もいた。そんな場所なのだった。
ジュリアは東京入国管理局、一階の壁にもたれ、外国人男女たちが行き来するのを見ていた。左手に二階に行くエスカレーター、右手にエレベーター。二階へのエスカレーターに乗れば係員と話せる。彼女は自分に問いかけた。何を話して、どうしたい? 何も決心していない。今、話すことは何もない。お金をつくらなければならない。まだ、東京にいなければならない。ジュリアは自分の現状を確認すると、施設の外に出て、小雨が降り始めた中、駅に向かって歩き始めた。

仕事が終わると、一時間ほど電車を乗り継ぎ、西永福町という駅に着いた。そして、アパートに向かった。さとるのアパートを出た後、カーチャのフィアンセ、佐々木の3LDKのマンションの一室にしばらく住まわせてもらったが、佐々木とカーチャの関係は今までになくぎくしゃくしていて、いつまでも居候できなかった。ジュリアは故郷に帰るロシア人から、古い木造アパートを引き継いで借りた。家賃は安かったが、職場からは不便な場所で、隣の部屋の声が聞こえる薄い繊維壁と汚れた天井の六畳一間で、トイレも風呂も共同だったが、立場上、アパートを選べなかった。

ジュリアは食事をすませると、部屋の窓に近づいた。そして、窓から見える森の形のいい木々をしばらく見ていた。気持ちが和らいだ。毎日、惰性で生きているだけだったが、仕事はある。明日もお金を稼ぐ場所があるわけで、それは感謝すべきことと思った。
心配事ももちろんあった。乳がんとか。大阪のクラブで一緒だった女性は牛乳など乳製品が乳がんや前立腺がんの原因と言っていた。ヨーロッパでベストセラーになった闘病体験記があるとのことで、東京に来てからは食生活を変えたが、以前のジュリアは乳製品が大好きで、毎日のようにお酒を飲む仕事でもあった。
ジュリアが一年で離婚したのも、ロシア人の夫の仕事がなくなり、アルコールに溺れたからだった。その頃、父から聞いたことがあった。アルコールというのはアラビア語の(al-kuHl:アルクフル) (لْــكُــحُــولُ)から来ていて、身体を食べてしまう霊という意味があるということを。もしアルコールが人の魂を食べてしまうのなら、精神的に追いつめられた時、人は正気を失い、暴言を吐いたり、喧嘩を始めたり、やけくその別れのメールを送ったりするのかもしれない。ロシア人の夫もそうだったし、ジュリアはしばしばそんなことを見てきた。
また、アルコールは身体の中に熱をもたせるものでもある。毎日のように飲めば身体の中が常に熱をもっている状態になる。でも、自覚症状はない。アルコールは臓器に炎症を起こす。そこから潰瘍に進み、最後には癌に移行しやすい。そんなことを父は言っていた。
日本でのホステスの仕事は、確かにロシアより効率よくお金を稼げる。でも、長くやる仕事ではない。本当はやらないほうがいいに決まっている。お酒はプライベートでたまに飲むくらいにしておくべきなのだ。そうでないと、いつか病気になる・・・。夜空の月を見ながら、ジュリアはそう思った。

さとるは最後の給料を持って岐阜県下呂市に向かった。東京駅から名古屋駅まで新幹線、そして、富山に向かって飛騨川沿いを走るJR高山線に乗り、二時間半ほどでJR下呂駅だった。住み込む七階建てのマンションは下呂駅から徒歩で三十分、タクシーで十分ほどの場所にあった。最初は人が住んでいない幽霊マンションかと思った。内階段のあちこちに蜘蛛の巣が張っていて何年も掃除されていないのは一目瞭然だった。
外階段はコンクリートから鉄筋がむき出しになっているところもあった。マンションはバブルの時期に建てられたものだったが、四方を山々に囲まれた観光地、下呂は雪も雨も多く、過酷な自然環境の中で年月が経ち、マンションのあちこちで補修が必要となっていた。
さとるの主な仕事はふたつだった。ひとつはマンションの広い屋上を再度、防水工事することだった。最上階の部屋に雨漏りが発生したらしかった。もう一つは四十二部屋へ供給されている常温の温泉水管が冬になるたびに氷点下の寒さで凍結するので使えなかったが、四十二部屋のボイラーまでの温泉水管を温める細い電気ヒーターを巻き、カバーをつけ、冬でも温泉の水を四十二部屋に運べるようにすることだった。これらはさとるには難しそうに思えたが、杉村社長の補佐をするのが仕事だったので、指示されたように作業すればよかった。
杉村社長と仕事をしていると勉強になった。温泉水というものは、電気やガスのように毎月の使用料を払えば、地元業者から温まってない液体の形で市内のあちこちに送られるとのことだった。それを各々の家のボイラー室で温め、浴槽で温泉に入る。自分の住まいに一番近いところまで来ている温泉の水道管から枝分かれする水道管を新設してもらう工事に数十万円はかかるが、都会の人間が味わえない贅沢なことを下呂の人たちが毎日のように味わっているとは知らなかった。一日働くと身体は疲れたが、マンションの空き部屋を家賃なしで提供され、日給が一万五千円というのは、彼にはとてもいい仕事だった。

マンションの裏手はなだらかな山で、朝、目覚めると鳥の鳴き声が部屋の中まで聞こえてきた。それは都市では味わえないものだった。空気も澄んでいた。近所の坂道を散歩すると、曲がりくねった道の両側に空に向かって大きな針葉樹が群生していた。雨上がりの早朝に、両手のひらをくっつけた大きさのカエルと遭遇したりした。
仕事の手を休め、マンションの屋上で空を眺めると、鷲が空高く飛んでいた。大自然はさとるには新鮮だった。温泉で有名なその町にはホテルや旅館はたくさんあったが、マンションは四棟と少なかった。コンビニは三軒、一般の人が入れる温泉の銭湯は二軒といったところだった。

さとるは仕事を覚え、失敗はあれど、こなしていった。平日は仕事が終わると杉村社長とさとるはファミリーレストランで食事をした。その後、三百円の温泉の銭湯に行き、ぬるぬるした温泉の湯ぶねにつかり、コンビニで翌朝のサンドイッチや弁当を買ってマンションに帰り、翌日に備えた。杉村社長はさとるの隣の部屋に帰ると、缶ビールを飲み、スポーツ新聞を読んですぐ寝る人だった。さとるは杉村社長を親方と呼ぶようになった。顔や髪型が相撲界の時津風親方に似ていたからだった。

仕事は順調に進み、日曜日になった。翌週の月曜が祝日だったので、親方は日曜の朝、家族のいる名古屋に車で帰っていった。さとるは肉体的な疲労もあって、作文は全く進まなかった。だからといって、ボーリング場やスナックに行っても仕方なかった。親方から貸してもらった軽トラックで、下呂の町の中心を流れる飛騨川に行き、暖かい太陽の下で、足を濡らし、本屋やスーパーマーケットで買い物を済ませると、部屋で身体を休めたかった。スーパーマーケットに行くと、地元の女の人たちが買い物をしていた。日本人同士、それが普通で、幸せな生き方に思えた。彼はずっと日本社会に陰謀を感じて、結局、外国人に救いを求めた。そもそも、それが間違っていたのか? 間違っていたのかもしれない。外国人の故郷は日本ではないわけだから、あらゆることが、より難しくなる。東京都から一駅離れた新丸子のスーパーマーケットで女の人を見るたびに、「女っていいなぁ」「誰か部屋にいてくれたらなぁ」「話し相手になってくれたらなぁ」と思っていたのが、どうなってしまったのだ?
部屋に戻り、古ぼけた青い椅子に座り、目を閉じると、それでも、初めて女の人と一緒に住み、自分以外にもう一人が鍵を持つ経験をして、朝方に、がちゃがちゃと彼女が鍵を開ける音で、目が覚め、「・・・帰ってきた」と安心した想いが蘇った。さとるはクラブで、「あなたといつか一緒になりたい」とジュリアに言った。言葉には言霊があるとのことで、一度言ったら、魂を持って走り始めるそうだ。彼の言葉の霊力はしっかり彼女に届いていた。だから、彼女はオーバー・ステイという誰にも言えない弱みをさとるにさらけ出した。それは彼の気持ちに火をつけはしたが、結局、何もできず、自分の問題を解決したいばかりに、彼女から逃げてきた。裏切ってしまった。彼女は、「金の切れ目が縁の切れ目」といったお金だけの人ではなく、どんな時も、さとるを見捨てなかった人だったかもしれなかった。ワーキング・プアーの男とオーバー・ステイの女は釣り合いのとれた組み合わせで、ソウル・メイトと言われるものだったかもしれなかった。彼女との生活は、干天の慈雨だったのだ。
うっ。さとるは心が痛んだ。東京から自分で送った段ボール箱が、リビングの古いブラウン管テレビと壊れたエアコンの間にあった。段ボール箱を開けてみると、ジュリアが置き忘れて行った日本語練習ノートやさとるの、「えんむすび」、「幸」、「金運」の御守りなどが出てきた。
ふー。時間がたてば、風向きも変わることもあるかもしれない。短期間でも男と女が一緒に暮らしたのだから。仲直りできる可能性はゼロではないはずだ。今の仕事で貯金を作り、東京にまた行けばいいんじゃないか?
そんなことがさとるの頭の中で渦巻いてくると、いてもたってもいられなくなり、彼は東京のジュリアに電話した。「電話に出ることができません。またおかけください」というメッセージが流れた。彼は下呂に来てから数回、電話していた。いつも彼女は電話にでなかった。メールは送信できたが、迷惑メールボックスに行っているようで、反応がなかった。
一方、ジュリアは貯金が新しいアパートの家賃でどんどん減っていき、お母さんへの仕送りもできなくなっていて、東京でなんのために働いているのかわからなくなっていた。ジュリアはさとると話したくなかった。

数時間後、日曜日の夕方、さとるはまたジュリアに電話した。
「電話に出ることができません。またおかけください」
また同じメッセージが聞こえた。さとるは真剣な表情のジュリア、さとるに向かってカメラを構えているジュリア、そして寝ているあいだに内緒で撮った彼女の寝顔、残っていた写真を表に向けたり裏返してみたりするくらいしか、力が出なかった。
もう一回だけと思って、さとるは電話した。ジュリアは応答した。
「アロー(もしもし)」
「さとるだけど。怒ってる?」
「・・・・・・・・」
「ごめ(ん)」
途中で電話は切れた。さとるはもう一度、電話した。電話が鳴り続け、ジュリアは応答した。
「おれ、いま、岐阜県の下呂っていうところにいるんだ。温泉もあるよ。ジュリアはタランチュラにいるのかな?」
「タランチラ、やめた」
「今、どこにいるの?」
「・・・・・」
「カーチャのところ?」
「ちがう」
「アイ・フォーンのところ?」
「・・・・・・・」
「うー・・・。こいびととか、できたりして」
「・・・・こいびと、いるかも」
「うわっ!」
さとるはその場に立っていることができず、電話を持ったまま、畳の上に崩れ落ちた。頭がくらくらした。血の気も引いた。
「あなた、残酷した」
電話は切れた。さとるはしばらく悲しみに沈んでいたが、このまま飛騨の山奥で沈みきるわけにはいかないので、また電話した。
「前、そんなふうじゃなかった。多摩川のとき、そんなこと言わなかった」
「あなた、さいしょ、わたしと、いっしょになる、言た。けど、わたし、すてた」
また、電話が切れたが、心の壊れたさとるは再び電話するしかなかった。
「おれ、ジュリアと結婚したい」
さとるはそう口走った。
「・・・・・・・」
「ジュリア、ずっと結婚しないの?」
「わ・か・ら・な・い」
「おれ、チャンスある?」
「だれでも、チャンスある」
 だれでも。言葉がもう、昔のジュリアとは違っていた。
さとるはジュリアの犬になり下がって、もう一度、彼女の心を確かめるように、ゆっくりと訊いた。 
「本当にこいびと、いる?」
「アプローチ、ある」
日本の首都にいるジュリアにそう、はっきり言われると、自然は豊かでも過疎地帯にいるさとるは心が死に、その死んだ心の上でドカドカと踊られたような気持ちになった。
「なに、かんがえてる?」
ジュリアは暗い声で言った。
「これからどうしようと思って」  
電話は切れ、しばらくしてまた電話すると部屋を移動したのか、電話の向こうからテレビの音に混じって、赤ちゃんか子供のような声が聞こえた。
どうなってるんだ? 一ヶ月やそこらで、もう赤ちゃんが生まれたのか?
カーチャのところじゃないから、新たなルームメートの子供か? いや、新しい恋人の子供か? ということは今、ジュリアの隣にアイ・フォーン男が一緒にいるのか? 
さとるは連続して電話した。ジュリアは電話に出なくなり、留守番電話に切り替わった。あとから電話の発信履歴を見ると、日曜日の二十一時から日付変わって、一時五分までに四十回かけていた。
それから、さとるは悲しみにくらくらになって寝て、朝、目が覚めると、午前九時から十四時までで三十二回、一分から五分おきにジュリアに電話した。
合計、五十二回。さとるはもうストーカーと言えた。さとるの心はスカーっと切れ、睡眠薬のメラトニンを十粒飲み、気絶するように睡眠の中に逃げ込んだ。