7 | (タイトルはいろいろありまして言えないのです)

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週末、さとるは夜中の閉店時間に合わせて、シャレードに行ってみた。店には客もホステスもいなかった。電話の甲高い声の店長らしき男さえいなかった。以前、料金システムを教えてくれたと思われるグレーのスーツを着た外国人の男だけがいた。お腹が少し出っ張ってはいたが、彫りの深い顔は端正で、その黒髪はカールしていた。四十代半ばに見えた。
「ジュリアさんのことで、お話があるんですが」
さとるは彼に要件を伝えた。
「わたしが経営者です。外の空気を吸いたいです。公園で話しませんか?」
彼は弱々しい笑顔を見せて歩き始め、公園を通り過ぎ、コンビニに入り、缶酎ハイを四缶買い、公園のなかに入っていった。さとるは彼の後をついていった。ベンチに腰掛けると、缶酎ハイを一缶、さとるに渡した。彼はプシュっと、自分の缶酎ハイを開けた。
「あなたが電話で話した店長は辞めました。・・・あなたのお名前は?」
彼の日本語は流暢だった。
「さとるです」
「わたしはアバスです」 
彼は缶酎ハイを飲みながら、語った。
「・・・店の家賃も払えなくなってましてね。月末には支払いがたくさんあります。家賃、給料、お酒、電気、カラオケ・・・。元気なくなりました。わたし、糖尿病ですし。親も歳を取りまして。少し国に帰りたいくらいです」
さとるは彼の話を聞くしかなかった。彼は言った。
「・・・さとるさん、わたしを信用してもらって、お金、貸してもらえませんか? 四十万でも、百万でもあれば・・・店にお金、出してもらって、折半でもやれるんです。わたしも経営者。信用は守ります」 
「お金、ないですよ。銀行で借りればいいじゃないですか?」
「外人には貸してくれないですよ」
「錦糸町で店やってる人に相談するとか」
「プライドもありますし、店、潰されます。噂で」
アバスはコンビニ袋から、缶酎ハイをもう一缶、さとるに渡し、自分も二缶目を開け、飲み始めた。彼はすでに店で飲んでいたのだろう、目がとろんとしていた。
ジュリアのお金を諦めさせるために、言っているのかもしれないと思って、さとるは言ってみた。
「六万でも給料あれば、彼女は納得します。悔しいんですよ。プライドありますし」
 彼は苦笑いして、首を垂れた。
「三万、四万くらいは今月、渡してるはずです。女の子たちは、みんな日払いですから。ジュリアは売上げ、少ないです。前は頑張って、同伴してましたが、川崎の方に引っ越してから、自分のお客さん、作ろうとしなくなりましたから」
「そうなんですか?」
「はい」
アパートに来てから、お客さんを減らしていったのか? ぼくのためにか? 
それから彼の話したい話に戻った。
「いろいろありましてね。わたしもストレートな人間。ケンカしてしまう」
「ケンカ?」
「別れた奥さんとか、ほかの店の男です。・・・最初、日本人の奥さんと結婚しましたが、離婚しました。それから、ロシア人と籍を入れました。彼女の日本での労働ビザ、わたしが日本人じゃないから、ダメでした。家から奥さん、逃げました。子供、連れて。子供に会いに行ったとき、わたし、感情的になりました。ケンカになりました。手を出したと言われ、裁判になって、一か月、ブタ箱に入りました」
「・・・・・・・」
「去年、わたし、出所しました。頑張ってお客さん入れて、忙しくなりました。今年、近くに新しい店ができて、売上げ、落ちました。少しだけ高い給料で、うちの女の子たち、引き抜きました。わたしはその店のスタッフと、ケンカして、また、ブタ箱に入りました」
「何日間?」
「十日」
「どこのブタ箱?」
「本所警察」
「?」
怪しく暗い話ばかりで、ジュリアの六万円が返ってくる気配はなかった。
「・・・さとるさんは今の収入に満足してます?」
「してないです。毎月、赤字だし」
「わたしの店で働きませんか? 日本人のパートナー、ほしいです。儲かる時期は、七月から十二月です」
「・・・・・・」
「最初の一ヶ月は三十から三十五万です。仕事ができるようになったら、一日一万五千円×二十五日で三十七万円です・・・」
彼は暗算が早く、ちょっとばかり羨ましかった。店や会社を経営できる人は数字に強く、複雑な暗算ができると思っていたから。
「まぁ、いいお金ですが、やめときます。数字に弱いから向かないんですよ」

もう一時間も話していた。彼の話はまんざら嘘でもないとも思った。思ったことは、彼の知り合いや東南アジアの人たちもすべて、ライバルというのは、違うんじゃないかということ。
「アバスさん、プライドとか言わないで、外国人同士、助け合ったほうがいいですよ。糖尿病、悪くなっちゃいますよ」
彼は言った。
「そうですかね?」
「仕事と身体、どっちが大事かってなったら、身体じゃないですか」
「そうですね」
「そうですよ」
「・・・・」
「あなたのアバスって、映画監督のアッバスなんとかさんと同じですか?」
「???」
「おうとうのあじ(桜桃の味)って映画、知ってます? こないだ、観たけど、すごくよかった」
「???」
「・・・今、死にたいと思ってる男が、昔、死にたかった男から言われるんです。木に登って死のうとしたら、さくらんぼがあって、食べてるうちに、死にたくなくなったって」 
「テイスト・オブ・チェリーですよ。アッバス・キアロスタミ! みんな尊敬しています」
「さとるさん、イラン行ったことあります?」
「ないです」
「行ってください」
「なんか危ないイメージ」
「行ってみればわかります。悪魔の国はイランを悪い国にしたいんです」
「わかりますよ」
 さとるは陰謀論者だったので、なんとなく理解できた。
「ブラジル、ロシア、インド、チャイナはブリックスです。彼らはイランの味方ですよ。悪魔の国たちは、ずっと秘密で、クライム・アゲインスト・ヒューマニティ(人道に対する犯罪)、やってたんですよね。いつかどっちが本当に悪かったかわかりますよ」
「・・・・・・」
西側の国々から常に母国を非難されてきたイラン人のアバスは悔しい思いから、SNSなどで母国の真実を知ろうとしてきた。彼がさとるに言いたかったのは、この世界には、人道に対する犯罪を日常的に行ってきた世界的な悪の存在があるということだった。それは陰謀論者のさとるも本で読んで知っていたが、SNSをやってなかったので、現在進行形のことは知らなかった。現代のクライム・アゲインスト・ヒューマニティ(人道に対する犯罪)。このことがいつ、世界的に開示されるのかはわからない。でも、そんな世界的な悪の組織と戦う米軍とその兵士たちは現代の英雄だ。彼らは決して表には現れないが、人類を長い長い抑圧から解き放つために日夜、懸命に働き、戦ってくれている。激しい戦闘の中で、多くの兵士たちの命が失われてきた。そのことを決して忘れてはならない。無神論を教育され、それを信じる者の魂はずっと眠ったままの状態だ。もし、生まれてから亡くなるまで覚醒することなく、眠り続けたら、本当にもったいない話だ。

小雨がぽつぽつと降り始めていた。アバスは見るからに眠そうで、さとるも眠たかった。彼は言った。
「帰ります。ジュリアのこと、頼みます」
「・・・・・」
アバスはさとるに別れを告げると、小雨が気持ち良いとばかりに夜空を見上げて歩いていった。お酒も入って足元が不確かなようだったが、公園の狭くなった出口を出ていった。 
さとるも駅裏のカプセル・ホテルに戻ることにした。歩いていると眼鏡に小さな雨粒が溜まった。服も濡れてきたが、酸素いっぱいの夜の空気に改めて気づいたさとるは立ち止まり、深く呼吸をしてみた。車が走っていき、ひとりの男とすれ違った。結局、ジュリアの給料で直談判に来たのに、お金は取り戻せなかった。

 仕事を失ってからのジュリアは意気消沈し、日本語や英語の勉強もやめてしまっていた。松田聖子の、「赤いスイートピー」や中島美嘉の、「雪の華」を覚えようとしていたが、それもやる気にならず、毎日、アパートに閉じこもっていた。
シャレードはあれから店を閉めたようだった。カーチャも仕事がなくなって、佐々木のマンションに引っ越し、店は鍵がかかったままで、服も取りに行けないと、ジュリアに連絡が入った。困難は自分だけではないとわかり、気持ちが少しは和らいだのか、ジュリアは、
「あなた、たまがーわ、いく? 雨ない。レズ・ゴー」
とさとるを誘った。さとるは食料だけを買い込んで、部屋で寝ていたかったが、ジュリアはじゃんけんで決めようと言った。
「最初はグー。じゃんけんポン!」
 ジュリアが勝ち、多摩川に行くことになった。

アパートを出ると、ジュリアはサングラスをかけた。さとるは質問した。
「なんで、サングラスするの?」
「太陽、ある」
「サングラスしちゃうと、脳、晴れなのに曇りって間違える。脳に栄養いかなくて、病気になるんじゃない? インド人、サングラスするか?」 
「インド、しらない! わたしたち、目の色、ちがう! 目、弱い! 太陽、みる、できない! なみだ、でる!」
「・・・わかりました」
「日本、太陽、きつい! ロシア、冬、サングラスいる。雪、多い。すごい、まぶしい! グラス、大きいがいい」
「わかりました。ごめんなさい」
多摩川までジュリアは大袈裟に深呼吸を繰り返して、無言で歩いた。

雨あがりの午後、多摩川の土手から河川敷に下りていくと、ジュリアのイライラは収まった。大きな水溜りで数え切れないくらいのハトたちが、水浴びをしていて、ハトに混じってスズメも、水に濡れた羽根の毛づくろいをしていて美しい光景だったからだ。ふたりはそんな光景を川べりのベンチから眺めていたが、しばらくして大きなカラスがやってきて、ハトたちの平和な時間は終わってしまった。ジュリアは急に鼻息が荒くなり、手に持っていた小さな枯れ木をポイと放り捨てるやいなや、カラスに向かって走って行った。カラスは遠くに飛べないのか、少し飛んで移動しては、ジュリアに追いつかれ、また逃げては追いつかれていた。
弱き生き物のハトやスズメに自分を重ねた懲らしめのようだった。ジュリアはいつまでも、カラスを追いかけまわしていた。この大きくてしつこい生き物はなんだ? とばかりにカラスも迷惑そうで、ジュリアも途中から笑い出し、ひと時、もらえなかった給料やすべての悩みを忘れるのだった。天真爛漫だなと、さとるは思った。

長い冬が終わり、春がやってきていた。このごろは暖かくなっていたので、多摩川の芝生は緑色に変わっていた。
タクシーや外回りの営業マンは、土手に車を止め昼寝中で、川べりの野球グラウンドでは、まっ白のユニホームを着た大学生らしき野球部員たちが内野でボールを回していた。外野の向こうにはホームレスの掘っ立て小屋があり、その隣の犬小屋から犬が顔だけ外にだして昼寝中だった。掘っ立て小屋の裏には、畑まであった。小屋の主人らしき白髪の男が畑で携帯電話を耳元に当てていた。
「いいな。自由そうで。おれたちも小屋を作って住まないか?」
「あなた、やっぱり、おかしい」
「・・・・」
「でも、慣れた」
ジュリアはさとるに大事な話があった。彼女はサングラスを外して、さとるの目をじっと見てから言った。
「お父さん、お母さん、元気?」
「たぶんね」
「どこ、いる?」
「名古屋」
「なごや、どこ?」
「東京と大阪のあいだ」
「・・・・・」
「どうしたの? 今日はなにかあるの?」
「・・・いままで、わたし、男みたい、働いた。でも幸せ、ない。ずっと、待ってた。あなた、どうするか」
「・・・・・」
「ディスコで言たこと、うそだた? いっしょになりたい、言た。いっしょになりたいは、けこんのこと」
「・・・・・」
「あのとき、酔っ払いだた? おこたえください」
「少しはお酒飲んでたけど」
「わたし、ホステス、やめたい。となりのおみせ、けいさつ、きた」
「バイトのおれでいいのかな?」
さとるが逃げ腰でそう言うと、ジュリアは深くため息をついた。
「バイトだしなぁ・・・稼ぎも足らないし・・・いろいろ大変だよ・・・うん」
「・・・・」
「しばらく今のままでいいんじゃない?」
さとるがそう言うと、
「いいわー!」
 とジュリアは声をはりあげた。少し前までカラスを追いかけ走り回り、今度は大声を出すので、グラウンドの野球部員たちはボール回しを止めてしまい、なにがいいわ? とばかりに、ふたりの方を見るのだった。
「なにがいいの?」
「日本人、言うでしょ?」
「あぁ、もー、いいわのことか」 
「わたし、つかれた。オーバー・ステイ、地獄、いるみたい」
ジュリアは言った。


ベンチの上で羽根を休めていたカラスはどこかへ飛び去り、初めて外国人を見たといった顔をしていたホームレスのおじさんもいなくなっていた。
虚無感一杯のジュリアは転がっていたサッカーボールをじっと見つめ、走り出し、ビーチサンダルでボールを蹴り上げた。しかし、足は空気の抜けたボールにかすっただけで、ボールは彼女の真横に弱々しくコロコロ転がっていった。赤いビーチサンダルが、ボールの代わりに空に飛んで行った。
「ゴル」
ジュリアはあらぬ方向に転がるボールを見つめて言った。とにかく、ゴールなのだった。それから、片足でぴょんぴょん飛んで、ビーチサンダルを取りに行った。
「あぱと、帰りましょ」
ジュリアの一言でアパートに帰ることになった。歩き始めると、さとるは訊いた。
「おれ、ロシアで働くと、一ヶ月いくらくらいだろうね?」
ジュリアはしばらくして答えた。
「四万」
「・・・だめだなぁ。カード・ローン、返せん」
さとるが小さくつぶやくと、地獄耳のジュリアは、ロシアのプライドを傷つけられ、さとるに向かって両拳が下向きの妙なファイティング・ポーズを取った。変なポーズと、さとるが笑うと、ジュリアはふくれっ面して言った。
「なに? ヒヒハハ」
 ジュリアは無邪気な魅力があった。
「ごめん、ごめん。ジュリアってさ、この頃、日本語もすごくなってきてるよね。地獄とか連邦とか言うし」
「わたし、電車、なか、べんきょうする。どりょくない、しょうらい、ない」
「・・・・・・・」
「・・・でもなぁ、ほんとに毎日働いて、四万?」
「わたしの友達、ナース、五万」
「ドクターは?」
「十万。でも、賄賂、百万」
そう言ってジュリアはお尻を振ってどんどん歩いていった。
芝生の坂をのぼり、土手沿いの道路まで来ると、どの車も何かを避けるようように、ふたりの前を通り過ぎて行った。
道路に猫が横たわっていた。車に轢かれたのだ。
ジュリアは猫に近づいていった。三毛猫は、とがった歯が不気味に見える口と両目が開いたままで、生きていないのがわかった。道路にも赤い血がついていて、このまま道路に横たわっていれば、また轢かれかねない状況だった。
ジュリアは胸の前で十字を切ると、猫の首と背中を両手の親指と人差し指でつまんで持ちあげた。そして、土手の下まで猫を運び、地面に横たえた。彼女はロシアの実家におでぶちゃんの猫がいたので、扱いには慣れていた。さとるも猫の背中あたりを触ってみた。生きている猫と同じくらいの温かさで、轢かれてからほとんど時間が経っていないように思えた。三歳から五歳くらいの猫のようだった。ジュリアは言った。
「そうしゅき、するです」
 草を少しむしり、土をむき出し、穴を掘り、亡骸を埋めるしかなかった。猫の前でしゃがみこむ、さとるに向かって、ジュリアは目を大きくして、スコップで土を掘り起こすジェスチャーを二回、三回と繰り返した。レタスやトマトを植えた時に買ったスコップがアパートにあったので、さとるは取りに戻った。
十分くらいでジュリアと猫のもとに帰ってくると、人が歩かなさそうな場所の草むしりが終わっていて、土が露出していた。さとるはそこをスコップで掘り、猫を入れてみた。穴がまだ小さかった。もっと大きく掘ると、なんとか猫座りが崩れるような感じで横たえることができた。草を亡骸の上にちりばめ、土を十分にかけて、さとるは手を合わせた。
ジュリアも真似をして、胸の前で手を合わせた。
今、世界が闇ならば、ぼくらが「光」になればいい。ぼくらがこの世界にいる時は、ぼくらは世界の光なのだ。たとえ、小さなことでも。ジュリアを見ていて、さとるはそんな言葉を思い出した。