9 | (タイトルはいろいろありまして言えないのです)

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人がやっとすれ違える狭い歩道を赤い自転車で走るのは歩行者にとても迷惑なので、さとるは交通量の多い車道を走らざるをえなかった。車道では心拍数が上がった。郵便物が自転車の前のカバンと後ろのボックスにぎっしりと重く、バランスがとりにくく、バスに引っかけられたら終わりだった。
午後の配達が終わり、郵便局に帰ると、なんだかんだと松本にからまれたので、さとるは数人の男たちが大画面のテレビを見ている社員食堂に逃げ込み、時間をつぶした。
夕方、アパートに帰る道の交差点、さとるは原付バイクにまたがり、信号待ちをしていた。年上のアルバイトをどうしても隷属させたいのか、いつも絡んできて、一言、余計なんだよ・・・あの野郎と松本を呪っていると、さとるの背後に車がゆっくりと近づいた。赤信号を見た運転手は少しずつブレーキをかけていたが、携帯電話の話に気を取られ、そのまま原付バイクに追突した。さとるは十メートルほど宙を飛び、道路に転がった。

「大丈夫ですか?」
背広姿の男が倒れていたさとるの顔を覗き込みんだ。もうひとり、年配の男も心配して走ってきた。さとるは動転していたが、身体に耐えられないほどの痛みはなかった。
「大丈夫です・・・」
それから、道路に寝転ぶさとるは少し遠くの車から、人が走ってくるのをぼんやりと見ていた。腰を押さえて、立ち上がると、後部が破損した原付バイクが道端に転がっていた。
「大丈夫ですか?」
車から走ってきた男は動揺していた。
「なんでぶつかるんだよ・・・」
さとるも動転していて、答えようのないことしか言えなかった。
黒いスーツの中年男は、慌ててさとるに名刺を差し出すと、お金を払うから内密にできないか? そんなことを動揺しながら言った。お金。もらった名刺に書いてあった企業名は新聞の書籍広告で見たことがあった。男はコンサルティング会社の幹部のようだった。さとるは腰が痛かったが、一生懸命考えた。お金での解決。ノー・プロブレムだった。
「じぁ、百万、もらえるなら・・・」
「・・・」
「八十万」
「・・・」
「六十万」
「高いですよ」
「そっかな?」
「高い!」
「四十万!」
「三十・・・」
「いいですよ」
「本当にいいの?」
男は言った。
「いいって言ってるじゃないすか・・・医者もそれで行ってくださいね」
「・・・はい」
「じゃ、名刺返してください」
「えっ?」
返す? 名刺、返したら連絡できないんじゃないの? 証拠隠滅でとんずらじゃん? 名刺は返したらあかん・・・そんな天の声が心が聞こえ、どうしようと思っていると男は名刺を諦め、出張があるから二週間後に連絡してくれと言い残し、あと数百メートルでその男の自宅があると言っていた方向に動転しっぱなしで、高級車に違いない威厳のある黒い車を走らせ去って行った。

一歩、間違えば今頃、届ける郵便もないのに、あの世地区に旅立っていたのを、目に見えない何かが守ってくれたのかもしれない。アパートに帰り、内出血した肘、膝、擦りむいた傷を見つめ、さとるは思った。

二週間も待つのは愚かだという声が翌日、心の中で響いた。もっと強気にお金を請求してもよかったのかもしれない。翌々日に、さとるは犯罪者になったような気持ちで名刺の連絡先に電話した。電話はすぐつながり、秘書らしき女性が、その男はアメリカの大統領選挙の準備でニューヨークに出張していると言った。

アメリカ大統領選挙! 思ったより全然、大物!

さとるは使い物にならなくなった原付バイクの買い替え分の請求を忘れていたことにふと気づいた。よって、示談金、十万円の追加請求のため、男の秘書にもう一度電話した。
「先ほど電話したものですが、わたしの原付が使い物にならなくなってですね・・・新車で弁償してほしいところですが、中古で我慢しますので、プラス十万円になりましたとアメリカにお伝えくださいませ」
と言い、電話を切った。すると、その日のうちに、男の弁護士からさとるに電話がかかった。
「三十万って話じゃなかったんですか?」
「・・・原付のこと、忘れてたんです。新品が欲しいなんて言ってません。謙虚に中古でいいって言ってます。・・・ひじも痛いし、膝も痛い」
「・・・・・」
電話が終わると、じっと話を聞いていたジュリアが言った。
「だれですか?」
「郵便局の人」

渋谷にある中級ホテルの喫茶コーナー。
「これ以上は一切出せないですからね。わかりましたね?」
「はい」
紺色のスーツを着た弁護士の指示通り、テーブルの上の法的な書類に印鑑を押すと、さとるは四十万円を現金で受け取った。そのお金でジュリアがロシアに帰ることもでき、日本でもしばらく働けるビザつきのパスポートが買えたが、なんとしてでも、消費者金融と縁を切る方向に向かいたかったので、医者にもいかず、原付バイクも買い替えることなく、さっそく消費者金融の借金を返しに行った。すっきり。幸せ。

さとるがジュリアに事の顛末と、お金を借金返済に充てたことを話すと、不法滞在の身分から脱出できるパスポートを買ってほしかったジュリアは悲しげに数秒、さとるを見つめ、誰かに電話した。
「誰と話すの?」
「ママ」
ジュリアは出会った時の約束を守りそうもない男とこれからどうしたらいいのか、ロシアのママとしばらく深刻そうに話していた。ジュリアが電話を終えると、さとるは言った。
「もう少ししたら、パスポート、頑張るよ」
「いま、できない。あとで、できない」
「・・・・・」
「ママ、会いたい。ロシア、帰りたい。すごいホームシック」

翌日、さとるはキッチンでロシアについての本を読んでいた。ロシアは西欧社会と比べると、他の人種への差別意識がまだまだ残っていると書いてあった。ロシアに行ったら、ぼくは差別されたり、ひどい目にあうのか? 彼がショックを受けていると、トート・バックを持ったジュリアは畳の部屋から出てきて言った。
「さよなら」 
「えぇ? どこ行くの? こんな時間に」
 ジュリアは無言で靴を履き、外へ出ていった。家出のつもりだった。
さとるは急いで、ジュリアの部屋を見に行った。部屋のあちこちに彼女の私物があったので、また、戻ってくるだろうと思った。動くと身体も痛かったので、彼女を追いかけず、ジュリアの布団に包まり、読みかけのロシアの本を読み始めた。
本によるとロシアの犯罪件数は日本より断然多く、野良猫も凍死する極寒の冬には、マイナス三十度にもなり、素手で屋外の手すりを触ると、人の皮膚がはがれ、目はちかちかして、涙もボロボロ出るらしかった。・・・怖い。誰にとっても環境や言葉が違う外国で働くことは大変だ。ジュリアは親に仕送りさえしている。ぼくにそんなことができるだろうか?
それから、寝落ちしてしまったさとるは、隣のマンションの部屋に閉じ込められた子犬のうるさい鳴き声で、夜中に目を覚ました。ジュリアが部屋に戻っていた。キッチンの椅子に座り、缶ビールを飲んでいた。
「ごめんね」
さとるは布団の中からジュリアに声をかけたが、彼女は無言でベッドに入っていった。布団もベッドもジュリアが優先して使えることは暗黙の掟だった。

原付バイクの事故以来、夕方にさとるが仕事から戻っても、ジュリアはもう、部屋にいなくて、歩いて駅に向かった。そして、翌朝、七時になっても戻ってこなくなった。
嫌な予感。ジュリアも事故に遭うような、もう、帰ってこないような不安を感じて、さとるは駅に向かった。朝のジュリアは各駅停車に乗り、新丸子駅で下車するのだ。

新丸子駅。
背中を向けた通勤客が改札に吸い込まれ、次々にエスカレーターに足をかけていく風景をさとるがぼんやり見ていると、エスカレーターの横の階段をジュリアが歩いて降りてきた。
あっ、生きてた。手を振ると改札から出てきたジュリアが言った。
「なにしてる?」
「待ってた。いつもより遅いから」
「心配ですか?」
「心配・・・」
疲れた顔のジュリアは小さくうなずいた。なにも話すことなく、ふたりはアパートに向かって歩いた。重い空気の中、ジュリアはコンビニに入って行った。彼女はスポーツ新聞だけ買って外で待っていたさとるに親子丼とシーザーサラダが入った袋を渡した。ジュリアがさとるのためにお金を使った初めてのものだった。彼は部屋の冷蔵庫の中を知っていた。ジュリアの顔パック用の輪切りに切られたきゅうりがあるだけで空っぽのはずだった。
「よし! 寿司でも食べに行くか! 次の次の日曜日にしよう」
 やっぱり、彼女を幸せな気分にしてあげたいのだった。

次の次の日曜日がやってきた。
夕方、ジュリアはさとるを店の女の子たちがよく行く美味しくて、リーズナブルな錦糸町の寿司屋に連れていった。ジュリアは日ごろの我慢が爆発したように注文した。
「これ、ほしいです」
「まぐろね」
「これ」
「サーモンね・・・」
「・・・これ、これ、これ・・・お願いしまーす」
「・・・ぼくも同じのお願いします」
「わたし、おあさぁり、スープ、すきです」
「おあさぁり?」
「おあさぁり!」
「あさりのこと?」
「ちがう! おあさぁり!」
 おあさぁり??? おいしい外食のお店を知らないさとるは大あさりを知らなかった。お店の人に、
「そういうもの、ありますか?」と訊いてみると、メニューにないとのことだったが、
「おあさぁり・スープ、お願いしまーす!」
と彼女がおあさぁりに燃えていたので、特別に、あさりのスープを作ってもらえることになった。

ふたりは百円の寿司をどんどん注文し、ぱくぱく食べた。さとるはビールを飲みながら寿司を食べていたが、ビールが勢いあまってこぼれて、数滴、彼のズボンに落ちた。ジュリアは不幸そうな顔でズボンを見て言った。
「汚れた・・・」
「・・・おれを汚いみたいにいうけどさぁ、ジュリアだって、おならするでしょ?」
「しない。トイレだけ」
ジュリアはバイク事故で得たお金でパスポートも買ってもらえず、心はまだ癒えてなかった。
彼女は席を立ち、トイレに行き、しばらくして戻ってきた。
「わすれたぁ!」
と再びトイレにUターン。忘れた自分の化粧ポーチを手にして、また戻ってきた。そして、ポーチの中をガサガサとチェックした。
「リップスティク、ない・・・」
「・・・・・」
食事も終わり、錦糸町の北口駅前の道を歩いていると、ジュリアは言った。
「わたしのこと、愛してるですか?」
「・・・うん」
「なに? うん」
「はい」
 さとるが言いなおすと、ジュリアは言った。
「お台場公園、いくです」
「今?」
「はい」
ジュリアはロマンチックな場所に行きたかった。さとるはもうアパートに帰りたかったが、結局、彼女に手を引っ張られ、地下鉄、錦糸町駅の階段を引きずられるように降りて行くしかなかった。
「ほんとにお台場、行くの? もう公園、終わってるんじゃない?」
「終わてないよ。お店の女の子、いうです。夜の海、きれい。行くです」
 さとるは改札の駅員に、
「お台場の夜景がきれいで、ロマンチックらしい公園って、なんという駅で降りればいいんですか?」
とデートスポットの駅を訊いてみた。しかし、二十代の駅員もさとる同様、デートスポットに疎くて、知らなかった。だいたい、さとるはお台場というところに行ったことがなかった。

夜の十時を過ぎていた。さとるは地下鉄の改札から、またジュリアに引きずられて、地上に戻った。ジュリアは夜道を走っていたタクシーを、無言で指差した。
結局、タクシーでお台場に行くことになった。
走り出したタクシーの中で、運転手にお台場までの料金を訊くと、結構、かかりますよと、予想のつきそうなことを言った。
「ロマンチックな海の見える公園に行きたいみたいで、お台場らしいんですが、近場で代わりになるようなところないですか?」
「晴海とかどうですか?」
「あ! それでいい! お台場に夜、行って、帰りのタクシー、つかまらなかったら大変だ。そういう可能性もありますよね?」
「ありますね」
「晴海でいいです」
 晴海もロマンチックかもしれないのだ。これで少し節約。
ジュリアは不気味に沈黙していた。三十分くらいたっただろうか、海岸方面に立ち並ぶ高層マンション、海らしき空間、その海につながる川が見えた。十分、ロマンチックじゃないか? タクシーのナビには、なんとか公園と表示されていた。
よし、これでいこう! さとるはメーターがどんどん上がるタクシーから降りたくて仕方がなかった。
「もうこの辺でいいです」
ジュリアはロシア語でぶつぶつ言いながら、最後に、
「ディスコのうそつき」
と後部座席でつぶやいた。さとるは聞き逃さなかった。タクシーを降りると、ジュリアは憂鬱そうに歩道に突っ立ったままだった。さとるが歩いてもジュリアはついて来なかったので、ジュリアの元に戻り、
「まだ、嘘つきかどうかわからないでしょ?」
と夜道で切れかかると、ジュリアも言った。
「あなた、いうだけ。にげる、じんせい」
「・・・・・」
「わたし、だまされたかもです」
「・・・・・」
「こうえん、どこ?」
「ここ、公園、ある」
 歩いていると、コンビニがあったので、ふたりともトイレを借りて、夜勤の店員に、ナビに存在した公園の場所を訊いたら、
「小さい公園ですよ」
と言われた。
店の裏手にあるらしかった。
ふたりは行ってみたが、結局、柵に鍵がかかっていて、中に入れなかった。
晴海という所に行くとしても、まだまだ先のようだった。
「おなか、へった」
ジュリアはそう言い、むっとしたまま、夜道で動こうとしないので、さとるは再びコンビニに戻り、このあたりにレストランはないかと訊くと、サイゼリアが少し歩くと、ビルの中にあると教えられた。
今まで来たこともない、がらんとした夜の町を、ふたりはサイゼリアを求め、あちこち歩いたが、サイゼリアのあるらしいビルさえ、わからなかった。


「お台場公園に行けばよかったね。ケチって悪かったよ」
「・・・・」
「ジュリアにプレゼント買う。なに、欲しい? ネックレス?」
「リング」
「ブルー・サファイア?」
「ダイヤモンド」
「・・・とにかく指輪にしよう」

大きな通りに出ると、タクシーが走っていた。よかった。全く見当がつかない場所から脱出するには、タクシーしかなかった。
さとるはタクシーに向かって手を振った。六本木が案外、近い気がした。おそらく六本木に向かうのが、一番わかりやすいだろうと思った。運転手さんに訊くと、少し乗るだけで着くとのことだった。
タクシーの中で、ジュリアは、
「あたぁ!」
と声を出した。
「何があったの?」
「リップスティク」
六本木に着くと、ジュリアは交差点近くにロシア料理店を目ざとく見つけた。
特別、美味しくもない、量の少ないロシア料理にまた一万円を使い、さとるは意気消沈した。それから、ふたりは、終電間近の地下鉄などを乗り継いで、新丸子に帰った。

翌日の夜。
いろいろうまくいかなかったが、さとるは指輪で挽回しようと思い、ネットで調べてみた。さとるは女の人に指輪を買った経験がなかったので、よくわからなかった。ダイヤモンドはやはり高価で、ピンク・ゴールドというのが手ごろな値段だった。
アパートから仕事中のジュリアに、携帯でメールしてみた。
「ダイヤモンド、いまは、むり。ピンク・ゴールドでOK?」
と尋ねると、
「ピンク、すきじゃない。しろ。ホワイト・ゴールド、すき。サイズ11。ブランド、かんけいない」
 ブランドはどうでもいいんだね。よしよし。

その週、さとるは仕事帰りにイトーヨーカドーに行った。高くない指輪をひとつ買うつもりだった。手ごろな値段なのに、高価にも見える、シンプルな指輪があった。ガラスケースから出してもらった指輪を携帯で写真を撮り、その写真を添付してジュリアにメールした。
「これでOKかな?」
と訊いてみると、
「きれい」
と返信が来た。ジュリアが仕事を終えて帰ってきた時に、小さな箱に入った指輪を渡したら、すぐに箱を開け、左手の薬指につけた。ジュリアは目を輝かせ、上機嫌で、さとるにキスした。その晩はさとるにも久しぶりにいいことがあった。

翌日、ジュリアはさとるの仕事の昼休みに電話した。
「あなた、いろいろ、がんばらないね」
「どうしたの? どうしたの? なにかあったの?」
彼女は何も答えず、電話は切れた。さとるは失敗していた。ジュリアに渡した紙袋の中に、ケースとともに指輪の保証書が入っていて、「イトーヨーカドー」と印字されていた。婚約指輪のつもりではなかった。まだ、本気の指輪を買うつもりはなく、そんな余裕もなかった。彼女の気分を一時的によくしたかっただけだった。さとるは安い指輪ゆえ、その保証書はいらないと女性店員に主張したが、なにかあった時のため、絶対あった方がいいと女性店員が言い張ったので、不本意ながら従ったのだ。
ジュリアはさとるから指輪を貰ったと、すでに佐々木から五十万円相当の指輪を貰っていたカーチャに電話で報告した。そして、ふたりはイトーヨーカドーに指輪の値段をチェックしに行った。指輪が一万二千円というのが一日でばれて、さとるの状況は悪化した。

数日後、ジュリアはトート・バッグから高価そうな携帯電話を取り出し、これ見よがしに充電し始めた。
「なにそれ?」
「アイ・フォーン」
「・・・・・」
アイ・フォーンには、ご丁寧に皮のカバーケースまでついていた。
「もらたー。うりしー」
ジュリアはさとるの目の前で、また、これ見よがしに、タッチパネルで遊び始めた。
「誰にもらったの?」
「コジンジョーホー」
「・・・・・」
プリペイド・カードのアイ・フォーンなんてないはず。お客さんか誰かの身分証明で契約して、渡されたに決まってる。男は下心があって、プレゼントしたはずで、何かでお返しするのが普通だ。さとるはアイ・フォーンに関わる人たちの陰謀が許せなかった。
「なんか、すごく嫌らしい。そんな携帯二台、持ってる女いない」
「いるいる」
「・・・・」
「古い携帯、ロシアとメール、ダメです。ママのこと、わからない」
「・・・・・」
「これ、ロシアにメール、できるです。ロシア語、キーボード。ママ、れんらく、やったです」
「十万はするはず」
「・・・・・・」
「明日、同伴ある?」
「ありまーす」
その言葉を聞いた瞬間、さとるはジュリアがアイ・フォーンを渡した男とエッチしている妄想にかられた。その男とは、少なくともお台場くらい、一緒に行っとるな・・・。
「誰かいるんじゃないか?」
「・・・・・」
「もうエッチした?」
「オー・マイ・ガー。あなた、しばくです」
「・・・・・」
「誘われる、あるけど、レッド・デイ(生理)、ペイン・イン・マイ・ストマック(胃に痛みがある)いって、おことわりです」
「ほんとか? でも、一回は同伴でホテル行ったことあるでしょ?」
「でたでた、あなたの病気」
「その人、好きならその人と住めばいい」
「・・・いない。そゆう人。・・・わたし、まごころ」
「・・・・・」

たくさんの野良犬に手や足を噛みつかれる夢。人が誰もいない町で立ちつくし、どこに行ったらいいのかわからなくなる夢。さとるは暗い夢をよく見るようになっていた。彼は派遣社員だった頃のよくない精神状態に戻っていて、自分を殺しつつ、頑張ることをまた、受け入れられなくなってきていた。女の頼みをきき、サポートしてあげるのが愛で、頑張って働き続ければ、よい方向に行くはずだったが、さとるは女のために自分を犠牲にして、お金を稼ぐという気持ちを何年も持ち続けられない男なのかもしれなかった。出勤の憂鬱さから、また、お酒を飲むようになり、小さな作文を作っていた頃に戻りたくなった。ジュリアに文句が多くなった時もあり、それは八つ当たりだった。悲しそうに我慢していた彼女を見て、自分みたいな変わり者はひとりで生きた方がいいと思ったりした。バイク事故の示談金のおかげで、カード・ローンは減ったが、生身の女と暮らしていれば、どうしてもお金がいるし、ローンが膨らんでいくのは当たり前だった。

「おれ、これからひとりの生活に戻る」
さとるはいつのまにかジュリアにそう言い放っていた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「ひとり?」
「ジュリアは貯金もある。カーチャもいる。カーチャと一緒に暮らしたっていい」
「・・・・・」
 彼女は暗く沈んだ声で言った。
「アイ・フォーン、返しましょ。いらないし」
「・・・・・」
「ほんと?」
「それしかないと思う」
「メモ、やりたい?」
「それより、借金、なんとかしないと」
「・・・・・」
「愛もほしい、夢もほしいは無理」
「・・・・・」
「寂しいから、ジュリアを利用してるのかも」
「・・・・・」
「おれ、いなくなったら、どうする?」
「選ぶ、できない」
ジュリアは消え入るような声で言った。
「仕事、ずっとするしかない」
彼女の現実がさとるの胸にずしんときた。ジュリアに刺さった棘も抜いてあげたかったが、自分に刺さった棘も抜きたかった。本当につまらない棘だったが、カード・ローンは自分でなんとかしなければならなかった。
「東京から出る」
「・・・・・」
「アパートの契約も終わらせる」
「・・・・・」
ジュリアはぐすぐすと泣き始めた。
「おれ、ジュリア、好きだよ。借金づけのダメなやつでも一緒にいてくれたんだから」
「好きでも終わり?」
「・・・・・」

ベッドの中でもジュリアは泣いていた。すっかり朝になっていた。部屋の小窓から見えるアパート前の駐車場では、出勤のため、誰かの車のエンジンがかかっていた。