6 | (タイトルはいろいろありまして言えないのです)

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ジュリアはクラブでさとるが言った、「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」という言葉を決して忘れてはいなかった。さとるがジュリアにふざけて抱きつこうとすると、彼女は両拳が下向きの妙な構えのファイティング・ポーズを取って、女の真剣さを見せた。人をぶったこともなければ喧嘩したこともないようなポーズに、さとるが笑うと、
「なに、ヒヒハハ」
とジュリアは彼のお腹に変なパンチを一発くりだした。
「おれ、ヒヒハハなんて笑わない」
「あなた、ヒヒヒ、ハハハ」
また、「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」との言葉に、ふたりの現実が近づくまで、彼女がキッチンのセミダブルベッドで寝て、彼は隣の畳部屋の布団で寝ることになっていた。ジュリアは毎日の勤労で疲れているからか、布団から足裏だけ覗かせ、身体をねじるように寝ていた。昼過ぎに起き、食事をすませると、長い時間、風呂に閉じこもった。こないだ、さとるが、「お願いしまーす」と、少しだけ風呂の扉を開けようとしたら、本気で怒ったし、彼は風呂の方をちらちら見ながら、女って、一時間もお風呂で何をしてるんだろう? と不思議で仕方なかった。そのうち、彼女は風呂から出てきた。
「一時間もお風呂でなにしてるの?」
「女のメンテナンス、いろいろある!」
「はい。わかりました」
「日本の女の子、どして、ほそい?」
「???」
ジュリアは自分の骨太のぽっちゃり体形と日本人女性のスリムな体形を比較し、ロシアとは違う美の基準にショックを受け、とにかく痩せようとしていた。
さとるが二人分のスパゲティを作っても、
「ドント・ウォント(ほしくない)。わたし、小麦、食べたくない」
と言い、彼女が冷蔵庫の中で食べられるものは、サラダくらいで、レトルトの海老チリやカレー、まぐろ缶詰などは、自然のものを食べるのが当たり前のロシア人には毒に見えた。彼女はそれらに手をつけることもなく、小食だった。また、ジュリアは部屋においてもらう以外で、「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」を邪魔するような借りを彼に作ってはいけないと思っていた。

さとるには、すっぴんの女の人が化粧で変わるのは興味深かった。彼女は使い込まれた絵の具箱のようなプラスチック製の化粧箱をひっくり返し、まだ使える化粧品を探し、顔に数色塗り、なんとなく化けた。彼はわざわざ時間をかけ不自然できつい顔をつくる女を観察しつつ、訊いてみた。
「ちょっと、すいませんけど・・・ホステスの仕事って、結構、疲れますか? お金もいいし、楽そうにも見えたけど・・・」
お化粧中の女王様は教えてくれた。
「気、使う。脳みそ、使う。サイコロジー(心理)、考える。趣味、なに? とか、イマジネーション、いる。あと、忙しい。あちこち行く」

夕方、さとるは出勤の準備が整ったジュリアをカッターナイフの悪戯で座席がボロボロになった原付バイクの後ろに乗せ、近くの新丸子駅より大きくて便利な武蔵小杉駅が見えるところまで送ることになっていた。
ジュリアは赤いセーターとベージュのズボンに紺色のダウン・ジャケットという通勤服になり、スニーカーを履くと、自分用のバイクのヘルメットをかぶり、
「わたし、スーパーウーマン。あなた、悪いエイリアン」
と無邪気だった。
「悪いエイリアンはレプテリアン。でも、いいエイリアンもいるらしい。人間を守ってくれる家族みたいなんだってさ」
さとるは陰謀論者として一応、彼女に言っておきたかった。
「はいはい」
彼女はさらっと受け流した。それより彼女は原付バイクに再挑戦したかった。以前、さとるがエンジン音は聞こえていたが、原付バイクに跨る彼女を見ていなかった時があった。すぐ悲鳴が聞こえた。彼が走って見に行くと、彼女は原付バイクに足を挟まれ、道に倒れていた。腕の骨にひびが入ったと大騒ぎしたが、そんなこともなかった。それにもめげず、今日も彼女は原付バイクに跨り、エンジンをふかし、アパート前の道をよろよろと前進していた。しかし、彼女は思い切りが悪いので、スピードに乗れず、止まるしかなかった。それでも、諦めなければ、公道を原付バイクで突っ走るジュリアが見られる日が来るのかもしれなかった。
さとるはジュリアの出勤まで時間がある時には、彼女を原付バイクの後ろに乗せて新丸子の町を一周したりした。ふたりには楽しい時間だった。ちょっとしたルールを破るのは快感だったし、彼女も喜んだ。
六時半。さとるはジュリアを原付バイクの後部に乗せて走り出した。彼女が、
「はやくー。ちこくー」
と叫ぶなか、十分くらい走り、新丸子の商店街を通り抜け、武蔵小杉駅がかろうじて見える場所まで行くと、駅前の交番も見え、交番の前にはたいてい警察官が立っていた。原付バイクの二人乗りはまずいのでこれ以上は危険ということで、いつもそこで後部座席からジュリアを降ろした。
「パカ」 
彼女はそう言って駅に向かった。こうして毎日、ジュリアは店のある錦糸町まで出勤した。彼はすでにパカはバカという意味ではなく、またすぐ会おうね、という意味なのを学習していた。スパスィーバ(ありがとう)、ダー(はい)、ニェット(いいえ)、ザナス(乾杯)、ダバイ(OK)、ルブル(アイ・ラブ・ユー)。このくらいのロシア語は覚えていた。 
彼女も片言の日本語と勉強中の英語で、お客さんに話しかけ仕事をした。仕事が終わると、彼女は、まだ夜の明けていない真っ暗な東京で始発の電車を乗り換え、新丸子に帰ってきた。朝の新丸子駅から出勤途中のサラリーマンやOLとすれ違いながら、彼女は左に曲がり、まっすぐ歩いて、右に曲がり、アパートに戻ってきた。ジュリアにとって物価の高い東京で、サービス付き、無料の宿はさとるのアパートしかなく、安心できる場所でもあった。

「おかえり」
「つかれたです。たくさん歩いた」
ジュリアはそう言うと、玄関にスニーカーをとりに行き、洗濯機に放り込み、スイッチを押した。しばらくして、靴のひもがどこかに引っかかったのか、洗濯機がものすごい音を立て止まった。彼女は部分的にでも布がついているものなら何でも、日本製エレクトロニクスに入れれば、首尾よくきれいにしてくれると信じていた。彼女は蓋、キャップ類とも相性が良くなかった。化粧品の蓋が閉まらない時は、力ずくで新しい溝を作って閉めた。腕力はあった。網戸も開けようとすると必ず外した。彼女はなんで、いつもこうなる? という顔をして、力、入れすぎなんだよと思いつつ、網戸を元通りにする、さとるを見ていた。広大な大陸育ちの彼女に微妙な力の調整とかを望んではいけないようだった。
この性格はBかOか。さとるが手首を切るジェスチャーをしながら、彼女に尋ねたことがあった。
「ジュリア、血液型なに?」
「赤」
「惜しいけど、ちがう・・・・血の種類」
「? ? ? ? もっとわからない」
「あなた、A? B? O? AB?」
「あぁ。日本人、よく言う」
彼女は血液型より星座が人の性格に影響すると主張した。
「わたし、アクエリアス(水瓶座)。あなたは?」
マドモアゼル愛さんのユー・チューブが好きなさとるは、占星術が日本で広まらないのも陰謀に違いないと思うのだった。
「ふたご座」


春が近づく、ある日曜日だった。さとるはジュリアの秘密を知ることになった。彼女は毎日、二十五万円分の全財産を布製のトート・バックに入れて電車通勤していた。安く見えるバックゆえ、かえって安全かもしれなかったが、それでも、さとるはそんな大金が連日連夜、東京のあちこちに連れまわされていることが信じられなかった。
「そのお金、見せてよ。お金の安全、安心のため」
彼女は畳の上でトート・バックから、ピンク色の大きな財布を取り出した。さとるが初めて見る財布の中には、多くの千円札、五千円札、一万円札、ドル札、そして、ロシアのお金らしき紙幣が入っていた。ジュリアが毎月、二万五千円平均で貯めてきたお金だった。さとるはこつこつ貯金する意志の強さと羨ましさを彼女に感じ、動揺した。
「大金だよ。わかるよね? ビッグ・マネー。仕事のあと、疲れてる」
「・・・・・・」
「電車、ねむーい。悪い人、かばん、チュっと持ってく。東京、悪い人、いっぱい。ぼくが責任もってあずかる。電車はまずい」
「・・・・・・」
「お金は、日本では、銀行にあずける」
「わかってる。わたし、ばーか、じゃない」
「じゃ、銀行、行こか」
「わたし、銀行、信じない。貯金、出せなくなる」
「出せるよ」
「あなた、知らない。前、ルーブル、紙のゴミになった。カバンの貯金、悪くない」
さとるは自国の銀行に裏切られた経験のない日本人なのだった。
「この部屋に置いとけば?」
「あなた、借金ある」
ジュリアはそう言うと、ゆっくり立ち上がり、カーテンを開け、窓から外を眺め、大きく呼吸して、さとるの前に正座した。
「わたし、ひみつ、ある」
「なに?」
彼女はこの日本人をどこまで信用していいのか? とばかり、さとるの顔をじっと見るので、さとるも正座した。彼女は言った。
「わたし、オーバー・ステイ」
「?」
「これ、パスポート」
ジュリアはトート・バックからパスポートを取り出し、さとるに渡した。パスポートには、上目づかいで口をすぼめた短髪のジュリアの写真があり、ロシアのアルファベット表記とともに、YULIYA・LEBEDEVAと印刷されていた。彼女のビザの有効期限は切れていた。彼女が銀行口座を持とうとせず、奇跡の移動トート・バック預金を続けていたのは、在留カードがなかったからだった。
「これ、なに? なんと読む?」
「レベデバ」
「レベデバ、意味とかある?」
「スワン(白鳥)」
「スワンが、なんで、オーバー・ステイなったの?」
「お母さん、手術だから、お金いる」
「・・・・・・」
「わたし、お母さん、大事。たくさん勉強、教えてくれた」
「・・・・・」
「でも、お父さん、死んだあと、お母さん、身体、悪くなった」
「・・・・・」
「ビザ終わたら、ロシア帰る、思ってた。でも、お母さん、また、手術いる。お金いる。オーバー・ステイしかなかった」
「お母さん、どんな人?」
「いつも本、読んでる。サイエンスの女。レニングラードの大学行った。お父さんと同じクラス。卒業した。結婚した。でも、(ソ)連邦の時だった。自由ない。どこ、働きたい、選べない。みんなそう。国、どこ、働く、決めた。小さい村、なっちゃう、ある。お父さん、ウズベキスタン、行きなさい、言われた。タシュケント。わたし、生まれた」
「お父さん、なにやってた?」
「エンジニア」
「何のエンジニア?」
「ハイドロ・ポンプ」
「???」
「お父さん、生まれて、一回も海、見たことなかった。オレンブルグ、生まれたから」
「オレンブルグってどのへん?」
「ウラル山の南」
「で、海、見てないとか・・・どうなったの?」
「お父さん、海、見たことないから、見たかった。わたしたち、ウラジオストク、街、見ないで、引っ越した。(ソ)連邦の時、あちこち、行けなかった。アパート、マンション、売る、買うもできなかった。今と違う」
「へー。で?」
「私たち、新聞、調べた。いいアパート、見つけた。電話と手紙で、ウラジオストクにいた家族と話した。タシュケントのアパート、ウラジオストクのアパート、同じサイズだった。私たち、交換した。ウラジオストクの家族も冬、すごい寒いから引っ越ししたかった。どっちもよかった。わたし、十一歳の時、(ソ)連邦、なくなった」
「お父さん、普通の人みたい。なんでエンジニアなのに、ミリタリーの仕事になった?」
「いろいろコネクションある。お父さん、ウクライナの後、頭、おかしくなた。お母さんの家、帰った。お母さん、すごいショック」
「・・・・・」
「お母さんはどこが悪いの?」
「心臓」
「・・・・・」
「一回、手術した。もう一回。血、流れるところ。掃除。髪の毛より薄い。ワイヤーいれる。心臓、四つ、バルブある。一つ、詰まった。手術しないといけない。カテーテル」
「・・・・・」
ソ連邦時代は医療費が無料だったが、今は手術で四十万円程、必要とのことで、ロシアの医療レベルは、低くはないが、大病院はお金次第らしく、外国で手術を受けるお金持ちもいると彼女は言うのだった。
さとるは今まで、さっとお金を用意できたためしがなかったので、解決策はジュリアのトート・バックの中で毎日、安らぐことのない二十五万円を銀行口座に預けることしか思い浮かばなかった。


月末、銀行のATM前にできた列に、ジュリアとさとるは並んでいた。
「8810。カードの秘密の番号。この口座、ジュリアが使えばいい。オッケー?」
 さとるがジュリアに声をかけても、彼女は茫然としていた。
「給料入れる。貯金もいれる。ジュリアの心、安心」
さとるは口座の暗証番号は知っていたが、手術が必要な母に仕送りしている彼女を裏切ることはありえなかった。しかし、列の順番が進み、ATMに近づくたびに彼女は今までの努力の結晶を失ってしまうかもしれないとばかりに、どんどん険しく深刻な顔になっていった。
「わたし、おかね、なくなたら、死ぬ同じ」
「大丈夫、大丈夫」
ふたりの順番になると、ATMの前で、自分の空の銀行口座を譲ることにした男とピンクの大きな財布を両手で胸に押し付けて持つ女の切羽詰ったやりとりが、変な日本語と変な英語で始まった。
「その穴にお金、入れる。グッバイ・マネー」
「・・・・・」
「ポイポイ!」
「・・・・・・・」
「ぼくは取らないよ。あたりまえー」
ジュリアはしばらく万札を握り締め、さとるの顔を見ていたが、彼女は誰も信じない女となっていた。大阪時代からつらい思いをしながら、貯めてきたお金だった。
「あのね、これ、あなたのもの・・・」
ジュリアは自分でキャンセルのボタンを押し、出てきた通帳とキャッシュ・カードを、さとるに返すとATMの前で黙りこくった。ふたりは入金するかどうかであまりに時間がかかったので、順番を待つお客さんたちはイライラしていた。ジュリアはそんな雰囲気を敏感に感じ取り、右手にピンクの財布、左手にトート・バックを引っつかみ、泣きそうな顔で銀行を飛び出して行った。それからまた、彼女は毎日、全財産をハンドバックに入れて電車で通勤する生活に戻っていった。

  
もう、四月になっていた。ジュリアとさとるはすでに二か月、一緒に生活していた。毎日、日本という外国に、体当たりで生きていた彼女も久しぶりの休みだった。
夜、さとるは寝転んで転職雑誌を見ていた。ジュリアはなんでも勉強とばかり、ニュース番組を熱心に見ていた。
「とうしょう、いちぶ、なんですか?」
しばらくして、彼女は言った。
「・・・証券を売ったり、買ったりするの」
「しょうけん、なに?」
「・・・・・」
「日本語けど、わからない?」
「ストック・マーケット」
「ストッキング、売る、ですか?」
さとるは笑ってしまった。
「ヒヒハハ・・・なんですか?」
「ごめんごめん」
「・・・・」
「女って、なんでストッキングするの? すぐ伝線して、捨てるのに」
「さむいだから。ある、ない、全然、ちがう。あなた、女、しらないね」
 ジュリアはさとるの顔を見て、くすっと笑った。
「全然、知らないですよ」
「しょうけん、なに?」
「証券は罠。陰謀」
「あなた、なんでも、インボウ」
「世界は陰謀ばっか」
「・・・・・」
「ジュリアの叔母さん、国からアパート、もらえたでしょ。ソビエトのとき。今となれば、そーゆーの、いいかも」
「小さいアパート、十人住む。それ、いい?」
「・・・よくないね」
「ソビエトの時、怖かった?」
「あたりまえ。なにもできない」
「友達と居酒屋行く、クラブ行くとかあった?」
「ない!」
「どうやって楽しむの? 週末とか、みんな何しているの?」
「みんなテレビ、見てる。命令のことだけできる」
「日本もそうなる。東京で働くのやめてさ、どっか逃げよっか?」
「どこ、行く?」
「山。畑やる。仕事なくなった時、食べれる」
「わたし、東京」
「・・・そうね、お金を稼ぎに来たんだもんね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あれ、電気つくる?」
彼女は話題を変えたかったのか、テレビの画面を指さした。
原子力発電所のトラブルのようだった。
「そうみたい」
「あれ、壊れる、畑、葉っぱ、動物、ぜんぶ、おわる。ずっと」
ジュリアはチェルノブイリ原発事故を知っているので、実感がこもっていた。

「・・・わたしの葉っぱ、だいじょうぶかな?」
彼女はそう言って立ち上がり、庭に向かった。少し前に、ふたりは物干し竿の向こうに、レタス、トマト、枝豆、とうもろこし、にんじん、バジル、そしてミントの種を植えていた。
「芽、出てるの、ある?」
 さとるが大きな声で訊くと、ジュリアはうれしそうに言った。
「あります! あります! トメート!」 
彼はジュリアの日本語に心を洗われるような気持ちになった。彼も芽なのか実なのかわからなかったが、そのトマトを見に行った。彼女は土の上にサンダルでしゃがみ込み、うれしそうに赤く小さなトマトの実を指さしていた。


翌日、真夜中にアパートのチャイムが鳴った。さとるがパジャマのまま、玄関の戸を開けると、充血した目のジュリアが立っていた。一度、泣いたかのような顔だった。ジュリアの後ろにはカーチャがいた。そのまた後ろに、カーチャよりずっと背が高く、整った顔立ちの男が、ベージュのスーツを格好良く着こなし、立っていた。道路には白いプリウスが停まっていた。ジュリアは彼に車で送ってもらったようだった。
彼はカーチャのフィアンセに違いなかった。佐々木という人で、どんな職種かは知らないが、十人ほどを雇っている四十代の社長のはずだった。ジュリアはカーチャや店の女の子と共に、奥多摩キャンプ場に、佐々木の運転で行ったこともあった。同じ運転でも、彼は車で奥多摩、こちらは原付での最寄りの駅への送り。もっている余裕が違うなと思いつつ、さとるは佐々木に軽く会釈をした。

妖艶な雰囲気をもった、旧ソ連邦、リトアニア出身のカーチャは、言葉の壁のある日本で、贅沢も望まず、毎日、働いているうちに、運が向いたようだった。 
佐々木はロシア語も少し理解でき、年収もしっかりあったので、彼のような経営者と結婚すれば、カーチャは問題なく、日本に永住できるようだった。

さとるは皆に部屋の中に入るように促し、キッチン・シンク前の古びたフローリングに、二つしかない座布団を敷いた。佐々木は言った。
「ジュリアさん、またセクハラですよ」
「そう。また」
ベッドの上でぺたんこ座りの、ジュリアは悔しそうに言った。
「なにされた?」
 さとるが訊くと、ジュリアは言った。
「スカート、手入れた。店長、お客さんの味方した」
だから、ジュリアは泣いた顔で帰ってきたわけだった。
「こないだの客?」
「ちがう人」
ジュリアは悔しそうだった。
「お給料も、もらてません」
「いくら?」
「十五万円」
さとるは先月分の給料がまだ貰えてないことは聞いていた。カーチャもベッドのジュリアの隣に腰かけ、発言した。
「お店に近いアパート、かりる、できる? ジュリアのもんだい、少し、よくなる」
 新丸子駅や武蔵小杉駅から、錦糸町は遠く、片道、一時間以上かかり、ジュリアがへとへとになって、帰ってくるのをさとるは知っていた。しかし、引っ越してきたばかりなのに、また引っ越すお金はなく、消費者金融の借金も、すでに四十万円になっていた。郵便局の稼ぎがあっても、男が女と住めばお金は自然と出ていくのだった。

陽が昇り、部屋の中に朝日が入ってきた頃、ジュリアのために圧力をかけに来たカーチャと佐々木が帰っていった。八時になると、さとるは暗澹たる気持ちで郵便局に向かった。
夜、さとるはカルピス・サワーを一気に飲みして、店に電話した。誰かが電話にでた。
「あの、ジュリアの友達なんですが」
「・・・・・」
「いろいろ事情はあると思いますが、彼女の給料、なんとか、払ってやってもらえませんでしょうか?」
ジュリアはその晩、給料不払いの店に出勤するつもりはなく、さとるの横に正座して、神妙な顔で、事の成り行きを見守っていた。
「入管法、知ってます?」
「はい・・・」
さとるは全く知らなかった。
「オーバー・ステイの子を雇うとね、懲役や罰金になるんですよ。わかります?」
「はい・・・」
彼は耳に不快な、甲高い声をしていた。シャレードで皿に盛ったイチゴの値段を尋ねた時、「五ですね」とキンキン声で答えた男に違いなかった。
「在留カードないですよね?」
「・・・・・」
「パスポートも見せませんが、ビザの期限、切れてるんでしょ?」
「・・・そんなことないと思いますけど」
小さな声で嘘をついてみた。
「じゃ、持ってきてください」
こう言われると、どうしようもなかった。
「知らない国に出稼ぎに来てるわけですし、働いた分くらい、払ってやってもいいじゃないっすか。店長さんも日本男児でしょ!」
そう、さとるが口走ると、
「こっちも看板張ってやっとんや! 遊びちゃうで!」
そんな大阪弁に押され、何も言えなくなってしまった。
「在留カード」
「・・・・・」
「ほらね」
「遅刻、多いから、六万、ないよ。常連さん、怒らせるし」
「スカートの中に手を入れられたって泣いてますよ。お金は十五万って。お母さん、心臓手術するんです。払ってやってください」
「・・・・・・・・・」
電話の向こうで、不気味な沈黙が続いた。
「今年、お客さん、激減してるの。もう、やっていけないかもしれない。だから払えないんだよ」
「そんなこといって。店の売上げに貢献したわけだし、働いた分くらい・・・」
「じゃ、もうね、店に来なくていい。お兄さんから、それ、言っといて。まぁ、頑張って、面倒みてやって」
「もう、来なくていい?」
「そーだよ」
そこで電話は切れた。
「切れちゃった。給料、六万だって。でも、それも払えないって」
「おきゅうりょ、ない?」
「ない」
「・・・・・・・」
「店長、もう、来なくていいって言ってた・・・」
「わたし、クビ?」
ジュリアはどんどん泣き顔になっていった。さとるはこれはまずいと思い、また店に電話した。低姿勢で店長に、クビだけは勘弁してくださいとお願いしたが、話は覆らなかった。ジュリアは悔しかったのだろう、いつものぺたんとした、おばあちゃん座りで、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。

東京都は、二〇二〇年東京オリンピック誘致のため、より安全でクリーンな東京のイメージを、世界に発信しなければならなく、外国人の入国ビザ取得審査を、より厳しくし、あらゆる国のホステス・ダンサーの締め出しを進めていた。
外国人のホステスやダンサーは今のビザの期限が切れたら、もう日本に戻れず、彼らの国では仕事自体がなかったり、あっても給料が日本の半分とか四分の一では、家族にお金を渡せなかった。ゆえに、お金を仲介者や日本男性に払い、虚偽の婚姻の届けをして、配偶者ビザを獲得する偽装結婚という法律違反をしてまでも日本で働き続けるか、すべてを諦め、自国に帰るか、二つに一つしかないを外国人に迫る状況なのだった。
入国管理局ホームページには、
『法務省入国管理局では「ルールを守って国際化」を合い言葉に出入国管理行政を通じて日本と世界を結び、人々の国際的な交流の円滑化を図るとともに、我が国にとって好ましくない外国人を強制的に国外に退去させることにより、健全な日本社会の発展に寄与しています』とあった。ジュリアのオーバー・ステイはもちろん、法律に触れていて、彼女は、「好ましくない外国人」だった。そんな外国人は、利用できるときは声をかけられ、利用し終わったら、給料も払われず、お払い箱になるしかないのだった。
 
「おれ、思うけど、ジュリアは人間が作った法律は守ってないけど、神様の法律は守ってるよ。お母さん、助けて偉いよ。自分の物もなんも買わないで、仕送りばっか。どこの国の女の子だって毎日、馬車馬のように働きたくないさ」
「・・・・・・」
「おれもクビになったことある」
「もう、仕事、さがす、できない」
「ジュリアは働かなくていいよ。この部屋にいればいい。時々、図書館に行ったり、スーパーに行ったりは、つまらないか? ママのために、まだ稼いで、仕送りしないと、どうしてもだめ?」
「・・・・・・・」
「おれが助けるよ」
さとるがジュリアの背中をさすって、優しくすればするほど、彼女はより激しく泣いた。
「・・・ティッチュ」
涙をぬぐうティッシュを頂戴の意味だった。ジュリアはティッシュで、鼻をかみ、猫のぬいぐるみを抱くと電気を消して、ベッドにもぐりこんだ。彼女はすすり泣いていた。さとるがベッドの横から、ジュリアの後頭部を撫ぜて慰めていると、彼女はさとるの手をつかみ、久しぶりにベッドに入れてくれた。しばらく、さとるはジュリアの背中の熱を頬で感じつつ、じっとしていた。さとるは彼女の給料を少しでも給料を取り返えさないといけないのだった。