6 | (タイトルはいろいろありまして言えないのです)

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ジュリアはクラブでさとるが言った、「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」という言葉を忘れてはいなかった。さとるがジュリアにふざけて抱きつこうとしても、彼女は両拳が下向きの妙な構えのファイティング・ポーズを取って、女の真剣さを見せた。人をぶったこともなければ喧嘩したこともないようなポーズに、さとるが笑うと、
「なに、ヒヒハハ」
とジュリアはさとるのお腹に変なパンチを一発くりだした。
「おれ、ヒヒハハなんて笑わない」
「あなた、ヒヒヒ、ハハハ」
また、「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」との言葉にふたりの現実が近づくまで、ジュリアがダイニング・キッチンのセミダブルベッドで寝て、さとるは隣の畳部屋の布団で寝ることになっていた。ジュリアは毎日の勤労で疲れているからか、布団から足裏だけ覗かせ、身体をねじるように寝ていた。昼過ぎに起き、食事をすませると、長い時間、風呂に閉じこもった。女って、一時間もお風呂で何してるんだろう? こないだ、「お願いしまーす」と、少しだけ風呂の扉を開けようとしたら、本気で怒ったし、さとるは風呂の方をちらちら見ながら、頭が疑問符でいっぱいになった。そのうち、ジュリアは風呂から出てきた。
「どして、ほそい? 日本の女の子たち」
「ほそい?」
「からだ」
「おれもすごい細かった。DNAだもん」
ジュリアは自分のぽっちゃり体形と日本人のスリムな体形を比較し、ロシアとは違う美の基準にカルチャーショックを受け、なんとか痩せようとしていた。
さとるが二人分のスパゲティを作っても、
「ドント・ウォント(ほしくない)。わたし、ダイエット」
と冷蔵庫のコンビニ・サラダを食べるくらいで、レトルトの海老チリやカレー、まぐろ缶詰、漬物などは、自然のものを食べるのが当たり前のロシア人には毒に見えるのか、手をつけることもなく、小食だった。そしてまた、ジュリアは部屋においてもらう以外でさとるに「おれ、いつか、あなたといっしょになりたい」を邪魔するような借りを作ってはいけないとも思っていた。

すっぴんの女の人が化粧で変わるのは興味深かった。彼女は使い込まれた絵の具箱のようなプラスチック製の化粧箱をひっくり返し、まだ使える化粧品を探し、顔に数色塗り、なんとなく化けた。さとるはわざわざ時間をかけ不自然できつい顔をつくる女を観察しつつ、訊いてみた。
「ちょっと、すいませんけど・・・ホステスの仕事って、結構、疲れますか? お金もいいし、楽そうにも見えたんだけど・・・」
お化粧中の女王様は教えてくれた。
「・・・・気、使う。脳みそ、使う。サイコロジー(心理)、考える。趣味、なに? とか、イマジネーション、いる。あと、忙しい。あちこち行く」

夕方。さとるは出勤の準備が整ったジュリアをカッターナイフの悪戯で座席がボロボロになった原付バイクの後ろに乗せ、近くの新丸子駅より大きくて便利な武蔵小杉駅が見えるところまで送ることになっていた。
ジュリアは赤いセーターとベージュのズボンに紺色のダウン・ジャケットという通勤服になりスニーカーを履くと、自分用のバイクのヘルメットをかぶり、
「わたし、スーパーウーマン。あなた、悪いエイリアン」
と無邪気だった。原付バイクを運転したいと言う彼女だったが運動神経に問題があった。原付バイクに跨り、エンジンをふかし、アパート前の道をよろよろと前進するが、思い切りが悪く、スピードに乗れなく止まるしかないのだった。エンジン音は聞こえていたが、彼女を見ていなかった時があった。すぐ悲鳴が聞こえた。走って見に行くと、彼女は原付バイクに足を挟まれ、道に倒れていた。腕の骨にひびが入ったと大騒ぎしたが、そんなこともなかった。
さとるは彼女の出勤まで時間がある時には、彼女を原付バイクの後ろに乗せて新丸子の町を一周したりした。楽しい時間だった。ちょっとしたルールを破るのは快感だったし、彼女も喜んだ。
六時半。さとるはジュリアを原付バイクの後部に乗せて走り出した。彼女が、
「はやくー。ちこくー」
と叫ぶなか、十分くらい走り、新丸子の商店街を通り抜け、武蔵小杉駅がかろうじて見えるところまで行くと、駅前の交番も見え、交番の前にはたいてい警察官が立っていた。原付バイクの二人乗りはまずいのでこれ以上は危険ということで、いつもそこで後部座席からジュリアを降ろした。
「パカ」 
彼女はそう言って駅に向かった。こうして毎日、彼女は店のある錦糸町まで出勤した。
さとるはすでにパカはバカという意味ではなく、またすぐ会おうね、という意味なのを学習していた。スパスィーバ(ありがとう)、ダー(はい)、ニェット(いいえ)、ザナス(乾杯)、ダバイ(OK)、ルブル(アイ・ラブ・ユー)。このくらいのロシア語は覚えていた。 
彼女も片言の日本語と勉強中の英語で、お客さんに話しかけ仕事をした。仕事が終わると、まだ夜の明けていない真っ暗な東京で始発の電車を乗り換え、新丸子に帰ってきた。
朝の新丸子駅から出勤途中のサラリーマンやOLとすれ違いながら、左に曲がって、まっすぐ歩いて、右に曲がってアパートに戻ってきた。ジュリアにとって物価の高い東京で、無料の宿はさとるのアパートしかないようで、一応、安心できる場所のようだった。

「おかえり・・・」
「・・・つかれたです。たくさん歩いた」
ジュリアは脱衣所に向かい、カーテンの向こうで服を脱ぎ、バスローブをはおりズボンを洗濯機に入れた。そして、玄関にスニーカーをとりに行き、洗濯機に放り込みスイッチを押した。
しばらくして、靴のひもがどこかに引っかかったのか、洗濯機がものすごい音を立て止まった。ジュリアは部分的にでも布がついているものなら何でも、日本製エレクトロニクスに入れれば、首尾よくきれいにしてくれると信じていた。
ジュリアはコーヒーのふた、化粧品のふたなどとも相性が悪く、化粧品のふたが閉まらない時は、力ずくで新しい溝を作って閉めた。網戸も開けようとすると必ず外した。さとるが、力、入れすぎ、と思いつつ、網戸を元通りにしていると、なんで、いつもこうなる?? そんな顔して見ていた。広大な大陸育ちの彼女に微妙な力の調整とかを望んではいけないようだった。
この性格はBかOか。さとるが手首を切るジェスチャーをしながら、尋ねたことがあった。
「ジュリア、血液型なに?」
「赤」
「惜しいけど、ちがう・・・・血の種類」
「? ? ? ? もっとわからない」
「あなた、A? B? O? AB?」
「わからない」
そんな彼女は一人っ子ゆえ、一か月に二回、ドル札を複数の小包に分散させて、ロシアのお母さんの元へ送っていた。

日曜日、畳の部屋でぼーっとしていた時だった。さとるはジュリアの秘密を知ることになった。春が近づいていた。彼女は毎日、二十五万円分の全財産を布製のトート・バックに入れて電車通勤していた。安っぽく見えるバックゆえ、かえって安全かもしれなかったが、それでもさとるはそんな大金が連日連夜、東京のあちこちに連れまわされていることが、銀行に裏切られたことのない日本人として、信じられなかった。
「そのお金、見せてよ。お金の安全、安心のため」
ジュリアはトート・バックからピンク色の大きな財布を取り出した。今まで一緒に住んでいて、見たこともない財布だった。
さとるが財布の中を覗き込むと、千円札、五千円札、一万円札、ドル札もたくさん入っていた。ロシアのお金らしき紙幣もあった。ロシアから持参したお金に加え、毎月、二万五千円平均で貯めてきた大事なお金のようだった。こつこつ貯金する意志の強さと羨ましさを彼女に感じ、さとるは動揺した。
「大金だよ。わかるよね? ビッグ・マネー・・・仕事のあと、疲れてる」
「・・・・・・」
「電車の中、ねむーい。悪い人、かばん、チュっと持ってく。東京、わるい人いっぱい。ぼくが責任もってあずかるよ。お母さんにお金、送るんでしょ? 電車はまずい」
「・・・・・・」
「お金は日本では銀行にあずける」
「わかってる。わたし、ばーか、じゃない」
「じゃ、銀行、行こか」
「わたし、銀行、信じない。貯金、出せなくなる」
「出せるよ」
「あなた、知らない。前、ルーブル、紙のゴミになった。カバンの貯金、悪くない」
「この部屋に置いとけば?」
「あなた、借金あるでしょ」
「・・・」
「わたし、ちょと、ひみつ、ある」
「なに?」
ジュリアは立ち上がり、カーテンを開け、窓から外を眺め、ため息をついた後、さとるの前に正座した。この日本人をどこまで信用していいのか? とばかり、彼女はさとるの顔をじっと見るので、さとるも正座した。彼女は言った。
「わたし、オーバー・ステイ」
「?」
「これ、パスポート」
ジュリアはトート・バックからパスポートを取り出し、さとるに渡した。表紙をめくると上目づかいで口をすぼめた短髪のジュリアが白黒写真で写っていた。
ビザの有効期限が切れているみたいだった。パスポートにはロシアのアルファベット表記とともに、YULIYA・LEBEDEVAと印刷されていた。彼女が銀行口座を持とうとせず、奇跡の移動トート・バック預金を続けていたのは、在留カードがなかったからだった。
「これ、なに? なんと読む?」
「レベデバ」
「レベデバ、意味とかある?」
「スワン(白鳥)」
「スワンが、なんで、オーバー・ステイなったの?」
「お母さん、手術だから、お金いる」
「・・・・・・」
「わたし、お母さん、大事」
「ジュリアのお母さんって、どんなひと?」
「勉強の人。エンジニアなりたい。レニングラードの大学行った。お父さんと同じクラス。卒業して、ふたり、結婚した。でも、連邦の時だったから、自由ない。どこ、働きたい、選べなかった。みんなそう。国がどこ、働く、決めた。小さい村、なっちゃう、ある。お父さん、ウズベキスタン、行きなさい、言われた。タシュケント。わたし、そこで生まれた」
「お父さん、なにやってた?」
「エンジニア」
「何のエンジニア?」
「ハイドロ・ポンプ」
「???」
「お父さん、生まれて、一回も海、見たことなかった。オレンブルグ、生まれたから」
「オレンブルグってどのへん?」
「ウラル山の南」
「で、海、見てないとか・・・どうなったの?」
「お父さん、海、見たことないから、見たかった。わたしたち、ウラジオストク、街、見ないで、引っ越した。連邦の時、あちこち、行けなかったし、アパート、マンション、売る、買う、できなかった。今と違う」
「へー。で?」
「私たち、新聞、調べた。いいアパート、見つけた。電話と手紙で、ウラジオストクにいた家族と話した。タシュケントのアパート、ウラジオストクのアパート、同じサイズだった。私たち、交換した。ウラジオストクの家族も冬、すごい寒いから引っ越ししたかった。どっちにもよかった。それから、わたし、十一歳の時、連邦、なくなった」
「お父さん、普通の人みたい。なんでエンジニアなのに、ミリタリーの仕事になった?」
「いろいろコネクション、ある。お父さん、ウクライナの後、頭、おかしくなって、お母さんの実家、帰った。お母さん、すごいショック。それからお父さん、死んだ。お母さん、身体、壊れた。貯金あったけど、なくなった」
「・・・・・」
「わたし、ビザ終わたら、ロシア帰る、思ってた。でも、お母さん、また手術いる。お金、いる。オーバー・ステイしかなかった」
「お母さんはどこが悪いの?」
「心臓」
「・・・・・」
「一回、手術した。もう一回。血、流れるところ・・・掃除。髪の毛より薄い・・ワイヤーいれる。心臓、四個、バルブある。一個、詰まった。手術しないといけない。カテーテル」
「・・・・・」
ソ連邦時代は医療費が無料だったが、今は四十万円程、手術で必要とのことだった。ロシアの医療レベルは、低くはないが、大病院はお金次第らしく、外国で手術を受けるお金持ちもいると言う。
さとるは今までさっとお金を用意できたためしがなかったので、解決策はジュリアのトート・バックの中で毎日、安らぐことのない二十五万円を銀行口座に預けることしか思い浮かばなかった。


月末、銀行のATM前にできた列に、さとるとジュリアは並んでいた。
「8810、このカードのシークレット・ナンバー。この口座は、ジュリアが使えばいい。オッケー?」
 さとるがジュリアに声をかけても、彼女は茫然としていた。
「給料もらう。お金入れる。貯金もいれる。ジュリアの心、安心」
さとるは口座の暗証番号は知っていたが、手術が必要な母に仕送りしている彼女を裏切ることはありえなかった。しかし、列の順番が進み、ATMに近づくたびにジュリアは今までの努力の結晶を失ってしまうかもしれないとばかりに、どんどん深刻で険しい顔になっていった。
「・・・わたし、おかね、なくなたら、死ぬ同じ」
「絶対、大丈夫」
そして、ふたりの順番になった。ATMの最前列で、自分の空の銀行口座を譲ることにしたさとるとジュリアの切羽詰ったやりとりが、変な日本語と変な英語で繰り返された。
「その穴にお金を入れるんだよ。プリーズ・ドロップ。ポイ! ポイポイ!」
ジュリアは大きな財布を両手で握りしめていた。
「ぼくは取らないよ。あたりまえー」
ジュリアはお札を握り締め、さとるの目をじっと見ていたが、彼女は誰も信じない女となっていた。大阪時代からつらい思いをしながら、貯めてきたお金だった。
「あのね、これ、あなたのもの・・・」
ジュリアは自分でキャンセルのボタンを押し、出てきた通帳とキャッシュ・カードを、さとるに返すとATMの前で黙りこくった。入金するかどうかであまりに時間がかかってしまったので、順番を待つお客さんたちはイライラしていた。ジュリアはそんな雰囲気を敏感に感じ取り、右手にピンクの財布、左手にトート・バックを引っつかみ、泣きそうな顔で銀行を飛び出して行った。それからまた、彼女は毎日、全財産をハンドバックに入れて電車で通勤する生活に戻っていった。
      
                      
夜、さとるは、「桜桃の味」という邦題の中東映画のDVDを見ていた。こんな物語だった。これから死にたい男がいて、決めた場所で死ぬのを手助けしてくれる男を車に乗って探し、やっとお金を見返りに年長の男を見つけた。しかし、その年長の男は以前、自身も死のうと試みた男だったので、彼にこの世の素晴しさを語った。昔、年長の男は夜、死に場所と決めていた木に登った。枝のさくらんぼが手に当たり、ひとつ食べてみた。おいしくて、ひとつ、またひとつと食べた。そのうち、この世から去るなんて、もったいないことだと思った。それから、木々のさくらんぼを沢山持って家に帰った。家には親しい人がいた。それが彼の経験談だった。その話を聞いて、あれほど死にたかった最初の男は結局、どうしたのかという話だった。

病気。愛。お金。確かに死にたくなるような時がある。だけど、それはとても孤立していて、心がものすごく弱っている時だからで、本当は誰もがすごく生き続けたい。だって、口では死にたいとつぶやきながら、必死の思いで病院にも行くし、ごはんもたべるし、サプリだって飲んだりする。自分を理解してくれる人さえいれば、気持ちは変わるものなのだ・・・。
さとるが胸を打たれて映画を見終えると、「あなた、暗い話、好きね」と壁にもたれてロシア語の本を読んでいたジュリアがテレビの前にやってきた。

「とうしょう、いちぶ。なんですか?」
しばらくして、彼女は言った。
「・・・東京の証券」
「しょうけん、なに?」
「・・・・・」
「日本語けど、わからない?」
「ストック・マーケット」
「ストッキング、売る、ですか?」
さとるは笑ってしまった。
「ヒヒハハ・・・なんですか?」
「ごめんごめん」
「・・・・」
「なんでストッキングするの? 女って。すぐ伝線して、捨てるのに」
「さむいだから。ある、ない、全然、ちがう。あなた、女、しらないね」
 ジュリアはさとるの顔を見て、くすっと笑った。
「全然、知らないですよ」
「しょうけん、なに?」
「・・・みんな信じちゃう紙。会社とか国が約束した紙。ガーっと上がって、ドーンと落ちて、あれ? みんな怒る紙」
「・・・・」
「テレビはDVD見るだけでいい。本当のことをうまく隠すのがテレビの仕事。あなたのお父さんの話が本当。どうでもいいことで、本当のことから目、そらせて、毒、食べまくって早く病気になって死んでくださいで、給料もらってる」
「・・・・・・」
「・・・ずっと続くのかな。みんな会社に勤めて、車に乗るスタイル」
「会社、だいじぃ」
「そんな大事か?」
「会社、もし、ない、日本、アフリカになる。あなた、こどもぉ」
「子供でいいもん。逆さまの狂った社会、勝ち組になりたくない。贅沢できるけど、なにもわからなくなって、ひどい目にあう」
「あなた、日本のクレージーさん」
「あなたもロシアのクレージーさん」
 ジュリアはため息をついた。
「あなた、車のライセンス、ある?」
「ない。前あった」
「前、車あった?」
「会社の車。運転ってめちゃストレス。乗りたくないし、お金もない。道で猫、よく死んでるよ。濡れたバスタオルみたいにぺっしゃんこ。おれ、やりかねない」
「・・・・・・」
「とにかくね、国は当てにならん。自分しかない。広告の罠にはまって死にたくない。賢く生きて、あとは神様に任せる。それだけ」
「・・・・・」
「社会主義ってどんな生活なの? ジュリアのお母さん、ソビエトのとき、国からアパート、もらえたでしょ。今となれば、そーゆーの、いいかも」
「小さいアパート、十人住む。それ、いい?」
「・・・よくないね」
「ソビエトの時、怖かった?」
「あたりまえ。なにもできない」
「友達と居酒屋行く、クラブ行くとかあった?」
「ない!」
「どうやって楽しむの? 週末とか、みんな何しているの?」
「みんなテレビ、見てる。命令のことだけできる」
「もうね、どこもソビエト。中国並みの監視社会。東京で働くのやめてさ、どっか逃げよっか?」
「どこ、行く?」
「山。畑やる。自分で作って食べる」
「わたし、東京」
「・・・そうね、お金を稼ぎに来たんだもんね」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「あれ、電気つくる?」
彼女は話題を変えたかったのか、テレビの画面を指さした。
原子力発電所のトラブルのようだった。
「そうみたい」
「もし、あれ、壊れる、畑、葉っぱ、動物、ぜんぶ、おわる。ずっと」
ジュリアはチェルノブイリ原発事故を知っているので、実感がこもっていた。

「・・・わたしの葉っぱ、だいじょうぶかな?」
ジュリアはそう言って立ち上がり、庭に向かった。少し前に、ふたりは物干し竿の向こうに、レタス、トマト、枝豆、とうもろこし、にんじん、バジル、そしてミントの種を植えていた。
「芽、出てるの、ある?」
 さとるが大きな声で訊くと、ジュリアはうれしそうに言った。
「あります! あります! トメート!」 
さとるはジュリアの日本語に心を洗われるような気持ちになった。さとるも芽なのか実なのかわからなかったが、そのトマトを見に行った。彼女は土の上にサンダルでしゃがみ込み、うれしそうに赤く小さなトマトの実を指さしていた。
「なんか、ジュリアの日本語、好きだよ」
「好き?」
「うん。みんなジュリアみたいな日本語、使わない。見栄、張ったり、恰好つけた日本語ばっか。操られてる・・・」
きれいな日本語が一番かっこいいのに。飽きたのかな? さとるはなんでも短く省略された愚民化された日本語に接すると虚しくなってしまうのだった。いつか、そんな日本語もジュリアのように素朴さを失わない外国人によって再生されるといいなと思うしかなかった。


翌日、真夜中にアパートのチャイムが鳴った。さとるはトイレに起きた後、布団の中で眠れなくなっていた。パジャマのまま、玄関の戸を開けると、充血した目のジュリアが立っていた。一度、泣いたかのような顔だった。ジュリアの後ろにはカーチャがいた。そのまた後ろに、カーチャよりももっと背が高く、ハーフのような彫りの深い整った顔立ちの男がいて、ベージュのスーツを、格好良く着こなしていた。そして、道路に白いプリウスが停まっていた。ジュリアは彼に車で送ってもらったようだった。
カーチャのフィアンセに違いなかった。さとるはこの人だったのかと思った。佐々木という人で、どんな職種かは知らないが、十人ほどを雇っている四十代の社長のはずだった。佐々木とカーチャは美男美女のカップルだった。
ジュリアはカーチャや店の女の子と共に、奥多摩キャンプ場に、佐々木の運転で行ったこともあった。
同じ運転でも、彼は車で奥多摩、こちらは原付での最寄りの駅への送り。もっている余裕が違うなと思いつつ、さとるは佐々木に軽く会釈をした。

旧ソ連邦、リトアニア出身のカーチャ。店で話した時、故郷に帰って、いつか家を買いたいと言っていた彼女だった。元々、妖艶な雰囲気をもっていたカーチャだったが、贅沢も望まず、言葉の壁のある日本で困難を経験しているうちに、運が向いたようだった。 
佐々木は少しロシア語がわかるらしく、年収もちゃんとあるはずで、彼のような経営者と結婚すれば、カーチャは問題なく、日本に永住できるようだった。カーチャはデンマーク製の婚約指輪を貰ったと、ジュリアは羨ましげに言っていた。

さとるは皆に部屋の中に入るように促し、キッチン・シンク前の古びたフローリングに、二つしかない座布団を敷いた。佐々木は言った。
「さとるさん、ジュリアさん、またセクハラですよ・・・」
ジュリアも言った。
「そう。また」
ベッドの上でぺたんこ座りの、ジュリアは悔しそうに言った。
「なにされた?」
 とさとるが訊くと、ジュリアは言った。
「スカートの中、手入れた。店長、お客さんの味方した」
だからジュリアは泣いた顔で帰ってきたわけだった。
「こないだの客?」
「ちがう人」
「・・・・・」
「わたし、おもちゃじゃない。人間です」
ジュリアは悔しそうだった。
「お給料も、もらてません」
「いくらくらい?」
「十五万円」
さとるは先月分の給料がまだ貰えてないことは聞いていたが、十五万円とは知らなかった。カーチャもベッドのジュリアの隣に腰かけ、発言した。
「あなた、ジュリアのため、お店に近いアパート、かりる、できる? ジュリアのもんだい、少し、よくなる」
 新丸子駅や武蔵小杉駅から、錦糸町は遠かった。片道、一時間以上かかり、ジュリアがへとへとになって、帰ってくるのはわかっていた。でも、引っ越してきたばかりなのに、また引っ越すお金はなかった。失業時に消費者金融で数万円を借りたのが、すでに四十万円になっていたし、郵便局の稼ぎがあっても、女性と住めばお金は自然と出ていくのだった。
佐々木は言った。
「あと、店長さんから電話ありますよ」
「うわっ。ここの電話番号、教えてあるの?」
「・・・・・」
「電話は教えんでもいいの!」
あぐらをかいて聞いていたさとるは頭が痛かった。

陽が昇り、部屋の中に朝日が入ってきた。ジュリアのために圧力をかけに来たカーチャと佐々木が帰った。八時になると、さとるは暗澹たる気持ちで郵便局に向かった。仕事から帰ったら店に電話して、未払いの給料の件を頼んでみようと思った。
夜、さとるはカルピス・サワーを一気に飲みして、店に電話した。誰かが電話にでた。
「あの、ジュリアの友達なんですが」
「・・・・・」
「いろいろ事情はあると思いますが、彼女の給料、なんとか、払ってやってもらえませんでしょうか?」
ジュリアはその晩、給料不払いの店に出勤するつもりはないようで、神妙な顔をしてさとるに、にじり寄ってきた。
「入管法、知ってます?」
「はい・・・」
さとるは全く知らなかった。
「オーバー・ステイの子を雇うとね、懲役や罰金になるんですよ。わかります?」
「はい・・・」
彼は耳に不快な、甲高い声をしていた。シャレードで皿に盛ったイチゴの値段を尋ねた時、「五ですね」とキンキン声で答えた男に違いなかった。
「在留カードないですよね?」
「・・・・・」
「パスポートも見せませんが、ビザの期限、切れてるんでしょ?」
「・・・そんなことないと思いますけど」
小さな声で嘘をついてみた。
「じゃ、持ってきてください」
こう言われると負けだった。
ジュリアも店の売上げに貢献はしていたが、立場が弱すぎた。
「知らない国に出稼ぎに来てるわけですし、働いた分くらい、払ってやってもいいじゃないっすか。店長さんも日本男児でしょ!」
そうさとるが口走ると、
「こっちも看板張ってやっとんや! 遊びちゃうで!」
そんな大阪弁に押され、何も言えなくなってしまった。
「在留カード」
「・・・・・」
「ほらね」
「彼女は遅刻が多いから、六万もないよ。昨日も常連さん、怒らせるし」
「スカートの中に手を入れられたって泣いてますよ。お金は十五万って。お母さん、心臓手術するんです。お金いるんです。払ってやってください」
「・・・・・・・・・」
電話の向こうで、不気味な沈黙が続いた。
「今年、お客さん、激減してるの。もう、やっていけないかもしれない。だから払えないんだよ」
「そんなこといって。彼女は実際、店の売上げに貢献したわけだし、働いた分くらい・・・」
「じゃ、もうね、彼女は店に来なくていい。お兄さんから、それ、言っといて。まぁ、頑張って、面倒みてやってな」
「もう、来なくていい?」
「そーだよ」
そこで電話は切れた。
「切れちゃった。給料、六万だって。でも、それも払えないって」
「おきゅうりょ、ない?」
「ない」
「・・・・・・・」
「店長が、もう、来なくていいって言ってた・・・」
「わたし、クビ?」
ジュリアはショックで、どんどん泣き顔になっていき、これはやばいと思った。なんとかクビだけは、つなげてもらわないと・・・。さとるはまた店に電話した。低姿勢で店長らしき彼に、クビだけは勘弁してくださいとお願いしたが、話は覆らなかった。
ジュリアは悔しかったのだろう、いつものぺたんとした、おばあちゃん座りで、大粒の涙をぽろぽろとこぼした。

東京都は、二〇二〇年東京オリンピック誘致のため、より安全でクリーンな東京のイメージを、世界に発信しなければならなく、外国人の入国ビザ取得審査を、より厳しくし、あらゆる国のホステス・ダンサーの締め出しを進めていた。
外国人のホステスやダンサーは今のビザの期限が切れたら、もう日本に戻れず、彼らの国では仕事自体がなかったり、あっても給料が日本の半分とか四分の一では、家族にお金を渡せなかった。ゆえに、お金を仲介者や日本男性に払い、虚偽の婚姻の届けをして、配偶者ビザを獲得する偽装結婚という法律違反をしてまでも日本で働き続けるか、すべてを諦め、自国に帰るか、二つに一つしかないを外国人に迫る状況なのだった。一か月のオリンピックのため、怪しい外国人は出ていけということなのだった。
入国管理局ホームページには、
『法務省入国管理局では「ルールを守って国際化」を合い言葉に出入国管理行政を通じて日本と世界を結び、人々の国際的な交流の円滑化を図るとともに、我が国にとって好ましくない外国人を強制的に国外に退去させることにより、健全な日本社会の発展に寄与しています』と書いてあった。ジュリアのオーバー・ステイはもちろん、法律に触れていて、彼女は、「好ましくない外国人」だった。そんな外国人は、利用できるときは声をかけられ、利用し終わったら、給料も払われず、お払い箱になるしかなかった。
 
「おれ、思うけど、ジュリアは人間が作った法律は守ってないけど、神様の法律は守ってるよ。お母さん、助けて偉いよ。自分の物もなんも買わないで、仕送りばっか。どこの国の女の子だって毎日、馬車馬のように働きたくないさ」
「・・・・・・」
「おれもクビになったことある」
「もう、仕事、さがす、できない」
「ジュリアは働かなくていいよ。この部屋にいればいい。時々、図書館に行ったり、スーパーに行ったりは、つまらないか? ママのために、まだ稼いで、仕送りしないと、どうしてもだめ?」
「・・・・・・・」
「おれが助けるよ」
さとるがジュリアの背中をさすって、優しくすればするほど、彼女はより激しく泣いた。
「・・・ティッチュ」
涙をぬぐうティッシュを頂戴の意味だった。ジュリアはティッシュで、鼻をかみ、猫のぬいぐるみを抱くと電気を消して、ベッドにもぐりこんだ。彼女はすすり泣いていた。さとるがベッドの横から、ジュリアの後頭部を撫ぜて慰めていると、彼女はさとるの手をつかみ、久しぶりにベッドに入れてくれた。しばらく、さとるはジュリアの背中の熱を頬で感じつつ、じっとしていた。さとるは彼女の給料を少しでも給料を取り返えさないといけないのだった。