8 | (タイトルはいろいろありまして言えないのです)

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ジュリアの光になるためには、十万円くらい必要だった。さとるは借金を重ねることにした。彼は武蔵小杉駅前のカード会社のATMの前に立ち、⑦か➀➀か、深い霧の中にいるように迷った。結局、➀➀、万、円、と暗い気持ちでタッチパネルを触り、十一万円を引き出した。一万円を自分の財布に入れていると、「限度額まで残り五万円」と印字されたレシートが出てきた。いつのまにか借金まみれだ。もっと稼げる仕事に変わらないと本当はいけないのだった。
さとるは部屋に戻ると、十万円をジュリアに渡した。
「???」
彼女は不思議そうな顔でお金を受け取った。
「給料、取り返した。利子もついてる」
「どやって?」
「アバス、ちょっとしめた」
「うそー」
「さとるくん、トリプル・アングリー。怖いよ」
「お願いした?」
「ありえない」
「・・・・・」
「おれとあいつ。納得して終わった。だから連絡しなくていい。国に帰るって言ってたな。もう、東京にいないかも」
「わかた。ほんと、ありがとう」
 ジュリアは嬉しそうに、十万円を大きな財布の中に入れた。
「今日、区民プール行こか?」
さとるは言った。ふたりとも休みの日曜日は、近くてもいいから外出しようということになっていた。
「ジュリアの水着、見たい・・・」
「わたし、水着、ない。・・・ジェトコスタ、いきましょ」
ということで、ふたりは東京ドームに隣接する遊園地に行くことになった。

遊園地のジュリアは、背景が噴水のような美しい絵になるところを見つけると、すぐに、その前で彼女たちの流行りなのか、人差し指と小指を立て、拳を外に見せる変なポーズを、顔の周りや顎の下で取り、さとるに写真を撮るようにせがんだ。
ジュリアは東京での冒険という人生の記録に、さとるの顔は特に必要はなく、うつりのいい自分の写真が欲しかった。一時の写真撮影の後、さとるは長い順番を待ち、ジュリアの希望するジェットコースターに付き合うことになった。
オレンジ色のジェットコースターが、直角に近い角度で、高所へと伸びるレールの上を、早いスピードで登って行くと、眼下に小さくなった建物や米粒大の人々が見えた。さとるは目の前の手すりを両手でしっかり握った。ジュリアは動揺のかけらも見せず、平然とスリルを楽しもうとしていた。
一番の高所に登りつめたジェットコースターは、猛烈なスピードで直角に落ちていった。さとるは決して目を開けないつもりだった。薄目を開けると、乗り物は地面に叩きつけられる瞬間で、勢いを増し、また高みに向かっているようだった。
スピードが緩んだ気配がして、また、薄目を開けると、狂った乗り物がカーブしながら45度傾いていた。ジュリアは両手でバンザイしていた。
強風で彼女の髪の毛が顔を覆っていた。前列のカップルも万歳をしていた。さとるは彼らが信じられなかった。
さとるも手すりから少し左手を離し、一瞬だけ、片手バンザイをしたが、腰が固定されていて宙に放り出されることはなかった。
急角度の下り坂で、大きく波打つ仕掛けのコース、回転ループコース・・・。
ジェットコースターが出発した場所に戻ると、待っていた次の客たちが、さとるたち乗客に向かって拍手した。乗るときに、拍手させられた意味がわかった。がんばったねという意味。さとるが座席から這い出て、空の大きな白い雲を見上げ、出口で立ち尽くしていると、ジュリアはさとるが置き忘れてきたショルダーバッグを肩にかけてやってきた。
「次、いきましょ」
「・・・・もう、帰ろうよ」
「いま、来た」
「怖くないの?」
「キモチイイ」
「じゃ、ひとりで乗って。おれ、お金だす人」
「ひとり、イヤ」
「おれはもう、絶対、乗らない」

彼女は横に大きく揺れる高速ブランコにも乗った。外国人で長い行列に並んでまで乗ろうとしていたのは、ジュリアだけだった。高速ブランコに揺られるジュリアの写真をデジタル・カメラで撮って、その場でズームアップすると、彼女は目をつぶり、口元が絶叫していた。さとるには絶叫しながらブランコに乗る人の気持ちが理解できなかった。
彼女はまだ足らないとばかり、くるくる回転するゴーカートのような車にも乗った。さとるは遊園地が全然、面白くなかったので、アパートで十万円をあげただけにしておけばよかったと思った。
それから、ジュリアはさとるを観覧車に連れて行った。観覧車は安全そうに思えたのか、さとるはぶつぶつ言いながらついていった。観覧車にはすぐ乗れた。動きだすと、さとるは言った。
「この頃、全然、セックスないね。おれ、かなり、頑張ってるのに」
「今日はほんとにありがとう。でも、あなた、あの時、泣いただから」
「・・・・・」
「この前の話、あれ、どうなりました?」
「この前の話って?」
「わたしのしあわせ。一番大事。おこたえください」
「しあわせ? どうなったんだろう?」
「・・・・」
「おれのライバルって何人いるのかな?」
「さとるだけ」
 本当か? さとるは何も言い返せなかった。観覧車が高みに達した時、ジュリアはさとるの膝をポンと叩き、さとるをじっと見つめた。
「いま、ロマンチク。なにか、いう、ない?」
「なに、言う?」
「あなた、ほんとの愛かな?」
「ほんとの愛ですよ。すごいルブル(ロシア語のアイ・ラブ・ユー)じゃん。あなたのカバンの中、ぼくの命の十万、あるでしょ?」
「ダー。じゃ、もう、ちょとだけ、お願いある」
「何よ?」
「わたし、ママ仕送り、がんばる。あなた、わたしの携帯のお金。それだけ。OK?」
さとるはOKした。なぜなら、お互い吸血鬼のようなものであっても、何事も交渉なのだった。


翌週、さとるは川崎市中原区役所に行ってみた。婚姻届というものを理解しようと思ったのだ。彼はぺらぺらの用紙の婚姻届を貰い、間違えた時のための、予備の用紙も説明用紙も貰い、最後に係りの女の人に訊いた。
「この婚姻要件具備証明書ってのはどこで貰うんですか?」
「どちらの国の方ですか?」
「ロシア」
「なら、ロシア大使館ですねぇ」
「なんとか証明書の和訳文も絶対いるんですか?」
「必要ですよ」
ジュリアはロシア大使館で作ってもらう婚姻要件具備証明書とその和訳文が必要だった。パスポートも必要と書いてあった。
「もしもですけど、万が一、女性側のビザが勘違いで切れてしまって、オーバー・ステイになっていた場合、どーしたらいいんですかね?」
「えっ! オーバー・ステイですか?」
「・・・・・・・」
さとるは早足で区役所から逃げ去った。
 
 カーチャのフィアンセの佐々木はロシア女性との結婚経験者だった。
さとるが佐々木に電話したら、六本木で待ち合わせて居酒屋で彼の体験談を聞かせてもらえることになった。
彼は八年前にアナスタシアというロシア人女性と結婚した。
アナスタシアは、佐々木と結婚する前に、ダンスショーなどの特別な興行タレントという肩書で、すでに何回も来日していた。その来日の書類を作ったプロモーターが、彼女はロシアで歌手をしていたとか、ダンサーだったとか、適当に毎回違う経歴を書いて、日本入国をさせていた。国は書類の不実記載を理由に、佐々木の妻、アナスタシアに日本国からの退去命令を出した。
国の判断で、強制的に別離させられたと、佐々木はウーロン茶を飲みながら、憤っていた。
彼は行政書士に再審査を依頼したが、国からは放置され、それに耐えきれなかった佐々木は妻、アナスタシアとタイで落ち合った。つかの間の再会の後、一年が過ぎ、彼は妻とタイで撮ったツーショットの写真を、別の審査官に提出した。
その新しい審査官は、以前の疑り深い審査官とは違い、親切な感じの人で、ロシア人の妻のビザを発給してくれた。
その新しい審査官には、
「当時は、偽装結婚が増えていたので、担当者が慎重になっていたと思います」と言われたらしかった。
しかし、もうビザが出ることはなく、日本に戻れないと諦めていた彼の妻は、ロシアで生活の基盤を作りかけていた。妻の母親も佐々木のビジネスがうまくいっていなかったのを知ってか、日本行きについて反対し、そのまま離婚したということだった。

さとるは帰りの電車の中で思った。
すべてはビザの発給が問題なのだと。外国人女性は日本のビザが必要で、外国人女性との結婚は日本人女性との結婚よりずっと難しいことをさとるは初めて理解した。ジュリアは何回もいい加減な肩書で来日してはいなかった。しかし、初来日のビザは期限オーバーで、不法滞在者となっているわけだった。
不法滞在でもなかった佐々木の元奥さんは、疑惑の中、ビザも発行されず、国から退去命令が下ったりするわけだから、現在、不法滞在中の外国人のビザ発給などありえないのじゃないか? 
さとるはジュリアに口止めされていたのもあって、佐々木にオーバー・ステイの場合はどうなるのだろうとは訊けなかった。佐々木はカーチャから聞いていて、知っていたのかもしれなかったが・・・。

ジュリアに問題があれば、さとるにも問題があった。さとるは提出する収入証明書のために、もっと収入が必要だった。会社で働く正社員なら、きちんとした収入証明書によって、事はスムーズに運ぶのだった。
不法滞在であろうが、なかろうが、外国人と結婚する場合、男性側の収入面で不安がないということが、審査の条件の一つだった。
また、不法滞在の外国人女性の場合、日本の在留許可が出にくいのは当然のことだった。
とはいえ、わけあり男女であろうが、結婚はできないこともなかった。また、法に触れる事情を知りながら助ければ、なんらかの幇助になったりもするのだった。とにかく、結婚だけして、あとはビザ申請を根気良くやるしかないわけだった。
日本の在留許可がでなければ、日本にいられない。それが当たり前の厳しい現実だった。
「彼女が大学を出ているのなら、会社を設立して通訳とか、その他の専門職で雇ってしまってもいいですね。そうすれば一年間のビザが出ます」と書いてある文章をインターネットで読む、さとるは経営者どころか、一アルバイトだなぁと思った。ふたりとも話の外の存在だった。愛に関して人間をわけ隔てするとは、実に嫌らしいとさとるは思った。

一方、ジュリアは新たな職場を獲得していた。彼女は不法滞在なのに、なぜか人材として、さとるより需要があり、日本でのサバイバル能力もさとる以上だった。
新たな職場には、カーチャの知り合いがいたのだった。旧ソ連邦・団結・ネットワークは強力で、ジュリアはまた錦糸町でカーチャと共に働くことになったが、店の名前はタランチュラ(毒蜘蛛)と不吉だった。


郵便局には社員、アルバイト、いろいろな男たちがいた。
「書留、二十一通できる?」
「・・・はい」
休憩まであと一分の時にも、アルバイトに何か仕事を与え、人を使いきろうとして、嫌気がさして数人以上のアルバイトが辞めていったという噂の二十代後半だが、強面の社員、松本はさとるに言った。
「絶対、手抜きするなよ」
さとる用のスーパー・カブはブレーキ部分の修理中で、赤い自転車で配達するしかなく、普通郵便に加え、書留二十一通は通常より多く、時間内には配達できそうもなかった。

日本料理店の男はいつも不機嫌だった。
「郵便でーす」
さとるが笑顔をつくり、数枚の郵便を手渡ししようとすると、言われるのだった。
「ポストがあるだろ! 見えねーのか?」
「・・・・・」
午後三時、男は寝起きなのか、いつもお客さんにぺこぺこせざるをえなく、郵便配達を許せなかったのかもしれなかった。本人がいるのだから、手渡してほしいというひともいて、難しいのだった。

夕方、六時が近くなり、もうすぐ配達が終わるところだった。
あたりは暗くなり、家の表札が見えなくなっていた。
さとるは車やバスが途切れることない、杉並区の狭い道路を、引っかけられることなく、自転車で抜け出した。そして、買い物帰りの自転車のおばさんやスーツ姿の男たちが歩く、車の少ない道に入り、一息ついていた。
誰もが早く家に帰り、横になりたいと家路を急ぐ時間帯ゆえ、そこが抜け道と知っている軽トラックやワゴン車がスピードを落とすことなく侵入してきて、さとるの自転車は車の勢いにハンドルをとられ倒れた。車が次々に通り過ぎていった。

車もバスも通る東京の狭い道路での死に物狂いの移動、これは局員が必死でやればなんとかなるものだった。
しかし、郵便局の抱える膨大な無駄、非効率さは、なんともならない問題だった。
職場に、「地域の豊かさ向上のために」という郵便局のポスターが貼られていたが、それはスーパーマンならできる話だった。
一人暮らしの会社員のアパートに、昼間は在宅していないのをわかっていながら、郵便受けに入らない小包を持っていき、また持ち帰ることを毎日、繰り返すのは、建前ばかりの無駄なことだった。
もっと厄介なのは、十年前の住所データで、自社の広告葉書をばらまく会社がたくさんあることだった。ほとんどがその十年の間に引っ越していて、広告葉書を持ち帰り、残業で新住所を転送シールに印刷し、夜にかけて広告葉書に張りまくるしかなかった。

経済状況が厳しい中で、お客さんであれば誰でも、そのわがままを聞くしかなく、郵便受けを作ってください、そして、郵便受けにしっかりと油性のマジックで、名前を書いてくださいとも言えない弱い立場だった。もちろん荷物が遅いとの苦情の電話など数えきれなかった。
だから、局内では誰もにこりともしなかった。
昼休みに配達から戻ると、多くの局員たちが靴と靴下を脱いで、休憩用の畳のベッドに寝転び、目を閉じていた。
さとるは休憩室で強烈な靴下の臭いの中、コンビニ弁当を食べるのが嫌だったので、遅くなっても食堂に行った。その食堂でも男たちは、両手で顔を覆ったまま動かなかった。みな何かに怒っていた。
郵便局はすでに疲弊していた。
先輩局員のストレスは、アルバイトに飛び火した。
仕事が終われば、両手両足はくたくたで、疲労困憊。こちらに非もないのに、これ以上謝りたくもなく、人と接したくなくなった。
さとるは少しあった笑顔も、少しは芽生えた自信も消え、上半身は痩せていき、夢の中で書籍、教材、アルバム、抱えきれない郵便を胸に抱え、人間の全くいない町で立ち尽くした。東京に来たころの感動が、いつのまにかなくなったように、アルバイトで採用されたときの感動もとっくに消えていた。

ジュリアも毎日、通勤と仕事で疲れ切っていた。さとるがアパートに帰ると、部屋に異臭が漂っていた。トイレの戸を開けると床に除菌のドメストが、横倒しになって大量に漏れていた。
「これ、あぶない毒ね。わかる?」
「わからない」
 遊園地で気分が回復したジュリアだったが、新しい店、タランチュラにはまた問題があった。店長の小笠原は店の女に手を付ける男で、フィリピンの奥さんと子供が国に帰っているのに、店の女を狙っていた。それだけでなく、小笠原はパワハラとセクハラの権化で、自分の思うようにならないホステスには、「国に帰れ!  国に帰れ!」と頻繁に暴言を吐くのだった。スタッフとホステスたちのミーティング中に、ホステスが私語をしゃべると、小笠原は、「うるせー!」とホステスの耳を引っ張り、ドレッシング・ルームに閉じ込め、泣かせ、気に入らない客にも、「うるせー! おめー、帰れ!」と怒鳴りつけた。お客の評判も勿論、悪かった。
店にはホステスを選んでお客のテーブルにつけたり、他のお客のテーブルに回したりする三十代の主任がいた。彼は暇な時間があれば、ルーマニア語の本を見ていたので、ほとんどのホステスたちは主任がミキと内緒で付き合っていることを知っていた。
そんなことが先々週、小笠原にバレて、「どうしてくれる?」となり、主任は給料を下げられ、ミキは店を辞めさせられた。翌週、主任は突然、アパートと店から消えた。主任とミキはルーマニアの三番目に大きな街、クルージュ・ナポカに逃げて、ふたりはそこで結婚し、日本料理のお店をオープンするとのことだった。

主任の事件に激怒した小笠原はホステス全員に、「売上げ、あげろ」と圧力をかけ続けた。多くの店が軒を連ねる錦糸町だったが、ジュリアが働けるのは、このようなブラックな店しかなかった。
お客さんたちが彼女のために店で使う金額の合計は、ホステスたちの中でも少ない方で助けが必要だった。ジュリアは、さとるにメモ帳を見せた。
じきゅう・・1500えん×●じかん×●にち、しめい・・・500えん×●かい、どうはん・・・2500えん×●かい、ドリンク・・・100えん×●かい、ボトル、フードの10%・・・。
ジュリアが今月売り上げた、それぞれの回数が書いたり消したりしてあった。店は高価なボトルやドリンク、食事などでしっかり儲けるしかなく、さとるがジュリアやカーチャのために千円のドリンクを買っても、彼女たちにはそれぞれ百円しか入らなかった。ホステスたちの人件費が店の一番大きな支出だったからだった。

ジュリアは明日か明後日、タランチュラに来てほしいとさとるに頼んだ。二時間飲んでも、一万円でいいのことだった。さとるは協力することにした。

 新しい店はシャレードの社長と話した公園のそばの花壇街と呼ばれているところにあった。あたりはラブホテルだらけで、あちこち塗装のはげた、古く茶色い外壁にネオンが光るラブホテルの隣に、無機質な黒いメタリック調のビルがあった。エレベーターを六階で降りると、目の前の木製扉に、Tarantulaと彫ってあった。
 扉を開け、中に入ると、カウンターがあり、ショーケースにお客たちが入れたボトルが並べられていた。
さとるが入口で突っ立っていると、ジュリアが現れた。カウンターの右と左に白いソファの並ぶスペースがあった。ジュリアがさとるを案内し、ソファに座らせると、カーチャもさとるのテーブルにやってきた。ジュリアとカーチャは大阪から、いつも一緒の親友なのだった。

さとるはカーチャとジュリアに挟まれ、ソファに座っていた。
作戦でも練ってあったのか、左側に座ったカーチャがさとるに身体を寄せ、耳に口を近づけ、ひそひそ声で話した。
ジュリアは売り上げが少ないから、シャンパンを入れましょう、スパークリングの安いやつでいい、全部の会計は、二万五千円でいいと彼女は言った。さとるが、
「一万というから来たのに!」
とわめくと、隣のジュリアが嬉しそうに、
「シャンパン、シャンパン」
と同調した。さとるは陰謀にはまった気分だった。
カーチャは店ができて三周年とも言った。
「・・・・・」
「さとる、ジュリアのため、お店、来ない。サポートしない」
「・・・・・・」
「三周年。あなた、おめでとうの気持ち、ない?」
カーチャはプレッシャーをかけてきた。
「ジュリア、この店、嫌いって言ってたけど、好きなの? ここ」
「しかたないこと、がまんするでしょ」
「・・・そんならね、カードの手数料とか全部コミコミで、一万五千円までならいい」
さとるは異国で仕事に苦労している同居人へのサポートと思って、シャンパンを頼んだ。ジュリアとカーチャは小さく拍手したが、さとるは間違いなく破滅への道を突き進んでると思った。

カーチャはさとるのズボンの股間のふくらみを指さし、
「なにそれ?」
と言った。
「おしっことセックスのとき、がんばるところ」
と答えると、
「ちがぁう!」
とカーチャ。もう一度、ズボンの右ポケットのふくらみを指さし、
「それ」
と言った。
「さいふだよ。お金持ちは、ほとんど長財布らしいけど、ぼくは嫌いなんだ。長いのは、すってくれと言わんばかりだからね」
さとるはカーチャにこげ茶の使い古した三つ折りの財布を見せた。
カーチャは千円札ばかりの中身を確認すると、万札がないわねと言わんばかりに、にやにやした。
「目立たないのがいい」
さとるが言い訳していると、カーチャは財布の中にクレジット・カードを見つけた。
「これ、ください」
「だめだよ」
とさとるが言うとカーチャの胸の谷間で、カードのデータを読み取るスキャンのマネごとをして笑いをとろうとした。ちょっとおもしろかった。
「カーチャの胸でたくさんお金やられたって、帰りに警察、行こっと」
彼女は冗談よという顔で、財布とカードをさとるに返した。

それから、シャンパンがテーブルに運ばれ、女性ふたりはシャンパンを一杯ずつ飲むと、席を立とうとした。シャンパンが入ったのを見届けたカーチャとジュリアは急に予定変更なのか、坊主頭の店長もやってきて、ふたりとも他に呼ばれたようだった。
この男が小笠原かとさとるは思った。カーチャはジュリアの残したシャンパンが入ったグラスをじっと見つめていて、薄くついた口紅のあとを見つけると、きれいにナプキンで拭いて、新たにシャンパンを注ぎ足して、にこっと笑った。そして、次の女の子に、あなたのために用意しておいたと言えばいいと、言い残し、去って行った。

黒いドレスを着た黒髪の女の子がやってきた。
彼女はテーブルの上の、シャンパンが注がれたグラスを見て、
「ディス・イズ・マイ・グラス?」
とさとるに訊いた。何も言えなかった。彼女はグラスに口紅のかすかな痕跡を見つけ、眉間にしわを寄せた。さとるは急いでカウンターまで、新しいグラスを取りに行き、彼女に渡した。彼女はシャンパンを自分で注ぎ、一口飲んだ。
「アイ・アム・モレーナ」
ルーマニア出身の彼女は店の名刺をハンドバックから取り出し、その名刺にひらがなで、「もれーな」と書きたかったようだった。「J」をまず名刺に書き、一、一、こんな横線を二本、「J」の上に引いて、「も」を書いたつもりで、それに「れ」と「な」を続けた。
名刺の上に日本語の、「もれな」が完成したが、「も」の、はねる向きが逆なところが面白かったが、彼女の表情は暗かった。
「ジュリアの彼?」
「・・・友達と彼のあいだかな」
「わたし、しずかしてて、いい?」
「どうしたの?」
「頭、痛い」
「なんで痛い?」
「痛いから」
「・・・・・・」
「きのう、救急車、よんだ」
「どーして?」
「ママ、パパにつきとばされた。きぃ、うしなった」
「きぃ、戻った?」
「はい。今日、仕事、行った」
「パパは日本人なの?」
「そう。でも、リストラなって、いま、タクシードライバー。生活、きびしい」
「みんな、生活、厳しい・・・」
 彼女は朝まで仕事をして、始発で埼玉まで帰るのが苦痛だと言った。そんな話をしていたら、目つきの鋭い小笠原店長がやってきた。少し話をしただけで、グラスにシャンパンを余らせ、彼女は次のお客さんのテーブルに移って行った。
シャンパンがかなり余っていて、もったいなかった。さとるはひとりでペースを上げて飲み始めたら、中島美嘉の「雪の華」のカラオケが始まった。さとるのテーブルの前で女の人たちに囲まれて座っていたスーツ姿の中高年集団の中から、恰幅のいいおじさんが立ち上がった。そして、プラスティク・ケースから楽器を取り出し、レゲエ調にアレンジされた、「雪の華」に合わせて頭と身体を揺らして、尺八らしき楽器を吹き始めた。美しい音色だった。いつのまにか、スリムで背の高そうな女性がさとるの隣に座っていた。
「エレーナです。よろしく・・・お酒、一杯、いいですか?」
「はい」
店のペースに乗せられ、さとるは断れなかった。
「ありがとう」
ジュリアは最初だけで戻ってくる気配はなかった。さとるは思った。こんな生活をしていていいのだろうか? この頃は飲んでばかりだ、と。
エレーナは黙っていたので、さとるは話をするしかなかった。
「あなたはどこから来たんですか?」
「ウクライナ」
「ウクライナのどこから?」
「ドォニィプロォペェトゥロォヴスク」
「ドォニィ?」
「だれも言えない名前」
「そうだね」
残りのシャンパンを片付けながら、外国の勉強でもしよう。
さとるは訊いてみた。
「ウクライナはロシア語?」
「違う。ウクライナ語」
「ウクライナ語とロシア語は、だいたい同じ?」
「ちがう。早く話すウクライナ語、ロシア人わからない。ロシア人、ウクライナ語、半分、わからない」
「ウクライナでスパスィーバ(ありがとう)とかルブル(愛してる)とか言わないの?」
「言わない。ウクライナのありがとうは、ザクユ。ロシア語、話すときのありがとう、スパスィーバ。書くとき、スパスィーボ。ウクライナの愛してるは、コハユ」
 彼女はさとるの顔を見て言った。
「何歳? あなた」
「三十五。でも、気持ちがこの頃、どんどん歳とってきてる」
「わたしも、みそじ(三十路)になりました。でも、ウクライナにこんな言葉あります。魂、おばあちゃんにならない」
「いい言葉だね」
「はい」
「それ、ウクライナ語で言うと、どうなるの?」
「ドゥシャ(魂)・ニェ・スターレイットゥ(おばあちゃんにならない)」
「へー、あなたの言うこと、すごい勉強になるよ」
「そうですか? 今、言ったこと、別料金ですよ」
「えっ?」
さとるがとまどっていると、エレーナはふふふと笑った。
しばらくすると、エレーナはスタッフに呼ばれて反対側の部屋に移って行った。結局、さとるはジュリアのためにお金を使い、その晩の任務を果たしたわけだった。


さとるは駅に向かって歩いた。「魂、おばあちゃんにならない」という言葉が頭に残っていた。
失業して夜中に作文を書いていた頃、ひらめきの言葉がどこからかやってきた。なにか大きな存在とつながり、こちらのアンテナで受信する感覚で、その時、物欲がなければひらめきは与えられるが、物欲まみれだと与えられないルールだった。
さとるには、そんな見えない世界をまず知って、信頼して、つながることは大切で、幸福の絶対条件にさえ思えた。目に見えないからと言ってそれらを否定する無神論的生活スタイルだと、大きな権威に右向け右と言われた時に、直感が働かず、命を失うことでも従い、右を向いてしまうからだ。
ひらめきや直感は本当の自分自身を持たせてくれる。独自の判断ができる。それって、お金をもつ以上の価値。うん。そんなことを思いながら、さとるは夜の街を歩き続けた。