2 | (タイトルはいろいろありまして言えないのです)

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「この週末、合衆国大統領が来日します。制服、自転車などを盗まれないように」
班長が皆にそう話し、朝のミーティングが終わると、さとるは机上の郵便物を番地ごとに分け、紐で縛り、黒革の集配用カバンに詰め込んだ。彼は黒カバンと大きなかご一杯の郵便物を二階に止まるエレベーターに載せ、スーパー・カブが並ぶ地下駐車場に向かった。彼は割り当てられた赤いスーパー・カブの前方に黒カバンを設置し、後ろの荷台の赤ボックスにかご一杯の郵便物を詰め込んだ。皆の荷物は多く、通常業務の普通郵便や書留に加え、大きさや量が増す、ゆうパックがあった。

さとるは郵便局を出発し、赤バイクで走ること十五分、持ち場の地域に着いた。そこを出発点として一日の配達が始まり、毎日、ほとんど同じ場所で、清掃車、宅急便の車、犬を連れた散歩中のおじさんとすれ違うのだった。さとるがエアーメールを一通、庭木に登る庭師の足元の郵便受けにポイっと入れ、公営団地、マンションをいくつか回り、赤バイクを道に止め、残りの郵便物を確認していると、
「三丁目どこですか?」
と、どこかのお母さんから声がかかった。お母さんだけではなかった。
「この辺に酒屋さんってあります?」
皆がさとるに道を訊いた。赤バイクの横に車を停車させ、車の窓から顔をだす白髪のお父さんも、
「ここで郵便物、預けるわけにはいかない?」
と無理を言った。
「ここじゃ困ります。郵便局でお願いします」
紺色の制服を着て、屋外にいると、いろいろな人から声がかかるのだった。さとるは煩わしくもなく、誰かと会話できることはいいことなのかもと思った。失業していた時は、一日中、口を動かすことがなくて、「おはよう・・・あいうえお・・・かきくけこ」と誰もいない部屋で、意味不明に声を出したりしたものだった。このストレスが一番苦しかった。彼は人と話す機会がなくなってしまうと、頭がおかしくなってしまうのだった。

さとるはある女子寮で、三十通程の郵便物を部屋番号順に郵便受けに入れていた。一通、郵便受けを間違えたので、彼は郵便受けに手を入れて、葉書を取り戻そうとしていた。すると、
「そこのあなた、なんですかぁ!」
と大きな声が彼の頭上で響いた。このごろは監視カメラですべてを見ているのだった。
「入れる郵便受けを間違えまして」
「こちら、管理人ですが、そこでウロチョロされると困るんです」

そして、山の内荘。四部屋あるこのアパートは、どのドアにも、どの郵便受けにも部屋番号も名前も書いてなかったが、郵便局員は郵便受けを作ってくださいとか、郵便受けに名前を書いてくださいとは言えないのだった。
仕事に出ているのだろう、どのインターホンを鳴らしても応答はなかった。土佐犬だけが今日もどこからか飛び出してきて、アパート周りの庭を走り回り、さとるに吠えかかった。
山の内荘に何度も足を運び、不在届を入れたりしているうちに、さとるは自分のアパートの郵便受けの名前だけは油性マジックではっきりと書き、できたらもっと大きな郵便受けにしたいと強く思うのだった。ほとんどの荷物が入ってしまえば、郵便局員、宅急便業者などの無駄足も減るからだ。

彼を助けてくれる人もいた。
「どこ、探してる?」
八百屋のお父さんは、郵便物を両手で抱え、右往左往しているさとるを見つけると、彼がわからない入り組んだ道の奥のアパートなどの場所を教えてくれるのだった。
さとるはそんな人情に気をよくして、クリーニング店の衣類がアイロンがけされた匂いの中を、中華料理店裏口の香ばしい匂いの中を、赤バイクで駆け抜け、広告葉書を届けるため、担当地域の果ての建設会社を目指した。
「郵便でーす」
無骨な男がカラスがカーカー鳴いている中、眠そうにプレハブから出てきて、無言で広告葉書を受け取った。それから、彼は郵便局に帰り、新たな郵便物を黒カバンと赤いボックスに詰め込み、自動車のショールーム、建設会社、警官が常駐している代議士の家などを回り、夕方、新聞の夕刊の配達が終わる頃、さとるの一日の仕事は終わった。  
身体が疲れた彼は、ジュリアに救いを求めて電話した。
「アロー!(もしもし)。わたし、いま、電車のる」
「今日、行くけど、ジュリアの店ってどこにあるの?」
「きんしちょ」
「錦糸町のどこ? 店の住所」
「じゅしょ?」
「アドレス! アドレス!」
「わたし、がいじん。わからない。おみせ、シャレード」
シャレード。行ってみるのだ。

                 
夜の錦糸町。シャレードはレトロ風な六階建てビルの二階にあった。古いレンガのようなタイルがビルの外壁に敷きつめられ、いくつかのスポットライトに照らし出されていた。二階へのらせん階段周りには、「海老かき揚げ・もつ鍋」、「ジンギスカン」、「シャレード」、「メンバーズ・クラブ」などいくつかの電飾スタンドが並んでいた。さとるはネットでなんとか店の場所を知ることができたのだった。
彼はらせん階段を上り、シャレードの入口扉前まで来ると、中に入る前にお酒が必要だと思った。彼はコンビニに行き、缶チューハイを一本、二本と飲み、シャレードに戻り、重い扉を開けると、暗い室内の小さなステージで、五十代くらいの男性が英語で、イーグルスの、「ホテル・カリフォルニア」を歌っていた。隣には頭だけを左右にぎこちなく振ってリズムをとりながら、お客さんをエスコートしているジュリアがいた。
すぐに上下黒スーツを着た欧州か中東出身と思われる男が近づいてきた。彼に料金システムを教えてもらい、店の片隅のソファに案内されると、さとるは黒いブルゾンを脱ぎ、青のギンガム・チェック・シャツ姿になった。
ソファに座ったさとるを見つけると、ジュリアはまるで刑務所に面会に来てくれた家族でも見つけたようにうれしそうだった。彼女はかかとが恐ろしく高いハイヒールでよろよろと歩いてきた。そして、さとるの隣になんとか腰掛けた。ジュリアは白と黒のゼブラ模様のシャツに、黒いスカートをはいていた。
「足、大丈夫?」
さとるは彼女のハイヒールを指さし訊いてみた。
「これしかない。借りてる」
「何センチ、大きくなったの?」
「十二センチ。わたし、こわい。転ぶ、足、折れる」
「・・・・・」
「何、飲む?」
ジュリアは言った。テーブルには何杯飲んでも料金に含まれている焼酎とブランデーのボトル、水の入ったピッチャー、そして、氷の入ったアイスペールが置いてあり、ジュリアはブランデーの水割りを作ってくれた。
「わたし、ドリンク、オッキー(OK)?」
「OK」
彼女は右手を高くあげ、
「お願いしまーす!」
とスタッフを呼び、トマトジュースを注文し、それからまじまじとさとるの顔を見つめた。
「あなた、目の下、くろぉーい。どした?」
「・・・・」
「太陽にあたらないといけなーい」
外国人の日本語で、そんなことを言われると、さとるはありがたいやら情けないやら、なんとも言えない気持ちになった。
「わたしぃ、イチゴ食べたい。オッキー?」
「オッキー」
「あなた、仕事、なに?」
 最初にクラブで話したはずだったが、さとるはもう一度、言った。
「郵便局。ポストオフィスマン」
「あなた、おくさん、ない?」
「ない」
「リング、ポケットない?」
「ないよ。最初、会ったとき、ひとりって思わなかったの?」
「思ったけど」
「最初、会ったとき、どう思った?」
「まじめ」
「なんで?」
「服、ジャケットだた」
そうか。これからは寒かろうが暑かろうがジャケットを着よう。ユニクロしかないけど。結婚しているかどうか訊かれたさとるも訊いてみた。
「あなたは結婚したことある?」
彼女は視線を落として答えた。
「あのね・・・・ロシアとき、けこん。でも、わかれた」
「・・・いくつのとき?」
「あのね・・・・二十。一年、けこん」
「あのね、あのね、って、どうしたの?」
「わたし、きんちょ(緊張)してるかも」
「子供いる?」
「子供いたら、日本、こない!」
自分から指輪とか結婚関係の話をだしておきながら、不本意な離婚の話になったためか、ジュリアは両目を閉じ、ふーと息を吐き出し、悟りを開いた仏様のように右手をあげて言った。
「こいはもうもく。わかげのいたり」
「どこでそんな言葉おぼえたの?」
「東京」

皿に盛ったイチゴがテーブルにやってきたと思ったら、店のスタッフが右手でジュリアに向かって合図した。彼女は言った。
「あとで、カムバック。今度、たのしい話する」
彼女は他のお客さんからの指名があったのだ。

ジュリアが席を外すと、代わりにカーチャがやってきた。
「わたし、のみもの、いいですか?」
女の子のお酒は千円ずつだった。
「いいよ」
彼女はジュリアのためなのか、探りを入れるように言った。
「あなた、こういうお店、よく行く? 日本の女の店とか」
「キャバクラとか?」
キャバクラという言葉自体がおもしろかったのか、カーチャははじけるように笑った。
「ぼくは行けないなぁ。たぶん、日本人のお店はすごいお金がかかると思う。プレゼントとか、すごいって聞いたことある」
「オィ、それ、しってる。わたし、丸井、一万円、カバン、すごぉい、うれしー。でも、日本人、ルイ・ヴィトンもってる。四十万円」
カーチャは故郷の家族に仕送りする必要もなく、主に自分のためにお金を使える日本人女性が羨ましそうだった。そんな彼女も将来、日本で働いたお金をリトアニアに持ち帰り、生涯、住める場所を買うと言うのだった。
「アパート?」
「ちがぁう。うち、買える」
旧ソ連邦の時代には家族ごとに誰もがアパートを支給されていたが、ソ連邦崩壊後の世代は、家族から独立しようにも、もうアパートの支給もなく、自分の居場所を持てなくなっていた。
彼女は日本で給料を貯金しつづければ、いつかリトアニアで一軒家が買えると信じていた。
さとるはカーチャの家よりずっと気になることがあったので彼女に訊いてみた。
「このイチゴって、一万とかしないよね?」
「ナイ、ナイ。やっすーい」
L字になった店の構造上、さとるにはジュリアがどこにいるのかわからなかった。二股、三股かけるのが彼女たちの仕事のようで、ホステスが複数のお客さんの間で、がちあうことなく、お互い見えないように店は工夫して作ってあった。

「ただいま」
しばらくして、ジュリアがテーブルに戻ってくると、つなぎ役だったカーチャが別のお客さんのところへ移動していった。今度は楽しい話をすると言っていた彼女はさとるにまた水割りをつくり始めた。
「あなた、きょうだい、ある?」
ジュリアは言った。
「妹、いる」
「子供、いる?」
「まだ結婚してない」
「しごと?」
「うん。会社で働いてる」
 さとるも訊いてみた。
「ジュリアは兄弟いる?」
「いない。わたしだけ」
「お父さんは元気にしてる?」
「・・・お父さん、昔、死んじゃった」
ジュリアは水割りをさとるの前に置くと、天井の遥か彼方に向かって、元気でね、とばかりに右手を振った。さとるは話題を変えようと思った。
「・・・お母さんは元気?」
「・・・・・」
 彼女は少し困ったような表情をした。でも、すぐに明るく振舞って、小さな布袋から旧式のデジタル・カメラを取り出し、さとるにお母さんの写真を見せてくれた。
お母さんは太っていた。お母さんと暮らす飼い猫の写真もあった。猫も太っていた。
「おでぶちゃんだから。八キロある」

ふたりのテーブルの右隣は楽しそうだった。テーブルの上のプラスチック容器には、MOETという文字が読めるボトルが空のようで逆さに入っていて、金髪の女が顔色の悪い六十代くらいの男の隣に座っていた。彼らは時々、大きな声で笑っていた。
「なに? あれ」
「シャンパン」
そう言っている間に、隣に二本目のMOETがやってきた。さとるがそのシャンパンをじっと見ていると、ジュリアは、
「あれ、三万円。もっと安いは、二万円。ワインのボトル、一万五千円」
と注文してほしそうに言ったが、彼はそれを聞き流した。
「一杯、千円のがいい」
「じゃ、わたし、ナマ」
ジュリアがサラリーマンみたいな言い方でビールを注文すると、すぐ冷えたビールが大きなグラスで運ばれてきた。彼女はビールを一口飲み、グラスをテーブルに置いた。いつのまにかワンセット料金の一時間が近づいていた。
「エンチョ?」
電話で一時間だけと言っていたが、彼女は営業にも余念がなかった。三十分、時間延長ができるかは、イチゴの値段次第だったので、通りかかったスタッフに訊いてみた。
「このイチゴっていくらですか?」
「五ですね」
彼は甲高い声で言った。
こんな少しで五千円!
「エンチョ?」
「・・・今度の日曜日、デートしてくれる?」
「まだ、はやい。男の人、すぐわからない。なまけものかもしれない」
「なんでそんなに警戒するの?」
「まちがえるといけない」
さとるはまだまだ警戒されていて小さなショックを感じた。ぼったくりのイチゴのショックも加わり、最後には険悪とも言える雰囲気の中、さとるとジュリアは意地の張り合いとなり、お互い無言で座っているだけだった。
「なにかある?」
帰る前になにか優しい一言ある? と言った意味だったのだろうか、ジュリアは尋ねたが、お金が足らないと店にはいられないわけで、さとるが、
「ない!」
と答えると、ぶふっ、と彼女はふきだして笑った。結局、さとるは延長もできず、逃げるように店を後にした。


それから、しばらくしてさとるはアパートからジュリアに電話した。
「あなた、今度の日曜日、休み?」
「しごと」
「休み、あるって言ってたのに」
「わたし、休まない」
「全然、休まないの?」
「わたしのお休み、そうじ、せんたく、アイロン、エステ」
「はぁ・・わかった。また電話する」
「いつ、電話する?」
「・・・・・・」
「電話、待ってますからねぇ」
なんか、うまい日本語だった。

さとるはなんとかもう少し二人の距離を短くしたかったので、プレゼント作戦でいこうと思った。彼はお金に余裕がなかったので、パソコンで音楽CDを作り、店に夜八時から九時の時間指定の宅急便で送った。
「いろいろな歌手の歌ね。ぼくのベスト。百曲はある」
と彼女に電話で知らせた三日後、さとるは気に入ったかどうか電話で確かめた。彼女は電話をすれば、駆け引きなく、すぐ電話に出る人だった。
「CD聞いた?」
「聞かない」
オー・マイ・ガー。                    
「どーして?」
「音、出ない」
「・・・・・」
どうしようもなかった。翌日、さとるは家電量販店でアイ・ポッドを買い、アパートでCDと同じ音楽をアイ・ポッドに入れた。彼はついでに買ったクマのぬいぐるみも小箱に入れ、クマの両耳にアイ・ポッドのイヤホンをあてがい、ガムテープで強引にとめて、クマがアイ・ポッドを聞く形にすると、我ながら素晴らしいアイデアだと思った。二百円のチョコレートも四つ、グミも三つ、いかにも愛情がこもったように、クマのまわりにちりばめた。
そして彼はジュリアに電話した。
「今度は大丈夫。アイ・ポッド、買った。愛するジュリアのために。直接、渡したいから、どっかで会おう」
「・・・・・・」
「いらない?」
「・・・いっるう!」
彼女は待ち合わせ場所の渋谷駅、恵比寿側の端のプラットホームに、餌に引っかかった小鳥のごとくしずしずと、プレゼントを回収にやってきた。紺色のダウン・ジャケットを着こみ、薄黄色のマフラーをしていた。
「うりしー(うれしい)。ありがとー」
さとるがそのふたを開けてプレゼントの小箱を渡すと、ジュリアは確かにうれしそうだった。
「ロシアでも使えるバッテリー・チャージ(充電器)も欲しい?」
「・・・・・・」
「いらない?」
「欲っしー」
そう、ジュリアはさとるに言うと、ホームに入ってきた山手線に乗り込み、仕事に向かった。