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来日前、ジュリアはモスクワの叔母が住む集合住宅の一室にいた。日本で働くためのオーディションがこの街であるからで、仕事の内容は接客業とのことだった。
彼女はモスクワ市最果ての駅である最寄りの地下鉄駅の階段を下りて行き、無人の改札の隣で切符を買った。地下鉄はどこまでも行っても五ルーブル、約二十円だった。
ホームは人もまばらだった。地方の街出身のジュリアはモスクワの地下鉄に慣れていなかった。路線地図を見ると、オーディション会場になっていたホテルのあるイズマイロフスキー駅に行くには、2号線から途中で乗り換え、環状線に乗った後、3号線に乗り換えなければならなかった。
彼女がホームに入ってきた地下鉄に乗り込むやいなや、激しく扉が閉まった。地下鉄は老朽化が激しく、節電のため、照明も暗かった。彼女はかたくクッションのほとんどない長椅子に座り、駅にとまるたびに、駅名を確認した。あと四駅目で乗り換えだった。知らない大都会は緊張した。彼女は乗り換えの駅に着くと、地下鉄を降り、モスクワの人たちの流れについて行き、エスカレーターに乗った。エスカレーターの長さはとてつもなかった。65メートルの地中深くまで続いていた。ビルの十八階から一階まで降りていくような感覚だった。ずいぶん時間がかかった。階段など作られているわけがなかった。ホーム、コンコースなどは第二次世界大戦前から計画、建設された巨大なシェルターでもあった。
アメリカやNATOとの核戦争時には、地下鉄職員の制服を着たロシア軍幹部たちがホームの隠し扉からトンネルを経て、地下深い核戦争作戦会議室にたどり着けるようになっていて、三か月間、二千五百人が会議室周りのシェルター施設で生活できるらしかった。
簡潔な造りのホームもあれば、地下の宮殿のようにシャンデリア、ステンドグラス、大理石などで装飾が施され、アーチ形の天井が駅の端まで続くコンコースやホームもあった。戦争になった時、ホームやコンコースで人々が長期間、過ごすことができるように作られているとジュリアは聞いていた。
最も地下深くにあるホームに着くと、彼女は環状線に乗り込んだ。隣に座っていた大学生らしき眼鏡の女性は暗い車内で、「放射物理」と書かれた本を開いていた。また、手すりにつかまり、立っている髭が伸び放題の中高年男性の持つビニールバックは一年以上、毎日使っているような擦り切れかただった。
しばらくして、彼女は3号線に乗り換えた。・・・・一・・・・・・・・・二・・・・・・三・・・・・四・・・・・五・・・そして、目的地のイズマイロフスキー駅に着いた。ここにオーディション会場のあるイズマイロヴォ・ホテルがあるはずだった。
ジュリアが地下から地上に出ると、目の前に公園があって、樹木が密集していた。公園の入口では、ビールの小瓶をそれぞれ持った男と女が抱き合っていた。後ろを振り返ると、いくつかの高層建築があった。彼女はホテルらしき高層建築の方に向かった。入口の石材には、ИЗМАЙЛОВОと刻まれていた。ここだ。入口から高層ホテルが四棟見えたが、早く来すぎたようだった。
彼女は公園に向かい、ベンチに座り、バックから冷えてしまったピザを取り出し、食べ始めた。ピザが匂うのか、足元にハトがトコトコとやってきた。ジュリアは、ハトにピザをちぎって与えた。そのピザにつられ、すぐに十羽のハトが、彼女の足元に集まってきた。もう一切れ、地面の上に落とすと、新たに十羽ほど。いつのまにか、三十羽ほどのハトが彼女の周りに集まってきた。
ピザを食べ、満足して飛び去っていくハトもいれば、ピザを食べられないままのハトもいた。そんな要領の悪いハトに、何回も集中的にピザを放り投げても、飛んでくるピザに驚き、後ろにジャンプしてしまい、出足で遅れ、くちばしでピザに触るところまではいくが、他のハトにピザを取られ続けていた。
彼女はピザを二つ同時に用意して、右の強いハトと左の要領の悪いハトに、同時にピザを放ると、やっと要領の悪いハトはピザを取り、空へ飛んでいった。
オーディションの時間が近づいてきた。会場はデルタ棟。・・・デルタ、デルタ。彼女は広い石畳の敷地をかなり歩いて外国人専用のホテルのデルタ棟に、そして、エレベーターで会場にたどり着いた。大きな部屋に二十人程の女性がいた。窓からは広大なモスクワが見渡せた。日本人のプロモーターが日本語で仕事の説明をして、ロシア人通訳がロシア語に訳していた。接客業というのは、だいたい想像できたが、ホステスであろうと思っていた。
それでも、ジュリアはどうしても日本に行きたかった。母の家があるサラトフに仕事は少なかった。外国に行くなら、日本が一番よかった。ヨーロッパで出稼ぎが働こうとすると、エロチックな店ばかりを紹介され、セックスさえ強要され、売春婦とさえ悪口を言われると、彼女は女友達から聞いていた。
日本から帰ってきた幼なじみによると、日本人はロシア人に優しく、男性のお客さんと話をするだけで、ロシアよりずっといい給料が貰えるとのことだった。夜の仕事でも、セックスを拒否できるというのが、一番大きかった。元々、彼女は日本に興味があって、十分な貯金ができたら、京都の紫式部の世界や広島の原爆ドームを自分の目で見てみたかった。
ジュリアはそんな日本に対する思いも日本人プロモーターとの面接で話した。彼女は思いがけなく、ダンサーをやってもらうと言われ、人に見せられるようなダンスなどできないと言ったら、素人レベルで十分で、ダンスレッスンもあるとのことだった。素人ダンサーなら、日本語能力もそれほど必要なくありがたかった。面接の最後に、「大阪で会いましょう」とプロモーターに言われたので、オーディションには合格したようだった。面接は二十分で終わった。日本に行ける! ジュリアの気持ちは高揚した。
彼女は自分へのご褒美でホテル内のレストランで食事をとろうと思ったが、どこも自分の予算より高かった。彼女は石畳の敷地を歩き続け、ホテルの外に出ると、小規模な商店街があった。彼女は朝からピザしか食べてなかったので、パンとジュースを買った。小さな商店の壁一面に、ロシアのありとあらゆるお酒が、何段もの棚に並べられていた。
作業服姿の男たちやビジネスマン、その服装に関係なく、男たちが壁の酒を見つめる目は異様にギラギラしていた。商店街の回りには、靴下やシャツ、あめ玉やお菓子などを抱えて、道を通る人々に売ろうとしているおばさんたちがいた。おばあさんもいた。今日の商売を終えて帰り支度の年配の女性たちもいた。
ジュリアはパンとジュースを買った後に思った。今夜、泊まれる叔母の家があって本当に良かったと。そして、このおばさんたち、おばあさんたちが、ちゃんと年金で生活でき、道端で毎日、商売しなくてもいい時代が早く来るといいなと。
夜、遅くジュリアは叔母の家に戻った。翌日から大阪行きの準備をしたあと、彼女は日本に飛び、関西空港から入国した。
ジュリアが大阪に来てみると、ダンスレッスンもダンサーの仕事もなく、やはり、お客さんの隣でお酒を作って、話したり聞いたりするホステスの仕事だった。彼女は初めての来日ゆえ、日本語が話せず、日本語がわかる女性が来るまでの、つなぎ役として、お客さんと片言の英語、または持ち歩いていた日本語ノートで筆談したりして、コミュニケーションをとり、ニコニコしながら、たらい回しにされるしかなかった。
一日の給料がゼロ円のときもあった。ロシアで聞いていた話とは違い、ブラジル人がほとんどの店でジュリアは孤独だった。
彼女は清潔とはいえない生活環境と、コミュニケーションが難しい仕事ゆえ、体調を崩し、もう、挫けそうなとき、旧ソ連邦のリトアニア出身でロシア語の通じるカーチャが入店した。ジュリアはカーチャと一緒に、必死に日本語を勉強しながら、日本語を話し、指名される女性たちのつなぎ役をしているうちに、ふたりは仲良くなった。そして、独学で、なんとか日本語を覚えた頃、ジュリアとカーチャは、入店してきたロシア女性から東京のシャレードを紹介してあげると言われた。一ヶ月に六万の貯金ができ、四日の休みが確実にもらえるという話だったので、ふたりは貯めたお金を持って、東京に出てきたのだった。