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もしかすると、早死にするのかな?という想いは、実は結構昔からありました。

 

 

生命線が異常に短かったからです(笑)

 

 

この時から数年後、この方に、二重生命線なので、一回32歳くらいの時に精神的に死んでいて、そのあとはちゃんと長生きする、ということを教わり、すんごく納得しました。

 

 

当時は早死にするだろうと思っていたので、息子が学生時代にわたしが死ぬのであれば、やることがあると思ったのね。

 

 

それは、障がいのある不登校をしている息子を、社会で生きていける人間に育てる、ということでした。

 

 

自分がいなくなっても、人と関わり、社会の中で生活していける力をつけてもらわなければ、死んでも死に切れませんからね。

 

 

だから、ありがたすぎる仕事のオファーを断り、子どもがワクワク生きていける方を選択したんです。

 

 

不登校を克服できるよう、毎日一緒に通学し、わたし自身も学校でずっと見守ったり、仕事をしながら子育てできるように、起業しました。

 

 

当時の上司も、のちにオープンしたサロンに来てくれたり、大きな観葉植物↓を贈ってくれたりと、応援してくれました。友達も、ね。

 

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不安はあったけど、子どもがどんどん楽し気に学校に通えるようになったので、これでよかった、と思えたんですね。

 

 

子どもが小学3年の終わり、母子登校を止めて、ひとり登下校をしてほしかったんですが、広島市ではNGでした。

 

 

障がいのある子は、保護者が登下校を付き添うのが必須。

 

 

ヘルパーさんも雇ったりしたけど、帰宅時間が毎日違うので、予約もむずかしかった。

 

 

ならば、学童と思ったけど、利用は小学3年までなんですね。

 

 

そこで、せっかく大枚はたいてサロンをオープンしたけれど、6年生まで学童がある大阪に戻ることを決心。

 

 

サロンをわずか4か月で閉めて、地元大阪で活動することにしたんです。

 

 

つづく