水田の ジャンボタニシを 網で取り

   網の目越しに 夏がきらめき

 

 6月も下旬となり,田畑での仕事は,落ち着いているものの,本日においては,里芋が育っている畝の草を鍬にて取り除き,その畝にマルチシートを被せておりました。

 

 例年なら,里芋を植え付けてから1週間以内には,マルチシートを被せているのですが,今年は慌てることは無いと見守っていたら,3ヶ月が過ぎてしまい,その間には畝に草が生えたので一度は除草していたのです。

 

 ところで,水田にて,ジャンボタニシを網で取っていると,夏の風に早苗が揺れて,網の目越しに,大自然が生き生きと輝いているようでもあり,

 

 6月1日に植え付けた早苗はすくすくと育ち,梅雨の中休みの優しい陽射しが降り注ぎ,昔ながらの農村の風景が広がっており,今日の一首にしてみました。

 

 捨てきれぬ この雑念を 払えども

   無心になれぬ 我を見つめる

 

 「心の中に湧き上がる雑念と,それを払いたいという願い」そして「それでもなお無心になれない自分への内省」を,一首にしてみたのですが,

 

 煩悩や執着というものは,「消そう・消そう」と強く意識すればするほど,かえって心に深く刻まれてしまうことがあり,「考えまい」とするほどに,その考えが頭に浮かびやすくなるのではなかろうかと思われるのです。

 

 仏教では,煩悩を「断つ」よりも,「観る」ことが大切だと説かれることが多いようで,

 

 それが起きていることを否定せず,

 

 ただ静かに気づき,

 

 とらわれずに通り過ぎさせる。

 

 まるで雲が空を流れるように,あるがままに観ていくことで,煩悩の力が次第に弱まっていくと,されているらしく,

 

 煩悩を「観る」(自己の心の動きを,静かに見守ること)ことが,結果的に煩悩を超える智慧に至る道のようであり,「断つ」のではなく,「煩悩とともに歩み,煩悩を透かして真理を見る」という姿勢が大切にされているようなのです。

 

 そんなことで,雑念を必死に振り払おうとせず,「いま自分はこれに執着しているな」「煩悩が湧いているな」と,少し離れたところから見つめてみると,結果的に心が静かになってゆくと思われたのです。

 

 訪れて いいねを残す ブログ記事

   優しさ受けて 今日も励みに

 

 創作や発信をしている人にとって,「いいね」や「コメント」といった反応は,大切な励みになり,誰かが読んでくれて,共感してくれたという実感は,投稿した人の多くが抱く気持ちかと思われ,

 

 「いいね」をもらったら,次はもっと良いブログを書こうとするのは,真摯に読者とのつながりを大切にしている証であり,

 

 こうした気持ちを大切にしながら,記事を書き続けることで,読者が集まり,ブログがますます魅力的になってゆくものと思われたのです。

 

 床を掃き 窓を磨けば 鳥の声

   いつもの朝が 少し晴れやか

 

 梅雨が明けたかのような,爽やかな夏空の広がっていた一日でした。

 

 この天気に誘われて,午前中は,水田に出掛けたところ,稲の苗が残っていたので,植え損ねた場所へ,苗を植え付けたり,

 

 午後からは,畑にて,挿し木で育ったトマトの苗に支柱を立てたり,ミニトマト・トウモロコシが育っている畝に,雨除けの小さな屋根を取り付けておりました。

 

 ところで,朝食後に急に思い付いて,畳と板の間の床を掃除機で掃除し,

 

 ついでに窓が曇っていたので,半乾きの雑巾で磨いたのですが,

 

 雨上がりの庭から,小鳥の声が聞こえ,普段の朝より,気持ちが晴々としたので,本日の一首にしてみました。

 

 厳しさの 中に潜める 優しさを

   見つけた折は 時過ぎてから

 

 若いころや未熟な時代には,「厳しさ」はただの痛みや理不尽に感じられ,親や上司の言葉が,まるで自分を否定しているように響くこともあり,その頃の自分にとって,理解するには感情が先立ってしまう時があったようです。

 

 しかしながら,年月が過ぎ,自分自身が親や上司のような立場になった時や,同じような経験を積んだ折に,

 

 「あの時の厳しさは,自分を突き放すためではなく,支えるためのものだったのかもしれない」という気づきが訪れたことがありました。

 

 それは,怒鳴る声(パワハラではない)の奥にあった不器用な愛情であったり,ただ見守るしかなかった沈黙とか,言葉ではなく背中で示そうとした誠意など,当時は見えなかった「優しさの形」が,心の中でようやく浮かび上がる瞬間でもあったのです。

 

 それを知るのが,何十年も先だったとしても,人はそこで「恩」に気づき,「感謝」に変えることができて,それこそが「時の重み」によってしか見えない人生の真実の一つとなり,

 

 この気づきは,人間としての成熟の証となって,その気づきによって,本人が次の誰かに優しさを渡す番になるのかもしれず,そうして人の情は,静かに循環していくのだと思われたのです。

 

 神仏と 共に生きれば 悔いはなし

   守られし日々 ただ感謝のみ

 

 「神仏と共に生きる」という姿勢には,日々を丁寧に生き,感謝を忘れず,自分の在り方を見つめ直す力があり,信仰の有無にかかわらず,多くの人にとって心の支えになり得るものであるところ,

 

 「神はいない」と断言する立場もあり,それは,理性や科学,現代の知の枠組みの中で世界を見ようとする態度とも言えるのでしょうが,あくまでも一つの見解であり,絶対的な真理ではないのでしょう。

 

 人が神や仏を信じるか否かは,科学的証明を超えた,生き方や心の在りようの問題であり,神や仏の存在は証明できないかもしれませんが,

 

 信じる心が人を穏やかにし,世界を穏やかにするという意味で,信仰には深い価値があり,神仏と共に感謝の心で日々を生きることは,この世界にとって大切な在り方だと思われたのです。

 

 徐行時は ブレーキペタルに 足を置き

   何時でも止まる 用意をしてをり

 

 高齢化社会となり,80歳を過ぎた老人が,車の運転をしていることは多くあるところ,

 

 高齢者の事故の中で,ブレーキペタルとアクセルを踏み間違えて,急発進して事故になったと,テレビのニュースで,度々に放送されておりましたが,

 

 徐行時には,ブレーキペタルに足を置いて(オートマチック車),何時でも止まれる用意をしておけば,事故を未然に防げると思っての一首になりました。

 

 この踏み間違いによる事故の背景には,加齢による判断力・反射神経の低下とか,足の動きの鈍化や感覚の衰えに加え,車の操作に対する慣れが裏目に出て,無意識に操作してしまうといった要因があるようですが,

 

 「徐行時にブレーキへ足を置く」ことは,踏み間違いのリスクを減らし,急な飛び出しなどにも即座に対応できて,自分の意識を「止まる」ことに向けられる点で非常に効果があると考えられるのです。

 

 しかしながら,それでも事故が起きるのは,「慣れ」や「油断」があり,「アクセルを軽く踏みながら徐行している」ことも多いようで,特に駐車場などで「ちょっと動かそう」と思ったときに,ブレーキから足を離してアクセルに移動し,そこで誤って強く踏み込んでしまうケースが多発しているらしい。

 

 何れにせよ,運転中には「常にブレーキを掛けられる状態にしておく」という意識があるだけでも,事故を大きく減らせる可能性があるので,そのような「当たり前のことを丁寧に続ける」ことが,最も現実的な予防策とも思えたのです。

 

 風そよぐ 畦に並べし 田植え苗

   早苗の声に 雲も微笑み

 

 松山地方では,田植えの真っ只中であるのですが,初夏の農村の風景に心を澄ませていると,

 

 畦に並べた早苗たちが『今年もよろしく』と語りかけてくるようであり,

 

 空に浮かぶ雲さえも,早苗の声に応えるように,穏やかに微笑んでいるような気がしたのでした。

 

 久々に,自然と人の営みについて,穏やかに交わる風景を,詠んでみたく,

 

 田植えが行えるという静かな喜びや,命の循環の始まりを感じつつ,季節感・視覚・情緒を調和させて一首にしてみました。

 

 作業では 基本を守り 確実に

   成果は自然と あとに続きぬ

 

 各種作業を行う際には,基本を守り,工程を一つひとつ確実にこなすことは,安定した成果や成長につながる,最も堅実な方法であり,

 

 基礎を大切にすることは,土台をしっかり築くことに等しく,その上に積み重ねるものは揺らがないと思われるのです。

 

 また,基本を守り,確実に工程をこなすことは,成果を生み出すために,もっとも確実で安定した道の一つであると考えられるところ,

 

 それだけで足りないと感じたときは,見直しや工夫も取り入れると,成果は自然についてくるとも思われたのです。

 

 何やら,思い付いたままに,書き並べてみたのですが,今回の田植えに際しては反省点が多くあり,次回の参考にならないかと思い,以下へ反省点を記録しておきたいのです。

 

 秋に収穫を終えた水田は,翌年の寒の頃に耕し(土中に住む虫を弱らせる),次に4月と5月の上旬に耕し(草を枯らす),更に5月下旬の代掻きの前に耕し,田植えの3~4日前に代掻きを行い,田植えの日を迎えることになるのですが,

 今年は,予定とおり行えず,田植えの際に土が固くて,田植え機の車輪の跡が水田に残ったりで,イマイチ田植えがスムーズに行えなかったのです。

 

 また,代掻き時には,以前から2輪駆動で行っていたので,今年も同じモードで代搔きをしていたところ,前輪に土がまとわり付いて(5月17日に耕し,5月27日に代掻きをしたせいか),走行中に前輪が止まると同時に,ギー・ギーと音がしたので,2回目には,これでは,前輪が壊れてしまうと考えていたら,4WDのモードにするべく思い出し,難を逃れた(4WDでは,前輪に土がまとわり付かなかった)のでした。

 

 そんなことで,昨年までは,2輪駆動で土がまとわり付いても,こんなものだと,作業を続けていたのが,今回の障害で,代掻き時には4WDにて,作業を行おうと,確信したところでもありました。

 

 この4WDについては,畑を耕す時にも効果があるようで,2輪駆動で耕すと,耕した面が,波のようにくねることがあるものの,4WDで耕せば,耕地が平らになりやすいのです。

 

 2輪駆動にしていたのは,路上走行時に,乗用車のようにトラクターが走行するので,特に考えもせずに,そのまま耕耘していたのでした。

 

 ひとつでは 測れぬことの 多かれど

   角度を変えて 真意を見極め

 

 物事の真意を見極めるためには,一方向からの見方では不十分であることが多く,多方向から角度を変えて見ることが,重要であると考えられ,

 

 例えるならば,彫刻作品を一面からだけ見て,評価しようとするのと似ており,

 

 正面から見れば優美でも,側面や背面から見れば,異なる印象を与えることもあるらしく,

 

 真意や本質は,視点とか時間や状況を変えて,観察したり比較しながら考察することで,より鮮明に見えてくると思われたのです。

 

 他にも,誰かの言動を理解する際には,ただその言葉だけを聞くのではなく,

「なぜそう言ったのか」「どんな状況だったのか」「普段の行動や価値観はどうか」など,

 いくつかの側面から観察して,その真意に近づくことが出来るのではなかろうかとも考えておりました。

 

 何やら,とりとめのない一文になりましたが,多方向からの視点を持つことは,洞察力と寛容さを深めるために,大切な姿勢なのでしょう。