厳しさの 中に潜める 優しさを

   見つけた折は 時過ぎてから

 

 若いころや未熟な時代には,「厳しさ」はただの痛みや理不尽に感じられ,親や上司の言葉が,まるで自分を否定しているように響くこともあり,その頃の自分にとって,理解するには感情が先立ってしまう時があったようです。

 

 しかしながら,年月が過ぎ,自分自身が親や上司のような立場になった時や,同じような経験を積んだ折に,

 

 「あの時の厳しさは,自分を突き放すためではなく,支えるためのものだったのかもしれない」という気づきが訪れたことがありました。

 

 それは,怒鳴る声(パワハラではない)の奥にあった不器用な愛情であったり,ただ見守るしかなかった沈黙とか,言葉ではなく背中で示そうとした誠意など,当時は見えなかった「優しさの形」が,心の中でようやく浮かび上がる瞬間でもあったのです。

 

 それを知るのが,何十年も先だったとしても,人はそこで「恩」に気づき,「感謝」に変えることができて,それこそが「時の重み」によってしか見えない人生の真実の一つとなり,

 

 この気づきは,人間としての成熟の証となって,その気づきによって,本人が次の誰かに優しさを渡す番になるのかもしれず,そうして人の情は,静かに循環していくのだと思われたのです。