白血病患者に子をもつ希望を 卵子・精子凍結の支援募る(朝日新聞デジタル) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190404-00000052-asahi-soci


以前の私の告知されたときのブログで、
《独身の40歳だから》
『生理は来なくなります』としか言われなかったと思っていたが、
もしかして医療者から率先して卵子や精子の保存の話はしないものなのだろうか。

2016年11月、ふと鏡をみていると目の周りがアイラインのようにくすんでいるなと思っていると

肌色だった頭皮もうっすら青くなっていた。

そう、毛が生えてきていたのだ。

まだ抗がん剤治療は続いていたが、標準治療での抗がん剤ががん縮小までの効果がなかったため

新薬に変更して暫くした頃で、通常の細胞分裂を妨げないものだったので

一気に芽吹いて来たのだった。

それからはどんどんと全身の毛という毛が生え進んできて

中でも髪の成長の早さは生命力の強さを感じて力がみなぎっているように感じた。

ちなみに頬や背中の産毛も激しく生えてきて、桃のようで中学生の頃のようだった。

 

1ヶ月当たり1.2~1.5㎝の早さで生えて行き、

すべてが成長期の毛であるため、2年近く殆ど抜け毛がなく楽だった。

去年の『快気旅行』の記事の時がほぼ1年で16~18cmになり、

先月10月で26~28cmほどになっていた。

私の場合は生え始めの毛が癖毛でクルクルになったのを面白く楽しめたし、

切りそろえればその分伸びるのも時間がかかるので前髪のみカットして伸ばしたままにしていた。

生え始めの頃が黒々としておかしかったので染めていたし、

先細りの最初の毛は弱いのかよく傷んでいたので

『人の髪は1年、ないしは2年でどのくらい伸びるのか』という実験もかねて放置してみて

見事ほぼ2年となったので断髪した。

自然な抜け毛も増えてきた。

(人の頭髪は寿命が5年ほどで抜け替わると言われているが、

それより短いものも長いものもあるから腰下まで伸ばしている人もいる。)

 

ここからは美容師であり脱毛を経験した私からの見解です。

 

早く髪が伸びないかな、かつら卒業したいからどうにか普通の髪型に見えるようにならないかな、

と美容室に頻繁に通う方も少なくないように感じますが、

私のおすすめは『触らない事』が当然一番早く伸びます。

ちなみにすべての長さが同じカットを『セイムレイヤー』といい、頭の形に左右される髪型です。

髪の伸びる速度は前髪に近い方が伸びが若干早く、後頭部の方が遅い傾向があります。

ボブまで伸ばそうと思うと頭頂部の毛が下りたところまでだと、

襟足の2倍~3倍の長さが必要になるので2年位はかかります。

その上、一部を切りそろえると生え始めの先細りの毛との馴染みが悪くなるので

まったく触らずスタイリングを工夫することが出来るなら早道かと思います。

エクステンションでかつらを卒業しようとする方も結構いるようですが、

本来表面の毛で結び目やシールを隠すので、

表面の癖が強かったり短すぎるとかなり難しいし金額もかさみます。

伸びるまでの過ごし方の選択はそれぞれですが、生えそろったらその頃の悩みも懐かしさすら感じます。

 

ちなみに断髪後の私は元の程度の癖毛で乾かすとほぼストレートになってしまい寂しさすら感じます。

個人的にはホルモン療法はないため前髪が薄くなることもありませんでしたが、

前髪、モミアゲ、襟足の生え際一周が以前より短めで癖が強くなったようです。

元々40代中盤頃から元々女性ホルモンが減少(更年期)の影響で前髪の寿命が短くなるのか伸びなくなる人が多く、

ホルモン療法をやっている方も同じようになるようで伸びも遅くなるようです。

それと私はまつげの毛周期がそろってしまい、

未だに一気に抜ける時期があるのであちこちハゲができます。マスカラはつけなくなりました。

少しづつずれが出来て生え変わりがバラついて来たかなという状況。

 

随分更新が滞っていました。やはり気が重いこの日の記憶。

恐らく読んでいただくと、気が重いというのが嘘のような内容になると思いますが…。

 

昼に病院に行き、なんだか事務的な準備や説明などをしたと思う。

術後の前開きのスポーツブラのようなものを強制的に選択させられ(色・サイズ)

足先が開くふくらはぎの圧迫靴下(白)や提携(?)のシャボン玉石けんと歯磨き粉などのセットを渡され、

カツラや身に着けているものを取って、手術着に着替え、いつまでに靴下を履いておくようになど。

手術の時間まで『回復室』で待機し、特にやる事もなく寝不足気味だったので寝ていた。

(前回の手術のくだり)

 

それから16時だったか18時だったかにいざ手術室へ。

詳細はもうあまり思い出せないが、診察の先生が様子を見に来てくれた。

手術に直接係わらない先生が気にかけてくださり、安心するよう言葉をかけて頂き優しいなと思ったが、

先生『カツラは取って』

私『地毛です』

先生『凄い生命力!』

というやりとりを残し去って行った…。なんなんだ(笑)

 

それからは脊髄に麻酔を打ち、

(個人的にはこれが痛みよりも、動いてうっかりズレて刺されると半身まひなどになるのではないかという恐怖)

その後、口には酸素吸入と一緒に別に眠らせる薬を吸引させられ意識を失う。

 

次に目が覚めた時、執刀医の先生と他の先生か看護士などの雑談のような話し声が聞こえてきて

『不味い所で目が覚めてしまったのかな、私』

と思っていたら手術が終わったようだった。計算ずくだったのかとホッとした。

 

が、間もなく『では起きてください』と看護士に言われた。

説明は受けていたが、誰にこの話をしても凄いねと言われる。

『大丈夫ですか?では回復室に戻りましょう』といって、自力で歩いて病室に戻った。

そういう病院なのです。

 

それから自分の回復室でベッドに横になり、すぐにはまだ朦朧としていて痛みや手術の実感はなかった。

時間にして手術は2時間ほどだったのを確認したのを覚えている。

病院からも母には連絡して貰えたのだが、自分で手術していない方の左手でメールを打ったと思う。

それから眠った。

 

睡眠導入剤を飲んでいたと思うが、

眠っていても担当看護士が1時間おきに様子を見に来るのでその都度目が覚めた。

手動で痛みを感じたら痛み止めを入れるスイッチを押してくださいと渡されていたのだが

時間が経つにつれて背中が痛く、水を飲むときに電動でベッドを起こして良いと言われていたのを

少し起きた状態にして寝ていたら、様子を見に来た看護士に怒られ、

『背中が痛すぎて寝ていられない』と訴えると

傷口を圧迫していたバンデージ(デポジット1万円でレンタル)を緩めてくれた。

傷口よりも胸の上部の淵が痛かった。(後にリンパ液を外に出す管が入っていたことが分かった)

未明になってから看護士が来るたびにあちこちに入っていた管が1つづつ抜かれて行った。

 

母は立ち会えない(待つ場所もない、近くのホテルに泊まるのは拒否)代わりにタクシーで帰るように約束してと言っていた。

私はゴールデンウィーク中に車の方が時間がかかる可能性もあるし

事情を知らない運転手がお喋りだったら、それに1時間も付き合う方がウンザリするから電車で帰ろうかと思っていたが、

こんなに痛くて苦しいのはやはりタクシーじゃなきゃ無理だな、と思いながら朝を待った。

 

バンデージを緩めて貰ってから少し楽になり、なんとか少し眠れやっと朝が来た。

丸一日絶食だったので、お腹が空いて、とにかく朝になり何か食べられるのを心待ちにしていた。

病院食は味気ないものを想像していたが、この病院は1階に健康食のレストランを経営しているので

そこから運ばれてくるのか、オシャレなカスクートにサラダと果物とヨーグルトだっただろうか、

それまで糖質制限を割と徹底していたのだが、むさぼるように平らげた。

 

不思議なもので食事をとると一気に元気が湧いてきた。

看護士さんが来て『ちゃんと食べれましたね。では洗面とトイレに行きましょう』と連れて行ってくれ説明を受け

『準備が出来たらそのままお帰りくださって大丈夫です。もし調子が悪ければ休んでいただいても大丈夫ですけど』

と、追い出されるような思いがしたが、のんびりしていてゴールデンウィークとはいえ混んでくるのは嫌だと思い

予定通りの朝8時ごろ、病院は閉まったままの時間、外に出て独りで歩いて駅へと向かった。

 

 

 

密かにフォローしていて応援している若きスキルス胃がんのお父さん。

私が抗がん剤治療を受けていた間、毛が抜けても身体がだるくても、

運命と諦めて、いつも通りに淡々と仕事や夜遊びをしているとよく掛けられた言葉。

 

『頑張れ』

 

本人は大した意味も考えずに掛けるける場合が多いけれど、

当人にとっては『これ以上何を頑張れと?酷な事を言う訳?』とすら思って

『いや、私は頑張りません』と答えていたのを思い出した。

じゅうぶん頑張っているわ!頑張ってきた結果がこれだわ!と。

人にも依ると思うけれど、『応援している』と言われて実際に気づかいして貰えるのが尊かった。

 

でも、心の中でいつも応援しつつ読みながら『がんばれ』と思っている。

(私の手術のブログをなかなか続きかけなくてごめんなさい)

手術からの後をブログになかなかできずに7月になりました。

正式に乳がん宣告を、ただ独りで聞いてから2年になります。

 

乳がんで間違いないであろうと悶々としつつも普通に過ごしていた6月、

宣告されて即、抗がん剤治療を勧められて受け入れられず、

いずれにしても治療するつもりがなかった私。

その時の主治医になんとか力を振り絞って

『このままいくとあとどのくらい生きられるのですか』と聞くと

『2~3年でしょう。でもその間に肺に転移すれば息をするのも苦しくなるし

骨に転移すればもの凄く痛いです。』と怒りを押し殺すように呆れて言われた。

この言い草に、この先生には私の気持ちは分からないであろうと放棄することになった。

 

補佐の看護士さんは親身に聞いてくれ、

『私たちは治療を強制することはできないですし、

実際に治療をしなかった方が何人かいらっしゃいました。』

と、先生に仲介して話してくれたが、先生は≪病気≫⇒≪治療≫の公式しかないのだろう。

その言い方だけでも考えが変わったかもしれないが、その能力は持ち合わせていなかった。

 

そんな中、死に至るまで思ったより長い2~3年の間に何が起こるのかを知りたかった。

これを語る人はなかなかいないし目にすることはない。

ネット検索で見つけた無治療のmikaさんのブログと画像。

衝撃的だった。誰も教えてくれない真実があった。

そして初めて『死ぬのも簡単じゃない』と思い、

ドラマやドキュメンタリーで見る、やせ細って寝たきりになって死んでいく癌患者、

になる前に起こる乳がん独特の経緯。それは私はやり過ごせそうもないと思った。

http://www.el-aura.com/mika_y20180701/

しかしもし、あの時放置して通院拒否して過ごしていたら、

私は今頃最期の時を待っているか、もう他界していたかもしれない時期になっている。

生きてて良かった?

そんな風に思う事は少ない日常ではあるが、

簡単に死ぬことも出来ない事を悟って受け入れた標準治療。

手術して1年少々。

今でも胸の違和感と、ストレスを感じると”癌があったところ”が痛むし、

少しマシになったけれどリンパ浮腫という後遺症。

気が付けばゆるめになっても糖質制限を続けていたのに増えていた体重に焦り

置き換えダイエットスープと休日のジョギングで減量中という今日この頃。

生きてて良かったと心から思える日は来るのかどうか…(笑)

 

 

 

ゴールデンウィーク真っ只中に手術が決定し、前日まで働き、

母が実家から私の面倒を見るために夜到着して翌日に備える、予定が、

知り合いの老舗和食店の親方が焼鳥に誘ってくれて、

母が到着までの短い間に空腹に耐えかねて食べに出かけた。

ビールは飲んだか忘れたが、手術の手引きをよく読んでいなかったのでやっちまった感。

 

当日は昼ごろ来るように言われていたので、身支度をして

最寄りの観光でごった返している駅に面喰いながらからひとりで出発。

母はギリギリまで、病院に付き添って待合で待つとか、

いやクリニックだから24時間開放されてないし近くにいたいならホテル探すから、

いやホテル取るほどではない、でも一人で横浜から都内の地下鉄乗換とか出来ないでしょ、

とかいうやりとりをずっとやっていたが、家で待つことにしてくれた。

その代わりタクシーで帰ってきなさいと。

 

病院に着いてからは診察や検査や説明など、

昼過ぎから病室のような部屋をあてがわれて安静に手術の時間を待ってとの事で寝ていた。

当日は絶食だったので、ずっと、あーお腹すいたなーと思っては水を飲んでいたかな。

16時~18時ごろだったかに手術の順番だった。

胸にしるしをつけられて、いよいよという時。

覚悟はしていたはずだけど、怖さがどんどん増していた。

 

 

 

4月23日

ついに先週で抗がん剤治療が終了。結局ここ数ヶ月は変化なく手荒れと倦怠感との闘いだった。そして手術に向けてまた忙しくなり…。とにかく検査費用とか高くてビックリ。

職場では、体調とか気遣ってくれる人はおらず、オーナーに至っては、お見舞いの言葉すら半年もなかったし、どういう神経しているのかと理解できない一方、ガンになって抗がん剤治療をしているのを聞いた人が、急に私の事を『偉い』とか『強い』とか言って親切そうにし始めるのにも違和感を感じてきた。

私の本質は何も変わっていないのに、急に『頑張り屋』『忍耐強い』とかに扱いが変わって、病気になる前は、神経質な頑固者という感じ。あと全く知らない人がたくさんいる前で『どこの癌なの?』とか、私が癌なんだよって仲良くない人にまで言う人も。なんで急に偽善者になって、普通の時に親切に出来ないんだろうね、ということが昨日あったもので、逆に嫌な気持ちになるのだよ。

 

4月27日

先日の検査結果を踏まえて、ついに手術が決まりました。エコーでは1㎝と言われていましたが、MRIとPET-CTの結果、ほぼ消失という結果。手術は免れませんが、長い抗がん剤治療の末、やっとスタートという感じ。今日は朝から4時までずっと病院でしたが、待ち時間に『患者の会』みたいなのに強制的に参加させられて、本当は興味なかったのですが、同時再建・他院での手術後再建という方々の体験を聞き、参考になりました。そして手術って限度額認定保険金額だけで済まないんですね。手術は早めて5/5、早期職場復帰できるようにして貰いました。前日まで必死で働くことにして忙しくなるぞー。

 

after

 

before

 

 

 

ゼローダ(経口抗がん剤)になってから2~3ヶ月で驚くほどの癌が縮小し、

予定より早く手術して貰えるのではないかと期待していたが、

副作用が問題なければ全クールしましょうと言われガッカリはしたが、

無事6クール(3週間服用後1週間休薬を6セット)が遂に終わった。

そして通院日についに先生が手術の話を始めた。

 

癌が小さくなってから、早く終わりにしたいという思いと、

いざ小さくなってくると手術をしないで済まないのかとも考えるようになっていた。

一度先生に今後の展望を聞いたことがあったが、

明確な選択肢は与えて貰えなかったものの、

切らないで様子を見るというような事も言っていた。

癌だったところを置いておいて生活するのも不安だという思いと、

切らずに済むなら手術はやはりしたくない。

しかし、5クール目の後頃に手術の予約をしておきましょう、と

手術以外の選択肢はなかった。

 

一旦待合で待っていると通りすがりの検査担当の先生が突然

『痛くない方がいいよね』と言うので驚いて

『は、はい…』(痛い方がいいという人はいないだろう)と答えた。

それから手術日を手配する段階になって、

麻酔科医と執刀医の取れる日が5月下旬と言われ、

いや、以前手術日を押さえとかないとと5月15日で調整すると言っていたはず、

しかし下旬しか空いてない?また【この病院大丈夫?】の案件だ。

 

結局5月25日なら麻酔医と執刀医の都合がつくのでこの日にしましょう、

と一旦承諾したのだが、他の看護士だったかと話をしていた時に、

全身麻酔以外で方法があればもっと早く出来ないかとお願いしてみた。

約2週間仕事を休む前提で、やはり暇な時期に休んで復帰したいという気持ちから、

GW直後から24日まではだいたい暇になるので、

その時期に終わらせてしまいたいという都合だった。

そうすると急遽5月5日なら大丈夫ととんとん拍子に話は進んで行った。

 

 

 

手術のことを書かなくてはと思いつつ日が過ぎていく。

全てが一応終わってからも色々と葛藤があるもので…。

とりあえず美容師にとっての忙しい年末年始を終えて

いつのまにか新しい年となっていた。

 

1/5頃に風邪のような症状が出て熱っぽく『まだ疲れを出すわけにはいかない』と

寝て起きてなんとか仕事に行っていたが、

治ってきたと思ったらまたぶり返して1月中旬までは体調不良であった。

ネコからの感染症で亡くなった人のニュースをやっていて

『もしかしてインコから感染?』と思い(前にも咳が酷い風邪を引いたときに疑われた)検索。

【インコ】【肺炎】【感染症】

その結果は『オウム病』

 

症状はまさに合致!しかも発覚した場合は保健所に届け出義務のある感染症。

しかしオオゴトにならずに治す方法は?

で、ただのぜんそくなどの診断で治っているケースも多くあると思われると有効な抗生物質がかいてあり、

もしやと思って照合したところ、抗がん剤治療中に『発熱した場合はすぐに病院に連絡を取り飲み始めてください』

と処方されていた抗生物質が3番目に載っていた。

 

そして自己判断で飲み始めたが一向に良くならない。

同僚やお客さんからも『インフルエンザB型は熱が続かない事もある』と疑われ、

夜中の咳でこのまま孤独死したら困ると、重い腰を上げて仕事前に病院に行った。

 

結果は…風邪でした。

小学校低学年くらいに受けたのが最期のインフルエンザの予防接種、

それ以来インフルエンザに罹ったことがない。

抗がん剤治療中も風邪すら引かなかった。癌にはなるけど流感には罹らない…。

今回思ったのは、やはり肺がん(肺転移)はこんな咳が続くのは辛いだろう。

誰でもいつか死ぬのだけど、一体辛くない死に方はあるのかと思うと堂々巡りだ。

(病院の処方で咳止めと痰切りという薬を出して貰いあっという間に楽になった。)

 

 

 

 

今日は現在の事を少し。

 

8月末に術後検診に病院に行った際、

『2年くらいは半年毎にPET-CTで経過を観た方がいいので年内に1回受けて』と言われた。

旅行前で準備と仕事で忙しく、自己負担3万円も後回しにしたかった為、

旅行が終わったら予約しますと先延ばしにしていた。

 

いつにしようかと考えつつ、12月になるとまた仕事も忙しくなるし、

医療控除の関係で年内に受けておこうかと

担当の看護士さんに連絡を取り、予約をお願いした。

私の掛かっている病院にはPET-CTがないので紹介先の検査専門病院となる。

その日に連絡があると思っていたがないまま、

翌日留守録に日時の決定が残っていたが、都合の悪い日時で変更の必要があった。

 

更に翌日、突然宅配業者が訪れ、

着払いだというので間違いだと思うので待ってください、と、看護師に連絡したところ、

『患者さんに負担していただいています』と平然と言うではないか。

負担はともかく何かの書類を送るのに、

何の説明もなく900円余りの宅急便で着払いを送ってくるなんて意味が分からない

と憤りを感じた。そして、もう嫌になり、受取拒否にして貰った。

 

検査の病院の方には、変更は自分で直接電話をと言われていたので、

都合が悪くなったのでキャンセルしてください、と連絡しておいた。

その後、かかっている病院からは何の連絡もない。ちょっとホッとしている。

着払いの件もあり得ないが、それだけで嫌になった訳ではない。

 

術後の共済に手術の申請をするのに

保険点数表が必要で電話で問い合わせをしていた。

その時の電話口では、診断書のようにお金のかからない証明であること、

郵送で送って作成して貰うことが出来ないので次回の診察に持参をということ、

診察中に作成してくれるような口ぶりだった、が、

実際には『〇〇日後に出来るので取りに来てください』と言われたのだ。

 

次の診察は半年後で良いと言われたので郵送してくれと言っても

『郵便ではお送りできません』というので、書留で送ってくださいと言っても

『個人情報なので手渡しのみとなりますので、お近くに来られる際にでも』というので

都内には全然用事がないので来ません、と訴えても

『お友達やご家族は…?』と。個人情報だっていうのに人には預けられるのか?

とにかく聞き入れられないので、半年後に間違いなく貰えるように言って帰ったのだ。

 

この必要書類は送れないの一点張りなのに、

私にとってはどうでもいいような書類を送ってくるのに着払い?ありえないでしょう。

検査を受ける病院からは直接書類が郵送されてきた。既にキャンセル済みだが。

普通はこういうものでしょう。

 

通院中もたびたびこの病院の受付と事務のおかしい所は感じてきたが、

先生方の専門ぶりと真面目さを信じると決めてからは目を瞑ってきたのだ。

しかし、今回の一件で今後通う気が一気に醒めてしまった。もう行きたくない、と。

 

思えば一番最初のはじめての乳腺科での検査も2ヶ月ちかく先の予約を待たされた挙句、

よく分からないと明言を避けて総合病院に送られ、

総合病院では私の心理もお構いなしで話す気にもなれず、

病院なんて信じられるところがないと思っていた。

そんな気持ちがぬぐえたわけではなかったが、お任せすると決めた最後の病院。

でもここも結局は商売で乳がん患者を扱っているとしか思えなくなってしまった。

ボランティアではないのは分かっているが、余りにも商売だと。

 

とりあえず年が明けて春くらいに検診に行こうとは思っているが、PET-CTを受けるのは止めた。

最近両胸に痛みや違和感を感じることがあるが、再発や転移だったら…と考えてしまう。

しかし、私はそもそも告知される前に『運命を受け入れる』と決めたではないか。

乳がんが爆発して飛び出して血と膿を垂れ流していくのは困ると治療を始めただけで、

『死にたくない』と思った訳ではない。だからいいじゃないかと思い出した。

そんな事を考えつつも、仕事で忙しくし、

いつまでの人生か分からないのに大して節約することもないじゃないかと

ネットショッピングをするという今日この頃。