片手落ちと片落ち――「差別忌避語」狩り | メタメタの日

 加藤廣『謎手本忠臣蔵』を読んでいたら、下巻257ページに「片落ち」という言葉が出てきた。

 「片手落ち」という言葉が、身体にハンディキャップを持った人への差別を含んでいるとして使用を避けたのだと思ったが、それ以上深くはそのときは考えなかった。

 アマゾンで、この本のカスタマーレビューを見たら、本は称賛しながら、「片落ち」という表現はいただけない、という評があった。

http://www.amazon.co.jp/%E8%AC%8E%E6%89%8B%E6%9C%AC%E5%BF%A0%E8%87%A3%E8%94%B5-%E4%B8%8A-%E5%8A%A0%E8%97%A4-%E5%BB%A3/dp/4103110317/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1226498624&sr=1-1

 で、気になって、「加藤廣 片落ち」でグーグったら、次のブログがヒットした。

http://d.hatena.ne.jp/bruckner05/20081009/p1

アマゾンでレビューを書いている人と同じであった。

それで、私が調べた以下のことを、このブログに書き込んだ。

「私も、これは気になったのですが、広辞苑や古語辞典を引くと、「片落ち」という言葉は昔からあり、「片手落ち」は少なくとも、明治以前には無かったようです。」

すると、見事に反発を受けてしまったようで、レスポンスがあった。

この人が以下のアーティクルで触れているように、「片手落ち」がマスコミで「差別用語」として忌避されるようになった経過は、『徹底追及「言葉狩り」と差別』(週刊文春編、文藝春秋、1994)に詳しいようだ。

http://plaza.rakuten.co.jp/mizuhonet/diary/200412160000/


確かに、マスコミでは「片手落ち」は差別用語と認定され、替わりに「片落ち」という言葉が使われるようになったようだ。そして、昔から「片手落ち」の例と言われれば、十人中七、八人が挙げるだろう、吉良上野介と浅野内匠守に対する処分の不公平であったから、それがドラマ化、小説化されるときに、この言い替えが、特に目に付くことになったのだろう。

しかし、「片落ち」という言葉は、マスコミが苦し紛れに創作した言葉ではない。

江戸時代までは、「片手落ち」という言葉はなく、「片落ち」という言葉が、その後の「片手落ち」という意味で使われていた。明治以降のどの時点から「片手落ち」という言葉が使われるようになったかは、調べれば分かるのかもしれないが、とにかくどこかで、「片落ち」の「片」が「片手」となったのだ。身体的特徴を比喩に使えばイメージは鮮明になるかもしれないが、このように身体的欠陥を比喩に使うことは、品がいいとは言えない。そのことに敏感になった人々が、「片手落ち」という表現を避けて、元の「片落ち」を使うようになったのは、ソフィストケートされた振る舞いだと思う。

しかし、この方は次のように主張する。

「加藤氏が、かつて差別用語と批判されてどさくさ紛れにひねり出されたこんな粗雑な用語(引用者註:「片落ち」)を平気で使うとは、実に解せない。」

『片手落ち』は差別用語ではない。どこでも、誰の前でも、いつでも、堂々と使って差し支えのない言葉である。それを不快に思う人がいたら、そう思う方が悪い、いやそれを理由に使うなと言う方が悪いのであって、使う側が責められるいわれはない。不快に感じる人は自分が使わなければよい。他人に指図するなど思い上がりもはなはだしい。」

「加藤氏には連載を本にする際は、是非とも正しい日本語に改めていただきたいと思う。」

この人は、「他人に指図するなど思い上がりもはなはだしい」と分かっているのだから、加藤氏に「是非とも正しい日本語に改めていただきたい」というのは、「指図」ではなく「願望」を述べているだけなのだろう。

また、「正しい日本語」とは何かという難問もあるが、この人にとっては、古くからある「片落ち」ではなく、近代になってから使われるようになった「片手落ち」こそが、「正しい日本語」ということなのだろう。


かつて、戦前・戦中時代に、国体に反する言辞を探し回っては、人を落しこめる人がいた。

時代が変わると、逆に「差別用語狩り」と言われる事態もあった――というか、糾弾され、批判される側が、ただただ、それを避けようとして、その事態を「言葉狩り」などと呼んで、自らを被害者の立場に置いて、過剰反応したケースがあった。

そして、この過剰反応に、逆に過剰に反応して「毅然とした態度」をとろうとして、差別用語を避けた言い替え表現に対して、「差別用語ではない、言い替えはやめろ」と、「差別忌避語」を探し回っては、「差別忌避語」を使うなと、人を指図する事例が出てきたということだろう。


言葉狩りを非難していた人が言葉狩りに狂奔(これも微妙な表現か?)している。ミイラ取りがミイラになるというよくある例か。