古城 めぐり

古城 めぐり

戦国時代を生きた人々の城を訪ねます

東海道東下り

          興津宿~由比宿~蒲原宿

 

東海道街道歩き 今年二回目行って来ました

今回は街道の中 箱根、鈴鹿とともに三大難所と言われた

薩唾峠 を越えて行きます。

万葉歌人 山部赤人が 詠んだ『田子の浦ゆうち出てみれば真白にぞ

富士の高嶺に雪は降りける』 歌の舞台になった処がここ薩唾峠と

言われています

駿河湾の波打ち際を歩いていて薩唾山の崖の背後から突如現れた富士山の

美しさに感銘し詠んだとされています。

今回は孫でかわいい七歳の小学校一年生 女子が同行です。

社会勉強でと思うが 本人は生まれて初めて見る富士山に頭がいっぱいで

こちらは恥ずかしくて富士山が雲に隠れやしないかとひやひやで歩きました

 

出発日 2024年2月29日(木曜日)二日間  晴れ時々くもり

経路  JR東海道興津駅 ~ 蒲原駅 

距離  13,4 キロ

薩唾峠展望台から見た富士山と駿河湾

JR興津駅まえ 薩唾峠 案内板

興津宿

興津宿は興津川の渡し 難所薩唾峠 そして身延山の追分を控え

賑わった。天保14年1843年の東海道宿村大概帳によると

宿内家数は316件 本陣2 脇本陣2 旅籠34件 

人口1668人であった。

興津橋 

興津川は徒歩渡しで水深四尺五寸を超すと川止めになった。

冬は仮橋が架けられた

薩唾峠 案内板があります

舗装道路で広く歩きやすいが急坂がつずきます

いよいよ山道に入ってきました   難所 東海道

薩唾峠 指定の碑

当初は崖下の波うち際を通行して 親しらず子しらずと呼ばれた

その後朝鮮通信使の通行に際し峠道が開削された

 

広重画 

 遠景に駿河灘に白帆、左手に薩唾峠の峻険 手前に川越し

 風景が描かれている

街道の上下一帯は美しいみかん畑となっている

収穫したみかんを運ぶトロリーが設置されている

畑が急峻で作業が大変なことがうかがえる

日本の大動脈がここに集まっています

奥へ名古屋方面 東名高速道路 したが一号線とJR東海道本線

今回も旧東海道は地滑りで一部通行不可でした。地滑り対策工事が

毎年難工事で進められています

 

駿河湾と東名高速 富士山が望めて 非常に景色の良いところです

西倉沢の一里塚

江戸日本橋より四十里目 およそ160キロあります

望嶽亭 藤屋

富士の眺望が良いところから望嶽亭と称し薩唾峠の入口にある

ところから坂口屋とも呼ばれた。 幕末薩摩兵に追われた 山岡鉄舟

はここに逃げ込んだ。拳銃をのこし裏口より逃げ延びた

 

 

明治天皇 ご小休 柏屋

明治元年 1868年 1878年 明治天皇 巡幸のおりご休憩所

に充てられた。

由比の旧東海道です 当時の風情が残っています

 

 

名主館 小池邸

代々小池文右衛門を襲名し寺尾村の名主を務めた

名主は年貢の取り立て、戸籍事務、他村領主との折衝 など

村役人のなかでも最も重要な役割を担っていた

江戸時代の名主の面影を残しており平成10年国の登録有形文化財

の指定された

 

由比本陣跡

今川義元の家臣であった由比家の子孫が代々務めた。

現在は本陣公園になっている

正雪紺屋

江戸時代初期創業の染物屋。徳川幕府の転覆を図った慶安事件

で知られる由比正雪の生家

東桝形跡

街道が90度折れ曲がっている。昔の軍隊移動がよく見えない

人数が読めない 行進に時間が曲がることでかかる事で各街道に

義務ずけられた。  由比宿の江戸口

JR東海道本線  蒲原駅

 

終わり

 

 

  

 

 

東海道東下り 十五回目

            府中宿~江尻宿~興津宿

今年最初の街道歩き行って来ました。今年は新年早々石川県

能登半島を中心に震度7を上回る大規模地震が発生大変な年明け

となりました。被災地の皆さんには頑張って生きて早い回復を

願いたいとおもいます。

 

出発日 2024年2月1日、2日 快晴 のち 曇り

経路  静岡駅から静鉄線経由 江尻より興津まで

距離  17.2キロ

JR静岡駅 

徳川家康 像

静鉄 電車

旧東海道 記念碑

昭和37年国鉄操車場建設により旧東海道が分断された。

廣野神社  御神木の楠木は推定樹齢五百年

東光寺  参道入口にある葦葉達磨 大師立像

梅の開花 この地は非常に暖かく梅が満開です。鳥たちも楽しそう

上原子安地蔵堂

武田家の縮将 江尻城主 穴山梅雪は堂内で徳川家康と会見

軍門に下った。これが武田家滅亡のきっかけとなった。

姥が池  

金谷長者に男児が生まれた。咳の病に罹ると姥が身代わりになって

入水すると平癒したという。

都田吉兵衛 供養塔

侠客で俗に都鳥と呼ばれた。清水次郎長の子分森の石松を騙し討ちに

した。次郎長一家がここで仇を討った。

里人が哀れみ供養塔を建立した

清水の次郎長

本名山本長五郎。若くして遊侠の道に入り一家をなす。宿敵の

都鳥を討つと海道一の大親分になった。幕末に江戸城無血開城の

談判 山岡鉄舟を助けたことから知遇を得て維新後は三保の松原

新田開発 富士山麓の開墾 巴川の架橋 英語塾の開講に尽力した

 

追分羊羹 元禄八年1695年の創業 竹の皮で包まれた蒸し羊羹

題目 碑  道標 これより志三ず道 清水湊にいたる 

山岡 鉄舟 

幕臣で剣豪でもあった鉄舟は勝海舟の意を受け江戸城無血開城の

根回しに奔走した。明治五年宮中に出仕し明治天皇の侍従に

十年間務めた。鉄舟は身長六尺二寸 188センチ体重二十八貫

105キロの偉丈夫であった。晩年がんを患い臨終に際して

皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命した。享年五十三歳でした。

 

江尻宿 

江尻宿 寺尾本陣門 跡

巴川 稚児橋     ここで一日目終了

江尻城 跡

武田信玄が築城 穴山梅雪 が城主であった。関が原後廃城

江浄寺

家康の嫡男信康の遺髪を納めた宝塔がある。信長に正室築山御前

と信康母子は武田に内通しているとの嫌疑をかけられ、家康は

やむなく二人に死を命じた。

細井の松原 跡

街道沿いには206本の松原であった。

東光寺

臨済宗妙心寺派で医王山と号し天文年間1532年の創建

格子門は勅使下向の際 興津川の渡しが川止めとなりこの寺に

泊まることとなり急遽作られた門

興津坐漁荘 入口

玄関

応接室  洋間

応接室  二階 和室

 

元老 西園寺公望 

 嘉永二年1849年~昭和15年1940年

 元老とは明治中期から昭和初期にかけて国政上の最高顧問として

明治国家発展に寄与した人物がついたポスト

伊藤博文、井上薫、山県有朋、黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌

の七人が明治天皇のもとその任にあたった。大正期に桂太郎と西園寺

が加わり この九人が元老と称された。そして最後の元老が西園寺公望で

あった。明治 大正 昭和の政治家で二度の総理大臣 平民主義を貫き

透徹した見通しと冷静な分析豊かな国際経験と見識を持ち高く評価された。

 

清見寺

清見関の鎮護寺。家康が今川氏の人質時代に受けた『手習いの間』

がある。また家康が接ぎ木した 臥龍梅や清水次郎長が建立した

咸臨丸乗組員殉難碑がある

 

臥龍梅 家康が接ぎ木したと伝わる

清水次郎長 建立 殉難碑

清見寺 より景色 下はJR東海道本線

潮屋

創業 明治30年 1897年 献上銘菓 宮様まんじゅうの老舗

やわらかい こし餡の お饅頭頂きました

龍興寺  百地蔵の八十三番延命地蔵尊 見事な松です

本日の最後 JR興津駅に到着です  PM15時

おわり  

 

 

東海道東下り 十四回目

           岡部宿~丸子宿~府中宿

 

東海道 街道歩き行ってきました

出発日 2023年12月21日、22日 快晴強風 

経路  岡部宿 から 丸子宿 宇津ノ谷 峠を経て安倍川を渡り

    府中宿まで 14.3キロ 

今年最後の街道歩き出かけました。弥次さん 喜多さんの弥次喜多

道中膝栗毛にも紹介される駿州の旅味わいながら今回はとろろ汁の

老舗 丁子屋の食事と宇津ノ谷峠の明治のトンネルを楽しみに出発です

 

 

前回の最後 岡部宿本陣門跡

 

大旅籠 柏屋

 

岡部宿 岡部川 東海道

 

 

十石坂観音堂 徳川家より十石の寺田を拝領した。堂内に二基

厨子が安置され境内には多数の石仏、石塔がある

 

藤枝 一号線バイパス 多数の車が通行してます

 

 

明治の道にはいりました。秀吉は小田原攻めに際し大軍を通すため

新道を開削しこれが東海道になった。それ以前は蔦の細道が

本道であった。

 

歌舞伎蔦紅葉宇津の谷峠

伊丹屋十兵衛は同宿となった盲目の文弥が大金をもっていること

を知ると言葉巧みに昼なお暗い宇津の谷峠に誘い出し殺して

大金を奪った。

 

 

明治のトンネル   明治9年11月に完成した。日本初の

有料トンネルとして技術的のも高く近代化の象徴であった

 

 

東海道宇津の谷峠越え 江戸時代の道

 

間の宿 立場茶屋が並ぶ集落で難所宇津の谷峠を控え賑わった

 

お羽織屋 天正十八年 1590年 小田原攻めに出陣した秀吉が

当家に立ち寄り馬の沓くつわを所望すると主人は三足しか渡さなかった

訳を問うと四は縁起が悪い一足はここに置き勝利を祈願すると答えた

秀吉は気をよくして勝利し帰路に羽織をあたえた。

 

 

藤枝バイパスの宇津野や峠出口と道の駅

 

丁子屋 創業慶長元年 1596年 名物 自然薯のとろろ汁

の老舗 芭蕉句碑 『梅わかな鞠子の宿のとろろ汁』がある

歌川広重 東海道53次 丸子名物茶屋 弥次喜多が茶屋で

とろろ汁をすすっている ところが描かれている。

このあたり自然薯芋がとれ芋を掘る道具を持った男が描かれている

この日は朝早く開店まえでとろろ汁頂けなく残念でした

 

 

細川幽斎 歌碑  秀吉の小田原攻めの先陣として丸子川を

渡るさまを詠んだもの

 

丸子宿 脇本陣跡

 

創業明治四十年 銘酒 『鞠子の里』の蔵元

 

安部川橋

明治七年1874年代々川越総取締役を務めた宮崎家が私財を

投げうって川越人足の失業対策として安水橋を架橋した

 

弥次喜多道中 安部川の水量がおおく川越人足に高い渡し賃

を払った。すると人足はすぐ上の浅いところを渡って戻って

言ったとさ。

 

安部川義夫之碑

旅人がおとした財布を安部川の人足が拾い宇津の谷峠まで

追いかけて渡した。お礼に礼金を渡そうとしたがその人足

喜兵衛は受け取ろうとしない、困った旅人は町奉行に訳を話し

奉行から褒美として渡した

 

創業文化元年1804年 元祖安部川餅 の老舗

家康にきな粉をまぶした 金な粉餅 と称して献上すると

縁起が良いと喜び安部川餅と命名した 砂糖が庶民にゆきわたった

のが1800年ごろのようです。

 

 

しろいお餅がわさびでいただきます。その当時を思い出すかの

ようかの味わいでした。左があんこときなこです。

 

府中宿にはいり札の辻に俯瞰する地図がありました

みどり色が東海道です

 

西郷 山岡鉄舟 会見碑

慶応四年 1868年幕臣 山岡鉄舟は 東征軍 参謀西郷隆盛

と会見し徳川慶喜の処遇、江戸城明け渡し等の根回しを行った。

 

本日の最後静鉄線 音羽町駅 です。

おわり

 

 

 

 

東海道東下り 十三回目

           島田宿~藤枝宿~岡部宿

 

東海道 街道歩き十三回目行ってきました。前回の最後 大井川を渡り

島田駅までいきました。今回は藤枝宿から岡部宿あたりまで行ってみよう

と出かけました。大井川の見どころ 蓬莱橋があります。

東海道から少し離れますが幕末の最後職を失った方がたくさんいました。

そんな氏族はじめたくさんの方たちを救ったのが 茶畑の開墾でした。

そこで川を渡るのに橋がない 不自由を解消するため明治12年一月完成した

木造の歩道橋が 蓬莱橋です。

全長897,4m 幅 2.4mの 木造橋です

平成9年12月世界一の長さを誇る木造歩道橋としてギネス社に認定されました

長生き 長生きの橋として 897、4 やくなしのごろ合わせで人気の橋です

 

歩いた日  2023年11月2~3日 快晴 

経路    静岡県 島田市 藤枝市 岡部

距離    16.5キロ

 

蓬莱橋 からスタートです

大井川を渡る 手前が島田宿 対岸は牧之原大地 茶畑開墾した大地が

広がる。 当時は農作業に従事した人々が往来した。

 

 

 

勝海舟 銅像

  江戸幕府の最後 江戸城を 無血開城した。明治新政府でも

要職を務め 咸臨丸でアメリカへも渡った。

職を失った幕府の再雇用につとめ この地の茶畑開墾に尽力した

甘露の井戸水  大井川の伏流水 飲んでみた おいしかった

栃山橋 寛永12年1635年田中藩主水野監物忠義は水不足に悩む

村々のために大井川から取水した水路を開削した。

農民は大変感謝をし水路の名前を 藩主の名を冠した

松並木 処どころ松並木が大切に保存され街道の雰囲気があります

天保四年1833年建立の秋葉山常夜灯を納めている

並びに明治天皇御小休所の碑がある

千貫堤  寛永十二年1635年田中藩主水野監物忠義は

領内を大井川の洪水から守るため銭千貫を費やして大堤を築いた

松並木がのこっています

古東海道 跡

瀬戸の山越えと呼ばれる古東海道であった

東海道が新設されても大井川の洪水があれば 

旅人はこの道を通った

鏡池堂 竜神が棲む鏡池から士現したという 六地蔵を安置して

いる。三十三年に一度開帳される

田中藩領 傍示石

傍示石にいは 従是東田中領 と刻まれ掛川藩領との境であった

 

田中城と家康

元和二年1616年一月家康は鷹狩の帰路田中城に立ち寄り

茶屋四郎の供した興津鯛の天ぷらを食べすぎ 体調をくずし

四月駿府城で亡くなった。享年七十五歳であった。

 

二日目開始

 

志太の一里塚   江戸日本橋より五十里 

勝草橋  勝軍 かちいくさ をもじった

大慶寺  日蓮上人お手植えの松がある 樹齢七百余年 手前

上伝馬 問屋場跡

慶長六年1601年徳川家康は宿場を置き旅人や荷物を次の宿場まで

運ぶ継立と通信業務のため人馬や飛脚をそろえた。

これを伝馬制といいその業務を扱う場所を問屋場といいました。

歌川広重 藤枝人馬継立 問屋場風景

下本陣跡 歩道タイルに表示してありました

 

若一王子神社御神燈

藤枝白子町由来

本能寺にて明智光秀の謀反により殺された織田信長 その時徳川家康は

大阪堺で物見遊山見物でいた。光秀の追ってが迫る中最大の危機が

せまった。その時のわずかなお供が本田忠勝、本田正信、服部半蔵

茶屋四郎などであった。服部半蔵の機転で伊賀忍者200名など

集め決死の工程にて山越えを成功させ三重の白子町まで逃げのびた

しかしここで盗賊の落ち武者狩りに家康とみやぶられ最大のピンチと

なったが農民小川孫三の機転に助けられ白子湊から三河へ船で送り

届けられた。その後孫三は白子の自宅に追手が詮索して帰ることができなくなった。

それを知った家康は孫三にここ藤枝に領地に与え諸役を免除 朱印状を与えた。

以来ここが 藤枝白子町となった。

現在は十五代目の子孫にあたる方が小川医院をされています。

須賀神社  御神木の大クスは推定樹齢五百年

八幡橋

岩村藩領傍示杭 跡  

岩村藩領傍示杭跡

岐阜県美濃岩村城の飛び地が駿河の国に十五か村五千石あった

その領地を示めしたもの

 

 

東海道 岡部宿にはいる

五智如来

田中城主の姫君は口が不自由であった。阿弥陀に願をかけ一心に

祈ると満願の日に治癒したと言う。

 

初亀酒造  創業寛永十二年1635年 銘酒 初亀 蔵元

姿見の橋  小野小町は晩年旅の途中川面に姿を映し老いの身

      を嘆き悲しんだ

岡部宿本陣門 復元されている 内野家が務めた 徳川十四代将軍

       家茂や明治天皇が休息した

大旅籠 柏屋 天保七年1836年築 山内家は問屋、年寄、

    宿役人をつとめ 質屋を兼業した

本日の最後藤枝駅に到着です

今回は街道歩き途中に地元の人々と沢山交流も出来静岡の
みかんをいただき それも二人の方々から 楽しく歩き 出来ました

 

終わり

 

 

 

 

 

東海道東下り   十二回目 その 2

 

9月29日 2日目

 

金谷駅よりスタートです

柏屋本陣 跡

河村八郎座衛門が代々つとめた。金谷六人衆の一人に数えられ

本陣と名主をつとめた。先祖は徳川家康に忠節を尽くし信州に

知行地を与えられ 金谷宿、島田宿に屋敷を与えられている

佐塚屋 本陣跡

 

大井川鉄道 新金谷駅に停車中の蒸気機関車

日本左衛門首塚

宅円庵の境内にある江戸で処刑され首級は遠州鈴か森にさらされた

金谷宿の愛人おまん が盗み出しここに葬った。

石川五右衛門、ねずみ小僧治郎吉とならび盗みはするが非道はしない

お金持ちから盗んだものを庶民にばらまいたともいわれている。

金谷宿 川越し場 跡

 

 

土木学会選奨土木遺産 大井川橋

昭和三年 架設された鋼製トラス橋です。下部は井筒型の基礎

と門型の橋脚で構成。当時の技術力を結集して建設された最大級

の道路橋です。今なお当時の姿をよく残していることから

土木学会選奨土木遺産として認定された

長さ 1,026.4 m  道路部 8.3m 歩道 1.5m 

 

 

川会所 跡

川合所は川札を販売し番宿には川越人足が控え札場は川札を賃金に

換金し川庄屋は川止めの判断を行った。

川越人足

最盛期には 島田 金谷合わせて 1000人ほどいました。

勤務管理上一組から十組に分け待機場所を一番宿 ~十番宿

と呼んでいました。川越業務は輪番制で担当組は越場に集合

して業務にあたっていた。人足にはかなりの修行期間と修練が

必要であった。

 

 

番宿

塚本家

九州備前大村藩の専用休憩所で上段の間を残している

大高欄蓮台 

大名、公家など使用 料金 87000円 ~157000円

 

平蓮台 半高覧蓮台 大名家臣、上流庶民 

    料金 15000円~28000円ていた

当日の水嵩によってきめられていた

 

大善寺

時の鐘をならした。明け六つ 午前六時の鐘で大井川の川越し

がはじまる.暮れ六つ 午後六時で終了となる。

大井川の水神を祀り島田宿の鎮守であった。参道の石垣は川越

人足が毎日一個を持ち帰り積み上げたもの

今回の終点 JR島田駅に到着です   到着時間 午後15時40分

 

 

 

 

 

東海道東下り 十二回目

 

        掛川宿~日坂宿~金谷宿~島田宿

 

暑かった今年の夏 連日35度を上回る猛暑日が続きました

お彼岸が過ぎ朝晩暑さもやわらぎ過ごしやすくなりました。

六月以来休んでいました街道歩き行ってきました。

最近はいる情報はあの方が、ここの誰かがあそこが痛くて、

腰が痛くてと長年の疲れか体の不調の話題がおおくなっています。

無事歩けることに感謝して出かけました。

今回のルートに東海道三大難所が含まれていること知らず大変な

思いをしました。歩幅65センチが30センチしか進めず

良い思い出になりました。

 

歩いた日  2023年9月28日 29日 快晴 気温35度

経路    掛川宿 8.0キロ 日坂宿 6.9キロ 金谷宿

      5.3キロ 島田宿

 

今回は新幹線で快適に掛川駅まで行けました  9時40分着

JR 掛川駅

前回の最後 掛川城

新町七曲がり

掛川城防衛の桝形 敵を容易に侵入させない 構造に

東海道が折れ曲がっています。七曲がりの終点には番所が

設けられていた

桂花園

創業文化三年 1821年葛湯の銘菓 丁葛 の老舗

お土産 葛湯 買いました

菓子処 もちや 創業二百年 銘菓振袖餅 の老舗

事任 八幡宮 

願い事が ままに叶うと今も昔も厚く信仰されている

境内の大杉は樹齢千年、坂上田村麻呂の手植という

賜硯堂成瀬大域 出生の地 

明治天皇に仕えた書家

旧旅籠 川坂屋 

江戸時代の面影を残す精巧な木組み細かな格子が特徴

山岡鉄舟などの書を残している

旧旅籠 池田屋

現割烹旅館 末広亭

扇屋 本陣跡 

東海道 三大難所 小夜の中山峠の西に位置して西坂 入坂

新坂とも書かれた  日坂宿と別れ 小夜の中山峠の始まりです

広重絵碑

東海道 日坂宿 が掲示されている

こんな道ほんとうに東海道? 写真よりずっときつい坂道です

 

 

車もこわくて走りません 坂道で急カーブ 四駆車しか走れ

ないようです。車がすれ違い出来ません

 

昼12時 すぎました。暑くて 暑くて 大変です

広重 画

 小夜の中山 のモニュメントがありました。

当時の旅人も急坂 大変でした

すこし開けた台地に来ました。 静岡のお茶畑が広がっています

心地よい風が吹いています 見晴らしの良いところにきました。

地元農家の方にお会いしました。お茶 収穫の様子写真撮らせて

いただきました。

ご夫婦で呼吸合わせ すばやく刈り取ってみえました。

妊婦の墓

身籠った姫が悲恋から自害する とここにあった 松が夜泣き

をするようになった。

そこで松の皮の煙を子に吸わせると夜泣きが治ったという

鎧塚

建武二年 1335年北条時行の一族名越太郎邦時が今川頼国

と戦い 壮絶な討ち死をした。

久遠寺

掛川城主 山之内一豊は会津の上杉攻めに向かう家康をここで接待

した。

夜泣き石

妊婦が山賊に殺された。霊魂が石に移り夜ごと泣いたと言う石

お腹の子は助かり住職が水あめで育てた。石面の 南無阿弥陀仏

は弘法大師が指で書いたと伝わっている

下り急坂が続きます

 

 

 

JR 金谷駅到着です

一日目終了

 

 

 

 

 

 

東海道東下り 

         天竜川東~磐田駅~見付宿~袋井宿 掛川城
 
五月11日 12日に浜松宿まで来て少し時間が経ちましたが今回街道歩き
出かけました。前回は浜松の東 天竜川を越えたところで終了した
今回は jr磐田駅より 掛川城めざして 出発です 
 
出発日 2023年 6月29日 金曜日
経路   見付宿~袋井宿~掛川宿
距離   19.5キロ
尚今回長年使用したパソコンが経年により使えなくなり報告がおそくなり
ました。
 
jr 磐田駅前 善導寺の大クス
  推定樹齢700年 高さ18,3m
 
 
遠江国分寺跡
聖武天皇の詔り受け天平13年741年に全国に創建された官立の寺です
国家鎮護の祈願が行われた。七重塔や金堂の礎石をのこしている
府八幡宮
国府の守護神として勧請された。本殿は元和三年1617年 
二代将軍徳川秀忠の娘東福門院が寄進したもの
​​​​​​
西光寺
表門は中泉御殿から移築したもの。中泉御殿は磐田駅の南口にある
徳川家康の鷹狩の宿所として造営された
旧見付小学校
現存する日本最古の洋風木造小学校 校舎
当時の再現レプリカです よく保存されてます
脇本陣 大三河屋 跡
薬医門 を残している
東木戸跡
見付宿の江戸口 東 再現
遠州鈴ヶ森刑場 跡
処刑された日本左衛門の首が晒された。尾張藩の七里役の子として
生まれた日本左衛門は若いころから放蕩を繰り返しやがて盗賊団の
頭目となり東海道沿いの諸国を荒らしまわった。
幕府は火付盗賊改頭を派遣し追討すると逃げ切れないと観念し
京都町奉行に自首した。江戸送りとなり市中引き回しのうえ獄門
となった。
 
大日堂
大日如来を安置している。家康の家臣 本田平八郎 物見の松 がある
武田信玄が木原に布陣すると迎え撃つ平八郎はここの松の木にのぼり
武田勢の動向を覗った。
 
全海寺
嘉永三年1626年三代将軍家光が京に上洛した際門前にて落馬して
しまった。落馬した家光は駕籠にのらず徒歩ですすんだところ
駕籠が何者かによって狙撃された。家光は一命をとりとめたことを
喜び 全海寺に本尊と延命地蔵尊を寄付し以来 三つ葉葵紋
の使用を許可した。
須賀神社    境内の大クスは樹高15mで推定樹齢五百年です
 
二日目開始です
袋井駅前で一泊した。天候は曇りで雨空が心配ですが出発です
袋井宿場公園でスタートです
 
松並木  当時を彷彿させる松並木がつずきます
     江戸時代 またその以前の街道はまっすぐな道は
     わざとなく 軍隊の行動がわかりずらくするため
     カーブした道がおおい
富士浅間神宮赤鳥居
天正一八年 1590年 地頭 本間源三郎が建立したもの
社殿は北へ800m先に鎮座している 坂上田村麻呂の創建
椎の木茶屋
掛川藩主太田備中守の休憩所であった。休憩したいが 営業前 残念
 
 
松の木の枝に吊るした茶釜で湯をわかす 出茶屋の女主人。
キセルを くゆらし しょさいなく高札を見る駕籠かき
床几に腰をかけ茶をすする宿人風のふたり
馬子はいないが荷物と女性を乗せた馬は軽尻であろうか。
街道は遠くの村々へと続き夕日にはえる山並みとともに
袋井 のおだやかな夕暮れを思わせます。
 初代 歌川 広重 嘉永元年 1848年
振り分け荷物と菅笠を放り上げ手を合わせている 農夫の声でよく
見ると弓の射手はなんとかかし 早とちりの旅人に農夫はあきれ顔
なんともユーモラスな場面の袋井宿の夕暮れです
旅人向けの出茶屋とのどかな田園風景 駕籠屋が一服つけようと
している。腰かけた旅人は道中差しをつけたまま休憩をとっている
 
掛川城 大手門
復元されている 門内に嘉永7年1854年の大地震で倒壊し
安政6年1859年に再建された大手門 番所や山之内一豊
が勧請した三光稲荷がある
江戸時代の掛川城は東西1400m南北600m徳川家康の異父弟
松平定勝 江戸城を築いた太田道灌の子孫など譜代大名の居城と
して栄えました。天守閣は山之内一豊が初代 築き嘉永7年
1854年安政の大地震で天守閣など大半が損壊 
明治2年に廃城になりました。
その後御殿はさまざまに使用されましたが掛川市民の熱意と努力が
実を結び平成6年140年ぶりに美しい天守閣が姿を現しました。
 
掛川城は駿河の守護今川氏の遠江侵攻の足掛けとして15世紀末
朝比奈氏によって築かれた。その後70年朝比奈氏の治世が続き
今川氏真が籠る城に徳川家康が攻め込みます 奪取した家康は
20余年 領有した。
 
掛川城といえば日本初の本格木造復元 天守としてしられれる
白亜の天守を思い浮かべることでしょう
御書院 上の間
御書院は城主の対面所で上の間は その主室になります
框をいれ畳を敷いた床の間とわきには違い棚が設けられている
右手には付書院を略した障子窓がある
 

終わり
 
 
 

その2

 

二日目です 昨日は浜松の魚とギョーザを頂きました。天気も快晴で気持ちよく

      二日目を迎えることが出来ました。

 

浜松アクトタワー   浜松駅のシンボルアクトシティです

東海道   車の往来はげしく当時の面影なく残念

享保15年1730年東海道 通行中急病で亡くなった松平伊豆守信祝の娘 光の墓がある

神主の蒲氏は源頼朝の弟範頼の六男 この地を開発し伊勢内宮に寄進した

子安神社 範頼が娘の安産を祈願し創建した。秋祭りには母乳に似た甘酒が

振舞われこれを飲むと乳の出がよくなるという。ここで地元の年を召した老女

の戦時中の話が伺えました。米軍の艦砲射撃が連日激しく怖かった。

ここの松の木にもその当時の被害で枝がなかったり へこんだり 斜めに倒れ

かかった木をみることが出来ます。今では貴重な経験を聞くことが出来ました

六所神社  神社前に『お宮の松』と呼ばれた黒松の巨木があった。台風の被害で伐採

妙恩寺  1311年日蓮の孫弟子日像の開山。 三方ヶ原の戦いで敗れた家康が当寺に

     逃げ込み本堂の天井裏に隠れたという。

金原明善翁 生家

天竜川の治水事業 植林事業 天竜運輸 天竜木材の創設 北海道の開拓 現在の

更生保護制度の原点 出獄人保護事業 など近代日本の発展の礎を作り上げてきた。

松林寺  徳川三代将軍家光が建立した薬師堂がある

旧東海道 標柱と中の町元標がある

中ノ町 道路元標  大正九年旧道路法で各市町村に一か所の設置が定められた

 この元標は中ノ町村の起点を示すもので当時の規格に」忠実に作られています。

 当時市町村の数と同じ12,244基 造られたが全国でおよそ1600基

 静岡県内には唯一の大変貴重なものです

六所神社  天竜川 渡しの守護神

新天竜川橋、天竜川橋   信州諏訪湖に源を発し流末は遠州灘に注ぐ

             『暴れ天竜』と呼ばれた

二日目終了

 

 

 

 

 

東海道東下り

      舞坂宿~浜松宿~新天竜川橋東口

 

 

新緑のすがすがしい季節五月 東海道に行って来ました

前回は 豊橋の東 二川宿から新居宿で新居関を見学し弁天島で宿泊

舞阪宿まで行きました。今回は舞阪より浜松、天竜川を超えたあたりまで

行ってみようと出かけました。

今年の大河ドラマは徳川家康です。 当然浜松城にもお邪魔してきました。

 

出発日  2023年5月11日~12日

経路    JR舞阪駅から天竜川東口

距離   約13KM

 

浜松城公園

前回の最後舞阪駅です

長池松並木 東口です

舞阪宿は今切渡しを控えおおいに賑わった。文政年間 1818~30年に海苔の養殖

が盛んになり舞阪宿の一大名物になった。 天保14年1843年東海道宿村大概帳

によると家数541軒本陣一軒 脇本陣二軒 旅籠二十八軒 人口2475人であった

最初の訪問地 春日神社です。 狛犬は左右一対の鹿 慶安元年1648年徳川三代将軍家光より朱印六石が下賜された。

麦飯長者跡  小野田五郎兵衛は旅人に湯茶の接待し麦飯を振舞った

地蔵院  本堂には家康の正室築山御前が守り本尊として肌身離さずに持っていた

     『 腹篭 地蔵尊』を安置している

秋葉山 常夜灯 

名残松  辺りには当時の面影はこの松しかない

 

二ツ 御堂 平泉の藤原秀衡が京で病に倒れると愛妾が京に向かいここで死去の知らせ 

      (誤報)を聞き阿弥陀堂を建立し亡くなった。 

若林の一里塚 江戸日本橋より六十六里目  当時は土手のある松並木がつずき

       塚木のエノキは旅人の道しるべであった。

平安末期に戒壇設置で争いになり比叡山の僧兵が押し寄せ鴨江寺側は水田に水を張り

鎧を着て迎え撃った。双方の戦死者約千人を鎧橋の北側に葬り千塚といった。

浜松城天守閣  天守門

浜松城は徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で1570年六月に入城して17年間在城した。家康ののち城主は代々譜代大名が務め在城中に幕府の老中まで栄進した

人が多く出世城と言われた。水野忠邦は知られています

築城当時の天守台石垣 

埋門  

徳川家康 銅像

富士見櫓 跡  17世紀中頃に建てられたと推定されている。富士山を眺めながら

        茶の湯などが 催されていた

一日目終了です

 

 

 

東海道東下り

         二川宿~白須賀宿~新居宿~舞阪宿  その 2

 

2日目です  JR舞阪駅よりJR新居駅で下車し新居宿から出発です

 

新居関 正面  大御門 枡形 高札場

大御門  高さ 5.8m 幅 4.6mの高麗門 明け六つ 午前6時に開門 

     暮れ六つ 午後6時に閉まりました

面番所 

   江戸時代は今切関所と言われていました。慶長6年1600年に設置された。

元禄12年1699年、宝永4年1707年と度重なる災害に見舞われ2度の移転を繰り返し

宝永5年現在地に引っ越した。

明治2年全国の関所は廃止されることとなりましたが新居関所は破壊からまぬがれ

た。 現存している関所建物は嘉永7年1854年の地震で倒壊したため安政2年~5年に

かけて建て替えられたもので関所の遺構としては全国で唯一現存するものです。   

さまざまな 武具を揃え検閲する  江戸防衛が主目的で 入り鉄砲と出女 を

厳しく取り締まった

旅籠 紀伊国屋  元禄16年1703年紀州藩の御用宿となった 延亭2年1745年 帯刀

         五人扶持を認められて 代々疋田弥左衛門を名乗り昭和三十年代に

         廃業するまで約250年に渡り旅館業を営んだ

小松楼  大正時代から昭和20年ごろまで芸者置屋 料理屋を営んだ

  独特の間取りやべんがら色の壁など当時の面影を残す建物で国登録有形文化財です

浜名湖を渡る JR 景色のよいところでした

 

本雁木跡 大きな木造灯台が復元されている。庶民用の渡船場跡

     雁木とは階段状になっている渡船場の意味

今切の渡し 一里の渡し とも言った。渡しの管理権は新居宿にあった 船数 120艘

      360人が従事した あけ七つ 午前4時に 開始し最終便は午後4時でした

舞阪宿 脇本陣  堀江清兵衛が務め遺構を残し公開されている

舞阪常夜灯  舞阪宿には三か所常夜灯があった

舞阪 長池松並木  正徳2年1712年 1420本の松が植樹されうち340本が

          残っている。

本日の最後 JR舞阪駅に到着しました。 街道の途中 町のひとからおみやげを

 頂きました。私たちの大好きな花の苗です。大切に育てたいと思います

 

二日目終了