古城 めぐり -2ページ目

古城 めぐり

戦国時代を生きた人々の城を訪ねます

東海道東下り

         二川宿~白須賀宿~新居宿~舞阪宿

 

 

桜の花の開花が聞こえる 三月中頃東海道歩き行ってまいりました。

昨年十一月に豊橋の二川宿に行って以来寒かった冬休みを経て春が到来しました。

年々早まる桜の開花ですが今年は昨日あったようで丁度その日に合わせ出かけました

出発日  2023年 3月16日 (木曜日)

経路   JR二川駅~JR舞阪駅 

距離   21キロ

 

弁天島と国道バイパス

前回の最後  二川宿本陣

東駒屋 田村家は問屋役、名主を勤めた 家屋は豊橋市指定有形文化財

白須賀宿

白須賀宿はもともと潮見坂下の海岸沿いにあった。宝永四年1707年の津波により

被害を受け坂上の台地に移転しています。移転後の町並みは14町19間 道幅二間です

京方面から始めて太平洋を望む景勝地として知られた 数々の紀行文にその風景が

記されている

塩見坂公園跡  

信長が武田勝頼を滅ぼし尾張に戻る際 家康が茶亭を設けてもてなした。

おんやど白須賀  白須賀宿の歴史文化を紹介している。旅人の交流休憩施設

塩見坂 

五十三次 名所図会 東海道白須賀 二代歌川広重

神明神社 幕府より朱印領 四石余りの寄進を受けて八代将軍吉宗以降の朱印状の写しが

残されている

棒鼻跡  新居宿の京口 棒鼻とは駕籠の棒先の意味があるが大名行列が 宿場に入る時

     この場所で先頭をを整えたので棒鼻と呼ぶようになったとも言はれている  

枡形   宿場にたくさんの人が一度に入れないようにしている

東福寺

新居奉行所 跡

疋田八郎兵衛 本陣跡 吉田藩のほか徳川御三家が利用した

飯田武兵衛 本陣跡 明治天皇行在所となった

東海道五十三次   新居宿  歌川広重 

舞阪~新居宿までは海路であった

 

 

一日目終了

 

 

 その3です

 

 中山道踏破 最後の日を迎えました。元気に出発です 

 

都営地下鉄 三田線 千石駅前 日本橋終点まで 6キロです

今日も気持ちのよい朝 銀杏並木の中山道です

東洋大学 素晴らしい 大学が目に入ってきました 日本で 最初に男女共学を実施した 

大円寺 八百屋お七を供養する『ほう六地蔵』がある お七の罪業を救うため熱した焙烙を

    頭に被り焦熱の苦しみを受けている。首から上の病に霊験あらたかといわれる

    墓所には幕末の砲術家 高島秋帆の墓がある

 

東京大学 農学部 水戸藩中屋敷跡

東京大学構内  東大には入学かなわず 構内散歩は ゆるされました

赤レンガの 東大どうりです

赤門 東京大学の敷地は 加賀藩上屋敷跡です 赤門〈御守衛門)は文政十年1827年

   十一代将軍家斉の娘 やす姫が前田家に輿入れする際 建立された朱塗りの門 

   重要文化財

皇女和宮降嫁 日程

文久元年1861年11月15日 二十四日目 江戸田安門内の清水御殿に到着

家茂との婚礼は翌二月十四日に執り行われた 慶応二年1866年家茂は京都にて急逝

共に暮らしたのは二年六か月と満たなく子はなさなかった。慶喜が朝廷に大政を奉還

すると和宮は徳川家の家名存続と慶喜の助命嘆願に重要な役割を果たした。

明治十年1877年 八月七日 箱根七湯の一つ塔ノ沢で病気療養中に死去 享年三十二

 

かねやす  享保年間 1716年~36年 兼保 祐悦という歯医者が 乳香散 という

      歯磨き粉を売り出し評判になる。本郷も かねやす までは江戸のうち と

      言われ この先からは 茅葺屋根に変わった

見返り坂  見送り坂とも 江戸払い 所払いの罪人をここで追放した

 

東京医科歯科大学 桜の馬場 跡 馬場の左右に桜と紅葉の大木があった

JR御茶ノ水駅 と 神田川

湯島聖堂  元禄四年 1691年 五代将軍綱吉が創建した孔子廟 寛政二年八代将軍

      吉宗が昌平坂 学問所を併設した

神田明神  天平二年 730年創建 祭神は平将門 江戸三大祭の一つ 神田祭の神輿

      が江戸城内に入り歴代将軍が上覧した

本日のランチ 江戸前 寿司 でした

東京都選定 歴史的建造物 

竹邑 甘味処

いせ源 あんこう 鍋

神田 やぶ蕎麦

ぼたん 鳥のすき焼き

JR 神田駅

コレド室町 

越後屋 三越本店 延宝元年1673年三井八郎右衛門高利が開いた呉服店

日本橋 ゴール です 

明治44年 1911年木の橋から石造橋に改築され 国の重要文化財になっています

このエリアは商人の町として賑わった茅場町、幕府水軍の本拠地から金融の町となった

兜町、江戸の名残を色濃く残す室町、本石町など史跡、旧跡がみられます

 

日本国 道路元標  日本橋は五街道が慶長8年1603年架けられ翌年に日本の中心

江戸繁栄の象徴となりました。明治に入って日本橋の中心が国内所街道の起点と定められた

元標広場に同じものがありました。 本物は日本橋の中心に埋められています

東京駅

終わり


中山道踏破 完走して

 

2017年11月日本橋目指して始めた街道歩き無事到着できました。ちょうど五年

過ぎました。途中日本中に蔓延した新型コロナ感染症の影響で中断もやむなく 2年九か月

にもかかわらず2022年12月九日終了出来ました。よかったです、うれしかったです

滋賀の草津 東海道との追分がスタートでした。一か月前右足を負傷し医者通いのなかでした

最初のスタートが忘れもしない 立木神社でした 何やら大きな樹齢何百年の木が記憶にあります

それから何百の神社があったか いま行先の景色、史跡など全部記録で残し すでにA-4

フャイルで三冊 関連資料で四冊 の 成果品が出来ました 大事な私の宝物になりました。

今は元気に歩けますが 将来歩けなくなったらこの成果品で中山道の時間を過ごしたいと

楽しみにしたいと思います。

今また女房と二人で東海道東下りを始めました。自分で計画 説明 ガイドです

現在 名古屋の宮宿~二川宿まで行きました。どこまで行けるのかのんびり行こうと思います

 

                                  2022年12月

 

 

 

中山道踏破 35回目 最終回  その2

                            蕨宿~板橋宿  

                  

中山道2日目です

 

日本橋まで14キロの案内が出て来ました。今日は巣鴨から千石あたりまで行きます

三年前ですとグループ行動で一日で日本橋までの距離ですが女房とふたりの道中 そうは

行きません。天気もよいのでのんびり歩きましょう 二日目出発です

志村の一里塚  日本橋より三里目 国道17号線をはさんで両塚を残している

        塚木の榎は三代目です 石垣は後世のもの 国指定史跡

東京にも柿が実りました。都会の街道沿いに何の花が咲いているのかなと近ずくと

柿木でした。今年は柿の当たり年か 我が家もたくさんいただきました。

南蔵院  

   享保7年1722年八代将軍吉宗が荒川で鷹狩りを行う際の御膳所と定められた

   桜の名所で知られ板橋十景に選ばれている

縁切榎  現在の榎は三代目 男女の縁を切りたいときはこの榎の樹皮を煎じて相手に

     飲ませるとその願いが成就するという。榎大六天神が祀られている

中山道板橋宿上宿碑 板橋宿は飯盛りが盛んであった 『江戸の四口に娼家あり 品川を一 

 内藤新宿を二 千手を三 板橋を四』と評され 出迎えが板橋と聞いて二人減りと揶揄

 された。上宿、中宿、平尾宿 三宿で構成され 家数573軒 本陣1軒 脇本陣三軒

 旅籠54軒 人口 2,448人で宿長 1,7キロであった、 天保14年1843年

 

 

板橋  名前の由来となった橋 当時は長さ九間 幅三軒 の 太鼓橋で江戸名所図会にも

    載っていた。

皇女和宮 日程

 十一月十四日 縁切榎 を菰で覆いさらに西側を大きく迂回し板橋宿中宿 飯田脇本陣

 に行程最後の宿泊をした。翌日江戸に到着し 九段清水徳川屋敷に入り翌月の師走十一日

 江戸城大奥に入った。 

遍照寺 当時境内は幕府公用伝馬の馬つなぎ場であった。

板五米店 100年前の面影を残し現在和食の店として営業 

     ランチから家族の記念日まで 会食出来る店です

旧中山道が残っています 

 

豊田脇本陣跡 代々市右衛門を世襲し名主を兼ねた。近藤勇が処刑されるまでここで監禁した

近藤勇 墓所  下総流山で官軍に捕らえられた新選組 組長 近藤勇は慶応4年 1868年

  4月25日平尾一里塚付近に設けられた刑場で斬首された。首級は京に送られ胴体は

  ここに埋葬された。 首級は京と三条が原に晒されたが同士が取り返し岡崎藤川宿宝蔵寺

   家康ゆかりの寺 に埋葬されている 

近藤 勇 土方歳三 永倉新八

ここには名産の滝野川ごぼう、人参、練馬大根を扱う商家が軒を連ね 種苗街道 と呼ばれた

亀の子たわし本舗  たわし発祥の店です 現在もたくさんのたわし販売してます

          足の疲れが取れるということで ひとつ買いました

巣鴨地蔵通り商店街   いまも賑わいがあり楽しい所です

とげぬき地蔵  明治24年下谷から移った高岩寺に安置されている秘仏

    地蔵の姿絵を飲むなり患部に貼ればトゲを抜いたように痛みがとれると言う

    境内には 洗い観音 がある 自身の患部とおなじ個所を洗い清めるとご利益がある

 

徳川慶喜 屋敷跡  徳川最後の将軍 慶喜は復権後の明治30年 1897年61歳

  の時この地に居をかまえた。邸内に梅林があったため『けいきさんの梅屋敷』と呼ばれた

 

二日目終了

 

 

 

中山道踏破 35回目 最終回

                      浦和宿~蕨宿~板橋宿~日本橋

 

2020年3月21日~23日埼玉県鴻巣市から大宮、浦和宿まで踏破して2年九か月休止

してましたが 一昨日 12月9日 中山道踏破 最後の日本橋まで終了しました。

2017年11月26日滋賀県草津宿より第一回目を始めてから五年も過ぎました。

長い時間経過しましたが 中山道踏破出来 自分ながらよく歩いたと思います。

そこまで行くにも 車でとの生活が身についていて 530キロも歩く足に感謝したいと思います。

全体を通じての感想は最後にまとめてみたいとおもいます では最後の報告です

 

歩いた日  2022年12月7日~9日

経路    埼玉県さいたま市浦和区から蕨市 東京都板橋区 豊島区 文京区 中央区

距離    約 26キロ

 

快晴の富士山です  三日間ともお天気に恵まれ 協力してくれました

午前10時 埼玉県 浦和区に着きました。出発です

いきなり おいしそうな うなぎ屋さんがありました。

 浦和一帯は沼地がおおく うなぎが豊富に捕れた。 現在のかば焼きは江戸時代末期から

 でそれまではぶつ切であった。

最初の訪問地 調 神社 平安時代の古社 社名の調は祖庸調の調物を意味し武蔵野国の

調(貢物)はここに集められた

焼米坂 この坂には名物焼き米を扱う立場があった。

辻の一里塚 碑 江戸日本橋より数えて五里目 碑の傍らに弁財天がある

  当時この辺りは湿地帯で通行に難渋を極めた そのために水難除けに祀られた

宝蔵寺    境内の筆子塚は寺子屋に通っていた門下生が師をたたえたもの

萬壽屋  天保年間 1830年~44年創業の茶屋 団子を商っていたが明治20年

    せんべい屋になった。ひとつ買っていただきました 美味しかった

天正九年1591年家康より御朱印ニ十石を受領。歴代将軍から保護された

 境内に目疾地蔵がある 地蔵の両目に味噌を塗ると目の病に霊験あらたかという

徳丸家 はね橋 飯盛女や助郷、明治になると紡績女工が逃げ出さないように夜になると

        用水路の橋を跳ね上げた  暗渠の下が用水

蕨市歴史民俗資料館

本陣上段の間 大名や貴人が宿泊する部屋です 岡田加兵衛本陣家に残る図面より復元

弘化元年1844年 大名の食事 牧野遠江守が本陣での夕食です。

     飯 汁 里芋 坪 生いかといんげんのあんかけ 引平 長いも 椎茸 いんげん

     あわび 卵焼き  香の物 沢庵  猪口 蓮根の木の芽合え 皿 白瓜の酢和え

     いなご  引き皿 若魚子 ぶりの幼魚 しょうが

 

商家 店先

旅籠

岡田 加兵衛 本陣跡  問屋 名主を兼ね西の本陣と言はれた。皇女和宮 明治天皇

  の休憩所となった。

雪の中山道  昭和31年頃

蕨宿碑  蕨宿は慶長17年1612年の開設 江戸に近いため素どうりの旅人が多かった

   戸田の渡しを控え一旦川留めになるとおおいに賑わった。地名の由来は藁がもえる

   さま藁火に由来している1843年宿村大概帳では家数430軒 本陣2軒

    脇本陣 1軒 問屋場 1軒 旅籠 23軒 人口2,223人宿並1,2キロ

    であった。

荒川  当時は戸田川と呼ばれ甲斐の国 武蔵の国 信濃の国 山梨、埼玉、長野の三国

    に誇る甲武信ケ岳に源を発し秩父山地の水を集め流末は江戸湾に注いでいる

第一日目 到着予定 浮間船戸駅です

二日目につずく

東海道東下り

           吉田宿~二川宿

 

秋晴れの一日東海道歩き行って来ました。

前回の最終 豊川のとよはしの 袂から出発です

朝晩少し寒くなりましたが日中は暖かく何より木々の紅葉が

素晴らしく一年の中でも最も好きな季節ではないかと思います

日本には四季があって素晴らしく 生きる暮らしの中になにかと

喜びをいただけます。

 

出発日   2022年11月24日 (木曜日)

 経路    名鉄本線 豊橋駅~JR二川駅

距離     8.6 キロ

豊橋駅

吉田宿

吉田城の城下町として発展し『吉田通れば二階から招くしかも鹿の子の振袖が』とあり

このお宿おおいに繁花して しょ婦 多し と言はれた

1843年天保14年東海道宿村大概帳には本陣2軒 脇本陣1軒 旅籠65軒 

人口 5277人 であった。 

清州屋与右ヱ門本陣跡

現在 うなぎ 丸よ 前に標識がある 東隣には本陣江戸屋新右衛門があった

きく宗 創業文化年間 1804年~18年 『菜飯田楽』の老舗

曲尺手門跡 碑がある 吉田城の城門に至る

豊橋と言えば 路面電車です 

国道一号線です  愛知県 東部で一番の町です 人口37万人を超えています

東惣門

縮小復元門です 吉田城の江戸口で番所があった。朝六つ 午前六時に開門 夜四つ

午後十時 閉門となった。

飯村 一里塚 跡 江戸日本橋まで73里 292キロです 歩けるかな ?

かつては松並木がつずいていた。昭和40年代には100本を超える松が残っていた

その後松くい虫や道路拡張で減少しここにあった最後の一本も松くい虫の被害で

平成19年伐採された。

昭和33年頃の飯村地区の様子

寿泉寺 

火打坂   岩屋山から産出する火打ち石に由来する

季節はずれにも 朝顔が元気にさいてくれてます

JR 二川駅に着きました 二川宿にちなんだスタイルになりました。

高札場跡 秋葉山常夜灯と二川町道路元標がある ここはお菓子屋さんです 食べました

本日の最後 二川宿 本陣跡 旅籠復元あとです

旅籠屋  昔の宿も おもてなしの心は変わりませんでした

     到着した客人にはわらじ姿のため まず足を洗っていただきます

本陣の客室  一般の人は入れません 大名 公家 幕府の役人など

庭が作ってあります

本陣資料館には当時の日常がリアルに再現されています

当時の主役は馬でした。 人と荷物、 荷物だけで150キロ 運びました 

当時最高の乗り物です

西駒屋  問屋役 名主を務めた田村家 東駒屋の分家 明治42年 味噌 醤油醸造業

 を創業した

終わり

 

 

東海道東下り 六回目

               御油宿~吉田宿

 

久方の東海道歩き行って来ました。

六月十日以来です。体調は良く今思うとなんでかなと理由がはっきり

しない、でも少しずつでよいから始め いつか日本橋 目指します。

快晴の秋晴れ前回の御油宿 松並木を過ぎたあたりからです

 

    出発日  2022年 11月2日 ( 火曜日 ) 快晴

    経路   名鉄本線 御油駅~豊橋駅  約12キロ

 

御油の松並木資料館勇んで来たらがっかり10時からで 今九時十五分

四十五分も待てない、見ずにスタートです。

東海道 御油橋東 音羽川 です

橋のたもとにあった東海道五十三次 広重画 当時の御油橋 人足が

裸で担いで板橋を渡っている

御油宿は城下町の 堅ぐるしさを避けた旅人や姫街道の追分を控え

おおいに賑わい、参勤交代に随行する武士は御油に赤坂吉田がなくば

何のよしみで江戸通いと詠い 飯盛りが盛んであった

広重画 御油 旅人留女

姫街道 追分  浜名湖北岸を経由して遠州見附に至る

安永三年 1774年建立の秋葉山常夜灯 三尺坊大権現道標など

大社神社 三河国府の総鎮守 国司大江定元が三河守として 在任中

の安泰を祈念し 出雲大社より大国主命を勧請したのがはじまり

徳川14代将軍家茂が長州征伐に際し戦勝を祈願し短刀を奉納した

薬師堂  母を亡くした姉妹が篤く信仰したところから 二子寺

と 呼ばれた

冷泉為村卿 歌碑

『散り残る花もやあると桜村 青葉のこかげ立ちぞやすらふ』冷泉家

中興の祖といわれる 為村の歌碑 徳川家重 九代将軍継承の

祝賀に朝廷の使者として下向する際桜村で詠んだ

速須佐之男神社  伊ノ奈村新町の氏神 1770年創建

伊奈村立場茶屋跡 貞享四年 1687年吉田藩主小笠原壱岐守長亮

がご馳走御茶屋をここに設けた。間の宿で加藤家が務めた

兎足神社  白鳳15年 686年創建の古社

雀12羽生贄としている。歴代吉田城主から崇敬されている

境内から縄文後期の土器など発掘されている

子だが橋の碑

その昔兎足神社には大祭の初日最初に橋を渡る女性を生贄にする

習慣があった。ある年の大祭の日最初に渡る娘をみるとわが娘であった。

しかし子だが止むを得ん と言って生贄として神に奉った

豊川放水路 昭和40年水害対策として掘削された人口河川

瓜郷遺跡  弥生から古墳時代前期にかけての集落跡 

      集落跡が復元されている  国指定史跡

とよはし から吉田城を望む

吉田大橋 (とよはし)は矢作橋 瀬田の唐橋と共に

      東海道 三大大橋と呼ばれた

おわり

 

 

 

 

 

東海道 五十三次東下り

                藤川宿~赤坂宿~御油宿

前回は 藤川宿で終了しました。今回はどこまで行けそうか体調はどうか話し合い

赤坂、御油あたりまで行こうと出発しました。

今回は私が非常にたのしみにしているお寺さんがあります。本宿にある法蔵寺さんです

ここは 徳川家康公 幼少のころのお手習いの寺です また東海道と言えば御油の松並木

そんな中歩けること 非常に楽しみにして出かけました。

 

    出発日  2022年 6月 10日 金曜日 晴れ

    経路    愛知県 岡崎市藤川町~豊川市御油町

 

天然記念物 御油の松並木碑 慶長九年1604年植樹された三河黒松600本

 のうち350本が当時のまま残っている

車も通行しなく舗装もなければ大名行列が来そうだ

歴史の貴重な並木です  将来も大切に守ってください

傍示杭と見附石垣が復元されている 藤川宿の京口です

藤川宿の脇本陣門が左側にみえます

現在の本陣公園内にある藤川宿 歴史資料館です 宿場の歴史資料を大切に

残し伝えようと岡崎市教育委員会 地元藤川まちずくり協議会の熱意が伝わります

本陣公園  奥に珍しい むらさき麦がありました 麦自体がむらさき色です

染料になる紺屋麦と呼ばれた

市場町格子造りの町屋  藤川宿の往時をしのぶ町屋です 加宿市場村は

藤川宿が慶長六年 伝馬朱印状が発給され宿場になった。しかし当時から規模が

小さく加宿村が求められ1648年市場村六八戸東に移転させ加宿市場村が出来た

こうして藤川宿は体裁が整のった、

藤川宿 曲手 かねんて と呼びます 直線状に来た街道は90度

右に折れる 通常枡形といい同じ目的です 三河代官作

歌川広重 藤川宿  棒鼻ノ図  藤川宿東棒鼻を通過する 八塑御馬献上

 の行列が描かれている 広重は天保三年1832年この一行に加わり

初めて上京した

石垣見附や傍示杭が再現されている

名残り松  松並木の名残り 東海道の標識あり  

長屋門がある 代々医家を務め七代目龍碩はシーボルトの門人青木周輔に

学んだ蘭方医で安政年間種痘を施術した

 

六月の美しい花が咲いています 紫陽花 ユリ

本宿 陣屋跡  現 富田病院 代官職は富田家が代々世襲し旗本

柴田出雲守勝門 ( 柴田勝家子孫 ) の知行地を支配した

富田家の子孫に 富田 勲 作曲家 編曲家 シンセサイザーアーティスト

法蔵寺   大宝元年 701年行基の創建 参道口に御草紙掛松がある

家康お手習いの寺として江戸期を通じて門前下馬であった。

墓地には徳川家の祖 松平家の一族 三方ヶ原戦死者の墓がある

 

御草紙掛松 徳川家康は 幼少の頃 当寺にて学問 手習いに励んだ。

この松は家康公 手植え松と言われ手習いの際に草紙を掛けたことから

家康公ゆかりの御草紙掛松 とも呼ばれた 現在の松は四代目 周囲の

石柵は1815年旗本 木造清左エ門俊往 が寄進したもの

新選組局長 近藤 勇 首塚

下総流山で官軍に捕らわれ 中山道板橋の刑場で斬首になった。

首級は塩漬けにされ京に送られ三条河原に晒された。三日目の晩に

同士がこれを奪取し密かにここに埋葬したという

赤坂宿 商家 尾関屋  創業明治元年 1868年曲物の老舗

 軒行燈を掲げている

広重画 当時の旅籠の様子が描かれています

イチビキ 安永元年 1772年 創業 味噌 醤油 醸造業を創業した

名鉄電車 御油駅  本日のゴール お疲れさまでした 

 踏破距離 12.4km 無事歩きました

 次回 六月 第四週 予定

 

 

 

 

 

東海道五十三次

            岡崎宿~藤川宿

 

前回 知立宿から岡崎宿西口 矢作橋袂まで歩き約一か月

たちました。今回岡崎から出発です。

岡崎藩は小藩であった。『五万石でも岡崎様はお城下まで

船がつく』と唄われ矢作川の舟運が盛んでその賑わいは

駿府に次ぐべくといわれた。天保14年1843年東海道

宿村大概帳では宿内家数 1565軒 本陣三、脇本陣

三、旅籠百十二軒で宿内人口6494人であった。

 

  出発日 2022年五月25日 金曜日 快晴

  経路  愛知県 岡崎西口~藤川宿

 

歌川 広重 画 岡崎 矢はぎ大橋 寛永十一年 1634年 架橋。長さ二百八間 

東海道一の大橋であった

八丁交差点 一号線  岡崎城から八丁の位置 八丁村

『岡崎27曲がり』冠木門前から若宮通り、伝馬通り、簾尺通り、木まち通り

 松葉通りを経由して矢作橋に至る二十七曲りの道のり

秀吉の家臣 岡崎城主 田中吉政が城下に東海道を導き入れたことに始まり

本田康重が伝馬町を創設し道筋が決まった。

二十七曲りは防衛上の機能を果たしなにより商家が長く繋がり城下の繁栄に繋がった。

読みやすい 現在の標識です

城内街道を長くするため街道を曲げ商家の数を増やし岡崎を繁栄させた。

さすがだ 田中吉政 市内に銅像が建てられている 現在引っ越しで見れなかった

冠木門 岡崎城下 江戸口

備前屋 創業 天明二年1782年『 銘菓あわ雪 』の老舗

岡崎の松並木 岡崎インター近く

岡崎インター 入口

東海道の現在様子

大平橋 跡 元禄九年1696年長さ49間の板橋がここに架橋された

この川は乙川 大平川とも呼ばれて三河の巴山に源を発し男川を吸収し

流末は矢作川に至る

この大平地区は名奉行大岡越前守忠相が江戸に生まれ享保二年1717年

江戸南町奉行となり大岡裁きで知られた。1748年寛延元年三河の国

西大平藩一万石が加増され譜代大名となった。江戸時代を通じて町奉行から

大名になったのは大岡忠相のみです。西大平藩陣屋跡がこの近くにありまし

ここより藤川宿に入ります

東海道五十三次 藤川 

藤川の松並木

十王堂と芭蕉句碑

十王堂は十人の王を祀る堂で冥土の行くところにいて裁く十人を言う

本日のゴール 名鉄藤川駅 到着です

近くの道の駅でアイスソーダを飲んで 美味しかった

終わり  次回 六月初めです

 

東海道五十三次東下り 

                知立宿~岡崎宿

 

昨年12月二回目 鳴海から知立まで街道歩きしてから長く中断してました。

今年2月 目の病気で病院のみなさんにお世話になったり 何年振りかの冬の

寒さが厳しく街道歩きいけませんでした。何事も体調万全で初めて行動に意欲が

出ること心配事などあると街道歩き一日10キロ以上も歩くこと できないことが

今回よくわかりました。

桜も咲き終わり新緑の今 行ってきました。

 

  出発日 2022年4月20日 水曜日 快晴

  経路  愛知県 知立宿~岡崎宿西口

 

知立宿は馬市や木綿市が立つ市場町としておおいに賑わった。

天保14年1843年東海道宿村大概帳によると宿内家数292軒 うち本陣

一軒 脇本陣 一軒 旅籠 35軒 宿内人口 1620人 であった

 

知立松並木 並木八丁と呼ばれた

旧東海道39番目の宿 知立宿 江戸より八十四里十七町 京都三条より

 四十一里

街道沿いには 東海道のシールが各所に張ってあり道に迷うことは なかった

有難いです

歌川広重の浮世絵東海道五十三次 知立です。当地で馬市が盛大に開かれた

様子がかかれている。鎌倉時代初期には馬とのかかわりがみられた。

毎年4月5月には遠く甲斐、信州からも馬が集められその数400から

500頭にも及んだ。馬の売買人はもとより商人、遊女、芸人、役者、人形使い

まであつまり賑やかきまわりない有様であった。

松並木に馬がつながれていた

知立の花 カキツバタが少し咲いています。ここより北700メートルに

カキツバタで有名な無量寿寺があります

街道沿いは 木々の新芽 春のハナミズキ はじめ美しい季節です

来迎寺の一里塚  両塚を残している 塚木は黒松です 江戸日本橋

 より84里目

来迎寺 鏡内に織田方今崎城 跡碑がある  上洛する今川軍の

 攻めにより落城した

来迎寺 公園  園内に玉ノ井碑、錦織千載駐除光碑がある 日清戦争を

 控え明治天皇が陸海軍合同大演習を観閲した

知立市と安城市の境 猿渡川 橋の欄干に松並木のリレーフがありました。

安城市にも松並木  1604年江戸幕府は全国五街道を制定し 一里毎

約4キロに一里塚と街道沿いの松並木を推奨し現在も残っています

この辺りにはよく残っており地方行政の皆さんの努力に感謝したい

明治川 神社 この辺り一帯は安城が原と呼ばれる不毛の地であった。明治14年

 1881年明治用水が完成して西三河一帯に供給された その建設の功労者を

 祀っている。境内の神池は明治用水を入れたもの

明治用水 碑

永安寺 1677年刈谷藩はこの地を再検地し過酷な年貢を課した。この地の

 庄屋助太夫は反対を申し立て助郷の免除を願い出たが捕らわれ処刑された

 この柴田助太夫の屋敷跡に創建され菩提をともなっている 境内を覆いつくす

 雲竜松は樹齢300年

尾崎の一里塚

熊野神社   鎌倉街道の分岐点にある

神社裏一帯は 元第一岡崎海軍航空隊基地です

国道 一号線 現在の東西大動脈 車の車列がひっきりなしに通ず来ます

弥五騰 神社 東矢作村の鎮守

矢作橋  日吉丸 後の太閤秀吉と蜂須賀小六が出会った橋。

八丁味噌 カクキュー  今川義元の家臣早川新五郎勝久は桶狭間の戦いで

 今川が破れ岡崎の寺へ逃れ武士をやめ久右衛門と改めた。

 寺で味噌造りを学び数代の後現在地で1645年業とした。その後現在地で

 伝統製法八丁味噌を守り通ずけている。

第三回目ここで終了です
 

 

 

東海道五十三次東下り 鳴海宿~知立宿

 

今年十一月に開始して2回目です

秋も晩秋で紅葉から今は落ち葉のまっさかり今年も残り少なくなりました。

東海道街道歩き妻と二人で出かけることにしました。

 

  出発日  2021年12月24日 金曜日

   経路   愛知県 鳴海宿~知立宿

鳴海は海に近く潮騒が聞こえたところに由来している

尾張藩は絞りの生産を鳴海、有松のみに許可した。1843年東海道宿村大概帳に

宿場内家数847軒うち本陣1軒脇本陣2件旅籠68軒で人口3643人でした。

鳴海宿 江戸口 常夜灯  1806年 文化三年 建立

有松の一里塚

両塚が現代風に復元されている。江戸日本橋より87里目

有松 重要伝統的建造物群保存地区 町並み保存地区 に入ってきました

有松は東海道の鳴海、知立間は人の住まない木々がうっそうとして旅人をねらう追いはぎまで

でる 淋しいところでした。そこで尾張藩が入植者募集し税を取らない約束のもと竹田庄九郎

はじめ八名が移り住んだ。1610年名古屋城築城のさい九州豊後から来ていた人たちが

身に着けていた絞り染を参考に出身地知多木綿を使って作り始め旅人に売り始めたのが

有松絞りのルーツといわれてます

塗籠造り虫籠窓   江戸末期 絞商の特徴をよく表している

 

 

おみやげ ハンカチ です

桶狭間 古戦場 公園です

今川 義元の墓

1560年5月19日 駿河、遠江、三河の国主 今川義元は西上の際ここ桶狭間で織田信長の奇襲

に遭いここで倒れた。以前ここは塚であったが明治九年五月有松の住人がこの墓を建てた

阿野の一里塚    両塚を残している 国指定史跡  

愛知県内に18か所一里塚があった。両塚が現存するのは知立とここだけです

境橋

『うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継目なるらん』 接着剤のにかわと三河をかけている

境橋が尾張と三河の境であった。中ほどより東は土橋、西は板橋の継橋であった。派手な尾張

質素な三河の気風か

お藤士松

名鉄富士松駅のまえにあるかわいい松がお藤松です。桶狭間の合戦ご今川勢が西に

急ぐ旅人を信長の回し者として切り殺してしまった、地元の村人が丁寧にほおむり

一本の松を植え供養した。

逢妻橋

在原業平を慕って京から来た徒若姫が川を隔てて出逢ったことに由来している

知立神社

知立城跡

信長の攻めにより落城 将軍用の御殿になったが元禄の大地震で倒壊

第二回終了

本日は二里半十二町 12.5キロです。少し無理して長かった。見どころはたくさんあり有松では

絞りの歴史から最盛期と話がたくさん伺えて満足できた。また桶狭間の歴史公園もあまり書かなかったが見ることが出来良かった。次回は家康の岡崎まで行けるかどうか頑張ってみよう