中山道踏破 35回目 最終回 その3 | 古城 めぐり

古城 めぐり

戦国時代を生きた人々の城を訪ねます

 その3です

 

 中山道踏破 最後の日を迎えました。元気に出発です 

 

都営地下鉄 三田線 千石駅前 日本橋終点まで 6キロです

今日も気持ちのよい朝 銀杏並木の中山道です

東洋大学 素晴らしい 大学が目に入ってきました 日本で 最初に男女共学を実施した 

大円寺 八百屋お七を供養する『ほう六地蔵』がある お七の罪業を救うため熱した焙烙を

    頭に被り焦熱の苦しみを受けている。首から上の病に霊験あらたかといわれる

    墓所には幕末の砲術家 高島秋帆の墓がある

 

東京大学 農学部 水戸藩中屋敷跡

東京大学構内  東大には入学かなわず 構内散歩は ゆるされました

赤レンガの 東大どうりです

赤門 東京大学の敷地は 加賀藩上屋敷跡です 赤門〈御守衛門)は文政十年1827年

   十一代将軍家斉の娘 やす姫が前田家に輿入れする際 建立された朱塗りの門 

   重要文化財

皇女和宮降嫁 日程

文久元年1861年11月15日 二十四日目 江戸田安門内の清水御殿に到着

家茂との婚礼は翌二月十四日に執り行われた 慶応二年1866年家茂は京都にて急逝

共に暮らしたのは二年六か月と満たなく子はなさなかった。慶喜が朝廷に大政を奉還

すると和宮は徳川家の家名存続と慶喜の助命嘆願に重要な役割を果たした。

明治十年1877年 八月七日 箱根七湯の一つ塔ノ沢で病気療養中に死去 享年三十二

 

かねやす  享保年間 1716年~36年 兼保 祐悦という歯医者が 乳香散 という

      歯磨き粉を売り出し評判になる。本郷も かねやす までは江戸のうち と

      言われ この先からは 茅葺屋根に変わった

見返り坂  見送り坂とも 江戸払い 所払いの罪人をここで追放した

 

東京医科歯科大学 桜の馬場 跡 馬場の左右に桜と紅葉の大木があった

JR御茶ノ水駅 と 神田川

湯島聖堂  元禄四年 1691年 五代将軍綱吉が創建した孔子廟 寛政二年八代将軍

      吉宗が昌平坂 学問所を併設した

神田明神  天平二年 730年創建 祭神は平将門 江戸三大祭の一つ 神田祭の神輿

      が江戸城内に入り歴代将軍が上覧した

本日のランチ 江戸前 寿司 でした

東京都選定 歴史的建造物 

竹邑 甘味処

いせ源 あんこう 鍋

神田 やぶ蕎麦

ぼたん 鳥のすき焼き

JR 神田駅

コレド室町 

越後屋 三越本店 延宝元年1673年三井八郎右衛門高利が開いた呉服店

日本橋 ゴール です 

明治44年 1911年木の橋から石造橋に改築され 国の重要文化財になっています

このエリアは商人の町として賑わった茅場町、幕府水軍の本拠地から金融の町となった

兜町、江戸の名残を色濃く残す室町、本石町など史跡、旧跡がみられます

 

日本国 道路元標  日本橋は五街道が慶長8年1603年架けられ翌年に日本の中心

江戸繁栄の象徴となりました。明治に入って日本橋の中心が国内所街道の起点と定められた

元標広場に同じものがありました。 本物は日本橋の中心に埋められています

東京駅

終わり


中山道踏破 完走して

 

2017年11月日本橋目指して始めた街道歩き無事到着できました。ちょうど五年

過ぎました。途中日本中に蔓延した新型コロナ感染症の影響で中断もやむなく 2年九か月

にもかかわらず2022年12月九日終了出来ました。よかったです、うれしかったです

滋賀の草津 東海道との追分がスタートでした。一か月前右足を負傷し医者通いのなかでした

最初のスタートが忘れもしない 立木神社でした 何やら大きな樹齢何百年の木が記憶にあります

それから何百の神社があったか いま行先の景色、史跡など全部記録で残し すでにA-4

フャイルで三冊 関連資料で四冊 の 成果品が出来ました 大事な私の宝物になりました。

今は元気に歩けますが 将来歩けなくなったらこの成果品で中山道の時間を過ごしたいと

楽しみにしたいと思います。

今また女房と二人で東海道東下りを始めました。自分で計画 説明 ガイドです

現在 名古屋の宮宿~二川宿まで行きました。どこまで行けるのかのんびり行こうと思います

 

                                  2022年12月