東海道東下り 三回目 | 古城 めぐり

古城 めぐり

戦国時代を生きた人々の城を訪ねます

東海道五十三次東下り 

                知立宿~岡崎宿

 

昨年12月二回目 鳴海から知立まで街道歩きしてから長く中断してました。

今年2月 目の病気で病院のみなさんにお世話になったり 何年振りかの冬の

寒さが厳しく街道歩きいけませんでした。何事も体調万全で初めて行動に意欲が

出ること心配事などあると街道歩き一日10キロ以上も歩くこと できないことが

今回よくわかりました。

桜も咲き終わり新緑の今 行ってきました。

 

  出発日 2022年4月20日 水曜日 快晴

  経路  愛知県 知立宿~岡崎宿西口

 

知立宿は馬市や木綿市が立つ市場町としておおいに賑わった。

天保14年1843年東海道宿村大概帳によると宿内家数292軒 うち本陣

一軒 脇本陣 一軒 旅籠 35軒 宿内人口 1620人 であった

 

知立松並木 並木八丁と呼ばれた

旧東海道39番目の宿 知立宿 江戸より八十四里十七町 京都三条より

 四十一里

街道沿いには 東海道のシールが各所に張ってあり道に迷うことは なかった

有難いです

歌川広重の浮世絵東海道五十三次 知立です。当地で馬市が盛大に開かれた

様子がかかれている。鎌倉時代初期には馬とのかかわりがみられた。

毎年4月5月には遠く甲斐、信州からも馬が集められその数400から

500頭にも及んだ。馬の売買人はもとより商人、遊女、芸人、役者、人形使い

まであつまり賑やかきまわりない有様であった。

松並木に馬がつながれていた

知立の花 カキツバタが少し咲いています。ここより北700メートルに

カキツバタで有名な無量寿寺があります

街道沿いは 木々の新芽 春のハナミズキ はじめ美しい季節です

来迎寺の一里塚  両塚を残している 塚木は黒松です 江戸日本橋

 より84里目

来迎寺 鏡内に織田方今崎城 跡碑がある  上洛する今川軍の

 攻めにより落城した

来迎寺 公園  園内に玉ノ井碑、錦織千載駐除光碑がある 日清戦争を

 控え明治天皇が陸海軍合同大演習を観閲した

知立市と安城市の境 猿渡川 橋の欄干に松並木のリレーフがありました。

安城市にも松並木  1604年江戸幕府は全国五街道を制定し 一里毎

約4キロに一里塚と街道沿いの松並木を推奨し現在も残っています

この辺りにはよく残っており地方行政の皆さんの努力に感謝したい

明治川 神社 この辺り一帯は安城が原と呼ばれる不毛の地であった。明治14年

 1881年明治用水が完成して西三河一帯に供給された その建設の功労者を

 祀っている。境内の神池は明治用水を入れたもの

明治用水 碑

永安寺 1677年刈谷藩はこの地を再検地し過酷な年貢を課した。この地の

 庄屋助太夫は反対を申し立て助郷の免除を願い出たが捕らわれ処刑された

 この柴田助太夫の屋敷跡に創建され菩提をともなっている 境内を覆いつくす

 雲竜松は樹齢300年

尾崎の一里塚

熊野神社   鎌倉街道の分岐点にある

神社裏一帯は 元第一岡崎海軍航空隊基地です

国道 一号線 現在の東西大動脈 車の車列がひっきりなしに通ず来ます

弥五騰 神社 東矢作村の鎮守

矢作橋  日吉丸 後の太閤秀吉と蜂須賀小六が出会った橋。

八丁味噌 カクキュー  今川義元の家臣早川新五郎勝久は桶狭間の戦いで

 今川が破れ岡崎の寺へ逃れ武士をやめ久右衛門と改めた。

 寺で味噌造りを学び数代の後現在地で1645年業とした。その後現在地で

 伝統製法八丁味噌を守り通ずけている。

第三回目ここで終了です