東海道東下り  十五回目  | 古城 めぐり

古城 めぐり

戦国時代を生きた人々の城を訪ねます

東海道東下り 十五回目

            府中宿~江尻宿~興津宿

今年最初の街道歩き行って来ました。今年は新年早々石川県

能登半島を中心に震度7を上回る大規模地震が発生大変な年明け

となりました。被災地の皆さんには頑張って生きて早い回復を

願いたいとおもいます。

 

出発日 2024年2月1日、2日 快晴 のち 曇り

経路  静岡駅から静鉄線経由 江尻より興津まで

距離  17.2キロ

JR静岡駅 

徳川家康 像

静鉄 電車

旧東海道 記念碑

昭和37年国鉄操車場建設により旧東海道が分断された。

廣野神社  御神木の楠木は推定樹齢五百年

東光寺  参道入口にある葦葉達磨 大師立像

梅の開花 この地は非常に暖かく梅が満開です。鳥たちも楽しそう

上原子安地蔵堂

武田家の縮将 江尻城主 穴山梅雪は堂内で徳川家康と会見

軍門に下った。これが武田家滅亡のきっかけとなった。

姥が池  

金谷長者に男児が生まれた。咳の病に罹ると姥が身代わりになって

入水すると平癒したという。

都田吉兵衛 供養塔

侠客で俗に都鳥と呼ばれた。清水次郎長の子分森の石松を騙し討ちに

した。次郎長一家がここで仇を討った。

里人が哀れみ供養塔を建立した

清水の次郎長

本名山本長五郎。若くして遊侠の道に入り一家をなす。宿敵の

都鳥を討つと海道一の大親分になった。幕末に江戸城無血開城の

談判 山岡鉄舟を助けたことから知遇を得て維新後は三保の松原

新田開発 富士山麓の開墾 巴川の架橋 英語塾の開講に尽力した

 

追分羊羹 元禄八年1695年の創業 竹の皮で包まれた蒸し羊羹

題目 碑  道標 これより志三ず道 清水湊にいたる 

山岡 鉄舟 

幕臣で剣豪でもあった鉄舟は勝海舟の意を受け江戸城無血開城の

根回しに奔走した。明治五年宮中に出仕し明治天皇の侍従に

十年間務めた。鉄舟は身長六尺二寸 188センチ体重二十八貫

105キロの偉丈夫であった。晩年がんを患い臨終に際して

皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命した。享年五十三歳でした。

 

江尻宿 

江尻宿 寺尾本陣門 跡

巴川 稚児橋     ここで一日目終了

江尻城 跡

武田信玄が築城 穴山梅雪 が城主であった。関が原後廃城

江浄寺

家康の嫡男信康の遺髪を納めた宝塔がある。信長に正室築山御前

と信康母子は武田に内通しているとの嫌疑をかけられ、家康は

やむなく二人に死を命じた。

細井の松原 跡

街道沿いには206本の松原であった。

東光寺

臨済宗妙心寺派で医王山と号し天文年間1532年の創建

格子門は勅使下向の際 興津川の渡しが川止めとなりこの寺に

泊まることとなり急遽作られた門

興津坐漁荘 入口

玄関

応接室  洋間

応接室  二階 和室

 

元老 西園寺公望 

 嘉永二年1849年~昭和15年1940年

 元老とは明治中期から昭和初期にかけて国政上の最高顧問として

明治国家発展に寄与した人物がついたポスト

伊藤博文、井上薫、山県有朋、黒田清隆、松方正義、西郷従道、大山巌

の七人が明治天皇のもとその任にあたった。大正期に桂太郎と西園寺

が加わり この九人が元老と称された。そして最後の元老が西園寺公望で

あった。明治 大正 昭和の政治家で二度の総理大臣 平民主義を貫き

透徹した見通しと冷静な分析豊かな国際経験と見識を持ち高く評価された。

 

清見寺

清見関の鎮護寺。家康が今川氏の人質時代に受けた『手習いの間』

がある。また家康が接ぎ木した 臥龍梅や清水次郎長が建立した

咸臨丸乗組員殉難碑がある

 

臥龍梅 家康が接ぎ木したと伝わる

清水次郎長 建立 殉難碑

清見寺 より景色 下はJR東海道本線

潮屋

創業 明治30年 1897年 献上銘菓 宮様まんじゅうの老舗

やわらかい こし餡の お饅頭頂きました

龍興寺  百地蔵の八十三番延命地蔵尊 見事な松です

本日の最後 JR興津駅に到着です  PM15時

おわり