東海道 東下り 十六 回目  薩唾峠 | 古城 めぐり

古城 めぐり

戦国時代を生きた人々の城を訪ねます

東海道東下り

          興津宿~由比宿~蒲原宿

 

東海道街道歩き 今年二回目行って来ました

今回は街道の中 箱根、鈴鹿とともに三大難所と言われた

薩唾峠 を越えて行きます。

万葉歌人 山部赤人が 詠んだ『田子の浦ゆうち出てみれば真白にぞ

富士の高嶺に雪は降りける』 歌の舞台になった処がここ薩唾峠と

言われています

駿河湾の波打ち際を歩いていて薩唾山の崖の背後から突如現れた富士山の

美しさに感銘し詠んだとされています。

今回は孫でかわいい七歳の小学校一年生 女子が同行です。

社会勉強でと思うが 本人は生まれて初めて見る富士山に頭がいっぱいで

こちらは恥ずかしくて富士山が雲に隠れやしないかとひやひやで歩きました

 

出発日 2024年2月29日(木曜日)二日間  晴れ時々くもり

経路  JR東海道興津駅 ~ 蒲原駅 

距離  13,4 キロ

薩唾峠展望台から見た富士山と駿河湾

JR興津駅まえ 薩唾峠 案内板

興津宿

興津宿は興津川の渡し 難所薩唾峠 そして身延山の追分を控え

賑わった。天保14年1843年の東海道宿村大概帳によると

宿内家数は316件 本陣2 脇本陣2 旅籠34件 

人口1668人であった。

興津橋 

興津川は徒歩渡しで水深四尺五寸を超すと川止めになった。

冬は仮橋が架けられた

薩唾峠 案内板があります

舗装道路で広く歩きやすいが急坂がつずきます

いよいよ山道に入ってきました   難所 東海道

薩唾峠 指定の碑

当初は崖下の波うち際を通行して 親しらず子しらずと呼ばれた

その後朝鮮通信使の通行に際し峠道が開削された

 

広重画 

 遠景に駿河灘に白帆、左手に薩唾峠の峻険 手前に川越し

 風景が描かれている

街道の上下一帯は美しいみかん畑となっている

収穫したみかんを運ぶトロリーが設置されている

畑が急峻で作業が大変なことがうかがえる

日本の大動脈がここに集まっています

奥へ名古屋方面 東名高速道路 したが一号線とJR東海道本線

今回も旧東海道は地滑りで一部通行不可でした。地滑り対策工事が

毎年難工事で進められています

 

駿河湾と東名高速 富士山が望めて 非常に景色の良いところです

西倉沢の一里塚

江戸日本橋より四十里目 およそ160キロあります

望嶽亭 藤屋

富士の眺望が良いところから望嶽亭と称し薩唾峠の入口にある

ところから坂口屋とも呼ばれた。 幕末薩摩兵に追われた 山岡鉄舟

はここに逃げ込んだ。拳銃をのこし裏口より逃げ延びた

 

 

明治天皇 ご小休 柏屋

明治元年 1868年 1878年 明治天皇 巡幸のおりご休憩所

に充てられた。

由比の旧東海道です 当時の風情が残っています

 

 

名主館 小池邸

代々小池文右衛門を襲名し寺尾村の名主を務めた

名主は年貢の取り立て、戸籍事務、他村領主との折衝 など

村役人のなかでも最も重要な役割を担っていた

江戸時代の名主の面影を残しており平成10年国の登録有形文化財

の指定された

 

由比本陣跡

今川義元の家臣であった由比家の子孫が代々務めた。

現在は本陣公園になっている

正雪紺屋

江戸時代初期創業の染物屋。徳川幕府の転覆を図った慶安事件

で知られる由比正雪の生家

東桝形跡

街道が90度折れ曲がっている。昔の軍隊移動がよく見えない

人数が読めない 行進に時間が曲がることでかかる事で各街道に

義務ずけられた。  由比宿の江戸口

JR東海道本線  蒲原駅

 

終わり