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      注意※この記事には暴力的なシーンが含まれています



前回のあらすじ
1. 水戸藩の処刑場 赤沼牢屋敷
2. 赤沼牢屋敷の惨劇
3. 慰霊の首無地蔵




 前回に引き続き、恐いお話です(´゚A゚`)

 今回も思いっきり恐い路線で行こうと思います。

 ある日、水戸の処刑場について調べている時のこと…また貴重な資料を発見しました。それは『徳川幕府刑事図譜』という明治時代に書かれたものです。

ところで徳川幕府刑事図譜とは一体なにか??という事なのですが.....

徳川幕府刑事図譜とはいわゆる『地獄絵』です。 

処刑執行の様子を生々しくリアルに描かれていて、とても恐ろしい地獄絵です

この資料により水戸のこれらの処刑場における処刑の執行の様子の全容が明らかに!!ヾ(゚Д゚)ノ

今回は別の件を載せようと思いましたが、予定を変更してお送りいたします( ̄ー ̄U

徳川幕府刑事図譜については下をご覧ください。
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           徳川幕府刑事図譜とは?       

1893(明治26)年に刊行された作品で,江戸の罪と罰の世界を迫真の筆で描いています。徳川政権のもとで250年以上続き,今日ではうかがい知ることさえ困難な刑政を告発するために,63枚の図版を掲載しています。

勧善懲悪的なストーリーが,紙芝居のように展開し,倒幕後の文明開化の図と対比して,見る人に時代の変革を印象づける構成となっています。『図譜』は,まさに江戸時代の刑罰史の生き証人ともいえる作品です。明治大学博物館所蔵の資料として,出版報道で数多く利用されてきましたが,その全貌はまだ十分に知られていませんでした。
                                    ― 明治大学博物館 ―
 






  この徳川幕府刑事図譜はありのままにリアルに描写しているためとても生々しく残酷で、目を覆いたくなるものばかりです。
  しかし、今までみてきた水戸の処刑場と共通する点が多くみられるとともに、事実に基づくもので水戸でもこういう事が行われていたのかというような当時の様子を実際にビジュアルで見る事ができる唯一の貴重な資料でもあります。




やはり。。。。  百聞は一見にしかず!!ヾ(゚Д゚)ノ

 聞くよりも実際に見たほうが分かりすいので、実際の本物の『徳川幕府刑事図譜』の地獄絵を用いながらでこれまでのおおまかな流れをもう一度おさらいしたいと思います( ̄ー ̄U

 徳川幕府刑事図譜は全63枚の図版で構成されていますが、そのうち、水戸の刑場とも関係のある数枚だけを見ていきます。





 
 

幕末の赤沼牢屋敷



  むかし、赤沼町というところに赤沼牢屋敷という水戸藩の獄舎があった。赤沼町はもともと鉄分を含む赤い沼があったためそう呼ばれるようになったが、元来湿地帯であったため牢内はいつもジメジメしていて設備も悪く、不衛生極まるこの世の地獄だったという。

  幕末の頃になると赤沼牢屋敷では連日、処刑が行われるようになる。幕末の頃に起きた水戸藩の内乱『天狗党の乱』では水戸藩同士の争いがあり〔水戸藩諸政党・幕府軍〕と、藤田小四郎をリーダーとする〔水戸藩天狗党〕は各地で激しい戦闘を繰り広げるも、天狗党は幕府軍の猛追をうけついに降伏をする。
  この時点で降伏した天狗党の人数は809人(※水戸藩士35人・農民335人・その他不明の小者・農民など)は次々と捕らえられる。幕府の下した天狗党の処分の判決は『死罪352人、遠島137人、構いなく追放187人、水戸藩渡し137人、永厳寺預け(15歳以下の少年)11人』というとても厳しいものだった。

 水戸藩渡しとなった水戸に護送された天狗党の150人近い者や縁故あるものに対して、水戸城に戻った市川三左衛門は 吉田ヶ原や千束原などその他刑場で次々と処刑していきましたが、ここ赤沼牢でも連日処刑が行われるようになり、獄舎は毎日鮮血に染められた。その数は水戸藩死事録に記載されているだけでも300を越えるという。


  中でも哀れを誘ったのは武田耕雲斉の妻とその子らの処刑で、敦賀から水戸へ送られてきた夫の首を抱かされた妻の延子はその場で斬られ、幼児の金吾は、獄吏の膝の下に組み敷かれて刺殺された。





現在の赤沼牢屋敷跡↓↓
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残罪仕置きの図
 
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 これは、徳川幕府刑事図譜の44ページにある『斬罪仕置の図』です。この処刑法は赤沼牢で行われた処刑法とまったく同じ手法です。なんという恐ろしい光景でしょうか!

 江戸時代では自白が最大の証拠とされ、拷問に耐えかねて自白し冤罪で処刑されたという事があったようです。江戸時代に生まれてなくてよかったとつくづく思います(((((°°U)
 現在でも死刑が執行された後に冤罪が発覚したケースがあったようですが、冤罪はあってはなりませんね。




解説
  赤沼牢の処刑場は至って無造作で空堀の上に板塀をめぐらしてあるばかりだから、その空堀を越えて板塀に取りつけば、ところどころの節穴から刑場の有様がうかがえた。平地に縦二尺ばかりの穴を掘り、その穴に臨んで敷かれた荒菰の上に、牢屋の方より白布で目隠しをして連れて来た囚人を座らせ、番太郎が囚人の首を穴の方に突き出せば、執刀者は狙いを定めて掛声もろともこれを斬り落とした。                死刑囚は殺される朝はきまってサイの目に切った豆豆腐を食わされたので城下の町人達は明治、大正になっても豆腐をサイの目に切る事を嫌い、首を斬る時の音に似ているというので濡れ手ぬぐいの端を両手で持ちパッと音をたてて広げるのを嫌がった。           







斬罪取片付の図
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解説
  斬首した首の無い死体は,カラ俵に詰められ、頭無通りを通り、吉沼の土壇場とよばれる場所へ運ばれていった。



 これは、江戸幕府刑事図譜の45ページ『斬罪取片付けの図』です。その名の通り、斬首された遺体を片付けている様子が生々しく描かれています。
 





いかがでしたでしょうか?

江戸時代ってとても恐いですね~。

こういう残虐な事が日常的に行われていたのです(((( ;゚Д゚)))))

今回掲載した取り上げたものは、地獄絵『江戸幕府刑事図譜』の,水戸とも関係のあるほんの数枚にしかすぎません。

その数枚しか掲載できませんでしたが、下に徳川幕府刑事図譜へのリンクを張りましたので、江戸時代に実際に行われた刑事についてをもっと見たいかたは是非ご自分の目で見てください。
あまり見すぎて眠れなくなっても補償はできませんのであしからずヾ( ̄o ̄u)


          


            徳川幕府刑事図譜入り口↓↓ 注意※ここから先は暴力的なシーンが含まれています
         
             徳川幕府刑事図譜  ~江戸の罪と罰~ いりぐち







話が戻ります。

渋井町には、赤沼牢で斬首された首無しの遺体と、これからお話しする境橋刑場でハリツケにした遺体を埋葬した『土壇場』という場所があります。(土壇場は現在公園になっています)

その土壇場は次のお話で. . . .( ̄ー ̄U




つづく......