「自由」とは一つ抽象度の階層が上がったときの感覚です。
茂木先生の「アハ体験」しかり、アルキメデスの「エウリカ」しかりです。
脳は気持ちが良いのが好きで、気持ち良さとはドーパミンの量に比例します。ドーパミンが大量に出ると抽象度が上がり、抽象度が上がるとドーパミンが大量に出ます。どちらも同じ事象の裏表です。
LSDがインスタントヨガと呼ばれるのはこれが理由です。クスリで大量にドーパミンを出そうが、マントラと瞑想と音楽でドーパミンを出そうが脳にとっては同じです。
千日回峰は究極のランナーズハイです。
断食と不眠とマントラも同様です。命の危険があればあるほど、ドーパミンは出ます。だからこそ臨死体験は人格を変えるのです。臨死体験は見る幻覚に意味はありません。その深い変性意識体験のみが重要です。
ですからLSDで「悟り」を見ることは可能です。長年の修業の末に見ることができる「極彩色の世界」を5分で見ることも可能です。
逆に修業の中でも実はドラッグは使われています。
ただ自分で創る脳内麻薬のドラッグと外からの薬の違いは生体毒性と中毒性、依存性です。
もちろん中毒性と依存性は脳内ドラッグにも存在します。テレビやゲームがやめられないとか、ネットサーフィンが止まらない、パチンコやギャンブル、過食症、リストカットなどすべて中毒と依存です。
強烈なドーパミン体験が忘れられないから、中毒になるのです。
怪我を繰り返すことも、病気を続けることも同様です。ダンサーが踊りをやめられないのもそうです。
一度でも気持ち良く高い抽象度で「踊れた」感覚を覚えてしまうと、繰り返しそれを味わいたくなるのです。その抽象度の情報空間はそれほどまでに気持ち良いのです。
それに同調するからこそ、観客も気持ち良くなります。
ルドルフ・ヌレエフ(バレエダンサー)が「一度、喝采を浴びてしまうと、もう忘れられない」と言いましたが、ポイントは物理的な「喝采」ではなく、高い抽象度の情報空間の感触であり、そのときの大量のドーパミン体験です。
かつてオウムの幹部が「瞑想はセックスより気持ちがいい」と言いましたが、単純に考えればドーパミン量では確かにそうです。
ただ彼が失念していたのは、性交渉によるヨガもあるということです。タントラだけではなく、瞑想と性交渉をリンクさせた行は世界中にたくさんあるのも事実です。カルトがよくやる乱交教団ではなく、きっちりと体系化され抽象度を上げたものです。そしてその逆もあります。カソリックの禁欲主義です。両極は相通ずるのです。抽象度を上げて見れば、同じことです(多分)。
「瞑想」、「性交渉」という事象の表層だけでは見えないことが多いのは事実です。その抽象度によって、同じ行動でも意味は違います。
ただ件(くだん)の幹部は、もちろんタントラなど知っていた上での発言でしょう。メディアではインパクトのみが重要です。
ホメオスタシスも脳のカラクリなので、気持ち良いのは好きなのです。抽象度の高い世界を一度見れば、そちらに移動したがるのです。ですからゴールが重要です。
ゴールの世界とは抽象度の非常に高い世界です。物理的現実世界で言えば、ドーパミンが大量に出る気持ち良い世界です。脳は臨場感が高い世界を「リアル」と認識します。逆に脳が「リアル」と考えるのは臨場感が高い世界のみです。
だから「心ここに非ず」というのは、肉体も「ここ」になく、情報空間をさ迷っています。
だからこそ山手線の中で小説を読んで、思わず泣いてしまうのです。そのときの「リアル」は日本の東京の山手線の車内ではなく、小説世界です。登場人物の世界です。そちらがリアルなのです。
ということは、いつもゴールを抱いている人は、小説世界のようにそちらがリアルなのです。目の前の物理的現実世界が虚構なのです。それをかつて苫米地先生は「大いなる勘違い」と呼びました。もちろん本気で「勘違い」すれば、現実が変容するという意味です。
「大いなる勘違い」は目に見えます。それが「存在感」であり、「オーラ」と呼ばれる現象です。
だから、ゴールの世界は未来であり今です。
脳にとって「現在、過去、未来」は存在しません。
あるのは「今」だけです。「永遠の今」だけが存在します。
アインシュタインもかつてそう言いました。「過去、現在、未来とはどれほど確定的に見えても幻想にすぎない」という主旨のことです。
時間は未来から流れるとして、時間のプラスマイナスを逆にしたのはアインシュタインですが、実は流れていないことを示したのもアインシュタインです。
時間と空間が相対的であるということは、時間軸も空間軸も存在しないということです。観測者が存在し、観測者毎の物理法則における整合性が担保されるだけです。
同じ現象を見ても、別な観測者からは別な事象に見えるのは、思考実験でわかります。
我々もいまや時間が離散的であることは知っています。プランク時間という最小単位があり、連続的ではなく、離散的です。その永遠の次元の断層を飛び越えるのが、「生命」という現象です。それは「物理」には不可能です。
モノがそこにあり続けるのは観測者がいるからです。見る人がいなければ、モノは消えます。それがシュレデンガーの猫の回答です。「観測問題」の回答です。
ですから我々は1秒間に数え切れない数(プランク定数の逆数)の輪廻転生を繰り返しているのです。時間が離散的であるのであれば、導かれる結論はそれしかありません。
だからと言って魂という純粋な「情報」があるわけではなく、その「情報」は物理的な生体と不可分です。
その物理ですら定常的では有り得ません。
動的平衡(ホメオスタシス)を考えればわかります。我々の肉体の分子は一瞬として同じ状態に留まらず変化し続けています。
川の流れと同じです。大局的には同じものですが、微視的には刻々と入れ替わっています。
一瞬一瞬で物理も情報も入れ替わるのだからこそ、「一瞬で生まれ変わる」ことは可能なのです。
「気功は一瞬で劇的に変わる」というカラクリはこのサイエンスがベースなのです。
生体は跳躍を繰り返し、恒常性を維持するための膨大な努力をしています。その跳躍の瞬間をつかまえて、書き換えるのが僕等の仕事です。