サイバー・ホメオスタシス仮説 | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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ホメオスタシスという概念は生物学の比較的「物理空間」に近い概念でしたが、それを情報空間に拡張したのが、苫米地先生の「サイバー・ホメオスタシス仮説」です。

物理的に「暑いから汗をかく」などがホメオスタシスとされていますが、もっと情報空間の「情報」に対してもホメオスタシスが働くということです。

映画に感動して笑ったり、泣いたりなどの生理現象を起こすのも、物理空間ではなく映画という情報空間に臨場感があるからです。

苫米地先生が論文としてまとめようとしたら、当時のハーバードの医学部長から「情報空間への拡張」はすでにホメオスタシスのもともとの定義に含まれていると言われたそうです。

ただ明らかに、苫米地先生以降にホメオスタシスという概念が情報空間に拡張したのは事実だと思います。

なぜなら、認知科学以前は物理と情報は二元論として扱われています。

物理と情報の境目をグランディング問題と呼び、大きな課題でした。そして苫米地先生の研究テーマの一つでもありました。

ホメオスタシスという概念はそれよりはるか以前に作られた以上は、物理空間にのみ働くと前提されていたと考えるのが妥当でしょう。

物理と情報の境目は存在しなく、連続的であるというのがグランディング問題の結論です。

この境目が「量子」であるというのが、「科学的」を標榜するスピリチュアリズムの人達の見解です。いわゆる「量子」ヒーリング系の方々は、物理と情報の境目は「量子」にあると言います。身体と心の境目は「量子」であるということです。

これはもちろん間違っています。

モノを子細に見つめていると、いつのまにか「情報状態」になっていることに気付きます。

角砂糖を分割していけば、蔗糖の分子となり、C、H、Oの原子となり、電子と陽子と中性子に別れ、クォーク、超ひもとなります。

「超ひも」とは、振動すれば物質、振動しなければ真空という状態です。これは物質状態かと言えば、真空は何もないので、そうは言えません。では空っぽかと言えば、我々の身体や物質もひもで埋めつくされている以上、真空とは違うと言わざるを得ません。

我々は「目が良くなって」そこまで見えるようになったということです。

物理と情報の区別がつかないところまで、「見えた」ということと、そこが「境目」であるという主張には、大きなギャップがあります。

グランディング問題の証明方法は一種の背理法と僕は考えます。その詳細はまた書きます。


ただ「量子」がその境目であるという主張は丁寧に取り除かれるべきです。量子とはモノではなくオーダーです。量子論的効果が現れるサイズの世界のことです。

我々はすべて「量子」でできています。

物事を皮相的に見て、皮肉ることが仕事と勘違いしているジャーナリストが「私はクォークを見たことも触ったことも味わったこともない。なぜそのような研究が必要なのか?」と新聞に書いたことがあります。

実際は、日々クォークを見て、触って、味わっています。
例えば、「我々は原子も分子も見たことがない」、とか「我々は物質を見たことがない」というのと同じ過ちを犯しています。

量子論的ゆらぎが問題になる微視的な世界のオーダー(サイズ)を量子と言うだけです。電子や原子は量子です。

ではなぜ我々の日常のオーダーでは量子ゆらぎが問題にならないのでしょう。これは単純です。数学的には「大数の法則」が働くからです。

コーヒーを飲むときに、コーヒーの1分子の挙動などどうでもいいでしょう。もしかしたら量子トンネル効果でカップからコーヒーが漏れているかもしれませんが、気付くことは不可能でしょう。

サイコロを振れば、1の目が出る確率は毎回「6分の1」です。次に出る目が気になるのは丁半博打をしているときだけです。すなわち微視的なときだけです。

でも100万回振れば、どの目も均等に出ます。誤差はほとんど無視できます。

それが我々の住む日常世界です。

1の目が100回続けて出るような驚くべきことがあっても、巨視的な世界では確率にならされてすべて行儀良く「6分の1」となります。

コップにお湯を入れてあれば、その中の分子の振る舞いは「温度」よりもはるかに高い運動をする分子もあれば、非常に遅い運動をする分子もあります。しかしそれらの平均値が「温度」であり、特異的なふるまい(特異的ではないのですが)をする分子は無視できるのです。


それが「量子」ということであり、そこが物質と情報の境目というのは奇妙な論理でしかありません。

心と身体は同じものです。物理と情報も同じものです。「見る抽象度」が違うだけです。

コインの表と裏でデザインがどう違っていても、同じコインであることには変わりはありません。

「情報空間」と「物理空間」は連続的です。正確には物理的現実世界とは情報空間の一形態でしかないということです。
我々は生命がコンピューターでしかないことをDNAの発見によって知りました。宇宙が巨大な量子コンピューターでしかないことも、量子コンピューターの研究で逆説的に知りました。物理現象も単純な回路で示せるコンピューターでしかないのです。重力すら粒子のやり取りでしかないことが見えてきています。CERNが目指すことの一つは重力粒子であるヒッグス粒子の検出です。


コンピューターには魔法はありません。すべてはチューリングマシンの域を出ません。一つ一つ計算して結果をメモリして、それを飽きもせず繰り返すだけです。現在のコンピューターはそれがはるかにコンパクトになり、はるかに早くなっただけす。

しかし、すべては「情報」である、と言うとすぐに「唯識論」に飛ぶ方がいます。唯識の考え方は正しいです。「すべては識である」とは、すべては情報であるということです。もちろん歴史的な唯識論には後ろに「アプリオリ」があるので退けられるべきでしょう。

ただ、考え方としては、唯「情報」論は正しく、その情報もアプリオリにあるわけではなく、「私が認識したから存在する」というのは正しい認識でしょう。

しかし、すべては「情報」であり、我々の「認識」が宇宙を創る。というと、「あると言えばあり、無いと言えばない」という苫米地先生の有名な言葉を、浅薄に繰り返すのみの方がいます。
呪文のように繰り返しながら、また無知の闇に沈みます。
我々が忘れてしまうのは、アルゴリズムがあるということです。ゲームにはルールがあるということです。
物理には法則があるということです。

アルゴリズムが存在する唯識ということです。もちろんアルゴリズムすらただの「情報」です。書き換え可能なただの「情報」でしかありません。ですから抽象度を上げれば、再び「唯識」に戻ります。


歴史的にこれらのことが分かったのは、従来の「ホメオスタシス」仮説のはるか後です。認知科学によって判明し、すなわち苫米地英人という天才によって、新しくて古いパラダイムが明快に我々の前に広がったのです。

「古い」というのは、2500年前に釈迦はすでに言っており、2000年前にイエスが示しているからです。

ただコンピューターが発見(発明ではなく)される以前にそれを説明するのは非常に困難であったでしょう。

その意味で、「古く」かつ「最新」のサイエンスが認知科学です。

ですからその意味で、ホメオスタシスが情報空間に拡張するという苫米地理論はその意味で、苫米地先生オリジナルであると思います。

そして苫米地理論のインパクトがはっきりと認識されるのはまだずいぶんと時間が必要だと思います。