うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~

うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~

考えたことを

①忘れないようにするため
②不特定の方と共有して、ご意見等いただきたく

ブログに書くことにしました。

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風がやたらに強くって 毛細管のように広がった楡の梢が ぐらりぐらりと 虚ろな空を 掻き回しています


あなたが その身を離れて どこかへ行ってしまった そのことを ぼくはおもっています


ぼくが 少女だったころ 愛を注いだガラス細工を失って 窓の外の木の枝が 空の青を掴もうとして掴もうとして 何度も失敗しているのを見ていた そのときのことを おもったりもしました


あなたは今 私たちの 意識と意識の隙間 たとえば 子供部屋のデスクと壁との狭間のような場所で 所在なげに 佇んでいるのかもしれません


そして いつか 全てを忘れてしまい ぼくがぼくでなくなって あなたがあなたでなくなったころ いつの間にか うっかり すれ違ったりするのかもしれない 


と そんなとりとめのない夢想をして 時を過ごしているのです


あなたと一緒に この場所でずっと暮らし お店を営んできたおじいさんは ひとりになった今も 変わらず店に出て 働いています


ひりりと冷え切った空気に彫刻をしたように おじいさんの眉の影が 深く深くなっています 


あまりに突然だったのです


風がやたらに強くって 楡の梢で 誰かの外套が ぐるりぐるりと 巻きついたり 解けたりを繰り返しています


空には飛んでいけないみたいです

目を覚ますと 何かをあきらめたように ひんやりと 空気が希薄になっていて 部屋の中が青白い


私は セロファンを水にひたしたように くらりと沈降し じきに 私が 見えなくなる


ああ 私の輪郭はどこだろう


外部だと思われた種々の形象は 今や遠慮会釈なく私に侵入してくるし 内部にわだかまっていた物語は 微かな水の乱れで 散開してしまう


そも 私の輪郭はさほど明瞭であったか


あの ―― 私はとろりと意識を傾けた ―― はるか上方 水面と思われるあたりに 光の蝶がひらひらと戯れている


あの 事物の角がやけに硬い地上では 私にはカラダがあった 


カラダの範囲の責は私に求められたし また それを引き受けようとした 


私は 一個の人であった


自らの意思で為したことは 自らが引き受けるという道理である


けれども 私は私の意思で 私のカラダを造形してはいない


私は私の意思で 天体の運行を 大気の流向を決められないように 私のカラダの 心臓の鼓動を 神経の展開を定めることができない


宇宙の千変万化を把握できないように カラダの中の 微細な化学変化を知ることができない


ひるがえして 


私は 大気が汚染しないように 森林が減少しないように 世界へ働きかけることができるように 私は私のカラダが 肥満しないように 毛髪が薄くならないように 注意することはできる


私のカラダを傷つけると 私の意識は 嵐にのた打ち回る凧のように 激しく動揺する 


けれど たとえば 晩秋の やけに透き通った池の水に 色とりどりの落ち葉が 沈んで死んでいるのを見たときなどにも やはり 私の意識には 静かで 抗いがたい波紋が起こる


たとえば 遠い異国で 石ころみたいに迷い 迷い続けて 家族のことや 自分が誰であったのかすら分からなくなってしまった人がいると 私は その人が まるで私自身であるかのように くらりと混乱し 涙がこぼれる


意識が為し 為されるところ 観測できる 影響の大小 反応の快遅は 問題の本質ではあるまい


“私のカラダが私” なのではないし “私のカラダ以外は私ではない” のでもない


私は 明確に自然の一部であり 私のカラダの輪郭は 内部と外部とを隔てる壁ではなく 全ては世界と一続きのものだ


カラダとは 半透膜よろしく ある特定の観点において 事物を 詩を 選択的に透過するかにみえる 概念上の 一線だ


昔人の曰く


山々の尾根が 蛇のように連なるところ 様々な異形の樹木が生い茂る


木々の幹には それぞれの 変わった形の洞(ほら)があり 風が吹く度に 各々が


「ぐおー」 だの 「むおー」 だの 「ひゅう」 だの 「ほう」 だの と 形に応じて 共鳴し 音をだす


さて 音は 風が立てたのか あるいは 洞の造形が立てたのか


風がなければ音はでない 洞の造形がなくても音はでない


私という現象はそれに似ている


私は世界に生じた一つの固有の造形である 


そこに世界の ある傾向が共鳴し 不思議な影絵が 妙なる音楽が 人としての物語が生起する


そして それを私は 使い古した楽器のように 愛しく思うのだ



どこか遠くで リーンと ベルの音が鳴り始めた


私は 再びとろりと意識を傾け ゆっくりと上昇を始める


一個の人をやりにいくのだ


見ると はるか上方 先ほど 光の蝶が戯れていたあたりに 逆光で黒いハリガネになったアメンボウが くるり くるり と輪を描いている

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ③ ~存在するものと認識主体は表裏一体~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ④ ~近代科学的倒錯とは~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑤ ~近代科学を定義しなおす~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑥ ~死・夢・幻覚~

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑦ ~近代科学の守備範囲を明確にする~

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑧ ~認知的マイノリティーという考え方~



のつづきです。


十、社会的条件が認識主体に与える影響



 さて、これまで近代科学で捉えられる世界は「一般的な人間が共有する主観の世界」であると述べてきた。



 ここで、認識主体としての「一般的な人間」について考えてみたい。



 そもそも先に述べたように、個人の認識主体としてのあり方(状態・能力)は固定的で変化しないものではない。



 たとえば、ある特定の分野において訓練を積めば、その分野に関連する五感および思考能力は向上するだろうし、逆に、一度身につけた能力でも、研鑽を怠れば低下してしまう。



 また、ある個人の一日を見ても、朝起きたばかりのとき、集中して仕事をしているとき、リラックスしているとき、眠っているとき、とそれぞれ認識主体としての能力・状態は常に変化している。



 認識主体としての人間の能力・状態というのは、自然に与えられたまま一定で変化しないものでは決してない。



個人のあり方が一定ではないのであれば、個人の集合である「ある時代の一般的人々」のあり方も一定ではないはずである。



 ある時代の一般的な人々が認識主体としてどのような能力を持っているのか、どのような状態にあるのかは、その時代の社会環境や支配的なものの考え方の影響を受けると考えられる。



 その時代の社会環境において必要となる能力が発達し、逆に必要とされない能力は衰える。また、その時代に支配的な世界観に沿って、精神作用・思考作用が発達する。社会的生物である人間は、まず社会に適応することが自らの生を守ることにつながるからである。



 現代社会は、近代科学による世界観を前提に社会が構築されており、人々はそれに適応するため、近代科学の手法に沿う能力や精神作用(大雑把に言って理性的能力)を発達させてきたが、一方、近代科学の手法にそぐわない能力・精神作用(大雑把に言って感性的能力)は使用されなくなる傾向が生じた。


その結果、一般的な人間は、近代科学的世界観から外れたものを認識する能力を衰えさせ、近代科学的世界観の無謬性をますます信じ込む傾向が強化されるという悪循環が生じていたといえる。



 簡単に言い換えると、こういうことである。



 ①、近代科学的倒錯により、外部に正しい客観的世界があると疑わない。



 ②、その結果、近代科学で見出された客観的世界にそぐわない認識能力は使用されず、衰える。また、仮にそういった認識能力が自己に生じても否定する、あるいは社会的に否定される。



 ③、その結果、一般的人間の認識能力が、近代科学的世界観に沿ったものに画一化される傾向が強まり、それにより、近代科学で捉える客観的世界にますます疑いの余地がないように思われる。



 近代以降の我々人間の認識主体としてのあり方には、以上のような「偏り」が生じていたと考えるべきである。



前段で、霊能者を特殊な認識の方法を取る人間の例として挙げたが、その場合の「特殊」というのは、現代社会においては一般的ではない、という意味であって、人間存在の本質に照らして「特殊」であるということではない。歴史的視点に立てば、逆に近代以降の一般的人間のほうが「特殊」であると言えるかもしれないのである。



つづく


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ③ ~存在するものと認識主体は表裏一体~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ④ ~近代科学的倒錯とは~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑤ ~近代科学を定義しなおす~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑥ ~死・夢・幻覚~

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑦ ~近代科学の守備範囲を明確にする~


の続きです。



九、新たな事象研究への提案 ~認知マイノリティーという考え方~


 では、より普遍的な世界認識を獲得するにはどうしたらいいのだろうか?


 端的に言えば、一般的な人間の状態ではない認識主体が認識する存在の様相(世界)を、これまでのように「主観」と言って切り捨てるのではなく、平等に扱えばよいのである。

 「一般的な人間の状態ではない認識主体」とは、以下のようなものが考えられるだろう。


 ①、人間以外の生物

 ②、特殊な認識の方法を取る人間

   ・技術・能力として特殊な認識の方法を身につけている場合(霊能者など)

    ・一時的に認識主体として特殊な状態に変化している場合(夢・幻覚など)




 まず、①について。人間以外の生物がどのように世界を認識しているのか(その生物はどのような世界に生きているか)を探求することで、一般的な人間が認識できない要素を捉えられる可能性がある。これは従来から試みられてきたアプローチであるが、より一層重視されてもよいだろう。

特に重要なのは②である。霊能者、あるいは夢や幻覚について、もちろんこれまでも様々な研究がなされてきている。ただし、近代科学の手法が幅を利かせている中では、「主観である」「存在しないものである」として、正当な研究としては扱われない傾向が長く続いてきた。

しかし、これまで論証してきたように、近代科学の知見というのもあくまでも「主観」なのであって、霊能者による世界認識、および夢や幻覚との差は、認識主体としての人間一般に共有されているかどうか、という点にしかない。

たとえば、認識主体としてカウントする範囲を人間以外にまで広めて考えれば、霊能者のように世界を認識するほうが逆に多数派(一般的)であり、近代科学的な世界認識のほうが少数派(特殊)なのかもしれないのである。

 より普遍的な世界認識を求める営みの中で、「特殊な認識方法をとる人間」を排除する合理的根拠はどこにもない。これまで正当に扱われなかったそれらを、平等に扱うことで新たな知見が得られる可能性は非常に大きいのである。

 こういう考え方も面白いかもしれない。

民主主義になぞらえて言えば、最終的な意思決定は多数決になるが、合意形成の過程で少数派(マイノリティー)を無視してはならないはずである。


昨今は、性的マイノリティーや民族的マイノリティーの権利に関する話題が注目を集めているが、それに倣って、私はここで認知的マイノリティーという考え方を提案したい。

つまり、近代科学的世界観の形成では切り捨てられていた、一般的な人とは違う世界認識の方法を取る人々(霊が見えたり、いわゆる第六感が働く人々等)を、認知的マイノリティーと位置づけて、人類の世界認識(共有主観)を形成するメンバーとして、きちんとカウントするべきだということである。



つづく






どういった経緯だったか忘れたけれど、それが目の前に差し出された。

太めのうさぎがぐっと伸びをしたくらいの大きさの円筒形で、両端はくるりとなめらかに丸まっている。

色は白かアイボリーに見えた。

いわゆる“白物家電”風の質感があって、ちょうど大型家電量販店で感じる“小市民の幸福”のイメージ――それはなぜか少しの哀しみを伴う―― が脳裏をよぎった。

手にとると、重さはない。
空の賞状筒ほどの重みを感じるような気もするけれど、あるいは、“形があるものにはみな質量がある”という固定観念に由来した錯覚なのかもしれないとも思う。

しばらくして、それは動き出した。

蝶や蛾の幼虫がそうであるように、自らの意思ではなく、何かその存在の本源的なものに突き動かされたように、文字通り“自然”な、つまり“自ずと然る(おのずとしかる)”様子で、身体をくねらせ始めた。

モンモンモンモンモンモンモンモン……

と、信号停止中のトラックのエンジン音と同じくらいのリズムで

モンモンモンモンモンモンモンモン……

とくねっている。

これは、何だろう?

何かの機械だろうか?
それにしては用途が分からないし、ぬくもり―― 温度としてのそれではなく、対象に“個性”を認めたときの心的皮膚感覚としてのそれ―― がありすぎる。

それでは生き物だろうか?
それにしては実在の重み―― 重量としてのそれではなく、認識作用に伴う心的圧迫感としてのそれ ―― がなさすぎる。

機械なのか、生き物なのか、どちらでもないのか。
どちらでもないなんてことがあるのか。

モンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモンモン……

動力源は何だろう?

いくらなんでも、“単一電池4本内臓” といったようなちゃちなものには見えない。
かといって、外部からエネルギー源を取り込むつくりにもなっていない。

もしかして、これはすごいぞ!
燃料供給の必要がない新エネルギー源の発見かもしれない。

さて、何かに活用できないものか。

たとえば、これを動力源にからくりを組んで、町のミニチュアを作ったらどうだろう。精巧に作られた人やら車やら電車やらがくるくるとまわり続ける町の模型。

うまく作ることができたら、有料で公開して小銭稼ぎができるかもしれないぞ!
などとせこいことをチラと考えたが、すぐに自分にはそんな複雑な機関を考える知力がないことを思い出したのだった。

やっぱダメか。

そうこうするうちに、それは、形はそのままに徐々に色を薄くしていき、ついには見えなくなってしまった。

⇒ただし、それは“なくなってしまった”のではない、と思う。

ただ知覚することができないだけで、今も、床にほっぽり出してあるテレビのリモコンの横あたりに転がって、モンモンモンモンとくねり続けている、ような気がする。

ちょうどパソコン上の“隠しファイル”のアイコンが薄く表現されるのと同じように、その存在を概念としてかすかに感じる。

これは、推測だけど、パソコンの隠しファイルがそうであるように、“それ”は僕の人生の重要な設定に関連していて、ぼくのような原理を解さぬ者がいい加減にいじくって壊してしまってはまずいから、普段は認識できないような設定になっているのではなかろうか。

⇒思うに、すべての人の人生に“それ”は存在する。

各家庭に、たとえばリビングのソファーの横や台所のテーブルの下などに、“それ”はころがっていて、各々の人生を駆動させる隠しファイルとして、今も躯をくねらせているのだ。

さて、今、何かの拍子に世界認識に関わるある設定が変わってしまい、世界中の“それ”らが一斉に知覚される。すると、駆動音の集合がヴーンと地鳴りのようにこの部屋に押し寄せて、世界中の人生がまさに進行中である、そのことをぼくは思うだろう。

ぬばたまの夜

白色矮星が鋭角に氷りついているあたり

稀少種の昆虫などを求めて彷徨っていた概念上の探検家が

不意に、ある存在論上の均衡を崩し

スドンと私の前庭に墜ちて

典型的な乳児の形で泣き始めた


すると


遠い未来と遥かな過去が円環してつながるあたり

原始的ゆえ前衛的なエメラルドグリーンの暖流に溶けて

オウムガイの脚と戯れていた概念上の海女が

ある存在論上の均衡を崩され

ひょいと私の前庭に帰着して

これまた典型的な母の形となって乳児をあやし始めた


それを


私は、人の形の構造物の

最上階のパノラマビューの窓から

何百年に一度の彗星の接近だとか、

何か宿命的に閃光する遠雷だとかを見るような

そんな敬虔な気持ちで観測しているのだ


昨日の夜中のことだ

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ③ ~存在するものと認識主体は表裏一体~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ④ ~近代科学的倒錯とは~
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑤ ~近代科学を定義しなおす~


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑥ ~死・夢・幻覚~


のつづきです。


八、近代科学の守備範囲を明確にする



 これまでの論考で近代科学の手法を相対化する視点を示してきたため、あるいは近代科学の価値を貶めているように感じる向きがあるかもしれない。


しかし、この文章はそう言った主旨ではない。当然のことながら、今後も近代科学の手法は、社会的に最重要視されるべきだと考える。



 近代科学とは「一般的な人間が共通して認識する存在の様相(世界)を厳密につきつめる営み」であると述べた。


我々個々人ができるだけ公平に、平等に活動できる社会を構築するためには、現状で我々全てが同じように認識できる世界観が根拠になるべきである。その意味で、現代社会の人間の営みの基盤には近代科学の手法が当然据えられるべきである。



ただし、科学万能主義がいきすぎて、あたかも近代科学の手法をつきつめれば、真の正しい世界の姿を明らかにすることができるかのように考えるのは誤りである。


近代科学が重視されるべきは、あくまで公平・平等な社会を築く便宜のため(守備範囲はそこまで)であって、それが人間社会を超えた、普遍的な真理研究の手段として万能であることを意味するのではない。


それはたとえば、多数決の方法が民主主義社会の意思決定の「手段」として重視されるべきではあるが、真理が多数決で決まるわけではないということに似ている。



繰り返しになるが、科学というものは「一般的な人間が共有する主観」であって、一般的な人間以外を前提とすれば、決して普遍的なものではないのである。



では、(完全な普遍性というものはないにせよ)より相対的に普遍性の高い世界認識を獲得することはできないだろうか? 



私はまだ方法があると思う。次回はそれを提案したい。


つづく

幼い頃、夕食がすんでしばらくすると、テレビのバカ騒ぎをよそに

家族みんなが黙り込んでいるのに、ふと気付く。


父も、母も、二人の姉たちも、各々の姿勢でテレビと自分との間にある空に目をやり、

心の中のどこか遠いところのことを、思っているように見えた。


あれは、遥かな遠く、いつか、どこかで


青空を、厳かな獣みたいな雲が次から次へと渡っていったこと


近所の蔵の白壁を、夕日が真っ赤に染め上げていたこと


帰り道、苔むした石垣にトカゲがツツと逃げ込んだこと


雨降りに、誰かを待ちながら、幾台もの車がシューシューと水を撥ねて

行き過ぎるのをながめていたこと


ひぐらしのカナカナがやけに響く薄暗い部屋で、ノートに何か落書きをしていたこと


そんな類のことを、思っているのだろうと思った。


そこでぼくは はっ とする。


みんなが、じきに、これまで忘れていた何か本質的な用事を思い出して、どこかへ行ってしまうのではないか。


「お、そうそう」

「あら、やだ」

「そういえば」

「そろそろね」


などなど ひとり、ふたりと出て行って、みんないなくなってしまう。


そうして、残されたぼくも、きっといつか心の命ずるままにここを出て、どこか遠くへ行く。


そうしたら、ぼくたちが家族をやっていたこの部屋には、テレビのバカ騒ぎだけが響き続けるだろう。


と、ここまで思い描いたところで、寝室から決まって母の声がするのだ。


「最後の人はテレビちゃんと消してよね」

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~  
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~  

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ③ ~存在するものと認識主体は表裏一体~  
超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ④ ~近代科学的倒錯とは~

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ⑤ ~近代科学を定義しなおす~  


のつづきです。


七、死・夢・幻覚 ~新たな地平から事象を捉えなおす~



さて、ここまでの論考を経て、我々は今、いわゆる超常現象が存在し得ると理性のレベルで言える地平に立っている。


この地平に立って見ると、様々な事象もこれまでとは違った捉え方ができるようになる。ここでは、「死」と「夢・幻覚」について考えてみたい。

①「死」とは

従来の近代科学がもたらす世界観を前提とすれば、死んで肉体が荼毘にふされれば、その人は無に帰す、つまり存在しなくなると考えざるを得なかった。

ところが、先に述べたように、近代科学で見出される世界はあくまで「一般的な人間が共有する主観の世界」なのである。

科学的手法で、死者の存在が証明されないとしても、それは、「一般的な人間には認識できない」ということを示すだけであり、ありとあらゆる認識主体を想定しても絶対的に存在しない(認識しない)と言えるものではない。

現に、一般的ではない人間=特殊な人間(霊能者など)や人間ではない認識主体を想定すれば、死者は認識できる(存在する)と言えるかもしれないのである。

以上を踏まえて「死」を表現するならば、それはあくまでも「一般的な人間には認識できない状態に変化すること」であり、「無になる(どのような認識主体からも認識されえなくなる)」とは言えないのである。

そうすると、「死後の世界」は、認識主体としてのあり方が変化した状態で認識する世界であると説明できる。

生きている時と認識主体としてのあり方(状態・能力)が変わるのだから、それに対応して、認識する存在の様相(世界)も変わるのである。

人間とハエとで認識する世界が違うのと同じように、生きている人間と死んだ後の人間とでも認識する世界が違うということである。


②「夢・幻覚」とは

 睡眠時に見る夢や、なんらかの刺激で生じる幻覚などは、近代科学の手法で見出される世界と合致しない内容がほとんどであるため、従来は、「存在しないもの」として扱われてきた。

 しかし、これも、新たな地平に立って表現すれば「一般的な人間が共通して認識できるものではない」ということであって、「存在しない」といい得るものではない。

 「夢・幻覚」を説明するならば、「認識主体としての人が一時的に一般的ではない状態に変化して認識する世界」である。


つづく

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~



超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ③ ~存在するものと認識主体は表裏一体~


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ④ ~近代科学的倒錯とは~  


のつづきです。


③、④のコメント欄にもご意見をいただいております。自身の認識を深めるきっかけになっています。よろしければご参照ください。


六、近代科学を定義しなおす



 以上を踏まえて、近代科学の手法で見出される世界(いわゆる客観的世界)を、より公平に表現するならば、それは「一般的な人間が共有する主観的世界」なのである。主観の集合はどこまでいっても主観である。



確かに認識主体としてのあり方(状態や能力)を共有している者(ここでは一般的な人間)同士では、同じように世界を認識するように思えるため、その世界が自己の認識(主観)とは関係のない、確かな客観的世界であるように感じられるが、認識主体としてのあり方を共有しない者(たとえば、特殊な人間や人間ではない認識主体)を前提にすれば、それは客観的に成り立つものでは全くないのである。



近代科学とは従来「外部に存在する客観的世界の正しい姿を明らかにする営み」であると考えられてきた。そのため近代科学で見出された「客観的世界の法則」に沿わない現象(超常現象)は、正しくなく、存在するわけがないという論調が主流であった。



ところが、これまで述べてきたような視点から近代科学を定義するならば、それは「一般的な人間が同じように認識できる存在の様相(世界)を厳密につきつめる作業」であるということになる。


そう考えると、近代科学で見出された法則に反する現象(超常現象)は、「正しくなく、存在しない」と言い得るものではなく、あくまで「一般的な人間が共通して認識する要素ではない」と言えるだけなのである。



近代科学で見出された法則に反する現象(超常現象)も、一般的な人間以外、つまり特殊な人間や人間以外の認識主体を前提とすれば、存在し得るのである。


つづく