超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ④ ~近代科学的倒錯とは~ | うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~

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考えたことを

①忘れないようにするため
②不特定の方と共有して、ご意見等いただきたく

ブログに書くことにしました。

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~  


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ③ ~存在するものと認識主体は表裏一体~  


のづつきです。



五、近代科学的倒錯とは



 さて、これまで論じてきたように、「認識主体」と「存在するもの」とは表裏一体で切り離すことができないものである。客観的に正しい世界が人間という認識主体とは無関係に外部に存在しているかのように考える近代科学的世界観は誤っている(※注1)



 では、そのような誤った世界観はどのように形成されるのであろうか。



 人が自分の外部に、自分とは無関係にあるものが存在すると感じられるのは、他者(他の認識主体)も自分と同じものを同じように認識していると考えられる場合である。



 たとえば、目の前にリンゴがある。あなたはリンゴを認識している。


ただそれだけでは、リンゴはあなただけが認識できるもの(たとえば夢か幻か)なのかもしれず、外部に存在しているという風には思えない。



 そこに誰かが来て、同じリンゴを認識する。そして、その誰かがあなたと同じようにリンゴを認識していると考えられるとき、そのリンゴは、あなたの外部に存在するように思える。


なぜなら、あなたという認識主体がなくても、そのリンゴは同じように認識される(=存在する)と考えられ、そのリンゴの存在は、私という認識主体とは関係がないように感じられるからである。



 近代科学の手法とは、あらゆる認識の局面で、このモデルを厳密に極限までおしすすめ、すべての人に共通して安定的に認識できる存在の様相(世界)を明らかにする営みである。



一口に人間と言っても、その認識主体としてのあり方は一様ではない。個人の能力・性質は実に様々である。


たとえば、目のいい人悪い人、耳がいい人悪い人、記憶力のいい人悪い人、論理的思考の優れた人、感性的なものの捉え方の優れた人、幽霊の見える人見えない人……。



さらには、一個人においても、認識主体としての状態は常に変化している。


たとえば、訓練によって能力が高まったり、疲労によって能力が低下したり、何らかの刺激によって意識が覚醒したり、睡眠によって意識が低下したり……。



近代科学は、認識主体として一様ではない人間たちが、一般的にみんなが共通して認識できる範囲のもの(※注2)を確かな存在(=客観的存在)として採用する一方、ある人には認識できても他の人には認識できないもの、あるいは、ある状態では認識できても、別の状態では認識できないものを不確かな存在(=主観的存在)として切り捨てる。



その結果、見出される存在の様相(世界)は、一個人(一認識主体)の認識(主観と言ってよい)をはるかに超えて外部に厳然と存在するように思われる。


私という認識主体が消滅しても、近代科学の手法で見出された世界は明らかに存在すると思われる。



そこに、倒錯が起こる。つまり、世界というものは認識主体に関わらず、定まった形で外部に客観的に存在しているのだ、と。



 しかし、ここで忘れられているのは、近代科学の手法で見出される世界もあくまでも、個々の人間という認識主体が認識したものの集合、つまり主観の集合だということである。



周知のように、科学的手法は観察や実験を基礎とするが、その観察や実験を行うのは言うまでもなく、人間という認識主体である。その手法で見出される世界が、人間という認識主体と無関係だということがありえないのは、少し考えれば分かるだろう。


それは人間と言う認識主体と無関係に外部の客観的世界に存在するものでは決してなく、一般的な人間が一般的な状態においては、そのように認識できるという要素の集合である。


つまりあくまでも一般的な人間という認識主体を前提としたものなのである。



 さて、ここまで読んでこられて、こう思われる方もいるのではないかと思う。


「外部に確たる形の存在があるからこそ、みんながそれを同じように認識できるのではないか」と。



 しかし、よく考えるとその論も成り立たない。たとえば、先に示したリンゴの例を考えてみよう。



確かに、そこにいる人間同士では、同じリンゴを同じように認識していると思える。


しかし、そこに認識主体としてのあり方が全く異なるもの、たとえばハエがいることを想定してみるとどうだろうか。


ハエがどのように世界を認識しているのかは想像するしかないが、人間とは感覚器官が異なっている以上、リンゴの色やにおい、質感などは人間と同じようには感じないはずである。


もちろん身体の大きさも違うため、リンゴから感じるボリューム感も全く異なるだろう。さらには、そもそもハエには「リンゴ」という概念の理解もないため、人間が認識する意味でのリンゴを認識することはできないであろう。



つまり、同じものを認識するにしても、認識主体によってその認識の仕方(=存在の様相)は全く異なるのである。


人間が認識するところの「リンゴ」が人間という認識主体から切り離されて外部に存在するのではないことはこれでお分かりいただけたと思う。



人間同士が同じようにリンゴを認識していると思えるのは、人間同士ならば認識主体としてのあり方(状態や能力)をある程度共有しているからであると説明できる。


人間同士ならば、同じレベルの感覚器官、同じレベルの思考・精神作用を持っている(つまり、認識主体としてのあり方が近い)ため、同じように世界を認識しているように思えるのである。

※注1:客観的に外部に存在することがゆるぎないように思われる「時間」や「地球」等も、人間という認識主体に対応してそのように存在している。字数の関係でここでは論証しないが、みなさまにはご一考いただきたい。

※注2:厳密にはさまざまな機器を用いた上で認識可能なものも含む。