超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ③ ~存在するものと認識主体は表裏一体~ | うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~

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考えたことを

①忘れないようにするため
②不特定の方と共有して、ご意見等いただきたく

ブログに書くことにしました。

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~



の続きです。

②のコメント欄に質問を下さった方がいます。ありがとうございます。


質問や反論は、こちらが認識を深めるための良いきっかけになりますので、いろいろお寄せいただければ嬉しいです。




四、「存在するもの」と「認識主体」とは切り離すことができない



 「存在する」とは「何者かによって認識されている」ということである以上、「存在するもの」と「認識する何者か(認識主体)」とは切り離すことができない。認識主体のない存在は規定できないはずである。認識する者がないならば、認識作用も起こらず、何かが存在するとは言えないであろう。



いわば、「認識主体」と「存在するもの」とは表裏一体なのである。まさしく、表という概念がなければ、裏という概念も存在しないのと同様に、「認識主体」がなければ、「存在するもの」もないのである。


それを踏まえて、考えを進めよう。



「認識主体」と「存在するもの」とは表裏一体の関係である。ならば、「認識主体」のあり方(たとえば状態や能力)によって、何をどのように認識するのか、つまり何がどのように存在するのかも変わるのである。



 たとえば、人間という認識主体は視覚を持っているため、人間が認識する世界には、明らかに光が存在する。しかし、視覚を持たない認識主体を想定すると、光は認識することができない、つまり存在しないのである。



 ここで、近代科学的倒錯(それについては後述する)に陥った現代人は、


「光はもともと外部世界(客観的世界)に存在しているけれど、それを認識できない認識主体がいるというだけだ。客観的に光が存在するというのが正しい」


と考えるだろう。言いかえると人間の認識する世界が正しいと考えるだろう。



 では、逆に他の認識主体には認識することができて(つまり存在して)、人間には認識できない(つまり存在しない)ものを想定したらどうだろう。



 たとえば、Xという受容器を持つ認識主体にとっては霊魂が認識できる(存在する)が、Xという受容器を持たない人間にとっては霊魂が認識できない(存在しない)としよう。



 この場合に、「霊魂はもともと外部世界(客観的世界)に存在しているけれど、それを認識できない認識主体(=人間)がいるというだけだ。客観的に霊魂が存在するというのが正しい」と主張したら、同意できるだろうか? 


 できないとしたらなぜだろうか?



 認識主体によって認識するものが違う(つまり存在するものが違う)場合に、どの認識主体の認識する世界が正しいと考えればよいのだろうか。それを決める合理的な方法を見出すことはできないように思う。



たとえば、より多くの者が認識する世界が正しいと考える、つまり多数決を採用することは一見正しそうに見えるが、よく考えると問題が生じる。



まず、そもそも真実が多数決で決まるというのはおかしいだろう。多数決はあくまで政治上の意思決定の仕組みであり、真実の認定手段ではない。



さらに言えば、個体数で考えると、人間よりもネズミやゴキブリのほうが多いかもしれない。人間とネズミやゴキブリとでは、認識主体としてのあり方(状態・能力等)が違うのだから、当然、何をどのように認識するのか(認識する世界=存在の様相)も変わってくるだろう。そこで、多数決を採用し、ネズミやゴキブリの認識する世界が正しい! と言ったら、同意できるだろうか?



以上は半分冗談だが、少なくとも人間という認識主体に認識される世界(人間にとっての存在の様相)が正しい(あるいは宇宙のスタンダードだ)という根拠は見出せない。 


認識主体としての平等性を認めるのならば(あるいは人間の絶対性を盲信しないのであれば)、人間が認識する世界も他の認識主体が認識する世界もどれも、世界認識の真実性という尺度では全て等価だと考えるべきである。



より公平に、合理的に、普遍性を持たせた言い方で、この問題をまとめるならば、認識主体から切り離された客観的な正しい世界が外部に存在するのではなく、それぞれの認識主体に対応した世界(存在の様相)があり、その世界(存在の様相)はそれぞれの認識主体にとってのみ通用するということになる。


つづく