うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~ -2ページ目

うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~

考えたことを

①忘れないようにするため
②不特定の方と共有して、ご意見等いただきたく

ブログに書くことにしました。

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~  


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ③ ~存在するものと認識主体は表裏一体~  


のづつきです。



五、近代科学的倒錯とは



 さて、これまで論じてきたように、「認識主体」と「存在するもの」とは表裏一体で切り離すことができないものである。客観的に正しい世界が人間という認識主体とは無関係に外部に存在しているかのように考える近代科学的世界観は誤っている(※注1)



 では、そのような誤った世界観はどのように形成されるのであろうか。



 人が自分の外部に、自分とは無関係にあるものが存在すると感じられるのは、他者(他の認識主体)も自分と同じものを同じように認識していると考えられる場合である。



 たとえば、目の前にリンゴがある。あなたはリンゴを認識している。


ただそれだけでは、リンゴはあなただけが認識できるもの(たとえば夢か幻か)なのかもしれず、外部に存在しているという風には思えない。



 そこに誰かが来て、同じリンゴを認識する。そして、その誰かがあなたと同じようにリンゴを認識していると考えられるとき、そのリンゴは、あなたの外部に存在するように思える。


なぜなら、あなたという認識主体がなくても、そのリンゴは同じように認識される(=存在する)と考えられ、そのリンゴの存在は、私という認識主体とは関係がないように感じられるからである。



 近代科学の手法とは、あらゆる認識の局面で、このモデルを厳密に極限までおしすすめ、すべての人に共通して安定的に認識できる存在の様相(世界)を明らかにする営みである。



一口に人間と言っても、その認識主体としてのあり方は一様ではない。個人の能力・性質は実に様々である。


たとえば、目のいい人悪い人、耳がいい人悪い人、記憶力のいい人悪い人、論理的思考の優れた人、感性的なものの捉え方の優れた人、幽霊の見える人見えない人……。



さらには、一個人においても、認識主体としての状態は常に変化している。


たとえば、訓練によって能力が高まったり、疲労によって能力が低下したり、何らかの刺激によって意識が覚醒したり、睡眠によって意識が低下したり……。



近代科学は、認識主体として一様ではない人間たちが、一般的にみんなが共通して認識できる範囲のもの(※注2)を確かな存在(=客観的存在)として採用する一方、ある人には認識できても他の人には認識できないもの、あるいは、ある状態では認識できても、別の状態では認識できないものを不確かな存在(=主観的存在)として切り捨てる。



その結果、見出される存在の様相(世界)は、一個人(一認識主体)の認識(主観と言ってよい)をはるかに超えて外部に厳然と存在するように思われる。


私という認識主体が消滅しても、近代科学の手法で見出された世界は明らかに存在すると思われる。



そこに、倒錯が起こる。つまり、世界というものは認識主体に関わらず、定まった形で外部に客観的に存在しているのだ、と。



 しかし、ここで忘れられているのは、近代科学の手法で見出される世界もあくまでも、個々の人間という認識主体が認識したものの集合、つまり主観の集合だということである。



周知のように、科学的手法は観察や実験を基礎とするが、その観察や実験を行うのは言うまでもなく、人間という認識主体である。その手法で見出される世界が、人間という認識主体と無関係だということがありえないのは、少し考えれば分かるだろう。


それは人間と言う認識主体と無関係に外部の客観的世界に存在するものでは決してなく、一般的な人間が一般的な状態においては、そのように認識できるという要素の集合である。


つまりあくまでも一般的な人間という認識主体を前提としたものなのである。



 さて、ここまで読んでこられて、こう思われる方もいるのではないかと思う。


「外部に確たる形の存在があるからこそ、みんながそれを同じように認識できるのではないか」と。



 しかし、よく考えるとその論も成り立たない。たとえば、先に示したリンゴの例を考えてみよう。



確かに、そこにいる人間同士では、同じリンゴを同じように認識していると思える。


しかし、そこに認識主体としてのあり方が全く異なるもの、たとえばハエがいることを想定してみるとどうだろうか。


ハエがどのように世界を認識しているのかは想像するしかないが、人間とは感覚器官が異なっている以上、リンゴの色やにおい、質感などは人間と同じようには感じないはずである。


もちろん身体の大きさも違うため、リンゴから感じるボリューム感も全く異なるだろう。さらには、そもそもハエには「リンゴ」という概念の理解もないため、人間が認識する意味でのリンゴを認識することはできないであろう。



つまり、同じものを認識するにしても、認識主体によってその認識の仕方(=存在の様相)は全く異なるのである。


人間が認識するところの「リンゴ」が人間という認識主体から切り離されて外部に存在するのではないことはこれでお分かりいただけたと思う。



人間同士が同じようにリンゴを認識していると思えるのは、人間同士ならば認識主体としてのあり方(状態や能力)をある程度共有しているからであると説明できる。


人間同士ならば、同じレベルの感覚器官、同じレベルの思考・精神作用を持っている(つまり、認識主体としてのあり方が近い)ため、同じように世界を認識しているように思えるのである。

※注1:客観的に外部に存在することがゆるぎないように思われる「時間」や「地球」等も、人間という認識主体に対応してそのように存在している。字数の関係でここでは論証しないが、みなさまにはご一考いただきたい。

※注2:厳密にはさまざまな機器を用いた上で認識可能なものも含む。

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~


超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ ② ~存在の定義~



の続きです。

②のコメント欄に質問を下さった方がいます。ありがとうございます。


質問や反論は、こちらが認識を深めるための良いきっかけになりますので、いろいろお寄せいただければ嬉しいです。




四、「存在するもの」と「認識主体」とは切り離すことができない



 「存在する」とは「何者かによって認識されている」ということである以上、「存在するもの」と「認識する何者か(認識主体)」とは切り離すことができない。認識主体のない存在は規定できないはずである。認識する者がないならば、認識作用も起こらず、何かが存在するとは言えないであろう。



いわば、「認識主体」と「存在するもの」とは表裏一体なのである。まさしく、表という概念がなければ、裏という概念も存在しないのと同様に、「認識主体」がなければ、「存在するもの」もないのである。


それを踏まえて、考えを進めよう。



「認識主体」と「存在するもの」とは表裏一体の関係である。ならば、「認識主体」のあり方(たとえば状態や能力)によって、何をどのように認識するのか、つまり何がどのように存在するのかも変わるのである。



 たとえば、人間という認識主体は視覚を持っているため、人間が認識する世界には、明らかに光が存在する。しかし、視覚を持たない認識主体を想定すると、光は認識することができない、つまり存在しないのである。



 ここで、近代科学的倒錯(それについては後述する)に陥った現代人は、


「光はもともと外部世界(客観的世界)に存在しているけれど、それを認識できない認識主体がいるというだけだ。客観的に光が存在するというのが正しい」


と考えるだろう。言いかえると人間の認識する世界が正しいと考えるだろう。



 では、逆に他の認識主体には認識することができて(つまり存在して)、人間には認識できない(つまり存在しない)ものを想定したらどうだろう。



 たとえば、Xという受容器を持つ認識主体にとっては霊魂が認識できる(存在する)が、Xという受容器を持たない人間にとっては霊魂が認識できない(存在しない)としよう。



 この場合に、「霊魂はもともと外部世界(客観的世界)に存在しているけれど、それを認識できない認識主体(=人間)がいるというだけだ。客観的に霊魂が存在するというのが正しい」と主張したら、同意できるだろうか? 


 できないとしたらなぜだろうか?



 認識主体によって認識するものが違う(つまり存在するものが違う)場合に、どの認識主体の認識する世界が正しいと考えればよいのだろうか。それを決める合理的な方法を見出すことはできないように思う。



たとえば、より多くの者が認識する世界が正しいと考える、つまり多数決を採用することは一見正しそうに見えるが、よく考えると問題が生じる。



まず、そもそも真実が多数決で決まるというのはおかしいだろう。多数決はあくまで政治上の意思決定の仕組みであり、真実の認定手段ではない。



さらに言えば、個体数で考えると、人間よりもネズミやゴキブリのほうが多いかもしれない。人間とネズミやゴキブリとでは、認識主体としてのあり方(状態・能力等)が違うのだから、当然、何をどのように認識するのか(認識する世界=存在の様相)も変わってくるだろう。そこで、多数決を採用し、ネズミやゴキブリの認識する世界が正しい! と言ったら、同意できるだろうか?



以上は半分冗談だが、少なくとも人間という認識主体に認識される世界(人間にとっての存在の様相)が正しい(あるいは宇宙のスタンダードだ)という根拠は見出せない。 


認識主体としての平等性を認めるのならば(あるいは人間の絶対性を盲信しないのであれば)、人間が認識する世界も他の認識主体が認識する世界もどれも、世界認識の真実性という尺度では全て等価だと考えるべきである。



より公平に、合理的に、普遍性を持たせた言い方で、この問題をまとめるならば、認識主体から切り離された客観的な正しい世界が外部に存在するのではなく、それぞれの認識主体に対応した世界(存在の様相)があり、その世界(存在の様相)はそれぞれの認識主体にとってのみ通用するということになる。


つづく

超常現象を合理的に肯定できる地平への哲学的アプローチ① ~はじめに~  


のつづきです。( しかし、ブログなのに である体 なのが偉そうで嫌ですねガーン 変えるのめんどくさいのでそのままいきますが。)


二、「存在」の定義



 超常現象の存在について考えるに際し、そもそも、「存在する」ということはどういうことか、その定義をみなさんは考えたことがあるだろうか? 


 あるいは、その定義を明らかにして論じられた文章を目にしたことはあるだろうか? 少なくとも私は、ない。



 言葉の定義を明らかにすることは、物事を論考する際の基本中の基本である。にもかかわらず、現代社会では、あらゆる問題の根本である「存在」の定義があいまいなままになっているというのは一体どうしたことだろう。



より厳密な定義が要求されるはずの近代科学の分野でさえ「存在」の定義を明らかにしないまま論述が進められる。


例えば、「宇宙が始まる前に何が存在したのか」などといった命題が、地位のある科学者によってさえ、実に無防備に屈託なく語られるのである(※注へ)。



 この文章は、合理的根拠を持つ世界観の提示を目指している。そのため、まずは物事の根本概念である「存在」の定義について考えてみたいと思う。問題の性質上やや観念的な話が続くがお付き合いいただければと思う。




三、「存在する」とは「何者かによって認識されている」ということである



 「存在する」と言われる状態をよく考えてみると、それは「何者かによって認識されている」状態であると言える。当たり前のように思われることだが、改めて考えて見よう。



 たとえば、今、あなたの目の前に本がある、パソコンがある、空気がある、空間がある、時間がある……それらが存在すると言えるのは、あなたによって認識されているからである。



さらには、あなたには夢がある、悲しみがある、愛がある、体内に酵素がある、空間内に電波がある等等……それらが存在すると言えるのも、同様にあなたによって認識されているからである。この場合の認識とは、感覚器官による知覚だけではなく、精神作用や思考作用をも含めた広い意味になる。



このように、認識には様々なレベルがあるものの、「存在する」ということは「認識されている」ということだということは共通している。


もちろん、認識する者(以後、認識主体とする)は、あなたである必要はない。他の何者かがそれを認識しているならば、その何者かにとってはそれが存在すると言える。つまり、「何者かによって認識されている」状態を「存在する」と言うのである。



ここで逆を考えてみよう。何者にも認識されていないものを「存在する」と言い得るだろうか? 


想像していただきたい。感覚器官によって知覚されていないということにとどまらず、精神作用・思考作用をも含んだ意味で、一切、何者にも認識されていないとしたら? (精神作用・思考作用を含んだ意味で、全く認識されていないということは、そのものが心に浮かぶことすら一切ないということである。)



言うまでもなく、そう言う状態を「存在する」とは言えないであろう。



『宇宙が始まる前は何があったんですか』(小島慶子 青木薫) 文芸春秋2014年3月号所収の記事を参考にした。

以前も似たような内容でブログを書いたのですが、3日坊主で終わっちゃいました(笑)


下記です。

根本から積み上げる積み木的探求

① http://ameblo.jp/marubou6/entry-11628115477.html
② http://ameblo.jp/marubou6/entry-11628695504.html
③ http://ameblo.jp/marubou6/entry-11664278575.html


重複する内容ですが、別のところでまとめて書いた文章があるので、仕切りなおしてUPしていきます。


一、はじめに 


幽霊・宇宙人・UFO・超能力などのいわゆる超常現象は果たして本当に存在するのだろうか。この問題は未だ決着がついておらず、長きに渡り議論が繰り返されている。


一昔前ならば、テレビの討論番組で超常現象の肯定派と否定派が喧々諤々の議論を繰り返していたし、現在でもインターネットの掲示板などにおいて無名の愛好家たちがその議論を引き継いでいる。



さて、この種の議論を見ていると、肯定派にせよ否定派にせよ、ある特殊な世界観を思考の前提としていることでは共通しており、その点に私はいつも違和感を覚える。


つまり、あたかも「客観的世界」なるものが人間とは無関係に独立して外部に存在しているかのような世界観が前提となっており、その「客観的世界」に超常現象が存在するかどうか、という議論がなされるのである。


しかし、後述するように、現代社会を覆うそのような世界観は、近代科学がもたらすある種の倒錯の産物であり、合理的根拠を持たないものなのである。



この文章では、そのことを論証し、新たな世界観を提示したいと思う。現代の様々な思考の前提を覆すと言う意味で、それはまさに世界観のパラダイムシフトと言えよう。



昨今のスピリチュアルブームにより、超常現象を自然に受け入れる論調が目立つようになってきている。


しかし、そのような論のほとんどが感性的な表現を中心としているため、理性を重んじる現代社会になじんだ人々には、根拠のないものに感じられるであろう。



この文章では理性において超常現象を肯定できる地平をめざす。その地平に立てば、新たな現象研究のあり方も見えてくし、また、我々人類の基本的なあり方についても、新たな見方ができるようになるはずである。


つづく

続きです。


これまで見てきたように、日本社会では、問題を個人の責任(自己責任)と考える傾向が強く、そのため全体構造(社会や環境)の問題に気付きにくく、改善の圧力がかかりにくいです。


そのことは、過去の日本の行為について責任を問われる事を極端に嫌う傾向にもつながっていると思います。


植民地支配や侵略、戦争中(あるいは震災時)の虐殺や慰安婦の問題などについて、戦後70年になろうとする今になっても、まだ議論が続いているわけですが、日本の責任を全否定したがる人々によく見られるのは、


「先祖の名誉を傷つけられた」


だとか、極端な例では


「虚偽の主張で日本を責めるのは日本人に対するヘイトスピーチだ」


などという人もいます。(もちろん虚偽の主張というのは彼らから見て虚偽ということです。)


つまり、共通しているのは、日本の過去の行為を 民族としての日本人の本質的な属性(言い換えると、血の問題、raceの問題)と関連付けて考えてしまっているため、日本の過去の行為を責められると、自分自身の本質的な部分が否定されているかのように考えてしまうのです。


どうもここでも、問題を全体構造に見出すのではなく、個人の責任だと考えることの弊害がでているように思えるのです。


日本がかつて国家の行為として相当に残虐なことをしたことは否定ができないと思います。(確かに、中国や韓国にも、日本の残虐性をより強調する傾向があると思います。両国では逆の主張が許されにくい言論状況があるのは確かです。ただし、それを差し引いても、相当なことはしちゃっている、というのがいろいろ調べた上での僕の認識です。)


そこで、それを残虐行為を働いた多くの日本人(個々人)の問題だと考えると、つきつめてしまえば、日本人の民族性の本質が野蛮で残虐なのだと捉えることになってしまいます。そうすると、自身も同じ日本人として、それを受け入れることが苦しくなってしまう。


ここで、もう少し、全体構造の問題に目を向けてはどうかと思うのです。


たとえば、震災時、戦時に虐殺をしてしまうことや、慰安婦に非人道的な扱いをしてしまうことは、日本人だからそうしてしまうのではなく、当時の日本の状況・社会環境(全体構造)の中に置かれれば、誰だって(人種、民族に関わりなく)同じことをしてしまうと思うのです。


植民地支配についても同じで、主権国家体制のあり方、日本の地理的条件など、日本にそうさせた全体構造を無視しては考えられません。植民地支配を日本固有の問題・日本人の民族性に由来する罪悪だと考えるのは明らかに間違っています。


過去の日本の行為についての責任を引き受ける際に、日本人という民族の属性の問題と捉え、民族的つながりを元にした罪悪感を持つ方向に考えると、受け入れるための感情的ハードルが上がってしまうし、また、それはある種のレイシズムですので、そういう考え方からは脱却すべきだと思います。(※注へ)



そうではなく、人間にそういった行為をさせてしまった全体構造を解明し、現代を生きる人類の問題としてそれをなくしていくという、現実的、具体的、技術的責任として意識すべきではなかろうかと思います。


まとめると


①「日本が過去に行った行為について、日本人として反省すべきだ」


②「日本が過去に行った行為について、それをもたらした全体構造を解明し、社会のメンバー(あるいは有権者)として、その構造を解体しよう」


①は属性を根拠にした責任を求めていますが、②は社会に対する現実的な責任を求めています。



日本人(有権者として責任を持つもの)の自覚として②であるべきだと思いますし、日本の責任を追及する側も②であって欲しいと思います。


では、過去の日本(日本人)にそういう行動をとらせた全体構造は解体されているだろうか。。僕は、ほぼほぼそのまま温存されていると思います。それは、日本社会の問題だけではなく、国際社会の問題も含めてです。その話はまたいつか。


※注:その点、確かに中国には(たぶん韓国にも)、日本人に対するレイシズム的言説があると思います。中国では、白村江の戦いや、文禄・慶長の役・近代の朝鮮の植民地支配、中国侵略とを一つのストーリーにつなげて、日本人は元々領土的野心に飢えた野蛮で好戦的な民族である というように捉える傾向がありますが、それは明らかに間違っているので、正す必要があります。(僕は気付いたら反論しています。)過去の日本の行為を認識する事と、レイシズム的見方に加担することとは全く別なので、そこは気をつけるべきだと思います。日本の左派も歴史修正主義に対抗するあまり、中国や韓国のそういった傾向に無意識に加担しがちなところがあるかもしれないと思います。


前回の続きです。


現在の自分の能力、ものの考え方、健康状態、社会的地位、収入等、、自分の現状のどこまでが自分の責任(おかげ or せい)なのか、どこまでが自分を超えた全体構造(社会・周囲)の責任(おかげ or せい)なのか。


「自己責任」として個人が責任を多く引き受けるのをよしとする日本社会では、そういったことを考える視点が失われがちだと思います。。


それが、差別への鈍感さにつながっていると前回の記事で述べましたが、


例えばこういうことです。


夫婦において


夫:「誰の稼いだ金で食ってるんだ!代わりに働いて見ろ!俺と同じだけ稼げるのか?」

みたいなパタンは良く見る(ありがちすぎて、今時本当にあるのか知らないけれど…にひひ)。


これで言うと、この夫はあたかも自分が妻よりも個人として優秀で能力が高いから稼ぎが良い、だから威張れるんだと思っているようですが、少し考えるとそうではないことが分るでしょう。


日本においては社会の構造として、女性は男性よりも収入を得にくいような仕組みになっているわけで、その社会構造を背負って、この夫婦の個人間の力関係も作られているわけです。


仮に、個人としての能力をそのままに、この夫婦の性別を入れ替えたら、男になった元妻のほうが高収入を得る可能性が高いでしょう。そう考えると、収入の多寡が個人の問題ではないと分ります。


もう一つ言うと、最近よくあるのは、

日本人(マジョリティー)から在日コリアン等(マイノリティー)に対するヘイトスピーチが問題になる中、在日コリアン等(マイノリティー)から日本人(マジョリティー)に対するヘイトスピーチもあるので、どっちもどっちだ(おあいこだ)というような意見です。だから、日本人だけを責めるのは逆差別だというようなことを言う人もいます。


もちろん、本人に変えることが難しい属性そのものを攻撃する表現は誰から誰に対するものであってもよろしくないことです。


しかし、日本社会において、日本人と韓国・朝鮮人が個人として対峙したときに

日本人⇒韓国・朝鮮人

「韓国(朝鮮人)は糞(出て行け)」

韓国・朝鮮人⇒日本人

「日本人は糞(出て行け)」

というのは、表現の形式上は対称になっているけれど、その言葉の効果(相手に与えるダメージ)は対称にはならないということは意識する必要があると思います。


それは、その言葉の背景に、日本社会における人口比 日本人:在日韓国・朝鮮人=200:1 という圧倒的な数の差や、社会で認められている権利の差などの 社会的非対称性があるからです。


日本社会において、日本人の立場で韓国・朝鮮人の属性そのものを攻撃し、相手を沈黙させることができるとしても、それは個人として相手より能力が優れているからではなく、優位な社会構造を背負っているだけなのです。


これは男女間、民族・国籍間だけではなく、性的指向などでも同じです。


異性愛者⇒同性愛者

「同性愛者はキモイ」


同性愛者⇒異性愛者

「異性愛者はキモイ」

が形式上は対称ですが、実質的には対称の表現行為でないのは明らかですね。


たまに、お笑い芸人が同性愛を笑いにすることがありますが、なんかヒヤッとしますね。逆に異性愛を笑いにすることは出来ないという絶対的な非対称性があるわけで、生まれつき同性愛の人が見たらどう思うのかと。


社会と完全に切り離された 1対1の個人として互いが対峙していると考えてしまうと、自分と相手は対称の表現をしているのに、自分だけが特に気をつけなければならないのは不公平だと思えてしまいます。


目の前の、あるマイノリティーが特別な扱いをされているとして、その現場だけ見ると、自分より優遇されている!逆差別だなどと思ってしまいます。



が、現実問題として、個人が社会と切り離されて存在することはありえず、個人は様々な社会的要素を背負って存在しています。


気付きにくいですが、マジョリティーであるということは、社会的にすでにさまざまな優位性を与えられているのだし、マイノリティーであることは、それらを与えられていないわけです。



そこに目を向けないと、差別(その反対の平等)は分らないのではなかろうか。


日本社会のように個人の責任ばかりに目が行ってしまうと、個人が様々な社会的要素を背負っていることを忘れがちになってしまう。あたかも 個人が社会から切り離されて存在していると錯覚してしまう。

上手く行っている人は、自分の力でそれが達成できていると思い勝ちだし、上手く行っていない人も、自分の力不足でそうなっていると思いがちです。


ここでやはり、自分の現状を見て、どこまでが個人の責任でどこまでが社会の責任(おかげ、せい)なのかをじっくり考えてみて、そして、社会的構造によって不利になっている部分があれば、


「いや、そこは社会が悪い!」


と遠慮せずにどんどん言えるようにしたほうがいいし



逆に、社会的構造によって有利になっている部分があれば、それを意識し、みんなができるだけ同じになるように、努めるべきではないかと思うのです。



そういう社会構造による差がなくなって、はじめて本当の自己責任(個人の責任)が明確になると思います。


わ。なんか、きれいごとを言う学級委員みたいになってきたな(笑)






この間、阿川佐和子さんとザッケローニさん(元サッカー日本代表監督)との対談を読んでいて、おもしろかったのは、ザッケローニさんが、「調子が悪いときに、日本人はあくまで自分を責める、イタリア人は、頑張っても調子が戻らなければ、周りのせいにする」と言っていたこと。(正確ではないですが、こんな感じの内容だった)


「イタリア人は周りのせいにする」というところで、「子どもっぽく駄々をこねるイタリア人の図」が浮かびクスっとしてしまったにひひのですが、よく考えると「日本人があくまで自分を責める」というのも結構いろんな弊害があるなと思うのです。


日本では、「言い訳をしない」「責任を自分で引き受ける」というのが潔いという一種の道徳があるから、日本人の多くは、調子が悪くても文句を言わず、自分を責める のだけれど、そういう道徳的態度を脇において、フラットな視点で見れば、個人で責任を負える範囲というのはかなり限られていることが分る。


そもそも 責任 というのは 権利(権限)と表裏であるべきで、権利(権限)のないところに責任を求めてはいけない。


これは、みんな分ると思うのですが、なぜか自分を責めるときは、権利(権限)がないところまで責める傾向がある。


全部自分の責任(周りは関係ない) だなんて、全部を自分で決められる権利(権限)を持っている場合しか言えないはずなのですが。。。えっ


実際問題、全てのことを自分で決められる人などいない。たとえば社会的地位が最高位にある王様とかだって、自身の身体的特徴や能力はもちろん自分で決められないし、また、現実の権限だって、個人を越えた歴史および社会的構造によって規定されている。


ましてや、一人のプロサッカー選手(っていっても代表になるくらいだから相当な人ですが)や、さらにより多くの社会的地位に恵まれない人々(もちろん私を含む)が、自身で決められる範囲など、ものすごく小さい。


もちろん、自分で決められる範囲(権利、権限)は一定程度あるので、その範囲での責任は当然否定できないけれど、その範囲で頑張って(責任を全うして)、上手く行かなければ、周り(社会環境や全体構造)のせいにする(そちらの責任に目を向ける)というイタリア人の態度は、実はかなり理にかなっているのではないだろうか。(日本人の道徳からすると違和感があるけれど、むしろ日本人の道徳が客観的視点を曇らせるのかもしれないよべーっだ!


くどいけど、もう一つ事例をだしますと、


例えば、日本人がオリンピックで金メダルを取ったりする(つまり成功する)と、

金メダルを取った選手

⇒「この成果が出せたのは日本のみなさんのおかげです!」(自分ではなく、社会のおかげにする)



それを受けた日本社会

⇒「いやいや、君ががんばったからだよ。」(個人の手柄にする)



まあ、これは、分ります。


もちろん、フラットに見れば、選手個人の責任(手柄)も一定程度あれば、周り(社会環境、全体構造)の責任(おかげ)もあるはずなので、両方のおかげなのですが、日本的道徳として、お互いに謙譲し、相手をたたえ合うことで、信頼が深まる好循環になるし、そもそも上手くいっているケースなのだから、問題はない。


問題は、上手く行っていないケース。叫び



たとえば、

ある人がなかなか就職できなくて困っていると、



就職できない人

⇒「俺が悪いんだ」(社会ではなく自分の責任にする。社会が悪いなどとはとても言えない。言ったら集中砲火だから。)



それを受けた社会

⇒「そうですね。今まで何してたんですか。もっと頑張って下さい。」(社会ではなくその人の責任にする。いわゆる自己責任。)えっ


なんだか日本社会って、こうなりがちじゃないですか??


いやいやいやいや、相手(就職できない人)が自分の責任を引き受けているのだから、日本的道徳の謙譲の精神で言えば、社会のほうも「いやいや。君は頑張ってるよ。社会が変わらなきゃね。」というのが自然でしょう!


と思うのですが、ここはそうならないんですね。不思議な事に。


結局、個人が上手く行っているときは「みなさんのおかげ」と社会の手柄を持たせてもらい、上手く行っていないときは「個人のせい」と社会は責任を取らない形になる。


長々と書きましたが、つまりですね、


個人が責任を引き受けすぎると、社会環境や全体構造への改善の圧力がかからないという弊害がある


と思うのです。


日本的な問題ってほとんどここに起因していて、それが、


全体構造の問題を末端の個人の頑張りで解決しようとする傾向


につながっている。たとえば、戦時の特攻とか現在の過労死とかブラック企業とかすべて、それです。


さらに言えば、この「道徳的に個人が多くの責任を引き受けがち」であることによって、


どこまでが個人の問題(責任、手柄)なのか、どこまでが社会環境・全体構造の問題(責任・手柄)なのかを区別する視点が失われ、日本社会の



①差別に対する鈍感さ

②先祖の責任を追及されることを極度に嫌う



という、今話題の社会問題にもつながっていると思う。(これは説明が必要だと思うので、次回パート②以降書きたいです)


全部、根っこはつながっています。


「すべては自身の問題」というような自己責任的論調が相変わらず根強いです。(これは、従来の道徳だけでなく、流行のスピリチュアル的視点からも言われる。スピについてはいつか書きたい。)


が、上述の弊害を踏まえると、今はあえて、


いや。悪いのは社会です。パンチ!


と言い切るべきだと思います。

そうすることによって、見えてくる物があるのではないかと思うのです。

こないだ もうすぐ六ヶ月の娘のひどい湿疹がなかなか治らないので、評判のアレルギー科に行った。


開院前、クリニックは長蛇の列。僕と娘を抱いた妻も列に加わった。


しばらくすると、小学一年生くらいの女の子が後ろから僕たちの前に回り込んできて、かわいらしく にんまあ と笑って、


「これ、もってるんだよお!」


とウサギのヘアピンを見せびらかして言った。


よっぽど嬉しいんだね。


「いいねえ」「かわいいねえ」


僕と妻も笑いかえした。


それで満足したのか、女の子はしばらくそのあたりをうろちょろしていたけれど、あとでもう一度やってきた。


今度は、何度も背伸びをして、妻に抱かれている娘の顔を見ようとする。


妻が、見やすいように娘の顔を女の子に向けてあげた。


すると、女の子の目が はっ と明るくなり、


「これ、つけてあげて」


と、さっきのウサギのヘアピンを僕に差し出した。


娘をかわいいと思ってくれたのかな。


僕は よしきた と ヘアピンを娘の頭につけようとする。


けれど、娘の髪はまだ少なく、僕がヘアピンの扱いになれていないのもあり、なかなかつかない。


ふと、妻が何か言いたそうにしているのに気付いた。


あ と思った。


妻が娘の湿疹をどれだけ心配しているか、普段どれだけ衛生に気を使っているか、を思った。


正直、気にしすぎではないかと思うこともあったけれど、今は妻の娘に対する想いに寄り添いたかった。一人目の子を亡くしていたから。


女の子はかわいいけれど、あちこちうろちょろして、地面を触ったり、電柱に抱きついたり、正直、清潔とは言えない。


たぶんこのヘアピンも……


僕は一瞬手を止めた。


妻は拒否するかな? どうする? 


気持ちは分るけど、今拒否したら小さな女の子のまっすぐの素朴な好意がつぶされちゃう。それも心配。


すると、この微妙な空気を引き受けて、妻は、両手で抱いていた娘を片手に持ち替え、


「かして」 


と空いた片手でヘアピンを持ち、娘の頭にすぐにつけた。さすが、女は慣れている。


そうして、ヘアピンをつけた娘を女の子に見せた。


にんまあ と笑う女の子。


「かわいいでしょう?」と微笑む妻。


女の子はさらに手を伸ばして、娘をよしよしなでてあげようとする。


妻はかがんで、なでさせてあげる。


その後、


「とって」


という言葉が、日常のリズムよりワンテンポ早かったところに、妻の気持ちを思った。


僕はヘアピンを取って、女の子に渡した。


嬉しそうに帰っていく女の子。


妻が、こういう好意をつぶさない人でよかったと思った。


しばらくすると、後ろのほうで声が聞こえてきた。


「ミカちゃん、赤ちゃん触っちゃダメ。ミカちゃんのおててにばい菌いっぱいついてるからね……」


女の子のお母さんかな。


たぶん、さっきのやりとりを見ていて、妻の気持ちを慮ってくれたみたい。


それで、なんだか ふっ と心が救われた。


ミカちゃんも、ミカちゃんのお母さんも、妻も、僕も みんながみんなを思ってる瞬間。


嬉しい、あたたかい気持ちになった。


何も知らないのは、もうすぐ六ヶ月の娘だけにひひ

今日、市立図書館に行った。


閲覧用のテーブルで、小一時間読書にふけり、ふと顔を上げると、


初老のおじさんが、古びた新書を熱心に読んでいる。


あ、僕だ。


「あなた、もしかして 僕ですよね?」


という言葉が口をついて出た。


もしかして僕かもしれないおじさんは本から目を上げて、


「でも、君だって、わたしなんだろ?」


と言い、うーん、と伸びをして、座ったまま


上半身を 右、左、とひねって周囲を見た。


一つ向こうのテーブルでは、


小学校二、三年生の男の子2人が、ノートを広げて何かを書いて、ささやきあっている。


その隣には辞書を繰る受験生らしき女の子。


向こうの書架の並びでは、


中年の女性が本を物色している。


児童図書のコーナーでは、


小さな子どもたちが座り込んで絵本を見ている。


貸出・返却のカウンターには、沢山の人の列。


テキパキと働く図書館員。


「みんな、わたしだよ。」


と僕かもしれないおじさんは言って、再び新書に目を落とした。


僕は、僕かもしれないみんなを、ふーん、と思いながらしばらく眺めて


本の続きを読み始めた。

選挙ですね。


選挙のたびにいつも「選挙に行きましょう」「選挙に行かない奴は政治に文句を言う資格がない」というようなことが言われるのですが、これにはちょっと異論がある。シラー


確かに、政治に対する意思表示をする方法としては選挙における投票行動が一番直接で、具体的なのかもしれないけれど、政治や社会に影響を与えるための方法というのは投票だけではない。というよりも、投票だけであってはいけないと思う。


例えばこうやって文章を書いて人に読んでもらうことだって、人の考えを変え、政治に影響を与えうるでしょう。


また、芸術作品を作ったり、アートパフォーマンスをしたりすることだって、抽象的ながら人々の感性に訴え、物の見方に影響を与え、ひいては政治的なことに反映されます。


そんなに改まった形でなくたって、日頃困っていることを知り合いに話すことだって、社会のメンバーの考えを変えて、ひいては政治に影響を与える行為になります。


そういった一人ひとりが個性に即した、自然で多様なあり方が、できるだけきちんと政治に反映することが、真の民主主義社会なのではないかと思うのです。


投票行動というのは、かなり具体的な、俗世的な価値判断、情報の選別が必要な作業で、人によっては、あるいは精神状態によっては、そういった作業が馴染まないこともあるように思います。


特に、抽象的な思考を組み立てる人や、芸術的資質を持った人々(職業としての思想家や芸術家に限らず)などは、日頃そういう俗世的なことに精神の焦点が合いにくい状態で生活をしていたりすると思うのです。


それはそう言う人たちの個性であって、そう言う人たちに「投票に行け!」と言うのは違う気がします。


例えば、尾崎豊が選挙に行くような奴だったら、あんな芸術は作れなかったのではないか。

(実はしこしこと選挙に行ってたりして(笑)、行ってたらご愛嬌。にひひ。論旨は分るでしょ。)


(行ってないとして進めると)

でも、尾崎の影響を受ける人は多いわけで、社会および政治に間接的に、抽象的に影響を与えています。


別に芸術家でなくても、ユニークな考え方をする人が、ちょっと言ったことで、「はっ」と気付かされたり、そこまでしなくても何らかの感慨を持ったりすることもあるでしょう。それだって社会への影響になります。


そう言う人々に選挙へ行くように圧力をかけて、精神の焦点を俗世に合わせるようなことをしては、社会全体としての、精神の、思考の、感性のあり方の多様性、精神活動の守備範囲が乏しくなってしまいます。


いろんな人が、多様なあり方をすることによって、社会全体としての精神活動の守備範囲が広くなり、そのこと自体が社会のあり方、政治のあり方に寄与するものだと思います。そうあることが真の民主主義だと思います。


してみれば、「選挙に行け!」と強く圧力をかけることは、民主主義に反することだと思います。



まあ、一般的な教育として、選挙の重要性を教えることは大切だと思いますが、選挙に行かない奴はダメ!的な全体主義的風潮はどうかと思うのです。


いかがでしょうか?合格