いや。悪いのは社会です。③ ~過去の日本の行為についての責任~ | うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~

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考えたことを

①忘れないようにするため
②不特定の方と共有して、ご意見等いただきたく

ブログに書くことにしました。

続きです。


これまで見てきたように、日本社会では、問題を個人の責任(自己責任)と考える傾向が強く、そのため全体構造(社会や環境)の問題に気付きにくく、改善の圧力がかかりにくいです。


そのことは、過去の日本の行為について責任を問われる事を極端に嫌う傾向にもつながっていると思います。


植民地支配や侵略、戦争中(あるいは震災時)の虐殺や慰安婦の問題などについて、戦後70年になろうとする今になっても、まだ議論が続いているわけですが、日本の責任を全否定したがる人々によく見られるのは、


「先祖の名誉を傷つけられた」


だとか、極端な例では


「虚偽の主張で日本を責めるのは日本人に対するヘイトスピーチだ」


などという人もいます。(もちろん虚偽の主張というのは彼らから見て虚偽ということです。)


つまり、共通しているのは、日本の過去の行為を 民族としての日本人の本質的な属性(言い換えると、血の問題、raceの問題)と関連付けて考えてしまっているため、日本の過去の行為を責められると、自分自身の本質的な部分が否定されているかのように考えてしまうのです。


どうもここでも、問題を全体構造に見出すのではなく、個人の責任だと考えることの弊害がでているように思えるのです。


日本がかつて国家の行為として相当に残虐なことをしたことは否定ができないと思います。(確かに、中国や韓国にも、日本の残虐性をより強調する傾向があると思います。両国では逆の主張が許されにくい言論状況があるのは確かです。ただし、それを差し引いても、相当なことはしちゃっている、というのがいろいろ調べた上での僕の認識です。)


そこで、それを残虐行為を働いた多くの日本人(個々人)の問題だと考えると、つきつめてしまえば、日本人の民族性の本質が野蛮で残虐なのだと捉えることになってしまいます。そうすると、自身も同じ日本人として、それを受け入れることが苦しくなってしまう。


ここで、もう少し、全体構造の問題に目を向けてはどうかと思うのです。


たとえば、震災時、戦時に虐殺をしてしまうことや、慰安婦に非人道的な扱いをしてしまうことは、日本人だからそうしてしまうのではなく、当時の日本の状況・社会環境(全体構造)の中に置かれれば、誰だって(人種、民族に関わりなく)同じことをしてしまうと思うのです。


植民地支配についても同じで、主権国家体制のあり方、日本の地理的条件など、日本にそうさせた全体構造を無視しては考えられません。植民地支配を日本固有の問題・日本人の民族性に由来する罪悪だと考えるのは明らかに間違っています。


過去の日本の行為についての責任を引き受ける際に、日本人という民族の属性の問題と捉え、民族的つながりを元にした罪悪感を持つ方向に考えると、受け入れるための感情的ハードルが上がってしまうし、また、それはある種のレイシズムですので、そういう考え方からは脱却すべきだと思います。(※注へ)



そうではなく、人間にそういった行為をさせてしまった全体構造を解明し、現代を生きる人類の問題としてそれをなくしていくという、現実的、具体的、技術的責任として意識すべきではなかろうかと思います。


まとめると


①「日本が過去に行った行為について、日本人として反省すべきだ」


②「日本が過去に行った行為について、それをもたらした全体構造を解明し、社会のメンバー(あるいは有権者)として、その構造を解体しよう」


①は属性を根拠にした責任を求めていますが、②は社会に対する現実的な責任を求めています。



日本人(有権者として責任を持つもの)の自覚として②であるべきだと思いますし、日本の責任を追及する側も②であって欲しいと思います。


では、過去の日本(日本人)にそういう行動をとらせた全体構造は解体されているだろうか。。僕は、ほぼほぼそのまま温存されていると思います。それは、日本社会の問題だけではなく、国際社会の問題も含めてです。その話はまたいつか。


※注:その点、確かに中国には(たぶん韓国にも)、日本人に対するレイシズム的言説があると思います。中国では、白村江の戦いや、文禄・慶長の役・近代の朝鮮の植民地支配、中国侵略とを一つのストーリーにつなげて、日本人は元々領土的野心に飢えた野蛮で好戦的な民族である というように捉える傾向がありますが、それは明らかに間違っているので、正す必要があります。(僕は気付いたら反論しています。)過去の日本の行為を認識する事と、レイシズム的見方に加担することとは全く別なので、そこは気をつけるべきだと思います。日本の左派も歴史修正主義に対抗するあまり、中国や韓国のそういった傾向に無意識に加担しがちなところがあるかもしれないと思います。