根本から積み上げる積み木的探求② | うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~

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考えたことを

①忘れないようにするため
②不特定の方と共有して、ご意見等いただきたく

ブログに書くことにしました。

“存在”と“認識主体”とは切り離せない


前回述べたように、“存在する”ということの定義は“何らかの認識主体によって認識されている”ということです。(繰り返しになりますが、ここに同意できない場合は、この時点で反論をお願いします)。


同意を得たものとして話を進めます。


そうすると、“存在”というものは、何らかの認識主体に認識されて決まるのだから、“存在”と“認識主体”は表裏一体、セットなのです。“存在”なるものが、“認識主体”がなくても成立するものだと考えるのは間違いです。


誰にも、何者にも認識されていないのに、“存在する”と言えるものはありえるでしょうか?


恐竜は人間が存在する前からいたわけで、人間に認識されていないけれど“存在”したじゃないかって?


いやいや、恐竜は、人間という認識主体によって、過去に存在しただろうと“認識”されているから、“存在”しているのです。



認識主体の能力・状態によって、何が存在するかが変わる


“存在”と“認識主体”が表裏一体だとすると、何が存在するか(=何を認識するか)は、認識主体の能力や状態によって変わるのです。


たとえば、


視覚がある人間という認識主体にとって光は存在する(=認識できる)けれど、視覚という能力を持たない生物を認識主体として想定すると、光は存在しない(=認識できない)ことになりますでしょう。


この場合、人間は自分を中心に考えるものだから、“光はもともと外部世界(客観世界)に存在しているけれど、それを感じられない生物もいるというだけだ。客観的に光が存在するというのが正しい。”と考えてしまいがちです。いいかえると、人間が認識している世界が正しいと思ってしまいがちです。


しかし、逆に他の生物にとっては認識できて(=存在して)、人間にとっては認識できない(=存在しない)というものを考えたらどうでしょうか。


Xという能力をもつ認識主体にとって幽霊は存在する(=認識できる)けれど、Xという能力をもたない人間という認識主体にとって、幽霊は存在しない(=認識できない)。


この場合、Xという能力を持つ認識主体が、“幽霊はもともと外部世界(客観世界)に存在しているけれど、それを認識する能力を人間が持っていないだけだ。客観的に幽霊が存在するというのが正しい。”といったら、同意できますか?


できないとしたら、なぜですか?


人間という認識主体の認識範囲である「光は存在するけれど、幽霊は存在しない世界」が正しくて、

Xという能力をもつ認識主体の認識範囲である「幽霊は存在するけれど、光は存在しない世界」は正しくない

とするならば、その根拠はどこにあるのですか?


認識主体としての等価性、平等性を認めるのならば、人間が認識する世界も他の認識主体が認識する世界もどちらも、等価だと考えるべきです。人間の認識する世界が客観的で正しい、と考えるのは、合理的ではありませんね。


より公平に、合理的に、普遍性を持たせた言い方をするのならば、認識主体から切り離された客観的な正しい世界が外部に存在するのではなく、それぞれの認識主体に対応した世界が存在しており、その世界はそれぞれの認識主体にとってのみ通用するということです。(※認識主体としての能力・状態の一部を共有している認識主体同士ならば、それぞれに対応する世界の一部を共有することになる。)


人間が存在しなければ、地球も存在しない?


上の質問を考えたことはありますか?

考えるまでもなく、“人間が存在しなくても、地球は存在するでしょ!”と思う人が多いのではないでしょうか?


でも、根拠は言えますか?


これまでの話で見てきたように、“存在”と“認識主体”は表裏一体です。だとすると、人間という認識主体によって認識されて存在することになっている“地球”が、人間が存在しなくても存在すると言えるのはなぜですか?


「人間がいなくても、他の動物が地球を認識するでしょ」って?


いやいや、そのように“他の動物が存在している地球”というものすら、人間に認識されることによって存在するのですよ。“他の動物”だって、人間に認識されることによって、存在しているといえるのですよ。

(また、仮に他の動物という認識主体を想定することを許したとしても、動物は目の前に広がる世界を“地球だ”という認識はしないでしょう。今我々が、“地球だ”と認識しているものは、われわれの認識主体としてのあり方に対応して、そのように存在しているのです。)


「過去の地層を調べれば、地球は人類が誕生する前から存在していたことは、あきらかじゃないですか?」って?


いやいや、もっとよく考えて下さい。そもそも、過去から現在へと流れていると考えられる“時間”の感覚だって、人間と言う認識主体の能力・状態に対応して認識される(=存在している)のですよ。


ある物事があり、その結果別の物事が起こる。この因果の関係を捉える能力、つまり物事と物事とを関連付ける能力を人間が持っているから、時間の流れを認識できるのです。その能力を持たない認識主体を想定すると、時間の流れは存在しませんね。


このように、時間だって、人間という認識主体から離れて、外部世界に存在しているわけではありません。


では、その認識主体たる人間が存在しない場合に、地球や時間が存在すると言える根拠は何ですか?


現代の多くの人は、人間の外部に元から地球や時間、その他(客観的世界とひっくるめて言えてしまう)が存在していると思っていますが、それは厳密に考えると間違っています。


今まで常識だと思ってきたことを覆すのはなかなか難しい作業だと思います。よく考えて、反論や疑問があればお伝えください。(こちらも勉強になりますので。)