選挙に行け! 論について | うーわ!木がいっぱい生えてきた ~エッセイ・備忘録ブログ~

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考えたことを

①忘れないようにするため
②不特定の方と共有して、ご意見等いただきたく

ブログに書くことにしました。

選挙ですね。


選挙のたびにいつも「選挙に行きましょう」「選挙に行かない奴は政治に文句を言う資格がない」というようなことが言われるのですが、これにはちょっと異論がある。シラー


確かに、政治に対する意思表示をする方法としては選挙における投票行動が一番直接で、具体的なのかもしれないけれど、政治や社会に影響を与えるための方法というのは投票だけではない。というよりも、投票だけであってはいけないと思う。


例えばこうやって文章を書いて人に読んでもらうことだって、人の考えを変え、政治に影響を与えうるでしょう。


また、芸術作品を作ったり、アートパフォーマンスをしたりすることだって、抽象的ながら人々の感性に訴え、物の見方に影響を与え、ひいては政治的なことに反映されます。


そんなに改まった形でなくたって、日頃困っていることを知り合いに話すことだって、社会のメンバーの考えを変えて、ひいては政治に影響を与える行為になります。


そういった一人ひとりが個性に即した、自然で多様なあり方が、できるだけきちんと政治に反映することが、真の民主主義社会なのではないかと思うのです。


投票行動というのは、かなり具体的な、俗世的な価値判断、情報の選別が必要な作業で、人によっては、あるいは精神状態によっては、そういった作業が馴染まないこともあるように思います。


特に、抽象的な思考を組み立てる人や、芸術的資質を持った人々(職業としての思想家や芸術家に限らず)などは、日頃そういう俗世的なことに精神の焦点が合いにくい状態で生活をしていたりすると思うのです。


それはそう言う人たちの個性であって、そう言う人たちに「投票に行け!」と言うのは違う気がします。


例えば、尾崎豊が選挙に行くような奴だったら、あんな芸術は作れなかったのではないか。

(実はしこしこと選挙に行ってたりして(笑)、行ってたらご愛嬌。にひひ。論旨は分るでしょ。)


(行ってないとして進めると)

でも、尾崎の影響を受ける人は多いわけで、社会および政治に間接的に、抽象的に影響を与えています。


別に芸術家でなくても、ユニークな考え方をする人が、ちょっと言ったことで、「はっ」と気付かされたり、そこまでしなくても何らかの感慨を持ったりすることもあるでしょう。それだって社会への影響になります。


そう言う人々に選挙へ行くように圧力をかけて、精神の焦点を俗世に合わせるようなことをしては、社会全体としての、精神の、思考の、感性のあり方の多様性、精神活動の守備範囲が乏しくなってしまいます。


いろんな人が、多様なあり方をすることによって、社会全体としての精神活動の守備範囲が広くなり、そのこと自体が社会のあり方、政治のあり方に寄与するものだと思います。そうあることが真の民主主義だと思います。


してみれば、「選挙に行け!」と強く圧力をかけることは、民主主義に反することだと思います。



まあ、一般的な教育として、選挙の重要性を教えることは大切だと思いますが、選挙に行かない奴はダメ!的な全体主義的風潮はどうかと思うのです。


いかがでしょうか?合格