「人の気持ちを理解できる人間になりなさい」っていう教訓をよく耳にするんですけど…。これって大変だなぁと思いまして。何が大変かっていうと、ホントに分かったら大変なんですよね。自分のことだけでも痛いのに、人の気持ちまで分かったら痛くて仕方ない。
私達はごくごく身近な人の痛みは共感できると思うんですが、もうちょっと離れてる人達の分まで共感していくと、それはそれはものすごい痛みを感じることになると思うんです。でも、そこで痛すぎて全部手放してしまったら折角感じた痛みは意味がなくなってしまう。
この教訓の本当の意味は人の痛みを自分のことのように感じて、その痛みも乗り越えられるほど強くなりなさいってことじゃないかと思ったりします。自分の痛みだけでは人は強くなることも優しくなることもできないのかもしれません。やらなければならない課題は多いほうが身につきますからね。
すべての人の気持ちを理解して痛みを共有してあげるなんて神様にしかできないと思いますが、今日より明日は一人でも多くの人の気持ちを理解してあげれるようになりたいと思います。心もきっと鍛えれば強くなるからね。
言葉にすることは簡単だけど

軽率に口にしてはいけないような
誰かに見張られているような
いつも、そんな感じがしていました

「好き」から生まれるものは…「喜び」であってほしい
私はそうでありたい
けっして「犠牲」ではなく
もちろん「嫉妬」や「憎悪」でもなく

「好き」から生まれる喜びを知ったとき
その言葉は本当の重みを持つのではないかと
その言葉を伝える術を知るのではないかと

今は、そんなことを思ったりしています
アンジェリーナ・ジョリー主演の映画のタイトルです。
「愛する人のために命を賭ける」っていうのが主題の映画です。
それよりも相手役のクライヴ・オーウェン演じるキャラハン博士の難民への愛を主題にした方がいい映画になった気がしますが、それじゃあ観客動員できないのかな…
スパイダーマンのときと同じ問題を突きつけられたように感じたんですが…「一人の人への愛を貫くか、人類を守るか」っていう。
普通の人間はここまで重いテーマを持って生きているわけではありませんし、どちらか一つしか選べないということもないでしょうが、ほとんどの人は「一人の人への愛」を選択して生きているんだろうと思います。
もう一つの選択肢は更にたくさん枝分かれしていて、どれを選んでいいか迷ってしまって今に至る…という人が多いのではないでしょうか?私もその一人です。
苦しんでいる人達(特に子供)を守る非営利団体はたくさんありますけど、どの団体もすべての人達を救えるものではない…そう思って選べずにいました。
「とりあえず…」的な自己満足はしたくなかったから…。
でも本当にそうだったんでしょうか?もう一度考えてみようと思います。
私には何ができるのか…
「あなたは今幸せですか?」そう聞かれて「はい」と答える人は過半数を超えるそうです。確かに、日々食べるものに困らないし、買いたいものもある程度買える余裕があって、時々友達と外食できる…理由はいろいろあると思いますが、これらを人は「幸せな状態」と呼ぶのでしょう。
でも、理由のある幸せって本当に幸せなんでしょうか?いや、別に否定するつもりはありません。私がそうなんですけど…、時々頭の中で「自分が幸せな理由」を繰り返してることってありませんか?私の場合は寂しいと思ったり、疲れたりしてるときにこういうことを思いやすいみたいです。かさねていいますが、これは悪いことじゃないんです。自分の置かれた状況の中で幸せと思える謙虚な姿勢はいいことだと思うんです。ただ、ちょっと寂しい感じがしませんか?どこかで「幸せとは何か」と考え続けてるわけですよね?その枠にあてはめて「今は幸せ」という答えを導き出してるわけですよね?
「幸せ」って頭で考えるものじゃなくて心で感じるものだよなぁ~って時々思うんです。それはなにも難しいことじゃなくて自分のその時その時の感情を感じてあげるだけでいいんじゃないかと。もちろん辛いこともあるだろうし、悲しいこともあるだろうけど、その中に幸せとか嬉しいこともきっと含まれるわけで、普段からそういうものを感じている人は「幸せの絶対数」が大きいはずだから。
辛いことは素直に感じてる気がするのに、人間…とくに日本人は幸せを感じることに躊躇してしまう癖があるような気がします。たまに人目も気にせず「幸せです~!」っていうオーラ出しながらニコニコしてる人を見ると、なんだか救われたような気分になることがあります。
サービスでブックカバーをかけてくれる本屋は数あれど、本のサイズぴったりに丁寧にかけてくれる本屋はなかなかないと思うんです。大概ある程度の大きさに折ってあって、適当なものをサッとかける程度だと思います。私はブックカバーがはみ出してたりずれやすかったりするとイライラしてしまうので、いつもブックカバーを調整してかけなおすんですけど、1件だけその必要のない本屋があります。クリスタ長堀の丸善。ほかの丸善には行ったことがないので分からないですけど、とにかくここの店員さんはほとんど職人の域です。「○○円になります」とか言いながら、ササッとかけているのに、本にぴったりはまってて、しかも絶対にずれないんです。ずれない秘密は…実際に本を買って確かめてみてください。それは手早く作業できるコツでもあるようです。私もあの方法マスターしたいなぁ。カバーはずして研究してみよ!
思いやりとは相手の立場に立って考えること…これって人間関係の基本やと思うんですけど、なかなか難しいんですねぇ。ついつい自分軸で物事を考えがち…。
「きっとこうしたら相手は喜ぶはず」とか、そういう思いそのものは素晴らしいと思うんだけど、突き詰めて考えたら「自分の評価を上げようとしてない?」ってこと、よくあるような気がする。たとえば「大丈夫?」っていう問いに仕方なく「うん、大丈夫」って答えさせてしまうような、相手に無理をさせる気遣いをしちゃいかんなぁと思うわけです。しかもそれは自分が心配してることをアピールしたかっただけやん、みたいなね。実際逆効果だろうしね。
それなら私は、そっと見守っていて元気になったときに「よかったね」って一緒に喜べる人でありたいな…
ダンススタジオでは滅多とないことなんですけど、スポーツクラブでダンスのレッスンを受けていると、「上手いですねぇ」って言われることがあります。これ言われると確かに嬉しいです。でもある意味当然なんですね。私はつまみ食い程度ではあるけどバレエもしてるし、ジャズもヒップホップも昨日今日始めたわけじゃないし、大きな発表会にも何回か出てる…ある意味上手くて当然なんです。むしろそう言われなかったら恥です。
で、こう言われて思うのは「それだけの感想しか与えられてないのかなぁ」ってことなんですけど…。レッスンといえども私はいつも何らかの感情表現をしているわけで、それを気づいてもらえたらもっと違う感想も出てくるんじゃないかと思うんです。まぁ相手もレッスン中なわけですから、そこまで見れてないだけかもしれないんですけど…。私の理想は見てるだけで楽しくなったり、切なくなったりするようなダンスを踊れることなんです。ダンスのよさは表現力だと思うんですね。ドラマをみて「俳優の演技が上手だったから」って感動する人はまずいないと思うんです。もちろん上手だから人を感動させられるような表現力を持ってるんだろうと思うんですけど。
とにかく上手下手にこだわってるうちはまだまだ素人だなぁと思うわけです、自戒の意味もこめて…。
あゆちゃんのファンクラブに入りました。正確には入会手続きをしたのは1ヶ月前ですが、先日会員番号とパスワードがメールで届いたんです。知ってる人は知ってると思いますが、あゆちゃんのファンクラブは会員専用のホームページでの活動も行ってて、オフショット写真やらちょこっとした動画のメッセージやら、文字によるメッセージなんかが見れるようになってるんです。マスコミで話題になる度に「あゆのコメント」として発表されてるのはここに書かれてる内容なんですけど、実際に全文を読んでみて、あゆちゃんってすっごくいい子なんだなぁと思いました。あれだけの人気者になると、誤解されたり発言を歪められてしまったりってことがすごく多いんだと改めて思いました。私はあゆちゃんに対して変な思いは持ってませんでしたが、あゆちゃんのファンに対する愛情を知らなかったっていう意味では誤解してた人達と変わりがないかもしれません。
ただ、そういう団結みたいなものを外から見ると、また更なる誤解も生じてるんだろうなぁ…。でも、あれを一般に公開したら、それはそれでなんやかんやと言われてしまうだろうし…人気者ってホントに大変なのね。
昔、インタビューの途中で気を失ったことがあるというあゆちゃん。そうなってしまうのも分かる気がします。でもすごく強い人になりましたよね、いい意味で。
がんばれ、あゆちゃん!これからは私も味方です。
「冬のソナタ」を毎週見ていまして…サンヒョクかわいそう!と思ってたんですけど、第10話を見て考えが変わりました。知らない方のために解説すると…サンヒョクは、気持ちが離れていった婚約者のユジンと自ら申し出て別れてあげるんですけど、その後生きることを放棄したように廃人になってしまうんです。結局そのことがユジンを引き止めてしまうわけで…。「死ぬほど好き」という言葉がありますけど、ホントに死んでしまうのは卑怯だと思います。現実を受け止める覚悟をしたのなら、強く生きていくのが失恋した人間の使命だと私は思います。それくらいの覚悟がないと失恋することも許されないのだと、私は思います。
私は常に何か考え事をしてます。ボーっとしてるように見えるときは大抵何か考えてます。考えてないときはダンスのレッスン受けてるときくらい…。それは私がダンスをすごく好きだからか、何も考えてなくて楽しいからダンスを好きなのか…あぁ意味が分かりづらい!
とにかく「考える」っていうことは、私にとってあんまりいいことではないんじゃないか?と思ったんです。私が考えるから問題も複雑になっていくわけで、考えなかったら事実はそこにあるままの形で歪められることはないわけですよね?
いやいや、しかしこうやってまた考えてしまってるわけでして…