コラクのブログ
  • 10Jul
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      豊城入姫命は何処へ?

       久しぶりの投稿になりますん(´ω`)…が、またしても別稿笑 多忙を言い訳にしてブログも殆どサボっていますが、取りあえず1日で書ける程度のモノを久々にアップさせて頂きますネ。 ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型前方後円墳ともいわれるホタテ貝型の前方後円墳である。 ●概要 所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。 被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。 築造時期:以前から豊富な鉄族や鉄製刀剣類、鉄製農工具などの副葬品や埋葬施設の形式から4世紀の古墳と考えられてきた。しかし、桜井市纒向学研究センターは築造を邪馬台国の時代(3世紀中頃)に重なるとしている。奈良県立橿原考古学研究所は、2008年(平成20年)の発掘調査報告書で、出土遺物から築造年代を3世紀中頃としつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含むと報告している。(wikipedia ホケノ山古墳より抜粋) wikipediaにもあるように、大和国の式内社である大神(おおみわ)神社(ご祭神:大物主大神)の伝承によりますと、豊鍬入姫命の御墓を檜原神社のある桧原台地の麓にあるホケノ山古墳であるとしています。 場所位置関係はこんな感じ ●埋葬品の瀬戸内系の大壺 大神神社のHPによりますと、摂社である檜原神社御由緒の項には、 「この地は、崇神天皇の御代、宮中よりはじめて、天照大御神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託されてお遷しになり、「磯城神籬(しきひもろぎ)」を立て、お祀りされた「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」であります。大御神のご遷幸の後も、その御蹟を尊崇し、檜原神社として、引き続きお祀りし、「元伊勢(もといせ)」と今に伝えられています。境内には、昭和61年11月5日、豊鍬入姫命を祀る豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)が鎮斎されました。」 …とあり、現在では、末社として1986年に「豊鍬入姫宮」なる社も新設されております。(´・ω・`)ホエー つまり奈良県では、この前方後円墳であるホケノ山古墳の被葬者は、第10代崇神天皇の娘である豊鍬入姫命であり、当地が「元伊勢」の「倭笠縫邑」であるとしております。(・ω・)ナルホドネ …と簡単に説明させて頂きましたが、今回は、「仮に」そうであったと仮定した場合に、結果的にそれが何を意味するのかについて考察して参りたいと思います。 このホケノ山古墳の発掘に携わった奈良県立橿原考古学研究所の考古学者である石野博信氏は、その著書である「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」にてこう記しておられます。 P32に、 「一九九九年から二〇〇〇年にかけての大和・ホケノ山古墳の「石囲い木槨」の調査は、大和の早期古墳を考えるうえで画期的であった。「石囲い木槨」の被葬者は大和の出自ではなく、阿波か讃岐の出身者の墳墓と推定した。」 …とあり、その理由として、P33に、 「三世紀の積石塚は吉備・大和にはなく、阿波・讃岐・播磨に集中する。」 …とあり、また、 「古墳墳上の葺石を積石塚の外面的表現と認めれば、そのルーツは阿波・讃岐・播磨にあり、吉備や大和ではない。石囲い木、石槨もまた阿波・讃岐・播磨に集中し、積石塚と連動しているようだ。」…とあります。 ●考古資料からみた吉備・讃岐・阿波・播磨・大和 今回の注目点は、葬儀用器台と積石の有無。 考古資料からは、3世紀以前の大和の墳墓では積石を採用していなかったとハッキリと記しておられます。 萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)は、徳島県鳴門市大麻町萩原にある遺跡。 ●概要 鳴門市の大麻山南麓に位置し、1〜4号の4基からなる墳丘墓群で、かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。 2号墓 1号墓の北側で同じ尾根に位置する積石墓。2004年(平成16年)および2005年に測量やトレンチ調査が行なわれた際に基底石や外側の列石が確認され、おおよその規模や形状が確認されている。墳丘は径約20メートルのほぼ円形で南側に約5メートルの突出部が延びる形状を持ち、積石の高さは最大で1メートル。1号墓より築造時期が古い国内最古の積石墓とされている。(wikipedia萩原墳墓群より抜粋) 氏はP38に、 「積石木槨にはいくつか類型があるが、ホケノ山古墳と同型は、阿波萩原一・二号墳、讃岐の綾歌石塚山二号墳、安芸の弘住三号墳や丹波の黒田古墳などがあり、現段階の最古例は萩原二号墳である。数少ない類例ではあるが、石囲い木槨墓は黒田古墳を除いて瀬戸内沿岸に集中しており、韓国南東部をルーツとする海人文化の一つとして瀬戸内沿岸に流入したように思われる。」 そして墓の上部に添えられていた大壺は、 「梅木謙一氏の検討によると伊予系であり、松山平野から今治平野にかけての地域を故地とするという。」 「おそらくは、海洋航行に必要な飲料水を入れる容器だったのではないだろうか。ホケノ山古墳の大壺の初現は三世紀前半であり、西日本の国々と半島・大陸との交流が活発化したときである。」 …とあります。 これらの物証などから、被葬者は韓半島南東部と交流をしていた四国の海洋民族、中でも阿波をルーツに持つ人物であろうとの推測が立ちます。 以前「羽衣伝説 Vol.阿波 神宝・遺物から考察」でも書かせてもらいましたが、この古墳の出土品の中には魚介類を刺して捕らえる漁具であるヤス(簎・矠)が出てきていまっせ。 恐らく石野氏は、この古墳の被葬者が、往古の徳島県の海側にあった長国の人物であろうと推測したことで、2016年に「古代阿波の海洋民と大和」と題した講演を徳島県の海陽町で開催したのだと考えられます。 さて、冒頭に戻りまして、奈良県大神神社の伝承にあるように、「仮に」この古墳の被葬者が豊鍬入姫命のお墓であったと仮定した場合、そのルーツが阿波にあり、韓国南東部とを行き来する海洋民族であったことになりませんか 豊鍬入姫命の父である崇神天皇については、阿波国麻植郡の『麻植郡郷土誌』の中に、「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」とあり、伊香色謎命&伊香色雄命を御祭神とする式内 伊加加志神社は徳島県吉野川市川島町に御鎮座し、これらに纏わる痕跡は阿波に集中します。「孝元天皇から考察 ①」 崇神天皇の母がどこに住んでいたのか、崇神天皇やその子孫の痕跡を辿ればどこに行き着くのでしょうか。 wikipedia大神神社の「摂社」の項には、 率川阿波神社があり、当社は宝亀2年(771年)に阿波国から大和国へと勧請されております。「綏靖天皇から考察」 これが奈良最古の事代主命(エビス)ですネ。「【率川阿波神社】奈良市最古の「えびす様」と言われる率川神社の境内社」 ちなみに、摂社とは、 神社の格式の一つ。本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。(コトバンク:摂社より) その地に伝わる伝承や古墳のあった場所が奈良県であったということだけで判断せずに、中身をきちんと精査したうえで当時の人・物の流れや出土物、あるいは、埋葬された形式等々を考慮して歴史を考察すれば自ずと真意が見えてくるのではないでしょうか

  • 04Apr
    • 勾玉から考察④の画像

      勾玉から考察④

       「勾玉から考察③」からの続きとなります。例の如くwiki多めだヨ!! 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 我が国の伝承にある「比賣語曾社」のお話についてですが、『古事記』15代応神天皇段では”昔話”との前置き後、新羅国の王子である天之日矛と赤玉から化生した阿加流比売夫婦の説話として、また、『日本書紀』11代垂仁天皇段の、「一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船」「ある書によると、御間城天皇(=崇神天皇)の時代に、額に角のある人が、一艘の舟に乗ってやって来て」…の下りから、意富加羅国の王子である都怒我阿羅斯等と白石の化生した童女の物語として、活目天皇(=垂仁天皇)即位三年に来帰した説話として記録されています。 先の「勾玉から考察②」でご紹介しました、香春神社の御由緒にも、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ」…と書かれてあるように、御祭神である辛国息長大姫大目命もまた第10代崇神天皇治世時の伝承であることがお分かり頂けるかと思います。 都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。 『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。 意富加羅国(大加耶/大加羅、おほからのくに、現在の韓国南部)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。 ●記録 『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。 2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国の国前郡の比売語曽社の神になったという。 なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。 ●後裔氏族 『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。 ・左京諸蕃大市首 - 出自は任那国人の都怒賀阿羅斯止。 ・左京諸蕃 清水首 - 出自は任那国人の都怒何阿羅志止。 ・大和国諸蕃 辟田首 - 出自は任那国主の都奴加阿羅志等。 ●考証 名の「つぬが」については、新羅の最高官位「舒弗邯(ソブルハン、角干の別名)」を訓読みしたことに由来するとする説があり、またこの「つぬが」が転訛して地名「敦賀」が生まれたともいわれる。また「あらしと」とは、朝鮮語の「閼智(アルチ)」に見えるように、新羅・加耶における貴人への敬称と考えられている。敦賀には式内社として白城神社・信露貴彦神社といった新羅(白城/信露貴)系の神社も分布しており、「都怒我阿羅斯等」の名やその説話と合わせ、朝鮮半島南部から敦賀周辺への相次ぐ渡来人の来訪と定着が示唆される。ただしその所伝に関しては、説話の時期・内容の類似性から蘇那曷叱知(任那からの朝貢使)と同一視する説がある。 また、2つ目の所伝に見える「比売語曽社」のうち、難波の社は比売許曽神社(大阪府大阪市東成区、式内名神大社)、豊国の国前郡の社は比売語曽社(大分県東国東郡姫島村)に比定される。この2つ目の所伝は天日槍伝説と同工異曲とされ、同一の神に関する伝承と見られている。「天日槍」の名称自体、上述の「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(閼智:日の御子の名)」の日本名になるとする指摘もある。そしてこれらの伝説において天日槍は新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子とされているが、これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に割り当てられたに過ぎないとされる。(wikipedia 都怒我阿羅斯等より抜粋) 蘇那曷叱知(そなかしち、蘇那曷叱智)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。任那からの最初の朝貢使とされる。 ●記録 『日本書紀』によれば、崇神天皇65年7月に任那から朝貢のため来朝し、垂仁天皇2年に帰国したという。また、その帰国に際して天皇から任那王へと赤絹100匹(200段)が贈られたが、途中でこれを新羅に奪われたといい、これが任那と新羅の争いの始まりであるとしている。 ●考証 蘇那曷叱知に関する『日本書紀』の説話は、加耶からの渡来開始を説明するものであるとともに、加耶と新羅との争いの始まりを伝えるものである。名前の「蘇那曷叱知」とは朝鮮における借音字と考えられており、その訳語としては金仇亥(金官国第十代)の子の金奴宗とする説、于斯岐阿利叱智干岐(都怒我阿羅斯等の別名)とする説、金官国邑君とする説、弁辰の渠帥(貴人)とする説などがある。 また、垂仁天皇2年の分注には大加羅国(大加耶:加耶諸国の1つ)王子の都怒我阿羅斯等による「任那(みまな)」の語源伝承が載せられているが、この都怒我阿羅斯等と蘇那曷叱知とを同一視する説がある。(wikipedia 蘇那曷叱知より抜粋) 「任那」から最初に朝貢のために渡来したと伝える伝説上の人物。『日本書紀』によると、崇神65年に来日し、垂仁2年に帰国したが、帰国の際に賜った品物を途中で新羅が奪ったために両国の怨が始まったとの説を伝える。意富加羅国つまり任那加羅(金官。韓国金海市)から渡来した王子都怒我阿羅斯等と同一人とみる見解があり、蘇那は金の国、曷は大または加羅、叱知は首長の意なので、鉄(金属)の国を意味する素奈羅の中国風の表記である金官国(任那加羅)の王または王子という点で両者は一致する。『日本書紀』の編纂段階で、「任那」を倭の王権の属国とみる歴史像が形成されるなかで作られた、象徴的人物であろう。<参考文献>三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証』上(鈴木靖民)(コトバンク蘇那曷叱知より) つまり上にある我が国に帰来した人物の伝承は、描かれる時代や物語の内容の類似性等から、天之日矛と都怒我阿羅斯等(別名于斯岐阿利叱智干岐)と蘇那曷叱知を同一視する説があります。 この都怒我阿羅斯等と于斯岐阿利叱智の「ツヌガ」=「角(ツノ)が」と、「ウシキ」=「牛岐」が共に「角がある人」と「牛である人」の意味となり、「アラシト(チ)」の部分も本来は同じ意味を指すものであったと考えられています。 また蘇那曷叱知の名にある、「蘇(so)」は、google先生の翻訳によりますと朝鮮語で「牛」の意味でもあり、 「叱知」も「叱智」と同義と解すれば、これまた上に同じ意味となります。 「都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)=(牛の様な)角が有る人」 「于斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチ)=牛(の様な角)が有る人」 「蘇那曷叱知(ソナカシチ)=牛の(様な角)が(有る)人」 とにかくこの人物については、「牛」(ウシ)がキーワードであり、同義の別の意味として私的解釈では「おうし」というわけですヨ。ボソ...(´・ω・`)  また、この「蘇」という漢字は、「蘇生」という文字にも使われるように、「よみがえる」や、「いきかえる」等といった意味があり、名のりとしては「いき」とも読みます。 …即ち、蘇那曷叱知(ソナカシチ)は別名の意味で、「蘇(いき)-那曷(なか)-叱知(首長)」と解することもできます。 更に、wikipediaにある都怒我阿羅斯等の後裔氏族である「清水首」を検索してみますと、埼玉苗字辞典に、 「シミヅ 志水の佳字なり。志は斯盧国(後の新羅)、水(うず)は渦にて海洋民の意味。新羅の海洋民を志水、清水と称す。紀元前五十七年に即位した新羅初代国王朴赫居世を養育した斯盧国(後の新羅国)の高墟村長の蘇伐都利あり金姓にて、其子に蘇那曷叱智の名見ゆ。村長の意味なり。シラギ条参照。また、日本書紀・崇神天皇六十五年条に「任那国、蘇那曷叱知を遣して朝貢す」。任那の蘇那曷叱知(そなかしち)の蘇は金(そ)、那は国、曷は邑、叱知は首長、邑長の意味で、金国(鉄の産出する国)の邑長を称す。垂仁天皇元年条に「是の歳に、任那人・蘇那曷叱智請さく、『国に帰りなむ』とまをす。蓋し先皇の世に来朝して未だ還らざるか。故、あつく蘇那曷叱智に賞し、仍りて赤絹一百匹をもたせて任那王に賜ふ。然るに、新羅人・道に遮へて奪ふ。其の二国の怨み、始めて是の時に起る。一に云はく、意富加羅国の王子、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、亦の名は于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)と曰ふ」と。都怒我は新羅の最高官位の角干(つぬかん)、干岐は古代朝鮮語の君長の意味。垂仁天皇二年条に「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦(けしうら。福井県気比神社附近)に泊れり。故、其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。問ひて曰はく、『何れの国の人ぞ』といふ。対へて曰さく、『意富加羅の王の子、名は都怒我阿羅斯等』。赤織の絹を以て阿羅斯等に給ひて、本土に返しつかはす。故、其の国を号けて彌摩那国(みまなのくに)と謂ふ。新羅人聞きて、兵を起して至りて、皆其の赤絹を奪ふ」と見ゆ。任那国(みまな)は韓半島南部にあった弁韓の意富加羅(おおから)附近を云う。三国遺事卷二に「大駕洛(おおから)、又称伽耶国」とあり。金海の伽耶(かや)である。姓氏録・左京諸蕃に「清水首、任那国の人・都怒賀阿羅斯止より出づる也」と見ゆ。首は意毘登(おびと)と訓ず。古史伝に「多く部の有るべき諸姓に負へるを思ふに、其の部を統領る首と云ふ義の尸なり」と。成務天皇条に「県邑に首を置く」とあり。任那の渡来人清水族の首長を清水首と称し、清水族の渡来地を清水郷と唱える。」 金官国、もしくは駕洛国・金官加羅・任那加羅ともいい、現在の韓国慶尚南道金海市に有ったとされ、その前身は『三国志』の狗邪韓国であると考えられている。前期伽耶連盟の盟主的な立場にあった。『三国遺事』巻二に収められている『駕洛国記』に拠れば、駕洛国の建国神話は卵生神話型のものであり、初代の首露王は金の卵から産まれた為に姓を金と名乗ったという。532年に新羅の圧力に抗しきれず、仇衡王(金仇亥)が国を挙げて降伏している。その一族は新羅の首都金城(慶州市)に移り住んで食邑を与えられ、新羅の貴族階級に組み入れられた)。金仇亥の曾孫に金庾信が現れ、新羅の半島統一に大功を挙げた。金官国の王族金氏は、新羅王家の慶州金氏と区別するために金官金氏(後に金海金氏という)と呼ばれ、韓国内では最大の本貫となっている。ただし、『三国史記』『金庾信列伝』によれば、金庾信は首露王を祖先とする12世孫であり、金庾信碑には、その祖先は黄帝の子の少昊金天氏の後裔であり、そのため金氏を名乗っていたとする。(wikipedia 伽耶より抜粋) 云々...と記されてあり、蘇は金(そ)、つまり金国(鉄の産出する国)を意味し、後裔氏族が金姓を名乗る蘇伐都利・蘇那曷叱智親子も、韓半島南部にあった弁韓の意富加羅附近の金海の伽耶(かや)、日本側の記録ではこれを任那国の国人であったとします。 つまり、加耶(任那)から渡来した子の蘇那曷叱智と、新羅国の建国に関わったその父の蘇伐都利(ソボルトリ)は、鉄の産出する国の邑長であり、元を辿れば金官国の王族であったということ。 また、この金官伽耶国の祖は、上のwikipedia金官国にも書かれている、 金海金氏(キメキムシ、きんかいきんし、김해김씨)は、朝鮮半島の氏族の一つ。本貫を金海とする。現在の韓国最大の氏族集団である。 ●始祖 始祖は駕洛国(金官伽倻)の王・首露王とされる。このため駕洛金氏ともいう。一族では新羅建国の功臣・金庾信が知られる。また、金海許氏(首露王の王妃許黄玉の姓を名乗った二人の息子が祖)と仁川李氏も始祖を首露王としており、同本貫として扱われた。金海許氏は金海首露王の王妃で、ルーツはインドのアショカ王の家系に繋がり、インドから漂流して金海にたどり着いてその後、首露王に見初められ王妃となった。 王妃の王陵にはその家系にまつわるインドの家系の写真や系図などがあり、本家の家系を引き継ぐ者のみ閲覧などが出来る。 2004年に、許黄玉の「インド渡来説」を立証する科学的証拠が示された。ソウル大学医学部の徐廷ソン教授と翰林大学医学部のキム・ジョンイル教授は、韓国遺伝体学会で、「許黄玉の子孫と推定される金海にある古墳の遺骨を分析した結果、韓民族のルーツであるモンゴル北方系とは異なり、インド南方系だった」と報告した。ミトコンドリアはDNAを保持しており、遺骨からミトコンドリアDNAを抽出して全体の塩基配列を分析した。許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、48年に伽耶に渡来した。許黄玉は10人の息子を産んだが、そのうち2人に許姓を与え、それが金海許氏の起源である。「インド渡来説」が事実なら、子孫は母方の許氏のDNA形態を受け継いでインドなど南方系のミトコンドリアDNAを持っている。これについて「4つの遺骨のうち、1つからこのような結果を得た」とし「『インド渡来説』の立証を確固たるものにするには、もう少し綿密な研究を要する」と説明した。 『三国史記』『金庾信列伝』によれば、金庾信は首露王を祖先とする12世孫であり、金庾信碑には、その祖先は黄帝の子の少昊金天氏の後裔であり、そのため金氏を名乗っていたとする。(wikipdia 金海金氏より抜粋) 金海許氏(朝鮮語:김해허씨)は、朝鮮の氏族の一つ。本貫は慶尚南道金海市である。2015年調査では、1340688人である。 始祖は金官加羅国の初代王首露王の妃のサータヴァーハナ朝の王女許黄玉の35代子孫の許琰である。 許琰は高麗の文宗時代に三重大匡を務め、駕洛君に封じられた。(wikipedia 金海許氏より) …となっており、首露王は、鉄の王キム・スロ(金 首露)のことですネ(´・ω・`) 首露王(しゅろおう、수로왕)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたとも伝えられている。妃はサータヴァーハナ朝の王女と伝わる許黄玉。ただし、首露王についての記述は金官加羅国滅亡の500年ほど後に書かれた駕洛国記が本となっているため史実か判断が難しい。伝説ではクジボン(クジの岳)に降臨したと言う。金官加羅国には須恵器に影響を与えた土器が発掘されている。 ●出生神話 『三国遺事』に抄録された『駕洛国記』(『駕洛国記』自体は逸書)によれば、亀旨峰(クジの岳)の6個の金の卵から、42年3月3日に首露王が生まれたとされる。また、このとき1人ではなく5人の王子とともに6つ子として卵から孵って、九干たちに育てられたとされているこの年代に、首露王を中心とした国家連合(六加耶連合、後の新羅の複伽耶会)が成立したと見なしている。金官国伽倻は『魏志倭人伝』には狗邪韓国(くやかんこく)と伝えられる国である。 首露王は金の卵から生まれたという伝説により金姓を名乗る。朝鮮の始祖もしくは神話上の王とされている人々は、高句麗の東明聖王、新羅の赫居世居西干や脱解尼師今など、卵から生まれたとする卵生説話を持つものが多い。これは、卵が神聖なものであったというものからきている。 『新増東国輿地勝覧』には加耶山の女神である正見母主と天神『夷毗訶之』(イビガジ)から(悩窒朱日・内珍朱智)が生まれ、その内珍朱智が首露王だと記録されている。首露王の兄が大加耶を建国したというの内容を通じて、大伽耶が六加耶連合の盟主だった時に作られた神話と見る説もある。 『三国史記』の金庾信列伝によると、新羅の武将・金庾信は金官加羅国の王家の子孫であるという。(wikipedia 首露王より抜粋) こちらの金氏は金の卵から生まれたことから金姓を名乗るとします(´・ω・`) 「大加羅」については、 金官国もまた大加羅(大駕洛)と称されていたように、大加羅の表現そのものは固有名詞ではなく、加羅諸国の中での特に有力なものへの尊称であったと見られている。金官国に代わって台頭してきた伴跛(慶尚北道高霊郡)が、一般的には大加羅を指すものと考えられている。『新増東国輿地勝覧』に引く『釈利貞伝』には、高霊郡の背後にある伽倻山の神である正見母主と天神『夷毗訶之』とから生まれた兄『伊珍阿豉』(悩窒朱日ㆍ内珍朱智)が大加羅の始祖、弟『悩窒青裔』(首露王)が金官国の始祖であるとしており、新興の大加羅がそれまでの盟主であった金官国を越えようとする意識が反映されてできた伝承だと考えられている。(wikipedia 伽耶より抜粋) ということは、 『三国史記』の蘇伐公(『三国遺事』では蘇伐都利)は、新羅の建国の祖の六村のうちの高墟村の長であり、瓠(ひさご)の形をした卵から生まれた赫居世(wikipediaによれば、三国史記の朴氏の始祖説話に登場する瓠公は倭人であり、これが朴氏初代の朴赫居世ともいわれる=閼智のこと)を養子に迎えてやがて新羅の建国に至ります。 時代を経て、第4代新羅国王となった倭人の脱解尼師今の養子になったとあるのが、後の新羅の金氏王統の始祖となる金閼智で、この金閼智も、初代王の赫居世の出自とクリソツであったことから、その故事に因んで「閼智」(『三国史記』では長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)『三国遺事』では「小さな子」の意)と名付けられたとする説話が記録され、この金閼智が入っていた金の箱を見つけたのが、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから「瓠公」と称される倭人であったことからも、「赫居世=瓠公」と金閼智が実際は同一人物ではないか、との推測ができます。 従って金閼智は、「4代目新羅国王(元倭人)の養子」ですが、巡り巡って実は「倭人」であるという考えですな。 高墟村長の父蘇伐都利と初代新羅国王(養子)の朴赫居世(=閼智=瓠公【倭人】) 第4代新羅国王の父脱解尼師今(倭人)と王子(養子)の金閼智 この推論を踏まえた上で、別考察してみますと、意富加羅国「王子」の都怒我阿羅斯等(=蘇那曷叱知)は、上の「清水首」の項にもあるように、金官伽耶の始祖首露王の系譜である「金海金氏」であり、自身の「父」が蘇伐都利であることから、蘇伐都利は意富加羅国の「王」であったということになります。 先の埼玉苗字辞典の「中(ナカ)」の項には、 中 ナカ 新羅第一代王の朴赫居世(パク・ヒョクコセ)は前漢の孝宣帝五鳳元年甲子(紀元前五七年)に即位した。朴赫居世を養育した蘇伐都利―蘇那曷叱智―蘇弥居―金閼智の子孫金氏が朴姓の王位を継ぐ。また、日本書紀・崇神天皇六十五年条に「任那国は、蘇那曷叱知を遣して朝貢らしむ。任那は鶏林(しらぎ)の西南に在り」。垂仁天皇二年条に「任那人蘇那曷叱智・請ひて、国に帰らんと欲ふと。蓋し先皇の世に来朝して未だ還らざる歟。故に敦く蘇那曷叱智を賞め、仍りて赤絹一百疋を賚して任那王に賜ふ。然るに新羅人・之を道に遮りて奪ふ焉。其れ二国の怨み始めて是の時に起る也」と見ゆ。当時の朝鮮語では、蘇は金、那は国、曷は邑、叱智は地域の首長の意味で、金国君長とか、金(くろがね)の産出する国の邑長と解される。那曷(なか)は奈良と同じで、新羅や任那では国・村を称した。中、長は那曷の佳字にて中村は渡来人集落を称す。二字の制度により中井、長井、中江、長江、中尾、長尾、中野、長野等を称す。武蔵国那賀郡は北武蔵にあり、中央の中郡では無い。中央は多摩郡府中付近なり。また、延喜式神名帳に入間郡中氷川神社を載せ、三ヶ島村(所沢市)長宮明神社条に「相伝ふ、当社は神明帳に載たる中氷川神社なりとぞ。中氷川の神号を用ひずして長宮とは号するや別にゆへあるか、又中宮と云べきを誤り伝へてかく唱ふや」と。また、山口郷氷川村(所沢市)の中氷川神社も神名帳の中氷川神社なりと云う。この社名は足立郡大宮氷川神社と奥多摩氷川神社との中央にあるたるに中氷川神社と呼んだと伝へるが附会にて渡来人集落なり。また、足立郡中川村(大宮市)の中氷川神社も、大宮氷川神社と三室村氷川神社の中央にあるため中氷川神社と称すと伝へるが附会なり。入間郡福岡村長宮氷川社、埼玉郡上清久村長宮明神社も中宮の転訛なり。中、仲氏は武蔵国入間郡に多く存す。○群馬県多野郡鬼石町八戸。○島根県浜田市十四戸あり。仲、中村条参照。 一 物部族 此氏は人名に中、長を用いる。秋田県協和町唐松神社物部氏系図に「物部守屋―物部那加世(唐松神社初代神主)―那加良―那加養―那加男―那加足―那加矢―那加斐―那加坂―那加息―那加宅―那加波良―那加武―長石―長富―長民(以下省略)、現宮司六十三代物部長仁」なり。トミ条参照。 …とあり、物部守屋以降の子孫名は「那加」から「長」へと変化しており、また同辞典の、 長本 ナガモト 古代朝鮮語で那は国、曷(か、が)は村、下(もと)は浦の意味で、韓国(辛国)の海洋民集落を中本・長本・永本と称す。国造本紀に「長国造。成務朝の御宇、韓背足尼を国造に定め賜ふ」。長国は後の阿波国那賀郡なり。日本書紀・允恭天皇十四年九月十二日条に「一海人(あま)あり、男狭磯と曰ふ。是れ阿波国長邑の海人也」と。長邑は那賀郡附近を称す。平城宮出土木簡に「阿波国那賀郡原郷戸主百済牧夫(徳島県那賀川町原)」。正倉院天平勝宝二年四月に「阿波国長郡大野郷戸主漢人根万呂」。天平宝字五年二月に「漢人大万呂は阿波国那我郡太郷戸主漢人比呂戸口(阿南市大野町)」と。延喜式に「阿波国那賀潜女十人所作」と、海産物を貢納している。長(那賀)郡は韓半島南部の安耶国の海洋民漢人(あやひと)の渡来地なり。安耶(あや)は安羅(あら)とも称し後に百済国となる。 …とも記されております。 ヌシ(主)は、古代日本の神名や人名につけられる称号。地方の首長や国津神系の神名や人名を表す称号として用いられた。天津神系の神名や人名を表すヒ(日)と対立する称号である。 ●語源・語義 ヌシはウシ(大人)が語源でノウシ(助詞ノ+大人)の短縮形である。斎主(いわいぬし)を日本書紀は「斎之大人(いわいのうし)」とも伝えている。8世紀に成立した継体天皇紀は主人王をヌシ(主)を用いて記しているが、推古朝の7世紀に成立したと考えられる上宮記では同一人物を汙斯王(ウシキミ)とウシを用いて記している。つまりヌシ(主)はウシ(大人)から派生し、7世紀前後に成立した比較的新しい用語である。ヌシの語義は「ある領域の主(あるじ)として占めている」の意である。(wikipedia ヌシより抜粋) つまり、我が国と半島南部とを往来していた物部一族の首長(つまり、主:うし)のことを、「大物主大神」と呼称していたと考えられ、上の記述などから鑑みると、これらの活動拠点の中心地が阿波國ではないかとの指摘が当然なされるべきでしょう。 この意富加羅国「王子」都怒我阿羅斯等も、比賣語曾社の説話等の一致から、天之日矛と同神の説があり、wikipediaによると、”父の国を探しに日本に訪れたとされる(若狭湾新羅神社御由緒による)”と見え、この天之日矛の「父親」に当たるのが、倭国の東北一千里にある多婆那国、もしくは『三国遺事』では龍城国出身の脱解尼師今なのですから、従ってこの2例の親子の関係は、 新羅国王の父脱解尼師今(倭人)と王子(養子)の金閼智(=天之日矛) 意富加羅国王の父蘇伐都利(倭人)と王子の都怒我阿羅斯等(=蘇那曷叱知) …の構図となり、最終的には、 ●新羅国(金氏) 蘇伐都利(倭人)- 赫居世(養子:=閼智=瓠公(倭人))- 南解次次雄 ⇒脱解尼師今(倭人)-天之日矛(=都怒我阿羅斯等・蘇那曷叱知・金閼智)(養子) ●意富加羅国(金氏) 蘇伐都利(倭人)- 蘇那曷叱知(子)-蘇弥居 - 金閼智 自身が「孫」の代に現れるどっかの系譜に似ておりますが、つまり意富加羅国の王でもあった蘇伐都利は、元をただせば多婆那国からやって来た龍城国出身の倭人であり、その養子(子)もまた倭人であったということになります。 よって、意富加羅国及び新羅両国の王族姓である「金氏」も、共に父系が共通するということになります。 ちなみに若狭(ワカサ)の語源は、朝鮮語のワカソ(往き来)であるともいわれていますね。 私説の解釈で記すれば、倭人が朝鮮半島や大陸側と行う貿易の一大重要拠点として確保していたエリアが、韓半島南部の金官加羅国(三国時代の狗邪韓国)あるいは、都怒我阿羅斯等が帰国の際に御間城天皇(=崇神天皇)の名前を取って国名とせよとの命に由来してこの国名を「彌摩那(みまな)=任那(みまな)」というとあり、これが後の任那日本府ということになります。 『日本書紀』では、赤織の絹を阿羅斯等に与えて本土に返したとの記述があり、また『古事記』崇神天皇条に、 「誨其女曰「以赤土散床前、以閇蘇此二字以音紡麻貫針、刺其衣襴。」故如教而旦時見者、所著針麻者、自戸之鉤穴控通而出、唯遺麻者三勾耳。爾卽知自鉤穴出之狀而、從糸尋行者、至美和山而留神社、故知其神子。故因其麻之三勾遺而、名其地謂美和也。此意富多多泥古命者、神君・鴨君之祖。」 「娘(活玉依毘賣)に言いました。「赤土を床にまき、糸巻きに巻いた長い麻糸を針に通して、男の着物のスソに刺しなさい」娘は言うとおりにして、翌朝見てみると、麻糸は戸の鍵穴を通り、糸巻きに残っていた麻糸はたった三巻き(=三輪)だけでした。それで鍵穴から男が出て行ったことを知り、糸を辿っていくと、三輪山の神社に辿り着きました。それでその男は神の子(=オオモノヌシ)と知ったのです。この麻糸が三巻(=三輪)残っていたことから、その土地を「美和」と呼ぶようになりました。意富多々泥古命は神君(ミワノキミ)・鴨君(カモノキミ)の祖先です。」 …と記されてあり、 同条では、赤土(はに)の閇蘇紡麻(へそ)のエピソードとして、また倭迹迹日百襲姫命姫のエピソードでは小さな黒蛇の姿で、勢夜陀多良比売とのエピソードでは赤い丹塗り矢に姿を変え、そして崇神天皇治世では、祟り神として夢に現れ、意富多多泥古(大田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむと告げ、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたエピソードを記します。 これが神代の大己貴命の段にある「海の向こうから光り輝く神様」として登場する、 大神神社にある「大物主=(光る玉)」 イケメンの立派な男でその末裔が鳥の姓である「鴨君」の祖先の大物主大神なのです。 ちなみに、現在の朝鮮学会では任那の存在自体を認めていない説も未だにあるようですが、広開土王碑文(414年建立)の永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料としての初見として、 また中国史料の『宋書』(502年成立)や『梁書』(629年成立)でも「任那、加羅」と併記で記されてあり、660年に成立した『翰苑』の新羅条にも「任那」の文字が見え、その註に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700〜800里の地点に並在している。」とも記されており、往古には任那が実際に存在していたことが確実視されております。 阿波國美馬郡 倭大國玉神大國敷神社二座 式内社倭大國魂神社(徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3) ◆祭神 大国魂命・大己貴命 言わずと知れた倭の国に存在する産土神である倭の大國魂(玉)。 即ち当地が旧国の倭の根本たる動かぬ痕跡。 『日本書紀』の崇神天皇6年の条に、宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。 ここでは倭=大和と解されておりますが、ただし『日本書紀』の原文を読むと、 「六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。是以、晨興夕惕、請罪神祇。先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。」 「即位6年。百姓は流浪し、なかには背くものもありました。(国が荒れる)勢いはすさまじく、徳を持って治めることは難しいほどでした。そこで眠らず朝まで神祇にお願いをしたのです。これより先に、天照大神・倭大國魂の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。そこで天照大神を豐鍬入姬命を付けて、倭の笠縫邑に祀りました。そして磯堅城に神籬を立てました。」 …とあり、あくまで原文では「やまと」は「大和(おおやまと)」ではなく、キッチリと「倭(やまと)」と記されてありますヨ wikipediaにもあたかも奈良大和を思わせるかのように書かれてはおりますが、やまと=大和と勘違いすると大きな勘違いを生みますので重々ご注意下さいませ。 補足として『記紀』成立期にはまだ”大和国”は存在しておらず、当然のことながら崇神朝御宇にはありません。 論社である医家(いげ)神社(徳島県三好市池田町マチ2286) ◆祭神 大己貴命・少彦名命 創祀年代不明 社名の読みは式内社調査報告には「医家は『イケ』と訓み、祭神が薬神であるためこのように称されたといふ」とあります。 また阿府志は医家は池のことであり、池田町の名の起こりとの説を挙げ、『平成祭データ』では「いげ」と記されています。 『徳島県神社誌』によれば、池田町シンヤマの磐坂神社に「往古には磐坂大権現と称した。磐坂日子神を奉りし故に名付奉りし御名なりと。後、祭神山を下り給う。此の宮今の医家神社なりという」という口伝がある。 これによれば磐坂神社が当社の旧社地にあたることになります。 この辺りネ 磐坂日子神 須佐之男命の子。事蹟不詳。 『出雲国風土記』秋鹿郡恵曇(えとも)郷の由来に、 須作能乎の命の御子である磐坂日子の命が、国内をご巡行になった時に、 ここにお着きになっておっしゃったことには、 「ここは、地域が若々しく端正な美しさがある。土地の外見が絵鞆(えとも)のようだな。わたしの宮は、この所に造り、祭り仕えよ」 と仰せられたとある。(玄松子の祭神記:磐坂日子命より) さて、脱解尼師今の養子となった金閼智(=天之日矛)は、『三国遺事』脱解王代条に拠れば、「新羅始祖の赫居世の故事とよく似ていたので、小さな子を表す「閼智」を名前とした。」…とあります。 当然のことながら、人は年月を経て成長すると大人になりますから、金閼智は故事に因んだ別名として「小さな子」という異名を得たことになります。 この「小さな子」の異名を持つ金閼智、つまり我が国では少彦名命、即ち本稿でいうところの大物主大神のことなのですが、ぐーたら気延日記(重箱の隅)「倭の神坐す地(3)」に(またか笑)平田篤胤「古史傳」に、「荒魂大國魂神は、殊に外ツ國の事に預かり給ふ、と云傳のありて詠る事と聞こえたり」とあり、要するに「倭大国魂神は外国に行って治めていた事がある神なので遣唐使の船の舳先に祀られているんですよ」と記されてあり、 よって、「外国に行って治めていた事がある神」が、海から帰って来た神の「倭大国魂神」=「大物主神」であると考察しておられます。 ではその父である倭人の脱解尼師今は、この場合、御祭神からは、磐坂日子神の父、即ち須佐之男命のこととなり、これが『日本書紀』にみえる、 「一書曰、素戔鳴尊所行無狀、故諸神、科以千座置戸而遂逐之。是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」」 「是の時に、素戔嗚尊、其の子(みこ)五十猛神を帥(い)て、新羅國に降り到り、曾尸茂梨の處に居す。 乃ち興言(ことあげ)して曰く、「此の地は、吾れ居すを欲せず」。」 …といって、我が国の、 「到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。」 「出雲國の簸(ひ)の川上に在る、鳥上之峯に到る。」 …とある父須佐之男命と息子の五十猛命(天之日矛)親子のことなのでしょう。 磯部氏(いそべうじ)は磯部を管掌した氏族。その出自には複数の系統がある。 ●丹波国 丹波国造族の後裔で度会氏の祖系。雄略朝に丹波国真井原の豊受大神を伊勢に遷座して奉斎した。 ●上野国 八綱田命の子である夏花命に始まる物部君の後裔で上毛野氏同族。君姓の磯部氏は新治郡の鴨大神御子神主玉神社の社家や、頸城郡の水嶋礒部神社の社家・綿貫氏となる。 ●伊勢国 『新撰姓氏録』大和国神別において久斯比賀多命の後裔として石辺公が挙げられる。この一族が猿田彦神社社家の宇治土公や狛人野氏であり、久斯比賀多命の三世孫であり久斯気主命を祖とすると「児島系図」に見える。(wikipedia 磯部氏より抜粋) 度会氏(わたらいうじ)は、日本の氏族。多くは明治初期まで伊勢豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の祠官を世襲した。 ●概要 度会氏の祖は天牟羅雲命(天児屋命の子)であると伝えられ、伊勢国造の後裔であるとされる。しかし彦坐王の後裔・丹波国造の一族の大佐々古直が石部直渡会神主の祖と系図に見えており、後者が実際の系図であったとされる。当初は磯部氏を称していたが、奈良時代に渡会(渡相)神主姓を下賜されたという。古くから伊勢神宮外宮の禰宜を世襲し、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、伊勢皇大神宮(内宮)と争い伊勢神道を唱えた。多くの家に分かれたが、禰宜を務められた家(重代家)は、檜垣家・松木家など6家のみであった。(wikipedia 度会氏より抜粋) …ということは、脱解尼師今(だっかい にしきん)の別名である、吐解尼師今(とかい にしきん)は「渡会」ということなんでしょうかな 更には、大加耶建国の祖、伊珍阿豉(イジンアシ)は、ひょっとすると倭人閼智(イジン-アッチ(主:アルジ))という意味かも知れませぬな笑笑 …さてさて、『記紀』によると崇神天皇の命により、日本各地に四道将軍を派遣したというお話があり、 四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命、武渟川別命、吉備津彦命、丹波道主命の4人を指す。 ●概要 『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88年?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている。 『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。 また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。 四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。(wikipedia 四道将軍より抜粋) ●四道将軍が派遣された地域 つまりこの色の塗られた地域は、当時代においてもまだ「ヤマト王権」の支配下ではなかったという旨重々お心置き下さいね。 この色の着いたエリアの「邪馬台国〇〇説」なるものをよくお見かけ致しますが、この地域は後にヤマト王権の支配下となったエリアです。 また、「邪馬台国」と「やまと国」が別の王朝であるとお考えになる説を挙げておられる方々はこの類から外れますのでご了承下さいませ。 崇神天皇が派遣したとある四道将軍、中でも本稿で取り扱うのが「丹波」に派遣された丹波道主命。 現代人の感覚では、この将軍の派遣先は丹波だけなん?的な感じでしょうが、当時代においてそこには大きな意味が存在します。 本稿では割愛させて頂きますが、息長氏についてや天之日矛について、若狭・敦賀・気比そして丹波・但馬にはその伝承が色濃く残っています。  そして、阿波国においては、 宇志比古神社(うしひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町大谷に鎮座する神社である。 広域図ですとこんな感じ。吉野川河口部の北側ですね。 ◆創建 時期不詳 この一帯は堀江庄は石清水八幡宮の荘園だったため、その中心地である現社地に別宮として八幡宮が勧請されたと考えられています。 ◆祭神 宇志比古尊 応神天皇 仁徳天皇 神功皇后 宇志比古尊とは、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)のことで、別名を丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのきみ)。 『古事記』開化天皇段では、父は日子坐王(彦坐王)、母は天之御影神の女の息長水依比売(おきながのみずよりひめ)であるという。 『日本書紀』垂仁天皇条によれば、丹波道主命は第9代開化天皇皇孫である。父は開化天皇皇子の彦坐王(ひこいますのみこ)とするが、開化天皇の別皇子である彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を父とする別伝も掲げている。(wikipedia 丹波道主命より抜粋) これが前稿で書いた「大麻比古命の謎に迫る」のココ 崇神天皇に比定される二人の人物の息子と孫娘の「斎主」とが結ばれる1世代ズレている関係。 確か「勾玉から考察②」では、波多都美命の子が天目一箇命(天御影命)と比売許曽命(天日矛命后神の息長大姫刀自命)。 そして、次代の天之御影神の女が息長水依比売であり、系譜上ではこの姫と彦坐王との間の子が丹波道主命となります。 これが「三河国青木氏系図」にある大麻彦命の子、また阿波忌部でいうところの、天富命(阿波之宇志彦命/天日鷲翔矢命)。 「安房国忌部家系図」では、由布津主命(阿八和気毘古命)。 また『日本書紀』にある=経津主神:斎主(いわいのうし)という訳ですな。 (´・ω・`)う~ん、話長過ぎやな…

  • 14Mar
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      大麻比古命の謎に迫る

       「勾玉から考察」シリーズをまだ書き終えていないにも関わらず、別稿を上げるという斜め上っぷりが何ともワシらしい(´・ω・`)… ということで、今回は箸休め回としまして、今まで何度もクドく書いて来た「忌部氏系図」を使った大麻比古命の同神考察を更にクドく説明して参ろうかと思います笑 決して「勾玉から考察」がなかなか纏まらないからといって引き延ばしている訳では御座いませんヨ(:.;゚;Д;゚;.:)ハァハァ ただチョット思っていたよりボリューミィになりそうですので、更に数回に分けようかなと現時点では考えております。 一応ですが、「勾玉から考察」シリーズの続きに繋がるヒントや小ネタもチョコット入れておきますネ。ホンマゴメンナー((人´Д`; 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 阿波国一宮である大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ:徳島県鳴門市大麻町板東) 通称として「大麻さん」とも呼ばれ、阿波国・淡路国両国の総鎮守として、現在は徳島県の総鎮守として信仰を集める。 主祭神は、阿波忌部氏の祖とされてている天日鷲命の子の大麻比古神で、配祀神に猿田彦大神をお祀りしています。 早速ですが『阿波忌部氏参考系図』で示すところのココですな 当社のご祭神については、実はきっちりとは定まっていなかったようで、ぐーたら気延日記「阿波國一之宮 大麻比古神社(追記)大麻比古神とは」によりますと、明治41年の大麻比古神社宮司「山口定實」氏著「国幣中社大麻比古神社御祭神考證」「大日本國一宮記」には、 社記には全て御祭神は猿田彦神であるが、野口年長著の「阿波國式社略考論」等の説を踏まえますと、 麻を納めたのは阿波忌部の祖の天日鷲命ではないかの説や、 安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図にある別名の津咋見命の説、中でも忌部氏の太祖である天太玉命の説が正しいのではないかとしております。 一言でいえば議論の余地があるということですが、この辺の考察につきましては色々と長くなりますので詳しくは「wikipedia 大麻比古神社」をご参照下さいませ。 お次に、阿波国式内社麻能等比古神社の論社である大麻比古神社(おおまひこじんじゃ:徳島市明神町6-2) 当社社名の読みは「おおまひこ」で、江戸時代には「彌吉(やきち)明神」と称し、明治3年(1870年)に現在の社名に改称され村社に列したとあります。 鳴門大麻比古神社の御祭神?と同じく当社ご祭神も猿田彦命 猿田彦命は『記紀』を知っていればお分かりと存じますが、天孫降臨の際、道案内をした「導きの神」であり、天狗のようなお姿で描かれる異形の神のことですな。 ●社殿の猿田彦大神と天宇受売命の面(それぞれ高いお鼻と口ばしが特徴的ですな) 御由緒は、寛永2年(1625年)に伊予から来た河野忠左衛門の息子の彌吉郎が、承応2年(1653年)に市内一宮山の岩間で御神体を見つけ、神託によって河野家の鎮守として当地に祀ったのを始まりとし、その後寛文元年(1661年)若宮神社と称し、宝暦8年(1758年)に京都・吉田神社より大麻彦大明神の神号を許されたとのこと。 俗伝では、富田浦町に住んでいた貧乏人の正直者彌吉が、猿田彦の像を転売したが何度売っても手元に戻ってくるので、感ずるところがあって付近の社に合わせ祀ったのが始まりといわれておるようです。 延喜式式内社の論社としては、永く廃絶していた?とあって創建(再建?)などの謂れとしては甚だ後付け感が否めませんが、ここで申し上げたいのは「大麻比古」なる神名を冠する社名の御祭神がやはり「猿田彦命」であるということ。 『阿府志』には、式内社麻能等比古神社の所在を「富田浦にあり俗に大麻比古大明神」としているようですが、創建の由緒等からはチョット眉唾モンですな。 では、式内社麻能等比古神社のもう一つの論社である、徳島県徳島市入田町天ノ原に御鎮座する天神社(てんじんじゃ)。 現在は当社に合祀されてあるそうです。 wikipediaによりますと、御祭神は、天目一箇神、菅公、天児屋根命、武甕槌命、武経津主命、麻能等比古神 『阿波誌』には「麻能等(まのと)」は「水門(みなと)」也とし、水門の神である速秋津比古命とする。 …と、この説もそれなりに説得力がありますが、阿波歴史のバイブル、ぐーたら気延日記「入田町 麻能等比古神社」より引用させて頂きますと、「入田村史」「麻能等比古神社」の項に、 「麻能等比古神社は猿田彦命を祀り無格社なれども、其由緒正しきものにや、下浦村の神職山口某の調査によれば、猿田彦神社の本社にして、官幣大社の社格ありとなし、先年社格上進の具申をなさんとせしが、不幸にして盗難に遭ひ、其資料は多く散失せりと雖も、今猶残部を保存す言ふ。」云々… …と記されてあり、当社が猿田彦神社の本社であると書かれています。 また、「阿波國続風土記」からは、 「船戸神ニテ矢野村松熊ナルベシ」とあり、矢野村松熊にて猿田彦命を祀っていたのを現天神社に合祀した可能性が指摘されるでしょう。 場所は天石門別八倉比賣神社のすぐ傍、宮谷古墳の隣ですね。この古墳はどなたの古墳なのかな?超重要な気がしますが。 松熊神社(まつくまじんじゃ:徳島市国府町西矢野) ぐーたら気延日記「延喜式内社 麻能等比古神社」より<(_ _)> 従ってここでの説は、船戸神=麻能等比古神 が猿田彦命ということ。 岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されている。日本の民間信仰において、疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である。また、久那土はくなぐ、即ち交合・婚姻を意味するものという説もある。 別名、久那土神、久那止神、久那戸神、久那斗神、車戸神、来名戸祖神、岐神、衝立船戸神、車戸大明神、久那度神、クナド大神、クナトの神、クナト大神、熊野大神、久刀。 ●概要 「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味。もとは、道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神である。 道祖神の原型の1つとされる。読みをふなと、ふなど -のかみともされるのは、  「フ」の音が「ク」の音と互いに転じやすいためとする説がある。以下のように、意味から転じた読みが多い。岐(ちまた、巷、衢とも書く)または辻(つじ)におわすとの意味で、巷の神(ちまたのかみ)または辻の神(つじのかみ)、峠の神、みちのかみとも言う。また、障害や災難から村人を防ぐとの意味で、さえ、さい -のかみ(障の神、塞の神)、さらに「塞ぐ」の意味から転じて幸の神、生殖の神、縁結びの神、手向けの神の意味を併せるところもある。 神話では、『古事記』の神産みの段において、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしている。この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞(みちあえのまつりのりと)」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。 『日本書紀』では、黄泉津平坂で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。これは『古事記』では、最初に投げた杖から化生した神を衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)としている。 なお、道祖神は道教から由来した庚申信仰と習合して青面金剛が置かれ、「かのえさる」を転じて神道の猿田彦神とも習合した。(wikipedia 岐の神より抜粋) ふむふむ、そして松熊社の御祭神は手力男命と天宇受女命なんですよね…(´・ω・`) まぁ今はあえてスルーしておきましょう。 んで、猿田彦命とは何ぞやということで、 佐那河内村の大宮八幡神社には猿田比古神社があったことが碑として残っており、 こちらも「阿波國続風土記」によりますと、猿田彦大神社そのご祭神は、 笑子(えびす)大神と記されてあり、これが『三輪高宮家系図』にある、 都美波八重事代主命、又名猿田彦神、大物主神のことなんです。 八重事代主命が通称「えびす」と呼ばれているのは皆さんご存知であろうと思います。 ここまでは以前に記したもののおさらいや、上のぐーたら氏の記事(写真)の引用からも、凡そ異論はないものと思われます(´・ω・`) またぐーたら氏の調査によると、大麻比古命については、松浦長年の「阿波國古義略考」に、「大麻比古神亦ノ名を大水上ノ神亦ノ名は櫛玉命亦ノ名を天ノ活玉ノ命といふ」とあり、 櫛玉命、つまり邇芸速日命(天火明命)の説があるという記事も挙げておられます。ソースぐーたら気延日記「阿波國一之宮 大麻比古神社(追記)大麻比古神とは」 天火明命は『播磨国風土記』では、大己貴命(大汝命)と弩都比売との子。 また『日本書紀』の別の一書では、天火明命の父が邇邇芸命ともあります。 コレのことネ また同風土記には、伊和大神(大己貴命)の妻が許乃波奈佐久夜比売命とあること。同時に『記紀』ではこの姫が邇邇芸命の妻であることを踏まえますと、 仮に大己貴命(この場合邇邇芸命も同じ)を中心として考えて、兄弟の「兄」が自身の「子」の八重事代主命=大麻比古命の構図となり、赤囲い線がこれに該当する箇所であると考えられ、忌部文化研究所の「徳島と日本各地を拓いた阿波忌部」によりますと、 「大日本國一宮記」の説と同じく、大麻比古神は天太玉命と同神としておるようです。 また、天太玉命は天日鷲翔矢命(この場合大己貴命)の妹の天比理乃咩命と結ばれていること等から、邇邇芸命(=大己貴命)の「兄」は、「弟」と「子」としても描かれていることにもなるのです。 そして「粟国造粟飯原家系図」によると、 大国主神(大己貴命)の子の積羽八重言代主神の后神に、粟国魂大宜都比賣神とあり、亦名として、天津羽羽神、天石門別八倉比賣神、天石門別豊玉姫神、稚日女命、天御梶姫命などと書かれてあり、これが天日鷲神の父である天午刀男神の娘であると記します。 また、「安房国忌部家系図」では、 天背男命の后神に八倉比賣命とあり、娘である天比理乃咩命も、一云稚日女命、天太玉命の后神と記され、天津羽〃命も、一云 天御梶比女命、八重事代主神の后神と書かれてあります。 ということは、天背男命の后も八倉比賣命。 天太玉命の后も稚日女命(=天石門別八倉比賣)。 そして上にも書いたように、大麻比古命=八重事代主神の后も天石門別八倉比賣神となることから、何と(少なくとも)三世代に渡っての系譜に天石門別八倉比賣神を妻としたことになるのです。 先述した麻能等比古神社が合祀されたと伝う天神社の御祭神は、鍛治の神である天目一箇神。 こちらもwikipedia天目一箇神によれば、 『古語拾遺』、『日本書紀』、『播磨国風土記』に登場する。別名は天之麻比止都禰命(あめのまひとつねのみこと)、天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)、天之御影神(あめのみかげのかみ)、天之御蔭命(あめのみかげのみこと)、天津麻羅(あまつまら)、天久之比命(あまくしひのみこと)、天戸間見命(あめのとまみのみこと)、天奇目一箇命(あめのくしまひとつのみこと)、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)、天目一箇禰命(あめのまひとつねのみこと)、天戸須久根命(あめのとすくねのみこと)、天照眞良建雄命(あまてらすますらたけおのみこと)、明立天御影命(あきたつあめのみかげのみこと)とされる。ひょっとこ(火男)の原型とも伝えられている。 『古語拾遺』や『諸系譜』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主神を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。   『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、天太玉命と同一神とも見られる。(wikipedia 天太玉命より抜粋) つまり天背男命(天石門別神)の后神の八倉比賣神は、天背男命の子の代にも別神名の男神と結ばれており、実際は男神の方も世代をスライドして存在しているということになります。 このことにより、系譜として大麻比古命が天日鷲命の親の代に逆転する系図が存在する理由の一つであると考えられ、また天日鷲命が六人存在する理由にもなっていると考えられるのです。awa-otoko氏ブログより「六人の天日鷲命」より 「三河国青木氏系図」では、由布彦命(天日鷲毘古命)の父は建男命(天日鷲建男命)のようですな。 この解釈も私説として一応現時点の考え方として「応神天皇の痕跡から考察⑧」に書いておりますのでご参照下さいませ。 白鬚神社(しらひげじんじゃ)は、滋賀県高島市鵜川にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。別称は「白鬚大明神」「比良明神」。神紋は「左三ツ巴」。 ◆祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと、猿田彦大神) 国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。 ●創建 社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという(一説に再建)。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。 後述の国史に見える神名「比良神」から、当社の元々の祭祀は比良山に対するものであったとする説がある。 一方で白鬚信仰の多く分布する武蔵国北部や近江国・筑前国には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという説もある。 「白鬚神社が祭られた形体は、湖西街道に沿って南下して繁栄した新羅系渡来人が、道中の安全のために造った祠であろうと思われる。 白鬚(しらが)という社名は新羅(しらぎ)を援用した名称ではなかろうかと思われる。」 また白鬚神社の鎮座する近江南部や同神が多く鎮座する池田郡、猿田彦命を祀る壱志郡の分布から、本来は海神族の流れを汲む和珥氏の祖神を祀ったものとする説もある。 ●概史 国史では貞観7年(865年)に「比良神」が従四位下の神階を賜ったとの記載があり、この「比良神」が当社にあたるとされる。ただし『延喜式』神名帳には記載されていないため、当社はいわゆる国史見在社にあたる。 弘安3年(1280年)の比良庄の絵図では「白ヒゲ大明神」と見えるほか(「白鬚」の初出)、『太平記』巻18では「白鬚明神」という記載も見える。また、謡曲『白鬚』では当社が舞台とされている。(wikipedia 白鬚神社より抜粋) 比良明神は、岐神の説明にもあるように、これ以上来るなとある塞神であり、wikipedia黄泉比良坂の項にも、「ひら」は「崖」を意味するとされると書かれてあるように、「比良:ひら」アイヌ語で「ピラ」piraは、「崖」という意味で、「國學院大學古事記学センター黄泉国②」にも、ヒラは元来崖状の地形、または傾斜地を指し、とありまた、「大系(記)」「全集」「倉野全注釈」「西郷注釈」「新全集」では「ヒラ」は元来「崖」を意味しているとします。 息栖神社(いきすじんじゃ)は、茨城県神栖市息栖にある神社。国史見在社で、旧社格は県社。 茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社である。 ◆主祭神 久那戸神(くなどのかみ、岐神)  社伝では、鹿島神・香取神による葦原中国平定において、東国への先導にあたった神という。 ◆相殿神  天鳥船命(あめのとりふねのみこと)『古事記』では、建御雷神の副神として葦原中国平定に赴いたと記される。  住吉三神(すみよしさんしん)上筒男神、中筒男神、底筒男神の3柱の総称。 ●創建 社伝では、第15代応神天皇の代に日川の地(にっかわ:現・神栖市日川)に創建されたという。その後大同2年(807年)4月13日、藤原内麻呂によって現在地に移転したと伝える。 当社の名称について『日本三代実録』では「於岐都説神」と記される。また元亨元年(1321年)の古文書で「おきすのやしろ」と記されるように、当社は「おきす」と呼ばれていた。(wikipedia 息栖神社より抜粋) こちらはぐーたら気延日記「岐神再び(6)」「鹿島神宮傳記」より、 息栖神社御祭神である久那戸神(くなどのかみ、岐神)は鹽津老翁であると記します。 恐らく言葉としては、「ヒラ」から転じて「シラ・シラ-ガ」となり、白髪の老人として描かれる塩土老翁のことを指すのでしょう。 さて、天太玉命と同神と目される麻能等比古神社御祭神の天目一箇神の妹には、天之日矛命の妻となる比売許曽命(息長大姫刀自命)がおり、天津彦根命(波多都美命)の系譜はどうやら「息長氏」一族であることがわかりますが、 『阿波忌部氏参考系図』では、天太玉命の后神は天比理乃咩命であり、これが一云稚日女命、つまり八倉比賣神ということになります。 『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条によると、道主日女命が父のわからない子を産んだ。父親を知るために占いに使う酒を造り、神々を集め、その子に父と思う神に酒を捧げさせた。子に盟酒(うけいざけ)を注ぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一箇神に注いだことから天目一箇神が子の父であると分かったという説話が残されています。 天太玉命と同神とされる天目一箇命の后神が道主日女命なのですから、世代としては邇邇芸命の兄の饒速日命のポジションとして描かれており、また同時に邇邇芸命(大己貴命)の子として描く場合は、天火明命の妻天道日女命つまり、市杵嶋姫命として描かれております。 また「日本の建国と阿波忌部』によれば、『麻植郡郷土誌』の中に、「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」という逸文が記されてあり、逸文の意味からすれば、天富命の父が崇神天皇となります。 「安房国忌部家系図」によると、大麻比古命の子である由布津主命の又名を阿八和気毘古命(アワワケヒコ)と記されてあり、 由布津主命を天止美命(天富命)と定め云々…とあり、要するに由布津主命と天止美命(天富命)は同神であると書かれています。 天富命の父の天櫛耳命が崇神天皇であるならば、同時に由布津主命の父である大麻比古命もまた崇神天皇となります。 『記紀』によると崇神天皇条の説話では大物主神を祀るお話がありますね。 同神考察をしていくと、天日鷲翔矢命の子である大麻比古命のイメージが膨大に膨らみ過ぎて、頭がこんがらがって来ますので、今回はとりあえずこの辺で置いておきましょう。 最後に、麻能等比古神社についてですが、その字義を考察してみますと、御祭神である天目一箇命の神名を読み砕くと、天-目-一箇(あめの-ま-ひと-つ)であり、大-麻-比古(おお-ま-ひこ)と似たような構成であり、 「麻能等」の麻(あさ)を(ま)と読むのはまぁわかるとして、 次の能(のう)の漢字の成り立ちや意味は、 ①「あたう(できる)」②「よく、よくする(できる)」③「働き」、「力」、「才能(物事をうまく成し遂げる生まれつきの能力)」(例:有能)④「効き目」(例:効能)⑤「才能に優れている」⑥「才能に優れた人」⑦「三本足の亀」⑧「耐える」、「辛さや苦しさを我慢する」 ●日本のみで用いられる意味 ⑨「ノウ(能楽の略)」 [日本固有の(日本だけが持つ)演劇(歌舞伎・能・狂言)について] ※能楽とは、「能」と「狂言」の総称の事。 音読み:「ノウ」 常用漢字表外 「ダイ」、「ドウ」 訓読み:常用漢字表内はなし 常用漢字表外「あた(う)」、「た(える)」、「よ(く)」、「はたら(き)」、「よ(くする)」、「わざ」 名前(音読み・訓読み以外の読み): 「きよ」、「たか」、「ちから」、「のぶ」、「のり」、「ひさ」、 「みち」、「むね」、「やす」、「よき」、「よし」 …とあり、 能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。 江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 ●解説 「能」という語は元々、特定の芸能を指すものではなく、物真似や滑稽芸でない芸能で、ストーリーのあるもののこと全般を意味していた。猿楽以外にもこれが用いられていたが、猿楽が盛んになると共にほとんど猿楽が能の略称となった。(wikipedia 能より抜粋) 猿楽(さるがく、猿樂)は、室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである。 ●歴史 現在能楽と称されている芸能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に(南方)中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて申楽(猿楽)と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能楽の原型がつくられていった。(wikipedia 猿楽より抜粋) 能楽、即ち猿楽の元は「申楽」と呼ばれ、言い換えるとこの場合、「能」と「猿(申)」は同じ意味で扱われており、猿の元字である「申」は、いなびかり「雷」が走るさまにかたどる。「電(デン・いなづま:伸びる稲妻)が元字とあります。 また訓読みでは「もう(す)」、常用外では「かさ(ねる)」「さる」借りて「のびる」「もうす」の意で、そこから「伸」(のびる)、「神」の意が生じ、その神に願い事をすることから、「申す」(もうす)意が生じたとされます。 「神-光村図書下126.東京書籍下047.教育出版下040より」 そういえば何故か日吉大社の山王こと「神猿」は、「ま-さる」と読みますね。 「ま」の読みを「神」にあてて読むんでしょうかね?(´・ω・`) 「能」の字には我が国独自で「申」の意味を内包していると考えられそうです。 そして最後の、等は「ら」の読みは「と」と読むべきでしょう。 ニホンザル(Macaca fuscata)は、哺乳綱霊長目オナガザル科マカク属に分類される霊長類。 ●文化の中のニホンザル(呼び名) 日本語「猿(さる)」は、元来ニホンザルを指して使われた呼び名であった。 異称は「ましら」で、和歌などでは盛んに使われる。南方熊楠によればこれは梵語に由来するものかという。 ●山神としてのニホンザル 猿は古来“山神”とされた。 猿は他の獣とは違って人の異形にして縮小態であり、それゆえに、山神の使者、あるいは神そのものとされたのも自然な成り行きであった。南方によれば、田畑を荒らされるのを防ぐために猿に餌をやったことが、かえって猿は田畑の守り神であると認知させることになったのだという。 また日吉信仰はおそらくその字のとおり太陽崇拝に関係しており、日の出とともに騒ぎ出す猿は日神の使者と考えられたのではないかという。中村禎里によれば、猿神が日本土着の起源をもつことは、これが日吉系の各社にかぎらず浅間など各地で山神信仰と結びついていることからも明らかだが、そうした山神としての猿信仰が、仏教とともに流入したインドの土俗神とおそらく習合し、さらに「日吉」「庚申様」「馬頭観音」「猿田彦」などの猿と関連づけられた“看板”を獲得しながら普及する中で、後世の日本人の信仰が形づくられてきたのだという。 なお、再度南方によれば、日本独特の民間信仰である庚申信仰で祀られる主尊・青面金剛とは、ラーマーヤナ説話の主人公・ラーマの本体たるヴィシュヌ神が日本で転化したものであり、青面金剛の足元にたびたび描かれる三匹の猿、「見ざる、言わざる、聞かざる」のいわゆる三猿は、ラーマに仕えたハヌマーンの変形に他ならない。 とはいえ当然ながら、日本の信仰に表れる三猿は、まぎれもなく尻尾の短いニホンザルである。(wikipedia ニホンザルより抜粋) お猿はお顔が赤いゼヨ …ってな訳で、お猿の古名は「ましら」。 よって麻能等-比古は、「ま(麻・神)-のぅ(能・猿・申)-と(人)」の意味となることから、「麻能等(ましら)比古神社は猿田彦神社の本社」と考えられるのである…ということで今回は勘弁してやって下さい(。-人-。)

  • 02Feb
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      勾玉から考察③

       「勾玉から考察②」からの続きとなります。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 本考察もそろそろまとめモードに突入したいと思いますが、今一度今回の主役でもある天之日矛について、少しだけ掘り下げておきたいと思います。 相変わらずwiki多めよ笑(説明楽だからね…汗) 天之日矛の祖国である新羅国についてですが、その建国時期は現代においても未だ明確には分かっておりません。 朝鮮半島に現存する最古の歴史書『三国史記』「新羅本紀」(1143年執筆開始、1145年完成)の記述によると、新羅の建国は前漢孝宣帝の五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと紀元前57年になります。 新羅の前身となった斯蘆国初代国王が、 赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん、紀元前69年? - 後4年)は、斯蘆国の初代の王(在位:紀元前57年? - 4年)であり、姓を朴、名を赫居世とする。 ●出自 三国史記の朴氏の始祖説話に登場する瓠公は倭人であり、これが朴氏初代の朴赫居世ともいわれる。日本側の記録では、『新撰姓氏録』において新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとされている。 ●建国神話 『三国史記』新羅本紀によれば、辰韓の今の慶州一帯には古朝鮮の遺民が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)という6つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部と呼ぶ。 楊山の麓の蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で、馬が跪いて嘶いていることに気がついた高墟村の長の蘇伐都利(ソボルトリ)がその場所に行くと、馬が消えてあとには大きい卵があった。その卵を割ると中から男の子が出てきたので、村長たちはこれを育てた。10歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、出生が神がかりでもあったために6村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は13歳であり、前漢の五鳳元年(前57年)のことという。即位するとともに居西干と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)といった。王となって5年、閼英井の傍に現れた龍(娑蘇夫人)の左脇(『三国史記』では右脇)から幼女が生まれた。娑蘇夫人がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。閼英夫人は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した。 『三国遺事』によると、中国の王室の娘娑蘇夫人が、夫がいないのに妊娠したので海を渡り、中国から辰韓にたどり着き、赫居世居西干とその妃閼英夫人を生んだ。 ●名の由来 赫は朴と同音(パルク)で新羅語の光明の意、居世は吉支(キシ=王)と同音として、光明王(もしくは聖王)の意味とする説、「赫」は辰韓の語で瓠の意味とする説、「赫居」と日本語のヒコ(日子)やホコ(矛)との関係をみる説等がある。『三国遺事』の指定する訓によれば「世」の字は「内」と読み「赫居世」は世の中を照らす意味という。 ●姓氏の由来 『三国遺事』によれば、生まれ出た卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」を姓としたという。そのため、同時期に新羅の宰相を務め、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人と同定する、またはその同族とする説がある。また赫居世の名の頭音「赫居」または「赫」が同音であるためそのまま「朴」になったとも考えられている。(wikipedia 赫居世居西干より抜粋) コトバンクの説明では、 赫居世 朝鮮古代の新羅始祖王名。別名は赫居世居西干、赫居世王、閼智(あつち)。姓の朴氏は後世の付加。赫居世居西干は、光かがやく王の意味で、民間伝承に多く用いられる閼智は穀霊を意味する。赫居世は天から降臨するが、水神の王后閼英(あつえい)をえて、はじめて天候と土地との結合する農耕神話=建国神話が完成する。新羅六村の村長は王都周辺の名山に、赫居世は山麓の蘿井付近に降臨した。これは新羅王権の弱さを示す開国神話といえる。 赫:[音]カク(漢)[訓]かがやく 1赤々と燃えるように輝く。 2勢いが盛んなさま。(コトバンクより) 生い立ちについては、『三国遺事』(高麗の高僧一然(1206年-1289年)によって書かれた私撰の史書)巻五「感通第七」条に、 「其始到辰韓也。生聖子為東國始君。蓋赫居閼英二聖之所自也。故稱雞龍雞林白馬等。雞屬西故也。嘗使諸天仙織羅。緋染作朝衣。贈其夫。國人因此始知神驗。〈(娑蘇は)はじめ辰韓にきて、聖子を生み、東国の最初の王となった。たぶん、赫居世と閼英の二聖を生んだことであろう。それで鶏竜・鶏林・白馬(など)の称があるが、(これは)鶏が西がわ(西方)に属するからである。あるとき(娑蘇が)諸天の仙女たちに、羅うすものを織らせ、緋色に染めて朝服を作り、彼女の夫に贈った。国の人がこのことによってはじめてその神験を知った。〉」 …と記されてあり、この赫居世の妃となったのが、 閼英夫人(あつえいふじん)は、中国から辰韓にやって来た、中国の王室の娘娑蘇夫人の子である。新羅の初代王赫居世居西干の王妃となるが、赫居世居西干も同じく娑蘇夫人の子である。『三国遺事』によると、閼英夫人は井戸の傍に現れた龍の左脇(『三国史記』では右脇)より生まれたとあるが、一然によると、龍とは娑蘇夫人のことである。(wikipedia 閼英夫人より抜粋) 記録では夫婦共に娑蘇の子なんですね。 従って赫居世の「妻」の閼英は同時に同母の「妹」、それが共に龍の子の体裁となっております。まぁ片方は脇から生まれてますが、説話の内容にはどことな~く既視感がありますなぁ。(´・ω・`) wikipediaによりますと、この赫居世と同一人物と目されているのが、 瓠公(ここう、生没年不詳)は、新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。また金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。もとは倭人とされる。新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと『三国史記』は伝えている。 初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある。 また、脱解尼師今が新羅に着した時に瓠公の家を謀略で奪ったと言う。この瓠公の屋敷が後の月城(歴代新羅王の王城)となった。(wikipedia 瓠公より抜粋) 瓠を意味する「バク」を姓とした斯蘆国の初代の王赫居世と、他方は瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡って来たことからその名とした倭人の瓠公。 共に「新羅本紀」に記されてある伝承であることやその特徴的な来歴・謂れなどからも、同一人物を別視点から記していると考えられます(´・ω・`)てかふつーこんな特異な謂れがこの時代の新羅にだけ集中せんやろ。 また、同時に中国の王室の娘である龍(娑蘇夫人)の脇から生まれたと記されるのが、赫居世と閼英の同母きょうだい夫婦で、二人の間にできた長男が第2代国王の南解次次雄です。 この南解次次雄と雲帝夫人(もしくは阿婁夫人)の娘の阿孝と結ばれたのが、 脱解尼師今(だっかい にしきん、タルヘ イサコミ)は、新羅の第4代の王(在位:57年- 80年)で、姓は昔(ソク)、名は脱解(タルヘ)。吐解尼師今(とかい にしきん、토해 이사금、トヘ・イサコム)とも記される。第2代の南解次次雄の娘の阿孝(アヒョ)夫人の婿。新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。 ●出自 脱解が船で渡来した人物であることを示す挿話などと併せて、出生地を日本列島内に所在すると見る向きが多く、丹波国、但馬国、肥後国玉名郡、周防国佐波郡などに比定する説があり、上垣外憲一は、神話である以上、他系統の伝承が混ざっているだろうと述べた上で、脱解は丹波国で玉作りをしていた王で、交易ルートを経て新羅にたどり着いたというのが脱解神話の骨子であるとし、神話の詳細な虚実は措くとしても、昔氏は倭国と交易していた氏族だと推測できるとした。 新羅の王子であるアメノヒボコは子とされる。アメノヒボコは多婆那国の推定地とされる丹波国、但馬国に上陸しており、若狭湾にある新羅神社には、アメノヒボコが父の母国を探し日本に渡ったとされる伝承も残されている。 ●即位まで(誕生説話) 『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀は、誕生及び即位については以下のように記している。 倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。(wikipedia 脱解尼師今より抜粋) ここでも再び登場する倭人。 wikipediaによれば、天之日矛の父親に当たるとされる第4代新羅国王脱解尼師今は、『三国史記』によると、倭の東北一千里にある多婆那国生まれであるとされ、「其國王娶女國王女爲妻」「その国王が女国の王女を妻に娶って」できた子(卵)と記します。 ここまでの話を擦り合わせますと、脱解は斯蘆国の王となった倭人瓠公の系譜を受け継いだ直系の系統の娘を娶ったことになり、結果的に倭人同士の婚姻を意味することになります。 一応断っておきますが、あくまでもこれは日本人が意図して記録した歴史書の記録ではなく、高麗17代仁宗の命を受けた高麗の官僚の金富軾が編纂した『三国史記』の記述ですヨ。 ●新羅国王系譜 しかし脱解尼師今は子に恵まれなかったため、金閼智という養子を貰います。 金閼智(きん あっち、65年? -?)は、新羅の金氏王統の始祖とされる人物。第4代王脱解尼師今のときに神話的出生とともに見出された。7世孫に第13代王味鄒尼師今が出て新羅王として即位し、以後金氏の王統が占めることとなり、始祖として敬われた。 ●出生伝説 『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀に拠れば、脱解尼師今の9年(65年)3月、首都金城(慶州市)の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって倭人である瓠公に調べさせたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。その木の下で白い鶏が鳴いていた。小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育て、国号を鶏林(シラキ)と改めた。後世、この号を新羅と定める。 『三国遺事』金閼智脱解王代条に拠れば、永平3年庚申(60年)8月4日、倭人瓠公(瓢公)が夜に月城の西の里を歩いていたところ、始林の中に大きな光を見たという。紫色の雲が垂れこめており、雲の中から金色の小箱が降ってきて木の枝に引っかかった。箱から光が差しており、またその木の根元では白い鶏が鳴いていた。瓠公はこのことを脱解尼師今に報告したところ、尼師今は始林に出向かった。小箱を開くと中には小さな男の子がいて、立ち上がった。新羅始祖の赫居世の故事とよく似ていたので、小さな子を表す「閼智」を名前とした。尼師今はこの子を抱いて王宮へと帰ったが、鳥や獣がついてきて、喜び踊っていた。吉日を選んでこの子を太子に封じたが、後に婆娑(5代王婆娑尼師今)に譲って、王位にはつかなかった。(wikipedia 金閼智より抜粋) ●(金氏始祖)金閼智の系譜 『三国遺事』によれば、脱解尼師今の義理息子である閼智は、新羅の王位には就かなかったと記されています。 この「新羅本紀」等に書かれてある、倭人による王朝建国説話は、甚だ奇想天外な物語の内容となっており、当地に時折流れ着く箱や卵などから生まれたとする摩訶不思議な王の出生譚は常識的には信じ難いものです。 しかし、これらの文意の趣旨から、これを渡来して来た倭人のことであると考えると、脱解の子が天之日矛と仮定すれば、新羅国の後継を断ったとある養子の閼智(あっち)が当人となり、理屈に合う話として一致します。 記録に拠れば、斯蘆国の初代の王赫居世居西干(瓠公)の生年が紀元前69年頃とされ、また孫世代の脱解尼師今の在位年が西暦57年、そして倭人の瓠公が発見した金色の小箱の中に入っていた閼智の生年(箱パッカーン)が西暦65年、『三国遺事』では西暦60年となっています。 (´・ω・`)4世代の説話に絡む瓠公はめっちゃ長生きですな! これら『三国史記』や『三国遺事』等の趣旨についてですが、時系列順から鑑みますと、我が国の『記紀』(712年・720年完成)と類似点も多く見られることから、もしかすると伝奇のモデルとして自国(新羅)の歴史に組み込んだ可能性が考えられます。 少なくとも双方の書共、中国の新唐書(1060年成立)等を資料として利用していることが既に証明されているため、恐らくは様々な周辺諸国の歴史史料を搔き集めて自国版として完成させた可能性も指摘できるでしょう。 ただし、これらの伝承を仮に史実とみると、倭人の系譜が実は新羅を建国したということになってしまいますから、歴史的認識の相違から現在の韓国古代史研究において凡そ受け入れ難い内容となります。 では歴史書として信憑性の高い中国史から新羅国の建国時期に迫ってみますと、 ●『三国志』東夷伝 韓(辰韓) 「有巳柢國 不斯國 弁辰彌離彌凍國 弁辰接塗國 勤耆國 難彌離弥凍國 弁辰古資彌弥凍國 弁辰古淳是國 冉奚國 弁辰半路國 弁楽奴國 軍彌國 弁軍彌國 弁辰彌烏邪馬國 如湛國 弁辰甘路國 戸路國 州鮮國 馬延國 弁辰狗邪國 弁辰走漕馬國 弁辰安邪國 馬延國 弁辰瀆盧國 斯盧國 優由國 弁辰韓合二十四國 大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸 其十二國属辰王 辰王常用馬韓人作之世世相繼 辰王不得自立為王」 「巳柢国、不斯国、弁辰弥離弥凍国、弁辰接塗国、勤耆国、難弥離弥凍(国、弁辰古資弥凍国、弁辰古淳是国、冉奚国、弁辰半路国、弁楽奴国、軍弥国、弁軍弥国、弁辰弥烏邪馬国、如湛国、弁辰甘路国、戸路国、州鮮国、馬延国、弁辰狗邪国、弁辰走漕馬国、弁辰安邪国、馬延国、弁辰瀆盧国、斯盧国、優由国がある。弁辰と辰韓、あわせて二十四国。大国は四、五千家。小国は六、七百家。すべてで四、五万戸。その(辰韓の)十二国は辰王に属する。辰王は常に馬韓人を用いてこれを作り、代々、受け継いでいる。辰王は自立して王になることはできない。」 魏志が記すところによると、辰韓の中の小国に新羅の前身となる「斯盧国」が記されてあります。 魏志韓伝について書くと長くなってしまいますので今回は割愛致しますが、辰韓のお隣の馬韓との関係もあり、この頃の辰韓には王がいなかったようです。 「國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡」 「国には鉄が出て、韓、濊、倭がみな、従ってこれを取っている。諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。」 また、当地は鉄の一大産地であり、倭からも取りに来ていた旨も書かれています。 さて、『三国史記』「新羅本紀」に記される内容からは、新羅国の建国は前漢孝宣帝の五鳳元年、甲子の年であり、西暦に直すと紀元前57年に国家が成立し、503年に「新羅」を正式な国号としたとあります。 これらの建国神話については、史実性があるのは4世紀の第17代奈勿王(在位: 356年 - 402年)以後と考えられており、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされています。 一応、史実性が高いとされる奈勿尼師今の姓は金氏であり、従って金閼智の系統であることなります。(´・ω・`)ノ wikipedia新羅 -起源と神話- によると、 『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年としたのは次の論理によると見られる。  まず、『漢書』等の記録によれば紀元前108年に、漢の武帝が朝鮮半島に漢四郡を設置し、昭帝が紀元前82年に朝鮮半島南部の真番郡を廃止した。その後最初におとずれる甲子の年(六十干支の最初の年)が紀元前57年となる。それ以前に設定した場合、朝鮮半島の大部分に前漢の郡が設置されていたという記録と衝突してしまうため、これより遡って建国年を設定できなかった。つまり、金富軾は可能な限り古い時代に新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年がテクニカルな限界であった。 これらは、末松保和らの研究によって後世に造作されたものであることが明らかにされているようですが、 「新羅本紀」の記載は伝説的色彩が強いが、韓国の学界においては20世紀半ば頃にはこれを史実とする見解が出され、有効な学説の一つとなっている。20世紀後半以降、この新羅の伝承は紀年の修正はされているものの事実が反映されたものであるとし、建国年を3世紀前半まで引き下げる説などが提出されている。しかし、これらは具体的な論拠を欠き説得力に乏しいと評される。(wikipedia 新羅より抜粋) 「好太王碑文」には、 「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民」 「そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■・新羅を破り、臣民となしてしまった。」 …とあり、少なくとも391年には「新羅」と呼ばれていたことが分かっています。 また、近年の2011年に発見された『梁職貢図』(526年~539年頃作成)には、 「斯羅國、本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅、宋時曰斯羅、其實一也。或屬韓或屬倭、國王不能自通使聘。普通二年、其王名募秦、始使隨百濟奉表献方物。其國有城、號曰健年。其俗與高麗相類。無文字、刻木為範、言語待百濟而後通焉。」 「斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。」 …とも記されてあり、魏志韓伝の内容からも、魏使が訪れた当時はまだ新羅の前身である「斯盧」であったが、後に「新羅」と呼ばれるようになる丁度過渡期であったと推測ができます。 因みに魏が成立したのは220年、後に晋に禅譲されたのが265年、新羅の文字の初見が碑文の記す391年、時を隔てて正式に国号としたのが503年となります。 『古事記』にある「又昔、有新羅國主之子、名謂天之日矛、是人參渡來也。」や、『日本書紀』の「素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處」も丁度この頃(220年以降~265年)に新羅に国名が変った魏の時代の辺りの話であるとも考えられるでしょう。 また金富軾が盛った時代を調整した場合、脱解尼師今が阿孝を娶った年、「至南解王五年、聞其賢以其女妻之」(西暦8年)を干支換算すると戊辰の年となり、これを上の新羅成立想定期内に比定しますと、西暦248年となります。 魏志倭人伝によると、この年は丁度倭王卑弥呼が亡くなった年になります。 さて、話を我国に戻しますと、 応神記では、天之日矛は新羅国の王子とあり、また垂仁紀では天日槍は日本に聖皇がいると聞いて、国を弟の知古(チコ)に譲って神宝を天皇に献上して帰化申請する説話があります。 この時の天之日矛が持ち込んだとされる神宝リストを見てみますと、 『古事記』と『日本書紀』ではやや伝承の誤差があるものの、(熊神籬はまぁいいとして)珠二つ(羽太(葉細)玉・足高玉)、各種比礼、各種剣(小刀や大刀、桙や槍)、後漢鏡(奥津鏡と邊津鏡)それと、鵜鹿鹿赤石玉です。  まず名にある「鹿鹿」についてですが、『古事記』ではイザナギとイザナミの子カグツチの別名を火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ=火の明るく輝く神)ともいい、また天津甕星の別名の天香香背男の神名にもあるように、「カガ」は「輝く」の意味です。 炫(xuàn) 訓読み:ひかる(weblio漢字辞典より) (光線・色彩が)目にまばゆい、まぶしい。(weblio中国語辞典より) つまり鵜鹿鹿赤石玉は、「眩く光り輝く赤い石」という意味です。 魏志倭人伝によりますと、魏は景初二年(238年12月)に、 「今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬」 「今、汝を以って親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付し、仮授する。」 「汝來使難升米 牛利 渉遠道路勤勞 今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還 今以絳地交龍錦五匹 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 答汝所獻貢直 又特賜汝紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠鈆丹各五十斤 皆装封付難升米牛利」 「汝の来使、難升米、牛利は遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以って率善中老将と為し、牛利は率善校尉と為す。銀印青綬を仮し、引見して、労い、賜いて、還し遣わす。今、絳地交龍錦五匹、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹を以って、汝の献ずる所の貢の直に答う。又、特に汝に紺地句文錦三匹、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜い、皆、装封して難升米、牛利に付す。」 卑弥呼に対し、倭王であることを示す金印を、また、魏まで遠路はるばる使いとしてやって来た難升米と牛利の二人の苦労を労いそれぞれに銀印を拝受しています。 天之日矛の献上品には他にもそれらに該当すると思しき品々も含まれておりますね。 「正始元年 太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭国 拝仮倭王 并齎詔 賜金帛錦罽刀鏡采物 倭王因使上表 答謝詔恩」 「正始元年(240年)、(帯方郡)太守、弓遵は建中校尉梯儁等を派遣し、梯儁等は詔書、印綬(=親魏倭王という地位の認証状と印綬)を捧げ持って倭国へ行き、これを倭王に授けた。並びに、詔(=制詔)をもたらし、金、帛、錦、罽、刀、鏡、采物を下賜した。倭王は使に因って上表し、その有り難い詔に感謝の意を表して答えた。」 これらの物は240年に、帯方郡太守の弓遵が建中校尉の梯儁等を派遣して、倭国へ行き倭王に授けたとされます。 『古事記』によると、天之日矛の神宝の中に奥津鏡と邊津鏡があり、 これは共に後漢代の鏡ですから、中国製の代物ですが、これらを所蔵しているのが、ニギハヤヒ(天火明命)を始祖とする、丹後国一宮 籠神社(別名匏宮:よさのみや)の社家である海部氏です。 匏:意味 ひさご。ふくべ。ひょうたん。「匏瓜(ホウカ)」(漢字ペディアより) 多婆那国(丹波国)のひょうたんですゾ(´・ω・`) さて、「勾玉から考察①」での考察から、天之瓊矛は『古事記』では天沼矛と書きますが、これと同様に、新羅国の阿具沼も「瓊」の言い換えとなる「日(ひ)」に置き換えたとすればどうなるでしょうか ●淡路島を境に対称となる吉野川と淀川(宇治川) 比売語曽社の伝承地である産湯稲荷神社(大阪府大阪市天王寺区)と淡路島を挟んで対になるのは阿波国。  答えは、阿具日(あくひ)(読みとしては「ヰ(ゐ)」かな。) 鮎喰です。 仮に、天之日矛が渡来した説話をwikipeia天之日矛説話の文章にて置き換えてみますと、 「阿具沼(鮎喰)のそのほとりで卑しい女(※➊卑弥呼=天照大御神)が1人昼寝をしていた※❷。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男(スサノオ)は、その赤玉(金印)をもらい受ける。」 ※補足➊ 卑弥呼には実子はいませんので、つまり宇気比御子(養子)のこと。 ※補足❷ ホツマツタヱより 蛭子 (昼子):イザナキ夫婦の第一子。ヒルコは斎名と思われる。 別名:ワカ姫、ワカヒルメ、シタテル姫、タカテル姫、歳徳神、年の恵みの大御守、御歳神、ニフの守。昼に生まれたのでヒルコ。 「しかし、男(スサノオ)が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛(スサノオの義理息子)に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男(スサノオ)は許しを乞うて赤玉(金印)を献上した。天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。」 これがスサノオの娘である金印(王位)を引き継いだ二代目アマテラスとなった、 鵜鹿鹿赤石玉=宇迦之御魂=豊宇気毘売=臺與 …のことではないでしょうか 金印は魏帝より賜った倭王の証。 先代の卑弥呼の死によって紆余曲折あって十三歳の臺與が我が国の王として後継者となりました。 つまり倭王の象徴たる金印を受け継いだのが次代の女王となった臺與です。 言い換えると、「倭の女王」を象ったもの=「金印(赤玉)璽」なのです。 『日本書紀』によると、崇神天皇時、額に角の生えた意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子の都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという伝承があり、都怒我阿羅斯等が黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国の国前郡の比売語曽社の神になったとの説話があることから、都怒我阿羅斯等と天之日矛を同一視しています。 また、都怒我阿羅斯等に下賜した「赤絹」を新羅が奪ったことがきっかけで新羅と任那の争いが始まったとあります。 恐らく卑弥呼が亡くなる以前の臺與は、父スサノオと子の五十猛命が往来していた伽耶・斯蘆を含む当時の任那エリアに住んでいたと推測されます。(一応あくまで現時点の私説解釈デスヨ) ※4~5世紀半ばの朝鮮半島 左は韓国の教科書で見られる範囲、右は日本の教科書で見られる範囲。半島西南部の解釈には諸説がある。 都怒我阿羅斯等の国である大加耶の歴史考についてはまた後日に別稿で書いてみたいと思います<(_ _)> 卑弥呼の宗女であった臺與(辛國息長大姫大自命:からくにおきながおおひめおおじのみこと、神功皇后の御妹の豊比咩命)は、亡くなった先代の卑弥呼(アマテラス)の後継と成るべく、卑弥呼の弟(スサノオ)に連れられて急遽倭の阿波国へと舞い降りたと考えられます。  ほとは古い日本語で女性器の外陰部を意味する単語。御陰、陰所、女陰の字を宛てることが多い。 現在ではほぼ死語になっているが、転じて女性器の外陰部のような形状、形質(湿地帯など)、陰になる場所の地形をさすための地名として残っている。(wikipedia ほとより抜粋) 往古鮎喰川河口域は広大な湿地帯でした。 ●Flood Maps(Sea level rise +4m) 気延山と眉山(旧以乃山:いのやま=可愛山:えのやま)を真っ二つに割く鮎喰川(肥河/簸の川)流れる女陰を指す地。 安寧天皇陵である、畝傍西南御陰井上陵(うねびやまひつじさる「みほと」のいのうえのみささぎ)や黒田庵戸宮(くろだ「いおと=以火陰(地形古代文字※道は阿波より始まるより)」のみや)の地名が残るのも 当地は矢野遺跡として縄文時代から特に弥生時代にかけて徳島県内の中心的な役割を果たした一大集落地です。 矢野古墳群は、弥生時代末期から古墳時代終末期における古墳群であり、天石門別八倉比賣神社周辺だけでも数百基以上の古墳が未調査のままとなっております。 また、豊玉比賣関係の式内社が密集するのも全てココ鮎喰川流域 中でも天石門別八倉比賣神社に関しましては、地形までもが伊勢と酷似。 それもそのはず、伊勢神宮外宮にてお祀りされているのが阿波国国神である大宜都比賣と同神の豊受大御神。 伊勢神道の根本経典として伝わる神道五部書『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)には、ぐーたら気延日記(重箱の隅)豊受皇太神御鎮座本記より 「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」ときっちり記されてあるのです。 これを本稿版で記するならば、「天村雲命(玉祖命=天之日矛)が伊勢大神(天照大神=この場合外宮ですから豊受大御神)の上祖(みおや)也。」なのです。 では肝心の親魏倭王の金印(赤玉)は一体どこにあるのでしょうか 纏めきれずに結局次稿に持ち越す情けないスタイル(´・ω・`)…

  • 28Jan
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      孔青大句珠から考察

       ここらでチョット一休み~_(^∇^*) …てなわけで、勾玉についてのまとめの稿を書く前に、倭の2代目女王の臺與から魏への進貢品にある「孔青大句珠二枚」とは一体何ぞや…ということで少々考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 「魏志倭人伝」には、「孔青大句珠」「穴が空いた青い大きな曲った玉」なるものが記録されており、一般的にこれはヒスイ製勾玉ではないかと考えられています。 ●我が国のヒスイ製の分布図「邪馬台国の会 第241回 謎の四世紀 成務天皇の時代 勾玉の起源より」 日本でのヒスイの産地は新潟県糸魚川周辺であり、我が国では縄文時代から翡翠の勾玉が出土しますが、 韓国では5世紀頃の遺跡からヒスイの勾玉(硬玉)が出土するのが最初のようです。 翡翠を硬玉に限定すると、東アジアではミャンマーと日本の糸魚川近辺に限られ、朝鮮半島にはありません。 韓国のヒスイ製の出土品で有名なのが、新羅時代の5世紀末頃に造営された、古墳名の由来ともなった「金冠塚」の冠です。 また、同慶州市にある「天馬塚」(5~6世紀頃)からも金製冠が出土しています。 これらの墳墓は共に積石木槨墳で、勾玉の出土は特に新羅・伽耶地域に集中しているのも特筆できそうです。 つまり朝鮮半島の勾玉は、日本に近い朝鮮半島南部のみの出土に留まることから、これらの勾玉は日本から持ち込まれたと考えられています。 恐らく倭は、勾玉を朝鮮半島に輸出しその見返りに、鉄などを輸入していたのではないのかとも考えられておりますね。 さて、中国では翡翠のことを玉(ゆう)といい、古代より様々な玉器に製作され、たいへん珍重されてきましたが、実は中国で採れる翡翠は軟玉(ネフライト)のみです。 また、硬玉(ジェダイト)が広まるのは18世紀の清の時代からで、ミャンマーから運ばれて初めて使われるようになったようですが、中国語の硬玉を翻訳しますとジェダイトとなります。 ●翡翠の原石(硬玉) ●新潟県糸魚川市で採取された軟玉 ●上質なジェイド ●翡翠のカラー ●現代の糸魚川産のヒスイ製勾玉 ●翡翠色の配色パターン(原色大辞典) 皆さんこれ、普通は何色に見えます(´・ω・`) 中国では、翡翠绿=エメラルドグリーンのことで、翡翠の「翠」は即ちエメラルド 従って翠玉であり、これは「緑色」を意味します。  また「魏志倭人伝」に書かれている「青玉」は、現在の中国語ではサファイアのこととなりますので、当然のことながら日本で産する場所はありません。(つまりサファイアのことではないということ) 他にも、緑色をベースに青色を混ぜた色の「碧」がありますが、 ●色彩としての「碧」 碧玉(へきぎょく)は、jasper、ジャスパーのことであり、日本では、新潟県佐渡地方の「赤玉」、島根県松江市玉造の「玉造石」、青森県津軽地方の「錦石」が碧玉に該当するとありますが、佐渡産のモノはその名の通り赤い色が特徴。 ●新潟県佐渡地方の「赤玉」 ●青森県津軽地方の「錦石」 これらは赤い色なので除外(´・ω・`)  そして、緑色の色彩がたいへん美しく、古墳時代に多く生産された勾玉の原石となった出雲石こと ●島根県松江市玉造の「玉造石」 ですが、中国語でもこれはそのまま「碧玉」と記されます。 中国唐代の有名な詩人 賀知章の詩に、 「碧玉妆成一树高 万条垂下绿丝绦不知细叶谁裁出 二月春风似剪刀」 「碧玉のような緑色は柳を飾っている 千万の枝が垂れてある その細長い葉っぱはだれが切り出したの? 二月の春の風ははさみのようだ。」 この詩では新緑が出てきた柳を柔らかい女性に比喩した内容です。 つまり中国では、「緑」「碧」「翠」は分類として「緑」となります。 日本では「碧」と書いて、「あお」と読んだり、「みどり」と読んだりもしますけどね。 「勾玉から考察①」で先述しました日本人の色の認識の話とも関連しますが、青信号の実際の色は緑色でも「青」として通じてしまいます。 確かに「靑(青)」字は、中国でも草木の色である青色を意味し、草色であるため緑色も包含されていますが、「魏志倭人伝」に記される「青玉」「青大句珠」等にある「青」と書かれた箇所を抜粋して、原文と和訳を見てみますと、 「出真珠青玉」「真珠や青玉を産出する」 「假銀印靑綬」「銀印青綬を仮し(与え)」 「紺青五十匹」「紺青色の織物五十匹」 「絳青縑」「深紅色と青色の薄絹」 「孔青大句珠二枚」「穴が空いた青い大きな曲った玉2個。」 これら全て「青色(ブルー)」の意味で扱われていませんかね(´・ω・`) そもそも中国では青信号を「绿灯」と言うため、中国人的感性では実際に見えるカラーの認識そのまんまなんですよね。 では中国人の認識する「青」とはなんでしょうか 答えは、蓝色。 「青色」は、中国語では「蓝色」(「蓝」は「藍」の簡体字)と言いい、日本語では、藍色(あいいろ)はくすんだ青色を指しますが、中国語では blue の意味で使います。 ●藍色 これに該当する候補の一つは、 そうです、阿波の青石からの... ●阿波の青石埋蔵分布図 藍銅鉱(らんどうこう:アズライト)は、淡い真鍮色の鉱物で金属光沢をした鉱物のうち、最も普通に見られる鉱物で、「阿波の青石」緑色片岩や四万十帯の黒色泥岩のなかに肉眼的な結晶が入っている。(徳島県立博物館 / ミネラルズ:鉱物のものさまざまな性質) ●アズライト その希少性から、壹與からの贈り物は、アズライト製の勾玉であった可能性があります。 まんま阿波の青石製だったのかも知れませんけどね。希少性は薄いですが。 ●アズライト製勾玉(※これは現代のアクセサリー品ね)  それともう一つの候補として、 徳島県東みよし町稲持遺跡(縄文時代晩期~弥生時代の集落)の玉作工房跡から見つかったのが、蛇紋岩製勾玉。 ●蛇紋岩(サーペンティン)は変成岩の一種 かんらん岩に含まれるかんらん石や輝石が、水の作用で蛇紋石や緑泥石に変えられた岩石。徳島県内では吉野川の南岸地域で産出する。旧石器時代~弥生時代にかけて勾玉や管玉などの玉類の石材として利用された。(レキシルとくしま蛇紋岩より) ●吉野川の蛇紋岩の原石 つまり阿波青石とほぼ同じエリアで採れるようですな(´・ω・`) 磨くとよくわかりますが、蛇の皮膚のような模様が出るのが名前の由来です。 しかしこれだとやはり緑系寄りの色彩。 ●蛇紋岩製の勾玉 お世辞にも「青」とは言い難いのですが、蛇紋岩が貫入した辺りから出るといわれているのが… ●若桜(わかさ)翡翠 ラベンダー翡翠で、白や青もあるが、緑色はなく、れっきとしたジェダイトであり、別名若桜の青翡翠とも呼ばれています。 鳥取県若桜町ほか岡山県新見市の大佐山、兵庫県養父市(旧 大屋町の加保坂)、北海道の旭川市の神居古潭地区と幌加内町、群馬県下仁田町茂垣、埼玉県の寄居町、静岡県静岡市中河内川と浜松市(旧 引佐町)、高知県高知市円行寺地区、徳島県勝浦川と眉山、愛媛県野村町、長崎県長崎市三重町と琴海(きんかい)町、熊本県八代市泉町、などで確認されている。(各地の翡翠より抜粋) ●青翡翠製の勾玉(※これも現代のアクセサリー品) 蛇紋岩体あるいは蛇紋岩メランジェ中の構造ブロックとしてのヒスイ輝石岩が報告されている。その中でも、鳥取県若桜町角谷産のヒスイ輝石岩は、鉱物学的研究が比較的少ないように思われる。(日本鉱物学会年会講演要旨集より抜粋) とまぁ書かれてあるように、調査研究数自体が少ないので一般的にはよく知られていない鉱物ではないでしょうか。 ちゅーことで、これなら立派な「藍色(青)」ですなっ(^ω^) 何だかオッサンワクワクして石探ししたくなって来ちゃった(*´∀`*)テヘッ …というわけで、二つの候補を挙げさせて頂きましたが、如何だったでしょうか  可能性的には無きにしも非ずといったところかも知れませんが笑 希少性なども加味すれば、魏帝への贈り物としては中々に相応しいモノではないかと考えております。 また、「魏志倭人伝」では、同文章中の「出真珠青玉 其山有丹」「真珠、青玉を出す。その山には丹有り。」と書かれてあるように、弥生時代後期において、山から丹(辰砂)の採れた坑道跡があるのは現時点で徳島県阿南市の若杉山遺跡しか見つかっていません。(毎日新聞 徳島・阿南の若杉山遺跡最古の坑道跡か 弥生後期、500年さかのぼる) ●若杉山遺跡の丹と精製の痕跡 「出真珠青玉」はその地(邪馬臺国)で産出するということを記しているのであって、「其」がかかっての「山有丹」なのですから、丹が採れる山も同じ場所であることを示しています。 ●青翡翠を産するとされる眉山~勝浦川と弥生時代に丹の採れた若杉山遺跡の範囲 ここは徳島県でいうところの旧長國の範囲となりますなぁ( ´∀`) ここを通説となる、「日本=倭國全域範囲」のこととして記している等と解釈するのであれば、そもそも倭人伝は日本のことを記しているのであってイチイチこの箇所で「其」なんて書かなくてもいいはずですね。(´・ω・`)ノ でわでわ

  • 23Jan
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      勾玉から考察②

       「勾玉から考察①」からの続きとなります。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まずは天之日矛とその妻の阿加流比売ですが、wikipediaによれば、 アメノヒボコは、記紀等に伝わる新羅の王子。父は新羅第4代国王脱解王(脱解尼師今)とされる。 『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。 『日本神話』・『古事記』等では帰化人、『播磨国風土記』では神と位置づけて記述される。アメノヒボコ曰く、父の国を探しに日本に訪れたとされる。なお、父親に当たる脱解尼師今は、『三国史記』によれば多婆那国の王妃の子とされ新羅へ渡来し新羅王となった。多婆那国は但馬・丹波地方とする説が有力であり、アメノヒボコも同地域に上陸している。 ●記録 『古事記』応神天皇記では、その昔に新羅王子という天之日矛が渡来したとし、その渡来の理由を次のように記す。 新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。 天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。しかしある時に天之日矛が奢って女を罵ると、女は祖国に帰ると言って天之日矛のもとを去り、小船に乗って難波へ向いそこに留まった。これが難波の比売碁曾の社の阿加流比売神であるという。 天之日矛は妻が逃げたことを知り、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神が遮ったため入ることができなかった。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾の娘の前津見を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖を儲けた。そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后:第14代仲哀天皇皇后)に至る系譜を伝える。(wikipedia アメノヒボコより抜粋) 阿加流比売神(あかるひめのかみ)は、日本神話に登場する女神。 ●概要 『古事記』では新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となっている。  『日本書紀』では名前の記述がないが、意富加羅国王の子である都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が追いかける童女のエピソードと同一である。『記紀』で国や夫や女の名は異なっているが、両者の説話の内容は大変似通っている。 神名の「阿加流」は「明る」で「比売」への美称と解し、名義は「色美しくつやのある女性」と考えられる。また日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とする説もある。 ●赤瑪瑙丸玉 ふむふむ太陽のイメージね(´・ω・`) ●神話の記述 『古事記』では応神天皇記に記述がある。 昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。 天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。 ●『摂津国風土記』逸文 『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。 応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。 ●解説 『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が東アジアに多く伝わっている。例えば扶余族の高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、倭より渡った新羅王族昔氏の伝承、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうである。 『古事記』に記述された「難波の比売碁曾社」に相当する神社として大阪市東成区東小橋の比売許曽神社があるが、現在、この神社の主祭神は大国主の娘の下照比売命とされている。 「豊国の比売語曾社」は、大分県姫島の比売碁曾社である。『豊前国風土記』逸文にも、新羅国の神が来て河原に住んだので鹿春神というとある。他に同名の姫社(ひめこそ)神社は岡山県総社市福谷にあり、阿加流比売(神社伝承による)が祀られている。 ●系譜 太陽神と新羅の賤女の子で、新羅王子の天之日矛の妻となる。なお比売許曽命は天津彦根命の娘と伝える系図があり、太陽神の子とする伝承と一致する。(wikipedia 阿加流比売神より抜粋) まず、この「阿具沼」について少し触れておきますが、國學院大學古事記学センターの解釈では、 「名義について、「アグ」は小児を意味する朝鮮語の「アギ」に由来すると捉え、「御子沼」の意味であると解釈する説がある。「アグ」を天の香久山の「カグ」のように「輝く」という意味をもつ語ではないかと推測する説もある。また、「奴摩」を「沼」としたのは日本語音による誤解であり、新羅の官名「奈麻」の訛伝であると解釈し、本来は「阿具奈麻」という人名であったのではないかとする説もある。 伝承地は未詳とされ、「阿具奴摩」と一字一音で表記したのは異国らしさを示すためで、現実に新羅国に存在した特定の沼に当てはめるべきではないとする指摘があり、神話上・伝承上の存在であると解釈されることが多い。」(國學院大學阿具奴摩より) …との考察があり、新羅国に阿具奴摩(阿具沼)という沼が実際に存在したのかは未詳であるため、観念性が問われています。 また、同説話上に登場する「赤玉」についてですが、 応神記、天之日矛の説話中によれば、この阿具沼の辺に居た女性の陰部に虹の光が差し込んだことにより孕んだ玉であり、この玉の正体が、後に天之日矛の妻となった阿加流比売であると記します。 後段では夫婦喧嘩がきっかけで天之日矛のもとを去り、それを天之日矛が追いかける内容として描かれております。 さて、『古事記』によりますと、イザナギによって海を治めよと命じられたスサノオは、命令に従わず母の居る根の国へ行きたいと懇願したため、父イザナギの怒りを買い、未詳の場所から追放されます。 その際、姉のアマテラスに挨拶するために高天原へと向かいましたが、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えていたため、スサノオは自身の疑いを晴らすために宇気比(誓約)をすることになりました。 アマテラスがスサノオの持っている十拳剣を受け取って噛み砕き、宗像三女神が生まれ、一方のスサノオは、「乞度天照大御神所纒左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而」アマテラスの持っている「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、五柱の男神が生まれました。 スサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」といい、スサノオの勝利。 従ってスサノオとアマテラスは、宇気比でそれぞれが持つ神器を交換し、娘を得たスサノオを勝利者として描いています。 つまりここでスサノオが、八尺の勾玉=赤玉の娘を得たということです。 「粟国造粟飯原氏系図」によると、 月夜見命=健速須佐之男命=勝速日命(天之忍穂耳命)とあり、「宇気比」によって剣と玉を交換したことにより、自身の分身が次世代へとスライド。 剣から化生した神であるアマツヒコネはwikipediaによると、 『日本書紀』では、アマテラスの玉から生まれたので、アマテラスの子になるとする。子に天目一箇神と比売許曽命がいる。 …と書かれてあり、 ●「下照比売と赤留比売」鈴木真年『百家系図』より 『諸系図』の御上祝の系図からは、天津彦根命(波多都美命=私説においては=玉祖命)の子として、天目一箇命と共に、天日矛命の妃神として比売許曽命(息長大姫刀自命)の名が見えます。 一方、天之日矛の説話では、小舟で難波へと逃げてしまった妻を追いかけたものの、途中で嵐に遭遇しやむを得ず引き返したとある但馬国に留まり、そこで多遅摩之俣尾の娘の前津見を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖を儲け、その多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后)に至る系譜を伝えます。 同説話の内容からは、妻の比売許曽命(=阿加流比売)とは離別したままであるかのような記述となっています。 …しかしながら、天之日矛の血を引く末裔の神功皇后(=息長帯比売命)も、天津彦根命(波多都美命)の子である比売許曽命(阿加流比売)(=息長大姫刀自命)も、共に製鉄や海人と密接な関係が指摘される「息長氏」であったことがお分かり頂けるかと思います。 更に付け加えるとすれば、天皇系譜の父系すらも息長氏ですな。 次に、波多都美命とは別のもう一つの”ワダツミ”となる、海神綿津見神の娘の豊玉姫について調べてみますと、 豊玉姫神社(とよたまひめじんじゃ)は祭神を豊玉姫としその名を冠した神社。トヨタマヒメは安産の神として全国の各所に鎮座している。 鹿児島県南九州市知覧町:豊玉姫神社 (南九州市):水車からくりで有名 鹿児島県指宿市:豊玉姫神社 (指宿市):1980年ごろ白い蛇が目撃された。 佐賀県嬉野市:豊玉姫神社 (嬉野市):祭神は豊玉姫大神・住吉大神・春日大神。 香川県豊島:豊玉姫神社 香川県男木島:豊玉姫神社 徳島県徳島市:天石門別豊玉比賣神社 (延喜式内社)(春日神社 (徳島市)境内) 徳島県徳島市不動西町:和多都美豊玉比賣神社(雨降神社)(延喜式内社) 千葉県香取市:豊玉姫神社(wikipedia 豊玉姫神社より) …とあるように、式内社としての豊玉比賣神社は「阿波国」のみであり、ぐーたら気延日記(重箱の隅)「二つの豊玉比賣神社(下)」によりますと、この天石門別豊玉比賣神社の考察において、出口延経「神名帳考証」の説明では、 この神は、「玉作部遠祖豊玉者造玉」と記されてあり、また、鈴鹿連胤「神社覈録(じんじゃかくろく)」の説明では、 ぐーたら気延日記(重箱の隅)「二つの豊玉比賣神社(下)」より画像拝借<(_ _)> 「比保古云、天明玉命也、櫛明玉天明玉豊玉比賣神者、同神異名而作レ玉神也」云々…「一書に、玉作部遠祖豊玉者造レ玉」云々 …と記されてあり、恐らく社名自体が「豊玉比賣」とあることから、「祭神明か也」としながらも、「比保古(天日矛)云う。天明玉命なり。」云々…の異名同神との説を唱えておられており、若干の混同が見られるようです。 しかしながら、天之日矛の説話の内容や、「神名帳考証」を見て頂くとお分かり頂けるかと思いますが、あくまでもこの社の御祭神は、豊玉者(櫛明玉命=玉祖命)の方ではなく、豊玉者の作った「玉」の方をお祀りしているのです。 つまり、「忌部氏系図」にある、天日鷲翔矢命の弟神である櫛明玉命=玉祖命は、赤玉=阿加流比売の「親」であるから、玉祖命(たまのおや)の神名でもあるんですね。 従って、阿加流比売は、天日矛命=波多都美命=海神豊玉彦命(綿津見大神)の娘である豊玉毘売のこと。 香春神社(かわらじんじゃ)は福岡県田川郡香春町にある神社。式内小社、旧社格は県社。 ●概要 延喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座だが、その半分にあたる三座が香春神社にある。 ◆祭神 辛国息長大姫大目命 忍骨命 豊比売命 日本三代実録は、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している。なお比売許曽神社の祭神阿加流比売神の別名が息長大姫刀自命とされる。   社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。 第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」と書かれている。(wikipedia 香春神社より抜粋) 唐土:たう-ど もろ-こし:【名詞】 「中国」の古名。中国南方の越(えつ)の諸国の意の「諸越(しよえつ)」の訓読からともいう。「唐土(たうど)」とも。(学研全訳古語辞典) 「香春神社神幸祭」によれば、辛国息長大姫大目命(大自命)と記されており、「香春神社」も、「香春(かわら)神社は、香春岳の一、二、三ノ岳に祀られていた辛國息長大姫大自命(からくにおきながおおひめおおじのみこと)」云々とあり、福岡県ではおおよそ「おおじ」の方が多いですな。 因みに息長大姫刀自命の「刀自」は、 刀自:とじ:《「戸主 (とぬし) 」の意で、「刀自」は当て字》年輩の女性を敬愛の気持ちを込めて呼ぶ称。名前の下に付けて敬称としても用いる。(goo辞書 刀自(とじ)の意味) ●葬儀などで使われる神道の謚 ・ 3歳迄 → [男性]嬰児(みどりご)     [女性]嬰児(みどりご) ・ 6歳迄 → [男性]稚児(ちご、わかいらつこ)[女性]稚児(ちご、わかいらつめ) ・15歳迄 → [男性]童男(わらべ)      [女性]童女(わらめ) ・19歳迄 → [男性]彦、郎子彦(ひこ)    [女性]姫(ひめ) ・40歳迄 → [男性]郎男(いらつお)     [女性]郎女(いらつめ) ・70歳迄 → [男性]大人(うし)       [女性]刀自(とじ) ・70歳超 → [男性]翁(おきな)       [女性]媼(おうな) …で、おおよそ想定される年齢的イメージが浮かんできます(´・ω・`) 社前には「息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比」とあり、神代がいつの頃を指すのか分かりませんが、中国の経営のためにこの姫が海を渡り、崇神朝に帰座したとありますね。 ではお次に、豊比売命を調べてみますと、 豊比咩神社(とよひめじんじゃ:福岡県久留米市御井町御井)式内社(名神大)。旧県社。現在は摂社として本殿に合祀。祭神:豊比咩大神(豊玉姫命)。 延喜式に「三井郡豊比咩神社 名神大」とあるは当社の事也、其創建は、民部省図帳残篇に「筑後國豊比咩明神、神貢68束、淳和天皇天長4年伊勢邦より御遷宮」とあり(此に従ふ時は豊比咩神は豊受姫神なるべけれど、神功皇后の御妹に豊比咩命あり、社名にも合すれば、或は誤伝にてもあるべきか、又豊玉姫命を祭神とせし事も、別に拠所も見ず、社名に従ひて豊比咩神を祭神とせんこと或いは正しからむ)仁明天皇嘉祥3年12月從五位下を授けられ(天慶7年の解文)文徳天皇天安元年10月、封戸並に位田を允てられ、翌2年5月殊に封十七戸を授けられ、從五位上に進み、清和天皇貞観元年7月官社に列し、同6年從四位上となり、同11年3月正四位下となり、寛平9年正四位上に陞叙し給へるなど、朝廷の崇敬り特に厚かりし名社なるが、其実蹟詳ならす、或は御井郡上津荒木村に乙姫社といふ小祠あり、是なりともいひ、又同郡塚島村に大石にて築ける大塚ありて、里民昔より豊姫ノ宮といふ是かともいひ、又同郡大城村の蛭尾に大石二ッあり、里人是をも豊比咩神といふも、(筑後志に拠る)何れも確証あるにあらす。 抑も當社の鎮座地はもと高良山中なりし事は、天安2年玉垂命神社及比咩神等の正殿火災ありて、位記皆焼損すと古文書に見え、又現存する神位記も一紙に記されたるにても知られ、長保5年の十講念縁起文に、両宮権現九王子とある両宮は、即ち玉垂命と当社とを指し、足利家の判物に当社姫神とあるもおなじ御事にて、其頃までは疑はしき事もなかりしものと見えたりとの説ありて、今此社の社傅に元禄年中古社の湮滅を嘆き小殿を営みたりしを、明治2年此処に遷座せりといへば、素より旧跡地にはあらねど、地高良山の中腹に位するなど、其古へに近き心地せられて尊し、明治6年3月縣社に列す。 社殿は本殿、拝殿、神門、廻廊を備へ、境内2098坪(官有地第一種)久留米市街を俯瞰し、風致良好なり。(明治神社誌料) 社伝が誤伝かとの考察もなされているようですが、お次も同県に御鎮座される、 高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある神社。式内社(名神大社)、筑後国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 古くは高良玉垂命神社(こうらたまたれのみことじんじゃ)、高良玉垂宮(こうらたまたれのみや)などとも呼ばれた。 ◆祭神 正殿:高良玉垂命(こうらたまたれのみこと) - 神紋は「横木瓜」、神使は「烏」 左殿:八幡大神(はちまんおおかみ) - 神紋は「右三巴」、神使は「鳩」 右殿:住吉大神(すみよしおおかみ) - 神紋は「五七桐」、神使は「鶴」 この他、本殿内には御客座があり、豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されている。高良玉垂命とは夫婦との説もある。 ●歴史 高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。(wikipedia高良大社より抜粋) ふむふむ、なかなかに面白い伝承ですなぁ(*´ω`) また、『古事記』:海幸彦と山幸彦 の豊玉毘賣の歌を見てみますと、 (原文)(読み下し文)(現代語訳) 「阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理」 「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり」 「赤くかがやく玉は、紐まで赤く光るくらいきれいですが、白玉のようなあなた様のお姿こそ、より気高く貴いものです」 …と、自身を「赤玉」になぞって歌を詠んでおり、山幸彦の返しの歌では、 「意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇」 「沖つ鳥 鴨著(ど)く島に 我が率寝(いね)し 妹(いも)は忘れじ 世のことごとに」 「鴨の飛んで来る島で、私が共寝をした愛しい妻のことは、決して忘れないだろう、生きている限り」 こちらは「妻」である豊玉毘賣のことを「妹」として歌を詠んでいます。 これを一般的解釈では、「妹」は血縁上の妹を指すというよりも、この場合は愛しい女性をあらわす言葉として使われている。 …としています(´・ω・`)まぁこのようなくだりは記紀ではよくありますよね。 さて、例の如く系譜上の理論考察としては、 スサノオが化身して次代へとスライドしたことは、アマテラスの化身でもある宗像三女神も同様で、赤玉=豊玉毘賣=宗像三女神(アマテラスの化身)=玉祖命の娘。 宗像三女神のうち多紀理毘売命と多岐都比売命の二神の夫が大己貴命、この場合は山幸彦(彦火火出見)です。 妻の豊玉毘賣には玉依比賣という妹がいますが、こちらは更に次の世代の鵜草葺不合命と結ばれています。 これが宗像三女神の最後の一人の市寸島比売命であり、『播磨国風土記』にある大汝命(大己貴命)と弩都比売の子の天火明命と結ばれるのです。 ●火明命の出生順(見事にバラバラですな) ニギハヤヒ:邇芸速日命(にぎはやひのみこと、饒速日命)は、日本神話に登場する神。 ●概要 『古事記』では邇藝速日命、『日本書紀』では饒速日命、『先代旧事本紀』では饒速日命の名称以外に、別名を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)、天火明命(あまのほのあかりのみこと)、天照國照彦天火明尊、胆杵磯丹杵穂命(いきしにぎほのみこと)と表記される。他の別名として、天照御魂神(あまてるみたまのかみ)、天照皇御魂大神(あまてらすすめみたまのおおかみ)、櫛玉命(くしたまのみこと)、櫛玉神饒速日命(くしたまのかみにぎはやひのみこと)がある。 『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」といい天忍穂耳尊の子で瓊瓊杵尊の兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。また物部氏、穂積氏、尾張氏、海部氏、熊野国造らの祖神と伝える。(wikipedia ニギハヤヒより抜粋) こちらは男のアマテラスの方ですな(´・ω・`) この海部氏の始祖、天火明命が邇邇芸命(=大己貴命)の兄なのですから、実際市寸島比売命は親(世代)の櫛玉命と結婚したことになります。 「忌部氏系図」(男系スサノオパターン)で説明しますと、 仮に天背男命を基準「自分」として、その「子」となるのは天日鷲翔矢命。 その弟に櫛明玉命で描くことで「兄・弟」を、そして妹となる天比理乃咩命と結ばれることで「親」が次代へとスライドしての「夫」として描くその実は全てが自身(の分身)であるというトリックです。 さてさて、スサノオと共に新羅に赴いたのは子の五十猛命ですが、以前この五十猛命が天村雲命と同神であるとの考察を致しました。「天村雲命から考察」 その天村雲命は、「阿波國続風土記」によると、櫛明玉命(玉祖命)と同じ天日鷲命の弟とあります。 天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)は、日本神話に登場する神。 ●概要 別名を天押雲命、天村雲命(あめのむらくものみこと)、天二上命(あめのふたかみのみこと)、後小橋命(のちおばせのみこと)と伝える。 ●系譜 父は天児屋命で、母は豊甕玉命の娘・天美豆玉照比売命、または栲幡千々姫命とされる。 妻は阿俾良依姫命または国主稲積命の娘・迦賀和加比売命で、子は天種子命(天多禰伎命:中臣の遠祖)とされる。(wikipedia 天押雲根命より抜粋) 吾平津媛(あひらつひめ、生没年不詳)は、古代日本の人物。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記される。 ●系譜 『古事記』によれば、「阿多之小椅君」の妹。同じく『古事記』には火照の子孫に「隼人阿多君」がある。 夫 神武天皇 (wikipedia吾平津媛より抜粋) 阿多之小椅君の妹とは、即ち天村雲命の妹ということね。 このイワレヒコ(神武天皇)も、山幸彦と同じく諱は「彦火火出見」であり、その妃の吾平津媛との間にも、東征する以前の日向にいた時に既に子をもうけておりましたが、後に事代主命の娘の富登多多良伊須須岐比売を皇后としたことで正妻から退いた経緯があり、この辺りはやはり山幸彦と豊玉毘賣、果ては天之日矛と阿加流比売の説話とも酷似しております。 仮に『古事記』:海幸彦と山幸彦で描かれる内容をそのまま神武天皇に当てはめた場合、 山幸彦の妻の豊玉比売=神武天皇(彦火火出見)の妻の阿比良比売(天村雲命の妹) そして同時に本稿版で記するならばこれが、 天村雲命の妻の阿俾良依姫命=天日矛(玉祖命)の妻の阿加流比売(赤玉) …となりますね。(もうこれでいいよね?) このような考え方は人によっては、妹を妻とする、子と結婚する等という考え方よりも、妻が(義理の)妹になったや、(義理の)息子と結ばれたことで(義理)の娘になったと考えた方がしっくりくるのかも知れませんね。 さて、wikipediaによれば、難波の比売碁曾社の主祭神は大国主の娘の下照比売命のようで、 比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)は、大阪市東成区にある神社である。旧社格は村社。式内名神大社「摂津国東生郡比売許曽神社(下照比売社)」の論社の一社である(もう一社は高津宮摂社・比売古曽神社)。 ◆祭神 下照比売命を主祭神とし、速素盞嗚命・味耜高彦根命・大小橋命・大鷦鷯命・橘豊日命を配祀する。ただし、江戸時代の天明年間までは、牛頭天王を主祭神とする牛頭天王社であった。 『古事記』には、新羅から来た阿加流比売神が難波の比売碁曽の社に坐すと記されており、『日本書紀』にも同様の記述がある。ただし、『延喜式神名帳』では下照比売社が比売許曽神社であると記し、阿加流比売命を祀る赤留比売神社は住吉郡に記している。 なお三上氏の系図には天津彦根命の娘に比売許曽命(息長大姫刀自命)がおり、天日矛命の妻と伝えている。 ●歴史 垂仁天皇2年7月、愛来目山(現在の天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀り、「高津天神」と称したことに始まると伝えられる。顕宗天皇の時代に社殿が造営された。延喜式神名帳では名神大社に列し、新嘗・相嘗の奉幣に預ると記載されている。当社の境外末社・産湯稲荷神社がある地が旧鎮座地と推定されている。 天正年間、織田信長の石山本願寺攻めの兵火に遭って社殿を焼失した。社伝では、神体は焼失を免れ、摂社であった現在地の牛頭天王社内に遷座したと伝えているが、事実かどうかは不詳である。 天正以後は荒廃し、所在が不明となっていたが、天明8年(1788年)、ある者が比売許曽神社の旧記神宝を発見したと唱え、それに基づいて比売許曽神社の縁起が編纂され、牛頭天王社を式内・比売許曽神社に当て、下照比売命を祀ってこれを主祭神とした。『大阪府神社史資料』では、その縁起は「信ずべきものにあらず」と記している。 明治5年に村社に列した。(wikipedia 比売許曽神社より抜粋) …と何とも怪しい御由緒ではありますが、 旧鎮座地(推定)となる産湯稲荷神社(大阪府大阪市天王寺区小橋町3−1)を調べてみますと、 創建年代不詳 そもそもこの地には名神大社「比売許曽神社」が鎮座しており、産湯稲荷はその摂社であったとする。後年、産湯稲荷神社が旧鎮座地に再建された。 ◆祭神 宇迦之御魂神、下照比売命、大小橋命の三柱を祀る。 ●玉之井 ◆由緒 この井戸は、下照比売命の兄で、迦毛大御神(かものおおみかみ)とも言われる賀茂氏の祖神「味耜高彦根命」が味耜山あじすきやま(小橋山おばせやま、愛具目山あぐめやま)に降臨して掘り当てた井戸と伝わり、日高清水あるいは日高真名井とも称される。 社記によると当地の開拓神である大小橋命は天児屋根命の十三世の後胤、ここ味原郷に誕生、境内の玉井を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。 隣接する「味原池」は、天探女が天の磐船に乗って天降られた霊地とされている。 『摂津名所図会』には、「下照比売、亦の名稚国玉媛或いは天探女とも号す。」…とある。 ●奥のお不動さんと湧き水 『和漢三才図会』には、 「高津社は生玉社の北にある。祭神は比売古曽神。大国主命の女が始めて天磐船に乗って地上に降りられた摂洲東生郡高津がこれである。その船の祠を磐船大明神と号する。又、磐船社は東生郡にあるとするが今はない。」 また『摂津名所絵図』には、 「シタテルヒメを祀る磐船社と称する地は、高津宮の内に営み給ふ社の古蹟なり。」…とある。 『摂津国風土記』逸文に、 「難波高津は、天稚彦天下りし時、天稚彦に属(つき)て下れる神、天の探女、磐舟に乗て爰(ここ)に至る。天磐船の泊(はつ)る故を以て、高津と號す」…とある。 従って磐船に乗って当地へと降臨したのは、大国主神と多紀理毘売命との間の子、兄の天稚彦(味耜高彦根命)と妹の天の探女(高比売命/下照比売命)ということですね。 大阪府交野市にある磐船神社の御祭神は、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊。 天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨された。(”たけり”=多家=埃(たけり=え)とは ●磐船神社の不動明王 そして、もう一つの磐船となる、 大阪府安倍野区阿倍野にあるのは、正一位磐船稲荷大明神 ご祭神は、産湯稲荷神社と同じお稲荷さんこと宇迦之御魂神。 だいぶ繋がって来ましたなぁ(´∀`) ”たけり”ついでに次世代婚となる市杵嶋姫命についても補足しますと、 ●神道大系 神社編三十九 安藝、周防、長門國 安藝國三社記 安藝國佐伯郡嚴嶋大明神は祭神市杵嶋姫命也。上古、天照皇太神、素戔嗚尊と誓約の御時、素戔嗚尊の十握劒を索取玉ひ、打折て三段とし、天ノ眞名井に濯すすき嚙然咀嚼吹棄し玉ふ、其第一に生玉ふを田心姫と云、第二に生玉ふを瑞津姫と云、第三則市杵嶋姫也。 本傳は化生に非す。天照神自ら生玉ふの神、則此三女の神なり。此市杵嶋姫命は生なからにして御仁心世に勝れさせ玉へり、故に御名を伊都伎嶋姫命と称する。蓋し仁の字を伊都久志美と訓す。則仁の倭語也。且美と麻と倭訓同し、其後、皇太神三女の神に告て宣く西海の道中に降り、天孫の為に助ヶ祭しとあり。仍て市杵嶋姫は筑前國瀛嶋に祭ル、今に其社地あり。此嶋大洋の中にありて、大嶋を距てて三十里方は乾の位なり。田心姫は同國大嶋に祭る、神の湊を距事三里方は子の位なり。瑞津姫は同田嶋村に祭る。古昔筑前より京師に上るの驛路なれば、上古之を西海の道中といふ。奮書に見えたり。而して後三女の神を又豐前の國菟狭の嶋に祭る。八幡の同地なり。 仰嚴嶋御鎮座を恭しく考奉るに、人皇の初、神武天皇四十五歳の御時、諸の御兄幷御子達に語て宜く、天祖瓊瓊杵尊降臨ましましてより以来一百七十九萬二千四百七十餘歳。然ルを遼邈の地、猶いまた王澤にうるほはす、遂に邑に君あり。村に長ありて各自からさかひをわけて用て相崚ききしらふ。又東に美地ありと聞、靑山四方に周なり。蓋し國の中心なるへし。何そ行くて都つくらさらんやとて大歳甲寅、其年十一月丁巳朔辛酉ノ日、天皇自ら舟師をひきいて東を征玉ふ。それより西に行、筑紫菟狹に至り玉ひ、同十二月丙辰朔壬午ノ日に安藝國に至り、埃宮に居玉ふ。 埃宮は今のいつくしまの地なり。天皇此嶋に御船を着玉ひてより、明卯年の春三月まて此所にましまし玉ふ。時しも冬の最中、四方の山頭白々として天明らかに、月くまなく雪を照せし景色、類ひなき事を称玉ひて天皇音上ヶ宣く、可愛たりや可愛たり、月を雪とをとの給ひしより此所を埃宮と云。今宮嶋といふは埃宮の半語なり。即ち上古の宮なり。云々… 只今イメージを頭に映像化中... 情報を一通り列記したところで、そろそろ次稿辺りでまとめに入りたいと思います。(´・ω・`)ノ

  • 17Jan
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      勾玉から考察①

       勾玉(まがたま、曲玉とも表記)は、先史・古代の日本における装身具の一つである。祭祀にも用いられたと言われるが、詳細は分からない。語の初出は『記紀』で、『古事記』には「曲玉」、『日本書紀』には「勾玉」の表記が見られる。語源は「曲っている玉」から来ているという説が有力である。 ●概要 多くは、Cの字形またはコの字形に湾曲した、玉から尾が出たような形をしている。丸く膨らんだ一端に穴を開けて紐を通し、首飾りとした。孔のある一端を頭、湾曲部の内側を腹、外側を背と呼ぶ。多くは翡翠、瑪瑙、水晶、滑石、琥珀、鼈甲で作られ、土器製のものもある。青銅などの金属製も存在するが、数は非常に少なく、青銅製は2013年1月時点で4例しか存在しない。 その形状は、元が動物の牙であったとする説や、母親の胎内にいる初期の胎児の形を表すとする説などがある。鈴木克彦は縄文時代極初期の玦状耳飾りが原型であるとの説をとる。 日本の縄文時代の遺跡から発見されるものが最も古い。朝鮮半島へも伝播し、紀元前6世紀から3世紀初頭の無文土器時代にアマゾナイト製の勾玉が見られる。縄文時代早期末から前期初頭に滑石や蝋石のものが出現し、縄文中期にはC字形の勾玉が見られ、後期から晩期には複雑化し、材質も多様化する。縄文時代を通じて勾玉の大きさは、比較的小さかった。 弥生時代中期に入ると、前期までの獣形勾玉、緒締形勾玉から洗練された定形勾玉と呼ばれる勾玉が作られ始め、古墳時代頃から威信財とされるようになった。 魏志倭人伝によれば、邪馬台国女王の臺與から魏への進貢品に「孔青大句珠二枚(穴が空いて曲がった青い大きな玉2個)」があり、ヒスイ製勾玉であろうと推測されている(進貢時期は248年-266年の間)。 古墳時代前期の古墳から硬玉ヒスイの勾玉が出土することが多い。大阪府和泉市和泉黄金塚古墳では、大小の勾玉が34個も見つかっている。この内にはヒスイの勾玉が26個が含まれている。古墳出土の勾玉の大きなもので3~4センチメートルであるが、1912年(明治45年)発掘の大阪府堺市の塚周り古墳(大山古墳の陪墳か)出土の大勾玉は、長さ約6センチメートルである。 ●形の由来 「形の由来」の説として、以下のものがある。他にも幾つかの説があり、なにが由来となっているか、そもそも一つのものを由来とするのかもよくわかっていない。 動物の牙で作った牙玉を基とする説 胎児の形を模したとする説 魂の姿を象ったとする説 巴形を模したとする説 月の形を模したとする説 形そのものに意味があったとする説 破損した耳飾を再利用したとする説 (wikipedia 勾玉より抜粋)  さてこの勾玉、wikipediaにも書かれてあるように、その存在は古くは縄文時代中期頃から確認され、石・土器・金属製など様々な素材から作成されました。 また『魏志倭人伝』にも、弥生時代終末期にあたる邪馬台国女王の臺與から魏への進貢品に「孔青大句珠二枚(穴が空いて曲がった青い大きな玉2個)」があったと記録されており、古墳時代のお墓からは、硬玉翡翠の勾玉が出土するケースが多いようです。 形の由来についても諸説様々であり、現在に至ってもなおよく分かっておらず、何れの説も決定打に欠けるといったところでしょうか。 基本的には、Cの字のような形状をしたものがベースであり、種類を分類するとおおよそ下図のようになるようです 他にも背や腹、体部に小さな勾玉を持つ「子持ち勾玉」というモノもあります。 下図は高知県土佐市にある縄文時代晩期(2800-2500年前)から古墳時代中期頃迄の遺跡である居徳遺跡群(いとくいせきぐん)出土の蛇紋岩製の子持ち勾玉(6世紀頃)のもの。 因みにこの遺跡から出土した数体の人骨からは、金属器によると見られる鋭い傷や矢じりの貫通痕があり、鑑定した奈良文化財研究所は「国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡」であると発表されています。 詳しくはこちらをどうぞ「居徳遺跡群」 これとよく似た形状の勾玉は全国の古墳時代の遺跡から無数に出土しています。 ●愛媛県西宇和郡(三崎・中村遺跡から出土:古墳時代中期(5世紀)) ●大阪府豊中市(島田遺跡:古墳時代後期) ●千葉県長生郡(熊野神社裏遺跡出土子持勾玉:古墳時代中期) ●島根県松江市(二名留2号墳出土の滑石製子持勾玉:古墳時代) ●奈良県桜井市(三輪松之本遺跡:古墳時代・5〜7世紀) ●福岡県宗像市沖ノ島(沖ノ島8号祭祀遺跡:古墳時代・5〜6世紀)国宝 主に子持ち勾玉は、大きな勾玉に複数の子勾玉が接続して造形されたもので、多産のイメージから繁栄の祈りが込められたものと考えられています。 これらの勾玉のルーツは『古事記』によると、玉造の祖神の意味でもある玉祖命(たまのおやのみこと)によるものといわれています。 コトバンクの解説によれば、勾玉(まがたま)、管玉、丸玉等の玉類の製作に従事した大和朝廷の職業部。硬玉、碧玉、水晶、ガラス等の材料に研磨を加えるので〈たますりべ〉ともいう。摂津、河内、遠江、駿河、伊豆、上総、下総、陸奥、出雲、周防、土佐等原石を産出する地域を中心に分布していたことが古代の文献によって知られる。弥生時代以来存在した各地の玉作集団を部として組織したもので、その部民化の時期は5世紀後半以降と考えられる。 …とありますから、少なくとも縄文中期より勾玉自体は作られておりましたが、ヤマト王権創世期に組織化した主導者が玉祖命であるということなのでしょう。 ではこの玉祖命についてなのですが、wikipediaによると、 ●概要 別名に玉屋命(たまのやのみこと)、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、天明玉命(あめのあかるたまのみこと)、豊玉命(とよたまのみこと)などがある。 高御魂命の孫とする伝承があり、また天背男命の子で天日鷲命の弟とする系図も存在する。 子には天八現津彦命の妻となった玉之美良媛の父・大多麻流命(おおたまるのみこと)と、阿岐国造の祖・天湯津彦命がいるとされる。 ●神話の記述 岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)を作った。天孫降臨の際邇邇芸命(ににぎ)に附き従って天降るよう命じられ、天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、天宇受売命(あめのうずめ)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人として随伴した。 『日本書紀』の岩戸隠れの段では、八尺瓊勾玉を作ったのは「玉造部の遠祖・豊玉神(とよたまのかみ)」(第二の一書)、「玉作の遠祖、伊弉諾尊の児・天明玉命(あめのあかるたまのみこと)」(第三の一書)としている。どちらも玉造部の祖としていることから玉祖命と同神と考えられる。(wikipedia 玉祖命より抜粋) ふむふむ、高御魂命の孫で、天背男命の子で、伊弉諾尊の児で、天日鷲命の弟なんですね。 以前に考察しました「応神天皇の痕跡から考察⑧」では、天豊玉命の別名に、櫛明玉神、天明玉命、天羽明玉命、羽明玉、玉祖命/玉屋命、天櫛明玉命でもあることから、豊玉命=天豊玉命であるとしました。 つまり、天(あま)は海(あま)であり、海に纏わる豊玉命なのですから、 ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神。転じて海・海原そのものを指す場合もある。 ●概要 『古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。 「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」を表す上代語の格助詞、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味になる。 ●神話での記述 日本神話に最初に登場する綿津見神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。神産みの段で伊邪那岐命(伊弉諾尊・いざなぎ)・伊邪那美命(伊弉冉尊・いざなみ)二神の間に生まれた。(wikipedia ワタツミより抜粋) とまあwikipediaに書かれてある記述を擦り合わせてみますと、 豊玉命=天豊玉命=海神豊玉彦 はどうやら同じ神として繋がります。 で、更に、 アマツヒコネは、日本神話に伝わる日本神話の神。 ●概要 『古事記』では天津日子根命(あまつひこねのみこと)、『日本書紀』では天津彦根命(あまつひこねのみこと)、他文献では天都比古禰命とも表記され、波多都美命(はたつみのみこと)の別名を持つ。 アマテラスとスサノオの誓約の際に天照大御神の玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。(wikipedia アマツヒコネより抜粋) これですね つまり櫛明玉命は、アマテラスとスサノオの誓約御子の波多都美命のことではないのかとの考察も少ししました。 例の如く「忌部氏系図」にチョット入れて説明してみますと、 wikipediaによると、玉祖命は高御魂命の孫との記述がありますが、同神別名である櫛明玉命はこの系譜では天太玉命の父であることから、高皇産霊神からは義理の息子になりますので、系譜上で祖父となる天底立命が高皇産霊神に対応することになります。 天日鷲翔矢命はこれまでの私説考察によると大己貴命であることから、その父にあたる天背男命が須佐之男命ということとなり、更にその父にあたる天底立命もイザナギであるということになります。 従って高皇産霊神=イザナギの構図となり、それぞれの系譜上の相関関係の全てが(取り合えず)一致することになります。 では何故、この海の神が玉(=勾玉)を作った祖であるのか、や、これに纏わることについて今回はアレコレ考察して参りたいと思います。(前振りナゲーな) 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まず、この玉祖命が作ったとある三種の神器の一つ「八尺瓊勾玉」についてですが、その名にもある「尺」という単位はおよそ30.3㎝であり、素直に八尺で換算すると242.4㎝になります。 wikipediaによると、「さか」は通常は「しゃく」(尺)の転訛だが、この場合は上代の長さの単位の咫(あた)のことである。8尺は(当時の尺は今より短いため)約180cm、8咫は約140cmである。…とあり、仮にこのサイズの勾玉であったとした場合でも、恐らくとんでもない重量であったと想像できます。  ●「いずもまがたまの里伝承館」にある勾玉これでも十分な重量でしょうな... 従って一般的に、「八咫鏡」「八百萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」にある、「八」の字には、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされていますから、八尺瓊勾玉の「八尺」も同様に漠然とサイズが「大きい」ということを表していると考えられています。 次に、八尺瓊勾玉の「瓊」についてですが、 1.たま。「瓊玉」 2.玉のように美しい。「瓊筵(けいえん)・瓊姿」[難読]瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 玉。特に、赤く美しい玉。 「五百箇(いほつ)の御統(みすまる)の―の綸(を)を」〈神代紀・上〉 玉。赤色の玉。 「―な音(と)ももゆらに、天(あめ)の真名井(まなゐ)に振りすすぎて」〈記・上〉 〘名〙 美しい玉。→ぬ(瓊)。 ※釈日本紀(1274‐1301)五「天之瓊矛。私記曰。師説。此注。瓊玉也此云レ努〈略〉而今或本。努字為レ弐也。蓋古者謂レ玉或為レ努。或為レ弐。両説並通」 〘名〙 (「瓊(に)」の交替形か) 玉。赤色の玉。 ※書紀(720)神代上「廼(すなは)ち、天(あま)の瓊〈瓊は玉なり。此をば努(ヌ)と云ふ〉矛(ほこ)を以て指下(さしおろ)して探(かきさく)る」(コトバンク瓊とは 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について より) つまり記述通りの意味であるならば、八尺瓊勾玉は、単なる「玉」ではなく、「大きな赤色の勾玉」の意味ということになります。 ●(例)八尺瓊勾玉の(適当な)イメージ 璽(じ)とは、印章の一種。 ●概要 本来は印章一般を広く指す言葉であったが、秦の始皇帝により、皇帝の印章を指す言葉として使われるようになった。 その後、日本においても、天皇の印章を指す言葉として使われるようになる。 また、日本においては三種の神器の1つである八尺瓊勾玉を「璽」とし、「剣」である天叢雲剣と併せて「剣璽」と呼ぶ。(wikipedia 璽より抜粋) また「瓊」については、上の釈日本紀の説明にもあるように、『紀』の天之瓊矛の説明では、「天之瓊[瓊玉也此云努(注釈:瓊は玉のことである これを「ぬ」と云う)]矛」と記され、先行作成された『記』ではこれを、天沼矛(あめのぬぼこ)と記します。 天之瓊矛は、イザナギとイザナミの二柱の神が別天津神たちより授かった「矛」のことで、これを天浮橋に、「立訓立云多多志天浮橋」立って矛を指し下ろして「自其矛末垂落之鹽累積、成嶋、是淤能碁呂嶋/自ずと其の矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき」是を淤能碁呂島という。と記します。 ●天之瓊矛の一般的なイメージ図 ということは、『日本書紀』の天之瓊矛の意訳は、瓊=「瓊玉也此云努」と書かれてありますから、辞書説明の意味も加味しますと、(私説では)「瓊玉(赤玉)なり、此れを「ぬ」と云う」となります。 従って、天之瓊矛は言い換えれば、「天(海)の赤玉の矛」になります。 矛は剣と形状がよく似ていますが、「矛」と「玉」は全く別のものですから、 wikipediaの解説に従いますと、「玉で飾られた矛」の意とされています。 また天浮橋の説話で「多多志(たたし)」の表現を用いた箇所は他にも、国譲り神話の冒頭部となる「天忍穂耳命於天浮橋多々志 此三字以音」や、天孫降臨条に「於天浮橋宇岐士摩理蘓理多々斯弖 自宇以下十一字以音」等に見られ、いずれも訓みを明示する形をとっていますが、これらは天浮橋の説話の文章に見られることから、全てが同じ場所であることを示しているはずです。 そして、その矛から滴り落ちた鹽(しお)が積み重なってできたのが、日本史上における最初の「島」で記される淤能碁呂嶋なのです。 つまり誰が何と言おうとその場所は「海」でのお話であり、そこには「天浮橋」から伝って行ける「島=淤能碁呂嶋」があるはずなのです。 更に『古事記』神代上でイザナギは、 「是伊邪那岐命、拔所御佩之十拳劒、斬其子迦具土神之頸。爾著其御刀前之血、走就湯津石村、所成神名、石拆神、次根拆神、次石筒之男神。三神次著御刀本血亦、走就湯津石村、所成神名、甕速日神、次樋速日神、次建御雷之男神、亦名建布都神布都二字以音、下效此、亦名豐布都神。三神次集御刀之手上血、自手俣漏出、所成神名訓漏云久伎、闇淤加美神淤以下三字以音、下效此、次闇御津羽神。上件自石拆神以下、闇御津羽神以前、幷八神者、因御刀所生之神者也。」 「そこで伊邪那岐の命は、腰から十拳剣を抜き、その子、迦具土(かぐつち)の神の頸(くび)を斬りなされました。すると、お刀の前方から飛び散った血は、湯津石村に走り就き、神が成り名を石拆の神と言い、次に根拆の神と言い、次に石筒之男の神と言います。《三柱の神》次にお刀の根本から飛び散った血は、これも湯津石村に走り就き、神が成り名を甕速日の神と言い、次に樋速日の神と言い、次に建御雷之男の神、この神は別名を建布都の神、あるいは豊布都の神と言います。《三柱の神》次に、お刀の鍔の上に集まり、血が指の間より漏れ出して神が成り名を闇淤加美の神、次に闇御津羽の神と言います。《これまでの分、石拆の神より以下、闇御津羽の神以前の、併せて八柱の神は、お刀因(よ)り神が成ったものです。》」 要約すると、イザナギが自身の佩ける十拳剣でカグツチを斬った際、その剣についた「血」から刀の神が生まれたとあります。 ※今回は端折る箇所も多いと思いますので、詳しくはリンク先や過去の関連記事にてご確認頂けると幸いです。<(_ _)>アシカラズ まず、イザナギ・イザナミの居た「根の国」がどこであったのかについての説明は「御刀媛から考察 ⑤」 こちらには真の淤能碁呂島についてもチラっと書いております。 これに至った経緯を詳細を記すると長くなりますのでサクッと進めさせて頂きますと、全ての始まりの場所となるのは、ズバリココ この徳島県海陽町鞆浦の那佐湾にある、先端が尖がった岬である乳の崎(ちのさき)ですが、往古はこの岬を「血の崎」と呼んでおりました。 『震潮記』の記録に、現那佐の乳の崎は、その昔、血の崎と呼ばれていた記録があります。(例の如く当地も長曾我部元親の阿波侵攻時の説話に府会する伝承が多く残る) また「海部町史」に載る、鞆浦那佐にある愛宕山頂に火防(ひぶせ)の神である驒遇突智命(かぐつちのみこと)を祀る愛宕神社がご鎮座されます。  従って当地がイザナギの佩ける「十拳剣」のある場所でもあり、また国譲りの段ではフツヌシが逆さに立てたとされる剣のある場所も全てがココ こちらの説明については「本家の元祖考察」「『先代旧事本紀』から考察 ②」等。 天逆鉾(あめのさかほこ、あまのさかほこ)は、日本の中世神話に登場する矛である。一般的に記紀に登場する天沼矛の別名とされているが、その位置付けや性質は異なっている。中世神話上では、金剛宝杵(こんごうほうしょ)、天魔反戈(あまのまがえしのほこ)ともいう。宮崎県・鹿児島県境の高千穂峰山頂部(宮崎県西諸県郡高原町)に突き立てられているものが有名である。 大変申し訳ないのですが、このような急峻な山中の頂上にあるはずはないのです。 ここまでをザックリ纏めますと、この那佐湾に浮かぶ血の崎こそが、国産み以前にできた最初の島の「淤能碁呂島」であり、同時にこれが「十拳剣/逆さに立てた剣」にもなり、或いはまた「天之瓊矛/天逆鉾」=「赤玉の矛」でもあるということ。 次に、この「天之瓊矛」や「八尺瓊勾玉」の名にある「瓊」の意味である「赤い玉」とは一体何のことなのでしょうか 赤(あか、紅、朱、丹)は色のひとつで、熟したトマトや血液のような色の総称。暖色のひとつ。JIS規格では基本色名の一つ。国際照明委員会(CIE) は700 nm の波長をRGB表色系においてR(赤)と規定している。赤より波長の長い光を赤外線と呼ぶが、様々な表色系などにおける赤の波長とは間接的にしか関係ない。語源は「明(アカ)るい」に通じるとされる。「朱・緋(あけ)」の表記が用いられることもある。赤色(セキショク、あかいろ)は赤の同義語。JIS規格においては、赤とレッドはやや異なる色である。 ●赤(あか) ●レッド(red) ●基本色としての赤 丹、朱、緋、紅 丹(タン)が色を名指すときは赭土(シャド)、赤土の色の意味である。赭土の主たる発色成分は三酸化二鉄である。黄土(;主要発色成分:水和酸化鉄)や緑土も焼成すれば丹色になる。なお、鶴の一種タンチョウの和名は、頭頂部(頂)が赤い(丹)ことに由来する。 朱(シュ)は、硫化水銀によるの赤色顔料辰砂の意味を持つ。オレンジがかった赤。硫化水銀による朱(辰砂・朱砂)には、例えば「黄口」や「青口」があり、色料としての朱の範囲は比較的幅があると考えてよい。 緋(ヒ)は、濃く明るい赤色を指す。緋は緋色に染め付ける染料のみではなく、緋色に染め付けられた糸や絹の色も指すことがしばしば強調されることからも分かるように、染色によって現れる染色とも強く関わる。緋の英語訳として使われるscarlet(スカーレット)にも同様の傾向がある。 紅(コウ)は、わずかに紫がかった赤を指す。キク科の紅花の汁で染めた色で、その発色成分はカルタミンである。藻類学では英語のred および学名のRhodo- の訳語として使われるが、細菌学では英語のpurple(紫)の訳語として使われる(紅色細菌など)。 それぞれのニュアンスは異なるものの、これらも、他の固有色名に比較すると普遍的な「赤」を意味する語である。 ●物体色としての赤 印刷技術の用語として、マゼンタをアカと呼ぶ場合もある。そのため、光の三原色の赤に近い標準的な赤色をオレンジレッドなどと呼ぶ。同様の色に、金赤(きんあか)がある。これは、イエローとマゼンタをほぼ一対一の割合で混合したものと定められている。したがって、RGBでは直接には定義されない。しかし、RGBとの対応関係をある程度明らかにすることは不可能ではない。 CMYK値を用いて C=0 M=100 Y=100 K=0 となる。ただしこれは仮構的な値とも言えるものであって、印刷や塗料の現場では大なり小なり差異が存在する。金赤として表現される赤は、一般的にイメージされる赤よりも黄色を帯びた赤である。また、RGBを用いて似た印象の色彩は指示できる。英語ではこの色をブロンズレッド(bronze red) という。(wikipedia 赤より抜粋) ●金赤(きんあか) はい(´・ω・`) ここで八尺瓊勾玉へと立ち戻る訳ですが、これを作成した玉祖命の別名は確か、櫛明玉神、天明玉命、天羽明玉命、羽明玉、天櫛明玉命。 「赤」の語源は「明るい」に因むことから、この場合の「明=赤」は、一般的な認識の赤色のことではなく、「明玉=日(太陽)」のことと考えられ、由ってこの場合の「瓊玉=赤玉」は、黄色を帯びた赤となる金赤のことを指しているのではないでしょうかね。 ●太陽 ●2021年の初日の出 日本人の感性なのかも知れませんが、例えば「青色」も、信号機の「青」や、野菜も「青物」と呼ぶこと等から、実際の色は緑色でも、一般的には「青」で通じてしまいます。 因みに、日(ひ)繋がりで、火(ひ)もまた色としては金赤でしょうかね。 とまぁ、赤についても幅広い色としてみることもできます。(夕焼けなどは黄金(こがね)色ともいいますしね) では、「瓊」=「赤玉」➨「明玉」=「日(太陽)」へと繋がったところで、天之瓊矛の「瓊」をそのまま「日」に置き換えますとどうなるのでしょうか 話が長くなりそうなのでここらでいったん分けますね。 (´・ω・`)これは一体どこに向かって終着できればいいのでしょうかね。自分でもわからず...

  • 18Dec
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      吉野川から考察

       ◆吉野川(よしのがわ) ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭、学名:Phragmites australis)は、イネ科ヨシ属の多年草。河川及び湖沼の水際に背の高い群落を形成する。 ●日本語における原名 和名ヨシの由来は、もともと本来の呼び名はアシであったが、「悪し」に通じるため、「ヨシ」と言い換えられたものである。日本の在来植物で、『日本書紀』に著れる日本の別名「豊葦原千五百秋瑞穂国」とあるように、およそ平安時代までは「アシ」と呼ばれていたようである。『更級日記』においても関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書かれている。 8世紀、日本で律令制が布かれて全国に及び、人名や土地の名前に縁起のよい漢字2字を用いる好字が一般化した。「アシ」についても「悪し」を想起させ縁起が悪いとし、「悪し」の反対の意味の「良し」に変え、葦原が吉原になるなどし、「ヨシ」となった。このような経緯のため「アシ」「ヨシ」の呼び方の違いは地域により変わるのではなく、新旧の違いでしか無い。現在も標準和名としては、ヨシが用いられる。これらの名はよく似た姿のイネ科にも流用され、クサヨシ、アイアシなど和名にも使われている。(wikipedia ヨシより抜粋) 日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界に「葦原中国」があり、一般的には、天照大御神の天岩戸事件により須佐之男命が高天原から追放された地であり、また須佐之男命の裔(または息子)である大国主神が、少名毘古那神と協力して天下を経営し、葦原中国の国作りを完成させたといわれています。 後に、天照大御神の使者達によりその国土を天孫邇邇芸命に譲渡するよう要請され、息子兄弟の事代主神と建御名方神の了承・降伏を受け、宮殿の建築と引き換えに引き渡されたとされる地です。 従って葦原中国とは、葦葉の茂る未開の土地をパイオニアとして開拓した須佐之男命とその子孫神達の活躍を描く「出雲」の地のことであり、また後に高天原より降臨した天孫邇邇芸命に「国譲り」という体裁で譲り渡された領土のことで、現在では我が国(日本)の国土全体を表す古称へと変化していきました。 さて、以前に少し書きましたが、忌部研究家のH氏の講話の中に、「吉野」と名付く地名のあるところは忌部の入植した痕跡があるとの話を耳にした記憶が御座います。 wikipediaの「ヨシ」にもあるように、「ヨシ」は元を辿れば「アシ」のことですが、この「吉野」の地名は奈良県南部にある吉野郡を筆頭に、福岡県や大阪府など多くの地域に見られ、徳島県にも板野郡吉野町や那賀郡那賀町吉野、海部郡海陽町吉野、そして徳島市渭北地区(いほくちく)には密集して、吉野本町、中吉野町、上吉野町、東吉野町の地名が点在し今に残っています。 今回は、「記紀」などで描かれる「葦原中国」や「吉野」とされる地が一体どこのことであったのかについて、「神武東征」からその痕跡を辿ってみたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 『古事記』神武条に、 「自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。」 「南から回って血沼海に到着してその手の血を洗いました。それで「血沼海(チヌノウミ)」と呼ぶようになりました。その地から更に回って、紀伊国の男乃水門に着いて言いました。「卑しい奴によって、手に傷を負って、死ねるか!」と雄雄しく振舞いましたが、死んでしまいました。その水門(ミナト=港)を名づけて男乃水門というようになりました。五瀬命の墓は紀伊の国の竈山にあります。」 通説によると、初代天皇である神武(イワレビコ)は東征の際、登美毘古と交戦になり、日に向かって戦う(東に向いて戦う)ことがよくないとして、一旦南へ移動しそこから北上する作戦をとります。 南から回って到着したのが血沼海(ちぬのうみ:茅渟は大阪府和泉地方の古名)であり、更に回って紀伊国の男乃水門(男水門顕彰碑建立地がある水門吹上神社の鎮座地の和歌山県和歌山市小野町)に到着したとあります。 また、『古事記』には、当地の「竈山」にイワレビコの兄の五瀬命の陵があるとも記します。因みに五瀬命を祀る竈山神社が座す場所はココ 男水門からは、やや東南方向にある小さな山上のようです。 激しい戦闘の中、兄を失ったイワレビコ一行は更に南進し、 「故、神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時」 「神倭伊波礼毘古命はそこから南に回り、熊野村に到着しました。」 廻って(紀伊とは明確にしていないものの)熊野村へと到達。 通説では具体的な方角等は特に書かれていないものの、南下しないと和歌山県の熊野へは行けませんのでそのように要約されます。 省略しますが、当地にて高倉下(たかくらじ)が手に入れた剣(布都御魂)をイワレビコが譲り受けた後、高木大神の命により高天原から遣わされた八咫烏に導かれた一行は、 「從其八咫烏之後幸行者、到吉野河之河尻時」 「教え通りに八咫烏の後をついて行くと、吉野川の川下に着きました。」 かわ‐じり〔かは‐〕【川尻】の解説 1川下。下流。 2川口 (かわぐち) 。(goo辞書 川尻(かわじり)より) イワレビコ一行は、吉野川の下流に到達したのです。 通説による「神武東征」の大和に至るまでの経路では、いずれも奈良県南部にある「吉野の地(現五條市周辺)」に向かって北へと進路をとります。 つまり通説の経路に沿うと、吉野川(紀の川)の上流側に到達した上で、更にそこを突き抜けて北上することになります。 『古事記』に書かれてある通りですと、このような場所に「吉野河之河尻」があったということなんでしょうかね(´・ω・`) またなぜ案内者である八咫烏がこのような険しい山々を通過せざるを得なかったのか、普通の人であればチョット疑問に思いますよね。 地図で見ると分かりにくいですが、非常に険しい山岳地帯の行軍となります。 八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話に登場するカラス(烏)であり導きの神。神武東征の際、高皇産霊尊によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。一般的に三本足の姿で知られ、古くよりその姿絵が伝わっている。 ●概要 八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神、鴨建角身命と同一視される。また賀茂氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としている。(wikipedia 八咫烏より抜粋) 天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。 麻植神(おえのかみ)、忌部神(いんべのかみ)とも。また高魂命または神魂命の裔神の天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)や天加奈止美命とも。(wikipedia 天日鷲神より抜粋) ザックリ書くと、紀伊(和歌山)経由で大和(奈良)へ入植したいイワレビコ(鹿児島人)を案内しているのは、阿波(徳島)人である八咫烏(天日鷲神)という構図です(´・ω・`) しかしながら、そこが吉野川の「河尻」でなければなりませんが、 紀の川(きのかわ)は、奈良県から和歌山県へと流れ紀伊水道に注ぐ一級水系の本流。河川名は「紀伊国」に由来する。 奈良県内では奈良県南部の地名「吉野」に因み「吉野川(よしのがわ)」と呼ばれるが、河川名を案内する標識などには水系名である「紀の川(きのかわ)」が併記される(例:「よしのがわ(きのかわ)」)。地図や橋の銘板には吉野川と記される。(wikipedia 紀の川より抜粋) この紀の川の延長は136㎞、その水源は熊野の北部にある奈良県大台ヶ原であり、 地形的にも吉野河の「河尻」は、前出した男水門(和歌山市)側となりますので、熊野側は逆の「河上」にあたりますよネ(´・ω・`)... 従って『古事記』に書かれてある吉野河は、紀の川とは地形的に全く符合しない、ここではないということになります。 この「到吉野河之河尻」で出会ったとあるのが、 「爾天神御子、問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂贄持之子。」此者阿陀之鵜飼之祖。」 「天津神の皇子(イワレビコ)が「あなたは誰ですか?」と聞くと「私は国津神です。名前は贄持之子(ニヘモツノコ)といいます」と答えました。ニヘモツノコは阿陀(アダ)の鵜飼の祖先です。」 『日本書紀』での対応箇所では、 「及緣水西行、亦有作梁取魚者。(梁、此云揶奈。)天皇問之、對曰「臣是苞苴擔之子。」(苞苴擔、此云珥倍毛菟。)此則阿太養鸕部始祖也。」 「水(かは)に縁(そ)ひて西に行きたまふに及びて、亦梁(やな)を作(う)ちて取魚(すなどり)する者有り、天皇問ひたまふ。対へて曰さく、「臣は是苞苴担(にへもつ)が子なり」とまうす。此れ則ち阿太(あだ)の養鵜部が始祖なり。」 吉野川を沿って「西」へと行くと、阿陀(阿太)の鵜飼部(養鵜部)の(始)祖のニヘモツのコが居たと書かれてあります。 贄持之子(にえもつのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『書紀』では、苞苴担之子(にえもつのこ、にえもつがこ)と表記される。阿太の養鸕部の始祖(『古事記』では、「阿陀(あだ)の鵜養(うかい)の祖(おや)」と記される)。 ●考証 「贄」は神または天皇に供する貢納物(山野河海の食料品)の一種で、はじめは共同体の首長が神に貢納していたものが、地方首長の天皇への貢納物へと変化していった。天皇はそれらを口にすることで、その領有権を確認していた。「苞苴」とは、わらづと(わらなどを束ね、中に食品を包んだもの)、贈り物、みやげものを指す語であり、「にへもつのこ」で、神や天皇に捧げる食物を持つ者という意味になる。(wikipedia 贄持之子より抜粋) しかしながらここでも文章の説明通りで解すると、吉野川(紀の川)を西に沿って移動した場合、やはりそこは大和ではなく、再び紀伊の男水門側へと逆戻りしてしまうことになります(´・ω・`)通説だと北に行かんとあかんからね! そしてその地が「阿太(陀)」ということのようですが、まず、文中に書かれてある「鵜飼・養鸕・鵜養」部は、読んで字の如く鵜を養う部のことであり、鵜は潜水が得意なことから、我国では鵜を使って漁をする伝統漁法が現在でも有名です。 「鵜(う)」漆黒ボディーのコイツ ペンギン程ではないものの、水中で約1分間も潜水行動ができる、つまり息が長~い「鳥」のことデス 漢字の成り立ちは、会意兼形声文字(弟+鳥)。「ほこ(矛)になめし皮を順序良くらせん形に巻きつけた形」の象形(「順序」、「弟」、「従う」の意味)と「鳥」の象形から人に従う鳥を意味する。 また、wikipediaの鳥養部によりますと、谷川健一氏は、天湯河板挙と少彦根命との関連性を挙げ、雷神である饒速日命を祖神とする物部氏は鳥養部を管轄していたのではないか、と見ている…ともあります。 この「鳥」とは一体何を指すのでしょうかね(意味深) さてさて、本編考察に戻りまして、 現在の通説解釈から説明致しますと、江戸時代の国学者である本居宣長は『古事記伝』にて、「吉野河之河尻」の「河尻」は「川上(現在の川上村)」の書き間違いであるとしています。 また現在の五條市には、「アタ」の地名が残ることから、吉野河下流にあったとされる阿田・阿太は当地のことであるとして、「紀」の記述も踏まえて、川上村(つまり紀の川上流)から川を沿って西にある現五條市へ移動したのだとします。 当地にある「阿太」はここだと言わんばかりに、阿太峯神社という神社もご鎮座されております。 御祭神は、大国主命 少彦名命 石清水八幡神 そこには神武東征とは全く関係のない、しかも阿太(薩摩国阿多)にも全く関係のない出雲(島根県)の神が祀られてありますが...(´・ω・`) 当社の創建由緒等に関する資料は見当たらず不明とあり、現在のご祭神は後の時代の祭神差し替えであると思われる…等とされております。 これ程に「神武東征」に縁ある重要な地でありながら、吉野郡の延喜式にはこの阿太峯神社は記載されませんが、お隣の宇智郡(現五條市)には、式内社である阿陀比売神社がご鎮座されております。 御祭神は、阿陀比売大神 火須勢理命 火照命 彦火火出見命 ●御由緒 「当神社創立は祟神天皇15年と伝えられ、又奈良時代神亀5年(728年)藤原武智麿が神戸(神殿)を寄進したとも伝えられる。「延喜式神名帳」にある阿陀比賣神社は本社であり、五條市内式内社十一社の内に挙げられる由緒ある古社である。」云々 こちらは薩摩国阿多郡阿多郷に住んでいたとされる阿陀比売命(木花咲耶比売命)を主祭としてお祀りしている神社ですね。 少数とは思いますが、当地名が往古の「阿多」であったという研究家もおられるようで、仮にそうであった場合、阿太と御所市とは目と鼻の先、また橿原神宮(イワレビコが初代天皇に即位した樫原の地)も、ごく近傍であり、親子三世代に渡って到達した地が、実は一日で歩いて行けちゃう程度の距離範囲が「神武東征」だったということになり、説話自体が酷い茶番であったということになります。 当然ですが、当社ご由緒からも「神武東征」とは全くリンクしておりませんが、別説として、イワレビコが、九州から遠く離れた奈良の吉野川のほとりで、同郷(隼人)の人々と再会した痕跡を示す地名であると解する諸氏もおられるようです。 従って当説であったと仮定しても、御祭神も含め、地名として薩摩の阿多が先であり、自ずと後に移された地名が奈良県の阿太であるということを自ら実証してしまう証拠になってしまいます。 私的にはご由緒にある、藤原武智麿が当地に寄進してより社が創建されたのだというのが最も有力な説と考えます。 常識ですが、『古事記』は「是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。」「従って或は一句の中で訓と音を交えて使い、或は一事の内では全て訓で表した。」と書かれてあり、漢字を用いて音を充て記しておりますので、全く逆の意味である、河「尻」と川「上」を書き間違うことなど有り得ません。 さすがに上の解釈は、意図的に大和(奈良)へと入植したとするよう辻褄を合わせた感が見え隠れします。 …ということで、そろそろ(私説として)答え合わせをしていきましょう。 まず、イワレビコ一行は、「南から回って血沼海に到着」した後、「その地から更に回って、紀伊国の男乃水門に着いて」とあり、その地に五瀬命の陵の「紀伊の国の竈山」があるはずです。 以前にも記しておりますが、徳島県沿岸部と紀伊水道を挟んで和歌山県沿岸部はおおよそ鏡写しの地名地形となっており、また潮岬を境に東側となる熊野方面は、再び徳島県海岸部と類似地形となっております。 南方にある血沼海から男乃水門へ移動しますから、この場合御覧のような点対称的経路となります。 (本稿では「血沼」の比定考察はまだ書いておりませんがここでは割愛。<(_ _)>この「血沼海」が和泉地方の古名というだけでピンと来る方はいるはず) 血沼/茅渟(チヌ)ということで、いきなり余談ですが、 魚のクロダイ(和名類聚抄:久呂太比 くろたい)のことを関西では俗に「チヌ」と呼びますが、これは一般的に和歌山県以南の四国・瀬戸内・九州北部と南部の一部での呼称です。 面白いのは京都丹後ではチヌと呼ぶのに対し、江尻ではチンダイ、石川県では既にカワダイやテンに変化します。 瀬戸内海でも、九州との境となる山口県ではケンダイ・チンダイと呼ぶのに対し、日本海側では島根県で再びチヌと呼ぶようになるようですね。 更に面白いことに東京ではチン●ン、鹿児島県ではクロ●ンと呼ぶみt(ryjk …ゴホゴホ、チョット余談が過ぎましたが、言葉はもって回るものとよく言いますので、これが一体何を意味しているのかはまた後の宿題としておきましょう(ノ∀`) 話を戻しますと、次行程となる、イワレビコ一行が入港した紀伊国男乃水門(おのみなと)についてですが、 以前に「倭建命を穿って考察 ⑦」で詳しく書きましたが、少し抜粋しますと、 阿波国にある全国唯一社、伊比良咩神社(いひらめじんじゃ)の御祭神は阿比良比咩命(あひらひめみこと)。 この阿比良比咩命は、神武天皇の妃である吾平津媛(あひらつひめ)のことであり、『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記されます。 既に当地が神武に所縁があることを示しておりますが、阿波において「伊(い)」は「阿(あ)」と異音同語であり、また、同国式内社である、意富門麻比売(おおとまひめ)神社や和奈佐意富曾(わなさおほそ)神社の訓みは何れも「意(い)」を「お」と訓むことから、「あ」も「い」も「お」も同じ扱いであるということがお分かりになろうかと思います。 更に言えば、魚(うを)も(いを)と発音し、恵解山(いげのやま)=(えげのやま)と呼ぶことから、実は母音となる「あ・い・う・え・お」は呼びやすいように全て置き換えが可能という地域特性がある県でもあります。 従って、男乃水門(”お”のみなと)は、吉野川河口域にあった徳島港の古名である渭津(”い”のつ(みなと))のこと。「城下町誕生秘話 -幻の渭津(いのつ)-」 ●兵学者山縣大弐が記したとされる絵図では徳島を「猪津(いのつ)」と記す  また、イワレビコの兄 五瀬命(いつせ)の陵がある「紀伊の国の竈山」も以乃山(眉山の古名)にある高良峯(こおらみね)のこと awa-otoko様ブログ「高良(甲羅)峯に行ってきた☆(以の山編 上鮎喰 高良峯)」 地図で比較しても、やはり移し鏡のようにピッタリ左右対称となっております。 「記紀」における紀國並びに紀伊で記された地はどこだったのかも見えて来たのではないでしょうか。 で、そこから巡って「熊野」に到達ということは、再び南へと戻った形になります。 当地が元熊野であったと考えられる考察については「止止呂支比売から考察」「御刀媛から考察 ⑤」「眉山に眠る謎多き摩耶姫から考察」 そこから八咫烏(阿波忌部の祖神)の先導のもと、「吉野河之河尻」へと到達。 当然のことながら、徳島県側にあるのは日本三大暴れ川の一つ、四国三郎ことその名も吉野川となります。 また、阿波版だとキッチリ吉野川の河口(河尻)に到着となりますヨ。(天二上命とは?) 次に「紀」では、更に吉野河を西に沿って行ったところに「阿陀:阿太(あだ)」の養鵜部の始祖である贄持之子が居たと書かれてあります。 当地は和名類聚抄に見る阿波国板野郡(いたのぐん)であり、 筑波大学附属図書館に所蔵されている「阿波国続風土記」によると、板野郡の謂れには、 「此板ノト云根元ハ神宅村板野神社ヨリ起レル名ナリ此神飯田姫ノ命ト云本名ハ吾田鹿葦津姫ト云」 …とも記され、当地板野郡は、「紀」にある神吾田鹿葦津姫、「記」神阿多都比売(別名 木花之佐久夜毘売)の神名により起ったとあります。 先の発音の件と合わせますと、阿太(あた)乃が転じて現在の板(いた)野になったということ。 神武天皇の后をお祀りする伊比良咩神社が御鎮座するのも現在の板野郡藍住町ですネ。 そして、そこに居たとある贄持之子についてですが、神武記の五瀬命のエピソードに、 「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」 「私は日の神の皇子なのに日に向かって戦ってしまった。これは良くなかった。だから、卑しい奴に痛手を負わされた。これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう。」 …との誓いのもと熊野回りを行うことになるのですが、この「日の神の皇子なのに日(太陽)に向かって戦ったことがよくなかった」という意味を、通説では太陽は東から昇るので東へ向かって戦ったことを不吉としたために、迂回して更に東側に回り込むことによって西に向いて戦うことを選んだという意味で捉えられております。 実はここでのポイントは、「日(太陽)に向かって戦った=東へ攻めたこと」という意味合いのものではなく、「太陽に向かうのが不吉であるから太陽を背にすること」を選択したということ。 ではこの「日を背にして戦うこと」とは一体何を示しているのでしょうか 虹(にじ)とは、大気中に浮遊する水滴の中を光が通過する際に、分散することで特徴的な模様が見られる大気光学現象である。 ●名称 「虹」を意味する漢語表現に、虹霓(こうげい)、虹桟(こうざん)などがある。また、虹、蜺、蝃、蝀などのように、虹を意味する漢字は虫偏のものが多く存在する。これに見るように中国語では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習が多い。 ●虹の形状 虹が描く弧は、観察者を基点として、太陽とは正反対の方向、対日点が中心となる。対日点は、観察者から見れば地平線の下にあるので、虹は半円に見える。 ●伝承 中国には虹を龍の姿とする言い伝えがある。明確に龍虹と呼ぶ地域(広東省増城市)や、「広東鍋の取っ手の龍」を意味する鑊耳龍(広東省台山市)と呼ぶ地域もある。(wikipedia 虹より抜粋) 虹の見えるメカニズムを図にするとこんな感じ 虹の漢字の成り立ちは、蛇を表す虫偏の虫(ヘビ・龍)+ 工(貫く)であり、虹は、龍になる大蛇が天空を貫く「天と地を繋ぐ」時に空に作られるものと想像されていたことから、「工」の字と合わせて「虹」という漢字ができたとされています。 古代中国では、大蛇が天に昇って龍になると考えられておりました。 龍は雨を齎す恵みの予兆だという古代の伝承がある一方で、沖縄では、虹は雨呑み者を意味する(アミヌミヤー)と呼ばれ、天の泉の水を飲んでしまうため、下界に雨が降らなくなると言い伝えられており、虹は不吉なものであるとされてきました。 また中国では虹は、虹霓(こうげい)と呼ばれる雌雄の龍であるとされ(虹が雄で、霓が雌)、雨によって天地が結ばれ、竜が水を飲みに来る時に虹ができるといわれています。 虹が出ると戦乱が起きるなどの凶兆ともされましたが、一方で竜(虹)に感じて聖王を孕むといった吉兆を示すこともあり、吉凶両方の言い伝えが残っています。 こういった考えのもと、古代日本では凡そ「不吉」の象徴とされてきました。 天武天皇紀には、 「度西。丙寅、造法令殿內、有大虹。壬申、有物、形如灌頂幡而火色、浮空流北。毎國皆見、或曰入越海。是日、白氣起於東山、其大四圍。癸酉大地動、戊寅亦地震動。是日平旦、有虹、當于天中央、以向日。」 「8月5日。造法令殿内で虹がありました。8月11日。ある物がありました。形は灌頂(=頭頂に聖なる水を注ぐ儀式)で使う幡のようで火の色でした。空を浮かんで北に流れました。国々でみんなが見ました。ある人は「越国の海に入った」と言いました。この日に白い気が東の山に発生しました。その大きさは4囲(イダキ)でした。8月12日。大きな地震がありました。8月17日。また地震がありました。この日の午前4時に虹があり、天の中央に当たって、日に向かっていました。」 午前4時に虹は出んよね(´・ω・`)... 中国の伝奇物語集の『捜神後記』(そうじんこうき:222年-589年内に成立)によれば、 「昔、陳斉という男が役人になって任地に赴いた。その妻が1人で留守をしていると、いつの頃からともなく、赤碧の光り輝く衣をまとった凛々しい男が尋ねてくるようになった。女は気付かなかったようだが、その男の周りにはいつも虹がたなびいていたという。女はやがて身ごもり赤ん坊を産んだ。間もなく、夫が屋敷に帰ってきた。女は子供を隠して育てていた。子供が大きくなったある日、空がにわかに暗くなり大変な風雨になった。それが止んだかと思うと、美しい虹が屋敷の庭に降りてきた。虹はたちまち男の姿になると、屋敷の中から子供を抱えて出てきた。再び、風雨が巻き起こり、しばらくして空が晴れ渡ったかと思うと、2つの虹が屋敷から空に上っていったという。」 また中国の短編小説集の『述異記』(じゅついき:祖沖之撰 429年-500年)には、 「晋の時代に虹が薛願の家に入って来て、釜の中の水を飲み始めた。やがて水がなくなったので、薛願は、「目出度い事じゃ、お祝いをしよう。」 と酒を釜の中に注いでやると、虹は喜んで飲んで居たが、すっかり飲んでしまうと、釜の中へ一杯黄金を吐出して去った。お蔭で薛願は急に大金持ちになったのであった。」 二つの説話とよく似た伝承が我国にもありますなぁ。 では他に『記紀』において「虹」の文字が見られる記事を探してみますと、上の天武紀以外に2ヵ所あり、それぞれ抜粋致しますと、 ●「応神天皇記:天之日矛」 「又昔、有新羅國主之子名謂天之日矛、是人參渡來也。所以參渡來者新羅國有一沼、名謂阿具奴摩。自阿下四字以音之邊、一賤女晝寢、於是日耀如虹、指其陰上。亦有一賤夫、思異其狀、恒伺其女人之行。故是女人、自其晝寢時、妊身、生赤玉。爾其所伺賤夫、乞取其玉、恒裹著腰。」 「又昔、新羅(しらき)の国主の子有り、名は天之日矛と謂ふ、是の人参渡来也。参渡来し所以者、新羅の国にある沼有り、名は阿具奴摩(あぐぬま)と謂ふ。此の沼の辺に、ある賤(いやしき)女昼寝して、ここに日(ひ)耀くこと虹(にじ)の如きて、其の陰(ほと)の上を指しき。またある賤夫有りて、其の状異(け)に思ひて、恒に其の女人の行を伺ひて、かれ、是の女人、其の昼寝せし時より妊身(はら)みて、赤玉を生みき。ここに其の所伺賤き夫、乞ひねがひて其の玉を取りて恒に裹(つつ)みて腰に著けり。」 昼寝をしていた卑しき女のア●コが虹の如く輝いていたという不思議な光景を目にした夫、その後すぐに妊娠し赤玉を生んだという例の説話です。 この赤玉は後の新羅國主の天之日矛の妻となる阿加流比売です。 ●「雄略天皇紀」 「三年夏四月、阿閉臣国見更名磯特牛、譖栲幡皇女與湯人廬城部連武彦曰「武彦、姧皇女而使任身。」(湯人、此云臾衞。)武彦之父枳莒喩、聞此流言、恐禍及身、誘率武彦於廬城河、偽使鸕鷀沒水捕魚、因其不意而打殺之。天皇聞、遣使者案問皇女、皇女對言「妾不識也。」俄而皇女、齎持神鏡、詣於五十鈴河上、伺人不行、埋鏡經死。天皇、疑皇女不在、恆使闇夜東西求覓、乃於河上虹見如蛇四五丈者、掘虹起處而獲神鏡。移行未遠、得皇女屍、割而觀之、腹中有物、如水、水中有石。」 「三年の夏四月、阿閉臣国見(くにみ)栲幡皇女と湯人の廬城部連武彦を譖(そし) りて曰く、「武彦、皇女を姦(たは)けて任身(はらま)しめき。」といひき。」湯人此れを(ゆえ)と云う。武彦之父たりし枳莒喩(きこゆ)此の流言を聞く。禍ひ身に及ばむことを恐れて武彦を廬城河に誘率(いざな)ひき。鸕鶿(う)を水没(かづ)けて魚(いを)を捕らへしむと偽りて、其の不意(おもはざりしこと)に因りて襲って打ち殺しき。天皇、聞きて使者を遣し皇女を案(かむが)へ問はしむに、皇女対へて言はく、妾(われ)は識らずと。俄にし而、皇女神鏡を齎(と)り持ちて五十鈴河の上(ほとり)に詣りぬ。人の往行くことなきを伺(たしかめ)て鏡を埋め、経(わな)きて死せり。天皇、皇女の不在を疑みて恒に闇夜に東西(=あちこちと歩き回り)し求め覓ぐこと使む。乃(すなはち)於河上(河のほとりに)虹見(あらは)る。蛇の四五丈なる者の如し。虹の起ちし処を掘り而神鏡を獲たり。移り行くに未だ遠からずして皇女の屍を得たり。割きて之れを観れば腹中に物の有ること水の如く、水中に石有りき。」 こちらは天武紀と被る記録が見られ、何故か闇夜に虹が現れます。 この皇女は雄略天皇と葛城円(かずらき の つぶら)大臣の娘 葛城韓媛(韓比売/訶良比売)との子 栲幡皇女(稚足姫皇女)です。 雄略紀では、雄略の娘の栲幡皇女と武彦とのレイプ妊娠の疑いの真偽を確かめるべく、なんと皇女の遺体の腹を割いて調べたとあり、腹の中には水のようなモノと石があった。…という何とも奇妙な話を記録しています。 結局のところ妊娠はしておらず嫌疑は晴れたものの、皇女は亡き者になってしまったという哀しい説話になっております。 既に亡くなっていたとはいえ、阿閉臣国見の流言の真相を確かめるのに、皇女の腹を割いてまで武彦の子を身籠っていたのかチェックする必要が果たしてあったのでしょうかね(そっちの方が大事なのかYO! このエピソードにあるキーワードは、皇女の腹の中にあったモノが「水(のようなもの)」と「石」であるということ。 (-ω- )o< フムフム...なるほど!よーわからん... …ということで神武記に戻りまして、阿陀の贄持之子の居たお話の続きですが、 「從其地幸行者、生尾人、自井出來、其井有光。爾問「汝誰也。」答曰「僕者國神、名謂井氷鹿。」此者吉野首等祖也。」 「そこより幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」 井氷鹿(いひか)は、日本神話に登場する神。『古事記』では井氷鹿、『日本書紀』では井光と表記されており、『新撰姓氏録』では、水光姫(みひかひめ)と呼ばれ、女神とされている。(wikipedia 井氷鹿より抜粋) 『古事記』では、井氷鹿は「生尾人」=尾の生えている人とあり、続きまして、 「卽入其山之、亦遇生尾人、此人押分巖而出來。爾問「汝者誰也。」答曰「僕者國神、名謂石押分之子。今聞天神御子幸行、故參向耳。」此者吉野國巢之祖。」 「即ちその山に入りたまへば、また尾生ひたる人に遇ひたまひき。この人、巌を押し分けて出で来たりき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は石押分之子と謂ふ。今、天つ神の御子幸行すと聞きし故、参向へつるのみ」と答へ白しき。こは吉野の国巣の祖なり。」 石押分之子(いわおしわくのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国の国津神。『紀』では、磐排別が子と表記される。吉野の国巣の祖(『紀』では、国巣部(ら)の始祖(もとつおや)なりと記される)。 ●備考 国栖の記述として、大和国吉野とは別に、『常陸国風土記』茨城郡の条にも先住民としての国栖の説明がある。それによれば、「国栖(くず)とは俗(くにひと)の語(ことば)で都知久母(つちぐも)」とあり、『風土記日本古典文学大系』(岩波書店、第14刷1971年、p.46)の脚注4によれば、「土蜘蛛とは土神であり、土着神(国津神)」とする。(wikipedia 石押分之子より抜粋) 次に現れる石押分之子も井氷鹿と同様に「生尾人」であると記します。 これを『日本書紀』では、「光而有尾」「亦有尾而披磐石而出者」と「人」を削除して同じ意味となる「有尾:尾が有る」と書き換えております。こっ、これなのか!? この文字について、研究家諸氏らの字訓は、「イクオビト」並びに「セイビジン」等と訓んでおられますが、恐らくこれらの訓みは「記紀」共に同字で韻が重なる、「生尾/有尾(ゐを/うを=魚)」のことでしょう。 贄持之子は、鵜を使い杭をうって取魚(すなどり=漁:いさり)をする者であり、後出の二人は男女とも「魚」の人を意味しております。 これが吉野川の河口の阿陀近辺からその周辺に居た人物であろうことを指しており、ザックリ纏めますと、 ・「川」にいた贄持之子 阿陀之鵜飼之祖 ・「井」にいた井氷鹿(女性)(生尾人) 吉野首等祖 ・「岩」を押し分けて出てきた石押分之子(生尾人) 吉野國巢之祖 そして同文の締めに、 「自其地蹈穿越幸宇陀、故曰宇陀之穿也。」 「その地より踏み穿ち越えて、宇陀(うだ)に幸(い)でましき故宇陀の穿(うがち)と曰ふ。」 「井(池)」は穴を穿つ=掘らないといけませんが、雄略紀の栲幡皇女の説話にあるのも「掘虹起處而獲神鏡。」「虹の起ちし処を掘り而神鏡を獲たり。」や、腹の中にあった「水のようなモノ」と「石」のセットです。 従ってこれらが腹を割いて出て来たことからも、栲幡皇女の「子」であることの暗示ではないでしょうかね この宇陀(うだ)についてですが、旧板野郡域に「鵜の田尾峠」という場所があり、 wikipedia鵜の田尾峠の伝承によると、 昔、鵜を使って魚をとるのが上手な漁師がいた。漁師が峠で休憩していたら一人の旅僧がやってきて「漁師さん、あなたは長い間殺生をしてきたがもうやめなさい。年老いてから生物怨念に悩まされますよ」と説いた。漁師は「ごもっともですが、生業なので」といって持っていた団子を僧にすすめた。僧は「ありがとう」と言って団子を口にほうりこんだが、一口もかまずにグッとのみこむんだ。漁師はその異様な食べかたにゾッとするのを覚えたので、いそいで立ち上がり漁に向かう支度をはじめた。ところがふとみると僧がどこにもいなく、漁師は不思議に思ったが、そのままある池で漁をはじめた。ところが、鵜が突然、怪魚に襲われた。漁師は、格闘の末、怪魚をとらえ、持ち帰り腹をさくと、峠で僧に与えた団子が出てきた。峠の僧は、怪魚の化身だった。その後、漁師は、一切魚をとらなかったと言われている。この後、この峠が「鵜の峠(たわ)」と呼ばれるようになった。 …と記されています。 阿波の説話の内容もそうですが、鵜の峠も宇陀の訛りであるとも指摘できます。 また、「石押分」の意味も、1000m級の阿讃の山脈(巖)を一直線に分断(押し分け)して流れる吉野川の形容なのではないでしょうか (情報量が多過ぎて俄に纏めきれませんが笑) 吉野町(よしのちょう)は、徳島県板野郡にあった町である。2005年4月1日、市場町・阿波町・土成町と合併して阿波市になった。 かつての町域は阿波市吉野町柿原・吉野町西条・吉野町五条となっている。(wikipedia 吉野町 (徳島県)より抜粋) 徳島県の吉野町にも奈良県と同様に五条の地名がありますが、吉野の河を西へ沿って移動すると板野(阿陀)➨吉野➨土成の御所(御諸)の方になります。 しかもこの土成町樫原には、創建が奈良県の橿原神宮よりも古い樫原神社(祭神:神倭伊波礼比古命)がご鎮座されておりますヨ。 さて最後に、イマイチチョット分かり難かった贄持之子(ニヘモツのコ)についてなのですが、こちらも漢字の読みを変えますと、”ニジのコ”と読むことができ、これまでの考察からも、「蛇/(龍)」を表す虫偏の虹の別字にあたる「蜺」、つまり=虫(ヘビ)の兒(子)の意味であり、阿波においては、虫に至る子と書いて=蛭子(ヒルコ/エビス)のことを指します。 従って、贄持(にじ)=「えびす」こと事代主命であり、更にその「子」なのですから、そのお方が誰であるのか、既にお分かりの方もおられるのではないでしょうか 今回も長々と書きましたが、吉野からそこに纏わる地が本当はどこであったのか、また、関連する様々なキーワードが出て来たように思いますが、今回の考察はここまでということで(´・ω・`)ノ

  • 23Nov
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      応神天皇の痕跡から考察⑧

       ◆一寸法師 前稿の「応神天皇の痕跡から考察⑦」から引き続き、応神天皇と伊奢沙別/去来紗別から何が見えて来るのかについて考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 当稿はご先達方の資料をふんだんに使用させて頂いております。<(_ _)> 品陀和氣命(ほむだわけのみこと=応神天皇)と名を交換したとある、「記」伊奢沙和気大神、「紀」去來紗別神の神名にある「いざ」の部分についてですが、辞書検索しますと、 去来(きょらい) ① 去ることと来ること。行ったり来たりすること。ゆきき。往来。「心中に去来する思い」 ②過去と未来。(goo辞書より) …とあり、辞書の①の意味として、『古事記』大国主命の国造りの段にある「有歸來神」「帰って来る神がいました。」と同様の意味になります。 また、『古事記』にある「帰来(きらい)」について興味深いことに、同音となる「喜来(きらい)」の地名が東四国(阿讃)に集中して点在しています。 喜来(きらい)は、日本の地名。主に徳島県内に多く存在する。 ●地名 鴨島町喜来-徳島県吉野川市の地名。 中喜来 - 徳島県板野郡松茂町の地名。 美馬町喜来市- 徳島県美馬市の地名。 市場町上喜来- 徳島県阿波市の地名。 阿波町下喜来- 徳島県阿波市の地名。 阿波町下喜来南- 徳島県阿波市の地名。(wikipedia 喜来より) wikipediaにもあるように、徳島県で顕著に見える地名です。 「喜来地名」というサイト様によれば、「櫛(くし)」のことをアイヌ語ではkirayと言いい、意味としてはそれで「しらみ」が死ぬということのようです。 阿讃で「喜来」の付く地名は、40~50ヶ所もあるようですネ。 その中に香川県大川郡白鳥町にも「帰来」地名があるようですゼ(・∀・) また『古事記』仲哀天皇・神功皇后記にある 「久志能加美 登許余邇伊麻須 伊波多多須 須久那美迦微能 加牟菩岐 本岐玖琉本斯 登余本岐 本岐母登本斯 麻都理許斯美岐叙」 「酒の神の、常世の国に居る、石に宿る少名御神(スクナミカミ)の祝福の 踊り狂い 踊り回りして作った酒です。」 これまた同音となる、酒(くし)の神との関連性も指摘されますが、「キライ」につきましては一旦これくらいでおいておきましょう。 「キライ」についての参考資料はこちら ➨「地名「喜来」の考察」➨「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」 古くは大国主命時代の説話からも、「少彦名命」が帰来したとある場所は、出雲之御大之御前(=出雲の三穗之碕)であり、また後に同地から常世へと旅立っており、後段になる大物主神も、同地に海の向こうから光り輝く神様として現れたように、この場所(伊那佐之小濱=今の那佐湾)は神々が往来する港として描かれております。 私説とはなりますが、「天孫降臨:阿波海部説」として同地を再度読みますと、 『古事記』ニニギの段に、 「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」詔而、於底津石根宮柱布斗斯理。」 「この地(和奈佐)の者は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。」 つまり、この地を拠点として、韓国(常世)へと旅立って行けることがきちんと記されていることになります。 この五十狹々小汀での説話の中で、国造りの時に当地で「食事をなさった」のは「大己貴神」であり、また、国譲りの際、出雲の五十田狹之小汀の「三穗之碕」から帰って来たのは「事代主神」ですよね。 『播磨国風土記』によると、阿波国和那散の浜で食事をされたのは去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)こと17代履中天皇。 これが「仮に」大己貴神に対応すると仮定し摺り合わせした場合、『播磨国風土記』によると、「伊和大神の妻の許乃波奈佐久夜比命」とあり、木花之佐久夜毘売の夫は「記紀」では邇邇芸命なのですから、その「兄」にあたるのは確か海部氏の祖である邇芸速日命(天火明命)になりますよね。 履中天皇は、当徳島県の海部の地で太姫郎姫と高鶴郎姫を嬪としたことが『日本書紀』に記録されていますが、その兄に当たるのは鷲住王であり、履中天皇からすれば義理の「兄」となります。 また天火明命も『播磨国風土記』によれば、大汝命と弩都比売の子で、あまりにも乱暴な子であったため、大己貴命が船に乗せて 出航した際、立ち寄った場所に置き去りにしようとしたことで天火明命を怒らせ、海が荒れ狂ったため船は難破して、大己貴命は非常な難渋をしたという説話が記録されています。 『海部氏系図』や『先代旧事本紀』によれば、天火明命は、大己貴命の娘である天道日女命を妃として天香語山命を生むともあります。 従って、大己貴命(この場合邇邇芸命)の義理の「兄」の邇芸速日命(天火明命=鷲住王)が、大己貴命の「娘」を妻としたことにより、大己貴命の「義理息子」になったということになり、系譜としては、大己貴命の次代に「義兄」が入ることが一つのポイントになります。 さて、これまでの過去の考察等から、須佐之男命の子である五十猛命は天村雲命と同神であるという結論を出しました。 また、須佐之男命の6世孫或いは7世孫とされる大己貴命(大国主命)も、須佐之男命の娘である須勢理毘売を娶ったことにより、大己貴命は須佐之男命の「義理息子」となりました。(『日本書紀』では素戔嗚尊の御子とも記す) 「本家の元祖考察 オマケ」での考察では、阿波國「続」風土記によると、天村雲命は、大国主命と同神ともいわれている天日鷲命の”御弟神”と記されています。 前稿に載せた『古事記』大国主命の段に、小名毘古那神は神產巢日神之御子とあり、また一方で、『日本書紀』では、高御産巣日神の子とも記されてあります。 これを例の如く下に用意した「忌部氏系図」に当て嵌めますと、天背男命の子である天日鷲翔矢命の妹にあたる天比理乃咩命を妻としたことで、天日鷲翔矢命と「義兄弟」となったのは高皇産霊神の子である天太玉命。 従ってこれが「少彦名命」ということになり、逆算で天背男命は須佐之男命ということになります。 「記紀」にある須佐之男命の子の五十猛命(=天村雲命)は、この時点では天日鷲翔矢命もしくは天太玉命にあたります。  上の阿波國「続」風土記に書かれてあるように、天村雲命の父は天手力雄命とありますから、「天背男命=須佐之男命=天手力雄命」の公算が非常に大きいでしょう。 因みに天日鷲翔矢命の弟になる櫛明玉命は、 玉祖命(たまのおやのみこと)は、日本神話に登場する神である。玉造部(たまつくりべ)の祖神とされる。『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』にはこの名前の神は登場しないが、同神と見られる神が登場する。 ●概要 別名に玉屋命(たまのやのみこと)、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、天明玉命(あめのあかるたまのみこと)、豊玉命(とよたまのみこと)などがある。 高御魂命の孫とする伝承があり、また天背男命の子で天日鷲命の弟とする系図も存在する。(wikipedia 玉祖命より抜粋) 「玄松子の記憶」にも、櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)は、天明玉命(あまのあかるたまのみこ)、天羽明玉命(あめのはあかるたまのみこと)、天豊玉命(あめのとよたまのみこと)、玉祖命/玉屋命(たまのやのみこと)、天櫛明玉命(あめのくしあかるたまのみこと)、羽明玉(はあかるたま) …とあり、この「豊玉命」が仮に「豊玉彦」であったとした場合、 ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神。転じて海・海原そのものを指す場合もある。 ●概要 『古事記』は綿津見神(わたつみのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などの表記で書かれる。(wikipedia ワタツミ・ワダツミより抜粋) …となり、また アマツヒコネは、日本神話に伝わる日本神話の神。 ●概要 『古事記』では天津日子根命(あまつひこねのみこと)、『日本書紀』では天津彦根命(あまつひこねのみこと)、他文献では天都比古禰命とも表記され、波多都美命(はたつみのみこと)の別名を持つ。 アマテラスとスサノオの誓約の際に天照大御神の玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。(wikipedia アマツヒコネより抜粋) 上の図からも、須佐之男命と天照大御神との誓約(うけひ)によって化生した「親子」であるというとこがお分かり頂けるかと思います。(つまり推測した系譜が一致する) ここで、誓約で得た子は「義理」の子ではないのかといった一つの仮説が浮かび上がってきます。 本稿でいうところの気比(けひ)=かへ➨化へ=”変え”(交換)ですな。 同時に、”天”豊玉命=”海神”豊玉彦ということとなり、天(あま)の意味は、海(あま)と同義ということにもなります。 ここまではよいとして、ここから次の解釈が非常に難しいのですが、天日鷲翔矢命の子である「大麻比古命(津咋見命)」について、 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町板東にある神社。式内社(名神大社)、阿波国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 ◆主祭神 大麻比古神 -天日鷲命の子で、阿波忌部氏の祖とされる。 ◆配祀神 猿田彦大神- 古くから大麻山に祀られており、のちに合祀されたとされる。 『日本の神々 -神社と聖地-2 山陽・四国』(以下、『日本の神々』)によれば、古くは室町時代成立の『大日本国一宮記』にあるように祭神は猿田彦大神とされ、文化12年(1815年)の『阿波国式社略考』にも見られるように、概して卜部系の考え方は猿田彦大神で統一されているのだと言う。『日本の神々』では、これに対し、神社・神主の側では享保14年(1729年)と宝暦4年(1754年)に郡代奉行へ「御神体猿田彦大神と崇め奉り候ふ儀、なおまた秘説これあり候へども…」と上書したように、猿田彦大神は大麻山山頂にあったのを合祀したもので本来の主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であると、猿田彦大神を暗に否定して阿波忌部氏の祖神に付得する努力を続けてきたようだ、と述べている。 『日本書紀』の神代巻では阿波忌部氏の遠祖は天日鷲命であるとし、『古語拾遺』では天富命(あめのとみのみこと)をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒の地を求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖わせしめたとしているが、『日本の神々』によると阿波国の国学者野口年長は、安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図から、大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみのみこと)と言い、その娘は千鹿江比売命(ちかえひめのみこと)であるとの説を提唱したのだと言う。 明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命としたが、『日本の神々』によれば、山口定実が忌部氏祖神説の傾向をさらに発展させて唱えた「天日鷲命は阿波忌部の祖先であるから、(忌部神社は)忌部の社または地名により麻植の命と申すのに対して、(当社は)太祖天太玉命を祀って大麻比古神と申す」との説が、現在の大麻信仰の基礎となっているのだと言う。 同書では、神話において、天孫降臨に五伴緒の一人として随伴した天津神の天太玉命と、その行く手に現れた国津神の猿田彦大神は本来別系統の神であり、本質的には対立する関係の両神が同一社地に祀られている理由は必ずしも明らかではないと述べる一方で、猿田彦大神が祀られた事情を次のように推測している。(wikipedia 大麻比古神社より抜粋) 平たくいえば、大麻比古神は、「天日鷲命or猿田彦大神or天太玉命」のどれかワカンネーベといったところのようです。 付け加えて以前に考察しました、粟国造粟凡直の子孫の系譜となる「粟国造粟飯原家系図」から、 月夜見命は須佐之男命の亦名ともあり、仮に津咋見命(つくいみ)=月夜見命/月讀命(つくよみ)であったとすれば、須佐之男命すらもこれに加わるということになります。 確かに「記紀」では、月讀命は須佐之男命とエピソードが重なることから、通説においても同一神説があります。 awa-otoko様ブログ「児宮祭神 斎主命とは何者なのか?」より ●古書「端山郷土史編纂要項:児宮神社本暦」 確かに、大麻比古命 又名 津咋見命と見えますね。 更に付け加えますと、これが亦云 勝速日命(=正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命)であったのであれば、皇祖本流系譜を意味することとなり、これがまたしても須佐之男命と天照大御神の誓約御子なのですから、1世代ズレての自身の分身(=別名にしての義理息子)であるということにもなり、同時に大己貴命に比定する天日鷲翔矢命(=邇邇芸命)の父の天背男が須佐之男命であるという仮説も一致を見ます。 つまりこちらも、宇(う)気比(けひ)=かへ➨化へ=”変え”(交換)ですな笑 また、猿田彦大神につきましては、岐神や積羽八重事代主命とも同神であることも以前に記しました。 ●「三輪氏系図」より空と風:「日本を建国した大国主命一族という名の阿波忌部」より拝借 従って一番オーソドックスな系譜として置き換えますと また別に、大麻比古神自体が「須佐之男命 - 大己貴命 - 積羽八重事代主命」の所謂親から孫までの三世代のことを指しているのであれば、実はこれら全てが同神であるという可能性も挙げられますが、少なくとも天日鷲翔矢命(=大己貴命)を中心に、前後の系譜が「須佐之男命」であることになります。 先程考察しました、大己貴命の「義兄」が大己貴命の子(つまり義理息子)であり、これが実は系譜上の「父」で、別名が大麻比古命であるということになります。 また、一般社団法人忌部文化研究所の「徳島と日本各地を拓いた阿波忌部」によれば、 との見解があり、また、wikipediaによると、 天日鷲神(あめのひわしのかみ)は、日本神話に登場する神。『日本書紀』や『古語拾遺』に登場する。阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神。 ●系譜 『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲神の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから少名毘古那神と天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲神(少名毘古那神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となる。(wikipedia 天日鷲神より抜粋) つまり下図の青線囲いの上下は別神名で描いた同系譜であるとの想定ができるのです。 よって(この時点で少なくとも) 大麻比古命は、須佐之男命=積羽八重事代主命=猿田彦大神=大物主神=饒速日命=天太玉命 この説に沿って説明しますと、 大己貴命の段の国造り・国譲りを解説しますと、国造りの際に船に乗って海から戻って来た後に義兄弟となったのは少彦名命。 これが大己貴命(=邇邇芸命)からは「義兄」にあたる饒速日命(天火明命)となります。 また、国譲りの際では、三穗之碕から戻って来たのは「子」で描く積羽八重事代主命(=岐神=猿田彦大神)で、その実は、父の須佐之男命になるということ。 従って必然的に「義理息子」であるということになります。 ※因みに少彦名命は大己貴命と「兄弟」になって云々との記述は見られるものの、それが兄か弟かは詳しくは書かれていません。これは八重事代主命の兄弟である建御名方神も同様です。 この仮説を証明すべく、次代の由布津主命を調べてみますと、 またしてもawa-otoko様ブログ 「安房国忌部系図からみる由布津主命 又名 阿八別彦命(アワワケヒコ)」より 忌部高山家に伝承されていた忌部家系を表した写本『安房国忌部系図』によると、 大麻比古命と磯根御氣比賣命との間の子に、千鹿江比賣命と由布津主命のニ柱が誕生します。 由布津主命は又名を阿八和気毘古命(アワワケヒコ)と記されています。 この阿八和気毘古命(阿八別彦命)ですが、 同系図では、由布津主命を天止美命(天富命)と定め、更に由布津主命は青和幣、白和幣を使用して荒妙を調達し、これは阿波国から麻、木綿、和幣の織物を用意させたものであると記録しています。(種々の木を持って行脚する様はまるで須佐之男命と五十猛命ですな) 要するに由布津主命と天止美命(天富命)は同神であると書かれています。 ということは、やはり青線囲いの上下は共に同系譜であるということになります。 お次は『出雲国風土記』大草郷の条に、 「須佐乎命の御子、青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)坐す。故、大草といふ」 とあり、式内社 八重垣神社(旧称 佐久佐神社(さくさじんじゃ))では、素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とし、青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこ)も配祀しています。 この一風変わった神名の出雲の神ですが、「記紀」には一切記されていない神であり、同風土記にはこのような神が数多く登場します。 少し例を挙げますと、「三輪高宮家系図」では、 (ぐーたら気延日記様よりお写真を拝借しております<(_ _)>) 建速素戔嗚命の又名に、八束水臣津野神の名が見えますが、この神は、『出雲国風土記』によれば、「出雲の礎を築いた神」というニュアンスで冒頭に登場する神であり、新羅(朝鮮半島)の一部を出雲に引き寄せ、島根半島を造成したという「国引き」を行った神として描かれています。参考➨「【出雲国風土記】国引き神話」 また八束水臣津野神(淤美豆奴神)は、岡山県の北居都神社のご由緒には、須佐之男命の御子神であるとされ、また『古事記』では、大己貴命の父の天之冬衣神の父として神名が見えます。 何度もいいますが、大国主神は須勢理毘売を娶ることで(義理の)父となったのは須佐之男命、また天之冬衣神も父とあり、更にその父も父(チョット何を言っているのかわからない)となり、結局のところ、ここでも系譜的には3世代に渡って、「須佐之男命 - 須佐之男命 - 須佐之男命」になっています。 鋤持神:さい(ひ)もちのかみ 佐比持神 【名】(「さい」は刀剣の意) 刀剣を持っている神 (コトバンクより) ということは、この須佐之男命の御子である青幡佐久佐日古命も、訓みを変えれば、「青幡佐久:あはさく-佐日(日)古命:さ(ひ)ひこのみこと」となり、字義として、「阿波を割いた刀剣の男」の意味となり、由布津主命の別名である阿八和気毘古命(あわわけ - ひこ:阿波を別けた男)と同様の意味となります。 文字音が重なることでいわゆるリエゾン的な日本語となりますが、仙覚律師のいう「伊は発語詞也。梵語には阿字以て発語の詞為、和語は伊字を以発語詞と為也。」「天竺にては阿字を以て発語とし和語は伊字を以為。」を踏まえ、阿八和気毘古命(アワワケヒコ)の「ア」も「イ」も発語は同じと解せば、これが「イワワケヒコ」となり、『ホツマツタヱ』にあるカンヤマト(美称)+イハワレヒコ(神武天皇)と同じ意味となります。 これがリエゾン仕様で『日本書紀』では神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)ということになります。 従って「裂く」「別け」「割れ」と同義の文字を充てた同神名とも考えられます。 wikipediaスクナビコナに、少彦名命は、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神(=いわの神)など多様な性質を持つ。とある意味もこれでお分かり頂けるのではないのでしょうか。 従って父の大麻比古命=須佐之男命の仮説もこれまたアタリであるということになります。 また『出雲国風土記』には、別の須佐之男命の子に、都留支日古命(つるぎひこのみこと)の記録もありますから、恐らくこれ等はみな同神であると考えられます。 この由布津主命ですが、wikipediaでは、 「剣の神」と書かれている『日本書紀』にのみに出現する経津主神(ふつぬしのかみ)別名イワイヌシ(イハヒヌシ)のことで、斎主神または伊波比主神とも表記されます。 「忌部氏系図」では妻となった飯長媛命も斎主ですよね。 従って先代の須佐之男命から孫の代に自身が移動し、再び須佐之男命の子へと系譜がループしていくのです。 ここで抑えておきたい点として、先述した由布津主命と天富命は同神であることから、天富命、つまり自身の子の飯長媛命が妻となっているということ。 これを系譜で説明しますと、 須佐之男命(天背男命)の娘である天比理乃咩命と結ばれた少彦名命(天太玉命)は、次代において須佐之男命(大麻比古命)の「義理娘」となる飯長媛命と結ばれた由布津主命(=少彦名命と同神)の構図となり、 実は須佐之男命の子神は娘を含め全て「義理の子」であることが判明し、また系譜的には再度須佐之男命が孫の代で出現することによって次代へとループするようになっています。 更に言えば、大己貴命から少彦名命へ、「大」から「少」へと本流系譜が推移し、その両方の系統が実は皇祖本流へと繋がっていることを示しています。 同時に誓約御子のトリックは、このようにして結局のところ「義理の子」で成り立っていると考えられるのです。 次に讃岐国大麻神社に、 「天富命の孫である鷲住王は、阿波国の脚咋別の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。」飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂本神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。なお、氏子にはその末裔の高木氏がいる。 …とあり、脚咋とされる徳島県海部郡海陽町宍喰には、日本三祇園である宍喰八坂神社がご鎮座され、当社祭神の素戔嗚尊も元は鷲住王をお祀りされておりました。 ●「宍喰町誌」 また『先代旧事本紀』「国造本紀」にある「粟国造 応神朝の御代、高皇産霊尊9世の孫・千波足尼(チハノスクネ)を国造に定む」とあり、9世遡ればこの訶多々主命(堅田主命)に行き着きます。 従って再び高皇産霊尊(須佐之男命=この場合天富命の孫は訶多々主命)から再度系譜が続くことになるのです。 これを宇気比(うけい:誓約)という一種のまじないとして、気比大神(去来紗別)の説話にある、「けひ➨かへ➨変えた」という義理の親子で結ぶ系譜トリックで、「去来(きょらい=いざ)」のもう一つの意味でもある「過去と未来」がイコールで結ばれているという意味ではないでしょうか。 さて、時を経て、これが鷲住王が17代履中天皇の「義兄」であるということが一体誰を意味するのかを証明しなければなりません。 このトリックを補足する証拠となるものを以下に並べてみますと、 沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は、滋賀県近江八幡市安土町常楽寺にある神社。式内社で、旧社格は県社。 少彦名命を主祭神として計四座五柱の神々を祀り、「佐佐木大明神」と総称する。佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地に鎮座する。 ◆本殿祭神 佐佐木大明神 一座・少彦名命- 祖神・産土神 二座・大彦命(大毘古神) - 古代沙沙貴山君の祖神・四道将軍 三座・仁徳天皇(大鷦鷯尊) - 沙沙貴にゆかりある祭神 四座・宇多天皇・敦実親王- 宇多源氏・佐々木源氏・近江源氏の祖神(wikipedia 沙沙貴神社より抜粋) 奈良県の大神神社(祭神:大物主大神=倭大物主櫛甕玉命)は酒造り(神酒:ミワ)の神様としてまた三輪氏の祖伸としてお祀りされています。 祭神の一致やその神徳からもこれは少彦名命=事代主命ですよね。(この辺はあまり異論はないはず)これを踏まえまして、 沙沙貴神社のご祭神にある8代孝元天皇と欝色謎命(開化天皇の母)との子に、大彦命がおり、兄弟には少彦男心命(日本書紀一書、少名日子建猪心命)がおります。 また、伊香色謎命との間の子には彦太忍信命(比古布都押之信命)がおり、この皇子と山下影日売との間に生まれたのが当稿の名の交換説話に登場する建内宿禰となります。(スクネの系統ね) この建内宿禰の子である平群木菟宿禰もまた仁徳天皇と名を交換しています。 傍流で描いた伊香色謎命は次代の開化天皇が娶ることにより崇神天皇が誕生、即ち皇祖本流へ入れ替わるのです。 つまり皇祖本流と傍流で描く物語は実は表裏一体のお話であり、少彦名命(鷦鷯(=娑娑岐:ササキ)の羽で出来た服を着て登場)を祖神とする沙沙貴神社では、佐佐木源氏も大彦命(沙沙貴山君の祖神)も同祖であり、また仁徳天皇(大鷦鷯尊)も沙沙貴にゆかりある祭神としてお祀りしているのです。 wikipediaで少彦名命を調べてみますと、 少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は、日本神話に登場する神。 ●系譜 『百家系図』巻三十七所載の「三嶋」系図には天湯川田命の子とあるが、天湯川田命は神魂命の後裔とされる。また『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲命の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことからスクナビコナと天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天湯川田命(天背男命)ー少彦名命(天日鷲命)ー建日穂命(天羽槌雄命)ー波留伎別命」となる。 ●後裔 『先代旧事本紀』では鳥取氏の祖神とされている他、三島県主の祖神ともされる。(wikipedia スクナビコナより抜粋) wikipedia天日鷲神の時にも同様の旨が記されておりましたが、つまり天背男命の後裔に鳥取連/部・美努連/宿祢(少彦名命が祖神)がおり、また天日鷲命の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖であることから、その系譜上の間に居る天日鷲命が少彦名命と同神であるということ。 そして、以前「堅石王から考察」で考察した上祖である「意富比垝:オホヒコ」。 鉄剣に銘文として刻まれた文字は、 「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原」 「ワカタケル(若しくはワクカタシロ(稚事代))大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。」 自説として随分と答えに近付いて来たように思いますので、一応(現時点で)の答えを書いておきましょう。 本稿での履中天皇と鷲住王の関係を整理しますと、 ①五十狹々小汀での説話の中で、国造りの時に当地で「食事をなさった」のは「大己貴神」であり、また、国譲りの際、出雲の五十田狹之小汀の「三穗之碕」から帰って来たのは「事代主神」。 ②『播磨国風土記』によると、「伊和大神の妻の許乃波奈佐久夜比命」とあり、木花之佐久夜毘売の夫は「記紀」では邇邇芸命ですから、その「兄」にあたるのは海部氏の祖である邇芸速日命(天火明命)。 ③大己貴命の「義兄」が大己貴命の子(つまり義理息子天火明命)であり、これが実は系譜上の「父」である。 ④履中天皇は、鷲住王の妹である太姫郎姫と高鶴郎姫を嬪としたことで鷲住王が履中天皇の義理の「兄」となった。 従って、「忌部氏系図」に置き換えますと、 履中天皇の「義兄」は、次代の「義理息子」であり、実は「義父」の鷲住王(=クローンの仁徳天皇)となります。 本流として置き換えますと、次代に当たるのは、雄略天皇、傍流とすれば市辺押磐皇子となるんでしょう。(市辺押磐皇子のエピソードも、わざわざ押歯(八重歯)であると、八重事代主命を暗示していますしね) 因みに雄略天皇の陵は、大阪府羽曳野市にある、丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)。 伊勢に豊受大神を移せといったのは誰でしょうか。 またそれを移した人物は誰でしょうか。 そして初代伊勢国造となったのはどなたでしょうか。 まぁ、これが現在の「伊勢」なのかは検証する必要がありそうですがね。 少なくとも、応神天皇の子である例の大阪府の巨大な古墳の被葬者は、歴代の役職名とも考えられる「沙沙貴にゆかりある」天日鷲命(=事代主命)の一人であり、コレ即ち”天皇”であると置き換えることも可能なんじゃねってことで。(少彦名命スゲーな) 応神天皇の痕跡からこのようなお話になりましたが、「記紀」の意味示す具体的な内容につきましては更に吟味を重ねる必要がありそうですね。 一応何度も申し上げておきますが、あくまでも私説考察ということで(´・ω・`)ノ

  • 14Nov
    • 応神天皇の痕跡から考察⑦の画像

      応神天皇の痕跡から考察⑦

      ◆スクナヒコ 画像は各地の温泉地をキャラクター化した地域活性化プロジェクト「温泉むすめ」のスクナヒコちゃんです(´・ω・`)ツイニハジマッタカ... 昨今のなりふり構わない擬人化は益々拍車がかかってきておりますなぁ。 戦艦や戦国武将、果ては競走馬までもがみーんなキャラクター化或いは可愛らしいおにゃの子になっちゃってますネ。(イイゾモットヤレ...えっ? さて、当表題としては以前にいくつか記事を載せておりますが、久々の続稿となります(´・ω・`) …が、内容的には最早続きなのかどうかすら怪しい別モノとなっておりますので、その辺はご了承下さいませ<(_ _)> 氣比神宮(けひじんぐう、気比神宮)は、福井県敦賀市曙町にある神社。式内社(名神大社)、越前国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 ●社名 「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、『古事記』では「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したという。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある。これとは別に、応神天皇と気比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある。 ●祭神  伊奢沙別命(いざさわけのみこと) - 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。  仲哀天皇 - 第14代天皇  神功皇后 - 仲哀天皇の皇后 ●祭神について 上記の通り主祭神はイザサワケ(伊奢沙別/去来紗別)で、氣比神宮特有の神である。神名「イザサワケ」のうち「イザ」は誘い・促し、「サ」は神稲、「ワケ」は男子の敬称の意といわれる。そのほかの名称として、史書では「笥飯」「気比」「御食津」と記されるほか、『気比宮社記』では「保食神」とも記される。これらは、いずれも祭神が食物神としての性格を持つことを指す名称であり、敦賀が海産物朝貢地であったことを反映するといわれる。このことから、神宮の祭神は上古より当地で祀られた在地神、特に海人族によって祀られた海神であると解されている。一方、『日本書紀』に新羅王子の天日槍の神宝として見える「胆狭浅大刀(いささのたち)」との関連性の指摘があり、イザサワケを天日槍にあてて新羅由来と見る説もある。 このイザサワケは、仲哀天皇・神功皇后・応神天皇と深いつながりにあることが『古事記』『日本書紀』によって知られる。両書では、仲哀天皇が角鹿に行宮として「笥飯宮」を営んだとあるほか、天皇の紀伊国滞在中に熊襲の謀叛があり角鹿にいた神功皇后を出発させたと見え、角鹿の地が登場する。神功皇后は、仲哀天皇の突然死を経て新羅に遠征(三韓征伐)、帰途に太子(誉田別尊;応神天皇)を産んだ。そして、皇后と太子がヤマトへ戻る際に謀叛があったが無事平定し、太子は武内宿禰に連れられて禊のため気比神に参詣したという。以上のように、歴史の早い段階から気比神が朝廷の崇敬を受ける神として登場しており、一連の出征の始まり・終わりを成したことから古くは軍神として崇敬されたとも見られる。 『古事記』ではその後の経緯として、武内宿禰に連れられた太子(応神天皇)はイザサワケと名の交換を行ったとする(易名説話)。説話によれば、太子が角鹿(敦賀)の仮宮を営んでいると、夜の夢にイザサワケが現れて名を交換するよう告げられた。太子が承諾するとイザサワケは翌朝に浦に出るように言い、太子が言われたとおりにすると浦には一面にイザサワケの献じた入鹿魚(イルカ)があった。これにより太子はイザサワケを「御食津大神(みけつのおおかみ)」と称え、のちにその名が「気比大神」となったという。同様の説話は『日本書紀』でも別伝として記されているが、『古事記』『日本書紀』とも内容には疑問点が指摘される。この説話の解釈には諸説あるが、特にその真相を「名(な)と魚(な)の交換」すなわち「名の下賜」と「魚の献上」であるとして、気比神(とその奉斎氏族)の王権への服属儀礼を二重に表すと見る説が有力視される。また、以上のように当地が応神天皇系の勢力基盤であったことは、越前から出た応神天皇五世孫の継体天皇(第26代)とも関係するといわれる。(wikipedia 氣比神宮より抜粋) 先刻書きました「古代讃岐の痕跡から考察」とも関連して参りますが、wikipediaにも書かれてありますように、「記紀」には、奇妙な記録として、応神天皇と伊奢沙別命(氣比大神)との名前を交換するエピソードが記されてあります。 それぞれに記載されてある内容から、これが一体何を意味しているのか、はたまたそこから見えてくるものは何なのかについて今回は考察していきたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まず、『古事記』「仲哀天皇・神功皇后」から、 「故、建內宿禰命、率其太子、爲將禊而、經歷淡海及若狹國之時、於高志前之角鹿、造假宮而坐。爾坐其地伊奢沙和氣大神之命、見於夜夢云「以吾名、欲易御子之御名。」爾言禱白之「恐、隨命易奉。」亦其神詔「明日之旦、應幸於濱。獻易名之幣。」故其旦幸行于濱之時、毀鼻入鹿魚、既依一浦。於是御子、令白于神云「於我給御食之魚。」故亦稱其御名、號御食津大神、故於今謂氣比大神也。亦其入鹿魚之鼻血臰、故號其浦謂血浦、今謂都奴賀也。 於是、還上坐時、其御祖息長帶日賣命、釀待酒以獻。爾其御祖御歌曰、 許能美岐波 和賀美岐那良受 久志能加美 登許余邇伊麻須 伊波多多須 須久那美迦微能 加牟菩岐 本岐玖琉本斯 登余本岐 本岐母登本斯 麻都理許斯美岐叙 阿佐受袁勢 佐佐 如此歌而、獻大御酒。爾建內宿禰命、爲御子答歌曰、 許能美岐袁 迦美祁牟比登波 曾能都豆美 宇須邇多弖弖 宇多比都都 迦美祁禮迦母 麻比都都 迦美祁禮加母 許能美岐能 美岐能 阿夜邇宇多陀怒斯 佐佐 此者酒樂之歌也。」 「建内宿禰は太子(応神天皇)を連れて禊をしようと、淡海の若狭を巡り、高志前の角鹿に仮宮を建てて滞在していました。その土地にいる伊奢沙和気大神(イザサワケ)が建内宿禰の夢に出て言いました。「わたしの名前をその子の名前に変えたい」それに対して建内宿禰は「恐れ多いことです。おっしゃるとおりに名を交換しましょう」するとその神は「明日の朝、浜に出かけなさい。名を変えた『しるし』を差し上げましょう」と言いました。御子(応神天皇)が翌朝、浜辺に行ってみると、鼻がやぶれたイルカが、集まっていました。それを見て太子は言いました。「私は神より、食料の魚を給った」それで、その神を御食津大神(ミケツは神の食べる食物・天皇が食べる食物の意味)と名づけました。現在は気比大神といいます。またイルカの鼻の血が臭かったので、その浦を「血浦」といいます。現在は「都奴賀(ツヌガ)」といいます。 帰ってくると、御親の息長帶日賣命(神功皇后)は酒を造って待っていました。そして御親は歌いました。 この酒は、私の酒ではありません。酒の神の、常世の国に居る、石に宿る少名御神(スクナミカミ)の祝福の 踊り狂い 踊り回りして作った酒です。さぁ、飲んでください。 そう歌って酒を献上したのです。そう歌って、御子に酒を捧げました。建内宿禰が代わって歌いました。 この酒を醸した人は鼓を臼のように立てて、歌って醸したのか踊って醸したのかこの酒は、酒はなんと楽しい酒か! さぁ! これは酒楽の歌です。」 これに対応する『日本書紀』「神功皇后」では、 「十三年春二月丁巳朔甲子、命武內宿禰、從太子、令拜角鹿笥飯大神。癸酉、太子至自角鹿、是日皇太后、宴太子於大殿。皇太后舉觴以壽于太子、因以歌曰、 虛能彌企破 和餓彌企那羅儒 區之能伽彌 等虛豫珥伊麻輸 伊破多々須 周玖那彌伽未能 等豫保枳 保枳茂苔陪之 訶武保枳 保枳玖流保之 摩菟利虛辭彌企層 阿佐孺塢齊 佐佐 武內宿禰爲太子答歌之曰、 許能彌企塢 伽彌鶏武比等破 曾能菟豆彌 于輸珥多氐々 于多比菟々 伽彌鶏梅伽墓 許能彌企能 阿椰珥 于多娜濃芝作 沙」 「即位13年春2月8日。武内宿禰に命じて太子(応神天皇)を連れて角鹿(ツヌガ)の笥飯大神に参拝に行きました。17日。太子は角鹿から帰りました。この日に皇太后は太子と大殿で宴をしました。皇太后は觴(ミサカズキ=杯)を挙げて、太子に寿(サカホカイ=酒祝い=酒を飲み祝いあうこと)をしました。それで歌いました。 このお酒は私だけの神酒ではありません。神酒の司である常世の国にいる少名彦が、祝いの言葉を述べながら、歌って踊り狂って、醸(カモ)したお酒です。さぁ、この酒を残さず飲みなさい。さぁさぁ! 武内宿禰が太子に変わって答えて歌いました。 このお酒を醸した人は、鼓を臼のように立てて、歌って醸したからでしょう。このお酒の美味しいこと。さぁさぁ。」 更に『日本書紀』「応神天皇」では、 「譽田天皇、足仲彦天皇第四子也、母曰氣長足姫尊。天皇、以皇后討新羅之年、歲次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田。幼而聰達、玄監深遠、動容進止、聖表有異焉。皇太后攝政之三年、立爲皇太子。時年三。初天皇、在孕而天神地祇授三韓。既産之、宍生腕上、其形如鞆、是肖皇太后爲雄裝之負鞆(肖、此云阿叡)、故稱其名謂譽田天皇。上古時俗、號鞆謂褒武多焉。 一云「初天皇爲太子、行于越国、拜祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。」 「譽田天皇(=応神天皇)は足仲彦天皇(=仲哀天皇)の第四子です。母は氣長足姫尊(=神功皇后)といいます。天皇と皇后が新羅を討った年、歲次庚辰(ホシカノエタツニヤドルトシ=星、庚辰に宿る年)の冬12月に筑紫の蚊田(カダ)に生まれました。幼くして聡明でした。ものごとを遠く、深く見ることができました。姿と立ち振る舞いが良く、聖人の印がありました。皇太后の摂政3年に皇太子となりました。その時、年齢は3つ。仲哀天皇によって孕んで、天神地祇が三韓を(応神天皇に)授けました。生まれた時には腕に肉がついていました。その形が鞆(ホムタ=弓用の防具)に似ていました。それで皇太后の雄々しい装備をして鞆(ホムタ)を履いた様子に肖(ア)っていました。肖は阿叡(アヘ)と読みます。その名を称えて譽田天皇(ホムタノスメラミコト)といいます。上古(イニシエ)の時代の俗人は鞆(トモ)を褒武多(ホムタ)と言いました。 ある伝によると… 応神天皇は太子となり、越国に行き、角鹿の笥飯大神(ケヒノオオカミ)を拝祭奉りました。その時、大神と太子とが名前を交換しました。それで大神を名付けて、去來紗別神(イザサワケノカミ)と言うようになりました。太子は譽田別尊(ホムタワケノミコト)と名付きました。つまり、大神の名前が元は譽田別神、太子の元の名前が去來紗別尊といいます。しかし、(証拠となるものが)見えず、未だ詳細は分かりません。」 この二書を通して得られる情報をザックリ纏めてみますと、 ● 古の「ほむた」の由来は鞆(とも)のことであり、ほむたわけ=応神天皇:「記」大鞆和気命(おおともわけのみこと)の名の由来となっていること。 ● 応神天皇は、氣比大神(=笥飯大神)=伊奢沙和気大神・去來紗別神(いざさわけ)と名前を交換したこと。 笥(け)とは、古代日本において食べ物を載せた器、すなわち食器一般を指す。 ● 神酒(くし)は、常世に居る少彦名命の醸した酒(くし)であり、酒を醸した人は、鼓を臼のように立てて…云々 とあること。 さて、同説話の歌にも登場する少彦名命ですが、時代を遙かに遡った神代、大国主命(大己貴命)が国造りをしていた時の頼もしい相棒として登場します。  『古事記』大国主命の国造りの段に、 「故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾、白上於神產巢日御祖命者、答告「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。」故自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。」 「大国主神は出雲の御大の御前に居たときに波立つ上に、天の羅摩船(らま=かがみ)船に乗って内剥ぎに鵝(ひむし)の皮を剥いで作った服を着て、帰って来る神がいました。大国主神はその神に名前を尋ねましたが答えませんでした。そこで大国主神は従っている諸々の神にその神の名を尋ねましたが誰も知りませんでした。多邇具久(=ヒキガエル)に聞くと、「これは久延毘古(クエビコ=案山子)が知っているでしょう」と言いました。すぐに久延毘古を呼んで聞いてみると「これは神産巣日神の子供、小名毘古那神です」大国主神が神産巣日御祖命に小名毘古那神のことを報告すると、「これは正に、わたしの子だ。子供の中で、私の指の間から漏れこぼれた子だ。お前は葦原色許男命と兄弟となってその国を作り固めなさい」と言いました。それから、大穴牟遅と小名毘古那の二柱の神は協力して、この国を作りました。その後、小名毘古那神は常世国へと渡りました。」 まずここでの注目点として、少彦名命は歸來神(きらい)神、つまり、”帰って来た神”であるということ。 こちらも対応する箇所として、『日本書紀』第八段一書(六)に、 「初、大己貴神之平國也、行到出雲國五十狹々小汀、而且當飲食。是時、海上忽有人聲。乃驚而求之、都無所見、頃時、有一箇小男、以白蘞皮爲舟、以鷦鷯羽爲衣、隨潮水以浮到。大己貴神、卽取置掌中而翫之、則跳囓其頰。乃怪其物色、遣使白於天神、于時、高皇産靈尊聞之而曰「吾所産兒、凡有一千五百座。其中一兒最惡、不順教養。自指間漏墮者、必彼矣。宜愛而養之。」此卽少彥名命是也。顯、此云于都斯。蹈鞴、此云多多羅。幸魂、此云佐枳彌多摩。奇魂、此云倶斯美拕磨。鷦鷯、此云娑娑岐。」 「大己貴神が国を平定した頃の話です。出雲の五十狹々小汀(イササノオハマ)に辿り着き、食事をしようとしました。その時、海の上から人の声が聞こえてきました。大己貴神は驚いてその声の主を探したのですが、どこにも船も人も見えませんでした。しばらくして、一人の小さな男が、白蘞(カガミ)=ガガイモの実の皮で出来た船に乗り、ミソサザイ(鷦鷯)の羽で出来た服を着て、波のまにまに浮かんでやって来ました。大己貴神はすぐにその神を掌に乗せて玩具にしました。すると小さな男は怒って、大己貴神の頬にかみつきました。その形に驚いて、使者を天神に報告すると、これを聞いた高皇産霊尊が言いました。「私が生んだ子は1500座ある。その中の一人の子は最悪で、教育しても従わなかった。そのうちに指の間からこぼれ落ちてしまった。それが彼だろう。大事にして、育てなさい」これが少彦名命です。顯を于都斯(ウツシ)といいます。蹈鞴は多多羅(タタラ)といいます。幸魂は佐枳彌多摩(サキミタマ)といいます。奇魂は倶斯美拕磨(クシミタマ)といいます。鷦鷯は娑娑岐(ササキ)といいます。」 二書の示すものが互いに一致するモノでなければなりませんので、それぞれを擦り合わせてみますと、 ①「記」出雲之御大之御前(みほのみさき)=「紀」出雲國五十狹々小汀(いささのおはま) ②「記」天之羅摩船(あまのらま船)=「紀」白蘞皮爲舟(かがみの実の皮でできた船) ③「記」內剥鵝皮剥爲衣服(???)=「紀」鷦鷯羽爲衣(ミソサザイの羽でできた服) まず②の羅摩の実と白蘞の皮は同じガガイモ(蘿藦、鏡芋、芄蘭)を示しており、古名はカガミ、カガミグサで、蘿藦は中国語名であり、平安初期の『本草和名』でガガイモを表す漢字表記とあります。 ここでのキーワードは「カガミ」ということですな。 次に③に関してですが、『古事記』上巻の「鵝」字考に書かれてありますように、「鵝」は「蛾」の誤字とする説(本居宣長)、「鷦」の崩し字説、「鵝」を「ヒムシ=蛾」と訓む説、仁徳条に「蛾」を「飛鳥」と言っているので蛾を鳥と見立てている説、鵝鳥(ガチョウ)とする説…等々諸説あります。 当レポートの筆者は、いずれの諸本においても「鵝」と書かれて「蛾」の誤字ではなく、もともとの字は「鵝」であるからこそ、その後の写本は期せずして例外なく「鵝」と書いたのではなかろうかとしています。 個人的見解としては、対応する日本書記での記載が鷦鷯(ササキ=ミソサザイ)であり、 和名のサザイは、古くは「小さい鳥」を指す「さざき」が転じたものとされるもので、古事記では仁徳天皇(紀:大鷦鷯尊)の別名を大雀命(おほさざきのみこと)=おお(美称)+雀(すずめ=小さい鳥)みこと(尊称)の意味で漢字を充てています。 さすがに鵝鳥(ガチョウ)はサイズが大きいので、当箇所での意味合いからも、その線はやや薄そうですが、この比定対象が何かによっては検討の余地があるかも知れませんね。(現時点では完全否定はしない 私的にはその他の説もなかなかに的を射ておるように思います。 では①は場所となりますので、これを探ってみますと、 五十狭狭小汀(読み)いささのおはま 「日本書紀」の所伝で、大己貴神と少彦名命とが出会ったという海浜。島根県出雲市大社町杵築北稲佐、また、大分県杵築(きつき)地方の海浜とも。いださのおはま。いなさのおはま。(コトバンクより) この場所についてですが、『日本書紀』第九段本文 国譲りの場面で、 「二神、於是、降到出雲国五十田狹之小汀、則拔十握劒、倒植於地、踞其鋒端而問大己貴神曰「高皇産靈尊、欲降皇孫、君臨此地。故、先遣我二神驅除平定。汝意何如、當須避不。」時大己貴神對曰「當問我子、然後將報。」是時、其子事代主神、遊行、在於出雲国三穗(三穗、此云美保)之碕、以釣魚爲樂、或曰、遊鳥爲樂。故、以熊野諸手船亦名天鴿船載使者稻背脛、遣之、而致高皇産靈尊勅於事代主神、且問將報之辭。時、事代主神、謂使者曰「今天神有此借問之勅、我父宜當奉避。吾亦不可違。」因於海中造八重蒼柴柴、此云府璽籬、蹈船枻(船枻、此云浮那能倍)而避之。使者既還報命。」 「この二柱の神(フツヌシとタケミカヅチ)は天から出雲の五十田狹之小汀(イサタノオハマ)に降りました。そこで十握劒を抜いて、地に逆さまに突き刺し、立てて、その剣先に胡坐(アグラ)をかいて座り、大己貴神に問いました。「高皇産靈尊は皇孫(スメミマ)を天から下して、この土地(=葦原中国=出雲)に君臨しようと思っている。だから、まず私たち二柱の神が、従わない神を追い払い、平定するために派遣された。おまえはどう考えている?(国を譲り)ここを去るか?」すると大己貴神は答えました。「我が子に相談してみましょう。それで答えます」このとき、事代主は出雲の三穗之碕(ミホノサキ)に遊びに出掛けていました。三穗は美保(ミホ)と読みます。そこで事代主神は魚釣りを楽しんでいました。一説には鳥を狩っていました。二柱の神は事代主神の元へと熊野諸手船に使者の稻背脛(イナセノハギ)を乗せて派遣しました。別名を天鴿船といいます。そして高皇産靈の「国譲り」の命令を事代主神に伝え、返事を求めました。事代主神は使者に言いました。「今、天津神の命令がありました。私の父は国を譲り、去るでしょう。わたしもそれに従います」事代主神は海の中に八重蒼柴籬(=青葉の垣の神座)を作り、船枻(=船の端)を踏んで、姿を消しました。使者は帰って報告しました。」 同箇所を『古事記』では、 「是以、此二神降到出雲國伊那佐之小濱而伊那佐三字以音、拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言「天照大御神・高木神之命以問使之。汝之宇志波祁流此五字以音葦原中國者、我御子之所知國、言依賜。故、汝心奈何。」爾答白之「僕者不得白、我子八重言代主神是可白。然、爲鳥遊取魚而往御大之前、未還來。」故爾、遣天鳥船神、徵來八重事代主神而、問賜之時、語其父大神言「恐之。此國者、立奉天神之御子。」卽蹈傾其船而、天逆手矣、於青柴垣打成而隱也。訓柴云布斯。」 「これを以って、天鳥船神と建御雷神の二柱は、出雲の伊那佐の浜に降り立ちました。そして十拳剣を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神に問いました。「わたしは天照大御神・高木神(タカギ神=タカミムスビ)の命により、使いに来た。お前が神領としている葦原中国は、我らの御子が統治する国だ。前はどう考えている?」と問いました。大国主神は答えました。「私には返答できません。わたしの子供の八重言代主神が返答するでしょう。八重言代主神は鳥を狩ったり、魚釣りに、御大の前に出掛けていて、まだ帰ってきません」建御雷神は天鳥船神を派遣して、八重言代主神を探して呼び寄せて、国譲りを迫りました。すると父の大神(=大国主神のこと)に語って言いました。「かしこまりました。この国(葦原中国)は天津神の御子に譲りましょう」事代主神はすぐに船を踏んで傾け、天の逆手を打って、船を青柴垣に変えて、そこに篭もりました。」 では答え合わせですが、 ●国造り 「紀」出雲の五十狹々小汀=「記」出雲之御大之御前 ●国譲り 「紀」出雲国五十田狹之小汀=「記」出雲國伊那佐之小濱 つまり、大国主命と少彦名命”兄弟”が「国造り」をしたところと、大国主命と事代主命”親子”が「国譲り」をしたところは、全くの同じ場所であるといえ、また、事代主命が遊んでいた「記紀」出雲之御大之御前(御大之前)は、「紀」出雲國五十狹々小汀で対応していることから、この浜近辺で描かれていることがおわかりになると思います。 こちらは往古の水位(+4m)を再現した出雲の剣である島根半島 一般的な通説による国譲りの場とされる稲佐の浜と美保の岬の位置関係はこんな感じ。(直線距離で約60㎞も離れてますな) お次は、それを「逆さにして海に立てた十拳剣」となる阿波国旧那賀郡(海部郡)鞆浦にある和奈佐(現那佐)の浜。 こちらは「播磨国風土記」に、履中天皇が訪れたと記録が残る和那散の浜のことで、当地鞆浦大宮にて式内社 和奈佐意富曾神社がご鎮座しておりました。(現在は同町大里地区に移動しています) 島根県側を参考に該当する場所から推測しますと、凡そマルの辺りでしょうかねぇ。(こちらの直線距離は約300m程) 「海部町史」に、 「和奈佐意富曽社は県内でも最も古い式内社の一つで、海部郷全住民の産土神として信仰の中心となっていた。特に鞆浦は、遠い祖先たちが神功皇后の三韓出征に従軍した記念に息長帯比売命(神功皇后)やその御子誉田別命の御印を奉じて凱旋し、大宮山に宮柱を太敷(ふとしき)たて神として祀ったといわれてる本社の由緒に因み、古来この社の祭祀の主体となり、御輿の供奉その他全てを浦人たちによって奉祀してきたのである。」…云々。 上記御由緒に因み、同町には県下一勇壮と名高い大里八幡神社の秋祭りが盛大に行われております。 祭りを彩る大きな特徴として、各地区町ごとに出される朱塗りの船だんじりである「赤船(せきぶね)」を豪快に引き廻します。 ●海陽町浅川の赤船 この神事は、お隣の和歌山県『丹生都比売神社』の御由緒に、 「播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来た」 …とあるように、応神天皇の御母である神功皇后が三韓征伐の際、朱塗りの船を作らせ乗っていたことに因みます。 海陽町浅川天神社に伝承されている社前で歌う御神歌には、 「千早ふる神の御代より受け継ぎし、帝は多くその中に、とりわけ神功皇后三つの韓国治めんと、御船の数が筑紫がた、その名を高きたちばなの、おどの潮路にあらはれし、神は船午の大社札をみて、向かうかたきをしたがえし、めでたく帰朝ましまさば、四海波風静か、今に津の国住吉と、神とあがめしみは白の、引く注連縄に千代かけ、長きためしはつきせじな、御用はうれし。」 …とあり、この阿波の海部に「帰朝ましまさば」つまり明らかに当地に帰って来た時の凱旋歌ですよね。(一般的にいわれている中世の「関船」とは意味合いが全く違いますからね) 「海部町史」によると、大里八幡神社由緒記に、 「神功皇后三韓征伐の後、又熊襲を平定し南巡して倭に御凱旋の途中、御船那佐水門に入坐し給いし時、皇后、皇子の御影を遷して那佐港の左岸に鎮座し給う。これ即ち和奈佐意富曽社で、今は大里村松原に祀られて居る。後、神託あって『朕は誉田(ほんだ)なり』と浦人に告げ給う。これより此浦を総称して鞆浦と呼ぶに至った。即ち誉田別命は御降誕の時より御臂(ひじ)に鞆の形のありしを以てこれに因みて斯くは名付けたものである。」とあります。 つまり応神天皇は、通説には一切書かれていない黒潮流れる四国南岸ルートを辿ってこの海部の鞆浦にやって来たことになります。(お腹の中に居たということで笑)  また、応神天皇が生まれた際の腕の「宍(しし:肉)」の説話がキーワードとなっていて、島根県にシジミのよく捕れる宍道湖がありますが、阿波国の那佐は、鞆浦側を小那佐、宍喰側を大那佐といい、二つの地区に跨って存在しており、「播磨国風土記」志深(しじみ)の里の話では、阿波国の和那散に訪れた履中天皇がシジミを食べたエピソードが書かれています。 阿波国の那佐は鞆浦に存在しますが、島根県の鞆ヶ浦は稲佐の浜(島根県出雲市)から大きく離れて直線距離にして約40㎞西南に下った島根県大田市にあり、俯瞰視しますと、やはり阿波国の鞆浦と地形が類似しているのがわかります。 ●島根県大田市鞆ヶ浦 ●徳島県海部郡鞆浦 やはり逆さになっていますけどね。 また”いささ”は別の意味に、接頭名詞に付いて、小さい、わずかな、ささやかな、などの意を表し(goo辞書より)、上の少彦名命の段にもあるように、”ささ”等の意味からも、やはり”小さい”という意味合いとなります。 よって、「五十狹々小汀」の意味もそのまま「小さい小さい浜」という意味でもあり、相互で類似地形ではありますが、島根県の稲佐の浜は往古水位を再現しても規模的には誰の目で見ても非常に大きなビーチであるのに対し、徳島県の和那佐の浜の方はどう見てもスモールでリトルなビーチなのです。  従って、これら数々の傍証やご由緒などから、「記紀」に記される応神天皇の別名にある、大鞆和気命(おおともわけのみこと)や、名を交換したというエピソードにあるお名前も、伊奢沙別命(五十狹々:いささ=伊那佐:いなさ=いざさわけのみこと)ということなのです。 そして同時に、神話の時代の大国主命・少彦名命・事代主命が共に国造りをしていた出雲の五十狹々小汀(出雲國伊那佐之小濱)の場所も、徳島県の海部郡鞆浦那佐のことなのです。(つまりここが真の”元出雲”なんやで) 長くなってきましたので続きは再び次稿に持ち越すようである(´・ω・`)ノ

  • 28Oct
    • 眉山に眠る謎多き摩耶姫から考察の画像

      眉山に眠る謎多き摩耶姫から考察

       ●阿波のシンボル 眉山(びざん) 徳島県の眉山に何故か天武天皇のお妃であった「摩耶姫」のお墓があるというのですが、ぐーたら気延日記(重箱の隅)「乃良根公大佐殿、報告です」から、抜粋させて頂きますと、 写真はぐーたら気延日記(重箱の隅)「乃良根公大佐殿、報告です」より拝借<(_ _)> 「奥津城由来記」 この奥津城にまつられてある方は天武天皇の中宮であった「摩耶姫」であります。 姫は当時「壬申乱」という内乱に際して相手方の軍に捕らえられて「いわねひこ」という者に連れられて都から阿波国の琴弾山に来られました。その時姫は懐妊中でありましたので気が転倒して遂に悶死されたのであります。よってこの地に奥津城を築いて、丁重に葬ってあったのであります。時代の変遷に伴ってこの奥津城を顧みるものもなく見るかげもなく荒れてしまっておりましたので、ここに修復を行い、その祭祀をつづけることにしております。宗教法人 自然社徳島教堂 壬申の乱のさなか、懐妊中でありながら都から阿波国の琴弾山に連れて来られたということのようですが、その後に悶死。 その上何故この眉山?に奥津城(お墓)があるんでしょうかね(´・ω・`) 同様に、何故、天皇の子を宿したまま、この阿波の地に逃げて来たのでしょうか(´・ω・`) 天武天皇の記録に摩耶姫というお妃や、いわねひこという人物の存在は残念ながら見当たりませんが、当時代において「いわねひこ」なる旧時代の男性名の人物が居たのかはチョット疑問が残るところ。 ではこれはなんぞやということで、炙り出していきましょう。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まず姫を連れて来たとされる「いわねひこ」についてですが、 ぐーたら氏も記してあるように、 『日本書紀』の「葦原中國(あしはらのなかつくに)は、磐根(いわね)・木株(このもと)・草葉(くさのは)も猶(なお)能(よ)く言語(ものい)う。」の記載がみえ、他にも、 『古事記』大国主命の段 「故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」 「須佐之男命は黄泉比良坂まで追って来て、遥か遠くに居る大穴牟遅神を呼んで言いました。「お前が持ってる生大刀・生弓矢を使ってお前の庶兄弟(腹違いの兄弟)を坂のすそに追いつめて、または川の瀬に追い払って、意礼 大国主神となり、宇都志国玉神となり娘の須勢理毘売を正妻として宇迦の山の麓に太い柱を立てて、高い宮殿に住め。このやろう」 と言いました。」 『古事記』国譲りの段 「爾答白之「僕子等二神隨白、僕之不違。此葦原中國者、隨命既獻也。唯僕住所者、如天神御子之天津日繼所知之登陀流此三字以音、下效此天之御巢而、於底津石根宮柱布斗斯理此四字以音、於高天原氷木多迦斯理多迦斯理四字以音而、治賜者、僕者於百不足八十坰手隱而侍。亦僕子等百八十神者、卽八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者、違神者非也。」」 「大国主命は答えました。「私の子達の二柱の神が言ったとおりに、私は背きません。この葦原中国は命ずるままに献上しましょう。ただし、私の住居として、天つ神の御子が継ぐ神殿のように、底津石根(=地底)に太い柱を立て、空に高々と聳える神殿を建てるならば、私は遠い幽界に下がりましょう。私の子の百八十神は、八重事代主神が神々の前に立てば、背く神は居ないでしょう。」」​​ 『古事記』天孫降臨の段 「於是詔之「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。」 「邇邇芸命は言いました。「この土地は、韓国に対峙していて、笠沙の御前に真っ直ぐに通り、朝日がしっかりと注ぐ国で、夕日が照らす国だ。ここはとても良い土地だ」そして底津石根(=地底)に太い柱を立て、空に聳える程に壮大な宮殿を建てて住みました。」 …等に記載が確認できます。 それでは順番に説明して参りますと、物語を読むと、須佐之男命の住んでいた根の国に逃れてきた大己貴命は、当地で須佐之男命の娘である須勢理毘売を娶り、その後移動した場所に、須佐之男命は「底津石根(=地底)に太い柱を立て住め」といいました。そこが「宇迦の山の麓」ということですね。 一方、国譲り・天孫降臨の段では、ニニギ達一行は、降臨してきた場所に「底津石根(=地底)に太い柱を立て」住みました。 つまり双方とも「石根(いわね)」と付くところ、意味としては、地面の底までしっかりと根を張った太い柱を立てて空に聳えるが如く大きな宮殿を建てて住んだというのですから、即ちこれは彼らが拠点をおいて住んだ「皇居」を指しています。 私説とはなりますが、「天孫降臨」阿波海部説では、高天原より降り下った場所を海部(かいふ)に比定しております。 当説につきましての説明はこちらをどうぞ「深曽木の儀から考察」「本家の元祖考察」 また遷都後の凡その場所についてはこちらをどうぞ「天孫降臨の地は根の国か」の考察」 次に、大国主命の段にはこうも書かれてあります。 「意禮 爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而」 「意礼 大国主神となり、宇都志国玉神となり」 この「宇都志」の意味が古代史を研究される諸氏は殆ど分からなかったのではと思いますが、この「宇都志(うつし)國玉神」の意味は、「国魂を移した神」ということで、これが何かというと、分かりやすいところでいえば、皇居の遷都であり、また当地の痕跡からの推測ではありますが、本家大元の国魂(国を作った大王墓の中身)の移動を指しているのではないですかね 上記の説話から鑑みますと、底都石根のあった根の国である海部から妻と共に宇迦の山の麓(大宜都比賣をお祀りする神山を下った山の麓)、つまり眉山に移動したと解釈ができます。 では、姫が最初に連れて来られた「阿波国の琴弾山」とはどこなのでしょうか 熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、和歌山県新宮市にある神社。熊野三山の一つ。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)と熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)を主祭神とする。 ●歴史 神代の頃に、神倉山の磐座であるゴトビキ岩に熊野速玉大神と熊野夫須美大神が降り立ち、そこで祀られることとなった。 熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ、熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男(はやたまのを)とされる。熊野夫須美大神は伊邪那美神とされている。 しかし、社伝によると景行天皇58年に現在地に遷座し、速玉之男神の名から社名をとったという。もともと祀られていた所である神倉山は神倉神社となり、また元宮と呼ばれ、当社は新宮と呼ばれる。(wikipedia 熊野速玉大社より抜粋) (私説では)根の国である海部とソックリな地形となる紀州の熊野。 インドから渡来した裸形上人が十二所権現を祀った熊野那智大社の『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』も大変興味深いお話なのですが、今回は熊野本宮大社から新宮へと移動させた熊野速玉大社と経緯がそっくりなのが、阿波国和奈佐意富曾神社なのです。 自ブログ「止止呂支比売から考察」より こちらは神野村の御崎神社から洪水で流れて来たということになっておりますが…(´・ω・`) やはり地形的な場所もよく似ておりますね。 これにより、「御刀媛から考察 ⑤」では、根の国で亡くなった伊邪那美命のお墓の比定地候補にある花窟神社の答えも、 阿波国の海部のこととして記しました。 更に、「『先代旧事本紀』から考察 ②」では、天孫本紀に、「饒速日尊の子の天香語山命(あまのかごやまのみこと)。[天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という]。この命は、父の天孫の尊に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。」 阿波海部の鞆浦には、高くら(現高倉)・手繰山(現手倉山)の地名が残ります。 つまり今回言いたいのは元熊野の地が「海部」であるということ。 それでは熊野速玉大社の位置を地図で確認してみますと、 その約1㎞南側に御座いますのが、  神倉神社(かみくらじんじゃ、かんのくらじんじゃ)は和歌山県新宮市の神社。熊野三山の一山である熊野速玉大社の摂社。 ●磐座信仰の社 山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られている。この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている。 神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。『古事記』『日本書紀』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。(wikipedia 神倉神社より抜粋) ◆祭神 高倉下命 ●神武東征時の天磐盾(とされる) きちんと火神社もあります。 確か兄師木と弟師木を討ち取った後の兵士が詠んだ歌では、 原文 「多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥」 読み下し 「楯並めて 伊那嵯の山の 木の間よも い行き(瞻・守)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね。」 現代語訳 「(楯を並べて)伊那佐山の木の間からずっと見張りを続けながら戦ったので、腹がへったよ。(島の鳥)鵜飼の伴部よ、すぐに助けに来てくれ。」 楯並べたのは「伊那佐山」でしたよね(´・ω・`) また、wikipediaにも書かれておりますが、ゴトビキ岩は琴引岩のことだそうで、 「鞆奥町誌」の記録によれば、 (海陽町鞆浦と奥浦が旧海部町に合併される前は鞆奥町だった)によると、 「大宮の盆地には、古来より其大の蟇(ひきがえる)ありて、度々此所に至る人を食い或は之を見たるもの夛(おお)しと。今尚此神秘談古老の口碑に傳ふ」 つまり和奈佐意富曾神社がご鎮座されていた鞆浦大宮には、ゴトビキが居たと。 なるほど、「コトヒキ」を濁らせると「ゴトビキ」になりますね。 位置関係はこんな感じ 火神社に対応するのが愛宕神社 「海部町史」に、愛宕神社 阿波志に「愛宕山 在鞆浦南、上有愛宕祠、為禁山、南瞰蒼海、東望紀伊、瀬海諸邑一覧而尽」 山頂に火防(ひぶせ)の神愛宕神社がある。祭神 驒遇突智命(かぐつちのみこと) 阿波海部版の位置づけはこんな感じ 恐らくこの蟇(ひきがえる)は、ひいては帰る「波」のことで、那佐の浦の「波」は阿波国風土記逸文にも記録されており、度々至って人を食うということはその正体は定期的に訪れる南海トラフ型の大津波のことでしょう。 では、冒頭に戻りまして、 この阿波国の琴弾山、つまり和那佐(大宮)に「いわねひこ」によって連れられて来た摩耶姫ですが、「奥津城由来記」では最終的に眉山でお亡くなりになり葬られたということになります。 では「いわねひこ」は誰なのでしょうか 既に皆様お察しの通り、「いわねひこ=いわれひこ」 即ち神武天皇のことでしょう。 阿波においては後世の付会で説話や伝承が捻じ曲がって伝わることの方がむしろ多いので、そのまま鵜呑みにしてはいけませんヨ(ゝω・ ) お姫様もお察し下さい。~ 久・々・の・オ・マ・ケ ~ 高天原からニニギが降臨された地ですが、 『古事記』:「竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣」 『日本書紀』第一の一書:「筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯」 いずれも筑紫の日向の高千穂の「くぢふる峯」としており、この「くぢ」は、鷹の古語でもあります。 つまり「久士布流多氣」「槵觸之峯」は、「鷹が降りて来た峯」の意味。 1817年文化14年江戸期の地図を明治期に写したものだそうですが、 那佐大宮のあった近辺の場所名が「鷹ノ巣」のようですヨ。 偶然かどうかわかりませんがね。それでは今回はこの辺で(´・ω・`)ノシ

  • 22Oct
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      古代讃岐の痕跡から考察

       この稿では、前稿の「讃留霊王から考察」に関連しまして、更に別の角度から古代の阿讃地域の謎に迫ってみたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 式内社 讃岐國那珂郡櫛梨神社(くしなしじんじゃ:香川県仲多度郡琴平町下櫛梨280) ご鎮座場所を地図にするとココ ◆御祭神 神櫛王命 「三代物語」天児屋根命 「社伝によれば、景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚を討つために土佐から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神(磐船大明神)を祀った。また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神についてたずね、大麻神・大歳神、更に、山下明神・諏訪明神を祀った。さらに、船装束する時に、経津主神・武甕槌神(赤坂大明神)を祀った。その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、国造となった。仲哀天皇8年(199)9月15日。120歳で亡くなった皇子を櫛梨山に葬り廟を建てて祀ったのが当社の起源。よって、皇宮大明神とも、大宮とも称された神社。」(玄松子の記憶より抜粋) ●社頭掲示板 「上代は景行天皇33年神櫛王この付近を治め甚だいわれ深い社である。讃岐の地史にも注目すべき歴史を有し。讃留室公は神櫛王の皇子である。南方如意山には苫干場、松屋敷、かし屋敷の地名も残る。天正7年(1579)当社も長曽我部元親の兵火にかかる。元和3年(1618)国主の造営、寛文の再、明治、大正等造改築、祭神70余神を合わせ祀る。一帯に古墳多く考古資料出土の地である。」琴平町教育委員会建 掲示板の記載の讃留”室”公は讃留”霊”公の誤りかな そして神櫛王の「皇子」としていますね。フムフム...(^ω^) 『香川県神社誌』 延喜神名式に『讃岐国那珂郡小櫛梨神社』とありて延喜式内当国二十四社の一なり。社伝によれば景行天皇二十三年神櫛皇子勅を受けて大魚を討たむとして土佐国より讃岐国に移り、御船を櫛無山の麓に泊し給ふ。初め讃岐に移ります時、雲闇く雨降りて物の色も弁じ難かりし為め、与北村火乞山に登りて火を乞ひ軻遇突智命を祀る。これに依りて御船を櫛無山麓に泊し、其の所に祓戸神を祭り、船磐大明神と云ふ。船磐の地名今に残れり。其の近傍に舟の苫を干し、苫干場と云ふ所あり。船頭屋敷、梶屋敷等の地名今に残れり。こゝに皇子地神を祭らむとせしに一老翁来りしかば、皇子老翁の教に従ひて大麻神、大歳神を祭る。老翁は即ち大麻神なり。更に山下明神、諏訪明神を祭る。愈軍士を発せむとして軍神武甕槌命、経津主命を祭る。赤坂大明神これなり。悪魚征討の後城を城山に築きて留り給ひ、当国の国造に任ぜらる。仲哀天皇の八年九月十五日御年百二十歳にて薨じ給ふ。国人その遺命を奉じ櫛無山に葬り、廟を建てゝ奉斎し皇宮大明神と云ふ。讃留霊公は神櫛皇子の追号にして、留は奴の訛にて讃岐の霊公の意なり。神櫛の櫛は許登那具志の具志に同じく酒の意にして、郷名櫛無(和名抄に櫛無久之奈之)は酒成の意ならむと云ふ。 当社古くは皇宮大明神、大宮等奉称せられ、文明六年書写の櫛無神社名跡図に皇宮の註に櫛無神社とあり。往古は大社にして、延喜の制官社に列せられ、千手堂神名帳に讃岐国御坐正三位櫛無大明神と見え、永万記、朝野群載等に其の名見え、地名をも亦櫛無と云へり。初め山上本台の地に鎮座せしが火災に罹りて現今の地に遷座せりと伝ふ。 香川県神社誌では、讃留霊公は神櫛皇子の追号、つまり神櫛皇子のこととします。どっちやねん(ノ ゚Д゚)ノ==┻━━┻ この神櫛皇子は『日本書紀』の記録に、讃岐国造の祖とすること以外は書かれておらず、事績についての情報はほぼ皆無なのですが、日本の古文書である『ホツマツタヱ』に、ツミハの子、「クシナシ」の名が登場します。 ホツマツタヱは、「ヲシテ」なる「文字」(いわゆる「神代文字」の一つである)を使っているいわゆる「ヲシテ文献」のひとつ。学会、学界、学者からは偽書とされ、一般的にも学会同様に認識されている一方で、『古事記』『日本書紀』の原書であると根強く考える者も一部に存在する。 五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)・10700行余で構成された、肯定派の研究者によれば記紀の「原書」であるという、いわゆる「古史古伝」のひとつである。その成立時期は、記紀との内容比較から『古事記』『日本書紀』よりも古いという主張もあるが、写本の出現時期などからは少なく見積もった場合、江戸時代中期までしか遡れない。『春日山紀』(安永8年、1779)の存在による(『春日山紀』は、江戸時代当時の木版活版での印刷出版物である。岩波書店版『国書総目録』に記載あり)。 ●ホツマツタヱの内容  『ホツマツタヱ』は、アメツチの始まり(天地開闢)から、カミヨ(記紀にいう神代)、そして初代人皇のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)を経て人皇12代のヲシロワケ(景行天皇)の56年までを記述している。 1アヤから28アヤまでが前編で「クシミカタマ」の編集、29アヤから40アヤは後編で「オホタタネコ」(大田田根子)の編著による。 皇室の祖先が8代アマカミのアマテルカミ(天照大神)や初代アマカミのクニトコタチまで遡る。(wikipedia ホツマツタヱより抜粋) ●フトマニ図 トヨケ神(伊勢外宮祭神)が初めてイサナギとイサナミの両神(フタカミ)に天上モトモトアケ(元元明)のサゴクシロ宮に坐す四十九(ヨソコ)神の座席図を五十一文字で表わし授けた。 後にアマテル神(伊勢内宮祭神)は、このフトマニ図で吉凶を占おうと考え自ら編集長となり、八百万(ヤオヨロズ)の神に命じ万葉の情を歌に作らせて添削し、その中から百二十八歌を選んで大占(フトマニ)の紀(フミ)を著して占いの元とした。 この『ホツマツタヱ』ですが、一般的には学界などからは偽書とされている古書で、神代文字とされるヲシテ文字で記されており、昭和41年(1966年)8月に東京神田の古本屋で「奉呈本」とよばれる写本が見つかったのを皮切りに、後に四国の宇和島の旧家小笠原家で、ホツマツタヱ全巻の写本を2つ発見、さらに、国立公文書館の内閣文庫にも全巻の写本が収蔵されているのが発見されました。 また平成4年(1992年)には、滋賀県高島市安曇川町の日吉神社からホツマツタヱ全巻の親写本が発見されているようです。 この『ホツマツタヱ』に記録されるクシナシの箇所を見てみますと、 ※以降『ホツマツタヱ』についての記述は「ほつまつたゑ 解読ガイド」様より引用抜粋 『遂に因みて ミゾクイの タマクシ姫も 孕む故 ワニ乗り阿波へ 帰る内』27文 『生む子の斎名 ワニヒコは クシミカタマぞ 次の子は 斎名ナカヒコ クシナシぞ 青垣殿に 住ましむる』27文 『後にクシナシ 神となる 母に乞われて ヲシカ棄つ故にツクシの 御幸乞ふ』27文 ここに記されているミゾクイとは、「記紀」に見える三嶋湟咋(三島溝咋、三島溝橛耳神)のことであり、その娘であるタマクシ姫も同じく「記紀」に書かれる(玉櫛媛、玉櫛姫、玉依媛、玉依姫、三島溝樴姫、勢夜陀多良比売)のこと。 このタマクシ姫を妻としたのがツミハであり、「記紀」にある積羽八重事代主神(大物主大神、火雷神)のことで、この辺りは記紀神話と全て同じです。 では、子であるワニヒコことクシミカタマと、ナカヒコことクシナシは「記紀」では誰になるのでしょうか 鴨王(かものきみ/かものおおきみ)は、古代日本の人物または神。天日方奇日方命(あまのひがたくしひがたのみこと)の正式名称で知られる。『日本書紀』によれば、懿徳天皇(第4代天皇)の外祖父である。 三輪氏・賀茂氏の祖である。なお、鴨王の「鴨」という名の由来は不明であるが、賀茂氏の「賀茂」と同音である。 ●系譜 『先代旧事本紀』「地祇本紀」によれば、父は都味歯八重事代主神(大己貴神の子)、母は活玉依姫(三島溝杭の娘)。事代主神が鰐となって活玉依姫のもとに通い、天日方奇日方命をはじめとする子が生まれたという。同書によれば、天日方奇日方命の妹には姫踏韛五十鈴姫命(神武天皇の皇后)・五十鈴依姫命(綏靖天皇(第2代天皇)の皇后)がいるという。(wikipedia 鴨王より抜粋) 別名を櫛御方命、阿田都久志尼命、奇日方天日方命で、『先代旧事本紀』に、主君である神武天皇より即位2年2月2日に宇摩志麻治命とともに申食国政大夫(おすくにのまつりごともうすまちぎみ)に任命されたと記録されます。 父母の一致や神名からも、『ホツマツタヱ』のクシミカタマ=天日方奇日方命(櫛御方命)のことでしょう。 しかしながら、このクシミカタマは、『ホツマツタヱ』によると、叔父オオタの娘のミラ姫を娶り、アタツクシネを生む。…とも記されてあり、自身の別名も阿田都久志尼命であるここからも、ここでも1世代のズレが生じていることになります。 ここの解釈も様々に考えられ、例えばワニヒコ(=クシミカタマ)の父である事代主神も、鰐(ワニ)となって活玉依姫のもとに通い云々…とあり、この場合、ワニ=事代主神の子であるから「ワニヒコ」なのである。とも解せますし、また、私説とはなりますが、これまでに幾度と記して来たように、ここでも世代をずらしての無限ループの記述箇所の痕跡であるともとれます。 またこれが前稿でいうところの猿女(さめ=鰐)君となった事代主神(=サルタヒコ)とも解せますね。 では、このクシミカタマの記録されてある箇所を見てみますと、 『子無きが故に 乱るるぞ コトシロヌシが 兄弟の子の クシミカタマを 乞い受けて 嗣となすべし』27文 『御教えに ミモロの傍に 殿成して 乞えば賜はる 儲けの子 クシミカタマと 若妻の サシ国別姫 諸共に 住ませて』27文 ※嗣(読み)シ:あとつぎ。よつぎ。「皇帝の嗣」 オオナムチは自分の先神霊・貴霊業霊を青垣山(ミモロ山)に祭る。クシミカタマはこの貴霊業霊が人として世に生れた者らしい。 ●『ホツマツタヱ』の世界での日本地図 『ホツマツタヱ』の世界での地理観は、畿内域をナカクニ=アハクニとし、伊勢より東海地方の名がヤマト(扶桑国:コエクニ)、関東をホツマ、四国はイヨとアハからなるフタナで、それ以外はお馴染みの地名と同じです。 滋賀県からホツマツタヱ全巻の親写本が発見されていることや『古事記』にある「故其伊耶那岐大神者坐淡海之多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」の記述を理由に、淡海(あわ(う)み)を=おうみ(近江)と解し、式内社 多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町多賀604 祭神:伊邪那岐命・伊邪那美命)のご鎮座場所やご祭神等から、アハクニ(ナカクニ=畿内)を中心に描いたものであるとしてこれに比定し研究されている諸氏もおられるようです。 しかし、wikipediaにも書かれてありますが、「多賀大社は『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。」…とも記されてあり、兵庫県淡路市多賀にご鎮座される淡路国一宮 伊弉諾神宮(祭神:伊弉諾尊 1932年(昭和7年)から伊弉冉尊も共に祀るようになった)の経緯からもお分かり頂けるかと思いますが、そもそも『幽宮御記』には、ご祭神は「伊弉諾尊一柱也」とあるように、近江国三宮でしかない多何神社に、この夫婦二神で既にお祀りしていたとは考えにくいでしょう。 wikipedia脚注註釈にも、 「多賀大社の祭神は南北朝時代の頃までは伊弉諾尊ではなかったことが判明しており『古事記』の記述と多賀大社を結びつけることはできない。『古事記』では「近江」は「近淡海」とするのが常で、同じ『古事記』でも真福寺本以外の多くの写本が「故其伊耶那岐大神者坐淡路之多賀也。」になっており、その他の諸々の理由からも、学界でも「淡海」でなく「淡路」を支持する説が有力である(武田祐吉、直木孝二郎等)。なお、『日本書紀』では一貫して「淡路」と記され、「近江」に該当する名はない。」…とします。 この事からも、つまりこれは元あった場所を他所に移した痕跡であり、当社が真であるとの主張をしていること自体が図らずとも隠蔽に繋がる証拠となっています。 裏を返せば、そうしなければならない理由があったと考えた方が自然ですね。 私的には、多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社や、多賀大社の奥の院とされる敏満寺の方が気になりますね。 さて、ヲシテ地図の示す地名と場所の一致については、あまり当てにはできませんが、同名の地名が残る地に比定するとすれば、アハクニ・ナカクニは現在の徳島県のことで、「国造本紀」にもある粟國(アハコク)と長國(ナガコク)が引っ付いて阿波国となっております。長國は現在の那賀郡(ナカ)として痕跡を残します。 あらためて『ホツマツタヱ』にある系譜を見てみますと、ワニヒコことクシミカタマと、ナカヒコことクシナシの父である「ツミハ」は、 「ツミハ」 オオモノヌシ・コモリのコトシロヌシとなる。 ホオテミの時、弟のタケフツと共にイフキの宮にて四国24県を治める。…とも記されてあり、少し関連する歌を見てみますと、 『父のツミハも 神となる 上鈴五十年 十月 八十四万三千 四十八なり 今年ワニヒコ 百の八つ 妹イスズは 十五つ』28文 『共に喪に入り 四十八後 阿波の県に (ツミハの骸を) 納む後 自ら記し この文を 社に置くは 何時のためか』28文 『ウサツが申す "コトシロが タマクシと生む 姫タタラ ヰソスズ姫は 国の色 阿波宮に坐す"』29文 『コトシロヌシを ヱミス神 孫のクシネを 県主  社造らせ 十月二十日 祭る大三輪 神南備ぞ』29文 このツミハは、死後にタケヒト(=斎名:神武天皇)からヱミス神の名を賜る。…とあり、エビスとなった事代主命ことツミハは、阿波の県で骸を納さむ後、自ら記したこの文(ホツマツタヱ)を社に置いたと書かれています。 後述にも、 『この文は 昔モノヌシ 御言宣  受けて作りて 阿波宮に 入れ置く後の 代々の文 まちまちなれば』40文 とあるように、一般的にこの阿波宮があるのは、イヨフタナ時代の阿波県(現在の阿波・讃岐からなる東四国)の意味で、現在の香川県にある金刀比羅宮のことを指しています。 逆に言えば、後に阿波を割いて讃岐に分けた際の痕跡であり、讃岐は元々はアワであったともいえるでしょう。(あくまでホツマツタヱに依ればですがね) 金刀比羅宮が所在する場所もまた旧の那珂郡(ナカ)となります。  また、ツミハの子であるクシミカタマを養子に貰い受けたフキネ(記:天之冬衣神:『粟鹿大明神元記』には須佐乃乎命の4世孫天布由伎奴・由布衣神であったとも)&サシクニワカメ(記:刺国若比売:子は大穴牟遅神)夫婦は、ミモロ山端の青垣殿に共に住んだとあり、『古事記』と照合させますと、大穴牟遅神は、須佐之男命の娘である須勢理毘売を娶ったことにより須佐之男命の養子息子となっていますので、ここの解釈も天之冬衣神=須佐之男命ということになります。(大嘗祭はいつに行うのかな?一応断っておきますと、『ホツマツタヱ』においても、「記」の須佐之男命=ソサノヲ(斎名:ハナキネ)は、イサナギ・イサナミの子、ヒルコ、アマテル、ツキヨミの最後の子として遙か先代で登場しますので、あくまでも別の神で描かれておりますヨ。) 従って須佐之男命は、ツミハの子の(クシミカタマ=大穴牟遅神)を養子としたことになるわけですが、その大穴牟遅神の子が「記紀」では積羽八重事代主命です。 言い換えますと、「記紀」では大穴牟遅神が積羽八重事代主命の”父”ですので、集約しますと、大穴牟遅神が、実は「ツミハの実子」ということになり、これを「記紀」では”父”として描くということは、結果的にツミハは大穴牟遅神の”養子”になったということになります。 従ってツミハは、大穴牟遅神の娘を娶ったことにより、実父でありながら大穴牟遅神の”養子息子”となったということになります。(文字に起こすとやはり面倒くさいですが、私的解釈では無限ループ箇所を示す痕跡となります) また、この『ホツマツタヱ』では、最後に描かれるヲシロワケ(景行天皇)の代のヤマトタケ(小碓命・日本武尊)は、ソサノヲの生まれ替りだと自ら悟る…とも書かれてあります。 このことからも『ホツマツタヱ』も「記紀」同様に、自身の子ではないとする(ここでは父を養子に迎える)ことで、実際は親子の無限連鎖ループで描いていると考えられるのです。 それでは、『ホツマツタヱ』にある「ミモロの傍に 殿成して」や「アオカキ山(ミモロ山)に祭る」の場所はどこなのでしょうか 薬王子神社(奇玉神社:くすたまじんじゃ:阿波市土成町浦池字西宮64) ◆祭神 大己貴命     大己貴命・少彦名命(土成町史) ◆由緒 「承和年間(834-847)山田阿波介古嗣が、浦ノ池を築く際に祝祭したと言い伝えている。一名薬王権現とも云い疫病流行の際、祈願して、霊験あらたかであったとも云う。又、池の守護神とも尊崇し、大池の西にあるので「西の宮」とも呼んでいる。」 ほぉほぉ( *゚д゚) こちらが西の宮ですか。ご祭神は大己貴神の”和魂”=大物主(事代主命)だったはずよね。 ●境内由緒書 「源平時代に兵火で消失し、寛永四年八月に「薬王子大権現」として再建されたが、その後も風災に遭い、明治二年「奇玉神社」の旧号で改修された。戦後は厄除け神として尊崇され、明治より百十年目にあたる昭和五十一年に、「薬王子神社」と改称された。」 『古事記』大国主命の段、共に国づくりをしていた少彦名命が常世に渡った後、国づくりを続けるパートナーを乞うシーンにて、 「於是大國主神、愁而告「吾獨何能得作此國、孰神與吾能相作此國耶。」是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」爾大國主神曰「然者、治奉之狀奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。」此者、坐御諸山上神也。」 「さてそこで大国主神が憂いて言うには、「私一人でどのようにしてこの国を作れるだろうか。どの神と私とでこの国を協力して作るのだろうか」と言いいました。この時、海を照らして寄って来る神がいたのです。その神が言うには、「私をよく祀ったら、私が共に協力して作りあげるだろう。もしそうでないならば、国を作ることはできない」と言いいました。そこで大国主神が、「それならばどのようにして祀ればよろしいでしょうか」と尋ねると、「私を倭の青垣根の東の山上に祀れ」と答えました。これが御諸山の上に鎮座している神(大物主)です。」 また後談である国譲りの段では、 「徵來八重事代主神而、問賜之時、語其父大神言「恐之。此國者、立奉天神之御子。」卽蹈傾其船而、天逆手矣、於青柴垣打成而隱也。訓柴云布斯。」 「八重事代主神を呼んで来て尋ねると、その父の大神に語って言うには、「畏まりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と言って、直ぐにその船を踏み傾け、天の逆手を打って、青柴垣に変えて隠れてしまいました。」 「ふし」とは「しば」と同じ意味でいわゆる雑木のこと。「山に柴刈りに行く」の柴のこと。 もちろんこれらの記載は大国主神らが出雲を開拓していった順番(海側から内陸へ)で記していますヨ。 『古事記』並びに『ホツマツタヱ』の記述を照合致しますと、 大國主神と八重事代主神(記紀での親子)は、「倭の御諸山の上にある青垣根」「隠れたとある青柴垣」「青垣殿に 住ましむる」「ミモロの傍に 殿成して」「オオナムチは自分の先神霊・貴霊業霊を青垣山(ミモロ山)に祭る」…云々と同場所と推測されるところに拠点(住居)があることがお分かり頂けるかと思います。 また『ホツマツタヱ』では、ツミハの弟にタケフツがおり、これも阿波国式内社として共に同エリアにて祭祀されております。 この社をのちに勧請したのが奈良県(大和国)にある率川阿波神社ですよね。 奇玉神社東側は、たらいうどんで有名な阿波市御所(御諸)、宮川内御所の地名は山上にあります。 往古よりある大坂峠を抜けるとそこには式内社 水主神社(祭神:倭迹々日百襲姫命)がご鎮座されておりますヨ。※写真はたんぽぽろぐ様より拝借<(_ _)> wikipedia倭迹迹日百襲姫命より 『日本書紀』では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山の石が築造のため運ばれたという。 鴨都波神社(かもつばじんじゃ)は、奈良県御所市にある神社である。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。高鴨神社(上鴨社)・葛木御歳神社(中鴨社)に対して「下鴨社」と称される。 ◆祭神 積羽八重事代主命と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)に対して「下鴨社」とも呼ばれる。事代主神は元々は鴨族が信仰していた神であり、当社が事代主神の信仰の本源である。大神神社(奈良県桜井市)に祀られる大物主の子に当たることから、「大神神社の別宮」とも称される。 下照姫命については、事代主とともに祀られることに疑問があることから、元は別の神が祀られていたものとみられる。当社の古い社名は「鴨弥都波(かもみつは)」であり、「鴨の水際(みづは)の神」と解せる。当地は葛城川と柳田川の合流地点であり、元々は水の神を祀っていたものとする説がある。また、事代主の妹である高照姫命が祀られていたのが下照姫命と混同されたとする説もある。(wikipedia 鴨都波神社より抜粋) 「ツミハ」と「ミツハ」の示すもの。 鴨氏の女(むすめ)は鴨女(かもめ=鷗)であり、これが積羽の娘=水際(みつは)の女、即ち水の属性そのものであり、これが『古事記』弥都波能売、『日本書紀』罔象女(みつはのめ)なのである。 海陽町宍喰字日比原には、井上(いのかみ)神社があり、その御祭神は、水象女命(みなかためのみこと)で、神輿ごと水に浸かる神事は阿波長國エリアでは非常に多く伝わっています。 そろそろ本題に戻りまして、 本稿におけるこれまでの考察から、冒頭に書いた、クシナシとは一体誰のことなのでしょうか 上の『ホツマツタヱ』の3つの歌を並べてみますと、 『遂に因みて ミゾクイの タマクシ姫も 孕む故 ワニ乗り阿波へ 帰る内』27文 『ウサツが申す "コトシロが タマクシと生む 姫タタラ ヰソスズ姫は 国の色 阿波宮に坐す"』29文 『生む子の斎名 ワニヒコは クシミカタマぞ 次の子は 斎名ナカヒコ クシナシぞ 青垣殿に 住ましむる』27文 タタライスズヒメ・タタラヰソスズヒメ 蹈鞴五十鈴媛。 ツミハ(コトシロヌシ)とタマクシ姫の娘で、クシミカタマ・クシナシの妹。 ”生む子”と記されてあるのは実はクシミカタマと姫タタラヰソスズ姫であり、判然としない”次の子”とあるクシナシは、結果的にツミハ(八重事代主命)の娘である姫タタラヰソスズ姫を娶ったことにより、養子の息子となった人物のことである。 該当する人物は一人、神武天皇(カンヤマトイハワレヒコ=賀茂別雷命:かもわけいかづちのみこと)である。 クシナシとは、 「阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命(やまとたけるのすめらみこと)、乃ち、大御櫛笥を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。」 『日本書紀』崇神条では、 「是後、倭迹々日百襲姬命、爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姬命語夫曰「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」爰倭迹々姬命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇、其長大如衣紐、則驚之叫啼。時大神有恥、忽化人形、謂其妻曰「汝不忍、令羞吾。吾還令羞汝。」仍踐大虛、登于御諸山。爰倭迹々姬命、仰見而悔之急居急居、此云菟岐于、則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也」 「この後、倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻となった。けれどもその神は昼は来ないで、 夜だけやってきた。倭迹迹日姫命は夫に言った。「あなたはいつも昼はお出でにならぬので、そのお顔を見ることができません。どうか、しばらく留って下さい。朝になったら麗しいお姿を見られるでしょうから」大神は答えて、「もっともなことである。あしたの朝あなたの櫛笥に入っていよう。どうか私の形に驚かないように」と言われた。倭迹迹日姫命は変に思った。明けるのを待って櫛笥を見ると、誠に麗しい小蛇が入っていた。その長さ太さは衣紐ほどであった。驚いて叫んだ。すると大神は恥じて、たちまち人の形となった。そして、「お前は我慢できなくて、私に恥をかかせた。今度は私がお前に恥ずかしい思いをさせよう」と言い、大空を踏んで御諸山に登られた。倭迹迹日姫命は仰ぎみて悔い、どすんと坐りこんだ。そのとき、箸で陰部を突いて死んでしまわれた。それで大市に葬った。当時の人は、その墓を名づけて箸墓という。」 倭建命同様に、大物主神は恥じて御諸山に登ってしまったため、櫛笥を忘れていってしまった。つまりは、”クシナシ”なのである。 「記紀」も含めこれらの物語は、神代から人皇の世へと時代を経過させ展開して参りますが、意図することは須らく同様の説話となっており、無限に続く異名同神のループで成り立っています。 さて、今回資料の参考とした『ホツマツタヱ』についてですが、その内容からも全くの嘘っぱちを記した完全なる偽書であると断定できるのでしょうかね 細微には違いはありますが、「記紀」と類似する情報や逆に『ホツマツタヱ』によって「記紀」のみでは知り得なかった情報が補完できる場合もあると考えます。 それでは最後に、倭建命が東国遠征からの帰途、故郷の国を偲んで歌った歌 「夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯」 「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣 山籠(ごも)れる 倭し麗(うるは)し」 たたな-づく 【畳なづく】 分類 枕詞 ①幾重にも重なっている意で、「青垣」「青垣山」にかかる。(学研全訳古語辞典) さてこれは一体どこのことなのでしょうかね 割とピンポイントの場所までわかったような気がしますけどね(´・ω・`)

  • 04Oct
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      讃留霊王(さるれお)から考察 ②

       「讃留霊王(さるれお)から考察 ①」の続きとなります(´・ω・`)ノ 随分と間隔が開きましたが(完全にサボっておりました笑)、引き続き、讃留霊王の謎について独自の視点で迫って参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 猿女君(さるめのきみ・猨女君、猿女公)は、古代より朝廷の祭祀に携わってきたとされる一族。 ●概要 天神・天宇受売命を始祖としており、君を姓に持つ氏族の一つともされるが、「君・公」は姓ではなく女性への尊称であり、また『新撰姓氏録』などに猿女君について何ら記録がないこと、女性を始祖とする具体的な氏族の存在が確認できないことなどから、実際には猿女君という氏族は存在せず、女官の称号であったとする説もある。 ●考証 他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。それ故に他の祭祀氏族よりも勢力が弱く、弘仁年間には小野氏・和邇部氏が猿女君の養田を横取りし、自分の子女を猿女君として貢進したということもあったともされる。(wikipedia 猿女君より抜粋) さて『古事記』では、天孫が竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に降臨した後、  「故爾詔天宇受賣命「此立御前所仕奉、猨田毘古大神者、專所顯申之汝、送奉。亦其神御名者、汝負仕奉。」是以、猨女君等、負其猨田毘古之男神名而、女呼猨女君之事是也。」 「ニニギ命が天宇受売命に言いました。「御前(ニニギ)に立って仕えて、先導をした猿田毘古大神は、独りで猿田毘古大神に対面して名前と正体を尋ねたお前…天宇受売命が送りなさい。 またその神の名を名乗って仕えなさい」 それで猿女君などは猿田毘古という男神の名を負って、猿女君と呼ぶことになりました。 」 『日本書紀』では、 「卽天鈿女命、隨猨田彦神所乞、遂以侍送焉。時皇孫勅天鈿女命「汝、宜以所顯神名爲姓氏焉。」因賜猨女君之號。故、猨女君等男女、皆呼爲君、此其緣也。」 「天鈿女命は猨田彦神が願うままに送って行ったのです。その時、皇孫は天鈿女命に命じました。「お前は顯(あらわ)した神の名を姓氏(うじ)としなさい」それで猨女君という名を授けました。猨女君は(本来は女の氏族名だが)、男も女も皆、猨女君と呼ぶのはこういった理由からです。 」 …と記します。 『古事記』では猿田毘古の名を負って女性が、『日本書紀』ではこれを男女とし、共に「猿女君」を姓氏とするとします。 しかしながら、wikipediaにも書かれてありますように、実際には猿女君といった氏族の存在は確認ができません。 まず、「氏(うじ)」についての一般的な認識として、男系祖先を同じくする同族のことを指し、ヤマト王権においては、朝廷に仕える父系血縁集団とした、いわゆる氏姓(うじかばね)制度により、姓氏(せいし)へと統合再編され、次第に支配階級の構成単位になりました。 従って「氏」は、男系祖先を同じくする血縁集団に基づいて名乗るものとの認識です。 では、「記紀」に記録されてある内容から実際に落とし込んで考えてみますと、仮に猿女君一族から男児が生まれた場合においても、「猿”女”君」を姓氏として名乗ることになり、これが『古事記』にあるように単に「猿田毘古という男神の名を負って」氏を名乗るという意味からも、由来としては猿田毘古(男性)に因むはずですが、同時に天宇受賣命が猿田毘古を顯(あらわ)したことにより生じた「氏姓」であることから、あくまでも天宇受賣命が「猿”女”君」のスタート点であり、次に猿田毘古が天宇受賣命を妻としたことで、「夫となった猿田毘古」の姓も「猿女君」になったという体裁になるはずです。(鶏が先か、卵が先かの話になりますが…ややこしい) あらは・す 【現す・表す・顕す】 (現す)今まで見えなかったものを外に出して見えるようにする。実態を明らかにする。表面に出して示す。(神仏などが)この世に姿を現す。霊験を示す。(weblio辞典) つまり猿田毘古は元々そうは呼ばれておらず、天宇受賣命によって顯された神(それまでになかったから顯した)ということになり、本来は別の名の神であったと考えられるでしょう。(日本語難しいネ) 次に、次代に女児が生まれた場合も、そのまま「猿女君」の姓氏を継ぐため、仮に他の氏姓を持つ男性と猿女君の女性が結婚した場合の姓氏も、以降は男女問わず「猿女君」となり、鼠算式にこの姓を冠した後継者が量産されていくと考えられますが、上にもありますように、『新撰姓氏録』などには猿女君について何ら記録がなく、実際は猿女の姓氏は全く見当たらないようです。 この不思議な「氏」の「猿女君」についてですが、延喜式・大嘗祭式・鎮魂祭式に記述が見られ、普段は縫殿寮(天皇および賞賜の衣服を裁縫し、また、女官の考課を掌った役所)に所属していて、祭事の時に舞を舞う時に派遣されます。 つまり女性側の「猿女君」の記録ですね。 では、この猿女君の始祖である天宇受賣命と関連事項について、もう少し独自視点にて考察して参りましょう。 概要はこちらでどうぞ「wikipedia アメノウズメ」 『古事記』には、天宇受賣命が猿田毘古を送り届けた後のエピソード、 「於是送猿田毘古神而還到 乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以問言 汝者天神御子仕奉耶 之時諸魚皆仕奉白之中 海鼠不白 爾天宇受賣命 謂海鼠云 此口乎不答之口 而 以紐小刀拆其口 故於今海鼠口拆也」 「猿田毘古神を送り届けた天宇受賣命は帰ってくると、すぐに鰭の広物、鰭の狭物(=大小様々な魚)を集めて、「お前は天津神の御子に仕えるか?」と問いました。するとほとんどの魚が「仕えましょう」と答える中にナマコが答えませんでした。天宇受賣命はナマコに言いました。「この口が答えぬ口か!」と、小刀でナマコの口を裂きました。それで今でもナマコの口は裂けています。」 実は天宇受賣命は、猿田毘古神をお送り届けた後に、降臨後のニニギの元に帰って来ています(´・ω・`)ここ重要 ここでは、「魚達」に天神御子(=ニニギ)に服従を示すかとの問答が記されており、天宇受賣命が「還到」ところは間違いなく海に近い場所のはずです。 つまりこれが本稿シリーズでいうところの、讃岐の「悪魚征伐の説話」にある倭建命の御子である霊子こと讃留霊王(=建貝児王・武卵王)のエピソードのことではないでしょうか 「記紀」のエピソードでは、魚達を服従させたのは女性の天宇受賣命ですよね。 御子(みこ)み‐こ【▽御子/皇=子/皇=女/親=王】の解説 1(御子)神の子。特に、イエス=キリストをさす。 2天皇の子。皇子・皇女。皇女は「ひめみこ」とも。 3天皇の子で、親王宣下を受けた者。しんのう。(goo辞書、weblio辞書) そしてここにも見える「御子」の文字、この場合は天孫ニニギを指しますが、仮に(本稿解釈における)讃留霊王=天宇受賣命であった場合も、天皇の子であることを示す『霊子(武殻王)は、日本武尊の「御子」』つまり、阿波国風土記逸文「勝間井(萬葉集註釋 卷第七)」 「阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命(やまとたけるのすめらみこと)、乃ち、大御櫛笥を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。」 …と残されてあるように、日本武尊は天皇であったから、その子の霊子も天皇の子を表す「御子」なのです。 この天宇受賣命は、別名を大宮売神、伏見稲荷大社では大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)と表記され、『古語拾遺』によれば、太玉命の久志備に生ませる神として登場します。 大宮売神社(おおみやめじんじゃ/おおみやのめじんじゃ、大宮賣神社)は、京都府京丹後市大宮町周枳(すき)にある神社。式内社(名神大社)で、丹後国二宮を称する。 ◆祭神 大宮賣神 若宮賣神  大宮売神社側では大宮売神を天鈿女神と同一視する説を挙げる。 もう1柱の祭神である若宮売神については詳らかでない。大宮売神社側では豊受神と同一視する説を挙げる。(wikipedia 大宮売神社より抜粋) これについて検索をかけてみますとやはりこちらのサイト様がヒットします笑 「ぐーたら気延日記(重箱の隅) 宮中八神殿」 この神がどのような神様なのかは上にあるリンク先にてご確認下さいませ。 さて、少し考察する角度を変えまして、 「猿」の語源についてですが、これには諸説あり、 ①猿の古語である 「ましら」が「ましこ」「まさる」 と変化し「まさる」の「ま」が脱落して「さる」 になった説。 ②他の獣より知恵が勝っていることから「まさる」の「ま」の脱落説。 ③「戯(ざ)れ:ふざける。たわむれる。じゃれる。」ことから、「ざる」「さる」となった説。 ④木にぶら下がるから「さがる」と言われ、そこから 「さる」 になった説。 ⑤人に似た振る舞いをするが、それは表面的な真似であって心がない。つまり心が去っていることから「去る」「さる」 と呼んだ説。 ⑥「そのようにある」という意味である「然(さ)る」に由来する説。 …等々諸説満載です。 「記紀」考察をしていく上において、例えば日本人によくある「A説とB説の是非を問われた場合、A説が正解でB説は間違いである」といった思考が働きます。 しかしこれまでに私が記して来た幾多の考察事例等から、例えば神名を考察していく場合において、これらの同音の言葉や漢字、また同意味を示す別の言葉等を巧みに織り交ぜながら記紀物語に落とし込んでいると考えられ、意外と「AもBも、はたまたCやDまでもが当て嵌り該当している」といった風に、実際は全てが正解であるのでは?といった可能性も考えられるのです。 例えば、雌の猿は、群れの上位の者に対してよく毛繕いをしますから、繕いものをするという意味からも猿女の所属する縫殿寮(ぬいどのりょう)という名称は的を射ておりますし、また、戯(ざ)れ・ふざける様が、猿女となるウズメの激しくも官能的な踊りに起因しているとも考えられるわけです。 次に、天宇受賣命の「ウズメ」の解釈にも諸説あり、 ①『古語拾遺』にある「強女(オズメ:勝気で激しい性格の女性)」の意とする説。 ②『日本書紀』にある「髪飾りをした女(鈿はかんざしの意)」とする説。 …があります。(従ってどちらの説も正解かも知れませんね。まだ他にもありそうですが笑) また、この天宇受賣命の特性の一つとして、 佐瑠女神社(三重県伊勢市宇治浦田2丁目1)のHPにも書かれてあるように、 俳優(わざおぎ)・神楽・技芸・鎮魂の祖神と仰がれる天宇受売命が奉祀されているとあります。 神紋は舞鶴 「記紀」では、岩戸隠れした天照大御神をエロティックなダンスを披露したことをきっかけに、岩戸から引き出す要因を作った踊り子でもあることから、我が国では芸能の女神として信仰されています。 この「俳優」の記載があるのは、『日本書紀』卷第一 第七段、  「立於天石窟戸之前 巧作俳優 亦以天香山之眞坂樹爲鬘 以蘿【蘿 此云比舸礙】 爲手繦【手繦 此云多須枳】而火處燒 覆槽置【覆槽 此云于該】 顯神明之憑談【顯神明之憑談 此云歌牟鵝可梨】」 「天石窟戸の前に立ちて、巧に俳優(わざおぎ)を作す。亦た天香山の眞坂樹(まさかき)を以ちて鬘(かづら)と爲し、蘿(ひかげ)を以ちて手繦(たすき)と爲して、火處(ほところ)を燒き、覆槽(うけ)置き、顯神明之憑談(かむがかり)す。」 ここでも、火處(ほところ=女陰)を焼いてますなぁ(´・ω・`)ウズメがね。ほところ焼くってどういうことよ?やっぱアレ?製鉄? 従って私的解釈として、 「俳優(わざをき)」に隠されている意味は、「然(さ)る」に由来する説にある、「そのようにある」ということは、実際はそれらしく振る舞い、演じてはいるが、実際のところはそうではないことを意味しているとも考えられるのです。 白鳥神社(しろとりじんじゃ)は、香川県東かがわ市に鎮座する神社である。旧社格は県社。 ◆鶴の門(狛犬と同じ阿吽の配置)鶴デスヨ鶴 讃岐国造となった鷲住王の妹に確か高鶴郎女が居りましたなぁ。 鶴にももちろん注目なのですが、個人的には「高」にも注目です。 ●歴史 能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、白鳥となって飛び去った日本武尊の霊が舞い降りた、という伝説が残る。当地に降りた白鳥は間もなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王が廟を建て手厚く葬ったという。白鳥神社はこの時に始まるとされている。(wikipedia 白鳥神社 (東かがわ市)より抜粋) 『讃岐白鳥神社』のご由緒をみてみますと、 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は人皇(ジンコウ)十二代 景行(ケイコウ)天皇の皇子に在らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し、帰途の途次、近江国の伊吹山にて病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野に至り病篤く、終に亡くなる。実に、景行天皇四十一年なり、天皇その功をたたえ、武部を定め群臣に命じその地に山陵を造り厚く葬る。群臣入棺し奉りしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内にはただ衣冠のみ空く在す、その白鶴は大和国琴弾原に、また飛て河内国旧市の邑に至りまた更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止りる。よってこの所に神陵を建てさせる。成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王(カングシオウ)をして日本武尊の御子、武皷王(タケミカツチノオウ)に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる(武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)。日本武尊の御子 仲哀(チュウアイ)天皇の時代神籬を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。その後一盛一衰あるが、武家は弓矢の神となし崇敬深い。寛文4年讃岐守高松藩祖松平頼重(ヨリシゲ)侯おおいにその規模を拡め、社殿の修築をなし、領地をさき神領に寄し、幕府の朱印地に改めた。明治五年県社に列せられ現在に及ぶ。 皷(こ) [常用漢字][音]コ(漢)[訓]つづみ(weblio辞書) 先のナマコの説話がありますが、ナマコの古語は蚕と同じく「こ」であり、 ナマコの口を裂くと何が出て来るかというと、これまた蚕と同じく白い糸ですね。(山の生き物か海の生き物かの違いはありますが) サクッと纏めますと、 武鼓王(たけかいこおう)=武皷王(たけみかつちのおう) 雷(いかづち)は稲-妻と書いて「いなづま」ともいいますしね。 伊邪那美神の体に纏わりつく八雷神、また『播磨国風土記』宍粟郡雲箇里(うるかのさと)の条に記載される「(大国主命)の妻・許乃波奈佐久夜比売、其の形美麗とある。美人であったので雲箇(うるか、宇留加)の地名になったと云う。」 仏教でいうところの、憂流迦(うるか)は天狗という流星の名でもあり、天狗の吠える声が雷に似ていると『日本書紀』にも記録されています。 余談ですが、宍粟郡では明治初期まで鉄生産が盛んに行われ、「宍粟鉄」として広く流通していました。 製鉄遺跡も発見されており、播磨国風土記にも鉄生産の記事が見られます。 さて、私的考察結論としまして、 この天宇受賣命は、性的所作を以って必要以上に女性をアピールしながらも、一方で面勝つ女であり、その気性は男勝りとして描かれています。 つまり「記紀」の中では、実際は女性であるが、男性と偽るように演技をしているという仕掛けが内包されていると考えられるのです。 従って「猿”女”君」の正体は、女性と偽っている男性のこと。(ややこしいわ笑) 讃岐白鳥神社のご由緒からは、「神櫛王をして云々…」の件りからも、『古事記』では神櫛王は倭建命の同母三兄弟であり、また武鼓王は倭建命の御子なのですから、それぞれが一世代ズレての別神で、これが讃岐の伝承にある「倭武尊の功を子の武鼓王(讃留王)に譲って名を改めた武明王(綾の讃留大明神)」であるならば、神櫛王=倭武尊もしくは男性を偽る倭武尊の妻の猿女君であるのかも知れません。 従って、この伝承での讃留霊王は、「猿女君の始祖=天宇受賣命」の夫となったことにより、姓氏である猿女君一族となった猿田毘古=讃留霊王のことなのかも知れませんネ。 さて、過去の考察等から、 稚拙自ブログ考察➨「天宇受賣命から考察」 …よりもぐーたら気延日記氏の確かな見識による証拠➨「オフナトはんシリーズ」「岐神再びシリーズ」 猿田彦大神(岐神)と八重事代主命は同神 言い換えれば、事代主命の妻(=天宇受賣命)が猿女君の祖なのですから、以降後裔はその性質上男女問わずみな「猿女君」にあたることとなり、該当する系譜を「記紀」に当て嵌め以下(wiki参照にて)その他情報等を少し列記しますと、 初代 神武天皇 皇后 富登多多良伊須須岐比売(媛蹈鞴五十鈴媛) 「記」美和之大物主神の娘、「紀」八尋熊鰐となった事代主命の娘 二代 綏靖天皇 皇后 五十鈴依媛命(川派媛・糸織媛・河俣毘売) 「紀」「旧」事代主命の娘、「紀」磯城県主の娘、春日県主大日諸命の女(大日諸命は神武朝に活躍した天種子命(中臣氏の祖)の子)、師木県主の祖 三代 安寧天皇 皇后 阿久斗比売(渟名底仲媛・川津媛・糸井媛) 「記」師木県主波延の娘、「紀」磯城県主葉江の娘、事代主神の子の天日方奇日方命(櫛御方命・鴨王「紀」によれば祖父が事代主神)の娘 四代 懿徳天皇 皇后 賦登麻和訶比売=飯日比売(天豊津媛命・泉媛) 「記」師木県主の祖、「紀」息石耳命(安寧天皇第一皇子)の娘、磯城県主太眞稚彦の娘、磯城県主葉江の弟 猪手の娘 五代 孝昭天皇 皇后 余曽多本毘売命(世襲足媛・渟名城津媛・大井媛) 「記」尾張連の祖・奥津余曾の妹、「紀」磯城県主葉江の娘、倭国豊秋狭太媛の女 六代 孝安天皇 皇后 忍鹿比売命(押媛・長媛・五十坂媛) 「記紀」天足彦国押人命(孝昭天皇第一皇子 和珥臣・春日氏・小野氏等諸氏族の祖)の娘、「紀」磯城県主葉江の娘、十市県主五十坂彦の娘 七代 孝霊天皇 皇后 細比売命(細媛命・春日千乳早山香媛・真舌媛) 「記紀」磯城県主(または十市県主)大目の娘、「紀」十市県主祖 八代 孝元天皇 皇后 内色許売命(欝色謎命) 「旧」大矢口宿禰命の娘、穂積臣遠祖の欝色雄命(内色許男命)の妹 九代 開化天皇 皇后 伊迦賀色許売命(伊香色謎命) 「旧」大綜麻杵命と高屋阿波良姫の娘、物部氏の祖の伊迦賀色許男命の妹 十代 崇神天皇 皇后 御真津比売命(御間城姫) 大彦命(孝元天皇第一皇子)の女 皇居:師木水垣宮(磯城瑞籬宮) お気付きになられた方もおられるかと思いますが、姓氏である「猿女君」の意味からも、天皇となる男性の皇后が「猿女君」なのであり、事代主命の娘を娶ることによって、天皇家が「猿女君」の一族になるということなのです。(猿女君であるが故に現在においても氏姓および名字を持たないため記録されないとも考えられますね) これが往古の師木県主(磯城県主)一族ということです。(師木=磯城がどの辺りにあったのか凡そ想像ができますね) 後に天皇が次代へと後継されると、旧天皇の第一皇子の娘を娶るといった痕跡が伺えますね。 稗田 阿礼(ひえだ の あれ、生没年不詳(7世紀後半から8世紀初頭))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての人物。『古事記』の編纂者の1人として知られる。 ●概要 稗田阿礼については、「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっていない。 ●異説 通常「舎人」といえば男性だが、江戸時代に「稗田阿礼は女性である」とする説が提起された。民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱らも同説を唱えた。その根拠として、稗田氏は天鈿女命を始祖とする猿女君と同族であり、猿女君は巫女や女孺として朝廷に仕える一族で、「アレ」は巫女の呼称である、ということがある。例として孝霊天皇の妃の一人に意富夜麻登久邇阿礼比売命がいる。 近年、梅原猛が『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている。また、阿礼を中臣磐余の孫とする系図もあり、それによると中臣勝海の兄弟の中臣忍立の子とされる。(wikipedia 稗田 阿礼より抜粋) う~ん、興味深い笑 上記も踏まえ、これらをどう考えるかについてはのちの宿題としておきましょう。(宿題多いな)  また「猿」のカナ振りについてなのですが、 猿田毘古は別名で、佐田(太)「さ-た」彦大神とも呼ばれ、猿投神社の訓みも「さ-なげ」と訓みます。 これを猿女の文字に当て嵌めると、「さ-め」となり、つまり鮫(さめ)のことで、「ワニ(和爾・和珥・丸爾)」氏を指します。(主観の違いから、山なら猿、海なら鮫で描く) 纏めきれませんが、そろそろ話も無駄に長くなってきましたのでこの話題も一旦〆ようと思います。 香川県を俯瞰してみると、何かに見えてくる... 一つの推論として、諸々の魚とナマコの話や悪魚退治の説話などから、同族・同胞もしくはそれまでの協力者の領土であった現在の讃岐の地を、開拓、そして征伐ないし服従させこれを治めた(讃岐国造)ということなのかも知れません。 (何故郡里の地形割が縦分割になっているのかなぁ…謎) Oh、やっぱりこの地形は王蟲蚕のさなぎの形状に似てマスネェ。(さぁどうでしょ笑) 讃岐(さぬき)は蛹(さなぎ)…ではないとは思いますが(ノ∀`) 他にも書き足りないことがまだまだ御座いますが、(最後のオチが情けない)それはまたいずれに記する(…たぶん)ということで。(´・ω・`)ノシ

  • 06Jun
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      讃留霊王(さるれお)から考察 ①

       『古事記』に「飯依比古」と記される讃岐国は、式内社 大麻神社社伝によると、「神武天皇の時代に、讃岐忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」と伝わるように、同じく四国の東側にあるお隣の阿波国とは往古より非常に密接な協力関係にあります。 阿波国では、讃岐との交流を示す痕跡として、多くの遺跡からサヌカイト(讃岐岩)が発見されますし、また『日本書紀』によると、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)の始祖である鷲住王が讃岐の国造になったと記されています。 神武の時代に、畝傍山の麓に橿原の御殿を作ったとある天富命は、この鷲住王の祖父にあたります。 「阿波知りたくば、讃岐を知るべし。」と言う訳で、今回は讃岐にある古代の痕跡から考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 讃王(さんのう)は、昔瀬戸内海にいた悪魚を退治した人物。讃留霊王(さるれお)とも。 古事記伝などでは讃王を景行天皇の御子神櫛王としているが、古事記には武貝児王、日本書紀には日本武尊の御子である霊子(武殻王)としている。 ●伝説 景行天皇の御世、瀬戸内海では悪魚が人々を困らせていた。讃王はこのことを聞きつけたくさんの船をつれて退治に行った。ところが、一人の兵士が悪魚に飲み込まれてしまった。その兵士が悪魚の腹の中で刀を抜いて暴れ出し悪魚は苦しくなって死んでしまった。以後、讃岐の漁師は自由に魚をとってもよくなった。 丸亀市飯山町には、讃王を祭った讃王神社および讃留霊王神社が存在する。また弘憲寺には讃王の肖像画が、綾川町にある北条池の付近には讃留霊王の墓がある。(wikipedia 讃王より) 香川県に伝わる讃留霊王(さるれお、讃王)伝説によれば、景行天皇23年に讃留霊王は勅命を受け、讃岐入りして瀬戸内の悪魚退治を行い、同地に留まり仲哀天皇8年9月15日に125歳で薨去したという。この讃留霊王について、東讃では神櫛王のこととし(櫛梨神社社伝等)、西讃では武卵王(たけかいごのみこ:日本武尊の子)のこととしている。(wikipedia 神櫛皇子より抜粋) wikipediaによれば、讃留霊王の候補者は2名。 その一人が12代景行天皇の子である神櫛皇子で、この皇子は、「記紀」には事績が記録されておりませんが、『日本書紀』に、 「次妃五十河媛、生神櫛皇子・稻背入彥皇子、其兄神櫛皇子、是讚岐國造之始祖也、弟稻背入彥皇子、是播磨別之始祖也。」 「次の妃の五十河媛は神櫛皇子・稻背入彦皇子を生みました。兄の神櫛皇子は讚岐国造の始祖です。弟の稻背入彦皇子は播磨別の始祖です。」 …とあるように、讃岐国造の始祖とあります。 一方、武貝児王(武殻王)は、『日本書紀』によれば、神櫛皇子の異母兄弟である日本武尊と吉備穴戸武媛との間の子の武卵王(たけかいこのみこ)とします。 この王は、 「又妃吉備武彥之女吉備穴戸武媛、生武卵王與十城別王、其兄武卵王是讚岐綾君之始祖也、弟十城別王是伊豫別君之始祖也。」 「又、吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛を妃として、武卵王と十城別王を生みました。兄の武卵王は讃岐綾君の始祖です。弟の十城別王は伊予別君の始祖です。」 …こちらは讃岐綾君の始祖とあります。 阿野郡(あやぐん)は、香川県(讃岐国)にあった郡。綾郡、安益郡、阿夜郡ともいう。(wikipedia 阿野郡より抜粋) 往古讃岐の国府が置かれていたところですね。 2者は共に祖を景行天皇とするものの、前者は「子」、後者は「孫」であり、両者の間では一世代のズレが生じています。 ・景行天皇 - 神櫛皇子(讃岐国造の始祖 讃留霊王??) ・景行天皇 - 日本武尊 -武殻王(讃岐綾君の始祖 讃留霊王??) この讃留霊王をお祀りするのは、讃岐富士(飯野山)の南方にご鎮座するその名も、讃留霊王神社(さるれおじんじゃ:香川県丸亀市飯山町下法軍寺19)。 地図で示すとこの辺り 因みに別所にも讃留霊王の墓なる場所もある。 チョット分かりにくいので広域地図で場所を確認。 ●御祭神は、日本武尊の子である、建貝児王(たけかいこう)。 ●讃王大明神王妃霊地 ん?(´・ω・`) ●讃留霊王神社御由緒 この丘は讃岐の代表的伝説の1つである悪魚退治のヒロイン武殻(たけかいこ)王墳墓の地であり、王を祀る讃留霊王神社の鎮まります丘である。今概要をのべよう。昔景行天皇の御代、南海に悪魚現れ、船をのみ、南海諸国の年貢を略奪するなど、暴虐の限りなく官兵を派すも悉く亡ぼされた。天皇は、皇子日本武尊に討伐を命ず。尊は、その子十五歳の勇士霊子を推す。霊子命を奉し南海に赴き謀を秘めて悪魚に対す。悪魚その軍船を一呑にするも動せず、火をもて腹の中を焼き、肉を割き、悪魚の屍にまたがり福江の浦に漂着す。時に一童子現れその捧くる霊水により毒気に倒れた軍兵皆蘇生す。この伝説を史家曰く、日本武尊内海の賊を平け、その功を子に譲りたりしと。天平年中、行基法師は、魚霊堂を福江の浦に、王居館の地玉井の里に法勳寺を建立し、悪魚の霊を追福した。霊子長して武殻王は、この功によりこの国を賜り、民に養蚕の術を教え給いしが、仲哀天皇の入年9月15日、齢百二十五歳て薨せられ、居館を望む景勝のこの丘に葬り奉る。南海の民廟を立て永く讃岐に留り給いしを祝き、讃留霊王大明神と称え奉る。王の子孫は祖先の業養蚕並に綾織をひろめ、年毎の調貢に綾公の姓を賜り、永くこの地方に栄えた。当地綾野氏もその後裔と伝えられる。後、弘法大師は魚霊堂を奉勳寺に遷し、王の墳墓の上に薬師如来などの仏像などを納め荘厳なる供養を行う。又、社伝によると桓武天皇の御代、神霊此の山に現れ給い、神託により和気氏、王の墓前に社伝を造営すと伝う。 …さて、気になる点がチラホラ(´・ω・`) 疑問点は枚挙に暇がないので考察を進めて参りましょう。 まず日本武尊の子である霊子(武殻王)の年齢についてですが、 本居宣長著の『古事記伝 二十九』に、 「讃岐国鵜足郡に讃留靈王(さるれいおう)という祠がある。その国に讃留靈記という古い書物があり、「景行天皇二三年、南海に大魚の怪物が住んでいて、往来する船を悩ませていたが、倭建命の御子がこの国に下ってきて退治し、そのまま留まって国主となった。それで讃留靈王と呼んだ。これは綾氏、和氣氏の始祖である」と書いてある。あるいはこれを景行天皇の御子、神櫛王だとか、大碓命だとも言い伝える。讃岐の国主の初めは倭建命の御子、武卵(たけかいこ)王だと古い書物に出ているので、武卵王なのかもしれない。今でも国内に変事が起ころうとすると、この讃留靈王の祠が必ず鳴動すると、近年その国のことを書いた書物に書いてある。思うに、讃岐の国造の初めとすれば、神櫛王だろう。だが倭建命の御子と言い、綾君、和氣君の祖というのは、武卵王のようである。それにしても「さるれい」というのはどんな意味の名だろう。讃留靈と書くのは後人の当て字だろう。」 …とあり、倭建命の御子の武卵王が悪魚を退治したのは景行天皇23年のことで、神社のご由緒と合わせますと、同年が武卵王15歳の年であったとします。 『日本書紀』には、父である日本武尊の年齢が分かる箇所があり、 「冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。」 「(即位27年)冬10月13日。日本武尊を派遣して熊襲を撃たせました。そのとき16歳。」 つまり景行天皇27年が日本武尊が16歳の年であったとあります。 また『先代旧事本紀』では、 熊襲を撃ったのは、即位20年冬10月に16歳であると記します。 つまりこの二つの書からは、ヤマトタケルの生年は、「旧」:景行天皇4年か、「紀」:景行天皇11年となりますが、「紀」には、 「其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生」 「その大碓皇子と小碓尊は同じ日に同じ胞(エ=胎盤)に包まれて生まれた双子です。」 …とあり、小碓尊(=日本武尊)と大碓皇子は双子であった旨が記され、この双子の兄である大碓皇子は、 「是月、天皇、聞美濃国造名神骨之女、兄名兄遠子・弟名弟遠子、並有国色、則遣大碓命、使察其婦女之容姿。時大碓命、便密通而不復命。」 「この月のこと(景行天皇即位4年2月)。美濃国造の神骨という名の人物に姉の名は兄遠子、妹の名は弟遠子という姉妹がいました。二人ともが有国色と景行天皇は聞いて、その婦女の容姿を見たいを思いました。それで大碓命に景行天皇の代わりに密かに婦女のもとへと送ったのですが、報告もしませんでした。」 …ともあり、景行天皇4年、双子の兄の大碓皇子は、既に父の景行天皇から妻を奪う程に成熟していたことが伺え、双方の辻褄を合わせますと、古くとも『先代旧事本紀』から辿った場合の「景行4年に成熟した双子として生まれた」という体裁となり、父景行天皇と双子の子らの関係は、実は「義理の息子達」である とも考え得ることができてしまうことになります。 また、通常解釈でいきますと、日本武尊の子の武卵王の年齢は、景行天皇23年に15歳ですが、父であるはずの日本武尊は生年換算からこの年は19歳もしくは「紀」を信じるなら12歳であったということになります。 従って武卵王は日本武尊が4歳の時の子、もしくは『日本書紀』を信じると、父が生まれる何と2年前に、子の方の武卵王が生まれていたということになってしまいますヨ(´・ω・`)うん、ありえねー これらの年代の摺り合わせにつきましては、文献や伝承による古代史の調査研究をする上で、学術的な仮説証明を裏付けるために必要な集積データ源にはなるとは思われますが、私的には恐らくあまり意味をなさないという残念な結果が得られるだけになります。(絶対に付合しないからね) 悪魚退治の経路は、『讃岐大日記本』によりますと、 「景行天皇の二十有三年、一の大魚有り。其の大きさ嶋巒の如し。其の去来電の如くして、西海に周流し、四国を匝廻す。以て波瀾を動かし、船舶を沈す。且つ好みて人肉を食ふこと切なり。故に旅客の往来、貢物の運送已に絶す。天子之を愁ひ、官士を以て之を殺さんと欲す。然るに悪魚船翼を砕き、官士を亡す。天子驚駭して、小碓皇子〈日本武尊と号す。〉に勅して曰く「速かに西海に至り、悪魚を殺し、泰平の思いを為さしむべし。」小碓答へて曰く「我凡子にして英雄の士にあらず。霊子〈時に年十五歳。〉を召して之に命ずべし 。」天皇之を喜び、霊子をして西方四国に入らしめ、国吏に命じて、嶋々浦々に兵士を置きて、悪魚の有無を見る。或は土国の南海に来たり、或は阿国の鳴門に来たる。然れ雖も波狂い風烈くして、舟行すること能はず。唯茫然として霊子土国に居す。明くる年三月一日、悪魚讃岐の椎の途に来たる。霊子、之を聞く、而して四月三日此の国に至り、工を集めて船を作り、一千余の士を率ゐて、五月五日悪魚に向かふ。悪魚口を開きて船を呑む。霊子・官士魚胎に入りて、暑きこと火の如し。官士酔ひ伏して、皆尸の如し。霊子、独り心正く身健なり。而して剣を以て魚肉を切り破り、五日に及んで天日を見る。是に由りて悪魚死す。而して讃の福江の浦に寄る。是に於て神童一人瓶水を持ち、来て霊子に奉る。霊子之を呑むに心潔し。神童に問ひて曰く「此の水何処にか在る。」答へて曰く「安場の水是なり。」霊子、之を汲みて、官士の口に入るに、悉く皆蘇生す。又邑人集ひ来て、魚屍を切分す。而る後に霊子、官士を率ゐて鵜足津の邑に入る。時に五月十有五日なり。神童は横汐明神なり。天の王道を守るに依り、神力を加ふること見つべきなり。悪魚の一霊福江の浦に残り、人民を困むること年尚し。後に一箇の伽藍を建て、魚の御堂と号すと今に至るまで泯へざりき。霊子都城に帰らずして、讃地に留まる。故に讃留霊公と名づけ奉る。後に城を香西の邑に築き、当国の司と為る。仲哀帝の八年九月十有五日、齢百二十五にして薨す。」 『南海通記本:讃留霊記』 「常に土佐の南海に住めるが、阿波の鳴門、讃岐 の椎の門、及伊予の水崎に往き来ひ、西州より 船舸往還する所を覘ひつつ、波濤を動し舟楫覆 して、人物を食むこと劇なりき。」 ●小碓・霊子親子の悪魚退治の経路 出発点はいつも土国の南海(海南)と記され、四国の東側をぐるりと回って遠いところでは伊予水崎までを記します。 これらの悪魚征伐についての記述は、『讃岐大日記本』をはじめ、『南海通記本「讃留霊記」』『讃留霊公胤記』『三代物語』『全讃史』『西讃府史』『西讃府史』『豊原道隆寺本「讃留霊公胤記略」』『中尾本(異本讃留霊記)』『讃陽綱目』などに記されており、多少の伝承の違いがみられ、若干の混同がみられます。 征伐者は、 小碓皇子の子霊子 武殻王(讃留王) 霊子(讃留霊公) 倭武尊の功を子の武鼓王(讃留王)に譲って名を改めた武明王(綾の讃留大明神) 武鼓王(讃留霊王) 讃留霊王 神櫛王(讃留王) 小碓尊の子霊公(讃留霊公) 小碓皇子の子霊子(讃留霊公:讃留霊天皇は讃岐の国造の始祖) 大碓命(讃留霊公) 纏めますと、功を譲った小碓命を除外すると、候補者は3名であり、そのうち大碓命・神櫛王については小碓命の同母兄弟ですが、最も多く記録されるのが小碓命の子の霊子こと武殻王です。 これが讃留王ないし讃留霊王ということになります。  では、あらためて讃留霊王神社のご由緒書を振り返ってみますと、 冒頭にいきなり「悪魚退治のヒロイン武殻王墳墓の地」と書かれてあります。 恐らく多くの諸氏はこの「ヒロイン」の記載は真に恥ずかしいミスであると考えているようですが、しかし、社のご由緒書をきちんと読み取れば、「讃王大明神王妃」つまり讃王の妃が「讃留”霊”王(讃留霊王大明神)」であり、これが倭建命の子である「霊子」武殻王のことなのです。 つまり「讃王」と「讃留霊王」は別神であり、二神は夫婦神であるということ。 チョット前振りが長かった(>ω・)笑 もう少し掘り下げていきましょう。  この讃留霊王の「霊」という文字ですが、例えば「産霊:さんれい」と書いて「むすひ」と読み、つまりこの場合「霊」の読みは「ひ」となります。難読文字やね(´・ω・`) また同様に、大日霊貴(天照大御神)や稚日女尊の神名にある「日孁・日霊・日女」はいずれも「ひる-め」(weblio辞書)と読み、従ってこの場合「日」は「ひ」もしくは「ひる」で、「女」・「孁」・「霊」は「め」の読みとなります。 また、「王」の読みは、 「大王」を「おお‐きみ」と読むように「きみ」とも読みます。 従って「讃留霊王」は、「さるめのきみ」の意となります。 また「養蚕並に綾織をひろめ、年毎の調貢に綾公の姓を賜り…」とあるように、「綾:あや」は、布を表す「糸」に、「面と面とが交差してもりあがった状態」を表す「夌」を組み合わせて「筋目のある模様を織り出した織物」を表します。 つまり建貝児王(武卵王・武殻王:たけかいこのみこ)は、養蚕・織物に纏わる神名であり、我が国ではこれらの役割は、古来より「女性」の仕事でもあります。 『日本書紀』には保食神から得た繭を、 「口裏含蠒、便得抽絲、自此始有養蠶之道」 「大神は口の中に、蚕の繭をふくんで糸を抽くことが出来た。これからはじめて養蚕ができるようになった。」 天照大神が口の中に含んで、蚕の繭から糸を得たのがその始まりであるとし、『古事記』では、保食神が大宜津比売(オオゲツヒメ:阿波国の養蚕・食物の女神)に代わって記されています。 また「紀」には、 「又見天照大神 方織神衣 居齋服殿」 「天照大神が衣服を織る齋服殿に居る」 「記」では、 「天照大御神、坐忌服屋而、令織神御衣之時」 「天照大御神は忌服屋で神にささげる服を織らせていたが」 …と天照大御神が機を織るエピソードも記されており、女性が機織りをすることは機織女(はたおりめ)として「記紀」等では多く見られます。 ただし只の一点だけ、『古語拾遺』には、 「令天羽槌雄神(倭文遠祖也)織文布 令天棚機姫神織神衣 所謂和衣(古語爾伎多倍)」 「天羽槌雄神(倭文の遠祖である)に文布を織らせ、天棚機姫神に神衣を織らせる。所謂、和衣(ニギタエ)である。」  ※倭文(しず(と)り)とは、「しつ・おり(織り)」のことで、文布(あやぬの:綾布)=中国の織物を意味する「漢(あや)」の「綾、文様」に対して、倭国の文様の布のこと。 …とあり、いかにも勇ましい男性を彷彿させるお名前の神が「文布」を織っています笑 これをどう考えるかは次に持ち越しましょう。 ちなみに「安房国忌部系図」にある天日鷲命(阿波忌部の祖)と言苫比賣命との間の子である天羽雷雄命 亦の名を武羽槌命は、「忌部氏系図」にある天羽富命(倭文連祖)のことです。 awaotoko様ブログ:「安房国忌部系図からみる由布津主命 又名 阿八別彦命(アワワケヒコ)」より また、「王」の読みも『古事記』では、景行天皇の妃として記録する「銀王:しろがねのみこ」がおり、「王」と書いて「みこ」とも読みます。 つまり「王」は女性にも用いられる場合があるということ。 付け加えますと、この天皇と銀王との子に大江王(おおえのみこ)がおり、更にその子、つまり霊子と同じ世代の人物には、大中津比売命と大名方王(おおながたのみこ)が記録されます。”名方”はどこかな? 讃岐の伝承では、日本武尊の御子(みこ)を建貝兒王(たけかいこおう)・武卵王(たけかひこのみこ)とは書かれているものの、決して男子を意味する「皇子:みこ」の文字は充てていません。 ちなみに「みこ」の文字は他に、「巫女」「神子」「皇女」もありますね。 本稿だけでは纏めきれないので次回に引き延ばすようである(´・ω・`)ノ

  • 27May
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      「天孫降臨の地は根の国か」の考察

      ◆八咫烏(やたがらす) 「『先代旧事本紀』から考察 ②」からの(一応の)続きとなりますが、これまでの私説考察では、この阿波海部が、天孫ニニギが降臨した地であり、また別考察にて、イザナミの眠るとされる根国であることの痕跡を記してきました。 今回は更にこれらを補足する材料として、また前稿に引き続き、饒速日尊の天孫降臨に従った天香語山命から、降臨後は神武天皇を手助けした高倉下命が、後に高志を平定するまでの痕跡について探っていこうかと思います。 ポイントとして、何故天孫は海部に降臨したのか?を考える上で、一考する材料にできればと思います。チョットいろいろ情報量が多めですがご勘弁を…(;´▽`A`` 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 『古事記』大国主命の段に、木国の大屋毘古神を頼った後に、 「可參向須佐能男命所坐之根堅州國、必其大神議也。」 「須佐之男命の居る根の堅州国に行きなさい。 きっとその神がよい考えを持っているでしょう。」 と言いました。」 『古事記』の須佐之男命の説話では、確か母イザナミが眠る「妣の国 根の堅州国」に行きたいと泣き喚き、父イザナギに懇願し許可を得た(もしくは追放された)ことから始まります。 上にありますように、後の大己貴命の話に登場する須佐之男命は、当初の目的通りきちんと根の堅州国に住んでいたことがわかります。 その須佐之男命のもとに身を隠そうとした大己貴命も後に、 「故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」 「須佐之男命は黄泉比良坂まで追って来て、遥か遠くに居る大穴牟遅神を呼んで言いました。「お前が持ってる生大刀・生弓矢を使ってお前の庶兄弟(腹違いの兄弟)を坂のすそに追いつめて、または川の瀬に追い払って、意礼 大国主神となり、宇都志国玉神となり娘の須勢理毘売を正妻として宇迦の山の麓に太い柱を立てて、高い宮殿に住め。このやろう」 と言いました。」 根国を去った後に「宇迦の山の麓」に宮を構えなさいというお話になります。 先にこの「根国」についての考察を少し書きますが、これを式内社 伊射奈美神社のある美馬市に比定される諸氏もおられます。しかし、私説としては、 「紀」神代上より 「故、其父母二神、勅素戔嗚尊「汝甚無道。不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣。」遂逐之。」 「それゆえに父母の二神は、素戔嗚尊に勅して、「お前は全く道に外れて乱暴だ。この世界に君臨してはならない。遠く根国へ行かなければならない。」と命じ、遂に放逐したのである。」 ※根国は遠い。 一書 「素戔嗚尊、是性好殘害、故令下治根國。」 「素戔嗚尊は、生れつき残酷で害悪なことを好む性格であった。故に根国に下し治めさせた。」 ※下された場所に根国がある。 一書 「其父母勅曰「假使汝治此國、必多所殘傷。故汝、可以馭極遠之根國。」」 「そのため父母は、「もしお前がこの国を治めたならば、必ず多くの人を殺し傷つけるだろう。だからお前は遙か遠く離れた根国を治めよ。」と命じた。」 ※遙か遠いのが根国。 「對曰「吾欲從母於根國、只爲泣耳。」伊弉諾尊惡之曰「可以任情行矣。」乃逐之。」 「素戔嗚尊は、「私は根国で母に従いたいのです。だから泣いているだけなのです。」と答えた。伊弉諾尊は不快に思い「気の向くままに行ってしまえ。」といってそのまま追放した。」 ※黄泉に居る母の伊弉冉尊に従いたい=つまり黄泉=根国 以上のことから、同美馬には、式内社 倭大國魂神大國敷神社がご鎮座されること、そして当地は昔から「ソラ」と呼ばれる地です。 その呼び名から、同地はある基準点から「上」の位置に存在する地域なのであり、そこが「倭」の地なのですから、ある基準点より「下」でなければ「下す」という言葉は使わないはずで、つまり「ソラ」は「根」とは対極の位置にあるからこそ「極遠」と書くのです。 また「記」大己貴命の段では冒頭に記しているように、木国の大屋毘古神から須佐之男命の居る根の堅州国に行きなさい。といわれますが、「木」は地面の下に「根」を張るからこそ「根堅州國」なのであって、つまり「ソラ」➨「木」➨「根」の距離感で繋がっていると考えた方が自然ではないでしょうか。 従ってこの場合、ソラ(美馬)から木国(木頭・木沢のある那賀)へ、そして根国(海部)へと順に下って行ったと考えられるのです。 また伊射奈美神社の論社含むご由緒等からは、当地がイザナミの何に由来するのかについてはほぼ不詳で、唯一『阿府志』に「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山之絶頂にあり、俗に高越大権現 一座 伊弉冉尊 別当摩尼殊山高越寺」とある高越山にのみ「覗き岩」という絶景地があります。 イザナミが決して覗いてはいけないといったにも関わらず、約束を破り覗いたイザナギが、妻の変わり果てた姿を見て、恐れ地上へ逃げ出してしまうという話がありますが、当地がこれに由来する場所であるとすれば、逃走を開始した起点となる場所であるということになります。 それでは話を戻しまして、『古事記』ニニギの段には、 「於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。」 「底津石根に太い柱を立て、空に聳える程に壮大な宮殿を建てて住みました。」 高天原から降臨し、移住したところに宮を建てたとあります。 これらの説話には必ず「底津石根、宮柱布刀斯理、於高天原氷椽多迦斯理」の下りがあり、それぞれの当時の宮があった場所を指しています。 大己貴命の段によれば、根の国で須佐之男命の娘の須勢理毘売を正妻として迎えたことで、大己貴命は大国主命へと名を改め根国を離れますが、その目的は上にもあるように腹違いの兄達を倒すためです。 また、須佐之男命が大己貴命らに示した、「宮柱布刀斯理」宮殿を建ててそこに住めといった場所は、「宇迦の山の麓」であり、これを阿波説で置き換えますと恐らく、阿波国一宮 上一宮大粟神社(御祭神:大宜都比売命で神名は「大いなる食物(うか)の女神」の意味)のご鎮座される神山町の麓を意味していると考えられ、十中八九この場所は鮎喰川河口域であるということになり、次点で園瀬川方面ですが、いずれも眉山周辺地域となります。 東側の小松島方面も一応は麓になりますからこの時点では候補に挙がるでしょう。 また「宇迦の山の麓」を式内論社とする、天石門別八倉比売神社のことであったとすれば、ピンポイントで鮎喰川流域となります。 こちらは海陽町の「芝遺跡」の資料ですが、出土品の痕跡からは、 弥生時代終わり頃~古墳時代初め頃に製作された土器の中では、鮎喰川流域で製作された土器の搬入が最も多いことから、考古的データからもこれは鮎喰川流域との密接な繋がりがあったことがわかります。脚咋→鮎喰ね(´・ω・`) 「記紀」に、須佐之男命が天照大御神とのやり取りの後に高天原から天下り、大宜都比賣を殺した後の記述から「宇迦の山の麓」と想定される場所がわかる記述があります。 『古事記』須佐之男命の段、 「所避追而、降出雲國之肥上河上在鳥髮地。此時箸從其河流下、於是須佐之男命、以爲人有其河上而」 「避追はえて、出雲国の肥の河上の鳥髪といふ地に降りたまひき。此の時箸其の河より流れ下りき。是に須佐之男命、人其の河上に有りと以為ほして」 『日本書紀』同、 「是時、素戔嗚尊、自天而降到於出雲國簸之川上。」 同一書、 「是時、素戔嗚尊、下到於安藝國可愛之川上也。」 「素戔嗚は、安芸国の可愛(え)の川上に天から降りてきました。」 それぞれが示す場所が同じところでないといけませんが、これにつきましても、「ちょいネタから突っ込んで考察 ②」にて考察を記しておりますのでご参照下さい。 要するに「出雲國の肥・簸(ひ)の河」と「安芸国の可愛の川」は、鮎喰川もしくは隣接する園瀬川の両川のこと。 二つの川の間に位置する宅宮(えのみや)神社周辺が往古の安芸国が存在したであろう場所となり、やはり上図と同様の場所となります こちらの『「ひのかわ」と「八岐大蛇」と「須佐之男命」を考える』のサイト様の考察では、定説通りこれを出雲国=島根県の「斐伊川」・「日野川」や安芸国=広島県「江(ごう)の川」に充てると、双方の示す場所が一致しない結果を記されております。 また、共通名である、ニニギの眠る可愛山陵(えのみささぎ)は鹿児島県に比定されており、通説解釈とする可愛の川がある広島県とは大きく離れてしまいますので、地形的な辻褄が全く合わなくなってしまいますね。  「可愛山陵」に陵のあるニニギ、また大国主命は皇居を「宇迦の山の麓」に構えた訳で、私説検証によると、双方とも非常に近い場所に存在することになります。 話をやや移しまして、 「記」には、大己貴命が大国主命を名乗るようになったとあるように、天香語山命が天降って後に手栗彦命(高倉下命)と名を改めたとあります。 両者は何れも後の天皇もしくは天皇に直系する人物の”傍ら”で描かれている人物であるという点において共通しておりますが、『海部氏勘注系図』にある、天香語山命の子の天村雲命の弟にもまた高倉下命(=天香語山命)の名がみえるように、子の弟に実は「親」が隠れているというトリックが存在しています。 親が「子」の「弟」になる条件は何でしょうか 逆算的思考ですが、それは、子の妹を娶り、義兄弟になることです。 天村雲命(=阿多の小椅の君)には、妹の阿比良比売(吾平津媛)がいますが、東征を行う前の日向にいた時に結婚したのは神武天皇です。 熊野(この場合海部)に天降り住んでいた天香語山命は、阿比良比売を娶ったから、後に「弟」高倉下になったのではないですか。 少なくともこの時点で、天村雲命の弟=天香語山命=弟熊野高倉下=手栗彦命は間違いありません。  更に『先代旧事本紀』巻第五 天孫本紀に、 「饒速日尊の孫・天村雲命【またの名を天五多手(あまのいたて)】。この命は、阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女を生んだ。」 仮に阿比良比売(吾平津媛)と阿俾良「依」姫が同一人物であったなら、イザナギ・イザナミと同様に実際は自身の「妹」を娶ったということに集約され、結局のところ系譜は無限ループで描かれているとも考えられます。 また、天孫降臨説話の場合ですと、妻が二人の男性を夫としたのは、木花之佐久夜毘売であり、記紀では夫は邇邇芸命、『播磨国風土記』では伊和大神(大国主命)の妻の許乃波奈佐久夜比売命として記録されています。 大国主命の段でみえる、「意禮爲大國主神」や、景行天皇の段にある、「名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人…」の下りの後に、倭男具那王もまた、倭建命を名乗るようになります。 従ってこれらの考察から、阿波海部の地に至った神は、別の名前に代わるという仮説が生まれます。 テーマを変えて別の角度から考察してみますと、 高天原からニニギが降臨された地は、 『古事記』:「竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣」 『日本書紀』第一の一書:「筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯」 いずれも筑紫の日向の高千穂の「くぢふる峯」としております。 この謎を解くヒントは、「記紀」の神武条にある「久米歌」の中に、 原文 「宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。」 読み下し 「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障り 前妻が 肴乞はさば 立ちそばの 実の 無けくを 扱きしひえね 後妻が 肴乞はさば 柃 実の多けくを 許多ひゑね。」 現代語訳 「宇陀の高い場所で、鴫を獲る霞網を張って、待っていると、鴫が掛からずに、まあなんと鯨が掛かったよ。古女房が菜(食材)を求めたならば、立蕎麦のような実の少ないものを、たくさん木からむしり取って呉れてやれ。若い新妻が菜を求めたならば、いちさかき(柃・榊)のような実の詰まったものを、たくさん木からむしり取ってやれ。」 この現代語訳ですが、普通におかしくないですかね?(´・ω・`) シギ科(シギか、Scolopacidae)はチドリ目に属する科。模式属はヤマシギ属。 なお、シギを意味する「鴫」という文字は奈良時代に日本で形成された国字である。(wikipedia シギ科より抜粋) 鳥の仕掛けで鯨が捕れたと(´・ω・`)それを木からむしり取るんです。 まぁこれを当時のジョークであると解するようです。 「記」の当て字は、「久治良(くぢら)佐夜流」で、「紀」では、「區旎羅(くじら)佐夜離」の字を充ており、これを「く(ぢ)じら」=「鯨」としておりますが、 「くぢ」は鷹の古語です。 「鷹」と「鷲」との違いは体の大きさで、これも「鯨」と「海豚」の区別の仕方と同じですね。 従って「久士布流多氣」「槵觸之峯」は、「鷹が降りて来た峯」の意味でもあるということ。まぁ海部の場合は鯨でもいいんだけど(ノ∀`) 神武記では、建御雷神が平定した時の横刀(布都御魂)を倉の屋根に穴を空けて下した後、 「今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道」 「今、高天原から八咫烏を遣わせよう。 八咫烏が道案内をする。」 とありますね(´∀`) また、兄師木と弟師木を討ち取った後の兵士が詠んだ歌では、 原文 「多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥」 読み下し 「楯並めて 伊那嵯の山の 木の間よも い行き(瞻・守)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね。」 現代語訳 「(楯を並べて)伊那佐山の木の間からずっと見張りを続けながら戦ったので、腹がへったよ。(島の鳥)鵜飼の伴部よ、すぐに助けに来てくれ。」 これを奈良県の宇陀市伊那佐山に比定していますが、東征して来た神武軍からすれば知り得もしない余所の山の名前を久米の兵士が歌うはずもありません。 同様に東征経路にはない出雲の稲佐の山を歌ったはずもなく、これは海部の伊那佐での見張り時の話を思い出して歌った歌ではないでしょうか?(´・ω・`) 「海部郡誌」に、 「候舘、鞆浦遠見山にあり(中略)又乳崎山は現今は宍喰町に属しているが昔は鞆浦に属し、其最高点を今も遠見山と称し、狼煙場があったと云ふ。」 この遠見山は、海陽町鞆浦と乳崎山にもあるということ。 そして「紀」神武条には、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした後に、 「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彦火々出見天皇焉。」 「畝傍の橿原に宮柱を底磐の根元にしっかりと立てて、高天原に峻峙が届くくらいに高くしよう。 始馭天下之天皇である私は、神日本磐余彦火々出見天皇と名乗ることにしよう。 」 即位二年春二月二日の条に、 「大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。」 「大來目には畝傍山の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこの土地を來目邑と呼ぶのはそのためです。 」 …とあり、「畝傍山以西」に久米一族が移り住んだ村があるはずですが、「名字由来ネット」や「日本姓氏語源辞典」などからみても、「久米氏」は全国的に見ても、 徳島県が人口比率的に最多であり、取分け、 名西郡石井町という非常に狭い範囲内に集中します。 当地は私説において畝傍山に比定しています眉山の西側に位置します。 畝傍の橿原に「太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」な宮殿を建てていますから、こちらの点からもやはり鮎喰川流域の眉山周辺となります。 この周辺には矢野遺跡や名東遺跡など多数の大型遺跡がありますね。 また來目邑と推定する「石井」と「高志(越:こし)」は目と鼻の先の位置となります。 他に畝傍山に比定できる山を探してみても石井町の東側にある山は、気延山か眉山しかありませんので候補は自然と絞られます。 一応現在は眉山に比定しておきましょう。 では別の疑問として、 何故「天孫一族」は、徳島県南部の海部の地に降臨を決めたのでしょうか これにつきましても種々様々な推測ができると思います。 まず海部の海人族と天孫族は別族であると考える場合、或いは同族の別グループが降臨したのではないのかとも考えられますが、その降臨に至った理由として真っ先に候補に挙がるのは、当時の最重要交易ポートの掌握や海人の知り得る航海術の利用などです。  しかしここでもう一つの候補が浮かび上がってきます。 大国主命は当地を去った後に葦原中国を統治した、また神武天皇は当地から東征を開始し始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)となったとするには、それに相当するものをココで得たはずなのです。 「記紀」によれば、大国主命が根国から持ち出したものは、生大刀と生弓矢と天の詔琴。 これが神武天皇だと「記紀・本紀」にある、佐士布都神(布都御魂・韴霊の剣)。 従って二者が共通して当地で得たものは、「剣(つるぎ)」、 それと「妻」です。 「妻」については先に述べたとおり。 「つるぎ」につきましては、阿波海部で作られた剣なのか、別所から持ち込まれた剣なのか、はたまた那佐湾に浮かぶ乳の崎を「つるぎ」とするのか、これについては確証には至らないので後の課題としておきますが、仮に交易で得たものであったならば、ニニギの段、「此地者、向韓國」「この地の者は韓国へ向かい」とあるように、当時の韓国で得た「鉄」を製鉄した、もしくは「つるぎ」そのものを獲得したとも考えられます。 これは「芝遺跡」の資料に書かれてあるまとめ考察からですが、 「弥生時代後期中頃と考えられる竪穴住居から、鍛冶を行っていたと考えられる炉跡、小破片を含む鉄製品、サヌカイト片、朱付着石杵を確認した。」 …と記されており、明らかに「製鉄を行っていた痕跡」が確認できます。 弥生時代後期中頃は、 西暦200年前後、つまり卑弥呼の時代にあたります。 岩利大閑氏著の「道は阿波より始まる」その一に、須佐之男命の項に、 「須佐之男命によって初めて鉄の生産が伝えられ、急速に阿波国は発展していきました。(中略)諸国では八坂神社、祇園神社等で祀られますが、阿波国一国のみで熔造皇神社と称されています。(中略)以乃山(現眉山)の山頂にあった神社は現在山下の蔵本八坂神社に下されて祀られていますが、元来以乃山山頂の熔造皇神社に、登り口八坂があり、八坂神社の別称が起こりました。万葉学者折口信夫がその最後の著書「死者の書」の文中で、突然一行「須佐之男命が下ったのは阿波だった。」と書き残したのも…云々」…とあり、阿波国では製鉄の神でもあります。 神武は赤銅八十梟帥(あかがねのやそたける)に対抗するべく、椎根津彦と弟猾に命じて密かに天香山に埴を取らせ、誓約の後に、飴(たがね)を作っています。 「天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。」 「天皇はまたここで誓約をしました。「わたしは今、八十平瓮で水無しに飴(たがね=あめ)を作ろう。飴が出来たならば、私は必ず武力を使わずに天下を平定できるだろう」 それで飴を作りました。飴が自然と出来ました。 」 これを食べ物の飴(あめ)とし、神武自ら飴を作ったと訳する方がおられますが、これは刀の銘を切る道具の「タガネ」のことかも知れません。 神武の皇后の名前にある、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)、その母の名も勢夜陀多良比売で、この神名にある、 たたら製鉄とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った。(wikipedia たたら製鉄より抜粋) 「記紀」の神武条では、やたらと製鉄に関するキーワードが並びます。 従って手繰山の名と同名の手栗彦命(高倉下)の話からも、当地海部は既に鍛治製鉄の先進地であったのかも知れません。 こちらは現手倉湾から愛宕山への登り口 周辺の岩は、 往古は海中、そしてその後は扇状地であったために砂岩が多く、加工しやすい岩が多いのですが、どう見ても赤茶けておりますよね。 側を流れる母川の河原の石も赤錆が次第に石を纏い後に段々と赤茶けてきます。 地質の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、恐らくこれは酸化鉄を纏う鉄砂岩ではないでしょうか? 御覧の通り岩の表面から察するに、お世辞にも高品質なものではないことがわかります。 しかしながら、母川上流域から河原の石が赤茶けるため、恐らく更に上流部から同様の岩石層が存在するのだと思われます。 また鞆浦の観光マップには、 「海部一族」は、海部川流域でとれる「砂鉄」などの豊かな資源を利用し「刀」の創作をはじめ云々…と書かれていますね。 恐らくわずかながら砂鉄も採れていたのでしょう。 後世鎌倉期以降は、島根県より良質な鉄を獲得し、多くの名刀工を抱えた海部氏一族は、海部刀を大量に製造した地として名を馳せることとなります。 また阿波から出雲を目指した痕跡も見え隠れしますから、恐らくそれは鉄獲得ルートであったのかも知れません。 逆に何のルーツもないのに四国の南の辺鄙なところで突如刀の大量生産をする集団が存在したことの方に違和感を覚えるはずです。 さて、今上天皇がご即位される前年に、何故か阿波海部の地を訪れています。 これは全くの偶然なんでしょうかね 今回はここまでにしておきます(´・ω・`)ノシ

  • 21May
    • 『先代旧事本紀』から考察 ②の画像

      『先代旧事本紀』から考察 ②

       ●布都御魂(ふつのみたま) 一応『先代旧事本紀』から考察 ①の続きとなります(´・ω・`)ノ 「記紀」等と同様に『先代旧事本紀』も我が国の古代歴史解明に繋がる参考資料として十分に扱えるのではないのかといった意味合いも込めて表題の続きとしますね。 ではあらためまして、今回は『先代旧事本紀』から考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 天香山命(あめのかぐやまのみこと/あまの-)は、日本神話に登場する神。 ●概要 天香語山命、天賀吾山命等とも書かれるため、「あめ(ま)のかごやまのみこと」とも読む。 『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(旧事本紀では天火明命と同視する)と、天道日女命との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。『新撰姓氏録』にも見え、後裔氏族として尾張氏(左京神別等)を始め、伊福部氏(左京神別下)・六人部氏(山城神別)・津守氏(摂津神別)等を挙げている。『諸系譜』第三十三冊には武乳速命の子と伝わる。 『先代旧事本紀』の「天神本紀」には、饒速日尊の天孫降臨に従った32柱の1柱に数えられ、「天孫本紀」では、紀伊国の熊野邑(和歌山県新宮市や紀ノ川流域が比定地になっている。)に住み、別名を「手栗彦命(たくりひこ-)」、または「高倉下命」というとあり、以下『記紀』に載せる「高倉下」の伝承と同じ内容を記す。 また、新潟県の彌彦神社の社伝に、神武天皇の大和国平定後、勅命を受け越国を平定、開拓に従事したと伝える。(wikipedia 天香山命より抜粋) さて、この天香山命ですが、『先代旧事本紀』巻五 天孫本紀に、 (現代語訳 天璽瑞宝『先代旧事本紀』より) 「饒速日尊の子の天香語山命(あまのかごやまのみこと)。[天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という]。この命は、父の天孫の尊に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。」 …とあり、天降(あまくだり)とは、巻三 天神本紀にもあるように高天原より降ることで、つまりは「天孫降臨」のことです。 この天孫降臨ですが、徳島県最南の地「海部」に降臨したという私説に基づきます。 つまり「紀伊国の熊野邑にいらっしゃった」とある天香語山命は、これまでの過去の考察から、類似地形で阿波を隠匿していると推察しておりますので、実際はココ これら検証の推察についての一部を貼っておきます「御刀媛から考察 ⑤」 従って、 「天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という」 …とあるように、当地海部郡海陽町(旧海部町)鞆浦那佐を「阿波海部取調廻在録」を眺めてみますと、 鞆浦の小名 那佐 上はり 字 さんこふの前・高くら・荒神山・水谷山・おんさき・大宮・手繰山・太夫谷・小三光・なさ浦 宍喰 内那佐 字 かに谷・石の間・橘・いそう・はせ出・薬師谷 …とあり、手繰(たぐり)山は、那佐湾の口にある現手倉(てぐら)の地名でみえます。 『先代旧事本紀』には、天照大神が武甕槌神に葦原の瑞穂国が騒がしいからこれを討ちなさいと仰せになり、武甕槌神は「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」と高倉下命に夢語りします。 「我が剣の韴霊(ふつのみたま)の剣を、今お前の家の庫(くら)の内に置いておく。それをとって、天孫に献上するように」と言伝し、高倉下命が目を覚ますと、 「剣があって庫(くら)の底板に逆さまに立っていた。そこで、それをとって天孫に献じた。」と記します。 地図で地形をご確認して頂けたらと思いますが、出雲国の「剣」である島根半島には稲佐の浜がありますが、 剣が「逆向き」になっているのが、阿波国海部郡鞆浦の和奈佐(現那佐)の浜。 そこに天降ってのちに手栗(たぐり)彦命。 そして、高倉の下側には、 確かに「剣」八幡宮が御座いますね。 これにより何を以って「剣」としたかはお分かりになろうかと思います。 この手繰山と、式内社 和奈佐意富曾神社の旧ご鎮座地であった鞆浦大宮山との間には「愛宕山」があり、 頂上へと続く参道の両脇には石仏がずらりと並びます。 見晴らしの良い頂上にこの愛宕神社がご鎮座されます。 「阿波志」に「愛宕山 在鞆浦南、上有愛宕祠、為禁山、南瞰蒼海、東望紀伊、瀬海諸邑一覧而尽」とあり、山頂に火防(ひぶせ)の神である驒遇突智命(かぐつちのみこと)をお祀りしております。 カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。 神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張」で殺された。 ●信仰 771年(宝亀2年)に創祀されたとされる火男火売神社は別府温泉の源である鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神としても信仰されている。 秋葉山本宮秋葉神社を始めとする全国の秋葉神社、愛宕神社、野々宮神社などで祀られている。また島根県安来市の意多伎神社(おだきじんじゃ)もこの神との関連の指摘がある。 産田神社(三重県熊野市有馬町)で伊奘冉尊により出産されたとする同神社の社伝が存在する他、花窟神社(三重県熊野市有馬町)には境内に鎮座する伊弉冉尊の御陵の対面に軻遇突智の御陵も併せて鎮座している。先の産所とされている産田神社が軻遇突智の墓所であると言う説もあり、いずれにせよ熊野に非常に縁を持つ神である。(wikipedia カグツチより抜粋) カグツチは、イザナミが産んだ神であり、これが火の神であったために陰部が焼かれて亡くなることになります。 『先代旧事本紀』巻一 神代本紀 陰陽本紀には、 カグツチを産んだイザナミは、その死の間際に嘔吐し、それが化生した神が金山彦神・金山姫神の二神です。 この愛宕神社の読みなのですが、 愛宕(読み)あたご・おたぎ:山城国(京都府)の郡名。洛北から洛東にわたる地域で、北は山城の国境、東は東山連峰に至り、西は鷹ケ峰、雲ケ畑、南は泉涌寺(せんにゅうじ)に及んだ。平安奠都(てんと)以前には、平安京の左京の大半をも含んでいたようである。おたぎのこおり。おたぎぐん。(コトバンク 愛宕より) また、上の『先代旧事本紀』での「吐」の読みは「タグリ」と書かれてあり、  吐る(読み)タグル:口からはく。へどをはく。もどす。(コトバンク 吐るより) ※天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)ですよヨ。カグ-ツチとは? また、wikipedia「カグツチ」の項にもあるように、 意多伎神社(おだきじんじゃ:島根県安来市飯生町679) 意多伎神社 オタキノカミノヤシロ。九條家本・武田家本・ 吉田家本とも「意多伎神社」と記し、武田家本・吉田家本ではこれをイタキと訓ませてゐるが、新訂増補國史大系本 では神祇志料によつてオタキと改めてゐる。風土記の「意陀支社」に相當するが、風土記でも『出雲風土記鈔』や『萬葉緯』所収の出雲國風土記ではこれを「意陀底」と記してゐる。『雲陽誌』にはその名を見ず、『出雲神社巡拝記』に至つて「飯生村(おたき山)飯生大明神、記云意陀支(おたき)社、式云 意多伎(おたき)神社」となる。明治以来この飯生大明神が式内意多伎神社であるとして、社名を改め、今日に至つてゐる。 大國魂命・大田命・倉稲魂命をまつる。大田命は式にいふ「同社坐御譯神社」の、倉稲魂命は風土記不在 神祇官社の「食師社」の祭神であるといふ。これはすでに 『出雲神社巡拝記』に見えてゐるところであるが、これに對して内山眞龍の『出雲風土記解』には、「意陀支社、鈔本伊陀氐、式云佐久多神社、同社坐韓國伊太氐神社と有。意陀支と伊太氐を合考るに、伊太支社にて、支はケリの約り、五十猛也。意ハ於のかなにて、伊にあらず。意陀支ハ大猛にて五十猛も同。紀伊國三井寺の北に伊太祁曾社有。同神也」と説いてゐる。『出雲國式社考』にはこれを紹介し、「意多支は大猛にて五十猛と同じといへれど、五十猛神を大猛神と申せる事、餘に例もなければ、此考も宜しとも云がたし」としてゐるが、明治の『特選神名牒』には「五十猛を大猛と唱へ奉るはいかがながら、この御同社に御譯神の坐を思へば、五十猛神は韓國によしあれば、眞龍が説によりてなほ熟く考ふべきなり」としてゐる。 創立年代不詳であるが、社伝としては風土記、飯梨郷の条に見える大國魂神降臨説話に結び付けてこれを説いてゐる。すなはち「飯梨郷、郡家東南卅二里、大國魂命天降坐時、當此處而御膳食給、故云飯成。神亀三年改字飯梨」とある、その大國魂命が降臨されたところであるといふのである。そのとき神は自ら鋤をとり、農耕を教へ、医薬を授け、産業を拓きたまふた。この大國魂命を祀つたのがすなはち当社であつて、社号「意多伎」は「於多倍(おたべ)」すなはち食物を食するの意であるといふ。また合殿神に食師社があるるのも、そのとき大神に御膳をすすめた地であるが故だと伝へてゐる。 同社坐御譯(ミヲサ)神社 現在では「大田命」として前記意多伎神社に合祀してゐる。『出雲神社巡拝記』にはこれを飯生村飯生大明神合殿の稲立大明神であるとし、「祭神おほたの命、當社太田神とハ猿田彦大神の御事也」としてゐるが、『出雲式社考』には「風土記に是も意多伎社とあり、在所未レ考。異國の語を此國に通ずるも、神の御所爲ならでは初はなりがたき事なれば、此神は其事を始め給ひ守給ふ神にや。五十猛神は韓國によしある神なれば、此社や五十猛神にもあらむ。」と説いてゐる。社伝では、「御譯」とは「教へ」の意であり、この神は大國魂命に仕へ、開拓の先立ちとなつて教への大役を果たされた神だとなつてゐる。 -『式内社調査報告』-(玄松子の記憶 意多伎神社より) 非常に興味深い内容がみられますなぁ。 また、天香山命の事績は、確か新潟県の彌彦神社の社伝によると、越(こし)国平定でしたよね。(誰が高志の何を倒したのかな?) 更に、wikipedia「高倉下」の項には、 『海部氏系図』の勘注系図においては、始祖彦火明命の児天香語山命の註に、大屋津比賣命を娶り高倉下を生んだと記述されている。始祖の孫(天香語山命の子にあたる)天村雲命の弟として、“弟熊野高倉下 母大屋津比賣命”と表記されている。(父が子の「弟」になる⁉) これについては一度「倭建命を穿って考察 ⑥」にて推考察をしておりますのでご参考下さいませ。 さて、ニニギの「天孫降臨」では、降臨されたところについてこうも書かれております。 『日本書紀』一書第六に、 「降到之處者、呼曰日向襲之高千穗添山峯矣」 「降り到る処を日向の襲の高千穂の添山(そほりやま)の峯という。」 また同場所を、 「到於日向襲之高千穗槵日二上峯天浮橋而」 「日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天の浮橋に到る。」 まず先の”添山(そほりやま)の峯”についてですが、延喜式神名帳に添下郡10座のうちに「添御縣坐神社」が見え、これは現在の奈良県奈良市三碓町に比定されています。 ちなみに三碓町の読みは、「みつがらす」で、「碓」=「カラス」と読むということですネ。これはちょいネタになりそうですが笑 社名の「添」は「そ-ふ(う)」と読み、御縣は(みあがた)で、ストレートに読むと、「ソフのミアガタに(イ)マス‐カムヤシロ」ということになります。 ◆祭神 建速須佐之男命 櫛稲田姫命 武乳速命 「そほり」繋がりとして、須佐之男命の子である大年神と伊怒比売との間の子に、新羅からの渡来神との説のある曾富理(そふり)神名がみえますので、須佐之男命からすれば「孫」となりますね。 余談となりますが(余談ばっかりやな笑)、この「御縣」についてなのですが、延喜式・祈年祭祝詞に、「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布(添)と御名は白して、此の六つの御県に生ひ出づる甘菜辛菜を持ち参来て、皇御孫命の長御膳の遠御膳と聞し食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣ふ」とあるように、朝廷で用いられる蔬菜類の栽培・貢納に携わる朝廷直轄領を指し、御縣坐神とはその守護神をいいます。 従って、「皇御孫命の長御膳(徳島県沿岸部旧名:長國の御膳)」の御縣である、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布(添)の地名の元は徳島県の旧長国域になければなりませんね。 社名にも「添御縣坐神社」とありますから、「坐」は、あるところから今ここに”坐:イマス”(移した)の意味ですので、これらは後に大和国(奈良県)に移された地名であると考えた方が自然でしょう。…おっと、ついつい脱線しそうになった(´・ω・`)悪い癖やな 『新撰姓氏録』(815年)では、「大和国神別(天神)添県主 津速魂命男武乳遣命之後也」とみえ、『旧事本紀』には、興登魂命の兒 天児屋根命(中臣連等ノ祖)の弟として武乳遺命(添縣主等ノ祖)とあります。 また「角川日本地名大辞典」によりますと、 添(古代):大和期から見える地名所布・層富とも書く大和高原北部および奈良盆地北端を含む広大な地域大和北部の総称語源については、「鉄錆のある地」またはソブはソバの転で「自然堤防」とする説などがある。(古代地名語源辞典) この層富縣については、『日本書紀』神武条に、 「己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。丘岬、此云塢介佐棄。」 「このとき層富縣の波哆丘岬には新城戸畔者という人物がいました。 」 …とあり、「波哆」=「ハタ」と読んでいますが、漢字辞典によると、 「哆」の字は「タ」の他にも「シ」「シャ」とも読むことから、別読として「ハシ」とも読める訳なんですな。 要約しますと、神武紀にある層富縣は「ハシ丘岬」となるところ。 また”槵日の二上峯”についても、「かいふのほそみち 08 鞆浦愛宕山遊歩道」によりますと、 「フタコブラクダのように二つのピークを擁し、愛宕山では山頂近くに鎮座する愛宕神社。云々…」 と書かれてありますように、地形は、 二つの峯の間から櫛日が射すイメージも何となく想像ができますね。 これらのキーワードが全て当て嵌まらなければなりませんが、「御刀媛から考察 ⑤」にて書いておりますように、空海が箸を立てたの説話がある野江波切不動尊。 その岬側にあるのが手繰山(手倉山)となります。 長引いてきましたので次に続くようである(´・ω・`)

  • 16May
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      『先代旧事本紀』から考察 ①

       ◆天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと) 先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。著者は不明だが、「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せるところから、著者は物部氏の人物であるという説もある。 蘇我馬子などによる序文を持つが、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる。江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから、本文は研究資料として用いられている。 ●成立時期 本書の実際の成立年代については推古朝以後の『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、延喜の頃矢田部公望が元慶の日本紀講筵における惟良高尚らの議論について先代旧事本紀を引用して意見を述べていること、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年 - 938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は博士・藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年 - 906年)には存在したと推定され、『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前と推定されている。 ●評価 序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に今井有順、徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らに偽書の疑いがかけられていたが、近年の研究により後世付け足された序文以外の価値は再評価されている。鎌田純一は「しかしその一方で新井白石はこれを信頼しているし、その後の水戸藩でも栗田寛などは「国造本紀」、あるいは物部氏の伝記といったところを非常に重視しています…ですから完全に偽書扱いされてしまうのは、江戸時代というよりも、むしろ明治からあとのことでしょう」と述べている。 ●研究者による再評価 御巫清直は著書『先代旧事本紀析疑』にて「序文が悪いのであり、それを除けばどこにも偽作と見なすべき理由はない」と見なし、1947年飯田季治は『標注先代旧事本紀』の解題で偽書説を批判し、1958年G.W.ロビンソンは『旧事本紀攷』にて「『日本書紀』が部分的には『先代旧事本紀』を材料にしたとする説」を著した。 1962年鎌田純一の『先代旧事本紀の研究 研究の部』・『校本の部』は「研究対象としての『先代旧事本紀』の復権は、鎌田の著作なしにはあり得ないことであった」と評価されている。鎌田純一は、先に成立していた本文部分に後から序文が付け足されたために、あたかも本書が成立を偽っているような体裁になったとして、本文は偽書ではないと論じた。鎌田は序文に関して、奈良・平安初期の他の文献の序文と比べると文法が稚拙であること、延喜4年(904年)の日本紀講筵の際に『古事記』と『先代旧事本紀』はどちらが古いかという話題が出ていること(当時すでに序文が存在していたならそもそもそのような問いは成立しない)、鎌倉時代中期の『神皇系図』という書物の名を記していることを指摘し、序文の成立年代を鎌倉時代以降とした。すなわち、9世紀頃に作られた本来の『先代旧事本紀』には製作者や製作時期などを偽る要素は無かったということである。2001年の上田正昭との対談では、序文が付け加えられたのは「古代末期か中世初期」と述べている。 ●資料価値  本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。 巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」の一部、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」の尾張氏、物部氏の伝承(饒速日尊に関する伝承等)と巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられる。「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるとする意見もあり、国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見もある。(wikipedia 先代旧事本紀より抜粋) 詳細につきましては、wikipediaにてご確認下さいませ(´・ω・`)ノ いつものようにつらつらとwikiを抜粋添付しておりますが、なぜこのようなものを冒頭に載せているのかといいますと、この『先代旧事本紀』は、「偽書」の疑いがもたれていた…ということです。 日本の古代史を研究されている方からすれば、先代旧事本紀偽書説はもはや周知の事実なのですが、何故そのように考えられているのかという要因として、 ①序文に推古28年(620年)に推古天皇の命によって蘇我馬子&聖徳太子が編纂撰定し、推古30年(622年)に完成したものと書かれてあるにもかかわらず、推古朝以後の記事がみられること。 「国造本紀」の中に、加我国(かがのくに)が「嵯峨朝の御世、弘仁14年(823年)に越前国を割て、加賀国と為す」との記事がみられますね。 ②淡海三船(722-785年)が撰した天皇諡号が記してあること。 つまり『先代旧事本紀』には、推古朝以後の『古語拾遺』と酷似した箇所があり、『古語拾遺』が『先代旧事本紀』を引用したのではなく『先代旧事本紀』が『古語拾遺』を引用したと考えられたため、江戸時代の国学者らによって偽書ではないかという疑いがかけられるようになったという経緯が存在します。 しかしながら、wiki資料価値の項にもあるように、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』にはない独自の伝承や神名が多く見られること、特に「国造本紀」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられることが挙げられます。 鎌田純一氏によれば、序文に関しては、他の文献の序文と比べると文法が稚拙であること等から、先に成立していた本文部分に後から序文が付け足されたために、あたかも本書が成立を偽っているような体裁になったと考えられることを指摘しています。 御巫清直氏は、著書『先代旧事本紀析疑』にて「序文が悪いのであり、それを除けばどこにも偽作と見なすべき理由はない」と見なしています。 また、本居宣長は『古事記伝』巻一において、「"舊事本紀と名づけたる、十巻の書あり、此は後ノ人の偽り輯(アツ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子命ノ撰び給し、眞(マコト)の紀(フミ)には非ず"……"但し三の巻の内、饒速日命の天より降り坐ス時の事と、五の巻尾張連物部連の世次と、十の巻の國造本紀と云フ物と、是等は何ノ書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし、"こうした記事は古い文書の記事を採用して書き綴った記録であり、後世にほしいままに造作した捏造の物語ではない。」としています。 私的にも、記されてある物部氏の系譜などは、明らかに「記紀」とは別の古伝承から蒐集編纂したと考えられる内容であり、物部氏の伝承自体が全て偽作されたものではないはずで、物部氏の伝記としての資料価値は非常に高いものと考えております。 後年の『先代旧事本紀』の編著者(これも諸説ある)が、撰修にかかわった痕跡が継ぎ接ぎにように補足されていることから、これ即ち偽書であるとするのは早計であり、考え方として、『日本書紀』は日本の正史であり内容云々をみても偽書とせず、『古事記』も偽書説を裏付ける決定的なものもなく、『先代旧事本紀』のみを平安初期に加筆編纂された痕跡があるからといって、聖徳太子&蘇我馬子によって編纂されたとすることは執筆成立年代を偽っているという観点から=偽書と考えられていたということでしょう。 その内容からは、上にも挙げてあるように、物部氏を紐解く歴史資料としての価値は非常に高く評価されてもよいものと考えられており、少なくとも906年までに成立していた古い歴史書であることには間違いありません。  『天皇記』(てんのうき、すめらみことのふみ)は、620年(推古天皇28年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書である。 『日本書紀』推古28年の是歳条に次のようにある。 「皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふむ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。」 事実とすれば、『帝皇日継』・『帝紀』とほぼ同様の内容で、皇室の系譜を記したものだと推定される。また、未完であった可能性が高い。『国記』とともに編纂された。 また、この年が推古天皇の実父(聖徳太子には祖父)にあたる欽明天皇の50年忌にあたることから、同天皇の顕彰とその正統性を示すことを目的に皇統譜の整理を意図して行われたとする説もある。 645年(皇極5年)に起きた乙巳の変の際に、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の家が燃やされ、そのとき『国記』とともに焼かれたとされる。あるいは国記のみが焼ける前に取り出されて残ったともいわれるが、国記も現存していない。 『日本書紀』皇極4年6月条に次のようにある。 「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」 (wikipedia 天皇記より抜粋) 実際に、本当は『国記』・『天皇記』も蘇我馬子&聖徳太子が編纂したもので、「乙巳の変」の際に焼失してしまった(とした)。もしくは上にあるように焼ける前に取り出されて残った。 これらを元に、後の平安期に新たにリニューアル完成させたものが『先代旧事本紀』なのではないのでしょうかね まぁ例の如く私的な考えではありますが、そういう指摘ですヨ。 …というところで、また次回に続くと思われる(´・ω・`)ノ いつもそうだが前回の続きはどこいった⁉(ノ∀`) いずれ書くから、たぶん...いずれね...|ω・`)

  • 26Apr
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      御刀媛から考察 ⑤

       伊邪那岐(イザナギ)       伊邪那美(イザナミ) 「御刀媛から考察 ④」からの続きです(´・ω・`)ノ 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 当シリーズもついに最後。 今回は、大国主命の国譲り~天孫降臨の話(木花之佐久夜毘=阿津姫)が、記紀における神代七代最後に現れた女神とされるイザナミであるかの検証考察となります。 またこれが景行天皇とその妃達(御刀媛ら)とも同じ関係とならなければいけませんね。  早速ですが考察して参りましょう。 まず、イザナギが向かった黄泉国とはどういったところなのでしょうか。 例の如くwikipediaによれば、 黄泉(よみ)とは、日本神話における死者の世界のこと。 ●『古事記』 黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂といい、葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。古事記には後に「根の堅州国」というものが出てくるがこれと黄泉国との関係については明言がなく、根の国と黄泉国が同じものなのかどうかは説が分かれる。黄泉比良坂の「坂本」という表現があり、これは坂の下・坂の上り口を表しているという説と、「坂」の字は当て字であり「さか」は境界の意味であるという説とがある。また古事記では、黄泉比良坂は、出雲国に存在する伊賦夜坂がそれであるとしており、現実の土地に擬されている。 追いすがる妻やその手下の黄泉の醜女達を退けるため、黄泉路をふさいだ大石を、道反の大神といった。道反の大神は岐神として、日本各地に祀られている。 ●『日本書紀』 根の堅洲國は日本書紀では根の国という。書紀においても、古事記と同様、黄泉国と根の国は別々の箇所に登場し、両者の関係は不明瞭である。 しかし古事記がイザナミの葬られた地を出雲とするのに対し、日本書紀は熊野の有馬村の花の窟であるという(このことから黄泉国も熊野にあるとする考えもある)。 なるほど、黄泉国についても島根と熊野の双方の記述がされてあるのでわからんといったところでしょうか。 通説では黄泉の住人となったイザナミの御神陵は、 『古事記』:出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山、 比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)は、島根県安来市伯太町にある神社である。 比婆山 (安来市)の山頂にある奥ノ宮と麓にある下ノ宮がある。山頂には国生みの母である天津神伊邪那美之尊の御神陵と言われる古墳がある。古来より、子授かり・安産の神社として信仰を集める。 ◆主祭神 伊邪那美之尊 ●歴史 古事記において「かれその神避りし伊弉那美の神は、出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺、比婆の山に葬りき」と記されている通り、国生みの母神は現在の島根県安来市伯太町横屋にある比婆山の山頂に埋葬され、現在も御神陵と言い伝えられる古い塚がある。(wikipedia 比婆山久米神社より抜粋) 『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村、 花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)は三重県熊野市有馬町に所在する神社。伊弉冉尊と軻遇突智尊を祀る。 ●概要 『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。 神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる高さ6m、幅2.5m、深さ50cmほどの大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている。 ●ほと穴 古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。(wikipedia 花窟神社より抜粋) イザナミの終焉の地がまさかの三重県熊野ではないはずですが、『日本書紀』に記載されているのには何か意味があるはず。 比婆山久米神社の御朱印からも、やはり「熊野」との繋がりがあるようです。 宮内省は八雲村の神納山を比定地の中で最も有力として「陵墓参考地」に認定し、内務省は船通山の北にある御墓山を「伊弉冉尊御陵流伝地」に指定していた。とあり、やはり出雲とします。 例の如く地形を俯瞰視 古事記の御陵地 日本書紀の御陵地 この2つの全く違う場所から謎を解く訳ですが、実は黄泉の国まで追いかけて来たイザナギの説話にヒントが隠されてあります。 「イザナギ」については、一応リンクを貼っておきますので詳しくはそちらをご確認下さいませ。 それでは古事記の記述に沿ってみていきましょう。 やはり物語を通して読まないと前後の繋がりが分かりづらいからネ(´∀`) 『古事記』:伊邪那岐命と伊邪那美命より 「是欲相見其妹伊邪那美命、追往黄泉國。爾自殿縢戸出向之時、伊邪那岐命語詔之、愛我那迩妹命、吾與汝所作之國、未作竟。故、可還。爾伊邪那美命答白、 悔哉、不速來。吾者爲黄泉戸喫。然愛我那勢命、【那勢二字以音。下效此】入來坐之事恐。故、欲還、旦具與黄泉神相論。莫視我。如此白而、還入其殿内之間。甚久難待。故、刺左之御美豆良、【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而、燭一火入見之時、宇士多加禮斗呂呂岐弖、【此十字以音】於頭者大雷居、於胸者火雷居、於腹者黒雷居、於陰者拆雷居、於左手者若雷居、於右手者土雷居、於左足者鳴雷居、於右足者伏雷居、并八雷神成居。」 「伊邪那岐命は死んだ伊邪那美命にどうしても会いたくなり、黄泉国へ追っていった。黄泉国の殿舎の塞がれた戸から出迎えた伊邪那美命に向かって、伊邪那岐命は「愛しい我が妻よ、私と君と一緒に作った国はまだ作り終わってはいない。だから一緒に帰ろう。」といった。これに伊邪那美命は答えて「悔しいことです。なぜもっと速く来てくれなかったのです。私は黄泉国の竃で煮たものを食べてしまいました。もう現世には戻れません。でも愛しい我が夫がせっかくここまで来てくれました。私が帰れるように黄泉神と相談してみましょう。その間決して私を見ないで下さい」といった。伊邪那美命はそういってから殿舎の中に帰っていった、長い間待っていたが待ちきれなくなり、結った髪の左に刺していた湯津津間櫛の両端にある太い歯を一つ取って、一つ火を灯して中に入り見た時、伊邪那美命は蛆にたかられ、咽がかれてむせぶような音をたてていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、陰には拆雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷、右の足には伏雷、あわせて八はしらの雷神が化生していた。」 イザナギがイザナミを追って黄泉の国に行くターン。 内容は現代語訳を読んで頂くとして、ポイントはイザナミの体には八雷神が化生していたということ。 まだこの時点ではよくわかりません。 「於是伊邪那岐命見畏而。逃還之時。其妹伊邪那美命言。令見辱吾。即遣豫子母都志許賣【此六字以音】令追。爾伊邪那岐命取黒御鬘投棄。乃生蒲子。是[才庶]食之間逃行猶追。亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引閉而投棄。乃生笋等。是拔食之間逃行。且後者。於其八雷神。副千五百之黄泉軍。令追。爾拔所御佩之十拳劍而。於後手布伎都都【此四字以音】逃來。猶追。到黄泉比良【此二字以音】坂之坂本時。取在其坂本桃子三箇持撃者。悉逃返也。爾伊邪那岐命告桃子。汝如助吾。於葦原中國所有宇都志伎【此四字以音】青人草之落苦瀬而。患惚時。可助告。賜名号意富加牟豆美命【自意至美以音】。」 「伊邪那岐命はこれを見て畏れ逃げ帰ろうとした時、伊邪那美命は「私に恥をかかせましたね。」と言って、すぐ母都志許売を遣わして追ってきた。伊邪那岐命は黒御縵を取って投げ棄てると、たちまち葡萄の実になった。これを拾って食べている間に逃げたが、まだ追ってきたので、今度は右の結った髪に刺してあった湯津津間櫛を引き抜いて投げ棄てると、たちまちたけのこが生えた。これを抜き食べている間に、また逃げた。其の後、八はしらの雷神が大勢の黄泉軍を率いて追ってきた。伊邪那岐命は腰に帯びていた十拳劒を抜いて後ろ手に振りながら逃げ来たが、さらに追ってきたので、黄泉比良坂(黄泉と現世を隔てる坂)のふもとまで来た時、そのふもとににある桃の実を三つ取って、軍勢が来るのを待って投げると、悉く黄泉国へ逃げ帰った。伊邪那岐命はその桃の実に向かって、「この実は私を助けてくれたように、葦原中国にいる全ての人民が苦しい目にあって思い悩むとき助けてくれるだろう。」といい、意富加牟豆美(おほかむづみ)命という名を授けた。」 次にイザナミの手下がイザナギを追い駆けるターン。 対応箇所となる「国譲り神話」に置き換えますと、体に纏わる八雷神達は、天孫降臨時の建御雷神らに対応。 イザナギが追われてくる道中に身に着けていたものを投げ捨てたものは、この後の海での禊と同じ意味があると考えられ、恐らくは「山葡萄・筍」は山の幸であることから、山間部に分かれた自身の子孫達の暗喩であると推測。 まぁこの辺の考察は他の研究団体に譲りましょう。 何れにしろイザナギが逃げてきた経路は「山」です。 『古事記』国譲りの段、 「是以、此二神降到出雲國伊那佐之小濱而伊那佐三字以音、拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言」 「二柱(天鳥船神と建御雷神)の神は、出雲国の伊那佐の浜に降り立ちました。そして十拳剣を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神に問いました。」 この「十拳剣を抜き、逆にして海に立てて」とは、島根県にある剣に似た島根半島を逆にしたの意味で、「本家の元祖考察」でご紹介しましたが、 ●出雲国 稲佐の浜 こちらが逆向きな剣がある本家十拳剣こと海陽町那佐の乳の崎。 ●阿波国 和奈佐の浜 従って「拔所御佩之十拳劍而。於後手布伎都都」「帯びていた十拳劒を抜いて後ろ手に振りながら」がこれに対応します。 答え合わせをしますと、御陵の示す場所は、古事記では 日本書紀では 黄泉国から逃がれて来たイザナギ。 黄泉(死者の国)と現世との境は一体どこなのでしょうか 「最後其妹伊邪那美命。身自追來焉。爾千引石。引塞其黄泉比良坂。其石置中。各對立而。度事戸之時。伊邪那美命言。愛我那勢命。爲如此者。汝國之人草。一日絞殺千頭。爾伊邪那岐命詔。愛我那迩妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。故号其伊邪那美神命謂黄泉津大神。亦云以其追斯伎斯【此三字以音】而。號道敷大神。亦所塞其黄泉坂之石者。號道反大神。亦謂塞坐黄泉戸大神。故其所謂黄泉比良坂者。今謂出雲國之伊賦夜坂也。」 「最後には伊邪那美命自ら追ってきた。伊邪那岐命は千引の石で黄泉比良坂を塞いで、其の石を間において、各々立ち向かって絶縁する時、伊邪那美命は「愛しい我が夫よ、こうなったら私は、あなたの国の人民を一日に千人絞め殺しましょう。」といった。そこで伊邪那岐命は、「愛しい我が妻よ、おまえがそうするのなら、私は一日に千五百人産むことにしよう。」と言い返した。こういうわけで一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれることとなった。この伊邪那美命を黄泉津(よもつ)大神と名付けた。また伊邪那岐命に追い付いたことから道敷(みちしき)大神ともいう。黄泉の坂で塞いでいる石は、道反之(ちがへし)大神と名付け、別名塞り坐す黄泉戸(よみど)大神ともいう。また黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂(いふや)という。」 最後のイザナミ自ら追いかけて来るターン。 葦原中国と黄泉国との接触点となる黄泉比良坂の入り口を千引の岩で塞ぎます。 通説によると、 黄泉比良坂(よもつひらさか)とは日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。 ●千引の岩 千人の人の力でようやく引けるような大きな岩の割には意外と小さいですな(´・ω・`)… ●概要 『古事記』では上巻に2度登場し、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)がその地であるとする伝承がある。「ひら」は「崖」を意味するとされる。 ●あらすじ 大国主命の根の国訪問の話にも登場する。根堅洲国(根の国)のスサノオからさまざな試練をかけられた大己貴命が愛する須勢理毘売と黄泉比良坂まで逃げ切るというもの。 ●ククリヒメ伝説 黄泉比良坂について『日本書紀』の本文では言及がないが、注にあたる「一書」に、「泉平坂」で言い争っていたイザナミとイザナギの仲をククリヒメがとりもった、という話が記されている。このことからククリヒメは縁結びや和合の神とされている。(wikipedia 黄泉比良坂より抜粋) この「比良:ひら」についてですが、 本居宣長の『古事記伝』では、「此は黄泉と顯國(うつしくに)との堺なり、平坂と云は、平易(なだらか)なる意なり」とし、黄泉比良坂は平坦であると解しています。 しかし、「國學院大學古事記学センター黄泉国②」にも、ヒラは元来崖状の地形、または傾斜地を指し、とありまた、「大系(記)」「全集」「倉野全注釈」「西郷注釈」「新全集」では「ヒラ」は元来「崖」を意味しているとします。 アイヌ語では、崖を意味する「ピラ」といい、これらが付いた地名の札幌市豊平、空知地方赤平の平岸など、当地の地形からこれらはいずれも崖を意味する「ピラ」によるものとしています。「アイヌ民族文化研究センター」 岐神=比良神とは元来そういう意味なんでしょう。 因みに「来るな」ということを徳島県南部では、「る」を省いて「来(く)な」といいます。 島根県の黄泉比良坂は「崖」ではなく、全く当て嵌まりません。 揖夜神社(いやじんじゃ)は島根県松江市東出雲町揖屋に鎮座する神社である。意宇六社の一つ。旧社格は郷社、後に県社となる。記紀神話に登場する黄泉比良坂の比定地の近くにある。 ◆主祭神 伊弉冉命 ◆配 神 大己貴命 少彦名命 事代主命 武御名方命 経津主命 ●歴史 『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」、『延喜式神名帳』の出雲国意宇郡の「揖屋神社」に比定される。(wikipedia 揖夜神社より抜粋) つまり、社名の揖夜(いや)の読みは、=熊野(いや)であるから熊野にある花窟神社と接点があるんですな。 つまり真なる場所はひっくり返せば ズバリ、空海が箸を立てた伝説のある野江波切不動尊 思いっきり崖です。 波切不動の御利益は、波を切ることから海上安全ともいわれておりますが、本懐はその剣で「悪縁を断ち切る」転じて「良縁を結ぶ」こと。 不動尊の隣には… ●真の千引岩 町文化財 轟の漣痕 くそデカいですヨ‼ また「汝(なんじ)」は大汝=大己貴命の暗喩と思われ、イザナミの「絞殺」「くびりころさむ」もやはり「蛇神」の暗示と捉えることも可。 ここが真の黄泉比良坂であり、出雲国の伊賦夜坂。 ”意富”加牟豆美命の神名、”伊賦”夜坂の訓は「おほ」と「いふ」。 峯の東端は式内社和奈佐意富曾神社の旧ご鎮座地です。 曽(曾:そ)は、「曽孫」の意味があり、イザナギの4世代目にあたる邇邇芸命のこと、もしくは逆に4代父祖となるイザナギのことでもあるのでしょう。 那佐にはくじら石(鯨の古語は勇魚:いさな)もありますヨ。 「是以伊邪那伎大神詔、吾者到於伊那志許米(上)志許米岐【此九字以音】穢國而在祁理。【此二字以音】故、吾者爲御身之禊而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而、禊祓也。」 「伊邪那岐大神は「私は嫌な、見る目も醜悪で醜悪な穢れた国に行ってきてしまった。体の禊をしよう。」といって、筑紫の日向の橘小門の檍原で座って、禊ぎ祓いをした。」 穢れを祓うため筑紫の日向の橘小門の檍原で禊をするターン。 野江波切不動尊近くの古道である居敷峠を越えた先は、 旧宍喰町側の那佐湾へと到達。そこの地名は、 「たちばな」は小さな港:小戸になっている場所です。 また、阿波岐=檍(あおぎ)は、前出ある青木(あおぎ)社:アオギ姫の説話の残る地。 ここでイザナギは禊をされた、その神事が深曾木の儀なのでしょう。 日本伝奇伝説大辞典には、 海部の天橋立となる那佐の地は、三貴士(みはしらのうずのみこ)を生んだ聖地。 乳の崎は恐らく真の淤能碁呂島(おのごろじま)でしょう。 鞆浦那佐にやってきたとある阿津姫は、当地に降り立った天女であり、後に根国とされた母川の流れる妣の国に住んでいたのです。 国を生み、そして神々を生んで、我が国の礎を築いていった。 その証拠として、延喜式式内社で唯一、「伊射奈美」を冠する神社は、阿波国徳島県のみにしか存在しません。 当地から北上し、更には吉野川をのぼり行き着いた先の皇孫(すめみま)の地となった美馬、後の倭(やまと)にて、恐らくは元地海部を思い偲んだのか、吉野川に浮かぶ舞中島にてひっそりとご鎮座されております。 伊射奈美神社(いざなみじんじゃ:徳島県美馬市美馬町中鳥338) 御神陵も恐らく遷都の過程において、御霊と共に移されたのではないでしょうか(ひょっとしたらまだ海陽町のどこかにあるのかも知れませんが…) これらの推測は、阿南市にある室比賣神社・羽浦神社に合祀されたとある和奈佐意富曽神社もまた同時に海部の地に存在し、古事記と日本書紀とを比較して、先の古事記に標した場所を日本書紀では更に日本各地に広げていった痕跡が伺えるからです。 その証拠として、イザナミの神陵の比定地が、出雲or熊野になると考えられるのです。 以上の理由等から『古事記』の淤能碁呂島と『日本書紀』の淤能碁呂島も場所が違うのです。『日本書紀』の淤能碁呂島「ちょいネタから突っ込んで考察 ②」 もう一点は、海陽町にある3世紀初頭の寺山墳丘墓は、盗掘らしき跡があり、内部にあったと思われる埋葬者の人骨は既に蛻の殻で、中国鏡の内行花文鏡片ぐらいしか目ぼしい遺物が出土していません。寺山墳丘墓「羽衣伝説 Vol.阿波 神宝・遺物から考察」 これらは眉山にある勢見の佐々木の抜け穴にもいえることで、何者かが意図的に掘り起こし移送させた可能性が指摘されます。佐々木の抜け穴「倭の五王から考察 ①」 また『古事記』には、イザナミの死を、 「故、伊邪那美神者、因生火神、遂神避坐也。」 「ついに、伊邪那美命は火の神をお生みになられたことで、神避(かむさり)になられた。」 …と記されてあります。 神去 かみさ・る かむさ・る かんさ・る ① 天皇など、高貴の人が死去する。崩御する。薨去する。かんさる。神上がる。(コトバンクより) 書かれてあるままで解すると、死んでしまったという意味ですが、『日本書紀』ではこれを、 一書2:終(役目を終える) 一書3:神退・神避(神としての使命を終え、この世から退(避)く) 一書6:化去(化してこの世の神ではなくなり、別の世界(黄泉)に去る) …とバリエーション豊富に書かれており、いずれも死を暗示するものの、「神は逃げさった」とも考えられます。 そうでなければ、死後のイザナギとの黄泉でのやり取りは成立しないのではないでしょうか 記紀が示す本当の場所、真なる場所には、すべからく全てが当てはまらないといけないはずです。 御刀媛から木花之佐久夜毘売、そしてイザナミへと随分と飛んでしまったお話となってしまいましたがあくまで私説考察ですヨ笑、…最後に、 『播磨国風土記』宍禾郡雲箇の里条に見える、許乃波奈佐久夜比売。 その名の解は、許乃-波奈佐-久夜比売命、つまり、 籠(この)-和那佐(わなさ)-狗邪(くや)比売 海部氏との関連は切っても切れない深~い関係にあるようです。 今回はここまで(´・ω・`)ノシ

  • 25Apr
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      御刀媛から考察 ④

       🌸 木花之佐久夜毘売 「御刀媛から考察 ③」からの続きとなります(´・ω・`)ノ 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 当シリーズも大詰め、徐々にポイントを絞りながら考察していきましょう。 まず、この御刀媛ですが、景行天皇による熊襲平定後、日向の高屋宮に6年居た時に、この国(日向国)に美人が居るのを聞き及んで呼び寄せたとあります。 後に豊国別皇子を生んだこの媛は、日向のどの辺りに住んでいたのでしょうか そしてこの媛の正体は誰なのでしょうか そのヒントは、「御刀媛から考察 ①」の冒頭に記しました、熊本県の御刀媛尊を祀る名石神社のご由緒と、阿南市の式内社(論社)室比賣神社の相似性にあります。 この室比賣神社のご由緒の大意は、天皇を慕って海を渡って追いかけて来た妃が水難事故により亡くなること。 社の御祭神は、淳仁天皇の御内室の室妃とされておりますが、これを大山津見神の娘である木花開耶姫命と同一神としてお祀りされています。 なぜ、この室比賣神社のご由緒が、47代淳仁天皇と御内室の室妃に置き換わっているのかにつきましては、賀志波比売神社を津峯神社に遷座させた45代聖武天皇治世当時の強い政治背景が考えられます。 淳仁天皇(じゅんにんてんのう、733年〈天平5年〉- 765年11月10日〈天平神護元年10月23日〉)は、日本の第47代天皇(在位:758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉- 764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉)。 漢風諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれるが、歴代に加えた史書も存在する。諱は大炊(おおい)。(wikipedia 淳仁天皇より抜粋) これにつきましては当稿では触れませんので詳しくはwikipediaをご参照下さい。 一方、名石神社のご由緒では、景行天皇のあとを追い、最終的には海に入水し身投げした説話を持つ日向御刀媛で、両社の御由緒の内容は同じといっていいでしょう。 また阿南市の式内社 賀志波比売神社の御祭神である賀志波比売命(夏之売命)は、病気平瘉や長寿延命の神であり、またご祭神が木花開耶姫命である峯神社のご由緒にある「津乃峰ニハ姉君賀志波姫命ガ祀ラレシコト」云々から、これが石長比売であると考察しました。 従って、景行紀にみえる弟媛の形姿穢陋(=かおかたなし=不細工)の説話や、続けて現れる神夏磯媛の神名も、 夏之(かし)売命=神-夏磯(かし)媛 弟媛=御刀(おと)媛 で、つまりこれら全てが、賀志波比売命=日向御刀媛と同神であると考えられるのです。 要するに上記を集約しますと、 大山津見神の姉妹とされる石長比売と木花開耶姫命は、実は同一神であるという結論となるのです。 醜女(しこめ)も色女(しこめ)も同じか(´・ω・`) 八百万の神々的視点からすれば、これらを区別してお祀りしている場合は、荒魂・和魂などとして考えられているのかも知れませんネ。 また景行紀では、天皇が美濃に行幸された際、弟媛が容姿端麗であることを聞き、家まで押し掛けたものの、竹林に隠れたので一先ず泳宮に滞在したと記されてあります。 この泳宮の比定地の考察ですが、キーワードとなる難読な「泳(ククリ)宮」には、「蛇」を意味するニュアンスが含まれていること。 また、菊理媛命(久久理姫命)の名の由来は、菊(クク)の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説があること。 そして、これが美濃(見能)行幸時での説話であることから、これを舎心山(しゃしんざん)常住院太龍寺(たいりゅうじ)のことであると推測。 一方、阿南市室比賣神社と式内論社となっているのが、海部郡海陽町相川にご鎮座する室比賣神社。 通称 阿津神社の御祭神も同じく木花開耶姫命。 景行紀では、 「天皇、欲得爲妃、幸弟媛之家。弟媛、聞乘輿車駕、則隱竹林。」 「天皇は(弟媛を)得て妃にしたいと思って、弟媛の家へと行きました。弟媛は天皇来たと聞いて、すぐに竹林に隠れました。 」 これに対応すると思われる一文が、 『日本書紀』第九段一書(三)、神吾田鹿葦津姫(木花開耶姫命)が三柱の子を産んだ際の、 「時以竹刀、截其兒臍、其所棄竹刀、終成竹林、故號彼地曰竹屋。」 「そのときに竹の刀でその子たちの臍を切りました。その竹の刀を捨てたところは、後に竹林と成りました。それで、その土地を「竹屋(たかや)」と言います。 」 また、第九段一書(六)では、 「到于吾田笠狹之御碕、遂登長屋之竹嶋。」 「(ニニギの一行は)吾田の笠狹之御碕に辿り着きました。それで長屋の竹嶋(たかしま)に上りました。 」 …とあり、景行紀にて弟媛が隠れたとある竹林は、天孫降臨時の説話では、「竹屋」「長屋の竹嶋」のことであると考えられ、これが「笠狹之御碕」つまりたくさんある御崎神社群の只中にある阿津神社のご鎮座地であろうと推測しております。 ここが日向の高屋宮があったと思われるところ。(現推定) ちなみに現在の阿津神社がご鎮座されている場所は、鬱蒼とした竹藪に埋もれた島であったであろうところにあります笑 また海陽町・牟岐町の山間部に位置するこの周辺は、木花開耶姫命の御祭神地帯でもあります。 こちらは海陽町の説話となる、阿津姫様が身投げしたと伝わる池のある池姫神社。 阿波志に「立池祠 在大井村 即龍祠称姫明神」とある御祭神は、姫池大明神こと瀬織津姫命。 海部町史には、 「此池往古何もの姫君か夫をしたひ給へとも行衛知れねばかなしと身を投死しより池名も姫池と唱え社号同じく姫の霊祭るよし 池長三拾間 横巾四間斗 此池に住るうろくつことごとく一眼にてあしき方くされる如く白し。」 …とあり、また「日本伝承大鑑:池姫神社」によれば、 いつの頃の時代か、海部の鞆の浦という港に美しい姫が一人逃れてきた。どういう素姓で何から逃れてきたのかは分からなかったが、この阿津姫と名乗る姫を匿ったのは、鞆の浦の分限者であった高橋長者であった。姫を屋敷内に隠すように住まわせていたが、いつしかその存在は港で噂となり、知らぬ者はいないようになった。するとある夜、屋敷を武装した集団が襲ってきた。何とか敵を撃退したが、再び襲撃がないとは限らない。阿津姫は自ら屋敷を出ると申し出た。長者は引き留めたが、姫の決意は固く、ならばと長者の所領で一番奥地にある相川という場所へ隠れ住むように手配したのであった。 相川に移り住んだ阿津姫はしばらく密かに暮らしていたが、やはりその美貌故に噂が広まり、またしてもこの土地にいられなくなった。姫は誰にも告げずに相川と鞆の浦との中間あたりの大井の地に移った。だがそこの安住の地ではなく、間もなく武装した一団が襲来したのである。ここにきて姫はもはや他の地へ逃げることに疲れ果てたのか、住まいの前にある池に身を投げて命を絶ったのである。 海部川のそばの道脇に池姫神社という祠がある。ここに祀られているのが阿津姫であるという。またこの神社の前には池があり、これが阿津姫が身を投げた場所であるとされる。この池に棲む魚は、阿津姫が身を投げる時に持っていた機織の筬(おさ)の先端で目を突かれたために、全て片目になっているという。またこの池は高橋家の屋敷にあった井戸に通じており、池が濁ると井戸も濁るという話も残っている。 一方、高橋家にも姫が去った後日譚が残されている。阿津姫が屋敷を出る時、お礼に小判を渡そうとすると、長者は「“生まれ”がいただきたい」と答えたという。それ以降、高橋家では阿津姫のような美貌の女児が生まれるようになったという。また屋敷の井戸の水で顔を洗うと美人になれるという噂が立ち、多くに人が水をもらいに来たという。しかしこの高橋長者の家もいつしかなくなり、今はその跡を知る人もない。 双方の文面からは、おおよそ名石神社と阿南市室比賣神社のご由緒と類似しているものの、それらとは逆に、姫方が何者かに追われている立場であったことが記されてあることにも注目です。 また同町史の昔話「アオギ姫と片目の魚」をご紹介しますと、 「高園の母側筋にあるアオギ渕に住む魚はみな片目だといわれている。これは天正三年土佐の長曽我部の軍勢に攻められて吉田城が落ちたとき、アオギ姫が大切な機(はた)を抱えてここまで逃げてきたが、とうとう追いつめられてこの渕に身を投げてなくなられた。それからこの渕に魚は、姫の梭(ひ)が当って片目になったのだということである。」(下灘郷土本・口碑) 高橋長者(高橋氏)についてはこの稿では割愛<(_ _)> 興味のある方はご検索下さい笑 このアオギ姫の説話の補足ですが、場所は母川沿いにある川西三が村の一つ海陽町高園。 徳島県史第二巻「海部郡高園を中心に、海部川流域の土豪に海部氏がある。海部氏はもと阿波の君息長田別命の子孫に阿波国司阿波真人広純があり、広純の後が海部郡高園に退隠したといわれ、吉田城に拠る武士団となった。」と記載されています。 海部町史によると、高園内には酒岩神社と青木神社の記録があり、 高園字酒岩は、海陽町の名所でもある「せり割岩」の周辺。 酒岩とは、裂(割)岩のことで、この母川には、国の天然記念物に指定されているオオウナギの生息地でもあります。 このワレメの奥からオオウナギが岩を割って出てきたという伝説がありますヨ。(観光案内か笑) 青木(あおぎ)神社の御祭神は不明ですが、上記説話の内容から恐らくアオギ姫をお祀りしているものと思われます。 現在の青木社は、隣接する稲荷社に合祀されています。 向かいには「不動明王」のお姿が。 説話にある「片目」に関連する考察は「片目の魚」 上にある「池姫神社の説話」と「アオギ姫と片目の魚」の説話の内容はほぼ同じで、時代も比較的新しいものになっておりますが、昔話の類は時代を重ねつつ変容するものでしょう。 これが前稿の「南(みなみのかた)の粟の岬(あわのみさき=妃)」と同じ神のことと思われます。 また、「天孫降臨阿波南部説」につきましても、これまでに「本家の元祖考察」「本家の元祖考察 オマケ」にて考察しておりますので、こちらをご参照頂けたらと存じます。 景行紀と海陽町のエピソードなどと照合させますと、 当エリアはバリバリの「出雲」の地で、各地域に点在する杉尾神社の御祭神は、みな出雲の神様大己貴命、つまり大国主命の領域であることがわかります。  海陽町の昔話風に置き換えますと、ここは高橋長者の領域(ノ∀`) 世代が1代ズレる考察に付きましては、当稿のケースで簡単に書きますと、 「記紀」及び「播磨国風土記」によれば、木花之佐久夜毘売を共に娶ったとある大国主命と邇邇芸命。 大国主命は須佐之男命の娘である須勢理毘売を娶ることで須佐之男命の子(養子)となり、須佐之男命を1世代とすると2世代目にあたります。 一方、邇邇芸命は須佐之男命と天照大御神の宇気比の子の天忍穂耳命の子。 つまり、3世代目となり、必ず1世代のズレが生じることになります。 景行天皇の話の中で息子の日本武尊の話と事績が重複する箇所が見られるのは、このようなトリックによるものと考えられます。 さて、通説によりますと、木花之佐久夜毘売の御陵は、宮内庁指定陵墓参考地である宮崎県西都市三宅の女狭穂塚。 場所はココ wikipediaでは、この古墳は隣接する男狭穂塚古墳と同時期である5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造と推定されており、両古墳とも実際の被葬者は明らかになってはいないようですが、被葬者を特に定めず、ともに陵墓参考地と治定し、女狭穂塚に木花開耶姫、男狭穂塚はその夫の瓊瓊杵尊に充てているようです。 これを例の如く阿波版に置き換えますと、 おおよそ阿津神社や池姫神社にあたる位置周辺となり、やはり類似する地理・地形となる場所で、恐らく木花之佐久夜毘売の御陵であった場所も、この辺りから非常に近いところにあると推測。 また、お隣の牟岐町にある木花咲屋姫命をお祀りする社名は「白王神社」。 峯神社ご由緒にも、「木花開耶姫命白蛇トナリテ」とあり、「白蛇」や「白王」などキーワードが見え隠れしております。 富山県、石川県、福井県、岐阜県の4県に跨る霊峰白山。 岐阜県にある、白王神社(岐阜県下呂市萩原町野上字成井1485番地)の創建は不詳ですが、菊理姫命と共に伊邪那岐命・伊邪那美命がお祀りされており、全国白山系神社御祭神と同じです。 ただし四国の愛媛県には、牟岐町と同様に大山津見神の娘である木花咲耶姫命を祭祀している白王神社も存在します。 白王神社:愛媛県西予市野村町釜川2−209 祭神:吾田鹿葦津姫命 白王神社:愛媛県西予市城川町田穂767 祭神:木花咲耶姫命 この「白王」系神社ですが、その殆どの御祭神が伊弉諾・伊弉冉・菊理媛命で、四国、それも西側に集中しており、牟岐町の白王神社は四国でも飛び地になっています。 また別に、同様の御祭神(伊弉諾、伊弉冉、菊理媛命)を持つ神社に、客(きゃく・まろうど)神社が御座います。 その多くはやはり愛媛県に集中し、他山口県、広島県に多く見られ、高知県、島根県、鳥取県にもごく僅かに存在します。「客人社と荒波々幾神を祀る神社一覧」 同祭神は、客神社以外では殆どが氷川神社にてお祀りされています。 ふむふむ(´・ω・`)、氷川は梭(ひ)川ですかな。 アラハバキは、日本の民間信仰的な神の一柱である。 ●概要  荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。 ●『東日流外三郡誌』以前の認識 「荒脛巾神」という文字から、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが、後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた。神仏分離以降は「脛」の字から長脛彦を祀るともされた。(wikipedia アラハバキより抜粋) 面白いことに当神社は阿波では1社も見られず、聞きなれないのは「客」ではなかったからでしょうかね。 ちなみに「はばきの神」は、須佐之男命の子の大年神と天知迦流美豆比売の子である波比岐神(婆比支神:はひき)と思われ、このシリーズで登場した羽山戸神と同父母きょうだいとなります。 別名 矢乃波波木神(屋乃波比伎神・箒神)は、天照大神が鎮まる伊勢神宮の内宮に祀られており、安産、祓い、招福のご神徳があるようです。 一方、菊理媛神については、「御刀媛から考察 ②」にて少しご紹介しましたが、wikipedia によると、『日本書紀』の一書(第十)に一度だけ出てくるのみであり、また全国の白山神社に祀られる白山比咩神と同一神とされていて、神仏習合の中では、白山大権現・白山妙理菩薩などの説もあります。 現在の白山比咩神社は、菊理媛神(白山比咩神)を主祭神としながらも、伊奘諾尊・伊弉冉尊を仲直りさせた縁結びの神して、二神と共にお祀りされています。 夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも、伊奘諾尊と伊弉冉尊の娘、『古事記』では、イザナミが「故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ」と言及した黄泉神(よもつかみ)(イザナミ以前の黄泉津大神)、 伊弉冉尊の荒魂もしくは和魂、あるいは伊弉冉尊(イザナミ)の別名という説も書かれています。  白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。 ●概要 717年(養老元年)修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが起源で、併せて白山修験場開創の由来と伝わる。 孤峰(別山)では聖観音菩薩の垂迹である宰官身の大行事権現が伊弉冊尊の神務輔佐の行事貫主として、大汝峰(おおなんじみね)では翁姿の大己貴命(大汝権現)が伊弉冊尊の神務輔弼として泰澄に顕われたと伝わり、泰澄に顕われた三神(白山妙理権現、大行事権現、大汝権現)を併せて白山三所権現と称する。さらには白山修験が隆盛すると、白山妙理権現の眷属として五王子権現も祀られた。 ●神仏習合と分離 白山頂上本社と白山寺白山本宮は本地と垂迹の関係で、神道としては白山権現は伊弉冊尊であり、両神が即ち白山比咩神であった。(wikipedia 白山権現より抜粋) これが『玉籤集』では熊野本宮大社(本宮)で菊理媛神(伊弉冉尊)が祀られていると記述しているということなんですよネ (´・ω・`)ホウホウ、wiki大活躍やな。 …ということは普通に考えますと、 木花之佐久夜毘売は、伊耶那美神ではないですか 伊邪那美命(いざなみのみこと、伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)は、日本神話の女神。伊邪那岐神の妹であり妻。別名 黄泉津大神、道敷大神。 ●神話のエピソード 亡骸は、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)に、『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたという。 死後、イザナミは自分に逢いに黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体(自分)を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、黄泉国と葦原中津国(地上)の間の黄泉路において葦原中国とつながっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナミに対してイザナギが大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。イザナミは閉ざされた大岩の向こうの夫にむかって「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。イザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子どもを産ませよう」と返した。そしてイザナミとイザナギは離縁した。 この後、イザナミは黄泉の主宰神となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。 ●墓所 イザナミの墓所の伝承地は、日本神話に記される比婆山や熊野市有馬のほか、雲伯国境を中心として日本各地にある。宮内省は八雲村(現 松江市)の神納山を比定地の中で最も有力として「陵墓参考地」に認定し、内務省は船通山の北にある御墓山を「伊弉冉尊御陵流伝地」に指定していた。 しかし、近世以降、古事記解読に初めて成功した本居宣長の古事記伝の話と、鉄製品を作る最良の砂鉄の産地は雲伯国境地帯であることから、島根県安来市伯太町のもの(比婆山久米神社)が支持されていた歴史があり、江戸時代、母里藩の古地図にも峯山大権現と記されているのが確認されている。 さらには当地に伝承されてきた、たたら製鉄でつくり出される玉鋼は日本人の魂の象徴とされる日本刀の創始(安綱)ともかかわりが深く、最近では安本美典がこれら諸説を文献学的に比較し、島根/鳥取県境に最も近い安来のものを比定している。(wikipedia 伊邪那美命より抜粋) これまでに記して来た景行天皇と女性・妃の説話。 更に海部郡海陽町に伝わる阿津姫&アオギ姫のエピソード。 この稿では書いていませんが、応神記に「又昔」として記録している天之日矛&阿加流比売の説話。…他等々笑 我が国最初の国産み・神産みをした原初の男女神であるイザナギとイザナミ。 それぞれの説話群の意味する内容が絶妙に一致していませんかね  …というわけでズルズルとこのシリーズも続くのである(´・ω・`)…

  • 18Apr
    • 御刀媛から考察 ③の画像

      御刀媛から考察 ③

       ● 建御名方神(タケミナカタ) 「御刀媛から考察 ②」の続きとなります(´・ω・`)ノ 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 「十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。是日、陟野中大石、憶京都而歌之曰、 「即位17年の春3月12日。 子湯縣(こゆのあがた=現在の宮崎県児湯郡・西都市)に行き、丹裳小野(にものおの=地名未詳)で遊びました。そのときに東を望んで、左右(もとこのひと=側にお付きの人)に言いました。「この国は真っ直ぐに日の出る方に向いている」 それでその国を日向(ひむか)といいます。この日に野中の大石(おおかしわ)に登って京都を偲んで、歌を歌いました。 波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮 夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試 異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固 是謂思邦歌也。 愛(はし)きよし 我家(わぎへ)の方由(ゆ)  雲居騰ち来(く)も 倭は 国のまほらま  たたなづく 青垣  山籠れる 倭し麗し 命の 雅(まそ)けむ人は  畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の  白樫が枝(え)を 髻華(うず)に挿せ 此の子 この歌は、国偲び歌といわれます。 早速考察して参りますが、この景行天皇の国偲びの歌、通説では遥々奈良県大和国から筑紫島九州まで行幸された訳で、当然のことながら、京(みやこ)が意味するのは、奈良県(大和国)の纏向日代宮を想い偲んだ歌のはずです。 また同条には先に、 「筑紫の豊前国長狹県の行宮を京(みやこ=福岡県京都郡)」といいます。 …とも記されてあり、九州説の諸氏は福岡県京都郡の仮宮に充てておられる方もいるようです。 さて、これを例の如く阿波説に置き換えさせて頂きますと、類似地形の想定地は、 京都郡は縦長ですから具体的な場所はこれではハッキリとはわかりませんが、偲ばれている場所がおおよそどの辺りであったのかは推測が可能です。 また、景行天皇が子湯縣に到着した際のお言葉も、 「この国は真っ直ぐに日の出る方に向いているからその国を日向(ひむか)とう。」 …とあり、『古事記』国譲り後の天孫降臨の段にある、 「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」 「この地の者は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」 …と同様の場所を示唆しており、これが「紀」によれば「日向」の地であるとします。 当伝承地が子湯縣=現在の宮崎県児湯郡、場所はココ 阿波説変換後 上の地図の宇美八幡の位置も気になりますね笑 また歌には、「愛(はし)きよし」とあり、「愛」のことを「はし」と訓むこと。愛比売とは何ぞや? 「于受珥左勢」「髻華(うず)に挿せ」も、  髻華(うず):「髪や冠に挿し、飾りにした草木の花や枝」(難読語辞典より) ここにもキーワードが隠されていそうです。 また「石」のことを(かしわ)と訓むのは最重要キーワードです。 仁徳天皇皇后である石之日売(磐姫)も=カシワ比売となりますヨ。 さて、ここからはスピードアップ(端折るともいう笑)していきます 「紀」ではこれより行幸先の地名由来伝承を列記していきます。 経路は概ね以下の通り。 子湯から九州西岸部を北上し、到着したのは八女(やめ)。 「丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女国之名、由此而起也。」 「(即位18年)7月7日。八女県(やめのあがた=現在の福岡県八女郡・筑後市・八女市)に到着しました。南(みなみのかた)の粟岬(あわのみさき=地名未詳)を見ました。そして天皇は言いました。「その山は峯岫が重なっていて、麗しいことこの上ない。もしかしてその山に神がいるのか?」すると水沼県主猿大海は言いました。「女神がいます。名を八女津媛(やめつひめ)といいます。常に山の中にいます」八女国の名前はこれによります。」 「峯岫が重なっていて麗しい」=「南(みなみのかた)の粟岬(あわのみさき)」とありますが、現八女の北側から南方を見たのか、八女に到着した云々とあるから八女から南方にある山を見たのか、はたまた岬を見たのかはこれではハッキリとは分かりません。 地理的には、八女から南方は山はあれど全く岬に相当するものは見えそうにありません。  一応ここでは、そこの山中に八女津媛という女神が住んでいたことによる国名由来の旨を記しています。 ちなみに八女には立花町(たちばな)の地名がありますな(´∀`) ここでのヒントは、 「南(みなみのかた)の粟の岬(あわのみさき=妃)」 が山中に居る女神であるということ。 そして、八女の隣の浮羽は、この後に記される訛って「いくは」となったという地名説話。その後、 「十九年秋九月甲申朔癸卯、天皇至自日向。」 「即位19年の秋9月20日。天皇は日向から帰りました。」 そこから行き着いた先に遷都後の皇居があったのでは…という推測となります。 もちろん通説ではブッ飛んで奈良県(大和国)に帰還したとします。 ※これより後の景行天皇紀の記述は、息子の日本武尊のお話に移行しますので、この稿では割愛させて頂きます<(_ _)>(あ~長い景行紀終わった!というか終わりにした笑) さて例の如くこれを阿波説(の私説)でこれを解くとするならば、これまでの九州における景行天皇行幸の経路を類似地形となる四国東部の徳島県に置き換えますと、何とな~くではありますが、イメージができるのではないでしょうか 例えば八女から浮羽を経てみやこに戻る。 こちらはザックリな阿波版でのイメージ この「いくは」ですが、 的氏(いくはうじ)は、「的」を氏の名とする氏族。 ●概要 『古事記』によると、玉江氏・生江氏・阿芸那氏とともに葛城長江曾都毘古(かずらき の ながえ の そつびこ)の子孫ということになっている。『新撰姓氏録』山城皇別には、石川朝臣(蘇我氏)と同祖で、彦太忍信命の三世の孫、葛城襲津彦の子孫とある。 的氏はその名前の由来からして弓矢と関係が深い。『日本書紀』巻第十によると、応神天皇の時代に的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)が平群木菟(へぐりのつく)とともに加羅へ派遣されている。 6世紀には、的一族の半島でのさらなる活躍が見られる。『書紀』巻第十九には、推定544年の欽明天皇の任那復興計画に関連して、百済本記の引用文には、任那日本府の官人らしき人物として「烏胡跛臣(うごはのおみ)を遣召(よ)ぶといふ。蓋し是的臣なり」とあり、さらに「今(いま)的臣、吉備臣、河内直等、咸(みな)、移那斯(えなし)・麻都(まつ)が指撝(さしまね)くに従へらくのみ」・「的臣等、等とは吉備弟君臣、河内直等を謂ふなり・新羅に往来(かよ)ひしことは朕(わ)が心に非ず」とあるこの「的臣」は欽明天皇14年(推定553年)までにはなくなっていることも『書紀』には記載されている。 的氏は軍事的性格とともに、大王の食膳に奉仕する役割も有していたと考えられる。(wikipedia 的氏より抜粋) 重要なキーワードがズラリと並びますが、ここではあえて赤字の部分に注視し、阿波では恐らくですが地図に示した地理的位置と重なる「国府町矢野」周辺と推測。 「あくい」も逆から読めば? そういえば、先述の大和(纒向珠城宮)から美濃への行幸を終え、後に遷都したとある纒向日代宮に居を移し、お次の行幸先となる筑紫遠征の際に記されてある出発地点は、 「九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。」 「9月5日、周芳(すわのくに)の娑麼(さば=周防国佐波郡=山口県防府市佐波)に到着しました。」 山口県(周防=周芳:すわのくに) ここでスワな(´・ω・`) プッ…  周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。 ●「周防」の名称 読みは長く「すおう」、ハ行転呼が起きる前は「すはう」と言われてきた。「周芳」を「すは」と読むか、「すはう」と読むのか定説はない(日本歴史地名体系)。古代の日本語では母音が連続することはないため/suhau/という読みは不自然であり、当初は諏訪と同じく「すわ(歴史的仮名遣:すは)」と読まれていたと考えられている。 (wikipedia 周防国より抜粋) 通説では、ブッ飛び経路の「奈良➨美濃➨奈良➨山口➨九州➨奈良」でしょうが、「紀」に書かれてあるこの「周芳」は、八女云々の説話からその北側(南方に八女がある)に位置する、 ●徳島県名西郡石井町浦庄諏訪 この地にご鎮座されるのが、長野県(信濃国)一之宮である諏訪大社の”元社”の謂れを持つ式内社 多祁御奈刀弥神社。 御祭神である建御名方神は、国譲りの説話にて、建御雷神が追い駆け、科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした際に、建御名方神はその地から出ないうえ、大国主神・事代主神に背かないことを葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束しました。 大碓皇子(おおうすのみこ/おほうすのみこ、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 ●記録 日本書紀 同書景行天皇40年7月16日条によれば、天皇が蝦夷平定の適任を群臣に問うと、西征を終えた日本武尊は大碓皇子に任せることを進上した。しかし大碓皇子は草むらに逃げ隠れたため、使者をして召還させられ、天皇から責められたのち、美濃国に封じられた。そして身毛津君・守君の祖になったという(結局東征は日本武尊が行なった)。 (wikipedia 大碓皇子より抜粋) 諏訪から出ないと誓った神話時代の建御名方神。 景行紀に頻繁に見られる「美濃」に封じられたとある大碓命。 そして当地から「筑紫」へと出発する景行天皇。 例によって同神考察をするならば、大碓命の父が景行天皇なのですから、これを国譲り神話に置き換えれば、建御名方神とその父母の痕跡も残るはず。 阿波では、大国主命とその妻子もこの地にキッチリと痕跡が残っています。 高志村(たかしそん)は、徳島県の名西郡にあった村である。1955年3月31日、合併して板野郡上板町となり消滅した。 (wikipedia 高志村より抜粋) ※高志沼河姫(こしのぬなかわひめ):大国主命の妻 子 建御名方神 また同時に、大碓命の双子の兄弟である小碓命(倭建命)は、建御名方神の弟である八重事代主命(=少彦名命:双子の兄弟=義兄弟)ということになります。 私説としては、これを親子の話と双子の兄弟の話とに分離し、大国主命と八重事代主命の親子関係が義兄弟となる訳ですから、景行天皇は自身の子の代に義弟として存在していると考えられるのです。 この双子の兄弟もまた双子=同一人物という意味で、系譜は常に無限ループしていると考えられます。この検証は➨「倭建命を穿って考察 ⑤」 大碓命としては、親から妃を奪うことで兄弟に、また小碓命としては、征伐譚を再び訪れる行幸として描いているのでしょう。 そして、「遷都」した地もまた後に同名の「美濃」の名を付したと考えられます。 これらは所謂忌部の痕跡を辿るのに重要なポイントとなるのですが、最終的には日本全国各地に散らばりますので、後世の者にとっては大変ややこしくなります。 「諏訪」もまた然りですヨ。 確か阿南市見能林町の旧名は「見能方村(みのかた)」で、名西郡の元は美濃国ならぬ、タケ-ミナ(ノ)カタの地、旧名の名方郡(なかた-ぐん)です。 名方郡(なかたのこおり、なかたぐん)は、古代の阿波国(現 徳島県)にあった郡である。阿波国の国府が置かれていた。寛平8年(896年)に東部が名東郡、西部が名西郡に分割された。(weblio辞書より) ●和名類聚抄 阿波国 名方東郡 名方西郡 ●時系による遷都?の順(旧みの➨新みの)※あくまで現在の推測 う~ん、阿波では北上していっていると考えられるんですなぁ。(何度も言いますが私説ですヨ) 前都である纏向”珠城”宮も、阿南市にある舎心山太龍寺縁起に載るところの、 「磯輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冉尊居坐に降る玉墟うち国産み八嶋あり。」ではないんかな 詳しくは、ぐーたら氏のブログ「ぐーたら気延日記」:「舎心山太龍寺縁起」をご参照下さい。スゴイこと書いてますよ! また空海が記録した同御縁起には、 「往昔、神武天皇狭野尊、筑紫日向宮崎宮より大和国御坐入りの時、五月十六日舎心山、行幸あり」 …とあり、この一文もなかなかのインパクトですネ。 一応いっておきますが、「記紀」によれば、神武天皇は四国には一切立ち寄ったとは書かれておりません。 この日本書紀に書かれてある「美濃」が実のところ、どこのどちらであるかは、数少ない読者様のご想像にお任せ致しますが、これ等の検証は一応あくまでオリジナルがどこであったのかといった視点考察を含みます。 もちろんこれから後の調査考察によっては、当然自論が覆るものであることを期待しておりますゼ(´∀`)b  そしてこの周芳から熊襲を平定するため筑紫を南下して行く訳なのですが、 「十一月、到日向国、起行宮以居之、是謂高屋宮。」 「(即位12年)11月、日向国に到着して行宮を建てて留まりました。これを高屋宮(たかやのみや)といいます。 」 …と記されてあり、高屋宮のあった位置は日向に入った直ぐのところ、子湯よりはやや北側となり、地図で示すと そこにご鎮座するのが、高屋神社(宮崎県宮崎市村角町橘尊1975) ◆祭神 彦火々出見命 豊玉姫命 景行天皇 ◆由緒 高屋神社の創建は不詳ですが、当社の西側に小高い処があり、日本書紀神代巻下にある「日向の高屋の小陵に葬る」とある高屋山上陵、即ち彦火々出見命の御陵が当地であると伝えられています。さらに、景行天皇(71-130)が九州に下り、日向国を拠点に熊襲を討った御親征の際、6年間もの長期に亘り御駐輦された行宮の「高屋宮」の址とも伝えられています。 武内宿禰が山陵であることを知り、鎮座地を定めたという創建の由来が伝わり、景行天皇(71-130)の御代には彦火々出見命と豊玉姫命の二柱の御神霊を鎮め奉る聖地・霊跡と崇められていたことが窺えます。現存する古文書でも仁明天皇の嘉祥2年(849)に当宮の祠官となった旧社家の系図の記載があることから、古代から祭祀が整えられていたと考えられています。(詳しくは➨高屋神社) 彦火々出見命の御陵とはさてどこなのかなぁ。あと、御祭神が面白いですなぁ。 阿波における彦火々出見命=虚空津日高(そらつひこ)の説話の舞台は、医王山(いおうざん)薬王寺や海亀の上陸する町等で有名な海部郡美波町(旧日和佐町)。 そして隣町の「橘」の地名の残る牟岐町で、海部郡に入った直ぐの場所となります。つまりこれより北側が豊の国?「倭建命を穿って考察 ⑥」 「倭建命を穿って考察 ⑤」でご紹介しておりますが、牟岐町の牟岐津神社、御祭神は小碓命。つまり倭建命のこと。 沖合にある「姫神伝説」が伝わる大島 ご鎮座される大嶋神社の御祭神は、豊玉日女命 阿波誌には、 「姥祠あり大島に在り土人曰く牟岐津神の妃也と」(´・ω・`) 「記紀」によれば豊玉日女命の夫は彦火々出見命、これが倭建命であると。 恋人を追いかける娘を描いた姫神伝説。 またしても同神とする神々がたくさん登場して参りましたが、その真相は ところで、表題の御刀媛はどこいったんや笑 …ということで、確か御刀媛は、景行天皇による熊襲平定後、高屋宮に6年居た時に、この国(日向国)に美人が居るのを聞き及んで呼び寄せたとあります。   次回からは当シリーズのまとめに入りたいと思います(´・ω・`)ノ まとめれたらね...