• 11 Nov
    • 「宇気比」から考察 ②

       ①からの続きになりますが、古事記側の系譜でも本系譜に載らない裏の系譜からの考察になります(´・ω・`)ノ 「宇気比」により出現したスサノオの子である市寸島比売命について前回記しましたが、一方の、「宇気比」により出現したもう2人の女神側の考察について今回は書いてみたいと思います。 タキリビメ(タギリヒメとも)は、日本神話に登場する宗像三女神の一柱。宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている。 ●解説 天照大神と素戔嗚尊の誓約により誕生した「宗像三女神」の一柱で『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記される。別名奥津島比売命(おきつしまひめ)だが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。 『古事記』の大国主神の系譜では、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照姫(したてるひめ)を生んだと記されている。(wikipedia タキリビメより抜粋) では息子の、 アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。 ●概要 大国主神と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られている。別名は賀茂社の神の意味である。 ●伝承 『古事記』では、葦原中国平定において登場する。シタテルヒメの夫で、高天原に復命しなかったために死んでしまったアメノワカヒコの葬儀を訪れた。しかし、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と一緒にするなと怒り、神度剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。シタテルヒメはアヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。(wikipedia アジスキタカヒコネより抜粋) 次に、 タギツヒメ(タキツヒメとも)は、日本神話に登場する神で、宗像三女神の一柱である。『古事記』では多岐都比売命、『日本書紀』では湍津姫と表記される。 ●神話における記述 アマテラスとスサノオの誓約の段で、アマテラスがスサノオの持つ剣を譲り受けて宗像三女神を生み、スサノオの物実から生まれたのでスサノオの子であると宣言された。この三女神は宗像の民が信仰している神であると記されている。 『先代旧事本紀』には、後に大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだと記されている。(wikipedia タギツヒメより抜粋) 息子の、 事代主(ことしろぬし、言代主神)は、日本神話に登場する神。別名 八重言代主神、八重事代主神(ヤエコトシロヌシ)。 ●神話の記述 大国主と神屋楯比売との間に生まれた。 葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。そこでタケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答え、船を踏み傾け、手を逆さに打って青柴垣に変えて、その中に隠れてしまった。 タケミナカタもタケミカヅチに服従すると、大国主は国譲りを承諾し、事代主が先頭に立てば私の180人の子供たちも事代主に従って天津神に背かないだろうと言った。 ●解説 名前の「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神である。言とも事とも書くのは、古代において「言(言葉)」と「事(出来事)」とを区別していなかったためである。 大国主の子とされているが、元々は出雲ではなく大和の神とされ、国譲り神話の中で出雲の神とされるようになったとされる。元々は葛城の田の神で、一言主の神格の一部を引き継ぎ、託宣の神の格も持つようになった。このため、葛城王朝において事代主は重要な地位を占めており、現在でも宮中の御巫八神の一つになっている。葛城には、事代主を祀る鴨都波神社(奈良県御所市)があり、賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)のような全国の鴨(賀茂・加茂など)と名の付く神社の名前の由来となっている。 日本書紀・神武紀には、神武天皇の皇后となる媛蹈韛五十鈴媛命に関して 「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命」 「事代主神、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)の娘の玉櫛媛(たまくしひめ)に共(みあひ)して生める子を、なづけて媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)ともうす。」 とあり、事代主は神武天皇の岳父となっている。 『先代旧事本紀』では、大国主と高津姫神(宗像三女神のタギツヒメとされる)の子として記述されている。(wikipedia 事代主より抜粋) つまり事代主命の母は、神屋楯比売=タギツヒメで、同神といえます。 この二女神(タキリビメとタギツヒメ)はいずれも大国主命と結婚しており、タキリビメは阿遅鉏高日子根神と下照姫を、タギツヒメは八重事代主神と高照光姫命を生んでいます。 そして、この阿遅鉏高日子根神と事代主命は共に「丹塗矢伝説」という共通するエピソードを持っています。 ●『古事記』の話に、「三島湟咋の娘に勢夜陀多良比売という美しい少女がいました。美和(ミワ=三輪)の大物主紳が彼女を気に入り、少女が大便をしているときに、丹塗矢に変身して、そのトイレの水が流れる溝に流れて、少女の陰部を突きました。 」 ●『日本書紀』の話に、「庚申秋八月の16日に天皇は皇后を迎えようと思いました。それで広く皇后に相応しい華胄(ヨキヤカラ=貴族の子孫=人材)を求めました。そのときある人物が言いました。 「事代主神が三嶋溝橛耳神の娘の玉櫛媛を娶って生んだ子が媛蹈韛五十鈴媛命といいます。この姫は国色(カオ)が優れています」 」 ●第八段一書(六)-3 「別伝によると、事代主神は八尋熊鰐(ヤヒロノクマワニ)となって、三嶋の溝樴姫、別名を玉櫛姫という姫のところに通って出来た子供が姫蹈鞴五十鈴姫命です。この姫は神日本磐余彦火火出見天皇の后となりました。」(日本神話・神社まとめ三島湟咋より) 『系譜三輪高宮家系』に、天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の娘である活玉依比売命の子 天日方奇日方命(アメヒガタクシヒガタ)、別名、武日方命・櫛御方命・阿田都久志尼命・鴨主命とあり、神武天皇の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命の「兄」としています。 つまりここでは、三嶋溝橛耳(大陶祇命)の娘、勢夜陀多良比売=玉櫛媛(活玉依姫)の子、媛蹈鞴五十鈴媛命(神武天皇の皇后)となります。 この「玉依姫」を調べてみますと、 タマヨリビメ(タマヨリヒメ、玉依姫)は霊(たま)の憑(よ)りつく巫女、神。『古事記』は玉依毘売命、『日本書紀』は玉依姫尊と表す。 ●概要 記紀・風土記などに見える女性の名で、固有名詞ではない。従って、豊玉姫の妹(海神の娘)や、賀茂別雷神の母などとして数多く登場する。 神霊を宿す女性・巫女。 日本神話で、海の神の娘。ウガヤフキアエズノミコト(鸕鷀草葺不合尊)の妃となり、四子を産んだ。末子は神武天皇(カンヤマトイワレビコノミコト、神日本磐余彦尊)。 賀茂伝説で、タケツヌミノミコト(建角身命)の娘。丹塗矢(本性は火雷神)と結婚し、ワケイカズチノカミ(別雷神)を産んだ。 ●日本神話 綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。 『古事記』および『日本書紀』の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ったが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。『日本書紀』本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。 第一の一書では、トヨタマビメが海の国へ帰る時に、御子を育てるために妹を留め置いた、とある。第四の一書では、一旦トヨタマビメは御子とともに海に帰ったが、天孫の御子を海の中に置くことはできず、タマヨリビメとともに陸に送り出した、とある。 「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指す。タマヨリビメ(タマヨリヒメ)という名の神(または人間の女性)は様々な神話・古典に登場し、それぞれ別の女神・女性を指している。例えば、『山城国風土記』(逸文)の賀茂神社縁起(賀茂伝説)には、賀茂建角身命の子で、川上から流れてきた丹塗矢によって神の子(賀茂別雷命)を懐妊した玉依比売(タマヨリヒメ)がいる。 他に、大物主の妻の活玉依毘売がいる。日本書紀・崇神紀には、活玉依媛とあり、 「天皇(中略)而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。」 『天皇、大田々根子に問ひて曰はく「汝は其れ誰が子ぞ。」こたへて曰さく「父をば大物主大神と曰す、母をば活玉依媛と曰す。陶津耳(すゑつみみ)の女なり。」亦云はく「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の女なり。』 と記されるとおり、活玉依媛の親を陶津耳またの名を奇日方天日方武茅渟祇としている。 全国にタマヨリビメという名の神を祀る神社が鎮座し、その多くはその地域の神の妻(神霊の依り代)となった巫女を神格化したと考えられる(一般には、神話に登場するウガヤフキアエズの妻のタマヨリビメとされることが多い)。賀茂御祖神社(下鴨神社)に祀られる玉依姫は『山城国風土記』に登場する玉依姫である。(wikipedia タマヨリビメより抜粋) wikipediaにもあるように、事代主神は自身の父大国主命と同神とされる三嶋溝橛耳神の娘の玉櫛媛(別名:溝咋姫神・三島溝杭姫・三嶋溝樴姫・溝咋玉櫛媛・活玉依姫・勢夜陀多良比売)を娶り、媛蹈韛五十鈴媛命をもうけています。 また、「三島」「鴨」といえば、三島鴨神社(大阪府高槻市三島江)。 当社の祭神の大山祇神は、愛媛県(伊予国)大三島の大山祇神社へ移ったとされます。 大山祇神の別名は和多志大神(わたしのおおかみ)であり、「わた」は海の古語で、海の神を表しますので、山、海の両方を司る神ということになります。 つまり大国主命=三嶋溝橛耳神が、=大山津見神=大綿津見神であることをにおわせます。(ここでは一先ず置いておく) 次に阿遅鉏高日子根神ですが、別名 迦毛大御神とあるように「大御神」の称号は、伊邪那岐命、天照大御神以外では阿遅鉏高日子根神しかいません。 山城国風土記では、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)は、可茂別雷命の父、火雷神の名として登場します。 この「火雷神」を調べてみますと、 火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)はその名の示す通り雷神であり、雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた神と考えられている。 ●別名 火雷神(ほのいかづちのかみ)、雷神(いかづちのかみ)、八雷神(やくさいかづちのかみ)。 日本神話の中では火雷神は、伊邪那美命の体に生じた8柱の雷神の1柱だが、ここでは8柱の雷神の総称として火雷大神の呼称が用いられる(この1柱の火雷神については後述)。 ●神格 雷神、水の神、伊邪那美命の御子神、雨乞い、稲作の守護神。 ●神話 『古事記』に記された神話の中では、火之迦具土神を生んだ事で女陰を焼いて死んだ妻の伊邪那美命を追って伊邪那岐命が黄泉の国に下った際、伊邪那美命は黄泉の国の食物を食べた事により出る事が出来ないと伊邪那岐命に応じた。しかし自分を追って黄泉まで来た伊邪那岐命の願いを叶え地上に戻るために黄泉の神に談判すると御殿に戻った。その後に何時まで経っても戻られぬ伊邪那美命の事が気になり、伊邪那岐命は櫛の歯に火を点けて御殿に入った。 そこで伊邪那岐命は、体に蛆が集かり、頭に大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲(裂)雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の8柱の雷神(火雷大神)が生じている伊邪那美命の姿を見たとされる。 伊邪那美命の変わり果てた姿に恐れおののいた伊邪那岐命は黄泉の国から逃げ出したが、醜い姿を見られた伊邪那美命は恥をかかされたと黄泉の国の醜女に伊邪那岐命を追わせた。伊邪那岐命はそれを振り払ったが、伊邪那美命は今度は8柱の雷神に黄泉の軍勢を率いて追わせたとある。 ●火雷神 なお、山城国風土記逸文によると、この火雷大神のうちの1柱である火雷神(乙訓坐火雷神社の祭神)は、のちに丹塗矢となって賀茂建角身命の子、玉依日売のそばに流れ寄り、その結果賀茂別雷命が生まれたという。(wikipedia火雷神より抜粋) 事代主命の娘には神武天皇の妃になった姫蹈鞴五十鈴姫命以外にも、第2代綏靖天皇の叔母(母の妹)にあたる五十鈴依媛命や、第3代安寧天皇の皇后である渟名底仲媛命は鴨王(かものきみ)の娘(事代主神の孫)がいます。 つまり事代主命の系譜は鴨(賀茂氏)の神。 また、阿遅鉏高日子根神も可茂別雷命の父であり、迦毛大御神の名で呼ばれています。 この丹塗矢の伝説がある事代主命、阿遅鉏高日子根神の両神の母は「宇気比」により出現した女神(多紀理毘売命&多岐都比売命)を持ち、父も同じく大国主命(=賀茂建角身命=三島溝橛耳=大陶祇命)です。 妃も共に玉依姫(=活玉依姫=勢夜陀多良比売=玉櫛媛=溝咋姫神=三島溝杭姫=三嶋溝樴姫=溝咋玉櫛媛)、同時に大国主命の娘でもあるのです。 つまり全て大国主の子同士の結婚なのです。 また、wikipediaタキリビメの項にもあるように、『日本書紀』第三の一書では、市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名ともしており、つまりは宗像三女神はみな一人の神に集結することができるのです。 結果、阿遅鉏高日子根神と事代主命の二神も同神であり、その子である可茂別雷命が神武天皇なのです。 『先代旧事本紀』には、天日方奇日方命は、神武天皇の時、食国政申大夫として橿原宮に供奉した。とあり、また、 都味歯八重事代主神(鰐と化して)三島溝杭女活玉依姫を生む その子は 天日方奇日方命(神武朝食国政申大夫) 姫鞴五十鈴姫命(神武皇后) 五十鈴依姫(綏靖皇后) 天日方奇日方命は日向賀牟度美良姫を生む。 その子には 健飯勝命(亦名、阿田都久志尼命) 渟中底姫命… …とあります。 『旧事本紀』の記載によると 一男一女を儲けたとありますから、これらを信じれば男神は一人であるので、神武天皇(=可茂別雷命=天日方奇日方命=櫛御方命=鴨主命)となります。 『古事記』では、神武天皇には兄弟がいるとされており、(五瀬命、稲飯命、御毛沼命、若御毛沼命(=神武天皇))、上記を踏まえますとそのいずれもが神武天皇の別人格の投影である可能性もあります。 ⦿オマケ 天日方奇日方命や橿原宮云々といえば、神日本磐礼毘古之命(神武天皇)をお祀りする樫原神社(旧土成町樫原)近くに、 奇玉神社(くすたまじんじゃ 現在は薬王子神社:阿波市土成町浦池字西宮64)があります。 ◆御祭神 大己貴命(徳島県神社誌)、大己貴命 少彦名命(土成町史) 阿波学会研究紀要に、 薬王子神社 浦ノ池の氏神で「西の宮」とも呼ばれる。神社の起源は古く、伝承によると、承和(9世紀)の昔、阿波の国司としてやってきた山田古嗣(ふるつぐ)が、浦ノ池を築いた時に祝祭した。この神は疲病流行の時祈願すると効験あらたかで、「薬王権現」と称されていた。明治元年奇玉(くすたま)神社と改め、更に明治100年に当たり薬王子神社と改めた。神社には古い棟札が残され、現在の社殿は嘉永元年(1847)のものである。 この薬王権現は、日和佐の薬王寺のもとで、こちらではやらないので日和佐へもっていった。厄除けはこちらが本家と宣伝をしたのが効いたのか、10月の祭礼には多くの参拝客が訪ずれるようになった。(稲井澄男氏談) つまり日和佐の二十三番札所「薬王寺」の元社との記述が確認されますが、本当にそうだったのでしょうか。 ちなみに海陽町芝にある北山薬師如来は三姉妹であるとされ、上から順に能山薬師、北山薬師、日和佐の薬王寺らしいのです。 海陽町大井字能山の隣に「姫」があり、当地にある池姫神社の祭神は瀬織津姫命です。 阿波志に「立池祠 在大井村 即龍祠称姫明神 林木うつ然其中在池 長四十歩 土人雫」とある池姫社は瀬織津姫命を祀り雨乞いと片目魚の伝説で名高く、姫の地名もこの社名に因んだものと思われる。聖神社・杉尾神社・御崎神社は、それぞれ大井・姫・能山の氏宮であるがその由緒も創建年代も不詳である。(海部町史より) ちなみに大井地区の神社と祭神 〇大井 聖神社 祭神 聖神 由緒不詳 享保12年(1727年)棟附在 杉尾神社 祭神 大巳貴命 由緒不詳 池姫神社 祭神 瀬織津姫命 由緒不詳(姫の氏神) 御崎神社 祭神 猿田彦命 由緒不詳(能山の氏神) 薬王寺のある日和佐町(現在の美波町:旧 日和佐浦)の旧郷名は「和射」ですが好字二字令時に変わった可能性もあります。 あくまで想像ですが、もともとは日和射(音的には、「日鷲」や字意的には「日向」)だったのかも知れません。(もう少し北に行けば鷲敷や鷲の里などもありますしね) 薬王寺は、寺伝によれば、神亀3年(726年)に聖武天皇の勅願により行基が創建とあり、弘仁6年(815年)には平城上皇の勅命によって空海(弘法大師)が本尊として薬師如来を彫り再興したとされます。 文治4年(1188年)火災により堂塔を焼失した時に本尊は奥之院の玉厨子山に自ら飛んで焼失を逃れたという伝説があります。 後に、後醍醐天皇により堂塔が再建され、本尊が新たに彫られましたが、元の本尊もこの時に飛んで帰り後ろ向きに厨子に入り自ら厨子を閉じたとされ「後向き薬師」と称されています。元の本尊は以後秘仏となったため本尊が二体あります。 嵯峨天皇、淳和天皇などからの信仰は厚く、歴代天皇が厄除け祈願のため勅使を下向させています。嘉禄2年(1226年)には土御門上皇が訪れました。 ふむふむ、このパターンは…(´・ω・`) ここにも空海(弘法大師)の説話があり、眼前に広がった空と海が名前の由来になったとも言われていますが、この日和佐にはまだまだ空海に纏わるエピソードがあるようです。(なんか隠してあるかな) 余談ですが、神武天皇の兄に稲飯命(いなひのみこと)が居ますが、土成町浦池は稲井(いない)氏の密集地ですね。 次回は『古事記』の本系譜からの考察と今回の項の集約を進めたいと思います(´・ω・`)ノ

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  • 09 Nov
    • 「宇気比」から考察 ①

       ◆宗像三女伸(多紀理毘売命・多岐都比売命・市寸島比売命) うけい(うけひ)は、古代日本で行われた占いである。宇気比、誓約、祈、誓などと書く。ある事柄(例えば「スサノオに邪心があるかどうか」)について、『そうならばこうなる、そうでないならば、こうなる』とあらかじめ宣言を行い、そのどちらが起こるかによって、吉凶、正邪、成否などを判断する。日本神話では、重要な場面で誓約が行われている。(wikipedia うけいより抜粋) アマテラスとスサノオの誓約(アマテラスとスサノオのうけい)とは、『古事記』や『日本書紀』に記される天照大神(アマテラス)と建速須佐之男命(スサノヲ、日本書紀では素戔嗚尊)が行った誓約(占い)のこと。 ●あらすじ (古事記) 伊邪那岐命(イザナギ)が建速須佐之男命(スサノヲ)に海原の支配を命じたところ、建速須佐之男命は伊邪那美命(イザナミ)がいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」と彼を追放した。 スサノオは、姉のアマテラスに会ってから根の国へ行こうと思い、アマテラスが治める高天原へ昇る。すると山川が響動し国土が皆震動したので、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、武具を携えて彼を迎えた。 スサノオはアマテラスの疑いを解くために、宇気比(誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の三柱の女神(宗像三女神)が生まれた。 この三姉妹の女神は、アマテラスの神勅により海北道中(玄界灘)に降臨し、宗像大社の沖津宮、中津宮、辺津宮、それぞれに祀られている。 多紀理毘売命 - 別名:奥津島比売命(おきつしまひめ)。沖津宮に祀られる。 多岐都比売命 - 中津宮に祀られる。 市寸島比売命 - 別名:狭依毘売命(さよりびめ)。辺津宮に祀られる。 次に、スサノオが、アマテラスの「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の五柱の男神が生まれた。 左のみづらに巻いている玉から 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命 かづらに巻いている玉から天津日子根命 左手に巻いている玉から活津日子根命 右手に巻いている玉から熊野久須毘命 これによりスサノオは「我が心清く明し。故れ、我が生める子は、手弱女を得つ。」と勝利を宣言した。(wikipedia アマテラスとスサノオの誓約より抜粋) 『日本書紀』でも多少の違いはありますが、概ね同様の内容となっております。  この「宇気比(誓約)」という非常に解釈の難しいテーマからの考察なのですが、個人的には「天照大御神=卑弥呼説」として考えており、いわゆる魏志倭人伝に、 「名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。」 「名を卑彌呼といい、鬼道に従い、よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。」 とあるように、卑弥呼には「夫がいない」と記されています。 また、「記紀」にも天照大御神が俗にいう「結婚をして実子を生んだ」という表現は一切書かれておりません。(あくまで「宇気比」で子を得たとする) 現在もよく使われる「娶る」(め・とる)という表現も、読んで字の如く「女を取る」=妻として迎えるという意味で、対義語も「嫁ぐ」(とつ・ぐ)であり、家の女になる=夫の家族の一員になるということ。 要するに、男性的視点からの表現言葉なのです。 例え天照大御神が実際に結婚していたとしても、女性神であり皇祖神でもあるという立場から、その表現が難しかったのかも知れませんが、ここは魏志倭人伝の内容を信頼して考察を進めて参りたいと思います。 まず基本知識のおさらいとして、天照大御神とスサノオは共にイザナギの子であり、それも古事記的には、左目と鼻を洗ったときに出現した姉弟です。 これも記述的には、「イザナギの妻であるイザナミから生まれた」とは書かれていませんし、イザナミが死んだ後、黄泉の国から逃げ帰って来たイザナギが「禊祓」をした結果として化生した神です。 ですから、実際は天照大御神とスサノオも同父母姉弟であるかすらわかりませんが、もし同父母姉弟であった場合はいわゆる全姉弟婚ということになり、古代(現代でも)においてもタブー婚とされますので、「宇気比(誓約)」で生まれたとされる子(五男三女)等も存在し得なかったはずです。 まずそこに疑問を持たなければ後の系譜考察に支障を来たします。 いわゆる一般的な常識で物事をまず考えてみるという視点ですね。 また、天地開闢から神世七代までの話からはいくら考えても得られる情報は少ないと思いますのでこの時点での考察は致しません。 ではこの「宇気比」はどう解釈すればいいのでしょうか。 阿波の歴史についてたいへん詳しく研究されておられるぐーたら氏によるブログ「ぐーたら気延日記」の「まとめ:大宜都比売命の裔(6)」の記事から「粟国造粟飯原氏系図」という貴重な資料を拝借させて頂きまして… こちらの資料から考察させて頂きますと、 天照大日孁貴命=撞賢木厳之御魂天疎向津比賣命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)、これだけでもご飯三杯行けそうな内容では御座いますがここはサラッとスルーして今回はこちら… 月夜見命=健速須佐之男命=勝速日命 あまり多く載せると検証考察が膨大になっちゃうんでまずはここから… この月夜見命に関しましては、養蚕や五穀の起源の話として『古事記』ではスサノオと大宜都比売の話が『日本書紀』では月夜見命と保食神の話になっており、月夜見命はスサノオとエピソードと重なることから、同一神と考えられても不思議ではありません。 更に天照大御神は月夜見命の凶行を知って「汝悪しき神なり」と怒り、それ以来、日と月とは一日一夜隔て離れて住むようになったという話からも、結局のところ月夜見命もスサノオも天照大御神から嫌悪感を抱かれ距離を置かれたことになります。 月夜見命は、「三貴子」といわれながらも、実際はイザナギに「夜の食国」を治めるように命じられたこと以外、後の話や系譜にも表れず、事績が全く分からないことからも、スサノオと同神説は十分にあり得るといえるでしょう。 そもそも”月を読む”のは潮汐と密着する「海」と深い関わりがあると考えられます。 問題はその次に書かれてある「亦云 勝速日命」なのですが、一般的に「勝速日命」とは、 『古事記』では正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命 『日本書紀』では正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 『先代旧事本紀』では正哉吾勝々速日天押穂耳尊 …と表記されるいわゆるスサノオとの「宇気比」により生まれたとされる天照大御神の”子”天之忍穂耳命のことなのです。 この天之忍穂耳命と高御産巣日神の娘である栲幡千千姫命との間にできた子が天火明命&瓊瓊杵尊の兄弟であり、いわゆる「天孫」なのです。 また次の項の系譜に、 …大国主神 → 積羽八重事代主神 の妃神に、粟国魂大宜都比賣神の名が見え、上下二段に分かれてるので判りやすく引っ付けると、 「亦名 栲幡千々姫命」となっています。 この栲幡千々姫命の父である高御産巣日神は造化三神であり… ※左側に「古事記の系譜」と一緒に天火明命から右側に「海部氏系図」を合わせて載せておきます。(伊邪那岐から神武天皇までの系譜なので見事に大国主命や事代主命の名は見えませんね…) …通常の系譜からすれば、まず在り得ない程世代が離れています。  この時点で現実的には眉唾な存在ですが、この姫がいなければ「天孫」すら存在しないため、後の系譜が全部ウソになってしまいます。 この造化三神である高御産巣日神と神産巣日神は、今回のような形や天若日子の話、また大国主命の話などでちょくちょく出現しますので、本来の系譜よりはずっと世代が近い存在であるのかも知れませんが、またその逆にイザナギ・イザナミ以前の神であるこの二神は存在自体が詳らかではないため、話の辻褄合わせのために都度出現させたともいえます。 その高御産巣日神の子である栲幡千々姫命は、「粟国造粟飯原氏系図」では、積羽八重事代主神の妃である大宜都比賣としています。 しかし通常の系譜にすんなり当てはめてしまいますと、栲幡千々姫命(=大宜都比賣)と、天忍穂耳尊(=スサノオ=事代主命)の子がニニギとなり、この考え方だと大国主命は存在せず、また逆に神武天皇から考えて、大物主神(=事代主命とされる)の娘である比売多多良伊須気余理比売が神武天皇の妃で、綏靖天皇を生む訳ですから、この世代間にもいくつかのトリックが施されているはずです。(なかなかすんなりいかない) 普通に考えて、神武天皇の妃が事代主命の娘であるとするならば、イザナギ(1代)から神武天皇(7代)までの系譜は現実的にはもっと狭く短いはずなのです。 特に「古事記」におけるスサノオの系譜は、6代孫が大国主命(大己貴命)、その子が事代主命としているのも、神武天皇までの世代間の辻褄を合わせるためにわざと系譜を引き延ばしている風にもみえるのです。 なぜそう言えるのかというのは、スサノオの6世孫である大国主命が娶る正妻が、須勢理毘売であり、スサノオの娘なのです。 また、考え方として、上にある「粟国造粟飯原氏系図」のように、「宇気比」により生まれたとされる天照大御神の”息子”の天忍穂耳尊が実際はスサノオであったとするならば、同時に派生した残りの四男神も実はスサノオの一面を別神格化させたものとも考えることもできます。 そもそも通説ではスサノオと同父母とされる姉の天照大御神との間にできた「実子」などあり得ませんから、魏志倭人伝に記されてある卑弥呼の「無夫婿」=「夫はない」と一致するということにも繋がるのです。 では「記紀」にある「天孫」とは誰ぞや …という話になりますが、まずは外堀から埋めていくことにします。 「記紀」にある「宇気比」によって生まれたとされる子は、天之忍穂耳命ら男神以外にもスサノオの子とするいわゆる「宗像三女神」がいます。 この宗像三女神はそれぞれ結婚し子をもうけており、 多紀理毘売命は、『古事記』によると、大国主神との間に阿遅鉏高日子根神と下照姫を生んだ。 多岐都比売命は、『先代旧事本紀』によると、大己貴神に嫁ぎ、八重事代主神と高照光姫命を生んだ。 また『古事記』に、「大国主の神、また、神屋楯比売の命を娶りて生みし子は、事代主の神。」とあるように、双方合わせると、多岐都比売命は神屋楯比売であるといえます。  最後の市寸島比売命の考察が難しいのですが、 元伊勢として知られる籠神社では、社の祖神である彦火明命と夫婦として絵馬になっており、「海部氏勘注系図」によると、市杵嶋姫命の亦名は佐手依姫命、息津嶋姫命、日子郎女神とあり、その子に穂屋姫命の名が見えます。 『古事記』イザナギ・イザナミによる国生みの中で、対馬国の神名に、天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)とあり、阿波国の神である大宜都比売と同様に、国名神と神名とが一致するという共通点が見受けられます。 また、市杵島神社の説明板に「邇邇芸命の降臨に際し、養育係として付き添い、邇邇芸命を立派に生育させたことから、子守の神さま、子供の守護神として、崇敬されている」と書かれてあります。 この市寸島比売命は、弁才天とも同一視され、芸能の神として身近なところに祀られています。 宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は官幣大社で現在は別表神社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。また、あらゆる道の神としての最高神、貴(むち)の称号を伊勢神宮(おおひるめのむち)、出雲大社(おおなむち)に並び持ち、道主貴(みちぬしのむち)と称す。神宝として古代祭祀の国宝を多数有し、裏伊勢とも称される。 2017年(平成29年)、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、世界遺産に登録された。(wikipedia 宗像大社より抜粋) それでは、宗像三女神をお祀りしている「宗像大社」(宗像三社)の位置をご覧ください。 この位置関係から、「スサノオの三人の娘」がどのような存在であったのかが浮かんできたように思えます。 つまりこのことでまず考えられることは、 「スサノオ一家はみな渡来人」、もしくは、「スサノオが連れて来た渡来人」 こう考えると、天照大御神の存在や「記紀」にある「宇気比」の意味、その頃の習俗的な慣習に基づいた考え方や「記紀」編纂時期の世情も絡んでいると想像できます。(日本国の「天皇」の話に、実は皇祖神のどちらか(もしくは両神)は朝●人とは書けませんわね。) 話を市杵嶋姫命(佐手依姫命)に戻しまして、 「海部氏系図」にある市杵嶋姫命の子の穂屋姫命は、同父である天火明命の子、天香語山命との間に天村雲命をもうけており、更にその子に倭宿禰(珍彦=倭国造の祖など)がいます。 ※これより私説となりますので、ご注意ください(´・ω・`)ノ これまでの考察により、天村雲命=天五多底命=五十猛命(スサノオの息子)なのですから、その父であるのはスサノオ、つまりこの場合、天香語山命がスサノオに対応することになります。 しかし上の図を見ればわかるように、通常の見方をすれば、佐手依姫(=市杵嶋姫命)はスサノオ&天照大御神との子なのですから、更にその子である穂屋姫命、つまりスサノオからすると「孫」を娶っていることになり、また、天道日女命の系譜からは大屋津姫(古事記では五十猛命の妹)、つまりスサノオの「子」を娶ることになることから、この場合、天香語山命もしくはその両妃神のどちらか(両方もあり得る)が系譜を引き延ばしてあると考えた方が自然です。 しかし「天村雲命(五十猛命)の父がスサノオ」という観点から、例えば、これを一代遡らせてみるとどうなるでしょうか。 この場合、スサノオは天火明命に対応し、妻はスサノオが「宇気比」により得た子である市杵嶋姫命になります。 この系譜どっかでみたような気がしませんか このブログを読む奇特な方だけしかわからないはずですが ◆大山津見神家ファミリー図 これは以前ご紹介した「櫛名田比売から考察」の考察図です。 この場合の子とされる櫛名田比売を娶ったのはスサノオであり、これが市杵嶋姫命に対応します。 神大市比売に対応するのが天道日売命となり、これが同父の異母姉弟であったとするならば、スサノオと天照大御神(神大市比売=天道日売命)の宇気比により得た子市杵嶋姫命(櫛名田比売)となり、その子に五十猛命(天村雲命)がいる系譜が成り立ちます。 また、これをそのまま次代の天香語山命の代に適用して考えてみても、天村雲命の弟が同父異母の熊野高倉下であること、そして天照大御神(卑弥呼)には実子がいないわけですから、スサノオ(この場合天香語山命)は自身の息子である五十猛命の妹と記されいる大屋津比賣命(スサノオの娘)を娶っていることになります。 要するにここでも妃神を入れ替えただけの「スサノオが自身の娘(実子とはいっていない)と同系の一族妻を娶るパターン」の同じことを繰り返していることになるのです。 なんのこっちゃわかりにくいので下図にします つまり、天火明命の代と天香語山命の代はそれぞれスサノオの妃神を入れ替えただけのトリックといえます。 『「宇気比」により得た子が実子ではないが同族ではある』と仮定すれば、実子の枠から解放され、考え方とすれば随分と無理がなくなってきます。 で、この場合の「宇気比」は、恐らく、渡来系氏族による同族養女縁組であろうと考えられます。 「宇気比」で得た天照大御神側の男神側についてはもう少し検証考察が必要ですが、そもそも「宇気比(うけひ)」は「ウカ」(宇気)とも関係があるようにも思えます。(豊宇気比売命とも通ずる感がある) 天照大御神とスサノオとの「宇気比」の所作も、剣や勾玉を口に含んで化生させますから、御食と繋がる何らかの意味も含んでいるかも知れませんね。 では懲りずに現時点での系譜埋め埋めをしてみますが、(間違っていても気にしない。その都度考察しながら修正していきまする(`・ω・´)  今回海部氏系図の方から埋めてみましたが、太枠が今回の考察による分で、粟飯原氏系図分は対応名のみ入れてみました。 どんどん纏めて絞れてくればいいんですが…(;´▽`A`` ある程度纏まりそうになれば、スッキリ系譜整理をしてみますね。 次は「古事記」側の系譜からも考察してみます。(´・ω・`)ノ

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  • 30 Oct
    • 薩摩から考察

       薩摩国(さつまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。 ●沿革 大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、10月3日までに唱更国(はやひとのくに)が置かれたのが、薩摩国の始まりである。唱更の更は、中国の漢代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、唱更は辺境の守備にあたることをいう。 国名は、大宝4年(704年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。 7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。それは、文武天皇3年(699年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、衣評督である衣君県も加わっていた。(wikipedia 薩摩国より抜粋) 平城京から発掘された木簡を調べてみますと、 天平7年(735年10月)、「阿波国那賀郡武芸」は恐らく現在の海部郡牟岐(むぎ)から堅魚(かつお)を6斤調したとあり、また、「阿波国那賀郡薩麻」より同じく堅魚を6斤調したとあります。(□平七□と歯抜けになっていますが、天平は七十年もないので那賀郡から同年で堅魚を納めたと思われる) この「那賀郡薩麻」は現在では見当たりませんが、堅魚を納めることができるのは広い那賀郡の中でも海側であるはずです。 また当時の「那賀郡」は、現在の徳島県南域に広がっており、後に海部郡が分かれてます。 地名辞典である『日本歴史地名大系37 徳島県の地名』(平凡社、2000年)でも、那賀郡の地名として「薩麻駅」が立項されていますが、「比定地は不詳」とあるようです。 しかしこのヒントは以外にも讃岐國大内郡にある倭迹々日百襲姫命を祀る式内社 水主神社が所蔵する大般若経奥書に阿波州「海部郡薩摩郷」の文字があることが確認されました。 水主神社には2種類の大般若経が伝来しており、ひとつは内陣(ないじん)に安置されていたといわれるもので、国指定重要文化財となっています。 経函の墨書には「箱ノマハリノ木ハ皆阿州吉井ノ木工ミ成法之助成也」とあり(『大内町史』上巻、大内町、1985年)、現在の阿南市吉井町・熊谷町方面との交流が伺えます。 他のひとつが外陣(げじん)に安置されていたといわれ、未だ奥書の全体は紹介されていません。 1~11巻の奥書には「阿波州海部郡薩摩郷」などの文言が記されており、八幡宮に奉納されたと記されています。 これらを含む80巻までは「藤原朝臣冨田沙聖蓮」を檀那として書写され、讃岐へ運ばれ、この時81巻は「海部多羅多門坊」にあったようです。 徳島新聞長谷川賢二氏によると、80巻までが、1398~99年(応永5~6)に阿波国海部郡薩摩郷八幡宮に奉納されたものであるらしいのです。 どうやら薩摩郷は海部郡にあったと見るべきで、そこには八幡神社があったことになります。 薩摩郷についてですが、郷土史家 浪花勇次郎氏の遺品の一部から、「地理を調べてみると海部川下流川西・川東両村跨っての地事らしい」と所見を記しています。 また、「貴地海部川沿岸の多羅、冨田等いふ地名を書きある関係上薩摩郷は仝川沿岸の一地方名なりし」と見解を述べています。 この「冨田」「多羅」は現在も「富田」「多良」として、共に海部川下流域に存在します。 「香川県大内町水主神社の大般若経と浪花勇次郎」より概ね抜粋 徳島県立博物館 No. 46博物館ニュースにも同様のことが記されています。 ◆富田・多良 余談となりますが、徳島県埋蔵文化財センター20周年記念シンポジウムの記事によると、同郡同郷から御取鮑を出した海部里阿曇部大嶋・若万呂の名が見え、大化前代には長国造支配域に所在した那賀郡の那賀川流域及びその海岸部の一部には海部が分布し、阿曇部に統括されて堅魚や鮑の海産物を収取して貢納していたと考えられている。 …とあります。 また、隠伎国における海部の動向及び阿曇氏による統括の関係も確認できるとあり、少し調べてみますと、物部氏に特化したサイトである「天璽瑞宝」によれば、 ・阿波国那賀郡海部郷 物部首魚万呂 奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』19-26下(283)  ・隠岐国海部郡海部郷 物部首魚万呂 (同上) ・安芸国佐伯郡海部郷 物部首魚万呂 (同上) ・土佐国高岡郡海部郷 物部首魚万呂 (同上) ・筑前国怡土郡海部郷 物部首魚万呂 (同上) ・筑前国那珂郡海部郷 物部首魚万呂 (同上) ・筑前国宗像郡海部郷 物部首魚万呂 (同上) …が見えます。(上記の国や位置・郷名はなかなかに興味深いです) 「道は阿波より始まる」その一、事代主命 ゑびすさんの項に、 海人族の大王。この事代主命が山分けの天蚕より釣糸に使用する「てぐす」を開発しました。勿論絹糸を紡ぐ過程より発見したのでしょうが、これより急速に一本釣漁業が阿波国に発展し、近世に至るまでわが国漁業の指導を阿波人が行い、九州地方まで漁場をもつようになったのです。  (中略) 海人族が近世ナイロンが出現するまでの間、古代よりの利権でてぐすを独占し、瀬戸内海の沿岸諸国、島々は勿論、九州地方沿岸の島々、最盛期にはてぐす舟二十四船を数え、朝鮮地方沿海州までてぐすと共に一本釣りの仕掛けを配布していました。「ゑびす大明神」として全国津々浦々の漁師が奉祀するのも当然です。 同書「阿波と漁業」の項では、 我国の漁業はちょっと考えると、九州地方から発達したように見られがちです。博多の中州、長崎と五島多くの漁業関係の人々が集まっています。が現在の様な漁港の姿は日清戦争以後、阿波国南方の漁民がこの地方に移住し、漁業を開拓した結果です。日露戦争の時にも九州の人では漁ができないと、阿波漁民が大挙手押しの櫓舟で朝鮮半島迄も出かけたのは有名な話で、漁民の古老に当時の話を聞くと大変面白いことばかりです。口伝により海すじ、風すじを知る水子のみが我国の海運と漁業を独占していました。その名残が九州地方の各漁港を阿波人が我がもの顔に使用している現状の姿です。 …と記されており、歴史調査とは関係なしに現地で海部郡の漁師に雑談程度で伺ったところ、「五島列島に親戚が居る話」や「ここの漁師が漁の仕方を教えた」等といった話が普通に聞けました…(´・ω・`)岩利大閑すごいね …話が逸れました。 さて、肝心の薩摩郷の話ですが、海部町史に、 「そもそも阿州海部郡薩摩の郷 北山薬師如来は行基菩薩日本行脚し給う時この鷲木を以て御長弐尺壱寸の薬師の尊像を…」(芝北山薬師如来御由来記/明治30年3月12日 谷口小酔文) …とあり、明治後期でも「薩摩郷」という言葉が通じていたことになります。 つまり、北山薬師如来があった芝は薩摩郷ということ。 ◆芝は薩摩郷 芝というと高園、野江とあわせて3ヶ村と言われ海部族の根拠地と呼ばれるところでもちろん海部川下流域です。 また同町史に、 「北山薬師如来は地蔵寺末で元梅木谷の丘の上にあり地蔵寺境内(現在地、芝)に遷しさらに現在地に堂宇を新築移転したもので、明暦(1655~1657)の棟附帳に…その頃の開基であろうか。5代に亘って庵主が住み後無住となっている。」 …ともあり、元の場所は、芝字梅木谷にあったようです。 ネット検索によると、「薩摩」の読みの「さつま」は、 「狭詰」又は「狭端」から来ているものと思われ、詰まった地形、奥まった所…を意味します。 …とあり、「はしっこ」の「狭いところ」が「薩摩」と呼ばれた可能性が高いです。 そもそも当地は徳島県(阿波国)の南の端っこです。 日向国(ひゅうがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。 『古事記』の国産み神話においては、筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見えるが、日向の記載はない。なお、『日本書紀』にはこの記述はなく、『先代旧事本紀』では筑紫国、豊国、肥国、日向国の4面を挙げている。(wikipedia 日向国より抜粋) 大隅国(おおすみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。 ●沿革 大宝2年(702年)8月1日の薩摩・多褹叛乱を契機に、同年日向国を割いて唱更国・多褹国を設けたのが先行してあり、その流れの中で大隅国は和銅6年(713年)4月3日、同様に日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡を分けて設けられた。 令制国が成立する以前は襲国(そのくに)とも呼ばれた熊襲の本拠地であり、後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、隼人勢力の弱体化を意図して行われた。(wikipedia 大隅国より抜粋)現在は宮崎県の故国が日向国とされているようですが、wikipediaの記述を纏めますと大宝律令(701年)直後の日向国は、 ・襲国(そのくに)(律令以前) →熊曽国 →日向国(~701年?) →日向国・唱更国・多褹国(702年) →日向国・薩麻国・多褹国(704年) →日向国・薩摩国・大隅国・多褹国(713年以降~8世紀半頃) これを見ると反乱などもあったりしたので、短期間で急速に鎮圧・律令化がすすめられた感じがしますね(´・ω・`)  熊曽国の「熊」は恐らくのちに分国した大隅国の「隈」(くま)と同じで、奥まったところ・すみという意味で、「曽」も「襲」と同じく、重ねると同意です。 「薩摩」については、大和朝廷時代の我が国の西の端っこにあたる九州(筑紫島)のそのまた南端にあるという位置関係からしても字義とする薩摩にも共通しますね。 次に、芝の隣の集落である「中山」にのみ、左津前(さつまえ)という姓の一族が住んでいます。 この中山には王子神社があり、川西村史によると、近くの真光寺の襖張替のときに裏張りの中から見つかったという、地元の家に伝わる文書があります。 これによると、 「抑当村王子大権現は往古海部拾八ヶ村浦里氏宮にて御座候所、右社及大火候其後鞆浦大宮村へ守廻し拾八ヶ村、浦里惣氏に奉崇候然る所当村王子大権現御神体及大破に、再建仕度候得共少氏の事故再建難出来何卒多力を以再建、成就仕度義に御座候不拘多少勧化御志の程奉希候以上」 …とあり、中山村の王子大権現が大火にあったため、再建するまで鞆大宮村に守廻したと書かれています。 この王子神社の御祭神は国常立尊で、阿波志に、 「王子祠、在中山村。藤原宗寿置二一村共祀。天正中羅兵火、柱礎猶存。萬治二年(1659年)重造。又有蔵王・円山・三宝祠。」とあります。 藤原宗寿は永禄年間(1556年)に鞆城を築いた越前守海部友光のこと。 海部町史には、 おそらく王子神社は、友光が吉野城にいた頃、吉田支城の近くの中山村に、その支配する二十一村浦「中山・居敷・櫛川・吉田(富田)・大井・高園(野江・芝)・姫・能山・若松・相川・神野・小川・平井・吉野・熟田・多良・四方原・大里・奥浦・鞆浦・浅川」の氏宮として創建したのであろう。 …と考察を書かれておりますが、これまでの上記の件を信じるならば、当社は大火にあい、その時に大般若経奥書も焼失した恐れがあります。(ひょっとしたら残っているのかも知れませんが…)  「大宮」村の名がここで出てくるということは、この時に八幡神社が創建されたのではなく、すでに当地には和奈佐意富曾神社があり、恐らくそこに一時的に中山の八幡神社が移設・遷座されたのではないかと思いますが、思うようには再建が叶わなかったようです。 後に中山の八幡神社は王子神社としてリニューアル、当の八幡神社は現在地の海陽町大里松原に和奈佐意富曾神社と共に移設されたのではないでしょうか。 また、中山村から南下した先の「居敷」には、神子ヶ谷という地名も残り、この先から和奈佐へ抜ける山道「居敷越え」が今も残ります。 この居敷の明神谷の轟神社は、 阿波志に「蛇渕、在中山石敷谷、巾三丈長六丈、其深不可測、飛泉注此、有龍祠、称轟、土人乞雨、側有石蛇巻、又石涯有馬蹄痕、又穴中有応潮泉」 …とあり、祭神は水象女命といわれ、創建年次も由緒も不詳ですがどこにあるかは未確認。 上記件から推察するに、海部郡薩摩郷の比定場所は、 赤丸の範囲ではないかと思われます。 A:芝=薩摩郷内にあった地域 B:中山=左津前姓が住む唯一の村、王子神社がある C:居敷=「狭詰」又は「狭端」った場所であり、地名的にも怪しい場所 要するに「中山」のぐるり周辺だったのではないでしょうか。 また推測ですが、『日本書紀』一書四にある「日向襲之高千穂添山峯(ひむかのそのたかちほのそほりのやまのたけ)=一つ別に存在する山」ではないでしょうか。 宮崎県・鹿児島県に比定されている諸氏は、霧島山の高千穂峰以外に考えることは不可能とか「記紀」を読むとそうなるし、真剣に考えもしないで、天孫降臨の山を勝手に規定することは誰にもできない等々…信じて止まないのでしょうが、これは当時の大和朝廷の施策にまんまと騙されているのです。 和名類聚抄に薩摩国 阿多郡の名が見え、また、  大隅国に吾平津媛を彷彿させる姶羅郡(あいらぐん)があります。 『日本書紀』本文-8及び、一書四、第九段一書六-3等にある「吾田の長屋の笠狭の岬(御碕)」や、第十段本文-4、「火闌降命は吾田君の小橋などの祖先です。」や、神武天皇即位前紀-1に、「15歳で太子(=日嗣の皇子)となりました。その後、日向の国の吾田邑の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶って妃として手硏耳命が産まれました。」…等々記されています。 このことにより神武天皇東征の縁を説かれる方々が後を絶ちませんが、これらは全て後世の付会のはずです。 考えてもみてください。 なぜ、初代神武天皇の故郷である日向が700年前後の大和朝廷により再び鎮圧されなければならないのでしょうか そもそもその神武天皇が作り上げてきた国造りであるはずなのに、なぜ反乱を起こすのでしょう。 只単にまだ朝廷の力が及ばぬ地域であったが故に、平定されるに至っただけなのではないでしょうか 古くは景行天皇、倭建命、仲哀天皇などの話にもあるように、九州南部の隼人族は最後まで大和朝廷に抵抗した民族ではなかったでしょうか 上記律令からの国の制定年代を見ても世情背景から鑑みても、この実在する阿波国海部郡薩摩郷の地名と、「記紀」に見られる阿多=吾田(おそらく式内社(論社) 阿津神社(祭神:木花開耶姫命の別名は、神阿多津比売)周辺地の相川・神野辺りと推測)、広義としての「日向」はこの場合、恐らく阿波剣山系東南部長國域の海沿いであったと推定されます。 九州東南部を阿波に見立てた場合の丁度日向国の範囲と被りますね(´・ω・`) ここでもオリジナルがどこであったかお分かり頂けるのではないでしょうか(´・ω・`)

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  • 28 Oct
    • 天孫降臨 Vol.徳島県南部

       『古事記』天孫降臨に、 「故爾詔天津日子番能邇邇藝命而 離天之石位 押分天之八重多那此二字以音雲而 伊都能知和岐知和岐弖自伊以下十字以音 於天浮橋 宇岐士摩理 蘇理多多斯弖自宇以下十一字亦以音 天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣自久以下六字以音 故爾天忍日命 天津久米命 二人 取負天之石靭 取佩頭椎之大刀 取持天之波士弓 手挾天之眞鹿兒矢 立御前而仕奉」 「さてそこで、天つ神に命じられたホノニニギは、高天原の岩座を離れ、天に八重にたなびく雲を押し分け、堂々と道をかき分けかき分けて天の浮き橋に立ち、そこから筑紫の日向の、高千穂の峰に天降りされた。 そのとき天忍日命(アメノオシヒ)、天津久米命(アマツクメ)の二人は立派な靫を背負い、頭椎の太刀を腰に着け、櫨弓を持ち、真鹿児矢を持って、ホノニニギの先に立ってお仕えした。」 …古事記現代訳をみても、この「久士布流多氣(くしふるたけ)」については比定が難しくよく分からないみたいで、多くの翻訳サイトをみても殆ど訳されていないようです。 この「久士布流多氣」なのですが、 邪馬台国四国山上説の大杉博氏は、「髪(くし)のように降る滝」と訳され、恐らく友内山の鳴滝(つるぎ町貞光成谷)に比定しておられるようです。 この滝の上から太陽が昇った様を「槵日(くしひ)」が差し込める珍しい自然の造形の形容であるとしておられるようです。 この場合の天孫降臨のルートは三里四方の霊地とされている友内山から舞中島へ向かうコースとなります。 ◆鳴滝 ◆大杉博氏説天孫降臨ルート しかし、太陽は時間や季節により角度や位置が変わってしまう上、久士布流多氣の「氣」の音読を「キ」と読まれています。 例えば、神名である「大気都比売」の読みは「オオゲツヒメ」で、「気」は「ケ」と読みます。 つまりこの場合は通説通り、「ケ」と読み、「クシフルタケ」であると思われるのです。 次に、「記・紀の説話は阿波に実在した」の著者髙木隆弘氏は、高千穂は、阿波三山の一つ阿南市にある津乃峰山とし、くじふる嶺(たけ)はその西側にある阿南市内原町櫛ヶ谷であると比定しておられます。 「韓国に向かい」の韓国は伊島のこととし、阿波志に「国初獲す所韓人を放つ其英裔分かれて四十八戸と為る血相多し」とあり、伊島は漂着民の郷であったという伝承が残っている。 また、「笠沙の御前」は蒲生田岬の東沖の伊島の対岸の和歌山県日の岬とを結ぶ海の形状を笠に例えたもので、「槵日(くしひ)」は、太陽が津乃峰山に遮られた時に櫛状になる情景で、二上峰・添山(そおりやま)とは二つの峯がある山のこととしています。 ◆髙木隆弘氏説の天孫降臨地 その他にも「日向」の宮崎県や「筑紫」である福岡県の説もバリエーション豊富で、多士済々の比定考察をされておられるようです。(基本は高山に比定される方が多い) では、徳島県南部に天孫降臨をしたのであればどのようなルートであったのでしょうか。(※これより私説となりますのでご注意ください) 剣山、美馬市木屋平と隣接する那賀郡那賀町「岩倉」 「離 天之石位」、この地より離れたニニギ達一向は、まずは坂州木頭川沿いに降り、「伊都能知和岐知和岐弖」=道別に道別きて来たのでしょう。 「天の八衢」となる那賀町「出合」で猿田彦命と遭遇します。 これより猿田彦命の案内を受けます。 この「出合」にある神明神社を境に、北にニニギを祀る白人神社、南の集落地である平谷地区に「御所谷」の地名が見えます。 また、平谷八幡神社例大祭は奇祭としても有名。 ハコ、ヒゲと呼ばれる独特の白塗り化粧した若連が神輿を、鼻高と天狗がそれ等を先導します。 ◆乙女の舞 天の八衢の”やちまた”とは「方々へ行く道の分岐点」のこと。 ここが天孫降臨の途中にある「宇岐士摩」(うきじま)と予想。 高山地ではあまり見られない地形です。 現在の出合橋付近に浮橋(かずら橋のような原初の橋)が架かっていたのではないでしょうか。 那賀町平谷(旧海部郡中木頭村)から那賀川支流に沿って海川(かいかわ)へ抜け、今度は一気に南下。 とんでもないような道ですが、往古より古道が残ります。 霧越峠を越えるいわゆる現在の酷道国道193号線(土佐中街道)です(´・ω・`)  険しき道を通った様子を『日本書紀』には次にように記されています。 「而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、頓丘」 「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国覓(くにま)ぎ行去(とお)り」  「膂」:背骨、「宍」:肉=背筋 (せすじ) の肉。 背中には肉が少ないことから肥沃でない土地の意。 この「膂宍の空国」は、「紀」の仲哀天皇条でも出現しており、 詔群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰「天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。…云々 仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討とうと考えたが、神は、神功皇后に神懸かりして言う。「天皇、何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや」 …とあり、熊襲は痩せて取るに値しない国であるので新羅を討つべきだと言う。とあります。 つまり、なーーんもない痩せた不毛の地(国)を通らざるを得なかったということでしょう。 場所としては海川から小川辺りまでのココと推測 本当に険しく何にも無いところです(´・ω・`)… そして最終的に天降りされた場所となる、 『古事記』 竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣 『日本書紀』(本文) 日向の襲(そ)の高千穂の峯 「第一の一書」 筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯 髙木隆弘氏はこの「襲(そ)」を「背(そ)」と解し、津乃峰山の「背(せ・うしろ)」である西側の傾斜地の内原町櫛ヶ谷に比定しているようです。 しかし「背」であればそのまま「背(せ)」でよいようにも思われます。 「襲(そ)」はあくまで「そ」であって、まだ裾(すそ)などとすれば納得ができるのですが、どうもしっくりしません。 「襲」:①おそう。おそいかかる。 ②つぐ。受けつぐ。引きつぐ。あとをつぐ。 ③かさねる。重ね着する。また、重ねた着物。 倭迹迹日百襲姫命の「百襲」もこれなんでしょうね(´・ω・`) 私は「久士」を「櫛」と解釈し、古代の櫛を検索。 ◆彼岸田遺跡出土の横櫛 ◆縄文櫛 ◆上ノ原地下式横穴墓から出土した男女の人骨 頭骨に付いているのは黒く炭化した細い竹ひごを束ねてU字形に曲げ、根本を糸で結わえた竹製の竪櫛。 現代のつげ櫛とほぼ変わらぬ形状ですね(´・ω・`) その「久士(槵)」が「布流(觸)」、「多氣(峯)」が「襲(そ:重なっている)」な訳なのですから、 つまり山々が重なり合ってるように見えつつ、それが櫛が降って来たように見える地形。 まずは上空から 何度もアップしているので見慣れているかもしれませんが、改めてご覧ください。 特に寺山古墳側から南に見る辺りが櫛っぽいですね。 逆向きから(´・ω・`)ノ  「久士布流多氣」とは「櫛降る峯」=つまり、無数の山と谷が交互に重なり合うように連なり、まるで櫛が降ったような地形をした峯のこと。 天下ったとされる先にこのような地形があるところは稀なのではないでしょうか。 北には(狭いですが)平野部を、南には和奈佐が望める大谷山から鈴ヶ峰であろうと推測します。 昔は現在のような国道55号などはもちろん無く、和奈佐や宍喰方面へ行くには専ら馬路越、居敷越、櫛川より芥附に抜ける道などの山越えの古道を使っていました。 次項より更に考察を進めて参りたいと思います(´・ω・`)ノ

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  • 27 Oct
    • 神産みから考察 ②

       前項からの続きですが、ここからは私説ですのでご注意ください(´・ω・`)ノ イザナギを助けた意富加牟豆美命(桃)が、神武天皇を助けた八咫烏であり、賀茂建角身命であると仮定するならば、物語の一連の区切りからするとこの場合、 伊邪那岐=神武天皇 …ということになり、ここで一つの物語を別の物語として創作し、重ねてトレースさせているように思えます。 結局のところ、神武天皇からするイザナギはいなかったのかも知れません。 いわゆる天地開闢からイザナギ・イザナミの代までの話は、普通に読むと国産み・神産みなどは常識的には単純に最も信じ難い内容です。 では、因果性のジレンマといえるいわゆる鶏が先か、卵が先かの議論になるのですが、個人的にはオリジナルはあくまで「三貴子の話」の方であり、その前後にある「神産み」までの話と「神武天皇~開化天皇」までの話にはそれぞれ疑問符が付く点がみられるのです。 ます、イザナギ・イザナミの物語は前項で述べましたように、あくまでダイジェスト版、この時点で普通に事績を詳細に記すと、神の血を継ぐ「天皇」としての意味を失いますので、書けませんでした。 天皇は神の血脈であることを強調する必要があったのです。 そして人皇時代、「記紀」において初代神武天皇については多くの記述があり、最終的にどのようにして奈良県(大倭國)まで東征し、「天皇」というポジションに即位したのかを詳細に記しています。 しかしながらその痕跡を調べていくと大きな矛盾点に遭遇し、大筋の物語の内容はわかるのですが、その過程や経路、考古的な遺物や文化圏・その時代の痕跡等々との一致性が見られない事が挙げられるのです。 そして最大の疑問となる、なぜ筑紫嶋(九州)の日向国(宮崎県)から畿内域の奈良県(大倭國)まで移動しなければならなかったのか、そしてそれがなぜ最終目的地が奈良県だったのか、その根拠が全く理解できないのです。 更に困窮を極めるのが次代の天皇から第9代開化天皇までの事績がほぼ白紙で、突如目が覚めたように第10代崇神天皇から再び詳細な記述が現れるのです。 この「欠史」の部分についての解釈なのですが、事績をほぼ「三貴子の物語」で描き切ってしまったことにより、同種同様のストーリーを別の話として何度も描いてしまうととさすがに嘘臭くなり天皇の存在自体の真偽を疑われてしまう。 そこであえて歴史の若い方である「天皇の時代」の事績を抹消することにしました。 その理由として考えられるのは、往古より引き継がれてきたとする神々の系譜としての歴史の水増しや、700年代当時においての歴史観による諸外国(特に天子の国である中国)との外交に非常に不都合であったと考えられる冊封国(女王時代)の隠蔽工作であると考えられるのです。 今度はそれが「天皇の時代」であってはまずかったのです。 あくまで皇祖「神」として天照大御神を描くことで、いわゆる「隠蔽」をオブラートに包みつつマイルドに変換させたのが稗田阿礼と太安万侶の役割だったと考えられます。 その結果、女王時代の痕跡が点在する阿波、そしてそれが最も残る「倭」の地は歴史上大きくすり替えられ、当時の朝廷に完全に消されてしまうのでした。 この女王時代と根拠地の隠蔽に関しましては更に継続調査が必要と思われます。 ただ一つ言えることは、間違いなく歴史は隠されています。 「道は阿波より始まる」の著者、岩利大閑氏の耳に焼きついている祖母の言葉。  「昔の人はな、阿波で千年、京で千年というんでよ」

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  • 22 Oct
    • 神産みから考察 ①

       ◆伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ) 神産み(かみうみ)とは、『日本神話』にて伊弉諾尊・伊弉冉尊が国産みの後、神々を生み出したことを指す。 ●あらすじ - 古事記 - イザナギ・イザナミはさまざまな神々を生み出したが、火の神カグツチを出産した際にイザナミは火傷で死ぬ。そのためイザナギは怒って迦具土(加具土)神を十拳剣で切り殺した(この剣からしたたった血からまた神々が生まれる)。イザナギはイザナミを探して黄泉の国へ赴くが、イザナミは変わり果てた姿になっていたため、おののいたイザナギは逃げた。イザナギは黄泉のケガレを清めるために禊ぎをしたが、このときもさまざまな神々が生まれた。最後に生まれた天照大神(日の神、高天原を支配)・月読命(月の神、夜を支配)・須佐之男(海を支配)は三貴神と呼ばれ、イザナギに世界の支配を命じられた.。 ●神産み …(中略)… 大宜都比売神(おほげつひめのかみ) 火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ) 別名は火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ) 別名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ) 火の神・迦具土神を出産したとき女陰が焼け、イザナミは病気になった。病に苦しむイザナミの吐瀉物などから次々と神が生まれた。 金山毘古神(かなやまびこのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる) 金山毘売神(かなやまびめのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる) 波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ、イザナミの大便から生まれる) 波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ、イザナミの大便から生まれる) 彌都波能売神(みつはのめのかみ、イザナミの尿から生まれる) 和久産巣日神(わくむすひのかみ、イザナミの尿から生まれる) 和久産巣日神には以下の一柱の子がいる。 豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)  ●火神被殺 イザナギはイザナミの死に涕泣したが、この涙から神がまた生まれた。 泣沢女神(なきさわめのかみ) イザナギはイザナミを出雲国と伯伎国の境にある比婆(ひば)の山に葬った。妻を失った怒りからイザナギは迦具土(加具土)神を十拳剣で切り殺した。 ●黄泉の国 イザナギはイザナミを取り戻そうと黄泉国へ赴いた。 黄泉に着いたイザナギは、戸越しにイザナミに「あなたと一緒に創った国土はまだ完成していません。帰りましょう」と言ったが、イザナミは「黄泉の国の食べ物を食べてしまったので、生き返ることはできません」と答えた。 イザナギは、イザナミがなかなか戻ってこないため、自分の左の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)という櫛の端の歯を折って、火をともして中をのぞき込んだ。するとイザナミは、体は腐って蛆がたかり、声はむせびふさがっており、蛇の姿をした8柱の雷神(八雷神)がまとわりついていた。 大雷(おほいかづち、イザナミの頭にある) 火雷(ほのいかづち、イザナミの胸にある) 黒雷(くろいかづち、イザナミの腹にある) 折雷(さくいかづち、イザナミの陰部にある) 若雷(わかいかづち、イザナミの左手にある) 土雷(つちいかづち、イザナミの右手にある) 鳴雷(なるいかづち、イザナミの左足にある) 伏雷(ふすいかづち、イザナミの右足にある) おののいたイザナギは逃げようとしたが、イザナミは自分の醜い姿を見られたことを恥じて、黄泉醜女(よもつしこめ)にイザナギを追わせた。 イザナギは蔓草(つるくさ)を輪にして頭に載せていたものを投げ捨てた。すると葡萄の実がなり、黄泉醜女がそれを食べている間、逃げた。しかしまだ追ってくるので、右の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)という竹の櫛を投げた。するとタケノコが生え、黄泉醜女がそれを食べている間、逃げた。 イザナミはさらに、8柱の雷神と黄泉軍にイザナギを追わせた。イザナギは十拳剣で振り払いながら逃げ、ようやく黄泉の国と地上の境である黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に着いたとき、坂本にあった桃の実を3つ投げたところ、追ってきた黄泉の国の悪霊たちは逃げ帰っていった。 ここでイザナギは、桃に「人々が困っているときに助けてくれ」と言って、意富加牟豆美命(おほかむずみのみこと)と名づけた。 最後にイザナミ本人が追いかけてきたので、イザナギは千人がかりでなければと動かないような大岩で黄泉比良坂をふさぎ、悪霊が出ないようにした。その岩をはさんで対面してこの夫婦は別れることとなる。 ●禊祓と三貴子の誕生 イザナギは黄泉の穢れから身を清めるために、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門の阿波岐原で禊を行った。衣を脱ぐと十二神が生まれた。 …(中略)… 左の目を洗うと天照大御神(あまてらすおほみかみ)が生まれた。右の目を洗うと月読命(つくよみのみこと)が生まれた。鼻を洗うと建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が生まれた。イザナギは最後に三柱の貴い子を得たと喜び、天照大御神に首飾りの玉の緒を渡して高天原を委任した。その首飾りの玉を御倉板挙之神(みくらたなののかみ)という。月読命には夜の食国(をすくに)を、建速須佐之男命には海原を委任した。(wikipedia 神産みより抜粋) …イザナギ・イザナミ夫婦神は、国産み・神産みの後、三貴子の話へとバトンタッチしていきます。 神産みの話はいわば三貴子の話のダイジェスト版、そしてその話も人皇時代の話のデジャヴのようになっています。 今回は「神産み」から「三貴子の代の話」(上巻最後)に繋がる秘密に迫りたいと思います。 イザナギ・イザナミはたくさんの神々を生んでいきますが、その最後の方で、大宜都比売神(阿波国の女神:五穀の神)を生み、火之迦具土神を生み終えるとイザナミは病気になり死んでしまいます。 死んだときの吐瀉物や大便・尿などから、金山毘古神&金山毘売神、波邇夜須毘古神&波邇夜須毘売神、彌都波能売神&和久産巣日神が生まれ、その和久産巣日神の子である豊宇気毘売神が生まれた後、イザナミは亡くなり、死後に八雷神が現れています。 水神だけ男女神の生まれた順序が逆に書かれているのが気になりますが、要するに五穀の神を生んだ後に「鍛冶」・「土」・「水」・「火」、その水の神から食物・穀物を司る女神を生み亡くなり、「雷」が登場します。 今回取り上げるのはこの中の「土」・「水」と「火」そして「雷」なのですが、 折口信夫氏(日本の民俗学者、国文学者、国語学者)著の 『水の女』 ●六 比沼山がひぬま山であること に、 …みぬま・みつはは一語であるが、みつはのめの、みつはも、一つものと見てよい。「罔象女」という支那風の字面は、この丹比神に一種の妖怪性を見ていたのである。またこの女性の神名は、男性の神名おかみに対照して用いられている。「おかみ」は「水」を司る蛇体だから、みつはのめは、女性の蛇または、水中のある動物と考えていたことは確からしい。大和を中心とした神の考え方からは、おかみ・みつはのめ皆山谷の精霊らしく見える。が、もっと広く海川について考えてよいはずである。 竜に対するおかみ、罔象に当るみつはのめの呪水の神と考えられた証拠は、神武紀に「水神を厳(イツ)ノ罔象女(ミツハノメ)となす」とあるのでもわかる。だが大体に記・紀に見えるみつはのめは、禊ぎに関係なく、女神の尿または涙に成ったとしている。逆に男神の排泄に化生したものとする説もあったかも知れぬと思われるのは、穢(けが)れから出ていることである。 阿波の国美馬郡の「美都波迺売(みつはのめ)神社」は、注意すべき神である。大和のみつはのめと、みつは・みぬまの一つものなることを示している。美馬の郡名は、みぬまあるいはみつま・みるめと音価の動揺していたらしい地名である。地名も神の名から出たに違いない。「のめ」という接尾語が気になるが、とようかのめ・おほみやのめなど……のめというのは、女性の精霊らしい感じを持った語である。神と言うよりも、一段低く見ているようである。みつはのめの社も、阿波出の卜部などから、宮廷の神名の呼び方に馴れて、のめを添えたしかつめらしい称えをとったのであろう。 ●一三 筬もつ女 地上の斎河(ユカハ)に、天上の幻を浮べることができるのだから、天漢に当る天の安河・天の河も、地上のものと混同して、さしつかえは感じなかったのである。たなばたつめは、天上の聖職を奉仕するものとも考えられた。「あめなるや、弟(おと)たなばたの……」と言うようになったわけである。天の棚機津女(たなばたつめ)を考えることができれば、それにあたかも当る織女星に習合もせられ、また錯誤からくる調和もできやすい。 おと・たなばたを言うからは、水の神女に二人以上を進めたこともあるのだ。天上の忌服殿(イムハタドノ)に奉仕するわかひるめに対するおほひるめにあったことは、最高の巫女でも、手ずから神の御服を織ったことを示すのだ。 古代には、機に関した讃え名らしい貴女の名が多かった。二三をとり出すと、おしほみゝの尊の后は、たくはた・ちはた媛(また、たくはた・ちゝ媛)と申した。前にも述べた大国不遅(フヂ)の女垂仁天皇に召された水の女らしい貴女も、かりはたとべ(いま一人かむはたとべをあげたのは錯誤だ)、おと・かりはたとべと言う。くさか・はたひ媛は、雄略天皇の皇后として現れた方である。 神功皇后のみ名おきなが・たらし媛の「たらし」も、記に、帯の字を宛てているのが、当っているのかも知れぬ。ひさかたの天(アメ)かな機。「女鳥(メトリ)のわがおほきみの織(オロ)す機。誰(タ)が料(タネ)ろかも。」 記・紀の伝えを併せ書くと、こういう形になる。皇女・女王は古くは、皆神女の聖職を持っておられた。この仁徳の御製と伝える歌なども、神女として手ずから機織る殿に、おとずれるまれびとの姿が伝えられている。機を神殿の物として、天を言うのである。言いかえれば、処女の機屋に居てはたらくのは、夫なるまれびとを待っていることを、示すことにもなっていたのであろう。天孫又問ひて曰はく、「其(カノ)秀起(ホダ)たる浪の穂の上に、八尋殿(やひろどの)起(タ)てゝ、手玉(タダマ)もゆらに織(ハタ)(オ)る少女(ヲトメ)は、是(これ)誰(た)が子女(ムスメ)ぞ。」答へて曰はく、「大山祇(おおやまつみ)ノ神の女等、大(エ)は磐長(いわなが)姫と号(ナノ)り、少(オト)は、木華開耶(このはなさくや)姫と号(ナノ)る。」……(日本紀一書) これは、海岸の斎用水(ユカハ)に棚かけわたして、神服(カムハタ)織る兄(エ)たなばたつめ・弟(オト)たなばたつめの生活を、ややこまやかに物語っている。丹波道主貴の八処女のことを述べたところで、いはなが媛の呪咀は「水の女」としての職能を、、見せていることを言うておいた。このはなさくや媛も、古事記すさのをのよつぎを見ると、それを証明するものがある。すさのをの命の子やしまじぬみの神、大山祇神の女「名は、木花知流(コノハナチル)比売」に婚(ア)うたとある。この系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめも、さくやひめとほとんどおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示しているのだと思う。 …などと書かれており、「…のめ」という接尾語から「水」との関連、「…るめ」という接尾語から「機織り巫女」と「水」との関連の興味深い考察をされています。 この阿波国 式内社弥都波能売神社(神名を冠した日本唯一社)を調べてみますと、 論社が4つあり、それぞれ御祭神を調べてみますと、 ・武大神社 ◆祭神 素盞嗚命 相殿 稻田姫命・八氣蛇猛命 ・八大龍王神社 ◆祭神 水波能賣神 ・建神社 ◆祭神 建速須佐之男命 ・八坂神社 ◆祭神 素戔嗚命 ほぼスサノオ(´・ω・`)… その中の弥都波能売をお祀りする1社を調べてみますと、 八大龍王神社(徳島県美馬市脇町脇町字拝原1930) ◆創祀 年代不詳 通称は、龍王さん。 『阿波志』には「龍祠」とのみ 式内社なのに乏しい情報(´・ω・`)…論社だけどね。 情報が少ない場合に頼りになるのは建っている「場所や位置」が大事ですね。 次に和久産巣日神ですが、『日本書紀』では、埴山姫が軻遇突智(火神)と結婚して生れた神が稚産霊神となっています。 まずは埴山姫を祭祀する式内社波尓移麻比弥神社、こちらは論社二社とあり、 馬岡新田神社(うまおかにったじんじゃ:徳島県三好市井川町井内東22) ◆祭神 埴山姫命・天神玉命・新田義治・倉稻魂命 ◆創祀 年代不詳 波爾移麻比禰神社(はにやまひめじんじゃ:徳島県美馬市脇町北庄字原) ◆祭神 埴山姫神 ◆創祀 年代不詳 当神名を冠する社も阿波国唯一社で、神社名の漢字である「移」は「や」と読むようです。 場所や神名そのものが社名となっていることからも当社鎮座地の方が有力ではないかと思います。 波邇夜須毘売神については、『古事記』では波邇夜須毘売神、『日本書紀』では埴山姫(はにやまひめ)、埴山媛、埴安神(はにやすのかみ)等と記されています。 第8代孝元天皇の妃に埴安媛がおり、その子、建波邇夜須毘古命は、『日本書紀』崇神天皇10年9月条に反乱伝承がありますが、これはまた別に書きたいと思います。 火の神である軻遇突智を生んだことにより、イザナミは女陰を焼いてしまい死んでしまうのですが、これに怒ったイザナギは十拳剣(別名 天之尾羽張(あめのおはばり)/伊都之尾羽張(いつのおはばり))で殺してしまいます。 その軻遇突智の血から、 ・石折神(いはさくのかみ、血が岩石に落ちて生成された神) ・根折神(ねさくのかみ、〃) ・石筒之男神(いはつつのをのかみ、〃) ・甕速日神(みかはやひのかみ、十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生成された神) ・樋速日神(ひはやひのかみ、〃) ・建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ、〃)  別名は、建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ) ・闇淤加美神(くらおかみのかみ、十拳剣の柄からの血より生成された神) ・闇御津羽神(くらみつはのかみ、〃) また、カグツチの死体から、 ・正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ、迦具土神の頭から生まれる) ・淤縢山津見神(おどやまつみのかみ、迦具土神の胸から生まれる) ・奥山津見神(おくやまつみのかみ、迦具土神の腹から生まれる) ・闇山津見神(くらやまつみのかみ、迦具土神の性器から生まれる) ・志藝山津見神(しぎやまつみのかみ、迦具土神の左手から生まれる) ・羽山津見神(はやまつみのかみ、迦具土神の右手から生まれる) ・原山津見神(はらやまつみのかみ、迦具土神の左足から生まれる) ・戸山津見神(とやまつみのかみ、迦具土神の右足から生まれる) 後の話でスサノオが大宜都比売を殺して得た五穀の話にも似ていますが、この場合は子孫が分かれたとも取れます。 イザナミの死体に纏わりついていた雷神八柱と同じく、この火神も八柱ずつとなっております。 建御雷之男神を祖神とする氏族に阿波忌部の分派である「物部氏」がいます。 また、「古事記」には登場しない神に、経津主神(ふつぬしのかみ、別名:伊波比主神/斎主神)がいますが、こちらは「中臣氏(藤原氏)」の祖神ともしています。 「ふつ」と関連する剣に、神武東征の際、武甕槌神が天皇に与えた布都御魂(ふつのみたま)があります。 ちなみに式内社 建布都神社が鎮座するのはココ こちらも論社5社御座いますが、何れも阿波市土成町から市場町にあり、神名そのものを冠する社はそのうち2社。 建布都神社(徳島県阿波市市場町香美字郷社本18) ◆祭神 建布都神(武甕槌神)・経津主神・大山祇神・事代主神 ◆創祀 年代不詳 建布都神社(徳島県阿波市土成町郡字建布都569) ◆祭神 武甕槌神・經津主神・事代主神 ◆創祀 年代不詳 肝心の和久産巣日神なのですが、『日本書紀』巻第一神代上第五段一書第二に、その頭には桑と蚕が生え、臍の中からは五穀が生えていた。 その後の記述からも保食神や「記」の大宜都比売と同様の記述となっています。 字義からは、和久は稚・若の意味で、産巣は生成の義であり、総じて穀物の生育を司る神。 火と土から生まれたということは、焼畑農業を意味しているとも。(玄松子の祭神記より) …ということで、阿波国では和久産巣日神というよりも大宜都比売の方がしっくりくるのではないでしょうか。 阿波国式内社50座の中には神名同社、祭神共に見つけることができません。 次に、この「火」と「雷」の二つが関連する神に、 火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)はその名の示す通り雷神であり、雷の猛威に対する畏れや稲妻と共にもたらされる雨の恵みに対する農耕民族であった古代日本人の信仰から生まれた神と考えられている。 ●別名 火雷神(ほのいかづちのかみ)、雷神(いかづちのかみ)、八雷神(やくさいかづちのかみ)。 日本神話の中では火雷神は、伊邪那美命の体に生じた8柱の雷神の1柱だが、ここでは8柱の雷神の総称として火雷大神の呼称が用いられる。 ●神格 雷神、水の神、伊邪那美命の御子神、雨乞い、稲作の守護神。 ●火雷神 なお、山城国風土記逸文によると、この火雷大神のうちの1柱である火雷神(乙訓坐火雷神社の祭神)は、のちに丹塗矢となって賀茂建角身命の子、玉依日売のそばに流れ寄り、その結果賀茂別雷命が生まれたという。(wikipedia 火雷大神より抜粋) 八柱の雷神と黄泉軍に追われたイザナギは、十拳剣で振り払いながら逃げ、黄泉比良坂に着いたとき、坂本にあった桃の実を3つ投げたところ、追ってきた黄泉の国の悪霊たちは逃げ帰っていった。 ここでイザナギは、桃に「人々が困っているときに助けてくれ」と言って、意富加牟豆美命(おほかむずみのみこと)と名づけた。 …とあり、徳島県阿波市に、この桃をお祀りしている神社あります。 賀茂神社(かもじんじゃ:徳島県阿波市阿波町字新開30) ◆祭神 瓊々杵尊・意富加牟積尊・天穂日命 祭神にある天穂日命は、天照大神の第二子とされる天忍穂耳尊の弟神で、農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神で主に忌部の職能ですが、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年経っても高天原に戻らなかった神です。 また、瓊々杵尊は言わずと知れた天孫ですが、古事記では天忍穂耳尊と栲幡千千姫命との間の子です。 そして意富加牟積尊は桃(´・ω・`)… ちなみに桃は中国において、仙木・仙果(神仙に力を与える樹木・果実の意)と呼ばれ、昔から邪気を祓い不老長寿を与える植物として親しまれていますが、日本においても古くから桃には邪気を祓う力があると考えられています。 賀茂建角身命の方は、伊賀古夜比売命との子に、玉依比古命(賀茂県主となる)、玉依比売命の二子があり、玉依比売命については、『山城風土記』に、大山咋神(『古事記』では鳴鏑神)が丹塗矢と化して瀬見の小川を流れ下り、 玉依比売命と婚姻して、賀茂別雷命を生み奉ったと書かれています。 『姓氏録』山城神別に、「神魂命(神皇産霊尊)の孫・鴨建津見命、大烏と化して天皇を導く」とあり、神武東征の中で先導神としてあらわれた八咫烏は、この神の化身とされています。 黄泉返りの話、山城国風土記、及び同逸文と合わせると、 「意富加牟豆美命=賀茂建角身命=八咫烏」 の子、玉依日売は、丹塗矢に化身した、 「火雷神=大山咋神=鳴鏑神」 と結ばれ、賀茂別雷命を生んだ。 …ということになります。 ちなみに全ての社の位置関係はココ 吉野川の北側ですね。 長くなりましたので事項より更に考察を進めたいと思います。(´・ω・`)ノ

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      テーマ:
  • 19 Oct
    • 天宇受賣命から考察

       ◆天宇受賣命(アメノウズメノミコト) アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話に登場する神。「岩戸隠れ」の伝説などに登場する芸能の女神であり、日本最古の踊り子と言える。 一説に別名「宮比神」(ミヤビノカミ)。大宮売神(オオミヤノメノカミ)と同一視されることもある。 ●神話での記述 岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。 『古事記』では次のように記述されている。 「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」 つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。 天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。アメノウズメはアマテラスと高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。この時のアメノウズメは『日本書紀』では次のように記述されている。 「その胸乳をあらわにかきいでて、裳帯(もひも)を臍(ほそ=ヘソ)の下におしたれて、あざわらひて向きて立つ。」 つまり、乳房をあらわにし、裳の紐を臍の下まで押したれて、あざわらいながら向かって言ったとある。その後、名を問い質すと、その神は国津神の猿田彦と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。 アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、石凝姥命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人としてニニギに随伴して天降りした。アメノウズメはサルタヒコの名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説にはサルタヒコの妻となったとされる。 アメノウズメは大小の魚を集めて天孫(ニニギ)に仕えるかどうか尋ねた。みな「仕える」と答えた中でナマコだけが何も答えなかったので、アメノウズメはその口を小刀で裂いてしまった。それでナマコの口は裂けているのである。(wikipedia アメノウズメより抜粋) …それでは考察して参りたいと思いますが、今回はチョットエロめのアハーンなウフーンです(〃ノωノ) いつものようにほぼwikipediaオンパレードになりそうですが 現代においてただの変質痴女である日本最古のストリッパー天宇受賣命ですが、「記紀」において、共に共通するのは、❶胸乳を出したがる、❷あわよくばアレも見せたがる、❸男勝りな性格。実はこれらは全てキーワードになっています。 ではまず胸乳から ( ゚∀゚)o彡゚ オッ〇イ オッパ〇 世の男性ならみんな大好きおpp…ではなく、これは「天孫降臨」の段のヒントと思われ、後の考察にも影響を及ぼすであろう神、天孫の母として突如現れる高皇産靈尊の娘の栲幡千千姫です。 栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話に登場する女神である。 『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。 ●神話での記述 『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている。『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)、第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。 (wikipedia 栲幡千千姫命より抜粋) 神名にある「幡」(はた)は、布・紙などで作り、竿などの先に掲げてしるしとするもの。つまり「旗」ですが、同音の「機」(はた)は、織物を織る道具です。 恐らく「秦」(はた)から字音が来ていると想像ができますが、そもそも養蚕技術は渡来人から伝わったものです。 また「栲」(たえ、たへ)は、カジノキなどの繊維で織った白い布のことで、アラタエ、ニギタエのタエです。 言うまでも無く機織の神として描かれています。 『皇大神宮儀式帳』によれば、伊勢皇大神宮内宮正殿の御祭神である天照大御神以外に相殿神として二神が祀られており、その一神である天手力男神は「弓」を神体とし、左方(東)に祀られるのに対し、もう一神である万幡豊秋津姫命は、「剣」を神体として右方(西)に祀られています。 天手力男神は、『古事記』の天孫降臨の段に、邇邇芸命が天降る際、三種の神器に常世思金神・天石門別神を添えたと記されていますが、ここに出てくる「天石門別神」又の名を櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)といい他の随伴神と違い、岩戸隠れの段には見えない神で、天皇の宮殿の四方の門に祀られている神です。 徳島県名東郡佐那河内村にズバリ、天岩戸別神社がありますが、これはまた別項にて考察できればと思います。 …一方、天宇受賣命と対峙したとされる国津神側の猿田彦は、 サルタヒコ、またはサルタヒコノカミは、日本神話に登場する神。『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神。『古事記』では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記する。伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとされ、中世には、庚申信仰や道祖神と結びついた。 ●神話での記述 邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。そこで天照大神と高木神は天宇受売命(あめのうずめ)に、その神の元へ行って誰であるか尋ねるよう命じた。その神が国津神の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来た。 邇邇芸尊らが無事に葦原中国に着くと、邇邇芸尊は天宇受売神に、その名を明らかにしたのだから、猿田彦を送り届けて、その名前をつけて仕えるようにと言った。そこで天宇受売神は「猿女君」と呼ばれるようになったという。なお、『日本書紀』では、猿田彦が天鈿女命(あめのうずめ)に自分を送り届けるように頼んだとなっている。猿田彦は故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。 ●解説 『日本書紀』には、天宇受売神は胸乳を露わにし裳帯(もひも)を臍の下に垂らしたとあるので、性的な所作をもって相対したことになる。神話では二神が結婚したと伝えられている。 「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とする説がある。「天地を照らす神」ということから、天照大神以前に伊勢で信仰されていた太陽神だったとする説もある。その異形な風貌から赤鼻の天狗とされるが、仏教、特に密教系の烏天狗と混同されやすい。 (wikipedia サルタヒコより抜粋) …こちらは天狗のモデルにもなっている明らかにお鼻が男性のアレを象徴する風体の持ち主。 つまり、この項である「国譲り・天孫降臨」により、初めて国津神(の男:猿田彦命)と天津神(の女:天宇受賣命)が結ばれたことを暗示しており、即ち両族間の政略結婚を想起する内容となっています。 また同様に、天津神の邇邇芸命も国津神である大山津見神の娘の木花咲耶姫を娶っている訳ですから、「国譲り~天孫降臨」を合わせて考えれば、天津神も国津神も互いが納得する形で婚姻関係を結んでいるようにも見えます。 木花咲耶姫を祀る式内社 阿津神社の拝殿横の小屋には、男根と女陰のシンボルの木彫りが所狭しと並んでいます。 地元では子安神、子授け、安産の神として信仰されています。 ※注意:一応軽ーいモザイク処理を施しています(´・ω・`)ノ この猿田彦命ですが、これまでの考察により、八重事代主命であることがわかっています。 後の話に出てくる「丹塗矢伝説」に、事代主命が矢に化身して「女陰」(ホト)を突き妃に娶る説話が展開されます。 次に、『日本書紀』の「国譲り」の段にのみに記載がある、抵抗した星の神である天香香背男(アマノカガセオ)がいます。 天津甕星(あまつみかぼし)は、日本神話に登場する星の神である。 別名、天香香背男(あめのかがせお)星神香香背男(ほしのかがせお)、香香背男(かがせお)。 「一云 二神、遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。」 本文(上述)では、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった。そこで倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている。 (wikipedia 天津甕星より抜粋) 天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)は、日本神話の神である。 『古語拾遺』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。 天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。 ●建葉槌命について 別名と同一視されるのは建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)で、こちらの方が有名かもしれない。建葉槌命は『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされる。 (wikipedia 天羽槌雄神より抜粋) …建葉槌命の神名にある「建」は、猛々しいというような意味もありますが、今回の場合、「建葉=竹の葉=笹葉」の意味とも取れ、上記にある内容からも笹葉を振って踊ったとされる天宇受賣命と同神ではないかと考えられます。 では、「国譲り」の段の建葉槌命の項を、天宇受賣命のナマコの話に置き換えてみますと、 「於是送猿田毘古神而還到 乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以問言 汝者天神御子仕奉耶 之時諸魚皆仕奉白之中 海鼠不白 爾天宇受賣命 謂海鼠云 此口乎不答之口 而 以紐小刀拆其口 故於今海鼠口拆也」 「猿田毘古神送り届けた天宇受賣命は帰ってくると、すぐに鰭の広物、鰭の狭物(=尾の広い魚、尾の狭い魚…大小様々な魚=葦原中国の海人)を集めて、「お前は天津神の御子(=ニニギ)に仕えるか?」と問いました。 するとほとんどの魚(=葦原中国の海人)が「仕えましょう」と答える中にナマコ(=天香香背男)が答えませんでした(=難色を示した)。 アメノウズメはナマコ(=天香香背男)に言いました。 「この口が答えぬ口か!」 と、小刀でナマコの口を裂きました。 それで今でもナマコの口は裂けています。(=口を開かせ返事をさせた=屈服)  ナマコの古語は「こ」ですが、蚕の古語も同じく「こ」です。 蚕とナマコは姿がよく似ているため、機織女らしく蚕に例えたのではないのでしょうか。 ◆ナマコ ◆カイコ ナマコを見たことある人はお分かりであると思いますが、元来ナマコの口は裂けていません(´・ω・`) 建葉槌命の神名からは男神にも見えますが、この神は機織神であり、機織りは往古より女性の役割であったことから恐らく男勝りの性格と相まって付いた神名と考えられます。  よって上記の内容の一致からも恐らく、天宇受賣命=建葉槌命 天香香背男は天津神に従わなかったため悪神とされていますが、海陽町奥浦に明現神社があり、旧海部町史には次のように書かれています。 阿波志に「明現山在奥浦地、為禁山、北限大川西連諸山、上有星祠、石段五十歩」とみえているが、この星祠が明現神社で、昔は本殿・拝殿・神輿殿・通夜堂・鳥居二基が鬱蒼たる暖帯林に覆われた幽邃な神域に見え隠れしていたが、今は山頂から東側の樹木を伐り払い桜・つつじなどを植えて公園化しつつある。 当社は旧藩時代妙見大菩薩と称していたが、明治三年妙見神社、同八年照星神社と改称した後、さらに同十二年十一月現在の社名になったのである。神社明細帳によると、祭神は可々瀬男命で星の神であるという。この可々瀬男命は、天上にあってあやしい光を放ち人心を惑わし天下に禍害を為す邪神であるとされ、日本書紀巻第二に「時ニ神曰、天有悪神、名曰天津甕星、亦名天香香背男、請先誅此神」とあるように、経津主・武甕槌󠄀二神の中つ国平定の首途(かどで)にあたって、真先に軍陣の血祭にあげられたことになっている。このような悪神をなぜわれわれの産土神としたのであろうか。 (以上 海部町史より) ちなみに当社の摂末社は、竈神社(奥津彦命・奥津姫命)、秋葉神社(味耜髙彦根命)、山神社(大山祇命)、蛭子神社(事代主命)、地神社(天照大神)のようです。 「国譲り」の話では、経津主神と武甕槌命が、天香香背男の抵抗に会い、共に降臨して来た?建葉槌命の交渉により屈服させた後、更に和奈佐の浜まで進軍し、大国主命・事代主命と交渉します。 これらの移動経路を予想するとこんな感じ ちなみに既出した天手力男神の別名が、天背男命です(´・ω・`) しかしなぜ、「国譲り」の件で、天香香背男だけは抵抗したと記されたのでしょうか そのヒントは『阿波忌部氏系図』にあります。 「神紋と社家の姓氏」忌部氏 より拝借  天背男命の孫神に「大麻比古命」の名が見えます。 大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町板東にある神社。式内社(名神大社)、阿波国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 通称として「大麻さん」とも呼ばれ、阿波国・淡路国両国の総鎮守として、現在は徳島県の総鎮守として信仰を集める。境内は大麻山県立自然公園に指定されている。 ◆主祭神 大麻比古神 - 天太玉命(あめのふとだまのみこと)のこととされる ◆配祀神 猿田彦大神 - 古くから大麻山に祀られており、のちに合祀されたされる 『日本の神々 -神社と聖地- 2 山陽・四国』(以下、『日本の神々』)によれば、古くは室町時代成立の『大日本国一宮記』にあるように祭神は猿田彦大神とされ、文化12年(1815年)の『阿波国式社略考』にも見られるように、概して卜部系の考え方は猿田彦大神で統一されているのだと言う。『日本の神々』では、これに対し、神社・神主の側では享保14年(1729年)と宝暦4年(1754年)に郡代奉行へ「御神体猿田彦大神と崇め奉り候ふ儀、なおまた秘説これあり候へども…」と上書したように、猿田彦大神は大麻山山頂にあったのを合祀したもので本来の主祭神は天日鷲命(あめのひわしのみこと)であると、猿田彦大神を暗に否定して阿波忌部氏の祖神に付得する努力を続けてきたようだ、と述べている。 『日本書紀』の神代巻では阿波忌部氏の遠祖は天日鷲命であるとし、『古語拾遺』では天富命(あめのとみのみこと)をして、天日鷲命の孫を率いて、肥饒の地を求めて阿波国に遣わし、穀・麻の種を殖わせしめたとしているが、『日本の神々』によると阿波国の国学者野口年長は、安房国下立松原神社に伝わる忌部氏系図から、大麻比古命は天日鷲命の子でまたの名を津咋見命(つくいみのみこと)と言い、その娘は千鹿江比売命(ちかえひめのみこと)であるとの説を提唱したのだと言う。 明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命としたが、『日本の神々』によれば、山口定実が忌部氏祖神説の傾向をさらに発展させて唱えた「天日鷲命は阿波忌部の祖先であるから、(忌部神社は)忌部の社または地名により麻植の命と申すのに対して、(当社は)太祖天太玉命を祀って大麻比古神と申す」との説が、現在の大麻信仰の基礎となっているのだと言う。 同書では、神話において、天孫降臨に五伴緒の一人として随伴した天津神の天太玉命と、その行く手に現れた国津神の猿田彦大神は本来別系統の神であり、本質的には対立する関係の両神が同一社地に祀られている理由は必ずしも明らかではないと述べる一方で、猿田彦大神が祀られた事情を次のように推測している。 下立松原神社の忌部氏系図では大麻比古命は別名を津咋見命、その娘を千鹿江比売命としているが、この神性は「津咋霊(ツクイミ)」と「近江(チカエ)」でいずれも港に関係した名を負う神である。当社の場合、忌部氏勢力の衰退と共に津咋見命の性格が忘れ去られて行き、経済の発展と共にますます重要視されてきた港の神・交通の神としての機能が特に残ったものと考えられる。忌部氏が没落すると、室町時代に民間流行した庚申信仰により、巷の神・交通の神である猿田彦大神の神性が付会されたのであろう、としている。 (wikipedia 大麻比古神社より抜粋) …なるほど、いろいろ書かれてはありますが、awa-otokoさんがおっしゃっていたことがなんとなくわかってきましたヨ(ノ∀`) さて、上記wikipediaにもあるように、当社の明治時代以前の祭神は、そもそも猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命であったとし、その天日鷲命の更に太祖である天太玉命を後に大麻比古神として祀ったとしています。 しかし『阿波忌部氏系図』に当てはめると、天背男命(=天手力男命)で、その子に天日鷲翔矢命(=天日鷲命)、更にその子に大麻比古命とあり、これを祀る阿波国一宮大麻比古神社の祭神は元より猿田彦大神なのですから、大麻比古命=天太玉命ではなく=猿田彦大神であるとするのが至って自然ではないでしょうか。(「太祖」が「祖」の天日鷲命の系譜の後に来るはずはないしね…)  これは仮説の段階ですが恐らく、 大麻比古命=猿田彦大神=八重事代主命 …となり、八重事代主命は、大国主命と神屋楯比売との子なのですから、同時に、 大国主命=天日鷲命 …ということになります。 他にも『安房斎部系図』や『古語拾遺』などを見ても、天背男命 - 天日鷲命 (天日別命)- 大麻比古命となっております。 この仮説ですと、天手力男命は、素戔男尊であるか、若しくは素戔男尊の系譜の誰かであることがわかります。  さて、「国譲り」における天香香背男(天手力男命)の服従の件についてですが、結局のところ、武力行使で国譲りを迫る経津主神と武甕槌命とは意見が合わず、自身の孫である八重事代主命、そしてその妻になる天宇受賣命(=建葉槌命)の説得には応じたということになります。 また、栲幡千千姫も伊勢皇大神宮内宮正殿の相殿神に共に祀られていることから、天手力男命と栲幡千千姫は夫婦神、もしくは娘なのかも知れません。(その両方もあり得ると考える) この天宇受賣命(別名の大宮売神)は、天皇の守護神として皇居八神殿に祀られています。 ここで面白いのは、この中に天照大御神がいないこと、そして大宮売神と一緒に国津神であり夫とされる事代主命(猿田彦命)も共に祀られていることではないでしょうか。 また、第一殿~五殿まではいわば産(=むすひ)の神なのですが、第六殿~八殿が何を意味しているのかを改めて考えていく必要があるでしょう。 神儀については特に疎いのでよくわかりませんが、海陽町宍喰にある竹ヶ島在住の方の古民家に、 このようなものがあるとお写真を頂きました(´・ω・`) 棟上げの時の物だと思いますが、真ん中の神は当家とゆかりの深い産土神を祀ると思われます。 当初なぜこのような地に大宮之賣神と思案しておりましたが、今回の項で考察に幅ができたのかなと思っています。 竹ヶ島は戎田姓の密集地な上、現在でもほぼ全件が海人ですから、事代主命と天宇受賣命の関係、「是以御世 嶋之速贄獻之時 給猿女君等也」「これより、志摩国の初物の魚介類が宮廷に献上されるときは、猿女君に賜ります。」の訳にある通説の「志摩」ではなく、この「嶋」は竹ヶ島を意味しているのかも知れません。

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  • 15 Oct
    • 天孫考察 Vol.徳島県南部

       ◆天宇受賣命(アメノウズメノミコト) それではまず、「天孫」について考察してみたいと思います。 『日本書紀』神代下●第九段本文-1 天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女𣑥幡千千姬、生天津彥彥火瓊瓊杵尊。 天照大神の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊は、高皇産靈尊の娘の栲幡千千姫を娶って天津彦彦火瓊瓊杵尊を生みました。  ●第九段一書(一)-4 既而天照大神、以思兼神妹萬幡豐秋津媛命、配正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊爲妃、令降之於葦原中國。 天照大神は思兼神の妹の萬幡豊秋津媛命と正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊と会わせて妻として、葦原中国に降ろしました。 ●第九段一書(六)-1 一書曰、天忍穗根尊、娶高皇産靈尊女子𣑥幡千千姬萬幡姬命・亦云高皇産靈尊兒火之戸幡姬兒千千姬命、而生兒天火明命、次生天津彥根火瓊瓊杵根尊。 ある書によると…天忍穗根尊は高皇産靈尊の娘の栲幡千千姫萬幡姫命…別名を高皇産靈尊の子の火之戸幡姫の子の千千姫命を娶って生んだ子が、天火明命、次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生みました。 すごく分かりにくいのですが纏めてみますと、 ・天忍穗根尊は、高皇産靈尊の娘栲幡千千姫(の子)萬幡姫命を娶りました。 ・天忍穗根尊は、高皇産靈尊の子火之戸幡姫の子千千姫命を娶りました。 ・(千千姫命の子)天火明命、次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生みました。 ここの場面の解釈ですが、天忍穗耳尊が高皇産靈尊の娘と孫を共に娶っているのか孫のみ娶っているのか判断しにくいです。 別名を混ぜて書くと「栲幡千千姫」と「千千姫命」ともなり、一見すると似ていてこれまた分かりにくいです。 この箇所は単に記入ミスである、また名前も類似しているので一人の姫を娶ったのではないかと解釈される方もおられます。●古事記:上つ巻(天降り1) 此御子者 御合高木神之女萬幡豐秋津師比賣命 生子 天火明命 次日子番能邇邇藝命【二柱】也 この御子は、高木の神の娘、万幡豊秋津師比売の命と結婚し、 御子、天火明の命、 そして日子番能邇邇芸の命を生みました。●第九段一書(七) 一書曰、高皇産靈尊之女天萬𣑥幡千幡姬。一云、高皇産靈尊兒萬幡姬兒玉依姬命、此神爲天忍骨命妃、生兒天之杵火火置瀬尊。一云、勝速日命兒天大耳尊、此神娶丹舄姬、生兒火瓊瓊杵尊。一云、神高皇産靈尊之女𣑥幡千幡姬、生兒火瓊瓊杵尊。一云、天杵瀬命、娶吾田津姬、生兒火明命、次火夜織命、次彥火火出見尊。 一書曰、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女天萬𣑥幡千幡姬、爲妃而生兒、號天照國照彥火明命、是尾張連等遠祖也。次天饒石國饒石天津彥火瓊瓊杵尊、此神娶大山祇神女子木花開耶姬命、爲妃而生兒、號火酢芹命、次彥火火出見尊。 ある書によると…高皇産靈尊の娘は天萬栲幡媛命です。 別伝によると…高皇産靈尊の娘の萬幡姫の娘が玉依姫命です。この女神は天忍骨命の妃となって、天之杵火火置瀨尊を生みました。 別伝によると…勝速日命の子が天大耳尊です。この神は丹舄姫(ニツクリヒメ)を娶って、火瓊瓊杵尊を生みました。 別伝によると…高皇産靈尊の娘𣑥幡千幡姬が火瓊瓊杵尊を生みました。 別伝によると…天杵瀨命は吾田津姫を娶って、火明命を生みました。次に火夜織命(ホノヨリノミコト)を生みました。次に彦火火出見尊を生みました。 ある書によると…正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊は高皇産靈尊の娘の天萬栲幡千幡姫を娶って妃として生んだ子が天照国照彦火明命といいます。この神が尾張連の娘の木花開耶姫命を妃として生んだ子は、火酢芹命(ホノスセリノミコト)と言います。次に生んだ子が彦火火出見尊です。 …などなど伝承によりこの部分が特に曖昧で、「古事記をそのまま読む」によれば、下図のようになるようです。 「紀」の天火明命については、古事記と同じくニニギの兄として書かれているものもあれば、ニニギの子、それも長男から三男までバラバラで、中にはニニギは存在せず火明命の子が火酢芹命、彦火火出見尊としています。 つまり二世代に渡ってどの記述が正しいのかは全く分かりません。 また天忍穂耳命についても「勝速日命兒天大耳尊、此神娶丹舄姬、生兒火瓊瓊杵尊。」とあるように、ニニギが曾孫となる一書もあり、この辺についてはどの伝承が正しいかは判断できません。 つまり古事記でいう、「①天忍穂耳命 - ②邇邇芸命 - ③海幸山幸彦」の3世代間は、書により記述がまちまちなこともあり、全ての可能性を考慮しますと、少なくとも3世代~最大5世代の幅で考える必要が出てきます。 ただし、殆どの書はこの間を3世代としていますから、恐らくこの間は3世代であったであろうと思われます。 「天孫」ですから、通説の立場からは天照大御神の孫、つまり3世として考えられています。 本当のその「天孫」が誰であったのかはここではわかりませんが、この時に初めて高天原から葦原中国へ降臨したということです。 この「天孫」が通説にある邇邇芸命や天火明命、また、それ以外の「誰か」である可能性もありますが、別人説は現状では信憑性に欠けるため、万人の支持を得れないものと思われます。 ただし、その可能性は少なからずあり、完全には否定できないでしょう。 …さて、 『日本書紀』第九段一書(三)に、神吾田鹿葦津姫が三柱の子を産んだ後、 「時以竹刀、截其兒臍、其所棄竹刀、終成竹林、故號彼地曰竹屋。」 「そのときに竹の刀でその子たちの臍(ヘソノオ)を切りました。その竹の刀を捨てたところは、後に竹林と成りました。それで、その土地を「竹屋(タカヤ)」と言います。 」 …と書かれてあり、また、第九段一書(六)に、 「到于吾田笠狹之御碕、遂登長屋之竹嶋。」 「(ニニギの一行は)吾田の笠狹之御碕に辿り着きました。それで長屋の竹嶋(タカシマ)に上りました。 」 …とあります。 この「竹屋」「長屋の竹嶋」は共に同じ場所だと思われ、恐らく海陽町相川の木花咲耶姫をお祀りする式内論社 阿津神社が鎮座する場所であろうと考えられます。 ◆上空写真はこちら Google Mapでは神社へと通じる道が阿津神社の場所となっておりますが、実際は奥にある「島」になっているところに御鎮座します。 外周から撮影すると夥しい数の「竹」に囲まれていて神社が見えない程です。 次に、天孫降臨の際、どのような経路を辿って移動したのかという考察ですが、『日本書紀』第九段一書(一)-5 天鈿女は物怖じしないからあなたが訪れなさいと命じられ、その後、衢神(チマタノカミ 後に猨田彦大神と名乗った神)は、「わたしが先に行き、道案内をしましょう」 といって先導します。 その後、天鈿女の「皇孫(スメミマ)はどこに行くのだ?」との問いに、 對曰「天神之子、則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。」因曰「發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。」天鈿女、還詣報狀。皇孫、於是、脱離天磐座、排分天八重雲、稜威道別道別、而天降之也。果如先期、皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯。其猨田彦神者、則到伊勢之狹長田五十鈴川上。卽天鈿女命、隨猨田彦神所乞、遂以侍送焉。 猨田彦大神は答えました。 「天神の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯に行くべきでしょう。わたしは伊勢の狹長田(サナダ)の五十鈴の川上に行きます」 さらに、「わたしを發顯(アラワ)したのはあなたです。あなたは私を(伊勢まで)送ってください」 天鈿女は帰って状況を報告しました。 皇孫は天磐座から離れて、天八重雲を押し分けて、幾つもの別れ道を通り、天から降りました。 天孫は猨田彦大神が約束した通り、筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯に着きました。 その猨田彦大神は伊勢の狹長田の五十鈴の川上に着きました。 天鈿女命は猨田彦神が願うままに送って行ったのです。  つまり猿田彦大神は、天孫を「筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯」に約束通り案内し終えると、猿田彦大神の云うとおりに天鈿女命が「伊勢の狹長田の五十鈴の川上」に送り届けたとあります。 阿津神社のある相川から東側、現海陽町浅川に、「伊勢田」の地名があり、この周辺は地形的に「狹長田」(サナダ=狭い場所に在る長い田)しか作れません。 送り届ける際、山道か海側かどちらを選択したかはここではわかりませんが、この時は恐らく現浅川の奥にある伊勢田地区の現在の伊勢田川の川上へ猿田彦大神を送り届けたのではないかと推測できます。 ◆天孫降臨後の猿田彦大神と天鈿女命の移動予想図 ➡降臨(葦原中国) ➡送り この伊勢田地区の伊勢田川を北上すると大山神社が鎮座します。(御祭神を調べればよかった…) 更にこのまま北上しますと積羽八重事代主命の故郷と思われる勝浦郡上勝町旭八重地となります。この時ここまで戻ったのかはわかりませんが…(´・ω・`)考えすぎか つまり何がいいたいのかというと、通説にある三重県の伊勢国まで送り届けたのではないということ。 次に、第九段一書(二)-1大己貴神に国譲りを迫る場面でのシーンに、 「…大己貴神曰「今者聞汝所言深有其理、故更條而勅之。夫汝所治顯露之事、宜是吾孫治之。汝則可以治神事。」 『…大己貴神に伝えるよう命じました。 「今、あなたが言ったことは、なるほど道理が通っている。そこで、一つ一つ細かく説明いたしましょう。あなたが納めているこの現世のモノは全て私(=タカミムスビ)の孫(=ニニギ)が治めるべきです。あなたは神事を治めてください。」 …とあり、天忍穗耳尊は、高皇産靈尊の娘の栲幡千千姫を娶っていますので、天照大神の「孫」には違いありませんが、ここではあくまで、高皇産靈尊の孫として描いています。 また、天鈿女が乳房をあらわにして、上着の紐をヘソまで押し下げて、嘲笑いながら、向かって来た際、その理由を衢神が天鈿女に問う場面で、 『衢神問曰「天鈿女、汝爲之何故耶。」對曰「天照大神之子所幸道路、有如此居之者誰也、敢問之。」衢神對曰「聞天照大神之子今當降行、故奉迎相待。吾名是猨田彦大神。」』 「天鈿女よ。どうしてそんなことをするのですか?」  天鈿女は答えました。 「天照大神の子が通る道路に居るものがあるというが、お前は誰だ?」 衢神は答えました。 「天照大神の子が地上に降りると聞きました。そこで迎えに来て、お会いしようと待っておりました。わたしの名は猨田彦大神です」  ここでは「天孫」について、天照大神の「孫」ではなく「子」と書かれています。 ここでの「紀」の記載を集約しますと、皇孫は、高皇産靈尊の孫であり、天照大神の子、そして「孫」であるとも考えられます。 次に『日本書紀』第九段一書(二)-2では、 「於是、大己貴神報曰「天神勅教、慇懃如此。敢不從命乎。吾所治顯露事者、皇孫當治。吾將退治幽事。」乃薦岐神於二神曰「是當代我而奉從也。吾將自此避去。」卽躬披瑞之八坂瓊、而長隱者矣。」 『大己貴神は答えました。「天神の申し出はあまりに懇切丁寧です。命令に従わない訳にはいかないでしょう。私が治める現世のことは、皇孫が治めるべきでしょう。わたしは現世から退いて、幽界の世界を治めましょう」 そして岐神を二柱の神に推薦して言いました。  「この神は、私の代わりにお仕えするでしょう。わたしはここから去ります」 すぐに瑞之八坂瓊(ミヅノヤサカニ)を依り代として、永久に身を隠してしまいました。』 …とありますが、同様のことを『古事記』国譲りの段に、 「爾答白之 僕子等二神隨白 僕之不違 此葦原中國者 隨命既獻也 唯僕住所者 如天神御子之天津日繼所知之登陀流此三字以音下效此天之御巣而 於底津石根宮柱布斗斯理此四字以音 於高天原氷木多迦斯理多迦斯理四字以音而 治賜者 僕者於百不足八十■[土+冏]手隱而侍 亦僕子等 百八十神者 即八重事代主神 爲神之御尾前而仕奉者 違神者非也 」 『「わが子の、二柱の神の言うとおりに私も従いましょう。この葦原中国は仰せのとおり献上いたしましょう。ただ私の住むところとして、天つ神の御子が皇位をお継ぎになる立派な宮殿のように地下の岩盤に太い柱を立て、千木を高々とそびえ立たせた神殿をお作り下さるなら、私は遠い幽界に隠れましょう。また私の子の多くの神たちも八重事代主が神の後に立ち先に立ってお仕えしたなら背く神はないでしょう」とお答えになった。』 …とあり、大国主命が推薦した神名を、「紀」では、岐神を、「記」では、八重事代主命としています。 このことから、「記紀」記載の内容からも、三輪氏系図と同様に、猿田彦大神(岐神)=八重事代主命=大物主神であろうことが確認できるのです。 この海陽町相川周辺に無数ある御崎神社の御祭神が皆猿田彦大神であることからも、天津族を当地に案内したのが実は大国主命の子である八重事代主命だったのであれば、「天孫降臨」の物語も俄然意味合いが変って来るはずです。 また、仮説として先に記したように、「天孫降臨」が実は邇邇芸命でも天火明命でもない別の誰かであったとすれば…それは一体誰だったのでしょうか

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  • 10 Oct
    • 櫛名田比売から考察

       ◆櫛名田比売(クシナダヒメ) 「大山津見神娘から考察」の続編となりますが、  クシナダヒメは、日本神話に登場する女神。『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫と表記する。 ヤマタノオロチ退治の説話で登場する。アシナヅチ・テナヅチの8人の娘の中で最後に残った娘。ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオにより姿を変えられて湯津爪櫛(ゆつつまぐし)になる。スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦い退治する。 ●神話での記述 高天原を追放されて出雲に降り立ったスサノオは、ヤマタノオロチという怪物に毎年娘を食われているアシナヅチ・テナヅチの夫婦と、その娘のクシナダヒメに出会った。彼らの話によると、もうじき最後に残った末娘のクシナダヒメも食われてしまう時期なのだという。哀れに思うと同時に、美しいクシナダヒメが愛しくなったスサノオは、クシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出た。スサノオの素性を知らないアシナヅチとテナヅチは訝しむが、彼がアマテラスの弟と知ると喜んでこれを承諾し、クシナダヒメをスサノオに差し出した。 スサノオとの結婚が決まると、クシナダヒメはすぐにスサノオの神通力によって変形させられ、小さな櫛に変えられた。そして櫛としてスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでその状態である。ヤマタノオロチ退治の準備はスサノオの指示で、アシナヅチとテナヅチが行った。 クシナダヒメを頭に挿したスサノオは、見事十束剣によってヤマタノオロチを退治する。 ヤマタノオロチを退治した後、スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探して、須賀の地に宮殿を建てた。(wikipedia クシナダヒメより抜粋) それでは、古事記の内容をサラッと見ながら考察したいと思います。 本来、櫛名田比売が登場する説話は、スサノオが高天原を追放されたすぐ後の話であったはずで、それを示すように文章の冒頭に、 「故 所避追而 降出雲國之肥上河上名鳥髮地」 「さて、追放されて、出雲国の肥河(ひのかわ)の川上、名を鳥髪という地に降りました。」 …と書かれてありますが、実際にはこの文章の間に、大宜都比売を殺す説話を挟んで盛り込んでいます。 大宜都比売はイザナギとイザナミの国産みの段で、淡道之穂之狭別島(淡路島)の次に生まれる伊予之二名島(四国)において、愛比売(伊予)、飯依比古(讃岐)、大宜都比売(阿波)、建依別(土佐)としてすでに紹介されています。 実際は高天原から出雲国(島根県)に降るまでの途中に阿波国に立ち寄るなどどこにも書かれていません。 これは後にこの説話を足し込んだか、もしくは本来阿波に降ってから出雲へ発ったであろう痕跡を示しているといえます。  つまり、移動順は、高天原→阿波(徳島県)→出雲(島根県) …続きに戻りますと、 箸が流れて来た川上に上って行くと老夫と老女、童女がいて泣いていました。 聞くと、国津神である大山津見神の子の足名椎、妻は手名椎と言い、女子の名は櫛名田比売だとといいました。 元々娘は8人おり、越の八俣の大蛇が毎年来て食べていくといいます。 今また来るであろう時となったので泣いておりました。  …ここで補足しておきますと、 「是高志之八俣遠呂智【此三字以音】毎年來喫」 「越の八俣(やまた)の大蛇(おろち)が毎年来て食われてしまいました。」 原文を見て頂くとおわかり頂けると思いますが、通説では「高志」を「越」として解釈し、福井県~山形県周辺に持っていくというとんでもない発想をしています。 ◆越国(えつのくに) 前回ご紹介した「稲羽之素兎」の話で、大穴牟遅神が八上比売を娶るために大山津見神のところへ向かった件と同じく、原文通りの地名が残る徳島県板野郡上板町高志での話なのです。 ◆位置関係はこんな感じ その後、スサノオが天照大御神の同腹の兄弟とわかると足名椎・手名椎は娘を差し上げるかわりに八俣遠呂智を退治して欲しいといいました。 これを請け負ったスサノオは、櫛名田比売を櫛に変え、戦いの準備をします。 足名椎・手名椎は、八入折(やしおおり=何度も繰り返し醸造した)酒を醸し、周囲に垣を廻らし、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷(=仮の載せ台)を結び、 その桟敷毎に 酒船を置き、船ごとにその八入折の酒を盛って待ちました。 そこに八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込み酒を飲んだ後、酔って寝てしまったところを、スサノオが十拳の剣で切り刻みました。 このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきました。 そしてこの大刀を天照御大神に献上しました。 これが草那芸の太刀(=天叢雲剣)です。 八俣遠呂智を退治したスサノオは、櫛名田比売と暮らす場所を求めて初めて出雲国の須賀の地に宮を作られた時、御歌を作られました。 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」 …さて、ここからは私の考察となるのですが、 この登場人物達と同じような物語をどこかでみたことがありませんか  これは、私がこれまでにダラダラと記して来ました『羽衣伝説』シリーズの一番最初にあった、「丹後の国風土記 奈具の社(やしろ)」の内容とソックリなのです。 分かりやすくするために、二つの物語を要約しますと、 『古事記』八俣遠呂智パターン(足名椎命・手名椎命、櫛名田比売) 8人の娘がいたが、毎年八俣遠呂智がやって来て娘を食べてしまい、スサノオが老夫婦の元にやって来た時には、最後に残った櫛名田比売だけだった。  スサノオは、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。 八俣遠呂智は、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。 酔った八俣遠呂智を退治をした際、出てきた大刀が天叢雲剣である。 スサノオは、櫛名田比売と暮らす場所を求めて出雲の須賀の地へ行く時に歌を詠った。 『羽衣伝説』パターン(和奈佐老夫婦、豊受大神) 天女が8人降って来て、水浴をしていた。 老夫婦に衣装を隠された天女だけ天に帰れなくなり、子として引き取られる。 天女は酒造りにたけ、これにより老夫婦は裕福になった。 老夫婦は自分の子ではないといって天女を追い出した。 その際、天女は嘆いて歌を詠った。 天女は彷徨った末に、奈具の社のある竹野郡の地に留まった。 この天女が豐宇賀能賣命である。 そしてこれらのキャスティングを集約しますと、 ・老夫婦の足名椎命・手名椎命=和奈佐老夫婦 ・娘の櫛名田比売=天女の豊受大神 …ということは、櫛名田比売の本当の正体は、 豊受大神と同神である大宜都比売となります つまり、『古事記』大宜都比売の段を無理やり入れたのはこのためで、先に殺すことにより本当の正体をわからなくさせようとしました。 そもそも櫛名田比売(奇稲田姫)は、稲田の神で、大宜都比売(五穀の女神)とは農耕神として同属性です。 以前羽衣伝説での考察で、豊受大神=宇迦之御魂神=大宜都比売が同神であるといいましたが、そもそも宇迦之御魂神は、スサノオと大山津見神の娘である神大市比売との子であることは古事記に記されています。 またスサノオは、大山津見神の子である足名椎命・手名椎命の子(つまり孫)である櫛名田比売も娶っています。 そしてこれら全てを集約した条件を満たすのはたった一つ… スサノオが足名椎命であり、かつ、大山津見神の息子  そしてこれがいわゆる同父母のタブー婚としない条件も唯一つ、大山津見神の妃神がスサノオと神大市比売とでは別であることになります。 ◆大山津見神家ファミリー図 チョット歪ですがそこのところは勘弁してね(´・ω・`) もっとわかりやすく書くと、 ・和奈佐老夫婦=足名椎命・手名椎命=スサノオ・神大市比売 ・奇稲田姫=豊受大神(=宇迦之御魂神=大宜都比売)  そして、八俣遠呂智を退治した後に出現した草那芸の太刀(=天村雲剣)は、スサノオの子である五十猛命と同神である天村雲命の化身、これが櫛名田比売のエピソードで現れることからも、その二人との子であることを暗示しているともいえます。 この高天原追放から八俣遠呂智退治までの話は、 本来一つの物語であったものをわざわざ二分し、大宜都比売バージョンと櫛名田比売バージョンに仕上げたかったのではないでしょうか つまり、この段での話は、書き手が主人公であるスサノオを英雄にするための創作話であり、結果的には、自身の父、妻、娘(後妻)、息子をファンタジックな神話として描きたかったのです。 こと徳島県において、足名椎命・手名椎命、櫛名田比売といった御祭神名でお祀りしている社が見当たらないのもこういった理由から来ているのかも知れません。 また神大市比売も別名神でお祀りされているかも知れません。 上の考察だけで結論を出すには早計であるとは思いますが、こういった解釈もできうるということです。 一応あくまでこれは私の考察ですので、異論も多々あろうかとは思いますがそこは一つ軽く流してやってください(´・ω・`)ノ

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  • 09 Oct
    • 大山津見神の娘から考察

       葦稲葉神社(あしいなばじんじゃ)は、徳島県板野郡上板町神宅字宮ノ北45に鎮座する神社である。 ◆祭神 葦稲葉神(倉稲魂命)を主祭神に鹿江比売命(草野姫命)を合祀 ●歴史 本殿が2棟並び立つが、西側(向かって左)が葦稲葉神社(東側は摂社殿宮神社)。創祀年代不詳であるが古くから祀られており、国史に承和9年(842年)に無位から従五位下に叙位され、その後従五位上に昇り、貞観9年(867年)に従五位上から正五位上へ、同16年に従四位下、元慶3年(879年)に従四位上へと昇叙された事が見える国史見在社である。 また合祀されている鹿江比売命は『延喜式神名帳』阿波国板野郡の小社「鹿江比売神社」に比定される式内社論社で、合祀された時代も事情も一切不明であるが、当地には低いながらも山容の美しい大山が聳え、鎮座地はその南麓扇状地のほぼ中央に位置するため、この大山を神として崇めるとともに山麓に広がる水田の守護神として両者ともに祀られたものと推測される。 社伝によれば、往古は大山中腹の字大山畑の葦野原に鎮座し、水害により字宮ヶ谷へ遷り、更にその後放火に遭ったために南麓の現社地へと遷されたものであるというが、現社地近隣からも大正4年(1915年)に銅鐸が出土しており、現社地一帯も早く弥生時代に大規模な集落が開けていたと見られ、また大山山麓には古墳も多数分布する事から、弥生時代以降の開発の進展があった事が窺える。明治時代の社格は村社。 ◆摂末社 殿宮神社 - 素盞嗚尊を祀り、本社本殿の東隣に同規模の社殿を構えて鎮座する摂社。当神社の別称である「殿宮」はこれを指す。 その他、末社として付近に新宮神社、剣山神社、山神社などがある。(wikipedia 葦稲葉神社より) 古事記「稻羽之素菟」に、 「其八十神各有欲婚稻羽之八上比賣之心 共行稻羽時於大穴牟遲神 負帒 爲從者率往」 「その八十神には、それぞれに稲羽の八上姫と一緒になりたい思いがあり、共に稲羽に行く時、大穴牟遅神に袋を背負わせ従者として連れて行くためでした。」 とあり、大国主命が大穴牟遅神時代に射とめる最初の妃である八上比売の居るところである「稻羽」は、通説では因幡(鳥取県東部)と解釈をしていますが、阿波説によれば、上記上板町にある葦稲葉神社ではないかとしています。  葦稲葉神社の御祭神である葦稲葉神(倉稲魂命)は、「紀」では倉稲魂命、「記」では宇迦之御魂神のことであり、大山祇神の娘である神大市比売と素盞嗚尊との間にできた子です。 もう一つの御祭神である鹿江比売命とは、大山祇神の妃神である草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)のこと、そして摂末社である殿宮神社の御祭神は素盞嗚尊です。 当社はwikipediaにあるように、元は現在地よりもう少し山寄りにあったと思われますが、その北側にあるのが大山です。 岩利大閑氏著「道は阿波より始まるその一」に、 『この大山住神が阿波の北岸、瀬戸内海岸を眼下にする阿讃山脈全域を支配し、瀬戸内を航行する海人族さえ支配する当時の大王。阿讃山脈の要地大山にいませし実力者。諸国に大山なる山あるも総て諸国名を上に付け「何々大山」と呼ばれるのに比べ、この山は太古より大山と呼ばれるのみ、鹿屋野比売は式内社として山頂付近大山寺の寺内にあったのを現在は山下の地へおろし祀られています。諸国大山祇神社は、この山頂で祀られていた大山住大明神の分れ。』 とあり、地図で確認すると、山頂に「黒岩大権現」があり、つまりこれが大山住大明神ということになります。 一般的に大山祇神を祀る神社といえば、伊予国一宮大山祇神社や伊豆国一宮三嶋大社などですがこちらを調べてみますと、 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)は、愛媛県今治市大三島町宮浦にある神社。式内社(名神大社)、伊予国一宮。旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は「三島大明神」とも称され、当社から勧請したとする三島神社は四国を中心に新潟県や北海道まで分布する。 ●名称 古代には大山積神社の名で記録に現れるが、一般的には三島あるいは御島から、大三島大明神や三島社、あるいは単に大三島と呼ばれた。現在島の名前とされる大三島は本来は神社名であったが、江戸時代以前は島の名前と特に区別なく使われていた。明治時代に入り社名を大山祇神社と定めた。 ●祭神 大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」 ●歴史 ・『伊予国風土記』逸文 大山積神は百済から渡来して津の国(摂津国)の御嶋に鎮座、のち伊予国に勧請されたとする。その解釈として、越智氏が朝鮮半島出征で大山積神を戴いて帰国したとする説、越智直が百済に出征し捕虜となり中国を回って帰国したとする説話による説があるが、いずれも確証は欠く。摂津国の御嶋は三島江(三島鴨神社)が定説だが、鴨神社(式内社三島鴨神社の論社)ともされる。 ・『大三島記文』(社伝) 大山祇神子孫の小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請したとする。(wikipedia 大山祇神社より抜粋) 三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)は、大阪府高槻市にある神社式内社論社で、旧社格は郷社。 社伝では、伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社とともに「三三島」と呼ばれたという。また、日本で最初の三島神社(山祇神社)とされる。 ●祭神 大山祇神・事代主神 ●歴史 創建は不詳。当社は元々淀川の川中島(御島)に祀られていたといい、社伝では仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として百済から遷り祀られたという。 上記の『伊予国風土記』逸文によると、大山積神は百済から当地に祀られ、次いで伊予国の大山祇神社に遷座したとされる。同文に見える「津の国の御島」が当社であれば、大山祇神社が大三島瀬戸に鎮座したのが推古天皇2年(594年)とされているので、当社はこれ以前の創建となる。なお、当社では伊豆の三嶋大社へも当社から御魂が遷されたとしている。 一方、事代主神が祭神として祀られていることから、鴨氏の進出が指摘されている。そして、すでに淀川の渡船の神として祀られていた大山祇神(三島神)と事代主神(鴨神)が合祀されたことで、「三島鴨神社」の社名が生まれたとされる。 ●概史 国史では、『日本三代実録』元慶8年(884年)12月21日条に、「摂津国三島神」に対して正六位上から従五位下の神階を授けたという記述がある。また延長5年(927年)編纂の『延喜式神名帳』には、式内社として「摂津国島下郡 三島鴨神社」の記載があり、その論社とされる。ただし、上記のいずれも、他の論社として高槻市赤大路町の鴨神社も指摘される。(wikipedia 三島鴨神社より抜粋) 三嶋大社(みしまたいしゃ、三島大社)は、静岡県三島市大宮町にある神社。式内社(名神大社)、伊豆国一宮、伊豆国総社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 ●祭神 大山祇命・積羽八重事代主神 ●歴史 創建は不詳。後述のように『延喜式』神名帳には伊豆国賀茂郡(伊豆半島南部・伊豆諸島)の所在と記載され、現在地(当時は田方郡)と相違することから、遷座説・郡名誤記説等の諸説が提唱されている。文献上で現在地の鎮座が確実なのは、『吾妻鏡』治承4年(1180年)の記事からである。 現在通説として知られるのは、初め賀茂郡三島郷(伊豆諸島か)、のち賀茂郡大社郷白浜(伊古奈比咩命神社付近か)、さらに田方郡小河郷の伊豆国府(現社地)へと遷座(一説に勧請)したとする説である。一方の郡名誤記説では、『延喜式』の記載を疑い、太古より当地に鎮座とする。以上のほか、「三嶋」の神名から伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)との関係を想定する説もある。 『続日本後紀』の記事によると、承和5年(838年)7月5日夜に上津島(神津島)で激しい噴火が発生した。占いの結果、それは三嶋神の後后が位階(神階)を賜ったにも関わらず、本后たる阿波神(阿波咩命:阿波命神社)には沙汰がないことに対する怒りによるものだと見なされた。同記事では「後后」に関する具体的な言及はないが、これは伊古奈比咩命を指すとされる。この記事を受けて約一ヶ月後には、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神:物忌奈命神社)の神階が無位から従五位下に昇った。(wikipedia三嶋大社より抜粋) 岩利大閑氏の記する通り、上記三社の由緒や創建年代、御祭神等から想起すれば、この徳島県の大山山頂にあった大山住大明神が自ずと全国の大山祇神社の元社であろうことがいえると思います。(チョット検証が長かった…(;´▽`A``)  では、この大山祇神ですが、いったい誰にどのような形で娘を妃に出しているのでしょうか。 まず大山祇神の子に、八岐大蛇退治に登場する足名椎命・手名椎命がおり、その娘、櫛名田比売は後に素盞嗚尊の妃となります。 また、先に記しました通り、素盞嗚尊の二番目の妃である神大市比売も大山祇神の娘。 素盞嗚尊と櫛名田比売との間の子である八島士奴美神も大山祇神の娘である木花知流比売を妃にしています。 天孫降臨の際、瓊瓊杵尊は大山祇神の娘である木花之開耶姫とその姉の磐長姫を娶っていますが、磐長姫は容姿が醜かったので返されたとしています。 そして今回先の例に出しました「稻羽之素菟」の段で、大穴牟遅神が八上比売を娶るため稻羽へ会いに行く件も上記の内容から、その父母である大山祇神と鹿屋野比売神の居る大山へ向かったのではないかと推測できるのです。 このような地理地形的なもので考察ができるところは阿波でないとわからないと思います。 実際は八上比売の父母のことはどこにも記されていませんが、阿波説であれば慣習的なものと併せ考えると、恐らく八上比売は大山祇神の娘であるという推測が成り立つのです。 また、この姫も大国主命が後に迎える須勢理毘売を正妻にしたため、木俣神を残し実家に帰ってしまいます。 これらを簡単にまとめてみますと、 ◆大山祇神の娘の嫁ぎ先 ・スサノオ…子:神大市比売、孫:櫛名田比売 ・大国主命(八島士奴美神)…子:木花知流比売、子:八上比売(美人だが実家に帰る) ・ニニギ…子:木花之開耶姫、子:磐長姫(ブスだったので実家に帰される) 次に、邇邇芸命の息子である火遠理命(ホオリノミコト)一般には山幸彦(ヤマサチヒコ)の話ですが、こちらは海神である大綿津見神の娘の豊玉毘売(トヨタマビメ)を妻とし、日子波限建鵜葺草葺不合命(ヒコナギサタケウガヤブキアエズノミコト 通称:アエズ)をもうけますが、御産の際、八尋和邇(サメと考えられる)になった姿を見られたため(つまり醜い姿を見られたため)、結局のところ海の中へ帰って行ってしまいます。 その後、同父妹である玉依姫が養育しアエズと結婚するのです。  ●大綿津見神の娘の嫁ぎ先 ・ホオリ+アエズ…子:玉依姫、子:豊玉毘売(醜い姿を見られたので帰る) つまり、大国主命の話と邇邇芸命の話は美人かブスかの違いだけで内容は同じであり、先に嫁いだ姉が途中で帰ってしまう話も、「海幸山幸」の説話と「アエズの話」の二つを集合させると結局のところ内容的には同じとなります。 ここで確認できることは、少なくとも大国主命の場合は、自身の系譜(5代孫として水増)にフェイクを施し、ニニギは天孫族として立場を変えフェイク、ホオリとアエズに関しては父方を「山系」から「海系」に変えフェイクし、更に2世代に分けてわからなくさせるという手の施しようで、結局のところ同じ父から途中で帰って(返して)しまった(娘)妃が居るという普遍の構図が成り立つのです。 つまり、『娘を嫁がせた方の父』と『その娘二人』(姉は途中退場)という絶対ルールが成立しているのです。  スサノオにもその理論が当てはまるか、またそれ以前にもその慣例が見られるか更に検証・考察を進めていきたいと思います。 余談ですが、徳島県南の大山祇神社では、魚のオコゼをお祀りすると山の神が悦ぶといいます。 ◆写真はオニダルマオコゼ これは磐長姫と木花之開耶姫の説話の名残りではないかと思われます(´・ω・`)ノ

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  • 07 Oct
    • 徳島県の神明神社から考察

       神明神社は(しんめいじんじゃ)は、天照大神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社である。神明社(しんめいしゃ)、神明宮(しんめいぐう)、皇大神社(こうたいじんじゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などともいい、通称として「お伊勢さん」と呼ばれることが多い。 ●概要 神社本庁によると日本全国に約5千社あるとされているが、一説には約1万8,000社ともいう。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、伊勢信仰に分類される神社は、全国2位(4425社)であるという。(wikipedia 神明神社より抜粋) とあるように全国的に数多くの社を持つあまり珍しくもない神社なのですが、こと阿波国に限ればというと、「神明神社」で検索をかけても16社しかヒットしません。  ・神明神社 徳島県板野郡藍住町住吉字乾90番 ・神明神社 徳島県板野郡藍住町住吉字江端49番 ・神明神社 徳島県徳島市南田宮1丁目2-50 ・神明社 徳島市中常三島町1-31-1 ・神明社 徳島市不動東町4-中筋616-1 ・神明神社 徳島市川内町鈴江字玉里82 ・神明神社 名西郡神山町阿野持部192 ・日吉神明神社 徳島県阿波市土成町水田日吉261 ・神明社  阿波市市場町日開谷遅越249 ・神明神社 美馬郡つるぎ町貞光字吉良388 ・磐境神明神社 徳島県美馬市穴吹町口山 ・神明神社 勝浦郡上勝町旭大栗の下115 ・神明社  阿南市那賀川町上福井元畭22 ・神明神社 徳島県那賀郡那賀町日真日真45 ・神明社  徳島県那賀郡那賀町中山ぼうご18 ・神明神社 徳島県海部郡海陽町芝字居内64番 ◆地図にすると位置はこんな感じ まだあるかも知れませんが、他にあったら教えて下さい(´・ω・`) 中でも有名なのが、徳島県美馬市穴吹町口山に御鎮座する、神道の磐境とも呼ばれています磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)です。 白人神社のすぐ近くに御鎮座します。 ●歴史 安永8年の「白人大明人由来書」によると、寛保年間(1740年代)に発見された。1987年(昭和62年)3月11日、穴吹町の指定史跡に指定され、現在は美馬市指定史跡となっている。徳島県出身の竹田日恵の「竹内文書が明かす超古代日本の秘密」という本で「五社三門」と呼ばれて超古代文明の史跡とされた。(wikipedia磐境神明神社より抜粋) 少し前に日ユ同祖論なる古代ユダヤの話で盛り上がっていたそうですが、今回はこの話では御座いません。(違うんかい) 実は徳島県の南部に一つだけポツンと離れた場所、海部郡海陽町芝に、阿波では数が少ない神明神社が新居神社と共にご鎮座しています。(これがいいたかった) この二社を少し調べてみますと、 神明神社(しんめいじんじゃ)海部郡海陽町芝字山下  神明鳥居でないな(´・ω・`)… ◆御祭神 天照大御神 阿波志に、「天照大神祠、海歳盂春神会二人一偶為射」とあり、 海部町史によると、芝集落の氏神として奉祀され、正月の弓占いの神事は最近まで続けられていました。 芝字山下から新居神社の森に至る低い尾根に沿って、厳島・山神・神明・荒神(こうじん)など多くの神社が祀られています。 海部川の本流と支流の母川との間のほぼ三角形に広がる本庁最大の沖積平野に位置する高園・野江・芝の三つの集落は、古くから三が村といわれ、ほとんどが芝の森の新居神社を氏神としていました。 ◆摂末社 天照大御神以外では、 大山祇命、猿田彦命、天見通命、倉稲魂命、市杵島姫命、奥津彦命、奥津姫命、迦俱土命をお祀りしていますね。 御祭神を調べてみますと、  天照大御神が天の岩戸に隠れた際、岩戸の前で祝詞を唱えた天児屋根命は、天孫降臨の際に邇邇芸命と共に地上に下った。この末裔の天見通命が、垂仁天皇の時代に倭姫命とともに聖地を求めて巡幸し、五十鈴川の川上に鎮座したのが伊勢神宮であると伝える。 荒木田氏(あらきだうじ) 伊勢(いせ)の皇大神宮内宮の禰宜(ねぎ)、権禰宜(ごんねぎ)を1871年(明治4)まで専任した氏。豊受大神宮外宮は別の度会氏が専任。皇大神宮鎮座のとき天見通命(あめのみとおしのみこと)が任ぜられて以降、その子孫が任ぜられることとなり、景行天皇のとき、その居所の地名にちなんで大貫連(おおぬきのむらじ)の姓を賜い、成務天皇のとき、御饌料田(みけりょうでん)として墾田(あらきだ)を奉ったことで荒木田神主姓を賜ったという。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説) カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。 (最近は何でも女体化させてるなぁ) 神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。(wikipedia カグツチより抜粋)  それ以外の神は、 ・大山祇命…『日本書紀』では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。(スサノオの義父等) ・猿田彦命…天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊を道案内した国津神。三輪高宮家系譜では猿田彦命=八重事代主命となっています。◆賀茂一族系図(三輪高宮家系譜) (のらねこ氏のブログ日本を建国した大国主一族という名の阿波忌部 より拝借)<(_ _)> 建速素盞嗚命 - 大国主命(和魂大物主神・荒魂大国魂神) - 都美波八重事代主命(猿田彦神・大物主神) - 天事代主籖入彦命(事代主神・玉櫛彦命) - 奇日方天日方命… 三輪高宮家系譜においては、事代主命が二代でいることもポイントですね(´・ω・`) つまり猿田彦命は大国主命の子の都美波八重事代主命(スサノオの孫) ・倉稲魂命…神大市比売命との間に生まれている子。(スサノオの子) ・市杵島姫命…契約の際、アマテラスがスサノオの剣を噛んで吹き出した霧から生まれた三女神の三女。(スサノオの子) ・奥津彦命、奥津姫命…神大市比売命との間に生まれた大年神の御子神。(スサノオの孫) つまり全てスサノオと繋がる神たちです。 そしてもう一社、 新居神社(にいじんじゃ 別名:新居大明神)海部郡海陽町芝字山下 ◆祭神 御井神 ◆由緒・創建 不詳 芝の森の新居神社は、もと野江の寺山の北のニイクボの泉の傍らにあった祠を三が村の境を接した現在の地に遷して氏宮としたといわれ、 阿波志に、「新居祠 芝村に在り。古鏡一枚を蔵す。慶長十一年(1606年)益田甚蕃允改造す。」とあり、棟札には「明和七庚寅年(1770年)十月」とあり、 恐らく高園・野江・芝の三が村の氏神として古く創建されていた祠を益田氏が祈願所として社殿を重造したものであろう。 …などと記されており、新居神社が高園・野江・芝の三が村の氏神として、また、神明神社が芝集落だけの氏神としてお祀りされております。 ◆御崎神社(本殿向かって左側) ◆轟神社 八幡神社 大将軍神社(右側) 大将軍神社は、天孫降臨の痕跡を示すものと思われる経津主命を祀っており、この社も由緒などは不詳です。 経津主神は、『日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。  第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたために岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が経津主神を生んだとしている。 葦原中国平定では武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。(wikipedia 経津主神より抜粋) …つまりここでは、滝神(スサノオかな・水象女命)、応神天皇、経津主命をお祀りしているのかな(´・ω・`) ミヅハノメは、『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしている。 『日本書紀』の第二の一書では、イザナミが死ぬ間際に埴山媛神(ハニヤマヒメ)と罔象女神を生んだとし、埴山媛神と軻遇突智(カグツチ)の間に稚産霊(ワクムスビ)が生まれたとしている。(wikipedia ミズハノメより抜粋) この新居神社の主祭神である「御井神」を調べてみますと、 木俣神(きのまたのかみ、このまたのかみ)は日本神話の中で、大穴牟遅神が因幡の八上比売に生ませた神。 八上比売は大穴牟遅神の最初の妻であったが、須勢理毘売を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて木俣神という。またの名を御井神(みいのかみ)という。 『古事記』では性別不詳であるが、祭神としている各神社の社伝では、大穴牟遅神の長男としている例が多い。一般的に木の神、水神、安産の神として崇敬されている。(wikipedia 木俣神より抜粋) つまり、この三が村では、大穴牟遅神(大国主命)と八上比売との間に生まれた長男である木俣神(御井神)を氏神として御祭神としています。 また、三が村の一つである寺山古墳群がある野江の地には、祖父木神社があり、 海部町史に、「由緒は詳らかでないが祭神豊受姫神の幸魂久久能智命(くくのちのみこと)は長寿を幸う神として崇められ、病弱な幼児にこの社の祖父をとって命名することが多い。」とあります。 祖父木神社(おじのきじんじゃ)海陽町野江字大谷 祭神である久久能智命を調べてみますと、 ククノチ(クグノチとも)は、日本神話に登場する木の神である。『古事記』では久久能智神、『日本書紀』では句句廼馳と表記する。 (女体化…) 神産みにおいて、イザナギ・イザナミの間に産まれた神である。『古事記』においてはその次に山の神大山津見神(オオヤマツミ)、野の神鹿屋野比売(カヤノヒメ)が産まれている。『日本書紀』の本文では山・川・海の次に「木の精ククノチ」として産まれており、その次に草の精・野の精の草野姫(カヤノヒメ)が産まれている。第六の一書では「木の神たちを句句廼馳という」と記述され、木の神々の総称となっている。 神名の「クク」は、茎と同根で木が真っ直に立ち伸びる様を形容する言葉とも、木木(キキ・キギ)が転じてクク・クグになったものともいう。「ノ」は助詞の「の」、「チ」はカグツチなどと同じく神霊を意味する接尾詞であるので、「ククノチ」は「茎の神」「木の神」という意味になる。(wikipedia ククノチより抜粋) ◆位置関係はこんな感じ 大巳貴命を祀る神社名にある「杉尾」という名称もそうなのですが、この三が村を中心に当地では特に「木の神」をお祀りしており、「木」に対する強い結び付きがあることがわかります。 当地の木の神を主祭神として祀られている神社の痕跡は、これまでに記して来たスサノオの息子である木のエピソードのある大屋毘古神(=五十猛命=天村雲命)、そして同じくスサノオの子の大巳貴命と八上姫との間の子(つまりスサノオの孫)である御井神(=木俣神)との結び付きを示しています。 岩利大閑氏著の「道は阿波より始まるその一」の中の、天皇宮跡について述べられている項に、 『必ずこの王居のあるかたわらに「芝生」「芝原」の地名の邑を備えています。この芝生、芝原、芝山の地名の残る所、必ず王、大王と呼ばれる大人(うし)達の住居があります。皆さん方の地方でこの地名あれば、その土地一帯を注意して、昔から伝えられる伝承を集めお知らせ下さい。応神天皇以後の王都は定着形になってきます。』 と書かれており、 「芝」を冠する地名のある傍らに必ず王居があると記しています。 つまり、当地では祭神的にバリバリの葦原中国の中に、極稀に天津族が祀られているのには意味があり、天孫が下りて来た痕跡、一見するとお祀りされているのに違和感のある祭神を探すことで、天孫降臨当時の姿が朧気に見えてくるかも知れません。 また当地では、神産みにおいてククノチ以降の後半で生まれる神々がお祀りされているのも特徴ともいえます。 この旧海部町域で天照大御神をお祀りする神社がこの一社しかないことや、道は阿波より始まるに書かれている「芝」の意味する内容からも、海陽町芝字山下にある神明神社の存在が案外重要なポイントになってくるのやも知れません。 今後はこの地域から少し広域に神社を調査し、記紀神話のデテールが浮かび上がってくるか考察をしたいと思います(´・ω・`)ノ

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  • 04 Oct
    • 深曽木の儀から考察

       皇室の儀式の中に「深曽木の儀」というのがある。 深曽木の儀(ふかそぎのぎ) 着袴の儀に引き続き行われる。着袴の儀で着用した和服と袴に加え、さらに童形服を別室で着用する。子は松と山橘の小枝を持って碁盤の上に乗り、子の髪を少し切った後、子は掛け声とともに飛び降りる。 もともと、着袴とは独立した儀式だったが、近世までに同時に行うようになった。1970年(昭和45年)の礼宮文仁親王の後、2011年(平成23年)の悠仁親王の際41年ぶりに行われた。従って、この間女子皇族(内親王4名および女王5名)について深曽木の儀は行われておらず、少なくとも現代においては男子皇族のみ行われる儀式である。 着袴の儀・深曽木の儀の終了後、宮中三殿を参拝する。(wikipedia 皇室の儀式より) ◆深曽木の儀セット この説明だと何のこっちゃわからんので、説明しますと、 この日置盤ですが、これは高天原を表わすといわれています。 古伝によりますと、青色の二個の小石は高天原から眺めた地球と月とを意味するものだそうですが…(´・ω・`) この深曽木の儀では、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、それに先立つ着袴の儀で男子は滝の意匠をあしらった和服である落滝津の御服の上に白絹の袴を着付けます。 そして、青石(あおいし)二個を踏み、南側を向いて立ち、御用掛が髪をくしですきそろえ、はさみで毛先を少し切ると、日置盤からぴょんと飛び降りるのです。 徳島県人であればこの赤字にしたキーワードを見るとピンと来る人も居るかも知れませんが、これは高天原から天照大御神の孫、つまり天孫が葦原中国の支配者として降臨した様子を模した儀式がこの深曽木(ふかそぎ→みそぎ)の儀であると思われるのです。 山橘は恐らく酢橘か柚で、共に阿波で産するものの象徴でもあり、青い石は、阿波で採れる青石=多くの古墳等の積石に使用されているもので、これも阿波を象徴するものです。 そして私が注目したのは、「南の方角へ飛び下りる」ということ、つまり高天原から南方へ降臨したということを意味するものではないでしょうか。 実際は高天原がどこにあったのかはわかりませんが、あくまで徳島県に高天原があったとするならば…ということで、その場合、霊峰剣山を中心にとした1000m超級からなる剣山系の山々から南方へ下ったということになります。 この山々を南方へ下った先に、いわゆる本当の天孫降臨があったならば、現在の当地に少なからずその痕跡を見つけ出すことができるはずです。 徳島県南部は、いわば考古的な意味では調査があまり進んでいない地域で、全くのノーマークであるといっても過言ではないでしょう。 現在その多くの地域が過疎化の一途を辿っていますが、往古弥生時代頃は今では考えられないような栄えた場所だったのかも知れません。 天孫降臨(てんそんこうりん)とは、日本神話において、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大神の神勅を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降(あまくだ)ったこと。 邇邇藝命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。 さらに、三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、天叢雲剣)と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私(天照大御神)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。(中略) 天忍日命と天津久米命が武装して先導した。 邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。(wikipedia 天孫降臨より抜粋) また、『先代旧事本紀』によると、十種の神宝をもち、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降ったとされるいわゆる天孫としてニニギより先に天下ったとされる兄の邇藝速日命(ニギハヤヒ)御一行も天孫降臨には違いありません。 そこで、天孫降臨を追うように、海陽町側の北にある山側方面から痕跡を探ってみますと、何故かやたらと「御崎神社」の異様な多さに気が付きます。 日本の神社検索サイト「八百万の神」に記載あるだけでも、 ・御崎神社 海部郡海陽町相川笹無谷72-2 ・御崎神社 海部郡海陽町小川西桑原77-2 ・御崎神社 海部郡海陽町平井大北105-2 ・御崎神社 海部郡海陽町平井平井168 ・御崎神社 海部郡海陽町若松土平13-1 ・御崎神社 海部郡海陽町神野神野前156 ・御崎神社 海部郡海陽町熟田御崎谷17 ・御崎神社 海部郡海陽町浅川中相47 ・御崎神社 海部郡海陽町浅川浦字川ヨリ西168 ザっと見ただけでも10社以上、実際はこのエリア周辺に地図に記載の無い無数の御崎神社が点在しています。(阿南市周辺の蛭子神社群と似ている) 御祭神はみな猿田彦命。 その殆どが北から南へ海部川を沿うようにして川を下るように存在します。 その先は大巳貴命を祀る杉尾神社が点在し、氏神として祀られている地域となります。 ・杉尾神社(杉王大明神) 海陽町櫛川 祭神:大巳貴命 ・杉尾神社(杉尾大明神) 海陽町富田 祭神:大巳貴命・事代主命 ・杉尾神社 海陽町大井 祭神:大巳貴命 他にも海陽町吉野、多良にも杉尾神社が確認できます。  つまり旧海部町側のエリアは大国主命の地であったといえます。 そして、天孫降臨の痕跡を示す大きな手掛かりとなる神社が、海陽町神野のすぐ南西にある相川に、式内社 阿波國那賀郡(海部郡は旧那賀郡から分かれた) 室比賣神社に比定される論社 阿津神社が御鎮座します。 阿津神社(あづじんじゃ)徳島県海部郡海陽町相川阿津1 神社周辺には村山、下村山、室津などの地名が確認できますが、おそらく村山は室山の訛ではないかと想像ができ、神社を挟んで東西に「山」と「津」つまり、「山」と「海」を示しているようにも思えます。 また、村山の緑で囲ったエリアが上空写真でみると古墳のようにも見えますね。 ◆御祭神 木花開耶姫命 ◆創立年代 不詳 往古より室比売神社と称し、遠近の崇敬が厚い。永亨元年(1429)の棟札写に、式内室比売神社とある。明治3年阿津神社と改称。 『阿波志』に「室 比売祠……或は曰く、海部郡相川村室津阿津神是也。相川村に御室祠あり」と。 また 『阿府志』には「室比売神社、相川村室津と云ふ所に在り。安津明神と号す、吾田鹿葦津姫を祭る。又木花咲耶姫、大山祇等大宣津姫之娘也と。述者按には安の字は室の字の誤りならん、無戸室の字なるべし。今安津明神とは謬れるか。室津は此郷の名地 。殊に霊験あらたかに諸人尊敬し、病人痛所等所るに忽ち霊験ありと。今は社も甚微なり」と記す。 『大日本史』に「室比売神社、今在海部郡相川村室津称阿津明神者蓋是」。 『寛保帳』に「相川村三室大明神、神主細野村、惣太夫(式内室比売神社恐是 )」。 『神社覈録』に「室は牟呂と訓べし。比売は假字也。祭神明か也。在所慥ならず。当国神社帳。相川村、御室大明神と云うあり。度会清在云、或云開化皇子日子坐王御子室日古王と云うあり。若狭耳別之祖也。此皇子の后にや。かかる例自余にもあり」。 『海部郡取調廻在録』に「神社、小名室津、阿津大明神、此社は延喜式神名帳 に出たる室比売神社とまふし伝ふ、按に小名室津に御鎮座なればめでたけれ、さて社号の阿字安字も書し事のあるよし、されば室字を誤りて安字を書きしものにあらんか 、いつにても式社とまかいるもかるべし、さて御神徳あらたにて都中はさらなり、土洲などよりもおびたゞしく参詣あるよし。……」とある。 最近の学者等は、現代の地形、人口等をもって他社を室比売神社と推定しているが、 「阿波志」「式社畧号」「神祇史料」等、当社にあてている説が有力である。 (玄松子の記憶より)  ◆木花開耶姫命(コノハナサクヤビメ) コノハナノサクヤビメ(ヒメ)は、日本神話に登場する女神。一般的には木花咲耶姫と記される。また『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。コノハナサクヤビメ、コノハナサクヤヒメ、または単にサクヤビメと呼ばれることもある。『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。 天照大神(アマテラス)の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻。オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギノミコトの妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。(wikipedia コノハナサクヤビメより抜粋) なんとこの地にポツンと木花咲耶姫がお祀りされておりますが、近隣に花姫神社なる神社も海陽町小川に御座います。 ◆御祭神 木花開耶姫命 こちらの神社は御崎神社に挟まれた真ん中にあり、躑躅(つつじ)ゴソ、椋(むく)野々などの花木の地名が近くにありますね。(何か意味がありそう…) そこで今一度、古事記にある天孫降臨の一文を見てみましょう。 <原文> 「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」 「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。 この解釈が諸氏様々なのですが、私はこの部分の解釈を、 「この地(和奈佐)から韓国に向かい、笠沙の岬(御崎)まで真之通(まきとおる=真北に通)じていて、(剣山系の南側であるから)朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。 確かにこの地(和奈佐の港)から国外である韓国へ向かえます。 この事はスサノオと五十猛命の「新羅曽尸茂梨に天降り…」云々の話や、当地の出土物などからもわかります。 決して韓国のある西北の方角を直接示しているのでは御座いません。 次に、笠沙の岬の解釈ですが、これをどこかの「岬」であるかを探すからよくわからなくなるのであって、原文にある「御前」はこの地にある「御崎」=「妃」のことを暗示しているのではないでしょうか そしてこの地周辺をくまなく探しても、妃神である木花開耶姫命の式内社があるにも関わらず、肝心の邇邇藝命(ニニギ)の痕跡や伝承が全く見当たりません。 徳島県全体を見ても、少数ある白人神社の御祭神以外にほぼ邇邇藝命を見つけることができません。 つまり、本当に天下ったのは実は、次男とされる邇邇藝命(存在が疑わしい)ではなく、長男の邇藝速日命(ニギハヤヒ=天火明命)だったのではないかという結論に至るのです。 後の課題として、国津神として天孫降臨の手引き役となった猿田彦命がこの地の御崎神社とどのような関係があるのか。 また、邇藝速日命(ニギハヤヒ)も本当に実在したのかについては今後検証していきたいと思っています(´・ω・`)ノ

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  • 24 Sep
    • 羽衣伝説 Vol.阿波 神宝・遺物から考察

       結構長編シリーズとなっておりますが、 まずは、元伊勢 籠神社のご神宝をご覧いただきましょう。 ◆神宝 海部氏伝世鏡  息津鏡(学名 内行花文長宜子孫八葉鏡)・邊津鏡(学名 内行花文昭明鏡) 昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えたこの二鏡は、元伊勢の祀職たる海部氏が當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され来ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。 又、息津鏡は後漢時代で今から一九五〇年位前のものである。そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替りごとに、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。 現存最古の国宝海部氏系図並びに二千年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう。(籠神社HPより) 羽衣伝説シリーズでいうところの徳島県の出発地(出港した場所)と予想される海陽町鞆浦字那佐(旧 和奈佐)から程近い距離にある、同町野江に、3世紀初頭の墳丘墓とされる寺山古墳群がある。 当時の記事が確認できるので貼っておきます(^ω^)ラクチン この寺山3号墳から内行花文鏡が出土しています。 記事によれば、現在全国で最古の前方後円墳の原型とされる萩原墳丘墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)からも同じく内行花文鏡が出土していることから、少なくとも徳島県の海岸沿い側にあったとされる長國には、大陸側(当時の中国)と交易ができる程の航海術があったことが確実となっております。 この寺山古墳群のある場所から僅か北東200mの位置にある芝遺跡。 ◆芝遺跡 この芝遺跡の発掘に携わった林田真典氏によるレポートから内容を抜粋掲載させて頂きますと、 古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃~古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。 最も多いのは徳島で、おそらく吉野川下流域や鮎喰川流域で製作された土器が運ばれたと考えられます。 今の所、これだけ多くの他地域産の土器が出土した遺跡は、県内では見つかっていません。 特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、出土点数は限られてきます。 ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、多く土器が出土したと考えられます。 おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していた。 芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域や紀伊からの搬入品が認められる。 弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。 古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。 この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。 この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。 ◆和奈佐との位置関係はこんな感じ ついでに萩原墳丘墓との位置関係を地図で示しますとこんな感じ。 これは往古徳島県の海岸沿いにあった長國の範囲内とも一致します。 萩原墳丘墓は、弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されています。 1号墳からは中国鏡と確認ができる画文帯神獣鏡も出土しています。 ◆舶載画文帯同向式神獣鏡 面径16.1cm、内区欠、3世紀楽浪・帯方郡を通じ輸入(優品) ◆楽浪出土画文帯同向式神獣鏡 萩原墳丘墓が発見され、発掘される前までは、奈良県にあるホケノ山古墳が日本最古の前方後円墳とされておりました。 ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳である。2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。現在、復元整備され一般に公開されている。 地図にするとこの辺り ●概要 所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。 被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。 築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている。 墳形:纒向型前方後円墳(葺石あり)、円墳に短い前方部を東南方向に付けている。 規模:全長約80メートル。後円部径約55メートル(約60メートル)3段築成、前方部長約25メートル(約20メートル)、後円部高さ約8.5メートル、前方部高さ約3.5メートル。周濠幅約10.5-17メートル(西側のほうが広い)。 発掘調査:1999年9月から奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって実施された。 ●埋葬施設 墳頂部(後円部)の中央から「石囲い木槨」出土。大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設。その内部にコウヤマキ製の5メートルの刳抜式木棺を納めた大規模な木槨。広義の割竹形木槨。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいる。棺内は水銀朱で覆われていたと思われる。 前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬している。くびれ部に簡単な埋葬施設1基あり。 上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室がある。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に営まれたものと考えられる。石室全長14メートル以上。玄室に組合式家形石棺。 ●副葬品・出土遺物 大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル) 中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル) 銅鏃 約60本 鉄鏃 約60本 素環頭大刀 1口 鉄製刀剣類 10口 加飾壺 画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面 画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片 鉄製農工具 二重口縁壺20体(庄内式) 布留0式土器3点 (wikipedia ホケノ山古墳より) 昨年徳島県海陽町で開催された「古代阿波の海洋民と大和」と題した石野博信氏(ホケノ山古墳発掘に携わった)の講演時の資料を見てみますと、 ◆ホケノ山古墳 金属製品出土状況模式図 この中にwikipediaには記されていない鉄製品の「ヤス」があります。 やす【 簎 ・ 矠 】 長い柄の先に数本に分かれたとがった鉄の金具を付けた漁具。魚介類を刺して捕らえる。銛(もり)に比べて小形で,普通,手に持って刺して捕らえる。(Weblio 辞書 歴史民俗用語) 簎/矠 ヤス 漁具の一。長い柄の先に数本に分かれた鋭い鉄をつけ、魚介を突いて捕らえるもの。(コトバンク) 要するに、奈良県の山の上の古墳から、海人の遺物が出土したということ。 皆さんご存知の通り、奈良県には海はありません。 これは海人の入植を意味示すと捉えた方が自然ではないでしょうか? 他の出土物から見ても、先進技術を持った祭祀集団であったことがわかります。 また、同資料に、箸中山古墳(箸墓古墳)のことが書かれており、 4世紀前半の鞍と鐙が付いた馬の埴輪が出土しています。 このことからも箸墓古墳を卑彌呼の墓と比定しておられる方はどのような主張があるのでしょうか まさかそこから出たものは関係が無いとか、更に60~80年後に埴輪を埋めなおしたとでもいうのでしょうかね  ここに私が入手した昭和55年の寺山古墳発掘調査概報というのがあり、中身を見てみますと、 後方部北面は墳丘が崩れて裾が明瞭ではない。またくびれ部東辺りも墳丘の崩れが大きく等高線がみだれている。 後方部は完全な方形を示すのではなく、中央部がややふくらんだ状態になっている。後方部頂部に河原石列が露呈しており、埋葬施設の一部と考えられた。 とあり、1号墳が円墳であるのに対し、3号墳は当時前方後方墳であるとされてきましたが、このような記述と、昨年の講演時の資料にあった菅原康夫氏による寺山墳丘墓復元図を見てみますと、 これは明らかに前方後円墳として見られているのではないのでしょうか(この時にはそのような発表は無かったと思われる)  寺山古墳発掘調査概報の内容と照らし合わせると、その可能性が高まっているといったところでしょうか。 この3世紀初頭の墳丘墓はすでに跡形も無く消滅し、現在は保育園のお芋畑に変化しております(´・ω・`) 上記から時代を追って行きますと、海を駆け巡った長國の海人族を通じて、中国から阿波に、そして更には畿内域(この場合丹波・奈良)へと進出した痕跡を標すものではないのでしょうか。

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    • 天女(豊受大神)から考察

       結局何だかんだいってシリーズとして話が続いている訳なんですが(´・ω・`) 和奈佐彦と共に同行した天女である「豊受大神」とはいったいどのような神であったのかということで、伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神(トヨウケビメ)と同神とされる大宜都比売・宇迦之御魂も含めてこれらの神々を調べてみましょう。 ◆大宜都比賣(オオゲツヒメ) オオゲツヒメ(オホゲツヒメ、オオゲツヒメノカミ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。 ●概要 名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。『古事記』においては、国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて表れる。その後の神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれたとの記述がある。阿波国の名前が大宜都比売とされていることについては、阿波を穀物の「粟」に掛けただけの後附けともされるが、逆に穀物神の大宜都比売が祀られていた国であるからアワの国と呼ばれるようになったとする説もある。 ●説話 高天原を追放されたスサノオは、空腹を覚えてオオゲツヒメに食物を求め、オオゲツヒメはおもむろに様々な食物をスサノオに与えた。それを不審に思ったスサノオが食事の用意をするオオゲツヒメの様子を覗いてみると、オオゲツヒメは鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。スサノオは、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、オオゲツヒメを斬り殺してしまった。すると、オオゲツヒメの頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。 ●解説 オオゲツヒメは『古事記』において五穀や養蚕の起源として書かれているが、『日本書紀』では同様の話がツクヨミがウケモチを斬り殺す話として出てくる。なお、ここでオオゲツヒメはスサノオに殺されている筈だが、後に大年神の系譜においてハヤマトの妻として八神を生んだとの記述がある。穀物・養蚕の神として信仰されるが、後に同じ穀物の神である稲荷神と混同されるようになり、ウカノミタマの代わりに稲荷社に祀られていることがある。(wikipedia オオゲツヒメより抜粋) 古事記の国生みで書かれた神々の中で、何度も物語に現れるのは実は阿波国の大宜都比賣(おおげつひめ)のみです。  この大宜都比賣(おおげつひめ)の「ケ」は、古語で食のことを「ケ」といい、後に、生きていく上で不可欠な「衣・食・住」のすべてを「ケ」で表現し、今日、「気」という言葉が、元気・勇気・やる気・気にする・気がない・気が早い・けがれ(気が枯れる)等々、日常にも使われ、物質的なものにとどまらず本源的エネルギーも含め「気」が使われています。 ◆宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)  ウカノミタマは、日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた。 伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。ただし、稲荷主神としてウカノミタマの名前が文献に登場するのは室町時代以降のことである。伊勢神宮ではそれより早くから、御倉神(みくらのかみ)として祀られた。 『古事記』では、スサノオの系譜において登場し、スサノオが櫛名田比売の次に娶った神大市比売との間に生まれています。 ●史料における記載 鎌倉時代に伊勢神宮で編纂された「神道五部書」には、内宮と外宮の主な社殿と祭神が記されている。その一つ、『御鎮座伝記』では内宮について、「御倉神(みくらのかみ)の三座は、スサノオの子、ウカノミタマ神なり。また、専女(とうめ)とも三狐神(みけつかみ)とも名づく。」と記される。 外宮についても、「調御倉神(つきのみくらのかみ)は、ウカノミタマ神におわす。これイザナギ・イザナミ 2柱の尊の生みし所の神なり。また、オオゲツヒメとも号す。また、保食神(うけもちのかみ)とも名づく。神祇官社内におわす御膳神(みけつかみ)とはこれなるなり。また、神服機殿に祝い祭る三狐神とは同座の神なり。故にまた専女神とも名づく。斎王専女とはこの縁なり。また、稲の霊もウカノミタマ神におわして、西北方に敬いて祭り拝するなり。」と記される。 記紀神話に登場する食物神は、天照大神や天皇の食事を司ることから「御饌津神」(みけつかみ)とも呼ばれるが、ウカノミタマには「三狐神」の字が当てられている。これは関西方言では狐を「ケツ(ネ)」と呼んだことから付けられたといわれる。 また、『日本書紀』ではウカノミタマを倉稲魂命と表記し、伊勢神宮でも御倉神として祀られることから、この神は五穀の神である食物神の中でも、特に稲倉に関係の深い神ではなかったかとも考えられている。(wikipedia ウカノミタマより抜粋) 伊勢神宮編纂の『御鎮座伝記』に、「ウカノミタマ神をオオゲツヒメとも号す」とあるように同神としています。 また『日本書紀』ではウカノミタマを倉稲魂命と表記していますので、こちらも同じく同神扱いで間違いないでしょう。 そして最後に、 ◆豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ) トヨウケビメは、日本神話に登場する神である。 豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている。『古事記』では豊宇気毘売神と表記される。『日本書紀』には登場しない。別称、豊受気媛神、登由宇気神、大物忌神、豊岡姫、等由気太神、止与宇可乃売神、とよひるめ、等々。 ●神話での記述 『古事記』では伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂命)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった。 伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。 『丹後国風土記』逸文には、奈具社の縁起として次のような話が掲載されている。丹波郡比治里の比治真奈井で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出され、あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった。この天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという。 尚、『摂津国風土記』逸文に、止与宇可乃売神は、丹波国に遷座する前は、摂津国稲倉山(所在不明)に居たとも記されている。また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という。(wikipedia トヨウケビメより抜粋) そもそも伊勢神宮外宮にて奉祀されているのが豊受大神です。 wikipediaに記載されている通りであれば上記神と全くの同神なはずです。 これまでの考察で、件の羽衣伝説の人物を仮に比定してみますと、 ・和名佐彦…天火明命 = 饒速日命(スサノオの子か孫) ・同行者…天村雲命 =大屋毘古神 = 五十猛命(スサノオの息子) ・天女…豊受大神 = 大宜都比売 = 宇迦之御魂(スサノオの娘) …という仮説が成り立ちます。 つまり、和奈佐彦御一行は、 「スサノオの子等だったのではないか?」 ということになります。 実はここに出てくる登場神は「記紀」において様々な矛盾点が指摘される神でもあります。 天火明命(饒速日命)については長くなるので今回は割愛させて頂きますが、まずそれらを列記しておきましょう。 【大宜都比賣】(宇迦之御魂神・豊宇気毘売神と同神) 『古事記』においては、国産みにおいて伊予之二名島(四国)の中の阿波国の名前として初めて表れる。その後の神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた。 ・大事忍男神(オオゴトオシオ) ・石土毘古神(イワツチヒコ) ・石巣比売神(イワスヒメ) ・大戸日別神(オオトヒワケノカミ) ・天之吹男神(アメノフキオノカミ) ・大屋毘古神(オオヤヒコノカミ) ・風木津別之忍男神(カザモツワケノオシオノカミ) ・大綿津見神(オオワタツミノカミ) ・速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ) ・速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ) ・志那都比古神(シナツヒコ) ・久久能智神(ククノチノカミ) ・大山祇神(オオヤマツミ) ・鹿屋野比売神(カヤノヒメノカミ) ・鳥之石楠船神(トリノイワクスブネノカミ) ・大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ) ←ココ ・火之加具土神(ホノカグツチノカミ) 『古事記』によると、オオゲツヒメは高天原を追放されたスサノオに斬り殺されてしまいますが、後に羽山戸神と婚姻して八人の神を生んでいます。 『日本書紀』では同様の話が月夜見尊が保食神(ウケモチ)を斬り殺す話として出てきます。 【宇迦之御魂神】(大宜都比賣・豊宇気毘売神と同神) 『古事記』では、スサノオとカムオオイチヒメとの間に生まれた子。大年神とは兄妹。 『日本書紀』では本文には登場せず、神産みの第六の一書において、イザナギとイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。 【豊宇気毘売神】(大宜都比賣・宇迦之御魂神と同神) 『古事記』ではイザナミの尿から生まれた稚産霊(ワクムスビ)の子。 『日本書紀』には登場しないが、これを保食神(ウケモチノカミ)とすると、神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容から女神と考えられる。 【大屋毘古神】(五十猛命・天村雲命と同神) 『古事記』において、イザナギ・イザナミによる国生みの後、 建物関連の神、海神、水戸神などの神々を生んだ。家屋の神。木の神。 ・大事忍男神(オオゴトオシオ) ・石土毘古神(イワツチヒコ) ・石巣比売神(イワスヒメ) ・大戸日別神(オオトヒワケノカミ) ・天之吹男神(アメノフキオノカミ) ・大屋毘古神(オオヤヒコノカミ) ←ココ ・風木津別之忍男神(カザモツワケノオシオノカミ) ・大綿津見神(オオワタツミノカミ) ・速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ) ・速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ) ・志那都比古神(シナツヒコ) ・久久能智神(ククノチノカミ) ・大山祇神(オオヤマツミ) ・鹿屋野比売神(カヤノヒメノカミ) ・鳥之石楠船神(トリノイワクスブネノカミ) ・大宜都比売神(オオゲツヒメノカミ) ・火之加具土神(ホノカグツチノカミ) 『古事記』において八十神に迫害された大穴牟遅神を木国にて木の股をくぐらせて須佐能男命のいる根の堅州国へ逃がした神。 須佐之男命の御子で、紀伊国の神として、大屋毘古神と五十猛命を同神とする説がある。 五十猛命とすると、スサノオと櫛名田比売との子とされる。 天村雲命とすると、記紀には登場しない。剣として登場するのみである。 国宝海部氏系図において、始祖天火明命の孫(海部家三代目)として記録されている。 以上のことから考え得るケースとして、 『記紀』は時系列で書かれておらず、適宜継接ぎしながら、話を盛りに盛ってわざと系譜を分からなくさせているように思えます。 いわゆる意図的に混乱させるために改竄しているということ。 特に天女である神は「記紀」には殆ど扱われず、入念な仕掛けを施しており実に分かりにくくされてあるようにも思えます。 それとは別に、 「イザナギとイザナミは実はスサノオとその妻である」といった解釈もアリになってくるでしょう。 国生みで生まれた阿波国の女神である大宜都比売に関しましては、スサノオが高天原を追放され出雲の地に降り立つという流れの中で、なぜ大宜都比売を殺し五穀を得た説話が先に来るのか。(そもそも国生みの中に出雲国はないですが…) 高天原の途中に阿波があり、そこを経由して出雲へ至ったのか、高天原から移動した先の阿波に出雲もあったということなのか…。 また、豊受大神については、伊勢神宮外宮にお祀りされている神であるにも関わらず、「記紀」での扱いについては出番も少なく、非常に薄い扱いであるといえます。 同神とされる宇迦之御魂神も同様な扱いであるといえるでしょう。 更にいえば天村雲命に関しては「記紀」には記録すらされていません。 今日の扱いと「記紀」での扱いとのギャップに見え隠れする当時の意図とは何だったのか。 この件につきましては、後の宿題として結論は先送りにさせて頂きます。 そしてシリーズはズルズルと名を変え続くのである(´・ω・`)ノ

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  • 18 Sep
    • 天村雲命から考察

       表題は変わりましたが、羽衣伝説 Vol.阿波 ③からの続きとなります。  ここでは「天村雲命」について考察してみます。 まず、「天村雲命」・「天牟羅雲命」などで検索をかけてみますと、我が国の重要な神であるにも関わらず共にwikipediaに記録されていません。(またか…) wikipediaでは「天叢雲剣」がヒットしますのでそこから概略だけ書いておきますと、 ◆天叢雲剣(別名:草薙之剣) ※画像はイメージです(´・ω・`)   天叢雲剣は草薙剣の別称で、三種の神器の一つ(八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)。 三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる。 日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に、大蛇の体内(尾)から見つかった神剣である。八岐大蛇退治に至る経緯と、神剣の名称については古事記・日本書紀で複数の異伝がある。 スサノオは、八岐大蛇由来の神剣を高天原のアマテラスに献上した。 続いて天孫降臨に際し他の神器と共にニニギノミコトに託され、地上に降りた。 崇神天皇の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたという。景行天皇の時代、伊勢神宮のヤマトヒメノミコトは、東征に向かうヤマトタケルに神剣(天叢雲剣/草薙剣)を託す。ヤマトタケルの死後、草薙剣は神宮に戻ることなくミヤズヒメ(ヤマトタケル妻)と尾張氏が尾張国で祀り続けた。これが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られている。(中略) ●動向 - 神代 高天原から出雲国に至ったスサノオ(素戔嗚尊)はクシナダヒメ(櫛名田比売《古事記》、奇稻田姫《日本書紀》)を助けるため、十拳剣でヤマタノオロチ(八俣大蛇/八俣遠呂知《記》、八岐大蛇《紀》)を切り刻んだ。 このとき、尾を切ると十拳剣の刃が欠け、尾の中から鋭い大刀が出てきた。古事記では、まず都牟刈の大刀(つむがりのたち)と言及する。続いて草薙剣(草なぎの大刀)と表記する。 日本書紀、神代紀上第八段本文の注には「ある書がいうに、元の名は天叢雲剣。大蛇の居る上に常に雲気(くも)が掛かっていたため、かく名づけたか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙劒と曰ふといふ」とある。 スサノオは『是神(あや)しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安(お)けらむや〔これは不思議で霊妙な剣だ。どうして自分の物にできようか〕』(日本書紀、第八段本文)と言って、高天原の天照大神(アマテラス)に献上した。古語拾遺では天神(あまつかみ)と表記している。 一方、ヤマタノオロチを殺して欠けた十拳剣(十握剣)は、大蛇之麁正(をろちのあらまさ)、もしくは天羽々斬之剣/天蠅斫剣(あめのはばきりのつるぎ)として石上神宮(石上布都魂神社)に祭られた。 書紀(第三の一書)では、「蛇韓鋤(おろちのからさひ/おとりからさひ)の剣」として吉備の神部に祀られた。 鹿島神宮ではスサノオの十握剣と伝承される長刀を展示しており、国宝に指定され一般公開されている。 草薙剣(草那芸剣)は天孫降臨の際に、天照大神から三種の神器としてニニギ(瓊瓊杵尊)に手渡され、再び葦原中国へと降りた。各神話で差異がある。古事記では『八尺の勾玉、鏡、草薙剣』、日本書紀・第一の一書では『曲玉、八咫鏡、草薙剣』、古語拾遺では「八咫鏡、薙草剣(矛、玉)」、日本書紀の中には言及しないものもある。 ●動向 - 人代 ニニギが所有して以降、神武天皇東征や欠史八代等で天叢雲剣(草薙剣)がどのように扱われていたかは、古事記・日本書紀とも記載していない。 皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に、皇女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫命)により、八咫鏡とともに皇居の外(倭の笠縫邑)で祀られるようになった。『古語拾遺』には子細が語られている。天目一箇神とイシコリドメの子孫が『神鏡』と『形代の剣』(もう一つの草薙剣)を作り、天皇の護身用として宮中に残された。 神威はオリジナルと変わらなかったという。 続いて崇神天皇の命令を受けた豊鍬入姫命は、倭の笠縫邑に神鏡と草薙剣を祀った。 垂仁天皇の時代、ヤマトヒメ(倭姫命)に引き継がれ、トヨスキイリヒメから、合わせて約60年をかけて現在の伊勢神宮・内宮に落ち着いた(「60年」以降の部分は『倭姫命世記』に見られる記述である。詳細記事:元伊勢)。この時点で、天叢雲剣は伊勢神宮で祀られることになった。(以下略)(wikipedia 天叢雲剣より抜粋) 次に、前項にも書きました「天村雲命」の別名である ・天五多底命(あめのいだてのみこと) この”いだて”について検索致しますと、まず「伊達」がヒットします。 更に神社について調べてみますと、 伊達神社(だてじんじゃ)は、『延喜式』神名帳で丹波国桑田郡に記載される式内社。次の2社が論社とされている。 ・伊達神社(京都府亀岡市宇津根町東浦1-2) ・伊達神社(京都府亀岡市余部町加塚16) ◆祭神 五十猛命 伊達神社(いだてじんじゃ)は、宮城県加美郡色麻町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。 鳴瀬川の支流・花川の左岸にある円墳「御山古墳」の上に鎮座する。 ◆祭神 五十孟神・経津主神・武甕槌神 伊達神社(いたてじんじゃ)和歌山県和歌山市園部1580にある式内社。紀伊國名草郡名神大旧郷社。 ◆祭神 五十猛命・神八井耳命 相殿 市杵島姫命 社名(神名)は、「以多知(イタチ)」と読むが、現社名は、いたて。とある。 射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は、兵庫県姫路市にある神社。播磨国総社で、播磨地域では濁らずに「そうしゃ」、「そうしゃさん」と呼ばれる。社格は、式内小社、県社。姫路城の中曲輪内に位置する。60年に1度の一ツ山大祭、20年に1度の三ツ山大祭が有名。 ◆祭神 射楯大神(五十猛尊) ・兵主大神(伊和大神、大国主命) ◆神門 ◆総社御門 ◆由緒・歴史 『播磨国風土記』より、8世紀以前に飾磨郡因達里(いたてのさと)因達神山(比定地:八丈岩山、姫路市辻井・田寺・新在家)に伊太代神(射楯神)。 嫉妬するぐらい御立派な構えですわん(ノ∀`)さすが播磨国総社 つまり、多くの読みが伊達(いた(だ)て)、射楯(いたて)と読む神社の御祭神がいずれも、五十猛命をお祀りしているのです。 ちなみに「伊達」はそもそも”いだて”と読み、伊達氏の姓を”だて”と読むように変遷したのが江戸期からだといわれています。 あらためまして、この「五十猛命」について検索してみますと、 五十猛命(いたけるのみこと) 別名 伊太祁曾神(いたきそのかみ)・射楯神(いたてのかみ) 建速須佐之男命と櫛名田比売命の御子。 大屋津姫命、抓津姫命の兄神。 速須佐之男命が追放された後、その御子五十猛神を伴って新羅に渡り、曾戸茂梨に居られたが、この地に住むことを嫌い、埴土の舟に乗って、出雲国簸の川上にある鳥上の峯に到り、八俣大蛇を斬って神剣を得た。 五十猛神は新羅に渡る時、多くの樹木の種を持って降られたが、それを韓国に植えず、 すべて我が国土に植えたので大八洲はどこも青々と繁茂した山々をみることができたといわれ、木の神、有功之神とも呼ばれている。 五十猛神と、妹神大屋津姫命、末妹抓津姫命の三神は、父神に連れられて紀ノ国に渡られた。 また、建速須佐之男命が全身の毛を抜いて木々とし、五十猛神は妹達(大屋津姫命・抓津姫命)と国中を回って植えた。 五十猛命は、『古事記』大国主命の条に出てくる大屋毘古神や、木俣神と同神とされている。(玄松子の祭神記より) またwikipediaには、 五十猛神(イソタケル)は、日本神話に登場する神。「イタケル」とも読まれる。『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場するが、『古事記』に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とされる。射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる。須佐之男命(スサノオ)の子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメは妹。 『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述から、五十猛神は林業の神として信仰されている。紀伊は古来より林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある。紀伊国(かつては「木の国」と言った)に祀られているとの記述と『先代旧事本紀』分注に「亦云 大屋彦神」とあることから、『古事記』で大穴牟遅神(オオナムジ、後の大国主)がその元に逃げ込んだ木国の大屋毘古神と同一神とされる。イザナギ・イザナミの子である大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。 『日本書紀』 卷第一でヤマタノオロチ退治が述べられている第八段第四の一書において 一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇 素戔嗚尊 乃以天蝿斫之劔 斬彼大蛇 時斬蛇尾而刃缺 即擘而視之 尾中有一神劔 素戔嗚尊曰 此不可以吾私用也 乃遺五世孫天之葺根神 上奉於天 此今所謂草薙劔矣 初五十猛神 天降之時 多將樹種而下 然不殖韓地、盡以持歸 遂始自筑紫 凡大八洲國之内、莫不播殖而成青山焉 所以 稱五十猛命 爲有功之神 即紀伊國所坐大神是也 とあり天(『古事記』では高天原)を追放された素戔嗚尊とともに新羅曽尸茂梨に天降り、スサノオがこの地吾居ること欲さず(「乃興言曰 此地吾不欲居」)と言ったので、一緒に埴土船で渡って出雲斐伊川上の鳥上峯に至ったとある。五十猛神が天降る際に多くの樹木の種を持っていたが、新羅には植えずに全てを持ってきて、九州からはじめて大八洲国に植えたので、青山に被われる国となったという。 同段の第五の一書では、 一書曰 素戔嗚尊曰 韓郷之嶋 是有金銀 若使吾兒所御之國 不有浮寶者 未是佳也 乃拔鬚髯散之 即成杉 又拔散胸毛 是成檜 尻毛是成柀 眉毛是成櫲樟 已而定其當用 乃稱之曰 杉及櫲樟 此兩樹者 可以爲浮寶 檜可以爲瑞宮之材 柀可以爲顯見蒼生奥津棄戸將臥之具 夫須噉八十木種 皆能播生 于時 素戔嗚尊之子 號曰五十猛命 妹大屋津姫命 次枛津姫命 凡此三神 亦能分布木種 即奉渡於紀伊國也 然後 素戔嗚尊 居熊成峯 而遂入於根國者矣棄戸 此云須多杯 柀 此云磨紀  …とあり素戔嗚尊が鬚髯から杉、胸毛から檜、尻毛から槇と榧、眉毛から楠など体毛を抜いて作った各種の樹木を、二柱の妹神(大屋津姫命と枛津姫命)とともに全国に植えたとあり、どちらの一書でも、今は紀伊に祀られているとしています。 つまり、前述から更に纏めますと、 (ニギハヤヒの系譜である)天村雲命(天五多底命:あめのいだてのみこと) = (スサノオの御子)五十猛命(射楯神:いたてのかみ)=大屋毘古神 更にこれらは「木」と密接な関係があることを示唆しているということになります。 五十猛命は、父であるスサノオと共に新羅へ遠征しており、この時の説話にこの命のキーワードとなる「木」についての記述が記されています。 古代に植樹されていたという痕跡は今のところ不明で、日本では、室町中期まで植林が行われず、浪費するばかりで、木がなくなってしまったといいます。 南北朝の動乱で、京都・畿内近国は戦場と化し、森林資源の浪費に拍車をかけました。 京都五山の造営が始まった頃には、畿内の森林は伐り尽くされ、用材は遠隔地の山奥へと求められました。 しかし、大木があるだけでは伐り出しても運べず、海に近いか、いかだ流しができる大河川の流域沿いであることが必須であったためその結果、東山道の美濃・飛騨と、南海道の阿波・土佐が選ばれた。との記録があります。 スサノオの時代に植樹や種から木を育てたかというとチョット疑問ではありますが、この時代に急速に広まった水耕農作に伴って国土拡大に最も重要であったとされる資材が「木」であったことは言うまでもありません。 農具やあらゆる建造物全てが木を素材とし、それを運ぶのは船だったはずです。 往古より漁業と林業は互いに密接な関係にあったということは想像に難くありません。 ここでは亦名同神として天村雲命と五十猛命が同じ神人であるとサラっと書きましたが、根拠を持った私説ですから推し進めて行こうと思います。 ただし、今後も入念に検証・考察をしなければいけませんが…。 これがもしそうであったと仮定すれば… 記紀神話の舞台が「阿波国」の話であったと仮定すれば、辻褄がドンドン合ってきますから納得のいく説明が付きやすくなりますね。 …さて、次に肝心の天女の話に戻るのですが、 和奈佐彦と一緒にいた天女(豊受大神)とは? 外宮の御祭神は、豊受大御神で、一般に五穀の女神である大宜都比売(おおげつひめ)と同神であるといわれています。 大宜都比売は、古事記 国産み神話において、阿波国の別名として記されています。 次項に続きます。

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      テーマ:
  • 11 Sep
    • 羽衣伝説 Vol.阿波 ③

       ②からの続きです。 …再び話を丹後国に戻しまして、 福知山元伊勢三社 元伊勢外宮豊受大神社は京都府福知山市大江町字天田内船岡山に鎮座。 ◆御祭神 豊受大神 ちなみに、他の二社は、 元伊勢内宮皇大神社 ◆御祭神 天照大神 皇大神社の奥宮とされる 天岩戸神社 ◆御祭神 櫛御毛奴命 がある。 そして元伊勢として非常に有名な社が丹後国一宮の籠神社(このじんじゃ)なのですが、その宮司家が「海部氏」なのです。 籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。 式内社名神大社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏が神職を担当している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。 ◆主祭神 彦火明命 (ひこほあかりのみこと) 、「天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。社家海部氏の祖神。 ◆相殿神 豊受大神(とようけのおおかみ)・天照大神(あまてらすおおかみ)・海神(わたつみのかみ)社家海部氏の氏神・天水分神(あめのみくまりのかみ) ●創建 社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。 その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。 そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。 その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。 奥宮である真名井神社には海神らしく狛犬ならぬ狛龍がいます。 で、和奈佐彦と豊受大神(天女)らのその後の痕跡なのですが、伊勢神宮のホームページの外宮 - 正宮 - 豊受大神宮の「由緒と沿革」に書かれてありますように、 ◆伊勢神宮:外宮 豊受大神宮 豊受大神宮のご鎮座は『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本紀』によると、雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所にのみ坐せば甚苦し」ということと、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。 最終的に、第21代雄略天皇が等由気大神を丹波国より現在の伊勢神宮へ移したということになります。 ◆豊受大御神の痕跡経路 籠神社の社家海部氏に伝わる海部氏系図(あまべしけいず)は、1976年6月に古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として、国宝の指定を受けています。 ◆国宝『籠名神社祝部氏系図』(海部氏本系図-1) 始 籠名神社祝部氏系図 丹後国与謝郡従四位下籠名神従元于今所斎奉祝部奉仕海部直等之氏 養老三年(719年)巳未三月廿二日 籠宮天下給 始祖彦火明命 正哉吾勝也速日天押穂耳尊第三御子 -三世孫倭宿弥命 -孫健振熊宿弥 ■若狭木■■髙向□□海部直姓定賜■■■賜國■仕奉■品田天皇■□ -兒海部直都比 -兒海部直縣 - …  (■は難読文字、□は不明文字) ◆国宝海部氏勘注系図-前書 ◆国宝海部氏勘注系図-巻首 …などがあり、系譜を整理しますと、 勝速日(天忍穂耳尊) - 始祖 彦火明命(饒速日と同神とされる) -天香語山命 -天村雲命 - 倭宿弥命(椎根津彦) -笠水彦命 -笠津彦命 -建田勢命…19代目健振熊宿弥が品田天皇(応神天皇)の時に「海部直」を賜り国造として仕えた旨が記載されています。 この中で始祖である彦火明命(饒速日)の孫にあたる天村雲命についてなのですが、 伊勢神宮外宮の祭祀を代々司ってきたのが度会(わたらい)氏で、その度会氏に伝えられてきたのが度会神道、一般的に言われている伊勢神道であり、この根本経典として伝わるのが「神道五部書(しんとうごぶしょ)」です。 ・『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記) ・『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記) ・『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記) ・『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記) ・『倭姫命世記』 この五部書の中の『豊受皇太神御鎮座本記』に、 天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也 と書かれており、阿波國に座す二社が皇祖皇統の正統なる末裔であり、伊勢大神主の祖であると記されてあるのです。 その他にも天村雲命に関するものの記述として、 『旧事本紀』「国造本紀」に、 伊勢国造。橿原朝(神武天皇の御世)、天降る天牟久怒命(天牟羅久怒)の孫天日鷲命を勅し賜いて国造に定む、また天日鷲命は伊勢国造。即ち伊賀伊勢国造(いがいせのくにのみやつこ)の祖。 『神宮雑例集巻』に、 天牟羅雲命、国常立尊十二世孫、度会遠祖など見ゆ。その孫「天日別命」は神武朝伊勢国造となれり。 『天神本紀』では、 度会神主等祖、天牟良雲命。 『天孫本紀』では、 尾張氏の祖 などが確認できます。 つまり、伊勢外宮の神主である渡会氏は、阿波国に居た天村雲命の後裔であり、国常立尊十二世孫・神皇産霊神六世之孫で、皇孫であるとしています。 また、孫である天日鷲命が伊賀・伊勢国造(神武朝)になったと記しているのです。 ※天日鷲命についてはまた別の機会に書く予定です。  …ここであらためて籠神社の鎮座地周辺を地図で見てみますと、、、 すぐ近くに日本三景として有名な「天橋立」が御座います。 三種の神器(みくさのかむだから)のひとつで天村雲命の名を冠する剣が「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」がありますが、この天村雲命の別名が、 ・天二上命(あめのふたのぼりのみこと) ・後小橋命(のちのおばしのみこと) ・天五多底命(あめのいだてのみこと) 式内社天村雲神社が鎮座する、徳島県吉野川市山川町は元、忌部郷と射立郷の二郷からなっており(『和名抄』 にある阿波国麻植郡射立郷(伊多知))現在の山川町にあるの地名「湯立」は「射立郷」からの転訛なのです。 また、阿波國美馬郡に鎮座する延喜式式内社 天椅立(あめのはしだて)神社(徳島県三好郡東みよし町大字昼間字宮内3266)という神社が御座いますが、神社名の漢字である”椅”という字を”はし”と読んでいます。 要するに天五多底命(天村雲命)の由来は、式内社 天村雲神社の鎮座地である射立郷からであり、射立(いたち)から転じて椅立(いたて→はしだて)となり、後世これを橋立(はしだて)と更に転訛、現在の天橋立となるに至ったということ。 思うに、「天橋立」は「天五多底命(天村雲命)」の痕跡を記した遺物であるといえるのではないのでしょうか これまでの考察検証から得られる結果として、 豊受大御神(天女)を伴い丹後国に降り立ったのは、阿波の神人集団(天火明命ら率いる海部氏一族)であり、のちの雄略天皇御宇に豊受大御神を伊勢神宮外宮に移し祀っているのが天火明命の孫である天村雲命の後裔渡会氏であること。  天孫である天火明命、痕跡地となるのはやはり阿波忌部の根拠地「麻植郡」へと繋がっていきます。 この件に関しましては、阿波がルーツであると考えてほぼ間違いなさそうです。 羽衣伝説シリーズは一先ず終了しまして、次項より別題として考察を進めたいと思います。 ◆静岡県静岡市清水区三保半島(三保の松原の天女像)

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  • 09 Sep
    • 羽衣伝説 Vol.阿波 ②

        ①からの続きです。 では、和奈佐彦は、いったい何処から来たのか? ヒントは京都の隣、播磨国(兵庫県)にありました。 「播磨国風土記 美囊(みなぎ)の郡 志深(しじみ)の里の条」 <原文> 美嚢郡 所以号美嚢者 昔大兄伊射報和気命堺国之時 到志深里許曾社勅云此土水流甚美哉故号美嚢郡 志深里(土中中)所以号志深者伊射報和気命御食於此井之時 信深貝遊上於御飯筥縁爾時勅云、此貝者於阿波国和那散我所食之時貝哉故号志深里 於奚袁奚天皇等所以坐於土者 <訳> 伊射報和気命(履中天皇)が、「この土地は水流(みながれ)が大変美しいなあ」とおっしゃいました。そこで、ミナギの郡という名がつきました。 履中天皇が、ここの井戸のそばで食事をなさったとき、シジミ貝が弁当の箱のふちに遊び上がりました。そのとき、天皇が「この貝は、阿波の国の和那散で私が食べた貝だなあ」とおっしゃいました。そこで、シジミの里と名づけました。 そういえば、先述した舩林神社や貴船神社の御祭神にも「阿波枳閇委奈佐比古命」と、しっかり”阿波”の文字が入っています。 日本の民俗学者、国文学者、国語学者である折口信夫氏は自身の著書「水の女」で、出雲(島根)国風土記に登場する「倭奈佐比古命」と丹後(京都北部)国風土記の「和奈佐翁」もルーツは、阿波の神人であるとしています。 つまり、 「阿波枳閇(あわきへ)」は、「阿波から来経(きへ)た」(阿波から到着した)という意味なのです。 では、阿波国にある和奈佐はどこにあるのでしょうか? 遥々船に乗って島根県まで移動して来た訳ですから、徳島県の海岸沿いを入念にチェックして行きますと、 阿波国式内社、和奈佐意富曽神社(わなさおほそじんじゃ)(徳島県海部郡海陽町大里松原) 和奈佐意富曽神社の御祭神に関して諸説あり、 『大日本史』には、大麻比古神。 『特撰神名牒』では、大麻神。 『式社略考』では、和奈はワナであり鳥獣を取ることに長けた人々。 『名神序頌』では、日本武尊の子、息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)=大碓命=日本武尊の兄。 『阿波志』では和奈佐居父祖として日本武尊。 『下灘郷土讀本』では、和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命。 『海部郡誌』では、息長足姫命。 和奈佐意富曽神社は文献によっては、「倭」奈佐意富曽神社と書かれています。 この和奈佐意富曽神社ですが、「鞆浦大宮に鎮座の社を、慶長9年大里松原に移した」という伝承があり、元々の神社は、海部川を挟んで反対側の、徳島県海部郡海部町鞆浦にありました。 この鞆浦地区にある港は現在でも那佐湾と言いますが、この那佐湾の海岸一帯の事を古くは、和奈佐と呼んでいました。 「阿波國風土記 奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)」 奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。 つまり、 「わなさ」は、徳島県海部郡海陽町鞆浦字”那佐”の古名にある「和奈佐」だったのです。 履中天皇が、「阿波の国の和那散(わなさ)に行った時に食べた信深(しじみ)の貝」の場所は、この和奈佐のすぐ隣にある海陽町宍喰(ししくい)(那佐の地名は旧宍喰町まで広がっている)である可能性が高く、しじみの産地の宍道湖(しんじこ)と共通の漢字を用いています。 つまり、「シジミ」繋がりで、島根県(伊那佐のある)「宍道湖」→兵庫県「美嚢郡の志深里」→徳島県(和奈佐のある)「宍喰」に至るのです。 古事記の中の国譲りの舞台に、 建御雷神と天鳥船神は、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子の事代主神に訊ねるよう言った。 事代主神は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れた。(wikipedia 葦原中国平定より抜粋) 阿波における出雲の地と考えられる東部海岸沿い、つまり旧長國であった領域で、古事記にある出雲国伊那佐はまさに海部の和奈佐が符合するのです。 また、この「海部」の地が阿波国風土記における海神の陵とも記されており、当地をいろいろ調べてみますと、 海部地区にある芝遺跡から出土した、県外産土器の出土数は、阿波国で最多であり、出土土器には、香川・高知・岡山・関西など他地域産のものが見られ、3世紀頃(弥生時代末期から古墳時代初期)には、既に西日本を中心に、大阪湾近海の航路を確立していたと考えられています。 また、海陽町大里古墳から、2008年に70,088枚もの大里古銭が見つかっており、1世紀から14世紀にかけて鋳造された81種類もの古銭が見つかっています。 古銭の種類は主に唐、宋、明の時代の中国銭で、ほかに高麗・李氏朝鮮、安南(ベトナム)、琉球の古銭などが見え、海外との交易も盛んであったのです。 中世室町時代(1445年)、東大寺伝来史料「兵庫北関入船納帳」をドイツハンザ同盟都市に1点残存しているのみという極めて稀有の文献を林家辰三郎が発見しました。 千葉県佐倉「国立歴史民俗博物館」では、その貴重性のため「兵庫北関入船納帳」の複製が展示されており、これによりますと、 阿波(海部54・宍喰20・平島19) 土佐(甲浦26) 讃岐(宇多津47・塩飽35・嶋(小豆島か)29・引田21・三本松20・平山19) 伊予(弓削嶋26) とあり、中世阿波海部の海運は四国一であるとの記録も残っています。 この和奈佐が、少なくとも古代から中世にかけて、我が国の港町として海運の中心地であったことが伺えます。 つまり、往古より我が国の海域を支配して来たのが、和奈佐に拠点を置いた海部一族だったともいえるでしょう。 太平洋側から瀬戸内海、そして日本海へと縦横無尽に海を往来していた氏族なのですから、遥か古代よりその行動範囲は途轍もなく広かったであろうことは想像に難くありません。 古名である「和奈佐」は、和銅6年(713年)「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令(好字二字令)が発せられてより「那佐」へと変わりました。 そしてこの阿波国の和奈佐をグーグルマップで上空から地形を確認してみますと、 ご覧のように乳ノ崎岬に挟まれた天然の良港となっており、往古より当地の海部一族の拠点として利用されてきました。  ◆大正時代の小那佐 この阿波国の和奈佐から、船で移動したとされる出雲国の和奈佐をあらためて見てみますと、、、 こんな感じなのですが、弥生後期の水位を例の便利なFloodMapsで再現してみますと、、、 このようになり、これを上下の位置を反転させてみますと、、、 阿波国の那佐湾(古名:和奈佐)とソックリになるではありませんか やはり島根県の出雲は阿波より移された出雲であるといえるのではないでしょうか 宍道湖と隣接する中海は、 約7000年前の縄文時代の海進により、古中海湾が形成され、現在の中海の原型が形作られたと考えられている。この頃はまだ古宍道湾(現在の宍道湖)とは繋がっていなかったが、斐伊川の堆積砂によって古宍道湾の入り口が塞がると、宍道湖の水は古中海湾へと流れるようになった。山間部から古中海湾沿岸にかけて縄文集落(堀田上遺跡など)が現れる。宍道湖湾沿岸に縄文人出現する(菱根遺跡)。 約2400年前(弥生時代)になると、砂の堆積と海水面の低下によって古中海湾の入り口に弓ヶ浜砂州が出現し、潟湖としての古中海が形成される。その後8世紀(奈良時代)には再び海水面が上昇し砂州は水没。中海は湾へと戻り『出雲国風土記』には「飫宇の入海(おうのいりうみ)」として記述され、『万葉集』では安来の湊を「於保の浦」として記述されている。「錦ヶ浦」などと呼ばれることもあった。なお、弓ヶ浜はこのころ「夜見嶋(よみしま)」とよばれる島になっていた。 その後、平安時代以降に土砂の堆積や小氷期による海面の下降によって再び、夜見嶋が陸繋砂州となり、中海が形成されたと考えられている。 (wikipedia 中海より抜粋) と書かれてあるように海と繋がったり水没したりを繰り返しており、現在では汽水湖になっています。 では、これまでの経路、つまり阿波国和奈佐から丹後国にある比沼麻奈為神社までの痕跡についてはトレースできましたが、これより先はどのようになったのでしょうか ◆これまでの阿波枳閉委奈佐比古命等の追跡経路 ③へと続きます。

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  • 08 Sep
    • 羽衣伝説 Vol.阿波 ①

       日本全国に存在する伝説の中に「羽衣伝説」がある。 おおよそのストーリーは、天女を天に帰すまいと羽衣を隠し、天女を地上に残させ、その神力の恩恵を得て幸福を得たのち、天女が去っていく逸話です。 その中に、大宝律令の撰定にも加わった伊余部連馬養(いよべのむらじうまかい)が記したとされる丹後国風土記逸文に、奈具の社(やしろ)というのがありますのでご紹介します。 原文略 <現代訳> 「丹後の国風土記 奈具の社(やしろ)」 丹後の国の風土記によると、 丹後の国の丹波郡郡家の西北に比治の里がある。 この比治山の頂きに井があり、その名を間奈井という。 今はすでに沼になっている。 この井に天女が八人降って来て、水浴をしていた。 その時、老夫婦がいた。 その名を和奈佐老父(わなさおきな)、和奈佐老女(わなさおみな)といったが、この老人たちは、この井のところに行き、こっそり天 女の一人の衣装を取って隠した。 やがて衣裳ある天人はみな天に飛び昇ったが、衣裳のないこの娘だけが一人留まって、身を水に隠し、一人恥ずかしがっていた。そこで、老夫は天女に言った、 「私には子供がありません。どうか天女の娘よ、あなたは私の子におなりください」と。天女は答えて、「わたし一人が人間の世界に留まってしまった。どうしてお言葉に従わずにいられましょうか。だから衣裳を返して下さい」といった。 老夫は、「天女の娘よ、どうして人をだます気になるのか」というと、天女は、「天人の志というものは、信実をもって基本としています。どうしてこんなにひどく疑って、衣裳を返してくれないのですか」といった。 老夫は答えて、「疑心が多く信実のないのが、この地上の世界では普通のことなのです。だから、そんな心から、返すまいとしただけです」といった。 そして、ついに衣を返して、そのまま一緒に連れ立って自宅に帰り、一緒に住むこと十余年であった。 ここに、天女は酒を造るのがうまかった。 それを一杯飲むと、見事にどんな病気でも癒えた。 その一杯を手に入れるために、人々は沢山の財貨を車に積んで送るほどであった。 そしてこの家は豊かになり、土形(ひじかた)(※田畑のこと)は富んだ。 それゆえに、土形(ひじかた)の里といった。 それを大昔を過ぎて、なかばごろから今時に至るまでに、比治(ひじ)の里というようになった。 その後、老夫婦たちは、天女に、「お前は私の子ではない。暫くの間、仮に住んでいただけだ。早く出で行ってしまえ」といった。 すると天女は天を仰ぎて慟哭し、地に伏して哀吟し、やがて老夫たちに言った。 「わたしは自分の心から来たく思って来たのではありません。これはお爺さんらが願ったことなのです。どうして今更憎しみ嫌って、すぐさま出でいけなんて、そんなむごい事が言えるものでしょうか」といった。 老夫は、ますますいきどおって早く立ち去るように求めた。 天女は涙を流して、やっと門の外に退き、郷人(さとびと)にいった、「私は久しいこと人間世界に落ちぶれていて天に帰ることが出来ません。また、親しい縁者もなく、住むよしも知りません。私は一体どうしたら良いのでしょう。」と言って、涙を拭って吐息をついて、天を仰いで歌った、 はるか大空を仰ぐと霞が立って家路がはっきりしないで行くべきすべを知らない ついに退き去って荒塩(あらしお)の村に至り、村人達に言った、「老父老婦たちの心を思えば、私の心は、荒塩(荒潮)となんら異なる所がありません。(波だち立ち騒いでいます)」と言った。 それで比治の里の荒塩の村と言う。 また、丹波の里の哭木(なきき)の村に至り、槻の木にもたれて哭いた。 それ故に、哭木(なきき)の村と言う。 また、竹野(たかの)の郡(こおり)船木の里の奈具(なぐ)の村に至り、そして村人達に言った、「ここに来て、私の心はなぐしく(=平和に)なった。」(古語に平善をば奈具志という)すなわちこの村に留まり住んだ。 『これは、いわゆる竹野(たかの)の郡(こおり)の奈具の社においでになる豐宇賀能賣命(とようかのめのみこと)なり。』 比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ) 京都府京丹後市峰山町久次にある神社である。社格は旧村社。 五角柱であるお地神さん(地神塔・社日)があります。 ◆祭神 豊受大神、瓊瓊杵尊、天児屋根命、天太玉命 この神社の創建年代等については不詳であるが、平安時代に制定された延喜式にも記載された式内社で、伊勢神宮の外宮の主祭神豊受姫大神はこの神社の分霊を祀ったものとされ、「元伊勢」とも称される。(wikipedia 比沼麻奈為神社より) ◆御由緒(比沼麻奈爲神社編纂による) 遠き神代の昔、この真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、また、蚕を飼って、衣食の糧とする技をはじめられた豊受大神を主神として、古代よりおまつり申しています。 豊受大神は伊勢外宮の御祭神で、元はこのお社に御鎮座せられていたのです。すなはちこのお社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元のお社であります。 多くの古い書物の伝えるところによれば、崇神天皇の御代、皇女、豊鋤入姫命が天照大神の御神霊を奉じて大宮処を御選定すべく、丹波国(現在の丹後国)吉佐宮に御遷幸になった時、此処にお鎮まりになっていた豊受大神が、天の真名井の清水にて作られた御饌を大神に捧げられたと伝えられています。 伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)に、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」といわれた。とあり、伊勢神宮の豊受大神の正体はこの「天女」であるといえます。 同じく丹後に、奈具神社(なぐじんじゃ)京都府京丹後市弥栄町船木奈具273があります。丹後加佐郡十一座の一社です。 ここにも地神さんがありますよ(´・ω・`) ◆御祭神 豊宇賀能賣神(とようかのめのかみ) ◆境内案内板「延喜式内 奈具神社の祭神について」より むかし、丹波の郡比治の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願されて比治の里にとどまり、万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。しかし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、 汝は吾が子ではないと追い出してしまいました。 天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも と詠い、比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきました。 そして「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになりました)と云って、この村を安住の地としました。 此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました。 これが竹野郡の奈具の社です。 以上が奈良時代に編纂されたとされる「丹後の国風土記(逸文)」が伝える奈具の社の縁起です。 近くに奈具岡遺跡がある。水晶や緑色凝灰岩の玉作が短期間に盛んに行われ、大量の玉が生産された。弥生時代中期 (約2000年前)の大規模な玉作り工房跡である。 これらの玉がどこへ運ばれたのかは未だわかっていません。 では、この天女は、いったい何処から来たのか? 説話の中の老夫婦の名前が、和奈佐老父(わなさおきな)、和奈佐老女(わなさおみな)となっており、調べると出雲国(島根県)に辿り着きます。 和奈佐神社(島根県松江市宍道町上来待和名佐和奈佐山(出雲国風土記 意宇郡に記載あり)の麓に鎮座。  そしてこの地にも地神さんが ◆御祭神 和奈佐比古命(わなさひこのみこと) 通称、舩岡さん ここで、「出雲国風土記 船岡山」より <原文> 「船岡山。郡家の東北一里一百歩。阿波枳閉委奈佐比古命、曳き来居ゑし船、則ち此の山、是矣。故、船岡と云ふ。」 <訳> 「舩岡山。郡家の東北十六里なり。阿波枳閉委奈佐比古命の曳き来居えましし舩、則ち此の山是れなり。故、舩岡という」  同じく出雲国(島根県)に、舩林(船林)神社(島根県雲南市大東町北村18)が御鎮座します。 やはりここにも地神さんがありました ◆御祭神 阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと) やはり委”イ”とかいて“ワ”と読むのか つまり「和」=「委」ということですな ◆舩林神社御由緒 当社は、出雲国風土記所載の「舩林社」にして、同風土記によれば「船岡山」郡家の東北十六里(今里在二里二十四丁)阿波枳閉委奈佐比古命の曳き来、すえませし船化してこの山となる故に船岡山と言うとあり、命は往古この山を中心に粟を主とした農耕の道をお開きになったので、後命の遺徳を偲び奉り、祖神として奉斎したのである。 中世の頃、一時衰徹して社殿も消滅、山野となったことがあった。 その頃、麓に高島十助と言う者があり、此の地を畠となさんとして開墾中、方三尺許りの切り石で、社の土台らしきものを発見し、驚きこの由を黒川与一右衛門に告げ、共に謹しみ更にくわしくこれを視るに全く祠蹟に間違いなきを認めたので、文化八年(皇紀二四七二年 西暦一八一六年)夏、社殿を再建立、命の神魂を安鎮奉斎し、後北村の里の氏神として崇敬、今日に及んでいる。船岡山は、船山或は大船山とも称し、標高一四〇米、遠望すればその名の如く、船を伏せたる形をなし、頂上に立てば海潮の地の中心なす、南村来た村の里を一望に眺め風光明媚である。 また同国にある、貴船神社(島根県雲南市加茂町南加茂578番地)が御鎮座しますが、 やはりこの社の御祭神も、 ◆御祭神 阿波枳閇倭奈佐比古命 どうやら、この阿波枳閇委奈佐比古命は、「船」で雲南市辺りに辿り着き、その後和奈佐山付近に住んだ模様。 わざわざ船で来た訳ですから、出雲(島根県)の住民ではなさそうです。 ◆これまでの阿波枳閉委奈佐比古命の痕跡地図 ②に続きます。

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  • 16 Aug
    • 【記紀解読】 崇神天皇条 Vol.阿波 ③

       次に『日本書紀』に、 日:先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之內。然畏其神勢、共住不安。故、以天照大神、託豐鍬入姬命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂神、託渟名城入姬命令祭、然渟名城入姬、髮落體痩而不能祭。 (これより先に、天照大神・倭大國魂の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。そこで天照大神を豐鍬入姬命(トヨスキイリヒメノミコト=崇神天皇の娘)を付けて、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀りました。そして磯堅城(シカタキ)に神籬(ヒモロキ=神が降りる場所。後には神社を表す)を立てました。日本大國魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は渟名城入姬(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)を付けて祀りました。しかし渟名城入姬は髪が抜け落ちて祀ることが出来ませんでした。) とあり、豐鍬入姬命が天照大神をお祀りした場所が「倭の笠縫邑」であると記しています。 この美馬郡旧郡里村(こおざと)に式内社天都賀佐比古神社あります。 天都賀佐比古神社(あまつかさひこじんじゃ)徳島県美馬市美馬町轟32 ◆祭神 神社明細帳には、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長津姫命(しなつひめのみこと) 阿府志には、一座 級長津彦命 特選神名牒には、「今按阿府志祭神級長津彦命とあるは賀佐毘古の賀佐を風神の加世に思ひよせたる説なるべし故今とらず」として祭神の記述が御座いません。 ◆創建 不詳 ◆神紋 卍丸 ◆由緒 「当社は西暦六世紀以前に創建されたものと思われ古墳時代後期 美馬郡院のあった大村郷(郡里)一帯の住民及び郡領が崇敬していた神を祭り風災を鎮め五穀豊饒を祈った由緒ある神社でその神威顕著な所から延喜時代式内社に列せられその後郡里の総氏神として盛大な祭が行われていた古社である」 古来美馬郡院のあった大村郷(郡里こうざと)、里分の総氏神として一帯の住民及び郡領が崇敬神威顕著で知られていた古社であり、風災を鎮め五穀豊穣を祈った由緒ある神社として盛大な祭りが行われていました。 藩政期の文献には「轟大明神」「轟宮」等と記され、土地の人は「轟さん」と呼んでいます。 『阿府志』には、当社のあるところに、「天ノカサツカ」という地名があり、往古より大社であったと伝えられていると記されています。 近くには「段の塚穴」と呼ばれる大きな古墳や、白鳳期建立といわれる「立光廃寺」の遺跡もあって、この地が県西文化・政治の中心であったことを物語っています。 昭和26年、当神社西南沖積地から古代土師器の窯跡が発見され、その辺り一帯から古墳末期より奈良平安に及ぶ須恵器、土師器の破片が多数出土し、古代集落跡を裏付けています。 同神社の境内には「祠畔(ほこらのほとりに)古塚三あり 又廃瓦あり 古色欝然、往々地を穿て黒玉、塗金環及び銅器等を得る」と記されており、複数の古墳を伴った神社であることがわかっています。 祭神の級長津彦命、級長津姫命は、風の神であり、昔この社の前を乗馬のまま横切ると勢いよく投げ出され、また吉野川を西上す舟が帆をかけたまま通ると転覆すると伝えられ、このような災難を避けるためにご神体は北向きに鎮座されています。 古神札には「日本一社北向鎮座」と記され、風神としての当社の霊威を伝えています。 この社は、もとは現在の約200m西、字高畠にあったそうです。 また、この地は和傘の生産でも有名で、美馬市ホームページによるとこの美馬地区は昭和30年頃には200軒余りの和傘店が並んでいましたが、現在では、ただ2軒だけが昔ながらの手法で和傘を作っています。 とあり、今も当地特産品として和傘があります。 ●美馬和傘 では、当社の御祭神である級長津彦(シナツヒコ)を検索してみますと、 ◆級長津彦命(シナツヒコ) シナツヒコは、日本神話に登場する神である。『古事記』では志那都比古神(しなつひこのかみ)、『日本書紀』では級長津彦命(しなつひこのみこと)と表記され、神社の祭神としては志那都彦神などとも書かれる。 『古事記』では、神産みにおいてイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、風の神であるとしている。『日本書紀』では、神産みの第六の一書で、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)またの名を級長津彦命という神が生まれ、これは風の神であると記述している。シナトベは、神社の祭神としては志那戸辨命などとも書かれる。 神名の「シナ」は「息が長い」という意味である。古代人は、風は神の息から起きると考えていた。風は稲作に欠かせないものであるが、台風などの暴風は人に大きな被害をもたらす。そのため、各地で暴風を鎮めるために風の神が祀られるようになった。 『日本書紀』のシナトベは女神とされることもあり、神社によってはシナツヒコの姉または妻とされている。本居宣長の『古事記伝』では、賀茂真淵の説として、本来は男女一対の神であり、それが同一の神とされるようになったとしている。龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神は天御柱命・国御柱命であるが、社伝や祝詞では天御柱命は志那都比古神、国御柱命は志那都比売神(しなつひめのかみ)のこととしている。志那都比古神は男神、志那都比売神は女神である。 伊勢神宮には内宮の別宮に風日祈宮(かざひのみのみや)、外宮の別宮に風宮があり、どちらも級長津彦命と級長戸辺命を祀っている。風日祈宮は元々「風神社」と呼ばれていたが、元寇の際に神風を吹かせたのは風神社の神であるとされたことから、「風日祈宮」の宮号が宣下された。 風の神であることから、航海安全の神ともされる。また、「風」と同音・同根である「風邪」を治す神ともされる。 (wikipedia シナツヒコより) 志那都比古神及び志那都比売神を祀る龍田大社を調べてみますと、 龍田大社(たつたたいしゃ)は、奈良県生駒郡三郷町立野南にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 旧称は「龍田神社」。風の神(風神)として古くから信仰を集める。 祭神:天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと) 龍田の風神と総称され、広瀬の水神と並び称された。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。 概史:『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。 国史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国平群郡に「竜田坐天御柱国御柱神社二座 並名神大 月次新嘗」として、二座が名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。 明治維新後、明治4年(1871年)に近代社格制度において「龍田神社」として官幣大社に列した。 紅葉の名所としても有名である。摂社・龍田比古龍田比売神社の祭神である龍田姫は秋の女神とされ、古来より多くの歌に詠まれてきた。 (wikipedia 龍田大社より) つまり上記にある年号を信用すれば、龍田大社よりも天都賀佐比古神社の方が約1世紀程古いことになります。---------------------------------------------------------------------------------------- 話題を戻しまして、 最初に崇神天皇は自身の娘である、豐鍬入姬命に天照大神を、渟名城入姬に倭大國魂を祀らせようとしましたが、渟名城入姬は髪が抜け落ちてしまい失敗してしまったとあります。 そして次の手段として、崇神天皇がとった行動が、 日:天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰 (天皇は神淺茅原(カムアサジハラ)に行って、八十萬神に占いで問いました。このときに神明憑倭迹々日百襲姬命が憑(カカリ=神が憑くこと)して言いました。) つまり崇神天皇は、「神淺茅原」という場所に赴き、八十萬神に占いで問い、その結果、神憑りした倭迹々日百襲姬命から神託を受けます。 ここで現れる「倭迹々日百襲姬命」なのですが、この姫は第7代孝霊天皇の皇女なのです。 ●天皇家の系譜でいうと まず通説では「欠史八代」とされる第7代孝霊天皇の皇女である倭迹々日百襲姬命の存在をどう扱うのか。 奈良県にある箸墓古墳はこの倭迹々日百襲姬命の墓であると比定されておりますが、欠史=存在しなかったのではと扱われる天皇の子が存在すること自体に矛盾が生じてしまいますので、ここでは欠史の扱いはしないでお考え頂きたいと思います。(でないと何も説明がつきませんからね…) 次に、「神淺茅原」とはいったいどこにあるのでしょうか 文面からは、崇神天皇が相談に上がることができる程の距離にあり、八十萬神が居て、かつ第7代孝霊天皇皇女の倭迹々日百襲姬命が居する場所。 これは、天照大神ら天津神が住んでいる天上界の「高天原」や魏志倭人伝にある我国最初の女王とされる卑弥呼の国「邪馬台国」等が想起されます。  そしてその後に、 日:秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神淺茅原目妙姬・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢而奏言「昨夜夢之、有一貴人誨曰『以大田々根子命爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂神主、必天下太平矣。』」 (即位7年秋8月7日。倭迹速神淺茅原目妙姬(ヤマトトハヤカミアサヂハラマクハシヒメ)と穗積臣(ホヅミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチスクネ)と伊勢麻績君(イセノオミノキミ)の三人が同じ夢を見て、天皇に報告しました。「昨夜、夢を見ました。一人の高貴な人がいまして、教えてくれました。『大田々根子命に大物主を祀る主(カムヌシ)として市磯長尾市(イチシノナガオチ)を倭大國魂神を祀る主すれば、必ず天下太平となる』と(夢の中の高貴な人は)言いました) ここに出てくる「倭迹速神淺茅原目妙姬」は、通説では倭迹々日百襲姬命と同人物であるとしていますが、同じ書に説明もなく別名で書かれてあるので別人である可能性も考えられます。 この名を分断すると、「倭迹速-神淺茅原-目妙姬」(ヤマトトハヤ-カムアサヂハラ-マクハシヒメ)となって、やはりこれは地名に因んでいるのではないかと推測されます。 また、”目妙姬”(マクハシヒメ)の部分なのですが、これも漢字をそのまま分解すれば、「目が妙な姫」となります。 これは以前ご紹介しました目の周辺に刺青をしたものである”黥ける利目”(さけるとめ)ではないかと推測します。いわゆる黥面です。 魏志倭人伝 考察 III ①←詳しくはこちらをご覧ください。 ◆巫女の埴輪から想像される黥ける利目の一例  倭迹々日百襲姬命の託宣も効果なく最後の手段として、 日:十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄而以物部八十平瓮作祭神之物。卽以大田々根子爲祭大物主大神之主、又以長尾市爲祭倭大國魂神之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・國社及神地・神戸。於是、疫病始息、國內漸謐。 (即位7年11月13日。伊香色雄(イカガシコオ)に命じて、物部(モノノフ=物部氏の武人)は八十平瓮(ヤソヒラカ=平たい皿)で神に奉るものを作りました。それで大田々根子を大物主大神を祀る主としました。また、長尾市(ナガオチ)を倭大国魂神を祀る主としました。その後に他の神を祀ろうと占うと「吉」と出ました。すぐに別に八十萬群神(ヤソヨロズノモロカミ)を祀りました。天社(アマツヤシロ)・國社(クニツヤシロ)・神地(カムドコロ)・神戸(カンベ)を定めました。すると疫病が止みはじめました。 国内がようやく鎮まりました。) 古:又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶此三字以音也定奉天神地祇之社。又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭黑色楯矛、又於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而伇氣悉息、國家安平也。 (また伊迦賀色許男命(イカガシコオノミコト)に命じて皿を作り、天津神・国津神の神社に納めました。 また宇陀の墨坂神(スミサカノカミ)に赤い盾と矛を収めました。また大坂神(オオサカ)に黒い盾と矛を収めました。また坂の神や河の瀬の神にいたるまで、全てお供えをして祭りました。これですっかり疫病は無くなり、国は平和になりました。) つまり、伊香色雄(古:伊迦賀色許男命)にヤソヒラカ(平たい皿)を、大田々根子(古:意富多々泥古)が大物主大神を、そして市磯長尾市に倭大国魂神をそれぞれ祀らせると疫病がやみようやく平和になったとあります。 記紀共大筋は一緒なのですが、「紀」にのみ倭大国魂神を祀る主の名に、「市磯長尾市」があります。 この市磯長尾市ですが、崇神天皇の子の垂仁天皇紀三年三月条、七年七月条にそれぞれ「倭直(やまとのあたい)祖長尾市」とあります。 また、「紀」の神武天皇即位前紀に、椎根津彦は倭直部が始祖(はじめおや)なりとあり、つまり長尾市は椎根津彦の後裔となります。 この椎根津彦を調べてみますと、 椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)、または珍彦(うずひこ)は、記紀に登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖。 (wikipedia椎根津彦より) 『三代実録』(901年)に、「阿波国名方郡海直豊宗、海直千常等同族七人に大和連(おおやまとのむらじ)の姓を賜う」とあり、『姓氏録』(815年)には、大和連は椎根津彦の後裔となっています。 つまり阿波の海直は椎根津彦の後裔であり、後世の姓である大和連の姓を貰っていることから、阿波と大和は同族であることがわかるのです。 以前にも書きましたが、我国唯一「倭大國魂」を祀る神社である式内 倭大國玉神社は阿波国美馬郡に御鎮座します。 倭大國玉神社(徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3) 倭大國魂とは「倭の産土神」のことであり、当然のことながら「倭」の地に祀られているのです。 ●ポイント3:椎根津彦(倭国造(倭直部))の後裔である市磯長尾市(倭直)に倭大國魂神を祀らせた。 ●神社の位置関係はこちら  ちなみにこの項にある「倭」大國魂二神と記しているのに直に「日本」大國魂神と書いているところですが、「倭(やまと)」を「日本(やまと)」とすることはもちろん崇神朝時代にはありません。 国号を「日本」と改めたのが700年前後とされ、この時代まで奈良県には大和(おおやまと)とも定着していませんでした。 『日本書紀』が完成したのが720年ですから、この時代より改竄されたのではと考えられます。こちらも詳しくはヤマト 考察 ④をご参照ください。 また、天都賀佐比古神社の御祭神である「シナツヒコ」は、倭国造(倭直部)の祖である「シイネツヒコ」をお祀りしているのではないでしょうか? (傘もかぶってますしね)----------------------------------------------------------------------------------------また時間ができたら書きます(´・ω・`)ノ

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  • 12 Aug
    • 【記紀解読】 崇神天皇条 Vol.阿波 ②

       ◆玉依姫(たまよりひめ)  崇神天皇は疫病を鎮めようと神床にて眠りにつくと、その夜、大物主大神が夢に出現し、大田田根子に私を祀らせれば祟りは起きなくなるだろうと託宣を受けます。 これは古事記・日本書紀とも共通しています。  古:坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」 (神の意思を問うために神床で眠りました。その夜、大物主大神が夢に出てきました。 「疫病はわたしが流行らせた。意富多々泥古(オホタタネコ)という人物にわたしを祀らせれば祟りは起きなくなり、国は平安になるだろう」) 日:是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主神曰「天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。」 (この晩の夢に、一人の高貴な人物が現れました。宮殿の入り口に向かって立って、大物主神と名乗りました。 「天皇(スメラミコト)!!また憂いているな。国が治まらないのは、わたしの意思だ!!もし、我が子、大田々根子(オオタタネコ)に私を祀らせれば、たちどころに国は平穏になる。また海外(ワタノホカ)の国があり、自然と従うだろう」) また日本書紀では、八十萬神に占いで問い、神憑りした倭迹々日百襲姬命に大物主神を祀るよう神託を受けます。 日:是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭國域內所居神、名爲大物主神。」 (このときに倭迹々日百襲姬命(孝霊天皇の娘)が憑(カカリ=神が憑くこと)して言いました。 「天皇よ。どうして国が治まらないことを憂うのか?もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」 崇神天皇は問いました。 「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神ですか?」 神は答えました。 「私は倭國(ヤマトノクニ)の域内(サカイノウチ)にいる神、大物主神(オオモノヌシノカミ)という」) ●ポイント1:大物主大神を大田田根子に祀らせた。---------------------------------------------------------------------------------------- 次に大田田根子を探しだし、その出生を記録しています。 古:是以、驛使班于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河內之美努村、見得其人貢進。爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」 (そこで使いを放ち、あちこちで意富多々泥古なる人物を探したところ、河内の美努村で見つかり、朝廷に差し出されました。 「お前は誰の子だ?」 「私は大物主大神が陶津耳命(スエツミミ)の娘である活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶って生まれた櫛御方命(クシミカタノミコト)の子の飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)の子の建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子、意富多々泥古です」) 日:布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。」 (布(アマネ)く天下(アメノシタ)に命じて、大田々根子を探すと、すぐに茅渟縣(チヌノアガタ)の陶邑(スエムラ)に大田々根子を見つけました。天皇はすぐに自ら神淺茅原(カムアサジハラ)に出向いて、諸王卿(オオキミタチマツヘツキミタチ=王さま達)と八十諸部(ヤソモロトモノオ=沢山の「伴」の主張)が集まって、大田々根子に尋ねました。 「お前は、誰の子か?」 大田々根子は答えました。 「父は大物主大神といいます。母は活玉依媛(イクタマヨリヒメ)といいます。陶津耳(スエツミミ)の娘です」 また言いました。 「奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘です」) 古事記と日本書紀では若干違いがありますが、ここを少し纏めてみますと、 古:大物主大神×活玉依毘売 ➡ 櫛御方命 - 飯肩巣見命 - 建甕槌命 - 意富多々泥古 日:大物主大神×活玉依媛 ➡ 大田々根子 古事記では、意富多々泥古から3代遡って説明し、大物主大神と活玉依毘売に繋がる系譜であることを、また活玉依毘売が陶津耳命の娘であることを説明しています。 日本書紀では、大物主大神と活玉依姫の子であり、活玉依媛は陶津耳の娘で、陶津耳の又の名が奇日方天日方武茅渟祇であると説明しています。 古事記の櫛御方命(クシミカタノミコト)とその子である飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)、更にその子、建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の記載がありますが、これは日本書紀では陶津耳の別名である奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタ-アマツヒカタ-タケチヌツミ)を表しているといえます。 どちらの説明が正しいのかはわかりかねますが、何れにしろ大田田根子が大物主大神と活玉依姫の末裔であることを記しています。 次にその大田田根子が居たとされる場所なのですが、 古:河内の美努村(カワチのミノムラ) 日:茅渟縣の陶邑(チヌノアガタのスエムラ) つまりこの場所が同じ場所を意味示します。 阿波国で”ミノ”といえば和名類聚抄記載ある美馬郡より分かれた三好郡三野のこと。 この一帯が茅渟縣であり、その中の陶邑という村があったと推測されます。 武茅渟祇(タケチヌツミ)の名も、この茅渟縣(チヌノアガタ)の地名から来たものと思われ、陶津耳(スエツミミ)の”陶”も陶邑(スエムラ)という地名から因んだものであろうと思われます。 地図で示すと徳島県三好市三野町はココ 広域で示すとこの辺になり、吉野川中流域となります。 玉櫛媛(たまくしひめ)とは、日本書紀では事代主神・古事記では 大物主の妃。神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命の母。別名:溝咋姫神・三島溝杭姫・三嶋溝樴姫・溝咋玉櫛媛・活玉依姫・勢夜陀多良比売ともいう。(wikipedia玉櫛媛より抜粋) 活玉依姫の別名である”三島”溝杭姫も美馬市地名に存在します。  ◆美馬市穴吹町三島 その子である大田田根子の”大田”もwikipedia美馬郡(現つるぎ町)に太田村として存在していたことが確認できます。 場所は三島のすぐ隣です。 ◆美馬郡つるぎ町貞光太田  ●ポイント2:大田田根子の系譜は大物主大神と活玉依姫の末裔である。---------------------------------------------------------------------------------------- 次へと続くのである。 (´・ω・`)なかなかすすまねーな…

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