阿波古代史考察と大好きなマリンアクアリウムを記録します!
本年1月に発表された考古的ビッグニュースに、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての我が国唯一発見されている辰砂採掘遺跡の若杉山辰砂遺跡(徳島県阿南市)において、採掘技術としては当時の世界最新技術と考えられる「火入れ法」が行われていたとの報道が飛び込んで来た。 記事によると、この技術の痕跡は、弥生時代後期のものと考えられており、我が国においてこれまでより1400年も時代が遡るとのこと。 つまり、当時の徳島県は、古代ローマや中国(漢)にあった先進技術を有していたということになります。 ではなぜ、このような技術が日本の、しかも四国徳島県に伝来していたのかについて今回は考えていきたいと思います。 ロマンと現実のはざまの話や(・∀・)b これよりあくまで個人ブログによる個人的見解による自説ですのでご了承ください。 まず、「辰砂」の価値について触れておきますと、古代において、辰砂は金よりも価値が高かったといわれており、非常に重要な鉱物として扱われ、古代中国では、不老不死の薬として珍重されていました。 辰砂を砕いて得られる水銀朱(丹:硫化水素)の大きな特性の一つとして注目されるのがその「防腐性」です。 我が国においても、弥生時代~古墳時代の身分の高い人物の埋葬墓等に儀礼として使用され、埋葬者に対する魔除けや復活のための状態を維持するための、”保存”を目的に使用されていたと考えらえているからです。 また、炎や血と同色の赤色は呪術・霊力があると信じられ、顔や体、土器や銅鐸等にも塗られていたようです。 2019年 広報:あなん9月号の記事には、専門家の見識では、 若杉山周辺には、紀元前1世紀に遡る採掘遺跡が存在することはまず間違いないとされています。 その理由となるのが、2017年2月、阿南市加茂町にて発見された「加茂宮ノ前遺跡」です。 徳島県教育委員会及び徳島県埋蔵文化財センターの発表によると、加茂宮ノ前遺跡では、古代の祭祀に使用された赤色顔料である水銀朱を生産した縄文時代後期(約4000年前)の石臼や石杵が300点以上、他にも水銀朱原料としての辰砂原石が大量に出土しています。 水銀朱の関連遺物の出土量としては国内最多であり、朱を貯める土器や耳飾りはじめ関連遺物は1000点以上にのぼり、生産拠点としては国内最大かつ最古級であることが確認されています。 また、縄文後期の竪穴住居跡、石を円形状に並べた祭りや儀式用とみられる遺構300点以上が見つかっており、徳島県においてこのエリアは、縄文時代後期から古墳時代前期までの長期にわたって、辰砂を採掘していた巨大集落が存在していたことになります。 この朱の権益を基盤に、古代の徳島県(阿波)は巨万の富を得ていたと考えられ、「朱」を介して当時の日本の他の地域よりも、経済・国力(経済を基盤とした人口規模)等に、非常に大きなイニシアチブを握っていたのは想像に難くないでしょう。 またオンリーワンであった朱の交易輸出は、少なくとも他の日本の国々(村々)よりも、圧倒的にな存在感があったはずで、外交的知名度も他の地域より高かったと考えられます。 では少なくとも縄文時代後期から、たくさんの朱を産した同エリアを古代中国ではどのように捉え、記されていたのでしょうか? 紀元前2世紀の中国前漢武帝代の司馬遷が著した『史記』によると、「又使徐福入海求神異物。還爲僞辭日、臣見海中大神、言日、汝西皇之使邪、臣答日、然、汝何求、日、願請延年益壽藥、神曰、汝秦王之禮薄。得觀而不得取、即從臣東南至蓬莱山、見芝成宮闕、有使者銅色而龍形、光上照天於是臣再拝問日、宜何資以獻海神曰、以令名男子若振女、與百工之事、即得之矣。秦皇帝大説、遣振男女三千人、資之五穀種種百工而行。徐福得平原廣澤、止王不來。」『史記』卷一百一十八 淮南衡山列傳第五十八)「今回の旅で私は海の大神に会いました。その海神が『そなたは西皇の使者か』と言うので、『そうです。私は秦の始皇帝のために不老長寿の薬を探しております』と答えました。すると『そなたの秦王の礼は丁重でない故、見ることはできても持ち帰ってはならぬ』と言い、従臣を連れて東南の蓬莱山に行き、そこで霊芝でできた宮殿や、銅の色で龍の形をした使者がいて、光が天を照らしていました。そこで私は再び拝礼し尋ねました。『どのような贈り物を差し上げたらよろしいのでしょうか』と聞くと、海神は『良家の男子と女子、それと百工(技術者)を差し出すように』と言いました。始皇帝は大喜びして、男女の子供三千人に、五穀を植えることやもろもろの作業を教え込んで行かせました。ところが徐福は平原や広い沼地を手に入れると、そこにとどまって王となり、戻ってきませんでした。」 また『後漢書』にも、「會稽海外有東鯷人、分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海、求蓬萊神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至澶洲者。所在絶遠、不可往來。」「会稽の海の外に東鯷人があり、二十余国に分かれている。また、夷洲および澶洲がある。伝承によると、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、数千人の少年少女を連れて海に入った。蓬萊山の神仙を探し求めたが、出会えず、徐福は誅罰を畏れて敢えて帰らず、遂にこの島に留まった。代々に相伝し、数万家を有した。人民は時に会稽に至り交易する。会稽東冶県の人が海に入って航行し風に遭い、漂流して澶洲に至る者がいる。絶海の遠地に在り、往来すべきではない。」 地理的に東南方向は現在の日本列島のことを指すことから、日本各地で徐福伝説が存在します。 いずれの伝承地も不老不死の薬を「薬草」であると考えているようですが...(´・ω・`) 徐 福(じょ ふく)は、秦の方士。斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)の出身。本来の表記は徐巿(じょふつ)。日本に渡来したという伝説がある。(wikipedia 徐福より抜粋)写真は新宮市観光協会様よりm(_ _)m 「徐福伝説」のHPによりますと、 1982年6月、「中華人民共和国地名辞典」の編纂作業を行っていた、徐州師範学院地理系教授の羅其湘氏は、江蘇省(旧琅邪郡)贛楡県徐阜(じょふ)村という地名を発見し調査したところ、この村がかつては「徐福村」と呼ばれ、現地にかの徐福伝説の伝承が残っている事をつきとめた。 調査班は徐阜村が清朝乾隆帝以前には確かに徐副村と呼ばれていた事を確認し、村に残る徐副廟を調査。村の古老達の語る徐副伝承を採録し明らかになった事の中に、徐阜村に現在「徐」姓を名乗る者が一人も居ないという驚くべき事実がある。そして古老の語る次の伝承を紹介している。『徐福は、まさに日本へ旅立とうとする時、親族を集めてこう言い聞かせた。「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するだろう。必ずや徐姓は断絶の憂き目にあうだろう。われわれが旅だった後には、もう徐姓は名乗ってはならない。」それ以来、徐姓を名乗る者は全く絶えた。…とする。 ●場所はココ 斉の琅邪郡ですな 始皇帝が求めた不老不死の仙薬は言わずと知れた「辰砂」のこと。 辰砂は別名「賢者の石」とも呼ばれ、始皇帝は辰砂を賢者の石だと信じて不老不死を実現しようと摂取し続けたことで水銀中毒により49歳の若さで死亡したとも言われています。 賢者の石とは、 水銀と硫黄の化合物である硫化水銀には色の異なるものがあるが、代表的なものは赤色を呈する。天然でも産出され辰砂という。中国で不老長寿の霊薬仙丹・金丹の原材料とされた(→錬丹術)。漢字「丹」は辰砂のことで赤色も意味する。 因みに辰砂は、中国の辰州(現在の湖南省近辺)で多く産出したことから、「辰砂」と呼ばれるようになった。 中国の道教では、服用すれば不老不死を得る(あるいは仙人になれる)という霊薬(仙丹)を作る術として錬丹術(煉丹術)がある。仙丹が賢者の石に相当する。(wikipedia 賢者の石より抜粋) ●辰砂(シナバー:Cinnabar) 蓬莱(ほうらい)とは、中国で渤海(ぼっかい)の東に存在するといわれる仙島のこと。渤海とは遼東半島と山東半島の間にある海域。 中国最古(前4世紀 - 3世紀頃)の地理書『山海経』の「海内北経」に、「蓬莱山は海中にあり、大人の市は海中にあり」と記されています。 そういえば「魏志倭人伝」にも、「參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里」「倭地を参問するに、絶へて海中の洲島の上に在り。或いは絶へ、或いは連なり、周(あまね)く旋りて、およそ五千余里なり。」 と「海中」と記されておりましたな(´・ω・`)(注:当然ながら、海中=水中のことではありません。) この辰砂を求め、徐福が当地琅邪より東南方向の海中にある蓬莱の地へと出立したと推定すれば、それぞれの中国の歴史書の記録からは、「夷洲」「東南至蓬莱山」に到達したと考えられ、言い換えると、のちの漢が「委國」の王に送ったとされる「漢委奴國王印」の標す「夷(い)洲(国)」の「東南に至った辰砂を産する山」のことであったと想定すれば、現在の四国、徳島県の若杉山周辺を目指したであろうとの推測が成り立つのです。 まず「夷洲」についてですが、四国は古くは「伊予之二名島」と呼ばれ、一説では元は「伊」と「予」の二つの名の国だったともいわれています。 また徳島県はその昔、「いのくに」と呼ばれていたと考えられており、眉山(以乃山)麓の辺りが伊都・夷都・渭津(以津:いのつ)と呼ばれていたことは旧史よりわかっていて、現代においても同地を中心に渭北・渭南等地名に名残を残します。 その徳島県の「山」から弥生時代後期~古墳時代前期にかけての辰砂採掘場として国指定史跡となっている若杉山辰砂採掘遺跡が存在します。 因みに一方の澶洲(たんしゅう)は、地名が耽羅(たんら)という後の済州島の国名に一致していることから同地に比定される諸氏も多い。 若杉山辰砂採掘遺跡(わかすぎやましんしゃさいくついせき)、または若杉山遺跡(わかすぎやまいせき)は、徳島県阿南市水井町にある弥生時代後期~古墳時代前期にかけての辰砂採掘跡の遺跡である。2019年(令和元年)10月16日に国の史跡に指定され、出土品は2022年(令和4年)に国の重要文化財に指定されている。 また、若杉山辰砂採掘遺跡について非常に興味深いのが、2024年の調査で弥生時代後期に火を利用して採掘した火入れ法による採掘の跡と判断された。 これまで国内での火入れ法の利用は江戸時代初期の山形県の延沢銀山遺跡が最古とされていきたが、若杉山辰砂採掘遺跡で使われたとすれば1400年以上早く利用されていたことになる。 火入れ法は「古代ローマや漢代の中国などにあった技術で、当時の世界基準の採掘技術が導入されていた可能性がある」とし、徳島文理大学の大久保徹也教授によると「弥生時代の日本に世界基準の採掘技術が持ち込まれたことは重要だ。中国から最新技術が九州や瀬戸内海を経て、四国にまで導入されていた可能性がある」と考えられる。」(wikipedia 若杉山辰砂採掘遺跡より抜粋) 大竜寺山(たいりゅうじやま)とは、徳島県阿南市と那賀町との境にある山である。標高は618mである。「太龍寺山」とも表記される。補陀落山(618 m)と、太龍寺の上にあたる弥山(四等三角点 龍山 600.13m)の二つのピークがある。(wikipedia 太龍寺山より抜粋) お寺ができてから太龍寺山と呼ばれるようになったと考えると、恐らく元は龍山と呼ばれていたんでしょうな(´・ω・`) これらの痕跡は、徐福一団が当地に行き着いたことで、巨万の富を生む辰砂輸出のお得意様となる当時の中国との間で交わされた、モノと技術のトレード、もしくは人と技術を取り込んだ痕跡であると考えるのが現時点での私説的主張です。 しかしながら、我が国の歴史を記す『記紀』や伝承等において、このような場所や事象をハッキリと記す記事が見当たりません。 ではこの阿波の重要な地を我が国の伝承ではどのような形で記されているのでしょうか? 天香久山、天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、または香久山、香具山(かぐやま)は、奈良県橿原市にある山。畝傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる。 ●概要 天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめやま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、とされる。(wikipedia 天香久山より抜粋) 万葉集にも「天降付天之芳来山:あもりつく(あまのかぐやま)」と載るこの山は、wikipedia概要からも、もとは阿波(徳島)から分かれて、1つが伊予(愛媛)の天山に、もう1つが大和(奈良)の天加具山になったとのエピソードを記しています。 これを以て阿波からの分かれが伊予、そして大和の民であるとの説がありますが、その順番は、「阿波→伊予→大和」であり、つまり伊予之二名島の古名を持つ四国から本州(奈良畿内中心地)へと遷っていったとの考えとなります。 即ち、阿波に流れ着いた民とその後に愛媛に痕跡を残しながらも、最終的には奈良大和へと流れて行った民とは誰だったのかを考察すると真っ先に浮上するのが「秦氏」ではないでしょうか。 「日本姓氏語源辞典」によると、 ①秦系。中華人民共和国陝西省咸陽市付近(旧:秦)から発祥。秦の日本音はシン、シナ音はチン。シナからコリアを経て来住。秦の始皇帝の後裔と称しており、元来の表記は「波多」で古い発音はハダ。コリア語のパダは「海」の意。 全国の大山祇神社の本社である伊予国の大山祇神社(愛媛県今治市大三島)。ご祭神は大山積神。 大山津見神(おおやまつみのかみ、おおやまづみのかみ)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、釈日本紀が引く『伊予国風土記』(逸文)では大山積神が使用される。別名、三島神、和多志大神、酒解神。(wikipedia オオヤマツミより抜粋) この和多志は(わたし)と訓み、「渡し」や「ワタ(海の古語)(わたし)」の意味からも海人族に充てられる場合が多く、また愛媛県は、秦の名産地、もとい秦を姓に持つ氏族の一大密集地でもあります。 ●名字由来ネット 注:愛媛県において、秦氏を祖先とする越智家等、現代では「秦」を名乗っていない氏族はカウントされてません。 「義楚六帖」(釈氏六帖)という中国の僧、義楚が著した仏教書の中で日本の僧寛輔なる人物が伝えた話として「日本の富士山は蓬莱に他ならず、徐福は此処に住んで、その子孫は秦氏になった」と記しています。『釈氏六帖』第21巻の「国城州市部」第四十三「日本國、亦名倭國。東海中。秦時、徐福將五百童男五百童女止此國也。今人物一如長安。又顯德五年歲在戊午、有日本國傳瑜伽大教弘順大師賜紫寬輔又云、「本國都城南五百餘里有金峯山、頂上有金剛藏王菩薩、第一靈異。山有松檜・名花・軟草、大小寺數百、節行高道者居之。不曾有女人得上至。今男子欲上、三月斷酒肉欲色、所求皆遂云。菩薩是彌勒化身、如五臺文殊。又東北千餘里有山、名富士。亦名蓬萊。其山峻三面是海、一朵上聳、頂有火煙。日中上有諸寶流下、夜即卻上。常聞音樂。徐福止此謂蓬萊至。今子孫皆曰秦氏。彼國、古今無侵奪者、龍神報護。法不殺人、為過者配在犯人島。其他靈境名山、不及一一記之。」「日本国。亦は倭国と名づく。東海の中。秦の時、徐福、五百の童男と五百の童女を将て此の国に止まる。今の人物一に長安の如し。顯徳五年、歳は戊午に在りて、日本国傳瑜伽大教弘順大師賜紫寛輔といふ有り。又云ふ。本国都城の南百餘里に金峯山有り。頂上に金剛蔵王菩薩有り。第一の霊異なり。山に松檜・名花・軟草有り。大少の寺数百、節行高道の者之に居す。曽て女人の上ることを得ず。今に至りて男子上らんことを欲すれば、三月酒肉欲色を断ず。求むる所は皆遂ぐ。云く、菩薩は是、弥勒の化身、五臺の文殊の如し。又東北千餘里に山有り。富士と名づく。亦は蓬莱と名づく。其の山峻にして三面は是れ海なり。一朶上に聳え頂に火煙有り。日中に上より諸の寳有りて流れ下り、夜は即ち却り上る。常に音楽を聞く。徐福此に止まる。蓬莱と謂ふ。今に至て子孫皆秦氏と曰ふ。彼の国、古今侵奪する者無し。龍神報護す。法は人を殺さず。過を為す者は犯人島に配在す。其の他の霊境名山は一一之を記すに及ばず。」 この記録では徐福が倭国(日本)の蓬莱に留まったとあり、しかも蓬莱とは富士山のことで、徐福の子孫は秦氏となったというのです。 富士山に鎮座する、駿河国一宮富士山本宮浅間大社 古来「富士ノ宮」「富士本宮」「富士浅間宮」なども社号として用いられており、「ふじの宮」という呼称もあります。 御祭神は、木花之佐久夜毘売命(浅間大神)で、配神に父の大山祇神もお祀りされています。 また、徐福伝説が色濃く残るとされる佐賀県では、俗に「不老不死」が訛って植物の「フロフキ」のことであった等といわれており、これの根や葉を咳止めとして利用していたといわれているようです。 ●フロフキ これらは一般的に考えますと、日本語音でのこじつけの部類であると考えられます。 「ふじ」についても、「富士」と書かれるのは平安時代初期の続日本紀あたりが最初とされ、 このほか「不死(不老長寿)」「不二(二つとない)」などとも書かれてもいます。 つまり、「富士」もまた、「不死(ふし)」の音にインスパイアされたと想像ができ、当然ながら秦や後漢の時代に富士山と呼ばれていたはずもなく、これもあくまで後世の府会であると考えられる訳なんですな。 時折噴火する富士山を鎮める目的として浅間大社が建てられ、当社にお祀りされているご祭神から実はヒントが隠れている訳なのですが、この伝承の趣旨は、あくまでそれらの子孫が秦氏であると記すところにあります。 平たく言えば、大山津見の子孫であるサクヤビメ→その子孫は秦氏という構図ですな。 お次に、『日本書紀』崇神条から、 「吾聞、武埴安彥之妻吾田媛、密來之、取倭香山土、裹領巾頭而祈曰『是倭國之物實』乃反之。物實、此云望能志呂。是以、知有事焉。非早圖、必後之。」 「聞くところによると、武埴安彦の妻である吾田媛が密かにやって来て、倭の天香具山の土を取って、 覆い布で頭を包み呪言をして、これは倭の国の物の元なるぞと言って帰ったという。」 ※武埴安彦命は第8代孝元天皇皇子で、埴安媛との間に生まれた皇子である。 なぜ武埴安彦命の妻は、「倭」の香山へ上り、そこの「土」を採ることが「これは倭の国の物の元なるぞ」と言ったのでしょうか? つまりこの「土(ハニ)」は、倭(阿波)の象徴たる土のことであり、即ち、ニフ(丹)のことを意味しているのではないのでしょうか? 同時に、果たして現在の奈良県の天香久山から「朱」が出ますでしょうか? 調査によると赤みのある粘土が出ることにより当地では「朱」と差し替えオリジナルの香久山と置き換えたと考えられますが、当山の土を使った当時の土器が見つかっているのかは不明。 ●「天香久山あめのかぐやま と畝傍山うねびやま の埴土はにつち 研究-その土器原料としての物性について-」 『日本書紀』の記録からは、欠史八代の天皇とされる孝元天皇の妻子の話が、実は阿波のことであった、また阿波と呼ばれる以前は倭(やまと)と呼ばれていたことを仄めかし、わざわざ「埴生:ハニフ=土 → 丹生:ハニフ=朱」の暗示として記したと考えられます。 決して阿波とは言ってはならんというルールなんですな(´・ω・`) 高城隆弘氏著「記・紀の説話は阿波に実在した」にも P75「天の香久山は高天原にある山で、記・紀の天石屋戸(紀は天石窟)の段では、石屋戸にこもった天照大神を招き出すために多くの祭具を調達した神聖な山として語られている。八咫鏡は、記では天の金山の鉄(まがね)で紀の一書には天香山の金で、『古語拾遺』『旧事紀』では天香具山の銅で制作した」とある。八咫鏡は白銅鏡であるといわれている。天の香具山の「カグ」とは銅の古語で、朝鮮語を語源としており、材料は銅であると思われる。」 …とも記載があるように、のちの香久山から採取していたのは恐らく辰砂ではなく銅に変化していったと考えられます。 その理由として、若杉山辰砂採掘遺跡の採掘された時期からも、『記紀』の伝承にある時代には既に辰砂は枯渇し、当地で採取できる銅を以て作成した鏡を皇祖の御印として現在三種の神器の1つとされる八咫鏡を制作したと考えられるからです。 でなければ、容易に手に入る銅を以て「是倭國之物實」「これは倭の国の物の元なるぞ」の真意とはならなかったはずです。 往古蓬莱山と呼ばれた山は、時代を経て香久山(芳来山)へと変化し、それがいつしか「倭(やまと)のシンボル」として認識されていった。 しかしこの香久山も更に歴史を重ねるにつれ、銅を産する香久山としての性格が強くなり、倭においても銅が採れた山の意味へと変化し、後にその伝承が伊予、そして大和へと遷っていったと考えられるのです。 したがって私説において、 「真の蓬莱山」(東南至蓬莱山:中国東南にあった蓬莱山)は、 徳島県の現在の「太龍寺山(龍山)」のことであり、 日本ではこれをのちに、 「天降付天之芳来山(籠山)」(あもりつくあまのかぐやま)と呼ばれたと考える。 しつこいようですが、あくまで私説考ですのでご注意を(´・ω・`)ノ 時代を経て、いつしか倭(阿波)においても太龍寺山(龍山)から日峰山(籠山)の事を指すようになり、この「倭(やまと」が「大和(やまと)」へと遷されたことをキッカケに、阿波・伊予の風土記に載ることで、最終的には大和の香具山の伝承へと終着した。 …と考えております。 ●いろんな方の蓬莱山の図 富士山ではないな(´・ω・`)... 太龍寺の寺名は、当地で修業した空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。 この景色最高やで 最後に、俗に言われている徐福ペテン師説ですが、一般的には始皇帝に嘘を付き、巨額の財や五穀の種、数千人を超える男女と共に日本に逃げたと考えられております。 しかし、1度目の渡航の際の記述からは、あくまで東南にあった蓬莱に到着し、復してそこの海神と交渉した経緯を述べており、2度目の渡航の際、聡明な徐福は不老不死の薬など存在しないと悟り、再び手ぶらで秦に戻り始皇帝に復命すれば、必ず殺されると察したことから、始皇帝からせしめた財を、蓬莱の海神に献上することで領地を得たと考えた方が理にかなっていると思われます。 また現実的には、秦から蓬莱へ、そして再び秦へと帰るということは、当時の中国の航海技術をもってしても、早くて半年~1年、いや不老不死の仙薬を獲得するための調査をしながらの旅であれば数年の年月を要したであろうと考えられます。 2度目の渡航で不老不死の薬を持ち帰れず、罰を受け入れることを考えた場合に、徐福の選択肢的には、結果論とはなりますが、後に始皇帝は49歳の若さで亡くなっていることからも、既に秦の滅亡を予期していたとも考えられ、直ちに秦に戻るというリスクを冒すよりも、「始皇帝の支配から逃れる」という意味でも、蓬莱山を所有する海神に始皇帝から獲得した贈り物を手土産として献上することで、当地での厚遇を約束されていたと考えた場合に、「移住」という選択肢がマストだった、と考えるのが尤もな考えではなかったでしょうか。
今回は徳島県海部郡にて新たに発見された多良古墳群について、あくまで独自の考察・見解を述べたいと思います。 何かの参考になれば幸いです(。-人-。) 注:例の如くあくまで個人考察による見識を記するものとしてご認識くださいませ(。-人-。) 多良古墳群は海陽町に勤める学芸員の方が森林組合のソフトを使って偶然発見した前方後円墳1基と円墳4基からなる古墳群です。 こちらが現地上空写真。確かにこれでは全くわかりませぬな。 しかしソフトを使って森林を丸裸にした赤色立体地図からは… …むむ、なんだか妙な地形が浮き彫りに… という訳で、 図で示した箇所になんと前方後円墳を含む多数の古墳が発見されたのでした。 2025年3月8日(土)に開催されました「多良古墳群新発見記念展示 阿波と大和記念講演会」にて配布されました資料があり、今回ワタクシメがこっそりと「一部」を自説説明用に活用させて頂こうかと思います。 これを以て特定の専門家の見識に対する批判を行うものでは決して御座いませんので、その点はご了承くださいませ。(あくまで自説用ゼヨ) こちらが資料A 左上が古墳を真上から見た場合のざっくりとした大まかな形で表した多良1号墳と、その他が徳島県内における前方後円墳の形状の比較図になりますが、この図からは後円部分の比率や前方部分の大きさや形状の違いがわかると思います。 これらは大まかには築造された年代や埋葬されている氏族等による墳墓のサイズや形状の設計が異なるものであると考えられており、一般的には、同時期の円墳や方墳などと違い、前方後円墳自体がヤマト王権と大きくかかわっている氏族(平たく言えば皇族系)であると考えられております。 ちなみにこの資料では、板野郡板野町の4世紀末から5世紀初頭に築造された約60mの前方後円墳である愛宕山古墳と似ているとの説明があり、多良1号墳も同時期のものではないか?との仮説を論じておられました。 その説明の中に、奈良(大和)よりサイズの小さい同型のものを後代に作ったと考えられるという風なご説明もありましたな。 つまりあくまで奈良が先であり、4世紀末から5世紀初頭ぐらいに小型の同タイプの使用許可が下りたという考え方ということでしょう。 といいますのも、現時点でヤマト王権発祥の地が奈良県、細かく言えば纏向エリアであると考えられており、その中で一番古い古墳(ルーツ)はどれなのかで専門家の意見が分かれているようです。 では少し奈良県の古墳について簡単ですが整理して参りましょう。 ●奈良県における主な古墳の分布図 図は古墳をめぐる祈りの回廊様より拝借 奈良県では主に4つのエリアに分かれて古墳が築かれております。 今回の話題とするのは最古級の古墳が点在する東側の大和古墳群エリア。 その中でもホケノ山、箸墓を含む赤囲いの古墳が纏向の地にあることから「纏向型」前方後円墳と呼ばれています。 まずは議論の分かれる1つ目のホケノ山古墳 ●ホケノ山古墳図 いわゆる帆立貝型の形状に類似する後円部と比較して極小さな突出部を持つのが特徴。 もう一つは、第7代孝霊天皇の娘である百襲姫のお墓と伝わる箸墓古墳 前方部の端部が三味線の撥(バチ)のように末広がりになっているのが特徴です。 ●箸墓古墳図 ●撥(バチ) いわゆる墳墓の前方部にカービングが見られ末広がりであることを指しています このホケノ山と箸墓の2つの古墳に共通する特徴として、いわゆる段築(古墳を高く築くために段々に盛土したもの)と葺石(盛土の上面に石を貼り付けたもの)であり、段築については石塚、ホケノ山、箸墓古墳で見られ、葺石については石塚、勝山、矢塚、大塚の4基には見られず、ホケノ山と箸墓で確認されている点です。 ではこの古墳について更に掘り下げて参りましょう。 当古墳の発掘に携わった奈良県立橿原考古学研究所の考古学者である石野博信氏の著書「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」によりますと、 P32 1999年から2000年にかけての大和・ホケノ山古墳の「石囲い木槨」の調査は、大和の早期古墳(纏向式期、葬儀用器台使用期の古墳)を考えるうえで画期的であった。「石囲い木槨」の被葬者は大和の出自ではなく、阿波か讃岐の出身者の墳墓と推定した。 …とあり、 P38 大型の複合口縁壺が添えられていたが、この大壺は梅木謙一氏の検討によると伊予系であり、被葬者の推定の背景には西部瀬戸内に通ずる海人が存在していたのである。 P47 三世紀のヤマトと吉備の関係は?では、 この頃、大和では伝統的な方形周溝墓が一般的であって、大きさも10~20メートルしかない。もちろん、墓に石をめぐらせることもなく、木槨もない。中略… ほぼ一世代遅れの210年頃、全長96メートルの突出部付円丘墓である纏向石塚古墳がつくられた。 P48 大和では異質なホケノ山古墳 三世紀の中頃、纏向地域の一画に全長80メートルの一突起円墳であるホケノ山古墳がつくられた。墳丘には二段に石垣をめぐらせ、埋葬施設は””石囲い木槨、木棺”でその上に礫の方丘をつくる。…中略…ホケノ山古墳は大きく瀬戸内中・東部の二~三世紀の墓と共通するが、葬儀用器台をもたない点で阿波や讃岐の墓といっそう親縁関係がありそうだ。墓壙内柱穴は朝鮮半島南部の慶尚道から全羅道に三十基知られているので、瀬戸内海をこえた交流が考えられる。ホケノ山古墳の被葬者は半島と往来していた阿波・讃岐の海洋民であろう。大和は彼らの協力によって、海外貿易を進めることができた。 …と綴っています。 要約すると、2世紀の大和地域では、墓に石をめぐらせることもなく、木槨もない小規模で伝統的な方形周溝墓が一般的であったが、3世紀初頭頃から突如纏向の地に、段築や葺石を伴う当地では異質な大型の前方後円墳が築造されるようになった。 その被葬者は朝鮮半島南部を往来していた海洋民である阿波・讃岐の人物であると考えられる。ということですよね(´・ω・`) で、現在ホケノ山古墳の祖型と考えられているのが、 P173 三、四世紀の日本列島の積石塚は、二世紀代の徳島県萩原古墳群や三、四世紀の香川県石清尾山古墳群が著名である。三世紀後半の大和の初期大王墓の墳頂部が径44メートルの積石塚であることはヤマト王権成立の状況を考えるうえで示唆に富む事実である。 …とも書かれてある、 萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)は、徳島県鳴門市大麻町萩原にある弥生時代終末期にあたる3世紀前葉の遺跡である。 ●概要 鳴門市の大麻山南麓に位置し、1〜4号の4基からなる墳丘墓群で、かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。 石囲いの木槨とされる主体部(埋葬施設)構造の類似などから、現在では定型化以前の前方後円形墳墓(纒向型前方後円墳)とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市)の原型との説がある。ただしホケノ山古墳の築造年代は、発掘調査を行った橿原考古学研究所により3世紀中頃と結論されつつ、木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることから疑問視する意見もでており、この場合(ホケノ山4世紀築造説)では萩原墳墓群の年代(3世紀前葉)から1世紀以上の隔たりがあることになる。 いずれにせよ、萩原墳墓群を含む鳴門板野古墳群は、弥生時代終末から古墳時代前期にかけての東部瀬戸内海沿岸の首長墓が、畿内との関係性の中で墳形を変化させながら約200年に渡り連続的に築かれており、竪穴式石室や前方後円墳などが成立していく過程を理解することができる遺跡として重要視されている。 ●2号墓 1号墓の北側で同じ尾根に位置する積石墓。2004年(平成16年)および2005年に測量やトレンチ調査が行なわれた際に基底石や外側の列石が確認され、おおよその規模や形状が確認されている。墳丘は径約20メートルのほぼ円形で南側に約5メートルの突出部が延びる形状を持ち、積石の高さは最大で1メートル。2世紀末から3世紀初頭築造とされ、1号墓より築造時期が古い国内最古の積石墓とされている。(wikipedhia 萩原墳墓群より抜粋) したがって、ホケノ山古墳のルーツは阿波にある可能性が非常に濃厚であると考えるのが最も自然な考え方ではないでしょうか? では論の分かれるもう一方の箸墓古墳ですが、 箸墓古墳(はしはかこふん)、箸中山古墳(はしなかやまこふん)は、奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。 ●概要 奈良盆地東南部、三輪山北西山麓の扇状地帯に広がる大和・柳本古墳群に含まれる纒向古墳群(箸中古墳群)の盟主的古墳であり、纒向遺跡箸中地区に位置する。出現期古墳の中でも最古級と考えられている前方後円墳である。 築造年代は、墳丘周辺の周壕から出土した土器(土師器)の考古学的年代決定論と、土器に付着した炭化物による炭素14年代測定法により、邪馬台国の卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀中頃から後半とする説がある。一方で、近年炭素14年代測定法では、実年代より50-100年程度古く推定されることが明らかとなっていることや、古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっていることなどを理由に、4世紀中期以降とする説もある。 ●墳形・規模 1968年(昭和43年)に近藤義郎が、古い段階の前方後円墳は前方部が途中から撥型に大きく開くことを指摘し、この墳形を呈する箸墓古墳も古い古墳であると考えられるようになった。測量図の等高線の様子から前方部正面が現状より拡がっていたことが分かる。前方部の先が撥型に開いている他の古墳は、兵庫県たつの市の養久山1号墳、同県の権現山51号墳、京都府木津川市の椿井大塚山古墳、岡山県岡山市の浦間茶臼山古墳などがある。ちなみに浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の2分の1の相似形といわれ、長さも幅も2分の1であるが前方部の頂の形は横長の長方形と台形の違いがある。 奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会による陵墓指定範囲外側の発掘調査により、墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤の一部が見つかっている。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺石を積み上げた渡り土手が見つかっている。 ●外表施設・遺物 前方部先端の北側の墳丘の斜面には、川原石を用いた葺石が存在していることが確認されている。この時期には埴輪列はまだ存在していないが、宮内庁職員によって宮山型特殊器台・特殊壺、最古の埴輪である都月型円筒埴輪などが採集されており、これらが墳丘上に置かれていたことは間違いない。また岡山市付近から運ばれたと推測できる特殊器台・特殊壺が後円部上でのみ認められるのに対して、底部に孔を開けた二重口縁の壺形土師器は前方部上で採集されており、器種によって置く位置が区別されていた可能性が高い。特殊器台や特殊壺などの出土から三世紀後期以降の古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。 ●築造時期 墳丘形態や出土遺物の内容から白石太一郎らによって最古級の前方後円墳であると指摘されている。陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立っ布留0式土器が多量に出土した。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280~300年(±10~20年)と推定している。 ●周溝出土の馬具 『魏志倭人伝』では牛馬がいなかったと記述されているが、周壕からは馬具(木製の輪鐙)が出土している。 ●年代に関する意見 研究者の年代観によって造営年代は若干の異同がある。広瀬和雄はその時期を3世紀中期ないし後期としている。白石太一郎は3世紀中葉過ぎとし、「3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、その後継者である台与の時代である。」とも主張している。寺沢薫は260~280年頃、石野博信は3世紀後半の第4四半紀、西暦280年から290年にかけてとする。 日本最古の前方後円墳などと紹介されるが、前方後円墳としてホケノ山古墳、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、神門古墳群(神門5号墳・神門4号墳)、辻畑古墳など多数ある。これらの纒向型前方後円墳といわれる墳形とは異なり箸墓古墳は方形墳丘の部分が拡大した定型的な前方後円墳となっており、築造時期は3世紀後半以降と考えるのが一般的である。(wikipedia 箸墓古墳より抜粋) ほぉΣ( °ω° )…んで、 P173 私は邪馬台国大和説の場合でも、箸中山古墳は卑弥呼の墓ではなく、台与の墓だと考えており、三世紀の日本列島最大の古墳であることは事実である。邪馬台国に関係があっても、なくても、初期大王墓としてきちんとした立ち入り調査が必要である。 …と記しておりますので、大和纏向説者である石野氏も、さすがに卑弥呼の年代には符合しないので、その後代である台与の墓の可能性を示唆しておられます。 実際台与の墓かは別にしても、多くの邪馬台国北部九州説論者の方々が口々に言っている「箸墓古墳は4世紀の古墳であって決して卑弥呼の墓ではない!」を後押ししてしまう結果になりそうですな。 つまり奈良県側では、箸墓古墳を卑弥呼のお墓に比定したいので、できるだけ250年に近づけようと意図的に年代を古く見積もっているといえます。 では箸墓古墳についての特徴の中から特に注目して頂きたい点を太字・赤字で示しておりますので下記に箇条書きで纏めておきます。 ①古い段階の前方後円墳は前方部が途中から撥型に大きく開くこと ⓶葺石を積み上げた渡り土手が見つかっている。 ③川原石を用いた葺石が存在していることが確認されている。 ④三世紀後期以降の古墳時代初頭に築造された古墳であると考えられている。280~300年(±10~20年)と推定している。 ⑤箸墓古墳は方形墳丘の部分が拡大した定型的な前方後円墳となっており、築造時期は3世紀後半以降と考えるのが一般的である。 それでは本稿の本題であります、徳島県海陽町の多良1号墳ですが、先述の通り下図にあるように専門家の見識ではあくまで4世紀末から5世紀初頭の想定。 ●徳島県の古墳年表 つまり、古墳時代前期の前方後円墳の位置づけとなります。 現状ではまだ調査試掘のみ(そもそも古墳であるかや、前方後円墳の場合はくびれ部分の位置や幅、兆域など)であり、本格的な発掘は全く行っておりません。 では調査資料に基づくデータを見てみましょう。 今回の注目はもちろ1号墳ですが、明らかに前方部分が撥状に広がっているのが確認できます。 いわゆる中期以降の前方後円墳に見られる直線的な台形とは別にゆるやかにカービングして末広がる撥状のイメージ。 下部写真左側の前方後円墳がいわゆる皆さんが知っている一般的な、ザ・古墳の形状ですな。 もう一つ言えば、円墳部と方墳部の高さがほぼ同じであるのも特徴です。 こちらが箸墓古墳 前方部と比較して後円部の方が高いです。 多良1号墳は、「阿南安芸自動車道 海部野根道路(多良地区)において発見された古墳について」に記載されている報告書からは、 阿波系の古墳の特徴を示す「葺石」(これは現地にて確認しましたが完全に川原石でした。)やその形状から纏向型初期の古墳の特徴である、 初期的な 「段築」の構造が確認できます。 調査報告では、前方部は後円と比較して落差が約3mもあるようです。 では多良1号墳と箸墓古墳を並べて比較してみましょう。 当然ながら規模は箸墓古墳の方が大きいのですが、サイズを同じにし並べて比較してみますと 比率一緒やん。゚(゚ノ∀`゚)゚。 ちなみに前方部の先端部はなだらかに傾斜しているところや先の部分でクイッと広がるところも極めて類似しておりますな。 ということは、上記した①⓶③④⑤の条件を全て満たしており、これをwikipediaの記述になぞれば、築造時期は3世紀後半以降と考えるのが一般的である。となるでしょう? つまり古墳の設計者が同じ可能性があるんですな。 「多良古墳群新発見記念展示 阿波と大和記念講演会」の資料はあくまで徳島県における古墳の形状比較を資料として出している時点に個人的には不満点があり、実は奈良県の箸墓古墳が一番近いですテヘッ というのをわざと内緒にしていたとまで邪推してしまいますな。 ちなみに徳島県の古墳年表も最古級の萩原二号墓の記載が無く、前方後円墳である八人塚古墳が最も古いところに位置しております。 この八人塚古墳(徳島県徳島市名東町東名東山)は眉山カントリークラブの敷地内にあるのですが、一説にはスサノオのお墓?ともいわれているようです。 その形状からは、奈良県の3世紀後半から末の築造とされる桜井茶臼山古墳と似ており、前方部は後円部と比較してかなり細長く長方形に突出しているのが特徴ですな。 先の地図で示すとココね つまり纏向にある箸墓古墳と桜井茶臼山古墳は、古墳の位置的なものや築造年期も阿波の同時期の古墳と非常に近しくありながらも、その形状に差異があるということになります。 あえて徳島県(阿波)を交えて現時点で考察するのであれば、桜井茶臼山古墳タイプの八人塚古墳は県北型、箸墓古墳タイプの多良1号墳は県南型ということになります。 さて下図において、阿波では八人塚古墳の次に古いと目されている宮谷古墳ですが、 その説明文には、 3世紀末頃に築かれた…三角縁神獣鏡3面ぶんが出土しました。と書かれており、 P140 長突円墳と三角縁神獣鏡 30余面の銅鏡が副葬されている奈良県の黒塚古墳や京都府の椿井大塚古墳の年代は、どう考えても三世紀にならない。椿井大塚古墳はここ数年、山城町教育委員会が発掘調査して、四世紀の布留式土器がたくさん出ている。それ以前にも、京都大学の調査のあとで、岡山大学の近藤義郎氏が墳丘調査をした際に、墳頂から布留式土器が出ている。現地で見せていただいた土器片群は、どうみても四世紀の中ごろ以降、古く考えて四世紀の第2四半期になるかどうかという土器だ。椿井大塚古墳を意識せずに、ごく普通に土器だけでいえば、布留2式=四世紀後半の土器である。 黒塚古墳の墳丘内出土の土器も、三世紀ではなく四世紀前半だ。そうなると、大量に三角縁神獣鏡を副葬する段階は古墳の年代を古く考えても、三世紀にはいらない。 …とあり、奈良県や京都府から出土した三角縁神獣鏡は三世紀以降さらに言えば四世紀中頃との見立てであり、卑弥呼の時代である三世紀中頃までとは時代が重ならない。 さらに言えば、徳島県の3世紀末ごろ築造とされる宮谷古墳からは、奈良県に先んじて複数枚出土しているというのが事実なのです。 また多良古墳群が見つかった同海陽町には、寺山墳丘墓群があり、 4世紀後半~5世紀(古墳時代)の前方後方墳とされていた海陽町野江の寺山3号墳が3世紀初頭(弥生時代終末期)の墳丘墓とみられることが、県埋蔵文化財センターの菅原康夫専務理事の調査で分かった。 現在この墳丘墓は圃場整備をされ、跡形もなく消滅しておりますが、氏の復元図では前方後円墳として見立てているようです。 というのも当初、前方後方墳として発表されていたものが、後日の資料から訂正され、方墳部分が円墳だったということのようです。 ちなみにこちらが寺山古墳測図 件の3号墳ですが、後円部分は両サイドから削土されている上、前方部分は明らかに人工的なフラットな地形に変貌しておりますな。 そして現在ではそれをカムフラージュしているかのように、そもそも前方後円ではなくただの円墳だったとしているようです。 結果、徳島県南部に存在していたはずの3世紀初頭の前方後円墳が消滅した、そして徳島新聞の記事にもあるように、多良古墳同様、それは有識者の見識では、4世紀後半~5世紀の見立てだったもののなれの果てです。 この多良古墳群も現在では1・2号墳以外の3~5号墳は調査発掘後に阿南安芸自動車道海部野根道路海部ICランプ部にかかるため消滅の予定です(゚Д゚) ここまでに記してきたように、奈良県では基準とする見立てより、より古く見積もる傾向があり、逆に徳島県ではその基準より見立が新しく見積もられ、その結果、最終的には阿波の古墳たちは次々と姿を消していったという悲しい末路を辿っているのです。 あくまで私個人による見立てでは、多良1号墳は、箸墓古墳型の祖型であると考えられ、3世紀中~後半の古墳ではないかと想定しております。 仮に見立て違いであったとしても、その氏族の末裔ということと考えます。 ではなぜそう考えるのかといいますと、箸墓古墳の位置する地の傍らには「芝」という地域が存在し、 同様に海陽町にも傍らに「芝」という地域が存在するのです。 つまりこれは同地同族の首長の証であると考えられ、阿波古代史の先覚である岩利大閑氏著「道は阿波より始まる」その一のP114には、 「ただ王居のあるかたわらに「芝生」「芝原」の地名の邑を備えています。この芝生、芝原、芝山の地名の残る所、必ず王、大王と呼ばれる大人(うし)達の住居があります。皆さんの地方でこの地名あれば、その土地一帯を注意して、昔から伝えられる伝承を集めてお知らせください。」 …と記します。 共通するのは「芝」です。そこには大王が住居した痕跡が確かに残っている。 岩利氏が調査していた頃はインターネットがまだ普及していなかった時代であったことを考えると、その調査力の素晴らしさに感服致しますわ。 で、じゃあこの多良古墳群の主たる被葬者は一体誰なんじゃいという疑問が当然ながら出てくることでしょう。 この古墳がある地は多良「井櫛ノ本」(いくしのもと) 海陽町にはイクシ信仰(イクシサン)というのがあり、海部川沿いの地域にその痕跡を留めます。 過去に発掘した内容の一部を参考用に町史から添付しておきます。 ただし多良古墳の眠るその地名からは、イクシの「本(もと)=祖」という意味での調査をする必要があるでしょうね。 私のあくまで現時点での古墳の被葬者の見立ては、ありきたりといってしまえばそれまでなのですが、同地を拠点とした海人族の王。…と、その一族であったと考えておりまする。(*´ω`*)ノ
※イラストは「神社本庁」国譲り より みなさま、お久しブリマグロ(´・ω・`)ノ 毎度のことながらすっかりブログをさぼっていてホンマにスマn(ry...ゲホゲホ 最近ユーチューブ界隈では、邪馬台国阿波説・記紀神話阿波説が密かに賑わいを見せているようでしたので、ちょっくら動画を拝見させて頂きましたが、皆さんそれぞれに思うところをバンバンと動画にしているようで、ワタクシもホンノリと刺激を受けております。 しかしその一方で、これまでに研究された諸先輩方の血の滲むような成果を、何の努力もせずにマルパクリして動画再生数を伸ばし収益化している動画や、そのエビデンスを本人の許可なく無断で転載及び自説として披露(最もしてはいけないこと)している輩も多々見受けられますネ。 それらの動画を機に阿波説を知った方々は、そのことは無論知る由もないわけでしょうが、少なくともブログではリンクを貼ることやリブログ機能を使用することでこれまでに研究されていた方へのリスペクトを込めてご紹介するのが礼儀というものであると感じます。 実際そうしてくれている方々が殆どですが…(´・ω・`) 動画であれば出典を出されている方に最低限の連絡(コンタクト)をとること。 これを怠るようであれば、エビデンスや知財を持する側から権利者削除を行使され、収益化をしている動画等であれば、該当動画はおろかアカウント削除に追い込むことにも繋がり、またせっかく盛り上がりを見せる阿波説へのケチもついてしまいますので十二分にご配慮願いたいものです。 ワタクシの趣味歴史ブログも、阿波説のネタになればと思って暦年と記しておりましたが、ブログ表紙にも動画使用の際はご一報頂きたいとのコメントを差し入れさせて頂いております。 実はこれまでに数点程度では御座いますが、内容的に自説由来のものと断言できる動画が確認できました。 なぜそのように言えるのかについては、徳島県においても極々当地でなければ知りえない情報内容の開示であり、私のブログを閲覧しないとわからないことを多分に含むからです。 まぁ私のネタをパクっているブログもあるようですので詰まるところ親から子、孫パクリみたいに次々として派生しているのかもしれませんが、何れにしろユーチューブ動画作成者からのブログの内容の使用依頼は一切届いていないのが現状とだけお伝えしておきますm(_ _)m 上記の件で他の諸先輩方が怒髪天になる前に上手に共存できる道を探ってほしいものですな。 …さて、ここまでひとしきりイチャモンを書いておきながら、今回は表題につきまして、内容のうすーいモノを短めに書いてみようかと思います笑 これよりあくまで個人ブログによる個人的見解による自説ですのでご了承ください。 なお、とにかくアレルギー反応的に阿波説を否定するアンチコメントは差し控えてくださいませ 出雲大神宮(いずもだいじんぐう)は、京都府亀岡市にある神社。式内社(名神大社)、丹波国一宮。 旧称は「出雲神社」。別称として「元出雲」や「千年宮」とも。 場所はココ 海のある京丹後からはこんなに離れているのね(´・ω・`) ●概要 亀岡盆地東部に立つ御蔭山(みかげやま。御陰山、御影山、千年山とも)の山麓に鎮座。古くは御蔭山を神体山として祀る信仰があったとされ、社殿は和銅2年(709年)に創建されたと伝える。 ●主祭神 大国主神(おおくにぬしのかみ) 出雲大神宮では、別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」とする。 三穂津姫尊(みほつひめのみこと) 高産霊尊の子で、大国主の国譲りの際に大国主の妻となったと伝える。 ●配祀神 天津彦根命 天夷鳥命 祭神に関しては、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の3柱とする説や、元々は三穂津姫尊1柱のみであるという説もある。(wikipedia 出雲大神宮より抜粋) ではその出雲大神宮のHPをみますと、 …と記されており、「元明天皇和銅年中、大国主命一柱のみを島根県の杵築の地に遷す」とあります。 元明天皇和銅年中とは、元明天皇在位中である708年から715年までの期間を指し、その2年にこの出雲神社が創建されたことになります。 wikiには、社伝では、和銅2年(709年)10月21日に社殿が建てられたとする。『古事記』・『日本書紀』には国譲りの神事が記載されるが、丹波国は出雲・大和の両勢力の接点にあり、国譲りの所由によって祀られたとされる。 とも記されており、古代における思想として「出雲 - 丹波 - 倭」の地理的位置づけだったと考えられ、更にこの和銅年中に大国主命のみを現在の出雲である島根県に遷したというのが丹波国風土記逸文に記されてある事を理由として当社を「元出雲」であるとしております。 したがってこの和銅年中に起こった出来事は、 708年 平城の地に新都造営の詔を発令 709年 出雲神社創建 710年 藤原京から平城京に遷都 712年 太安万侶により古事記完成、撰上 713年 諸国に風土記の編纂を命じる。国・郡・郷名に好字を付けさせる 715年 元明天皇が譲位 この出雲神社創建後の和銅年中に大国主命を島根県の現在の出雲へ移したという流れになる。 個人的には、古事記を完成させた712年時点では島根県の杵築社には大国主命がいなかったため、急いで遷さなくてはならなかった。 翌713年に大国主命を迎えたのちに、諸国の風土記を編纂を命じたと考えられるのです。 では現在の出雲大社 北島國造館のHPより、北島家に残る「北島国造家沿革要録」には、 「続日本紀元正天皇(716)2月丁巳、出雲国造外正七位上出雲臣果安、斎竟わり神賀詞を奏し、神祇大副中臣朝臣人足、その詞を以て奏聞す。この日百官の斎焉、果安より祝部に至り一百一十余人に位を進し禄を賜う。各差(しな)あり。伝に云わく、始祖天穂日命斎を大庭に開き、此に至り始めて杵築の地に移すと云う。」 つまり出雲国造家が杵築(出雲大社)に移ったのは、和銅年間直後となる霊亀2年( 716年)ということ。 ということは、709年に創建された丹波の出雲神社から和銅年中に急いで島根県の杵築の社に大国主命一柱のみを遷し、716年に「始めて」杵築の地に出雲国造家がやって来たということになる。 ※因みに前述に北島国造とあるが先代旧事本紀:国造本紀には見あたらない。従って私見では北側に島がある現出雲國の旧國名が北島國であったと推測しています。 また「出雲大社」という神社名は明治時代以降のことで、それまでは「杵築大社(きづきのおおやしろ)」と呼ばれていたのはみなさんご存じの通り。 したがって、奈良時代に記紀神話にある出雲を後に「作る」という国家施策が急ピッチで行われたということを示す大きな証拠になると考えられるのです。 逆に言えば、現在の島根県は、本当の古代出雲ではないということを決定付ける確たる証拠となります。 少なくとも上記神社ご由緒からも、現在の出雲大社は、709年創建の京丹波にある出雲神社より大国主命をお迎えして以降出雲に置き換えられた地ということになるんですなぁ。 歴史解釈をされる場合、阿波説云々の以前に、古代出雲王朝説(トミケ・ゴウドケ等)をエビデンスとして出典される方々はまずスタートラインとして島根県のことではないということをご認識くださいませ。 では「元出雲」とされる現出雲大神宮が神話にある本当の出雲なのかの疑問が当然ながらわいてくるはずですよネ。 『古事記』をチラっとみてみますと、 「大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。」 「大国主神が、出雲の御前におられた時、 波頭の間から、天之羅摩(あめのかがみ)船に乗り、ガチョウを剥いだものを衣服とし、帰って来た神がおられました。」 「此二神降到出雲國伊那佐之小濱而伊那佐三字以音、拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言」 「この二神は出雲の国の伊那佐の小浜に降り立ち、 十掬剣(とかつのつるぎ)を抜き、波打ち際に逆さに突き立て、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいて座り、その大国主の神にこう問いました。」 『古事記』記述に「出雲」と具体的に書かれる箇所には「海」と面していると想起できる内容がみられますが、この出雲大神宮はグーグルマップの示す通り、律令制後の丹波は海と面していないことがお分かり頂けるかと思います。 律令制以前の丹波であれば旧丹後も含み海と面しますが、社の示す「丹波国風土記」逸文並びに別に「丹後国風土記」も現存するように、律令後の713年に丹後と分割された上で風土記編纂を命じているため、それ以前の記録は存在しえないはずなのです。 つまりこの元出雲とされる出雲大神宮も、別の「本当の出雲」から、709年に当地に最初に遷したのを「創建された」とする原初根拠として「元」を名乗っていると考えるのがもっとも自然な捉え方ではないでしょうか。 これらの考え方は「元伊勢」とされる丹後国一宮の籠神社も、社家である海部氏のルーツを辿れば徳島県の海部郡にある式内社 和奈佐意富曽神社に行きつく旨を過去に記しました。 「羽衣伝説 Vol.阿波 ①」 「羽衣伝説 Vol.阿波 ②」 「羽衣伝説 Vol.阿波 ③」 かの折口信夫も(『折口信夫全集第二巻』)「水の女」等に、 『意富曽(おおそ)はおおちに通じて、祖父の意味がある。つまり、丹後国と出雲国は、共に阿波の和奈佐意富曽を根拠としており、伊勢外宮の祀神はオオゲツヒメであることがわかる。』(記紀の説話は阿波に存在した より) …と説いています。 掻い摘んで書いていますのでご容赦くださいませ m(_ _)m なぜならば徳島県南部の海に面した地域にその痕跡がきっちりと残されているからなのです。 ●和奈佐意富曾神社(徳島県海部郡海陽町大里松原2) つまり「元伊勢」や「元出雲」とされる神社でさえ、実際は別の場所(本当の場所)から恐らく主に奈良時代に最初に遷された社を根拠に「元」を名乗り、当時代における国家施策として、律令後の各地へと遷された神社に由緒づけたモノと考えられるのです。 …ということで、考察として個人的見解が多分に入っておりますので、これも一つの考え方ということで参考程度にしておいてくださいませ(*´Д`)ノシ ※ただし上記伝承や神社由緒ではそう書いてるのが事実ですぜ(・∀・)b
みなさん、(いつもながら)お久しぶりです(´・ω・`)ノ いやぁブログを不定期ながらもコンスタントに仕上げるというのは生半可なモチベーションでは到底できませんなぁ。 んで今回はチョロっとだけですがモチベがビミョーに⤴って来ましたので、久々に何か書いてみようと思います。 今回のテーマはといいますと、本年の干支が巳(み)年であるということで、本稿は我が国における「蛇」信仰について穿って考察して参りたいと思います。 ということで、まずは民俗学者である吉野裕子氏著書「山の神」に非常に興味深い記述があるので抜粋いたします。①蛇の古名の項の「ハハ」と「カカ」に、 『古語拾遺』(807年)に、「古語に大蛇を羽羽(ハハ)といふ」とみえ、一方、『和名抄』には「蟒蛇(ウワバミ)」を「夜万加加智(ヤマカカチ)」と訓んでいる。 この場合「チ」は霊格を表す語なので、これを外せば、「カカ」が残る。 つまりカカもハハも共に大蛇の名で、KとHの子音転換によって、カカからハハになったと思われる。とあり、また、「神」の原意の項には、 …さらにカカ、ハハは共に「カ」「ハ」の畳語であって、原語は「カ」「ハ」と推測される。 つまり「カ」を蛇の最も古い言葉とすれば、「神」もまた蛇そのものを指す言葉ではなかろうか。 「神(カミ)」の古形は「カム」(『岩波古語辞典』)「身(ミ)」の古形は「ム」それならば神とは蛇身(カム)=蛇身(カミ)=神(カミ)という推理も可能である。と記します。 また、蛇から誕生する山の神の項では、「大山津見神」と火神カグツチに触れ、山の神が蛇の所生であることの明示の必要性を説き、「大山津見」も大山の蛇(オオヤマツミ)とし、「ミ」を祖霊の蛇、ととればこの神も正しく蛇神である。 しかし、カグツチ所生の八柱の山の神々は、それよりもさらに明白に蛇の本質を備えていると思われる。 「次に生める神の名は、…火之夜芸速男神、亦の名は火之炫(カガ)毘古神」と謂ひ、亦の名は火之迦具土神と謂ふ。此の子を生みしに因りて、美蕃登灸かえて病み臥せり。…故、伊邪那美神は、火の神を生みしに因りて、遂に神避りましき。」(『古事記』上巻』) ここで見る限り、火神カグツチの元の名はカカヒコであって、カグツチの「カグ」は「カカ」または「カガ」の転訛に過ぎない。 前述にもあるように「カカ」は蛇の古名であるばかりでなく現在でも「山カガシ」「カガチ」の形で残っている蛇の名称であるが、発音しにくいため、後続の音によって、「カガ」となり、「カク」「カゴ」となり、さらに「コウ」ともなる。…中略…火神とされるカグツチも実は蛇の霊(カカツチ)であって、蛇に還元することができる名称である。 要するに火神カグツチを蛇神に還元すれば、蛇の子は蛇なので、当然その所生の八柱の山の神々は蛇ということになる。②スサノヲ神話と山の神の項では、 天上から追放されて出雲の鳥髪山に天降りしたスサノヲ命は、簸(ヒ)の川をさかのぼったところで、娘を真ん中にして泣いている老夫婦と出逢う。 「自分は大山津見神の子で、名は足名椎、妻は手名椎、娘の名は櫛名田姫という。自分らには八人の娘があったが、ヤマタノオロチに年毎に奪られ、今年もその時期が来たので、こうして泣いている。」とスサノヲ命に告げる。 まず「山津見」であるが、これは山の蛇(ヤマツミ)であって、山神は蛇であることを暗示している。蛇の子は蛇に相違ないが、これは、そのとおりこの老夫婦の名はそれを物語っている。つまり夫の名は足無の霊(アシナツチ)、妻の名は手無の霊(テナツチ)とよめるからである。「チ」とは古語で原始的霊格をさし(『岩波古語辞典』)、蛇によく用いられ、ヲロチ、カガチ、あるいはタケミカツチなどもその例である。 手と足がないのは蛇の一大特徴であるから、四肢のない神霊、というのは蛇を措いては考えられない。 足名椎、手名椎はその出自からいっても、その名前からみても蛇である。 祖父・両親が蛇であるならば、娘の櫛名田姫も当然、蛇のはずである。 ヤマタノオロチは、『記』には八俣遠呂智、『紀』には、八岐大虵、と記されている。「虵」は蛇の意で、これを「ヲロチ」と訓んでいるが、「ヲロチ」には本来、蛇の意はない。それは「ミヅチ」「ノツチ」が、「水の霊(ミツチ)」「野の霊(ノツチ)」から転じて蛇になっている場合と同じである。 辞典によると「をろち〔大蛇〕《ヲは峰ロは助詞。チはミヅチ・イカヅチなどのチで、激しい勢いのあるもの》大蛇。うわばみ。」(『岩波古語辞典』) そこで同辞典で、個別に「ヲ」「ロ」「チ」をみる。 「を〔峰・岡〕①《「谷」の対》みねつづき。尾根。②山の小高い所。」 「ろ〘助〙①上代、文末などにつき、親愛、感動の意を表わす。②動詞の命令形につき、命令の意を明らかにする。③連体助詞『の』と同じ意を表わす。『嶺ろ田』『をろち』など。」 「ち〔霊〕原始的な霊格の一。自然物のもつ激しい力・威力を表わす語。『いかづち』『をろち』など。」 以上を統合するとヲロチとは、嶺の霊(ヲロチ)を意味し、山々の連なりを暗示する「山脈の主」ということになる。つまり古代日本人は蜿蜒とつづく山脈に巨大な蛇を連想し、山々の連なりに祖神の姿を感得したのであった。 …今回の抜粋はここまでということで、 …さて、ここまで記しまして個人的に思い当たる節が山ほどございますなぁ。まぁ相変わらず阿波説なんですが笑 ということで、久しぶりに思うところを補足しつつ自説展開をやってまいりたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 ではまず①の考察についてですが、吉野氏によると、「蛇」の古語・古称や我が国では古くは縄文時代より信仰の対象とされてきた「蛇」についてのアミニズム、そこから、神(カミ)という語源そのものが蛇(カ)身(ム・ミ)から生じた可能性を指摘しておられます。 現代における蛇にまつわる身近な痕跡として、円錐形(トグロ)の山を蛇に見立てて神奈備の山と想起したり、わら蛇の室をグロとしてお祀りしている民族信仰も根強く残っていますよネ。 またお正月のどんと焼き(左義長、五十猛のグロなど)もスサノオの子神である大歳神の祭事であるし、同じく子神の宇迦之御魂神の「宇迦・宇賀(ウカ・ウガ)」も南方祖語「ウガル」(蛇)の転訛といわれ、宇賀神になったとされています。 これらの神々たちは、我々が生きる現代において、”天皇”として謂わば現人神という形として実在されており、『記紀』に代表される伝承の数々にも、畏敬の対象ともされる「蛇」に関連した「神」としての痕跡を神道を通じて垣間見ることができます。 つまるところ、我が国の祖霊信仰の起源は「蛇=神」であるということになります。 次に②においては、スサノヲ伝承に登場する大山津見の子孫達や物語上での討伐対象となるヤマタノオロチも含め、これらすべてが蛇に因む山の神々たちであるということ。 上にも書きました通り、スサノオの一族もまた蛇の一族であるということなんですな。 大山津見やその子の足名椎・手名椎は神名として蛇を想起させ、また孫の櫛名田姫もその神名から稲田の守神であるカカシ(案山子=蛇子)が鼠の天敵となる蛇として守護しているのであり、これもまた、 ナンダ(南蛇、学名:Ptyas mucosa)は、ナミヘビ科ナンダ属に分類されるヘビ。(wikikedhiaより) インドのネズミヘビであるナンダを想起させる神名であるといえるでしょう。 この説話の舞台設定は、当然ですが、あくまでも「海」ではなく「山」であるということになります。 先の吉野氏の解説を紐解きますと、実は阿波説においては想像が映像化して脳裏に投影されること間違いナシと思える様々なヒントが散りばめられております。 ここからは私説解釈を交えながらご説明をさせていただきましょう。 第7代孝霊天皇の宮名である「黒田廬戸宮(くろだのいほとのみや)」 岩利大閑氏著の「道は阿波より始まる」その一 P113 に、黒田の地は、…中略…その地形古代文字メオのメとまさに同じで故に黒田以火陰宮(くろだいほとのみや)と称されました。…と記されています。 これについては以前に「倭建命を穿って考察 ⑥」にて多少記しておりますのでご参考ください(。-人-。) 要約すると、この宮名の「廬戸:いお(ほ)ど」は、「女陰(ほと)」を示すキーワードで、徳島県においては、気延山と眉山の間を真っ二つに割って流れる鮎喰川を女陰に見立て、その傍らに「黒田」の地名が今も残ります。 ほとは古い日本語で女性器の外陰部を意味する単語。御陰、陰所、女陰の字を宛てることが多い。 現在ではほぼ死語になっているが、転じて女性器の外陰部のような形状、形質(湿地帯など)、陰になる場所の地形をさすための地名として残っている。 ●地名 日本各地に「ホト」「ホド」の音を持つ様々な表記の地名が残っているが、民俗学者の柳田國男の主張する説によれば、これらは女性器に似た形の地形だったり、女性器に似た特質(湿地帯)を持っていたり、陰ができる土地(「陰」部から)などの特徴から名付けられたとされる。アイヌ語で川や河口を生殖器になぞらえるのと類似している。(wikipedia ほとより抜粋) 「地名と人々の営み」によれば、岡山県内の製鉄(たたら)地名の砂鉄の産地として、 黒 黒は本来鉄の色で、クロガネは鉄の古称です。砂鉄の黒色から産地地名になったと思います。 黒田など「田」がつく場合、田には水田の意の他に「場所」の意味があると言われています。 そうしますと黒田は「砂鉄を産する所」という意味になります。 またクロには平地で盛り上がった所を指す「畔(くろ)」があり、黒に当て字されている場合があると思われます。 黒は紛らわしい地名です。 「黒田」(赤磐市多賀) 「黒尾」(岡山市東区瀬戸町弓削) 「黒谷」(総社市久代) 「大黒山」(倉敷市木見) 「黒取岩」(真庭市樫西) …などと書かれてあり、産鉄もしくは製鉄をしていた場所につけられる地名であると考えられ、宮名の意味するところは「たたら場などの鉄に関連する女陰に形容される場所にある宮」の意となります。 女陰になぞられるこの鮎喰川を私説においては簸=肥(ひ)河に比定しており、この川を遡りますと、神山町へと到達します。 その地には東龍王山が御座いますな(´・ω・`) 確か吉野氏の解説では、ヲロチとは、嶺の霊(ヲロチ)を意味し、山々の連なりを暗示する「山脈の主」ということ…でしたな(´・ω・`) …で、更に遡上しますれば、『古事記』によりますとスサノオが高天原を追放されたのちに殺したとある阿波国の國神オオゲツヒメをお祀りしている上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町神領字西上角330)がご鎮座されており、 その程近くにオオゲツヒメがこの地に来られて、初めて腰をおろしたという謂れがある高志ならぬ腰之宮がご鎮座されております。葛倉神社(徳島県名西郡神山町神領大埜地(おのじ)388) こちらにつきましても以前に「八俣遠呂智から考察」にて記しておりますのでご参考くださいませ(。-人-。) つまり『古事記』の解釈として阿波説に乗っ取れば、スサノオはこの鮎喰川を遡上したと考えられ、上の吉野氏の記述にある、天上から追放されて出雲の鳥髪山に天降りしたスサノヲ命は、簸(ヒ)の川をさかのぼったところで、娘を真ん中にして泣いている老夫婦と出逢う。とあり、簸(ヒ)の川を遡るキッカケとなったのが、箸が上流より流れてきたことに因ります。 この「箸」についてなのですが、 吉野氏は、杓子(しゃくし)形に曲げられた竹の箸で、これの形状が古代の櫛と類似しており、また男根の象徴であると記しています。 したがって鮎喰川下流域の(女陰の示す)場所に、A:男根の象徴である箸が上流から流れて来た、または、B:櫛(男根)をおさめる(交接する女陰)場所があったということになります。 ABのお話は 1.『山城国風土記』逸文の、賀茂別雷命(阿遅鉏高日子根神と同一視されている)の説話(賀茂建角身命の娘の玉依姫が小川で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた) 2.『古事記』(大物主神と比売多多良伊須気余理比売) 3.『秦氏本系帳』(阿礼乎止女と大山咋神) …等があります。 また、「黒田」の件も含めますと、イザナギ&イザナミの最後の神産みの際に火の神カグツチを産んだために陰部に火傷を負って病に臥し、亡くなる話もアリですな。 また、Bの「櫛」関連で言いますと、阿波国風土記逸文にある「勝間井」 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七) 阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。 勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。 粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。 の伝承も御座いますな(*´Д`) 場所はココよ また、wikipedia:倭迹迹日百襲姫命によれば、第7代孝霊天皇皇女の百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。 さて、主祭神を大物主大神とする、奈良県桜井市三輪にご鎮座される、大神(おおみわ)神社は、三輪山自体を神体山とします。 上一宮大粟神社公式ブログである「oawajinjyaのブログ」や宮司の書く「神山日記帳」によりますと、 粟の太古の神は、聖地大粟山自体です。 太古の粟の神は宮司家の祖神として宮司家の屋敷内の神社で祀られていました。 祭神を大物主神、または大山祇神とします。 大粟神社境内にある摂社粟神社のご祭神は「大物主大神」であり… …云々と書かれています。 この神山町の大粟山には、確かに古くより大物主大神がお祀りされているのです。 つまり奈良県に倣い、大神神社の大神の「神」を(みわ)と訓むというのであれば、これを徳島県版に置き換えますと、即ち、神(みわ)山ということになりますな。 因みに大神氏の系譜を綴る「三輪高宮家系」によりますと、 大物主神と都美波八重事代主命は同神であり、また、 「粟国造粟飯原家系図」では、 八重事代主神(=大物主神)とオオゲツヒメは夫婦神とありますぜ。 これでいろいろつながったのかな(・ε・`*) さて、『記紀』ではスサノオの説話では箸が川上から流れてきたところからヤマタノオロチの退治のお話へと展開していきますが、これらの大物主大神関連の説話とどう関係してくるのかおおよその目星はついてはおりますが、本稿では些か書ききれませんのでここで一端終いにしまする (*´ω`*)ノシ 久々なんでこんなもんでカンベンシテネ
またしてもだいぶブログの更新が途絶えておりましたが、生きておりますのでご安心ください(・∀・) ということで今回は、表題にもありますように、『記紀』にある天照大御神は一体いつの時代の神(人物)であったのかについて考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まず、一般的に『記紀』は日本の歴史書であり、これを神話形式で記しておりますから、実際にはその時代がいつの頃なのかハッキリとはわかっていません。 「神話は神話や、遥か大昔に決まっとる。」けど、実は本当の歴史を記しているのであれば一体どの時代なんだろう。『記紀』に興味がある方であれば誰しもそう考えますよね。 例としまして、現代においても、天照大御神の子孫である初代神武天皇が初めて天皇として即位したとされるのが紀元前660年と考えられていますよネ。 ということは天照大御神の居た時代は更に古い時代であった…と考えるのが当たり前だと思います。 更に深掘っていきますと、卑弥呼=天照大御神説もあり、その卑弥呼も第7代天皇孝霊天皇の娘である倭迹迹日百襲姫命説や第14代仲哀天皇の妃である神功皇后説等など、候補を挙げると枚挙に遑がありません。 要は何もわかっていないのが現状ですな。 今回はそこにあえてメスを入れて参りますぜ。 『日本書紀』巻第一神代上によりますと、「乃相與遘合而生兒大己貴神。因勅之曰「吾兒宮首者、卽脚摩乳・手摩乳也。」故、賜號於二神曰稻田宮主神。已而素戔鳴尊、遂就於根國矣。」「そこで素戔嗚尊と奇稲田姫は夫婦の交りをされて、子の大己貴神を生んだ。そして詔をして、「我が子の宮の首長は、脚摩乳・手摩乳である」と言われた。故にこのニ柱の神に名を賜わって、稲田宮主神という。まもなく素戔鳴尊は、遂に根の国に就きました。」 スサノオは出雲の清地(スガ)の地で宮を立てて結婚生活を送り、そこで生まれた子どもが大己貴神(後の大国主神)であると記します。 その後、スサノオはその宮でずっと住んでいた訳ではなく、その後に「遂就於根國矣」「遂に根の国に就きました。」と書かれてあります。 ついに【終に、遂に、竟に】長い時間ののちにある状態に達するさま。ようやく。やっと。(wikipediaより) この「遂に」は、当初スサノオは父イザナギより海を治めよとの使命を果たせずにいたので、クシナダヒメとの結婚後、その任務に「遂に(ようやく)」就いたということでしょう。 その場所が、スサノオが「妣(はは)の国」と言っていた”根國”なのです。 そういえばスサノオは、根國へ行くといいつつも、物語上では先に姉の天照大御神に会いに行きましたしね。 話は進み、子の大己貴命の説話に『古事記』『稻羽之素菟』(因幡の白兎)のお話があります。 皆よく知るお話なので内容の詳細については割愛いたしますが、意地悪な兄弟神(八十神)と心優しい末っ子大己貴命との間で描かれる稲羽の美女八上比賣をめぐる結婚争奪戦のお話で、結果的に八上比賣は大己貴命と結ばれました。 その結果、八十神は怒り、伯耆の国の手間山の麓から、ありとあらゆる手を使って大己貴命を殺そうと画策します。 てか、あっさりと大己貴命は死にました笑 …が、神産巣日之命の手助けがあり、直ぐに、𧏛貝比売(きさぎひめ)と蛤貝比売(うみぎひめ)を遣わし生き返らせることに成功神はすごい ここでのキーポイントは、神産巣日之命は大己貴命の味方側の立場で描かれており、助けに遣わした比売神達はみな「海」に因む神名なんですな 話を進めて参りますと、 怒りがおさまらない八十神は、執拗に大己貴命を殺しにかかります。 ところが、愚直な大己貴命はまたしても八十神の術中に嵌り、山に連れて行かれて拷(たた)き殺されてしまいます。二度目の死 なんやかんやあって再復活した大己貴命ですが、今度は完全に滅されそうになる大ピンチに、またしてもお助けマンの登場 原文では、 「乃 違 遣於木國之大屋毘古神之御所」 「そこで逃れさせ、木の国の大屋毘古神のいらっしゃる所に行かせました。」 大屋毘古神:五十猛神の別名。 日本神話に登場する神。イザナギ・イザナミの子であるスサノオの子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメ(大屋津姫命、枛津姫命)は妹。また、イザナギ・イザナミの子大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。(wikipedia 五十猛神より抜粋) そうなんです。 スサノオの子である大屋毘古神(五十猛神)が匿ってくれたんですな。 つまり助けてくれている側の神はスサノオサイドということなんです。 更に止めを刺そうと執拗に追ってくる八十神を見て、神産巣日之命は、 「自木俣漏逃而 云 可參向須佐能男命所坐之根堅州國 必其大神議也。」 「木の股を潜り抜けて逃げ、御母の命はこうおっしゃいました。「須佐能男命がましますところの根堅州国に向かい、 必ずその大神に相談すべきです。」」 はい、ここで一端の伏線が回収できました笑 冒頭に記してありますように、スサノオはクシナダヒメと結婚後、『日本書紀』では根國、『古事記』では根堅州國へ移動し、そこに滞在しているので、神産巣日之命はそこ(根國)に居るスサノオを頼りなさいと言ってるんですな。 そして、 「故隨詔命而 參到須佐之男命之御所者」 「そして、(御母の命の)仰せに従い、須佐之男命の御所に伺ったところ」 「其女須勢理毘賣出見 爲目合而 相婚還入白其父言 甚麗神來爾 其大神出見而 告此者謂 之葦原色許男」 「その息女、須勢理毘売が出てきて、一目でお互いを気に入り結婚し、家の中に戻り、その父に「とても麗しい神が来ましたわ。」と申し上げました。ところが、その大神は見に出て、この男にこう仰いました。「お前は、葦原色許男(あしはらしこを)ではないか。」」 この件でスサノオのもとを訪れることに成功した(逃げ延びて来た)大己貴命は、なんとスサノオの娘のスセリビメと会うなり秒で結婚エェーッ須勢理毘売 登場 ということは、スサノオは根國で娘のスセリビメと一緒に過ごしていたことがわかります。 そこに大己貴命が逃げ込んで来たはずが、スセリビメが大己貴命に惚れこんでしまったために、素直に結婚を認めることができない父スサノオは、大己貴命に様々な試練(蛇の部屋・蜂&ムカデの部屋・野原に鏑矢で火を放つ等)を与えます。 大己貴命は、スセリビメやネズミの助けを受けながら、全ての試練を見事に完クリしたのでした。 妻スセリビメを得た大己貴命は、今度はスサノオの元を離れる際に、「故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」故、持其大刀・弓、追避其八十神之時、毎坂御尾追伏、毎河瀬追撥、始作國也。」「そこで須佐之男は、黄泉比良坂まで追いかけて来て、遥か遠くに大穴牟遅の姿を望み見て、大声で呼びかけた。「お前が持っているその生大刀、生弓矢で、お前の腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払って、貴様が大国主神となり、また、現国泰神となって、私の娘の須勢理毘売を正妻として、宇迦の山の麓に、太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木をそびやかした宮殿に住め。こやつよ」と言った。そこでその大刀や弓でもって、兄弟の八十神を追い退けるとき、坂のすそごとに追い伏せ、川の瀬ごとに追い払って、国作りを始められた。」 ※イザナギが根國から帰還する際に、イザナミの追っ手から逃れて来た境にあったのが黄泉比良坂でしたが、大己貴命の説話にも同様に、この項でも根國との境には黄泉比良坂があることが確認できます。 そういえば余談ですが、当地にも「海部町史」には、 「宮柱を太敷たて神として祀った大宮」が御座いますね笑 話を戻しまして、スサノオは大己貴命に、スセリビメを正妻とし、今度は「宇迦の山の麓に宮殿を建てて住む」際に、大国主神を名乗って国作りを始めなさいといっておるんですな。 そして最後に、先に結婚した八上比売の話に触れ、「故、其八上比賣者、如先期、美刀阿多波志都。此七字以音。故、其八上比賣者、雖率來、畏其嫡妻須世理毘賣而、其所生子者、刺挾木俣而返、故名其子云木俣神、亦名謂御井神也。」「八上比売は、先の約束どおり、大国主神と結婚された。そして八上比売を連れて来たのだが、本妻である須勢理毘売を恐れて、その生んだ子は木の股に挿し挟んで(稲羽へ)帰った。それでその子を名づけて木俣神、またの名を御井神という。」 従って、大己貴命の最初の妻となった八上比売は、長男の木俣神を置いて大己貴命のもとを去っていったということになります。 言い換えますと木股神は母に捨てられた子ということになるんですな。 その後のお話は大国主となった大己貴命による葦原中国の平定、そして国譲りへと繋がって行きます。 さて、ここまで記しまして、実は阿波にはこれら物語にピッタリ当て嵌まる地域が1か所だけ存在します。 その場所は徳島県海部郡海陽町野江。 上にも書いてありますように、大己貴命は木の俣を潜って根堅州国へやって来たとありますが、当地域の野江浪切不動尊では、 weblio辞書の解説によりますと、 …といった伝承があり、崖を支えるように伸びている二本に分かれた灯明杉と呼ばれる杉は、好い心を持った人でないと木の股を潜れないことになっているんですな(´・ω・`)その先は崖ですがね こちらがその灯明「杉」 そして、この野江浪切不動尊の目の前には妣(はは)の国ならぬ「母川」が流れており、その程近くに、史跡寺山古墳群の名が見えます。 地図では古墳となっておりますが学術的な定義上では墳丘墓の扱い。 「海部町史」によると、寺山という地域の小山に神社とセットであったことがわかっております。 その中の寺山3号墳は、3世紀初頭(弥生期終末期)の墳丘墓とみられることが新聞記事で確認できますね。 つまり邪馬台国の女王卑弥呼の生きていた時代のものとドンピシャで一致する訳なんですな そして図に見えますように、墳丘墓と一緒に見える鳥居のマークは、当然のことながらそこに神社があったことを示しておりまして、阿波の古~い神社は必ず古墳とセットがデフォ(定番)。 つまりそこにお祀りされている御祭神の眠る社なんです。 で、この神社についてですが、現在地の場所はココ 新居神社(にいじんじゃ 別名:新居大明神)海部郡海陽町芝字山下 ◆祭神 御井神 ◆由緒・創建 不詳 「海部町史」によりますと、 芝の森の新居神社は、もと野江の寺山の北のニイクボの泉の傍らにあった祠を三が村の境を接した現在の地に遷して氏宮としたといわれ、阿波志に、「新居祠 芝村に在り。古鏡一枚を蔵す。慶長十一年(1606年)益田甚蕃允改造す。」とあり、棟札には「明和七庚寅年(1770年)十月」とあり、恐らく高園・野江・芝の三が村の氏神として古く創建されていた祠を益田氏が祈願所として社殿を重造したものであろう。 …と記録されており、新居神社は現在の高園・野江・芝の三が村の氏神として、お祀りされております。 これまでのお話をまとめますと、 ●当地には木の股を潜る伝承が残されていること。 ●当地には大己貴命と八上比売の間に授かった長男の木俣伸(御井神)が御神陵と共にお祀りされていること。 ●当地には妣(はは)の国に比定できる母川が流れていること。 他にも、この地が根國に比定できるエビデンスとして、 黄泉比良坂(よもつひらさか)とは日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。 ●概要:『古事記』では上巻に2度登場し、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)がその地であるとする伝承がある。「ひら」は「崖」を意味するとされる。(wikipedia 黄泉比良坂より抜粋) ●当地浪切不動尊は崖になっている。 また、根国の境にある黄泉比良坂には、『古事記』伊邪那岐命と伊邪那美命の段に、「最後、其妹伊邪那美命、身自追來焉。爾千引石引塞其黃泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、」「最後には、女神である伊邪那美自身が追いかけて来た。そこで伊邪那岐は、巨大な千引の岩をその黄泉比良坂に引き据えて、その岩を間に挟んで二神が向き合って、夫婦離別の言葉を交わした。」 …と、根國との境にある黄泉比良坂には「千引の岩」が存在しますが、野江浪切不動尊のすぐ隣には、 ●千引石(千人の力でようやく引けるくらいの大きな岩)に比定できる、町の文化財である轟の漣痕があること。 また、この崖を超えた先に、震潮記にも記載がある旧橘村(居敷越と馬路越の丁度間)が存在致します。 ●イザナギが禊をしたと考える小さな港になっている「たちばな」の存在が確認できること。 当地が「根堅州国」であったと考えられる考察はこちらも併せてご覧下さいませ m(_ _)m 「「天孫降臨の地は根の国か」の考察」」 そして本題となる「天照大御神の生きた時代はいつだったのか」についてですが、阿波国一宮である天石門別八倉比売神社 御祭神は、大日靈女命(おおひるめのみこと)つまり天照大神の別名である。 当社も阿波式ではおなじみの神社と御神陵がセットになっており、社殿は前方後円墳の前部分にあり、後にあたる円墳部分が奥の院となっています。 ここからはぐーたら気延日記様のブログ「天石門別八倉比賣大神御本記」より重要な個所を抜粋掲載させて頂きます。 詳しく知りたいお方は上のリンク先にてご覧下さいませ m(_ _)m ①「大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。」 ②「すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。」 ③「大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という。」 そして、当社説明文には、「天石門別八倉比売神社」「当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。」 …等と記載されておりますね。因みに大地主神は大国主神の別名です。 ということは、天照大御神が神去なさった時に、大国主神と木股神は生きていた。ということになりますよね。 同時代に生きた「木股神」の神陵と考えられる寺山墳丘墓の推定時代は3世紀初頭。 「天石門別八倉比賣大神御本記」に記録されてあるのは天照大御神の葬儀のお話で、しかも宮を移動してご鎮座されたそこに、ご神体と瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽が眠っている。 ということは、これまでに誰も証明ができなかったこの徳島県の記録や伝承、考古的痕跡や『記紀』の内容とも擦り合わせた数々の根拠からこれらを全て線に繋げた場合、最も有力的な考えとして、ズバリ天照大御神は『魏志倭人伝』に記録されている卑〇呼ということになりませんか さてさて、お話を根國の方に戻しまして、野江浪切不動尊は入口入ってすぐ左側に、 水子供養のお地蔵様が立っておりますね(´・ω・`) 水の虫(蛇)に至る子と書いて水蛭子=蛭子(エビス)を供養していると考えると... 目の前の寺山にあった墳丘墓が意味するものは、実は邪馬台国の女王卑弥呼を特定する上で(個人的に)非常~に重要な意味があると考えますぜ。 因みに日本三祇園と称される同町にご鎮座される宍喰八坂神社。 その傍らにある大歳神社の中は、 大己貴命の試練にあったムカデが描かれておりますぜおーこわいこわい...
マイドオオキニ 本年モヨロシュウ(´・ω・`)ノ さて、まず最初にお断りさせて頂きますが、今回の稿は何時にも増して自説色がてんこ盛り盛りとなっておりますので、特に阿波説の類に過剰なアレルギー反応を示される方はこの時点でお戻り頂くか、お覚悟下さいますようお願い致します笑 それでもまぁ一応は読んでみたろかという斜め上路線がお好きなアナタ様向けの考察となっておりますので予めご了承下さいませ<(_ _)> …という訳で、 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 早速ですがこのお写真を見てココがどこかお分かりになられた方はかなりの阿波マニアです …という訳で、そんなん知らんという方のために早々にお答え申し上げますと、お遍路さん御用達の「太龍寺ロープウェイ鷲の里駅」なんですなぁ。 こちらの駅からロープウェイをご利用致しまして、山上の太龍寺へとラクチンでチートなアクセスが可能になっております。 さらば地上 モイーーーンと登って行きまして... 更に更にドンドコ登って行き... ニホンオオカミ(像)さんを眺めつつ... 修行中の空海さんを横目に... 高天原へと到着笑 その距離何と全長2,775mで西日本最長を誇り、この距離を約10分でアクセスしておりますので、現代のお遍路さんにとって非常に便利な移動手段となっております。(文明の賜物やで) 太龍寺(たいりゅうじ)は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。 舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所の第二十一番札所、阿波秩父観音霊場の第10番札所。(wikipedia 太龍寺より抜粋) ご詠歌:太龍の常にすむぞやげに岩屋 舎心聞持(もんじ)は守護のためなり この太龍寺のご詠歌には、太龍が常に住んでいた岩屋について触れておりますが、近年に入ってからのお話ですが、石灰石の採掘場になったため、非常に残念な事に既にこの岩屋は跡形もなく現存しておりません…(´・ω・`) これについて長々書くのもアレなので、当岩屋について詳しく知りたい方は下記のブログ様にてご確認下さいませ<(_ _)> ●awa-otoko氏ブログ「太龍寺窟へご案内」 や、 ●桃山日記さんブログ「太龍寺 その4 今はない龍の岩屋を江戸初期の日記に見る」 この岩窟(鍾乳洞)には、史跡名勝天然記念物として、タヌキノショクダイという珍しい植物もあったようですな(´・ω・`)「沢谷のタヌキノショクダイ発生地」 因みにこの石灰石の採掘をしている場所がココ …で、大昔は太龍寺に行くのに当然のことながらこんな近代的な乗り物は存在しておりませんので、山道を利用しましてエッチラオッチラ登っておりました。 件の岩屋のあった道は「いわや道」の名が残り、 太龍寺のある加茂町のお隣の阿瀬比町からモリモリ登っていくことになります。 さて、この太龍寺の東隣側には津乃峰があり、そこの頂上に津峯神社が御鎮座されております。 ご祭神は、 賀志波比売大神(かしはひめのおおかみ) 大山祇大神(おおやまつみのおおかみ) wikipediaによると、開運延命・病気平瘉・海上安全の神として信仰される。賀志波比売大神は主として人の寿命を司り、一日に一人の命を助けるという。 …とあり、延命長寿の神として地元では厚く信仰されております。 また、当社にカップルでお参りをするとお別れてしまうとの俗説も方々より耳にします。 では何故このような伝承があるのでしょうか 実はこれにつきましては、以前に当ブログ「御刀媛から考察 ①」にてそれなりに記させて頂いており、津峯神社の南方の海部郡の明神山に御鎮座される峯神社の御由緒には、 當峯神社ノ祭神ハ遠ク二千六百五十有餘年ノ昔皇室ノ祖神ニ當ル 天照大神ノ天孫瓊瓊杵尊ノ妃神、木花開耶姫ノ命ヲ祀ル 基ヨリ東方ノ静岡縣富士山ニ祀ル浅間神社ハ此ノ神社ノ本宮ニ當リ 茲ニ対峙シ會フハ方ニ宜ベナラン亦タ西方ノ愛媛縣大三島ニ祀ル大山祇神ハ 父君ニ當リ逢カニ父子ノ絆拘ヲ維ネル如ク亦タ此ニ対峙シ會フハ如斯 猶北方ニ望ム津乃峰ニハ姉君賀志波姫命ガ祀ラレシコト洵ニ奇ナルベシ …とあり、峯神社の御由緒から、賀志波比売大神の正体が相殿にある大山祇大神の娘の木花開耶姫命の姉である石長比売であるということがわかります。 更にいえば、この賀志波比売大神はアマテラスの別名ではないかとの説も御座います。 石長比売(いわながひめ)は、日本神話に登場する女神。 ●概要 『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記する。他に苔牟須売神とも称される。 大山津見神(おおやまつみ)の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の姉。 木花之佐久夜毘売とともに天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。 ●考証 石長比売は岩の永遠性を表すものとされる。名義は「岩のように長久に変わることのない女性」と考えられる。(wikipedia イワナガヒメより抜粋) wikipediaにも書かれてありますように、これらの伝承から、岩のように固く=永遠のもの、つまり「長寿延命」の御利益となり、また『記紀』にある邇邇芸命に結婚を断られた石長比売のエピソードから「縁切り」の俗説となっているのでしょう。 それ故に、津峯神社の西麓の参道側の町名も、長生町(ながいけ)であることからも、”岩のように長く生きる”の意から由来したものであると考えられます。 また、社の御祭神である「賀志波(かしわ)比売」の神名も、堅石(かたしわ)が元来のいわれであると考えられ、 『古事記』上巻・天の石屋には、 「取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅而麻羅二字以音、科伊斯許理度賣命自伊下六字以音、令作鏡」 「天の安河の川上の天の堅石を採り、天金山の鉄を採り、鍛人天津麻羅(あまつまら)を探し出し、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に鏡を作らせた。」 …と書かれており、 かたしわかたしは【堅磐】 〘名〙 堅い岩石。かきわ。 ※古事記(712)上「天の安河(やすのかは)の河上の天の堅石(かたしは)を取り、天の金山の鉄(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に科(おほ)せて鏡を作らしめ」 かちわかちは【堅磐】 〘名〙 (「かたいわ」の変化した語) 堅い岩。堅く大きな岩。かきわ。 ※延喜式(927)祝詞(九条家本訓)「皇御孫(すめみま)の命の御世を手長(たなが)の御世と、堅磐(カチハ)に常磐(ときは)に斎(いは)ひまつり」 かきわかきは【堅磐】 〘名〙 堅固な岩。永久に変わらないことを祝っていう語。かちわ。 ※延喜式(927)祝詞(九条家本訓)「汝天穂比命は天皇命の手長(たなか)の大御世を堅石(カキハ)に常石にいはひ奉(たてまつ)りて」(コトバンク 精選版 日本国語大辞典より) また、 いわと‐かしわいはとかしは ① (「いわとがしわ」とも) 語義未詳。岩と柏(かしわ)の意か。または、岩石や岩礁の上に生える植物の一種か。永遠であることのたとえ。 ※万葉(8C語)七・一一三四「吉野川石迹柏(いはとかしは)と常磐なす吾は通はむ万代(よろづよ)までに」 ※常縁15C語)冬「谷河や岩とかしはに降しぐれふるとてかはる色をやはみる」 ② (①の「常縁集」の歌から) つれないことのたとえ。 ※浮世草子・小夜衣(1683)恋詞の抄「いわとかしわとは時雨に葉のそまぬ物なれはつれなき事にいふ也」 [補注]①は古来諸説がある。岩に生えた柏の意とする説、古く、石を柏といったとする説、「石門堅石(いはとかたいは)」の変化したものとする説、「石常磐(いはとこしは)」の変化したものとする説など。(同コトバンクより) これらの意味から、時代を経て、堅石(かたしは)から”かたしわ”に、そして、かしわ・かちは・かきは等に転訛していったものと考えられます。 因みに、上にある「石門堅石」に想定されそうなモノもココに御座いますゾ笑 津峯神社の長生側参道にある石門(せきもん) こちらにある岩窟でも修験者が籠って修行をしていたと伝わりますが(´・ω・`) さて、『古事記』天の石屋の条に記されてある場所を、例の如く徳島県内で探してみる訳なのですが、説話によると、スサノオの狼藉に耐えかねた姉のアマテラスは、見畏れて天の岩屋に引き籠もってしまいます。 そこで八百万神は、天安之河原に集まり、何とかしてアマテラスを天の岩屋から引き出すために様々な道具を作ります。その一文が先の、 「天の安河の川上の天の堅石を採り、天金山の鉄を採り、鍛人天津麻羅(あまつまら)を探し出し、伊斯許理度売命に鏡を作らせた。」 文脈上は、天堅石を取り、天金山の鉄を取り、鍛人天津麻羅を求めて、その上で伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせるということになり、鏡を作るための準備として必要とされた素材を集めています。 こちらの部分は、阿波国式内社である、 山方比古神社(やまかたひこじんじゃ)は、徳島県徳島市多家良町に鎮座する神社である。 ●歴史 創祀年代は不詳である。『延喜式神名帳』に記載される式内社とされるが、末社として所管する立岩神社を充てる説もある。 昔、この地に銅のたたらがあったと言う。また、周辺からは弥生土器や金属器が出土している。御火社(こひしゃ)、金谷権現とも称する。別名、金山神社。近代社格制度上は無格社であった。 ◆祭神:金山比古神 ●境内社:立岩神社 - 祭神は天津麻羅。巨大な岩を神体とし、社殿は小さな祠である。10月17日に祭礼が行われる。(wikipedia 山方比古神社より抜粋) こちらの陽石が御神体ですな(´・ω・`) 詳しくはこちらでご確認下さいませawa-otoko氏ブログ「天津麻羅と八咫の鏡」 従って、「天金山の鉄」は、当山で採れる銅鉱石であると解釈ができ、 これを「鍛人天津麻羅」に精銅させた上で、 「伊斯許理度売命」に鏡を作らせた。…ということになります。 従ってここで「純国産の銅鏡を作った」ということですな。 伊斯許理度売命の神名の名義についてwikipediaによりますと、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意。 …とあり、つまり石から作成した「鋳物」によって作られた鏡であると考えられます。 ということは当時の中国から輸入した鏡などではなく、素材も純国産製の銅鏡、即ち我国のみでしか出土しない「三角縁神獣鏡」の可能性もありますな。 ●弥生時代における銅鏡製作過程の時代による変化 ひょっとすると「天の安河の川上の天の堅石」は、鋳型に使用した当地付近で採れた堅い石のことなのかも知れません。 因みに『古事記』のこの項に書かれてある鏡は、後の三種の神器の一つとされる「八咫鏡」のことでありますが、先程の山方比古神社のすぐ西隣の町名がなんと「八多町」となります。 そこから西へと山に登り進めて参りますと、『先代旧事本紀』に「夫手刀雄神此者座ニ佐那県一也」と書かれてありますように、佐那県は徳島県名東郡佐那河内村の古地名ですが、当地に御鎮座されるのが天岩戸別神社(徳島県名東郡佐那河内村上)その御祭神は、天手力男神(他 天照皇太神 豊受皇太神)です。 天之手力男神(あめのたぢからおのかみ)は、日本神話に登場する神。 ●神話での記述 岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、アマテラスを引きずり出して(『日本書紀』の一書や『古語拾遺』では「引き開けて」)、それにより世界に明るさが戻った。 天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石門別神を副えたとあり、その後伊勢の佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座したとしている。(wikipedia アメノタヂカラオより抜粋) 相変わらずwikipediaには三重県の「佐奈」の方になっておりますネ(´・ω・`)... …で、その天岩戸と考えられるのが、立岩神社(徳島県名西郡神山町鬼籠野元山746) 先述した立岩神社の御神体は男根石(陽石)でしたが、こちらの立岩神社の方は女陰石(陰石)が御神体となっており、上の御神紋も如何にもソレっぽいですな。 そして、更に更に西の山奥へと進み剣山付近まで来ますと、そこに御鎮座されるのが、天磐戸神社(天の岩戸神社:徳島県美馬郡つるぎ町一宇法正2667) 当社は猿田彦大神像と天宇受賣命像、そして大きな神楽岩が特徴的です。 神楽石 当社にも小さいながらも天岩戸が御座います。 んじゃ阿波説においてもどれがホンマの天岩戸かわからんやんけ…となりますね。(ノ∀`) ただし上に挙げました神社の「天岩戸」は、岩と岩の僅かな隙間(空間)が確認できるのみであり、実際に大人の人間サイズのモノが入ったり隠れたりしたとしても、そもそも隠れることができない、もしくは隠れることができたとしても直ぐに引っ張り出せてしまうぐらいのごく狭いスペースしかありませんな。(一応ですが、あくまでも『記紀』に書かれてある内容を信じて、素直に解釈したならばのお話です) つまり、これ等の神社の痕跡は、大昔から天岩戸神話を信仰し、お祀りしていたことを示す遺跡群であると考えられそうです。 また『記紀』によると、アマテラスの岩戸隠れに関わったとされる神々は、天児屋命や布刀玉命、天手力男神、それに天宇受賣命やわざわざ「粟國忌部遠祖天日鷲」と説明付きで紹介されるなど、主に阿波忌部の根幹地と考えられる名方郡(神山町)~麻植郡~美馬郡の山間部を中心としてお祀りされている神々であり、これらとリンクするかのように天岩戸神社群も点在しております。 ●徳島県神山町を中心とした山間部 したがって、当地付近が往古の「高天原」と呼ばれた地域であると考えられますな。 ではこの天の岩戸についてもう少し調べてみますと、 天の岩戸(あめのいわと、あまのいわとは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。天戸(あめと、あまと)、天岩屋(あめのいわや)、天岩屋戸(あめのいはやと、あまのいわやと)ともいい、「岩」は「磐」あるいは「石」と書く場合もある。 太陽神である天照大御神が隠れ、世界が暗闇に包まれた岩戸隠れの伝説の舞台である。 ●古事記 天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。 これを聞いた天照大御神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。 天宇受賣命が「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と布刀玉命が天照大御神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大御神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。 すぐに布刀玉命が注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大御神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。 ●日本書紀 『日本書紀』の第七段の本文では、素戔嗚尊が古事記と同様の暴挙を行う。最後には天照大神が神聖な衣を織るために清浄な機屋(はたや)にいるのを見て、素戔嗚尊が皮を剥いだ天斑駒を投げ込んだ。すると、天照大神は驚いて梭で自分を傷つけた。このため天照大神は怒って、天石窟に入り磐戸を閉じて籠ったので国中が常に暗闇となり昼夜の区別もつかなかった、とある。(wikipedia 天の岩戸より抜粋) 『記紀』に記載されてある天石窟の記述を抜粋しますと、 『古事記』 「故於是、天照大御神見畏、開天石屋戸而、刺許母理此三字以音坐也。」 「これを見た天照大御神は恐れて、天の岩屋の戸を開いて、中に籠った。」 『日本書紀』 「乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。」 「天の岩屋に入られて、磐戸を閉じて、幽(こも)ってしまわれた。」 「吾比閉居石窟、」 「私はこの頃岩屋に閉居(こも)っているから、」 一書(一) 「乃入于天石窟而閉著磐戸焉。」 「天の岩屋に入って、磐戸を閉じられた。」 一書(二) 「廼居于天石窟、閉其磐戸。」 「天の岩屋へお出でになり、その岩戸を閉じられた。」 一書(三) 「至於日神閉居于天石窟也、」 「日神が天石窟に閉(こも)り居すに至って、」 と、我が国最古の引き籠もりの説話は、文面からはいずれもアマテラスが自ら天石窟まで行き、岩屋の中で住むことができる程度の空間が確保されてあった場所に引き籠もったであろうと考えられる訳なんですな。 また、漢字からも、 石(いわ:岩)でできた、 屋:①いえ。すまい。 ②やね。 窟:①いわや。ほらあな。②人の集まる所。すみか。 …の意味となりますね。 ということで、冒頭のお話に戻しますと、 太龍寺のご詠歌にある「太龍の常にすむぞやげに岩屋」は、スサノオの狼藉行為により、この時にアマテラスはもともと住んでいたこの岩窟に仕方なく戻って来た可能性も考えられますな。 ところで、下に動画を貼っておきますが、 ●【採掘現場へ!】国会を支える大理石 "阿南の石"の正体 徳島 NNNセレクション 動画をご覧頂くとわかりますが、実は既に消滅してしまった太龍寺の岩屋のあった太龍寺山の石灰岩採石場は、遡れば元は大理石採掘場所だったんですな。 国会議事堂の御休所(ごきゅうしょ)の案内には、「中央広間から中央階段を上がると、天皇陛下の御休所があります。開会式の当日、陛下は議事堂にお着きになると、まずこちらにお入りになります。」とあり、「御休所」の出入口扉は、額縁のように「時鳥(ほととぎす)」という徳島県産の大理石で飾られています。 それ以外の大理石も多数使用されており、色がついている部分が全部徳島県内産のものだそうです。 赤囲いした黄色い箇所が、徳島県阿南産の大理石「時鳥」 ●御休所 因みに説話にある「堅い石」=大理石(の可能性もありますが)、採掘がされていた場所は、「日本の歴史的重要建造物における徳島県阿南市産大理石の使用とその意義」によりますと、 動画にもありましたが、この地域は非常にたくさんの種類の大理石が採れていましたが、その中でも「時鳥(ほととぎす)」が採れた場所は、やはりいわや道があったところのようですな。 当説の解釈にはなりますが、国会議事堂で今上天皇がお休みになられる場所は、皇祖(と考えられている)アマテラスが引き籠もりお休みになっていた住居の岩で意図的に造られているとは考えられないでしょうか また持統天皇の和風諡号である「大倭根子天之廣野日女尊」「高天原廣野姫天皇」とあることからも、高天原はやはり... ココにあった、もしくは当地も含む山間部がそう呼ばれていた痕跡ではないのでしょうか。 更に今回の考察にて、「天」の岩屋の名称からも、広くは太龍寺近辺も含めてそう呼ばれていた可能性もあるのではないのかという考えに至りましたので、私説においては当地も高天原圏内に付け加えさせてもらいます笑 従って、私説においては、石長比売=天照大御神=卑弥呼 の線で(今のところは)考えていく方向でおりまする(´・ω・`)ノ 一つの考え方として、天照大御神は、中つ国(長國)側では石長比売といわれていたのかも知れませんネ。 さて、今回も壮大に私説展開を記しましたが、そこは人それぞれの考え方がありますから、あくまでこのような考え方もあるんだなぁと笑 いろいろ想像も膨らみますが、既に長くなって参りましたので一旦ここで終いにしておきます。
「私のご先祖さまの考察 ①」からの続きになります。 今回私の使用しました遺伝子調査キッドは、「Haplo3.0」 唾液を採取し、同封されてある封筒にて所定の機関に送ると約1か月後にアプリで結果の通知が来るというシステムです。 youtubeなどで挙がっている方々の結果を先に例として載せておきますと、 この方は土着型のコテコテの日本人。 一方、こちらの方は日本人88%、朝鮮人10%、なんとカンボジア人2%の方。 そしてこちらの方は日本人58%、朝鮮人39%の方。 上に挙げた方々はいずれもご両親は日本生まれ日本育ちの日本人であるとのことでした。 この結果からやはりヤマト民族は様々な人種から構成されているということがわかりますね。 因みに韓国人について少し触れておきますと、遺伝子ゲノム的な位置として、実は下図に示されてあるように、中国人及びベトナム人のライン上に存在せず、縄文人から日本人を経て北京中国人に繋がるラインの中間点に存在します。 これらの遺伝子の成分や歴史的背景などから、竹田恒泰氏は、 日本で多くの縄文祖型遺伝子となるD2と現代日本人との間に弥生人が位置することや現代日本人と北京中国人の間に韓国人の遺伝子が存在すること等から、往古に韓半島に住んでいた日本人が列島に移住した際に、残された韓半島在住の日本人が中国に支配されていた時代に混血した結果であると推定しております。 つまり韓国人の人種的祖型は日本人に由来し、後に韓半島に流入して来た中国人遺伝子と同化していった結果が現代の韓国人であると述べておられます。 なるほど、でなければ韓国人遺伝子は、上図から言えば、別に韓国人独自の遺伝子エリアが存在する、若しくは左下から斜め上に流れる中国系遺伝子の中国(北京)のライン上に並ばなければならないはずですが、明らかに日本寄りの中間点に位置していることからも、半島に居る韓国人は日本人遺伝子との混血であったことを意味していることになります。 このことから、日本人の祖先は韓半島にも定住していたということを示している証拠になります。 これらは魏志韓伝や後漢書などにも記されておりますから、記録物からも裏付けられる訳なんですな。 さて、私の遺伝子構成を見てみますと、 ワシ、日本人87%、朝鮮民族12%、未分類1%からなっており、その結果れっきとした日本人と判定されました。(まぁ当たり前のことですが) では、私の父方の遺伝子はというと、 なんとO2a2b、その中でもO2a2b1a1a1であることが判明いたしました。 赤囲い線内にも記されてありますように、中国チベットの現代集団で確認されているようです。 因みに先に記した「D2系」チベット集団、つまり縄文祖型の集団とは違う上、弥生期に日本列島に稲作をもたらしたとされる「O1b2系」でもないことが判明しました。 その証拠に、ワシのオヤジ系からは縄文人に繋がる遺伝子が見られない結果となりました。 おおよその弥生人的特徴である一重瞼や比較的高身長、ぬっぺり型の面長の顔でもないオヤジ。 やや肌も浅黒く外国人張りにかなりほりが深いうえに鼻も高く、てっきり私は縄文人に近いと思っていたのでこれはかなりビックリな結果となりました。 で、この遺伝子「O2a2b1a1a1」について掘り下げて調べてみますと、O系は2系統に分かれ、何故かワシの父系はシナ・チベット語族に属し、 弥生系渡来倭人のO1b2でもなく、 ここに書かれてあるのが事実であると受け入れますと、 往古の祖先は、恐らくチベット~ビルマ周辺に住んでいた漢人に由来します。 従ってワシの父方の遺伝子は、データとしては日本人にごくわずかに残る1%の日本人であるということになります。 これはD2チベット系縄文人以外の、O2型チベット系非縄文型日本人という稀有な存在であり、「有名人のハプログループ」様及び「デフレ派のブログ」様の情報から抜粋しますと、 祖先は秦氏系となり、 秦氏のハプログループが確定 ソースは「有名人のハプログループ」です。 http://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/%E6%A6%82%E8%A6%81 秦氏のハプログループが確定しました。 聖徳太子の側近として活躍した秦河勝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定される。 これは、始皇帝のハプログループが確定した翌日に確定したものです。 始皇帝のハプログループは、 秦始皇帝のY染色体は、ハプログループO2a2b1a1a(O-M133)であると推定されるです。 つまり、日本の秦氏は、始皇帝の一族と同じだということになります。 また、これにより、秦河勝の子孫とされる有名人が大勢、いっきにO2の漢民族であると確定しました。 秦河勝の子孫としては、楽家の東儀家、猿楽の始祖観阿弥・世阿弥親子、四国の戦国大名の長宗我部元親・長宗我部盛親親子などが知られる。 観阿弥、世阿弥、長曾我部元親が、O2の漢民族、おそらく始皇帝の子孫であると思われます。 そして、第二次大戦最後の総理大臣の東条英機は観阿弥の子孫なので、O2の漢民族だと思われます。A級戦犯とされています。 また、稲荷神社は、秦氏の氏神なので、稲荷神社のハプログループが確定したことになります。 稲荷神社は、O2a2b1a1a(O-M133)が本家筋となります。 稲荷神社は、全国の雑多な神社を困ったら稲荷神社にしていた時期があるらしいので、必ずしも稲荷神社なら絶対に始皇帝の一族とは限りませんが、基本、稲荷神社は始皇帝の子孫を祭った神社です。 外国人に最も人気のある日本の観光地として有名な伏見稲荷も、秦氏の総本山であり、始皇帝の子孫の神社だということになります。 …等と記されておりました。 また「遺伝子ペディア -世界は大きな家族だった-」によりますと、父と同じ遺伝子を持つと考えられるのが、 …ということになります(´・ω・`)ここでは深く言いませぬ お次に母方の遺伝子はというと、こちらはミトコンドリアDNAからの検査から、母系を遡れると考えられており、その母親から子に受け継がれる特性を生かして、家系を追跡するための研究に利用されています。 で、ワシの母方の遺伝子はというと… こちらはM7b1a1a1という結果となっており、日本人の約4.5%がこれに該当するようで、 M系遺伝子は縄文人の遺伝子の一つとされ、 アジア縄文タイプに属します。 このM7系の遺伝子をルーツに持つワシは、またしても倭人の祖型の主流であるM7aではなく、M7b型であり、こちらも父と同様に中国南部から東南アジア・ベトナム・タイなどにルーツがあるようです。 その分布域は、赤丸側であり、 日本入っとらんやん あ、沖縄がチョット入ってそう 恐らくは、 この遺伝子は、日本では沖縄県の平安山原遺跡の出土した歯からM7a1系に混じって発見されており、 場所はココ 上の図のM7系交錯地点から考えると、南方から黒潮に乗って海を渡って来た縄文系の集団であったと推定できます。 これらのデータからは、今は亡きスンダランド周辺を根拠地としていたM7a系と一緒に海を渡って入って来た可能性が考えられますな。 ただし他の研究からも抜粋しますが、 鳥取県の弥生時代の遺跡からも同遺伝子が発見されており、渡来系弥生人などと記されていますが、この考え方は誤りであり、M7b1a1a1は、母方の縄文遺伝子なのですから時代の流れから、土着のM7b型の女性との混血を示すデータであり、他にも岡山県の遺跡などからも同様の遺伝子も見つかっています。 別な考えとしてあえて考えられるとすれば、弥生時代に渡来してきた、”縄文人”ということが考えられそうですね。まぁその線は普通に考えると相当薄いハズ さて、私の祖先はどのようにして日本列島へやってきたのか、についてですが、 恐らく父方は、弥生時代もしくは古墳時代に②か③のルートから、母方は縄文時代に④のルートからやってきた可能性が高そうであるということがわかりました。 …さて、如何だったでしょうか(´・ω・`) 結局のところ私は縄文人と弥生人(若しくは古墳人)との混血の祖先を持つという典型的な現代日本人であるということがわかりました。 自分のルーツを考えると、日本に至るまでにはとんでもないジャーニーであったんだなぁと感慨深いものを感じました。 最後に目の保養を笑 恐らく①のルートから日本列島に入ってきたと考えられる日本人と同じくハプログループC2系の縄文遺伝子を持つチュクチ人 うーん、日本人ぽいですなぁ笑 こちらはミスワールド2018のヤクート人女性 Oh びゅーちふる そしてワシのオヤジやかぁちゃんに起因する南方系に由来するモンゴロイド民族 こちらはインド北東部に住む日本人と似ているとされるモンゴロイド系インド人。 こちらはモン族の女性 う~ん、美しいですなぁ どっち系が好みかといわれるとワシは南方系ですな。(何の話や
突然ですが、あなたは日本人ですか と唐突に聞かれた時にあなたはどう答えますか 「日本生まれの日本育ちだから生粋のジャパニーズだ。」と答える方もいれば、「私の人種的ルーツはヨーロッパ人ですが、日本国籍を獲得したのでれっきとした日本人です。」等と答える方もいるだろう。 今回の稿は、以前に一度書いたことがある「大和民族のDNAから考察 ①」及び「大和民族のDNAから考察 ②」に関連した、いわゆる日本人のルーツについての考察となります。 あくまで私説考察ですのであしからず。何かの参考になれば幸いです<(_ _)> 我々の祖先である日本人の成り立ちについて、これまでの考えでは現代日本人に至るまでの形成過程を、石器時代に移動してきた東南アジア起源の縄文人(原アジア人)を基層集団とし、そこに弥生時代から古墳時代にかけて移動してきた北東アジア起源の渡来人が覆い被さるように分布した(二重構造)とした上で、やがて2集団は混血していくがその進行度には地域差があり、形質的な差異を生み出していったと推測されて来ました。 しかし、近年の国際共同研究グループの最新のゲノム解析では、旧石器時代(20,000~15,000年前)に大陸の基層集団から分かれた千人規模の小さな縄文人の祖先集団が日本列島に渡来後に適応して縄文人となり、時代を経て弥生時代に北東アジアを起源とする弥生人が渡来し融合していったと考えられ、そこに、続けて古墳時代の間に東アジアを起源とする「古墳人」が渡来し、以後混血融和しながら現在の日本人を形成していったとする「三重構造モデル」が注目されています。 ●「パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造」 日本では今のところ類人猿・猿人・原人等のルーツを持つ人骨の出土が見られないため、それらが存在していた大陸とは違い、氷河期に陸続きであった頃に日本列島に最初に足を踏み入れた集団がいわゆる縄文人(の祖先)であると考えられています。 ただし注意すべき点があり、「日本列島は大陸と陸続きだった」という言い方には注意が必要によりますと、厳密には、これまでの海洋調査により、海面が現在より120~130m低かったことがわかっていますが、対馬海峡は深いところで200mに達しており、津軽海峡もそれ以上の深さを持つことから、完全に陸続きであったとは考えられておらず、このことから縄文人は海を渡って来たとされています。 ●約2万年前の再現地図 往古の日本列島は大陸と陸続きであったとされておりますが、人類が日本周辺に現れた4万年前頃から現在に至るまでの間は、日本列島が大陸と完全に繋がっていたことはありません。 そんな中、日本列島でまず人類が現れたのは、古本州島(現在の本州、四国、九州)になります。 人類は38,000年前頃に古本州島に現れ、少し遅れて琉球列島、そして大きく遅れて古サハリン・北海道半島に現れます(Izuho 2015)。 つまり、日本列島に最初にやって来た人々は、海を渡ってやって来たということになり、これは確かな航海能力・航海技術を持っていたことを示しています。 ではその縄文人についてですが、縄文人の持つDNAで最も割合が多いのがハプログループD2系統とされ、 ●現在日本で約40%を占めるハプログループD2(現D1a2a) (上図から韓国でごく僅か、その他の近隣諸国では見られず。) ハプログループD1a2a(D-M55)は、主に日本列島で観察される。日本人の約32%- 39%にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占める。アイヌの80%以上もこれに属する。ハプログループD1a2aは、日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過していると考えられている。 当時無人の日本列島に到達したハプログループD1a2系統は、海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。大陸と半島から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、日本列島においてハプログループD1a2の中からハプログループD1a2aが誕生したと考えられる。(wikipedia ハプログループD1a2a (Y染色体)より抜粋) ●各地における頻度 D系統はいわゆる縄文人に起因する遺伝子集団で現代では日本列島各地に散らばり、北は青森、南は沖縄に近づくにつれて比率が高くなることから、これらの結果から後に訪れた渡来系集団の流入によるものであると考えられています。 これを補足するデータとなるのが近年少し話題となった ●東京大学の大橋順教授の示すデータ 記事の内容を少し抜粋しますと、 渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違うように思える。上陸地点である九州北部よりも、列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高いからだ。大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」(日本経済新聞 渡来人、四国に多かった?ゲノムが明かす日本人ルーツ より抜粋)とありますな。 これ等のデータから考えますと、人流から鑑みますれば北部九州にも多くの渡来型遺伝子が残るはずですが、それが見られないのは渡来人はまずは四国を目指した、或いは四国に連れて来られたと考えた方が自然であり、その後、畿内域へと流入していったとの考えが成り立ちます。 因みに縄文系遺伝子の祖型の一つであるD系統の分布図は、 D系統が最も多くみられるのは山岳チベット、次いで離れた日本。 こちらも先程の話と同じく、後にO系の漢民族の流入により、D系統が分断された可能性を示唆しております。 これら父方のハプログループ(Y-DNAとも呼ばれる)遺伝子は、D1a2(旧D2系統:32~39%)、C1a1(約5%)、C2(約2~7%)が縄文遺伝子に分類されるようです。 そこに、約2,800年程前以降に大陸から渡って来たのが北方系の顔を持つ「渡来系弥生人」です。 wikipediaによりますと、一般には、弥生人は朝鮮半島、山東半島から水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。崎谷満によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのはY染色体ハプログループO1b2に属す集団である。 また、日本人の約20%に見られるO2系統も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。ともありますな。 ハプログループO1b2とは、分子人類学で用いられる、人類のY染色体ハプログループの分類のうち、ハプログループO-M268のサブクレード(細分岐)の一つで、「M176」の子孫の系統である。2015年11月にISOGG系統樹が改訂されるまではハプログループO2bと呼ばれていた。 ●誕生 最も近縁のハプログループO1b1との分岐は約31,108(95% CI 22,844~34,893)年前とされている。 O-M175のサブクレードのひとつで、稲作文化を伝えた弥生人(倭人)と推定される。 ●分布 ハプログループO-M176は日本人及び朝鮮民族の約30%の男性に見られる。 ●O1b2の発祥場所から日本へと移動したと考えられるルート D系とO系の遺伝子系統図を見ると、わかりやすく分断されていった感じが現れておりますな。 従って、日本列島に渡って来たイメージ化すると下図のようになります。 これが従来の「二重構造モデル」の考え方ですな。 そして冒頭で記したように、最近の研究結果により、弥生時代以後、古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)に大量の人口流入があったとされるのが「三重構造モデル」となります。 ただし、これまでに分かっている研究データからは、「現在の「日本人」のルーツは「3つ」ある?」に記されているように、「大陸からの移入が、どの程度国家の成立に影響を与えたのかは今後の課題です。我々がゲノムデータを生成した古墳時代の個体は前方後円墳ではなく、横穴墓に埋葬されておりましたので、我々の研究では、おそらくエリート層ではない個体の遺伝学的背景をみていたことになります。今後、エリート層のゲノムを調べていくことで、階層社会において大陸からの影響がどこまであったかを議論することができると考えております。」と付け加えてあり、今後の研究結果次第で、ヤマト王権の成り立ちに対する推測内容が大きく左右されるものと思われます。 ●三重構造モデル(イメージ図) では自分の祖先は一体どのような経緯で現在の日本の地に定住し、現代の日本人へとなっていったのか、俄然興味がわいた私はこの際に自分のDNAを調べてみることにしました。 これはあくまでいち日本人の例ですので、必ずしも全ての日本人が同様の結果になるものでは御座いません。 更にいえば、上にも挙げましたように、幾度と訪れる様々な系統の人たちの流入の波が日本列島に押し寄せて現代の日本人が成り立っているということをご留意くださいませ<(_ _)>
◆猿田彦大神 これからまた仕事が忙しくなるのがわかっておりますので、今日も一日だけで書けるネタを書いてみますね(´ω`) 今回のテーマはズバリ、真の「倭の青垣」とは一体どこのことなのか。…について考察して参りたいと思います。 それでは例の如く… 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 『古事記』によりますと、倭建命が能煩野(のぼの)に至った際に(死亡フラグ的に)歌った望郷の歌が、 ●古事記原文 「夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯」 ●読み 「倭は國のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」 ●歌の解釈 「倭は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた倭は本当に麗しいところであります。」 まず注釈として、現在では歌にある”夜麻登”(やまと)を奈良県の旧国名である「大和」と解釈される場合が殆どですが、『古事記』には本エピソードの主人公である、”倭”(やまと)建命と一貫して記されてあることから、あくまで「夜麻登=倭」の解釈となります。※大和建命とは書かれておりませんヨ。ご注意を。<(_ _)> 通説によりますと、三重県亀山市能褒野の場所は、ココ 従って後日談として白鳥となりお亡くなりになったエピソードから、当地周辺には日本武尊の御神陵候補場所がズラリとあるようで、 その他にも、白鳥となり飛んで行ったエピソードに因み、奈良県御所市冨田や、 大阪府羽曳野市の白鳥陵古墳など、先述の能褒野の地から遠く離れた場所にも倭建命の御神陵候補が無数に点在致します。 じゃいったいどこがホンマの御陵やねんと普通はなってしまいますよネ(´・ω・`) そこで歌に記されてある「青垣」に焦点をあててみますと、奈良県に御鎮座されます大神(おおみわ)神社(ご祭神:大物主大神=倭大物主櫛甕玉命)のご由緒に、 当社の創祀そうしに関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀られることを望んだとあります。また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂みたまとして顕現けんげんされ、三輪山に鎮しずまられたということです。(大神神社HPより抜粋) …ということで、倭建命のエピソードよりも遥か昔の神代まで遡り、『古事記』大国主命の段にて、大国主命が国づくりについて悩んでいた際の記述に、 「是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。」爾大國主神曰「然者、治奉之狀奈何。」答言「吾者、伊都岐奉于倭之青垣東山上。」此者、坐御諸山上神也。」 「この時、光る海から近づいてきた神がいました。 その神は言いました。「私を祭り、御前に斎すれば、私は協力して国を作り上げることができます。 もしそうしなければ、国は成り難いでしょう。」そこで、大国主の神は言いました。 「それなら、どのような形でお祀りしたらよろしいのでしょうか。」それ答えて言われました。「私を、①倭の青垣の東の山上に祀って差し上げなさい。」②これが、御諸山の山上に鎮座される神なのです。」 注釈:先の解釈通り、こちらではきちんと「”倭”之青垣」とありますね(=゚ω゚)b(倭〇 大和×)大事なことなので二回... 従ってこれが現在の大物主大神をお祀りしたとある場所となる大神神社であり、また「倭の青垣の東の山の上」にお祀りされている神、そして「御諸山の山上に鎮座される神」ということになります。 坐(います):存在を表わす「あり(有)」「お(を)り(居)」の、存在主を敬っていう尊敬語。いらっしゃる。おいでになる。おわす。おわします。ます。(日本国語大辞典より) 意味として、前はここに居なかったものが、現在はその場所にいらっしゃったから「坐」と記します。 分かりやすく記しますと、番号を振らして頂いたところの②の部分が奈良県の大神神社のご由緒の部分となり、解釈として①の「倭之青垣東山上」にお祀りされている神(大物主大神)を、②の場所にお招きしたのが「御諸山の山上に鎮座される神」=大神神社なのです。 地図(一応通説)で解説致しますと、大神神社と三輪山がココで、 引きでみますと、 御諸山(三輪山)がある場所は、「倭の青垣」の「東の山」側とあります。 この理屈で行くと、恐らくは「倭の青垣」の設定は、=生駒山地~和泉山脈を指していると考えられ、 大阪府と奈良県の倭建命の御神陵の痕跡から纏めますと、下図のようになると考えられます。 では、これを私説となります阿波説にてご説明致しますと、 白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、徳島県名西郡石井町石井白鳥582に鎮座する神社である。 ●歴史 創建年は不詳。社伝によると、東国を征定の帰途に毒に触れて亡なった日本武尊が白鳥となって天昇し、この地に舞い降りたとされている。仲哀天皇が建てたとされ、日本武尊命の息子である息長田別王(阿波国造)が崇拝したと云われる。 「日本三代実録」には、861年(貞観3年)に従五位下、883年(元慶7年)に従五位上を授かったと記されている。また当神社は、香川県東かがわ市の白鳥神社の元宮とされる。(wikipedia 白鳥神社(石井町)より) 当地が日本武尊の本陵との説が御座います。 社殿の中は覗かない方がいいですヨ。絶対チビりますから笑 こちらも以前にawa-otoko様やぐーたら様にご案内頂きましたところです<(_ _)> その時はあまりピンとは来ませんでしたが、当地が倭建命の御陵であり、亡くなる寸前に歌った望郷の歌を思い浮かべますれば、視界が一気にヒロガリング(・∀・) 当地から北側を望みますと、眼下には吉野川下流域が一望できます。 地図にしますと、対岸にも白鳥神社があり、 当地は能褒野と同じく亀山の地。 ご由緒によれば、当地にも日本武尊が立ち寄られた説がありますな。 そしてもう一つの青垣の記録には、確か大神神社のご由緒にある「倭之青垣東山上。」「倭の青垣の東の山上」にお祀りされてあるのが大物主大神。 白鳥神社(亀山)のすぐ東側に御鎮座されるのが、現阿波国一宮である大麻比古神社。 その御祭神である、大麻比古神は、天日鷲命の子で、阿波忌部氏の祖とされ、同時に、古くから大麻山に祀られていた猿田彦大神を合祀したとされています。 その猿田彦大神は、先にご由緒を記した大神神社社家である高宮家系を記した『三輪高宮家系図』の系譜に「都美波八重事代主命 又名猿田彦神、大物主神」と記されてありますゼ。 従って現在の大麻比古神社にお祀りされている猿田彦大神が大物主大神であり、先程の地図を更に引きますと、 更に更に引きますと、 徳島県側から吉野川を挟んで対岸(北側)には讃岐山脈が見えますな(´・ω・`) 従って「倭の青垣」とは、徳島県(倭)の区画を仕切る上での「垣」、それも「青垣」つまり山脈のことであり、吉野川下流域が東側になることから、「倭の青垣の東の山上」に大物主大神をお祀りしていたのです。 因みにこの倭の「青垣」についてですが、実はもう一ヵ所、『古事記』に「青柴垣」として記録されており、大国主命の国譲りの段にて、事代主命が、 「卽蹈傾其船而、天逆手矣、於青柴垣打成而隱也。」 「その船を踏み傾けて、天逆手(あまのさかて)を打ち、青柴垣を作り、そこに隠れました。」 …とあり、即ち解釈として、事代主命は、青柴垣を作ってその場所に隠れた(住んだ)。ということになります。 これが徳島県阿波市市場町伊月にご鎮座される式内 事代主命神社です。 因みに事代主命神社のある北側が徳島県阿波市土成町御所(旧御所村)ですな。 カッコイイ石碑。事代主を大物主に変えて読むと中々感慨深いですな。 地図にしますと御所の山の場所も、大麻比古神社の場所も倭の青垣が讃岐山脈であったとすれば、何れも東側の山の上ということになりますな。 従って以上のことから、私説に置きましては、 倭の青垣は、讃岐山脈のことである。…と結論付けます。 ぜひ、機会が御座いましたら、倭建命のお歌を思い浮かべながら白鳥神社からの景色を眺めてみて下さいね。 「倭」の素晴らしい景色が一面にみえることでしょう(´・ω・`)ノシ
ヤマタノオロチ(八岐大蛇、八俣遠呂智、八俣遠呂知)は、日本神話に登場する伝説の生物。 ●概要 八岐大蛇は『日本書紀』での表記。『古事記』では八俣遠呂智と表記している。「高志之八俣遠呂智、年毎に来たり(古事記)」がみえ、古代日本の地方である高志(こし)から来たとされる。「ヤマタノオロチ」という名称の意味は諸説ある。本来は山神または水神であり、八岐大蛇を祀る民間信仰もある。 ●記録・古事記 高天原を追放された須佐之男命は、出雲国の肥河の上流の鳥髪に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売といった。 夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまう。今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。 須佐之男命は、櫛名田比売との結婚を条件に八俣遠呂智退治を請け負った。まず、須佐之男命は神通力で櫛名田比売の形を変えて、歯の多い櫛にして自分の髪に挿した。そして、足名椎命と手名椎命に、7回絞った強い酒(八塩折之酒)を醸し、8つの門を作り、それぞれに酒を満たした酒桶を置くようにいった。準備をして待っていると八俣遠呂智がやって来て、8つの頭をそれぞれの酒桶に突っ込んで酒を飲み出した。八俣遠呂智が酔って寝てしまうと、須佐之男命は十拳剣で切り刻んだ。このとき、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀を天照御大神に献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。(wikipedia ヤマタノオロチより抜粋) さて今回は『記紀』において、スサノオが倒したとあるヤマタノオロチについて考察して参りたいと思います(´・ω・`)ノ 以前に阿波古代史においての先人有識者でありますawa-otoko様と少しお話させて頂いた時に、「スサノオの説話の内容について時系列に違和感がある」との意見を頂いておりました。 私も薄~々は感じておりましたが、今回あらためてこの点について整理したいと思います。 まず最初に、『古事記』は概ね紀伝体で書かれているため、起こった出来事を年代順に記してゆく編年体ではありません。 逆に『日本書紀』は編年体を意識して編纂しているものと考えられるということをご留意下さいませ。 では、例の如く、 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まずスサノオ説話の簡単な概要ですが、 スサノオは父イザナギより海原を治めよとの命に背き、どうしても母のイザナミに会いたいと懇願したため、父の怒りを買って勘当されるところからスタート。 途中高天原に立ち寄り、別れの挨拶をするため姉のアマテラスに会いに向かいます。 その後岩戸隠れの事件があり高天原をも追放。 出雲に降る途中、空腹を覚えたスサノオは、オオゲツヒメに食べ物を求めるも、汚い物を食べさせられたと怒り殺害。 その後、肥河の上流の鳥髪に降り立ったスサノオは、箸が流れてきた川を上ると、美しい娘(櫛名田比売)と老夫婦(大山津見神の子の足名椎命と手名椎命)を発見。 夫婦には8人の娘がいたが、年に一度、高志から八俣遠呂智という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまうという。 今年も八俣遠呂智の来る時期が近付いたため、最後に残った末娘の櫛名田比売も食べられてしまうと泣いていた。 スサノオは、櫛名田比売との結婚を条件にヤマタノオロチの退治を請け負い、8つの門を作りそれぞれに酒を満たした酒桶を置くよう準備。 そこにヤマタノオロチがやって来て、酔って寝てしまったところをスサノオが十拳剣で切り刻んだ。 この時、尾を切ると剣の刃が欠け、尾の中から大刀が出てきた。そしてこの大刀をアマテラスに献上した。これが「草那藝之大刀」(天叢雲剣)である。 八俣遠呂智を退治したスサノオは櫛名田比売と暮らすため、出雲の須賀の地へ行き、そこで歌を詠んだ。…といった流れです。 ここまで読んでなんか違和感を感じませんか?(´・ω・`) そうです、スサノオの本来の目的となる母のイザナミに会っていません。 では何故、スサノオは何のために姉のアマテラスに会ったり、オオゲツヒメの元を訪れたり、ヤマタノオロチを倒したりしたのでしょうか まず徳島県(阿波)として絶対外してはならないのが、 オオゲツヒメ(オホゲツヒメ、オオゲツヒメノカミ、大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。『古事記』の神話に出る食物の女神。 ●概要 『古事記』においては、まず伊邪那岐命と伊邪那美命の国産みにおいて、一身四面の神である伊予之二名島(四国)の中の阿波国の別名として「大宜都比売」の名前が初めて表れる。(wikipedia オオゲツヒメより抜粋) このオオゲツヒメをお祀りしているのが、阿波国一宮になります、 上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町神領字西上角330) 場所はココ 少し拡大 この宮の程近くに、 葛倉神社(徳島県名西郡神山町神領大埜地(おのじ)388) ◆御縁起:恵比寿神社(事代主神)の御鎮座年代は不詳であるが、古くより大埜地ヶ原に祀られていたものであるが、昭和にはいり同地区にある腰の宮(葛倉神社)に合祀されました。 ご祭神事代主神さま(えびすさま)商売繁盛の神様であるえびすさまが葛倉神社に祀られています。大宜都比売大神様(上一之宮大粟神社、丹生の神)は事代主神(えびすさま)とご結婚なされたという神話があるため、この地に祀られているのです。 大粟神社境内にある摂社粟神社のご祭神は「大物主大神」であり、この神は奈良の大神神社の神さまでもあります。大神神社には率川阿波神社という摂社があり、この神社に祀られる神様は「阿波国からこられた事代主さま」と伝えられています。大粟神社の摂社粟神社の神は大宜都比売大神が降臨する前からおられた神様であり、事代主神さまの父神でもあります。 以上から、大粟神社とゆかりの深い腰の宮の宮様が、日本最古のえびす神社の一社であることを物語っております。 …ということは祭神は事代主命(えびす)ということでしょうね(´・ω・`) ●御扁額は腰之宮 他にも、オオゲツヒメがこの地に来られて、初めて腰をおろしたという謂れがあるようです。 なるほど、オオゲツヒメは別の場所からこの地にやって来て、腰を下ろした(=坐した)即ち御鎮座された。 故に程近くに上一宮大粟神社があるのですね。ふむふむ。 それが丹生の神であると。ほぉほぉ。 そこで例の如く(またか!) ぐーたら気延日記:「上一宮大粟神社伝説」より、宮司との会話を抜粋させていただきますと、「神山って山の上の方から開けて来たって聞きますが」「ああ、高根の上に古い集落があってそこから」「『お馬石』ってありますよね『大宜都比売』が伊勢から乗って来たって言う」「(三重の)伊勢なんてことあるはずないじゃない。時代が全然違うのに」「『腰の宮神社』ってありますよね」「うん、『大宜都比売』がここに来たとき腰掛けて休んだところ。八柱の随神もいっしょに来たよ」「では、大宜都比売ってどっから来たんでしょうね」「あの上に登ると阿南とか橘の方まで良く見えてね、尾根伝いに行くと早いよ」 …ってことで腰宮神社(徳島県阿南市加茂町貝ノ河) ●地図にするとココ 確かに登ると橘湾がよ~く見えますな。(´・ω・`) そして当地は弥生期に大量の丹生(水銀朱)が採れた地域、若杉山辰砂採掘遺跡(徳島県阿南市水井町)が存在します。 また津峯神社の御祭神である賀志波比売大神は、実はアマテラスやオオヤマヅミの娘である磐長比売ともいわれておりますな。 そして、葛(くず)倉神社の社名にある「葛」は「九頭」であるとの説もあり、伴神として「九頭竜」=「太龍寺縁起」にあるところの「和修吉(九頭竜)」➨「事代主」との見識を氏は記されておられます。 つまり、本稿解釈として、ヤマタノオロチ=俣が八つ=九つの頭の龍ということ。 それぞれの内容を繋げてみますと、オオゲツヒメは、この地から神山へと移ってこられた女神と考えられそうです。 お次に、オオゲツヒメがご鎮座される神山町へと戻りますと、オオゲツヒメと共にやって来た八伴神をお祀りする神社は、この神領地区に集中し、 ※awa-otoko様ブログ「大宜都比売命 八伴神の宮を探しだせ!!」より抜粋掲載<(_ _)> そこを中心に、トンネルをぶち抜いた道を除きますと八つの道ができあがります。 「天之八衢」についても一考するべきでしょうな。 私説において「国譲り」と「天孫降臨」をセットで考えてはきましたが、これらは別個のものとして考えた方が辻褄があうと再考しております。 つまりここが九頭竜の「頭」側でありブレーンの部分ですな(´・ω・`) ※おおよそのイメージ図 そして同地より鮎喰川沿いに下って参りますと、オロチなら鬼籠野(おろの)地区があり、 更に下って参りますと、眉山へと到達します。 ということは、頭が神山側で川下が尻尾側となり、(雑コラでスマン) ヤマタノオロチが上図のように存在しているとイメージしてください。 では尾の側になる眉山を見てみますと、 剣山神社(つるぎさんじんじゃ)は、徳島県徳島市眉山町の眉山公園に鎮座する神社。 ●歴史 1915年(大正4年)に「別格 剱山本宮」として、講社梅鉢組を中心に剣山の遙拝所として創建。 1958年(昭和33年)に剱山本宮をはじめ、剣山頂上及び奥宮の摂社・末社・総山の580余の末社の御分霊を勧請。 ◆祭神 素戔嗚尊 安徳天皇 大山祇神 (wikipedia 剣山神社より) ここがヤマタノオロチを倒したスサノオをお祀りしている剣山の「本宮」となっております。(´・ω・`) 他にもこの眉山山頂付近には、 溶造皇神社(徳島県徳島市八万町 海の宮40) ※画像はawa-otoko様ブログより拝借<(_ _)> ◆祭神 須佐之男命 スサノオは鍛治の神性も持ち合わせておりまする(´・ω・`) ココで「アレ」が造られたのかな最近流行りのギャグじゃありませんヨ …ということで、私が何を申し上げたいかはもうお分かりですよね 八岐大蛇の”尻尾”の位置にあるのは剣(つるぎ)の形をした眉山(びざん)。 『古事記』天照大神と須佐之男命より 「爾速須佐之男命、拔其所御佩之十拳劒、切散其蛇者、肥河變血而流。故、切其中尾時、御刀之刄毀、爾思怪以御刀之前、刺割而見者、在都牟刈之大刀、故取此大刀、思異物而、白上於天照大御神也。是者草那藝之大刀也。」 「速須佐之男命が身に着けていた十拳剣を抜いて、その蛇を切り刻みました。すると肥河が血で染まり、流れていきました。尾を切っているとき、剣の刃が欠けました。怪しいと思い、剣の先で尾を刺し裂いて見ると、都牟刈の大刀ありました。それでこの太刀を取り、不思議なものと思い、天照大御神に報告して奉りました。これが草那芸の大刀(クサナギノタチ=草薙剣)です。」 十拳劒で尻尾切ったらアレ(草那藝之大刀)が出てきたやんかー 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ、あめのむらぐものつるぎ、あまのむらぐものつるぎ)は、三種の神器の一つ。草薙剣(くさなぎのつるぎ)、草那藝之大刀(くさなぎのたち)とも言われる。(wikipedia 天叢雲剣より抜粋) つまり、天叢雲剣=眉山(オロチの千切れた尻尾) また、ヤマタノオロチを切ったとある「十拳劒」の別名が、天之尾羽張、伊都之尾羽張、大量(神度剣)、布都御魂剣(韴霊剣)そして天羽々斬(あめのはばきり)。 “羽々”とは“大蛇”の意味であり、また”ハハ”を切ったの意味でもあります。 スサノオの説話中に明確に「殺した」とあるのは「乃殺其大宜津比賣神」ではないですか スサノオが会いたかったはずの”ハハ(母)”ではないでしょうか スサノオが殺した「ハハ(大蛇)」は、実はイザナミ(母)ではないですか 時系列で書かれていない違和感の根源はこの部分とちゃいまっかねぇ。 以前に考察したもの➨ 『丹生都比売から考察①』 『丹生都比売から考察②』 『丹生都比売から考察③』 『記紀』阿波説を唱える方にも様々な見解があり、ヤマタノオロチは吉野川のことでありスサノオはその治水を行ったとされる説も御座います。 私説においてあえて言うとヤマタノオロチは大宜都比賣の本性であり、物理的地形でいうところの大宜都比賣が移住して来たとある神山町神領の地を中心に、肥河(私説にて鮎喰川に比定)沿いに山が切れた場所、つまり尻尾の部分となる眉山までの地理地形を指します。 つまり鮎喰川(本体)とその支流を中心とした地域になりますな。(この辺りは竜王山だらけやしね) また年に一度、高志(こし)から八俣遠呂智がやって来るのも、阿波の高足(たかし)郷の事などではなく、神山町にある「腰」の宮からやって来たと考えれば辻褄も合うでしょう。 古事記文中には 「彼目如赤加賀智而」「彼(か)の目は赤加賀智(ホオズキ)の如くして」とあり、 ●ホオズキ また「亦其身生蘿及檜榲、其長度谿八谷峽八尾而、見其腹者、悉常血爛也。」「その身体は日陰かずらやヒノキや杉が生えていて、八つの谷と八つの峰に及んでいます。その腹をみると常に血が滲んでいます。」とあるのも丹生(水銀朱)に縁ある暗示ともとれるでしょう。(たぶん入田町の辺りのことを指している) 上一宮大粟神社本殿は目が眩むほど真っ赤ですぜ。 その神は実は系譜上では恐らく姉の…おっと今回はここまでにしておきましょう。 これ等神話内の説話がキッチリ比定できるのも阿波のみであると私は考えております。 それでは今日はここまで(´・ω・`)ノシ
皆様お久しぶりで御座います。(´・ω・`)ノ 生存確認ブログです。 という訳で、本来であれば、『新『魏志倭人伝』における各比定考察』の続きを書く予定だったのですが、年度替わりを挟んでタイミング的に多忙を極めたことにより、随分と間が空いてしまいモチベダウン状態にありました(´・ω・`)ショボーン 今回は少しだけブログを書く時間が確保できましたので、えっとぶりに一稿完結でチョロっと書いてみたいと思います。 個人的には、自ブログのおさらい+α回となります。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まずは「元伊勢」と称される丹後国一宮の籠(この)神社。 「元伊勢籠神社御由緒略記」によりますと、 主祭神は彦天火明命で、別名として、彦火火出見命の名が見え、亦の名に、饒速日命、賀茂別雷神(同神)等と記されております。 この彦天火明命の后神が、スサノオの姉のアマテラスとの誓約(うけい)により化生したことから、スサノオの娘とされる市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)で、高天原から夫婦で船でやって来た情景を描いたお守りも御座いますネ。 『記紀』によりますと、彦火火出見尊(火遠理命/山幸彦)の后神は、海神の娘である豊玉毘賣であり、その孫にあたるのが初代神武天皇になりますから、れっきとした皇祖系譜ということになります。 籠神社HPに載る天皇家との関係図に記しますと、赤囲いの部分となり、 一方で、上図右側になる海部家の系譜にも天火明命の名が見え、その別名が彦火火出見命とお后の市杵嶋姫命のセットで見えますから、 これら赤囲いと青囲いのペアが同じである可能性を示しております。 ただし上の図にもあるように、天火明命は大己貴命の娘である天道日女命もお后としたとされていますので、考え方のポイントとしては、 ①スサノオの娘が市杵嶋姫命で、そのスサノオの養子である大己貴命の娘が天道日女命であることから、実は市杵嶋姫命の方が一世代上の女性という解釈になる。 ②天道日女命と市杵嶋姫命は実は同神であり、別名にて2世代に渡って結婚してる。 …等といった考え方もできますね。(ここではあまり深く考え過ぎない) さてお次にですが、徳島県海部郡牟岐町に鎮座する牟岐津神社。 「牟岐町神社明細帳」によりますと、 ご祭神は小碓命。つまり12代景行天皇の息子である倭建命(日本武尊)のこと。 この牟岐津神に関連して、その沖に浮かぶ大島には、 阿波志に、「姥祠あり大島に在り土人曰く牟岐津神の妃也」…とあり、 で、再び「牟岐町神社明細帳」を見ますと、 大嶋神社の御祭神は、豊玉日女命となっております。 この理屈でいうと、神代の物語で描かれる海神の娘の豊玉毘賣と、時を隔て人皇12代景行天皇の子の小碓命(倭建命)は夫婦であると。 もちろんそのような伝承は『記紀』には書かれておりませんから、一見すると何の繋がりもないようにも感じますが、宮崎県の高屋神社のように、 景行天皇の伝承が多く残る九州の神社では、これ等の時代の人物と一緒に豊玉姫命との組み合わせでお祀りされていることが多く見られます。 この時代の開きの解釈については話が長~くなりますのでこの稿では説明致しませんが、豊玉日女命の夫はwikipediaにもあるように、『記紀』には、火折尊/火遠理命(ほのおりのみこと)、彦火火出見尊と記されており、これが当地徳島の伝承と照合させると、小碓命(日本武尊)でもあるということになります。 そこでそれぞれの先代となる親の代に目を向けますと、 彦火火出見尊の親にあたるのはアマテラスの孫であるニニギ。 天孫降臨の説話にて国譲りの後、高天原から天より地上へと下って来たという説話となっており、旧事記においても饒速日命=天火明命もまた下界へ下って来た説話があります。 この高天原から葦原中国へ降臨されたことを示すために小碓命の父である景行天皇の諡号には、 「記」:大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) 「紀」:大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと) と、「たらし」という文字が使われており、同時に同天皇から「わけ」の文字が入ります。 この「帯/足:たらし」は、阿波弁でいうところの「ふんどし」の古語であり、海に入るときに長いふんどしを垂らして潜ると鮫から身を守るといわれており、潜水をする海人族のの古くからの風習です。(鮫は自分より大きくて長いものは襲わない) これを天孫降臨説話に因み、天から降る、天から垂れて来たということから、「天からふんどし降って来た。長い長いふんどしが降って来た。」の阿波の民話が今も伝わっています。 古事記序文には、「於名帶字謂多羅斯」「帯を”たらし”と読む」と書かれてあるように、ふんどしの阿波弁であったからわざわざ注釈したと考えられます。 また、旧事記「国造本紀」に、「伊勢国造。橿原の帝[神武天皇]の御世に、天降る 天牟久怒命(天村雲命)の孫天日鷲命を勅し賜いて国造に定む、即ち伊賀伊勢国造 の祖。」と記されてあり、 以前に『天村雲命から考察』にて、天村雲命はスサノオの子(五十猛命)と同神であるとの考察も相まって、『記紀』の内容は時代を繰り返して記しているということを証明する形となります。 従って、本稿での解釈(照合させる)では、 ニニギ(彦火火出見尊の父)=景行天皇(小碓命の父) 五十猛命=天村雲命(倭建命)の父はスサノオ …として考えますと、それぞれの説話がガッチリ合いますね。 また当地の神社の御由緒によくみられる「景行天皇の孫・曾孫」等、何故か景行天皇を基準に記されてあるのは、ニニギ(皇孫)として置き換えればイメージができるのではないでしょうか。(´・ω・`)「ワケ」よワケ これらを推測する手がかりとして降臨後のニニギの説話の中で、妻となった木花之久夜毘命との一夜で身篭った際に「国津神の子ではないかと疑う」ことから、実は自身の子ではないというエピソード話として垣間見ることができます。 そして、生まれた子の名は、火が赤く照り輝くことを意味する(ホデリ)、火が盛んに燃え立つときに生まれた(ホスセリ)そして、「熱を避りて居たるときに生り出ずる児」であるという意味から火遠理命(ホオリ)と名付けられたというエピソードを記しますが、その名も音の「ほおり」から、実は、祝(ほふり)であると解すれば、これまでの考察から、祝/斎主神である経津主神と同神と読み解くもできるでしょう。 山から下ってやって来た山幸彦こと火遠理命は徳島説風にいえば「忌部(いむべ)」ということになりますね。 そしてこれが実は『記紀』では八重事代主命、岐神、大物主そして猿田彦大神が同神であり「国津神の海部(あまべ)」ということがわかります。 これらの解釈も割愛させて頂くためひじょうにわかりにくい説明になっていますが興味のある方は過去ブログ等でご確認下さいませ<(_ _)> ➨『大幡主命から考察 ①』 ➨『本家の元祖考察 オマケ』 よく言われている天津神と国津神の区別や忌部と海部の違いに拘っておられる方がおられますが、少なくともこれらの説話の内容解釈を察すれば、彦火火出見尊はニニギの実子ではなく、あくまで国津神の大国主神の子、つまりニニギからすれば養子の八重事代主命が正体であり、従って神武天皇は国津神の子孫であるということになりますなぁ。(まぁあくまで私説解釈ですからネ) さて、彦火火出見尊の話にスポットを当てますと、『古代の丹波国について考察』にも少し書きましたが、抜粋しますと『古事記』海幸彦と山幸彦の説話の中に、 「傍之井上、有湯津香木。故坐其木上者、其海神之女、見相議者也。」訓香木云加都良、木。」 「その傍の井戸の上の、湯津香木(神聖な桂の木)があります。その木の上に座っていれば、海神の娘が取り計らってくれますよ。」香木は加都良(かつら)と訓む、木。」 「有人、坐我井上香木之上、甚麗壯夫也、」 「人が来ています。私の井戸上の香木の上に座っています。とても美しい男性です。」 …と記され、『古事記』の「加都良(かつら)」は木で、火遠理命がその木の上に登って「座」すれば、そこから海神の娘が取り計らってくれるとあります。 私説に置きましては、猿田彦大神をお祀りする徳島県鳴門市の大麻比古神社が御鎮座されている場所が葛城。 大麻山(おおあさやま)は、徳島県鳴門市にある山である。標高538m。別名「弥山」、「十八山」。「大麻さん」とも呼ばれる。讃岐山脈に属している。(wikipedia より抜粋) ここから往古の海抜域を想像しつつ、 この葛城にある大麻山(弥山)に登り座して眺望しますと、 のちに彦火火出見尊の妻となった、海神の娘である豊玉姫命をお祀りする式内社の和多都美豊玉毘賣神社が見えますネ。 さて、広島県にも、 弥山(みせん)は広島県廿日市市宮島町の宮島(厳島)の中央部にある標高535 mの山。古くからの信仰の対象になっている。 ●概要 平安時代の大同元年(806年)に空海(弘法大師)が弥山を開山し、真言密教の修験道場となったと伝えられる。 山頂付近には御山神社(みやまじんじゃ)、山頂付近から山麓にかけては大聖院の数々の堂宇、裾野には厳島神社を配し、信仰の山として古くから参拝者が絶えない。山名については、山の形が須弥山に似ていることからという説や、元は「御山」(おやま、みやま)と呼んでいたのが「弥山」となったという説などがある。なお、山頂にある三角点の名称は「御山」である。 山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる。(wikipedia 弥山より抜粋) こちらにも阿波と同名の弥山があり、その弥山の山頂から海を眺望しますと、 そこには浮かぶ神社のお姿が。 広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座されるのが、「安芸(あき)の宮島」として名高い日本三景にも数えられ、ユネスコの世界文化遺産にも登録された安芸国一宮の厳島神社。 天火明命の后神である市杵嶋姫命をお祀りしている最も有名な神社であり、全国に約500社ある厳島神社の総本社ですな。 往古の海神の宮(豊玉宮)はこのようなお姿だったのではないでしょうか 『記紀』にある日本武尊の妻、弟橘比賣が海に帰るのも(長国側の神事はこれが多い)、徳島県の昔話の姫が池(いげ=えげ・恵解)に帰るのも、全て徳島県の海側、特に眉山周辺に痕跡を残していることになりますネ。 私説としましては、天火明命(彦火火出見尊・八重事代主命・猿田彦大神・日本武尊)の妻が実はスサノオの誓約の娘である市杵嶋姫命(豊玉毘賣・阿波咩命・天宇受賣・弟橘比売)であるということについて、更に深掘って調査を進めていく方が正解の近道なのかも知れません。…たぶん笑 この理屈で行けば、『魏志倭人伝』に書かれている卑弥呼をアマテラスと仮定した場合、宗女(一族・血縁・姓の女性)臺与は、アマテラスの弟スサノオの娘である豊受大神(宇迦之御魂神)と考えた方が自然でしょう。 留意点として、あくまでスサノオの娘の市杵嶋姫命と結ばれたのが彦火火出見尊であるということ。(これがベース) 父イザナギより海を治めよと命ぜられたスサノオは、豊玉毘賣の父の大綿津見神として上図の周辺に宮を構えて居たと考えれますなぁ。 さて今回の考察として、市杵嶋姫命の正体は、 市杵嶋姫命=豊玉毘賣 とさせて頂きました。 まぁ上にもそれぞれ同神と考えられる人物をある程度載せておりますので、興味のある方はそっちの線で考えてみても面白いかも そして、もう一つ私が申したいのは、 厳島神社は、阿波国の和多都美豊玉毘賣神社のコピーである。 …と私は考えております。 厳島神社内でお祀りされている其々の御祭神なんかも非常に興味深いですなぁ。 今回は市杵嶋姫命について掘り下げた考察は一切していませんが、同神考察についいて進展させてみました。 もっと詳しくきれいに纏めて書きたかったのですが、あまり纏まらず結局は久々の長文カキコでこの辺りでダウンしました。 毎回浅い考察でスマソ…ということで今回はこの辺で (´・ω・`)ノシ
新『魏志倭人伝』における各比定考察 ②からの続きです。 これまでの記述から、魏使の水行した方角や『広輿図』等の記述などから、どの辺りに邪馬壹国が存在したのか、おおよその比定場所が推定されます。 次に、時代を経て『隋書俀国伝』(636年完成)の記述に、当時隋の官吏であった裴世清を俀國(倭國)に派遣した際の記録があり、そこに邪馬壹国に至るまでの行程を記しています。 まず先に頭に入れておかなければいけないのが、『隋書俀国伝』には、 「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也。」 「邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり。」 …と書かれており、この時代においても、魏使の記録した『魏志倭人伝』の邪馬臺が当時の都と同じ場所にある「邪靡堆」であるときちんと書かれています。 隋から派遣された608年は、日本の記録では、『古事記』の最後を飾る、在位593年1月15日-628年4月15日の女性天皇である推古天皇御世(聖徳太子の時代ね)のお話となります。 これより『隋書俀国伝』より抜粋してご説明致します。 『隋書俀国伝』によりますと、邪靡堆(=邪馬臺)へと至るまでの行程についての記録があり、 「明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」 「明年、上は文林郎の裴清を使して俀国へ遣はす。百済へ度り、行きて竹島に至る。南に耽羅国を望み、逈(はる)かな大海中に在る都斯麻国を経る。また東し、一支国に至る。また竹斯国に至る。また東し、秦王国に至る。その人は華夏に同じ。思へらくは夷洲。疑いは明らかにすること能はず。また十余国を経て海岸に達する。竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」 ここでの行程は、「都斯麻国➨一支国➨竹斯国➨夷洲秦王国➨十余国を経て海岸」 この行程でいにしえの邪馬壹と同じ場所に行き着くということになります。 また当代の方角の記述については、より精度が高まっており、対馬から壱岐へは「東へ」と記録され、その後の竹斯国(筑紫=九州)から次の目的地となる秦王国への行程も「東」、そこからは十余国を経て「海岸に達する」とあります。 そして「竹斯国より以東はみな俀に附庸す。」と書かれており、こちらは九州より東側は全て俀であると書かれてあります。 こちらも『魏志倭人伝』では、「女王国から北は…(略)…これが女王国の境界の尽きるところである。」…になっており、女王國(邪馬壹国)より以北、つまり九州から女王國までの南側の国が女王の統治下であることになります。 また行程の方も並べて見比べてみますと、 「都斯麻国➨東一支国➨竹斯国➨東夷洲秦王国➨(十余国を経て海岸)俀(邪靡堆)」 「對馬國➨南一大國➨奴國➨南投馬國➨南(水行十日、陸行一月)邪馬壹國」 このように『魏志倭人伝』と擦り合わせますと、魏の時代で「南」と記録したものは全て当代で「東」へと修正を加えてあることが分かりますね。 この時点で方角の測量技術が向上し、修正したと考えれば理解できるでしょう。 何故ならば最終目的地の俀王のいる都(邪靡堆)が邪馬壹と同じ場所であるからです。 これを遣隋使が派遣された、我が国側の『日本書紀』の記録と照合させます。 既に先人様が解明されておりましたので詳しくは下記にてご確認ください。<(_ _)> のらねこぶるーす様ブログ「空と風」:『隋書』から倭(ヤマト)国の所在地を特定する④ 『日本書紀』から抜粋して順を時系で追ってみますと、 「十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。」 「十六年の夏四月(608年4月)、小野臣妹子、大唐より至る。」 「卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。」 「即ち大唐の使人裴世清、下客十二人、妹子臣に從ひて、筑紫に至る。」 「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。」 「六月の壬寅の朔丙辰(6月15日)に、客等、難波津に泊れり。」 「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。」 「秋八月の辛丑の朔癸卯(8月3日)に、唐の客、京(都=邪靡堆)に入る。」 筑紫(九州)から難波津に宿泊後、邪靡堆に入ります。 上の行程と擦り合わせますと、 ●『隋書』:「竹斯国➨東夷洲秦王国(難波津)➨(十余国を経て海岸)俀(邪靡堆)」 ●『魏志倭人伝』:「筑紫(九州の国々)➨南 投馬國➨(水行十日、陸行一月)倭(邪馬壹国)」 従って難波津があった場所が秦王国内であったということになります。 畿内説の方々はこれを大阪にあった現在の「難波」に比定しますが、例えそうであった場合、難波津➨邪靡堆の行程が、先に書かれてある「また十余国を経て海岸に達する」場所=通説の大和(奈良)には到底なり得るはずもないからです。 皆さんご存知であるとおり、奈良県の内陸盆地に「海」など存在していないのです。 また遣隋使も奈良吉野川(紀の川)を遡上したなどと考えておられる研究家もおられるようですが、川幅が狭すぎて到底無理がありますぜ。 ではどのような行程を辿ったのでしょうか ●和名類聚抄:伊予国風早郡難波郷 地図からみつける千年村プロジェクトより そしてそこが九州(竹斯国)から東へ海を渡った先に存在した秦王国です。 まったくもって自然な位置ですな(´・ω・`)曲解しなければいいんですよ 「日本姓氏語源辞典」によると、 ①秦系。中華人民共和国陝西省咸陽市付近(旧:秦)から発祥。秦の日本音はシン、シナ音はチン。シナからコリアを経て来住。秦の始皇帝の後裔と称しており、元来の表記は「波多」で古い発音はハダ。コリア語のパダは「海」の意。 現在の秦氏は大分県に最も多く在住されており、四国では現在の伊予西条市に集中的に見られます。 ここで秦王国を九州の大分県に比定する研究家がおられますが、海を渡って四国の愛媛県に到達しなければ「難波津」へは入れません。 したがってここでも自然に考えると、秦王国は赤丸の範囲に存在した国であると考える方がよいはずです。 また、 和多志大神:わたしおおかみ【大山祇神社】 旧国幣大社。大山積神は《古事記》《日本書紀》では山の神とされているが、またの名を和多志(わたし)大神と称し百済から渡来したとの伝えもある(《伊予国風土記》逸文)。越智(おち)地方の旧族越智氏から出て伊予の国主となり、海上にも発展した河野氏の祭祀をうけたため海上守護神の性格も強い。(コトバンク) 越智郡(おちぐん)は、愛媛県(伊予国)の郡。 これらの傍証から、秦王国、並びに往古に存在したであろう投馬國の範囲は、 記録されてある戸数等を考えますと、おおよそこのような青枠エリアであったのではないかとの推測ができるでしょう。 何故ならば、『魏志倭人伝』によると、邪馬壹国へはこのまま南へ、つまり『隋書俀国伝』版にして置き換えますと、そのまま真っすぐ東へ移動したことになり、十余国を経た後の”海岸に達した場所”に当時の京である、邪靡堆(邪馬壹国)があったと書かれてあるからです。 ●これはまさに伊予之二名島やね 東へと流れる吉野川に沿って下った先は、徳島県の国府や以乃津(いのつ)のあった場所となりますヨ。 阿波側が頭であり、伊予側が後(しり=尻)であるから、道の後(しり)と記して道後の地名になっているといわれています。 ですから『隋書俀国伝』では、 「俀王、姓阿毎、字多利思北孤、号阿輩雞彌」 「倭王の姓”アマ” 天、字”タリシキコ” 足比古。号”アハケミ” 阿波君」 …ときちんと倭王が阿波の君であると記録されてあるのです。 ここでも阿輩雞彌を大王=オオキミなどとあえて分かりにくい説に落とし込むことこそ根本的な大間違いであり(「阿輩」をどうすれば「おほ」と読めるのでしょうか…)、古代の王都が阿波吉野川河口域にあった事実をまさに隠そうとする行為に他なりません。 この場所こそ往古の邪馬壹国の都が存在した中心地と考えられるでしょう。 また阿波説においても、ではいつ畿内へ遷都をしたのかの議論も御座いますが、記録を照合した場合、少なくとも608年まではまだ遷都されていないことがお分かり頂けるかと思います。なんだか『隋書俀国伝』の話になって来たな笑 脱線して例の如く長引きましたので次回は邪馬壹国がなぜ吉野川に沿った地域に限定されるのかについて考察して参りたいと思っています(´・ω・`)ノ
『新『魏志倭人伝』における各比定考察 ①』の続きとなります(´・ω・`)ノ ●指摘ポイント其の弐 「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。」 「女王国から北は、その戸数や道里を記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」 まずこの方角についてですが、こちらは以前に「古代(日本・中国)人の方角の認識についての考察」にて書かせて頂いておりますので、詳しくはそちらをご覧下さい<(_ _)> 磁方位を頼りに航行したと考えられ、これを地図に置き換えますと、およそ47℃程度の西偏、つまり日本地図で示すと右下に傾いたイメージとなります。 お次に、書かれてある21もの国名についてですが、女王国、即ち邪馬壹国から北の国々は、水行で通過滞在したので、”戸数や道里を記載できる”とあります。 この「戸数や道里」が記載されているのが、投馬國で、「南至投馬國、水行二十曰。(略)…可五萬餘戸。」「南へ投馬国に至る、水行二十日。(略)…五万余戸ばかりか。」と記録されています。 したがってその後文の「其餘旁國遠絶、不可得詳。」「それ以外の辺傍の国は遠く隔たり、詳しく知ることができない。」が、後述する21の国にあたると考えられます。 そして21もの国名を列記した後に、「…次有奴國。 此女王境界所盡。」「…次に奴国がある。これが女王国の境界の尽きるところである。」とあることから、魏使が投馬國を介して訪れた邪馬壹国(女王國)の女王の権力が及ぶ国々、言い換えますと卑弥呼を共立した首長達がいる連合国について記しているのです。 ということは、これまでの記載から、それら21の国々は魏使は”通過していない”ということになります。(投馬國から直接邪馬壹国に進入したということ) 続いて「…其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。」「…その南に狗奴国があり、男を王とする。その官に狗古智卑狗(くこちひく。菊池彦か)がある。女王に属さない。」の文が来ますので、次の列記された最後の国である”奴國の南に存在する狗奴国”が、女王国の境界の尽きた先の女王に属さない国ということになります。 言い換えますと、列記された国々は、女王國(邪馬壹国)の”周りにあった「辺傍の国」”のことになるのです。 ◆邪馬壹国とその他の国のザックリのイメージ図 ●指摘ポイント其の参 この水行の流れで指摘されるポイントとしまして、魏使が伊都国に駐在し、実際には邪馬壹国に行っていないとする説もお見受けしますが、上記の記述から、投馬国へは、南へ水行(航行)で投馬国に”至る。二十日、五万余戸ばかりか”…とあり、ここは戸数や道里を記載していること等から、魏使は投馬国まで移動して記録したということになります。 続けて、「南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。(略)…可七萬餘戸。」「南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。女王の都する所へは水行十日・陸行一月。(略)…七万余戸ばかりか。」とあり、引き続き魏使は更に南へと移動し、邪馬壹国へ至ったということになります。 さて、大杉博氏の著書である『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』によりますと、1555年に成立した『広輿図』の中にこの21か国についての記述があり、 「その次に曰く斯馬国、曰く己百支国、曰く伊邪国、曰く郡支国、曰く弥奴国、曰く好古都国、曰く不呼国、曰く姐奴国、曰く対蘇国、曰く蘇奴国、曰く呼邑国、曰く華奴蘇奴国、曰く鬼国、曰く為吾国、曰く鬼奴国、曰く邪馬国、曰く躬臣国、曰く巴利国、曰く支惟国、曰く烏奴国。皆、倭の境に附している。其の国、小は百里、大も五百里を過ぎず。戸、少は千余、多も一二万を過ぎず。」 ※広輿図では郡支国と記録されている。 …とあり、文中に『魏志倭人伝』よりも詳細な記録が見られます。 最も注目される点として、これらの国々が「皆、倭の境に附している。」と記録されてあるところ。 『広輿図』の内容から、当然のことながら「倭=日本」でないことは後文の「其の国、小は百里、大も五百里を過ぎず。」からもわかるように、記録されている全ての国々を含めても国土が非常に小さな範囲に収まってしまうことから全く符号致しません。 『魏志倭人伝』の情報と擦り合わせますと、これ等の国々が、倭(い)=邪馬壹國の境に附している。…と置き換えると理屈的に矛盾がなくなります。 従って、往古は、倭(い)のことを邪馬壹國と呼んでいた旨がわかります。 更にもう一点、上に挙げた国の中に『魏志倭人伝』には記録されてあるのに『広輿図』には記録されていない国があります。 『奴國』ですな。(´・ω・`) これらの内容から考えられることとして、奴国は「倭の境に附して」つまり邪馬壹國の隣に引っ付いている国ではないとも受け取れますね。 こちらも『魏志倭人伝』の記録と照合させますと、邪馬壹國の隣接する烏奴国を挟む形の隣の国に奴國があったと仮定できます。 ◆邪馬壹国と烏奴国と奴国の位置関係のザックリしたイメージ図 また『広輿図』のデータはあくまで海際の国のみを記した可能性もあります。 つまりここにある奴國は海際にあった烏奴国の隣にありながらも、海から一国分内陸に入った場所にあった国、即ち山間部にあった可能性を示すことにもなります。 これについては後に回します。 さて、これら21もの国々を全て完全に比定することはできませんが、上の考察から邪馬壹国の周囲に附している形でこれらの国々が存在しているということ。 では少しずつ、この中でキーとなる特徴的な国を見つけ出し、パズルを埋めて参ります。 まず最初にある斯馬國は淡路島のことではないかといわれており、私もその説を支持させて頂くとして、前稿より引き続き、古代中国語の発音で再現してみますと、 「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。」 ※これよりあくまで現時点での私的比定地の候補地となりますことをご了承下さい<(_ _)> ●左が動画の発音記号 ●右が漢字古今音資料庫 ●彌奴國➨「mjie no(みぇの)mǐei na(みぇぃな)」➨「みの」 ●好古都國➨「xau ko to(ほぅこと)hu ka ta(ほぅかた)」➨「はかた」 ここも「はかた」の音だけで奴國内にあったとされる現在の博多と混同される方がおりますが、じゃぁ奴國は何ってお話ですな(´ω`) これは恐らく、 ◆往古水位再現(⁺4m)で示す彌奴國と好古都國 「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。」 ●姐奴國➨「tsjiano(ちぇの)tsiana(ちぁな)」➨「ちの:茅渟」 ●呼邑國➨「xog ʔjep(ほぎっぷ)ha 0ǐəp(はぅぎっぷ)」➨「ほぉき:伯耆」 この二国の場所の比定は… ちぬ【茅渟】大阪湾の東部、和泉国(大阪府南部)の沿岸の古称。(コトバンク) 従って阿波説だと”和泉国”の沿岸は、 ●和名類聚抄:阿波国那賀郡和泉郷 児湯郡(こゆぐん)は、宮崎県(日向国)の郡。(wikipedia児湯郡より) ●九州の地形から推測される呼邑國の比定地 呼邑の日本読み(こゆふ)から、海部(加伊布)に転訛したと推測。これが元伯耆国。 ●華奴蘇奴國➨「xra no so no(くぉぁのその)ɣoa na sa na(ほぉあなさな)」➨「わなさ:和奈佐」現海陽町那佐周辺 こちらは現海陽町の那佐から旧宍喰町沿岸部に広がるエリア。 往古「那佐千軒」等とも謂れていたそうですが現在衰退しておりますな(´・ω・`) 式内社の和奈佐意富曽神社が御鎮座されていた地です。 お次が、 「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。」 ●烏奴國➨「ʔono(おの)0a na(おぁな)」➨「おおの:大野」 ●奴國➨「no(の)na(な)」➨「な:那賀」(山間部) ●和名類聚抄:阿波国那賀郡大野郷 そこから山間部に入って、 山間部なのでエリアは広いですがこちらも過疎化の波に漏れず(´・ω・`) …そしてその(奴國)の南にあると書かれてあるのが… 「此女王境界所盡。其南有狗奴國。」 「これが女王国の境界の尽きるところである。その南に狗奴国があり。」 「狗」➨「kou:こー/こう kɔ:こぉ」 「奴」➨「no(の)na(な)」 「狗奴國」➨「こうのこく」➨「神野(こうの)」 山間部を下って北側にある海部川上流に位置する地域。 当地神野地域一帯の御崎神社群でお祀りされているのが、前稿で書かせて頂きました猿田毘古神(恐らく官の狗古智卑狗)なのです。 ●海陽町項神野字神野前にある御崎神社 これまた長くなって来たので次号に続く(´・ω・`)ノ
私が『魏志倭人伝』の考察について書き始めた頃と比較しまして、現在では様々な媒体で他者様の考察を目にする機会が増えました。 これまでにも邪馬台国関連の歴史本・考古資料や他者様のホームページやブログなどから情報を得ることもできましたが、現在ではyoutube等の動画サイトでお気軽に閲覧ができる時代。 そこには千差万別種々様々なアプローチからこのテーマについて考察をされている方々の見識を垣間見ることができます。 今回はその中から面白い内容の動画がありましたので、少しずつでは御座いますがいろんな動画のご紹介をさせて頂きたいと思います。 ただし、当ブログはあくまで邪馬台国阿波説の私説での解釈となりますので、この動画の作成者様が意図する主旨内容ではないものと考えます。 本稿では、あくまでその動画の内容からヒントを頂き、私説であればこのような考え方ができるのではないかといった見解となります。(´・ω・`)ノ ワシひねくれ者だから察してくれ ではまず一発目。ジャパン・ファースト様が贈る ●「【古代中国の発音を復元】魏志倭人伝の地名と人名を古代音で予測復元」 こちらの動画は魏志倭人伝に記載されている地名及び人名を古代中国語の発音で再現してみたという異色の力作。 本動画では、上古音(先秦・漢)から後の中古音(魏晋・南北朝・隋唐)の発音を再現し、機械音声で読ませてみたという内容となっております。 本動画を視聴された中国人と思われる方から「発音記号は正しいが機械が発する音声再生音は違っているものがある」という指摘も御座いましたのでその点はご注意下さい。 他の留意点としては、『魏志倭人伝』では、上古音から中古音へと音が変化していく過程の時代であることから、実際はその中間音であった可能性や記録には上古音寄りの音で採用しているといったことも指摘できます。 また、当時の倭人が発語した音を聞き取ったのが中国人の魏使であったということも踏まえ、正しい音で記録されていない・若しくは当時の倭人の発音が現代語の発音と大きくかけ離れているといった可能性も考えられます。 (´・ω・`)まぁそこは考え過ぎてもどうしようもないですが それともう一点、本稿ではこれまでの既存の通説・異説の論説の齟齬や曲解などをあくまで私的に指摘して参ります。(^ω^)オッサンギャグ炸裂 手近な例として、奴(上古:nag)→(中古:no)→(近古/現代:nu)は、現代の日本での漢字の音は、「ぬ」ですが、古代中国での音は「なぐ」で、中古音では「の」の発音です。 音の変化の過程として、上古音「なぐ」→中古音「の」も、過程的には中間音があったと考えられ、後にこれが「ぬ」になることから、中古音「の:no」と発音する口から「ぬ」と発音された音を出す「のぅ:nou」→近古/現代「ぬ:nu」へと変化したと考えられます。 これ等の観点から、これまでに「奴=ぬ」の音として扱っていた既存の諸説は音の変化の過程から時代的には×ということになります。 例:「奴國」(なぐこく〇→のこく〇 →ぬこく×)(´・ω・`)b この様な考え方から完璧な再現とまではいかないまでも、その取捨においてより精度を高めて比定箇所を絞ることができるようになるはずです。 ただし本動画はあくまで記録されてある文字の発音のみからのアプローチですので、例えば出現する国名などは現代では既に消滅してしまっていて面影も全く残っていないといったケースも当然ながら考えられます。 また本動画では一音一音を丁寧に発音させて読み上げておりますので、アクセントが違っていたり、一文字の音が間延びして逆に聞き取りにくい場合もあることから、自己でピッチを調整して聞き取りやすい速度で再現させる必要が御座います。 個人的にはピッチを1.75倍速~2倍速にして聞いた方がそれらしく聞こえるのではないかと思いますので是非興味のある方は試してみて下され。 これを補完する材料として、「漢字古今音資料庫」という便利なサイトも御座いますので是非ご活用下さい。先秦王(先秦/王力系統)がオススメです。 …ということで、動画の内容を踏まえつつ、魏志倭人伝の比定箇所のパズルを少しでも埋めてみたいと思います。 それでは皆様もこれまでの先人研究を踏まえながら、また逆に固定観念に囚われないように頭の中をニュートラルに保って考察して参りましょう。 ※パープル…原文 ※ピンク…読み下し文 ※オレンジ…私説解釈文 ●指摘ポイント其の壱 まず魏使が倭に至るまでの移動についてですが、 「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」 「帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。」 …と記録されており、これをインターネットに溢れている説明図の一例から解説致しますと、 ●Aの説明図 「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東」つまり「帯方郡より倭に至るには、海岸に循(したがい)て水行しながら、それぞれの韓国を経て、南へ、そして東へ移動した」ということであり、あくまで水行つまり船で移動した旨が書かれています。 従ってA図の説は最初から間違っており、水行からどこかわからん場所に途中で上陸してそこから陸行し、「乍南乍東(南へ東へ)」ジグザグに移動したと解釈しておられるようですな。 この時点で既に曲解されており、誤った認識ということになります。 あくまで書かれてある通りでないと最初からボタンをかけ違えてしまうことになりますヨ。 あえて図で説明致しますとこの場合は、ザックリです。 帯方郡から狗邪韓国に至るまで、 馬韓を南へ弁韓を東へ海際を航行して来たということですね。 で、そこに「從郡至倭」「帯方郡より倭に至る」ところが、「到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」「北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。」 つまり当地が倭の領域(北岸)であったから、倭人の条の最初の国として記録したということ。 実際は下図のようなイメージですかな(´・ω・`)拾い物ばかりでスマン この狗邪韓国は、wikipediaによりますと、 狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。『後漢書』では「倭(現在の日本)の西北端の国」とする。伽耶、任那(みまな)との関連性が指摘されている。 また「狗邪韓国」という国があったわけではなく、「狗邪」という国名と「韓国七千余里」という旅程を合わせて誤読してしまったという説も新たに提唱されている。(wikipedia 狗邪韓国より抜粋) …などとあり、ここでの解釈として、 「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里。」 「帯方郡より倭に至るには、海岸沿いに水行しながら、其々の韓国を経て、南へ、そして東へ移動し、(倭の)北岸の狗邪韓国に至る。七千余里である。」 これを裏付ける資料としては、『後漢書』馬韓伝に、 「韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。」 「韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。」 …とあり、後漢(25年-220年)の時代では、いずれも諸韓国と倭の領域が”接している”旨が書かれております。 これが、倭の地の北岸として記される狗邪韓國ということになります。 さて、先にご紹介しました動画によりますと、「狗」の字の発音は、「kou:こー/こう」、「漢字古今音資料庫」検索では、先秦王韻部「侯」先秦王聲母「k」先秦王韻母「ɔ」つまり「kɔ:こぉ」と読みます。 「ɔ」の音は、日本語の「お」とは少し異なり、やや「あ」に近い感じの「お」の音ですね。 これがwikipediaで指摘されている、 伽耶(かや、伽倻または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、1世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国々を指す。後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。(wikipedia 伽耶より抜粋) であった場合、「狗」の発音は、日本語でいうところのカ行の「こ」で、これが「か」の音に近かった音であったとの推測が成り立ちます。 次に後文に出現する「至對馬國、其大官曰卑狗」「対馬国に着く。その大官を卑狗と言い」の、卑狗は、「ひか」とは読みづらく、また更に後文にて登場する、狗古智卑狗「wikipediaでは、きくちひこ(菊池彦か)」も音的には、接頭の「狗」を「き」と読み接尾の「狗」を「こ」と読ませるのは音の当て字として混乱を招くことから間違いであるといえます。 「狗邪」の発音は「kou-ʎjia:こぅや」であり、これが伽耶「かや」=狗邪であったと仮定した場合、同じ文字が使われている狗古智卑狗の接頭文字の「狗」をwikipediaの菊池彦の「き:ki」と読ませてしまうと発音的には、「きやかんこく」となってしまい、全くもって「かや」とは読めません。 従って「狗」の読みは、(こー/こぅ/こぉ〇→か 〇→き ×)となります。 「狗古智卑狗」の名の文字の中に、日本語音でもうひとつの「こ」の音にあたる「古」がありますが、当動画ではそのまま「古:ko」としております。 ただし、「漢字古今音資料庫」検索では、「ka:か」なんですな(´・ω・`) 従ってここでも中間音である「かぉ」の音の可能性もあります。 倭人伝では敢えて日本語での読みが同音と思われる文字を別に充てていることから厳密には「狗」と「古」の音は似て非なる音であったと考えられます。 「狗古智卑狗」も読みに準ずれば、 「狗」➨「kɔ:こー/こう/こぉ」 「古」➨「ka:か」 「智」➨「tǐe:ち」 「卑」➨「pǐe:ぴぇ」 「狗」➨「kɔ:こー/こう/こぉ」 「狗古智卑狗:こう-か(こ)-ち-ぴ-こう」➨「こうこちひこ」➨「かがちひこ」であったと考えられます。 従って狗古智卑狗は、「wikipediaでは、きくちひこ(菊池彦)」×となります。 ちょいちょいヒントを貼っていきますね(´・ω・`) ホオズキ(鬼灯、鬼燈、酸漿)は、ナス科ホオズキ属の一年草または多年草。またはその果実。カガチ、ヌカヅキともいう。丹波ホオズキなどともよばれる。 サルタビコノカミ、またはサルタヒコノカミは、日本神話に登場する神。 『古事記』では猿田毘古神、猿田毘古大神、猿田毘古之男神、『日本書紀』では猿田彦命と表記される。 『古事記』および『日本書紀』の天孫降臨の段に登場する(『日本書紀』は第一の一書)。天孫降臨の際に、天照大御神に遣わされた邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神。 ●神話での記述 邇邇芸命が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた。道がいくつもに分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。『日本書紀』では、その神の鼻の長さは七咫(ななあた)、背(そびら)の長さは七尺(ななさか)、目が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また赤酸醤(あかかがち)のように照り輝いているという姿であった。(wikipedia サルタヒコより抜粋) 本稿も少し長くなりそうですので分けますね(´・ω・`)ノ
『古事記』によると、イザナギとイザナミの二柱の神は、天の沼矛を海に突き刺してかき回し、塩が垂れ落ちて積もり重なって出来た島が淤能碁呂島であると記します。 二柱の神はその淤能碁呂島に降り立って、天の御柱と八尋殿(大きな宮殿)を建てました。 そこで結婚をし、子をなすわけですが、 「久美度邇此四字以音興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。」 「二柱が床で交わって作った子は水蛭子でした。この子は葦で作った船に乗せて流して捨ててしまいました。つぎに淡島が生まれましたが、これも子とは認めませんでした。」 …とあり、「久美度邇興而生子」つまり”セ●クスをして生んだ子”とあることから、字面の意味からも間違いなく自身の子でありながら、出来の悪さから子としては認めず、結局は水蛭子と次子の淡嶋と共に葦船に乗せて流したとあります。 その原因を探るために天神に相談し、よくなかった点を修正して再度国生みに挑戦したところ、 「如此言竟而御合生子、淡道之穗之狹別嶋。」 「そう言い合って交わって出来た子は、淡道之穂之狭別島(アワジノホノサワケシマ=淡路島)でした。」 …とあり、ここでも、”みあひして生みませる子”、つまりこちらも先とは別の言い方で”セッ●スして生んだ子”としております。 淡道之穗之狹別嶋は、水蛭子・淡嶋に次いで3番目の子になりますが、子と初めて認められたのが「淡道之穗之狹別嶋」という事になります。 今回はこの「淡道之穂之狭別嶋」から一体何がわかるのかについて例の如く穿った私説考察をして参ろうと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まず最初に、『古事記』に記される二柱の最初の子の「淡道之穂之狭別嶋」についてですが、通説では当然といっては何ですがこれを淡路島であるとします。 何故ならば、『日本書紀』においてこれを「淡路洲(あわじしま)」と記されているからに他なりません。 私説解釈とはなりますが、712年に完成した『古事記』と、僅かその8年の後に完成された『日本書紀』との内容の大きな違いは、『古事記』を原典としてそれを701年に施行された大宝律令後の国々に置き換えなおしたものではないかと考えられる節が見られるからです。 つまり、この最初の子として数えた『古事記』の「淡道之穂之狭別嶋」と『日本書紀』の「淡路洲」は厳密には違う可能性があると考えられるのです。 ではまずこの「淡道之穂之狭別嶋」の神名の意味するものが何であるのかについて見てみることにしましょう。 福岡大学人文学部教授である岸根敏行(日本の宗教学者、神話学者 早稲田大学第一文学部卒業。1995年東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学)氏の論文、「古事記神話における淡道之穂之狭別嶋をめぐって」によりますと、 「二「淡道之穂之狭別嶋」という名称の問題点①ー語義解釈」にて、 「最初の「淡道」が淡路嶋を指していることについては特に異論はないと思われるが、その直後に「之」と漢字表記される格助詞「の」が続いていて、「淡道之」はそのまま後続の語句に掛かると考えることができる。 「穂」は穀物の茎先に花や実がついた状態を指す語で、本居宣長が『古事記伝』でそれを稲の穂であると捉えたのに対して、それに同意せず、粟の穂であると指摘する先行研究がいくつか存在している。「淡道之穂」であるから、それは粟の穂のことであると考えているのである。しかし、一見して明らかなように、「淡道」はけっして「粟」そのものではない。粟の国(阿波国)に至るための道であるから、そのように呼ばれていただけであって、淡路嶋そのものが粟と直接に結びついているわけではないのである。(中略) 古事記神話のその後の展開を見るかぎり、地上の国土において稲が成長して実り豊かな大地になることこそがもっとも重要な点なのであるから、地上の国土で一番最初に登場する嶋が粟の穂と結びつけられなければならないという必然性は特に見出されないように思われる。したがって、筆者はこの「穂」を粟の穂であると断定することに対して同意できないという点をここで明示しておきたい。」 …とし、まず島の名である「淡道之穂」の「穂」については、本居宣長の説と同じく”稲の穂”のこととしております。続けて、 「さて、この「穂」の後に「之狭」という語が続いている。ここで問題となるのは、「狭」という語の意味と、「穂」と「狭」をつなぐ「之」と漢字で表記される格助詞の「の」をどう捉えるかという点である。 まず「狭」についてであるが、本居宣長が「穂之狭」を「穂之早」と捉え、出始めた穂、すなわち、初穂のことではないかと主張して以来、現在に至るまで、それに異を唱えるような主張は現れていないように思われる。 それに続いて、「穂」と「狭」をつなぐ「之」という語がどのように捉えられるかという問題であるが、古事記神話には「穂之邇邇芸」という神名が登場しており、ここで問題にしている「穂之」と同一の表現が現れている。「邇邇芸」は「にぎやか」「にぎはふ」のように、豊かであることを意味する「にぎ」が重ねられた「にぎにぎ」が縮まったものであると指摘されている。「穂」は「之」という語を介して、この「邇邇芸」と結びついているのである。「之」と漢字表記される格助詞「の」には様々な用法が見られるが、この場合は「穂」と「邇邇芸」を主語・述語として関係づけているとして、「穂がたわわである」と理解するのが適切であろう。そして、それがそのまま神名になったと言えるのである。 「穂之狭」についても同様に、「之」は「穂」と「狭」を主語・述語として関係づけていると考えることができるであろう。「之」という漢字をわざわざ挿入することによって明示される格助詞「の」が、古事記神話において、このように二つの語を主語・述語として関係づけている事例については、先行研究でも指摘されている。 したがって、「穂之狭」は従来指摘されているようにな「早い穂」ではなく、「穂が早い」という一つの状況に対する表現として捉えられるであろう。結局は最初に目を出した穂という同じことを意味するようであるが、このような表現がどういう意味をもちうるかについては、考慮すべき余地があるように思われる。」 「穂之狭」については、邇邇芸命の神名を例に出して、”最初に目を出した穂”という意味としては変わらないが、「早い穂」ではなく、「穂が早い」という一つの状況表現であるとします。つまり「の」の上と下の語が逆の語として使われているが最終的な意味としては同じになると記しております。更に続けて、 「「早苗」や「早乙女」などに表れる「さ」のように、「狭」を稲という意味で捉えるというものである。古事記神話には登場していないが、日本書紀神話に登場する「事勝国勝長狭」という神名の「狭」が従来、そのような意味で捉えられている点からも、その可能性は十分考えられるのではないかと思う。」 ここでは、「狭」は「さ=稲」と捉える考えがある旨を記します。次に、 「そして、その後に続くのが「別」という語である。この「別」は、「沼帯別命」「大鞆和気命」などのように、古代の一時期に、皇族の男子に付けられていたもので、のちには姓(かばね)としても用いられている。「比古(ひこ)」や「男(を)」と同様に、ここでは男子であることを示すために付け加えられた語と考えてよいであろう。」 「別」は皇族男子の姓であり、「比古(ひこ)」や「男(を)」と同じ意味で、つまりイザナギ・イザナミの最初の男児という事になりますね。結論として、 「以上のように、「淡道之穂之狭別嶋」はという名称について検討してきたわけであるが、検討の結果として、この名称は「淡道という、(稲)穂が早くついた男子という嶋」、あるいは、「淡道という、穂をつけた稲の男子という嶋」という意味で捉えることが可能であろう。」 …としております。 確かに國學院大學古典文化学事業神名データベースにも、 「淡道之穂之狭別島は、「穂之狭別」のホノサの名義は、ホを粟の穂、サを「早」で穂がはじめて出ることとし、初穂の意とする説がある。また、ホを穂、サを稲と捉え、穂をつけた稲とする説もある。」とあります。 お次に、『古事記』に書かれてある国生みを併記される神名と共に順に列記し比較しており、 ①「淡道之穂之狭別嶋」神名なし ②「伊予之二名嶋」愛比売・飯依比古・大宜都比売・建依別 ③「隠岐之三子嶋」天之忍許呂別 ④「筑紫島」白日別・建日向日豊久士比泥別・豊日別・建日別 ⑤「伊岐嶋」天比登柱 ⑥「津嶋」天狭手依比売 ⑦「佐度嶋」神名なし ⑧「大倭豊秋津嶋」天之御虚空豊秋津根別 ⑨「吉備児嶋」建日方別 ⑩「小豆嶋」大野手比売 ⑪「大嶋」大多麻流別 ⑫「女嶋」天一根 ⑬「知訶嶋」天之忍男 ⑭「両児嶋」天両屋 氏は、これについて、 「イザナギとイザナミという一対の男女の神により、出生という形で地上の国土が生成されるのであるが、これらの嶋や国はその子として位置づけられるのである。それゆえに、嶋や国が同時に神名を伴うというのは、すべてを神として捉えようとする古事記神話の構想からすれば、いわば当然のことなのであって、淡道之穂之狭別嶋や佐度嶋のように、神名を伴っていないということ自体が実は異常であると言わなければならないであろう。なぜなら、神名がなければ、イザナギとイザナミの子とはなりえず、その存在は神話的な世界のなかで明確に位置づけられないことになってしまうからである。」 …との理論を記しておられます。 氏の論文からの引用はこの辺りまでにしておきますが、これを私説解釈にてご説明させて頂きますと、上に列記した二柱の子とする島々の中に、自身の子でありながらも、自身の子として認めていない子、要するに神名を意図的に併記していない二つの島が存在します。 この二つの島が、系譜上では次代に存在する”自身の投影神”ではないのか…と考えられる訳です。(もちろん別神名でね したがってここでは取りあえず一旦、 「淡道之穂之狭別嶋」イザナギ(伊弉諾神宮が存在のは現在の淡路島であるため) =水蛭子=次代の別神名の男神として登場している 「佐度嶋」イザナミ() =淡嶋=次代の別神名の女神として登場している …に仮定しておきましょう。 お次に、島々の比定についてですが、通説を一応記しておきますと、 ①「淡道之穂之狭別嶋」淡路島 ②「伊予之二名嶋」四国 ③「隠岐之三子嶋」隠岐の島 ④「筑紫島」九州 ⑤「伊岐嶋」壱岐 ⑥「津嶋」対馬 ⑦「佐度嶋」佐渡島 ⑧「大倭豊秋津嶋」本州 ⑨「吉備児嶋」児島半島 ⑩「小豆嶋」小豆島 ⑪「大嶋」周防大島 ⑫「女嶋」姫島 ⑬「知訶嶋」五島列島 ⑭「両児嶋」男女群島 ●『古事記』国生み 通説の比定地図 国土創成を記しているという観点から、通説では北海道を除く現在の日本列島に充てております。 これは最もな理屈ではありますが、『古事記』の原文には、 「…謂大八嶋國。然後、還坐之時、生吉備兒嶋…(中略)…次生兩兒嶋、亦名謂天兩屋。」 「…大八嶋國(本州)という。然る後、還ります時に生まれたのが吉備の児島半島…(中略)…次に生まれたのが兩兒嶋、またの名を天兩屋といいます。」 …と書かれてあり、これは淡道之穂之狭別嶋を出発してから大倭豊秋津嶋を経由して、そこから”還ります時に”…の流れから、最終帰着地である兩兒嶋に至るという意味となります。 従ってこれは移動経路を順に表しており、これを通説の比定地図に当て嵌めてみますと、 見事なまでに右往左往しており、淡路島-四国まではよいとしても、そこから隠岐の島に先に行ってから再び九州に戻り、そこから壱岐→対馬。 そして今度は隠岐の島を飛び越してからーの佐渡島まで一気に移動し、ようやくこの後、初めて本州に上陸。 そこから問題の「還って来る時に」(この場合出発地である淡路島に帰って来るという意味となりますので)、吉備児島半島→小豆島からーの、何故かここで引き返して周防大島に戻ってしまいます(゚Д゚)…どこいってんねん 最終的には淡路島には帰って来ずどんどんと離れて行くことになり、大分県の姫島→五島列島→男女群島...という風に結果的にとんでもないところに行ってしまいました(´・ω・`) つまり「然後、還坐之時」と書かれてある意味からも、通説の比定地が明らかに間違っているという事に他なりません。 では、阿波説(私説)であればどうなるのかを示してみますと、 まず最初に最も分かりやすいのが②の「伊予之二名嶋」。 これにつきましては『古事記』に記載されてありますとおり、その四面に充てられる神名からも通説同様に間違いなく四国であると断定できます。 その次が問題の隠岐之三子嶋(隠岐の島)ですが、兼ねてより隠岐諸島は四つの島から形成されているため、三つ子の嶋ではないとの指摘が御座います。 つまり、通説では異常な経路を示す原因となっている隠岐之三子嶋の解釈が現在の隠岐の島ではないということになります。 では『古事記』に記される「隠岐之三子嶋」はどこの島のことなのでしょうか 経路として、四国の次にあって、その後の行程が九州となり得る島。 沖の島(おきのしま)は、日本の四国・高知県の南西部、宿毛湾および大月半島の南西沖、北緯32度43分・東経132度32分の太平洋上に所在する島である。 裸島・二並島・沖の島・鵜来島・三ノ瀬島・姫島・水島の7島などで沖の島町(おきのしまちょう。宿毛市の成立以前に存在した沖ノ島村と地域的変更なし)を構成する。 古称は「いもせのしま(妹兄島、妹背島)」であった可能性が高い(推定し得る語形変化:いもせじま)。日外アソシエーツ編『島嶼名 漢字よみかた辞典』は、別名として、沖ノ島(おきのしま)、土佐沖の島(とさおきのしま)、妹背島(いもせじま)を挙げている。 ●開拓伝説 島の北西部の母島部落には鎌倉出身の山伏の開拓伝説が、南西部の弘瀬部落には島祖といわれる三浦則久一族の開拓伝説がある。弘瀬の三浦家は、関東武士団の一つで相模国の三浦半島を本貫とする三浦氏の一派と考えられる。本貫の三浦氏は宝治元年6月5日(1247年7月8日)に起こった宝治合戦(三浦氏の乱)に敗れて鎌倉を追放されているので、歴史上の整合性は高い。これら2つの伝説が事実を反映しているとすれば、いずれにしても沖の島に人が住み始めたのは鎌倉時代の前期か中期であった。 ただし、より古い平安時代の妹兄島伝説なるものもあり(※『今昔物語集』出典)、この時代にはすでに定着民がいた可能性も無いわけではない。間違いなく脚色されている妹兄島伝説のどこかに最初期の開拓者たちの事実が含まれているのか、それともそのようなものは無く全て架空の創作物語なのかは、今日まで伝えられた事柄だけで判断することができない。そのため、妹兄島伝説は絵空事同然という見なされ方をしている。(wikipedia 沖の島より抜粋) ◆土佐國の妹兄、知らぬ島に行て住む語:今昔物語集巻二六第十 「今は昔、土佐の國幡多の郡に住みける下衆有りけり。己れが住む浦にはあらで、他の浦に田を作りけるに、己れが住む浦に種を蒔きて、苗代と云ふ事をして、殖うべき程に成りぬれば、其の苗を船に引き入れて、殖人など雇ひ具して、食物より始めて、馬齒・辛鋤・鎌・鍬・斧・たつきなど云ふ物に至るまで、家の具を船に取り入れて渡りけるにや、十四五歳ばかり有る男子、其れが弟に十二三歳ばかり有る女子と、二人の子を船に守り目に置きて、父母は殖女を雇ひ乘せんとて、陸に登りにけり。 あからさまと思ひて、船をば少し引き据ゑて、綱をば棄てて置きたりけるに、此の二人の童部は船底に寄り臥したりけるが、二人ながら寢入りにけり。其の間に鹽滿ちにければ、船は浮きたりけるを、放つ風に少し吹き出だされたりける程に、干潮に引かれて、遙かに南の沖に出でけり。沖に出でにければ、いよいよ風に吹かれて、帆上げたるやうにて行く。其の時に、童部驚きて見るに、かかりたる方にも無き沖に出でにければ、泣き迷へども、すべきやうも無くて、只吹かれて行きけり。父母は、殖女も雇ひ得ずして、船に乘らむとて來て見るに、船もなし。暫くは風隠れに差し隠れたるかと思ひて、と走りかく走り呼べども、誰かは答へむとする。返す返す求め騒げども、跡形も無ければ、云ふ甲斐無くて止みにけり。 然て、其の船をば遙かに南の沖に有りける島に吹き付けけり。童部、恐る恐る陸に下りて、船を繋ぎて見れば、敢へて人無し。返るべきやうも無ければ、二人泣き居たれども甲斐無くて、女子の云はく、「今はすべきやうなし。さりとて命を棄つべきに非ず。此の食物の有らむ限りこそ少しづつも食ひて命を助けめ、此れが失せはてなん後は、いかにしてか命は生くべき。されば、いざ、此の苗の乾かぬ前に殖ゑん」と。男子、「只、いかにも汝が云はんに随はむ。げに然るべき事なり」とて、水の有りける所の、田に作りつべきを求め出だして、鋤、鍬など皆有りければ、苗の有りける限り、皆殖ゑてけり。さて、斧、たつきなど有りければ、木伐りて庵など造りて居たりけるに、生物の木、時に随ひて多かりければ、其れを取り食ひつつ明かし暮らす程に、秋にも成りにけり。さるべきにや有りけん、作りたる田いとよく出で來たりければ、多く苅り置きて、妹兄過ぐす程に、漸く年來に成りぬれば、さりとて有るべき事に非ねば、妹兄夫婦に成りぬ。 然て、年來を經る程に、男子・女子數た産みつづけて、其れを亦夫妻と成しつ。大きなる島なりければ、田多く作り弘げて、其の妹兄が産みつづけたりける孫の、島に餘るばかり成りてぞ、今に有るなる。「土佐の國の南の沖に、妹兄の島とて有り」とぞ、人語りし。 此れを思ふに、前世の宿世に依りてこそは、其の島にも行き住み、妹兄も夫妻とも成りけめとなむ、語り傳へたるとや。」 「今は昔、土佐の國幡多の郡というところに、ある百姓が住んでいた。その百姓は自分が住んでいる浦ではなく別の浦に田を作っていた。 自分の浦で種まきをして、それを苗代にして田植えできるまで育てると、いよいよ別の浦に植えようとして、苗のほか用具や食べ物など沢山のものを船に乗せて出発した。その途中、十四五歳ばかりの男の子と十二三歳ばかりの女の子の兄妹を船に残して、父母は殖女を雇うために陸に上がった。 ほんのちょっとの間と思い、船体を砂に据えた状態で綱もかけないでおいた。兄妹の子どもたちは船底に臥していたが、二人とも寝てしまった。その間に潮が満ちてきて、船体が浮き上がり、風に吹かれるままに動き出したかと思うと、潮に引かれてはるか南の海に流された。 沖に出ると船は帆を上げたように勢いよく進んでいく。子どもたちは驚いてみていたが、泣けどもその甲斐もなく、船はいよいよ進んでいった。 父母が、殖女を雇えないまま、船に戻ってくると、姿が見当たらない。風に吹かれたのかと、そこらじゅうを走り回り叫んでみたが、答えるものとてない。とうとうあきらめて探すことをやめてしまった。 船ははるか南の沖のある島に吹き流された。子どもたちは、恐る恐る陸に降りて、船をつないであたりを見たが、人がいる気配もない。帰ることも出来ず、二人は泣いていたが、そのうち女子がいった。 「いまとなっては、どうすることもできませぬ。といって、死ぬこともいやです。船の中の食べ物がある間は、それで命をつなぎましょう。なくなってしまえばそれまでなので、この苗が乾かない前に、これを植えておきましょう。」 そこで男子は、「おまえがいうことはもっともだ」といって、水があるところに田んぼを作り、船の中から道具を持ち出して、数の限りの苗をみな植えたのだった。 ほかに斧やたつきなどもあったので、木を切って庵を作り、二人で住んだ。島には木の実などもなっていたので、それをとって食いつなぐうち、秋になった。すると田んぼも豊かに実ったので、刈り取って食料にした。こうして数年を島で過ごすうちに、兄と妹で夫婦になったのだった。 さらに年数がたつうちに、多くの子供を生み、その子どもがまた互いに夫婦となった。大きな島であったが、こうして生まれてきた男女が、島いっぱいに広がった。今も人々が、「土佐の国の南の沖の妹兄島」といっている島のことである。 思うに、前世の因縁によることかもしれぬ。」 島の伝承がイザナギとイザナミ神話とソックリですな(´・ω・`) wikipediaによりますと、沖の島町は周辺の7島からなっているようですが、実際には、現在の沖の島町をみましても、 裸島・二並島・三ノ瀬島・水島は非常に小さく、もはや磯レベルですので、往古島と呼べたのは沖の島・鵜来島・姫島の3つの島と考えられます。 また釣り人などのブログからも、天気がよければここから九州が拝めるとありますな。(これ何気に重要なことですぜ) したがって私説におきましては、イザナギとイザナミの国生みの順番から考えますと、伊予之二名嶋(四国)の次が隠岐之三子嶋(高知県沖の島)となり、この時点で四国南岸ルートの可能性が指摘されるでしょう。 そしてお次が筑紫嶋(九州)。 これも通説と比定は同じで、この後も伊岐嶋(壱岐)→津嶋(対馬)、これも通説と比定は同じ解釈でよいでしょう。 今のところ順調に海路を通交する形で来ておりますが、ここで最大の謎ともいえる、淡道之穂之狭別嶋と同様、神名の併記がされていない「佐度嶋」に行くことになります。 ここも通説では異常航路を示すことから、この島が現在の佐渡島ではないのは想定できます。 では、一体この「佐度嶋」はどこの島のことなのでしょうか 先に考察したように、これまでに通って来た道が「水行での航路」であるということにお気付きになっていれば答えが導き出されます。 →九州→壱岐→対馬→ そしてその先に「佐度嶋」が存在しないと行けませんので… ●大韓民国 チョルラ南道 ヨス市 沙島(さど) ●西暦200年~250年頃の倭国の領域と考えられるところ 「東夷伝」に記される、往古倭の領域であったとされる狗邪韓国。 『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。 『後漢書』では「倭(現在の日本)の西北端の国」とする。伽耶、任那(みまな)との関連性が指摘されている。(wikipedia 狗邪韓国より抜粋) 海を渡って朝鮮半島南部の倭の地へと赴くのには様々な理由があると考えられる訳なのですが、その理由の一つに、訪れた先で入手することができる物品を船積みし持帰すること。 つまり現在の朝鮮半島南部で入手した荷物を搭載してから、次の航路先となる場所でそれら(荷物)をおろしたのではないのか…と考えられるわけです。(構造上貨物船は何かを積まないとバランスが取れず航行できないのでスッカラカンでは移動しません。) 『魏志韓伝』(二.辰韓)によりますと、 「國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡」 「国は鉄を出し、韓、濊、倭はみな従いてこれを取る。諸市で買うにみな鉄を用ひるは、中国が銭を用ひるが如し。また、以って二郡にも供給す。」 …とあり、当然のことながら当地で得た色々な交易品等もあったと考えられますが、メインは恐らく辰韓側で採れた鉄であり、それを積載して次なる行先である「大倭豊秋津嶋」(本州)へと旅立ったと考えられます。 本州では、この鉄を降ろしてそれを加工し、再度船積みした後、次の行先地へと渡って行ったとも考えられるでしょう。 そして先述しました、「然後、還坐之時」(還って来る時に)、本州から瀬戸内海北岸を沿うように吉備児嶋(現在の岡山県の児島半島)へ、 ●往古再現による吉備児嶋(児島半島は昔は海に浮かぶ島) 再び瀬戸内海の北側を航行しながら「小豆嶋(あづきじま)」。 これも通説どおり、現在の香川県に属する(小豆島:しょうどしま)まで移動したと考えられます。 さて、ここまではよいとして、再び通説では瀬戸内海を遡ってしまった位置に存在する「大嶋」(周防大島)に移動したことになっています。 屋代島(やしろじま)は、山口県の島。周辺の島々を合わせ周防大島諸島を構成する。 国土地理院が定める正式名ではこの「屋代島」とする。「屋代」の名は島内の地名に由来する。 ただし歴史的には周防国の大島であったことから周防大島(すおうおおしま)または単に大島と呼ぶことが多く、現在も、屋代島と呼ぶことは少ない。地図を見ると金魚のような形をしていることから「金魚島」とも呼ばれている。 古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされ、『万葉集』にもこの島を詠んだ歌がある。『日本書紀』、『古事記』の国作り神話の中にも現れる。 ●歴史 縄文時代や弥生時代の遺跡により、当時からこの島に人間活動のあったことがわかっている。『日本書紀』ではイザナミが生んだ大八島の一つ、7番目に生まれた島とされ、『古事記』では大八島に続けて産まれた6島の3番目とされる。古代の主要交通路だった瀬戸内海の要所だったことの表れと考えられている。 『国造本紀』に大島国造が見える。平城宮の長屋王邸跡から大島郡の物産であることを示す木簡が多く出土しており、長屋王の封戸が大島郡内に設定された可能性が指摘されている。また、畿内と九州の筑紫国を結ぶ海路において、風光明媚な要所であることから、歌枕としても知られていた(『万葉集』巻15・3638番田辺秋庭、『後撰和歌集』恋4・829番大江朝綱など)。また、『源氏物語』「玉鬘」巻には大島を歌った和歌が登場する(wikipedia 屋代島より抜粋) …ということで、万葉集の該当する歌をご紹介致します。(原文:万葉ナビ使用)①『万葉集』の天平八年六月の遣新羅使の歌 「周防国玖河郡の麻里布の浦を行く時に」詠んだ歌 「筑紫道能 可太能於保之麻 思末志久母 見祢婆古非思吉 伊毛乎於伎弖伎奴」 「筑紫道の可太の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ」(15・3634)②「過大嶋鳴門而經再宿之後追作歌二首」 「大島の鳴門を過ぎて再宿を経ぬる後に」詠んだ 「巨礼也己能 名尓於布奈流門能 宇頭之保尓 多麻毛可流登布 安麻乎等女杼毛」 「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども」(15・3638) まず、一首目の歌の解説をしますと、「筑紫道」は遣新羅使として九州へと向かう海路のことで、その途中にある周防国近辺の大島を指しています。 従って一般的には国生みの大嶋をこの歌にある周防大島に比定しているわけです。 しかし、ここには一つ不可思議な疑問点があり、歌には「筑紫道の可太の大島」と書かれてありますが、この「可太」を大島にある地名であると考えられているようです。 しかしながら、残存する地名や記録・文献等にはこの「可太」は見当たらず、よくわかっていないが恐らくそうであろうとしているみたいです。 「万葉集 大畠の鳴門」From日積様 のサイトによりますと、 「可太」は、『万葉代匠記』に「筑紫路の方の大島」の意か、それとも「可太の大島」という地名かといい、井上『新考』には「案ずるに可太は方なり。…大島は諸国にある名なれば取分きて筑紫路の方の大島といへるなり」とする。鴻巣『全釈』は、「可太はこの附近の古名らしい」とするがこれも根拠にとぼしい。 …とあり、研究家からは、「可太」は「筑紫路の方の大島」という意味が最もな考え方なのではないか?という見解です。 つまり、周防大島の他にも別に「大嶋」と呼ばれていた島が存在し、どちらの大嶋かわかるようにこの歌では「筑紫路の方の大島」と歌ったということになります。 この事由でいくともう一方の「大嶋」が別に存在するということになるわけですが、それがニ首目の歌の、 「大島の鳴門を過ぎて再宿を経ぬる後に」詠んだ歌とあり、歌の題目からは徳島県の鳴門近辺にこの大嶋が存在していたことになります。 歌の内容も、「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども」となっており、鳴門で有名なワカメを刈る海人の娘子どもの様子を詠った歌であり、恐らく『記紀』に載る方の大嶋は徳島県の鳴門周辺にある大きな島の名称であったということになります。 ●「還坐之時」大倭豊秋津嶋→吉備兒嶋→小豆嶋→大嶋? 次の想定航路上では小豆島の東側にこの大嶋が位置すると考えられ、「鳴門」と接している大きな島が万葉集に詠われる大嶋となり、これこそが”現在の淡路島”であると推測ができます。 大嶋の併記神名である大多麻流別という名前の意味は、 「多麻流」を「溜る」に解して、瀬戸内海の鳴門の渦潮を乗り切るために、多くの船舶が集まり留まることから「大溜る」といったかとする説や、「多麻流」を船の停泊の意に取り、同じく渦潮を乗り切るのにこの島に船を停泊させたことによるかとする説、また、水が大いに溜まる港湾の様子を表したものかとする説がある。 また、『古事記』の大八島国誕生譚に付随する六島誕生の伝承については、これを大八島国誕生譚より遅れて成立し附加された後次的要素とし、大宝年以後の遣唐使の南路航路の開発を反映させて創作された神話とする説がある。 大島は、『古事記』の伝および『先代旧事本紀』の二種の伝では大八島に含まれていないが、一方で、『日本書紀』四段本書・一書六・九では、大八島の一つに大島が誕生しており、一書一・七・八・十には誕生自体が語られていない。『日本書紀』の諸伝のうち、大島が大八島の一つとして誕生しているものは、淡路島が「胞」となって大八島から除外されている伝であることが指摘されていて、大島が大八島に編入された原因は、そうして除かれた淡路島の分、一島を新たに加えて大八島の島数を八に合せるためとする説がある。伝承成立の前後関係としては、『日本書紀』で、大島が大八島として誕生する伝は、大島の誕生が語られない伝よりも新しいものとし、さらに、そこからやがて大島が大八島にふさわしくないと見なされるようになった結果、『古事記』『先代旧事本紀』の、大島が大八島に含まれずに誕生する伝が発生したとする説がある。(國學院大學「古典文化学」事業神名データベースより) 「鳴門」の名称についてですが本質的には、渦を巻いて流れる潮流のことを示していると考えられます。 現在の徳島県鳴門市には島田島と大毛島の二つの島が存在しますが、歌にある「鳴門」は、鳴門という地名そのものの事ではなく、徳島県側の鳴門市と兵庫県南あわじ市の鳴門岬との間に湧く「渦潮」を意味しているものと考えられ、少なくとも淡路島北岸側の明石海峡の海ではないという事になります。 万葉集の内容から行程航路を考えた上で、大嶋の併記神名である大多麻流別(多くの船舶が集まり留まる)の字義や「大島の鳴門を過ぎて」云々の意味から推測しますと、恐らく第一候補は徳島県側からは対岸に位置する現南淡町福良港であると想定されます。 また上の國學院大學データベースの内容からも、『日本書紀』に大嶋を記録する際に、原典となる『古事記』に記される「淡道之穂之狭別嶋」を現在の淡路島を『日本書紀』の「淡路洲」として位置付けることにしたので、その混乱から大嶋自体の存在を付加したり抹消したりした痕跡ではないのか…とも考えられます。 これらの経緯から、現在の淡路島が『古事記』の大嶋のことだと考えられることと同時に『古事記』の「淡道之穂之狭別嶋」が実は淡路島のことではない…という考え方の補完材料になる要因ともなり得るでしょう。 先述した岸根敏行氏の論文では、国生みにおける格助詞「之」の扱い方についての考察がされてありましたが、そもそも淡路島を登場させる場合に、とりたてて格助詞の「之」を2度も使用して「淡道之穂之狭別嶋」等と回りくどく呼ばなくとも、他の島の名と同じく後出の『日本書紀』のように淡路洲(州)とすればよいはずですよね。 では、「国生み」における格助詞「之」について注目してみますと、これを1度だけ使用しているのが「伊予之二名嶋」と「隠岐之三子嶋」の二例があります。 敢えての説明とはなりますが、これは前文と後文の間に格助詞「の」を挟むことで、前文を後文が補う形となり、この場合は島そのものに、より詳細な情報を付加した意味合いになっております。 これを更に手近な例にしますと、「サッカー日本代表の長友佑都」と書くと意味としてはわかりやすいですよね。 「サッカー日本代表」の情報だけではまだよくわかりませんが、この前文を補完する形で後文に「長友佑都」と接続することでサッカー日本代表の長友佑都と断定できるわけです。これが2度の格助詞を使用しますとどうなるでしょうか? 例えば、2度目の「の」の後文次第では、「サッカー日本代表の長友佑都の妻」や「サッカー日本代表の長友佑都の出身県」等となってしまい、本人と縁を持つ反面、実際は本人そのものでは既になくなってしまっていることになりますな。 さて話題を戻しまして、 本土を経由して後、吉備兒嶋から小豆嶋、そして鳴門近辺の大嶋まで還って来ておりますから、出発点を通説どおりに淡路島(=淡道之穂之狭別嶋)とした場合に既に到着していることになってしまいます。 しかしながら『古事記』に書かれてある「還坐」ところはまだ先へと続いており、「女嶋」→「知訶嶋」を経て最終到着地である「両児嶋」まで、”還って来た”という解釈となるわけです。 したがって、お次に訪れる島の「女嶋」についてですが、 日峰神社(ひのみねじんじゃ)は、徳島県小松島市中田町にある神社。市の北側、阿波三峰の一つである日峰山(標高191m)の山上に鎮座する。 ◆祭神 主祭神に大日霊貴神、相殿神に少彦名神、市杵島比女神。境内社に船玉大神(ふなだまのおおかみ)がある。(wikipedia 日峰神社より抜粋) 二人の女神が御鎮座されるこの日峯山は往古、島であったと想定されます。 ●本稿推測による『古事記』の女嶋の比定地 また日峯には、大神子・小神子の地名が残り、社の御祭神から、大神子→大日霊貴神、小神子→市杵島比女神との推測もできますかな。 現在は既に島ではないので、島名としては消失しているものと考えられます。 通説の女嶋は、大分県の国東半島沖に浮かぶ姫島を充てており、 これを阿波版に置き換えますと、以下のようになります。 ●類似地形の謎を解き明かすと浮き上がってくる本当の女嶋 そして更に知訶嶋へと行程を進めますが、通説ではこれを五島列島に充てております。 ●『肥前国風土記』小城郡 三、郷里駅家 土蜘蛛の大耳(オホミミ)・垂耳(タリミミ) 「昔、同天皇(景行天皇)が巡幸した時、志式島(ししきのしま)の仮宮から西海を見ると、海上の島から多数の煙が立ち上っており、その煙が辺りを覆っている様子が見えた。 そこで、天皇は阿曇連百足(アヅミノムラジモモタリ)を遣わせて偵察させると、そこには80余りの島があり、そのうち2島にはそれぞれに人が住んでいた。第一の島を小近(をちか)と言い、そこには土蜘蛛の大耳(オホミミ)が住んでいた。第二の島を大近(おほちか)と言い、そこには土蜘蛛の垂耳(タリミミ)が住んでいた。その他の島には人は住んでいなかった。 そこで百足は大耳らを捕えて報告すると、天皇は「誅殺せよ」との勅命を下した。その時に大耳らは頭を下げて「我々の罪は実に極刑に値します。これは万回殺されても足りない罪です。しかし、もし恩情によって生かして下さるのならば、御贄を作って奉り、御膳を恒に献上しましょう」と申し上げ、すぐに木の皮を取って、長鮑・鞭鮑・短鮑・陰鮑・羽割鮑などの料理を作り、それを見本として献上した。すると、天皇は恩赦を与えて放してやり、そこで「この島は遠いが、まるで近いようにも見える。よって近島(ちかしま)と呼ぶが良い」と言った。これによって値嘉(ちか)という。」 …とあり要約しますと、12代景行天皇が立ち寄った志式島から遠いようで近いとの謂れから値嘉島と名付けられた旨が記されております。 このことから、遥か昔の神代に存在していた”知訶嶋”のことではなく、時代が遥かに下った景行天皇によって名付けられた島のお話が記録されているということになります。 また、これだけたくさんの群島の中で名称が類似しているからこれを(小値賀島及び中通島以南の17の島々を大値賀島とする)知訶嶋であると決定付けるのには根拠として甚だ乏しいと感じざるを得ません。 ただし、同風土記に記録される説話の内容から、本当の知訶嶋がどこにあったのかの推測ができそうです。 ここに記されてあるのは大耳&垂耳のダブル耳の住んでいた地で、景行天皇が仮宮を置いたのが志式島(ししきのしま)とあります。 したがってこれを阿波版に置き換えますと、女嶋から出発した先は、徳島県海部郡海陽町宍喰(ししくい)となり、その”近くの島”となるのが、 現在の高知県境に位置する竹ケ島(たけがしま)と考えられます。 そしていよいよ最後の子(島)として書かれてある「両児嶋」ですが、この竹ケ島の隣の県境ギリギリラインに位置するのが、 ですが、この二子島は現在島の殆どが水没しており、非常に小さな島となっておりますな。 状況からしますと、往古はこの島全体が水没していた可能性も考えられますが、当島周辺は南海トラフ系の地震に因る津波で多くの人や家などが流されてしまった伝承があり、島自体も再三の津波の影響で小さくなってしまった可能性も考えられますね。 二子島(ふたごじま)は、徳島県海陽町と高知県東洋町に位置する無人島。別名は双子島。 ●地理 徳島県海陽町の高知県東洋町の境界に位置。島は二つ並びに浮かび、高知県の最東端となっている。 約1200年前、紀州の熊野神社のご神体が12に分かれ、うち一つが金の鳥になり、この島の松の木に止まった。これをお迎えして熊野神社を創建したという伝説が残されている。(wikipedia 二子島より抜粋) この二子島には金の鳥が止まったという伝説があり、恐らくこの「金の鳥」が最終的に「還坐」した地が徳島県海陽町ということになります。 さてさて、この海陽町にはこの島とは別に、那佐湾内にも双子の体を成す同名の「二子島」が存在します。 因みにgooglemapで表示されてある左側の二子島は、 『阿波國海部郡村誌』によると、三島神社が御鎮座していた”三島”と呼ばれていた島で、現在は一の島と呼ばれている島となっております(´・ω・`)ややこしいわ この三島神社の御祭神が、溝咋耳命とあり、この神の別名が八咫烏鴨武角身命(下鴨神社の祭神)こと金鵄(きんし)、つまり当島に降り立った伝承のある「金の鳥」に他ならないため、恐らくこの那佐湾の方の「二子島」の伝承が同町の宍喰側の二子島伝説に置き換わったものであると考えられます。 いよいよ本稿も大詰めとなりますが、これまでにイザナギとイザナミによる「国生み」の子として数えた島々について、ここでは海路として考察して参りました。 『古事記』に書かれた最初の出発地「淡道之穗之狹別嶋」から、「還坐」し最後に到着したところも、本考察では「両児嶋」のある那佐となることからこれに比定させて頂きました。 つまり出発地と帰着した地が共に同じ地になっていることから、この那佐に「淡道之穗之狹別嶋」が存在しなければ理屈が合いません。 ではこの「淡道之穗之狹別嶋」は一体何を示しているのでしょうか 視覚的に説明致しますと、こちらが「稲」で、 稲の中の「穂」がこれで、 更にその穂の「狭別」部分、つまり果実の部分が 籾(もみ) ●穗之狹別嶋 また、淡道の「道」につきましても、 「道」の起こり 人間や獣たちが、食物や餌を求めて探し歩いていくうちに草が踏み分けられて、自然にできた小道が道路の起源だと言われている。 狩猟採取を行っていた原始社会では動物の移動にともなってできるけもの道が狩猟民らによって利用される場合もあった。そして、もうひとつの原初的な道は「踏み分け道」である。人が生きていくために木の実を採ったり狩猟に出たり、あるいは魚を捕りに行ったりしながら、何度も同じところを行き交うことをくり返すうちに、地面は踏み固められて自然と草が減って土が出た筋状の「みち」になった。人類が農耕を始めて集団で定住し、そうした集落間で物や情報の交換や婚姻などが行われるようになると人の往来が頻繁になり、初めは人ひとりがやっと通れた道が何人もが行き交うことで幅の広い道へと変わり、生活していく中から自然発生的に発展していった。(wikipedia 道路より抜粋) したがって「道」は通行で繰り返し行き交うところから発生した言葉。 というわけで、今回も長々と考察して参りましたが、 冒頭の岸根敏行氏が結論付けした「淡道之穗之狹別嶋」の神名の意味は、 「淡道という、(稲)穂が早くついた男子という嶋」 「淡道という、穂をつけた稲の男子という嶋」 つまり「淡道之穗之狹別嶋」の解は、 「阿波の道という、稲が狭(早くついた)+別(男子)という嶋」 したがって、 「阿波-枳閇(来経=道)-委奈佐-比古命」の意となり、 現在の淡路島の事などではなく、式内社 和奈佐意富曾(わなさおおそ)神社が御鎮座されるこの海陽町の那佐(往古の和奈佐)のことだったのです。 そんな訳でこれまで記した行程を改めて見返してみますと、以前からご紹介しております、『出雲国風土記』船岡山の段に、 「船岡山。郡家の東北一里一百歩。阿波枳閉委奈佐比古命、曳き来居ゑし船、則ち此の山、是矣。故、船岡と云ふ。」 …とあるということは、恐らく前行程である佐度嶋から鉄を船に乗せて持ち帰って来た阿波枳閉委奈佐比古命が船岡山周辺で製鉄加工した後、次なる地へと海路で移動していったと捉える方が自然な考え方なのかも知れませんな(´・ω・`)島根県は製鉄で有名ですからな。 ※余談ですが、海部刀は島根県の良質な鉄を使っていたこともわかっております。 この阿波枳閉委奈佐比古命の正体がイザナギであったとするのか、はたまた子の代の別男神となるスサノオとするのか、この手の考察には終わりがないですが、今回は一旦この辺で置いておきます。 個人的にはかなり核心に迫って来たと思っておりますが...(;´▽`A`` ※重ねて申し上げますが、これはあくまで私説考察ですので、信じる信じないはご自身の判断にお任せ致します<(_ _)> まぁ何かのヒントになればいいかなと。 それでは、国生み(私説阿波版)比定地図を想定航路付きで置き換え直しておきますね。
今回はこれまでに考察して参りました『記紀』に記録される「国譲り」及び「天孫降臨の地」の舞台がどの地であったのかを今少し掘り下げつつ、当地がどのようなところであったのかについて考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 ではまず確認事項と致しまして、少しおさらいをしておきます。 『古事記』葦原中国平定(国譲り)の段にて、 「此二神降到出雲國伊那佐之小濱而」 「二柱は、出雲の伊那佐の浜に降り立ちました。」 …とあり、通説では出雲国(島根県)の稲佐の浜に比定されておりますが、阿波説の私説におきましては、これを阿波国(徳島県)の那佐(なさ)の浜に比定しております。 この徳島県の那佐は、『播磨国風土記』美嚢郡の段に、 「志深者伊射報和気命御食於此井之時 信深貝遊上於御飯筥縁爾時勅云、此貝者於阿波国和那散我所食之時貝哉故号志深里」 「志深と名付けられた所以は、伊射報和氣命(履中天皇)が この井戸で御食をした時、信深貝(しじみがい)が御食の筥(はこ)の縁によじ登って来た。そこで命は「この貝は阿波国の和那散(わなさ)で私が食べた貝だ」と言った。故に志深里と名付けられた。」 …とあり、阿波国の和那散、つまり現在の徳島県の那佐(海部郡海陽町鞆浦字那佐)で食べた蜆を想起した由縁に名付けられた地名であると記します。 また島根県(旧出雲国)の「稲佐(いなさ)」についてですが、当地の和奈佐山(島根県松江市宍道町上来待和名佐)に和奈佐神社が御鎮座されています。 社のご祭神である和奈佐比古命(通称船岡さん)は、『出雲国風土記』 船岡山の段にて、 「船岡山。郡家の東北一里一百歩。阿波枳閉委奈佐比古命、曳き来居ゑし船、則ち此の山、是矣。故、船岡と云ふ。」 …と記されてあり、同国の舩林(船林)神社の御祭神は、阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)で、同じく同国貴船神社の御祭神も、阿波枳閇倭奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)となっております。 この神名にある、阿波枳閇(あわきへ)は、阿波から来経(きへ)た、つまり(阿波から到着した)という意味と読めることから、阿波国の和奈佐からやって来た比古(おとこ)という意味となります。 また、「ワナサ」の部分については、委(い)の読みが、倭(わ)=和(わ)となり、「イ」から「「ワ」へと転化したとものと考えられます。 従って『古事記』国譲りの段にある「出雲國伊那佐之小濱」は、式内社 和奈佐意富曽神社の御鎮座される往古の阿波国の那佐であったというのが私説見解となります。 この「出雲國伊那佐之小濱」についてですが、 『日本書紀』には同ヵ所を「五十狭狭小汀(いささのおはま)や五十田狭の小汀(いたさのおはま)」と書かれてあります。 つまり、伊那佐=五十狭狭=五十田狭+小濱(小汀)となり、これらはみな同じ意味であるということになります。 また『古事記』には、大国主神が邇邇芸命に国を譲る条件として、「私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。」といって、 「於出雲國之多藝志(たぎし)之小濱、造天之御舍」 「出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に宮殿を建てた」 …とあります。某他者様のサイト等を見てみますと、 島根県出雲市武志町付近との説があるとして、島根県の似通った地名の別の場所から探そうとしますが、そもそも古事記に書かれてある意味合いからは、この建物は出雲大社を示している訳ですので、全くの見当違いであるといえるでしょう。 『記紀』の記録から、国譲りの舞台となった「出雲國伊那佐之小濱」が、同じ意味を持つ「五十狭狭小汀」や「五十田狭の小汀」でもあり、また、国譲りの条件として「多藝志之小濱」に、底津石根に太い柱を立て、空に高々とそびえる神殿を建てた、つまりこれこそがこの後、幽界に隠れたとされる大国主神のお社である、真の出雲大社(日隅宮)であるということになります。 お次に、『古事記』国譲りの後、天孫ニニギが葦原中国に降臨される際の段にて、笠紗の御前のある場所が書かれており、 「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。」 「この地の者は、韓国に向かい、笠紗の御前まで真之通(まきとおる=真北に真っ直ぐ通)じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。」 とあり、那佐から真北(しんぽく)に伸びるようにある海部川沿いには、大量の御崎神社群が点在しており、 その御崎神社群の中に、式内社(論社)である室比賣神社(阿津神社 祭神:木花開耶姫命)があります。 そこから下流に降りて来たところに、「かさ神さん」があります。 ●現在の地図に置き換えるとココ この地の方言で、「かさ」は「たくさん」の意味であり、ここを通過して行き着いた先が海辺となる海陽町鞆浦で、そこの地名が、 「御﨑(おんさき)」となります。 現在日蓮聖人像が東の海を望んでいるところですな ここで邇邇芸命が出会ったとされるのが、 「於是、天津日高日子番能邇邇藝能命、於笠紗御前、遇麗美人。爾問「誰女。」答白之「大山津見神之女、名神阿多都比賣此神名以音亦名謂木花之佐久夜毘賣。」 「天津日高日子番能邇邇芸命は笠沙御崎で美しい少女に会いました。「あなたは誰の娘ですか?」と尋ねると少女は答えました。「大山津見神の娘の神阿多都比売です。別名を木花佐久夜毘売といいます。」」 大山津見神の娘の神阿多都比売こと木花佐久夜毘売で、この邇邇芸命が、 「底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。」 「底津石根に太い柱を立て、空に聳える程に壮大な宮殿を建てて住みました。」 当地に居住した場所が、 『古事記』:「竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣」 『日本書紀』第一の一書:「筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯」 …で、いずれも筑紫の日向の高千穂の「くぢふる峯」としております。 この「くぢ」についてですが、鷹の古名でもあり、 従って「久士布流多氣」「槵觸之峯」は、「鷹が降りて来た峯(岳)」の意味となります。 先程の古地図で見ますと近くに「鷹ノ巣」の地名が見えますね。 この辺りは現在の鞆浦字大宮といわれている場所になります。 また、別の第二の一書には、「槵日高千穂之峯」、『日向国風土記』逸文(『釈日本紀』所引)では、「高千穂の二上の峯」についても、 「鷹が降りて来た峯」とされる当地は二つの峯になっていることが確認できます。 さてお次は、上の地図にも見える愛宕山。 愛宕信仰 愛宕神社の祭神にかかわる火伏せ、防火の信仰。根本社は京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕山に鎮座し、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、迦倶槌神(かぐつちのかみ)、雷神(いかずちのかみ)ほか数神を祀る。「あたご」の語源は、「背面」「日隠」の意味をもつ「あて」による(柳田国男著『地名の研究』)とも、母神の伊弉冉尊を焼死させた火神の迦倶槌神が仇子(あたご)であるから(本居宣長著『古事記伝』)ともいう。(コトバンク:愛宕信仰より抜粋) 他に読みとしては、京都府(山城国)にあった郡に、愛宕郡(おたぎぐん)があり、別に(あたご、おたぎ、おだき)などがあるようです。 島根県安来市にある、意多伎神社(おだきじんじゃ) 社の御由緒には、 「武田家本・吉田家本ではこれをイタキと訓ませてゐるが、新訂増補國史大系本 では神祇志料によつてオタキと改めてゐる。風土記の「意陀支社」に相當するが、風土記でも『出雲風土記鈔』や『萬葉緯』所収の出雲國風土記ではこれを「意陀底」と記してゐる。」 …等と書かれてありますね。 最終的には「いだて」になっておりますな(´・ω・`)... …んでもって、邇邇芸命が降臨し着いた場所が、 「到於吾田長屋笠狹之碕矣」 「吾田(あた)の長屋の笠狭の岬に着きました。」 …とあります。 この吾田(あた)ですが、他にも「あがた」とも読み、「縣」(吾田、阿多、英田、安賀多)に通じるとされ、木花佐久夜毘売の別名にも、神阿多都比売、神吾田津姫等があることから、この神が「あた」と密接な関係にあることがお分かり頂けるかと思います。 インターネットで”笠狭御前・笠沙御前”を検索しましても、 鹿児島県薩摩半島にある野間岬の古称。天津彦彦火瓊瓊杵尊が天降りの後、木花開耶姫に会った所。(日本国語大辞典 ) 鹿児島県(薩摩国)の野間岬の古称とあり、 野間神社(のまじんじゃ)は、鹿児島県南さつま市笠沙町片浦にある神社。旧名は野間権現。旧社格は村社。野間岳の八合目に鎮座する。 ◆祭神 瓊瓊杵尊 鹿葦津姫命(木花開耶媛)火蘭降尊 彦火々出見尊 火照尊 ◆沿革 創始の年代は不明であるが、社記によれば野間岳は瓊々杵尊が最初に上陸した地であり、山腹に神代の都「笠狭宮」(宮ノ山遺跡)があったとされる。標高591mの小山ながら古くから山岳信仰の対象となっており、海上から目立つ山容のため特に航海者からの信仰が厚かった。 『日本書紀』神代下・第九段の一書(第六)の、「吾田の長屋の笠狭の碕に到ります。遂に長屋の竹島に登ります」という瓊々杵尊が登ったとされる竹島(たかしま)が、野間岳であり、笠狭の碕は、野間半島であるといわれている。(wikipedia 野間神社より抜粋) ご祭神の鹿葦津姫命(かしづひめ)ですが、因みに、 かしづ・く 【傅く】 ①大事に育てる ②大事に面倒を見る。後見する。大切に扱う。(学研全訳古語辞典より) 傅(いつ)く=斎(いつ)く、とも同義ですな。 …こう書くとピンと来る人もいるかも知れませぬな(´・ω・`) 一方、「竺紫の日向の高千穂の……」とあることから、筑紫(九州)の宮崎県(日向国)側にも邇邇芸命の降臨した地はこちらであると主張されています。 当地には高千穂峰や高千穂町等があり、何れも天孫降臨の地の舞台であるとの伝承があり、延岡市愛宕山は、延岡城が築かれるまでは、笠沙山と言っていた。だからここはニニギとコノハナサクヤ姫の出会った場所であるとする。と、みやざきの神話・伝説・伝承のサイトにも記載されております。 愛宕山(あたごやま)は宮崎県延岡市の市街地の南部にある標高251.3mの山。旧名・笠沙山。延岡市の地名(大字)でもある。名称は麓に鎮座する「愛宕神社」に由来する。(wikipedia 愛宕山より抜粋) 愛宕山はかつて、笠沙岬とか笠沙山と呼ばれていました。古事記上巻神代には「瓊瓊杵尊、笠沙の御前に麗しき美人(おとめ=木花佐久夜毘売)に遇ひたまひき」とあり、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメが出会われた地である神話が残ります。愛宕神社は往古は現在の城山に祭られていましたが、慶長年間(1603年)高橋元種が延岡城を築く際、現在の愛宕山の頂上付近にお遷しし、それに伴い旧称の笠沙山から愛宕山と改められました。一時期、恒富神社(現 春日神社)に合祀されましたが、崇敬者のたっての願いで現在地に複社しました。火伏の神様として信仰が篤い神社です。(宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~より) しかし九州南部においても、薩摩の野間岬が笠沙御前であるとか、いや延岡市に笠沙山があるからソコに笠沙御前があったとか、いやいや都城市の高千穂峰が降臨の地であるとか、いや高千穂町にも伝承がある等々…見事に比定地合戦が繰り広げられておりますな。 地図にするとテンデバラバラな場所になっております(´・ω・`) 九州の伝承の取り合いはさて置き、 こられのことからも、木花之久夜毘命に関連する「笠沙御前」は、「愛宕(あたご)」と密接な関連性があることが伺えますネ。 で、やはり徳島県海部郡の地に戻って参りますと、「阿波海部取調廻在録」に、 鞆浦の小名 那佐 上はり 字さんこふの前・高くら・荒神山・水谷山・おんさき・大宮・手繰山・太夫谷・小三光・なさ浦 …の地名が見え、手繰山(たぐり)は、現在の手倉山(てぐら)となっております。 『古事記』によると、イザナミが阿波国の国神である大宜都比売神を生んだ後、火之迦具土神を生むシーンで、 「次生火之夜藝速男神夜藝二字以音、亦名謂火之炫毘古神、亦名謂火之迦具土神。迦具二字以音。因生此子、美蕃登此三字以音見炙而病臥在。多具理邇此四字以音生神名、金山毘古神訓金云迦那、下效此、次金山毘賣神。」 「次に火之夜芸速男神を生みました。別名を火之炫毘古神、別名を火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)といいます。此の子を生みしに因りて、美蕃登炙かえりて病み臥せり。多具理邇生れる神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神。」 吐る(読み)タグル:口からはく。へどをはく。もどす。(コトバンク 吐るより) つまりイザナミが苦しみながら吐(たぐ)ったことで生まれた神が金山毘古神&金山毘賣神であると記します。 この神は一般的に金属を溶かした様子が嘔吐物とよく似ていることから、鍛治・製鉄・鋳造の神としてお祀りされておりますね。 この手倉山の傍にあるのが愛宕山であり、 そこにはきちんと愛宕神社が御鎮座されます。 「阿波志」に、 「愛宕山 在鞆浦南、上有愛宕祠、為禁山、南瞰蒼海、東望紀伊、瀬海諸邑一覧而尽」 …とあり、山頂に火防の神である驒遇突智命(かぐつちのみこと)をお祀りしておりますヨ。 また同地で鍛治をしていた痕跡が見られるのが、海陽町芝に少なくとも弥生時代中期から存在が認められている芝遺跡。 弥生時代後期の項に、 「円形周溝墓は、弥生時代中期の物としては県内初出である。弥生時代後期の竪穴住居から鍛冶炉跡1を検出、同住居内から朱付着石杵が出土し、水銀朱であった。」 …と記録があります。「全国遺跡報告総覧:芝遺跡」 更に「平城宮発掘調査出土木簡概報(十九)」には、 当地芝周辺が往古の阿波国那賀郡薩麻郷と言われていた地域です。 これに関しましても「海部町史」の記録からは、少なくとも明治期までその地名が残っていた旨が記載されており、現在は消滅した地名となっておりますな。 こちらの考察につきましては、以前にも記しておりますので気になる方はリンク先にてチェックして下さいまし「薩摩から考察」 証拠がどんどんと一か所に集まって来ましたネ(´・ω・`) 続きまして、これも以前からご利用させて頂いております、筑波大学附属図書館に所蔵されている「阿波国続風土記」。 これに拠りますと、板野郡の謂れに、「此板ノト云根元ハ神宅村板野神社ヨリ起レル名ナリ此神飯田姫ノ命ト云本名ハ吾田鹿葦津姫ト云」とあり、 徳島県板野郡名の起こりは、吾田鹿葦津姫に由来すると書かれており、即ち『古事記』の神阿多都比売の、阿多(あた)が転じて板(いた)野になったということになります。 ではそもそもこの「阿多」のルーツは何だったのかについてこれまで随分と思考を重ねて参りましたが、恐らく今回の考察により、「愛宕」に由来していると考えられることから、鍛治・製鉄に深く関わる人物との結論を出すことにしました。 そもそもホト(女陰)を焼いた原初の神はイザナミであり、その嘔吐物から生じた神を愛宕神社にてお祀りしています。 その神は火に纏わるカグツチであったり、金山毘古神であったり、アタゴ→イタゴ→イタキがから「意陀底(イダテ)」に変化していったと考えられます。 そこから製造されたもの、つまり剣となり、刀神として祭祀されているとも考えられますネ。 その象徴が徳島県海部郡海陽町(旧宍喰町)の「民俗採訪」に記載されている大山神社の項に、「大山神社の境内に石祖大権現がまつられている。これは刀神様で大山神社がまつってあったときからまつられていた。」とある神で、当地那佐湾に鎮座する剣八幡宮も同様であると考えます。 石祖(イソ)大権現つまり、五十猛命は、スサノオの息子で、別名射楯神(いたてのかみ)と言われております。 ※五十猛命が天村雲命(つるぎ)であった考察は以前に何度か別に記しておりますので詳細は省かせて頂きます<(_ _)> ●那佐湾に浮かぶ剣(つるぎ)を示す ●剣八幡宮 お次は、イザナギがカグツチを十拳剣でカグツチの首を切ったシーンでは、 「於是伊邪那岐命、拔所御佩之十拳劒、斬其子迦具土神之頸。爾著其御刀前之血」 「是に伊邪那岐命、御佩しませる十拳劒を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまひき。爾に其の御刀の前に著ける血」 首を切った刀の先の血、つまり那佐湾にある乳の崎(旧名:血の崎) この血の崎の海向かいにカグツチを祀る愛宕神社が御鎮座されます。 現在の出雲大社を指す多芸志之小濱に建てたとある大国主神の神殿があった場所についての考察ですが、「多芸志(たぎし)」は恐らく、おたぎ(愛宕)をする人(役職)の意で、当地海部では若い衆のことを、「若いし」、お呼ばれする人を「呼ばれし」等と呼びます。 つまりこの場合、「愛宕(いたご)をする人(し)=鍛治役職人」の意味となり、従って当愛宕神社周辺の小浜を指していることから、伊那佐之小濱と言い方を変えただけで全くの同じ場所であるということになります。 この那佐のつるぎ(十拳剣)の向かいにあるのが、鞆浦字大宮であり、そこは旧和奈佐意富曾神社の御鎮座地だったところになります。 「たぎし」関連での全くの余談となりますが、(余談好きやねん... 多藝志比古命(武石彦奇友背命)は、wikipediaには記載が御座いませんが、古事記によると、第4代懿徳天皇の皇子であり、観松彦香殖稲尊(第5代孝昭天皇)の弟にあたります。 ということは、観松彦の同母弟(いろと)にあたる人物ですね 血沼之別・多遅摩之竹別・葦井之稲置らの祖(記)と記録されてあります。 往古の「多遅摩」については前稿の「古代の丹波国について考察」に記しておりますので、後にどこに別けたのかがわかりますが、「血沼(ちぬ)」について少し考してみますと、「血沼」と呼ばれた地は、現在茅渟神社が御鎮座される大阪府の泉南市周辺の海岸に比定されています。 茅渟(ちぬ):大阪府和泉(いずみ)地方の古名。血沼・血渟・珍努・珍・千沼などとも書かれる。律令制下の和泉国和泉郡とその周辺部をも含んだ地域名であるが、正確な範囲は不明。同地域に面する海をチヌの海と称した。(百科事典マイペディアより抜粋) 茅渟の元が血沼であったとして、その語音はどちらも「ちぬ」。 同音の魚のクロダイ(和名類聚抄:久呂太比 くろたい)のことを関西では俗に「チヌ」と呼びますが、これは一般的に和歌山県以南の四国・瀬戸内・九州北部と南部の一部での呼称です。 『古事記』海幸彦と山幸彦の段に、 「頃者、赤海鯽魚、於喉鯁、物不得食、愁言。故必是取。」 「近頃、赤海鯽魚(=赤い鯛)の喉に骨が刺さって、ものが食べられないと悩んでいると言っていました。おそらく、これが取ったのでしょう。」 とあり、鯛(たい)のことを「赤海鯽魚(あかめだい)」と記録しています。 鯽(ふな):動物。コイ科フナ属の淡水魚の総称。(コトバンクより) 現在の漢字にすると「鮒」ですが、鯛のことを、赤い海の鯽魚(ふな)と書いています。 冒頭の『播磨国風土記』に登場した第17代履中天皇紀には、讃岐国造・阿波国の脚咋別(あしくいわけ)の二族の始祖である鷲住王の父に、鯽魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)の記録があり、名を分解すると、磯(波打際の海)にいる鯽魚(ふな)つまり、チヌ(黒鯛)を意味し、+別王のセットとなっております。 従って名前の字義からは、茅渟別王=血沼之別と同じ意味となりますね この「多藝志」については他にも、神武天皇の子に、 手研耳命(たぎしみみ の みこと)『古事記』では多芸志美美命、? -己卯年11月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 二人の弟に対する反逆(タギシミミの反逆)を起こしたとされることで知られる。 ●系譜 『日本書紀』によれば、神武天皇(初代天皇)の第1皇子である。母は吾平津媛。同書によれば、異母弟に神八井耳命および神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇(第2代天皇))がいる。 タギシミミの反逆(タギシミミのはんぎゃく)は、上古日本の皇位継承をめぐる説話の一つで、記紀などに記される。手研耳(たぎしみみ)の弟たちへの反逆を主内容とする。 ●三皇子の誕生 神日本磐余彦尊は神武東征以前に日向国吾田邑の吾平津媛をめとり、子手研耳命を得ていた。しかし東征後に事代主神の娘媛蹈鞴五十鈴媛命を新たにめとり正妃とした。磐余彦尊が即位して神武天皇(初代天皇)となると五十鈴媛命は皇后とされ、二人の間には、神八井耳命(神八井命)と神渟名川耳尊(渟名川耳尊、神渟名川尊)の二皇子が生まれた。神武天皇42年に神渟名川耳尊は立太子されて皇太子となった。(wikipedia 手研耳命及びタギシミミの反逆より抜粋) 初代神武天皇の子はみなお名前に「ミミ」が付きますなぁ(´・ω・`) ミミの付くお方には、神武天皇の岳父にも、 三嶋溝杭命(みしまみぞくいのみこと)は、日本神話に登場する神、あるいは人物。 別名:三嶋溝橛耳神、三嶋湟咋、三嶋溝杭、三嶋溝橛神、三嶋溝杭命、三嶋溝杭耳 ●系譜 『古事記』や『日本書紀』、『先代旧事本紀』によれば、娘には神武天皇の妻である比売多々良伊須気余理比売の母・勢夜陀多良比売(玉櫛媛命)がいるとされ、事代主神または大物主神の妻となり媛蹈鞴五十鈴媛命を生んだとされる。(wikipedia 三嶋溝杭命より) ややこしく書いていますが、要するに事代主神または大物主神=三嶋溝杭命で、他にも別名に、賀茂建角身命や八咫烏等がありますな。 『阿波國海部郡村誌』によれば、当地那佐港内に三島の祠があり、三島に鎮座する三島神社には溝咋耳命を祀っていたとあります。 ●那佐湾のココね googleMapさん双子島は右側の島デスヨ間違えてますぜ 確か「魏志倭人伝」によると、邪馬臺国に至るまでの道のりの行程に、九州北部を出港し、南に二十日後に立ち寄った国が、 「南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。」 「南へ投馬国に至る、水行二十日。官を彌彌(みみ)と言い、副官を彌彌那利(みみなり)と言う。五万余戸ばかりか。」とありますな(´・ω・`) …と、余談が膨らみどこまでも話が逸れて行きそうになってしまいますが、 最後に纏めますと、真の笠紗之御前のあるところは、多芸志の小浜のあるところで、そこは往古薩摩と呼ばれていたエリア。 大国主神が国を譲ったとされる出雲の舞台であり、また降臨してきた天孫邇邇芸命が後に宮殿を構えて住んだ日向の高千穂。 当地にある「吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の岬」の意味も、 上述から恐らくは、吾田の吾の字音も「あ」と「わ[れ]」があり、この「吾:あ」もまた「意:い」に転訛したことで、『記紀』で記録されている、 「伊那佐之小濱(いなさのおはま)」 「五十狭狭小汀(いささのおはま)」 「五十田狭の小汀(いたさのおはま)」へと変化したものと考えられます。 また、後文の「長屋の笠狭の岬」も、下図の地形(確かに横に長い平らな丘のような峰になっている)の事とも考えられますね。 これらが約まって「吾(い・わ)長(な)狭(さ)」の名称になった…のかも知れませんな(´・ω・`) また「ミミ」の母系を持つ神武天皇は、岳父三島溝咋耳(=事代主命)の痕跡のある当地より東征を開始した出発の地でもあると考えております。 また古くは皇祖となるイザナギ&イザナミ夫婦が最初に住んでいた地。 従って日本の始まりの地こそがこの和奈佐の地だったのです。(by私説です(笑)) 真なる場所はその全てが必ず同じところに無ければならず、律令後の地名の付く南九州や島根県からいくら探そうとしても絶対に見つかることはないでしょう。 ただしその痕跡を現代において探そうとした時に、逆にそこから真なる場所がどこであったのかのヒントを与えてくれるきっかけにもなるのです。 阿波説においてもまだまだ課題が山積みです。 タギシミミの反逆の項にもあるように、神武東征の後に、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃としたこと。何故なのか。 木花佐久夜毘売の別名である、神阿多都比売、神吾田津姫の名が徳島県の板野郡の郡名になっていること。何故そうなっているのか。 また神武天皇の妃の、 吾平津媛(あひらつひめ、生没年不詳)は、古代日本の人物。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)と記される。 『日本書紀』によれば、日向国吾田邑の人である。 ●系譜 『古事記』によれば、「阿多之小椅君」の妹。同じく『古事記』には火照の子孫に「隼人阿多君」がある。 上述の「阿多之小椅君」は、『日本書紀』に火闌降の子孫としてみえる「吾田君小橋」と同一と思われる。そのため、同じく『日本書紀』に火闌降の子孫としてみえる隼人との関連が指摘される。(wikipedia 吾平津媛より抜粋) をお祀りする伊比良咩神社(祭神:阿比良比咩命)が何故、吉野川河口域にあるのかを今後更に調査を進めていかなければなりせんね。 これについては小ネタはありますがそれはまたの機会に。 今回も長々と書きましたが、一応ここまでということで(´・ω・`)ノシ
丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。 ●「丹波」の名称と由来 主に「丹波」が使われているが、古くは「たには」とも称し、「旦波」、「但波」、「丹婆」、「谿羽」などの表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている。 『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている。 また、国が分割される場合、都に近い順に「前・中・後」を付けて命名されることが一般的であるが、律令制以前の旧丹波が分割されたとき「丹波」の地名はそのまま残り「丹波国」となった。現在の京丹後市峰山町に「丹波」という地名が残るが、これは旧郷名・旧郡名であり、旧丹波郡が丹波国の中心とも言われている。 ●古代 律令制以前は但馬、丹後も含み丹波国造の領域とされ、現在の京都府の中部と北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に伴い、但馬地域が分国し但馬国となり、また和銅6年(713年)4月3日北部5郡が丹後国として分国、そして都に近い郡は「丹波国」となった。現在では丹波・丹後・但馬を「三丹」、但馬を含まない場合は「両丹」と総称することもある。 (wikipedia 丹波国より抜粋) 但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。 ●「但馬」の名称 『古事記』には「多遅摩国」と記載される。但馬の歴史的仮名遣いは「たぢま」。(wikipedia 但馬国より抜粋) wikipediaによると、「丹波・丹後・但馬」を「丹波国」と呼んでいた時代の領域が以下の図の赤〇の範囲、「但馬」については橙〇のところとなります。 おさらいも兼ねまして、以前に「阿波海部と新羅国から考察 ①」にも書きましたが、『古事記』応神天皇の条に、 「又昔、有新羅國主之子、名謂天之日矛、是人參渡來也。」 「また昔、新羅の国王の子ありき。名は天之日矛といふ。この人参渡り来ぬ。」 とあり、何故か昔話の紹介として新羅国王子の天之日矛がやって来た話が記録されてあります。 ザックリ説明しますと、賎しき女の身籠り産んだ「赤い玉」をゲットした天之日矛は、持ち帰るとあらビックリ、美しい少女になり、天之日矛はこれを妻にしてしまいます。 この少女は阿加流比売で、後に夫婦喧嘩をしてしまい、 「凡吾者、非應爲汝妻之女。將行吾祖之國。」 「そもそも、私はあなたの妻になるような女ではありません。私の祖国に帰ります。」 といって 「卽竊乘小船、逃遁渡來、留于難波。」 「小船に乗って逃げていき難波に辿り着きました。」 何と小舟に乗って難波(祖国)に出発します。 妻が逃げたと聞いた天之日矛は、こりゃ大変だと直ぐに追いますが、 「將到難波之間、其渡之神、塞以不入。故更還泊多遲摩國」 「難波に到着するという時に、海の神が遮って入れませんでした。 そこで一旦引き返し、但馬国へと到着しました。」 これを通説地図に置き換えますと、天之日矛が居たいずれかの場所から、難波に到着する寸前で何故か日本海側の但馬(多遲摩)に引き返したという事に(´・ω・`) そして何故かその地に留まって、多遅摩の俣尾の娘の前津見を娶って産んだ子が多遅摩母呂須玖…(中略) …最後に葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ:息長帯比売命=神功皇后の母)を記し、その娘の息長帯比売命の子が応神天皇であることから、出自として多遅摩の一族の末裔であるということを応神記に記したのでしょう。 「多遅摩國」に天之日矛が住んでいた事については、『日本書紀』垂仁天皇条に、 「三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬国、常爲神物也。」 「垂仁天皇が即位して3年の春3月。新羅の王子の天日槍が来ました。持ってきた物は羽太玉ひとつ・足高玉ひとつ・鵜鹿々赤石玉ひとつ・出石小刀ひとつ・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、以上で7種です。これらを但馬国に献上して、それ以降、神宝としました。」 …とあり、宝物を「但馬国」に献上し、これを後に「神宝」としたと記録があり、 「臣將住處、若垂天恩聽臣情、願地者、臣親歷視諸国則合于臣心欲被給。」 「臣が住むところは、もし天恩を頂いて、臣の願う土地を許してもらえるならば、臣が自ら諸国を巡り見て、心かなう場所に住もうと思います。」 …と、その褒美としてに天之日矛が住む場所の選択権が与えられ、最終的には、 「西到但馬国則定住處也。」 「但馬国の西に到着して住居を決めました。」 最終的に、神宝がある「但馬国」に住居したと。(´・ω・`)ホウホウ また同時に『播磨国風土記』揖保郡揖保里粒丘条には、天日槍命は剣で海をかき回し、出来た島に宿った。とも記録されておりますね。 ではこの天之日矛が住んだとある但馬国(多遅摩國)ですが、上の図にもあるように、「現在の」但馬国に比定してしまいますと全く辻褄の合わないとんでもない場所であることがお分かり頂けるかと存じます。 今回は、遥か昔の時代、果たして往古の「丹波」は現在の丹波の領域にあったのか、同時に往古の但馬は一体どこだったのかについて例の如く穿った考察をして参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 まず最初に、往古の「タジマ」について調べてみますと、『古事記』には「多遅摩」と記載され、 天之日矛の後裔氏族には「多遅摩」の名が付いています。 気になる点としまして、天之日矛と結ばれた前津見の父も「多遅摩」之俣尾であることから、これを普通に解釈しますと、天之日矛は多遅摩一族の「婿養子(入り婿)」になったとの解釈となります。 また天之日矛の四代孫の、多遅摩比多訶と結ばれた菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)との子の代からは新たに、「葛城」之高顙比売となっている点も注目でしょう。 この菅竈由良度美は、父清日子(天之日矛の子孫)その妻の当摩之咩斐(たぎまのめひ)の子であり、母方の姓である「当摩」も実は「多遅摩」と同義で、他にも、多遅摩(たぢま/たじま)は、多遅麻・当摩・当麻・當麻・田道間…等とも記されます。 従って当系譜は母方もまた「多遅摩=当摩」一族であるということになります。 そこで「たぢま」についてもう少し深掘ってみますと、垂仁期の人物に、 当麻蹴速(たいまのけはや、たぎまのけはや、タエマクエハヤ、當麻蹶速、生年不明 - 垂仁天皇7年7月7日)は、垂仁天皇の時代に勇名をはせたと伝わる人物である。 ●解説 『日本書紀』によれば、蹴速は大和国の当麻邑(たいまのむら、現奈良県葛城市當麻)に住み、強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたため、これを聞いた垂仁天皇が出雲国から勇士であると評判の野見宿禰を召し寄せ、捔力(すまひ)で対戦させたところ、互いに蹴り合った後に、蹴速は宿禰に腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて勝者の野見宿禰の土地となったという。 「蹴速」という名前は、蹴り技の名手であったことを示すために名付けられたと推測されている。また、葛城市當麻には蹴速の塚と伝わる蹴速塚がある。(wikipedia 当麻蹴速より抜粋) …とあり、現在の奈良県葛城市當麻に由来する旨が記載されております。 しかしいくら『日本書紀』を見ても、「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速」とのみ書かれてあるだけで、wikipediaの解説にある「大和国の当麻邑」等とは何処にも書いておりませんけどね(´・ω・`)まぁ葛城市當麻に蹴速に由来するということからそうしているのでしょう。 その葛城市當麻にある、 當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市當麻にある真言宗・浄土宗二宗の寺院。 ●歴史 当麻は、山道が「たぎたぎしい(険しい)」ことから付けられた名であるとの通説があるが、神功皇后の母方の先祖(アメノヒボコの子孫)、尾張氏、海部氏の系図を見ても頻繁に但馬と当麻あるいは葛城との深い関係が類推される。(wikipedia 當麻寺より抜粋) 要するに、たぢまの訓みは、たちま・たじま・たぎま・とうま・たひま・たいまとなり、上にもある、当麻(但馬)と葛城は何やら密接な関係にあるということ。 お次は「かつらぎ」の方に目をやりますと、『古事記』海幸彦と山幸彦の段にて、山幸彦(火遠理命)が海神の神殿に行く際の説話に、 「傍之井上、有湯津香木。故坐其木上者、其海神之女、見相議者也。」訓香木云加都良、木。」 「その傍の井戸の上の、湯津香木(神聖な桂の木)があります。その木の上に座っていれば、海神の娘が取り計らってくれますよ。」香木は加都良(かつら)と訓む、木。」 「有人、坐我井上香木之上、甚麗壯夫也、」 「人が来ています。私の井戸上の香木の上に座っています。とても美しい男性です。」 …とあり、『古事記』に記される「加都良(かつら)」は木であり、この説話では火遠理命がその木の上に登って「座」すれば、そこから海神の宮殿が見えるといっているのです。 因みにここで書かれてある「井上」、つまり翻訳文ではよく「井戸:いど(泉)」等とよく訳されますが、関西人であれば「おいど」といえばお察しが付くと思いますので割愛(ノ∀`) 更に付け加えますと、天之日矛については、『古事記』応神記にある、以下wikipediaより抜粋(ノ∀`)直ぐに手を抜く 新羅国には「阿具奴摩(あぐぬま、阿具沼)」という名の沼があり、そのほとりで卑しい女が1人昼寝をしていた。そこに日の光が虹のように輝いて女の陰部を差し、女は身ごもって赤玉を産んだ。この一連の出来事を窺っていた卑しい男は、その赤玉をもらい受ける。しかし、男が谷間で牛を引いていて国王の子の天之日矛に遭遇した際、天之日矛に牛を殺すのかと咎められたので、男は許しを乞うて赤玉を献上した。天之日矛は玉を持ち帰り、それを床のあたりに置くと玉は美しい少女の姿になった。そこで天之日矛はその少女と結婚して正妻とした。の説話を載せてみたりーの、 類似する説話の根源は『古事記』「イザナギ・イザナミ」国生みの段にて、 「然らば吾と汝と是の天の御柱を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比(エッチする)為む。」と天の御柱つまり「木」をぐるぐる回って伊邪那美命が先に「阿那邇夜志愛袁登古袁」「あぁ、なんてイイ男なんだろう!」と言い、「然れども久美度邇興して(エッチして)生める子は、水蛭子。」…云々と、先に女性の方から麗しい男に声をかけエッチをした結果水蛭子が誕生した…のお話となる訳です。 まぁこの場合における新羅「国」がどこなのかや、海中にあるように描かれる海神の宮殿が一体どこなのかについては、文面を読むだけでは非常に創作性が強く感じられますので、普通に考えてしまうとなんのこっちゃわけわからんという事になりますね。 お次に現在の奈良県の市名にある「葛城」についてですが、 葛城(かつらぎ/かづらき)は、奈良盆地の南西部、金剛山地の東麓を指す地域名。 山岳信仰・修験道の影響から、元来の範囲と比べて相当広い範囲を指して用いられるようになった可能性があり、金剛山地から西へ伸びる和泉山脈が海没した先に浮かぶ友ヶ島までの範囲に「葛木」という漢字をあてる文献も多数ある。 ●語源 神武天皇が、葛で編んだ網で土蜘蛛を捕らえたためと伝えられる。 ●歴史 上古には神武天皇の即位にあたり剣根命が葛城国造に任命されたと『先代旧事本紀』等に伝わり、古墳時代には葛城氏や、三輪君一族の鴨君など有力豪族の勢力圏であったと考えられている。また、『日本書紀』によれば、葛城襲津彦が朝鮮半島から連れてきた渡来人も葛城の朝妻に住んでいたとされる。(wikipedia 葛城より抜粋) 葛城市(かつらぎし)は、奈良県中西部に位置し、大阪府と境を接する市。 ●歴史 古代の大和国忍海郡及び葛下郡当麻郷の地である。長尾神社、葛城御県神社など数多くの延喜式内社が現存する。 ●市名の由来 市名は新庄町と當麻町が属していた北葛城郡に由来している。その北葛城郡は古墳時代にこの地を領有していた葛城氏に由来している。(wikipedia 葛城市より抜粋) クズ(葛󠄀、学名:Pueraria montanavar.lobata)は、マメ科クズ属のつる性の多年草である。日本では、根を用いて食材の葛󠄀粉や漢方薬が作られ、万葉の昔から秋の七草の一つに数えられている。 ●名称 和名は、かつて大和国(現:奈良県)吉野川(紀の川)上流の国栖(くず)が葛󠄀粉の産地であったことに由来する。(wikipedia クズより抜粋) …とまぁ関連する情報はこんな感じ(´・ω・`) 奈良県の地名である葛城は、「葛(かづら)」の文字であり、この文字の植物である「葛󠄀(くず)」は、マメ科クズ属のつる性の多年草であることから、「木」ではなく「葛木(かづらぎ)」というのは上にもあるように当て字と考えるのが妥当でしょうな。 同じくその語音から、 蔓(かずら)つる植物・蔓植物(つるしょくぶつ、英語:climbing plant)は、自らの剛性で体を支えるのではなく、他の樹木や物体を支えにする(つる性)ことで高いところへ茎を伸ばす植物のことである。蔓草(つるくさ、まんそう)、葛・蔓(かずら・かつら)などともいう。(wikipedia 蔓より抜粋) とまぁこれもみなさんご存知のいわゆる木に巻き付くつる(蔓)であり、やはりこちらも登れるような「木」では御座いませんな。 …ということで、ここでいうところの「かつら」は葛󠄀や蔓等ではなく、恐らく、万葉集の歌中に見られる、 黄葉する 時になるらし月人の 楓(かつら)の枝の 色づく見れば 作者不詳 巻10-2202 月に見て 手には取らえぬ月の内の 楓(かつら)のごとき妹をいかにせむ 湯原王 巻4-632 向つ岡の 若楓(わかかつら)の木 下枝取り 花待つい間に 嘆きつるかも 作者不詳 巻7-1359 この「楓:かつら」は、中国語でいうところの「桂」の事と考えられており、これが当時の日本でいうところのモクセイ (木犀)のことになります。 モクセイ(木犀、学名:Osmanthus fragrans)は、モクセイ科モクセイ属の常緑小高木。中国名は桂花(けいか)。 単に「木犀」と言う場合ではギンモクセイ(銀木犀)だけを指すことが多く、広義ではOsmanthus fragransに属する品種(ギンモクセイ・キンモクセイ・ウスギモクセイなど)の総称である。(wikipedia モクセイより抜粋) 江戸時代頃に輸入されたと考えられているのが、 キンモクセイ(金木犀・巌桂、学名:Osmanthus fragransvar.aurantiacus)はモクセイ科モクセイ属の常緑小高木樹で、モクセイ(ギンモクセイ)の変種。庭園樹や街路樹として植栽に使われる。秋に橙黄色の花を咲かせて甘い香りを放ち、ジンチョウゲ、クチナシと合わせて、日本の三大芳香木のひとつに数えられている。 和名の由来は、樹皮が動物のサイ(犀)の足に似ていることから中国で「木犀」と名付けられ、ギンモクセイの白い花色に対して、橙黄色の花を金色に見立ててキンモクセイという。 漢字の「桂」は、日本ではカツラ(カツラ科)にあてているが、中国ではモクセイの仲間と、トンキンニッケイ(クスノキ科)を指す。キンモクセイの中国名は「丹桂](「金桂」とする説もある)で、銀桂(ギンモクセイ)の変種の一つとみられる。また、丹桂や白花の銀桂(ギンモクセイ)・黄白色の金桂(ウスギモクセイ)などの亜種・変種・品種を総括する漢字表記は「桂花」と書き、分類学中の「種」の位置に当たる。最後、桂花種は木樨に分類され、木樨は分類学中の「属」の位置に当たる。和製漢語の金木犀の文字もここからという。(wikipedia キンモクセイより抜粋) これなら芳香木の代表的存在でもありますから、『古事記』にある「香木は加都良(かつら)=モクセイ」説も一先ずは納得できる候補ではないでしょうか。 因みに現在の日本における楓(フウ)は「楓:かえで(槭、槭樹、鶏冠木、蛙手)」の事で、葉が蛙の手に似ていることが語源とされ、往古は「槭」の漢字を使っておりました。(いろいろややこしいな... 他にも一般的な候補を挙げてみますと、 カツラ(桂、学名:Cercidiphyllum japonicum)は、カツラ科カツラ属の落葉高木。別名、トワダカツラ。ハート形の葉が特徴的で、秋に黄葉して落葉した葉はよい香りを放つ。樹形の美しさから庭木や街路樹にされるほか、材から家具、碁盤、将棋盤が作られる。 ●名称 和名カツラは葉の香りに由来し、落葉した葉は甘い香りを発することから、香りが出ることを意味する「香出(かづ)る」が名前の由来といわれている。別名ではトワダカツラともよばれる。(wikipedia 桂より抜粋) こちらももうひとつの有力候補として挙げておきますね(´∀`)ノ …以上の考察から、多年草の葛やつるの蔓の類ではなく、『古事記』にある、いにしえの伝承にある火遠理命が登り座すことができた「香木」がある場所が真の「カヅラ」の木の場所ではないのかと考えられるわけですな。 そしてそこには多遅摩(當麻)があり、この二つが密接に関係する場所でもあるということ。 その全てが一致する場所がやはり何故か徳島県にはあるんですヨネ まぁ奈良県からの逆引きから結局はネタバレ的に特定できるわけなんですわ(ノ∀`) ということで、鳴門市の葛城 鳴門市の大麻町(おおあさ=たいま=当麻=多遅摩) 萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)は、徳島県鳴門市大麻町萩原にある弥生時代終末期にあたる3世紀前葉の遺跡である。 ●概要 鳴門市の大麻山南麓に位置し、1〜4号の4基からなる墳丘墓群で、かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。 2号墓 1号墓の北側で同じ尾根に位置する積石墓。2004年(平成16年)および2005年に測量やトレンチ調査が行なわれた際に基底石や外側の列石が確認され、おおよその規模や形状が確認されている。墳丘は径約20メートルのほぼ円形で南側に約5メートルの突出部が延びる形状を持ち、積石の高さは最大で1メートル。1号墓より築造時期が古い国内最古の積石墓とされている。(wikipedia 萩原墳墓群より抜粋) 『古事記』内容からヤマト王権の墳墓の祖型、つまり最も古いモノと断定できませんか この辺りは非常に古墳が多い地域でもあり、伝承等から鑑みるに、天之日矛の一族、ひいてはこの場合、多遅摩に繋がる一族等のお墓ではないですかね。 この墳墓の被葬者が誰なのかについては現時点で推測の域を出ませんが、少なくとも往古の丹波国域から分国された多遅摩國に比定ができ、これが天之日矛の後裔氏族でいうところの後の「葛城」一族の地ということにもなります。 現在の阿波国一宮 大麻比古神社が御鎮座されるこの地には、 大麻山(おおあさやま)は、徳島県鳴門市にある山である。標高538m。別名「弥山(みせん)」、「十八山」。「大麻さん」とも呼ばれる。讃岐山脈に属している。 ●地理・概要 鳴門市最高峰で大麻比古神社の奥宮が祀られる山である。山頂直下には「真名井の水」という名水も湧き出している。頂上からは北に瀬戸内海、南に徳島平野が一望できる。大麻山一帯は大麻山県立自然公園に指定されている。(wikipedia大麻山より抜粋) ●大麻山から見る徳島平野 火遠理命が香木(かつらぎ)=この場合は恐らく鳴門市葛城にある大麻山に登り座して眺望したその先に見えるのは、 阿波国式内社 和多都美豊玉比売神社。(=海神の宮) …ということで、答え合わせにもなりますが、冒頭にある天之日矛が難波に到着する寸前で但馬(多遲摩)に引き返したとあるのも、 ●讃岐国寒川郡難波 大阪府にある難波ではなく、往古の讃岐国にある、 ●難波に行けず還泊とある多遲摩國(Flood Maps+3m往古水位再現地図) 「將到難波之間、其渡之神、塞以不入。故更還泊多遲摩國」 難波に到着するまでの間にあって、海の神が遮って入れませんでした。と書かれてある通り、そこにあるのは現代においても日本三大潮流と言われている航海の難所鳴門海峡ですな。 更には、「丹波国」の痕跡ともなる、 宇志比古神社(うしひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町大谷に鎮座する神社である。写真は下記awa-otoko様ブログより転載 ◆祭神 宇志比古尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后 宇志比古尊とは、丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのきみ)即ち、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと) 『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では丹波道主命を丹波に派遣するとあり、また同書垂仁天皇5年10月条によると、皇后の狭穂姫命が兄の狭穂彦王の謀反にあたって自殺する直前、天皇に丹波道主命の女5人を後宮に入れることを進言した。その後5人のうち竹野媛は本国に返されたが、日葉酢媛命は後皇后となり景行天皇や倭姫命らを産んだという。(wikipedia 丹波道主命より抜粋) 詳しくはawa-otoko様のブログ:「王の中の王(宇志比古神社)」 これまでにも「丹波」や「但馬」の比定地をアレコレ考察してはおりましたが、その全てを当地域だけで満たしていることから、私説としての最終的な比定地決定は、鳴門市大麻町付近となり、当地が「真(往古)の」丹波国であるとします。 仮にそうであった場合、「勾玉から考察③」にも記しておりますが、朝鮮の歴史書である『三国史記』「新羅本紀」にて、新羅国王となった脱解尼師今の誕生についての説話に、 「倭国の東北一千里のところにある多婆那(たばな)国で、その王が女人国の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いた。」云々… …とあり、新羅の王(子)の出生は実は、「倭国」にあると記しているのですヨ。 少なくとも、当地が古代において非常に発展していた我が国における最重要地であったと断言できるでしょう。 ふぅ…例の如く考察が長くなり過ぎたので、以降の記事は次項に持ち越すのである(´・ω・`)ノ またしても続きを書くかは時間と気分次第ですが...
洩矢諏訪子(もりや すわこ)は東方Projectに登場するキャラクター。 諏訪子は山の神であり、遥か古代は「ミシャグジさま」と呼ばれる土着神として祟り神達を束ね、日本の一角に洩矢の王国を築き、国王を務めていた。だが、大和の神の一柱である「八坂神奈子」に侵略戦争を仕掛けられ、戦争での敗北を確信した諏訪子は神奈子に国を明け渡すことにした。しかし、王国の民がミシャグジ様の祟りを恐れて神奈子を受け入れなかったため、神奈子が洩矢の王国で信仰を得ることは出来なかった。 そこで、神奈子は名前だけの新しい神と諏訪子を融合させた神を信仰させることにした。しかしそれは神奈子が考えた偽装工作であり、裏では諏訪子がそのまま信仰され、諏訪子は自分の力で神奈子を山の神とした。(ピクシブ百科事典洩矢諏訪子より) …というのは冗談で(´・ω・`) デオチ東方ネタデスマン... 諏訪信仰(すわしんこう) 長野県の諏訪神社の信仰。同社の祭神はいわゆる出雲系の神とされており、その信仰は中部、関東をはじめ全国各地に及んでいる。この神社の特色は、村々に頭郷 (とうごう) を指定して順ぐりに祭祀を行うことである。諏訪神社は狩猟の神、風の神とされ,また武神としても信仰され、神供として鹿頭を供えることが知られている。同社の祭礼として有名なのは式年御柱祭(おんばしらまつり) で、寅年と申年に行われる。大木を山から切出してこれを社地に4本立てる古式の神事である。そのほか、かえる狩神事、粥占神事、御頭祭、御射山社祭などがある。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「諏訪信仰」) ●御柱祭 他にも日本大百科全書やら百科事典マイペディア等々にも色々記載されておりますので気になる方はそちらでもご参照下さいませ<(_ _)> この「諏訪信仰」の起源と為すのが、皆様ご存知である信濃国一宮全国2万5千社ある諏訪神社総本社である諏訪大社(通称お諏訪さま)。 竜神或いは霊蛇に関わる信仰から発生したと考えられており、祭祀神である建御名方神は、『古事記』国譲りの段にて、高天原から派遣された建御雷神らに服従し、当地諏訪に留まったとされる出雲大国主命の御子神です。 後に鎌倉幕府の御家人となった諏訪氏により、この諏訪信仰が武家社会に広く浸透していったとされております。 『古事記』の内容から思索しますと、後のヤマト王権(高天原アマテラス)側とは逆の、国譲りを迫られた(出雲大国主命)側の土着信仰と考えられるのが「諏訪信仰」となる訳です。 今回はこの「諏訪信仰」が深く根付いてる長野県と、そこから遠く離れた徳島県との繋がりについて例の如く穿った私説による考察をして参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 ではまず初めに、諏訪大社についてですが、「倭建命を穿って考察 ⑤」にもチョロリと書いておりますので、「そんなん知らん」という方はそちらもついでに参照してやって下さいまし<(_ _)> ザックリ説明致しますと(するんかい)、 阿波国名西郡石井町浦庄字諏訪に御鎮座される式内社の多祁御奈刀弥神社(祭神:建御名方命と妃神の八坂刀売命)の社伝によりますと、信濃諏訪郡南方刀美神社(現諏訪大社)は、奈良時代の宝亀10年(779年)、当社から移遷されたもの、つまり当社が「元諏訪」であるということが確認されます。 で、ここまでは阿波の古代史研究ではよく耳にするお話なのですが、その建御名方命の孫娘をお祀りしておりますのが、 式内社 天村雲神社 伊自波夜比売神社 二座(徳島県吉野川市山川町村雲133)となります。 社名にもありますように、夫の天村雲命と共にお祀りされているようです。 伊都速比売命(いつはやひめのみこと)は、長野県諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)の女神。 ●概要 伊都速比売命と表記され、会津比売神の別名ともされる。 諏訪大社の祭神建御名方神の御子神出早雄命の娘。諏訪固有の神とされるが、阿波国の式内社「天村雲伊自波夜比売神社二座」に比定される天村雲神社の祭神に伊志波夜比売命(いじはやひめのみこと)がある。この神について『大日本神祇誌』では「建御名方命の孫にあたる出速雄命の女であり、天村雲命の妃である」としており、『大日本地名辞書』には「信濃諏訪系に建御名方命の御子出速雄命の女に出速姫命あるは、伊自波夜比売神に由あり」とする。 これについて『修補諏訪氏系図』では「(前略)按伊都速、伊自波夜、音訓相通ズ真ニ同神ナルベシ、而シテ天香語山命ハ越ノ国ヲ鎮護シ出速雄命ハ信濃国ヲ経営ス其ノ境相接スル等ノ縁由ヲ以テ其ノ婚約ヲ結合セシニヤ、自然投合ノ契約ト云フベシ」と結論づけている。(wikipedia 出早比売命より抜粋) wikipediaにもあるように、早速阿波との関連が指摘されるのですが、当社御祭神である伊自波夜比売は、建御名方神の子の出早雄命の娘とのこと。 この伊自波夜比売(伊都速比売命)は別名に、会津比売の神名があり、 会津比売命(かいづひめのみこと/あいづひめのみこと)は、長野県諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)の人物(女神)。 ●概要 会津比売神社では会津比売命と表記する。 「かいづ」の名称の由来は不明であるが、神社周辺の松代一帯は古来海津(かいづ)と呼ばれており、松代城も海津城と呼ばれていた。 『日本三代実録』にも見える式外社「會津比賣神」に比定される会津比売神社の祭神で、『松代町史』では建御名方神の子・出速雄命の御子で、初代科野国造の武五百建命の妻とされる。また伊津速比売神と同人とする説もある。(wikipedia 会津比売命より抜粋) …とまぁ、「会津:かいづ」が更に転訛した事で、かの有名な海津(かいづ)城(=松代城)の名前になったようです。 次にこの姫の父にあたる出速雄命の妻、つまりお母さんですが、 多満留姫(たまるひめ)は、長野県諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)の女神。 ●概要 洩矢神の娘で、建御名方神の出速雄神に嫁いだとされる。『神長官守矢氏系譜』では出早雄命の后となっているが、一方別の史料では建御名方神に嫁いで出早雄神を生んだともされる。 多留姫命との記述もあるが、通常多留比売神は建御名方神の御子神とされる。(wikipedia 多満留姫より抜粋) (´・ω・`)ホォホォ 夫婦が同父という事は兄弟妹婚ということですな。 文字ばかりではわかりにくいと思いますので、今回は「系譜コネクション」さんの大国主命の系譜を拝借してご覧頂きますと、 赤囲いの箇所となり、いわゆる「出雲」→「諏訪」の地に移動した後の3世代系譜になります。 で、その信仰の対象となっているのが、 ミシャグジとは、中部地方を中心に関東・近畿地方の一部に広がる民間信仰(ミシャグジ信仰)で祀られる神(精霊)である。長野県にある諏訪地域はその震源地とされており、実際には諏訪大社の信仰(諏訪信仰)に関わっていると考えられる。全国各地にある霊石を神体として祀る石神信仰や、塞の神・道祖神信仰と関連があるとも考えられる。 ●ミシャグジの実態 ・石の神か木の神か 幕末に書かれた『諏訪旧蹟誌』はミシャグジについてこう述べている。 御左口(ミサグチ)神、此神諸国に祭れど神体しかるべからず。或三宮神、或社宮司、或社子司など書くを見れど名義詳ならざるゆゑに書も一定せず。或説曰、此神は以前村々検地縄入の時、先づ其祠を斎ひ縄を備へ置て、しばしありて其処より其縄を用(モ)て打始て服収(マツロヒ)むとぞ。おほかたは其村々の鎮守大社の戌亥にあるべし。此は即石神也。これを呉音に石神(シャクジン)と唱へしより、音はおなじかれど書様は乱れしなり。 『駿河新風土記』にも、村の量地の後に間竿を埋めた上でこの神を祀る一説がみられる他、『和漢三才図会』は「志也具之宮(しやぐのみや)」を道祖神(塞の神の一種)としている。 ●信仰 諏訪上社におけるミシャグジ ・守矢氏と神氏 諏訪大社は上社と下社という2つの神社で成り立っている。諏訪湖南岸に位置する上社にはかつて大祝(おおほうり)と呼ばれる最高位の神官と、そのもとに置かれた5人の神職が奉仕していた。諏訪氏(神氏)から出た上社の大祝は古くは祭神・建御名方神(諏訪明神)の生ける神体とされ、現人神として崇敬された。 ●ミシャグジと建御名方神 国史では諏訪の神が「建御名方神」という名前で登場しており、『古事記』や『先代旧事本紀』の国譲りの場面で建御雷神との力比べに敗れてしまう大国主神の次男として描かれている。しかし、『日本書紀』や、出雲地方の古文献である『出雲国風土記』と『出雲国造神賀詞』にはこの建御名方神が登場せず、『古事記』でも大国主神の子でありながらその系譜に名前がみられないため、建御名方神は国譲り神話に挿入されたという説を唱える研究者が多い。 諏訪にも建御名方神(正確に言うと『古事記』等における建御名方神)の影が薄いと言える。中世の祝詞には神名が出て来ず、「建御名方神」という神名もほぼ浸透しておらず、祭神の事を単に「諏訪明神」「諏訪大明神」「お明神様」等と呼ばれることが多い。また、『古事記』の説話とは異なる神話と伝承(入諏神話や、諏訪明神を蛇(龍)とする民話など)が現地に伝わっている。このことから、建御名方神は「ミシャグジ信仰をヤマト王権の神統譜に組み入れた結果生まれた神名」(大和岩雄、1990年)または「朝廷への服従のしるしとして諏訪に押し付けられた表向けの神」(寺田鎮子・鷲尾徹太、2010年)で、諏訪の本来の神はむしろミシャグジであるという説が度々立てられている。 『年代神事次第旧記』(室町初期成立)によると御室には柱4本、桁2本、梁2本がある。田中基の計算によると24畳分の菅畳が用意されたため、広さはそれ以上ということになる。中には「萩組の座」というものがあり、神長による祭事の覚え書きである『年代神事次第旧記』(室町初期成立)には御室本体の用材とは別に「東の角、南の角、棟木、東西の桁、囲い」とあることから、御室の中に設けられる仮小屋と考えられる。「うだつ」とも呼ばれるこの構造物には大祝、神長、神使(おこう)しか入ることができなかった。破風には葦で壁体を作り、そこにミシャグジを祀ったという記録もあるが、このあたりの記述が混乱しているため、これは御室自体の破風を指すのか、「萩組の座」の破風を指すのか不明である。ミシャグジの依り代も剣先板と呼ばれる板なのか、八ヶ岳西麓にある神野(こうや、禁足地とされた上社の神聖な狩り場)から切り出された笹なのか、それとも別のものなのかよくわからない。 22日の祭事の時に御室に入れられる「第一の御体」とは、祭事に関する部分が所々改変されている神長本『画詞』から、ミシャグジであることが明らかにされている。また「御体三所」は、『旧記』から「そそう神」と称する神霊で、23日の神事の項に「例式小へひ入」とあることから3つの蛇体であることが分かる。小蛇に麻と紙をからめて立てられるが、これは注連縄に紙をつけ、大幣に麻を垂らすのと同じで、蛇形に神格を付着するためである。 ・女性的精霊説 「そそう神」の正体については以下の説が挙げられている。 女性器は「そそ」とも呼ばれていることから、「そそう神」は諏訪湖の方より水平的に訪れる女性的精霊と解釈され、上空から降りてくるミシャグジ(ここでは男性的精霊とされる)と対照的な存在とされている。この説では、御室の中に笹の付いたミシャグジと「そそう神」を象徴する蛇形が入れられるのはこの2つの精霊の「聖婚」を表し、それとともに参籠する大祝は蛇との婚姻で生まれる聖なる子供であると解釈される。12月25日に演じられた神楽歌(「総領申す」)がかなり淫猥な表現になっていることから、御室神事が性的な意味を持っていたと考えられる。(wikipedia ミシャグジより抜粋) 元日に行われる「蛙狩神事」については、皆さまもよく知っておられる、 三すくみ:三つの者が互いに得意な相手と苦手な相手を一つずつ持つことで、三者とも身動きが取れなくなるような状態のことである。 ●虫拳:ヘビ → カエル → ナメクジ → ヘビ …… 日本最古の三すくみ。平安時代の文献にも出て来くることから、日本の拳遊びで一番古いものだと思われる。 ヘビはカエルを一飲みにする。ヘビには負けるカエルだが、相手がナメクジならばやすやすと舌でとって食べる。しかしカエルに負けるナメクジにはヘビ毒が効かず、身体の粘液で(カエルより強いはずの)ヘビを溶かしてしまう(実際にはそのようなことはおこらないが、古い時代の日本ではそう信じられていた。ただし、ナミヘビ科にはナメクジを捕食する種もいる)。このときにカエルがナメクジを食べると、その後ヘビに食べられてしまうので、ナメクジを食べられない。ヘビ、ナメクジも同様の状態で、三者とも身動きがとれず三すくみとなる。(wikipedia 三すくみより抜粋) つまり、ヘビ(蛇神)がカエルをやっつけるの構図の部分。いわゆる天敵ってやつですよ(´・ω・`)b 因みに阿波においては、ナメクジがヘビをやっつけるというのもいいヒント。 更に言うと、虫拳なので、蛇(ヘビ)、蛙(クク・カヘル)蝦(カハヅ)、蛞蝓(蚰蜒:ナメクヂ・ナメクジラ)は、全て「虫偏」からなる生物ですな。 上のwikipediaなどの情報から簡単に纏めますと、有力な考え方として、ミシャグジさまは蛇神であり、祭神となっている建御名方神(諏訪明神)の生ける神体、或いは男性的精霊のようです。 また、同時に石の神、木の神(御柱大祭)、塞の神などの性質を持ち合わせているといったところでしょうか。 ただし諸説あり、田中基氏の説や出雲(島根県)地域での伝承が皆無であることから、建御名方神=土着神であるミジャグジとの関係性が低い、もしくはヤマト王権の国譲り神話に後に組み込まれた等の説も存在します。 さてここからが更に穿った考察をしていく訳なのですが、 建御名方神の御子神である出早雄命、その妻にあたる多満留姫、その別名が多留姫命(多留比売)とあり、神名を考察しますと、 「多(た)」は「多(おお)い」の文字で、これは古代の文字にしますと、意富意富富杼王(おおほどのおおきみ)や、意富臣:(おほのおみ)、千葉県にある意富比神社(おおひじんじゃ)や阿波国式内社和奈佐意富曽神社(わなさおほそじんじゃ)と同じ、「意富:おほ(おお)」と同義であり、また留(る)の方の読みも、留(とま)るとも読めます。 従って訓み直した神名の解は、(おほとまひめ)となり、こちらも娘をお祀りする伊自波夜比売神社と同じく阿波国麻植郡式内社に、 秘羽目神足浜目門比売神社 二座が御鎮座し、論社である中内神社 ◆御祭神 秘羽目神・足濱目門比賣神(足浜目門比売神) 足浜目門比売神は、『日本書紀』天の岩戸の章一書(第三)に登場する、粟の国の忌部の遠祖天日鷲命の后神です。 ●「安房国忌部家系図」 「安房国忌部系」によると、 「天日鷲命此神之子(中略)言苫比賣命所生子也。」 と書かれてあるように、天日鷲命の后神は、「おほとまひめ=いふとまひめ=あはまとひめ」ということになります。 これを地図にすると父から孫の代にかけて、段々と吉野川を遡上しながら西へと移動して行っておりますね。 御祭神の秘羽目神の「目」を横にすると「四」と読めることから、阿波古代史研究者からは秘羽四(ひはし)=天日鷲命との説もあり、仮にそうであった場合、秘羽目神足浜目門比売二座は夫婦でお祀りされていることになり、これもまた父の多祁御奈刀弥神社と孫の天村雲神伊自波夜比売神社二座と全て夫婦でお祀りされている神社の構図となりますな(´・ω・`) 因みに「い(お)ふとまひめ」と呼んだ地域と思われるのは、徳島県の沿岸側の方で、 式内社阿波國名方郡 意富門麻比売神社(宅宮神社)(徳島県徳島市上八万町上中筋558) ◆御祭神 大苫辺尊 大歳神 稚武彦命 社名から察するに、御祭神の大苫辺尊=意富門麻比売と考えられる訳なのですが、何故か大苫辺「尊」と稚武彦「命」が使い分けられているのが個人的には気になりますな(´・ω・`) 距離感はこんな感じ 名方郡の著名大社12社を巡る「十二社詣り」というのがあり、当社がその第一であると、鳥居扁額に記されています。 また例の神踊りでも有名なところでありますな(´・ω・`)詳細は割愛 ここで一つ注目したいのが、海側にある意富門麻比売神社のみ、ご夫婦でお祀りされていないところ。まぁここではこの考察はしないでおきましょう。 ということで早速例の如く阿波忌部氏系図にてご説明を致しますれば、 天日鷲翔矢命=出早雄命なので、その父天背男命となりこれが建御名方神に置き換わります。 出早雄命の息子が天村雲命であることから、次代の大麻比古命、天白羽鳥命、天羽富命の何れかに該当すると思われます。 ただし注意点として、阿波國「続」風土記によると、天村雲命は、天日鷲命の”御弟神”と記されています。 従って天日鷲命を中心に、その「弟」と「息子」に天村雲命が存在するということに注目です。 これを解決するのがまたしても「安房国忌部系」 「由布津主命は天止美命(天富命)と定め」云々と記録されており、 由布津主命と天富命(天止美命)が同じ人物であると記しております。 つまり上下異系譜に見える2つの系譜は実は同じであり、1世代のズレが生じる結果となっています。 一体これはどういうことなのでしょうか その答えは…「妻」にあります。 吉野川市鴨島町麻植塚字堂の本に御鎮座する五所神社。別名喩伽(ゆうが)神社。 『麻植郡郷土誌』には、「祭神大麻綜杵命(おおへつきのみこと)を祀る」、「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」 つまり天富命は10代崇神天皇の御子で、(崇神の)母が伊香色謎命であると記します。これをまた忌部氏系図に追加しますと、 このようになり、天太玉命が崇神天皇の父である第9代開化天皇となります。 先述にあった出早雄命と多留比売は共に建御名方神の御子ですので、これにより伊香色謎命と天比理乃咩命が同神であるという解釈となります。 お次は阿波忌部側から紐解いてみますと、一般社団法人忌部文化研究所の「徳島と日本各地を拓いた阿波忌部」によれば、大麻比古神と天太玉命は同神。 また「大麻比古命の謎に迫る」でも記しましたが、阿波国一宮の大麻比古神社の御祭神、大麻比古神社宮司「山口定實」氏著「国幣中社大麻比古神社御祭神考證」「大日本國一宮記」には、全て御祭神は猿田彦神であると記されてあり、 これまでの考察等から、猿田彦命=船戸(岐)神=麻能等比古神となり、『三輪高宮家系図』にもある、大国主命の子の都美波八重事代主命=大物主神でもあるということ。 ということは、系譜的には猿田彦命(事代主命)を基準として、その父が大己貴命(大国主命)ですよね。 そして問題となるのが大己貴命「妻」なのですが、『播磨国風土記』より「伊和大神(大己貴神)の妻の許乃波奈佐久夜比命」の記録があり、同時にこの木花之佐久夜毘売は『記紀』では天照大御神の「孫」の邇邇芸命の妻でもあるということ。 また大国主命は須佐之男命の娘の須勢理毘売を本后としたことにより「子」となっていること等から須佐之男命側の系譜では、 ①須佐之男命ー大国主命ー事代主命 の3代系譜となり、 皇祖系譜側は、 ②アマテラスー天忍穂耳命ー邇邇芸命 の3代系譜となります。 (須佐之男命) つまり大国主命と邇邇芸命の「妻」となった許乃波奈佐久夜比命(木花之佐久夜毘売)は、2世代に渡って別の夫の妻となっていることがお分かり頂けるかと思います。 これを忌部氏系図に置き換えますと、 橙色ラインから上側が忌部氏及び海部氏等の系図側となり、一方下側がいわゆる『記紀』及び皇孫(天皇側)の系譜となります。 ●置き換え版 これできっちり置き換わっているはずです。 例えば、「大麻比古神と天太玉命と同神」の説であれば、皇孫側の天太玉命(天津彦彦火瓊瓊杵尊:あまつひこひこほのににぎのみこと) が上側では大国主命の息子事代主命(大麻比古神)の位置となり、 その妻もまた木花之佐久夜毘売と同神となることから、天皇系譜側で2世代に渡って妻となった伊香色謎命がこれに対応し、その夫の開化天皇(若倭根子日子大毘毘命:わかやまとねこひこおおびびのみこと)つまり「ひひ=猿=猿田彦大神)」と同一人物ということになります。 上下で世代を超えた系譜のマジックとなっている訳ですが、これを更に「諏訪」系で考察しますと、 阿波国那賀郡 式内論社 室比賣神社(徳島県海部郡海陽町相川阿津1) 通称 阿津神社の御祭神は、木花開耶姫命 徳島県南部の海部の地では阿津(あづ)姫さんと呼ばれておりますが、木花開耶姫命は、『古事記』では本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)とあり、筑波大学附属図書館に所蔵されている「阿波国続風土記」には、 徳島県板野郡の謂れに、「此板ノト云根元ハ神宅村板野神社ヨリ起レル名ナリ此神飯田姫ノ命ト云本名ハ吾田鹿葦津姫ト云」と記されて在り板野郡は、「紀」にある神吾田鹿葦津姫(木花之佐久夜毘売)の神名により起ったと書かれています。 邇邇芸命の妻となった木花之佐久夜毘売(阿津姫)ですが、これが吉野川流域にある忌部の地に行くと、先述致しました天村雲命の妻である伊自波夜比売(会津(あづ)比売命:諏訪信仰の人物)となる訳です。 この神名もまた別訓みすれば、会津(あえづ・あわづ/かいづ・かわづ)比売とも訓めますなぁ ということで、大麻比古神=八重事代主命=大物主神=猿田彦命=天村雲命とその妃(御崎(前))となります。 阿津姫さんも吉野川河口域だと猿田彦命の妻となった天宇受売命(大宮売神)になると考えられ、吉野川流域である忌部の地では伊香色謎命(伊自波夜比売)がこれに対応すると考えられます。 最後に、建御名方神の子、そして伊自波夜比売の父である出早雄命(いづはやお)ですが、こちらも訓みを変えると、 出(いづる)早(そく)雄(たける)となり、須佐之男命の息子五十猛神となり、こちらも忌部氏系図に置き換えますと、 このように諏訪系の神々を敢えて神名を訓み直すことにより、阿波では馴染み深~い式内社にてお祀りされている神様のお名前へと変化するのです。 従って「諏訪信仰」の神々は、阿波の神々を(わざわざ一手間加えて)訓み直しされた別神名であることがお分かり頂けるのではないでしょうか。 信濃の方には大変申し訳ないのですが、「元諏訪」が実は阿波であったという事実は俄かには受け入れ難いかも知れません。 これまでの考察から、徳島県においてもこの諏訪信仰の神に対応するのは凡そ吉野川中・下流域の範囲、つまり忌部の痕跡が強く残る地域であると考えられます。 重ね重ねですがあくまでこれは私説考察ですので、信じる信じないは個人の判断にお任せ致します<(_ _)>アシカラズ
『古事記』国譲りの段によりますと、地上(葦原中国)を統治するべく、高天原から天照大御神の命を受けた、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命を派遣。 続いて天菩比神(共に天照大御神の宇気比御子)を、更に続けて天若日子を遣わしたとあります。 そして終いに建御雷之男と天鳥船神を遣わし、結果的に国譲りが成功したとあります。 今回は国譲りの段にある天若日子に焦点を当て、その痕跡について例の如く穿った考察をして参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 アメノワカヒコ(天わか彦、天千彦)は、日本神話に登場する神。 ●出自 葦原中国平定において、天津国玉神(アマツクニタマ)の子として登場する。天津国玉神の系譜の記述はない。 ●事績 葦原中国を平定するに当たって、遣わされた天之菩卑能命(アメノホヒ)が3年たっても戻って来ないので、次に天若日子が遣わされた。 しかし、天若日子は大国主神の娘下照比売と結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこで天照大御神と高御産巣日神(タカミムスビ)は雉の鳴女(ナキメ)を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いた天佐具売(アメノサグメ)が、不吉な鳥だから射殺すようにと天若日子に勧め、彼は遣わされた時に高皇産霊神から与えられた弓矢(天羽々矢と天之麻迦古弓)で雉を射抜いた。 その矢は高天原まで飛んで行った。その矢を手にした高皇産霊神は、「天若日子に邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とす。すると、その矢は寝所で寝ていた天若日子の胸に刺さり、彼は死んでしまった。 天若日子の死を嘆く下照姫の泣き声が天まで届くと、天若日子の父の天津国玉神は下界に降りて葬儀のため喪屋を建て八日八夜の殯をした。下照姫の兄の阿遅鉏高日子根神(アヂスキタカヒコネ)も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると阿遅鉏高日子根神は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、大量を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。(wikipedia アメノワカヒコより抜粋) さて、上の伝承を簡単に纏めますと、以下の図のようになり、 〇 天津国玉神ー天若日子(死) 結| 婚| ー下照比売(妹) 〇 大国主神ー| ー阿遅鉏高日子根神(兄) 亡くなった天若日子と阿遅鉏高日子根神はソックリであったため、妻はおろか自身の父である天津国玉神でさえも見間違えた。 これに怒った阿遅鉏高日子根神は、喪屋を蹴飛ばし降ったところが美濃(の藍見の喪山)であるとしています。 つまり天若日子のお墓がそこにあるということなんでしょうな。 藍見村(あいみむら)は、かつて岐阜県武儀郡にあった村である。 現在の美濃市の南西部、長良川西岸の村である。村名は古事記・日本書紀に記載されている「藍見川」(長良川の旧称の説がある)に由来する。(wikipedia 藍見村より抜粋) 場所はココ 当地説話に由来するのが旧美濃国武儀郡に御鎮座される、 喪山天神社(もやまてんじんじゃ:岐阜県美濃市大矢田1261) 当社が天若日子廟所との謂れがあり、 そのすぐ北側には、古呂婆受宮という大蛇が鎮まる宮が存在します。 古呂婆受宮(ころばずのみや:矢田2053番地7) この地には里の伝説による大蛇(おろち)の胴体を埋葬してお祀りしています。 「ひんここ祭り神事」の行列は、この坂に来ると古呂婆受神を畏敬し、その太鼓や笛の囃子を止めて、静かに畏れて通り過ぎます。 これは眠っている大蛇の霊を目覚めさせないようにとの配慮からです。 またこの坂で転んだときは、着物の袖を切り裂いたり、白い神垂(祓い清める意味)を周りの木の枝に結びつけて祈願し、ご神助を乞い奉ってきました。 <由緒書より抜粋> ほぉほぉ天若日子の廟所と一緒に何故か胴が切られた大蛇が眠っていると(´・ω・`) 更に宮を上ると、 大矢田神社(おやだじんじゃ:岐阜県美濃市大矢田2596) ◆祭神 建速須佐之男命 天若日子命 ●歴史 創建は孝霊天皇の時代という。以下は社伝による。 深山に悪竜が棲み付き、困った里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。 その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ、悪竜を退治してくれた。平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。 創建は孝霊天皇の御代(紀元前290~215年)とされておりますな(´・ω・`) で、この大蛇を鎮める祭礼が、 大矢田のヒンココ(おやだのヒンココ)とは、岐阜県美濃市に伝わる芸能(人形劇)である。 大矢田神社の祭礼(例大祭)で氏子が奉納する人形劇である。大矢田のヒンココは無形民俗文化財として登録された名称であり、ひんここ祭、大矢田ヒンココ、大矢田ひんここ祭とも称す。 ●概要 ・大矢田神社の例大祭でお旅所のある小山の山腹で演じられるものであり、農耕守護、豊作祈願の神事である。人形劇の「ヒンココの舞」を中心とし、稚児渡、獅子渡、稚児舞、獅子舞が行われる。元々は10月18日に行われていたが、現在は大矢田神社の春の例祭(4月第二土曜・日曜)と11月23日の秋のもみじ祭りに演じられている。なぜヒンココと呼ばれているのかは不明だが、お囃子の中に「ヒンココ チャイイココ チャイチャイホーイ」という掛け声からという説もある。 ・起源は不明だが、大矢田神社の記録では寛正3年(1462年)となっている。元和元年(1615年)以降の祭事の古写本が伝えられており、少なくても江戸時代初期から行われていたと思われる。 ・1976年(昭和51年)8月に岐阜県無形民俗文化財に、1999年(平成11年)に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に指定されている。 ・元々は十数件の山本姓の住民で構成される山本連中が行っていたが、1965年(昭和40年)を最後に中止。翌年から1970年(昭和45年)までは大矢田神社の歴代役員が行い、1971年(昭和46年)からは氏子総代が行っていた。現在は大矢田ヒンココ保存会により行われている。 ・例大祭(ひんここ祭)は早朝から行われる。午前3時頃より松明をともし、笛・太鼓・摺鐘の囃子とともに、ヒンココの舞で使用される人形が道行きをする。神輿がお旅所につくと、流鏑馬、組渡、山車の稚児の舞、獅子舞などが行われる。午後3時頃にお旅所東方の山の中腹でヒンココの舞が行われる。舞が終わるとお旅所の神輿は本殿に戻り、祭りは終わる。 ・ヒンココの舞は、スサノオのヤマタノオロチ退治を表現したものと言われている。(wikipedia 大矢田のヒンココより抜粋) ●大矢田神社にある大蛇の模型 ●上記三社の位置関係 それでは、ここからは例の如く私説による阿波説にて分析考察して参りますと、 淡路島とそれをくり抜いたような形をしている琵琶湖、これを対象として同音地名となる武儀(むぎ)-牟岐(むぎ)。 徳島県牟岐町の現在の中心地の北側と南側に「胴切山」と出羽島が位置し、 この出羽島の大池(おおいけ)には、「蛇の枕」の伝承が伝えられています。 国の天然記念物シラタマモが自生する大池には、大蛇が住み丘に上がり大きな石を枕に昼寝をしていたと云う伝説があり、野口雨情が残した歌にもその一節が御座いますので少しご紹介を。野口雨情が残した十五節歌 牟岐みなと節(大漁節)阿波の牟岐町南に向いて 春を待たずに豆が咲く船は港に鴎は沖に 牟岐の渚は夕焼ける八坂橋越し大坂あたり 春は桜の花吹雪牟岐の港を出船の時にや 後ろふり向きふり返り向かう出羽島なつかしところ 船に蝶々もついて行く誰と別れか観音山の 夜明け烏が鳴いて行く五剣胴切矢筈が目あて 船は港を差して来る船で廻れば出羽島一里 島にや大池蛇の枕波の音聞き小張の松は 思やいく年経たのやら牟岐の大川橋は流されぬ 流しや便りが遠くなる磯のあそぢや小島の浜や 波もしずかな砂美の浜沖の大島姫神様は 通う船路の守り神八坂八浜の難所でさえも 親の後生ならいとやせぬ見たか出羽島どのせの濱に うつは荒波花と散る雲の中から雨ふり月が 浜の小舟の中のぞく …つまり、航海の目印になっている胴切山・矢筈山近くのこの場所に、「大蛇が眠っている」という訳なんですな(´・ω・`) で、この蛇とはなんぞや ということで、お隣の海陽町浅川には、「蛇王(ざおう)」と呼ばれているところがあり、そこに御鎮座されるのが、 蛇王神社(ざおうじんじゃ:海陽町浅川 創立不詳) 「海南町史」下巻によりますと、ご祭神は、和田津海命。 この蛇王が住んでいたと伝わるのが、 海老ヶ池(えびがいけ)は、徳島県海部郡海陽町の室戸阿南海岸国定公園内にある県内最大の湖。面積は18ha。四国地方で唯一の天然湖である。 ●蛇王運動公園周辺地図 ●概要 1609年(慶長14年)に起こった慶長の大地震により、海岸線に近い一帯が隆起して湖が誕生する。海老ヶ池という名前の詳しい由来は不明。 ●海老ヶ池の大蛇 土佐国で庄屋を営んでいる夫婦が、子どもを授かりたいと、阿波国一の湖である海老ヶ池に訪れた際、腹痛を起こし、土佐に戻って女児を産み、玉枝と名づけた。 しかし、この女児の正体が大蛇であることがわかり、玉枝は育ててくれた礼を言って、空へと舞い上がっていった。 その後、海老ヶ池に戻った玉枝は、毎年大晦日になると、嵐を起こしながら着物を干しに池の端まで上がって来ると云われている。(wikipedia 海老ヶ池より抜粋) 阿波のふるさと民話にも収録されています。 特に赤線部分に注目 社の御神体は玉枝の持って来た鏡だそうですヨ(´ω`) この辺は過去の記事にも似たようなことを少し考察しておりますので、できればそちらも一緒に参考にして下さい。「讃留霊王(さるれお)から考察 ①」「倭建命を穿って考察 ④」 ということで、蛇王神社御祭神である和田津海命は、海老ヶ池に住んでいた大蛇の玉枝を鎮めるためにお祀りされているという訳なんですな。 いつの頃から海老ヶ池と呼ばれていたかは定かではありませんが、阿波国続風土記によると、「蝦(えび)池」と記録されていますね。 個人的には「ゑびす」もしくは「へび」池の転訛とも考えれますかな。 さて、ホツマツタヱによりますと、 天稚彦。天若日子。 アメクニタマの子。カナヤマヒコの孫。 オクラ姫(二代目シタテル姫)の兄。 「アメワカヒコ」の名はアマノコヤネ (斎名:ワカヒコ) に肖ったものともいう。 とあり、歌を確認しますと、 昔(むかし)中山(なかやま) 道(みち)開(ひら)く カナヤマヒコの 孫娘(まこむすめ) シタテル・オクラ タカヒコの 怒(いか)り融(と)かんと 短(みち)か歌(うた) 詠(よ)みて諭(さと)せり 従って天若日子は、金山彦神の子の天津国玉神の息子。 その妹が下照比売ということになります。 金山彦神(かなやまひこのかみ)は、日本神話に登場する神である。 ●概要 『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)と対になるともされる。 神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。(wikipedia 金山彦神より抜粋) 金山彦神は、イザナミの嘔吐物より化生した神。つまりイザナギ&イザナミの子。 言い換えますとアマテラス&スサノオと同世代ネ(´・ω・`)ノ 阿波三峰の一つ中津峰。西方の連山を八多山と称し、徳島藩主の狩場でもありました。 中津峰を北へ下ると、 山方比古神社(やまかたひこじんじゃ)は、徳島県徳島市多家良町に鎮座する神社である。 ●歴史 創祀年代は不詳である。『延喜式神名帳』に記載される式内社とされるが、末社として所管する立岩神社を充てる説もある。 昔、この地に銅のたたらがあったと言う。また、周辺からは弥生土器や金属器が出土している。御火社(こひしゃ)、金谷権現とも称する。別名、金山神社。近代社格制度上は無格社であった。 ◆祭神 金山比古神 ●境内社 立岩神社 - 祭神は天津麻羅。巨大な岩を神体とし、社殿は小さな祠である。10月17日に祭礼が行われる。(wikipedia 山方比古神社より) フムフム(´・ω・`)ホツマツタヱにおける通説解釈の中山道とは違いますが、阿波の中津峰=中山に置き換えてもイメージができてしまう不思議。 また天若日子と容姿が似ていたとある阿遅志貴高日子根の正体を表すヒントとなるのが『古事記』にある夷振(ひなぶり)の歌中で、 「阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦 比古泥能迦微曾也」 「天なるや 弟棚機(おとたなばた)の うながせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉はや み谷 二渡らす 阿治志貴高 日子根の神そ とうたひき。」 本居宣長は、 「天なるや 弟棚機のうながせる 玉の御統 御統に あな玉はや み谷 二(ふた)わたらす 阿遅志貴高日子根の神ぞや」 として、天織姫が首にかける宝石とアジスキタカヒコネ神が発する光が谷を渡って輝く情景を描いたのではないか…としています。 アジスキタカヒコネ神のボデーから発する光とはどんな光なんでしょうか(´∀`) 確か『古事記』大己貴命の段に「海の向こうから光り輝く神」として描かれたお方が…ってな訳で「三輪高宮家系」より、 また夷振の意味には、 ひな‐ぶり【×鄙振り/夷=曲/×夷振り】の解説 1田舎めいていること。また、そのもの。 2上代の歌謡の一。地方の歌が宮廷に取り入れられ、大歌になったもので、その歌詞から名づけられたものらしい。 3狂歌のこと。(goo辞書) …があり、鄙びているの意味から、「田舎」・「ふるさと」という意味でもある訳なんですな(´・ω・`)夷(えびす)のふるさと(生誕地)とはどこなのかな? さて、旧那賀郡域である現阿南市見能林町(=美濃)のお隣には、藍見村ならぬ、「才見」という地名があり、 当地には、落雷(おちらい)神社(徳島県阿南市才見町落雷)が御鎮座されます。写真はすえドン♪四方山話様より拝借<(_ _)> 鎌の打ち合い ご祭神の別雷命は賀茂別雷命こと阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と同神と考えられています。 その神格は雷神・農業神、そして蛇神とされています。 この西方に聳え立つのがもう一つの阿波三峰である津乃峰。 そこには「三谷」の地名があり、傍らに山本神社が御鎮座されますネ。 下光比売命(したてるひめのみこと/したでるひめのみこと)は、日本神話に登場する神道の女神である。 ●概要 『古事記』では本名を高比売命(たかひめのみこと)、亦の名を下光比売命・下照比売命(したてるひめのみこと)、『日本書紀』では下照姫・下照媛、亦の名は高姫、稚国玉(わかくにたま)、『先代旧事本紀』地神本紀では下照姫命と記述される。三輪氏族の系図では阿陀加夜怒志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)や秋鹿比売命(あいかひめのみこと)の別名を伝える。 ●系譜 『古事記』では大国主神(『日本書紀』では顕国玉)と多紀理毘売命の娘で、阿遅鉏高日子根神の妹としており、『先代旧事本紀』地神本紀でも『古事記』同様に大己貴神と田心姫命の娘で、味耜高彦根神の同母妹とする。(wikipedia シタテルヒメより抜粋) タギリヒメ(タキリヒメとも)は、日本神話に登場する女神。宗像三女神の一柱で宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている。『古事記』では別名を奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)とされているが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。 ●解説 天照大御神と須佐之男命の誓約により誕生した「宗像三女神」の一柱。(wikipedia タギリヒメより抜粋) 神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)は、日本神話に登場する女神。 ●概要 『古事記』に登場する女神で、大国主神の妻の一柱。名前だけの記述で、親神や神格などは一切不明。ただし『先代旧事本紀』では高津姫という名で宗像の辺津宮に坐す神としているので、この伝承によれば多岐都比売命と同一神ということになる。また『日本書紀』には登場しない。『海部氏勘注系図』では神屋多底姫命と表記されている。(wikipedia 神屋楯比売命より抜粋) 従ってこれも過去に「「宇気比」から考察 ②」で一度書かせて頂いておりますが、 いってることは、大国主命を中心に、上図の赤線の左右が全く同じ意味やんけってことなんですよね。 つまり、大国主命の息子の積羽八重事代主命と阿遅鉏高日子根神、この二柱の母である多紀理毘売と多岐都比売命(=宗像三女神=スサノオの誓約御子娘)の関係は、写し鏡の如く実は同神であると考えられるのです。 この理論に基づけば、大国主命(大己貴命)は、=天津国玉神であり、遡るとその父の金山彦神もまたスサノオであるということになりますな。 因みに摺り合わせという意味で、スサノオは製鉄神でもあるんですゼ。 詳しくは、awa-otoko様ブログの、 スサノオを祀る八坂の元社(以の山編 加茂名 溶造皇神社) 八坂の元社は「溶造皇神社」 <(_ _)> この大国主命は『記紀』によると、スサノオの娘の須勢理毘売を嫡妻としたとあり、これを『出雲国風土記』では、神門(かんど)郡滑狭郷条にて、大穴持命が和加須世理比売命に妻問いをする様子として描かれています。 須勢理毘売は、上図にあるところの、大国主命がスサノオの娘の多紀理毘売もしくは多紀理毘賣を娶った箇所に相当すると考えられます。 因みに、 神度剣(かむどのつるぎ)は日本神話に登場する刀剣である。 ●概要 神度剣は阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね)が持っていた十束剣(とつかのつるぎ)のことである。 正式名を『古事記』では大量(おおはかり)、『日本書紀』では大葉刈と表記される。 別名として『古事記』では神度剣(かむどのつるぎ)、『日本書紀』では神戸剣とも表記される。(wikipedia 神度剣より抜粋) 神門(かんど)郡滑狭(なめさ)郷にあたる”元の場所”は、神度剣=十束剣(十拳劒)から、『古事記』国譲りの段、 「是以、此二神降到出雲國伊那佐之小濱而伊那佐三字以音、拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言」 「二柱(天鳥船神と建御雷神)の神は、出雲国の伊那佐の浜に降り立ちました。そして十拳剣を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神に問いました。」 にある、阿波国和奈佐(現徳島県海部郡海陽町那佐(なさ)乳崎)(旧血崎)ね。 また上図に記したように、丹塗矢伝説の子は、系譜上では自身がスライドして次代に存在するということがわかります。 これら伝承の考察地は、みな阿波國(徳島県)の沿岸部に位置する、旧那賀郡域=長國となっており、 従って、国譲りの地=葦原中国(『記紀』にある出雲)となります。 ここまでいつものように長々と書きましたが、天若日子の説話の舞台がどの辺りであったのかおおよその目星が付いたのではないでしょうか 断っておきますが、あくまでも阿波説の私説であることは十分にご理解下さいませ<(_ _)> 最後にオマケ(´・ω・`)ノ ぐーたら気延日記「解説はなしよ」より、阿波国「続」風土記部分を抜粋 天津國玉神ノ御子天日鷲命ハ即日向皇子 ニテ是天石門別神其御霊ヲ倭大國玉神トイフ 天石門別神櫛磐竃神ノ后神ヲ天石門別八倉姫トイフ 次妃豊玉姫ハ椎根津彦ノ祖ナリ 天石門別ノ子ニ非サル事ハ別ニ記ス 其御子御間都比古即大若子命一名大幡主命.... 天津國玉神の御子、天日鷲命は日向皇子のことで、これは天石門別神のこと。 その御霊を倭大國玉神という。 天石門別神(櫛磐竃神)の妃の神を天石門別八倉姫という。 次の妃である豊玉姫は椎根津彦の祖先である。 天石門別の子でない事は別に記す。 その御子、御間都比古すなわち大若子命またの名を大幡主命.... 阿波忌部の祖である天日鷲命=日向皇子は神武天皇のこと。 これを今回の稿の解釈に比定しますと また以前にも記載してあります同風土記の、天村雲命は天日鷲命の「御弟神」であるという部分の解釈もおおよそ見当がついたのではないでしょうか とはいってもそこからでも如何様にも考えれますのでそこがまた面白い部分でもあるんですなぁ(´∀`)
継体天皇(けいたいてんのう、450年?〈允恭天皇39年〉 -531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)は、日本の第26代天皇(在位:507年3月3日?〈継体天皇元年2月4日〉 - 531年3月10日?〈継体天皇25年2月7日〉)。 諱はヲホド。『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)と記される。また、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とある。 なお、隅田(すだ)八幡神社(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(後述)。別名として、『日本書紀』に彦太尊(ひこふとのみこと)とある。漢風諡号「継体天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から継体と名付けられたという。 継体天皇が現在の皇室までつながる天皇系統の始まりとする説がある。 ●生涯 記紀は共に継体天皇を応神天皇の5世の子孫(来孫)と記している。また、『日本書紀』はこれに加えて継体を垂仁天皇の女系の8世の子孫(雲孫)とも記している。『日本書紀』によれば、450年頃に近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛は、自分の故郷である越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。(wikipedia 継体天皇より抜粋) 長くなるので抜粋しておりますが、詳しく知りたい方は、wikipedia等でご確認下さい<(_ _)> さて、日本の皇室についてですが、神話期から始まり、初代神武天皇以降、現存する最古の王朝として、日本の天皇家が世界最古の王家となることから、「ギネス世界記録」として認定されています。 ただしwikipediaにも、「継体天皇が現在の皇室までつながる天皇系統の始まりとする説がある。」とあるように、考古学的見地からは、少なくとも継体天皇以降は実在が確実視できるとして(継体天皇以降からでも世界最長記録)日本の皇室の歴史の長さが世界一であるとされております。 ではその実在が確実視されているとみられる継体天皇。 系譜上において、その一世代前にあたる「父」は架空の存在であるのか、またどう描かれているのか、当時の皇族の本幹地はどこなのか、その御生誕地は?等々について、例の如く穿った考察をして参りたいと思います。 あ、あまり大した記事にはなっていませんので軽~く参考程度にネ。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 彦主人王(ひこうしのおう/ひこうしのおおきみ、生没年不詳)は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 第15代応神天皇の玄孫で、第26代継体天皇の父である。「上宮木」逸文では「汚す塩生(牛の大公)」 ●系譜 『釈日本紀』所引の『上宮記』逸文によれば、汙斯王(彦主人王)は応神天皇(第15代)の四世孫である。父は乎非王(おひのおおきみ)で、母は牟義都国造伊自牟良君の女の久留比弥命。 『上宮記』逸文と『日本書紀』によれば、妃は垂仁天皇七世孫の振媛(ふりひめ、布利比弥命)で、その間の子に継体天皇(第26代)がいる。 ●記録 『日本書紀』継体天皇即位前条によると、彦主人王は近江国高島郡の「三尾之別業」(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)におり、越前三国の坂中井(さかない:現在の福井県坂井市の旧三国町域)の振媛を娶った。 その後振媛は男大迹王(のちの継体天皇)を生んだが、その幼少のうちに彦主人王は死去。そのため振媛は高向村(現在の福井県坂井市の旧丸岡町域)に帰郷して、男大迹王を養育したという。 ●考証 彦主人王の母は牟義都国造の女というから、後の美濃国武儀郡の豪族の出身であり、武儀の地は近江の息長とそれ程離れてはいない。そのため、乎非王の本拠地は不明だが、近江・美濃の間にあったと考えられる。そうなれば、乎非王の婚姻は近江・美濃あたりの豪族同士の婚姻ということになり、その間に生まれた彦主人王が、恐らく美濃あたりを本居としながらも、近江の高嶋の三尾に別業を持ち、さらにそこから越前の豪族の女牲に求婚した事情も、当時の豪族が隣接する国々をその通婚圏としたという想定のもとに理解することができる。 ●三尾別業 三尾別業(みおのなりどころ、三尾之別業)は、彦主人王が拠点とした三尾にあったとされる別業。継体天皇の出生地ともされ、近江国高島郡三尾郷(現在の滋賀県高島市の安曇川以南域)と見られるが、具体的な比定地は未詳。 この「三尾」の地について『上宮記』では「弥乎国」と見えるほか、『延喜式』では兵部省条に「三尾駅」が、『和名抄』では高島郡に「三尾郷」が見える。現在も水尾神社や「三尾里」の地名が残ることから、「三尾」とは高島市の鴨川下流域一帯を指す地名とされる。現在、同地には継体天皇出生に関する数々の伝承地が残っている。(wikipedia 彦主人王より抜粋) ●系譜としてはこの位置 …という訳で母の出身となる牟義都国造を見てみますと、 牟義都国造(むげつのくにのみやつこ・むげつこくぞう)は牟義都国(美濃国北中部)を支配した国造。 ●概要・表記 『釈日本紀』に牟義都国造とある他、牟宜都君、身毛津君とも。 ●氏族 身毛氏(むげつうじ、姓は君)で、牟下・牟下都・牟下津・牟宜都・牟義・武義・牟宜津氏などとも。後に宿禰を賜るものもいた。 ●本拠 国造の本拠は不明であるが、牟義都国造伊自牟良君とあることから美濃国伊自良(現山県市旧伊自良村)を本拠とする説がある。 発掘調査により、7世紀後半の弥勒寺造営に先行する豪族居館と、奈良時代の郡衙に伴う正倉が設置されていたことが明らかになった。また『上宮記』の伊自牟良を『和名抄』の山県郡出石郷に比定し、伊自良村(現山県市)に当てる説がある。『和名抄』の武芸郡有知(うち)郷ともされ、下有知の広域な条里制跡や重竹遺跡の大規模な古代集落跡が見られ、本拠として有力な候補地と見られるが、長良川右岸にある弥勒寺跡からは対岸にあたり、根拠は弱いと見る説もある。 ●支配領域 国造の支配領域は当時牟義都国と呼ばれた地域、後の美濃国武儀郡にあたり、現在の岐阜県関市、美濃市、山県市に相当する。 ●人物 伊自牟良君(いじむらのきみ):古墳時代の国造。久留比売命(乎非王の后)の父。(wikipedia 牟義都国造より抜粋) さて、牟義国造については『氏姓家系大辞典』に、 「国造本紀には見えざれど、上宮記に『牟義国造、名は伊自良君の女子久留比売命、云々』と載せたれば、当時一国たりしや明白ならん。」とあり、また、『釈日本紀』巻十三・述義九の「第十七 男大迹天皇」には、 「上宮記曰 一云… 「…宇非(乎非)王娶牟義国造 名伊自良君女子 名久留比売命 生児汙斯王。」 「…汙斯王 坐弥乎国高嶋宮時、聞此布利比賣命 甚美女遣人召上 自三國坂井縣而娶所生 伊波禮宮治天下乎富等大公王也。」 …と記されてあり、牟義国造の伊自良君の娘、久留比売命が生んだ子に汙斯王がおり、以下約しますと、 「汗斯王(うしのみこ)(=彦主人王)弥乎国(みおのくに)(=三尾。現在の滋賀県高島市安曇川町三尾里を中心とした一帯)高嶋宮(たかしまのみや)に坐しし時に、この布利比弥命(ふりひめのみこと)(=振媛)甚(いと)美(うるわし)き女(みめ)と聞き人を遣はして三国坂井県(みくにのさかないのあがた)(現在の福井県坂井市三国町)より召し上げ、娶りて生める所は、伊波礼宮(いはれのみや)に天の下治しめしし乎富等大公王(おほとのおおきみ)(=継体天皇)なり。」 とあります。 文面からは、出生地が(弥乎国高嶋宮=滋賀県高島市安曇川町三尾里)=三国坂井県(現在の福井県坂井市三国町)≒伊波礼宮(奈良県桜井市吉備)を治めたのが乎富等大公王(=継体天皇)なり。と読み取れますが、通説ですとテンデバラバラな場所になっちまいますなぁ。 …という訳で、あくまで私説となりますが、1つずつご説明させて頂きますと、 まず「牟義(都)」についてですが、これも以前に幾度か書いておりますが、 徳島県海部郡牟岐町牟岐浦に御鎮座されます、その名も牟岐津神社。 ご祭神は小碓命、即ち倭建命。 その兄である大碓皇子の後裔氏族として『日本書紀』では身毛津君・守君の祖とあり、また『古事記』では守君・大田君・嶋田君・三野之宇泥須和気・牟宜都君らの祖とみえ、『新撰姓氏録』では、 左京皇別 牟義公 - 景行天皇皇子の大碓命の後。 左京皇別 守公 - 牟義公同氏。大碓命の後。 河内国皇別 大田宿禰 - 大碓命の後。 河内国皇別 守公 - 牟義公同祖。大碓命の後。 河内国皇別 阿礼首 - 守公同祖。大碓命の後。 和泉国皇別 池田首 - 景行天皇皇子の大碓命の後。 …とも記されており、現牟岐町にもにたくさんいらっしゃるお名前の方々となりますな。 まぁ、守(もり)は森氏になっておりますが、少なくとも『新撰姓氏録』によれば、これ等はみな皇別氏族となっております。 ちなみに『古事記』によると、この大碓皇子の子の押黒之兄日子王、押黒弟日子王兄弟が、三野之宇泥須和気の祖と牟宜都君(牟義都国造)らの祖となったと記されており、景行天皇の子や孫が同地を治めていたという記録が記されております。 そんな訳で、この牟岐町にあったであろう牟義国造の伊自良君の娘、久留比売命の子が、牛の大公こと彦主人王(ひこうしのおおきみ)。 岐阜県では牛の話をしてもピンとは来ないと思いますが、当地は牛に纏わる説話が多数御座いますのでお時間のある方はこっちも見てやって下さい。 (´・ω・`)つ 「倭建命を穿って考察 ①」シリーズ 牟岐町の牛鬼説話は中々に面白いですヨ。牟岐町の「牟」も”ム”と”牛”ですしネ笑 母は牟義都国造伊自牟良君の女の久留比弥命、妻は、振媛(ふりひめ、布利比弥命)で、『和名抄』の武芸郡有知(うち)郷を伊自良村に当てる説があります。 徳島県の海部郡牟岐町内妻(うちづま)には”古江(ふるえ)”の地名があり、 「ふるさと探訪」によると、元は布留部(ふるべ)と呼ばれていたとあります。 この妃の御出身地が自身の故郷とある越前国高向ということなのでしょう。 阿波説にて比定すると越(こし)の国は、現上板町高志の辺りと想定されます。 お次に、上のwikipediaの記述から継体天皇は、『日本書紀』によりますと、450年頃に近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため云々…とあり、 これを阿波説に置き換えますと、まず近江国(あはうみ)は淡海(あはうみ)のことで、旧阿波国の海のこと。 高嶋郷三尾野=弥乎国(みおのくに)の部分については、 水尾神社(みおじんじゃ/みをじんじゃ)は、滋賀県高島市拝戸(はいど)にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。神紋は「菊」。 ◆祭神 磐衝別命(いわつくわけのみこと) 第11代垂仁天皇皇子で、『古事記』『日本書紀』では三尾君(三尾氏)・羽咋君(羽咋氏)の祖と記す。 河南社(南本殿:現在社)の祭神。 比咩神(ひめがみ)第26代継体天皇の母の振媛を指す。 河北社(北本殿)の祭神。 ●歴史・創建 水尾神社は、かつて水尾川を隔てた河南社(こうなみしゃ、南本殿)・河北社(こうほくしゃ、北本殿)の二社から成ったが、現在は河南社の一社から成る。社伝では、磐衝別命は猿田彦命の天成神道を学ぶために猿田彦命を祀る当地に来住したという。そして、朝夕に猿田彦命を祀る三尾大明神(高島市永田の長田神社)を遙拝したのでこの地は「拝所(のち拝戸<はいど>)」と称され、その住居跡は「拝所御所」と称されたと伝える。磐衝別命は当地で亡くなったため、その子・磐城別王は磐衝別命を三尾山に埋葬し、磐衝別命を祀る社として「河南社(現在社)」を創建したという。(wikipedia 水尾神社より抜粋) …ということで、阿波国において、現一宮と称されてるのが大麻比古神社。 この社の御祭神は猿田彦大神で、その御鎮座地は徳島県鳴門。そこには、 鳴門町高島が存在し、東側の大毛島の鳴門町三ツ石と、南側の橋梁を介して瀬戸町明神、そして同高島の「三国」が接する場所になっているんですな(´・ω・`) 加えてそこには、滋賀県の「水尾(みお)」ならぬ「水尾(にお)」まで存在します。訛り過ぎやで(ノ∀`) あいの水尾川(あいのにおがわ)は、徳島県鳴門市を流れる準用河川である ●地理 スクノ海から南流し小鳴門海峡にそそぐ。西側の高島(鳴門町高島)と東側の大毛島(鳴門町三ツ石)の境界をなしている。「合の水尾川」、「間の水尾川」、「アイノ水尾川」などとも表記される。 高島や大毛島では「にお」と呼ばれ、スクノ海から小鳴門海峡へと繋がる運河としての役割を持つ。(wikipedia あいの水尾川より抜粋) 場所はココのようで 先程の地図で示しますと、ここやで ということは、私説では御座いますが、当地が継体天皇ご生誕の地。 そして彦主人王が拠点とした別業(=別荘)があった場所(三尾)ということになりますね。 私のブログを見てる方からすればいつもの見慣れたルートですが(´・ω・`) 具体的な痕跡を探るのはお時間のある時にでもしましょうかねぇ(´∀`) …という訳で、今回は私にしてはかなり短めの考察内容となりました。 内容が薄っぺらいともいう(ノ∀`) 個人的意見としましては、大宝律令後に置かれた地名に頼って一途に調査しても、いつまで経っても真の答えは得られませんヨ。 とはいうものの、まぁ私説なんで鵜呑みにはしないでネ(-ω-)ノシ