コラクのブログ
  • 06Jun
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      讃留霊王(さるれお)から考察 ①

       『古事記』に「飯依比古」と記される讃岐国は、式内社 大麻神社社伝によると、「神武天皇の時代に、讃岐忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」と伝わるように、同じく四国の東側にあるお隣の阿波国とは往古より非常に密接な協力関係にあります。 阿波国では、讃岐との交流を示す痕跡として、多くの遺跡からサヌカイト(讃岐岩)が発見されますし、また『日本書紀』によると、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)の始祖である鷲住王が讃岐の国造になったと記されています。 神武の時代に、畝傍山の麓に橿原の御殿を作ったとある天富命は、この鷲住王の祖父にあたります。 「阿波知りたくば、讃岐を知るべし。」と言う訳で、今回は讃岐にある古代の痕跡から考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 讃王(さんのう)は、昔瀬戸内海にいた悪魚を退治した人物。讃留霊王(さるれお)とも。 古事記伝などでは讃王を景行天皇の御子神櫛王としているが、古事記には武貝児王、日本書紀には日本武尊の御子である霊子(武殻王)としている。 ●伝説 景行天皇の御世、瀬戸内海では悪魚が人々を困らせていた。讃王はこのことを聞きつけたくさんの船をつれて退治に行った。ところが、一人の兵士が悪魚に飲み込まれてしまった。その兵士が悪魚の腹の中で刀を抜いて暴れ出し悪魚は苦しくなって死んでしまった。以後、讃岐の漁師は自由に魚をとってもよくなった。 丸亀市飯山町には、讃王を祭った讃王神社および讃留霊王神社が存在する。また弘憲寺には讃王の肖像画が、綾川町にある北条池の付近には讃留霊王の墓がある。(wikipedia 讃王より) 香川県に伝わる讃留霊王(さるれお、讃王)伝説によれば、景行天皇23年に讃留霊王は勅命を受け、讃岐入りして瀬戸内の悪魚退治を行い、同地に留まり仲哀天皇8年9月15日に125歳で薨去したという。この讃留霊王について、東讃では神櫛王のこととし(櫛梨神社社伝等)、西讃では武卵王(たけかいごのみこ:日本武尊の子)のこととしている。(wikipedia 神櫛皇子より抜粋) wikipediaによれば、讃留霊王の候補者は2名。 その一人が12代景行天皇の子である神櫛皇子で、この皇子は、「記紀」には事績が記録されておりませんが、『日本書紀』に、 「次妃五十河媛、生神櫛皇子・稻背入彥皇子、其兄神櫛皇子、是讚岐國造之始祖也、弟稻背入彥皇子、是播磨別之始祖也。」 「次の妃の五十河媛は神櫛皇子・稻背入彦皇子を生みました。兄の神櫛皇子は讚岐国造の始祖です。弟の稻背入彦皇子は播磨別の始祖です。」 …とあるように、讃岐国造の始祖とあります。 一方、武貝児王(武殻王)は、『日本書紀』によれば、神櫛皇子の異母兄弟である日本武尊と吉備穴戸武媛との間の子の武卵王(たけかいこのみこ)とします。 この王は、 「又妃吉備武彥之女吉備穴戸武媛、生武卵王與十城別王、其兄武卵王是讚岐綾君之始祖也、弟十城別王是伊豫別君之始祖也。」 「又、吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛を妃として、武卵王と十城別王を生みました。兄の武卵王は讃岐綾君の始祖です。弟の十城別王は伊予別君の始祖です。」 …こちらは讃岐綾君の始祖とあります。 阿野郡(あやぐん)は、香川県(讃岐国)にあった郡。綾郡、安益郡、阿夜郡ともいう。(wikipedia 阿野郡より抜粋) 往古讃岐の国府が置かれていたところですね。 2者は共に祖を景行天皇とするものの、前者は「子」、後者は「孫」であり、両者の間では一世代のズレが生じています。 ・景行天皇 - 神櫛皇子(讃岐国造の始祖 讃留霊王??) ・景行天皇 - 日本武尊 -武殻王(讃岐綾君の始祖 讃留霊王??) この讃留霊王をお祀りするのは、讃岐富士(飯野山)の南方にご鎮座するその名も、讃留霊王神社(さるれおじんじゃ:香川県丸亀市飯山町下法軍寺19)。 地図で示すとこの辺り 因みに別所にも讃留霊王の墓なる場所もある。 チョット分かりにくいので広域地図で場所を確認。 ●御祭神は、日本武尊の子である、建貝児王(たけかいこう)。 ●讃王大明神王妃霊地 ん?(´・ω・`) ●讃留霊王神社御由緒 この丘は讃岐の代表的伝説の1つである悪魚退治のヒロイン武殻(たけかいこ)王墳墓の地であり、王を祀る讃留霊王神社の鎮まります丘である。今概要をのべよう。昔景行天皇の御代、南海に悪魚現れ、船をのみ、南海諸国の年貢を略奪するなど、暴虐の限りなく官兵を派すも悉く亡ぼされた。天皇は、皇子日本武尊に討伐を命ず。尊は、その子十五歳の勇士霊子を推す。霊子命を奉し南海に赴き謀を秘めて悪魚に対す。悪魚その軍船を一呑にするも動せず、火をもて腹の中を焼き、肉を割き、悪魚の屍にまたがり福江の浦に漂着す。時に一童子現れその捧くる霊水により毒気に倒れた軍兵皆蘇生す。この伝説を史家曰く、日本武尊内海の賊を平け、その功を子に譲りたりしと。天平年中、行基法師は、魚霊堂を福江の浦に、王居館の地玉井の里に法勳寺を建立し、悪魚の霊を追福した。霊子長して武殻王は、この功によりこの国を賜り、民に養蚕の術を教え給いしが、仲哀天皇の入年9月15日、齢百二十五歳て薨せられ、居館を望む景勝のこの丘に葬り奉る。南海の民廟を立て永く讃岐に留り給いしを祝き、讃留霊王大明神と称え奉る。王の子孫は祖先の業養蚕並に綾織をひろめ、年毎の調貢に綾公の姓を賜り、永くこの地方に栄えた。当地綾野氏もその後裔と伝えられる。後、弘法大師は魚霊堂を奉勳寺に遷し、王の墳墓の上に薬師如来などの仏像などを納め荘厳なる供養を行う。又、社伝によると桓武天皇の御代、神霊此の山に現れ給い、神託により和気氏、王の墓前に社伝を造営すと伝う。 …さて、気になる点がチラホラ(´・ω・`) 疑問点は枚挙に暇がないので考察を進めて参りましょう。 まず日本武尊の子である霊子(武殻王)の年齢についてですが、 本居宣長著の『古事記伝 二十九』に、 「讃岐国鵜足郡に讃留靈王(さるれいおう)という祠がある。その国に讃留靈記という古い書物があり、「景行天皇二三年、南海に大魚の怪物が住んでいて、往来する船を悩ませていたが、倭建命の御子がこの国に下ってきて退治し、そのまま留まって国主となった。それで讃留靈王と呼んだ。これは綾氏、和氣氏の始祖である」と書いてある。あるいはこれを景行天皇の御子、神櫛王だとか、大碓命だとも言い伝える。讃岐の国主の初めは倭建命の御子、武卵(たけかいこ)王だと古い書物に出ているので、武卵王なのかもしれない。今でも国内に変事が起ころうとすると、この讃留靈王の祠が必ず鳴動すると、近年その国のことを書いた書物に書いてある。思うに、讃岐の国造の初めとすれば、神櫛王だろう。だが倭建命の御子と言い、綾君、和氣君の祖というのは、武卵王のようである。それにしても「さるれい」というのはどんな意味の名だろう。讃留靈と書くのは後人の当て字だろう。」 …とあり、倭建命の御子の武卵王が悪魚を退治したのは景行天皇23年のことで、神社のご由緒と合わせますと、同年が武卵王15歳の年であったとします。 『日本書紀』には、父である日本武尊の年齢が分かる箇所があり、 「冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。」 「(即位27年)冬10月13日。日本武尊を派遣して熊襲を撃たせました。そのとき16歳。」 つまり景行天皇27年が日本武尊が16歳の年であったとあります。 また『先代旧事本紀』では、 熊襲を撃ったのは、即位20年冬10月に16歳であると記します。 つまりこの二つの書からは、ヤマトタケルの生年は、「旧」:景行天皇4年か、「紀」:景行天皇11年となりますが、「紀」には、 「其大碓皇子・小碓尊、一日同胞而雙生」 「その大碓皇子と小碓尊は同じ日に同じ胞(エ=胎盤)に包まれて生まれた双子です。」 …とあり、小碓尊(=日本武尊)と大碓皇子は双子であった旨が記され、この双子の兄である大碓皇子は、 「是月、天皇、聞美濃国造名神骨之女、兄名兄遠子・弟名弟遠子、並有国色、則遣大碓命、使察其婦女之容姿。時大碓命、便密通而不復命。」 「この月のこと(景行天皇即位4年2月)。美濃国造の神骨という名の人物に姉の名は兄遠子、妹の名は弟遠子という姉妹がいました。二人ともが有国色と景行天皇は聞いて、その婦女の容姿を見たいを思いました。それで大碓命に景行天皇の代わりに密かに婦女のもとへと送ったのですが、報告もしませんでした。」 …ともあり、景行天皇4年、双子の兄の大碓皇子は、既に父の景行天皇から妻を奪う程に成熟していたことが伺え、双方の辻褄を合わせますと、古くとも『先代旧事本紀』から辿った場合の「景行4年に成熟した双子として生まれた」という体裁となり、父景行天皇と双子の子らの関係は、実は「義理の息子達」である とも考え得ることができてしまうことになります。 また、通常解釈でいきますと、日本武尊の子の武卵王の年齢は、景行天皇23年に15歳ですが、父であるはずの日本武尊は生年換算からこの年は19歳もしくは「紀」を信じるなら12歳であったということになります。 従って武卵王は日本武尊が4歳の時の子、もしくは『日本書紀』を信じると、父が生まれる何と2年前に、子の方の武卵王が生まれていたということになってしまいますヨ(´・ω・`)うん、ありえねー これらの年代の摺り合わせにつきましては、文献や伝承による古代史の調査研究をする上で、学術的な仮説証明を裏付けるために必要な集積データ源にはなるとは思われますが、私的には恐らくあまり意味をなさないという残念な結果が得られるだけになります。(絶対に付合しないからね) 悪魚退治の経路は、『讃岐大日記本』によりますと、 「景行天皇の二十有三年、一の大魚有り。其の大きさ嶋巒の如し。其の去来電の如くして、西海に周流し、四国を匝廻す。以て波瀾を動かし、船舶を沈す。且つ好みて人肉を食ふこと切なり。故に旅客の往来、貢物の運送已に絶す。天子之を愁ひ、官士を以て之を殺さんと欲す。然るに悪魚船翼を砕き、官士を亡す。天子驚駭して、小碓皇子〈日本武尊と号す。〉に勅して曰く「速かに西海に至り、悪魚を殺し、泰平の思いを為さしむべし。」小碓答へて曰く「我凡子にして英雄の士にあらず。霊子〈時に年十五歳。〉を召して之に命ずべし 。」天皇之を喜び、霊子をして西方四国に入らしめ、国吏に命じて、嶋々浦々に兵士を置きて、悪魚の有無を見る。或は土国の南海に来たり、或は阿国の鳴門に来たる。然れ雖も波狂い風烈くして、舟行すること能はず。唯茫然として霊子土国に居す。明くる年三月一日、悪魚讃岐の椎の途に来たる。霊子、之を聞く、而して四月三日此の国に至り、工を集めて船を作り、一千余の士を率ゐて、五月五日悪魚に向かふ。悪魚口を開きて船を呑む。霊子・官士魚胎に入りて、暑きこと火の如し。官士酔ひ伏して、皆尸の如し。霊子、独り心正く身健なり。而して剣を以て魚肉を切り破り、五日に及んで天日を見る。是に由りて悪魚死す。而して讃の福江の浦に寄る。是に於て神童一人瓶水を持ち、来て霊子に奉る。霊子之を呑むに心潔し。神童に問ひて曰く「此の水何処にか在る。」答へて曰く「安場の水是なり。」霊子、之を汲みて、官士の口に入るに、悉く皆蘇生す。又邑人集ひ来て、魚屍を切分す。而る後に霊子、官士を率ゐて鵜足津の邑に入る。時に五月十有五日なり。神童は横汐明神なり。天の王道を守るに依り、神力を加ふること見つべきなり。悪魚の一霊福江の浦に残り、人民を困むること年尚し。後に一箇の伽藍を建て、魚の御堂と号すと今に至るまで泯へざりき。霊子都城に帰らずして、讃地に留まる。故に讃留霊公と名づけ奉る。後に城を香西の邑に築き、当国の司と為る。仲哀帝の八年九月十有五日、齢百二十五にして薨す。」 『南海通記本:讃留霊記』 「常に土佐の南海に住めるが、阿波の鳴門、讃岐 の椎の門、及伊予の水崎に往き来ひ、西州より 船舸往還する所を覘ひつつ、波濤を動し舟楫覆 して、人物を食むこと劇なりき。」 ●小碓・霊子親子の悪魚退治の経路 出発点はいつも土国の南海(海南)と記され、四国の東側をぐるりと回って遠いところでは伊予水崎までを記します。 これらの悪魚征伐についての記述は、『讃岐大日記本』をはじめ、『南海通記本「讃留霊記」』『讃留霊公胤記』『三代物語』『全讃史』『西讃府史』『西讃府史』『豊原道隆寺本「讃留霊公胤記略」』『中尾本(異本讃留霊記)』『讃陽綱目』などに記されており、多少の伝承の違いがみられ、若干の混同がみられます。 征伐者は、 小碓皇子の子霊子 武殻王(讃留王) 霊子(讃留霊公) 倭武尊の功を子の武鼓王(讃留王)に譲って名を改めた武明王(綾の讃留大明神) 武鼓王(讃留霊王) 讃留霊王 神櫛王(讃留王) 小碓尊の子霊公(讃留霊公) 小碓皇子の子霊子(讃留霊公:讃留霊天皇は讃岐の国造の始祖) 大碓命(讃留霊公) 纏めますと、功を譲った小碓命を除外すると、候補者は3名であり、そのうち大碓命・神櫛王については小碓命の同母兄弟ですが、最も多く記録されるのが小碓命の子の霊子こと武殻王です。 これが讃留王ないし讃留霊王ということになります。  では、あらためて讃留霊王神社のご由緒書を振り返ってみますと、 冒頭にいきなり「悪魚退治のヒロイン武殻王墳墓の地」と書かれてあります。 恐らく多くの諸氏はこの「ヒロイン」の記載は真に恥ずかしいミスであると考えているようですが、しかし、社のご由緒書をきちんと読み取れば、「讃王大明神王妃」つまり讃王の妃が「讃留”霊”王(讃留霊王大明神)」であり、これが倭建命の子である「霊子」武殻王のことなのです。 つまり「讃王」と「讃留霊王」は別神であり、二神は夫婦神であるということ。 チョット前振りが長かった(>ω・)笑 もう少し掘り下げていきましょう。  この讃留霊王の「霊」という文字ですが、例えば「産霊:さんれい」と書いて「むすひ」と読み、つまりこの場合「霊」の読みは「ひ」となります。難読文字やね(´・ω・`) また同様に、大日霊貴(天照大御神)や稚日女尊の神名にある「日孁・日霊・日女」はいずれも「ひる-め」(weblio辞書)と読み、従ってこの場合「日」は「ひ」もしくは「ひる」で、「女」・「孁」・「霊」は「め」の読みとなります。 また、「王」の読みは、 「大王」を「おお‐きみ」と読むように「きみ」とも読みます。 従って「讃留霊王」は、「さるめのきみ」の意となります。 また「養蚕並に綾織をひろめ、年毎の調貢に綾公の姓を賜り…」とあるように、「綾:あや」は、布を表す「糸」に、「面と面とが交差してもりあがった状態」を表す「夌」を組み合わせて「筋目のある模様を織り出した織物」を表します。 つまり建貝児王(武卵王・武殻王:たけかいこのみこ)は、養蚕・織物に纏わる神名であり、我が国ではこれらの役割は、古来より「女性」の仕事でもあります。 『日本書紀』には保食神から得た繭を、 「口裏含蠒、便得抽絲、自此始有養蠶之道」 「大神は口の中に、蚕の繭をふくんで糸を抽くことが出来た。これからはじめて養蚕ができるようになった。」 天照大神が口の中に含んで、蚕の繭から糸を得たのがその始まりであるとし、『古事記』では、保食神が大宜津比売(オオゲツヒメ:阿波国の養蚕・食物の女神)に代わって記されています。 また「紀」には、 「又見天照大神 方織神衣 居齋服殿」 「天照大神が衣服を織る齋服殿に居る」 「記」では、 「天照大御神、坐忌服屋而、令織神御衣之時」 「天照大御神は忌服屋で神にささげる服を織らせていたが」 …と天照大御神が機を織るエピソードも記されており、女性が機織りをすることは機織女(はたおりめ)として「記紀」等では多く見られます。 ただし只の一点だけ、『古語拾遺』には、 「令天羽槌雄神(倭文遠祖也)織文布 令天棚機姫神織神衣 所謂和衣(古語爾伎多倍)」 「天羽槌雄神(倭文の遠祖である)に文布を織らせ、天棚機姫神に神衣を織らせる。所謂、和衣(ニギタエ)である。」  ※倭文(しず(と)り)とは、「しつ・おり(織り)」のことで、文布(あやぬの:綾布)=中国の織物を意味する「漢(あや)」の「綾、文様」に対して、倭国の文様の布のこと。 …とあり、いかにも勇ましい男性を彷彿させるお名前の神が「文布」を織っています笑 これをどう考えるかは次に持ち越しましょう。 ちなみに「安房国忌部系図」にある天日鷲命(阿波忌部の祖)と言苫比賣命との間の子である天羽雷雄命 亦の名を武羽槌命は、「忌部氏系図」にある天羽富命(倭文連祖)のことです。 awaotoko様ブログ:「安房国忌部系図からみる由布津主命 又名 阿八別彦命(アワワケヒコ)」より また、「王」の読みも『古事記』では、景行天皇の妃として記録する「銀王:しろがねのみこ」がおり、「王」と書いて「みこ」とも読みます。 つまり「王」は女性にも用いられる場合があるということ。 付け加えますと、この天皇と銀王との子に大江王(おおえのみこ)がおり、更にその子、つまり霊子と同じ世代の人物には、大中津比売命と大名方王(おおながたのみこ)が記録されます。”名方”はどこかな? 讃岐の伝承では、日本武尊の御子(みこ)を建貝兒王(たけかいこおう)・武卵王(たけかひこのみこ)とは書かれているものの、決して男子を意味する「皇子:みこ」の文字は充てていません。 ちなみに「みこ」の文字は他に、「巫女」「神子」「皇女」もありますね。 本稿だけでは纏めきれないので次回に引き延ばすようである(´・ω・`)ノ

  • 27May
    • 「天孫降臨の地は根の国か」の考察の画像

      「天孫降臨の地は根の国か」の考察

      ◆八咫烏(やたがらす) 「『先代旧事本紀』から考察 ②」からの(一応の)続きとなりますが、これまでの私説考察では、この阿波海部が、天孫ニニギが降臨した地であり、また別考察にて、イザナミの眠るとされる根国であることの痕跡を記してきました。 今回は更にこれらを補足する材料として、また前稿に引き続き、饒速日尊の天孫降臨に従った天香語山命から、降臨後は神武天皇を手助けした高倉下命が、後に高志を平定するまでの痕跡について探っていこうかと思います。 ポイントとして、何故天孫は海部に降臨したのか?を考える上で、一考する材料にできればと思います。チョットいろいろ情報量が多めですがご勘弁を…(;´▽`A`` 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 『古事記』大国主命の段に、木国の大屋毘古神を頼った後に、 「可參向須佐能男命所坐之根堅州國、必其大神議也。」 「須佐之男命の居る根の堅州国に行きなさい。 きっとその神がよい考えを持っているでしょう。」 と言いました。」 『古事記』の須佐之男命の説話では、確か母イザナミが眠る「妣の国 根の堅州国」に行きたいと泣き喚き、父イザナギに懇願し許可を得た(もしくは追放された)ことから始まります。 上にありますように、後の大己貴命の話に登場する須佐之男命は、当初の目的通りきちんと根の堅州国に住んでいたことがわかります。 その須佐之男命のもとに身を隠そうとした大己貴命も後に、 「故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。」 「須佐之男命は黄泉比良坂まで追って来て、遥か遠くに居る大穴牟遅神を呼んで言いました。「お前が持ってる生大刀・生弓矢を使ってお前の庶兄弟(腹違いの兄弟)を坂のすそに追いつめて、または川の瀬に追い払って、意礼 大国主神となり、宇都志国玉神となり娘の須勢理毘売を正妻として宇迦の山の麓に太い柱を立てて、高い宮殿に住め。このやろう」 と言いました。」 根国を去った後に「宇迦の山の麓」に宮を構えなさいというお話になります。 先にこの「根国」についての考察を少し書きますが、これを式内社 伊射奈美神社のある美馬市に比定される諸氏もおられます。しかし、私説としては、 「紀」神代上より 「故、其父母二神、勅素戔嗚尊「汝甚無道。不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣。」遂逐之。」 「それゆえに父母の二神は、素戔嗚尊に勅して、「お前は全く道に外れて乱暴だ。この世界に君臨してはならない。遠く根国へ行かなければならない。」と命じ、遂に放逐したのである。」 ※根国は遠い。 一書 「素戔嗚尊、是性好殘害、故令下治根國。」 「素戔嗚尊は、生れつき残酷で害悪なことを好む性格であった。故に根国に下し治めさせた。」 ※下された場所に根国がある。 一書 「其父母勅曰「假使汝治此國、必多所殘傷。故汝、可以馭極遠之根國。」」 「そのため父母は、「もしお前がこの国を治めたならば、必ず多くの人を殺し傷つけるだろう。だからお前は遙か遠く離れた根国を治めよ。」と命じた。」 ※遙か遠いのが根国。 「對曰「吾欲從母於根國、只爲泣耳。」伊弉諾尊惡之曰「可以任情行矣。」乃逐之。」 「素戔嗚尊は、「私は根国で母に従いたいのです。だから泣いているだけなのです。」と答えた。伊弉諾尊は不快に思い「気の向くままに行ってしまえ。」といってそのまま追放した。」 ※黄泉に居る母の伊弉冉尊に従いたい=つまり黄泉=根国 以上のことから、同美馬には、式内社 倭大國魂神大國敷神社がご鎮座されること、そして当地は昔から「ソラ」と呼ばれる地です。 その呼び名から、同地はある基準点から「上」の位置に存在する地域なのであり、そこが「倭」の地なのですから、ある基準点より「下」でなければ「下す」という言葉は使わないはずで、つまり「ソラ」は「根」とは対極の位置にあるからこそ「極遠」と書くのです。 また「記」大己貴命の段では冒頭に記しているように、木国の大屋毘古神から須佐之男命の居る根の堅州国に行きなさい。といわれますが、「木」は地面の下に「根」を張るからこそ「根堅州國」なのであって、つまり「ソラ」➨「木」➨「根」の距離感で繋がっていると考えた方が自然ではないでしょうか。 従ってこの場合、ソラ(美馬)から木国(木頭・木沢のある那賀)へ、そして根国(海部)へと順に下って行ったと考えられるのです。 また伊射奈美神社の論社含むご由緒等からは、当地がイザナミの何に由来するのかについてはほぼ不詳で、唯一『阿府志』に「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山之絶頂にあり、俗に高越大権現 一座 伊弉冉尊 別当摩尼殊山高越寺」とある高越山にのみ「覗き岩」という絶景地があります。 イザナミが決して覗いてはいけないといったにも関わらず、約束を破り覗いたイザナギが、妻の変わり果てた姿を見て、恐れ地上へ逃げ出してしまうという話がありますが、当地がこれに由来する場所であるとすれば、逃走を開始した起点となる場所であるということになります。 それでは話を戻しまして、『古事記』ニニギの段には、 「於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。」 「底津石根に太い柱を立て、空に聳える程に壮大な宮殿を建てて住みました。」 高天原から降臨し、移住したところに宮を建てたとあります。 これらの説話には必ず「底津石根、宮柱布刀斯理、於高天原氷椽多迦斯理」の下りがあり、それぞれの当時の宮があった場所を指しています。 大己貴命の段によれば、根の国で須佐之男命の娘の須勢理毘売を正妻として迎えたことで、大己貴命は大国主命へと名を改め根国を離れますが、その目的は上にもあるように腹違いの兄達を倒すためです。 また、須佐之男命が大己貴命らに示した、「宮柱布刀斯理」宮殿を建ててそこに住めといった場所は、「宇迦の山の麓」であり、これを阿波説で置き換えますと恐らく、阿波国一宮 上一宮大粟神社(御祭神:大宜都比売命で神名は「大いなる食物(うか)の女神」の意味)のご鎮座される神山町の麓を意味していると考えられ、十中八九この場所は鮎喰川河口域であるということになり、次点で園瀬川方面ですが、いずれも眉山周辺地域となります。 東側の小松島方面も一応は麓になりますからこの時点では候補に挙がるでしょう。 また「宇迦の山の麓」を式内論社とする、天石門別八倉比売神社のことであったとすれば、ピンポイントで鮎喰川流域となります。 こちらは海陽町の「芝遺跡」の資料ですが、出土品の痕跡からは、 弥生時代終わり頃~古墳時代初め頃に製作された土器の中では、鮎喰川流域で製作された土器の搬入が最も多いことから、考古的データからもこれは鮎喰川流域との密接な繋がりがあったことがわかります。脚咋→鮎喰ね(´・ω・`) 「記紀」に、須佐之男命が天照大御神とのやり取りの後に高天原から天下り、大宜都比賣を殺した後の記述から「宇迦の山の麓」と想定される場所がわかる記述があります。 『古事記』須佐之男命の段、 「所避追而、降出雲國之肥上河上在鳥髮地。此時箸從其河流下、於是須佐之男命、以爲人有其河上而」 「避追はえて、出雲国の肥の河上の鳥髪といふ地に降りたまひき。此の時箸其の河より流れ下りき。是に須佐之男命、人其の河上に有りと以為ほして」 『日本書紀』同、 「是時、素戔嗚尊、自天而降到於出雲國簸之川上。」 同一書、 「是時、素戔嗚尊、下到於安藝國可愛之川上也。」 「素戔嗚は、安芸国の可愛(え)の川上に天から降りてきました。」 それぞれが示す場所が同じところでないといけませんが、これにつきましても、「ちょいネタから突っ込んで考察 ②」にて考察を記しておりますのでご参照下さい。 要するに「出雲國の肥・簸(ひ)の河」と「安芸国の可愛の川」は、鮎喰川もしくは隣接する園瀬川の両川のこと。 二つの川の間に位置する宅宮(えのみや)神社周辺が往古の安芸国が存在したであろう場所となり、やはり上図と同様の場所となります こちらの『「ひのかわ」と「八岐大蛇」と「須佐之男命」を考える』のサイト様の考察では、定説通りこれを出雲国=島根県の「斐伊川」・「日野川」や安芸国=広島県「江(ごう)の川」に充てると、双方の示す場所が一致しない結果を記されております。 また、共通名である、ニニギの眠る可愛山陵(えのみささぎ)は鹿児島県に比定されており、通説解釈とする可愛の川がある広島県とは大きく離れてしまいますので、地形的な辻褄が全く合わなくなってしまいますね。  「可愛山陵」に陵のあるニニギ、また大国主命は皇居を「宇迦の山の麓」に構えた訳で、私説検証によると、双方とも非常に近い場所に存在することになります。 話をやや移しまして、 「記」には、大己貴命が大国主命を名乗るようになったとあるように、天香語山命が天降って後に手栗彦命(高倉下命)と名を改めたとあります。 両者は何れも後の天皇もしくは天皇に直系する人物の”傍ら”で描かれている人物であるという点において共通しておりますが、『海部氏勘注系図』にある、天香語山命の子の天村雲命の弟にもまた高倉下命(=天香語山命)の名がみえるように、子の弟に実は「親」が隠れているというトリックが存在しています。 親が「子」の「弟」になる条件は何でしょうか 逆算的思考ですが、それは、子の妹を娶り、義兄弟になることです。 天村雲命(=阿多の小椅の君)には、妹の阿比良比売(吾平津媛)がいますが、東征を行う前の日向にいた時に結婚したのは神武天皇です。 熊野(この場合海部)に天降り住んでいた天香語山命は、阿比良比売を娶ったから、後に「弟」高倉下になったのではないですか。 少なくともこの時点で、天村雲命の弟=天香語山命=弟熊野高倉下=手栗彦命は間違いありません。  更に『先代旧事本紀』巻第五 天孫本紀に、 「饒速日尊の孫・天村雲命【またの名を天五多手(あまのいたて)】。この命は、阿俾良依姫(あひらよりひめ)を妻として、二男一女を生んだ。」 仮に阿比良比売(吾平津媛)と阿俾良「依」姫が同一人物であったなら、イザナギ・イザナミと同様に実際は自身の「妹」を娶ったということに集約され、結局のところ系譜は無限ループで描かれているとも考えられます。 また、天孫降臨説話の場合ですと、妻が二人の男性を夫としたのは、木花之佐久夜毘売であり、記紀では夫は邇邇芸命、『播磨国風土記』では伊和大神(大国主命)の妻の許乃波奈佐久夜比売命として記録されています。 大国主命の段でみえる、「意禮爲大國主神」や、景行天皇の段にある、「名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人…」の下りの後に、倭男具那王もまた、倭建命を名乗るようになります。 従ってこれらの考察から、阿波海部の地に至った神は、別の名前に代わるという仮説が生まれます。 テーマを変えて別の角度から考察してみますと、 高天原からニニギが降臨された地は、 『古事記』:「竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣」 『日本書紀』第一の一書:「筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯」 いずれも筑紫の日向の高千穂の「くぢふる峯」としております。 この謎を解くヒントは、「記紀」の神武条にある「久米歌」の中に、 原文 「宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。」 読み下し 「宇陀の 高城に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障らず いすくはし 鯨障り 前妻が 肴乞はさば 立ちそばの 実の 無けくを 扱きしひえね 後妻が 肴乞はさば 柃 実の多けくを 許多ひゑね。」 現代語訳 「宇陀の高い場所で、鴫を獲る霞網を張って、待っていると、鴫が掛からずに、まあなんと鯨が掛かったよ。古女房が菜(食材)を求めたならば、立蕎麦のような実の少ないものを、たくさん木からむしり取って呉れてやれ。若い新妻が菜を求めたならば、いちさかき(柃・榊)のような実の詰まったものを、たくさん木からむしり取ってやれ。」 この現代語訳ですが、普通におかしくないですかね?(´・ω・`) シギ科(シギか、Scolopacidae)はチドリ目に属する科。模式属はヤマシギ属。 なお、シギを意味する「鴫」という文字は奈良時代に日本で形成された国字である。(wikipedia シギ科より抜粋) 鳥の仕掛けで鯨が捕れたと(´・ω・`)それを木からむしり取るんです。 まぁこれを当時のジョークであると解するようです。 「記」の当て字は、「久治良(くぢら)佐夜流」で、「紀」では、「區旎羅(くじら)佐夜離」の字を充ており、これを「く(ぢ)じら」=「鯨」としておりますが、 「くぢ」は鷹の古語です。 「鷹」と「鷲」との違いは体の大きさで、これも「鯨」と「海豚」の区別の仕方と同じですね。 従って「久士布流多氣」「槵觸之峯」は、「鷹が降りて来た峯」の意味でもあるということ。まぁ海部の場合は鯨でもいいんだけど(ノ∀`) 神武記では、建御雷神が平定した時の横刀(布都御魂)を倉の屋根に穴を空けて下した後、 「今、自天遣八咫烏、故其八咫烏引道」 「今、高天原から八咫烏を遣わせよう。 八咫烏が道案内をする。」 とありますね(´∀`) また、兄師木と弟師木を討ち取った後の兵士が詠んだ歌では、 原文 「多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇上加比賀登母 伊麻須氣爾許泥」 読み下し 「楯並めて 伊那嵯の山の 木の間よも い行き(瞻・守)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね。」 現代語訳 「(楯を並べて)伊那佐山の木の間からずっと見張りを続けながら戦ったので、腹がへったよ。(島の鳥)鵜飼の伴部よ、すぐに助けに来てくれ。」 これを奈良県の宇陀市伊那佐山に比定していますが、東征して来た神武軍からすれば知り得もしない余所の山の名前を久米の兵士が歌うはずもありません。 同様に東征経路にはない出雲の稲佐の山を歌ったはずもなく、これは海部の伊那佐での見張り時の話を思い出して歌った歌ではないでしょうか?(´・ω・`) 「海部郡誌」に、 「候舘、鞆浦遠見山にあり(中略)又乳崎山は現今は宍喰町に属しているが昔は鞆浦に属し、其最高点を今も遠見山と称し、狼煙場があったと云ふ。」 この遠見山は、海陽町鞆浦と乳崎山にもあるということ。 そして「紀」神武条には、媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした後に、 「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、號曰神日本磐余彦火々出見天皇焉。」 「畝傍の橿原に宮柱を底磐の根元にしっかりと立てて、高天原に峻峙が届くくらいに高くしよう。 始馭天下之天皇である私は、神日本磐余彦火々出見天皇と名乗ることにしよう。 」 即位二年春二月二日の条に、 「大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。」 「大來目には畝傍山の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこの土地を來目邑と呼ぶのはそのためです。 」 …とあり、「畝傍山以西」に久米一族が移り住んだ村があるはずですが、「名字由来ネット」や「日本姓氏語源辞典」などからみても、「久米氏」は全国的に見ても、 徳島県が人口比率的に最多であり、取分け、 名西郡石井町という非常に狭い範囲内に集中します。 当地は私説において畝傍山に比定しています眉山の西側に位置します。 畝傍の橿原に「太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」な宮殿を建てていますから、こちらの点からもやはり鮎喰川流域の眉山周辺となります。 この周辺には矢野遺跡や名東遺跡など多数の大型遺跡がありますね。 また來目邑と推定する「石井」と「高志(越:こし)」は目と鼻の先の位置となります。 他に畝傍山に比定できる山を探してみても石井町の東側にある山は、気延山か眉山しかありませんので候補は自然と絞られます。 一応現在は眉山に比定しておきましょう。 では別の疑問として、 何故「天孫一族」は、徳島県南部の海部の地に降臨を決めたのでしょうか これにつきましても種々様々な推測ができると思います。 まず海部の海人族と天孫族は別族であると考える場合、或いは同族の別グループが降臨したのではないのかとも考えられますが、その降臨に至った理由として真っ先に候補に挙がるのは、当時の最重要交易ポートの掌握や海人の知り得る航海術の利用などです。  しかしここでもう一つの候補が浮かび上がってきます。 大国主命は当地を去った後に葦原中国を統治した、また神武天皇は当地から東征を開始し始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)となったとするには、それに相当するものをココで得たはずなのです。 「記紀」によれば、大国主命が根国から持ち出したものは、生大刀と生弓矢と天の詔琴。 これが神武天皇だと「記紀・本紀」にある、佐士布都神(布都御魂・韴霊の剣)。 従って二者が共通して当地で得たものは、「剣(つるぎ)」、 それと「妻」です。 「妻」については先に述べたとおり。 「つるぎ」につきましては、阿波海部で作られた剣なのか、別所から持ち込まれた剣なのか、はたまた那佐湾に浮かぶ乳の崎を「つるぎ」とするのか、これについては確証には至らないので後の課題としておきますが、仮に交易で得たものであったならば、ニニギの段、「此地者、向韓國」「この地の者は韓国へ向かい」とあるように、当時の韓国で得た「鉄」を製鉄した、もしくは「つるぎ」そのものを獲得したとも考えられます。 これは「芝遺跡」の資料に書かれてあるまとめ考察からですが、 「弥生時代後期中頃と考えられる竪穴住居から、鍛冶を行っていたと考えられる炉跡、小破片を含む鉄製品、サヌカイト片、朱付着石杵を確認した。」 …と記されており、明らかに「製鉄を行っていた痕跡」が確認できます。 弥生時代後期中頃は、 西暦200年前後、つまり卑弥呼の時代にあたります。 岩利大閑氏著の「道は阿波より始まる」その一に、須佐之男命の項に、 「須佐之男命によって初めて鉄の生産が伝えられ、急速に阿波国は発展していきました。(中略)諸国では八坂神社、祇園神社等で祀られますが、阿波国一国のみで熔造皇神社と称されています。(中略)以乃山(現眉山)の山頂にあった神社は現在山下の蔵本八坂神社に下されて祀られていますが、元来以乃山山頂の熔造皇神社に、登り口八坂があり、八坂神社の別称が起こりました。万葉学者折口信夫がその最後の著書「死者の書」の文中で、突然一行「須佐之男命が下ったのは阿波だった。」と書き残したのも…云々」…とあり、阿波国では製鉄の神でもあります。 神武は赤銅八十梟帥(あかがねのやそたける)に対抗するべく、椎根津彦と弟猾に命じて密かに天香山に埴を取らせ、誓約の後に、飴(たがね)を作っています。 「天皇又因祈之曰「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」乃造飴、飴卽自成。」 「天皇はまたここで誓約をしました。「わたしは今、八十平瓮で水無しに飴(たがね=あめ)を作ろう。飴が出来たならば、私は必ず武力を使わずに天下を平定できるだろう」 それで飴を作りました。飴が自然と出来ました。 」 これを食べ物の飴(あめ)とし、神武自ら飴を作ったと訳する方がおられますが、これは刀の銘を切る道具の「タガネ」のことかも知れません。 神武の皇后の名前にある、媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)、その母の名も勢夜陀多良比売で、この神名にある、 たたら製鉄とは、日本において古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴(ふいご)が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とする。近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った。(wikipedia たたら製鉄より抜粋) 「記紀」の神武条では、やたらと製鉄に関するキーワードが並びます。 従って手繰山の名と同名の手栗彦命(高倉下)の話からも、当地海部は既に鍛治製鉄の先進地であったのかも知れません。 こちらは現手倉湾から愛宕山への登り口 周辺の岩は、 往古は海中、そしてその後は扇状地であったために砂岩が多く、加工しやすい岩が多いのですが、どう見ても赤茶けておりますよね。 側を流れる母川の河原の石も赤錆が次第に石を纏い後に段々と赤茶けてきます。 地質の専門家ではないので詳しくは分かりませんが、恐らくこれは酸化鉄を纏う鉄砂岩ではないでしょうか? 御覧の通り岩の表面から察するに、お世辞にも高品質なものではないことがわかります。 しかしながら、母川上流域から河原の石が赤茶けるため、恐らく更に上流部から同様の岩石層が存在するのだと思われます。 また鞆浦の観光マップには、 「海部一族」は、海部川流域でとれる「砂鉄」などの豊かな資源を利用し「刀」の創作をはじめ云々…と書かれていますね。 恐らくわずかながら砂鉄も採れていたのでしょう。 後世鎌倉期以降は、島根県より良質な鉄を獲得し、多くの名刀工を抱えた海部氏一族は、海部刀を大量に製造した地として名を馳せることとなります。 また阿波から出雲を目指した痕跡も見え隠れしますから、恐らくそれは鉄獲得ルートであったのかも知れません。 逆に何のルーツもないのに四国の南の辺鄙なところで突如刀の大量生産をする集団が存在したことの方に違和感を覚えるはずです。 さて、今上天皇がご即位される前年に、何故か阿波海部の地を訪れています。 これは全くの偶然なんでしょうかね 今回はここまでにしておきます(´・ω・`)ノシ

  • 21May
    • 『先代旧事本紀』から考察 ②の画像

      『先代旧事本紀』から考察 ②

       ●布都御魂(ふつのみたま) 一応『先代旧事本紀』から考察 ①の続きとなります(´・ω・`)ノ 「記紀」等と同様に『先代旧事本紀』も我が国の古代歴史解明に繋がる参考資料として十分に扱えるのではないのかといった意味合いも込めて表題の続きとしますね。 ではあらためまして、今回は『先代旧事本紀』から考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 天香山命(あめのかぐやまのみこと/あまの-)は、日本神話に登場する神。 ●概要 天香語山命、天賀吾山命等とも書かれるため、「あめ(ま)のかごやまのみこと」とも読む。 『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(旧事本紀では天火明命と同視する)と、天道日女命との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命(うましまぢ-)とは母神を異にする兄弟神となっている。『新撰姓氏録』にも見え、後裔氏族として尾張氏(左京神別等)を始め、伊福部氏(左京神別下)・六人部氏(山城神別)・津守氏(摂津神別)等を挙げている。『諸系譜』第三十三冊には武乳速命の子と伝わる。 『先代旧事本紀』の「天神本紀」には、饒速日尊の天孫降臨に従った32柱の1柱に数えられ、「天孫本紀」では、紀伊国の熊野邑(和歌山県新宮市や紀ノ川流域が比定地になっている。)に住み、別名を「手栗彦命(たくりひこ-)」、または「高倉下命」というとあり、以下『記紀』に載せる「高倉下」の伝承と同じ内容を記す。 また、新潟県の彌彦神社の社伝に、神武天皇の大和国平定後、勅命を受け越国を平定、開拓に従事したと伝える。(wikipedia 天香山命より抜粋) さて、この天香山命ですが、『先代旧事本紀』巻五 天孫本紀に、 (現代語訳 天璽瑞宝『先代旧事本紀』より) 「饒速日尊の子の天香語山命(あまのかごやまのみこと)。[天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という]。この命は、父の天孫の尊に随従して天から降り、紀伊国の熊野邑にいらっしゃった。」 …とあり、天降(あまくだり)とは、巻三 天神本紀にもあるように高天原より降ることで、つまりは「天孫降臨」のことです。 この天孫降臨ですが、徳島県最南の地「海部」に降臨したという私説に基づきます。 つまり「紀伊国の熊野邑にいらっしゃった」とある天香語山命は、これまでの過去の考察から、類似地形で阿波を隠匿していると推察しておりますので、実際はココ これら検証の推察についての一部を貼っておきます「御刀媛から考察 ⑤」 従って、 「天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)、または高倉下命(たかくらじのみこと)という」 …とあるように、当地海部郡海陽町(旧海部町)鞆浦那佐を「阿波海部取調廻在録」を眺めてみますと、 鞆浦の小名 那佐 上はり 字 さんこふの前・高くら・荒神山・水谷山・おんさき・大宮・手繰山・太夫谷・小三光・なさ浦 宍喰 内那佐 字 かに谷・石の間・橘・いそう・はせ出・薬師谷 …とあり、手繰(たぐり)山は、那佐湾の口にある現手倉(てぐら)の地名でみえます。 『先代旧事本紀』には、天照大神が武甕槌神に葦原の瑞穂国が騒がしいからこれを討ちなさいと仰せになり、武甕槌神は「私が出向かずとも、私が国を平らげたときの剣を下したならば、自然に平定されるでしょう」と高倉下命に夢語りします。 「我が剣の韴霊(ふつのみたま)の剣を、今お前の家の庫(くら)の内に置いておく。それをとって、天孫に献上するように」と言伝し、高倉下命が目を覚ますと、 「剣があって庫(くら)の底板に逆さまに立っていた。そこで、それをとって天孫に献じた。」と記します。 地図で地形をご確認して頂けたらと思いますが、出雲国の「剣」である島根半島には稲佐の浜がありますが、 剣が「逆向き」になっているのが、阿波国海部郡鞆浦の和奈佐(現那佐)の浜。 そこに天降ってのちに手栗(たぐり)彦命。 そして、高倉の下側には、 確かに「剣」八幡宮が御座いますね。 これにより何を以って「剣」としたかはお分かりになろうかと思います。 この手繰山と、式内社 和奈佐意富曾神社の旧ご鎮座地であった鞆浦大宮山との間には「愛宕山」があり、 頂上へと続く参道の両脇には石仏がずらりと並びます。 見晴らしの良い頂上にこの愛宕神社がご鎮座されます。 「阿波志」に「愛宕山 在鞆浦南、上有愛宕祠、為禁山、南瞰蒼海、東望紀伊、瀬海諸邑一覧而尽」とあり、山頂に火防(ひぶせ)の神である驒遇突智命(かぐつちのみこと)をお祀りしております。 カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。 神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張」で殺された。 ●信仰 771年(宝亀2年)に創祀されたとされる火男火売神社は別府温泉の源である鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神としても信仰されている。 秋葉山本宮秋葉神社を始めとする全国の秋葉神社、愛宕神社、野々宮神社などで祀られている。また島根県安来市の意多伎神社(おだきじんじゃ)もこの神との関連の指摘がある。 産田神社(三重県熊野市有馬町)で伊奘冉尊により出産されたとする同神社の社伝が存在する他、花窟神社(三重県熊野市有馬町)には境内に鎮座する伊弉冉尊の御陵の対面に軻遇突智の御陵も併せて鎮座している。先の産所とされている産田神社が軻遇突智の墓所であると言う説もあり、いずれにせよ熊野に非常に縁を持つ神である。(wikipedia カグツチより抜粋) カグツチは、イザナミが産んだ神であり、これが火の神であったために陰部が焼かれて亡くなることになります。 『先代旧事本紀』巻一 神代本紀 陰陽本紀には、 カグツチを産んだイザナミは、その死の間際に嘔吐し、それが化生した神が金山彦神・金山姫神の二神です。 この愛宕神社の読みなのですが、 愛宕(読み)あたご・おたぎ:山城国(京都府)の郡名。洛北から洛東にわたる地域で、北は山城の国境、東は東山連峰に至り、西は鷹ケ峰、雲ケ畑、南は泉涌寺(せんにゅうじ)に及んだ。平安奠都(てんと)以前には、平安京の左京の大半をも含んでいたようである。おたぎのこおり。おたぎぐん。(コトバンク 愛宕より) また、上の『先代旧事本紀』での「吐」の読みは「タグリ」と書かれてあり、  吐る(読み)タグル:口からはく。へどをはく。もどす。(コトバンク 吐るより) ※天降って後の名を手栗彦命(たぐりひこのみこと)ですよヨ。カグ-ツチとは? また、wikipedia「カグツチ」の項にもあるように、 意多伎神社(おだきじんじゃ:島根県安来市飯生町679) 意多伎神社 オタキノカミノヤシロ。九條家本・武田家本・ 吉田家本とも「意多伎神社」と記し、武田家本・吉田家本ではこれをイタキと訓ませてゐるが、新訂増補國史大系本 では神祇志料によつてオタキと改めてゐる。風土記の「意陀支社」に相當するが、風土記でも『出雲風土記鈔』や『萬葉緯』所収の出雲國風土記ではこれを「意陀底」と記してゐる。『雲陽誌』にはその名を見ず、『出雲神社巡拝記』に至つて「飯生村(おたき山)飯生大明神、記云意陀支(おたき)社、式云 意多伎(おたき)神社」となる。明治以来この飯生大明神が式内意多伎神社であるとして、社名を改め、今日に至つてゐる。 大國魂命・大田命・倉稲魂命をまつる。大田命は式にいふ「同社坐御譯神社」の、倉稲魂命は風土記不在 神祇官社の「食師社」の祭神であるといふ。これはすでに 『出雲神社巡拝記』に見えてゐるところであるが、これに對して内山眞龍の『出雲風土記解』には、「意陀支社、鈔本伊陀氐、式云佐久多神社、同社坐韓國伊太氐神社と有。意陀支と伊太氐を合考るに、伊太支社にて、支はケリの約り、五十猛也。意ハ於のかなにて、伊にあらず。意陀支ハ大猛にて五十猛も同。紀伊國三井寺の北に伊太祁曾社有。同神也」と説いてゐる。『出雲國式社考』にはこれを紹介し、「意多支は大猛にて五十猛と同じといへれど、五十猛神を大猛神と申せる事、餘に例もなければ、此考も宜しとも云がたし」としてゐるが、明治の『特選神名牒』には「五十猛を大猛と唱へ奉るはいかがながら、この御同社に御譯神の坐を思へば、五十猛神は韓國によしあれば、眞龍が説によりてなほ熟く考ふべきなり」としてゐる。 創立年代不詳であるが、社伝としては風土記、飯梨郷の条に見える大國魂神降臨説話に結び付けてこれを説いてゐる。すなはち「飯梨郷、郡家東南卅二里、大國魂命天降坐時、當此處而御膳食給、故云飯成。神亀三年改字飯梨」とある、その大國魂命が降臨されたところであるといふのである。そのとき神は自ら鋤をとり、農耕を教へ、医薬を授け、産業を拓きたまふた。この大國魂命を祀つたのがすなはち当社であつて、社号「意多伎」は「於多倍(おたべ)」すなはち食物を食するの意であるといふ。また合殿神に食師社があるるのも、そのとき大神に御膳をすすめた地であるが故だと伝へてゐる。 同社坐御譯(ミヲサ)神社 現在では「大田命」として前記意多伎神社に合祀してゐる。『出雲神社巡拝記』にはこれを飯生村飯生大明神合殿の稲立大明神であるとし、「祭神おほたの命、當社太田神とハ猿田彦大神の御事也」としてゐるが、『出雲式社考』には「風土記に是も意多伎社とあり、在所未レ考。異國の語を此國に通ずるも、神の御所爲ならでは初はなりがたき事なれば、此神は其事を始め給ひ守給ふ神にや。五十猛神は韓國によしある神なれば、此社や五十猛神にもあらむ。」と説いてゐる。社伝では、「御譯」とは「教へ」の意であり、この神は大國魂命に仕へ、開拓の先立ちとなつて教への大役を果たされた神だとなつてゐる。 -『式内社調査報告』-(玄松子の記憶 意多伎神社より) 非常に興味深い内容がみられますなぁ。 また、天香山命の事績は、確か新潟県の彌彦神社の社伝によると、越(こし)国平定でしたよね。(誰が高志の何を倒したのかな?) 更に、wikipedia「高倉下」の項には、 『海部氏系図』の勘注系図においては、始祖彦火明命の児天香語山命の註に、大屋津比賣命を娶り高倉下を生んだと記述されている。始祖の孫(天香語山命の子にあたる)天村雲命の弟として、“弟熊野高倉下 母大屋津比賣命”と表記されている。(父が子の「弟」になる⁉) これについては一度「倭建命を穿って考察 ⑥」にて推考察をしておりますのでご参考下さいませ。 さて、ニニギの「天孫降臨」では、降臨されたところについてこうも書かれております。 『日本書紀』一書第六に、 「降到之處者、呼曰日向襲之高千穗添山峯矣」 「降り到る処を日向の襲の高千穂の添山(そほりやま)の峯という。」 また同場所を、 「到於日向襲之高千穗槵日二上峯天浮橋而」 「日向の襲の高千穂の槵日の二上峯の天の浮橋に到る。」 まず先の”添山(そほりやま)の峯”についてですが、延喜式神名帳に添下郡10座のうちに「添御縣坐神社」が見え、これは現在の奈良県奈良市三碓町に比定されています。 ちなみに三碓町の読みは、「みつがらす」で、「碓」=「カラス」と読むということですネ。これはちょいネタになりそうですが笑 社名の「添」は「そ-ふ(う)」と読み、御縣は(みあがた)で、ストレートに読むと、「ソフのミアガタに(イ)マス‐カムヤシロ」ということになります。 ◆祭神 建速須佐之男命 櫛稲田姫命 武乳速命 「そほり」繋がりとして、須佐之男命の子である大年神と伊怒比売との間の子に、新羅からの渡来神との説のある曾富理(そふり)神名がみえますので、須佐之男命からすれば「孫」となりますね。 余談となりますが(余談ばっかりやな笑)、この「御縣」についてなのですが、延喜式・祈年祭祝詞に、「御県に坐す皇神等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布(添)と御名は白して、此の六つの御県に生ひ出づる甘菜辛菜を持ち参来て、皇御孫命の長御膳の遠御膳と聞し食すが故に、皇御孫命の宇豆の幣帛を、称辞竟へ奉らくと宣ふ」とあるように、朝廷で用いられる蔬菜類の栽培・貢納に携わる朝廷直轄領を指し、御縣坐神とはその守護神をいいます。 従って、「皇御孫命の長御膳(徳島県沿岸部旧名:長國の御膳)」の御縣である、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布(添)の地名の元は徳島県の旧長国域になければなりませんね。 社名にも「添御縣坐神社」とありますから、「坐」は、あるところから今ここに”坐:イマス”(移した)の意味ですので、これらは後に大和国(奈良県)に移された地名であると考えた方が自然でしょう。…おっと、ついつい脱線しそうになった(´・ω・`)悪い癖やな 『新撰姓氏録』(815年)では、「大和国神別(天神)添県主 津速魂命男武乳遣命之後也」とみえ、『旧事本紀』には、興登魂命の兒 天児屋根命(中臣連等ノ祖)の弟として武乳遺命(添縣主等ノ祖)とあります。 また「角川日本地名大辞典」によりますと、 添(古代):大和期から見える地名所布・層富とも書く大和高原北部および奈良盆地北端を含む広大な地域大和北部の総称語源については、「鉄錆のある地」またはソブはソバの転で「自然堤防」とする説などがある。(古代地名語源辞典) この層富縣については、『日本書紀』神武条に、 「己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者。丘岬、此云塢介佐棄。」 「このとき層富縣の波哆丘岬には新城戸畔者という人物がいました。 」 …とあり、「波哆」=「ハタ」と読んでいますが、漢字辞典によると、 「哆」の字は「タ」の他にも「シ」「シャ」とも読むことから、別読として「ハシ」とも読める訳なんですな。 要約しますと、神武紀にある層富縣は「ハシ丘岬」となるところ。 また”槵日の二上峯”についても、「かいふのほそみち 08 鞆浦愛宕山遊歩道」によりますと、 「フタコブラクダのように二つのピークを擁し、愛宕山では山頂近くに鎮座する愛宕神社。云々…」 と書かれてありますように、地形は、 二つの峯の間から櫛日が射すイメージも何となく想像ができますね。 これらのキーワードが全て当て嵌まらなければなりませんが、「御刀媛から考察 ⑤」にて書いておりますように、空海が箸を立てたの説話がある野江波切不動尊。 その岬側にあるのが手繰山(手倉山)となります。 長引いてきましたので次に続くようである(´・ω・`)

  • 16May
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      『先代旧事本紀』から考察 ①

       ◆天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと) 先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。著者は不明だが、「天孫本紀」に尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述し、物部氏に関わる事柄を多く載せるところから、著者は物部氏の人物であるという説もある。 蘇我馬子などによる序文を持つが、大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前の平安時代初期に成立したとされる。江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。近年序文のみが後世に付け足された偽作であると反証されたことから、本文は研究資料として用いられている。 ●成立時期 本書の実際の成立年代については推古朝以後の『古語拾遺』(807年成立)からの引用があること、延喜の頃矢田部公望が元慶の日本紀講筵における惟良高尚らの議論について先代旧事本紀を引用して意見を述べていること、藤原春海による『先代旧事本紀』論が承平(931年 - 938年)の日本紀講筵私紀に引用されていることから、『先代旧事本紀』は博士・藤原春海による延喜の『日本書紀』講書の際(904年 - 906年)には存在したと推定され、『先代旧事本紀』の成立は大同年間(806年 - 810年)以後、延喜書紀講筵(904年 - 906年)以前と推定されている。 ●評価 序文に書かれた本書成立に関する記述に疑いが持たれることから、江戸時代に今井有順、徳川光圀、多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らに偽書の疑いがかけられていたが、近年の研究により後世付け足された序文以外の価値は再評価されている。鎌田純一は「しかしその一方で新井白石はこれを信頼しているし、その後の水戸藩でも栗田寛などは「国造本紀」、あるいは物部氏の伝記といったところを非常に重視しています…ですから完全に偽書扱いされてしまうのは、江戸時代というよりも、むしろ明治からあとのことでしょう」と述べている。 ●研究者による再評価 御巫清直は著書『先代旧事本紀析疑』にて「序文が悪いのであり、それを除けばどこにも偽作と見なすべき理由はない」と見なし、1947年飯田季治は『標注先代旧事本紀』の解題で偽書説を批判し、1958年G.W.ロビンソンは『旧事本紀攷』にて「『日本書紀』が部分的には『先代旧事本紀』を材料にしたとする説」を著した。 1962年鎌田純一の『先代旧事本紀の研究 研究の部』・『校本の部』は「研究対象としての『先代旧事本紀』の復権は、鎌田の著作なしにはあり得ないことであった」と評価されている。鎌田純一は、先に成立していた本文部分に後から序文が付け足されたために、あたかも本書が成立を偽っているような体裁になったとして、本文は偽書ではないと論じた。鎌田は序文に関して、奈良・平安初期の他の文献の序文と比べると文法が稚拙であること、延喜4年(904年)の日本紀講筵の際に『古事記』と『先代旧事本紀』はどちらが古いかという話題が出ていること(当時すでに序文が存在していたならそもそもそのような問いは成立しない)、鎌倉時代中期の『神皇系図』という書物の名を記していることを指摘し、序文の成立年代を鎌倉時代以降とした。すなわち、9世紀頃に作られた本来の『先代旧事本紀』には製作者や製作時期などを偽る要素は無かったということである。2001年の上田正昭との対談では、序文が付け加えられたのは「古代末期か中世初期」と述べている。 ●資料価値  本文の内容は『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』の文章を適宜継ぎ接ぎしたものが大部分であるが、それらにはない独自の伝承や神名も見られる。また、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)に関する独自の記述が特に多く、現存しない物部文献からの引用ではないかと考える意見もある。 巻三の「天神本紀(てんじんほんぎ)」の一部、巻五の「天孫本紀(てんそんほんぎ)」の尾張氏、物部氏の伝承(饒速日尊に関する伝承等)と巻十の「国造本紀(こくぞうほんぎ)」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられる。「天孫本紀」には現存しない物部文献からの引用があるとする意見もあり、国造関係史料としての「国造本紀」と共に資料的価値があるとする意見もある。(wikipedia 先代旧事本紀より抜粋) 詳細につきましては、wikipediaにてご確認下さいませ(´・ω・`)ノ いつものようにつらつらとwikiを抜粋添付しておりますが、なぜこのようなものを冒頭に載せているのかといいますと、この『先代旧事本紀』は、「偽書」の疑いがもたれていた…ということです。 日本の古代史を研究されている方からすれば、先代旧事本紀偽書説はもはや周知の事実なのですが、何故そのように考えられているのかという要因として、 ①序文に推古28年(620年)に推古天皇の命によって蘇我馬子&聖徳太子が編纂撰定し、推古30年(622年)に完成したものと書かれてあるにもかかわらず、推古朝以後の記事がみられること。 「国造本紀」の中に、加我国(かがのくに)が「嵯峨朝の御世、弘仁14年(823年)に越前国を割て、加賀国と為す」との記事がみられますね。 ②淡海三船(722-785年)が撰した天皇諡号が記してあること。 つまり『先代旧事本紀』には、推古朝以後の『古語拾遺』と酷似した箇所があり、『古語拾遺』が『先代旧事本紀』を引用したのではなく『先代旧事本紀』が『古語拾遺』を引用したと考えられたため、江戸時代の国学者らによって偽書ではないかという疑いがかけられるようになったという経緯が存在します。 しかしながら、wiki資料価値の項にもあるように、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』にはない独自の伝承や神名が多く見られること、特に「国造本紀」には、他の文献に存在しない独自の所伝がみられることが挙げられます。 鎌田純一氏によれば、序文に関しては、他の文献の序文と比べると文法が稚拙であること等から、先に成立していた本文部分に後から序文が付け足されたために、あたかも本書が成立を偽っているような体裁になったと考えられることを指摘しています。 御巫清直氏は、著書『先代旧事本紀析疑』にて「序文が悪いのであり、それを除けばどこにも偽作と見なすべき理由はない」と見なしています。 また、本居宣長は『古事記伝』巻一において、「"舊事本紀と名づけたる、十巻の書あり、此は後ノ人の偽り輯(アツ)めたる物にして、さらにかの聖徳太子命ノ撰び給し、眞(マコト)の紀(フミ)には非ず"……"但し三の巻の内、饒速日命の天より降り坐ス時の事と、五の巻尾張連物部連の世次と、十の巻の國造本紀と云フ物と、是等は何ノ書にも見えず、新に造れる説とも見えざれば、他に古書ありて、取れる物なるべし、"こうした記事は古い文書の記事を採用して書き綴った記録であり、後世にほしいままに造作した捏造の物語ではない。」としています。 私的にも、記されてある物部氏の系譜などは、明らかに「記紀」とは別の古伝承から蒐集編纂したと考えられる内容であり、物部氏の伝承自体が全て偽作されたものではないはずで、物部氏の伝記としての資料価値は非常に高いものと考えております。 後年の『先代旧事本紀』の編著者(これも諸説ある)が、撰修にかかわった痕跡が継ぎ接ぎにように補足されていることから、これ即ち偽書であるとするのは早計であり、考え方として、『日本書紀』は日本の正史であり内容云々をみても偽書とせず、『古事記』も偽書説を裏付ける決定的なものもなく、『先代旧事本紀』のみを平安初期に加筆編纂された痕跡があるからといって、聖徳太子&蘇我馬子によって編纂されたとすることは執筆成立年代を偽っているという観点から=偽書と考えられていたということでしょう。 その内容からは、上にも挙げてあるように、物部氏を紐解く歴史資料としての価値は非常に高く評価されてもよいものと考えられており、少なくとも906年までに成立していた古い歴史書であることには間違いありません。  『天皇記』(てんのうき、すめらみことのふみ)は、620年(推古天皇28年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書である。 『日本書紀』推古28年の是歳条に次のようにある。 「皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふむ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。」 事実とすれば、『帝皇日継』・『帝紀』とほぼ同様の内容で、皇室の系譜を記したものだと推定される。また、未完であった可能性が高い。『国記』とともに編纂された。 また、この年が推古天皇の実父(聖徳太子には祖父)にあたる欽明天皇の50年忌にあたることから、同天皇の顕彰とその正統性を示すことを目的に皇統譜の整理を意図して行われたとする説もある。 645年(皇極5年)に起きた乙巳の変の際に、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷の家が燃やされ、そのとき『国記』とともに焼かれたとされる。あるいは国記のみが焼ける前に取り出されて残ったともいわれるが、国記も現存していない。 『日本書紀』皇極4年6月条に次のようにある。 「蘇我蝦夷等誅されむとして悉に天皇記・国記・珍宝を焼く、船恵尺(ふねのふびとえさか)、即ち疾く、焼かるる国記を取りて、中大兄皇子に奉献る」 (wikipedia 天皇記より抜粋) 実際に、本当は『国記』・『天皇記』も蘇我馬子&聖徳太子が編纂したもので、「乙巳の変」の際に焼失してしまった(とした)。もしくは上にあるように焼ける前に取り出されて残った。 これらを元に、後の平安期に新たにリニューアル完成させたものが『先代旧事本紀』なのではないのでしょうかね まぁ例の如く私的な考えではありますが、そういう指摘ですヨ。 …というところで、また次回に続くと思われる(´・ω・`)ノ いつもそうだが前回の続きはどこいった⁉(ノ∀`) いずれ書くから、たぶん...いずれね...|ω・`)

  • 26Apr
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      御刀媛から考察 ⑤

       伊邪那岐(イザナギ)       伊邪那美(イザナミ) 「御刀媛から考察 ④」からの続きです(´・ω・`)ノ 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 当シリーズもついに最後。 今回は、大国主命の国譲り~天孫降臨の話(木花之佐久夜毘=阿津姫)が、記紀における神代七代最後に現れた女神とされるイザナミであるかの検証考察となります。 またこれが景行天皇とその妃達(御刀媛ら)とも同じ関係とならなければいけませんね。  早速ですが考察して参りましょう。 まず、イザナギが向かった黄泉国とはどういったところなのでしょうか。 例の如くwikipediaによれば、 黄泉(よみ)とは、日本神話における死者の世界のこと。 ●『古事記』 黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂といい、葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。古事記には後に「根の堅州国」というものが出てくるがこれと黄泉国との関係については明言がなく、根の国と黄泉国が同じものなのかどうかは説が分かれる。黄泉比良坂の「坂本」という表現があり、これは坂の下・坂の上り口を表しているという説と、「坂」の字は当て字であり「さか」は境界の意味であるという説とがある。また古事記では、黄泉比良坂は、出雲国に存在する伊賦夜坂がそれであるとしており、現実の土地に擬されている。 追いすがる妻やその手下の黄泉の醜女達を退けるため、黄泉路をふさいだ大石を、道反の大神といった。道反の大神は岐神として、日本各地に祀られている。 ●『日本書紀』 根の堅洲國は日本書紀では根の国という。書紀においても、古事記と同様、黄泉国と根の国は別々の箇所に登場し、両者の関係は不明瞭である。 しかし古事記がイザナミの葬られた地を出雲とするのに対し、日本書紀は熊野の有馬村の花の窟であるという(このことから黄泉国も熊野にあるとする考えもある)。 なるほど、黄泉国についても島根と熊野の双方の記述がされてあるのでわからんといったところでしょうか。 通説では黄泉の住人となったイザナミの御神陵は、 『古事記』:出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山、 比婆山久米神社(ひばやまくめじんじゃ)は、島根県安来市伯太町にある神社である。 比婆山 (安来市)の山頂にある奥ノ宮と麓にある下ノ宮がある。山頂には国生みの母である天津神伊邪那美之尊の御神陵と言われる古墳がある。古来より、子授かり・安産の神社として信仰を集める。 ◆主祭神 伊邪那美之尊 ●歴史 古事記において「かれその神避りし伊弉那美の神は、出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺、比婆の山に葬りき」と記されている通り、国生みの母神は現在の島根県安来市伯太町横屋にある比婆山の山頂に埋葬され、現在も御神陵と言い伝えられる古い塚がある。(wikipedia 比婆山久米神社より抜粋) 『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村、 花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)は三重県熊野市有馬町に所在する神社。伊弉冉尊と軻遇突智尊を祀る。 ●概要 『日本書紀』(神代巻上)一書には、伊弉冉尊は軻遇突智(火の神)の出産時に陰部を焼かれて死に、「紀伊国の熊野の有馬村」に埋葬され、以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ったと記されている。 神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる高さ6m、幅2.5m、深さ50cmほどの大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ、白石を敷き詰めて玉垣で囲んだ拝所が設けられている。 ●ほと穴 古事記や延喜式神名帳に「花窟神社」の名はなく、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。(wikipedia 花窟神社より抜粋) イザナミの終焉の地がまさかの三重県熊野ではないはずですが、『日本書紀』に記載されているのには何か意味があるはず。 比婆山久米神社の御朱印からも、やはり「熊野」との繋がりがあるようです。 宮内省は八雲村の神納山を比定地の中で最も有力として「陵墓参考地」に認定し、内務省は船通山の北にある御墓山を「伊弉冉尊御陵流伝地」に指定していた。とあり、やはり出雲とします。 例の如く地形を俯瞰視 古事記の御陵地 日本書紀の御陵地 この2つの全く違う場所から謎を解く訳ですが、実は黄泉の国まで追いかけて来たイザナギの説話にヒントが隠されてあります。 「イザナギ」については、一応リンクを貼っておきますので詳しくはそちらをご確認下さいませ。 それでは古事記の記述に沿ってみていきましょう。 やはり物語を通して読まないと前後の繋がりが分かりづらいからネ(´∀`) 『古事記』:伊邪那岐命と伊邪那美命より 「是欲相見其妹伊邪那美命、追往黄泉國。爾自殿縢戸出向之時、伊邪那岐命語詔之、愛我那迩妹命、吾與汝所作之國、未作竟。故、可還。爾伊邪那美命答白、 悔哉、不速來。吾者爲黄泉戸喫。然愛我那勢命、【那勢二字以音。下效此】入來坐之事恐。故、欲還、旦具與黄泉神相論。莫視我。如此白而、還入其殿内之間。甚久難待。故、刺左之御美豆良、【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕而、燭一火入見之時、宇士多加禮斗呂呂岐弖、【此十字以音】於頭者大雷居、於胸者火雷居、於腹者黒雷居、於陰者拆雷居、於左手者若雷居、於右手者土雷居、於左足者鳴雷居、於右足者伏雷居、并八雷神成居。」 「伊邪那岐命は死んだ伊邪那美命にどうしても会いたくなり、黄泉国へ追っていった。黄泉国の殿舎の塞がれた戸から出迎えた伊邪那美命に向かって、伊邪那岐命は「愛しい我が妻よ、私と君と一緒に作った国はまだ作り終わってはいない。だから一緒に帰ろう。」といった。これに伊邪那美命は答えて「悔しいことです。なぜもっと速く来てくれなかったのです。私は黄泉国の竃で煮たものを食べてしまいました。もう現世には戻れません。でも愛しい我が夫がせっかくここまで来てくれました。私が帰れるように黄泉神と相談してみましょう。その間決して私を見ないで下さい」といった。伊邪那美命はそういってから殿舎の中に帰っていった、長い間待っていたが待ちきれなくなり、結った髪の左に刺していた湯津津間櫛の両端にある太い歯を一つ取って、一つ火を灯して中に入り見た時、伊邪那美命は蛆にたかられ、咽がかれてむせぶような音をたてていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、陰には拆雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷、右の足には伏雷、あわせて八はしらの雷神が化生していた。」 イザナギがイザナミを追って黄泉の国に行くターン。 内容は現代語訳を読んで頂くとして、ポイントはイザナミの体には八雷神が化生していたということ。 まだこの時点ではよくわかりません。 「於是伊邪那岐命見畏而。逃還之時。其妹伊邪那美命言。令見辱吾。即遣豫子母都志許賣【此六字以音】令追。爾伊邪那岐命取黒御鬘投棄。乃生蒲子。是[才庶]食之間逃行猶追。亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引閉而投棄。乃生笋等。是拔食之間逃行。且後者。於其八雷神。副千五百之黄泉軍。令追。爾拔所御佩之十拳劍而。於後手布伎都都【此四字以音】逃來。猶追。到黄泉比良【此二字以音】坂之坂本時。取在其坂本桃子三箇持撃者。悉逃返也。爾伊邪那岐命告桃子。汝如助吾。於葦原中國所有宇都志伎【此四字以音】青人草之落苦瀬而。患惚時。可助告。賜名号意富加牟豆美命【自意至美以音】。」 「伊邪那岐命はこれを見て畏れ逃げ帰ろうとした時、伊邪那美命は「私に恥をかかせましたね。」と言って、すぐ母都志許売を遣わして追ってきた。伊邪那岐命は黒御縵を取って投げ棄てると、たちまち葡萄の実になった。これを拾って食べている間に逃げたが、まだ追ってきたので、今度は右の結った髪に刺してあった湯津津間櫛を引き抜いて投げ棄てると、たちまちたけのこが生えた。これを抜き食べている間に、また逃げた。其の後、八はしらの雷神が大勢の黄泉軍を率いて追ってきた。伊邪那岐命は腰に帯びていた十拳劒を抜いて後ろ手に振りながら逃げ来たが、さらに追ってきたので、黄泉比良坂(黄泉と現世を隔てる坂)のふもとまで来た時、そのふもとににある桃の実を三つ取って、軍勢が来るのを待って投げると、悉く黄泉国へ逃げ帰った。伊邪那岐命はその桃の実に向かって、「この実は私を助けてくれたように、葦原中国にいる全ての人民が苦しい目にあって思い悩むとき助けてくれるだろう。」といい、意富加牟豆美(おほかむづみ)命という名を授けた。」 次にイザナミの手下がイザナギを追い駆けるターン。 対応箇所となる「国譲り神話」に置き換えますと、体に纏わる八雷神達は、天孫降臨時の建御雷神らに対応。 イザナギが追われてくる道中に身に着けていたものを投げ捨てたものは、この後の海での禊と同じ意味があると考えられ、恐らくは「山葡萄・筍」は山の幸であることから、山間部に分かれた自身の子孫達の暗喩であると推測。 まぁこの辺の考察は他の研究団体に譲りましょう。 何れにしろイザナギが逃げてきた経路は「山」です。 『古事記』国譲りの段、 「是以、此二神降到出雲國伊那佐之小濱而伊那佐三字以音、拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言」 「二柱(天鳥船神と建御雷神)の神は、出雲国の伊那佐の浜に降り立ちました。そして十拳剣を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神に問いました。」 この「十拳剣を抜き、逆にして海に立てて」とは、島根県にある剣に似た島根半島を逆にしたの意味で、「本家の元祖考察」でご紹介しましたが、 ●出雲国 稲佐の浜 こちらが逆向きな剣がある本家十拳剣こと海陽町那佐の乳の崎。 ●阿波国 和奈佐の浜 従って「拔所御佩之十拳劍而。於後手布伎都都」「帯びていた十拳劒を抜いて後ろ手に振りながら」がこれに対応します。 答え合わせをしますと、御陵の示す場所は、古事記では 日本書紀では 黄泉国から逃がれて来たイザナギ。 黄泉(死者の国)と現世との境は一体どこなのでしょうか 「最後其妹伊邪那美命。身自追來焉。爾千引石。引塞其黄泉比良坂。其石置中。各對立而。度事戸之時。伊邪那美命言。愛我那勢命。爲如此者。汝國之人草。一日絞殺千頭。爾伊邪那岐命詔。愛我那迩妹命。汝爲然者。吾一日立千五百産屋。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。故号其伊邪那美神命謂黄泉津大神。亦云以其追斯伎斯【此三字以音】而。號道敷大神。亦所塞其黄泉坂之石者。號道反大神。亦謂塞坐黄泉戸大神。故其所謂黄泉比良坂者。今謂出雲國之伊賦夜坂也。」 「最後には伊邪那美命自ら追ってきた。伊邪那岐命は千引の石で黄泉比良坂を塞いで、其の石を間において、各々立ち向かって絶縁する時、伊邪那美命は「愛しい我が夫よ、こうなったら私は、あなたの国の人民を一日に千人絞め殺しましょう。」といった。そこで伊邪那岐命は、「愛しい我が妻よ、おまえがそうするのなら、私は一日に千五百人産むことにしよう。」と言い返した。こういうわけで一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生まれることとなった。この伊邪那美命を黄泉津(よもつ)大神と名付けた。また伊邪那岐命に追い付いたことから道敷(みちしき)大神ともいう。黄泉の坂で塞いでいる石は、道反之(ちがへし)大神と名付け、別名塞り坐す黄泉戸(よみど)大神ともいう。また黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜坂(いふや)という。」 最後のイザナミ自ら追いかけて来るターン。 葦原中国と黄泉国との接触点となる黄泉比良坂の入り口を千引の岩で塞ぎます。 通説によると、 黄泉比良坂(よもつひらさか)とは日本神話において、生者の住む現世と死者の住む他界(黄泉)との境目にあるとされる坂、または境界場所。 ●千引の岩 千人の人の力でようやく引けるような大きな岩の割には意外と小さいですな(´・ω・`)… ●概要 『古事記』では上巻に2度登場し、出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)がその地であるとする伝承がある。「ひら」は「崖」を意味するとされる。 ●あらすじ 大国主命の根の国訪問の話にも登場する。根堅洲国(根の国)のスサノオからさまざな試練をかけられた大己貴命が愛する須勢理毘売と黄泉比良坂まで逃げ切るというもの。 ●ククリヒメ伝説 黄泉比良坂について『日本書紀』の本文では言及がないが、注にあたる「一書」に、「泉平坂」で言い争っていたイザナミとイザナギの仲をククリヒメがとりもった、という話が記されている。このことからククリヒメは縁結びや和合の神とされている。(wikipedia 黄泉比良坂より抜粋) この「比良:ひら」についてですが、 本居宣長の『古事記伝』では、「此は黄泉と顯國(うつしくに)との堺なり、平坂と云は、平易(なだらか)なる意なり」とし、黄泉比良坂は平坦であると解しています。 しかし、「國學院大學古事記学センター黄泉国②」にも、ヒラは元来崖状の地形、または傾斜地を指し、とありまた、「大系(記)」「全集」「倉野全注釈」「西郷注釈」「新全集」では「ヒラ」は元来「崖」を意味しているとします。 アイヌ語では、崖を意味する「ピラ」といい、これらが付いた地名の札幌市豊平、空知地方赤平の平岸など、当地の地形からこれらはいずれも崖を意味する「ピラ」によるものとしています。「アイヌ民族文化研究センター」 岐神=比良神とは元来そういう意味なんでしょう。 因みに「来るな」ということを徳島県南部では、「る」を省いて「来(く)な」といいます。 島根県の黄泉比良坂は「崖」ではなく、全く当て嵌まりません。 揖夜神社(いやじんじゃ)は島根県松江市東出雲町揖屋に鎮座する神社である。意宇六社の一つ。旧社格は郷社、後に県社となる。記紀神話に登場する黄泉比良坂の比定地の近くにある。 ◆主祭神 伊弉冉命 ◆配 神 大己貴命 少彦名命 事代主命 武御名方命 経津主命 ●歴史 『出雲国風土記』意宇郡の条の在神祇官社「伊布夜社」、『延喜式神名帳』の出雲国意宇郡の「揖屋神社」に比定される。(wikipedia 揖夜神社より抜粋) つまり、社名の揖夜(いや)の読みは、=熊野(いや)であるから熊野にある花窟神社と接点があるんですな。 つまり真なる場所はひっくり返せば ズバリ、空海が箸を立てた伝説のある野江波切不動尊 思いっきり崖です。 波切不動の御利益は、波を切ることから海上安全ともいわれておりますが、本懐はその剣で「悪縁を断ち切る」転じて「良縁を結ぶ」こと。 不動尊の隣には… ●真の千引岩 町文化財 轟の漣痕 くそデカいですヨ‼ また「汝(なんじ)」は大汝=大己貴命の暗喩と思われ、イザナミの「絞殺」「くびりころさむ」もやはり「蛇神」の暗示と捉えることも可。 ここが真の黄泉比良坂であり、出雲国の伊賦夜坂。 ”意富”加牟豆美命の神名、”伊賦”夜坂の訓は「おほ」と「いふ」。 峯の東端は式内社和奈佐意富曾神社の旧ご鎮座地です。 曽(曾:そ)は、「曽孫」の意味があり、イザナギの4世代目にあたる邇邇芸命のこと、もしくは逆に4代父祖となるイザナギのことでもあるのでしょう。 那佐にはくじら石(鯨の古語は勇魚:いさな)もありますヨ。 「是以伊邪那伎大神詔、吾者到於伊那志許米(上)志許米岐【此九字以音】穢國而在祁理。【此二字以音】故、吾者爲御身之禊而、到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而、禊祓也。」 「伊邪那岐大神は「私は嫌な、見る目も醜悪で醜悪な穢れた国に行ってきてしまった。体の禊をしよう。」といって、筑紫の日向の橘小門の檍原で座って、禊ぎ祓いをした。」 穢れを祓うため筑紫の日向の橘小門の檍原で禊をするターン。 野江波切不動尊近くの古道である居敷峠を越えた先は、 旧宍喰町側の那佐湾へと到達。そこの地名は、 「たちばな」は小さな港:小戸になっている場所です。 また、阿波岐=檍(あおぎ)は、前出ある青木(あおぎ)社:アオギ姫の説話の残る地。 ここでイザナギは禊をされた、その神事が深曾木の儀なのでしょう。 日本伝奇伝説大辞典には、 海部の天橋立となる那佐の地は、三貴士(みはしらのうずのみこ)を生んだ聖地。 乳の崎は恐らく真の淤能碁呂島(おのごろじま)でしょう。 鞆浦那佐にやってきたとある阿津姫は、当地に降り立った天女であり、後に根国とされた母川の流れる妣の国に住んでいたのです。 国を生み、そして神々を生んで、我が国の礎を築いていった。 その証拠として、延喜式式内社で唯一、「伊射奈美」を冠する神社は、阿波国徳島県のみにしか存在しません。 当地から北上し、更には吉野川をのぼり行き着いた先の皇孫(すめみま)の地となった美馬、後の倭(やまと)にて、恐らくは元地海部を思い偲んだのか、吉野川に浮かぶ舞中島にてひっそりとご鎮座されております。 伊射奈美神社(いざなみじんじゃ:徳島県美馬市美馬町中鳥338) 御神陵も恐らく遷都の過程において、御霊と共に移されたのではないでしょうか(ひょっとしたらまだ海陽町のどこかにあるのかも知れませんが…) これらの推測は、阿南市にある室比賣神社・羽浦神社に合祀されたとある和奈佐意富曽神社もまた同時に海部の地に存在し、古事記と日本書紀とを比較して、先の古事記に標した場所を日本書紀では更に日本各地に広げていった痕跡が伺えるからです。 その証拠として、イザナミの神陵の比定地が、出雲or熊野になると考えられるのです。 以上の理由等から『古事記』の淤能碁呂島と『日本書紀』の淤能碁呂島も場所が違うのです。『日本書紀』の淤能碁呂島「ちょいネタから突っ込んで考察 ②」 もう一点は、海陽町にある3世紀初頭の寺山墳丘墓は、盗掘らしき跡があり、内部にあったと思われる埋葬者の人骨は既に蛻の殻で、中国鏡の内行花文鏡片ぐらいしか目ぼしい遺物が出土していません。寺山墳丘墓「羽衣伝説 Vol.阿波 神宝・遺物から考察」 これらは眉山にある勢見の佐々木の抜け穴にもいえることで、何者かが意図的に掘り起こし移送させた可能性が指摘されます。佐々木の抜け穴「倭の五王から考察 ①」 また『古事記』には、イザナミの死を、 「故、伊邪那美神者、因生火神、遂神避坐也。」 「ついに、伊邪那美命は火の神をお生みになられたことで、神避(かむさり)になられた。」 …と記されてあります。 神去 かみさ・る かむさ・る かんさ・る ① 天皇など、高貴の人が死去する。崩御する。薨去する。かんさる。神上がる。(コトバンクより) 書かれてあるままで解すると、死んでしまったという意味ですが、『日本書紀』ではこれを、 一書2:終(役目を終える) 一書3:神退・神避(神としての使命を終え、この世から退(避)く) 一書6:化去(化してこの世の神ではなくなり、別の世界(黄泉)に去る) …とバリエーション豊富に書かれており、いずれも死を暗示するものの、「神は逃げさった」とも考えられます。 そうでなければ、死後のイザナギとの黄泉でのやり取りは成立しないのではないでしょうか 記紀が示す本当の場所、真なる場所には、すべからく全てが当てはまらないといけないはずです。 御刀媛から木花之佐久夜毘売、そしてイザナミへと随分と飛んでしまったお話となってしまいましたがあくまで私説考察ですヨ笑、…最後に、 『播磨国風土記』宍禾郡雲箇の里条に見える、許乃波奈佐久夜比売。 その名の解は、許乃-波奈佐-久夜比売命、つまり、 籠(この)-和那佐(わなさ)-狗邪(くや)比売 海部氏との関連は切っても切れない深~い関係にあるようです。 今回はここまで(´・ω・`)ノシ

  • 25Apr
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      御刀媛から考察 ④

       🌸 木花之佐久夜毘売 「御刀媛から考察 ③」からの続きとなります(´・ω・`)ノ 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 当シリーズも大詰め、徐々にポイントを絞りながら考察していきましょう。 まず、この御刀媛ですが、景行天皇による熊襲平定後、日向の高屋宮に6年居た時に、この国(日向国)に美人が居るのを聞き及んで呼び寄せたとあります。 後に豊国別皇子を生んだこの媛は、日向のどの辺りに住んでいたのでしょうか そしてこの媛の正体は誰なのでしょうか そのヒントは、「御刀媛から考察 ①」の冒頭に記しました、熊本県の御刀媛尊を祀る名石神社のご由緒と、阿南市の式内社(論社)室比賣神社の相似性にあります。 この室比賣神社のご由緒の大意は、天皇を慕って海を渡って追いかけて来た妃が水難事故により亡くなること。 社の御祭神は、淳仁天皇の御内室の室妃とされておりますが、これを大山津見神の娘である木花開耶姫命と同一神としてお祀りされています。 なぜ、この室比賣神社のご由緒が、47代淳仁天皇と御内室の室妃に置き換わっているのかにつきましては、賀志波比売神社を津峯神社に遷座させた45代聖武天皇治世当時の強い政治背景が考えられます。 淳仁天皇(じゅんにんてんのう、733年〈天平5年〉- 765年11月10日〈天平神護元年10月23日〉)は、日本の第47代天皇(在位:758年9月7日〈天平宝字2年8月1日〉- 764年11月6日〈天平宝字8年10月9日〉)。 漢風諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれるが、歴代に加えた史書も存在する。諱は大炊(おおい)。(wikipedia 淳仁天皇より抜粋) これにつきましては当稿では触れませんので詳しくはwikipediaをご参照下さい。 一方、名石神社のご由緒では、景行天皇のあとを追い、最終的には海に入水し身投げした説話を持つ日向御刀媛で、両社の御由緒の内容は同じといっていいでしょう。 また阿南市の式内社 賀志波比売神社の御祭神である賀志波比売命(夏之売命)は、病気平瘉や長寿延命の神であり、またご祭神が木花開耶姫命である峯神社のご由緒にある「津乃峰ニハ姉君賀志波姫命ガ祀ラレシコト」云々から、これが石長比売であると考察しました。 従って、景行紀にみえる弟媛の形姿穢陋(=かおかたなし=不細工)の説話や、続けて現れる神夏磯媛の神名も、 夏之(かし)売命=神-夏磯(かし)媛 弟媛=御刀(おと)媛 で、つまりこれら全てが、賀志波比売命=日向御刀媛と同神であると考えられるのです。 要するに上記を集約しますと、 大山津見神の姉妹とされる石長比売と木花開耶姫命は、実は同一神であるという結論となるのです。 醜女(しこめ)も色女(しこめ)も同じか(´・ω・`) 八百万の神々的視点からすれば、これらを区別してお祀りしている場合は、荒魂・和魂などとして考えられているのかも知れませんネ。 また景行紀では、天皇が美濃に行幸された際、弟媛が容姿端麗であることを聞き、家まで押し掛けたものの、竹林に隠れたので一先ず泳宮に滞在したと記されてあります。 この泳宮の比定地の考察ですが、キーワードとなる難読な「泳(ククリ)宮」には、「蛇」を意味するニュアンスが含まれていること。 また、菊理媛命(久久理姫命)の名の由来は、菊(クク)の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説があること。 そして、これが美濃(見能)行幸時での説話であることから、これを舎心山(しゃしんざん)常住院太龍寺(たいりゅうじ)のことであると推測。 一方、阿南市室比賣神社と式内論社となっているのが、海部郡海陽町相川にご鎮座する室比賣神社。 通称 阿津神社の御祭神も同じく木花開耶姫命。 景行紀では、 「天皇、欲得爲妃、幸弟媛之家。弟媛、聞乘輿車駕、則隱竹林。」 「天皇は(弟媛を)得て妃にしたいと思って、弟媛の家へと行きました。弟媛は天皇来たと聞いて、すぐに竹林に隠れました。 」 これに対応すると思われる一文が、 『日本書紀』第九段一書(三)、神吾田鹿葦津姫(木花開耶姫命)が三柱の子を産んだ際の、 「時以竹刀、截其兒臍、其所棄竹刀、終成竹林、故號彼地曰竹屋。」 「そのときに竹の刀でその子たちの臍を切りました。その竹の刀を捨てたところは、後に竹林と成りました。それで、その土地を「竹屋(たかや)」と言います。 」 また、第九段一書(六)では、 「到于吾田笠狹之御碕、遂登長屋之竹嶋。」 「(ニニギの一行は)吾田の笠狹之御碕に辿り着きました。それで長屋の竹嶋(たかしま)に上りました。 」 …とあり、景行紀にて弟媛が隠れたとある竹林は、天孫降臨時の説話では、「竹屋」「長屋の竹嶋」のことであると考えられ、これが「笠狹之御碕」つまりたくさんある御崎神社群の只中にある阿津神社のご鎮座地であろうと推測しております。 ここが日向の高屋宮があったと思われるところ。(現推定) ちなみに現在の阿津神社がご鎮座されている場所は、鬱蒼とした竹藪に埋もれた島であったであろうところにあります笑 また海陽町・牟岐町の山間部に位置するこの周辺は、木花開耶姫命の御祭神地帯でもあります。 こちらは海陽町の説話となる、阿津姫様が身投げしたと伝わる池のある池姫神社。 阿波志に「立池祠 在大井村 即龍祠称姫明神」とある御祭神は、姫池大明神こと瀬織津姫命。 海部町史には、 「此池往古何もの姫君か夫をしたひ給へとも行衛知れねばかなしと身を投死しより池名も姫池と唱え社号同じく姫の霊祭るよし 池長三拾間 横巾四間斗 此池に住るうろくつことごとく一眼にてあしき方くされる如く白し。」 …とあり、また「日本伝承大鑑:池姫神社」によれば、 いつの頃の時代か、海部の鞆の浦という港に美しい姫が一人逃れてきた。どういう素姓で何から逃れてきたのかは分からなかったが、この阿津姫と名乗る姫を匿ったのは、鞆の浦の分限者であった高橋長者であった。姫を屋敷内に隠すように住まわせていたが、いつしかその存在は港で噂となり、知らぬ者はいないようになった。するとある夜、屋敷を武装した集団が襲ってきた。何とか敵を撃退したが、再び襲撃がないとは限らない。阿津姫は自ら屋敷を出ると申し出た。長者は引き留めたが、姫の決意は固く、ならばと長者の所領で一番奥地にある相川という場所へ隠れ住むように手配したのであった。 相川に移り住んだ阿津姫はしばらく密かに暮らしていたが、やはりその美貌故に噂が広まり、またしてもこの土地にいられなくなった。姫は誰にも告げずに相川と鞆の浦との中間あたりの大井の地に移った。だがそこの安住の地ではなく、間もなく武装した一団が襲来したのである。ここにきて姫はもはや他の地へ逃げることに疲れ果てたのか、住まいの前にある池に身を投げて命を絶ったのである。 海部川のそばの道脇に池姫神社という祠がある。ここに祀られているのが阿津姫であるという。またこの神社の前には池があり、これが阿津姫が身を投げた場所であるとされる。この池に棲む魚は、阿津姫が身を投げる時に持っていた機織の筬(おさ)の先端で目を突かれたために、全て片目になっているという。またこの池は高橋家の屋敷にあった井戸に通じており、池が濁ると井戸も濁るという話も残っている。 一方、高橋家にも姫が去った後日譚が残されている。阿津姫が屋敷を出る時、お礼に小判を渡そうとすると、長者は「“生まれ”がいただきたい」と答えたという。それ以降、高橋家では阿津姫のような美貌の女児が生まれるようになったという。また屋敷の井戸の水で顔を洗うと美人になれるという噂が立ち、多くに人が水をもらいに来たという。しかしこの高橋長者の家もいつしかなくなり、今はその跡を知る人もない。 双方の文面からは、おおよそ名石神社と阿南市室比賣神社のご由緒と類似しているものの、それらとは逆に、姫方が何者かに追われている立場であったことが記されてあることにも注目です。 また同町史の昔話「アオギ姫と片目の魚」をご紹介しますと、 「高園の母側筋にあるアオギ渕に住む魚はみな片目だといわれている。これは天正三年土佐の長曽我部の軍勢に攻められて吉田城が落ちたとき、アオギ姫が大切な機(はた)を抱えてここまで逃げてきたが、とうとう追いつめられてこの渕に身を投げてなくなられた。それからこの渕に魚は、姫の梭(ひ)が当って片目になったのだということである。」(下灘郷土本・口碑) 高橋長者(高橋氏)についてはこの稿では割愛<(_ _)> 興味のある方はご検索下さい笑 このアオギ姫の説話の補足ですが、場所は母川沿いにある川西三が村の一つ海陽町高園。 徳島県史第二巻「海部郡高園を中心に、海部川流域の土豪に海部氏がある。海部氏はもと阿波の君息長田別命の子孫に阿波国司阿波真人広純があり、広純の後が海部郡高園に退隠したといわれ、吉田城に拠る武士団となった。」と記載されています。 海部町史によると、高園内には酒岩神社と青木神社の記録があり、 高園字酒岩は、海陽町の名所でもある「せり割岩」の周辺。 酒岩とは、裂(割)岩のことで、この母川には、国の天然記念物に指定されているオオウナギの生息地でもあります。 このワレメの奥からオオウナギが岩を割って出てきたという伝説がありますヨ。(観光案内か笑) 青木(あおぎ)神社の御祭神は不明ですが、上記説話の内容から恐らくアオギ姫をお祀りしているものと思われます。 現在の青木社は、隣接する稲荷社に合祀されています。 向かいには「不動明王」のお姿が。 説話にある「片目」に関連する考察は「片目の魚」 上にある「池姫神社の説話」と「アオギ姫と片目の魚」の説話の内容はほぼ同じで、時代も比較的新しいものになっておりますが、昔話の類は時代を重ねつつ変容するものでしょう。 これが前稿の「南(みなみのかた)の粟の岬(あわのみさき=妃)」と同じ神のことと思われます。 また、「天孫降臨阿波南部説」につきましても、これまでに「本家の元祖考察」「本家の元祖考察 オマケ」にて考察しておりますので、こちらをご参照頂けたらと存じます。 景行紀と海陽町のエピソードなどと照合させますと、 当エリアはバリバリの「出雲」の地で、各地域に点在する杉尾神社の御祭神は、みな出雲の神様大己貴命、つまり大国主命の領域であることがわかります。  海陽町の昔話風に置き換えますと、ここは高橋長者の領域(ノ∀`) 世代が1代ズレる考察に付きましては、当稿のケースで簡単に書きますと、 「記紀」及び「播磨国風土記」によれば、木花之佐久夜毘売を共に娶ったとある大国主命と邇邇芸命。 大国主命は須佐之男命の娘である須勢理毘売を娶ることで須佐之男命の子(養子)となり、須佐之男命を1世代とすると2世代目にあたります。 一方、邇邇芸命は須佐之男命と天照大御神の宇気比の子の天忍穂耳命の子。 つまり、3世代目となり、必ず1世代のズレが生じることになります。 景行天皇の話の中で息子の日本武尊の話と事績が重複する箇所が見られるのは、このようなトリックによるものと考えられます。 さて、通説によりますと、木花之佐久夜毘売の御陵は、宮内庁指定陵墓参考地である宮崎県西都市三宅の女狭穂塚。 場所はココ wikipediaでは、この古墳は隣接する男狭穂塚古墳と同時期である5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造と推定されており、両古墳とも実際の被葬者は明らかになってはいないようですが、被葬者を特に定めず、ともに陵墓参考地と治定し、女狭穂塚に木花開耶姫、男狭穂塚はその夫の瓊瓊杵尊に充てているようです。 これを例の如く阿波版に置き換えますと、 おおよそ阿津神社や池姫神社にあたる位置周辺となり、やはり類似する地理・地形となる場所で、恐らく木花之佐久夜毘売の御陵であった場所も、この辺りから非常に近いところにあると推測。 また、お隣の牟岐町にある木花咲屋姫命をお祀りする社名は「白王神社」。 峯神社ご由緒にも、「木花開耶姫命白蛇トナリテ」とあり、「白蛇」や「白王」などキーワードが見え隠れしております。 富山県、石川県、福井県、岐阜県の4県に跨る霊峰白山。 岐阜県にある、白王神社(岐阜県下呂市萩原町野上字成井1485番地)の創建は不詳ですが、菊理姫命と共に伊邪那岐命・伊邪那美命がお祀りされており、全国白山系神社御祭神と同じです。 ただし四国の愛媛県には、牟岐町と同様に大山津見神の娘である木花咲耶姫命を祭祀している白王神社も存在します。 白王神社:愛媛県西予市野村町釜川2−209 祭神:吾田鹿葦津姫命 白王神社:愛媛県西予市城川町田穂767 祭神:木花咲耶姫命 この「白王」系神社ですが、その殆どの御祭神が伊弉諾・伊弉冉・菊理媛命で、四国、それも西側に集中しており、牟岐町の白王神社は四国でも飛び地になっています。 また別に、同様の御祭神(伊弉諾、伊弉冉、菊理媛命)を持つ神社に、客(きゃく・まろうど)神社が御座います。 その多くはやはり愛媛県に集中し、他山口県、広島県に多く見られ、高知県、島根県、鳥取県にもごく僅かに存在します。「客人社と荒波々幾神を祀る神社一覧」 同祭神は、客神社以外では殆どが氷川神社にてお祀りされています。 ふむふむ(´・ω・`)、氷川は梭(ひ)川ですかな。 アラハバキは、日本の民間信仰的な神の一柱である。 ●概要  荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。 ●『東日流外三郡誌』以前の認識 「荒脛巾神」という文字から、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神と捉えられ、神像に草で編んだ脛巾が取り付けられる信仰がある。多賀城市の荒脛巾神社で祀られる「おきゃくさん」は足の神として、旅人から崇拝され、脚絆等を奉げられていたが、後に「下半身全般」を癒すとされ、男根をかたどった物も奉げられた。神仏分離以降は「脛」の字から長脛彦を祀るともされた。(wikipedia アラハバキより抜粋) 面白いことに当神社は阿波では1社も見られず、聞きなれないのは「客」ではなかったからでしょうかね。 ちなみに「はばきの神」は、須佐之男命の子の大年神と天知迦流美豆比売の子である波比岐神(婆比支神:はひき)と思われ、このシリーズで登場した羽山戸神と同父母きょうだいとなります。 別名 矢乃波波木神(屋乃波比伎神・箒神)は、天照大神が鎮まる伊勢神宮の内宮に祀られており、安産、祓い、招福のご神徳があるようです。 一方、菊理媛神については、「御刀媛から考察 ②」にて少しご紹介しましたが、wikipedia によると、『日本書紀』の一書(第十)に一度だけ出てくるのみであり、また全国の白山神社に祀られる白山比咩神と同一神とされていて、神仏習合の中では、白山大権現・白山妙理菩薩などの説もあります。 現在の白山比咩神社は、菊理媛神(白山比咩神)を主祭神としながらも、伊奘諾尊・伊弉冉尊を仲直りさせた縁結びの神して、二神と共にお祀りされています。 夜見国で伊弉冉尊に仕える女神とも、伊奘諾尊と伊弉冉尊の娘、『古事記』では、イザナミが「故、還らむと欲ふを、且く黄泉神と相論はむ」と言及した黄泉神(よもつかみ)(イザナミ以前の黄泉津大神)、 伊弉冉尊の荒魂もしくは和魂、あるいは伊弉冉尊(イザナミ)の別名という説も書かれています。  白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。 ●概要 717年(養老元年)修験者泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である九頭龍王(くずりゅうおう)が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って顕現したのが起源で、併せて白山修験場開創の由来と伝わる。 孤峰(別山)では聖観音菩薩の垂迹である宰官身の大行事権現が伊弉冊尊の神務輔佐の行事貫主として、大汝峰(おおなんじみね)では翁姿の大己貴命(大汝権現)が伊弉冊尊の神務輔弼として泰澄に顕われたと伝わり、泰澄に顕われた三神(白山妙理権現、大行事権現、大汝権現)を併せて白山三所権現と称する。さらには白山修験が隆盛すると、白山妙理権現の眷属として五王子権現も祀られた。 ●神仏習合と分離 白山頂上本社と白山寺白山本宮は本地と垂迹の関係で、神道としては白山権現は伊弉冊尊であり、両神が即ち白山比咩神であった。(wikipedia 白山権現より抜粋) これが『玉籤集』では熊野本宮大社(本宮)で菊理媛神(伊弉冉尊)が祀られていると記述しているということなんですよネ (´・ω・`)ホウホウ、wiki大活躍やな。 …ということは普通に考えますと、 木花之佐久夜毘売は、伊耶那美神ではないですか 伊邪那美命(いざなみのみこと、伊弉冉、伊邪那美、伊耶那美、伊弉弥)は、日本神話の女神。伊邪那岐神の妹であり妻。別名 黄泉津大神、道敷大神。 ●神話のエピソード 亡骸は、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)に、『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたという。 死後、イザナミは自分に逢いに黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体(自分)を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、黄泉国と葦原中津国(地上)の間の黄泉路において葦原中国とつながっている黄泉比良坂(よもつひらさか)で、イザナミに対してイザナギが大岩で道を塞ぎ会えなくしてしまう。イザナミは閉ざされた大岩の向こうの夫にむかって「愛しい人よ、こんなひどいことをするなら私は1日に1000の人間を殺すでしょう」と叫ぶ。イザナギは「愛しい人よ、それなら私は産屋を建てて1日に1500の子どもを産ませよう」と返した。そしてイザナミとイザナギは離縁した。 この後、イザナミは黄泉の主宰神となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。 ●墓所 イザナミの墓所の伝承地は、日本神話に記される比婆山や熊野市有馬のほか、雲伯国境を中心として日本各地にある。宮内省は八雲村(現 松江市)の神納山を比定地の中で最も有力として「陵墓参考地」に認定し、内務省は船通山の北にある御墓山を「伊弉冉尊御陵流伝地」に指定していた。 しかし、近世以降、古事記解読に初めて成功した本居宣長の古事記伝の話と、鉄製品を作る最良の砂鉄の産地は雲伯国境地帯であることから、島根県安来市伯太町のもの(比婆山久米神社)が支持されていた歴史があり、江戸時代、母里藩の古地図にも峯山大権現と記されているのが確認されている。 さらには当地に伝承されてきた、たたら製鉄でつくり出される玉鋼は日本人の魂の象徴とされる日本刀の創始(安綱)ともかかわりが深く、最近では安本美典がこれら諸説を文献学的に比較し、島根/鳥取県境に最も近い安来のものを比定している。(wikipedia 伊邪那美命より抜粋) これまでに記して来た景行天皇と女性・妃の説話。 更に海部郡海陽町に伝わる阿津姫&アオギ姫のエピソード。 この稿では書いていませんが、応神記に「又昔」として記録している天之日矛&阿加流比売の説話。…他等々笑 我が国最初の国産み・神産みをした原初の男女神であるイザナギとイザナミ。 それぞれの説話群の意味する内容が絶妙に一致していませんかね  …というわけでズルズルとこのシリーズも続くのである(´・ω・`)…

  • 18Apr
    • 御刀媛から考察 ③の画像

      御刀媛から考察 ③

       ● 建御名方神(タケミナカタ) 「御刀媛から考察 ②」の続きとなります(´・ω・`)ノ 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 「十七年春三月戊戌朔己酉、幸子湯縣、遊于丹裳小野、時東望之謂左右曰「是國也直向於日出方。」故號其國曰日向也。是日、陟野中大石、憶京都而歌之曰、 「即位17年の春3月12日。 子湯縣(こゆのあがた=現在の宮崎県児湯郡・西都市)に行き、丹裳小野(にものおの=地名未詳)で遊びました。そのときに東を望んで、左右(もとこのひと=側にお付きの人)に言いました。「この国は真っ直ぐに日の出る方に向いている」 それでその国を日向(ひむか)といいます。この日に野中の大石(おおかしわ)に登って京都を偲んで、歌を歌いました。 波辭枳豫辭 和藝幣能伽多由 區毛位多知區暮 夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試 異能知能 摩曾祁務比苔破 多々瀰許莽 幣愚利能夜摩能 志邏伽之餓延塢 于受珥左勢 許能固 是謂思邦歌也。 愛(はし)きよし 我家(わぎへ)の方由(ゆ)  雲居騰ち来(く)も 倭は 国のまほらま  たたなづく 青垣  山籠れる 倭し麗し 命の 雅(まそ)けむ人は  畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の  白樫が枝(え)を 髻華(うず)に挿せ 此の子 この歌は、国偲び歌といわれます。 早速考察して参りますが、この景行天皇の国偲びの歌、通説では遥々奈良県大和国から筑紫島九州まで行幸された訳で、当然のことながら、京(みやこ)が意味するのは、奈良県(大和国)の纏向日代宮を想い偲んだ歌のはずです。 また同条には先に、 「筑紫の豊前国長狹県の行宮を京(みやこ=福岡県京都郡)」といいます。 …とも記されてあり、九州説の諸氏は福岡県京都郡の仮宮に充てておられる方もいるようです。 さて、これを例の如く阿波説に置き換えさせて頂きますと、類似地形の想定地は、 京都郡は縦長ですから具体的な場所はこれではハッキリとはわかりませんが、偲ばれている場所がおおよそどの辺りであったのかは推測が可能です。 また、景行天皇が子湯縣に到着した際のお言葉も、 「この国は真っ直ぐに日の出る方に向いているからその国を日向(ひむか)とう。」 …とあり、『古事記』国譲り後の天孫降臨の段にある、 「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」 「この地の者は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」 …と同様の場所を示唆しており、これが「紀」によれば「日向」の地であるとします。 当伝承地が子湯縣=現在の宮崎県児湯郡、場所はココ 阿波説変換後 上の地図の宇美八幡の位置も気になりますね笑 また歌には、「愛(はし)きよし」とあり、「愛」のことを「はし」と訓むこと。愛比売とは何ぞや? 「于受珥左勢」「髻華(うず)に挿せ」も、  髻華(うず):「髪や冠に挿し、飾りにした草木の花や枝」(難読語辞典より) ここにもキーワードが隠されていそうです。 また「石」のことを(かしわ)と訓むのは最重要キーワードです。 仁徳天皇皇后である石之日売(磐姫)も=カシワ比売となりますヨ。 さて、ここからはスピードアップ(端折るともいう笑)していきます 「紀」ではこれより行幸先の地名由来伝承を列記していきます。 経路は概ね以下の通り。 子湯から九州西岸部を北上し、到着したのは八女(やめ)。 「丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、詔之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女国之名、由此而起也。」 「(即位18年)7月7日。八女県(やめのあがた=現在の福岡県八女郡・筑後市・八女市)に到着しました。南(みなみのかた)の粟岬(あわのみさき=地名未詳)を見ました。そして天皇は言いました。「その山は峯岫が重なっていて、麗しいことこの上ない。もしかしてその山に神がいるのか?」すると水沼県主猿大海は言いました。「女神がいます。名を八女津媛(やめつひめ)といいます。常に山の中にいます」八女国の名前はこれによります。」 「峯岫が重なっていて麗しい」=「南(みなみのかた)の粟岬(あわのみさき)」とありますが、現八女の北側から南方を見たのか、八女に到着した云々とあるから八女から南方にある山を見たのか、はたまた岬を見たのかはこれではハッキリとは分かりません。 地理的には、八女から南方は山はあれど全く岬に相当するものは見えそうにありません。  一応ここでは、そこの山中に八女津媛という女神が住んでいたことによる国名由来の旨を記しています。 ちなみに八女には立花町(たちばな)の地名がありますな(´∀`) ここでのヒントは、 「南(みなみのかた)の粟の岬(あわのみさき=妃)」 が山中に居る女神であるということ。 そして、八女の隣の浮羽は、この後に記される訛って「いくは」となったという地名説話。その後、 「十九年秋九月甲申朔癸卯、天皇至自日向。」 「即位19年の秋9月20日。天皇は日向から帰りました。」 そこから行き着いた先に遷都後の皇居があったのでは…という推測となります。 もちろん通説ではブッ飛んで奈良県(大和国)に帰還したとします。 ※これより後の景行天皇紀の記述は、息子の日本武尊のお話に移行しますので、この稿では割愛させて頂きます<(_ _)>(あ~長い景行紀終わった!というか終わりにした笑) さて例の如くこれを阿波説(の私説)でこれを解くとするならば、これまでの九州における景行天皇行幸の経路を類似地形となる四国東部の徳島県に置き換えますと、何とな~くではありますが、イメージができるのではないでしょうか 例えば八女から浮羽を経てみやこに戻る。 こちらはザックリな阿波版でのイメージ この「いくは」ですが、 的氏(いくはうじ)は、「的」を氏の名とする氏族。 ●概要 『古事記』によると、玉江氏・生江氏・阿芸那氏とともに葛城長江曾都毘古(かずらき の ながえ の そつびこ)の子孫ということになっている。『新撰姓氏録』山城皇別には、石川朝臣(蘇我氏)と同祖で、彦太忍信命の三世の孫、葛城襲津彦の子孫とある。 的氏はその名前の由来からして弓矢と関係が深い。『日本書紀』巻第十によると、応神天皇の時代に的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)が平群木菟(へぐりのつく)とともに加羅へ派遣されている。 6世紀には、的一族の半島でのさらなる活躍が見られる。『書紀』巻第十九には、推定544年の欽明天皇の任那復興計画に関連して、百済本記の引用文には、任那日本府の官人らしき人物として「烏胡跛臣(うごはのおみ)を遣召(よ)ぶといふ。蓋し是的臣なり」とあり、さらに「今(いま)的臣、吉備臣、河内直等、咸(みな)、移那斯(えなし)・麻都(まつ)が指撝(さしまね)くに従へらくのみ」・「的臣等、等とは吉備弟君臣、河内直等を謂ふなり・新羅に往来(かよ)ひしことは朕(わ)が心に非ず」とあるこの「的臣」は欽明天皇14年(推定553年)までにはなくなっていることも『書紀』には記載されている。 的氏は軍事的性格とともに、大王の食膳に奉仕する役割も有していたと考えられる。(wikipedia 的氏より抜粋) 重要なキーワードがズラリと並びますが、ここではあえて赤字の部分に注視し、阿波では恐らくですが地図に示した地理的位置と重なる「国府町矢野」周辺と推測。 「あくい」も逆から読めば? そういえば、先述の大和(纒向珠城宮)から美濃への行幸を終え、後に遷都したとある纒向日代宮に居を移し、お次の行幸先となる筑紫遠征の際に記されてある出発地点は、 「九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。」 「9月5日、周芳(すわのくに)の娑麼(さば=周防国佐波郡=山口県防府市佐波)に到着しました。」 山口県(周防=周芳:すわのくに) ここでスワな(´・ω・`) プッ…  周防国(すおうのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。 ●「周防」の名称 読みは長く「すおう」、ハ行転呼が起きる前は「すはう」と言われてきた。「周芳」を「すは」と読むか、「すはう」と読むのか定説はない(日本歴史地名体系)。古代の日本語では母音が連続することはないため/suhau/という読みは不自然であり、当初は諏訪と同じく「すわ(歴史的仮名遣:すは)」と読まれていたと考えられている。 (wikipedia 周防国より抜粋) 通説では、ブッ飛び経路の「奈良➨美濃➨奈良➨山口➨九州➨奈良」でしょうが、「紀」に書かれてあるこの「周芳」は、八女云々の説話からその北側(南方に八女がある)に位置する、 ●徳島県名西郡石井町浦庄諏訪 この地にご鎮座されるのが、長野県(信濃国)一之宮である諏訪大社の”元社”の謂れを持つ式内社 多祁御奈刀弥神社。 御祭神である建御名方神は、国譲りの説話にて、建御雷神が追い駆け、科野国の州羽海(すわのうみ)まで追いつめて建御名方神を殺そうとした際に、建御名方神はその地から出ないうえ、大国主神・事代主神に背かないことを葦原中国を天津神の御子に奉る旨を約束しました。 大碓皇子(おおうすのみこ/おほうすのみこ、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。 ●記録 日本書紀 同書景行天皇40年7月16日条によれば、天皇が蝦夷平定の適任を群臣に問うと、西征を終えた日本武尊は大碓皇子に任せることを進上した。しかし大碓皇子は草むらに逃げ隠れたため、使者をして召還させられ、天皇から責められたのち、美濃国に封じられた。そして身毛津君・守君の祖になったという(結局東征は日本武尊が行なった)。 (wikipedia 大碓皇子より抜粋) 諏訪から出ないと誓った神話時代の建御名方神。 景行紀に頻繁に見られる「美濃」に封じられたとある大碓命。 そして当地から「筑紫」へと出発する景行天皇。 例によって同神考察をするならば、大碓命の父が景行天皇なのですから、これを国譲り神話に置き換えれば、建御名方神とその父母の痕跡も残るはず。 阿波では、大国主命とその妻子もこの地にキッチリと痕跡が残っています。 高志村(たかしそん)は、徳島県の名西郡にあった村である。1955年3月31日、合併して板野郡上板町となり消滅した。 (wikipedia 高志村より抜粋) ※高志沼河姫(こしのぬなかわひめ):大国主命の妻 子 建御名方神 また同時に、大碓命の双子の兄弟である小碓命(倭建命)は、建御名方神の弟である八重事代主命(=少彦名命:双子の兄弟=義兄弟)ということになります。 私説としては、これを親子の話と双子の兄弟の話とに分離し、大国主命と八重事代主命の親子関係が義兄弟となる訳ですから、景行天皇は自身の子の代に義弟として存在していると考えられるのです。 この双子の兄弟もまた双子=同一人物という意味で、系譜は常に無限ループしていると考えられます。この検証は➨「倭建命を穿って考察 ⑤」 大碓命としては、親から妃を奪うことで兄弟に、また小碓命としては、征伐譚を再び訪れる行幸として描いているのでしょう。 そして、「遷都」した地もまた後に同名の「美濃」の名を付したと考えられます。 これらは所謂忌部の痕跡を辿るのに重要なポイントとなるのですが、最終的には日本全国各地に散らばりますので、後世の者にとっては大変ややこしくなります。 「諏訪」もまた然りですヨ。 確か阿南市見能林町の旧名は「見能方村(みのかた)」で、名西郡の元は美濃国ならぬ、タケ-ミナ(ノ)カタの地、旧名の名方郡(なかた-ぐん)です。 名方郡(なかたのこおり、なかたぐん)は、古代の阿波国(現 徳島県)にあった郡である。阿波国の国府が置かれていた。寛平8年(896年)に東部が名東郡、西部が名西郡に分割された。(weblio辞書より) ●和名類聚抄 阿波国 名方東郡 名方西郡 ●時系による遷都?の順(旧みの➨新みの)※あくまで現在の推測 う~ん、阿波では北上していっていると考えられるんですなぁ。(何度も言いますが私説ですヨ) 前都である纏向”珠城”宮も、阿南市にある舎心山太龍寺縁起に載るところの、 「磯輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冉尊居坐に降る玉墟うち国産み八嶋あり。」ではないんかな 詳しくは、ぐーたら氏のブログ「ぐーたら気延日記」:「舎心山太龍寺縁起」をご参照下さい。スゴイこと書いてますよ! また空海が記録した同御縁起には、 「往昔、神武天皇狭野尊、筑紫日向宮崎宮より大和国御坐入りの時、五月十六日舎心山、行幸あり」 …とあり、この一文もなかなかのインパクトですネ。 一応いっておきますが、「記紀」によれば、神武天皇は四国には一切立ち寄ったとは書かれておりません。 この日本書紀に書かれてある「美濃」が実のところ、どこのどちらであるかは、数少ない読者様のご想像にお任せ致しますが、これ等の検証は一応あくまでオリジナルがどこであったのかといった視点考察を含みます。 もちろんこれから後の調査考察によっては、当然自論が覆るものであることを期待しておりますゼ(´∀`)b  そしてこの周芳から熊襲を平定するため筑紫を南下して行く訳なのですが、 「十一月、到日向国、起行宮以居之、是謂高屋宮。」 「(即位12年)11月、日向国に到着して行宮を建てて留まりました。これを高屋宮(たかやのみや)といいます。 」 …と記されてあり、高屋宮のあった位置は日向に入った直ぐのところ、子湯よりはやや北側となり、地図で示すと そこにご鎮座するのが、高屋神社(宮崎県宮崎市村角町橘尊1975) ◆祭神 彦火々出見命 豊玉姫命 景行天皇 ◆由緒 高屋神社の創建は不詳ですが、当社の西側に小高い処があり、日本書紀神代巻下にある「日向の高屋の小陵に葬る」とある高屋山上陵、即ち彦火々出見命の御陵が当地であると伝えられています。さらに、景行天皇(71-130)が九州に下り、日向国を拠点に熊襲を討った御親征の際、6年間もの長期に亘り御駐輦された行宮の「高屋宮」の址とも伝えられています。 武内宿禰が山陵であることを知り、鎮座地を定めたという創建の由来が伝わり、景行天皇(71-130)の御代には彦火々出見命と豊玉姫命の二柱の御神霊を鎮め奉る聖地・霊跡と崇められていたことが窺えます。現存する古文書でも仁明天皇の嘉祥2年(849)に当宮の祠官となった旧社家の系図の記載があることから、古代から祭祀が整えられていたと考えられています。(詳しくは➨高屋神社) 彦火々出見命の御陵とはさてどこなのかなぁ。あと、御祭神が面白いですなぁ。 阿波における彦火々出見命=虚空津日高(そらつひこ)の説話の舞台は、医王山(いおうざん)薬王寺や海亀の上陸する町等で有名な海部郡美波町(旧日和佐町)。 そして隣町の「橘」の地名の残る牟岐町で、海部郡に入った直ぐの場所となります。つまりこれより北側が豊の国?「倭建命を穿って考察 ⑥」 「倭建命を穿って考察 ⑤」でご紹介しておりますが、牟岐町の牟岐津神社、御祭神は小碓命。つまり倭建命のこと。 沖合にある「姫神伝説」が伝わる大島 ご鎮座される大嶋神社の御祭神は、豊玉日女命 阿波誌には、 「姥祠あり大島に在り土人曰く牟岐津神の妃也と」(´・ω・`) 「記紀」によれば豊玉日女命の夫は彦火々出見命、これが倭建命であると。 恋人を追いかける娘を描いた姫神伝説。 またしても同神とする神々がたくさん登場して参りましたが、その真相は ところで、表題の御刀媛はどこいったんや笑 …ということで、確か御刀媛は、景行天皇による熊襲平定後、高屋宮に6年居た時に、この国(日向国)に美人が居るのを聞き及んで呼び寄せたとあります。   次回からは当シリーズのまとめに入りたいと思います(´・ω・`)ノ まとめれたらね...

  • 11Apr
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      ちょいネタから突っ込んで考察 ②

       神武東征(じんむとうせい)は、磐余彦尊が日向を発ち、奈良盆地とその周辺を征服して、はじめて天皇位についた(神武天皇)という一連の説話をさす用語。 (wikipedia神武東征より抜粋) 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 速吸(はやすい) 速吸瀬戸(はやすいのせと) - 豊予海峡、または明石海峡の古称。(wikipedia 速吸より抜粋) この速吸門、通説においても豊予・明石の双方が古称としているため、実はどちらが記紀に描かれている本当の速吸門であるのかはこれでは全くわかりません。 阿波説ですと、以前に「淡路国から考察」にて書きましたように、これを鳴門(なると)とします。 速吸門(はやすいのと)とは、「速吸」=「渦」の門(と⇒なと⇒なると)という訳です。 今回は、古事記にある「神武東征」時の出発地となった日向の高千穂宮から、次に立ち寄った地である「豊国の宇沙(うさ)」、それとその後、筑紫(九州)を離れ7年過ごしたとある「阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)」について考察して参りたいと思います。 通説では、『古事記』:阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)、『日本書紀』:安芸国の埃宮(たけりのみや)は、当然のことながら旧安芸国(広島県)に比定しております。 当地にご鎮座される、 多家神社(たけじんじゃ)は、広島県安芸郡府中町にある神社。式内社(名神大社)後継社、安芸国総社後継社。旧社格は県社。 別名として埃宮(えのみや)とも。社名の「多家」を現在は「たけ」と訓ませているが、本来は「おおいえ」と訓んでいたとも考えられ、またかつては「たが」などとも訓んでいた。 ◆祭神 神武天皇 安芸津彦命 - 安芸国の開祖神とされる ●歴史 式内名神大社「安芸国安芸郡 多家神社」の後継神社として、明治6年(1873年)に創祀された。 社伝では、式内多家神社は神武天皇が東征の際に7年間滞在した阿岐国(安芸国)の多祁理宮(『古事記』)あるいは埃宮(『日本書紀』)の跡に創祀されたものとしている。『延喜式神名帳』では名神大社に列している。(wikipedia 多家神社より抜粋) ふむふむ、「埃」は「え」とも訓むんですな(´・ω・`) さて、阿波におきましては、「えのみや」とはどこですか…と問われれば即答でココですヨとなります。 宅宮神社(えのみやじんじゃ)は徳島県徳島市上八万町に鎮座する神社である。 ●歴史 創祀年代不詳である。『延喜式神名帳』阿波国名方郡の「意富門麻比売神社(おおとまひめじんじゃ)」に比定されている(式内社)。式内社で唯一、大苫邊尊を祀る神社である。名方郡12社の1位に挙げられる名社で、貞観16年(874年)に従五位下の神階を得ている。主祭神は家宅・建築の神であるとされる。旧郷社。(wikipedia 宅宮神社より抜粋) 地形的には眉山の南側に位置します 広域地図にしますとこの辺り 更に往古の水位で宅宮神社の位置を確認 式内社名である「意富(おほ)」=「大(おお)」を意味し、また、「門麻(とま)」は「泊(とまり):港」の意味として、往古は「大きな港」であったことを指しています。 今回の阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)にドストライクやないかっ!! …ということで、つまりこの辺りに往古の阿岐国(安芸国)の「元」となる場所が存在したはずです。 そのヒントは「倭の五王から考察 ①」で既出となる、神社北側の眉山の山中に存在する、恵解山古墳群(えげのやま)です。 因みに、『古事記』応神記に「御陵在川內惠賀之裳伏岡也」とあるように、宮内庁諸陵に載るところの惠我藻伏崗陵(応神天皇陵)と同名となります。 そういえば、以前「鷲住王から考察 ①」で一度登場している、京都府長岡京市勝竜寺にも同じ漢字名となる、恵解山古墳(いげのやま)という名の古墳がありましたね。 つまり、この場合の「恵」は発語として、「い」=「え」とも訓むようです。 そしてまたしても自ブログからとはなりますが、「倭建命を穿って考察 ⑦」で書きましたように、 万葉集註釈巻一上の中で、仙覚律師が 「伊は発語詞也。梵語には阿字以て発語の詞為、和語は伊字を以発語詞と為也。」 「天竺にては阿字を以て発語とし和語は伊字を以為。」 こちらは「伊(い)」と「阿(あ)」は発語において同意で用いているとします。 …ということは 当地周辺が往古の「阿岐国=安芸国」であったということになります。 ついでにいうと、眉山は当恵解山古墳群を筆頭に無数の古墳地帯となっており、眉山山頂には、百舌鳥耳原(記:毛受ヶ原)ならぬ「茂助ヶ原」なる場所がひっそりと存在し、 この茂助ヶ原には、応神天皇の子の仁徳天皇の名でもある大鷦鷯(おおさざき)と酷似名となる、「佐々木(ささぎ)の抜け穴」なる中身がすっかり空っぽな古墳跡も存在しますネ。 さて、お次のお題は、『古事記』神武条にある、 「卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時」 「即ち日向より発ちて筑紫に幸行でましき。かれ、豊国の宇沙に到りましし時」 日向を出発後に立ち寄ったとある筑紫の豊国の宇沙。 こちらも通説によれば、当然のことながら大分県北部に位置する現在の宇佐。 当地には、豊国一宮 宇佐神宮があり、 宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社。式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つ。古くは八幡宇佐宮または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれた。また神仏分離以前は神宮寺の弥勒寺(後述)と一体のものとして、正式には宇佐八幡宮弥勒寺と称していた。 現在でも通称として宇佐八幡とも呼ばれる。 ◆祭神  一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) - 誉田別尊(応神天皇) 二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) - 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命) 三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう) - 別名として息長足姫命 (wikipedia 宇佐神宮より抜粋) 「宇佐神宮HP」によるご由緒書には、 「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。八幡神が祀られた8年後の733年(天平5年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。」 …とあり、『日本書紀』一書に、 「即以日神所生三女神者 使降居于葦原中國之宇佐嶋矣 今在海北道中 號曰道主貴 此筑紫水沼君等祭神是也」 「即ち以て日神の生れませる所の三女神を、葦原中國の宇佐嶋に隆居せしむ。今は海北道中に在り、名付けて曰く道主貴、此れ筑紫なる水沼君等が祭れる神是れなり。」 要するに降り立った場所が、宇佐の「嶋」であったと。 当然のことながら九州説をとる諸志は、宇佐には島が見当たらないため、これがどこであるのかわからず、適当な場所に比定しているようですが、『日本書紀』に書かれてあるように、葦原中國にある宇佐嶋に三女神は降臨されたのです。  また、神武記には、 「其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。」 「その土人、名は宇沙都比古・宇沙都比売の二人、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて、大御饗献りき。」 この、「記」:足一騰宮、「紀」:一柱騰宮ですが、伝承地は3ヶ所あるようで定かではないようです。(足一騰宮:一柱騰宮) さて、これも阿波説に置き換えますと豊国に位置する場所はココ、 ずばり芝山こと日峰山(ひのみねさん) そう、ここは往古、「島」だったところです。 こちらも、自ブログではありますが、「国生み考察 (水蛭子・淡島編)②」にて記しました、16代仁徳天皇が淡路島に坐して本国を見て詠まれた歌に、 「『淤志弖流夜(おしてるや)、那爾波能佐岐用(なにはのさきよ)、伊傳多知弖(いでたちて)、和賀久邇美禮婆(わがくにみれば)、阿波志摩(あはしま)、淤能碁呂志摩(おのごろしま)、阿遲摩佐能(あじまさの)、志麻母美由(しまもみゆ)、佐氣都志摩美由(さけつしまみゆ)』乃自其嶋傳而幸行吉備國。」 「『おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我国見れば 淡島 自凝島 檳榔の島見ゆ さけつ島見ゆ』すなわちその島より傳いて、吉備國に幸行(い)でる。」 淡島は淡島神社・淡島海岸のあるココ 淡路島寄りにあるのが裂けつ嶋である島田島&大毛島 従ってこの歌は、仁徳天皇が座す淡路島から、吉備海部の黒比売の故郷である吉備津の方、遠方から手前へと順に見た様子を歌っています。 つまり、その間にある現日峰山こそが往古の自凝島(おのごろじま)です。 オノゴロ島、又はオノコロ島とは、日本神話や記紀に登場する島。特にイザナギノミコト・イザナミノミコトによる国生み神話で知られ、神々がつくり出した最初の島となっている。『古事記』では淤能碁呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「磤」と表記する。 オノゴロ島は、自凝島とも表記され、「自(おの)ずから凝り固まってできた島」の意味である。 イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)が、国生みの際に、「天の浮き橋(あまのうきはし:天と地を結ぶ宙へ浮く橋。神はこの橋を渡って地へ降りるとされる。)」に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)をまだ何も出来ていない海原に下ろし、「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると、滴り落ちた潮が積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。●歴史・国生み神話 オノゴロ島に降りた2神は「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの:広大な殿舎)」を見立て、イザナギノミコトは左回りにイザナミノミコトは右回りに天の御柱を巡り、出会った所で相手の魅力を褒めあい、この島で成婚する。・古事記 下巻 黒日売(くろひめ)が吉備の国へ帰郷した際に、大雀命(仁徳天皇)は後追い吉備の国へ行幸するが、道中詠った歌にはオノゴロ島が登場する。(wikipedia オノゴロ島より抜粋) 興味深い情報、伝説の出典がみたいところですが。神社探訪様「日峯神社」 つまり天の御柱=イザナギがイザナミにプロポーズをしたとされる一本の柱。 そしてそこに建てて住んだとある八尋殿こそが往古の「”宇沙”にあったとされる足一騰宮、一柱騰宮」なのです。(一応カッコ内としたのは重要なポイント!今回はあえて触れません) 恐らく『古事記』「稻羽之素菟」の説話はこれに因む話でしょう。 当地には「野神(のがみ)」の地名も見えますよ。野神=八上とは? 当地が”元”豊国であった痕跡も、 豊国神社(とよくにじんじゃ)は、徳島県小松島市中郷町豊ノ本4に鎮座する神社である。 ●歴史 1614年(慶長19年)に創建。別当として豊林寺も造営された。豊臣秀吉の死後、蜂須賀家政と蜂須賀至鎮が豊臣秀頼より拝領した『木造 豊太閤像』(非公開)を神体としている。 創建当時は壮大な大社であったが、徳島藩主・蜂須賀光隆が江戸幕府・徳川家をはばかったため、取り壊しが行われた。正保年間には豊林寺が廃寺となる。その後、豊国大明神、日吉大明神、日吉宮と改称され、明治に入って以降、周辺の氏子によって豊国神社の名に戻し再興された。境内には式内社の御縣神社が鎮座、宮方神社とも呼ばれる。 ◆祭神 豊臣秀吉  ご神体の『木造 豊太閤像』は秀吉死後に配られた百体のうち、唯一現存すると言われている ●境内社 御縣神社 - 式内社。別称は宮方神社。祭神は大己貴命または事代主命。(wikipedia 豊国神社 (小松島市)より抜粋) 詳細内容につきましてはこちらをどうぞ awa-otoko様のブログ:「阿波の豊国大明神(豊国神社)」 さすが先人は目の付けどころと洞察力が違いますなぁ。(ノ∀`) 従って今回のお題となる神武東征における真の「豊国の宇沙の足一騰宮」と「阿岐国の多祁理宮」の場所はこうなります。 足一(あしひとつ)とは、つまり脚が片方しかないということで、「脚咋族」とも十分に関連してくるでしょうネ。 『日本書紀』では、 「時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。是時、勅以菟狹津媛、賜妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。」 「そのとき菟狹国造の祖先の菟狹津彦・菟狹津媛が、菟狹の川上に一柱騰宮を作って奉り、宴会を行った。そのとき菟狹津媛を(神武天皇の)家臣である天種子命に娶らせた。天種子命は中臣氏の遠い祖先である。」 …とわざわざ中臣氏の遠祖の旨を記していますしね。 イザナギ&イザナミのプロポーズと中臣遠祖のめあわせですか…(´・ω・`) ふむふむ 宮自体は、「於菟狹”川上”、造一柱騰宮」とありますから、勝浦川を遡上した式内社 生夷神社方面となる生名御所や沼江大屋敷が候補かも…まぁあくまでも日本書紀ではですけどね... …さて、最後にもう一つ、 天孫ニニギの項にある、ニニギが葬られたと記されてある可愛山陵。 こちらもwikipediaによれば、 可愛山陵(えのみささぎ)はニニギ(天津日高彦火瓊瓊杵尊)の陵。高屋山上陵、吾平山上陵とともに神代三山陵の一つ。明治政府により1874年(明治7年)、新田神社(現・鹿児島県薩摩川内市宮内町)境内の神亀山を「可愛山陵」と治定した。可愛山陵である新田神社では、神亀山の5分の4が御陵の領域となっている。 ●概略 ニニギの陵については、「日本書紀」に「筑紫日向可愛山之山陵」、「延喜式諸陵式」に「日向埃山陵。天津彦瓊瓊杵尊在二日向国一、無陵戸」(二、一は返り点)とあるが、この陵は延喜式よりも前に中央の官掌を離れて、その所在を単に「在日向国」、また「無陵戸」と表されていた。しかしその祭祀は重んじられ、神代三陵のために山城国葛野郡田邑陵の南の原に方1町の地を画して遙拝所に当てられたことがある。 (wikipedia 可愛山陵より抜粋) 例の如くニニギの陵も九州鹿児島県の薩摩の地にあるとされています。 陵名の読み方が少し難しいのですが、可愛山陵と書いて(え-のみささぎ)、日向埃山陵も(ひむかの-えのみささぎ)。(「山」の発音はいずこへ(´・ω・`)?) つまり、「可愛山」=「埃山」の発音が共に、「え」ということになります。 直訳的字義は、「かわいらしいやま」と「ちりのやま」の意味となり、要するに小さな山を指すものと考えられます。 先程の「恵解」は発語として、「いげ」=「えげ」とも訓み、また、宅宮神社(えのみや)で、広島県の方も、埃宮(えのみや)である訳ですから、宅宮神社のすぐ北側にあるのが、そう、 往古、以乃山(いのやま)と謂われた現在の眉山。 つまりニニギの陵である、可愛山陵(えのみささぎ)は、以乃山(いのやま)の陵(みささぎ)ということ。 この眉山のどこかに、天孫ニニギが眠っている(はず)と考えられるのです。 そしてこれが「ちょいネタから突っ込んで考察 ①」にもありましたように、高知県香美市の「秘境と癒しのスポット」として、「神母ノ木の大楠」というところがあり、この「神母」の部分を「いげ」と訓んでいます。 つまり恵解山とは、神母の山を指すのではないでしょうか出雲と伯耆の境とは? 話は飛びますが、魏志倭人伝にある、 「卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人」 「卑弥呼以って死す。冢を大きく作る。径百余歩。徇葬者は奴婢百余人。」 …とあるように、徇葬者は奴婢百余人も居たと書かれてあります。 この眉山全体が広大な神域であると考えられ、恵解山古墳を筆頭に八人塚古墳など無数の古墳群地帯となっています。 卑弥呼のお墓も実は意外とこの近くにあったりするのかも知れませんヨ。 …ということで、 今回はここまでとしておきますネ(´・ω・`)ノ 先の書き掛けの稿が1つ仕上がったわいボソ…

  • 29Mar
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      御刀媛から考察 ②

       ●石長比売(いわながひめ) 前稿の「御刀媛から考察 ①」からの続きです(´・ω・`)ノ それでは『日本書紀』景行天皇条から時系を追いつつ、阿波説としてチョイチョイ余談を挟みながら考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。  「三年春二月庚寅朔、卜幸于紀伊國」 「即位3年春2月1日。紀伊国に景行天皇は行きました。」 出発点がどこかはハッキリとはわかりませんが、天皇は紀伊国へ移動。 恐らく父垂仁天皇の都があった纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)から出発したと想定。 つまり「紀」の意図することは奈良県(皇居)より南へ行幸したということ。 因みに父の宮は『古事記』では、師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)です。 ここで占いをすると良くない結果だったので行幸を止めたとあり、(つまり留まった)その代わりに屋主忍男武雄心命を派遣したとあります。 「詣之居于阿備柏原而祭祀神祇、仍住九年、則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛、生武內宿禰」 「屋主忍男武雄心命は詣でて阿備柏原(あびのかしはら)に住んで、神祇を祀りました。それでそこに9年ほど住みました。そのうち屋主忍男武雄心命は、紀直の遠い祖先の菟道彦の娘の影媛を娶って、武内宿禰が生まれました。」  天皇は占いにより紀伊に留まり、その代わりに阿備柏原に派遣された屋主忍男武雄心命は、そこで9年も住み、妻子をえ、後の武内宿禰の出生を記します。 これにより天皇が向かおうとしていたところは阿備柏原ということになりますね。 お次は、「四年春二月甲寅朔甲子、天皇幸美濃。」「即位4年春2月11日。天皇は美濃に行きました。」 約1年後に景行天皇は屋主忍男武雄心命の派遣と並行して美濃に移っています。 ここが前稿にある阿南市(旧那賀郡)にある見能(みの)と推測。 決して岐阜県の美濃国ではないですy(こちらは律令後に名前を移された国) ●徳島県阿南市見能林町 「茲国有佳人曰弟媛、容姿端正、八坂入彦皇子之女也。」 「この国に佳人(かおよきおみな=美人)が居ます。弟媛といいます。容姿(かお)は端正(きらぎらしい)です。八坂入彦皇子(崇神天皇の息子)の娘です。」 そこで天皇はこの娘(弟媛)を娶ろうと思い家に向かうと竹林に隠れたため、 「於是天皇、權令弟媛至而居于泳宮之(泳宮、此云區玖利能彌揶)」 「天皇は弟媛が出てくるようにと、泳宮(ククリのみや)に滞在することにしました。」 さて、「ククリ」についてなのですが、 菊理媛神、又は菊理媛命(ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコト)は、日本の神。 加賀国の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神と同一神とされる。 ●加賀国一宮 白山比咩神社 ●神話上の菊理媛 日本神話においては、『古事記』や『日本書紀』本文には登場せず、『日本書紀』の一書(第十)に一度だけ出てくるのみである。 神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、伊弉冉尊と口論になる。 そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言った。 つづいてあらわれた菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれ(泉守道者と菊理媛神が申し上げた事)を褒め、帰って行った、とある。 菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。 神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。菊花の古名を久々(くく)としたことから「括る」に菊の漢字をあてたとも、また菊花の形状からという説もある。菊の古い発音から「ココロ」をあてて「ココロヒメ」とする説もある。 他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜(くく)り/潜(くぐ)る」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある。 白山神社では、『久久理姫命(久々利姫命)』と表記している。 なお、神代文字で記されているとされる『秀真伝』には、菊理媛神が、天照大御神の伯母であるとともにその養育係であり、また万事をくくる(まとめる)神だと記されている。 現在の白山比咩神社は、菊理媛神(白山比咩神)を主祭神とし、伊奘諾尊・伊弉冉尊も共に祀られている。 『玉籤集』は、熊野本宮大社(本宮)で菊理媛神(伊弉冉尊)が祀られていると記述している。(wikipedia 菊理媛神より抜粋) 奥宮にあるのは恐らく蛇の頭でもあり、剣でもあり、アレなのかな。 「ククリ」の語源は諸説あるようですが、「クク」は、「カカ」から転じた言葉であるとの説もあり、菊理媛命をお祀りされている加賀国(カガ)の一宮 白山神社のご祭神である白山比咩神のこととされています。 他にもヘビは、ナギ、ヌカ、ハハキなども古語のようですヨ。ハハキの国とは…?「蛇日本の蛇信仰より」 また、イザナギ・イザナミの「ナギ:”ナガ=長” ウナギの語源説」や「ナミ:波はうねるから」、ウカノミタマの「ウカ」等も海蛇をあらわす言葉で、後に食物の「ウカ」と集合したと考えられています。 また、他にヘビを表す言葉にミズチ、ハミ、クツナ等があり、チは地、血、乳などの生命の根源を表す語で水の神の意味、ハミは噛み付くことから、クツナは朽ちた縄からで、注連縄はヘビをあらわしているといわれています。 『古事記』、天照大神と須佐之男命の段にある、 「天兒屋命・布刀玉命、指出其鏡、示奉天照大御神之時、天照大御神逾思奇而、稍自戸出而臨坐之時、其所隱立之天手力男神、取其御手引出、卽布刀玉命、以尻久米此二字以音繩、控度其御後方白言「從此以內、不得還入。」故、天照大御神出坐之時、高天原及葦原中國、自得照明。」 「天児屋命、布刀玉命、其の鏡を指し出して、天照大御神に示せ奉る時、天照大御神、逾奇しと思ほして、稍戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てりし天手力男神、其の御手を取りて引き出しまつりき。即ち布刀玉命、尻久米縄を其の御後方に控き度して白言しけらく、「此れより内にな還り入りそ。」とまをしき。故、天照大御神出で坐しし時、高天の原も葦原中国も自ら照り明りき。 」 この注にある尻久米縄(しりくめなわ)ですが、トンボの交尾のことを現代でも「しりくみ」といい、学習院女子短期大学講師 吉野裕子氏によると、注連縄の形は『蛇の交尾』を擬したものだといいます。 ●ヘビのアハ~ンなところ ●注連縄(しめなわ) つまりしめ縄は蛇の交尾をかたちどる縄で、「蛇信仰」に依るものなんです。 詳しくは「注連縄の原点は『蛇』」「注連縄と蛇」 ちなみに鏡餅は、 鏡餅(かがみもち)とは、日本の伝統である、餅を神仏に供える正月飾り(床飾り)であり、 穀物神である「年神(歳神)」への供え物であり、「年神(歳神)」の依り代である。 ●名称の由来 鏡餅という名称は、昔の鏡の形に似ていることによる。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものであった。三種の神器の一つ、八咫鏡を形取ったものとも言われる。また、三種の神器の他の二つ、八尺瓊勾玉に見立てた物が橙(ダイダイ)、天叢雲剣に見立てた物が串柿であるとされる。 ●飾り方 三種の神器または心臓を形とったとされる、丸い餅を使用する。 一般的には、大小2つの平たい球状の餅とダイダイが使用されるが、地域によっては違いがあり、餅が三段のもの、二段の片方を紅く着色して縁起が良いとされる紅白としたもの(石川県で見られる)、餅の替わりに砂糖で形作ったもの、細長く伸ばしたものを渦巻状に丸めてとぐろを巻いた白蛇に見立てたものなど様々である。また現代ではダイダイの入手が難しい場合にウンシュウミカンで代用するケースも見られる。(wikipedia 鏡餅より抜粋) 前稿の峯神社の謂れにも、「木花開耶姫命白蛇トナリテ…」とあり、しつこいようですが詰まるところ「蛇」のことなんですな。 話を「紀」に戻しまして、 「天皇則留而通之。爰弟媛以爲、夫婦之道古今達則也、然於吾而不便、則請天皇曰「妾、性不欲交接之道、今不勝皇命之威、暫納帷幕之中、然意所不快、亦形姿穢陋、久之不堪陪於掖庭。唯有妾姉、名曰八坂入媛、容姿麗美、志亦貞潔。宜納後宮。」」 「天皇はすぐに弟媛を引き止めて交わりました。弟媛は思いました。 …夫婦の道は古も今も交わるもの。しかし、わたしにはそれ(=交わり)が出来ない… そこで弟媛は天皇に言いました。「わたしは性交接(ひととなりとつぎ)の道を望んでいません。しかし天皇の意向に勝てず、しばらく帷幕の中(天皇の寝床)に入りましたが、しかし心の快びのないことでした。わたしは形姿穢陋(かおかたなし=不細工)です。長く掖庭(うちつみや=天皇の後宮があるところ)に仕えるのは耐えられません。ただ、わたしには姉がいます。名を八坂入媛といいます。容姿麗美(かおよし=美人)です。志は貞潔です。後宮に入れてください。」」 ここでは弟媛が不細工で姉が美人であるからといい、姉の方が天皇の妻となるのに相応しいといって自身が妃に入ることを辞退します。 しかし少し前の文章には、美人で容姿は端正な八坂入彦皇の娘=弟媛だったはずですし、天皇も1回はヤっちゃってる訳ですから実際のところはどうなんでしょうかね笑 前稿の考察にも書きましたが、賀志波比売は石長比売のことです。 これが津峯神社の御祭神でいうところの、羽山戸神と大宜都比売との間の子である夏之売命(なつのめのみこと)。 従って賀志波比売=景行天皇妃の御刀媛(みはかしひめ)のもう一つの名は、御刀(おと)媛ということになりますネ。 そして天皇は八坂入媛を娶って13人の皇子女を得た話となり、結局は80人の子だくさんだったと記します。(たくさん子を産む父とは? どんどん続けていきましょう。 「是月」 「この月のこと(景行天皇即位4年の2月)」 「天皇、聞美濃國造名神骨之女、兄名兄遠子・弟名弟遠子、並有國色、則遣大碓命、使察其婦女之容姿。時大碓命、便密通而不復命。由是、恨大碓命。冬十一月庚辰朔、乘輿自美濃還。則更都於纏向、是謂日代宮。」 「美濃国造の神骨という名の人物の娘に姉の名は兄遠子、妹の名は弟遠子という姉妹がいました。二人ともが有国色(かおよし)と景行天皇は聞いて、その婦女の容姿を見たいを思いました。ところが大碓命は、けじめなく密かに通じ復命しませんでした。景行天皇は大碓命を恨まれました。」 「冬11月1日。輿に乗り美濃より帰還されました。また纒向(まきむく)に都を作りました。これを日代宮といいます。」 またしても美濃にて妃を娶ろうとするお話になる訳ですが、 確か景行天皇は先述にあるように、同年同月である即位4年の2月に自ら「美濃へと弟媛を娶りに赴き」ましたよね。 結果的にGETできたのは弟媛ではなく、姉の八坂入媛を娶りました。 後の話では自身の息子である大碓皇子の密通により、美濃国造の娘、兄遠子・弟遠子姉妹を娶ることができず恨み諦めたとあります。 この大碓皇子は、『古事記』では、大根王(おおねのみこ、三野前国造の祖)の娘の兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)を娶り、兄比売とは押黒之兄日子王を、弟比売とは押黒弟日子王を儲けた…とあり、これが対応箇所となりますので、素直に読み取れば、景行天皇は美濃へと妃を娶りに赴いたものの、4人の女性を妃候補から結局は八坂入媛のみゲットできたといった内容になります。(息子の子らは「黒」なのね) ただし、上記の美濃(三野)での説話の内容からは、天皇は妹の弟媛は逃したものの、姉(兄:八坂入媛)はGETしていることから、この媛と景行天皇との間の子に、後に13代目の天皇となる成務天皇を生み、また景行天皇と播磨稲日大郎姫との間の子である大碓皇子と八坂入媛(美濃の兄比売に対応)との間にもまた押黒之兄日子王を儲けたということになります。 この八坂入媛は、皇后だった播磨稲日大郎姫が崩御した後に、新たに皇后に立てられています(これはあの天皇のあの箇所と同じ…まぁいっぱいあるけど笑 そして美濃より帰還後、纒向に都を作った(日代宮)とあり、父垂仁天皇の皇居もまた纒向珠城宮ですから、近くにもう1つ皇居を造ったのか、実は同じ場所に皇居を増築したのかはこれではチョットわかりませんね。 「十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。八月乙未朔己酉、幸筑紫。」 「即位12年秋7月。熊襲が反抗して朝貢をしませんでした。8月15日、景行天皇は筑紫に出発しました。」 即位12年8月、熊襲が反抗したため天皇は筑紫へと出発します。 一応通説での移動地図(´・ω・`)… こちらは最初の即位3年云々から9年が経過しています。 従って天皇が派遣した屋主忍男武雄心命が阿備柏原に9年住んだとある年と一致します。 これにより考察としては、実は同所同時に移動している屋主忍男武雄心命、また同年同月に姉妹を娶っている大碓命=「景行天皇の分身」とも考えられるでしょう。 ここではあくまでも「天皇」という存在を別所にあると想起させる記述に付しているのです。これは流石に阿波説でないと分からないのでは? 後の9月5日に敵が待ち構えているのではと家臣に偵察に向かわせます。すると、 「爰有女人、曰神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也。」 「そこには女がいました。名前を神夏磯媛(かむなつそひめ)といいます。その配下の者たちの数は非常に多く、一国の首領です。」 そこには沢山の部下を持つ一国の女首領の神夏磯媛がいました。 書くと長くなりますので要約しますと、結果的に天皇に帰順を示し、その使者に反逆者を討たせ筑紫平定に協力したといった内容です。 既にお気づきの方もいるかと思いますが、夏之売命(なつのめのみこと)も読みを変えれば、夏之(かし)売命。つまり神-夏磯(かし)媛。  そして、悪賊として登場する、鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折らを悉く殲滅。 「天皇遂幸筑紫、到豊前国長峽縣、興行宮而居、故號其處曰京也。」 「筑紫の豊前国長狹県に到着し、行宮(かりみや=旅先の仮の宮)を立ててそこに滞在したのでその土地を「京(みやこ=福岡県京都郡)」といいます。」 「筑紫」の「みやこ」とは? 「冬十月、到碩田国。其地形廣大亦麗、因名碩田也。(碩田、此云於保岐陀。)」 「即位12年冬10月、碩田国(おおきたのくに=現在の大分県)に到着しました。 その国は地形が広くて大きくて、また美しいものでした。それで碩田(おおきた=大きい田)と名付けました。碩田は於保岐陀(おおきた)と読みます。」 この箇所は大分県の地名由来の説明となりますが、こちらでも先程と同様に、女酋の速津媛と、青、白、打猿、八田の(賊=土蜘蛛セット)出番があり、これらを大勢の兵を動かし打ち破り、その際、椿の槌をつくった所を海石榴市(つばきち)という…とあります。 こちらは九州南東端に位置する現在の大分県佐伯(さいき)市周辺図 これを徳島県に置き換えますと、 旧那賀郡現在の阿南市、やはりそこには椿町があり、その西隣に、 旧福井庄椿地の地名がありますネ。 「天皇、初將討賊、次于柏峽大野、」 「天皇は初めは、賊を討とうとして、柏峡の大野に留まりました。」 ●阿波国那賀郡大野郷 現在のこの辺と思われます 「天皇祈之曰「朕得滅土蜘蛛者、將蹶茲石、如柏葉而舉焉。」因蹶之、則如柏上於大虛。故、號其石曰蹈石也。是時禱神、則志我神・直入物部神・直入中臣神三神矣。」 「天皇は誓約をしました。「わたしが土蜘蛛を滅ぼすことができるのならば、まさにこの石を蹴っ飛ばしたら、柏の葉のように飛べ」 それで石を蹴っ飛ばしました。すると石は柏の葉のように大虚にあがりました。それでその石を踏み石といいます。この時に祈った神は志我神、直入物部神、直入中臣神の三神です。」 天皇が「柏(かしわ)」に因む誓約をするシーン。 ここでのキーワードは、「柏」と「石」。 類似箇所は、『古事記』ニニギの段にある大山津見神の誓約のシーン、 「我之女二並立奉由者、使石長比賣者、天神御子之命、雖雨零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者、如木花之榮榮坐、宇氣比弖自宇下四字以音貢進。此令返石長比賣而、獨留木花之佐久夜毘賣。故、天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」故是以至于今、天皇命等之御命不長也。」 「二人並べて送ったのは、石長比売を仕えば、天津神の皇子の命は雪が降り風が吹いても、石の如く永遠に堅く動かず変わらないもの、また木花之佐久夜比売を仕えば、木の花が咲くように繁栄したでしょう。といい、邇邇芸命は石長比売を返したことで、木の花のように儚い命になり、これ以降、天皇の寿命は長くは無くなってしまった。」 ※因みに応神天皇の御子に堅石王(かたしわのみこ)がいますね。 九州大分県の場合はこちらでしょうかね。やはりよく似た位置にありますなぁ。 「十一月、到日向国、起行宮以居之、是謂高屋宮。」 「即位12年11月日向国に到着して行宮を建てて留まりました。これを高屋宮(たかやのみや)といいます。」 ついに天皇は日向国に到着。(やっとここまで来た笑 紆余曲折を経て”自らの手を汚さずに”襲国の猛勇である熊襲梟師を倒し無事平定。 「十三年夏五月、悉平襲国。因以居於高屋宮已六年也、於是其国有佳人、曰御刀媛(御刀、此云彌波迦志)、則召爲妃。生豊国別皇子、是日向国造之始祖也。」 「即位13年夏5月。 完全に襲国を平定しました。高屋宮に居るようになって既に6年です。その国に佳人(かおよきおみな)がいました。御刀媛(みはかしひめ)といいます。 御刀は彌波迦志(みはかし)といいます。すぐに呼び寄せて妃としました。 豊国別皇子を生みました。 この皇子は日向国造の始祖です。」 ここで正真正銘の御刀媛が登場。 「其国有佳人」とあるように、日向国に美人の御刀媛が居ました。(ここ重要) つまり天皇と御刀媛が最初に会った場所は日向の国の高屋宮。 そして、この御刀媛との子である、豊国「別」皇子が日向国造の始祖なんです。 ダラダラと書いてしまいましたが、もう少し続くようである(´・ω・`)ノ

  • 20Mar
    • 御刀媛から考察 ①の画像

      御刀媛から考察 ①

       ●日向之美波迦斯毘賣(ひむかのみはかしびめ)(※画像はイメージ図です) みなさんお久しぶりです(´・ω・`)ノ 以前からため込んでいる記事の続きや小ネタでも書こうかなと思っていたところ、命の次ぎの次ぎのだいぶ次ぎぐらいに大事なパソコンが電源を入れてもウントモスントモ言わなくなったので、泣く泣く購入店に修理に出しましたら、めん玉飛び出る程の修理費だったので、修理をするのか、はたまたオニューを買うかと散々悩んだ結果…最終的に修理を依頼。 後日晴れてパソコンは修理され帰還、現在はすこぶる快調デスヨ\(^o^)/ まぁ、その間にブログを書くモチベがダウンしたのは言うまでもない(´・ω・`)… …さて、ややモチベも回復して参りましたので久々に何か書こうかなと。書きかけの稿の方はどうした? 今回はこれまでの記事のおさらいも兼ねまして、いつも通りの個人的歴史考察をして参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 「記」:日向之美波迦斯毘賣、「紀」:御刀媛 御刀、此云彌波迦志(みはかし)は、12代景行天皇の妃であり、『日本書紀』に「生豐國別皇子、是日向國造之始祖也。」と書かれてありますように、日向国国造の始祖である豊国別皇子(記:豊国別王)の母です。 豊国は、『古事記』・国産み神話に、「次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。」とあるように、現在の九州の北東部で福岡県東部および大分県全域に相当します。 場所はココ(wikipedia豊国より) 当たり前のことですが、母の名にある”日向”国(宮崎県)の北側に位置しますネ。 その御刀媛がお祀りされておりますのは、お隣の肥後国(熊本県)にある名石神社(めいしじんじゃ:熊本県玉名郡長洲町上沖洲298) ◆祭神 景行天皇 御刀媛尊 豊国別尊 ◆由緒 日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)が景行天皇のあとを追って、長洲に来たものの既に天皇は発った後で、悲しみのあまり女官と共に海に入水し身を投げて石になったと伝えられる。その石は名石神社(めいしじんじゃ)に祀られている。 こちらがその「石」だそうです さて、阿波国(徳島県)に目を向けますと、現在の阿南市にご鎮座する阿波國那賀郡式内社 室比賣神社(徳島県阿南市新野町入田136) 境内石碑によれば、 ◆室姫神社の由来 当時の昔話より 当社の御祭神は淳仁天皇の御内室「室妃」で奈良時代の末期に、姫が天皇を慕って小舟で淡路へ向かう途中、荒天の為阿波の東岸に漂着。ここに安住の地を求めて土地の人たちの親愛を受けていたが、ついに黄泉の客となった。その時、身重であった姫は村人たちの親切を謝すとともに、世の人々の安産を願う旨を遺言に残したという。 村人は姫をねんごろに葬り、塚を設け、塔を建てて供養していたが、いつの頃からか室比賣神社として祀るようになり明治七年、式内社の一つとして室姫神社と改称された由緒ある古い神社で、安産の神として広く崇敬さている。 なお、当社の御祭神としての室比賣命は現在、木花開耶姫命と同一神として祀られているようです。 現海部郡海陽町にご鎮座する阿津神社と同社同祭神ですね。 こちらも天皇を慕って海を渡って追いかけて来た妃が結局亡くなったという謂れを持ちますね。 こちらの社がご鎮座する場所は、 記録がほとんどない岡山城跡ですね。(岡山県は旧国では…ボソボソ) なお、「玄松子の記憶 室姫神社」によれば、当社に関する記録はほとんどなく、衰退していた一時期、近くの轟神社と置き換えられ、そのため、王子権現とも称されていたが、明治3年、王子神社、明治7年室姫神社と改称した。 また、「室比売神社 - 延喜式神社の調査」によれば、この地域に住居を権えた人々によつて、いつの頃からか室比売神社を祀つたのがはじまりで、その後衰頽廃絶してある時期には轟明神と置き替えられたこともあつたが、轟明神が級長津彦命。級長津姫命を祭神として、南荒田野村(後の豊田村)字宮久保に移転するに伴い、王子大明神として祀られていた。明治3年王子神社と改称、明治7年室姫神社として復活した。…とほぼ同様の旨が記されています。 ではこの室比賣をお祀りしている阿南市にあるもう一つの式内社 賀志波比売神社を見て見ますと、 賀志波比売神社(かしわひめじんじゃ:阿南市見能林町柏野22) 当社は創祀年代不詳ですが、「阿南市史」より、「聖武天皇御宇神託有リテ遷座ス」とあり、また一説に神亀元年(724年)の創祀であると伝えられています。 社殿内案内板によれば、 賀志波比売神社は見能方八幡神社飛地 境内の見能林町柏野二十二番地にあり延喜式内社で津峯神社(祭神賀志波比売命)の本宮である。 昭和二十七年社地の大部分が見能方保育所が建設され、そのため社殿は北西隅に移転鎮座していたものである。 昭和六十三年保育所の新築移転に伴い、阿南市から整地返還をうけ、当社も念願の 現在地に移転改築を行ったものである。 「阿府志」には、「賀志波比売神社、夏之売命(なつのめのかみこと)を祭る。羽山戸神、大宣都姫を娶て夏高津日神(なつたかつひのかみ)亦名夏之売神を生む」とあり、夏之売神は、羽山戸神と大気都比売神の子です。 この羽山戸神(山の麓を司る神)は、スサノオの子である大年神(食物神)と天知迦流美豆比売との間の子で、日吉大社・松尾大社の祭神である大山咋神(別名 山末之大主神)らの同母兄弟です。(”ヤマト”の謂れが見えて来たのかな…?) つまり羽山戸神は、スサノオの「孫」で、ここに出てくる大気都比売神は古事記にある阿波国の女神です。 では論社である津峯神社を調べてみますと、 ◆祭神 賀志波比売命を主祭神とし、相殿に大山祇命を祀る。開運延命・病気平瘉・海上安全の神として信仰される。 旧郷社、神饌幣帛料供進社、延喜式内社。聖武天皇神亀元年(724)神託ありて国家鎮護、長寿延命の神として奉斎。爾来国主の尊崇篤く、阿波蜂須賀歴代の家運長久を祈願せられ、富岡情趣と共に正月参拝祈願せらるること久し、寛保神社帳に「答島村津峰大明神、別当見能方村千福寺」、阿波志に「津峰祠答島に在り、其祠舊山麓に在り、古樹鬱蒼今移して此地に在り、四望広蔽、除夜聖燈燃ゆ、東南隅に斥候台址在り」「賀志波比売延喜式亦小祀と為す、水潟村南津峰に在り、今津峰権現と称す、旧北麓に在り、木材蒼然古松一株其の大きさ比なし、昔日封田若干在り」と見える。また阿波志には「賀志波比売神社、夏之売命を祭る、見能潟に在り俗に津峰権現と号す、別当千福寺、古事記に日羽山戸神大宣都姫を娶て夏高津日神亦名夏之売神を生む、述者の按に羽山戸は伊予の大山祇今云う三島の神是なり、大宣都姫は阿波の国主也、当社は山の麓に在りしを所の郷民に因て今の山上に遷す、是は年歴久しからずと尤も麓の社も猶存せり、此社真に古し、樹木繁茂せり、毎年臘晦の夜竜燈あがる」と述べている。 元々は麓の「柏野」の地に祀られていたものを山頂に移した社で、見能方(みのがた)、水潟(みのがた)=現在の見能(みの)林にあったのを聖武天皇御宇時に当地に移したとあれば、恐らく現賀志波比売神社ご鎮座地が元地なんでしょうな。 境内案内より、 ◆津峯神社由緒 御神徳 大神は主として人の寿命を司り給うを以って、危篤の病人と雖も其の親威、知人鶏鳴を期し、清水に浴し、至誠をこめて祈願すれば寿命を延べ給うといい、また日に一人の命を助け給うと伝えらる。されば古来上下尊心益々厚く遠近その慰霊仰がざるものなし。当国の大守蜂須賀阿波守累代武運の神として崇敬し、富岡城主加島政慶代々家例として、正月三日諸臣を具して参拝せられ、大正九年三月二日蜂須賀正韶侯爵閣下、近くは昭和二年六月十二日伏見宮博義王殿下御参拝の節は御記念のため、それぞれ月桂冠の御手植の栄を賜りたり。(昭和二十五年別表神社に加列) 交通安全 病気平癒 海上安全 息災延命 守護  当祭神である賀志波比売命は、病気平瘉や長寿延命の神のようです。 「応神天皇の痕跡から考察④」でも書きましたが、橘湾を挟んで津峯神社の南方に聳える明神山にご鎮座する峯神社(みねじんじゃ:徳島県阿南市椿町旭野221)。 こちらの謂れを見ますれば、 當峯神社ノ祭神ハ遠ク二千六百五十有餘年ノ昔皇室ノ祖神ニ當ル 天照大神ノ天孫瓊瓊杵尊ノ妃神、木花開耶姫ノ命ヲ祀ル 基ヨリ東方ノ静岡縣富士山ニ祀ル浅間神社ハ此ノ神社ノ本宮ニ當リ 茲ニ対峙シ會フハ方ニ宜ベナラン亦タ西方ノ愛媛縣大三島ニ祀ル大山祇神ハ 父君ニ當リ逢カニ父子ノ絆拘ヲ維ネル如ク亦タ此ニ対峙シ會フハ如斯 猶北方ニ望ム津乃峰ニハ姉君賀志波姫命ガ祀ラレシコト洵ニ奇ナルベシ 北麓下レバ椿町働々乃至ハ船頭ヶ谷傍示ノ氏子達七拾有餘ノ者ガ 奉持スル本殿ニ於イテ毎年九月十八日十九日ノ両日ニ渉リ秋季例祭ヲ行ナフ 亦タ南麓ノ由岐町阿部乃至ハ伊座利傍示ノ人々ニ篤ク信仰スル者多ク 四季ヲ通ジ其ノ禮拜跡ヲ絶タズ復タ参詣人克ク謂フ處 木花開耶姫命白蛇トナリテ屡々現ハルヲ以ツテ正ニ霊験顕カナリト 蓋シ斯ル神秘ナルコト他ニ慮リ識レス仍而実ニ神聖ナル霊峰ト謂フベシ 平成七年十一月吉日 峰神社氏子一同建立 『古事記』邇邇芸命の段に、 「我之女二並立奉由者、使石長比賣者、天神御子之命、雖雨零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者、如木花之榮榮坐、宇氣比弖自宇下四字以音貢進。此令返石長比賣而、獨留木花之佐久夜毘賣。故、天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」故是以至于今、天皇命等之御命不長也。」 「二人並べて送ったのは、石長比売を仕えば、天津神の皇子の命は雪が降り風が吹いても、石の如く永遠に堅く動かず変わらないもの、また木花之佐久夜比売を仕えば、木の花が咲くように繁栄したでしょう。といい、邇邇芸命は石長比売を返したことで、木の花のように儚い命になり、これ以降、天皇の寿命は長くは無くなってしまった。」 とあり、上記にある社のご祭神及び『古事記』の内容からも、賀志波比売命は長寿延命の神である大山津見神の娘である石長比売のことでしょう。 スサノオとアマテラスから繋がる「孫」の代は言わずと知れた天孫邇邇芸命。 こちらではスサノオの「孫」の羽山戸神。(まぁここはわかる) その妻は、記紀によれば大山津見神の娘である木花開耶姫命であり、ぶちゃいくなので返されたのは姉の石長比売だったはず。 この稿の祭神に置き換えれば、妻は大気都比売神(=木花開耶姫命)で、ぶちゃいくで返されたポジションにあるのは「姉」であるはずの「娘」の夏之売命(賀志波比売)。(´・ω・`)… つまり羽山戸神(=邇邇芸命)の妻は、ナギ・ナミ神の娘である大宣都姫(=木花開耶姫命)で、その子が夏之売命(=木花開耶姫命の姉の石長比賣)であるということになりますね。(もうここでは深くは追求しませぬよ) この世代のズレは萬幡豊秋津師比売命のところでも見ましたな。  ではこの夏之売命ですが調べて見ますと、 夏高津日神(なつたかつひのかみ 別名:夏之売神 なつのめのかみ) 『古事記』によると、大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。 これらの神々は植物(特に稲)の成育を示すと思われる。 稲作に関る夏の日の神。日が高く昼が長いという意味か。(夏高津日神:玄松子の祭神記より) これもどっかで見ましたな… アシナヅチ・テナヅチは、日本神話のヤマタノオロチ退治の説話に登場する夫婦神である。『古事記』では足名椎命・手名椎命、『日本書紀』は脚摩乳・手摩乳と表記する。 ●神話の記述  二神はオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘(八稚女)がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。このとき、スサノオによって娘のクシナダヒメは櫛に変えられた。 スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えた。 ●解説 ・「ナヅ」は「撫づ(撫でる)」、「チ」は精霊の意で、父母が娘の手足を撫でて慈しむ様子を表すとする説 ・「アシナ」は浅稲(あさいね)で晩成の稲の意、「テナ」は速稲(といな)で早稲の意とする説 ・「畔(あ)の椎」、「田(た)の椎」の対であるとする説 ・古語で蛇を「ミヅチ(御づち)」とするように「ヅチ」は蛇を指すことから、「脚無し蛇」「手無し蛇」という手足を持たない蛇の造形を示した蛇神を示しているとする説 ・古田武彦は、「手名椎(テナヅチ)=「てのひら」のように拡がった地の港の神 足名椎(アシナヅチ)=「ア」は接頭語、「わが」の意。「シナ(支那)の港の神」 「足名椎」は、浙江省出身の「港の神」だった」(『盗まれた神話』431~432頁、ミネルヴァ書房発行)とする。(wikipedia アシナヅチ・テナヅチより抜粋) 名前の由来の解説を見るに諸説あるようですが、手も足もない「蛇」のことでしょうな。 峯神社の謂れにもあるように、同じく大山津見神の娘である「木花開耶姫命白蛇トナリテ…」云々とあるように大山津見神の子は蛇に所縁があるのです。 そして世代がずれてのスサノオの妻となったのは奇稲田姫ですね。 さて、この「蛇」についてですが、 ●文化の中のヘビ(信仰) 民俗学者の吉野裕子によれば、日本の古語ではヘビのことを、カガチ、ハハ、あるいはカ(ハ)等と呼んだ。また、これらを語源とする語は多く、鏡(ヘビの目)、鏡餅(ヘビの身=とぐろを巻いた姿の餅)、ウワバミ(ヘビの身、大蛇を指す)、かかし(カガシ)、カガチ(ホオズキの別名、蔓草、実の三角形に近い形状からヘビの体や頭部を連想)などがあり、神(カミ=カ「蛇」ミ「身」)もヘビを元にするという。 ただし、カガチはホオズキの古語、鏡の語源は「かが(影)+み(見)」、カカシはカガシが古形であり、獣の肉や毛髪を焼いて田畑に掛け、鳥や獣に匂いをカガシて脅しとしたのが始まりであって、それぞれ蛇とは直接の関係はないというのが日本語学界での通説である。(wikipedia ヘビより抜粋) …とあるように古語ではカガチ、カカシ、カガシ、ハハ、ハカ、ハミ、ミなどと呼ばれ現在でも使っている地域もあろうかと思います。 農業における「かかし」や鏡「かがみ」についてもたいへん興味深いのではないでしょうか。 さて本題の景行天皇妃である御刀媛。 『日本書紀』には、御刀媛(御刀、此云彌波迦志)読みは、「み-はかし」と注があります。 言葉遊びが大好きなご先祖様は、刀(たち)を(はかし)と読みなさいとヒントを出している訳なんですなぁ。 つまりこれが、御刀(みと)でもあり、 ほとは古い日本語で女性器の外陰部を意味する単語。御陰、陰所、女陰の字を宛てることが多い。(wikipedia ほとより抜粋) これ等が関係する人物であるということなんでしょう。  日本一社とする津峯神社のご神紋は「八角御紋」 往古、食物を柏の葉に盛る風習があり、それから転じてカシワは食器の総称とされ、現在でも携帯する食器をカシワと言います。 …とあり、如何にも御食の女神らしい謂れですな。 ホームページには御祭神が、 本社 賀志波比賣大神(かしはひめのおおかみ) 大山祗大神(相殿) 末社 恵比須大神 大國主大神 …とあるように、これ等の神に密接な関係があるようです。 久々にブログを書くとチョット疲れてきましたので、続きはまた次回に書こうかな(´・ω・`)いつになるのかは保証できない

  • 05Jan
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      本家の元祖考察 オマケ

       ◆瓊瓊杵尊(ニニギノミコト) 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 明けましてオメデトウ御座います。 完全にブログ更新をサボtt…いや、年末までの激務によりブログを書く気力が減退しておりましたが、時間がとれるようになったのでまた少しずつでも何か記していこうかと思います(´・ω・`)ノ ナニトゾ オテヤワラカニ 本稿は「本家の元祖考察」のオマケ、というか更に話を進めた訂正・追記・補足の稿となっております。 まだまだ先人より学ぶべきことがあったので、まずは前稿での解釈の訂正をば…(;´▽`A`` 「天孫降臨」を表していると思われる皇室儀式の深曾木(ふかそぎ)の儀。 ●皇室儀式である「深曾木の儀」のセット この、「右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、青石を2個踏み、南側を向いて立ち、日置盤からぴょんと飛び降りる。」…の部分ですが、この右手に持った「桧扇(ひおうぎ)」を表していると思われるのが、 ●ヒオウギ Wikipediaによれば、文化・産業の項に、「黒い種子は俗に射干玉(ぬばたま・ぬぼたま・むばたま)と呼ばれ、和歌では「黒」や「夜」にかかる枕詞としても知られる。烏羽玉、野干玉、夜干玉などとも書く。和菓子の烏羽玉(うばたま)はヒオウギの実を模したもので、丸めた餡を求肥で包んで砂糖をかけたものや黒砂糖の漉し餡に寒天をかけたものなどがある。 花が美しいためしばしば栽培され、生花店でも販売される。関西地方中心に名古屋から広島にかけて、生け花の7月初旬の代表的な花材である。特に京都の祇園祭や大阪の天神祭では、床の間や軒先に飾る花として愛好されている。生花はほとんどが徳島県神山町産のものである。 …と記されており、また左手に持った山橘は、「酢橘」のことと考えられ、 スダチ(酢橘、学名:Citrus sudachi)はミカン科の常緑低木ないし中高木。徳島県原産の果物で、カボスやユコウと同じ香酸柑橘類。名称の由来は食酢として使っていたことにちなんで、「酢の橘」から酢橘(すたちばな)と名付けていたが、現代の一般的な呼称はスダチである。 ●形態・生産 現在の主な産地は徳島県神山町や佐那河内村、阿南市である。日本における収穫量は2005年が4,469 トン、2010年が5,882 トンであり、その98%が徳島県で生産されている。スダチは徳島県を代表する特産物であり、スダチの花は1974年に徳島県の県花に指定されている。(wikipedia スダチより抜粋) …と、これまた神山町の特産品でもあります。 そして、両端で踏む「青石」は、「本家の元祖考察」の項でも記しましたように、 緑色片岩(りょくしょくへんがん、Greenschist)は変成岩(広域変成岩)の一種で、結晶片岩のひとつ。 ●地誌:日本 日本では、三波川変成帯、三郡変成帯、阿武隈変成帯の低温部に広く分布する。 中央構造線の南側を東西に走る三波川変成帯は、中部地方、近畿地方、四国地方を横切り九州の佐賀県まで横たわる変成岩帯で、主に黒色片岩と緑色片岩からなる結晶片岩に富む。これらの地域では、緑色片岩の外観的美しさから銘石とされ、庭石などに珍重されてきた。 例をあげると、三波川変成帯の模式地である群馬県の三波石(緑泥石片岩。天然記念物)、埼玉県の秩父青石(緑泥片岩)などがあるが、いずれも枯渇により現在は採掘が禁じられている。ほかに徳島県の阿波青石(緑泥石片岩)、伊予青石など。(wikipedia 緑色片岩より抜粋) 緑泥石片岩は、いわゆる阿波の青石のことで、お城の石垣や古墳の積み石の素材にもなっていますね。 その産出場所は、主に吉野川の南側、つまり神山町を含む剣山系山脈です。 ●阿波青石埋蔵分布図 従ってこれら全ての揃う「神山」から当の儀式にあるように、南方に位置する徳島県南部(現海部郡)に天孫ニニギは降臨したと考えられるのです。 天津神の邇邇芸命と、国津神の大己貴命が実は同神である、という解釈を前に書いておりますので、それについてはここでは書きませんが、そこに至る過程につきましては「本家の元祖考察」の方でご確認下さいませ。 さて、「天孫降臨」をwikipedia猿田彦大神の項での記述で確認してみますと、 邇邇藝命が天降りをしようとすると、天の八衢(やちまた)に、高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。そこで天照大御神と高木神は天宇受売命に、その神に誰なのか尋ねるよう命じた。その神は国津神の猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであった。(wikipedia 天孫降臨より抜粋) ニニギを竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に無事に案内した猿田彦大神ですが、『古事記』では後の文にこう書かれています。  「故爾詔天宇受賣命「此立御前所仕奉、猨田毘古大神者、專所顯申之汝、送奉。亦其神御名者、汝負仕奉。」是以、猨女君等、負其猨田毘古之男神名而、女呼猨女君之事是也。」 「ニニギ命が天宇受売命に言いました。「御前(ニニギ)に立って仕えて、先導をした猿田毘古大神は、独りで猿田毘古大神に対面して名前と正体を尋ねたお前…天宇受売命が送りなさい。 またその神の名を名乗って仕えなさい」 それで猿女君などは猿田毘古という男神の名を負って、猿女君と呼ぶことになりました。 」 またこれに対応する箇所として『日本書紀』では、  「對曰「天神之子、則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。」因曰「發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。」天鈿女、還詣報狀。皇孫、於是、脱離天磐座、排分天八重雲、稜威道別道別、而天降之也。果如先期、皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯。其猨田彦神者、則到伊勢之狹長田五十鈴川上。卽天鈿女命、隨猨田彦神所乞、遂以侍送焉。」 「猨田彦大神は答えました。「天神の子は筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯に行くべきでしょう。わたしは伊勢の狹長田の五十鈴の川上に行きます」 さらに 「わたしを發顯(アラワ)したのはあなたです。 あなたは私を(伊勢まで)送って下さい」 天鈿女は帰って状況を報告しました。皇孫は天磐座から離れて、天八重雲を押し分けて、幾つもの別れ道を通り、天から降りました。天孫は猨田彦大神が約束した通り、筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯に着きました。その猨田彦大神は伊勢の狹長田の五十鈴の川上に着きました。天鈿女命は猨田彦神が願うままに送って行ったのです。」 双方を合わせますと、猿田彦大神は天鈿女命により、「伊勢の狹長田の五十鈴の川上」に送られて行き、そして夫婦となったとあります。 下図は皆さんご存知伊勢国の伊勢神宮周辺図。 その伊勢国の「五十鈴川の川上」には「内宮」が御座います。 この伊勢神宮には二つの正宮があり、内宮には天照坐皇大御神(天照大御神)が、一方外宮には豊受大御神がそれぞれご鎮座されております。  以前に「伊勢神宮を考察」で少し書いておりますが、徳島県鮎喰川周辺の上空地図から地理・地形を確認してみますと、 見事なまでに伊勢とそっくりであり、伊勢でいうところの「外宮」の場所には、阿波国一宮 天石門別八倉比賣神社にて大日靈女命(おおひるめのみこと:天照大神の別名)をお祀りしております。 そして「内宮」の位置、つまり鮎喰川を遡りますと、そこは一宮町 - 入田町 - そして神山町に至り、阿波國一之宮 上一宮大粟神社に到達します。 この入田町の赤線で囲ってある場所の地名は「天ノ原」 当地にある天神社に合祀されているのが、 式内社である麻能等比古神社です。 既にぐーたら氏により調査されておられますので少しご紹介させて頂きますと、「入田村史」に、 麻能等比古神社は猿田彦命を祀り無格社なれども、其由緒正しきものにや、下浦村の神職山口某の調査によれば、猿田彦神社の本社にして、官幣大社の社格ありとなし、先年社格上進の具申をなさんとせしが、不幸にして盗難に遭ひ、其資料は多く散失せりと雖も、今猶残部を保存す言ふ。 神像は大古のものにして、其材料は木か、金か石か、土かは鑑定に苦む程なれども圖の如き神像にして、底面に麻能神社小工生(?)五郎作とあり(圖は略す) (ぐーたら気延日記:入田町 麻能等比古神社より引用)<(_ _)> 猿田彦神社の本社がココであるといった内容が記されてあります。 ●上一宮大粟神社との位置関係 鮎喰川を遡上していきますヨ! 一見すると不思議な共通点で繋がる阿波と伊勢ですが、実は阿波忌部の祖である天日鷲命は、伊賀・伊勢国造の祖でもあるからです。 ●「先代旧事本紀」:国造本紀より つまり阿波忌部が現在の伊勢に入植後に、そのまま当地をコピーしたのが伊勢なのです。 wikipedia徳島市を確認してみますと、(wikiばかりやな笑 便利なんで勘弁してね) 渭北(いほく):徳島県徳島市の中心部より北部に位置する地区のひとつ。 渭東(いとう):徳島県徳島市の中心部より東部に位置する地区のひとつ。 …等の地名が現存しており、  往古徳島城を中心に西側を以西(いせ)と呼ばれておりました。 名字由来netで検索しても、以西さんは徳島市や名西郡石井町に多いですね。 また『古事記』には、「手力男神者、坐佐那那縣也」「手力男神は、佐那那縣に坐す」と記されており、伊勢国多気郡に手力男神がご鎮座されておりますが、徳島県の佐那河内村にある天岩戸別神社にも天手刀男神がお祀りされております。(wikipedia:天岩戸別神社) ●天岩戸別神社(徳島県名東郡佐那河内村上字牛子屋) 確か上一宮大粟神社の社伝によれば、大宜都比売神が「伊勢国丹生の郷から馬に乗って阿波国に来て」…云々だったはず。(なるほど、以西の入田ね…ボソ) 天鈿女命が送って行ったとある場所にきちん無理なく痕跡が残る阿波。 そして、他に「天孫降臨」の際の記述で気になる箇所がこちら。 「故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那此二字以音雲而、伊都能知和岐知和岐弖自伊以下十字以音、於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖自宇以下十一字亦以音、天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。自久以下六字以音。故爾、天忍日命・天津久米命、二人、取負天之石靫、取佩頭椎之大刀、取持天之波士弓、手挾天之眞鹿兒矢、立御前而仕奉。故其天忍日命此者大伴連等之祖・天津久米命此者久米直等之祖也」 「そこで、天津日子番能邇邇芸命に命じ、天の磐座を離れ、天の八重の棚雲を押し分け、 御稜威(いつ)の道を拓き進み、 天の浮橋から進むと浮き島があり、 なだらかな丘にお立ちになり、 筑紫の日向国の高千穂の奇しふる岳に天降りされました。 そこで、天忍日命天津久米命の二人は、天の石靫を背負い、頭椎の大刀を帯び、天の櫨弓を持ち、天の真鹿児矢を挟み持ち、御前にお仕えしました。 ところで、この天忍日命、この神は大伴(おおとも)の連の先祖、天津久米命、この神は久米の直の先祖です。」 一般的な解釈サイトでは上のような翻訳として記されておりますが、何故に「蘇理多多斯弖(そりたたして)➨反り立たして」を「なだらかな丘」等と解しているのでしょうかね(´・ω・`)? こちらは徳島県海陽町鞆浦字那佐の剣(つるぎ)によく似た乳ノ崎。 そして、こちらは天石門別八倉比賣神社の御神陵にある「つるぎ石」。 「つるぎ」とはつまり”コレ”ですよね。 (んまぁご立派に反り立たせておりますこと…(*ノωノ) つまり阿波の和奈佐の浜が古事記に記されてある伊那佐の浜となり、従って本物の「宇岐士摩(浮島)」と、そこに通じる「天浮橋」の場所がココ う~ん、これは共通点が見えて来たような… ●島根県(出雲) ●福岡県(志賀島) ●京都府(天橋立) 「つるぎ」、そしてそこに繋がる海の干満によって現れる砂が堆積してできた道(=浮橋)…上の写真に所縁があるのは、須佐之男命の息子である五十猛命ではないでしょうか 同時に「海部(あまべ)」に密に縁ある地ではないですかね。 「紀」では、須佐之男命の息子とある大国主命(大己貴命)は、「記」では須佐之男命の娘の須勢理毘売を娶ることにより(義理の)息子になっています。  その大国主命の義弟となった『古事記』では神産巣日神の子、『日本書紀』では高皇産霊神の子である、スクナ彦名命。 即ち須佐之男命の(義理の)息子の(義理の)弟。 確か天村雲命は、阿波國「続」風土記によると、大国主命と同神ともいわれている天日鷲命の「弟」と記されていますよね。 五十猛命=天村雲命はこれまでの考察にて検証済。(以下他者様のサイトにて補足含) ・「天村雲命から考察」 ・awa-otoko氏ブログ「忘却の山幸海幸伝説(海幸彦は天牟良雲命編)」 ・ぐーたら気延日記(重箱の隅)「「木国の大屋毘古神」まとめ」  この時点で大国主命の「義弟」と、須佐之男命の「息子」が同じであることになります。(須佐之男命からすればどちらも義理の息子になる) また『豊受大神宮禰宜補任次第』では、この天牟羅雲命は、中臣氏の祖、天忍雲命の別名や外宮祀官家の渡会氏の祖先とあります。 天忍雲命は、藤原氏系図では「天児屋根尊-天押雲命」とあり、天児屋根尊の子となっています。 『大同本紀』によれば、 「この時、皇孫は天牟羅雲命にどの道を上って行ったのかお聞きになり、 天牟羅雲命は、大橋は皇孫の道なので、私は後の小橋を上りましたと答えた。 皇孫は天牟羅雲命に天二上命(あめのふたのぼりのみこと)、後小橋命と二つの別名を授けた。」(天牟羅雲命:玄松子の祭神記より抜粋) …と記されてあり、ぐーたら氏のブログによれば(何度もすみません汗)、旧麻植郡山崎村「天村雲神社」のすぐ傍に「小橋」という地名があり、「阿波國族風土記」麻植郡の部で確認する事が可能とあります。 さて、邇邇芸命に随伴したとある天忍日命は、大伴(おおとも)の連の先祖と記されてあり、和那佐のあった当地海陽町鞆浦には、式内社 和奈佐意富曾神社が那佐湾に面した鞆奥の大宮山にありました。 現在は移遷され、海部郡の祭祀にのみみられる朱塗りの船だんじりである「関船」を引く神事がある大里八幡神社の隣にご鎮座されています。 八幡神社の御祭神は皆さんご存知八幡(やわた)の神こと応神天皇。 15代応神天皇の諱は、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)です。 ついでにいうなら「大幡主命から考察 ①」で記しました、梅宮大社にある大若子命(=邇邇芸命)が天日別命(伊勢国造:天日鷲神)の子孫であるということに注目です。 この天忍日命はwikipediaによれば、『新撰姓氏録』では、高皇産霊尊の五世孫または六世孫とする。とあり、一方で高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命との間に瓊瓊杵尊をもうけた。…とあります。 つまり、大若子命(=邇邇芸命)の父である天忍穂耳命が天忍日命であり、天日別命になりますよね。 大国主命の義弟となった少彦名命は、『古事記』では神産巣日神の子、『日本書紀』では高皇産霊神の子ですから、このことから、 高皇産霊神=須佐之男命と神産巣日神=天照大御神ということになります。 ですから、高皇産霊尊の五世孫または六世孫の天日別命は、須佐之男命の五世孫または六世孫の大国主命(大己貴命)なのです。  その大己貴命もまた須佐之男命の分身。 このことは以前にも記しました須佐之男命の亦名が粟国造粟凡直の子孫の系譜となる「粟国造粟飯原家系図」から、須佐之男命の兄神とされる月夜見命(阿波忌部でいうところの津咋見命)が、天忍穂耳命(=勝速日命)であるということ。 阿波忌部系図でいうところの、津咋見命(大麻比古命)の父は天日鷲翔矢命。 つまりこれが須佐之男命自身ということになり、津咋見命の子は由布津主命。 ※のらねこぶるーす氏ブログ「空と風:日本を建国した大国主一族という名の阿波忌部」より拝借 つまり経津主神(ふつぬしのかみ:斎主神)が、須佐之男命の(義理の)息子である都美波八重事代主命(=大物主=猿田彦大神)なのです。 系譜にすれば、「須佐之男命 - 大己貴命 - 八重事代主命」。 記紀の系譜上では確かにそうかも知れませんが、実は須佐之男命の孫にあたる八重事代主命が、須佐之男命の義理の息子である大己貴命の義理の弟という何とも複雑な「息子」です。 子と孫が同じ、そして親と子が同じ代になるというカラクリで、1代ズレながら神代から人皇へと続く系譜を只管に延長しているのではないのでしょうか?(これはあくまで現時点での私的推察ですヨ) さて、上一宮大粟神社の秋祭りにはお神輿とだんじりが出ますが、上一宮大粟神社から近くの八幡宮(祭神:彦火火出見神とも応神天皇とも)へ空のお神輿でお迎えに行き、八幡宮の御神体がそのお神輿に乗せられ、大粟神社まで戻り本殿の中に入り、一泊して大宜都比賣と神議りをするといいます。 う~ん、真に意味深い神事ですねぇ。 ということで、今回はここまでということで(´・ω・`)ノシ

  • 22Oct
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      再考:「魏志倭人伝」卑弥呼の生きた時代 ②

       銅鐸(どうたく)は、弥生時代に製造された釣鐘型の青銅器である。紀元前2世紀から2世紀の約400年間にわたって製作、使用された。 ●突線袈裟襷文銅鐸/徳島県徳島市国府町矢野遺跡出土 ●出土 これまでに出土した銅鐸は全国で約500個である。文化庁による平成13年(2001年)3月末時点での主な出土数は以下の通りである。 兵庫県 56点 島根県 54点 徳島県 42点 滋賀県 41点 和歌山県 41点 ●用途 見た目が鐸に見えるので楽器のように思うが、現在のところ用途は未だ定かではない。 ●埋納状況 埋納状況については村を外れた丘陵の麓、あるいは頂上の少し下からの出土が大部分であり、深さ数十センチメートルの比較的浅い穴を掘って横たえたものが多い(逆さまに埋められたものも二例ある)。一、二個出土する場合が多いが、十数個同時に出土した例も五、六ある。あまり注目される事が無いが頂上からの出土がないことは銅鐸の用途や信仰的位置を考える上で重要と考えられる。松帆銅鐸のように海岸砂丘部に埋納されていたと推定される珍しい例もある。土器や石器と違い、住居跡からの出土はほとんどなく、また銅剣や銅矛など他の銅製品と異なり、墓からの副葬品としての出土例は一度もないため(墳丘墓の周濠部からの出土は一例ある)、個人の持ち物ではなく、村落共同体全体の所有物であったとされている。なお、埋納時期は紀元前後と2世紀頃に集中している。(wikipedia 銅鐸より抜粋) 銅鐸は弥生期を象徴する青銅器製の祭具である。 wikipediaにある銅鐸の出土場所ですが、年代別に分けますとおおよそ日本列島の西側から東側へと伝播していったであろうことが伺えます。 ●Ⅰ・Ⅱ(弥生中期前半) ●Ⅲ・Ⅳ-1(弥生中期後半) ●Ⅳ-2~Ⅳ-5(弥生後期) ●銅鐸分布表(以上 「邪馬台国と大和朝廷を推理する銅鐸分布と佐原編年」より) wikipediaと抜粋先データとで多少の違いは御座いますが、概ね分布図的にはご理解頂けるかと思います。 ちなみに兵庫県出土の殆どは淡路島ですネ。 ●銅鐸分布密度 時代を経て次第に巨大化した銅鐸は、「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」となって東へと伝播して行ったとされます。 さてこの銅鐸、最近では祭祀圏外とされて来た福岡県や島根県からも出土が確認されたことにより、「銅鐸文化圏」と「銅矛文化圏」という言葉は論じられることがなくなり、小学校の教科書からも記述が削除されている模様。 上の分布図からも、出土密度が高い場所の東四国~近畿の銅鐸圏、また飛び地として密集出土する島根県は周囲の県の出土痕跡からすると異常です。 またこれらの銅鐸は、弥生終末期にはほぼ全国一斉に埋納され、終焉を迎えることになります。 これについて石野博信氏は、 銅鐸が埋まったままの状態で発掘される例が全国で十数箇所にもなる。一番最初に発見されたのは、島根県出雲市斐川町荒神谷遺跡の銅鐸群で、二番目が奈良県桜井市大福遺跡の銅鐸だ。銅鐸が埋められた状態で出てくるということは、埋めた時期や再使用の有無など銅鐸祭祀の内容が確認でき、非常によい材料である。 (中略) いっしょに出土した土器によって埋めた年代がおさえられるような条件に恵まれた埋納銅鐸が発見された遺跡は全国で、奈良県桜井市大福遺跡、大阪府八尾市跡部遺跡、同羽曳野市西浦遺跡、徳島県徳島市矢野遺跡、同名東遺跡など五ヵ所程度だったが。荒神谷遺跡や島根県雲南市加茂岩倉遺跡の大量埋納場所が加わった。五ヵ所の遺跡の土器は、名東遺跡の弥生中期末のほかは、すべて弥生後期末である。ということは、銅鐸の埋められた最後の段階が、弥生後期末(西暦170年~190年代)だということをおさえることができる。まさに、卑弥呼が登場するほぼ同時期、あるいは直前に埋められたり、破壊されている。 …九州の銅矛の祭りも近畿の銅鐸の祭りとほぼ同時期にいっせいに終わっていることがわかる。…とあります。 奈良県でも同時期(弥生後期末)に銅鐸が破壊された痕跡が見えるようです。 さて、ここからが考察となる訳ですが、 まず一定ヶ所から密集して祭具が出土する飛び地の島根県。 当地出土の祭器を調べて見ますと、 荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭の小さな谷間にある遺跡。国の史跡に指定されている。 ●概要 1983年広域農道の建設に伴い遺跡調査が行われた。この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘調査が開始された。1984年-1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。銅剣は1985年に国の重要文化財に指定され、銅鐸・銅矛は1987年に追加指定されていたが、1998年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されている。遺跡自体は1987年に国の史跡に指定された。斐川町(現:出雲市)が中心となり1995年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、2005年には公園内に「荒神谷博物館」が開館した。出土品は国(文化庁)が所有し、2007年3月に出雲市大社町杵築東に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に常設展示されている。なお、上述の荒神谷博物館においても、特別展などで出土品の展示が行われることがある。 銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。 ●出土した青銅器 銅剣 丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。 当時の大和朝廷が「イズモ」を特別な地域であると認識していた事が、記紀の記述にもあり、また神話のなかの三分の一を出雲神話で占める、といったことからも証明される形となっている。更に、時代が下って編纂された「式内宮」として認められた神社の、出雲地方での総数と出土した銅剣の本数との奇妙な一致があげられる。 当初は、農道を造るために、神庭と呼ばれる場所であることから、とりあえず発掘調査をすることになり、最初に掘ったトレンチから銅剣が出てきた。担当者は連絡に奔走し、同時に発掘を進めていった。当初は百本位だろうと考えられたが、次々に出土し、最終的に358本という数に達した。 銅鐸 先年の騒動が静まってから、島根県教育委員会では、周辺に未発掘の遺物、遺跡がある可能性が大として、磁気探査器を使って調査したところ、銅剣出土地より南へ7mに反応があり、発掘が始められた。発掘開始まもなく、銅剣出土地点よりも7mほど谷奥へ行った場所で銅鐸6口が発見された。埋納坑中央に対して鈕を向かい合わせる形で2列に並べられていた。分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。文様に強い独自性がみられる1つを除いては、同形式の銅鐸の鋳型の分布からみて近畿産とする説が有力である。12年後に出土した加茂岩倉遺跡の39口の銅鐸との関連性を考慮すると、一概に畿内製造であるとは言い切れなくなってきている。北部九州製の可能性が高い。三号銅鐸は伝徳島県出土銅鐸と同笵であることが確認されている。二号銅鐸が京都市右京区梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることが判明した。なお6個の銅鐸の高さが20センチと同じである。 銅矛 銅矛は銅鐸と同じ埋納坑の東側に、16本とも刃を起こし、矛先が交互になるように揃えて寝かせた状態で埋められていた。横には小ぶりの銅鐸が鰭(ひれ)を立てて寝かせた状態で、同じく交互に並べた状態であった。鰭とは、銅鐸の横側、板状の部分を「鰭」と呼ぶ。古代当時、この青銅器に関わった人が、銅矛の刃と銅鐸の鰭を立てた状態で丁寧に並べて置いた、そのままの状態を保って出土したのである。分類には諸説あるが、大まかに言えば、中広形14本と中細形2本に分けられる。製作時期は、銅剣とほぼ同じか、若干後の時期と考えられている。その形態や北部九州産の青銅器に見られる綾杉状のとぎ分けがあることから、16本とも北部九州で製作されたものとみられる。(wikipedia 荒神谷遺跡より抜粋) つまりこれまでに考えられてきた、銅剣・銅矛・銅鐸の分布圏から外れた地域である島根県から異例の密集出土跡ということですね。 ●弥生時代後期後半の祭器と祭祀の分布 しかしながらwikipediaにも記されてありますように、出土した三号銅鐸は徳島県出土銅鐸と同笵で、二号銅鐸も京都府梅ヶ畑遺跡出土の四号銅鐸と同笵であることが判明しています。 また、 ●松帆銅鐸 つまり島根県出土の銅鐸は、銅鐸が流行した阿波・淡路、近畿圏から持ち運ばれたモノであると推測ができます。 では発掘調査概報で確認してみますと、 銅鐸と銅矛は前述のように出土状態が若干違うが、直上に覆われた明黄色粘質土(第18層)に土層の変化が確認されなかった。土層からみると銅鐸と銅矛は時期を異にして埋納された形跡はなく、両者は同時に埋納されたと思われる。 銅剣と銅鐸・銅矛は、偶然に場所を隣にして埋納されたとは考えにくく、両者はほぼ同時期に埋納されたか、もしくはどちらか一方の埋納が行われた後にあまり間をおかずに他方の埋納が行われたと想像される。 (中略) ただ、出土した青銅器のうち最も新しいものの製造時期が埋納の上限とするなら、銅剣埋納は弥生時代中期末から後期初頭(中細銅剣C類)以降、銅鐸・銅矛埋納は中期末から後期前半(中広銅矛)以降に行われたと考えられる。…とあります。 製造時期は別にして埋納土層の状態や全国の銅鐸の埋納状況からすれば、上記の銅剣・銅鐸・銅矛は弥生後期後半の同時期に一緒に埋納処理されたと想定ができます。 これらの結果から、考古的には石野氏が記してあるように、弥生後期末(170年~190年代)に、これまで行われてきた祭祀を少なくとも北部九州・出雲・四国・近畿では同時期に一斉に取りやめた痕跡となります。 矢野遺跡(やのいせき)は、徳島県徳島市国府町矢野にある遺跡である。 ●概要 縄文時代から中世にかけての、非常に大きな遺跡で、特に弥生時代は徳島県内の中心的な役割を果たした集落であった。遺跡内では、竪穴式住居群跡が見つかっており、弥生時代の中ごろから終わりごろにかけての竪穴式住居跡が100軒ちかく検出されている。 集落内で銅鐸埋納坑が検出された。これは全国的にも類例が少ない。また銅鉾埋納坑に柱穴や建物跡が伴う例は、矢野遺跡と島根県の荒神谷遺跡のみ。(wikipedia 矢野遺跡より) …wikipediaは徳島県となると途端に記述が少ないな(´・ω・`)…●矢野遺跡の銅鐸埋納坑 この銅鐸祭祀の廃止について、邪馬台国甘木・朝倉説(北部九州)から大和(奈良県)への東遷説を主張する安本美典氏は、 「邪馬台国の会」より …としておられます。 一方、石野博信氏の著書記述にある弥生中期末に他所に先んじて銅鐸埋納が行われた徳島県の名東遺跡でも、 ●銅鐸出土状況 こちらは弥生中期末と他所より先行する形ですが、後の矢野遺跡と同形式で丁寧に埋納されています。 徳島県においては他にも祭器破棄の痕跡が確認されており、 「庄・蔵本遺跡3」より 庄・蔵本遺跡では、弥生時代前期前葉~中葉の居住域・墓域・生産域からなる集落の全 容が把握され、隣接する南蔵本遺跡まで広がることが確認されている。 水田跡が検出されており、これが本遺跡の 東側に位置する南蔵本遺跡県立中央病院地点まで広がることがわかっている。また、 構内の南端を東流する旧河道と、ここから分岐する用水路網が検出され、水田への給水システムも判明しつつある。さらに、 第20次調査では、畝を伴う畑跡が確認されている。畑跡の検出例は、全国的にみても極めてまれであり、特筆に値する。 (どこかの邪馬台国越前説なる方のご説明では、吉野川周辺は発展できないジャングルとかいってましたな。きちんと調べもしないで勝手な想像だけで記している典型的な例で、むしろ当地は最先端の農業をしている痕跡ですヨ) 当遺跡からは、弥生時代後期末の銅鐸片が発見されており、レポートによれば、 調査区南側の東流する旧河道より銅鐸片が検出された。銅鐸片は、突線鈕新段階近畿式銅鐸ⅣもしくはⅤ式の飾耳の破片と判断でき、長さ7cm、幅4.5cm、厚さ0.7cmを測る。中央下部に直径約2mmの穿孔を伴うなど二次的な加工が施されている。周辺から出土した土器から判断する限り、廃棄された時期の下限は黒谷川Ⅱ式と考えられる。今回の成果により、徳島県域における銅鐸祭祀の終焉に関する貴重な事例を提供することができた。(徳島市庄・蔵本遺跡平成 24 年度発掘調査概要報告書) ではwikipediaの弥生時代を調べて見ますと、 弥生時代(やよいじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。 ●政治:倭国大乱 魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝・霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。 近年、畿内の弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。 ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。(wikipedia 弥生時代より抜粋) …とあり、やはり銅鐸が埋納された時期は、弥生中期末(紀元0年前後)と倭国大乱時期(170年~190年)となります。 一体この二つの時期に何があったのか ここに面白いデータがあります。「野洲川下流域の弥生遺跡」 一部抜粋させて頂きますと、  服部遺跡では「頻繁に起こる大洪水」の痕跡が残されています。繰り返す大洪水の中でも、紀元1年あたり、時代で言うと弥生時代中期末、すなわち今から2000年前に起きた大洪水はとりわけ大きな影響をもたらしました。 およそ2000年前、南海トラフの沈み込みによって起きた大地震で生じた大津波の痕跡が、四国や九州、東海地方の三重県で見つかっています。津波の痕跡は、高知大学と名古屋大学の研究グループの調査で見つかったものです。 四国、九州、東海で見つかった津波による砂の層は、いずれもおよそ2000年前の層が最も厚くなっており、300年余り前の「宝永地震」による砂の層の数倍にもなっていました。 このことにより、これまで南海トラフで最大と考えられてきた「宝永地震」の津波より規模が大きいと考えられることが分りました。 宝永地震の推定強度がM8.6でしたが、2000年前の地震はM9を超え、東北地方大地震と同等かそれ以上だったと考えられます。三重県でも大きな津波の痕跡が見つかっていることから、南海地震と東南海地震が連動していたかもしれません。そうすると地震の規模はもっと大きかったことになります。 現在、将来に起こるかもしれない地震の予測が行われていますが、地震予測シミュレーションでは、もし、南海トラフによるM9レベル巨大地震が生じたら、30数mの津波が起きると予測されています。 奈良の唐子・鍵遺跡は、弥生中期末の洪水により多重環濠は埋没、周辺の集落も機能停止となったようです。 大型掘立柱建物の1mくらいの太い柱もなぎ倒されていました。 その後、環濠は再掘削されますが、集落の勢いは戻らなかったようです。 ●弥生中期末から後期初めの高地性集落分布図 最近注目されるようになった地震考古学ですが、つまりこの2つの時期に南海トラフ型の巨大地震があったのです。 そのため地震を恐れた海岸沿いの人々は、環濠型集落を捨て高地性集落に切り替えたのです。 徳島県においての痕跡として、寒川旭氏の「古墳時代の地震災害」によりますと、 滋賀県や大阪府の弥生時代中期中頃の大地震、また終末期の洪水砂堆積期などが徳島県黒谷川宮ノ前遺跡の砂脈の時期に対応する可能性を指摘しています。 こちらも同氏による「地震考古学から見た南海トラフの巨大地震」からは、 田村遺跡群(たむらいせきぐん)は、 高知県南国市田村にある遺跡。県の特別史跡に指定されている。 ●概要 全国で最大級の弥生時代の集落遺跡。2000年2月に高知県南国市で発見。その後高知龍馬空港の建設に伴い調査され弥生時代の遺跡の規模としては非常に大きく注目。これ迄発掘された弥生遺跡の中で日本最大の遺跡となる。 約2000年前(弥生時代中期後半)からの約100年間につくられた約450棟の竪穴住居、約400棟の掘立柱建物の計約850棟が確認されている。 三重の環濠、大量の土器、ガラス玉、環状石斧、銅鏡片、神殿らしい建物が描かれた土器、人面獣身の土偶などが出土。 北部九州より古い弥生土器もあるとされ、集落は早くから発展し、盛期には「1000人規模の弥生都市だった」との見解も出されている。 ●その他 これまでの調査成果からは、遺構が散在する中期中頃までの景観から中期末の大集落、そして後期後半には急激に減少に向かい、終末期には少数の住居が周辺部のみに営まれるという経緯をたどったことがわかった。これらのことから、紀元前1世紀にピークを迎え、紀元2世紀頃に急激に減少していることから、邪馬台国が魏志倭人伝に報告された倭国の大乱の時代に、集落は縮小に向かったことが判った。(wikipedia 田村遺跡群より抜粋) この場所ですと、僅かな時間で逃げる間もなく大津波をもろに受けたと考えられ、倭国大乱時に集落が縮小したというはやはり大地震による津波後の全国規模の争乱であったと考えられるのです。 大地震の痕跡後に祭器として役目を終え埋納された銅鐸。 魏志倭人伝には、「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」「その国、本は亦、男子を以って王と為す。住むこと七、八十年。倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」 ここでのポイントは、「倭國」と書かれてあるところ。そして、 「乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆」「乃ち一女子を共立して王と為す。名は卑弥呼と曰う。鬼道に事え能く衆を惑わす。」 女王となった卑弥呼は、既存の祭具を破棄させ、混乱する民心を新たに導入した鬼道により掌握し、そして銅鏡を祭具に取り入れ転換していったと考えられます。 あと安本氏のいう、祭器や宗教的外部勢力について「古伝承に痕跡をとどめていない」としてますが、出雲の方はきちん記録に留めていますよ。 『出雲国風土記』船岡山 「船岡山。郡家東北一里一百歩。阿波枳閉委奈佐比古命、曳來船則化是也。故云船岡。」 「船岡山。郡家の東北一里百歩なり。阿波枳閉委(わ)奈佐比古命の曳き来居えましし船、則ち此の山是れなり。故に、船岡という。」 荒神谷遺跡周辺には委奈佐比古命をお祀りする神社が少なくとも三社は見えます。 弥生末期に阿波国の和奈佐から祭祀集団が当地に船でやって来たのです。

  • 14Oct
    • 再考:「魏志倭人伝」卑弥呼の生きた時代 ①の画像

      再考:「魏志倭人伝」卑弥呼の生きた時代 ①

       この稿では考古学見地に基づきつつ、「魏志倭人伝」で描かれている我が国の当時の様子について(現時点での私説解釈で)迫ってみたいと思います。 当然ながら今回も阿波説の仮説考察ですヨ。ご注意下さいね(´・ω・`)ノ それと私は考古学者では御座いませんので、専ら考古者の書物に頼る訳ですが、「記紀」の内容等とリンクさせると、当時の様子もある程度見えてくるのではないかと考えています。 これまで過去に記して来た「魏志倭人伝」の考察を補足しながら、更にイメージが膨らめばいいかな…ぐらいでお願い致します。 まず最初に、 大多数の方々は一般的に「卑弥呼は邪馬台国の女王」であると思っているはず。 これも別に間違っているという訳ではないのですが、恐らく学校教育における教科書等でそのように学習したはずです。 「魏志倭人伝」をきちんと読みますと、実際は卑弥呼は当時の各国々(今でいう郡市町村単位)の代表らによって、共立された連合国である「倭」の女王なのです。 その中の邪馬臺國に、卑弥呼の住める都があり、これを含む連合国の範囲が当時の「倭」の範囲で、魏が倭の女王と認めた証に、西暦238年に皇帝曹叡が金印を以って「親魏倭王」の封号を与えたのです。 またその母体となった国が、西暦57年に光武帝が金印を送った「委奴國」でしょう。 つまり、有史初見となる後漢時代の我が国の始祖国であろう「委奴国」は、当時の中国からは遙か遠方にある「国」であり、金印を拝受される(=冊封国)程には認められていたものの、実際はまだまだ小国レベルでした。 その約120年後の「倭国」大乱を期に、新たに連合国となり結束した「倭」は、巨大国家へと成長・拡大・発展を遂げ、大きく膨れ上がった国家の民心を纏めるのに最適とされたのが、連合国内の恐らく当時最大の権力を有していた七萬餘戸の巨大国であった「邪馬臺國」、その代表者であったのが卑弥呼ということです。 従って考察冒頭となるこの時点で申し上げたいことは、 当時の国土としての「日本=倭」の考え方は、中国側の漠然としたイメージであり、「魏志倭人伝」で描かれる「倭」は、現在の日本という国土の中の、魏の遣使が訪れた範囲内の「倭国連合」のことなのです。 ですから、連合国となった当時の「倭」の範囲から外れるその他の地域に存在したであろう日本の国々は厳密にいうと倭人伝で書かれる「倭」ではなく、従って当然のことながら魏使は「倭国連合」内でしか移動しておらず、滞在した「倭国」の生活文化・習俗などを記録しているのです。 このような観点で考えて見ますと、魏の考えていた呉の東側に存在する「倭」という国、後に女王の権力が及ぶ範囲となった「倭国連合=倭」、それと連合以前の母体となった「倭」、またそれとは別に記される連合国内の中心国である「女王国=邪馬臺国」と、その他の連合国内外の国々の記載についての違いのニュアンスも理解しやすいのではないでしょうか。 それともう一つ、 卑弥呼が倭国連合の女王となった180年頃と、卑弥呼が亡くなったであろう250年頃とでは、拡大を続ける倭国連合の状況もまた、大きく変化しているということを押さえておく必要があります。 この様な点を踏まえつつ、往古の歴史を思い浮かべながら当時の様子を追っていきたいと思います。 …さて、前稿で活用させて頂きました、石野博信氏の著書「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」 こちらに書かれてあることについては、個人的にいろいろ考えさせられる記述が多々あります。 まずはこちら ●弥生時代後期後半の祭器と祭祀の分布の図 ご覧のように、朝鮮半島から対馬➨北部九州、そして四国西部へと広形銅矛が伝わっています。 当然のことながら大陸からは海路で来ますから、この時代に既に豊予海峡を経て、太平洋に出る海洋ルートがあったことを示しています。 また、銅矛の伝播の東端に交わるように銅鐸圏へと突入します。 その交差点はおおよそ高知県物部川流域周辺。 そこから徳島県南部を経て、北へは徳島県鮎喰域、淡路を経て畿内域へ、また徳島県南部からは、紀伊方面から畿内河内方面へと伝播したと推測されます。 便宜上近畿式とある銅鐸もまた、琵琶湖周辺を境に三遠式へと変遷しながら伝わって行きます。 面白いのは山口県辺りではこれらに該当する祭器が見当たらないということなのでしょうか。 同様に九州もまた大分県を境に南部九州も空白のようです。 少なくともこの図からはそのように見受けられます。 お次はこちら ●古墳時代初頭の墳墓形態 上の図も踏まえまして、島根県以北にある四隅突出型墳丘墓(×)、長(短)突方墳(□)、長突円墳(=前方後円墳)(●)となっています。 長突円墳の範囲については、西端は九州佐賀県辺りから、東端は奈良県を境に、そこから東側は、長(短)突方墳文化圏となっていて、東西で墳墓形態が分かれているのが分かります。 また飛び地として、千葉県に長突円墳がこの時期から見られることにも注目です。 先の祭器と祭祀の分布図でもあったように、この時代の山口県及び九州南部はまたしても空白地となっています。 この中の長突円墳(前方後円墳)が、後のヤマト王権の墓制です。  考古学見地からすれば、 邪馬台国とヤマト王権が連続しているとすると、卑弥呼を共立した地域は明らかに円形墓発達してくる地域、北四国・山陽・近畿にかけての範囲にしぼられてくるとしています。 つまり氏の考えておられるこの辺が、倭国連合の中心地ということですね。 その中で、邪馬台国大和説をとる氏は、岡山県中心にみられる葬儀用器台の文化もチェックしています。 何故ならば、この葬儀用器台は既に奈良県に伝わっていた文化でもあり、また岡山県にある楯築古墳は、2世紀末の倭国大乱後に卑弥呼が擁立された時期の列島最大の古墳だからです。 ◆岡山県倉敷市矢部 石野氏はこの古墳の被葬者が卑弥呼を倭の女王に推薦した当時の最大権力者的人物ではないかと推測されています。 当古墳は墳丘直径約50m、両端72mにもなる双方中円墳で、当時としては画期的でかなり独特の形状になっております。 ◆楯築弥生墳丘墓の復元図及び弧帯文石(亀石)のあった祠 ◆「楯築弥生墳丘墓の画期」より 円墳上部はストーンサークルのように立石で巡らされていますね。 ◆吉備地方に見られる葬儀用器台も出土(岡山大学所蔵) 同様の形状をした双方中円墳は他にも、香川県の石清尾山古墳群(稲荷山北端1号墳:古墳時代初期:3世紀後半)、奈良県天理市の櫛山古墳(古墳時代前期後半:4世紀)があるとされています。 ◆稲荷山北端1号墳の復元図 なかなかのインパクトがある形状ですなぁ(´・ω・`) それぞれの墳墓の場所 氏の想定する倭国連合中心地内ですな。 希少な形状の古墳ですが、最古はやはり楯築墳丘墓。 時代からして瀬戸内界隈では最新モデルだったと推測ができますが、結局のところ、流行ることもなく数はごく限定されています。 この墳丘墓には多量の「水銀朱」が使用されており、2重底の木郭に覆われた木棺には厚いところでおよそ4㎝程もの朱があったようです。 この水銀朱は一体どこで手に入れたものでしょうかね? 弥生時代の水銀朱については、我が国では徳島県の若杉山でしか採取が確認されていませんし、大陸側の朱が持ち込まれたのであれば、果たしてどのルートで手に入れたのかが気になるところ。 ぜひこの木棺の朱の成分分析をして頂きたいところですね。 さて、ここでのポイントは、卑弥呼が女王となる前の最大の権力者(と思われる)人物の墓が岡山県にあること。 楯築墳丘墓が築造された2世紀後半以降、吉備地方では多くの墳丘墓、そして後に前方後円墳が築かれていくことになります。 ●岡山県南部の古墳時代前半期首長墳分布図 こちらの図にある「岡山市四御神」の古墳の項の「吉備王国の繁栄から衰退へ」によれば、 岡山大学名誉教授の近藤義郎氏によると、これらのうち弥生時代中期から後期にかけて形成された57ヶ所の遺跡から、祭祀用の道具として使われたと思われる吉備特有の大型で華麗な特殊器台型土器と特殊壺型土器が発見されている。 この57カ所のうち20カ所の遺跡が2世紀後半から3世紀前半の弥生時代後期中葉に備中地域で築造された弥生墳丘墓といわれるものである。 例えば立坂墳丘墓(総社市新本)・黒宮大塚弥生墳丘墓(倉敷市真備町)・楯築弥生墳丘墓(倉敷市矢部)・鯉喰神社弥生墳丘墓(倉敷市矢部)・伊予部山弥生墳丘墓(総社市下原)・鋳物師谷二号弥生墳丘墓(総社市清音)などが代表的。 その墳型は方形または前方後方型が多く、いずれも大和に先駆けて築造された。このなかで最大規模を誇るのが墳長80メートルの弥生墳丘墓の「楯築遺跡」である。 …と記されています。 ではこれ等の代表的な初期墳丘墓を少し見て見ますと、同サイトによれば、 楯築遺跡は吉備津彦命の温羅退治伝承の舞台の一つでもある。吉備津彦命が温羅の矢を防ぐ「楯」としたためこの名がついたという。もともと楯築神社があり、この神社のご神体の「亀石」には奇妙な弧帯文の模様が刻まれていた。近藤教授らの発掘調査により、この楯築遺跡は大変注目すべき遺跡であることが明らかになった。 弥生時代後期中葉の三世紀のこととして中国の史書『魏志倭人伝』に描かれた有名な邪馬台国の女王・卑弥呼の時代より、少し前に造られたと思われ、この楯築遺跡は、吉備地域での首長墓としては最も発達した巨大なものである。  ではこの楯築神社を調べて見ますと、 倉敷矢部片岡山にあった神社。神社跡地には巨石が立ち並び、線刻のある石がご神体とされている。この様子は『楯築遺跡』で見ることができる。『都窪郡誌』に掲載されている「縁起書」によれば巨石には火籏根、馬盥石、馬立石、矢隠石、矢落石などの呼称があり、ご神体は白頂馬竜神と称されたとする。『楯築弥生墳丘墓の研究』によれば、1909(明治42)年鯉喰神社に合祀、社殿は解体されたが、ご神体は故あって1916(大正5)年に当地に戻された。ご神体は地元では「亀石」、考古学研究者では「弧帯石」と呼ばれており、弥生時代のものである。神社の記録は江戸前期にさかのぼる。『庄村誌』によれば神社中興の建立に関する文書が残っており、それに基づけば初めは西山宮であったが、天和年間に社殿を造営した際、伝承にちなんで楯築神社に改名したとし、「縁起書」もこの頃に作製されたと推定している。祭神は片岡多計留命(たけるのみこと)で、神社の地はその墳墓とみなされていた。この片岡多計留命は吉備津彦命の鬼神退治に関わったとされ、日畑西山の産土神としている。片岡山の地名はこの祭神の名前による。江戸中期の『備中集成志』によれば吉備津彦命鬼ノ城鬼神退治の時に楯築は岩をもって楯としたため楯築大明神としたとし、神体は石にて色々の異形の人形を彫った物としている。江戸末期の『備中誌』にも記事があり、近年になって「平石の青く三尺計り有るに足の形の付たるを何れの地よりか捜し出し是を神体とせり」とし、「石はいかにも奇と云へけれ」と書き残している。(楯築神社について:レファレンス共同データベースより) では上にもある鯉喰神社弥生墳丘墓そして合祀先である鯉喰神社を調べて見ますと、 鯉喰神社(こいくいじんじゃ:岡山県倉敷市矢部109−1 ) 当社は桃太郎が鬼退治を成し遂げた場所として伝わる地。 ◆由緒 吉備国の平定の為、吉備津彦命が来られた時、この地方の賊、温羅(うら)が村人達を苦しめていたという。吉備津彦命は、そんな温羅と戦に臨むが、中々勝負がつかなかったという。すると、天より声が聞こえ、命がそれに従うと温羅はついに矢つき、刀折れて自分の血で染まった川へ鯉となって逃れたという。そして、命は、すぐさま鵜となり、鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食したと言われる。それを祭るため村人達が建立したのが当社となる。 温羅伝説では、 吉備津彦命の矢が左眼に当たって傷ついた温羅は雉と化して山中へ逃れましたが、吉備津彦命は鷹となってこれを追いつめました。 次に温羅は鯉となって、我が目から滴り落ちた大量の血液で真っ赤になった血吸川へ逃げましたが、今度は命は鵜となりこれを食べたのがこの地だった。 ◆祭神:夜目山主命:吉備津彦命に寝返った温羅の元家来の一人     夜目麻呂命:吉備津彦命に寝返った温羅の元家来の一人     狭田安是彦:吉備津彦命に寝返った温羅の元家来の一人     千田宇根彦:吉備津彦命に寝返った温羅の元家来の一人 ●鯉喰神社墳丘墓と弧帯文石 この弧帯文石は、楯築弥生墳丘墓と鯉喰神社弥生墳丘墓しか見つかっていないとのこと。 また鯉喰墳丘墓から出土した特殊器台は「向木見型」と呼ばれるもので、墳丘墓は恐らく3世紀前半の築造ではないかといわれています。 ●舟形石 そして備前国一宮 吉備津彦神社の境内に祀られている末社 鯉喰神社では、祭神の楽々森彦荒魂、鯉喰明神をお祀りしています。 楽々森彦(ささもりひこ)は、吉備津彦命の軍師的な存在であった「猿」をさしているといわれています。 船に猿ですか(´・ω・`)なるほど、そうですか。 つまりこの古い墳丘墓は、ヤマト朝廷から派遣された吉備津彦命等によって吉備の国が征服されるまで地元を支配していた「先住の豪族側の墓とその協力者の墓」という伝承になりますね。 これらの先行型の墳丘墓を調べて見ますと、「広島大学 人文社会科学系研究成果特集」によれば、弥生時代の墳丘墓 前方後円墳の遠いルーツは広島だった!?との項で、 「西日本の山陰地方および、その周辺地域となる中国山地は、日本の古代社会である弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀中頃)のなかでも、もっとも古く墳丘をもつ墓(墳丘墓)が発達する地域の一つです。弥生時代の墳丘墓は、古墳時代(3世紀中頃~6世紀)に成立する前方後円墳以前のルーツとなる墳墓であるといってよいのです。」 …などと記されておりますが、これらを調査しましたところ、前方後円墳の祖系となる墳墓とはいえず、上記墳丘墓は双方中円墳や長方墳であり、上の「楯築弥生墳丘墓の画期」の図にもあるように、埋葬のされ方や、この2つの弥生墳丘墓から共通して「弧帯文石」が見られること、神社などの伝承等を加味すれば、在地の豪族の墳墓であると考えられ、ヤマト王権の墓制の特徴となる積石塚ではなく、中国鏡の出土も見られません。 ここでの重要なポイントは、神社の伝承からは、ヤマト王権側に裏切った者がいたということかも知れませんね。 ●考古資料からみた吉備・讃岐・阿波・播磨と大和の接点 当地吉備の墓制の特徴を見ても、阿波とは真逆の位置にあるようです。 また葬儀用器台に注目しますと、 ◆特殊器台の分布図(民俗学伝承ひろいあげ辞典より) 吉備と大和とは墓制が類似しており、四国とは海を跨いでいた地理的なものもあってか、本土サイドとの共通点が垣間見えます。 これをまた別に葬儀用器台の有無と積石&石囲いとに分けて見ますと、 本土側では、播磨が吉備よりも讃岐と類似しており、 ●葬儀用器台を持つ古墳と鏡をもつ古墳 後に吉備は阿讃播の影響下に置かれと見られ、前方後円墳が築造されていきますが、銅鏡は主に播磨より東側へと持ち運ばれていきます。 また卑弥呼が女王となった時代以前の出雲と阿讃はこれまた真逆となっており、当時の墓制や大陸からの物流ルート等も違っていることが推測されます。 これらの図からは、卑弥呼が女王となる以前は、本土側では吉備の大王の影響が強く、範囲的には出雲や大和にも葬儀用器台が取り入れられているのがわかりますが、瀬戸内側では阿讃連合が播磨から進出した痕跡が伺え、本土側の拠点となっている播磨を中心に、間もなく東西に分断されたと考えられます。 その後、吉備を押さえた阿讃連合は、出雲へと進出していったのではないかとこの時点では推測されます。 この推測につきましては、また別に書くことにしましょう。 これらの考察の根本となるのは、「讃岐国造から考察 ③」でも書きましたように、奈良県にある初期の長突円墳(前方後円墳)の祖型が、阿波・讃岐の集団のものであるということ。 現状最も古いとされるのが、徳島県鳴門市にある萩原二号墳なのです。 萩原墳墓群(はぎわらふんぼぐん)は、徳島県鳴門市大麻町萩原にある遺跡。 ●概要 鳴門市の大麻山南麓に位置し、1〜4号の4基からなる墳丘墓群で、かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。周辺には天河別神社古墳群や宝幢寺古墳群などの古墳が点在している。 主体部(埋葬施設)の構造などから現在では日本最古の前方後円墳とされるホケノ山古墳の原型との説がある。ただしホケノ山古墳の築造年代は4世紀前期に改定されており、萩原墳墓群の築造時代を3世紀前葉とすると1世紀以上の隔たりがある。 1号墓 弥生時代終末期頃のものとされており、墳丘の径は約18メートル、北側の突出部を含めての全長は約27メートルの積石墓で、主体部は発掘当初竪穴式石室とされていたが、現在では石囲木槨であったと考えられている。1979年(昭和54年)から翌1980年にかけて徳島県道12号鳴門池田線の建設に伴い発掘調査されたが、その後滅失した。突出部を持つその形状から日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツという説があった。 本体周辺から小型の竪穴式石室や箱式石棺墓とされる遺構が複数見つかっており、一部は近隣の宝幢寺境内に移設された。 2号墓 1号墓の北側で同じ尾根に位置する積石墓。2004年(平成16年)および2005年に測量やトレンチ調査が行なわれた際に基底石や外側の列石が確認され、おおよその規模や形状が確認されている。墳丘は径約20メートルのほぼ円形で南側に約5メートルの突出部が延びる形状を持ち、積石の高さは最大で1メートル。1号墓より築造時期が古い国内最古の積石墓とされている。(wikipedia 萩原墳墓群より抜粋) ●埋葬施設 ●萩原2号墓出土遺物 内行花文鏡(破砕鏡) 要するに古墳と定めた時代より古い時代のものが後から出て来たので、カテゴリー上墳丘墓扱いとされている、実際は前方後円墳の祖となる最古のものですな。 3世紀前葉に既に積石が墓制に採用されて、同時に中国側との交易を示す鏡が出土する阿波。 奈良県にある前方後円墳のホケノ山古墳が築造された時代よりも、少なくとも半世紀、多くて1世紀以上もの隔たりを持つようです。(これ普通に重要な案件ですヨ) 2世紀末、当時の最大権力者が居たであろう岡山県。 そしてその後、倭国連合の女王となった卑弥呼の時代とその後のヤマト王権の墓制になっている長突円墳(前方後円墳)の原初が徳島県にあり、更にその後に香川県(綾歌石塚山二号墳)や奈良県のホケノ山古墳等に広がりを見せている事実を見ても、「連合国となった倭国」の想定される範囲、そしてその中心地がどこだったのか更にしぼられてきますね。 ●初期長突円墳域と祭器の経路(弥生時代後期~古墳時代初期) 上記図を高地性集落地の図とも一緒に纏めた図ですが、祭祀用の銅矛の経路は、大陸側の朝鮮半島から対馬-福岡県-大分県から豊後水道-愛媛県-高知県、そして太平洋四国南岸ルートにて徳島県へ。 そして銅鐸文化圏は、高知県東部-徳島県から紀伊水道もしくは瀬戸内海を経て近畿以東へ伝播していきますよね。 どこに銅矛を持ってきて、どこから銅鐸が流行っていったのか。 そして卑弥呼の擁立された辺りの時代の墳丘墓から鏡が出ない吉備地域は、2世紀末~3世紀前半の墳丘墓においても、3世紀前葉には既に阿波に出現していた後のヤマト王権の墓制となる「積石塚」ではないことも踏まえますと、石野氏が考える「倭国連合」の少なくとも「邪馬臺國」の候補からは外れるのではないでしょうか。

  • 10Sep
    • 讃岐国造から考察 ③の画像

      讃岐国造から考察 ③

       ●意富比垝(おほひこ) 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 前稿となる「讃岐国造から考察 ②」からの続きとなります(´・ω・`)ノ 今回は讃岐国造となった鷲住王の正体に迫るべく、更に別の角度からも考察して参りたいと思います。 大彦命(おおひこのみこと/おおびこのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 『日本書紀』では「大彦命」、『古事記』では「大毘古命」と表記される。また稲荷山古墳出土鉄剣の銘文に見える「意富比垝」に比定する説がある。第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという。 ●系譜 第8代孝元天皇と皇后鬱色謎命(うつしこめのみこと、内色許売命)との間に生まれた第1皇子である。同母兄弟として開化天皇(第9代)、少彦男心命(すくなひこをこころのみこと、少名日子建猪心命<すくなひこたけゐこころのみこと>)、倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと、古事記なし)がいる。 子として『日本書紀』では御間城姫(みまきひめ、御真津比売命:第10代崇神天皇皇后)、武渟川別(たけぬなかわわけ、建沼河別命)の名が、『古事記』では加えて比古伊那許志別命(ひこいなごしわけのみこと)の名が見える。御間城姫は垂仁天皇(第11代)の生母であり、大彦命はその外祖父になる。 ●考古資料 埼玉県行田市の埼玉古墳群にある稲荷山古墳で出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)には銘文があり、その銘文に見える人物の「意富比垝(おほひこ)」を大彦命に比定する説が挙げられている。銘文記載の系譜は次の通り。 (wikipedia 大彦命より抜粋) こちらについては、上の考古資料の項にある、埼玉県行田市の5世紀後半の稲荷山古墳から出土した稲荷山古墳出土鉄剣に刻された銘文にある「意富比垝」のことであるとの説があります。 ◆稲荷山古墳出土鉄剣 ◆稲荷山古墳出土鉄剣刻銘文 仮に、意富比垝=大彦命で、この5世紀後半の被葬者の乎獲居臣がその7代孫であった場合、第8代孝元天皇と皇后鬱色謎命との間に出来た第一皇子の大彦命は、天皇代でいうところの9代目時代の人物となり、単純に代を合わせますと、乎獲居臣は16代仁徳朝の人物に比定ができます。 ちなみに讃岐國寒川郡には、大彦命をお祀りする式内社 布勢神社がありますね。 ◆香川県さぬき市寒川町石田西乙3642 ◆布勢神社 (´・ω・`)ほぉほぉ、讃岐国「寒」川郡ですか。そして難波郷の近くですな。 鉄剣の出土した稲荷山古墳は、今話題の大仙古墳と墳形が類似していることが指摘されており、大仙陵古墳を4分の1に縮小するとほぼ稲荷山古墳の形になります。 ◆稲荷山古墳(築造時期:5世紀後半) 伝仁徳天皇陵とされる大仙古墳は、採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から、古墳の築造期は5世紀前半~中期のものとされており、また、前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後期のものと考えられています。 その規模からも、古墳築造に着手してから完成するまでは相当な年月を要したものと考えられます。 つまり、大仙古墳(伝仁徳天皇陵)の被葬者と、稲荷山古墳の被葬者はほぼ同時代に生きた人物であった可能性が高く、またその築造完成期から、稲荷山古墳の方が完成が若干遅かった可能性が高いでしょう。 ということは、鉄剣に刻まれた大王獲加多支鹵の方が稲荷山古墳の被葬者より先に亡くなっている確率の方が高いですね。 「記紀」での大彦命の活躍は、『古事記』崇神記において、三輪の大物主の子である鴨君の祖先の意富多々泥古の説話や御真木入彦(崇神天皇)の命による建波邇安王の鎮圧の説話等と同じくして書かれています。 この崇神天皇の皇居が、「記」師木水垣宮、「紀」磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)で、乎獲居臣の時代においても、稲荷山古墳出土鉄剣の刻銘文からは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」「獲加多支鹵大王の寺シキの宮に在る時」とあり、これらが同所の可能性も大いに指摘できるでしょう。 仮に天皇系譜と鉄剣銘文(意富比垝=第8代孝元天皇の第1皇子大彦命)の系譜を並べて見ますと、 ①天皇系譜 ②鉄剣の銘文系譜 う~ん、応神天皇と迦具漏比売との間の皇子である、久奴王こと堅石王と獲加多支鹵大王とがピッタリと合いますね。 ということは、仁徳天皇の代と同世代ということになります。 これを忌部氏系図及び別の天皇系譜にしますと、 ③忌部氏系譜 ④天皇系譜&鷲住王の系譜 上図①にあるように、15代応神天皇の代で、須賣伊呂大中日子王(景行天皇の曾孫)&迦具漏比賣命親子が同世代内の天皇妃になっていることから、かならずズレが生じるようになっています。(ここがミソ) また①と③は同型の系譜配置となり、16代仁徳代の堅石王と堅田主命、及び獲加多支鹵大王(わくかたしろ大王)と鷲住王も一致します。 これまでの私説考察において、「記紀」での須佐之男命は、何れの代においても自身に比定ができるようにループで描かれていますので、実のところ本当はどの時代の人物であるかの特定が非常に難しいのですが、これまでの考察から、須佐之男命はやはり須佐之男命であり、世代を経た須佐之男命の分身=世々引き継がれてきた皇御孫(すめみま)、つまり連綿と系譜する天照大御神の皇孫(こうそん:邇邇芸命)を投影させ記し続けているのではないでしょうか つまり須佐之男命と鷲住王は厳密には別人物であり、この考え方でいえば、その時代の「今上天皇」ということになります。 同時に須佐之男命は、実際は卑弥呼の生きた時代となる3世紀の人物であると考えられ、また、鷲住王は5世紀後半頃まで生きた、直系の同族(即ち天皇)の大王(倭の五王の一人)であるとも考えられるのです。 従って「真」の鷲住王は、応神天皇もしくはその子である仁徳天皇(に比定できる人物)の可能性が浮上します。 鷲住王が「讃岐国造」であった時代は、応神天皇の行宮であった難波大隅宮があり、また、即位後に難波高津宮に居を構えた仁徳天皇が居た時代です。 もちろんその後代の履中天皇の義兄にもなることから、鷲住王は3世代に渡って存在した人物であると考えられます。(あくまで記紀によればね) 難波郷は確かに香川県に存在し、そして大阪府にも難波が存在します。 一つの考察方として、応神朝時代の宮である讃岐の難波から、仁徳朝時代の宮である摂津の難波に皇居を移した…という考え方も出てきますね。 ◆摂津國難波 そして、履中紀には鷲住王は、 「是讚岐國造・阿波國脚咋別、凡二族之始祖也。」「讃岐国造・阿波国の脚咋別、凡二族の始祖です。」 …とあり、凡二族の「始祖」とも書かれています。 多氏(おおし/おおうじ)は、「多」を氏の名とする氏族。 日本最古の皇別氏族とされる。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、九州と畿内に系譜を伝える。 ●概要 皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされる。 (wikipedia 多氏より抜粋)  神八井耳命(かんやいみみのみこと、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。 初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。 ◆系譜 『日本書紀』によれば神武天皇(初代天皇)と、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと。事代主神の娘。)との間に生まれた皇子である(ただし『古事記』は母親を伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと。大物主神の娘。)とする)。 『日本書紀』では、同母弟に神渟名川耳尊(神沼河耳命、第2代綏靖天皇)を、『古事記』では加えて同母兄に日子八井命(日本書紀なし)の名を挙げる。 ◆墓・霊廟 墓は不詳。『日本書紀』では、神八井耳命は「畝傍山北」に葬られたと記されている。畝傍山の北に所在する八幡神社(奈良県橿原市山本町152)社伝では、同社は神八井耳命の墓の所在地であるといい、古くは「八井神社」と称されたとする。 また、多氏の氏神社である多坐弥志理都比古神社(奈良県磯城郡田原本町)、その末裔の皇別の志貴県主の総社で式内社である志貴県主神社(大阪府藤井寺市)を始めとする諸社で、命の霊が祀られている。(wikipedia 神八井耳命より抜粋) 多氏の始祖は初代神武天皇の子である神八井耳命となっており、凡(おほし)=多氏であったと仮定した場合、これまでの考察から仮に神武を鷲住王に比定すると、やはりここでも1世代ズレていることになります。 そして神八井耳命のお墓があるとされる畝傍山ですが、私説では、これを徳島市の眉山に充てています。 ※畝傍山については「安寧天皇から考察」 神八井耳命のお墓があるのが山の北側ですからおおよそ法谷寺周辺かな この辺りには霊園も多く、googlemapで上空から確認しても周りは古墳だらけとなっていますので特定は難しいですね。(確かめてみてね) 神武の子なので神武の墓である畝傍山東北陵とは程近い場所にお墓があることになりますが、例の一代ズレての同神の説を採用するならば、数世代の人物を一人の人物の事績としてまとめたと考えるべきか、眉山そのものを「天皇=神」の御陵として考えているのか考察方に迷うところです。 今回の「一代ズレ理論」を系図にしますと、 想定系譜からは、今回の考察にあるズレる人の起点対象である栲幡干千姫命と、大物主神/事代主神の娘である媛蹈鞴五十鈴媛命も同神の可能性を持つことになります。 つまり堅石王=神八井耳命を、応神の「子」で描かれる仁徳とするのか、応神が世代を跨いでの「分身」=仁徳とするのかの考え方を神武代のバージョンに置き換えたケースとなります。 系譜にするとほんまに面倒くさいな… まぁ同神考察を当て嵌めていくと、このような感じになるということです。 また別な考え方として、「記紀」にある応神天皇の説話が、実は卑弥呼が活躍した3世紀中頃の話の可能性も指摘できます。 先程の同神人物を比定される時代に分離させた形ですね。 応神記には、「又昔、有新羅國主之子、名謂天之日矛、是人參渡來也。」「また昔、新羅の国王の子ありき。名は天之日矛といふ。この人参渡り来ぬ。」の「また昔」とあるように、あくまで物語は須佐之男命&天照大御神の説話の連続を記しているとも考えられ、そこに当時の中国や朝鮮の歴史書等から得た周辺諸外国の情報を取り入れ、水増しした天皇代を比定照合させる工作を施した可能性も十分に考えられます。 これはあくまでも現時点における私説考の一つ(仮説)ですので、今後更に歴史の解明が進めば、また違った有力説が出現するかも知れません。(例の世界一デカい古墳は「真の鷲住王」のお墓の可能性もありますってことね) 次に考古的見地から考察を進めて参りますと、 石野博信氏が今年4月に出版した「邪馬台国時代の王国群と纏向王宮」 書の、中平銘鉄刀について書かれた部分によれば、「中平」とは中国の漢の時代の年号の一つで、卑弥呼が女王となったとある「光和」178年~183年、その次が「中平」の184年~189年にあたります。 東大寺山古墳(とうだいじやまこふん)は、奈良県天理市櫟本町にある古墳。形状は前方後円墳。出土品は国宝に指定されている。 古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃の築造とされ、副葬品の中には24文字を金象嵌で表して「中平」の紀年銘を持つ鉄刀がある。 ●概要 天理市和邇(わに)から櫟本(いちのもと)にかけては、和邇氏族の拠点であり、関連一族が築造したと推定される古墳が平野部との比高差約70メートルの丘陵上に点在している。その一つが本古墳である。 (wikipedia 東大寺山古墳より抜粋) ◆中平年銘鉄刀 この刀が奈良県天理市東大寺山古墳から出土したもので、漢の皇帝が倭に新しく女王が立ったことを聞いてそのお祝いに作って贈った刀の可能性があり、これが大和の地から出た訳ですから「大和が邪馬臺国」で決まりということに…とはならず、必ずしもそうなっていないのは、この古墳が4世紀中葉の古墳だからだ。とあります。 つまり鉄刀が製作されてから150年も経ってから墓に入れられたことになります。 鉄刀が中平年間に作られたことは確かだとしても、その刀がいつ倭に到来したのかは不明であり、その上墓におさめられたのは四世紀後半である…と綴っています。 お祝いの刀ですから、当時直ぐに届けられたとしても、その最終的な所有者の古墳年代が150年以上も時代が下ることになり、単純に権力者(王族)の子孫やその家臣が後に戴いたものであったと仮定しても、持って運べるものに違いはなく、最終的に所有し亡くなった場所が4世紀後半の奈良県であったことに過ぎません。 或いは別の場所にあった元のお墓から150年後に当地に移設された可能性もあるでしょう。 簡単に言えば、埋葬物と埋葬者、埋葬地の年代や場所は必ずしも一致しないという証明ですね。 また同書には、邪馬臺国大和説をとる氏は、纏向遺跡をその候補地としていますが、卑弥呼の時代の土器の検討に従来の厚型(3~5㎜)の土器とは別に、1~2㎜の薄型最新土器である纏向式土器に注目し、その分布を調査。 しかしながらその分布は、奈良県においては桜井市北部、天理市南部までのたかだか10㎞四方の非常に小さい範囲が使用地域である。 他地の調査では、葛城地域や明日香村付近で2~5%に過ぎない。逆に奈良市域や葛城地域の人たちは95%が伝統的な鍋を使っているという結果に。 主に薄鍋を使っているのは、八尾・東大阪の人たちだけであって、北側の枚方、南側の富田林・羽曳野・和泉、淀川を越えて高槻・神戸もみな厚鍋を使い続けているという分布特色がある。 次に、纏向土器を50%~60%持っている地域に線を引いてみると、その中に初期の長突円墳(前方後円墳)が全部入ってしまった。「これはなんだ」というのがはじまりであった。 纏向式土器の分布地域を調べますと、不思議なことに北部九州博多湾岸から福岡県沿岸部が最も多い地域で、大和との中間地では基本的に少ない。広島県東部でやや増加し、山陰地方鳥取県の西部、出雲中部に若干の中継地がある。 一方、福岡県では少なくとも40か所近く存在し、近畿系の人が博多湾に数多く移住していたことがわかる。 博多湾の国際交易都市である西新町遺跡には、朝鮮半島系、地元系、近畿系土器がそれぞれ3割ずつ見つかっていることから、国際貿易に携わっていたことが十分考えられる…と綴っています。 ◆纏向型土器の分布 やはりここが古の魏志倭人伝にある九州北部にあった奴國なんでしょうな。 段々書くのが面倒くさくなってきたので貼っていきますね笑 これ等を記する前の項には、 阿波・土佐における纏向式土器について触れており、海陽町にある芝遺跡からは、在地系18%に対し、纏向河内型20%もあり、また物部川流域の各遺跡からは3、4世紀の纏向河内型甕が散在すると記しています。 ◆芝遺跡の土器比率 更に畿内系土器の搬入品は圧倒的に河内産纏向甕で際立っているとし、この傾向は三世紀の纏向式土器段階に限られ、四世紀の布留式土器の段階になると、土佐の畿内系土器は希薄になる。 つまり邪馬台国時代の土佐と太平洋ルートの位置が反映されており、四世紀の大和政権は危険な太平洋ルートではなく、日本海・瀬戸内ルートを安定して通行できるようになったということであろう。…と記しています。 土器の動きは人の動きということ(´・ω・`) 邪馬臺国畿内説の場合は到着するまでがエキストラハードモードですなぁ。 そして、奈良県にある纏向型土器を使用していた範囲にある初期の長突円墳(前方後円墳)、要略しますとその祖型が、 阿波・讃岐の集団のものであり、ホケノ山古墳の出土物から鑑みるに、 被葬者を阿波・讃岐出身者と推定したとあります。 詳しくはちっこい文字を読んでみて下さい。(あと、オッサンの手は気にしてはいけない) つまり、3世紀(邪馬台国時代)の纏向型土器の移動ルートを辿ると、一般的には航行が危険といわれている四国南岸ルートが主流であることを示しています。 ◆3世紀の太平洋航路(四国南岸ルート) 氏は纏向遺跡が3世紀後半に破棄されていることや、箸中山古墳(箸墓古墳)についても触れており、周濠底部から出土する土器が3世紀末~4世紀前半の纏向5類(布留1式)で、新しくみても4世紀前半であるとし、木製鐙が同土器と一緒に出たことを確認している。乗馬の風習は従来5世紀になってからというのが考古的常識であったが、4世紀初頭だととんでもないことだとしています。 乗馬の起源を遡れる貴重な資料ではあるものの、周濠からの出土物は卑弥呼の墓とするには時代が新しいモノですね。確か魏志倭人伝によりますと、邪馬臺国には馬がいないとあったはずですが…。 続けて、また3世紀後半から末の築造の箸中山古墳があることは纏向王宮に住んでいた人が葬られた可能性があるとし、箸中山古墳は卑弥呼の墓であって三世紀の中頃だと主張する考古学者が多いが、もし箸中山古墳が卑弥呼の墓だとすると、卑弥呼は247~8年に亡くなっており、全長280mの墳墓を作るのに10年ぐらいかかるだろうということで、都出比呂志氏、白石太一郎氏は箸中山古墳を260年ぐらいの築造と考えているらしい。しかし私は箸中山の築造を280年くらいと考えている。 想定築造年からは卑弥呼の墓とするには新しく、つまり被葬者は次代の台与の墓と推定しているようです。 さすが考古学視点の見解はなかなか面白いですねぇ。 そして、私が上記を踏まえて推測しますと、当初太平洋南部ルートを確立していた阿讃の海人族が丁度大和へと進出した時代だった痕跡ではないかと思うのです。 つまりこの痕跡からも、当初土佐・阿波の海人族は、朝鮮半島から北九州経由で太平洋に向かうルートを確保しており、そこから畿内域へと進出していった。 上の四国南岸ルートの図にもあるように、「中心」となるのはむしろ四国であって、その行き着いた先が大和である。 その証拠であるように、現在でいうところの人とモノが集まる地の中心である東京(首都)と同じで、徳島県海陽町の芝遺跡からは、在地系よりむしろ他地域からの流入品の方が多く、畿内系纏向土器の流れからも四国南岸が当時先行して発展していたと考えられます。 後に4世紀頃から、それまで危険であった瀬戸内ルートの安全が確保されたことにより、通行が可能となった。 氏との見解の違いは、これを在地の大和の人と想定するか、そうでないかの違いで、そこの補足が氏の記している、積石塚前方後円墳の推移に見える阿波・讃岐の海人族の畿内域への進出なのではないでしょうか そもそも奈良県には海がありません。 海を渡って来た海人族が朝鮮半島等の大陸側から入り込み、日本列島を沿うように東へ東へと進出していった。 連綿と流れてくる渡来人、そのルートを確保していたのが四国の太平洋側の海人族だったのではないでしょうか。 う~ん、なんとなく魏志倭人伝の魏使の通過したルートがわかってきたような気がしますねぇ。  つまり、鷲住王は瀬戸内ルートを確保するために「讃岐」という地を抑えなければならなかった。 当時の瀬戸内ルートの掌握とその先(東側)にある畿内域における物資の独占が考えられます。 いわゆる大陸から海路で輸送される様々な「物」の掌握です。 本土側では、瀬戸内海北岸側となる山陽道の安芸・吉備・播磨が重要な位置を占めますが、瀬戸内海南岸側となる四国側ではこれが伊予・讃岐となり、その東側となる畿内域に進出するためには、讃岐という地は打って付けの地理上の位置となっています。 「記紀」の仁徳条にある阿波-讃岐から淡路(仁徳朝に矢口足尼を国造とする)に痕跡が伺え、それが現在の大阪難波に繋がるのであれば尚更で、淡路を起点に海洋ルートを確保すべく畿内進出への足掛かりとしたと考えた方が納得できます。 ●大陸から畿内に至るまでの想定航路 私説においては、鷲住王=須佐之男命(=天照大御神:卑弥呼の弟)の観点から、これを3世紀頃の話と想定しています。 高地性集落の推移を見て見ますと、  ①高地性集落第2次(紀元前6世紀~紀元前5世紀頃) 瀬戸内、近畿、九州北部にまばらに出現する。 ②高地性集落第3次(紀元前5世紀~紀元前2世紀中頃) 東部瀬戸内、西部瀬戸内、近畿を中心に広がる。 ③高地性集落第4次(紀元前2世紀中~紀元頃) 東部瀬戸内、近畿が中心。近畿の高地性集落が増加する。 ④高地性集落第5次(1世紀~3世紀終末) ・近畿の高地性集落が内陸に展開する・西部瀬戸内で再び増加。しかしながらすぐに消滅。という特徴を持つ。 「空白の四世紀の謎:高地性集落の分布変遷」より これらの高地性集落の位置からも、ただ高いところに住んでいたのではなく、自身にとっての敵から身を守るため、また敵をいち早く察知する最前線であったと認識するラインでしょう。平たく言えば国境です。 九州だけに注目してみますと、時代を経るごとに南下していますね。 また別のサイトから見て見ますと、 第4次(卑弥呼が居なかった時代) 第5次(卑弥呼の存在した時代以降) (縄文と古代文明を探求しよう!より) どこを中心に巨大国家が発生し、それぞれの国々が団結・連合し、結果どこが安全になり、前線が強化・移動したのか、そしてこれが後のヤマト王権へと繋がるのか、図を見れば自ずとわかるのではないでしょうか。 …という訳で、今回の考察はここまでとしておきますね(´・ω・`)ノ (;´Д`)相変わらず中途半端やな…

  • 29Aug
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      ちょいネタから突っ込んで考察 ①

       今回はどこにでもある観光パンフレットや何気ない物からでも、実は古代歴史解明のヒントに繋がる「ネタ」が隠されているよということで、今回はその小ネタから少々解説を含めて掲載しておきます。 基本的には阿波の古代史の研究の後押しとなると思われる(個人的な)考察素材で、逆に阿波の人でないと気付かない部分もあるかも知れませんが、まぁ、参考程度に御覧下さい(´・ω・`)ノ まずはこちら 高知県香美市の観光ガイドブック「かみんぐ」(ダジャレ系のネーミングね)からですが、個人的には物部川流域となる、大川上美良布神社、民間信仰である「いざなぎ流」、轟の滝や白髪山等も気になるところですが、 「秘境と癒しのスポット」として、「神母ノ木の大楠」というところがあり、この「神母」の部分を「いげ」と訓むところに注目です。 「いげ」といえば、阿波でいいますところの美馬郡式内社 倭大国玉神大国敷神社二座に比定されている医家(いげ)神社がご鎮座します。 医家神社(いげじんじゃ:徳島県三好市池田町マチ2286) 社名の「医家」は、「イケ」と読みますが、『平成祭データ』によると、やはり「イゲ」の模様。 『徳島県神社誌』によれば、磐坂神社の口伝で、「往古には磐坂大権現と称した。磐坂日子神を奉りし故に名付奉りし御名なりと。後、祭神山を下り給う。此の宮今の医家神社なりという」とあり、池田町シンヤマ3959が当社の旧地との説があります。 地図にするとココ 磐坂日子命(いわさかひこのみこと) 須佐之男命の子。事蹟不詳。 『出雲国風土記』秋鹿郡恵曇(えとも)郷の由来に、 須作能乎の命の御子である磐坂日子の命が、国内をご巡行になった時に、 ここにお着きになっておっしゃったことには、 「ここは、地域が若々しく端正な美しさがある。土地の外見が絵鞆(えとも)のようだな。わたしの宮は、この所に造り、祭り仕えよ」 と仰せられたとある。(磐坂日子命:玄松子の祭神記より) ホォホォ、須佐之男命の子ですか(´・ω・`) 因みに医家神社の御祭神は、大国主神 少彦名神 当社も有名なのは大きな楠ですね。 社名の「医家」は、祭神が薬神だったためといい、また『阿府志』では、「医家」は池のことであり、池田町の名の起こりとの説を挙げているようです。 そういや眉山にも恵解山(えげのやま)古墳群がありますが、京都府長岡京市の5世紀築造とされる古墳は同じ漢字で、恵解山(いげのやま)古墳でしたなぁ。 この古墳からは鉄刀176口等以外にも工具漁具類として鉄ヤス状製品や鉄ワラビ手刀子も出土してますぜ。 まぁ、そういう意味なのかなぁ ボソボソ… …と言う訳でお次はこちら(何のこっちゃ) 『釈日本紀』(しゃくにほんぎ)は、鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書。『釈紀』の略がある。全28巻。 ●成立 著者は卜部兼方(懐賢)。著作年代は未詳だが、平野社系卜部家であった兼方の父兼文が、文永元年(1264年)または建治元年(1275年)に前関白一条実経らに講義を行った。このときの説話に、奈良時代以降の数々の『日本書紀』注釈史料を参照して編集したとする。正安3年(1301年)には写本が確認でき、つまりはこの20余年の間に編まれたと考えられる。 ●評価 史料には『上宮記』、『日本紀私記』、『風土記』、『古語拾遺』、『天書』、『安斗智徳日記』、『調連淡海日記』、『先代旧事本紀』等、現在では散逸している書物を参照しており、これらを逸文として残している。『日本紀私記』などは、奈良から平安初期の朝廷でしばしば行われた『日本書紀』の訓み方の講書記録にすぎなかったが、兼方は卜部家に伝わる家説に諸種の私記を併せ、解題・注音・乱脱・帝王系図・述義・秘訓・和歌の7部門に分け、兼方の厳密な書紀原文解釈の集大成とした。このため『古事記』、『日本書紀』の欠を補う史料として評価が高い。 (wikipedia 釈日本紀より) こちらはきちんとした歴史本の注釈書。 こちらもweb等で閲覧が可能ですが、一応転禁のようですので抜粋の上、周囲モザイク処理を施しますが、その中に「天狗」のことを、 「アマツキツ子(ネ)」と訓んでいますね。 天狗(てんぐ)は、日本の民間信仰において伝承される神や妖怪ともいわれる伝説上の生き物。一般的に山伏の服装で赤ら顔で鼻が高く、翼があり空中を飛翔するとされる。俗に人を魔道に導く魔物とされ、外法様ともいう。 ●由来 元々天狗という語は中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏を突入し、地表近くまで落下した火球はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている。中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた。 仏教では、経論律の三蔵には、本来、天狗という言葉はない。しかし、『正法念處經』巻19には「一切身分光燄騰赫 見此相者皆言憂流迦下 魏言天狗下」とあり、これは古代インドのUlkā(漢訳音写:憂流迦)という流星の名を、天狗と翻訳したものである。 日本における初出は『日本書紀』舒明天皇9年2月(637年)、都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」 飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後、文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局、中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる。 ●付会と俗信 空海や円珍などにより密教が日本に伝えられると、後にこれが胎蔵界曼荼羅に配置される星辰・星宿信仰と付会(ふかい)され、また奈良時代から役小角より行われていた山岳信仰とも相まっていった。山伏は名利を得んとする傲慢で我見の強い者として、死後に転生し、魔界の一種として天狗道が、一部に想定されて解釈された。一方、民間では、平地民が山地を異界として畏怖し、そこで起きる怪異な現象を天狗の仕業と呼んだ。ここから天狗を山の神と見なす傾向が生まれ、各種天狗の像を目して狗賓、山人、山の神などと称する地域が現在でも存在する。 したがって、今日、一般的に伝えられる、鼻が高く(長く)赤ら顔、山伏の装束に身を包み、一本歯の高下駄を履き、羽団扇を持って自在に空を飛び悪巧みをするといった性質は、中世以降に解釈されるようになったものである。 ●高鼻(鼻高)天狗と伎楽面(ぎがくめん) 日本の古代に大陸より渡来し、推古朝から鎌倉時代初期まで行われていた仮面音楽劇であった、伎楽で用いられた伎楽面の一部に、高鼻の天狗面と鼻などの形状が顕著に類似したものが見られる。また他の伎楽面には、高鼻天狗面同様、目が金色(白目が金色)になったものがある。これらの事から、伎楽面が高鼻天狗(面)の起源であるとする説が唱えられている。 なお、一般に伎楽面の顔形は、古代西方世界人(白人)の顔形に影響を受けたものが多いといわれる。その白人的特徴が高鼻天狗(面)に受け継がれているとも考えられる。(wikipedia 天狗より抜粋) …天狗の由来も元を辿ればインドの憂流迦(うるか)からで、それも中国では天狗(てんこ)、つまり天の狗(いぬ)、その吠える声が雷に似ていて、災禍をもたらす凶星であると。 更にこれが日本では山の神の天狗となり、白人と顔の特徴が似ていて狗=狐の意味もあるということですね 狗(く(ぐ)・こま)が、「いぬ=きつね」と同意(であれば)、これは面白いことになりそうですね( ´∀`)ホホホ うるかですか...そうですか…ボソボソ そして今回の最後はこちら こちらは丹後国一宮の籠神社でお手軽に販売されているもの。 元伊勢籠神社社務所発行の御由緒略記で、一応発行者は八十二代当主の海部光彦祝ですので内容は間違いはないと思われますが、 奥宮(上宮)眞名井神社のところに、 磐座主座 豊受大神 亦名 天御中主神・国常立尊 本宮(下宮)籠神社のところには、 神代に、彦火火出見命(彦火明命の別名とも伝えられる)云々… 主神 彦火明命 亦名…饒速日命、又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。 ええんかなこんなん載せて(ノ∀`) 神社などは保守的な考え方が多いとは思いますが、神宝の海部氏勘注系図や息津鏡・邊津鏡の発表等、う~ん、海部氏は非常に前衛的ですなぁ笑 まぁ一般的には特にこの神について調べようと思わなければ、殆どの人は何ら気付くこともないでしょうけど、これまでに私説考察にて書いてきたことの裏付けができますね。 むしろ個人的に気になるところは、豊受大神の亦名が天御中主神・国常立尊であること。 『古事記』では神々の中で最初に登場する神であり、別天津神にして造化三神の一柱、天地開闢時に最初に現れた至高の神が天之御中主神。 wikipediaにも、「天之御中主神は哲学的な神道思想において重要な地位を与えられることがあり、中世の伊勢神道では豊受大神を天之御中主神と同一視し、これを始源神と位置づけている。江戸時代の平田篤胤の復古神道では天之御中主神は最高位の究極神とされている。」 また、国常立尊は、これまた神代七代の最初の神で、『日本書紀』本文では天地開闢の際に出現した最初の神としており、こちらもwikipediaには、「伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。」…ともあります。 この二神が何故か「豊受大神」と同じとする伊勢&吉田神道、つまり原初にして最高神ということなのでしょう。 徳島県海部郡海陽町には、やたらと国常立尊(天御中主神もありますが)をお祀りする神社が多く、特に気になるのが、ココ それと、旧宍喰町日比原字日比原にある氏神神社(御崎神社:国常立命) また船津神社の近くにあった御崎神社。(上と一緒なのかはちと未調査)  位置的に天一神社の彦火々出見命も気になりますが、やはりお御崎ということなのかな。 それと、旧海部町中山の王子神社(国常立尊) 「王子」ということでいいんですかね。 まぁ左津前氏の住んでいる旧那賀郡薩摩郷の地ですし。 主祭神としてこれ程多くの国常立命をお祀りしている神社が、何故この地に存在するのかも含めまして、これ等の神社を今後の考察のために特に重点的にマーキングしておきましょう(´ω`) また面白いネタを見つけましたら、第二弾もあるかも知れませんので(無いかも知れませんがw)、表題も「ちょいネタから突っ込んで考察 ①」としておきましょう。(「突っ込んで考察」とあるのに深く突っ込んでないやないかというのはナシの方向でお願いします笑笑笑 それでは今回はここまで(・ω・)ノシ

  • 16Aug
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      讃岐国造から考察 ②

       本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 前回にも記しました讃岐国造一族、その中でも国造本紀に、15代応神朝時に讃岐国造となったとある「須売保禮命」について更に考察してみたいと思います。 まずは四国の国造をザックリ表記しますと、「国造本紀」によれば、 ●讃岐国造:応神朝の御世に、景行天皇の子・神櫛王の三世孫の須売保礼命を国造に定められた。 ●粟国造:応神朝の御世に、高皇産霊尊の九世孫の千波足尼を国造に定められた。 ●長国造:成務朝の御世に、観松彦色止命の九世孫の韓背足尼を国造に定められた。 ●伊余国造:成務朝の御世に、印幡国造と同祖・敷桁波命の子の速後上命を国造に定められた。 ●都佐国造:成務朝の御代に、長阿比古と同祖・三嶋溝杭命の九世孫の小立足尼を国造に定められた。 ●波多国造:崇神朝の御世に、天韓襲命を神の教えによって国造に定められた。 …とあります。(神の教えってなかなかすごいな笑) 一応、天皇の時系列にしますと、 ・10代崇神朝:波多國 ・13代成務朝:長國、伊余國、都佐國 ・15代応神朝:讃岐國、粟國 少し分かりやすくしますと、 加えて四国を脱し、淡路に国造を配置したのが16代仁徳朝代です。 また四国では波多国造の配置が一番古く、東に行くにつれ、新しく国造を配置したことになっています。 ただし、これには非常に致命的な欠点があり、例えば粟国造の場合、「応神朝の御世に、高皇産霊尊の九世孫の千波足尼を国造とした」となっているからです。 15代応神天皇の代に高皇産霊尊の”9世孫”が国造になることは常識的にはまずあり得ないはずです。(これだと天皇家より高皇産霊尊のが若いやんな...) そして「神紋と社家の姓氏 忌部氏」では、 …となっており、千波足尼の九世遡れば、由布津主命になりますから、「国造本紀」を信じるならば、 高皇産霊尊=由布津主命 …となってしまいます。 確か鷲住王は、天太玉命の孫の天富命の孫。 由布津主命と斎主とある飯長媛命との子の、訶多々主命(堅田主命)が鷲住王ということになります。 一方、阿波国一宮大麻比古神社御祭神は『大日本国一宮記』では猿田彦大神。 しかしながら本来の主祭神は阿波忌部の祖である天日鷲命であるとしています。 wikipediaによれば、明治時代以前は猿田彦大神と阿波忌部氏の祖の天日鷲命とされていた祭神を、明治以後は猿田彦大神と古伝に基づいた天太玉命としたが、天日鷲命は阿波忌部の祖先であるから、(忌部神社は)忌部の社または地名により麻植の命と申すのに対して、(当社は)太祖天太玉命を祀って大麻比古神と申すとの説が、現在の大麻信仰の基礎となっているのだと言う。 現在の主祭神は、大麻比古神(忌部氏系図でいう津咋見命)のことを天太玉命のこととされる…としているようです。 ややこしいですが一応系譜にしますと、 これまでの考察により、須佐之男命の亦の名が粟国造であった粟凡直の子孫の系譜となる「粟国造粟飯原家系図」からは、須佐之男命の兄神とされる月夜見命で、 高皇産靈神の子である栲幡千千姫命は、天忍穂耳命(上図では勝速日命のこと)の妻となりますが、「古語拾遺」には、 「其高皇産靈神所生之女 名曰 栲幡千千姫命【天祖天津彦尊之母也】其男 名曰 天忍日命【大伴宿禰祖也】又男 名曰 天太玉命【齋部宿禰祖也】」 …とあり、天太玉命とは共に高皇産靈神の「子」でありながらも、栲幡千千姫命から天太玉命が生まれたことになっているのです。 つまり兄妹としての関係と、母子としての関係を同時に持つことになります。 そして生まれたとする天孫瓊瓊杵尊、直系譜は曾孫に神武天皇となりますが、瓊瓊杵尊と同母兄弟である天太玉命は、天日鷲翔矢命の兄妹である天比理乃咩命を妻とし、大麻比古命をもうけますが、この大麻比古命も、下立松原神社の「忌部氏系図」では別名を津咋見命としており、このことから須佐之男命と天忍穂耳命は親子でありながら世代を跨いでの同神であることの繰り返しであることがわかるのです。 仮に「三河国青木氏系図」を足し込んでみますと、 当系図の場合、天日鷲翔矢命の曾孫に天日鷲毘古命(由布彦命)となっているため、必ず1世代ズレ込むことになっています。 摺り合わせをしますと、2人の天太玉命の親世代の方は、大麻比古神社の祭神考でもある大麻彦命=天太玉命、また同世代兄弟で天日鷲翔矢命がおり、子世代の天太玉命の兄弟として天日鷲翔矢命が一致します。 そして、須佐之男命を祀る日本三祇園である宍喰八坂神社も、「宍喰町誌」によれば、元の祭神は鷲住王であったとします。 これにより、6人の天日鷲命は全て須佐之男命の分身であると考えられるのです。 これまでのこの稿を纏めてみますと、 「国造本紀」にある高皇産霊尊(由布津主命)の子は、訶多々主命(堅田主命)であり、少なくとも、ここまでの系譜については、天太玉命と同神であるともいえます。(それ以降は今のところ調べてないから知らんよ?笑 さて、今度は別の角度から探ってみますと、 景行天皇紀には、「神櫛皇子、是讚岐國造之始祖也」つまり讃岐国造の始祖は、景行天皇の子である神櫛皇子(13代成務の兄弟)と記されていますが、「国造本紀」では、15代応神朝の御世の須売保禮命とします。 この時点で神櫛皇子から須売保禮命は孫の代であることになり、これが「讃岐国造」であったのですから、景行天皇の曾孫にあたる鷲住王とは異名同人物であることが非常に濃厚となります。 この須売保禮命の御名にある”須売”(スメ)とは、日本の古語の「皇(スメ)」のことで、一般的には皇族や天皇のことを指します。 「スメ」の語源については諸説あり、この稿では省きますが、そもそも「天皇」という文字を「スメラミコト」とは訓むことはできず、本来は「皇尊」や「皇命」から「天皇」の文字に当てたと推測されます。 みこと「命・尊」は、〔「御み事」の意〕 ●( 名 )神や貴人の名前の下につける尊称。 「素戔嗚すさのおの-」 〔日本書紀では、「尊」を最も貴いものに、「命」をその他のものに使う〕 (コトバンク:大辞林 第三版の解説より) 即ち、「皇(スメラ)」自体に”天皇”の意味があるということになります。 ほ・る【欲る】他動詞ラ行四段活用 活用{ら/り/る/る/れ/れ} 願い望む。欲する。ほしいと思う。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典より) よって須売保禮命の御名の意は、”天皇位を欲した命”という意味となり、ここでも天皇になれなかったの意味を継承していることになります。 この「スメ」繋がりの余談となりますが、 第29代欽明天皇と蘇我稲目の女 蘇我小姉君との子に、穴穂部皇子(あなほべのみこ:皇位を望み物部守屋と結託したが、蘇我馬子に殺された)がおり、「古事記」欽明天皇記に、 「又娶岐多志比賣命之姨・小兄比賣、生御子、馬木王、次葛城王、次間人穴太部王、次三枝部穴太部王、亦名須賣伊呂杼、次長谷部若雀命。五柱。」 「また岐多志毘賣の命の姨、小兄比賣を娶りて生みし御子は、馬木の王。次に葛城の王。次に間人の穴太部の王。次に三枝部の穴太部の王、またの名は須賣伊呂杼。次に長谷部の若雀の命【五柱】。」 「紀」の穴穂部皇子のことを「記」では三枝部穴太部王(さきくさべのあなほべのみこ)、またの名を須賣伊呂杼と記しています。 この須賣(スメ)を皇族等と訳しますと、全ての兄弟姉妹が皇族な訳で、この場合においてもやはり「皇(スメ)」=「天皇」のことを指す言葉のはずです。 また、”伊呂杼(いろど)”とは、「同母(いろ)&弟(と)」の意味ですが、同母の兄となる茨城皇子と葛城皇子は天皇になっておらず、自身の弟に崇峻天皇(泊瀬部皇子)が、また、異母の皇后 石姫皇女から敏達天皇が、小姉君の姉 堅塩媛の子から用明天皇(大兄皇子)と推古天皇(額田部皇女)が天皇となっており、平たく言えば該当者が見当たりません。 ここにも大きなトリックがあるはずですが、 ここの間人(はしひと)姉弟や「穴太」と書いて「あなほ」と訓んでいるところなど個人的には非常に臭いですネ笑 以前記しました「倭建命を穿って考察 ①」や「倭建命を穿って考察 ⑦」も踏まえますと、 春日穴咋(あなぐい)邑も、私説においては、徳島県の春日の屯倉のあった鮎喰(あくい)村のことで、この「穴太(あな-ほ)」も単に「あ-た=板野郡」を指すのではないですかね 母の小姉君も「古事記」では、小兄比賣(おえひめ)と訓んでますよね。 母は麻植で娘は板野、もうアレにしか見えませんけどね…。 また姉に堅塩媛がいるにも関わらず、妹の名に「小兄」とはこれ如何に。 しかも岐多志毘賣の命の「姨」とあります。 姨(読み)い ① 妻の姉妹。また、妻の妹。 ※色葉字類抄(1177‐81)「姨 イ イモシウトメ 妻之姉妹也」 ② 母の姉妹。母方のおば。 ※色葉字類抄(1177‐81)「姨 イ ヲハ 母之姉妹曰姨 又イモシウトメ」 ③ めかけ。父のめかけ。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典の解説より) こちらもいずれ突っ込んで考察しないといけませんね。 …っと横道がついつい逸れ過ぎました笑 やっちゃうんですゴメンナサイ(ノ∀`) 実は「スメ」の付く皇族は他にもおりまして、「古事記」景行天皇記に、 「又娶倭建命之曾孫・名須賣伊呂大中日子王自須至呂四字以音之女・訶具漏比賣、生御子、大枝王。」 須賣伊呂大中日子王(すめいろおおなかひこのみこ)の名が見えます。 系譜にしますと、 景行天皇妃である訶具漏比賣と同時に、応神天皇妃にも迦具漏比賣命がおり、どの考察を見ても倭建命の曾孫を娶った景行天皇の方が時系的にはおかしいのでこれは誤記であるとしています。 しかしながら代を合わせて見ますと、須賣伊呂大中日子王は応神朝の人物と仮定でき、その娘である訶具漏比賣も迦具漏比賣命であろうことがわかります。  よって共に妃とした景行天皇=応神天皇と考えることもできますが、この応神天皇と迦具漏比賣命との子には迦多遲王(堅石王)という子がいることにも注目します。 上にもあるように、「忌部氏系図」からは由布津主命の子は訶多々主命(堅田主命)。 「神代系譜」及び「忌部氏系図」、更に「景行天皇からの系譜」を並列しますと、 う~ん、何だかぼんやりと見えてきましたねぇ。 須賣伊呂大中日子王の御名にある「スメ」と「イロ」は共に先程考察しました「天皇」と「同母」という意味です。 しかしながらこちらも天皇であったとする記述は認められず、あくまで天皇系譜と並行するもう一つの「裏の系譜」であるということのようです。 さて、「讃岐国造」に話を戻しますと、 飯野山(讃岐富士)のお膝元にある坂元神社、御祭神は鷲住王で、その御由緒には、 「南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。 薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。」 また、「讃岐国名勝図会」巻之十に、 「鷲住王没後この地に葬り、社を建てて飯山明神と崇め奉る。」 更に、『全讃史』巻之五 神祠志上 式内祠 飯神社(主祭神:飯依比古命 少彦名命)には、 「東二村、飯山の南の邊に在り古傳に云ふ。此の祠は、飯依彦命を以て主と爲せるなり。此の神あるを以て、此の山を飯山と名づく。延喜の時、官社に列せらる。而して中古以來荒凉せり。而して今東二村の社と爲り、飯山大明神と号す。」 香川県神社誌には、飯依比古命は、讃岐国國魂なり。 …とあり、神殿奉納の讃言では、「…飯大神は、父神母神の恵みを集めて宇迦之魂を生み給ひ…」 …ともあり、全てを集約しますと、 讃岐国國魂は、飯依彦命こと鷲住王(=須佐之男命) …ということになります。過去記事「鷲住王から考察 ②」 この鷲住王は、「阿波の民話第8集」宍喰の昔話『鷲住王の剣』では、鷲住王は自身の「剣」を「みゆき」に託し、讃岐の昼間城へ移ったと書かれています。過去記事「鷲住王から考察 ③」 「昼間」は、徳島県三好郡にあった昼間町(ひるまちょう)のことで、猪ノ鼻から猪ノ鼻まで移動したことになり、つまり鷲住王は、徳島県の鼻(端)から鼻(端)まで移動したということになります。 画像は、のらねこぶるーす氏の空と風「徳島は倭(イ)の国か?①」より拝借<(_ _)> 猪ノ鼻峠を越え、西讃に入植後は、「大麻神社」の社伝にあるように、「神武天皇の時代、当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓」云々となります。 讃岐の國魂が飯野山にあるように、阿波国の前身となる「倭」の國魂は、徳島県美馬市美馬町重清字東宮上3にあります。 式内社 倭大國玉神大國敷神社二座 (論社) 倭大國魂神社 大国主神の別名の一つが「大国魂大神」であり、「記紀」には、「天照大神、倭大国魂神、二柱の神を宮中に祀っていたが、その神々の勢を畏れ、天皇は皇女である豊鍬入姫命に命じ、天照大神を倭の笠縫邑に祀った。また、皇女渟名城入姫命に命じ、倭大国魂神を祀らせた。ところが渟名城入姫命は髪が抜け落ち、体は痩せ衰え、お祀りすることが出来なかった。」との記述が見えます。 みゆきに剣を託し去っていった鷲住王、天照大御神に天村雲剣を託し去っていった須佐之男命、美夜受比売に草那藝剣を預け去っていった倭建命も、そして崇神朝時代に二神を共に祀ってあったが双方を離して祀るようにした記述からも、当地徳島県では比定される場所にきちんとその痕跡が見られるのです。 さて、先程の経緯から、美馬郡まで移動した鷲住王。 この美馬郡についてですが、wikipediaによりますと、貞観2年(860年)に三野郷・三縄郷・三津郷が分立して三好郡となった。…とあり、三好郡は元の美馬郡から別れた旨が記載されています。 旧エリアは非常に広い郡域となっていますね。 これも以前に書いたのですが、「海部氏勘注系図」には、「建稲種命 亦名 須佐之男命 一云 大己貴命」とあり、須佐之男命=大己貴命の別名が大国主命で、亦の名を播磨国では伊和大神こと葦原志許乎命、同風土記の宍禾郡雲箇の里条には、 「雲箇里土下々 大神之妻 許乃波奈佐久夜比売命 其形美麗 故曰宇留加」 「(伊和)大神の妻、許乃波奈佐久夜比売命は、その容姿が美麗しかったから宇留加という。」 …とし、瓊瓊杵尊の妻の木花之佐久夜毘売と同じである旨が記されています。 つまりこれ等全てが同神であると考えられ、阿波説で記するならば、葦原中国の支配者であった大国主命は、国土拡大の一区切りの終着点であった「倭國(旧阿波国)」の現美馬に至ったことから、神武天皇としては、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)、崇神天皇としても所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)であり、且つ、御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、『常陸国風土記』に見える美萬貴天皇(みまきのすめらみこと)なのです。 更に言えば、これが瓊瓊杵尊と同神で、今回の考察にある、天太玉命とも同じということなのです。(まぁ瓊瓊杵尊の「瓊」は玉という意味だしネ) すめ みま 【皇▽ 御▽ 孫▽・皇▽ 孫▽】 ① 天照大神の子孫。皇統の子孫。天皇。 「 -の命の瑞(みず)の御舎(みあらか)を仕へまつりて/祝詞 祈年祭」 ② 天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)のこと。 「 -天津彦彦火瓊瓊杵尊/日本書紀 神代下訓」 (weblio 三省堂 大辞林より) 「すめみま」は、天皇そのものの意味でもあり、瓊瓊杵尊の意味でもあるということ。 「いまどき風土記」というサイトによれば、 「常陸国風土記」久慈郡に、 「郡の東七里、太田の里に、長幡部の社あり古老の曰へらく、珠売美万の命、天より降りましし時に、御服を織らむ為に、従ひて降りたまいし神、名は綺日女の命、本、筑紫の国の日向の二所の峰より、三野の国引津根の丘に至りく。後に、美麻貴の天皇のみ世に及りて、長幡部の遠つ祖、多弖の命、三野より避りて、久慈に遷り、機殿を造り立てて、初めて織りき。」(小学館新編 日本古典文学全集5・風土記よりp411) 美麻貴の天皇即ち崇神天皇のことで、これが珠売美万命と太田の里との関連を伺わせる内容となっています。 天照大御神の孫である瓊瓊杵尊は、皇孫(すめみま)の意でもあり、これらは「延喜式の祝詞」に頻繁に出現します。 これ等の考察は、井口樹生氏による「皇御孫命」考 -その語義と位置とをめぐって-に詳しく記されてあり、少々抜粋すれば、 瓊瓊杵尊を指す言葉であるから皇孫には間違いないが、「皇孫」をスメミマと訓むことには抵抗があるとし、後に祝詞では「スメミマ」の「マ」に「孫」を宛てて来た可能性も考慮せねばといった内容です。 また、同時に皇御孫(スメミマ)命は、 祝詞の内容からも、確実に当代・今上陛下を指し示すものである。 …とも記しています。 従って、美馬(美万:ミマとも書いた)郡は、皇(スメラ)が、(当時の)倭の中心地である現在の”美馬”に居を構えていたことから、その地名を「ミマ」としたのではないでしょうか 天皇(てんのう、英:Emperor) ●訓読みの語源 古い訓読みでは、すべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称した。 「スメル」については、『岩波 古語辞典』では、「すめら」(皇)の項で、サンスクリット「sume:ru」(須弥山)と音韻・意味が一致し、モンゴル語「sümer」(須弥山)と同源であろうとしている。 他には、清浄さから神聖さを想起させる「澄める」の転訛と見て、光り輝いて煌めくさまを表す「皇」の訓としたとする説があり注目されているが、現在も判然としていない。 ●天皇と宗教 職能神・芸能神との関係 『明宿集』は、星宿神を北極星とし、「翁」を宿神と呼ぶことは太陽・月・星宿の意味が込められているとしている。「宿」という文字には、星の光が降下してあらゆる家に降り注ぎ、人間に対してあらゆる業を行うという意味がある。「翁」の文字は、公の羽と書くことから王を鳥に喩える文字であり、あらゆる領域を飛翔するという意が込められている。(wikipedia 天皇より抜粋) 鷲住王を祭神とする坂本神社御由緒冒頭に、 「輝く星の氏子われ 秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。 国持の里 鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し 古き地名は今もなお、ここだしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。」 妙見菩薩 ●概要 妙見信仰は、インドに発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである。(wikipedia 妙見菩薩より抜粋) この妙見信仰と合わせて考えますと、北極星は=「天皇」を表し、「翁(おう)」を「王(おう)」として鳥に喩え名とした。 言い換えれば、星の子は天皇の子であり、「凡(おほし)直」氏の祖に「星直」氏がいるように、これらは「王(おう)」氏でもあり、また鳥に喩えなぞれば、「鴨(おう)」氏、つまりは賀茂(かも)氏であるということなのでしょう。 美馬郡にある式内社 鴨神社(徳島県三好郡東みよし町加茂3650) 祭神は別雷神、吉野川を下流に下れば、 下加茂神社(徳島県三好市三野町加茂野宮) 祭神は玉依姫命、御神紋の二つ葵。  京都下鴨神社の葵祭(あおいまつり、正式には賀茂祭)。 元来古代から賀茂神社の神紋として使っていた二葉葵(別名、賀茂葵)が由来。 ●二葉葵(賀茂葵) 祭りの起源は、賀茂の神々の祟りから来たもので、崇神期の故事に倣うもの。 794年より都となった京都にある賀茂神社・下鴨神社の元社を辿ればここに行き着くでしょう。 何故これらの「元」が、阿波国の「美馬郡」にあるのかを今一度深く考察しなければいけませんね。 西から東へと流れる吉野川沿いに、天照大神と倭大国魂神が分かれ祀られた元祖。 国土拡大により、それぞれが後に移されたと考える、日が昇る東側には伊勢神宮が、日の沈む西側には出雲大社となったのであろうと考えます。 次稿では、更にもう一歩、別の角度から考察してみたいと思います(まだあるのか…) (´・ω・`) 内容の割にはボリュームだけは一丁前やな笑

  • 12Aug
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      讃岐国造から考察 ①

       本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 それではこれまでに鷲住王について考察したことのおさらいも含め、今回は更に一歩考察を進めて参りたいと思います。 まずは12代景行天皇~17代履中天皇までの系譜。 表の上の数字は天皇代で枠内青色が天皇。 次に日本書紀に書かれてある、履中天皇の嬪となった鯽魚磯別王の女、太姫郎姫と高鶴郎姫の二姫の兄である鷲住王。 つまり履中の「義兄」となった鷲住王ですが、wikipedia讃岐忌部の項にはこう書かれています。 阿波忌部の讃岐国への入植 穀(かぢ)や麻の栽培など農業にすぐれた、天日鷲命を祖神とする阿波忌部氏は、吉野川上流域から三好市池田町の猪ノ鼻峠を越えて讃岐平野まで入植した。前述の式内社「大麻神社」の社伝には、「神武天皇の時代、当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え、殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め、その祖神天太玉命を祀り、大麻天神(おおあさのあまつかみ)と奉称し、村の名を大麻と云う。」とある。阿波忌部は麻や穀物の普及をしながら、この大麻山を中心とする讃岐平野の他、西讃、仲多度郡まんのう町から琴平町、善通寺市、三豊市高瀬町に至る地域と、観音寺市粟井町を中心とした三豊平野および三豊市財田町、豊中町などの地域に進出していったと考えられている。 また、18代履中天皇の妃の兄にあたる阿波忌部族の一派であった天富命の孫である鷲住王は、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂本神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。なお、氏子にはその末裔の高木氏がいる。(wikipedia 讃岐忌部氏より抜粋) 要約すると、式内社大麻神社の社伝では、神武天皇の代、讃岐忌部は阿波忌部と協力して讃岐を開拓した。 履中天皇の代、天富命の孫の鷲住王は、脚咋別の始祖となった後、大麻神社を再興し、後に飯野山の近くに居を構え、讃岐国造になったので南山麓にある坂本神社で祭祀されている。 つまりこの時点の系譜としては、〇〇〇 -天富命 -鯽魚磯別王 - 鷲住王。 天富命は天太玉命の孫で、神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をしたとあります。 単純に神武代の天富命の孫が17代履中の義兄という点は疑問視せざるを得ません。 つまりこの伝承にはトリックが隠されているはずです。 因みに『日本書紀』には、鷲住王は、 「是讚岐國造・阿波國脚咋別、凡二族之始祖也。」と書かれています。 この「凡二族」をおおよそ・全て・おしなべて、二族の祖等と訳しているところが殆どですが、讃岐国造のwikipediaを見て頂きますと、 『続日本後紀』延暦10年9月18日条に凡直千継の改姓申請が記されている。これには、凡直氏の祖先は星直氏といい、敏達天皇期に国造として「紗抜大押直」の姓を賜ったが、庚午年籍で「大押」を改め「凡直」となり、奈良時代には「讃岐直」や「凡直」となったとし、申請者の千継らは先祖の業により「讃岐公」への改姓が許可されたとある。(wikipedia 讃岐国造より抜粋) …つまり「凡(おおし)の氏」である粟凡直、讃岐凡直の二族の祖ということですヨ。 「国造本紀」によると、讃岐国造は、軽島豊明朝(15代応神天皇)、景行天皇の皇子・神櫛皇子の3世孫の須賣保禮命(すめほれのみこと)を国造に定めたとあります。 つまり、景行天皇 -神櫛皇子 - 〇〇〇 - 〇〇〇 -須賣保禮命(応神代の讃岐国造)。 天川神社(あまがわじんじゃ:香川県仲多度郡まんのう町造田) ◆祭神 興台産霊命 天兒屋根命 酒部黒麿命 ◆由緒 「天川御嶽山に座す神輿台産霊命は、…云々。景行天皇の皇子神櫛王三世の孫須賣保禮命國造となり此の神を祭る。時に手置帆負命の裔をして長尾郷に来らしめ大峡小峡の木を伐りて御殿を造らしめ又神祭の物を奉らしむ…云々。」 また、徳島県海陽町宍喰にある大山神社の御由緒には、 鷲住王は景行天皇の曾孫に当たるとあり、『海南町誌』の栗田寛氏の国造本紀考の系譜では、 …とあり、これ等を合わせますと以下の様に。 確か須売保禮命は、15代応神朝代の讃岐国造とありますので、単純に鷲住王の位置にとって代わるか、天皇とは世代がややズレているとも考えられます。 なぜならば、鷲住王の義弟が17代履中天皇とあるからです。 この考え方からすると、須売保禮命は鷲住王と同人物もしくは先代になることになります。 次に、須売保禮命の方から探ってみますと、 清水神社(しみずじんじゃ:香川県高松市由良町481−3) ◆祭神 神櫛明命 ◆由緒 『景行天皇五十四年(784年)の創祀と言う。古くは好井社・由良明神・正一位清水大明神と奉称せらる。『全讃史』によれば、「景行天皇の皇子神櫛王封を山田郡に受け屋島の下に止り給ふ。千摩命・能摩命(須米保禮命)・森葉摩命・大別命・古美大人を経て油良大人封を山田郡油良に移す油良氏の祖なり。」とあれば、油良氏の奉斎する所なるべし。』 …云々。 当社のご由緒に従うと、 御祭神の神櫛明命、『日本書紀』景行天皇条に、「其兄神櫛皇子、是讚岐國造之始祖也」とあり、讃岐国造の始祖は神櫛皇子であると記されています。 また、鷲住王の後裔氏族である本木・元木氏の系譜によれば、 …となり、これに従えば以下の様に。 つまり神櫛王から鷲住王までは讃岐朝臣・「讃岐国造」の一族となり、いずれの系譜においても共通する点は、景行天皇の子の神櫛王の後裔で、上記2つの系譜からは神櫛王の孫が須売保禮命となっています。 それと同時に、須売保禮命は鷲住王の子ではなく、須売保禮命の孫が鷲住王となっています。 従ってこちらの系譜は、「紀」では、鷲住王は17代履中天皇の義兄で描いていますから、存在する時代を合わせた格好になっているとも考えられます。 この系譜に単純に阿波忌部系図に落とし込むと、神櫛王が天太玉命、須売保禮命が天富命となり、天太玉命の代から讃岐を治めていたということになります。 また、天太玉命は、『古語拾遺』や『新撰姓氏録』では高皇産霊尊の子とあり、その『古語拾遺』では、高皇産霊尊の子である栲幡干千姫命の子で、天忍日命、瓊瓊杵尊と同母兄弟となります。 つまり天太玉命は、高皇産霊尊の子でもあり、高皇産霊尊の孫でもあるようです。 これを図にすると以下の様に。 天太玉命と「\孫」とあるのは、高皇産霊尊の孫の栲幡干千姫命ということ。 栲幡干千姫命は、『古事記』及び『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘。 日本書紀第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)。 そして配偶者は、天照大神の子、天忍穂耳命で、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。…とあります。 こちらを図にしますとこの様に。 栲幡干千姫命から生まれたニニギと同母兄弟に、天太玉命ときょうだいである栲幡干千姫命がいることになります。 よって『日本書紀』の原文を読み違えたものとされるとしています。 このことから私説においては、母栲幡干千姫命から生まれた「同母」の子であるがために栲幡干千姫命&天太玉命は存在することができず、即ち記紀伝承にある「お前は私の子ではない=実際の子ではない」のループの子となります。 このことはこれまで当ブログをご覧頂いている方ならお分かりであると思いますが、須佐之男命&天照大御神(同母兄弟)の宇気比の子(つまり実際の子ではない)からのループ系譜であるといえ、天太玉命もあくまで系譜上では、高皇産霊尊の子であり、高皇産霊尊の孫なのです。 つまりニニギの同母兄弟であるということは、この系譜に入れますと、 栲幡干千姫命は、天太玉命の同母の「きょうだい」であり、「母」でもあり、そして「妻」でもあるのです。 この理論は「丹生都比売から考察 ③」にて記しておりますのでご参照下さい。 よってこの場合、天太玉命=天忍穂耳命=邇邇芸命 そして天太玉命の同母兄弟であるニニギもまた、妻となる木花之佐久夜毘売の自身の子でないという嫌疑にかけられ産屋を燃やし出産するという宇気比により火遠理命が誕生することになります。 この火遠理命の別名が彦火火出見尊で、火遠理命の孫の初代神武天皇の諱もまた彦火火出見、つまり孫から孫はみな同じであることを示しています。 「記紀」伝承と忌部氏系譜に落とし込むと以下の様になり、 伊耶那岐神&伊耶那美神から続く、「きょうだい」であり「母」でもあり、また「妻」、そして自身の子ではない「子」へと延々とループし書かれてあることになります。 ニニギの同母兄弟で描かれる天太玉命も、その父母の天忍穂耳命&栲幡干千姫命との関係と同様であれば、自身のきょうだいである栲幡干千姫命と結ばれニニギが生まれたように、実際は後裔子孫の鷲住王が景行天皇の曾孫であったのであれば、結局は神武へと繋がる天皇直系であったことを示すことになります。 それと同時に阿波忌部が皇祖血統であり、その末裔こそが現在の天皇家であるといえるのです。 よって、神武天皇=鷲住王 となります。 従って直系譜の先祖はみな同人物異名同神とも解釈できますが、少なくとも諱同名となる祖父天富命、更にはその祖父である天太玉命(上の系譜では子にもなる)が同神であることにより、「祖父 - 祖父」、「孫 ‐ 孫」で描く人物はみな同じということになります。 話を本題に戻しまして、 次に、坂本神社(さかもとじんじゃ:丸亀市飯山町西坂元字山之越187番地) ◆祭神 鷲住王 ◆合祀 大國御魂神 大直日神 倉稲魂命 譽田天皇 由緒などから抜粋しますと、 「南海治乱記」によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。 薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。 鷲住王が内喰から移住したとある讃岐富熊郷には、 富隈神社(とみくまじんじゃ:香川県仲多度郡満濃町公文字山内588番地1) ◆祭神 吉備武彦命 國之狭槌尊 ◆看板 『文明六年(1474年)大麻神社祠官白玖伊義が書いた「櫛梨神社名跡図」に十社のうちに数えられている古社である。祭紳は吉備武彦命で、命は神櫛王の悪魚退治に従軍した部将で、仲多度郡の海岸に近い、多くの神社の祭紳として祀られいる神である。 当社の創建は「讃岐国名勝図会」には延喜十三年(913年)と書かれている。長尾大隅守が社殿を造営した記録も残っており、藩政時代には金毘羅参詣客に、公文の茶堂とともに親しまれた。社殿の後ろの丘は古墳地帯で、「さしば」の埴輪も出土しており、横穴古墳の石室を利用して造られたと思われる善住木食上人の入定塔がある。正面参道両側に金毘羅参詣道から移された丁石がある。(満濃町教育委員会・満濃町文化財保護協会)』 ◆由緒 「第十七代履中天皇在位中 景行天皇 皇子 鯽魚磯別王の子 鷲住王 富熊に在住し その子孫高木某 初代の祖先である。文明十二年(1480年)高木隼人、祖先をまつる廟を再建し、祭祀が続いていたが、戦火にあい衰退していった。天正年間(十六世紀)近江國山本与惣左衛門義篤(足利氏の臣従五位下対馬守)の子 山本与惣左衛門義重、讃岐國富熊に居住を定め、故郷近江より、八王子大明神を迎えて、合祀社殿を再建文禄二年(1593年)産土の神とした。安永八年(1779年)山本与惣兵衛正義は、内海氏と改め八王子大明神を崇拝しつつ、その傍らに祖先を奉る廟を建て、以後その子孫は、裔々祭祀を行っている。以来八王子大明神と称されてきたが、明治初年(1868年)神仏分離により、富隈神社と改め、村社の社格をもち、現在郷土の氏神として崇拝されている。」 神社の看板の説明と御由緒や祭神がことごとく一致しませんな笑 一応こちらの御由緒に従えば次の通り。 つまり上記のデータによる鷲住王について全てに共通して言えることは、 ●景行天皇の子孫である。 ●讃岐国造である。 ●鯽魚磯別王の子であり、鷲住王の子に野根命がいる。 ●阿波から讃岐に移住してきた。 次に共通性が高い伝えは、 ●景行天皇の子の神櫛王の孫である。 ●天太玉命の孫の天富命の孫である。(つまり阿波忌部一族である) ●須売保禮命の孫である。 ●14代~17代天皇時代の間の人物である。 …といったところでしょうか(´・ω・`) 「紀」によれば、鷲住王は履中期の人物であり、彼が存在したであろう時代の比定をするならば、御由緒などでの天皇代数を合わせますと、15代応神天皇~17代履中天皇であるのが最も有力なはずです。 「記紀」を読めばわかりますが、この時代は何かと「難波」の現れる時代でもあり、応神朝にある行宮の難波大隅宮や、その子である仁徳時の皇居である難波高津宮、更にその子である履中は反乱にあって宮が焼かれたため、難波宮から倭の石上神宮へと逃げ延びた旨が記載されています。 この「難波」もこれまでに何度も書きました通り、 香川県(讃岐國)さぬき市にあった難波郷のことです。 つまり、鷲住王が居た時代と比定時代の天皇の代を照合させてみると、天皇が皇居を構えていた「讃岐」の難波、そこの国の造となった、従って「讃岐国造」こそが天皇であるということがいえないでしょうか 「紀」によれば、鷲住王は17代履中天皇の「義兄」であり、讃岐国造であった旨が記載され、また縁のある神社などのご由緒によれば、その全てが12代景行天皇の子孫とあり、中でも最も多く伝わるのが、景行天皇の子である神櫛皇子の孫とします。 つまり「記紀」では、鷲住王自身は皇族でありながらも、皇位を継承されずに「天皇」にはなっていないという事績となっている訳です。 注目点として、この讃岐国造とある神櫛王、須売保禮命、鷲住王の3人は、そのいずれもが「天皇」になっていない上、神櫛王(讃岐国造の始祖)の孫須売保禮命の孫鷲住王と、「孫‐孫」記載になっていること、更には神櫛王の父でもありこれら話の大元である景行天皇や、難波時代の天皇の多くの諱には、「別(ワケ)」が着けられてあることにも大きな意味があると考えられます。 ・12代景行天皇:(記)大帯日子淤斯呂和氣天皇(紀)大足彦忍代別天皇 ・15代応神天皇:(記)品陀和氣命、大鞆和気命(紀)譽田天皇 ・17代履中天皇:(記)大江之伊邪本和気命(紀)去来穂別天皇 つまり天皇の諱に付く「ワケ」は、土地を分けたのでもなく、ワケ王朝などでもない、天皇と天皇の分身、即ち物語上では、天皇になり得なかった別の同一人物がいると考えます。 実際には当時のヤマト王権によって、次第に国土拡大していくにつれ、血を別けた後裔氏族らによって、国造等としてその地を治めたのではないのでしょうか。 じゃあ「イリ」は何だということになりますが、それはまた別考察としておきましょう笑 もう少し話を進めましょう。 景行天皇&播磨稲日大郎姫の間の子に、大碓命&小碓命(倭建命)の双子兄弟、そして同母弟に、讃岐国造の始祖の神櫛王がいます。 この倭建命は以前の考察により、倭建命=須佐之男命(=鷲住王)であることを説明させて頂きました。「倭建命を穿って考察 ⑦」 また「応神天皇の痕跡から考察⑥」では、天富命=須佐之男命や、景行天皇(妃:訶具漏比売 かぐろひめ)=応神天皇(妃:迦具漏比売 かぐろひめ)との考察もしました。 更にいえば、仁徳天皇もまた吉備海部直の女である黒日売(くろひめ)を妃としています。 同名同義の名を持つ比売を妃としていること、それが「黒」を意味するということも今後の考察稿のために加筆しておきましょう。 櫛梨神社(くしなしじんじゃ:香川県仲多度郡琴平町下櫛梨280) ◆祭神 神櫛王命 ◆由緒 社伝によれば、「景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚(海賊の比喩か)を討つために土佐から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神(磐船大明神)を祀った。また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神についてたずね、大麻神・大歳神、更に、山下明神・諏訪明神を祀った。さらに、船装束する時に、経津主神・武甕槌神(赤坂大明神)を祀った。その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、国造となった。仲哀天皇8年(199年)9月15日。120歳で亡くなった皇子を櫛梨山に葬り廟を建てて祀ったのが当社の起源。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という」 ホツマツタエには、 『遂に因みて ミゾクイの タマクシ姫も 孕む故 ワニ乗り阿波へ 帰る内 生む子の斎名 ワニヒコは クシミカタマぞ 次の子は 斎名ナカヒコ クシナシぞ 青垣殿に 住ましむる』27文 『後にクシナシ 神となる 母に請われて ヲシカ棄つ 故にツクシの 御幸 請ふ』27文 櫛梨は櫛御方命(=天日方奇日方命)の弟で、積羽八重事代主命と玉櫛姫命(三島溝咋の娘)の二番目の子、斎名はナカヒコであると記します。 書くと長くなるのでwikipediaコピペ(ノ∀`) 玉櫛媛の子は、神武天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命や賀茂別雷神社祭神の賀茂別雷命となっておりますが、賀茂別雷命は神武天皇のことで、これについても過去に「宇気比から考察 ②」に書いております。 「先代旧事本紀」巻第四 地祇本紀によれば、 「素戔烏尊の孫、都味歯八重事代主神。大きな熊鰐となって、三嶋溝杭の娘・活玉依姫のもとへ通い、一男一女をお生みになった。子の天日方奇日方命。この命は、神武朝(橿原朝)の御世に詔を受けて、政事を行う大夫となり、お仕え申しあげた。天日方奇日方命の妹の姫鞴五十鈴姫命。」 つまり櫛梨&櫛御方命兄弟は、恐らく兄弟として分離して描かれた同一人物です。 従ってここでも同母のきょうだいを妻に娶ったことになっています。 これ等は事績や伝承が類似する、事代主命&阿遅鉏高日子根神や、大碓命&小碓命、建御雷神&布津主神、古くは大国主命&少彦名命で描いていると考えられます。  阿波国風土記逸文 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七) 阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。 勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。 粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。 …とあり、阿波国風土記には、倭建命のことをハッキリと「天皇」と記されていることに加え、倭建命が櫛を忘れたに因む縁がある旨が記されてあります。 即ち言い換えると、倭建天皇は櫛がないから”クシナシ”であるともとれるでしょう。 小蛇に化けて櫛笥の中に潜んでいたが、倭迹迹日百襲姫命に驚かれたので御諸山に登って行った、つまり櫛笥を忘れていったのは誰だったのかな(やっぱりこの人ですよねー(´・ω・`)てか、やっぱり親子でズレてるね… 以前に記した神櫛王の悪魚退治説話は、同母兄である倭建命や、その子である建貝児王、これ等は讃岐に伝わる讃留霊王伝説等と共に酷似した説話が確認できます。 従って自身の兄弟や子もみな同じ伝承を残したともいえ、その全てが同じ人物であるとも考えられる訳です。 ということは、上のケースの場合、「兄妹」である櫛御方命と姫鞴五十鈴姫命の関係も、神武天皇の「妻」である姫鞴五十鈴姫命で、これが父母が生める子「一男一女」であったが故に、櫛御方命の弟である櫛梨(ナカヒコ=天皇になっていない人格を有する同一人物)とします。 これが12代景行朝の場合、子である成務天皇の兄弟で描く神櫛王や倭建命(=天皇になっていない人格)も、本当のところは同一人物であり、「記紀」での描き方は事績のスポットを天皇になれずに亡くなったとされる倭建命にフィーチャーしたケースであるといえます。(あくまで一つの考え方としてよ?) これ等「記紀」で登場する人物は、全ての中心的モデルは、須佐之男命とその母・妻・きょうだいの繰り返しで人物(神)を描き切っていて、調査を重ねる程全て同ケースになります。 もちろん実際はその時代を生きた本当の人物が居たはずですが、あくまで神話の物語の描き方の1つとしての人物像に関してはそのように比定ができてしまうのです。 しかしこれでは鷲住王と本当の同人物とされる人物が、一体いつの時代の人物であったのか見識が分かれてしまいます。 1つは神代の伊耶那岐神&伊耶那美神の頃の人物を物語上は延々と描いて書いた。 阿波説でいうところの卑弥呼のいた弥生末期。2世紀後半~3世紀中頃の人物。 あくまで原初モデルである主人公須佐之男命の話の連続とする。 もう1つが当稿にもある15代応神~17代履中が存在した時代の人物のことである。 大阪府にある両天皇の古墳築造年により、~5世紀初頭までの時代の人物(倭の五王の時代の人物)で、あくまで該当時代に生きた皇族の一人とする。 つまり、「須佐之男命」と「鷲住王」は、厳密にいうと実際は別人である。 という可能性もありそうです。 この2つの線で考えるのが最も合理的見解が得れそうですね。 次回は、実際の人物は誰だったのかについてもう一歩踏み込んで考察してみたいと思います(´・ω・`)ノ

  • 14Jul
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      本家の元祖考察

      ●出雲大社 今回は私説となる『国譲り』・『天孫降臨』のダイジェスト版を阿波南部説としてお送り致します(´・ω・`)ノ いきなり飛ばしていくヨ 天照大御神等によって葦原中国を統治すべきは天津神である天照大御神の子孫だ」とし、大国主命と少彦名命が作り上げて来た出雲・葦原中国に高天原から出雲へ使者を派遣してきます。 『古事記』国譲りの段に、 「是以、此二神降到出雲國伊那佐之小濱而伊那佐三字以音、拔十掬劒、逆刺立于浪穗、趺坐其劒前、問其大國主神言」 「天鳥船神と建御雷神の二柱は、出雲の伊那佐の浜に降り立ちました。そして十拳剣を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神に問いました。」 通説では 国譲りの条件として、 「爾答白之「僕子等二神隨白、僕之不違。此葦原中國者、隨命既獻也。唯僕住所者、如天神御子之天津日繼所知之登陀流此三字以音、下效此天之御巢而、於底津石根宮柱布斗斯理此四字以音、於高天原氷木多迦斯理多迦斯理四字以音而、治賜者、僕者於百不足八十坰手隱而侍。亦僕子等百八十神者、卽八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者、違神者非也。」」 「大国主命は答えました。「私の子達の二柱の神が言ったとおりに、私は背きません。この葦原中国は命ずるままに献上しましょう。ただし、私の住居として、天つ神の御子が継ぐ神殿のように、底津石根(=地底)に太い柱を立て、空に高々と聳える神殿を建てるならば、私は遠い幽界に下がりましょう。私の子の百八十神は、八重事代主神が神々の前に立てば、背く神は居ないでしょう。」」 「天つ神の御子が継ぐ神殿」=「大国主命が幽界に引き下がる神殿」、つまりこれが現在の出雲大社。 後記にある天孫降臨の段に、 「故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那此二字以音雲而、伊都能知和岐知和岐弖自伊以下十字以音、於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖自宇以下十一字亦以音、天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。自久以下六字以音。」 「天津神達は天津日子番能邇邇芸命に降臨するよう命じました。邇邇芸命は天の石位を離れて、天の八重多那雲を押し分けて、その激しい神の力で道を掻き分け、天浮橋から浮島に降り立ち、筑紫の日向の高千穂に降臨しました。」 出雲で国譲りを承諾したのに、通説ではこんな離れたところに天孫邇邇芸命は降臨したとします。 諸説ある宮崎県の二説は かくして邇邇芸命は天孫降臨し、 「於是詔之「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。」 「邇邇芸命は言いました。「この土地は、韓国に対峙していて、笠沙の御崎に真っ直ぐに通り、朝日がしっかりと注ぐ国で、夕日が照らす国だ。ここはとても良い土地だ」そして底津石根(=地底)に太い柱を立て、空に聳える程に壮大な宮殿を建てて住みました。」 ここでも先程大国主命が幽界に退いた神殿と同じ例えとなっております。 つまりこの二つの宮殿は同地同所の宮殿ではないでしょうか また、国津神である猿田彦命に導かれた邇邇芸命はこの後に、 「於是、天津日高日子番能邇邇藝能命、於笠紗御前、遇麗美人。爾問「誰女。」答白之「大山津見神之女、名神阿多都比賣此神名以音亦名謂木花之佐久夜毘賣。此五字以音。」」 「天津日高日子番能邇邇芸命は笠沙御崎で美しい少女に会いました。「あなたは誰の娘ですか?」と尋ねると少女は答えました。「大山津見神の娘の神阿多都比売です。別名を木花佐久夜毘売といいます。」」 とあり、この「笠紗御前」で出会った大山津見神の娘である木花之佐久夜毘賣とこの後結婚します。 さて、ここからが私説考察となりますが、当舞台は徳島県海部郡海陽町鞆浦字那佐。 当地には『古事記』国譲りの地と同地名の和奈佐があります。 713年に出された好字二字令により、和奈佐は現那佐となっています。 以前、「深曽木の儀から考察」でも書きましたが、おさらいしますと、 ●皇室の儀式である「深曽木の儀」 この儀式は、童形服を着て、右手に桧扇、左手に小松と山橘を持ち、青石を2個踏み、南側を向いて立ち、日置盤からぴょんと飛び降りるのです。 ●悠仁親王時のご様子 青石といえば、阿波青石、古墳の素材で他県に渡って多く使用されているのは考古研究者の間では広く知れるところですが、この緑泥片岩は、剣山山系で多く産出します。 また、山橘は、酢橘か柚を表していると考えられ、これまた阿波の山間部の特産でもあります。 これ等は魏志倭人伝にある、 「青玉。其山有丹、(中略)…橘 」 とあり、青玉や山から採れる「丹」の他に「橘」も記されています。 また桧扇は食用となる美しい貝と同名であり、阿波の南岸でよく捕れます。⇒「ヒオウギガイ」 つまりこれ等は、徳島にあった「山幸」と「海幸」の統合を意味示すものではないでしょうか。 そして木花之佐久夜毘賣と出会ったとある笠紗之御前。 こちらも剣山系山間部から「南」に位置する海陽町をご覧頂きますと、 海部川に沿うように無数の御崎神社が点在し、その全ての祭神が猿田彦命となっています。 この御崎神社群の只中に、式内社 室比賣神社論社 阿津神社(祭神:木花開耶姫命)があることも付け加えて置きましょう。 そこで私はこの一文をこう解しました。 「この地(和奈佐)から韓国に向かい、笠沙の御前(たくさんある御崎神社)まで真之通(まきとおる=真北に真っ直ぐ通)じていて、(剣山系の南側であるから)朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。 つまり高天原(剣山系山間部)から、南側に天孫降臨がされたのだと。 海部川は「真北に通」っています。 下流域に近い、大井、富田、櫛川、吉野、多良にある杉尾神社では、杉尾(王)大明神として、大己貴命がお祀りされていることから、当地は大己貴命の領域であることを示しています。 通説考に多い、御前=岬なのではなく、御前=妃のこと。 また、当地にある芝遺跡 林田真典氏による芝遺跡の発掘のレポートを要約しますと、 出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃~古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、徳島、香川、高知、岡山、関西地域と、他地域で製作された土器が多く出土。 在地系約18%に対し、他地系約82%である。 最多は徳島で、恐らく吉野川下流域や鮎喰川流域で製作された土器。 これだけ多くの他地域産の土器が出土した遺跡は、頻繁な交流が行われた結果であり、在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。よって阿波南部地域の特異性が窺える。」 とあります。 傍にある卑弥呼の時代と同時期のものとされる寺山3号墳からは、中国鏡である内行花文鏡も出土。 近隣諸国との交易のみならず、海外にまで及んでいたことを示しています。 従って「此地者、向韓國」「この地の者は韓国に向かい」も当てはまるでしょう。 こちらも通説考によくある、方角が韓国を指しているのではありません。 では、先程上に挙げた大国主命の宮殿と邇邇芸命の宮殿の一致照合に入る訳ですが、「記紀」木花之佐久夜毘売、木花開耶姫は、邇邇芸命の妻です。 一方、『播磨国風土記』の記載では、播磨国一宮伊和神社御祭神の伊和大神こと葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は、同風土記の宍禾郡雲箇の里条に、 「雲箇里土下々 大神之妻 許乃波奈佐久夜比売命 其形美麗 故曰宇留加」 「(伊和)大神の妻、許乃波奈佐久夜比売命(このはなさくやひめ)は、その容姿が美麗しかったから宇留加という。」 とあり、葦原志許乎命の妻が許乃波奈佐久夜比売命と書かれています。 つまり、木花之佐久夜毘売の夫は、天津神の邇邇芸命であり、国津神の大己貴命ということになります。 云いたいことはもうお分かり頂けましたでしょうか なぜ戦争に至ることなく「国譲り」が為せたのか。 物語を英雄譚にすべく、天照大御神側(天津神=母側)に正当性を持たせた内容で描かれていること。 天照大御神の夫は須佐之男命であり、宇気比により生まれた孫の邇邇芸命はいわば須佐之男命の孫でもあったはず。 つまり、父側ではなく、あくまで「記紀」では、母側の勝利で描きたかったとも考えられます。 同時に、天津神と国津神は実は同じであり、これら物語では別神名で描いていると考えるべきでしょう。 更に話を進めますと、国譲りの際に大国主命は「八重事代主神が神々の前に立てば、背く神は居ない」と後継を示しましたが、 三嶋湟咋(みしまのみぞくい)は、日本神話に登場する神。 ●概要 『古事記』での表記は三嶋湟咋、『日本書紀』では三島溝咋、三島溝橛耳神と表記される。 古事記では神や命といった尊称はないが、国津神とされる。 陶津耳命と同一視されることもある。 神武天皇が皇后を求めたところ、大久米命が比売多多良伊須気余理比売をお勧めになり、この乙女は大物主神が三嶋湟咋の娘である勢夜陀多良比売との間に生まれた子とした。 『古事記』神武天皇段によれば、神武天皇が大后とする美人を求めた時、大久米命が「此間(ここ)に媛女(おとめ)有り、是神御子と謂う。其を神御子なりと謂(もう)す所以(ゆえ)は、三嶋湟咋の女、名は勢夜陀多良比売、其れ容姿麗美故、美和の大物主神、見感でて、其の美人(おとめ)の大便為すの時に、丹塗矢と化(な)りて、其の大便為すの溝の流下より、其の美人のほとを突きたまいき。爾(かれ)其の美人驚きて、立ち走りいすすきき。乃(か)くて其の矢を将来して、床辺に置きしかば、忽ちに麗しき壮夫(おとこ)に成りて、即ち其の美人を娶りて子を生む。名は富登多多良伊須須岐比売命と謂(もう)す。亦の名は比売多多良伊須気余理比売と謂す。故(かれ)是(ここ)を以て神御子とは謂すなり。」 『日本書紀』神武天皇段によれば、人(名は不明)が天皇に、「事代主神三島溝橛耳神の女玉櫛媛に共して生める児、号を媛蹈鞴五十鈴媛命と曰う。是国色の秀者。」と奏したという。(wikipedia 三嶋湟咋より抜粋) 従って、バトンタッチされた事代主神三島溝橛耳神の娘との間の子である比売多多良伊須気余理比売(媛蹈鞴五十鈴媛命)が、神武天皇の皇后となっています。 『阿波國海部郡村誌』によれば、当地那佐湾には、 那佐湾港内に三島の祠があり、 この三島神社の御祭神は、溝咋耳命。 場所は googlemap先生では左側の島が二子島となっていますが、上空写真からも恐らく右側が二子島でしょうなぁ。まぁ三つ島があるということで笑 当稿には長宗我部元親の弟である島弥九郎云々が記されていますので、恐らく社は現那佐神社に移されているのではないかと思われます。「wikipedia 島親益」 ということで、神武は当地から東征を開始します。 通説によれば、神武天皇御舟出の地は 当地宮崎県日向市美々津町には神武が船出をする際に、しばし腰掛けて身を休めたという「御腰掛岩」のある場所が立磐神社として存在します。 しかし徳島県海部郡鞆浦字立岩地域には、 大きく地面に縦に刺さったように立った大岩が存在します。 みてぐら(ぬさ)【幣】 ①神に捧げる供え物。また、祓(はらえ)の料とするもの。古くは麻・木綿(ゆう)などを用い、のちには織った布や紙を用いた。みてぐら。にぎて、幣帛(へいはく)。御幣(ごへい)。 ②贈り物。特に、旅立ちのときの贈り物。(三省堂大辞林より) ともあるように、同鞆浦には出発の地を示す”手倉湾”が存在します。 旧地図による周辺の地形も、 宮崎県日向市美々津周辺地図と見比べても見事な程ソックリですネ。 実は徳島県阿南市にも海部郡海陽町と同じく羽ノ浦神社に合祀されたとある€論社 和奈佐意富曽神社と式内 室比賣神社があります。 羽ノ浦の和奈佐意富曽神社については奈佐和彦氏の海部川紀行にあるこちらをどうぞ「羽ノ浦の和奈佐」 室比賣神社(むろひめじんじゃ)徳島県阿南市新野町入田136 祭神は室比賣命(木花咲弥姫命)とありますが、御由緒には、 室姫神社の由来 当時の昔話より 当社の御祭神は淳仁天皇の御内室「室妃」で奈良時代の末期に、姫が天皇を慕って小舟で淡路へ向かう途中、荒天の為阿波の東岸に漂着。ここに安住の地を求めて土地の人たちの親愛を受けていたが、ついに黄泉の客となった。その時、身重であった姫は村人たちの親切を謝すとともに、世の人々の安産を願う旨を遺言に残したという。 村人は姫をねんごろに葬り、塚を設け、塔を建てて供養していたが、いつの頃からか室比賣神社として祀るようになり明治七年、式内社の一つとして室姫神社と改称された由緒ある古い神社で、安産の神として広く崇敬さている。 -境内石碑- 淡路廃帝といわれた第47代淳仁天皇の后である室妃のことを記しています。 阿波説においては、「倭(やまと)」は徳島県であり、美馬市には式内社倭大国魂神社がご鎮座しており、後に都を奈良県に遷したたため、当地に大和坐大国魂神社が存在すると考えられます。 これと同様に、この二社が阿南市にあるのも、当時国土を広げていく過程で遷都を繰り返していたと考えられ、往古阿波海部から海際を北上し、国土面積の広い現阿南市へと都を移した痕跡であると考えております。 つまりこれら論社の二社は、本家本元となる海部から移されたと考えられるのです。 阿波説において、伊耶那岐神の禊の地、天照大御神生誕の地とされる阿南市橘湾。 確かに橘には小戸に比定できる後戸(うしろど)が存在します。 阿波説では、当地が記紀神話の元祖であるとする説もあります。 しかしあくまで(私説においては)出発の地は海人の根拠地である旧海部町鞆浦にあった和奈佐。 そう考えるのは宮崎県の同比定地の地形的位置にあります。 徳島県に置き換えるとやはり 阿南市辺りですと、大分県(豐国)辺りとなってしまいます。 場所はあくまで日向国(熊襲国)でないと一致しません。 そこで宍喰町史を見て見ますと、 小字名に「たちばな」の地名が確認できます。 同地は現在の ここは現那佐湾横にある旧宍喰町大那佐にある小さい港、つまり「小戸」になっている場所です。 また、海人と密接な関係にある風。海部町史に東南風のことを”いなさ”といい、 しかも”いなさしら”ともありますね。 韓国(からくに)にあった新羅は往古何と呼ばれていたでしょうか また地名である脚咋(海陽町)・鮎喰(徳島市)は類似する地形にもよるのではないかと考えられます。つまり移っていった痕跡。 ●徳島市周辺地図 ●海陽町周辺地図 吉野川が海部川で、不動町の辺りに野江波切不動尊があり、鮎喰川の辺りに母川が、母川のセリ割岩(割岩:さけいわ)の場所、そして寺山古墳群のある場所は例の女神が鎮座するのではないでしょうか 最後に、宮殿の話に戻りまして、もう一度出雲大社の場所をご覧下さい。 稲佐の浜のすぐそばにある出雲大社。 武御雷や経津主神が「逆さ」に突き立てた剣の先にあぐらをかいて大国主神に国譲りをせまった場所。 島根半島を「逆さ」にすると、 阿波版に置き換えますと、出雲大社の位置は大体この辺り そして、邇邇芸命が最終的に天降りされたとある場所は、 『古事記』竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣 『日本書紀』(本文)日向の襲(そ)の高千穂の峯 「第一の一書」筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯 櫛(くし)が降ったような地形 ということは、そこの地名は海陽町鞆浦の南にあった旧大宮山 当地は和奈佐意富曽神社の旧ご鎮座地であった場所です。 今は移設されてコレやで。(´・ω・`)… 伊津裳(阿波海岸域)の和奈佐(海陽町那佐)にあった大国主命の幽宮でもあり、邇邇芸命の皇居でもあった大きい宮殿(大宮)は、式内社 和奈佐意富曽神社のことであり、これが元祖 出雲大社なのである。 …と考えます。(´・ω・`)ノ まぁ阿波説もいろいろありますし、諸説の内の1説程度にお考え下さいネ笑

  • 15Jun
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      淡路国から考察

       淡路国(あわじのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。南海道に属する。 ●「淡路」の名称 律令制以前は淡道国造の領域であり、「淡道」の表記であった。律令制において令制国のひとつとなり「淡路」の表記となった。 ●沿革 7世紀に成立した。津名郡と三原郡で構成されていた。『古事記』『日本書紀』の『国産み神話』では、日本列島で最初に生まれた島とされる。島内には伊弉諾神宮が祭られている。律令制の下で、田畑の面積が少なくとも一国として成立した。しかし『延喜式』や平城京などから発見された木簡によると租庸調に加え、贄(にえ)とよばれた海産物(主に魚)を直接に朝廷の内膳司(天皇家、朝廷の食膳を管理した役所)に納めていたことが分かっている。このことにより、朝廷にとって淡路国が特殊な位置にあったとする説がある(御食国を参照)。(wikipedia 淡路国より抜粋) 淡道国造(あわじのくにのみやつこ・あわじこくぞう)は、後の令制国の淡路国、現在の兵庫県の淡路島を支配した国造。 『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、仁徳天皇の御世に、神皇産霊尊の9世孫の矢口足尼を国造に定められたとされる。ただし、矢口足尼は伝承的なものであり、実際には『延喜式』神祇践祚大嘗祭の由加物条引導者として出てくる凡直氏が国造と考えられるが、歴史上の活躍はみられない。 淡路島は神代の国産みの神話で最初に生まれた島とされ、地名の由来は、『日本書紀』では伊弉諾命が島の誕生を不快として胞とし「淡路洲」と名付けたとあり、『釈日本紀』は、思いのほか小島だったため胞として児の数に入れず、深く恥じた故に「吾恥」としたと解している。本居宣長は『古事記伝』では、阿波へ渡る海原にある島だからとしているが国生みの順番も、淡路島の地勢も無視している。また、淡路は古くからヤマト王権との結びつきが強く、伝承では食物を献ずる御食国であったとされる。(wikipedia 淡路国造より) …今回は、阿波国と海を挟んで隣接する「淡路国」から考察して参りたいと思います。 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。 それでは、例の如く阿波説始まります(´・ω・`)ノ 上で少し触れましたが、「淡路国」は、『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名が見え、この頃に成立したと推定されています。  その後は、天平宝字8年(764年)10月、淳仁天皇を廃して「淡路国の公」として淡路に配流された記録があります。 古代に遡りますと、 銅鐸・銅剣・銅戈が高率に出土し、中でも銅鐸の出土量が多く、全てが初期の小型銅鐸です。 中でも松帆銅鐸(まつほどうたく)の科学分析を実施した結果、朝鮮半島産の鉛を含むなど弥生時代中期前半(紀元前4~前3世紀)の最古級の銅鐸と同じ特徴を持つことが分かっています。 ●松帆銅鐸 また、御食国として塩を献じていたとされ、淡路島各所で製塩の遺跡が多数見つかっています。 野島浦(日本書紀に登場する「野嶋の海人(あま)」の活動拠点)に位置する淡路市野島平林の貴船神社遺跡は、古墳時代から奈良時代の製塩遺跡。 ●製塩土器 淡路島ではこれまでに160基程の古墳が確認されておりますが、大型古墳や前方後円墳はなく、その殆どが後期の古墳です。 その中に、海人の痕跡を示す古墳として、鳴門海峡を望む南あわじ市阿那賀伊毘(あながいび)の無人島・沖の島に沖の島古墳群があります。 6世紀から7世紀にかけて造られた海人族の古墳17基。 海人族らしく副葬品は鉄製釣針、土錘(どすい)、蛸壺形土器、軽石製の浮子(うき)など。須恵器も出土しています。 また、舟木遺跡(2世紀中頃)の鉄器生産工房跡から、鉄器57点などが発見され、近畿最大の鉄器生産工房(工房12棟と鉄器127点が出土)である五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき:1世紀中頃の高地集落)を上回る国内最大規模の鉄器工房跡の可能性も示唆されています。 四国と本土を繋ぐ中間点に位置する淡路島は、古くから銅鐸文化圏であり、また鉄を早くに取り入れた海人の一大拠点であったと想像できます。 また『古事記』による、国生みの神話は有名であり、伊耶那岐神、伊耶那美神による壮大な天地創造の神話の中で最初に誕生する島がこの淡路島です。 『古事記』3代安寧天皇(師木津日子玉手見命)記に、 「一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。」 「一の子、和知都美命は、淡道の御井宮に坐しき。故、この王、二の女ありき。兄の名は蝿伊呂泥。亦の名は意富夜麻登久邇阿札比売。弟の名は蝿伊呂杼なり。」 …と「淡道」の名で見え、時代を経た16代仁徳天皇時には、淡路嶋に渡って詠んだ歌の記録も見えます。 また、淡路島で天皇が狩りを楽しむ話は、17代履中天皇やその弟の19代允恭天皇治世時にも見え、18代反正天皇に至っては淡路で生まれたともあります。 概ね15代応神~19代允恭時に多くの記述が見えますが、国名となる「淡路国」とは見えず、「淡路」や「淡路嶋」の名で見えます。 『古事記』国生みの段では、 「生子、淡道之穗之狹別嶋。訓別、云和氣。下效此。次生伊豫之二名嶋、」 「生める子は、淡道之穂之狭別島。次に伊予之二名島を生みき。」 …とあり、一番最初に国生みが成功した島として、淡道之穗之狹別嶋(=淡路島)の名で登場し、続いて伊豫之二名嶋(四国島)が生まれたと記します。 この創生話の最後に、 「其伊邪那岐大神者、坐淡海之多賀也。」 「其の伊邪那岐大神は、淡海の多賀に坐すなり。」 …とあり、これが後の淡路国一宮 伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)(兵庫県淡路市多賀740)です。 当時は、「淡路」は「淡海」とも書いていたということなんですかね(´・ω・`) これが滋賀県にある、”近江”の”多賀”大社と混同する所以となっているようです。 多賀大社は『延喜式神名帳』によれば、当時「近江国犬上郡 多何神社 二座」と記載され小社に列し、この「二座」は、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではないとwikipediaにはありますね。 ご鎮座する近くには、琵琶湖があり、これが淡路島をくり抜き逆さにした形状と至極ソックリであるため、その類似地形にあやかり、恐らくですが、社のあった淡路から近江へと地名と共に勧請されていったものと考えられます。 15代応神天皇紀に見える、子の仁徳とはきょうだいの阿具知能三腹郞女(=淡路御原皇女)の名が、現存する南あわじ市(旧三原郡)の地名としてその名残りを有しており、和名類聚抄によれば、国府は三原郡にあったとあります。 また『先代旧事本紀:国造本紀』によると、淡道国造は、16代仁徳朝の御世に、神皇産霊尊の九世孫の矢口足尼を国造に定められたとあります。 ●淡路国三原郡 『日本書紀』では、「淡路」が具体的な内容として登場するのがこの仁徳治世時からであり、従って国造として当代に矢口足尼を定めたということと考えます。 ちなみに、国造本紀によれば、主だった四国国造配置時期を列記しますと、 波多国は10代崇神朝の御世。 長国・伊余国・都佐国は13代成務朝の御世。 粟国・讃岐国は15代応神朝の御世。 にそれぞれ国造を定められたとあり、国造を定めた順番からすれば、淡道国は四国より遅かったことになります。 (ちなみに、怒麻国は神功皇后期、久味国・小市国・風速国は応神朝) さて、ここからが考察となる訳ですが、 wikipedia淡路国造に書かれてある地名由来と考えられている「吾恥」についは論外で、我が国始まりの島とされる国名由来にそのような理由付けは有り得ません。 一方、本居宣長の「阿波へ渡る海原にある島」だからとしている旨も、国生みの順番からすればおかしいのではとしています。 ではなぜ、この島を「淡路」と呼名したのでしょうか 少しずつその真相に迫ってみますと、 「阿波海部と新羅国から考察 ①」でも少し書いた神功皇后の忠臣武内宿禰。 『古事記』では、8代孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたとし、また『日本書紀』では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとします。 屋主忍男武雄心命は、恐らく孝元天皇皇子、少名日子建猪心命が該当すると思われます。 この山下影日売(=影媛)ですが、「道は阿波より始まる その一」より、「堂浦の蔭浦の女王、宇津比古の妹山下影比賣との間に出来た建内宿禰です。」…とあり、御名に見える「山下」は、和名類聚抄に見える板野郡山下郷(現鳴門市堂浦)のこととします。 ●板野郡山下郷 地図にすると また大毛島にも「山下」の地名が見え、 同郷域は、恐らく淡路島と海を跨いで隣接する、島田島、大毛島周辺であったと推測ができます。 当地は仁徳記にある、淡路島から本国に帰る海部の黒日売を見て歌った歌に、 「淤志弖流夜 那爾波能佐岐用 伊傳多知弖 和賀久邇美禮婆 阿波志摩 淤能碁呂志摩 阿遲摩佐能 志麻母美由 佐氣都志摩美由」 「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 オノゴロ島 アジマサの島も見ゆ さけつ島見ゆ」…の裂けつ島(裂けている島)のこと。 ちなみに黒日売が途中で船から降ろされたとある「大浦」は 嫉妬深さで有名な、仁徳天皇の大后である石之日売命(=磐之媛命)は、葛城襲津彦の娘であり、葛城長江曾都毘古(=葛城襲津彦)は武内宿禰の子です。 この「葛城」も阿波説ならすぐわかりますが、決して奈良ではありませんヨ。 この山下影日売には、wikipediaにもあるように「兄」に宇豆比古(=珍彦:うずひこ)がおり、また『日本書紀』によれば「父」にも、菟道彥(うじひこ)がいます。  椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津日子(さおねつひこ、『古事記』)、倭宿禰(やまとすくね)、または珍彦(うずひこ)は、記紀に登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖。 ●概要 神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『日本書紀』では曲浦(わだのうら)で魚釣するところを椎の棹を授けて御船に引き入れて名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津日子の名を賜ったという。 その後、神武天皇に献策し、兄磯城を挟み撃ちにより破る。 速吸門については諸説ある。『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。あるいは『古事記』が吉備の高島宮から浪速に行く間に速吸門を通ったとある点から、これを明石海峡とする考え方もある。 また、椎根津彦命を祭神とする神社には、兵庫県神戸市東灘区本山町の保久良神社がある。保久良神社由緒書によると「社名の起因も 1、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る 2、三韓役の戦利武器を収蔵するより」とあり、神武東征時速吸之門(明石海峡)に現れて軍勢を先導したとある。 椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのってこの浜に漂着したという伝承があり、それが青木(おうぎ)の地名の由来となった。 吉井良隆は保久良神社について「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷(兵庫県西宮市西宮神社)の奥夷社の元宮」と推測している。 丹後半島の籠神社(このじんじゃ)には「別名・珍彦・椎根津彦・神知津彦 籠宮主祭神天孫彦火明命第四代 海部宮司家四代目の祖 神武東征の途次、明石海峡(速吸門)に亀に乗って現れ、神武天皇を先導して浪速、河内、大和へと進み、幾多の献策に依り大和建国の第一の功労者として、神武天皇から倭宿禰(やまとすくね)の称号を賜る。外に大倭国造、倭直とも云う。」とあり、境内には亀の背に乗った倭宿禰の像がある。 海部氏系図二巻のうち『勘注系図』の註文には「彦火明命―建位起命―宇豆彦命(うずひこ)」とも「彦火明命―彦火火出見命―建位起命―倭宿祢」ともある。(wikipedia 椎根津彦より) 纏めますと、 宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売 菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛 その配偶者が比古布都押之信命=屋主忍男武雄心命=少名日子建猪心命、つまり海部氏系図でいうところの、建位起命(たけくらおき:たけいたて:たけいたち)の子が武内宿禰。 従って、宇豆比古=菟道彥=武内宿禰 まぁ、先代の彦火明命 - 彦火火出見命のラインから見ても、例の如く延々と引き延ばしておる訳でしょう。 亀に乗ってる亀仙人な宇豆比古と、高良玉垂神な武内宿禰、海路の道案内が得意なお二人の理由もこれでわかりますね\(^o^)/ またこの珍彦は、神武天皇時代の人物であり、妹の山下影日売が8代孝元天皇皇子の比古布都押之信命と結ばれ(つまり9代開化天皇の時代頃)、生まれた武内宿禰が12代景行天皇~16代仁徳天皇まで使えたとするのには相当に無理がありますね笑 (亀の長寿性にあやかったのかねぇ… さて、通説によれば、宇豆比古が案内し渡ったとされる速吸門(はやすいのと)を豊予海峡のこととしますが、私説においては、例の如く皇祖の出自隠蔽を施してあると考えており、神武天皇は四国を全く立ち寄っていないことにしていますから、他所地に無理矢理比定し記しています。 逆に隠してあると思えば、これはどう考えても鳴門(なると)のことですよね。 速吸門(はやすいのと)とは、「速吸」=「渦」の門(のと⇒なと⇒なると)という訳です。 水先案内人である珍彦(うずひこ)の御名からも、これが鳴門の渦潮であることは、現代の一般人ですら場所を問われれば誰でもわかりまっせ。 まぁ南九州東遷説や畿内奈良説を妄信されている頭のお固い記紀研究家さんにはわからんでしょう。 この珍彦ですが、『古事記』には木国造の祖、『日本書紀』では神武天皇2年に、倭国造に任じられたとあります。 また『国造本紀』によれば、神武朝の御世に、椎根津彦命を大倭国造とした。すなわち、大和直の祖であるとも書かれていますね。 従って、珍彦は神武朝に倭国造&大倭国造になっておりますが、これまた通説では「やまと」と「おおやまと」を一括りに考えて纏めて同所として現在の奈良県大和(やまと)の直の祖として考えています。 大和国(やまとのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。現在の奈良県。大国。 ●国名について 当国は、律令制定の際に表記を「大倭国(やまとのくに)」として成立したとされる。ただし藤原京出土の木簡に「□妻倭国所布評大□里」(所布評とは添評を指す)とあるように、「倭国」と記載された様子も見える。 その後、奈良時代の天平9年12月27日(ユリウス暦:738年1月21日)に表記は「大養徳」に改められた。天平19年3月16日(747年4月29日)には元の「大倭」に改称。その後、天平宝字元年(757年)頃から「大和」に定められたとされる。平安時代以降は「大和」で一般化した。 国名に使用される「ヤマト」とは、元々は「倭(やまと)、大倭(おおやまと/やまと)」等と表記して奈良盆地東縁の一地域を指す地名であった(狭義のヤマト)。その後、上記のように「大倭・大養徳・大和(やまと)」として現在の奈良県部分を領域とする令制国を指すようになり、さらには「日本(やまと)」として日本全体を指す名称にも使用された。(wikipedia 大和国より抜粋) これ等の下りは一度「ヤマト 考察 ④」にて記しておりますが、奈良県の大和は、恐らく大宝律令制定が701年に大倭国(やまと)として成立したと「される」とし、(確証の無い記述) 738年、その大倭から「大養徳(おおやまと)」に変更 747年「大倭(おおやまと)」へ戻す 757年「大和(おおやまと)」に改める 以降、大和(おおやまと)も後世に大和(やまと)と改め、これが後に我が国全体を指す日本(やまと)へと変わっていきます。 つまり、738年以前となる、『古事記』(712年成立)、『日本書紀』(720年成立)や、記紀制作を着手した7世紀後半にはまだ、「大倭」は実際は奈良県にはなかった可能性が考えられるのです。 もう一ついえば、「記紀」完成以降の757年に大和国の名が定められていますから、当然のことながら「記紀」には「大和」は存在しません。 ではこれら「記紀」や『国造本紀』等に記される古名の「大倭」は一体どこにあったのでしょうか ヒントは『巻第十 国造本紀』序文にあります。 『天孫・天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊の孫の磐余彦尊が、日向から出発され倭国(やまとのくに)に向かわれて、東征されたとき、大倭国で漁夫(あま)を見つけられた。側近の人たちに尋ねて仰せになった。 「海のなかに浮かんでいる者は何者だろうか」 そこで、粟の忌部首の祖の天日鷲命を遣わして、これを調べさせた。天日鷲命が戻ってきて報告した。 「これは、椎根津彦という者です」 椎根津彦を呼んで連れてきて、天孫はお尋ねになった。 「お前は誰か」 椎根津彦は答えて申しあげた。 「私は、皇祖・彦火々出見尊の孫で、椎根津彦です」 天孫は詔して仰せられた。 「私に従って、水先案内をするつもりはないか」 答えて申しあげた。 「私はよく海陸の道を知っていますので、道案内としてお仕えいたします」 天孫は、詔して椎根津彦を案内とし、ついに天下を平定された。 はじめて橿原に都を造り、天皇に即位された。 詔して、東征に功績のあった者を褒めて、国造に定められた。また、逆らう者は誅し、県主を定められた。 これが、国造・県主の由来である。』 …磐余彦尊が日向から倭国に向かわれ、東征された時に、大倭国で漁夫(あま)を見つけたとあります。 つまり、日向-倭国-大倭国は、東征時に通過する国名であり、しかも倭国と大倭国は別々の国であることがわかります。(珍彦は、倭国造=大倭国造ではなく、倭国造&大倭国造ということ) しかも大倭が奈良県の大和国であれば、既に神武は目的地に到着していますので、以降に水先案内する必要もないでしょう。 また、大倭国には漁夫(あま=椎根津彦)が居たとあり、そこの海の中に浮かんでいましたが、奈良県は皆さんが知っての通り、海と面していません。 更に言えば、神武は四国を立ち寄っていないはずなのに、粟の忌部首の祖の天日鷲命(後の伊勢国造)を遣わしています。…と突っ込みどころが満載ですな。 従って阿波説を地図にすると、 珍彦が倭国(粟国)の速吸門(鳴門)を渡って淡路島、つまり「大倭国」を通過し、本土に渡って東征していったということになるはずです。 ここでの倭国は当然のことながら、式内社 倭大国魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)がご鎮座する、徳島県(粟国)のこと。主祭神:大国魂命(倭大国魂神)。 そして(当時の)大倭は、淡路国二宮 式内社 大和大国魂神社(祭神:大和大国魂神)がご鎮座する淡路島のこと。 国璽がある意味は大きいですよ そして最終的には、当時の都となる奈良県 式内社 大和坐大国魂神社(おおやまとにますおおくにたまじんじゃ⇒現在の大和神社:おおやまとじんじゃ)に移転しました。 御祭神は、日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)。 「坐:います」が社名にあることの意味、今ここに座す、つまりあるところから移され、現在ここにイマスという意味。 ●ヤマトの国魂の移動の図 要するに、これらに書かれてある大倭とは淡路のことで、淡路国が制定されるまで(675年頃)は、大倭国と呼ばれていたのではないでしょうか もちろん淡路国の大国魂神社にある「大和」の文字は、当地が元大倭であった故に、奈良県が大和国に改名以降に再び戴いた名とも考えられます。 実際は当時の「大倭」の認識がまだ淡路島にあり、奈良県(後の大和国)に至っては、738年から757年までに立て続けに国名変更を余儀なくされたと考えれば辻褄もあいます。 つまり、珍彦が国造に任ぜられたのは、徳島県(倭国)であり、その後勢力を伸ばし、四国島を脱して本土進出の足掛かりとして淡路島を拠点としたことから、当地を”当初”の大倭国と名付けた。 そして、更に東征を重ね、710年に本拠となる皇居を奈良県の平城京に遷都したため、当地の国名を、大倭…国名変更を重ね、最終的には757年頃から”大和国”に改め直したと推測します。 従って、「淡路国」は7世紀(675年頃)に「大倭国」から変更されて付けられた名と考えられ、往古、倭(い=やまと)の国と呼ばれていた徳島県が後に粟(あわ)国と呼ばれるようになって以降の成立と考えます。 国生み物語としては淡路⇒阿波の順ですが、「国造本紀」による国造配置の順からすれば逆の、粟→淡路となっています。(これについては、本居宣長説に賛同します(ノ∀`) 恐らく、『国造本紀』序文は真意として、元つ国である徳島県(倭)から、淡路島(大倭)を経由して、当時の都である奈良県(大和)に至るまでの東遷の経緯を順に記したのではと考えられます。 その徳島県も713年に発令された諸国郡郷名著好字令により、粟国と長国を併合し、阿波国へと生まれ変わるのです。

  • 14Jun
    • 6月13日は、コラク氏生誕祭の画像

      6月13日は、コラク氏生誕祭

       久々に本日の水槽の様子をUP こちらはチョウ水槽。 そう、今日はコラク氏9度目の誕生日(入海日)。 ラクダハコフグは一体どれくらい生きるんだろう(´・ω・`) 今日もウルトラ元気なコラク氏。 ええ感じに角が凛々しいです。 誕生日なのでクリルを多めにあげましたが、ほとんどはタンクメイトたちのお腹を満たす結果となったことでしょう。 今回は久々に他の水槽もUP こちらはヤッコ水槽 …といいつつも、やはりチョウチョウウオが多いのはご愛敬(ノ∀`) 一番デカイ、フレンチエンゼルくんは来月で4歳を迎えます。 実はこの水槽の長老は、5歳と5か月のアケボノチョウ。 目標である大型ヤッコの乱舞はいつになることやら(・ω・) 最後にサンゴ水槽 やや安定してきたかな。 あれこれいろいろ手を出しておりますが 前方中央に見えるのがムック、自然発生したウミアザミです。 コーラルカラーズを適量毎日添加すると、ちゃんと色のアクセントが出ていいですゼ ただし、この水槽には14匹のお魚さんが住んでいますので、栄養塩が結構出ているのか画像左上のアイスブルーのスギが1か月で黒ずんできました笑 海道達磨2機だけのナチュラルシステムに、BPシステム(リーフケアプログラム&ゼオビット&べっぴん珊瑚)を取り入れたミラクルチャンポンシステムですが、パステル化するでもなく、ディープな色合いでありながらも、そこはかとなくどす黒いという初心者丸出しの出来栄えですな。 そろそろ散財の季節になってきましたので、(えっ)何をお迎えするかはまだ何も決まっていませんが、お迎えしましたらご報告したいと思います(´・ω・`)ノ