コラクのブログ
  • 08Aug
    • 購入した添加剤を早速試すの巻

       サンゴ水槽の改革にと遅ればせながらゼオビットシステムなるものを少し勉強しましたが、どうやら現状の我が水槽のシステムにはあまり向いていないようです 現在、近海で汲んできた天然海水を、添加剤はレッドシーのRCP(リーフケアプログラム)を使用し、ナチュラルなベルリンシステムを採用していますが、水槽内には魚やサンゴ以外の生体に、モエビ類やヤドカリ類、ウニ類やナマコ、そして二枚貝以外の貝類等のタンクメイトも多く、ゼオのシステムの肝ともいえる非常に高い効果の得られそうな添加剤のZEOspur2(ゼオシュプール2:褐虫藻の総量を減らす=そのサンゴ本来の色彩を出す)の使用が非常に危険と判断し断念しました。 それでもベルリンシステムで使用できそうな添加剤で効果がありそうなものはないかと思念した結果、Coral Snow(コーラルスノー) 、ZEO LIFE(ゼオライフ)、ZEOzym(ゼオザイム)の三品を購入することにしました コーラルスノーは、炭酸カルシウム、炭酸マグネシウムを含み、余分な酸を中和し、スライムやシアノバクテリアの増殖を防ぐ効果があるとのこと。 RCPとの併用となると、リーフファンデーション各種の過剰添加にならないよに調整すれば利用できそうです。 また、ゼオライフは、水槽内で起こる生理活性を活性化させ、水の黄ばみ、溜まったデトリタスの除去に効果があるとのことで、毎水替え後の使用が効果的とのこと。 サンゴ水槽のみ殺菌灯を装着していない水槽ですので、こちらの添加剤も効果が期待できます。 そして最後のゼオザイムは、バクテリアの生理活性を高める酵素などを利用した生物学的知見をもとに開発されたもので、バクテリアによるシアノバクテリアの防除効果を高くし、スキマーの効果を高め、有害な物質の除去をするとのこと。 後述しますが、使用方法が上記2品みたいにチャチャっと簡単に添加できるものと比べ、これが非常に面倒くさい…  説明によると、 「通常の使用では、水量1tあたりティースプーン1杯を飼育水で溶かして週一回添加します。過剰な有機物を除去する場合は、一日ティースプーン2杯までを上限に、500mlの飼育水でとかし、6〜8時間経過してから直接水槽に添加します。添加時はプロテインスキマーの過剰反応にご注意ください。」 分量くっそ大雑把過ぎ(ノ∀`)www 私の水槽は120×45×45の規格水槽な上、プロテインスキマーも海道達磨2機付けで、サンプなどありませんから、底砂やライブロックを除くと総水量は恐らく170~180ℓ程度かと思われます。 つまり、説明にあるティースプーン1杯分(これも量がイマイチわからん)で、1㌧分ということですから、単純計算で、1/4で250ℓ分ということになります。 龍角散程度の白い怪しい粉を500mlの飼育水で溶かします。 事前にコーラを飲んで準備していた500mlのペットボトルにイン。 より効果を高めるために、栄養塩を下げるためのバクテリアであるZEObak(ゼオバク)を数滴入れるとよいそうですが、持ち合わせていないので、先日購入したばかりのべっぴん土壌バクテリアF1なる海水用好気バクテリア+嫌気バクテリア複合物(効果が得られそうだったので)を1ml程入れ、フタをして振りまくった後、説明にある通り6〜8時間寝かせます。(この待ち時間が正直めんどくせーやね) 白い粉が底に沈殿する度に振りまくること6時間…立派な白濁液に(´・ω・`) 更に効果を最大限に高めるために、「添加後はプロテインスキマーを2時間ほど止めるとよい」とありますが、収容しているお魚も多いため、プロテインスキマーのスイッチを切る前に、エアレーションを入れ酸欠を防ぎます。 寝かせておいた白濁液を直接ドバッと水槽に入れ、2時間後に再びプロテインスキマーのスイッチをONしてエアレーションを撤去。 すると、、、 アワアワアワ… スキマーからモリモリと何らかをこしとったであろう泡が上がってきましたぜ これがサンゴ水槽にはいいことであると信じたい(´・ω・`) …ということで、これらの添加を適宜ローテーションを守って続けることにより、サンゴ水槽の水質の状態向上を狙っていきますよ(´・ω・`)ノ

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  • 31Jul
    • コラク的マリンアクア向上化計画

       アクアスキルが絶賛停滞中のワシ(´・ω・`) ただいまサンゴ・ヤッコ・チョウの三水槽共テコ入れ計画中なのですが、いずれの水槽も中途半端感が否めません。 実はお魚のブログを更新していなかった間にも色々御座いまして、一番大きかったのは5月にカクレクマノミの水槽のシリコン部分に謎の突起物が突き刺さり、大量の水漏れにより止む無く水槽を撤去しました 続けて6月にヤッコ水槽に設置してあった外部式ろ過機の1機からも大量の水漏れが発生し、エーハイムの新型のモノに交換したのもあって、ろ過が安定せず、魚たちが餌を食べなかった時期を大量水替えにより乗り越えてきました。 他にもまだまだ書ききれてないことがたくさんありますが…。 つまり、仕事が忙しい時期にも関わらず、少ない時間を余分な労力で使い果たし、更にはなけなしの小遣いで”攻め”の投資ができておらず、”守り”に費やしてきたのです(力説) しかーし、 繁忙期も取り合えずひと段落。 ということは… 攻めに転じることがでkr …ということで、かねてより頭の中で妄想計画しておりました、自分的水槽レベルのグレードアップを図ることを決意しました。 一流のマリンアクアリスト様には遙か遠く及びませんが、ありとあらゆるクオリティをもう一ランクぐらいは引き上げたい…<ヘッポコアクアリストから脱出するのだ  …ということで、 特に、飼育理論の再考と飼育機材の見直しからテコ入れすることにしました。 といっても結局生体も買うんだけどね さて、飼育理論の再考:第一弾、『サンゴ水槽のライブロックを交換する』 実はマリンアクアを初めて8年、未だに最初期から使っているライブロックがある。 その後もたくさんライブロックを追加し、現在はプロテインスキマーの海道達磨2機によるベルリンシステムを構築するまでには至っておりますが、(現在も)カルシウムリアクターを設置していないこともあり、石灰藻は水槽壁面にすらできず、ライブロックは見栄えの悪いC級モノの姿になっております。 まずはこれを徐々に交換しつつ、添加剤で水質をよくしながら、カルシウム値を正常値で維持することで、サンゴに良い環境を作るという構想です。 すでにこの計画は実行中で、ひと月に数個、1~3キロ程交換しております。 予算の都合もありますが、バクテリアが定着しているライブロックを一気に交換するのは危険ですからね。ここは焦らず徐々にです  そして、飼育理論の再考:第二弾、『サーキュレーターの変更』 今まではコラリアシリーズを愛用してきましたが、サンゴ水槽ぐらいは水流の強弱を自然な流れで再現したいと思い、TUNZEのNanoストリーム6055というのを購入。 さすがにボーテックは高くて買えまテン… それでも1機27,000円はワシには高級品… 早速設置ダス オートアジャストモードが搭載されていますので、簡単によい水流が作れます もちろんお好みの設定もカスタムできます。 おお、こりゃええわいw もう一ランク大きいサイズのモノでもよかったかも。 まぁこれで取り合えず2機のコラリアを撤去しましたので、消費電力的にも、水槽内のスッキリ感も、サーキュレーター下の影部分も減り、個人的にはよい買い物じゃった 向上化計画はまだ始まったばかりなので、どこまで水槽環境をよくできるか、モチベとの闘いです。 サンゴの状態が良くなればアクアテンションアゲアゲになるんやろけどなぁ。 …ということで、モチベを上げるべく今まで買ったことのないような高級サンゴをポチっとな…(やっぱりか…) それが オーストラリア産 ストロベリーショートケーキ …オイコラいきなりそんなものを、、、 まぁね、モチベのためにですよ。(欲しかった) これ買っとけば絶対落とせないって気持ちが上がるよね(指が勝手にクリkk) …まぁ色落ちする可能性は限りなく高いので、入海ホヤホヤの記念写真ということにしておきましょう

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  • 30Jul
    • 片目の魚

       徳島県海部郡海陽町の昔話に「片目の魚」の話がある。 海部町史に記録されているのでここで抜粋いたしますと、 『阿津姫さまは、海部川をさかのぼって相川村へ隠れたがそこにも居られなくなり、向う岸へ渡って山の下の小さな池のそばまで逃げてこられた。追手はどんどん迫ってくる。姫は覚悟を決めて大切にしていた機(はた)を抱いたまま、その池へ身を投げられた。土地の人々は、この美しい姫の最期を哀れんで、相川村に阿津神社を、この池のほとりに池姫神社を建てて姫の霊を祀り、この里を姫村と呼ぶようになったといわれている。 この池にすむ魚は、姫の機のオサが当って片目になっているといわれ、実際に右の目がふくれて白くなったり血走ったりしているフナやハエやウナギが幾匹もとれたことがあったそうである。』云々…  …といったお話ですが、阿津姫さまをお祀りする海陽町相川にある式内論社 室比賣神社(阿津神社)ですが、以前にご紹介しておりますので、詳しくはこちらでご確認ください。→『深曽木の儀から考察』 さて、この阿津姫さまのお話ですが、要チェックポイントは、 ①追手に追われて池に身を投げた ②キーワードが片目の魚  まず、追われて逃げてきた先が相川村であり、最後に身を投げたのが姫村とのこと。 町史にある古地図で確認すると、 移動経路を地図で示すと、 杉尾神社・池姫神社となっておりました。 阿波志に「立池祠 在大井村 即龍祠称姫明神 林木うつ然其中在池 長四十歩 土人雫」とある池姫社は瀬織津姫命を祀り雨乞いと片目魚の伝説で名高く、姫の地名もこの社名に因んだものと思われる。聖神社・杉尾神社・御崎神社は、それぞれ大井・姫・能山の氏宮であるがその由緒も創建年代も不詳である。 町史大井村の項に、 「小名姫 姫池大明神 此社の下に池あり。此池往古何もの姫君か夫をしたひ給へとも行衛知れねばかなしと身を投死しより池名も姫池と唱え社号同じく姫の霊祭るよし 池長三拾間 横巾四間斗 此池に住るうろくつことごとく一眼にてあしき方くされる如く白し。」とある。 また、隣接する能山地区には能山薬師があり、薬師如来三姉妹のうち、妹君が日和佐の薬師寺に、中の君が芝の薬師庵に祀られ、能山にはいちばんの姉君が鎮座ましましたといわれています。と記されています。 更に、「この池にすむ魚は、姫の機のオサが当って片目になっている」といういわれがあるようですが、オサとは(筬)、下記写真のようなもので 織物を織るときに経糸を通しておく道具です。 ●筬(オサ)  実際は機を抱いたまま池に飛び込んだにしても、オサが当って云々はよくある昔話の府会でしょうが、ここでのキーワードは「ハタのオサ」ということなのでしょう。 そして、もう一つのキーワードでもある「片目の魚」なのですが、海部川を更に遡っていくと、轟の滝という当地の有名観光スポットがあります。 徳島県海部郡海陽町平井字王余魚谷(かれいだに) 轟本滝(別名:王餘魚滝(かれいだき)の落差は58mで、徳島県一の高さを誇ります。 この滝自体がご神体とする轟神社がご鎮座します。 石柱には轟神社荒魂鎮座とありますね。 ご祭神は、水象女命(みずはのめのみこと) 相殿に、國狭土命(くにきづちのみこと)、大山祇命(おおやまづみのみこと) ●ご由緒 轟神社は、徳島県海部郡海陽町平井の深山に位置し、本瀧神社と鍋割神社の二社からなる、桃山時代の天正十九年(1591年)から続く神社です。当時、近国において、加持祈祷を行う優れた僧として知られた吉祥院興榮が、この地にこもり、本瀧に祈願し、数々の霊験を得て、当神社を創建しました。 阿波国藩主をはじめ、古くから遠近の人々の崇敬を受け、現在も、家内安全、学業、農林、商工業など所願成就の霊験あらたかな神様として、参詣祈願を求める人々を惹きつけています。 本瀧神社では、瀧で潔斎(みそぎ)をし、心願成就のパワースポットとしても知られており、特に、例大祭(11月第2日曜日)の当日、荒神輿のお滝入りの神幸(本社から神が出御する際に行われる祭事)は有名です。 祭儀は火渡りからの… 神輿を担いで140段の急な石段を駆け下り… 龍王寺の境内を通り滝に向かい岩の間を抜け川を渡り、落下する滝壺に入ります。 当社祭神の水の神である水象女命ですが、『古事記』の神産みの段において、カグツチを生んで陰部を火傷し苦しんでいたイザナミがした尿から、和久産巣日神(ワクムスビ)とともに生まれたとしています。 当神社がご鎮座する地名は王余魚谷で、瀧壺の深い淵の中には大きな鰈(かれい)が住んでいると言い伝えられています。 鰈は目が体の右側の面に2つともある特徴的な形態をしている片面の魚です。 そして、海陽町宍喰字日比原には、井上(いのかみ)神社があり、こちらも勇壮な「暴れみこし」が宍喰川に繰り出します。 祭神は、水象女命(みなかためのみこと)で水神で、氏子は昔から水不足の時、雨乞いの祈祷をします。 もうお分かりかと思いますが、ミヅハノメはミナカタメのことで、これが井上、つまりイの神様でもあり、木花開耶姫命であり、これが『阿府志』にある「大山祇等大宣津姫之娘也」で、イザナミがした尿から生まれた瀬織津姫命ということなのでしょう。(何のこっちゃ…) 水象女命、ミナカタのメ、つまりは建御名方神の女(妻)か。 …といった想像を膨らませておいて、また別の角度から検証してみないといけませんね

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  • 22Jul
    • コラク氏 ナゥ

       お久しぶりです 多忙なのに託つけて、ブログ更新をめっちゃ怠っております( ´∀`)ヘヘヘ アクアの方のブログはほぼ放置しておりましたが、またちょくちょく載せていこうかと思います 歴史の方も時間が取れればボチボチ書こうかと思います。(ネタをうまくまとめたり、上手に文章に落とせまつぇん) というわけで、(何が)6月13日でラクダハコフグのコラク氏が入海8年目を迎えました。 8才(暫定)ということは、つまり小学3年生。 小学2年生以下のお子様方は、コラク氏のことを”パイセン”と呼びましょう ではまた

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  • 12May
    • 大幡主命から考察 ②

       前項の考察である「大幡主命から考察 ①」も今回の考察により、チョット意味合いが変ってきます。 彌彦神社(いやひこじんじゃ、常用漢字体:弥彦神社)は、新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦にある神社。式内社(名神大社)、越後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 正式には「いやひこ」だが、地名などが全て「やひこ」と読む関係で、一般には「やひこ」とも呼ばれる。 ●概要 越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。 『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。 宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わう。 ●祭神 天香山命 (あめのかごやまのみこと) 「天香語山命」とも表記。地名から「伊夜日古大神(伊夜比古大神、伊夜彦大神)」などとも称される。 弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)が神廟にあたるとされる。 なお祭神に関しては、大屋彦命・大彦命とする説もある。 ●概史 創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現 長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、彌彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。(wikipedia 彌彦神社より抜粋) 創建が崇神天皇時代と伝えられている新潟県小千谷市土川2丁目に鎮座する二の宮の魚沼神社も祭神は天香語山命(上弥彦大明神)である。 上記概史にも書かれてあるように、尾張国造家の祖神である天香山命ですが、なぜか越後に祀られています。 この伊夜比古神社と佐渡国一宮の度津神社とは古来より関連があるようで、毎年正月には弥彦のカラスが佐渡の一の宮へ渡ると言いいます。 弥彦山頂にある御神廟(奥の宮)は、天香山命と妃神である熟穂屋姫命の神廟とされ、天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬されています。 この佐渡島は、古事記国産みの段に、「次生津嶋、亦名謂天之狹手依比賣。次生佐度嶋。次生大倭豐秋津嶋…」とあり、最後の8番目である大倭豊秋津島(畿内域)の1つ前(7番目)に佐度島(さどのしま)の名が見えます。 度津神社(わたつじんじゃ)は、新潟県佐渡市羽茂飯岡にある神社。式内社、佐渡国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。 それぞれの神社の位置関係はこちら ◆主祭神 五十猛命 (素戔嗚尊の子) ◆配 神 大屋津姫命・抓津姫命 (素戔嗚尊の子で五十猛命の妹神) これら兄妹3神は何れも木の文化を司り、林業・建築業・造船業の神と言われている。『佐渡一ノ宮度津神社参拝の栞』によれば、五十猛命は木材による家屋・舟・車の築造技術を盛んにした功徳により、またの名を大屋毘古神(おおやひこのかみ)と呼ばれている。また造船のほか航海術に秀で車の普及に当たったことから、海上・陸上の交通安全の守護神として崇敬されていると言う。 上記の祭神および配祀を決定したのは、江戸時代初期の神道家橘三喜と言われている。宮司美濃部楨撰による『度津神社明細調書』では、官牒に祭神は五十猛命の1座となっているのに、『諸国一宮巡詣記』には3座と記されていること、宝永年間の当神社再建の奉加帳にも五十猛命に配祀として大屋津姫命と抓津姫命の記載があり、橘三喜が巡拝した時期が当神社の祭神杜撰の山場であった頃なので、2神を配祀したのは橘三喜ではないか、と考察している。大正11年(1922年)に編纂された『佐渡國誌』では、『諸国一宮巡詣記』の記述によれば、ただ古来より一宮と称して来たと言う以外に当神社を一宮と証するものが無く、祭神も詳しくは分からなかったようであると述べたうえで、そうであるなら祭神を杜撰奉納したのは橘三喜ではないかと考察している。その理由として、当神社の他に橘三喜が神号を奉納した佐渡8社のうち、佐渡国三宮引田部神社の祭神は古来大己貴命とされていたのが、橘三喜が猿田彦命の神号を奉納して後は、祭神が猿田彦命となったことをあげている。 しかし、祭神を五十猛命とすることには異論もある。文化年間に田中従太郎によって著された『佐渡志』には「又海童神ヲ祭ルトモ云ヘリ」との記述があり、吉田東伍は著書『大日本地名辞書』において五十猛命説を「附会を免れず」と非難したうえで「土人は近世、一宮八幡と号し、神宮寺・千光寺之を司れり、隠岐国渡明神あり、此れと一類の神祇ならん」と述べている。 また、社名の「ワタ」は海の古語で、「ワタツ神社」は「海の神の社」という意味となり、元々は航海・漁労を司る海の神を祀る神社であったと推定したうえで、当神社が元は海岸寄りに鎮座していた、と言う説もある。社伝では、五十猛命の父のスサノオが人々に造船・航海の術を授けたことから度津神社と称するのだとしている。 ●歴史 往古の羽茂川洪水により社殿、古文書から別当寺にいたるまでことごとく流失したため、創建の由緒は不詳である。『佐渡國誌』には、寛永18年(1641年)1月21日付けの『飯岡村八幡宮證文之寫』が所収されているが、そこには「殊ひたの内匠立申候両社 仲哀天皇之御宇神祇之書物于今在社に御座候…」との記述がある。このとき本当に『神祇之書物』が存在したのだとすれば、その内容によっては当神社が仲哀天皇の御宇である仲哀天皇元年-同9年頃、またはそれ以前に創建された可能性が出てくるが、縁起などが流失した洪水は寛永18年以前に起こったと伝えられている。 延長5年(927年)に『延喜式神名帳』により式内社、小社へ列格された。『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、『延喜式神名帳』における佐渡国の式内社記載順によって一宮と呼ばれるようになっている、と述べている。また『佐渡志』には「延喜式載スル所ノ九社ノ第一ニシテ…」との記述がある。(wikipedia 度津神社より抜粋) 要するに、須佐之男命か五十猛命かわからんが橘三喜が五十猛命に決めたといったところでしょうか。 彌彦神社の御祭神である天香山命に関連する人物を少し調べてみますと、 天香山命(あめのかぐやまのみこと/あまの-)は、日本の神である。「天香語山命」、「天賀吾山命」等とも書かれるため、「あめ(ま)のかごやまのみこと」とも読む。 『先代旧事本紀』によれば、天照太神の孫神である饒速日尊(天火明命)と、天道日女命との間に生まれた神(天照太神の曾孫神)で、尾張氏等の祖神とされ、物部氏等の祖神である宇摩志摩治命とは母神を異にする兄弟神となっている。『新撰姓氏録』にも見え、後裔氏族として尾張氏(左京神別等)を始め、伊福部氏(左京神別下)・六人部氏(山城神別)・津守氏(摂津神別)等を挙げている。 『先代旧事本紀』の「天神本紀」には、饒速日尊の天孫降臨に従った32柱の1柱に数えられ、「天孫本紀」では、紀伊国の熊野邑(和歌山県新宮市が比定地になっている)に住み、別名を「手栗彦命(たくりひこ)」、または「高倉下命」というとあり、以下『記紀』に載せる「高倉下」の伝承と同じ内容を記す。 また、新潟県の彌彦神社の社伝に、神武天皇の大和国平定後、勅命を受け越国を平定、開拓に従事したと伝える。(wikipedia 天香山命より抜粋) ウマシマジ命は、物部氏、穂積氏、采女氏らの祖とされる人物。『日本書紀』では「可美真手命(うましまでのみこと)」と『古事記』では「宇摩志麻遅命」、『先代旧事本紀』では「味間見命(うましまみのみこと)」と表記する。饒速日命が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生んだ子で、天香山命(尾張氏の祖)が異母兄であるとする伝えがある(『旧事本紀』)。彦湯支命の父。 『古事記』によれば、始め長髄彦に従っていたが、神武天皇の東征に際して長髄彦を殺し天皇に帰服し、以後自らの部族である物部を率いて皇城守護の任に当たったという。また『旧事本紀』によれば、神武天皇即位の後、饒速日命の遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を献上し、それを使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされ、これを後世の鎮魂祭の初めとしている。 物部神社の社伝によれば、美濃国・越国を平定した後に石見国で没し、現在の社殿の裏に埋葬されたという。越国の平定は、異母兄の天香山命の事績として知られる(彌彦神社を参照)。これら物部神社や彌彦神社では、宮中でも行われる鎮魂祭が行われていることでも知られる(石上神宮も同様)。 鈴木眞年の『史略名称訓義』では、ウマシマジは大和国十市郡に居て天皇に天瑞宝を献じ、この正統は同郡穂積里に居て穂積の姓を負いそれより物部氏などが分かれたとし、ウマシマジの正統は穂積氏としている。(wikipedia ウマシマジより抜粋) 注:wikiにある『古事記』に宇摩志麻遅命が長髄彦を殺した旨は書かれていませんので、これは『旧事本紀』の誤りであると思われます。 長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。 ●概要 『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古、登美毘古とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。 饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。 ●神話での内容 登美夜毘売、あるいは三炊屋媛ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命の妻とし、仕えるようになる。 中世の武将の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。 長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命に殺された。(wikipedia 長髄彦より抜粋) 安日彦(あびひこ)は中世日本神話に伝わる伝説の人物の一人。安日王とも。 鎌倉~室町期成立の『曽我物語』に蝦夷の祖を流罪にされた鬼王安日とする伝承が記載されている。長髄彦の兄とされ、彼と共に青森県の弘前に逃れたとも、単独で津軽地方に流されたとも伝わる。ただし古事記や日本書紀に安日彦の名は乗っていない。 ちなみに文献学的には、長髄彦の兄とする記録よりも、「安日長髄彦」という名で同一人物であるとする記録のほうが古く、後者が原形であると推測される。 長髄彦一人が大和で死なずに東北に落ち延びたという伝承は塩釜神社にもあるが、この塩釜神社の伝承も含めて、長髄彦(またはその兄、または兄弟2人)が津軽に逃げてきたという伝承は、一般的には中世以降の創作と考えられている。(wikipedia 安日彦より抜粋) …今回もwikiベタ張りで素材を並べましたが さて、通説では越國の歴史は、古くから周囲の国々と交易・交流はあったものの、ヤマト王権の勢力が十分に及ばない日本海側の地域であり、第8代孝元天皇の第1皇子で四道将軍の大彦命に平定される前の「越」は諸豪族(阿彦など)に支配されていたとされます。 この阿彦を討伐した大彦命は、第10代崇神天皇の命令で、また第11代垂仁天皇の御代で大若子命が再び越國を平定したのが時系列的な流れです。 しかし越後国一宮である彌彦神社に祀られているのは、神武東征時に饒速日命軍についていた長髄彦の妹である登美夜毘売の子、宇摩志麻遅命の異母兄である天香山命で、wikipediaには「神武天皇の大和国平定後、勅命を受け越国を平定」とあり、時系的には阿彦の乱以前の話となります。 この神武東征の折り、熊野に立ち寄った際、毒を吐く神によって天皇をはじめ全員が病に倒れた際、高倉下(天香山命)の夢に、天照大御神が建御雷神に天の下を平定するように命じたが、 建御雷神は、自分が行かなくても国を平定した剣を降ろせばよいといい、 高倉下に霊剣を倉に入れたことを告げます。 夢から覚めた高倉下が霊剣を見つけ天皇に献上したところ、皆の病が治ったとあり、この降ろされた剣が、佐士布都神・甕布都神とも布都御魂ともいい、第10代崇神天皇の代に、物部氏の祖である伊香色雄命の手によって石上神宮に移されたのが天叢雲剣(=草薙剣)なのです。 この崇神の時代に草薙剣の形代が造られ、形代は宮中(天皇の側)に残り、本来の神剣は笠縫宮を経由して、伊勢神宮に移されたといい、これを第12代景行天皇の代に、倭姫命が東征に向かう倭建命にこの剣を託したが、結局草薙剣は神宮に戻ることなく、尾張国造の乎止与命の娘である美夜受比売が尾張国で祀り続けたのが熱田神宮の起源であり、現在も同宮の御神体として祀られているとされます。 越中通史の先駆けともいえる壮大な物語記録で、文化12年(1815年)野崎雅明著の『肯搆泉達録』やその祖父の伝助著の『喚起泉達録』等によれば、第11代垂仁天皇は、「急キ越路ニ發向シテ凶賊阿彦ヲ平グヘシ」と詔し、大若子命に「標釼(みしるし)、標の釼(しるしのつるぎ)」を賜い、阿彦討伐を命じました。 大若子命らが山林において阿彦方に火を放たれ、防ぐ術が無くなった窮地にこの標釼が自ら抜けて「四將ハ命ト共ニ山ニ添ヒ野ノ高キニ至リ暫ク精神ヲ息ムル所ニ、思ハザルニ四方一度ニ火発ツテ山林野草天ヲ焦シテ燃エ上リ、黒煙十方ニ充満、其火ノ急ナル事四將モ防グニ術ナク既ニ命ノ傍近ク燃エ来ル、賊等続テ込カヘシ事ノ体危ク見エケル時、命ノ帯シ玉フ標剣自ラ抽ケテ傍ナル草ヲ薙払フ、是故ニ命ノ側ニ火至ラズ危ヲ出玉ヘリ」とあり、この妖刀の霊威によって絶体絶命の危機を免れた旨を記しいています。 この大若子命の説話は、上にある倭建命伝説の「叢雲と草薙の剣における焼津の地名説話」と類似します。 この阿彦の乱の物語は結構長いのでここでは割愛。 リンクを貼っとくのでお時間のある時にでもご確認ください。 参考サイト阿彦の乱(富山県の古代史) …さて、考察に入りますね(´・ω・`)ノ 話には阿彦の祖先である布勢比古なる人物が居ますが、香川県さぬき市寒川町に式内論社の布勢神社があり、当地では大彦命をお祀りしています。参照孝元天皇から考察 ① 一説によれば伏雷(ふせいかずち)、則ち雷神ともあります。 この越中国にも式内社 布勢神社(富山県氷見市布施1826)が、「布勢の円山」に御鎮座しております。 ◆祭神 大彦命 当地において大彦命は布勢一族の祖先神と伝えられており、説話の中で阿彦は、富山湾の海上に強大な勢力を張っていた布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま)」の子孫である「布勢比古」の孫だと伝えられており、出雲の支援を得て日置神一族と争った布勢一族は、いわば阿彦の祖先で、伝説を信じるならば、越中を平定した大彦命は、後に反乱する阿彦の祖先神であるということになります。 越國平定と内容が類似する「神武東征」をちょこっと天香山命の異母弟である宇摩志麻遅命の視点で纏めてみますと、  父:饒速日命 天皇より先に入植。天皇とは同族だが後に神武に下る。  母:登美夜須毘売/三炊屋媛 長髄彦の妹  子:宇摩志麻遅命(自身)  異母兄:天香山命 神武の命により後に越國平定。  母兄:長髄彦 饒速日命に従うが宇摩志麻遅命に倒される。  勝者:神武天皇 これを表にするとこんな感じ 大彦命によってヤマト化されたとされる越中の統治を託されたのは、「手刀摺彦(たちずりひこ)」であり、彼は姉倉比賣と能登比賣の争いの際、そのいずれにも与せず、鎮定に介入した大巳貴命に協力した「手刀王彦」の裔とされます。 富山市太田南町の「刀尾(たちお)神社」は、この一族を祀っているともいわれています。 刀尾神社(たちおじんじゃ)(富山県富山市太田南町321) 『越中国式内等旧社記』は祭神を「立山第一之御子神」とし、『富山県神社誌』は「天之手力男神」他を祭神としていますが、神社誌によればこの神は剱岳の地主神で「刀尾権現」とも呼ばれているようです。 当地「富山」の地名は、「外山(とやま)」に由来しており、「外山」の表記は、奈良県桜井市では「とび」と訓まれております。 この「刀尾(たちお)」も別な読みは、「とび」とも読むことができますね。 また、隣接する立本山 刀尾寺は、北陸不動と染め抜いた赤い幟が立つ本堂前で在る越中國司が立山の刀尾大権現に立山開山を約して子息を授かったのが佐伯公で在り、立山開山に際して岩窟で輝く不動尊を見て像を刻み本尊として此処を創建したとあります。 越中国4つある一宮の1つ雄山神社(おやまじんじゃ)では、霊峰立山を神体とし、立山の神として伊邪那岐神(立山権現雄山神・本地阿弥陀如来)・天手力雄神(太刀尾天神剱岳神・本地不動明王)の二神を祀る。とあります。(この「とび」は誰なのかな?) …チョット横道逸れましたが、 この神武東征の図をもう一つの越國平定話である大若子命バージョンに比定しますと、 越國平定の事績のある大若子命/大幡主命の父の妻(つまり異母)は、結果的に敵となる将の妹でもあり、その子が異母弟である乙若子命となります。 ヒットマンはここはあくまで推測ですが乙若子命となり、自身の母の兄が征伐された阿彦となります。 が、もう一つの形で少しイメージが拡大します。 これを崇神天皇時代の武埴安彦の反乱に置き換えますと、 四道将軍として越國を平定したのは大彦命であり、反乱を起こした犯人である武埴安彦を射殺したのが和珥氏の遠祖である彦国葺命です。 大彦命の父は孝元天皇、母は欝色謎命であり、ヒットマンは異母弟のはずですから、この場合、孝元天皇の妻から母Aを探りますと伊香色謎命と埴安媛となり、埴安媛は武埴安彦命の母な訳ですから、母が妹になるという場合を無理矢理考えると、母が武埴安彦命の弟に嫁ぐことで成立します。 この場合、孝元天皇が「弟」であればOKですので、長髄彦と饒速日命の関係から〇となります。 一方、伊香色謎命側の子である彦太忍信命/比古布都押之信命(ひこふつおしのまこと)は、「記紀」により伝承のズレがあり、「紀」は武内宿禰の祖父、「記」はこれを父としています。 この比古布都押之信命は、意富那毘(尾張連等の祖)の妹の葛城之高千那毘売との間に味師内宿禰(甘美内宿禰)を儲けたとも記されており、これを直しますと、比古布都押之信命(孝元天皇)は、意富那毘(武埴安彦)の妹の葛城之高千那毘売(伊香色謎命)との間に味師内宿禰(宇摩志麻遅命)を儲けたということになります。(一応ここで天皇側に「布都」がくる部分で意味合い的に重要なポイント) つまりわざわざ次代にズレて系譜を存在させるネタを仕込んでいることになります。 伊香色謎命は、天皇系譜で唯一、第8代孝元天皇(妃)、第9代開化天皇(皇后)と二世代に渡って「妻」となっています。 この場合、先代である孝元天皇とは、いるはずの無い「子」を生み、次代である開化天皇に本当の「子」が居ることになり、しかも伊香色謎命と埴安媛が同じ人物であった可能性があります。(自身の子で無い「子」を産んだ夫婦神?) そこでもう一手、天香山命と宇摩志麻遅命の義兄弟の関係をおさらいしますと、「火遠理命から考察 ③」にも書きましたが、「記紀」にあるこれまた類似説話の「天若日子の説話」の内容から、 父:大己貴命 母:神屋楯比売(多岐津姫命の別名) 兄:積羽八重事代主命(賀茂氏の祖) 妹:高照光姫大神命 父:大己貴命 母:多紀理毘売命(市杵嶋姫の別名) 兄:阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神) 妹:下照姫 いずれのエピソードも「夷(ひな)」「丹塗矢」などで繋がります。 これを異母「兄弟姉妹」として描いていますが、実は全て同神に集合できるのです。(宗像三女神も実は1神に集合) そして『古事記』における天若日子の説話では、下照姫の夫で、高天原に復命しなかったために死んでしまった天若日子の葬儀を訪れた。しかし、阿遅鉏高日子根は天若日子とそっくりであったため、天若日子の父の天津国玉神が、天若日子が生きていたものと勘違いして抱きついてきた。阿遅鉏高日子根は穢わしい死人と一緒にするなと怒り、神度剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。下照姫は阿遅鉏高日子根の名を明かす歌を詠んだ。 …とあり、ここでも阿遅鉏高日子根は天若日子が親子兄弟もしくは同神である可能性を暗示しています。 それが誰であるかはまだ保留しますが、伊香色謎命の「兄」が伊香色雄命(物部の祖)であることはわかっておりますので、今後この考察が重要となってくると思います。 情報を揃えていきますと、以下の図のようなことがわかって来ます。 従って以上のことにより、 天香山命・(大若子命/大幡主命)・大彦命 =宇摩志麻遅命・(乙若子命)・開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)←ヒヒね 饒速日命=孝元天皇 長髄彦=阿彦=武埴安彦=伊香色雄命 埴安媛=欝色謎命=伊香色謎命  …となり、小若子命(彦火火出見命=海幸彦)を大若子命(邇邇芸命)の「子」とする梅宮大社の説は間違っていることになります。(この部分だけならね) 『古事記』にある一夜にして身籠った妻の木花之佐久夜毘売に疑いをかける邇邇芸命とのやりとりの「佐久夜毘賣、一宿哉妊、是非我子、必國神之子。」「佐久夜毘売一宿(ひとね)に哉(や)妊(はら)みしかば、是我子(みこ)に非ず、必ず国神(くにつかみ)の子ならむ。」の記述は、いわば邇邇芸命の実子ではないとの暗示であるともいえます。 また同時に孝元天皇の妃もこの場合一人であったということになります。 実際はたくさんいたのでしょうが、「記紀」の伝承として残した妻は実は一人の女性であったということ。 これで大山咋神の異母弟である羽山戸神の妻に大気都比売神が存在する謎が解けたかも。 梅宮大社説である大若子命=邇邇芸命(=猿田彦大神=八重事代主命)は〇です。 …という訳で、このような理論で行くと、チョット面白いかも知れませんね あくまで仮説なんですけどね(´・ω・`)イロンハミトメルヨ そして、『秦氏本系帳』にある「鴨氏人は秦氏の聟なり」とは、鴨氏(賀茂氏=母系)も秦氏(=父系)も一緒ということ。 従って大幡主命は、大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったという説話由来は恐らく付会で、実は、大「幡」主命は「秦」氏であり、恐らくこれが八幡神(はちまんしん=やはたのかみ)なのではないでしょうか これで彌彦神社の祭神の天香山命=大屋彦命・大彦命説、度津神社の五十猛命も全て同神で繋がることが証明された…のかも知れません(´・ω・`) いずれ八幡神=大幡主命であるかも今後掘り下げて考察していきたいと思います。 一応私説に置いて、にあるオレンジ枠の箇所は合っていそうですが(´・ω・`) 逆に天香山命の父とされる天火明命は、須佐之男命か大己貴命の可能性が高まったともいえますね。 ここはたぶん間違っているね(さてどっちかな…) これに関しましては、更にその父である天之忍穂耳命の代でまた考察していきたいと思っています(´・ω・`)ノシ

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  • 18Apr
    • 大幡主命から考察 ①

       ●天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命 内容的には「八坂神社から考察 ②」の続きとなります(´・ω・`)ノ 大幡主命のお話に戻しまして、大幡主命の別称である「大若子命」をお祀りする有名な社に梅宮大社が御座います。 梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある神社。 全国の梅宮神社の総本社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社で、旧社格は官幣中社。現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「梅宮神社」。神紋は「橘」。 ●概要 京都市西部の梅津の地に鎮座する、四姓(源平藤橘)の1つの橘氏の氏神として知られる神社である。元々は奈良時代に南方の綴喜郡井手町付近に創祀されたといわれ、のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。 ◆祭神 現在の祭神は、次の本殿4柱・相殿4柱の計8柱。相殿4柱は仁寿年間(851年-854年)の合祀という。 本殿 酒解神(さかとけのかみ) - 大山祇神(おおやまづみのかみ)にあてられ、酒造の守護神とされる。 大若子神(おおわくこのかみ/おおわくごのかみ) - 瓊々杵尊(ににぎのみこと)にあてられる。 小若子神(こわくこのかみ/こわくごのかみ) - 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)にあてられる。 酒解子神(さかとけこのかみ) - 木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)にあてられる。 相殿 嵯峨天皇 - 第52代天皇。 橘嘉智子(檀林皇后) - 嵯峨天皇皇后。社伝では、梅宮大社に祈願して仁明天皇を授かったという。 仁明天皇 - 第54代天皇で、嵯峨天皇皇子。 橘清友公 - 橘嘉智子の父。 ●祭神について 梅宮大社で本殿に祀られる酒解神を始め4柱は、いずれも梅宮大社特有の神である。神名の初見は酒解神・大若子神・小若子神は承和3年(836年)、酒解子神は承和10年(843年)になる。特に主神である酒解神については、「サカトケ」の字義を「辟解」として悪霊を祓う神とする説、「堺解」として境界に居て悪霊を鎮める神とする説が挙げられるが不詳。また神格としては、橘氏が奉斎したことから橘氏の祖神とする説のほか、大山祇神にあてる説があるが、こちらも明らかではない。後者の説として、『大和豊秋津島卜定記』では酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神をそれぞれ大山祇神・木花咲耶姫命・瓊々杵尊・彦火火出見尊にあてており、現在の梅宮大社ではこの説を採用している。 なお『延喜式』神名帳では、山城国乙訓郡に「自玉手祭来酒解神社 名神大 元名山埼社」として「酒解神」を祀る式内社の記載がある。この酒解神社は、現在乙訓郡大山崎町の酒解神社に比定される。その社名は、神名帳の記載によると元々あった「山埼社」に「玉手」から酒解神が勧請されたことを意味するが、「玉手」の場所やこの神社と橘氏(ないし梅宮社)との関係は明らかでない。(wikipedia 梅宮大社より抜粋) …とあるので、『大和豊秋津島卜定記』を確認してみますと、 ◆『大和豊秋津島卜定記』 「彼開耶姫和酒解子神社奈利。大山祇和酒解社也。瓊々杵和今乃若子宮奈利。小若子社古曽火々出見尊仁天渡世玉也。」 「かれ開耶姫は、酒解子神社なり。大山祇は酒解社なり。瓊々杵は今の若子宮なり。小若子社こそ火々出見尊にて渡せ給うなり。」 前項にも少し記しましたが、もう一度おさらいも兼ねまして…  『倭姫命世記』にて、伊勢国桑名野代宮へ遷幸する際の記述に、 「垂仁天皇条 十四年[乙巳]、伊勢国桑名野代宮に遷幸して、四年間奉斎。 この時、国造大若子命〔一名大幡主命〕が現はれ参上して御共に仕へ奉ったので、国内の風俗を奏上させた。また、国造建日方命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと「神風の伊勢国」と申上げ、舎人弟 伊尓方命、また地口・神田・神戸を進った。若子命は、舎人弟 乙若子命を進った。」(倭姫命世記 皇大神宮別宮倭姫宮御鎮座八十年記念 口訳デジタル化より抜粋) 大若子命(おおわくごのみこと) 伝承上の伊勢神宮の初代大神主。天日別命の子孫。度会氏の祖先神。 乙若子命(おとわくごのみこと) 伝承上の伊勢神宮の神職。大若子命の弟。景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の3代にわたって、豊受大神宮外宮の大神主としてつかえたという。(コトバンクより) つまり伊勢神宮神主である大若子命(大幡主命)には同外宮神主である乙若子命なる「弟」がおりますから、よって『大和豊秋津島卜定記』にある「若子宮」は、兄弟のどちらを指す宮なのかはこれではハッキリとわかりませんねぇ(´・ω・`) 一応梅宮大社の説を採ると、初代伊勢神宮神主が「兄」の大若子命で、これが邇邇芸命ということになります。 従って、天孫兄弟の兄の天火明命より派生したと思われる丹後の海部氏のみならず、皇祖本流となる弟邇邇芸命方においても、伊勢神宮の大神主を司っていたと解釈できるんじゃないですかね。 更にいえば、それぞれ描かれている時代の違う神人を天降り神話の神人に置き換えて解釈していますので、我々がよく比定人物の考証をしているのと変わりがないですね。 ていうかやはりそういうことなんですよね(´・ω・`) しかしこの説に乗っ取りますと、邇邇芸命には「弟」がいることになってしまいますが、少なくとも「記紀」にはそのような記述は見られませんので、ここにも系譜のトリックが潜んでいそうです。 つまり素直に神名を置き換えてしまっている梅宮大社の説は、残念ながら間違っている可能性が高いということになりそうです。 さて、この「大若子命」に比定される天孫邇邇芸命なのですが、阿波国においては「白人神社」で祀られています。 以前少しだけ磐境神明神社のくだりでご紹介しました。『徳島県の神明神社から考察』その隣に御鎮座します。 白人神社(しらひとじんじゃ)は、徳島県美馬市穴吹町口山にある神社である。奥宮に「日猶同祖論」の根拠として知られる磐境神明神社がある。 ◆祭神 瓊瓊杵尊(主祭神)     伊弉冉神、天照大神、豊秋津姫命、崇徳天皇、源為朝 ●歴史 伝承によると、仁賢天皇の時代にこの地に白髪の老翁が天下り、この地を「宮内」と改めるよう発言したのが起源とされる。 保元の乱の後、讃岐国の崇徳上皇を尋ねた源為朝が、阿波国との境にある相栗峠で弓を引いたところ、うなりをたてた矢はこの毘沙門獄に当たり、はねかえって白人神社におちた。この古来弓は、現在は神社の宝物となっており、旧正月14日お的神事が今に伝えられている。 慶長年間(1596年-1614年)の初めに稲田示植によって再興されたと云われる。徳島藩の家老であり脇城主の稲田家の信奉が厚かった。 一般的には狛犬を置く神社が多い中、白人神社では神様の使いとされるうさぎが置かれおり、このうさぎを撫でると開運につながると云われている。 ●境内社 八幡神社 天神社 磐境神明神社 - 奥宮。美馬市指定史跡。磐境とされる南北7m、東西22m、高さ約2mの長方形状の石垣に囲まれ、南側に3つの入口、北側に4つの祠が置かれている。この構造が古代ユダヤの祭祀場と同じであるとして、「日猶同祖論」の根拠として取り上げられている。(wikipedia 白人神社より抜粋) 白衣の神仙の教えにより「白人大明神」を奉るとあります。 オカルトマニアが涎を垂らして飛びつきそうな「日猶同祖論」説とか全く以て突拍子もない説かと思いますが、なかなかどうして面白いんですよコレが コレにつきましてはいずれ自説で記したいと思っています。 さて、当社以外にも徳島県には白人神社がありまして、 白人神社(徳島県那賀郡那賀町拝宮字白人谷) こちらの社のご祭神も美馬市にあるのと同じく邇邇芸命、そして相殿に源為朝。 やはりこちらにも八幡神社(祭神:誉田別命)があり、その子である大雀命も若宮神社で祀られているようです。 掲示板によればこちらは「白仁大明神」ですね。 二社の位置関係は地図に入れるとこんな感じ さて、ここからが考察となる訳ですが、 白人神社に関係すると思われる人物や説話、及び御祭神などから、仁賢天皇と白髪の老翁の話や、大雀命(仁徳天皇)と父の誉田別命(応神天皇)と何らかの関わりがあるといったところでしょうか。 この伝承に登場する白髪の老翁は、一般的には比良神(白鬚大明神)のことで、猿田彦大神のことを指します。 以前ご紹介した、大和国一之宮大神神社社家である高宮家系を記した『三輪高宮家系図』ですが、この高宮家は三輪氏で八重事代主命の後裔であり、その系譜には「都美波八重事代主命 又名猿田彦神、大物主神」と記されてあります。 ※のらねこぶるーす氏ブログ「空と風:日本を建国した大国主一族という名の阿波忌部」より拝借 つまり、猿田彦神=八重事代主命=大物主神 コレ今までのおさらいね。 そして、美馬市にある磐境神明神社と隣接する様にある白人神社は、那賀郡にある神明神社と白人神社、また海部郡芝にある神明神社と新居神社との位置関係がよく似ています。 ●美馬市穴吹町 ●那賀郡那賀町 ●海部郡海陽町 海陽町の神明神社には美馬市の神明社のような立派な「五社三門」(いわさか)は御座いません(´・ω・`) ちなみに隣接する新居神社の御祭神は、大己貴命と八上比売との間の子である木俣神こと御井神(みいのかみ)です。 そういえば北に延びる海部川に沿うように無数に点在する御崎神社群の御祭神はみな猿田彦命ですね。 さて、新居神社の御祭神である御井神(みい)といえば、 三井寺(みいでら)(園城寺:おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗の総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。 開基(創立者)は大友与多王、本尊は弥勒菩薩である。日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである「三井の晩鐘」でも知られる。 三井寺の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。 …などというのちの付会と思われる謂れがありますが、この三井寺の鎮守神は新羅明神(白鬚明神)を祀っており、 新羅明神は、唐に留学した円珍が日本へ帰国する際、船中に現れた神とされ、円珍に伝えられた経法を永遠に守護することを誓った神であるという。円珍が請来した経典法具を三井寺に保管することになったのも新羅明神の夢告によるとされている。源頼義が三男の義光をこの神の前で元服させ、義光はそれ以来「新羅三郎」と呼ばれるようになったことはよく知られる。(wikipedia 園城寺より各抜粋) …とあり、ここでも御井神と白鬚明神(=猿田彦命)の関連性が指摘されます。 ここで一旦猿田彦命の話は置いといて、伊勢神宮の祭司者関係から話を探ってみますと、 度会行忠(わたらい ゆきただ、1236年(嘉禎2年) - 1306年2月11日(嘉元3年閏12月27日)は、鎌倉時代後期の伊勢国(現:三重県伊勢市)出身の神道家、外宮祠官、伊勢神宮禰宜。 1285年(弘安8年)から1287年(弘安10年)にかけて神道五部書の所説を明らかにした著書『伊勢二所太神宮神名秘書』を著した。(wikipedia 度会行忠より抜粋) ◆『伊勢二所太神宮神名秘書』 「大若子命 一名大幡主命 弟若子命 一名小若子命 又名 加夫良居命 亦名 乙若子命」 つまり、 大若子命=大幡主命 弟若子命=小若子命=加夫良居命=乙若子命 であると記してあります。 続いて、 「乙若子命者 神皇産霊神六世孫、天牟羅雲命八世之孫也、渡會神主遠祖也」 …とあり、何故か天村雲命の方が神皇産霊神より世代が古くなっておりますが、伊勢神道(度会神道)の根本経典である『神道五部書』によると、 「天村雲命 伊勢大神主上祖也、神皇産霊神六世の孫也 阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」 …とあり、共に「神皇産霊神六世孫也」であること、「天村雲命」またはその後裔である旨が書かれています。 この乙若子命の別名である加夫良居命なのですが、福岡市櫛田神社の由緒には、 『社説に曰く、元禄年間祠官池田刑部元直の時早良郡野芥村なる櫛田神社の分霊を迎へて勧請せりと。 同神社は天平年中の創祀と伝へ天慶二年己亥三月(昭和十五年より一千一年前)再建の古宮にして能解(乃計)の郷の郷社なりしと謂ふ。御祭神大若子命は伊勢度会の神主の遠祖なる天御中主尊十八世の孫彦久良伊命の御子なり、神功皇后伝記 矢野玄道著 に云ふ。伊勢神名秘書に見えたる説に「伊勢国渡会神主の遠祖大若子命弟乙若子命鳴鏑矢を造りて息長足姫命の三韓を征討し給へる時に献りしかば亦御名を加夫良居命と云ふ」とあり、梅宮(山城国葛野郡鎮座、官幣中社)の社説にも又名加夫良居命とあり。 垂仁天皇の御宇越の国に阿彦と云ふ凶賊ありしを此命に勅して征伐せしめらる、命則ち幡を挙げて輙く退治の勲を立給ひしより大幡主命の名を賜へるなり。此命倭姫に従ひまして国見に巡り給ひし時倭姫の御櫛田に落ちたまへり後人其処を櫛田と云ふ、さてぞ此大若子命を櫛田大神と称へ奉ると云ふ。 大正十一年社殿を改築し氏子数の増加と共に崇敬を集めつつあり。』(福岡神社参拝帳 櫛田神社より) …とあり、また『古事記』には、 「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海の日枝山に坐し、亦、葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ。」とあります。 この話は11代垂仁天皇~14代仲哀天皇の妻神功皇后までの幅広い時代で描かれていますが、つまり、弟の乙若子命(加夫良居命)=鳴鏑神のことを指し、これが古事記にある大山咋神(山末之大主神)のことなのではないでしょうか。 系譜的には、大山咋神は須佐之男命の孫にあたり、大年神と天知迦流美豆比売との間の子で、同母弟に大気都比売神と結ばれる羽山戸神が居ます。 また、『秦氏本系帳』に記載がある丹塗矢の神話によると、 「初め秦氏の女子、葛野河に出で衣裳を澣濯す。時に一矢あり。上より流下す。女子これを取りて還り来、戸上に刺し置く。ここに女子夫なくして妊む。既にして男児を生む。(中略)戸上の矢は松尾大明神(大山咋神)これなり。(中略)而して鴨氏人は秦氏の聟(もこ)なり。」と見えます。  ※聟は婿に同じ(コトバンク大辞林 第三版の解説) 類似する説話に、 三輪(みわ)の大物主神が美女、勢夜陀多良比売に思いをかけ、その用便中に丹塗矢と化して〈ほと(陰部)〉を突いた。丹塗矢はまた美丈夫と変じて娘と婚し、生まれたのが富登多多良伊須須岐比売だが、〈ほと〉の名をにくんで上記の名に改めたという。(コトバンク 大物主神より抜粋) …があります。 つまり上記全てを纏めますと、大幡主命=大若子命と、その弟である乙若子命は、共に伊勢神宮の神主で、梅宮大社の説にある『大和豊秋津島卜定記』によれば、小若子命は、大若子命の子であり、また度会氏の家伝書『伊勢二所太神宮神名秘書』によれば、小若子命の別名が乙若子命である。 乙若子命と同神と思われる鳴鏑神=大山咋神は、大物主神と同じく丹塗矢の説話を持ち、白人神社の御祭神、並びに『三輪高宮家系図』から全て八重事代主命に集約が可能である。 この八重事代主命は、父である大国主命(大己貴命=大年神)の子であるが、大年神の妹である宇迦之御魂と結ばれることで、子でありながら義理の「弟」になるという寸法ですね。(これは大国主命の説話にある少彦名命の話となります) よってこの説を採ると、乙若子命の「兄」として描かれている大若子命(大幡主命)は邇邇芸命ではなく、大己貴命と考えることができ、その「弟」であり、実は「子」である(小)乙若子命こそ八重事代主神(猿田彦神・大物主神)=邇邇芸命ということになります。 一応ついでに書いておくと、須佐之男命の立場からすれば、八重事代主命は、孫であり、義理の「息子」になります。(こちらは五十猛命パターンかな) まだ続くようである(´・ω・`)ノ

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  • 05Apr
    • 八坂神社から考察 ②

       櫛田神社(くしだじんじゃ)は、福岡市博多区にある神社である。 ●概要 櫛田神社は、古くより博多の氏神・総鎮守として信仰を集めている神社である。7月の博多祇園山笠や10月の博多おくんちなどの祭事をおこなう。5月の博多松囃子(博多どんたく)は厳密には櫛田神社の祭事ではないものの、松囃子一行は櫛田神社から出発するしきたりになっている。旧社格は県社。地元の博多の人々からは「お櫛田さん」と愛称で呼ばれている。 ●祭神 祭神は大幡大神(櫛田大神)、天照皇大神、素盞嗚大神(祇園大神)の三神で、正殿に大幡主神、左殿に天照大神、右殿に素盞嗚神が祀られている。 当社以外にも日本全国にいくつかの櫛田神社があるが、それらが櫛名田姫を主祭神とする神社であるのに対し、当社では櫛名田姫は祀られていない。ただし、元々は櫛名田姫を祀る神社であったとする説もある。 大幡大神(大幡主命)は伊勢国松坂の櫛田神社から勧請した神とされている。別名を大若子命といい、天御中主神の19世の子孫で、北陸地方で怪物を退治したとされる。なお、大幡神を主祭神とする神社は佐渡市にあり、櫛名田姫を主祭神とする神社5社のうち3社も北陸地方にある。 ●歴史 社伝では、天平宝字元年(757年)、松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まるとされ、松坂の櫛田神社の祭神の大幡主神が天照大神に仕える一族の神であったことから、天照大神も一緒に勧請されたと伝えられる。天慶4年(941年)、小野好古が藤原純友の乱を鎮めるために京都の八坂神社に祈願し、平定した後に当社に素盞嗚神を勧請したと伝えられるが、平安時代末期、平清盛が所領の肥前国神埼の櫛田宮を、日宋貿易の拠点とした博多に勧請したという説が最有力であり、櫛田神社の宮司らが編纂し昭和40年(1965年)に文部省(当時)に提出した『博多山笠記録』や昭和54年(1979年)に福岡市が発行した『福岡の歴史』はこの説を取り上げている。しかし、それは同市早良区の櫛田神社のことであるという反論もある。 戦国時代に荒廃したが、天正15年(1587年)、豊臣秀吉によって博多が復興されるときに現在の社殿が造営された。 明治元年(1868年)の神仏分離令より前の江戸時代までは東長寺に属する神護寺が櫛田神社を管理していた。 明治24年(1891年)に県社に列した。(wikipedia 櫛田神社(福岡市)より) ●櫛田神社節分大祭 インパクト大です 櫛田神社(福岡市)の場所はココ ●Flood Maps(4m)で往古を再現 面白いことに糸島半島は完全なる「島」ですね。 魏志倭人伝にある「伊都国」なる国がどこにあったのか、これは一考の余地がありますね。 当社左殿である素盞嗚大神のお祭りが三大祇園祭の1つである「博多祇園山笠」なのですが、主祭神は正殿にある大幡大神(大若子命)ということ。 これは天狗と鼻高ですかね。 神紋は左殿より順に「五瓜に唐花」「三つ盛り亀甲に五三の桐」「大和桜」 さて、「博多祇園山笠」を調べてみますと、 博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)とは福岡県福岡市の博多区で毎年7月1日から7月15日にかけて開催される700年以上の伝統のある祭である。櫛田神社にまつられる素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭のひとつ。正式には櫛田神社祇園例大祭。博多どんたくとともに、博多を代表する祭りである。 ●概要 福岡市博多区の博多部(那珂川と御笠川(石堂川)間の区域)で7月に行われる祭礼。参加者や福岡市民などからは「山笠」「ヤマカサ」とも略称される。又、山笠を単にヤマと称する。国の重要無形民俗文化財に指定されている。山笠の掛け声「おっしょい」は1996年(平成8年)に日本の音風景100選に選ばれた。また、2016年(平成28年)12月1日、博多祇園山笠などの「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産に登録された。 なお、地域外の者からは福岡市が主催している祭りと誤解されがちだが山笠は櫛田神社の氏子たちが行う奉納行事のひとつであり、地域の住人たちが伝統的に行ってきた町内行事である。 山笠を担いで市内を回ることを山笠を「舁く」(かく)と言い、担ぐ人のことを「舁き手」(かきて)と言う。 山笠期間中は行事参加者の間ではキュウリを食べることが御法度となる。一番根強い説としては「キュウリの切り口が櫛田神社の祇園宮の神紋と似ているから」というものがある。櫛田神社や京都・八坂神社など水天神系の神紋の図柄は木瓜(ボケ)の花である。また、「夏が旬のキュウリを断ってまで祭りに懸ける」という意気込みとの説もある。また、期間中の性交も御法度になる。 博多祇園山笠は女人禁制の祭りであり、旧来の流に於いては子供山笠も含めて舁き手は男性のみである。また女性は舁き手の詰め所に入れないしきたりとなっている。 かつては舁き手の詰め所の入口に「不浄の者立入るべからず」と書かれた立て札が立てられる風習になっていた。この「不浄の者」は喪中の人と女性のことを指しているが、女性差別につながるとして2003年(平成15年)に立て札の設置は中止された。(wikipedia 博多祇園山笠より抜粋) 阿波弁で「担ぐ」ことを「かく」と呼び、それが変化し、持ち上げて一緒に運ぶという意味で兵庫県・愛媛県・大阪府でも使いますが、博多弁では「かく」を使った方言に、「腹かく」=「怒っている」という全く別な意味のものがあるのみです。 言葉はついてまわるものとはよく言ったものですが、実はこのような形で「阿波」がほんのり残っています。 さて、櫛田神社の主祭神でもある「大幡主命」なのですが、徳島県海部郡海陽町「神野」に鎮座する御崎神社のご祭神の中にヒッソリと見られます。 当地周辺は御崎神社の密集地、中でも大幡主命を祀る御崎神社の場所はこちら 式内論社 阿津神社と花姫神社(共に祭神 木花開耶比売命)との間にある御崎神社で、「櫻」と「杉」の巨木が目印になります。 異様にドデカイ杉の巨木 もと御崎大明神と称し、明治3年に御崎神社に改称、大正3年に神野前の対岸の神屋敷に祀られていた牛尾神社と荒神社を合祀。 『海部郡取調廻在録』(天保11年=1840、野口長年)に「神野村 小名 神屋敷 此処に往古大社有、其昔大洪水に鞆浦まで流行しと伝ふまし上は、式社の有し処ならんか。村名といひ、地名といひよしありけなれと、これそとまふするしるしはべらず。なお鞆浦へ流しとまふすによりては、前にあげし大里の八幡宮にてはあらんか。いつれにても心にそんしはべる。」 石毛賢之助の『阿波名勝案内』(大正5年版)にも「伝へ云ふ、本社神野村に鎮座ししが、洪水の際社殿を押流し鞆浦に着したれば、浦人大宮に社殿を建立奉祀したるも、其の地狭隘なるを以て大里に移すに至れるなりと、蔵する所の金口に〈介部郡三筒社殿応永二十二年六月吉日願主〉とあり、今は白魚山高西堂に是を掲ぐ、これぞ神野村意富曽神社にありし鍔口ならむと。」と記されている。 八幡神社の神宝とされている鰐口の銘から、元は神野村に祀られていた意富曽神社が洪水により流出し、川口の鞆に漂着したのを祀ったのが大宮山であるという。 神野は旧川上村のほぼ中央の盆地で、神野とか神祗という地名も残り、洪水で社殿が流出したという伝説もある。 この説に従えば、大宮山に鎮座以前、古くは神野にあったことになる。 拝殿右側にあるこちらの小さい神社が… どうやら八幡神社のようですね。 大幡主命をもう少し詳しく調べてみましょう。 大幡主命(おおはたぬしのみこと) 天御中主尊の後裔・彦久良伊命の御子・大若子命。 大若子命は、垂仁天皇の頃、朝廷より越の国(北陸)の賊徒・阿彦を討伐することを命ぜられ、 大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので、大幡主命の尊称を与えられた。 『御鎮座本紀』に、雄略天皇二十二年、天照大御神が倭姫命に夢告して「自分一人では不便で食事も安らかにできないので、丹波国与佐の小見比泥の真井原にいる吾が御饌の神、止由気皇大神を呼び寄せ給え」といわれた。そこで倭姫命は大幡主命を遣わして朝廷に奏上し、伊勢山田原に社殿を建て、止由気皇大神を遷し斎き奉ったとある。(大幡主命:玄松子の祭神記より) 大若子命(おおわくごのみこと) 伝承上の伊勢神宮の初代大神主。 天日別命の子孫。度会(わたらい)氏の祖先神。倭姫(やまとひめの)命が天照大神を伊勢神宮にしずめまつったとき、南伊勢(三重県)の豪族として協力したため、神国造(かみのくにのみやつこ)と神宮の大神主に任じられた。別名に大幡主。 説話上の伊勢神宮の初代大神主。伊勢外宮神主家としての度会氏において祖先とされた神である。『倭姫命世紀』『豊受大神宮禰宜補任次第』などによると、垂仁天皇の代の伊勢内宮鎮座の際、自らの領する櫛田川以東の伊勢国(三重県)南部を神宮に納め、その地の支配者として神国造となり、大神宮大神主を兼ねたという。また越の国(福井、石川、富山、新潟)征討に行くよう命を受け、その平定の報告をしたところ、朝廷から大幡主の名を与えられた。神国造兼大神主は大若子命の子孫が継ぎ、外宮創建後は内外両宮大神主となり、のちには外宮神主のみとなる。(朝日日本歴史人物事典の解説 白山芳太郎) 『豊受太神宮禰宜補任次第』より、 大若子命。(一名大幡主命)右命。天牟羅雲命 子天波與命 子天日別命第二子彦國見賀岐建與束命第一子彦楯津命第一子彦久良為命第一子也。 越國荒振凶賊 阿彦在(天)不従皇化。取平(仁)罷(止)詔(天)。標剣 賜遣(支)。即幡主罷行取平(天)返事白時。天皇歓給(天)。大幡主名加給(支)。 垂仁天皇即位二十五年(丙辰)。皇太神宮鎮座伊勢國五十鈴河上宮之時。御供仕奉為大神主也。 『二所太神宮例文』第四 豊受太神宮 度會遠祖奉仕次第 天牟羅雲命 天御中主尊十二世孫。天御雲命子。 天日別命 天牟羅雲命子。神武天皇御世奉仕。 玉柱屋姫命。(伊雑宮) 建前羽命。 大若子命(大神主)彦久良為命子。垂仁天皇御代奉仕。 乙若子命 大若子命弟也。 ふむふむ、大幡主命の別名である大若子命は、天牟羅雲命の系譜ですから通説解釈ですと、丹後国天火明命から分派した海部氏一族の末裔で、後の伊勢神宮神主である渡会氏の祖先神ということがわかります。 また、乙若子命という「弟」もいるようですね。 度会神主の祖である天村雲命が阿波から伊勢に移ったことについては、以前ご紹介しておりますので、こちらでご確認ください⇒「羽衣伝説 Vol.阿波 ③」 さて、櫛田神社の勧請元であったとする説があるもう一社の肥後国櫛田宮。 こちらも少し調べてみますと、 櫛田宮(くしだぐう)は、佐賀県神埼市神埼町神埼に所在する神社である。 ◆祭神 櫛田三柱大神     櫛稲田姫命 正面御座、櫛田大明神     須佐之男命 東 御座、高志大明神     日本武命 西 御座、白角折大明神 ●歴史 社伝によれば、景行天皇が当地に巡幸した折に不幸が続き住人が苦しんでいると聞き、当社を建て神を祀り鎮めたのが発祥という。 その後は災厄もなくなったことからこの地を「神幸(かむさき)」と称し現在の神埼(かんざき)の地名の起こりとなったと伝えられている。 ●祭事 春祭 - 4月7日・8日 隔年で「みゆき大祭」と称し大規模に斎行される(西暦末尾偶数年の4月第一土・日曜日。2010年は4月3日・4日)。御神幸や神楽奉納等が行われる。(wikipedia 櫛田宮より抜粋) みゆき大祭は750年ほど昔から神埼庄(かんざきのしょう、神埼市から吉野ヶ里町、上峰町、みやき町にまたがる大荘園)あげての神事として、その昔には勅使下向(天皇の使いが来ること)もあったと伝えられています。藩政時代には祭典に要する費用は神埼郡内の反別に割り当てられ、明治維新以後は神埼町民によって伝統が守られてきています。 ●厄除節分祭 福岡県とやってることは一緒かな(´・ω・`) 行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。 また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。(wikipedia 行幸より抜粋) 「鷲住王から考察 ③」に掲載した「鷲住王の剣」の話に出てくる「みゆき」も実は行幸の暗示かも知れませんね。 一体誰の行幸だったのでしょうかね 両櫛田社のご祭神を比較してみますと、須佐之男命のみ共通し、櫛田宮の方は天照大御神の代わりに櫛稲田姫命が、大幡主命が日本武命となっております。 通説ですと、須佐之男命、櫛稲田姫命、天照大御神は同時代の神で、大きく時代を離して、大幡主命(11代垂仁天皇時)と日本武命(12代景行天皇の子)がほぼ同時代の神です。 次に天皇より命ぜられ、大幡主命が行ったとされる北陸征伐、もとい、越国(高志)討伐なのですが、越(高志)の話は、「記紀」において、須佐之男命の高志之八俣遠呂知退治が初見で、後に『日本書紀』第10代崇神天皇10年9月9日条で四道将軍として第8代孝元天皇第1皇子である「大彦命」が北陸を平定しています。 大彦命の子孫には阿倍氏がおり、中でも650年前後(飛鳥時代)に活躍した越国守阿倍比羅夫は有名ですが、比羅夫の氏姓は阿倍引田臣で、この「引田」の地名は香川県(讃岐)に唯一確認されるのみです。 現櫛田神社の神主は阿部憲之介氏であり、神職にある阿部氏族は大彦命の後裔のはずです。阿倍氏の分布についてはこちら⇒「孝元天皇から考察 ①」 筑紫国(つくしのくに)は、のちの令制国での筑前国と筑後国にあたり、現在の行政区分では、福岡県のうち東部(豊前国の一部だった部分)を除いた大部分にあたる地域に大化の改新・律令制成立以前の日本古代にあった国である。 ●概要 『古事記』・国産み神話においては、隠岐の次、壱岐の前に筑紫島(九州)を生んだとされ、さらにその四面のひとつとして、別名を「白日別(シラヒワケ)」といったとされる。 次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。肥国、言、建日向日豊久士比泥別。熊曾国、言、建日別。 ●祖先 『日本書紀』によれば、大彦命が阿倍氏(姓は臣)、膳氏(かしわでうじ)(姓は臣)、筑紫国造など計7族の始祖であるという。 『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、第13代成務天皇の時代に阿倍氏(姓は臣)の同祖である大彦命の5世孫にあたる人物が初代筑志国造に任命されたという。この人物の名の表記については同じ「国造本紀」でも「田道命」と記すもの(度会延佳神主校正鼇頭旧事紀)と「日道命」と記すもの(前田侯爵家(前田氏加賀前田家の加賀藩本家は明治維新後侯爵となっている)所蔵安貞年間古写本・佐伯有義氏所蔵別本所引清魚県主本所引イ本)と「曰道命」と記すもの(神宮文庫本)がある。 系図(安倍氏/那須国造/膳氏/佐々貴山氏【1】 - 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観)は大彦命―建沼河別命―大屋田子命―田道命となっており、これに従えば田道命は大彦命の5世孫ではなく曽孫(3世孫)となる。 ●氏族 筑紫氏(姓は君・公)。『日本書紀』が筑紫国造だったと記す後述の筑紫磐井について、『古事記』は竺紫氏(姓は君)だったと記す。筑紫氏は阿部氏(姓は臣)とは同祖である(どちらも大彦命の子孫)。史書では7世紀末までこの氏の一族の名が見られ、その活躍が認められている。(wikipedia 筑紫国より抜粋) また、筑紫国造といえば磐井(いわい)が継体天皇朝に反乱を起こしたことでも有名ですが、この磐井は実は斎(いわい)で、一般的に言われている斎主命、その同神とされる経津主命であったとしたら… ◆磐井の墓と思わしき場所 岩戸山古墳の位置する八女丘陵では、前方後円墳12基(岩戸山古墳含む)・装飾古墳3基を含む古墳約300基からなる八女古墳群が分布する。その築造は4世紀前半から7世紀前半に及び、筑紫君一族の墓に相当すると推定されている。中でも岩戸山古墳の2世代前にあたる石人山古墳(八女郡広川町一条)は磐井の祖父の墓と推定されるほか、岩戸山古墳次世代の乗場古墳(八女市吉田)・善蔵塚古墳(八女郡広川町六田)・鶴見山古墳(八女市豊福)のいずれかは子の葛子の墓と推定されている。なお、昭和中頃まではそのうちの石人山古墳を磐井の墓とする説が有力視されていた。(wikipedia 磐井(古代豪族)より抜粋) ◆斎主命の御陵と思わしき場所  やはり地形的に類似した場所にあるように思われますが、 こちらは阿波の歴史にたいへん詳しい、awa-otoko様のブログ「児宮祭神 斎主命とは何者なのか?」の内容から墓所の照合をしてみましたが、仮に阿波忌部と関係があったとしたらチョット面白いかも知れませんね  いずれにおいても上記の話は「記紀」の通説においては時代がバラバラの話ですので、如何様にも解釈できそうですが、少なくともヤマト王権の初期律令においての考え方として、天皇氏族の地方の配置も重要なファクターとなってくるはずです。 この九州においては、前項で述べました日向国(薩摩・大隅汲む)の統治者は、秦氏の子孫である惟宗氏であり、古くは『日本書紀』によると、景行天皇自ら熊襲の平定に赴いてき、高屋宮を拠点として襲国を平定し、その後、子の豊国別皇子が初代日向国造に任じられたとあります。 また、『国造本紀』によれば、日向諸県君祖は、豊国別皇子の三世孫である「老男命」としています。 この豊国別皇子の父は景行天皇、母は御刀媛(みはかしひめ)で、豊国とは、『古事記』国産み神話において「筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別。」と書かれてあり、九州の北東部、現在の福岡県東部および大分県全域に相当します。  この豊国である大分県大分市にある4世紀末~5世紀初頭の古墳に「亀塚古墳」があります。 当地は和名類聚抄にみる豊国(豊後国海部郡) 「佐井」や「丹生」の名は現地図にも残ります。 亀塚古墳(かめづかこふん)は、大分県大分市里にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。 ●概要 墳丘は前方部を南に向けた3段構築で、全長116メートル(前方部長52メートル、後円部直径64メートル)、高さは前方部7メートル・後円部10メートルで、西側のくびれ部に造出しがある。墳丘は白い石英質の葺石で覆われていた。 埋葬施設は前方部墳頂に2つ設けられており、第1の埋葬部には長さ3.2メートルにもおよぶ大形の箱型の組合せ式石棺が埋められており、第2の埋葬部はその東側に後から設けられた。すでに盗掘を受けていたが、短甲・鉄刀の破片、滑石製の勾玉、碧玉製の管玉、ガラス製の小玉などが出土している。 ●築造時期 4世紀末から5世紀前半と推定されている。 ●被葬者 古くから海部王(あまべのきみ)の墓であると伝えられており、日本書紀にもこの地に「海人部」が設置されていた記録があることから、海部民(あまべのたみ)の首長が埋葬されていたと考えられる。(wikipedia 亀塚古墳より抜粋) 「記紀」において、15代応神朝時代の記事に、 「記」:「此之御世、定賜海部・山部・山守部・伊勢部也。」 「この御世に海部・山部・山守部・伊勢部を定めたまひき。」 「紀」:「五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國、定海人及山守部。」 「即位5年秋8月13日。 諸国に令を出して、海人と山守部を定めました。」 とあり、品部としての「海部」を設置したのは応神天皇朝からということになります。 『籠名神社祝部氏系図』から推測するに、丹後の海部氏はこの頃から海部姓を名乗ったということかな(´・ω・`) 12代景行天皇が子である豊国別皇子を初代豊国・日向国造として置いた場所に海人である「海部王」がおり、その3代孫である老男命が世代的にも一応マッチしますね。 少なくとも当墓は前方後円墳であり、海部王なる人物は、ヤマト王権によって国造を定められた後の人物であったはずです。 また豊後と丹後は共通する地名も多く、海部を通じて何らかの関連性が指摘されます。(大野、三重、熊野、竹野、笠(加佐)、丹生、真那井(真名井)、八坂(弥栄)、蒲江、海原(皆原)海部、蛭子、葛木、三宅、矢田、畑、住吉、舞鶴、羽衣など多数) 少し纏めてみますと、  ●筑紫国 大彦命の末裔  ●豊国・日向国(熊襲国) 海部・海人(少なくとも日向国については秦氏系)  ※この三国は景行天皇の説話が多いのも特徴です。 通説では、日向国は初代神武天皇出身地で、更にいえば天照大御神の孫である邇邇芸命の降臨した地のはずで、東征神話の話からも当地が我国の始まりの地のはずが、後に景行天皇或いは息子の倭建命による熊襲平定、その後倭建命の異母兄弟である豊国別皇子が初代日向国造となるというのは非常におかしな話です。 考古学的にも律令制以前とその後との境界については、wikipedia 日向国の項に、 「日向地域では、弥生時代には青銅器の欠如と抉り入り方形石包丁の存在という特色が見られていたが、4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した。」と書かれており、同内容に記されている中で、少なくともwikipediaに確認できない六野原(むつのばる)古墳の六号墳からは、 この三又鉾は宮崎県では例のない出土であったようで、形状から農具ではないと考えているようです。 ◆現在の銛(もり) これは古代の漁労具である簎・矠(ヤス)、現代の銛であろうと思われます。 海と面しない奈良県にあるホケノ山古墳と同様に、当古墳の被葬者も「海人」であることを裏付ける材料ではないでしょうかね。 前項を補足する資料となりますが、日向国においても、惟宗氏以前からも恐らく5世紀中頃にはヤマト王権下の「海人」の痕跡が残っているのです。 ◆ヤマト王権の九州南部への進出 ※「古事記をそのまま読む」より拝借 九州で残る肥国はチョット面倒くさいので後回しにしておいて、本項では寄り道しながら海人の痕跡をトレースする形になりましたが、次項では大幡主命関連をもう少し掘り下げて考察してみたいと思います。(もはやカテゴリー違うね…)

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  • 28Mar
    • 八坂神社から考察 ①

       八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。二十二社(下八社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。 社名としては、元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改められた。(wikipedia 八坂神社より抜粋) さて、全国各地に2,300社もあるとされる祇園社、その中でも三指に入る有名な祇園祭を一般的に「日本三大祇園祭」と呼んでいます。 ●博多祇園山笠(福岡市 櫛田神社) ●会津田島祇園祭(南会津町 熊野神社) ●祇園祭(京都市 八坂神社) しかし、これとは別に、古くから世に崇敬ある祇園社を、「日本三祇園」といいます。 残念ながらこの「日本三祇園」がどの社なのかを知っているという方は恐らく稀で、答えをいいますと、 京都市 八坂神社(関連神社の総本社、まぁこれはわかるでしょう) 沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)「広島県福山市鞆町後地1225 別称:鞆祇園宮(ともぎおんぐう)」 宮崎駿監督作の「崖の上のポニョ」に出てくるモデル地となった鞆の浦ですね。 御朱印には鞆之浦と書かれています。 そして最後に… 宍喰八坂神社(ししくいやさかじんじゃ)「徳島県海部郡海陽町宍喰字久保」 ◆御祭神 武速須佐之男命 「宍喰八坂神社の祇園祭」は、国指定文化財になっています。 由緒は古く、鎌倉時代に手写しの大般若経が奉納されていることでも明らかであり、大永6年(1526年)、天文17年(1548年)に再建の記録があります。 また三祇園であったことから、京都祇園社が焼失した際、院(上皇)から阿波と周防の二ヶ国に対して、承久2年(1220年)と建治3年(1277年)に造営費を差し出せと命じられています。 余談ですが、周防の読みは長く「すおう」、ハ行転呼が起きる前は「すはう」と言われてきたが、古代の日本語では母音が連続することはないため/suhau/という読みは不自然であり、当初は諏訪と同じく「すわ(歴史的仮名遣:すは)」と読まれていたと考えられている(wikipedia 周防国より抜粋) 前は、岡ノ山にあったのが、慶長元年(1596年)に現社地の久保に鎮座。 また境内の夫婦楠は、根元の周囲が約20mもある樹齢約500年の大木で、町指定天然記念物になっています。 ●二の鳥居 何故か漢字は「八坂」ではなく「八阪」 ●狛犬 ●拝殿 独特の形状ですね。 ●本殿 本殿右側に「大歳神社」 左側は「地神宮」 ●神紋 「五瓜に唐花」 八坂神社の御神紋は、「五瓜に唐花(ごかにからはな)」と「左三つ巴(ひだりみっつともえ)」。 何故か2つの神紋があります。 現在もこの紋については謎とされており、明確な答えが出ていない紋の一つとされています。 そもそも神社が何時頃から「紋」を使い始めたかも実は不明です。 「洛中洛外図」で現存する最古のものは、『歴博甲本』(1525年頃。室町時代)。 これを見ると山鉾には五瓜に唐花がついていることから、少なくともこの頃には既に八坂神社は五瓜に唐花紋を使用していたとされます。 この五瓜に唐花紋がキュウリの断面に似ていることから、八坂神社の氏子や祇園祭の山鉾の人々は祇園祭の期間である7月はキュウリを食べないといいます。 博多の祇園祭においても、櫛田神社の神紋がキュウリの断面に似ていることから、祭りの期間中はキュウリを食べません。 こうした習慣は、須佐之男命あるいは京都の八坂神社と関係のある全国各地の神社のある地域で見られます。 この話から、五瓜に唐花紋は、「胡瓜の断面を象った紋」と言われることがあります。 祇園社が木瓜(もっこう)の神紋であった理由については1つの伝承があり、江戸時代の随筆である『遠碧軒記』には、「祇園の天王の紋は木瓜也。…今知恩院の内に瓜生石と云石あり。此所が根本牛頭天王の降下の地にて此石の上に瓜のつる出で瓜なる奇瑞ありたりといふ。それによって瓜生石と云」と記されています。 『伊勢参宮名所図会』(享和二年1802年)の挿絵には、瓜鉾は瓜生石の上に一夜に蔓を伸ばした瓜の形をかたどったものといわれ、その瓜はキュウリではなく、マクワウリのような形をしています。 また、岩手県の水沢鎮守府八幡宮 加勢蘇民祭に、蘇民祭と言われる由縁は、850年(嘉祥3年)、鎮守府に来た慈覚大師は、管内が疫を患い、民庶死に尽くすと言われるほどの病災に悩んでいることを知り、八幡宮心経会に、大師所持の疫病除けの護符を捧げ、庶民の苦患を八幡大神に祈りました。 この「そみんぼう」の由来は、大師が嘗って大病を患いしとき、夢に天より薬を送らる。 形、マクワウリの如くして、それを喰うとその味密のごとく甘味であった。「是は三十三天不死の妙薬なり」と、「飲むこと三度、十日ほどして身健に、眼明らかに、心にわだかまるものなく、病患を絶つことを得た。」(三代実録より) このマクワ瓜の形に葉と花をそえて薬神の像として版刻し、正月七日夜おこもりして白紙に押し、八日早暁に国家安穏、悪魔退散、諸病消除の祈祷をして氏子の戸口に貼る。この門には疫病、災害が入らないという。 のちにこの薬神を八坂神社の牛頭天王とし、スサノオノカミとし、蘇民将来の故事によって「そみんぼう」と言うようになった。現在行われている「蘇民祭」はこれである。(岩手の蘇民祭より) 昔のキュウリは大変不味かったとされ、これを神紋に使うとは思えず、これはマクワウリではないかという説が御座います。 「記紀」にも瓜が登場しますし、万葉集には山上憶良の詠んだ有名な「瓜はめば 子ども思ほふ 栗食めば まして思はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ」の長歌がありますが、この瓜は、マクワウリを指すのが定説とされています。 また弥生時代前期の遺跡からも、マクワウリの種子が発見されています。 次に、もう1つの神紋である「三つ巴」に関してですが、その由来には諸説あり、その中の1つに、弓矢の「鞆」の形から来ているという説があります。 三つ巴といえば八幡神のシンボルですが、八幡神は源頼朝の信仰が厚く、武芸の神・弓の神として祀られたといいます。 つまり、「三つ巴」は武芸の象徴ということです。 また八幡神は、第15代応神天皇の諱の一つである、大鞆和気命(おおともわけのみこと)とも同一視されています。 『日本書紀』では、この名は、天皇が生まれた時、その腕の肉が弓具の鞆(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来云々とありますが、このようなわざわざ身体に関する注釈記述をする場合は何かしらの秘密を隠していると考えています。 例:反正天皇が生まれながらにして綺麗な歯並びであったので、「瑞歯別」(みずは)の名があるなど。 その際たる理由として考えられる、天皇の出自の隠蔽に他なりませんが、詳細は今後追って精査・考察していこうと思っています。 さて、この御祭神であるスサノオなのですが、一体どの地を行き来していたのでしょうか 釈日本紀より「備後国風土記逸文」 備後の国の風土記にいはく、疫隈(えのくま)の国つ社。 昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。 その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。 ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来惜し奉りき。 すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。 ここに畢(を)へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみのこ)その家にありや」と問ひ給ひき。 蘇民将来答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。 即ち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。 詔の隨(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民と女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。 要約すると、 旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながら粟飯等でもてなした。 後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。 武塔神は自ら速須佐雄神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた。 とあり、備後国風土記から察するに、備後から見て北の海(出雲)にいたスサノオが、南の海(阿波)にいる「神の女子」に夜這いに出かけた際の説話ということのようです。  実はこれらの地には共通する点があり、地図に落としますと、 全て「鞆浦」の地名のある地であり、これ等が見事に等距離間隔で一直線に並んでいるのです。 当時、南海道は四国と紀伊を指しますので、方位的にはピッタリと符合します。 またスサノオは、風土記の説話の内容から、再度阿波国(厳密には長國域)に訪れているため、実際は帰って来ていることになります。 更にいえば、スサノオは阿波で妻を探していたのです。 『日本書紀』巻第一神代上第八段一書に、素戔嗚尊が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)という地に高天原から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、直ぐに出雲の国に渡ったとの記述があります。 「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという説もあります。 また興味深いことに、神紋でもあるキュウリは、当地徳島県海部郡の生産は県下2位、促成キュウリの生産は県下1位です。(関係があるかはわかりませんが) ●こちらが宍喰八坂神社の山鉾 ソーシンプル(´・ω・`) 大山鉾の御台に口ひげを生やした男が「桂男」 得てして元祖たるものは至って質素なりですなぁ。 阿波古事記研究会の見識によると、 「海原を治めよ」と父の伊邪那岐大神に命じられて須佐之男命が最初にやって来たのがこの「宍喰」であったとしています。 鞆浦の地である和奈佐湾(現那佐湾)から阿波の海人族が他地へと渡っていったのではないのかと思われるのです。 その痕跡が鞆浦の地名や、他国の風土記などから繋がりを見せるのです。 さて、更に掘り下げて深読み考察を推し進めて参りますと、 五瓜に唐花(ごかにからはな)の神紋は桜紋と類似しており、これは大山津見神の娘である木花之久夜毘命を意味していると推測。 一般的には桜紋は吉野神社の社紋でもあり、「吉野」と「桜」は密接な関係があると考えています。 千本桜で有名な吉野山のある奈良県吉野神宮。 こちらは明治22年、明治天皇の申し出により創立、明治25年、社殿完成によって鎮座した比較的新しい神社で、その御祭神は後醍醐天皇ですが、この「吉野と桜」の由来は、一般的には671年に役小角(えんのおずぬ)が大峰山で修行している時に金剛蔵王権現を感得して、桜の木にそのお姿を刻んだことに始まると伝えられています。 しかし、桜といえば、木花咲耶姫命を御祭神とする浅間大社、その神紋は八重桜。 以前ご紹介しました塩竈神社も、塩竃桜にちなんで桜を神紋にしています。 ◆左が「五瓜に桜」右が「五瓜に唐花」 両神紋は一見見分けがつかない程酷似しており、八坂神社の神紋も本当のところはキュウリの断面などではなく桜の花を象っているのかも知れませんね。 また鹽竈神社境内にあるサトザクラ系の鹽竈ザクラは、花弁が約40片からなる薄桃色の大輪の八重櫻。 ◆鹽竈ザクラ そしてもう1つの神紋である三つ巴紋。 一見どこにでも見られる「八幡神」の神紋ですが、この「八幡」は阿波では通常「やわた」及び「やはた」と読み、こちらも「八重(やえ)」・「八坂(やさか)」「八幡(やわた)」と、同じ「八」の漢字が付きますね。 さてさて、これらが意味するもの、そして須佐之男命の正体は… チョット深読みし過ぎですかね この件に関しましては次項に持ち越しまして、更なる考察が必要であるとしておきマッスル(´・ω・`)ノ

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  • 15Mar
    • 阿波「海部」から日向、丹後へ ②

       曽禰神社(そねじんじゃ)大阪府泉大津市曽根町1-4-12 『延喜式神名帳』にある「曽祢神社(和泉国・和泉郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。 創祀・創建年代は不詳。 曽根連、曽禰氏の祖神を祀る。『新撰姓氏録』に「曽根連 神饒速日命の六世孫伊香我色雄命の後」とあります。 もとは当社から西に1kmほどの二田町に鎮座していました。 孝徳紀の大化五年(649年)三月条に、「物部二田造塩」の名が見え、蘇我倉石川麻呂は異母弟の日向臣の讒言により、自殺に追い込まれ、このとき石川麻呂の遺体の首を斬り落としたのが二田造塩です。 ◆祭神 饒速日命、伊香我色雄命(曽根連神饒速日命の六世孫)、素盞嗚尊 、表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫命 ◆由緒 曽禰氏の祖神を祀る。素盞嗚尊いかは後の配祀。 弥生前期の大規模遺跡である池上曽根遺跡に隣接している。神域ゆえ発掘されていないが、おそらくここからは祭祀関係の遺跡が出るものと思われる。 この遺跡の大型掘立柱建物のヒノキの柱は紀元前52年に伐採されている。 和泉には大鳥大社の北側に四ツ池遺跡もあり、その他銅鐸も出ており、弥生前期より力のある豪族の存在を思わせる。 この神社の西の海岸よりの地域を二田と言う。二田造は有力な物部一族であり『先代旧事本紀』によれば「五部造、伴領と為て天物部を率て天降り供へ奉る。」の筆頭にあげられている。この氏族の祀った国津神社の祭神は二田物部神とされている。曽根連は二田造の後裔であろう。 ◆境内社 白山神社 ◆祭神 白山姫命 …さて、上にもあるように、古代氏族としての曾禰氏は、物部氏の一族とされ、『新撰姓氏録』でも石上同祖(左京神別)、饒速日命の六世孫伊香色雄命の後裔(右京神別)、あるいは采女臣同祖(和泉神別)との記述があります。 『日本三代實録』卷第卅九に、 「元慶五年四月四日辛巳、阿波國那賀郡人從七位上椋部夏影(くらべのなつかげ)・從八位上椋部吉麻呂・從八位下椋部安成、并白丁十九人、副本姓曾祢連」 元慶5年(881年)4月4日、椋部夏影、椋部吉麻呂、椋部安成、本姓の曽祢連に復する。という旨が記されています。 また、天平5年(733年)のものと見られる『阿波国大帳断簡(正倉院文書)』の古代阿波国の氏族としての記録にも、「椋部(曽禰連)氏」の姓がみられます。 この椋部氏なのですが、 天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、奈良県斑鳩町の中宮寺が所蔵する、飛鳥時代(7世紀)の染織工芸品。天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)とも呼ばれる。 繍帳自体に製作の事情を記した銘文が刺繍で表されていたが、そのうち20字が現存(太字)、この銘文の全文は『上宮聖徳法王帝説』に引用され、一部に誤脱があるものの、飯田瑞穂の考証によって400字の文章に復元されている。 斯帰斯麻 宮治天下 天皇名阿 米久爾意 斯波留支 比里爾波 乃弥己等 娶巷奇大 臣名伊奈 米足尼女 名吉多斯 比弥乃弥 己等為大 后生名多 至波奈等 已比乃弥 己等妹名 等已弥居 加斯支移 比弥乃弥 己等復娶 大后弟名 乎阿尼乃 弥己等為 后生名孔 部間人公 主斯帰斯 麻天皇之 子名蕤奈 久羅乃布 等多麻斯 支乃弥己 等娶庶妹 名等已弥 居加斯支 移比弥乃 弥己等為 大后坐乎 沙多宮治 天下生名 尾治王多 至波奈等 已比乃弥 己等娶庶 妹名孔部 間人公主 為大后坐 瀆辺宮治 天下生名 等已刀弥 弥乃弥己 等娶尾治 大王之女 名多至波 奈大女郎 為后歳在 辛巳十二 月廿一癸 酉日入孔 部間人母 王崩明年 二月廿二 日甲戌夜 半太子崩 于時多至 波奈大女 郎悲哀嘆 息白畏天 皇前曰啓 之雖恐懐 心難止使 我大皇與 母王如期 従遊痛酷 无比我大 王所告世 間虚仮唯 仏是真玩 味其法謂 我大王応 生於天寿 国之中而 彼国之形 眼所叵看 悕因図像 欲観大王 往生之状 天皇聞之 悽然告曰 有一我子 所啓誠以 為然勅諸 采女等造 繍帷二張 画者東漢 末賢高麗 加西溢又 漢奴加己 利令者椋 部秦久麻(wikipedia 天寿国繍帳より抜粋) 最後に製作者である「椋部 秦久麻」と記されています。 前回にも載せましたが、 惟宗氏(これむねうじ)は、日本の氏族のひとつ。平安時代に始まる氏族で、秦氏の子孫とされる。 ●概要 家系としては朝臣または宿禰の姓をもつもの、また伊統(これむね)と称するものもあるが、中でもよく知られるのは惟宗直宗・直本兄弟らに始まる惟宗朝臣である。 彼らは讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)であったが、本貫を京に移し、883年に同族の秦宿禰・秦忌寸とともに惟宗朝臣の姓を賜った。(wikipedia 惟宗氏より抜粋) …とあり、上記を纏めますと、饒速日命の六世孫伊香色雄命から分派した物部氏の後裔に、曽禰氏=椋部氏=秦氏から派生して惟宗氏がいるということ。 更に、曽禰氏(椋部)は、阿波國那賀郡の人であるということがわかります。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだ秀歌撰である「小倉百人一首」に詠まれた歌に、 「由良の門(と)を 渡る舟人 かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋の道かな」 歌意: 「由良の海峡を渡って行く舟人が、櫂をなくしてどうすることもできず、行く先もわからないで漂うように、これからの私の恋の行く末もわからないことだ。」 …があり、この歌の作者である曽禰好忠は、wikipediaによると、 曽禰 好忠(そね の よしただ、生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。出自については未詳。中古三十六歌仙の一人。官位は六位・丹後掾。長く丹後掾を務めたことから曾丹後(そたんご)とも曾丹(そたん)とも称された。 ◆経歴 当時としては和歌の新しい形式である「百首歌」を創始し、さらに1年を360首に歌いこめた「毎月集」を作った。当時の有力歌人であった源順・大中臣能宣・源重之らと交流があったが、偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であった。新奇な題材や『万葉集』の古語を用いて斬新な和歌を読み、平安時代後期の革新歌人から再評価された。『拾遺和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に89首入集。家集に『曾丹集』がある。 ◆逸話 寛和元年(985年)円融上皇の紫野での子の日の御遊において、官位に関係なく歌人の和歌を鑑賞する趣向の催しが開かれた際、催しに呼ばれていないにもかかわらず、好忠は召された歌人方の席に強引に着席したところ、藤原実資・藤原朝光の指図により追い出されたという。 ◆脚注 古代氏族としての曾禰氏(曾禰連、曾禰造、曾禰宿禰)は物部氏の一族とされ、『新撰姓氏録』でも石上同祖(左京神別)、饒速日命の六世孫伊香色雄命の後裔(右京神別)、あるいは采女臣同祖(和泉神別)との記述がある。但し、好忠が物部氏族の曾禰連に連なるのかどうかははっきりしない。(wikipedia 曽禰好忠より) 等と書かれており、素晴らしい歌人でありながら、その性格からチョット可哀相な逸話が残されております。⇒『今昔物語』巻28の3原文 ちなみに補足として、丹後掾(たんごのじょう)にある「掾」とは、 掾(じょう)とは、日本の律令制四等官のうち三等官を指す。「掾」の文字は国司の三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。(wikipedia 掾より抜粋) まぁ要するに曽禰好忠は、取るに足らない丹後の下位官人といったところのようです(´・ω・`) 曽禰好忠の歌集である「曾丹集」より、 「よさの海 内外の浜はうらさびて 浮世を渡る 天の橋立」              「曾丹後」と称されるだけあって長く丹後に務いて居たようですが、丹後といえば、やはり縁があるのは饒速日命と同神とされる天火明命を祖神に持つ「海部氏」そして元伊勢 籠神社です。 籠神社の古称は、興佐宮(よさのみや)や、 吉佐宮などと書かれていますね。 この曽禰好忠についてなのですが、 阿波の歴史にたいへん詳しい、ぐーたら氏のブログである「ぐーたら気延日記(重箱の隅)」の「曾禰 好忠(そねのよしただ)出自は阿波か?」から、粟凡直一族のことを調べておられた際、阿波藩勅命版「阿波国風土記」より、「阿波国舊世縣主及國司領家歴代記」という項目の中の一文に、 「海部曽称ノ縣ニ退キ玉フ故朝廷ヨリ曽称ノ姓ヲ賜ル」 「海部の曽称の県(地方)に退いたので、朝廷より曽称の姓を賜った」 「曽称ノ好忠ハ此後胤也」 「曽称の好忠は、この子孫である」  …と明記されてあり、曽禰好忠の出自は阿波だと断言できる内容です。 また、ぐーたら氏は、「海部の曽称の県(地方)に退いたので、朝廷より曽称の姓を賜った」のであるならば、Wikipedia注釈にあるような「古代氏族としての曾禰氏(曾禰連、曾禰造、曾禰宿禰)は物部氏の一族とされ...」という解釈ではなく、曾禰好忠は一般的に言われている、物部氏の系譜であり、饒速日命が祖先であると言われる物部氏の出自自体が阿波にあったということではないかと記されておられます。 これについての補足資料として、「海部町史」に、 阿波志によると、「高園旧高曽弥貞享中高園と改む。今海部郡に属す。曽禰氏の出でたる所、曽禰氏後改て安摩(あま)と称す。又海部と作る。郡名の依る所なり。」 旧事記に「日本武尊の御子恩長田別命、阿波君等祖也」とみえている阿波の国司の後裔… …大日本史巻三一二や阿府志(1793年)にも、前述の資料より更に「按ニ此一家海部(あまべ)也。後ニ安摩トモ云リ。皆之日本武尊御子長田別命ノ御末葉ナリ。天正年中海部左近将監ニ至リテ家絶タリ。イニシヘ曽禰ノ好忠ト云人百人一首ノ歌人也。同所川向ヒ吉野村ニ吉野御所在。曽禰ノ吉麿ヨリ代々此所ニ桜ヲ愛シ玉フ。春ハ花見事ニテ吉野山ニ似タリトテ吉野トハ云ケルナリ。此所ニ好忠モ住玉フテハルカニ亭ヨリ紀ノ路由良ノ門ヲ見玉ヒテヨメルナルヘシ。 由良の戸を渡る船人かぢを絶え行衛も知らぬ恋の道かな 平家物語云。阿波国安摩の六郎忠景平家を背きて源氏に従ひ能登守と和泉国吹井が浦にて合戦し討負たる事見えたり。後にはともの城にすみ給ふ。古今銘尽万宝撰集杯に阿波海部藤殿剣刀ノ鍛ヲ好ミシ事詳ナリ。」と説いている。 徳島県史第二巻「海部郡高園を中心に、海部川流域の土豪に海部氏がある。海部氏はもと阿波の君息長田別命の子孫に阿波国司阿波真人広純があり、広純の後が海部郡高園に退隠したといわれ、吉田城に拠る武士団となった。」 …等云々と興味深い内容が記されております。 粟凡直とも関連してきそうですなぁ。 ちなみに、地図にするとこんな感じ 地名となっている「高園(たかぞね)」は、旧は高曽弥(たかそね)で、当地は曽禰氏の出生地であり、後に安摩(あま)と称し、これが郡名である「海部」となったとしています。 野江・芝・高園は、旧海部町西側にあたる川西村の中の三ヶ村といわれ、芝遺跡や寺山墳丘墓、野江波切不動尊、そして三ヶ村の境に建てたとされる新居神社&神明神社や母川のせり割り岩(割岩(さけいわ)神社がある高園字酒岩※酒岩は訛かな)がある往古の海部川河口域の中心地ですね。 また、阿波忌部研究の第一人者である、林博章先生と話をする機会があり、その際に「吉野」という地名が残るところは、忌部の入植した地に付ける地名であると言っておられたのを思い出しました。 つまり、阿波国海部郡は旧那賀郡から分かれた地であることから、那賀郡の「海部曽称ノ縣」は、現海部郡海陽町高園のこと。 阿波忌部と物部氏、延いては天皇家との関連性を考慮すると、その全てのルーツが阿波である大きな根拠となるのではないでしょうか。 私は更に阿波の中でも、そのルーツは長國域の、それもこの「海部」の地にあると現在は考えております。 少なくとも物部氏についてはね。 いずれにせよ、この阿波「海部」から丹後、そして惟宗氏経由で日向へと、その繋がりが垣間見えたのではないでしょうか。 町史にある、曽禰吉麿より代々此所に桜を愛し、好忠も住んでいたとされる吉野村に在った吉野御所、その候補地推定は桜の所在する場所として2ヵ所を挙げときます。 1つ目は小学校があった跡地。現在は避難場所となっている割と広い敷地が確保できる場所。 もう一か所は萩岡山 覚成寺。 ここには鷲住王の末裔である藤原影時が眠っています。 最後に曽禰好忠の名誉のために、 偏狭な性格で自尊心が高かったことから、社交界に受け入れられず孤立した存在であったとのことですが、歌人としての才能は素晴らしく、後世、折口信夫や正岡子規等はその写法や描写・固定解脱などを絶賛しています。

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  • 05Mar
    • 阿波「海部」から日向、丹波へ ①

       籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏が神職を担当している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。 ◆主祭神 彦火明命 (ひこほあかりのみこと) 「天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。社家海部氏の祖神。 ◆相殿神 豊受大神(とようけのおおかみ) - 「御饌津神」ともいうとする。      天照大神(あまてらすおおかみ)      海神(わたつみのかみ) - 社家海部氏の氏神。      天水分神(あめのみくまりのかみ) 祭神については古くより諸説があり、『丹後国式社證実考』では伊弉諾尊、『神社明細帳』では天水分神としている。 ●創建 社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。 伊勢神宮外宮の旧鎮座地が丹後国分出前の丹波国であったという伝承は古く、その比定地には諸説がある。延暦23年(804年)の『止由気宮儀式帳』では「比治乃真名井」から伊勢に移されたとし、『神道五部書』以来の伊勢神道では旧地を丹波国与佐宮としている。籠神社をその地にあてたものとしては、建武2年(1335年)の文書の「豊受太神宮之本宮籠大明神」という記載、天和年間(1681年-1684年)の籠神社縁起秘伝の「当社籠大明神ハ即豊受大神也」とし「与謝宮ハ則是籠大明神也」とする記載がある。 ●神職 籠神社の神職(社家)は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担っている。海部氏とは海人族を統括した伴造氏族で、全国に分布が見られ、籠神社社家はそれらのうち「海部直」姓を称して丹後に拠点を持った一族である。 一族には、現存では日本最古の系図「海部氏系図」(国宝、平安時代の書写)が残されており、彦火明命を始祖(初代)として82代の現宮司までの名が伝えられている。また海部氏一族が丹波国造を担ったとも伝えているが、丹波国造について『先代旧事本紀』の「国造本紀」では尾張国造と同祖で建稲種命四世孫の大倉岐命を祖と記し、同書「天孫本紀」では饒速日尊(天火明命)六世孫の建田背命を祖と記すように、天火明命を祖とする尾張氏系と彦火明命を祖とする当一族との関連性が見られる。 ◆摂末社 奥宮(境外摂社) ・真名井神社 (まないじんじゃ、眞名井神社) 鎮座地:京都府宮津市江尻 - 本宮の北東約400m 磐座主座(上宮)祭神:豊受大神 相殿神:罔象女命、彦火火出見尊、神代五代神 磐座西座祭神:天照大神(主神)、伊射奈岐大神、伊射奈美大神 「下宮」とする本宮に対して、奥宮の主座は「上宮」に位置づけられる。社殿は桁行一間、梁行二間の神明造で、檜皮葺。天保3年(1831年)の造営で、京都府の有形文化財に指定されている。社殿裏に2つの磐座がある。 ◆摂社 ●蛭子神社(恵比寿神社)祭神の彦火火出見命は、大化以前の本宮主祭神。社殿は一間社流造銅板葺で、京都府の有形文化財に指定されている(真名井神社の附)。 ◆祭神:彦火火出見命、倭宿彌命 ●天照皇大神社 ◆祭神:天照大神の和魂あるいは荒魂 ●真名井稲荷神社明治末期まで奥宮真名井神社に鎮座したが、1991年に本宮境内に移転再建。 ◆祭神:宇迦御魂、保食神、豊受比売 ●末社 いずれも境内社。 春日大明神社 - 祭神:春日四神 猿田彦神社 - 祭神:猿田彦神 また、海の奥宮として冠島・沓島を神域とし、天火明命と市杵島姫命を祀る。傘松公園には冠島・沓島の遥拝所がある。 ●祭事 ・葵祭(例祭) 例祭は4月24日に行われ、「葵祭」と通称される。古くは4月2の午の日に行われており、『宮津府志』には大きな祭であった様子が記されている。祭事では近隣の集落から笹ばやし・太刀振・神楽が奉納される。京都府の無形民俗文化財指定。 ●文化財 国宝 ・海部氏系図(附 海部氏勘注系図)(古文書) 宮司家の海部氏の系図。神社側では「籠名神社祝部海部直等之氏系図」と呼称。平安時代初期の書写で、現存では日本最古の系図とされる。1976年(昭和51年)6月5日指定。なお、系図の所有者は籠神社ではなく宮司家である。 ●その他 指定文化財以外の宝物 海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」息津鏡(おきつ)は後漢代の作と伝えられ直径175mm、辺津鏡(へつ)は前漢代の作と伝えられ直径95mm。「海部氏系図」の勘注系図にも記載があり、天祖が火明命に授けたという。出土品でない伝世鏡では日本最古という。なお、鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は明らかでない。 (wikipedia 籠神社より抜粋) 詳しくはコチラ ⇒ 丹後一宮 元伊勢 籠神社HP 阿波忌部の東征にも関わると考えられる、いわゆる「羽衣伝説の天女の話」から、その出発地である徳島県海部郡、そして島根県を経由して丹後国籠神社に至るまでの経緯考察に付きましては以前に書いておりますので一応リンクを貼っておきますのでそちらをご覧ください。 『羽衣伝説 Vol.阿波 ①』『羽衣伝説 Vol.阿波 ②』『羽衣伝説 Vol.阿波 ③』 今回は阿波海部から日向国、丹後国との共通点について、考察をしていきたいと思います。 まず、丹後国一宮である式内社 籠神社の神職は、現在に至るまで邇邇芸命の兄である天照国照彦火明櫛玉饒速日命と同神とされる天火明命の後裔の海部氏です。 この「海部(あまべ)」なのですが、全国各地に「海部郡」として点在が確認されますが、阿波国のみ”あまべ”と読まず「海部(かいふ)」と読みます。 「かいふ」の考察についてはまた別にしたいと思いますが、この阿波国海部郡にある県下一勇壮との呼び声高い大里八幡神社の秋祭りは有名です。⇒鞆奥と八幡神社の関係について 御祭神は、天照皇大神、誉田別命、天児屋根命。 今回は当社の紹介ではないので詳しくは割愛しますが、毎年10月第3日曜日の大里八幡神社の秋の例大祭前日に、海陽町鞆浦では、「赤ちゃんの土俵入り」が行われます。 この神事は、当地にある港柱神社のお祭りとして、現在は鞆浦字山下(さんげ)の広場中央に土俵をつくり、この一年間に生まれた男の赤ちゃんが土俵入りをします。 港柱神社のご祭神は、速秋津彦命と速秋津姫命で、二神は大綿津見神の兄弟神と河口を司る水門女神です。 この「港柱神社」を調べてみますと、やはり予想通り日向国(宮崎県)に同呼名の「湊柱神社」が存在します。 創建不詳、ご祭神も同じく、速秋津彦命と速秋津姫命。 高鍋藩の著した「続本藩実録」に文化元年(1804)八月八日立岩湊権現にお上(秋月藩主種徳)より銀一匁、雨乞いのお供料として奉献あった旨が記載されており、両神とも水戸を司り、また水戸にあって祓除を掌る神であるとされています。  ◆地図での位置関係はこんな感じ(日向国版) 水戸(門)の神ですから、耳川河口に湊柱神社が鎮座しており、川を挟んで対岸から南に、「立磐→愛宕→八坂」の神社名が確認できます。 ちなみにこれを徳島県海部郡海陽町鞆浦と照合してみますと、海部川河口から南が鞆浦の地ですが、更にその南側に「立岩→愛宕山」そして… 和奈佐(現那佐湾)を挟んで日本三祇園である宍喰八坂神社が確認できるのです。 海部川河口の地形を旧海部町史から確認してみますと、 往古の海部川は、実は立岩川とに分かれており、鞆城(海部城)のあった場所は小島となっていて、城山周辺で合流しています。 八幡神社旧社地である大宮には、式内社 和奈佐意富曾神社が既に鎮座していたとされます。 再度日向国側の地図を見直してみますと、河川河口付近の地形や川の位置関係なども海陽町鞆浦の地と酷似しており、一見すると見間違えてしまう程です。 そして、更にここで目を惹くのが、北側の耳川と南側の石並川との間に「神武天皇御舟出の地」の文字が見えますが、通説によると当地、美々津から神武天皇は船出をし、東征が始ったとされています。 また、神武天皇が船出をする際に、しばし腰掛けて身を休めたという岩が「御腰掛岩」のある場所が現在も立磐神社の境内に残されているそうです。 立磐神社(たていわじんじゃ)宮崎県日向市美々津町3419 ◆こちらがその「御腰掛岩」 御祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神武天皇。 神武天皇以外はいわゆる「住吉」の神様です。 そしてひっそり徳島県海部鞆浦字立岩にも、その地名の由来となる大岩があり、 「南無阿弥陀仏」云々と刻されていますが、 現在は幾度と襲い掛かる南海地震による津波の石碑となっています。 海部町史によれば、大正4年に、神社合併によってそれまで鞆浦各地に存在していた小社を、この立岩のある通り一本北の筋にある徳神社境内に合祀したとありますので、恐らく下記の社の何社かが合祀されたものと思われます。 ・徳神社 祭神 若年命 農事を司る穀物守護の霊神。 ・港柱神社 祭神 速秋津彦命、速秋津姫命。 ・住吉神社 祭神 三筒男命(底筒・中筒・上筒三柱の神)海上守護の神。 ・小島神社 祭神 小童命 漁猟の神。 ・蛭子神社 元蛭子谷に鎮座していたのを東町波止崎に遷した。事代主命を祀る豊漁の神で漁民の信仰が篤い。 ・かさ神さん 高倉鞆坂の上にあって、おでき・皮膚病の神として信仰され、よく土の団子が供えられている。昔ここは奥浦へ越える唯一の通路で、険しいが相当人通りのある坂道であったので、坂を司る天之狭土(あめのさつち)・国之狭土(くにのさつち)の二神を祀り、さかの神がかさの神に転化したのではあるまいか。あるいは病を癒す神である大巳貴命・少彦名命の二座が祭神であるかも知れない。 ・船戸神社 小那佐にある神社で、由緒や創建年代は不明。祭神は船魂命である。 (※海部町史より鞆浦の神社の項から抜粋) かさ神さんの解釈はそれではないとは思いますが…。 場所はココ(と思う) 地元の人はここの神社を通称「すみよしさん」と呼んでいて、そこに神社を集めているといいます。 googlemapsでは分かりませんが、確かに当地は鞆浦住吉地区と呼ばれています。 隣に善称寺というお寺もありますが、やはりgooglemapsでは卍マークは見えませんね(´・ω・`) 大正四年一月一日と書かれていますので、恐らくここが町史にある徳神社境内のはず。 ちなみに地図にある鞆浦内の赤線の町(北町、仲町、南町、東町)は、それぞれ秋の八幡神社のお祭りの時に出される赫船やダンジリの各部落です。 この場所から鞆浦の町並みや港が一望できるところになっていますね。 さて、通説の説話をそのまま徳島県南部に置き換えますと、地形の位置関係等から、海部川と宍喰川との間に位置するのは、海陽町鞆浦字那佐(旧和奈佐)で、ここから神武天皇が東征したと考えられる一つの材料になりうるのではないでしょうか。 以前少しお話しましたが、宮崎県と鹿児島県(旧日向国域)に位置する地形や地名等は、徳島県旧那賀郡の海側、(旧長國)と非常に酷似しており、また「薩摩」に至っては、少なくとも平城京木簡の出土品等からも、徳島県海部郡海陽町に実際に「薩摩」が存在していたこともわかっています。(「薩摩から考察」) ◆地形の類似 地図の無い時代、地形を頭の中で描くことができるのは、巧みに船を操り諸外国まで行き来することができる「海人」以外他なりません。 そして、この港柱神社で行われている赤ちゃんの土俵入りなのですが、実は全国でたった二ヶ所しか行われていないたいへん珍しい神事なのです。 そのもう一ヶ所の場所が、丹後国与謝郡に鎮座する山王宮 日吉神社に摂社されている式内社 杉末神社なのです。  式内社 杉末神社(すぎのすえじんじゃ)京都府宮津市宮町滝上公園1408 赤ちゃん「初土俵入」は山王宮境内にある杉末神社の例祭に執り行われる神事で、化粧廻しを付けた幼児が見えない神様を相手に相撲を取るという、全国でもきわめて珍しく、また可愛らしい神事といわれています。(宮津山王宮日吉神社HPより抜粋) 宮司に聞いたところ「杉末」とは杉の木の先っぽとのこと。 阿波でいうところの「杉尾」と同意なのかも知れませんね。 これが一体何を意味するのかは私はまだチョットわかりませんが(´・ω・`) 御祭神は、大物主神、大己貴神、少彦名神で、宮津郷内唯一の式内社ともいわれています。 宮津の「宮」は、この杉末神社のことだといわれていて、杉末神社のある「津」=港という意味となり、つまりは「宮津」の地名の由来となっているのが当社であるということです。 「室尾山観音寺神名帳 与謝郡六十八前」では、「従二位 粉末(すぎすえ)明神」 「宮津府志」によれば、「敏達天皇元年に大和の三諸山(三輪山)より丹後国余謝郡杉末に降った、今は山王社(日吉神社)の傍らに僅かに摂社としてあるが、元はここが杉末神社を祭った地である。」という。 先に鎮座していた杉末神社を差し置いて日吉神社が宮津の地の総鎮守の地位を奪った旨が記されています。 山王宮 日吉神社(ひよしじんじゃ)京都府宮津市宮町滝上公園1408 こちらの御祭神は、大山咋神、大己貴神。 他にも、事代主命を祀る恵比寿神社や、 大年神を祀る年徳神社、 他にも猿田彦命を祀る船魂神社、大物主命を祀る琴平神社、大山祇命、句々廼馳命を祀る山神社が末社としてあります。 やはり殆ど阿波の、しかも鞆浦の地と似通っていますね。 また、分宮(和貴宮神社)を東の町の氏神とするに対し、杉末神社は西の町の氏神としたようです。 和貴宮神社(わきのみやじんじゃ)京都府宮津市宮本428 御由緒に、宮津海辺の岩を神の依代とした。神殿は室町以前の創建である。古記に一宮別宮大明神・丹後国別宮総社・子守神・分宮大神宮とある。 分社のはずですが、チョット御祭神が違いますね。 主祭神は天御中主神のようで、他に面白いのは我野姫命辺りでしょうか。 天御中主神は、やはり、天-御中主-神という意味かな。 和貴宮と水越岩(宮津市字宮本) 和貴宮は宮津町東部の産土神とされるが、宮津の町の成り立ちを考える上に、この付近は興味深い場所である。伊勢外宮御師の御壇家帳によると、十六世紀前半には概に「宮津市場」が開け、宮津谷の支配城主小倉氏は配下千賀氏をこの地に配していた。「宮津えのしま」も開けていた。当社の創立は少なくともその頃まで遡る。社殿棟札の一つに、永正二年(1505)九月十二日造営の伝を記しているのがあるのも事実に近いと思われる。 細川氏時代に「脇ノ宮」に悦山正善なる社僧がいたことを盛林寺過去帳は伝えている。その頃この付近に「わきの宮かじ」があったことは慶長七年(1602)検地帳から知られる。この社の裏から海岸に通ずる通路を「勘左衛門小路」とつたえているのは猟師勘左衛門が細川氏から頂戴した道と伝えられている。いわば「わきの宮」はそれらかじ町、猟師町の産土神として祀られたのであろう。境内にわだかまる大岩は水越岩と呼ばれて、かって海辺であった跡と伝える。「宮津え(江)の嶋」のあとかも知れない。 現社殿のうち本殿は文化四年(1804)、拝殿は文政三年(1820)建立。本殿は藩主の援助もうけて、大工棟梁の職人町(宮本町)清水清助、後見万町富田弥四郎らの許に多くの諸職人・講中の力を結集して建てられた。全体的に装飾に力を注ぎ、ぶどう籠彫りなど技巧を凝らし、妻飾りも美しく組み立てられている。 宮津市教育委員会 宮津市文化財保護審議会(境内掲示板) 境内社には、波越稲荷など、 他、恵美須神社、兵主神社、弥智俣宮(道俣神)、勲宮、秋葉社、永代宮となっています。 お、こんなものまであるのね。 さて、例の如く阿波国にも旧海部町奥浦(地名由来は鞆浦の奥にあることから)に、脇之宮神社が鎮座します。 脇之宮神社(わきのみやじんじゃ)徳島県海部郡海陽町奥浦字脇ノ宮 ・脇宮神社 阿波志に「脇宮山、在奥浦、上有脇宮及水神祠、出薪木」とある。天児屋根命及び弥都波能売命を祭神とし、本殿・通夜堂鳥居二基と境内に相撲場がある。海部川の水禍を恐れて水神を勧請したことは楠神社の場合と同じであるが、天児屋根命を併祀した意味はどうであろうか。 古事記によれば、天児屋根命は中臣氏の祖神で、岩戸隠れのとき天香山の鹿の骨をははかの木の皮で焼く鹿卜をして日の神のお心を尋ね、そのお出ましを乞う祝詞を奉し榊にとりつけた鏡を捧げた神である。脇宮は古くから鍛冶の盛んな所であったから、有力な刀鍛冶が鍛刀場を潔め心身の不浄を祓うために祭祀の神としてこの祭神を勧請したのであろうか。 当地方の住民は、古くからこの社を勝負の神として崇める風があって、七月十九日の例祭にも山麓の境内に造られた土俵で盛んな奉納相撲が行われていた。(海部町史より抜粋) 相変わらず狛犬は面白い顔をしてますが、脇にある石が気になるところ(´・ω・`) 様々な共通点・類似点、そして更なる考察材料などが出てきたようにも思いますが、このような共通点は単なる偶然ではなく、当地に元より住んで居た海人達が後に進出した地に、郷里の地名や神社として痕跡を残したと推測できるのです。 また、九州の日向の国に関しましては、700年頃にようやく大和政権に併合された後、律令され造られた比較的新しい国であり、「記紀」作成時には恐らく海部の地の海人が当初入植・開拓したであろうと思われます。 地形の類似以外でも、薩隅方言にも似ている部分を有しており、特に海人と密接している漁業の言葉では、魚のことを「うお」と呼びますが、これを海部では「いお」と呼び、薩摩の地でも同じく「いお」と呼びます。 鎌倉時代から薩摩を治めた島津氏も、元を辿れば秦氏の子孫・惟宗氏の流れを汲む惟宗基言の子の惟宗広言が、主筋である藤原摂関家筆頭の近衛家の島津荘の荘官(下司)として九州に下り勢力を拡大、その子の惟宗忠久が、新興勢力である源頼朝から正式に同地の地頭に任じられ島津を称したのが始まりとされ、のちに薩摩国出水平野に城を築き、拠点を移しています。 惟宗氏(これむねうじ)は、日本の氏族のひとつ。平安時代に始まる氏族で、秦氏の子孫とされる。 家系としては朝臣または宿禰の姓をもつもの、また伊統(これむね)と称するものもあるが、中でもよく知られるのは惟宗直宗・直本兄弟らに始まる惟宗朝臣である。 彼らは讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)であったが、本貫を京に移し、883年に同族の秦宿禰・秦忌寸とともに惟宗朝臣の姓を賜った。惟宗直本は律集解と令集解の著者として名高い。彼の子孫は明法家あるいは医家として知られ、『本朝月令』を書いた惟宗公方、『政事要略』を書いた惟宗允亮(律令にちなみ「令宗朝臣」を賜った)が有名。 また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。惟宗広言もしくは惟宗忠康の子・忠久は日向国に下って土着し、当地にあった荘園「島津荘」をちなんで島津氏と名乗るようになったとされる。ただし忠久は源頼朝の落胤と自称して(後世の伝承)、島津氏は(名目上は)清和源氏ということになっている。また対馬の宗氏も惟宗氏の子孫とされる(のちに桓武平氏知盛流を自称する)。そのほか神保氏や安芸氏などが惟宗氏の出とされる。(wikipedia 惟宗氏より) つまり、平安期に讃岐に居た秦氏をルーツに持つ惟宗氏が、少なくとも鎌倉期に日向・薩摩を治めていた。 現時点では推測に過ぎませんが、それ以前は、阿波国の鞆浦の海人の長が治めていたのではないでしょうか。 つまりこれが天皇家や忌部氏に繋がる筋から分派していった物部氏ではないかと思われるのです。 時代を経て四国の有力氏族も畿内へ進出し、更に全国へと勢力を伸ばしていきます。 物部氏(海人)の痕跡と邪馬台国時代に書かれてある国々とを照合させていけば、面白い発見があるかも知れませんね。

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      テーマ:
  • 01Feb
    • 鷲住王から考察 ④

       ◆阿雲磯良(あづみのいそら) 徳島県海部郡海陽町宍喰は、17代履中天皇が訪れた和那散の地であり、日本三祇園と称される武速須佐之男命を祀る宍喰八坂神社の鎮座する古地でもあります。 この旧宍喰町塩深に、鷲住王を祀る大山神社が御鎮座します。 大山神社(おおやまじんじゃ)徳島県海部郡海陽町塩深(しょうか)字尾鼻49 二の鳥居 神社入り口までのアクセスは車で簡単に行けますが、社殿までは結構山を登ります。 ◆祭神 鷲住王命 昭和53年度発行の旧宍喰町の「民俗採訪」という資料に、 合祀先の神社と被合祀神社が書かれておりますが、大正元年に御崎神社と山王神社が大山神社に合祀されているのがわかります。 明治100年記念の再建之碑には大山神社・御崎神社のみ(山王神社はいずこへ…) ◆拝殿 屋根が銅でできているようなので降雨により壁が汚れています(´・ω・`) 神紋は「鷲」 拝殿 社の右側に合祀された御崎神社が鎮座します。 本殿左側には札からは読み取れない社がありますが、こちらが山王神社でしょうかね。通称「裏神さん」 祭神は共に不詳。 履中紀に、「喚鯽魚磯別王之女太姫郎姫・高鶴郎姫、納於後宮、並爲嬪」「鯽魚磯別王の娘の太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)と高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)を呼び寄せて、後宮に入れて、嬪としました。」とあり、当地から二人の皇妃が出たと思われるのですが、ちなみに海陽町のどこにも一切祀られていません。 塩深の「御崎」は一体誰の「御前」だったのでしょうかね。 実は他に気になるのが、次の三点で、 本殿と、 境内にある黒い神馬像と、  社殿左側前部にあったこの跡。 「民俗採訪」に、大山神社は旧村社で履中天皇の弟の鷲住王を祀る。云々から、 「大山神社の境内に石祖大権現がまつられている。これは刀神様で大山神社がまつってあったときからまつられていた。」 …と書かれてあり、後に合祀された山王神社とは別に、当初より当地に石祖大権現なる神が祀られていたことになる。 これが民話に出てくる「鷲住王の剣」なのではないかと推測。 他にもこの塩深には、「権現さん」といわれている神社があるそうですが、祭神は何と「五つの石」だそうである。 『古事記』では、須佐之男命は八岐大蛇を倒した際にその尾から天叢雲剣を得たとあります。 この石祖(いそ)大権現なる刀神は、須佐之男命の息子である五十猛命と同神とされる天村雲命と同名の剣である天叢雲剣のことなのではないでしょうか。 忌部繁栄の地である徳島県吉野川市には、式内社天村雲神社が御鎮座しますが、こちらは妃神とされる伊自波夜比賣命の二座をセットでお祀りしています。 この伊自波夜比賣命は、大日本神祇誌に「建御名方命の孫にあたる出速雄命の女であり、天村雲命の妃である」と書かれており、大日本地名辞書には「信濃諏訪系に建御名方命の御子出速雄命の女に出速姫命あるは、伊自波夜比売神に由あり」とも記されています。 その建御名方命は、『先代旧事本紀』「地祇本紀」では、大己貴神が高志沼河姫を娶って生まれた一男が建御名方神であるとしています。 「記」に「高志之八俣遠呂智、年毎に来たり」とみえますね。 「高志」はどこで「八俣」の「大蛇」は誰なのでしょうかね、ゴニョゴニョ…。 この建御名方命は、事代主命の異母弟とされており、国譲りの際に唯一それに逆らった神でもあります。 また父の大己貴命は、自身の兄神が八十神と記す程たくさんいたとは記されておりますが、「記紀」の記載内容によれば確か末子であったはずで、実弟はいなかったはずです。 その兄弟の中で唯一神名を明記されているのは、国造りの際に義弟となった少名毘古那のみです。 しかしながら天村雲命は、阿波國「続」風土記によると、大国主命と同神とされる天日鷲命の「弟」と記されています。 つまり、大国主命(=大年神)の実妹である宇迦之御魂神(=大宜都比賣)と自身の息子である事代主命とが結婚することで、「実息子=義弟」となったと考えますと、「記紀」に大国主命の義弟と記される少名毘古那と事代主命、更には実弟の居ないはずの大国主命の「弟」は例外なく「義弟」ですので、少名毘古那=事代主命=天村雲命である説が浮上します。 (※建御名方神も該当しますよ) 観音寺市にあった粟井神社の神紋である「鎌の打ち合い」は、建御名方神をお祀りする阿波国式内社多祁御奈刀弥神社と同じ。 建御名方神は別名、御名方富命・建御名方富命。 阿波忌部族の一派であった天富命の「孫」である鷲住王が飯野山の近くに居を構え讃岐国造になった。 神武東征で最後まで抵抗した登美能那賀須泥毘古も何らかの関係がありそうですが、ゴニョゴニョ…。 キーとなる宇迦之御魂神は須佐之男命の娘な訳ですから、結局のところ系譜的にはやはり須佐之男命を含めた上で再考する必要も出て来そうです(´・ω・`)トホホ… 次に、本殿を眺めてみますと、阿波藩主蜂須賀家家紋である卍の意匠と、 本殿正面上部の彫り込みにある鳳凰 ということは、これは方角を司る霊獣である四神の朱雀かなと思ってぐるり一周。 朱雀は南側ですが、面している方角は東側…(´・ω・`)アレ 正面左側を見てみますと、これは玄武かな…いや尾に蛇が居ないし朱雀の左側は西方を司る白虎なはず。 続けて右面を見てみますと、青龍ではなくこれは鶴 …ということは、 この亀は、「太占(ふとまに)」=太で卜う=亀卜(きぼく)等と使われる、つまり「太(ふと)=亀」のこと。 鶴はその名の通り「鶴(つる)」を表しており、 これは履中天皇の妃である太姫郎姫と高鶴郎姫を表していると推測。 「鶴」と「亀」は一般的に占い等では縁起のよいものとされておりますが、この場合は本殿両サイドで「鶴亀(つるぎ)」を指しています。 つまり本殿の彫り込みは鷲住王の妹たちを表しており、それが「つるぎ」を示し、大山神社ができる以前からこの地にあったとされる石祖大権現(刀神様)こと五十猛命=天村雲命の名を同じくする天皇家三種の神器である天叢雲剣が当初はここに祀ってあったのではないかと考える訳なのです。 そして最後の神馬なのですが、 神馬(しんめ/じんめ、かみうま)は、神が騎乗する馬として神聖視された馬である。日本の神社に奉献され、あるいは祭事の際に登場する馬を指す。馬の種類に特に決まりはないが、一般的に白馬を重んじる。 ●概要 奈良時代から祈願のために馬を奉納する習わしがある。奉納者は一般の民間人から皇族まで様々である。 小規模な神社ではその世話などが重荷となること、また高価であり献納する側にとっても大きな負担となることから、絵馬などに置き換わっていった。また、等身大の馬の像をもって神馬とすることも多い。 延喜式3巻26条では、雨を願うときには黒毛の馬を、晴れを願うときには白毛馬をそれぞれ献納するという記述がある。中世の武士は戦争での勝利を祈願するために神馬を奉納した。古くからの神社の中に「神馬舎」・「神厩舎」が馬の存在如何を問わずに設置されている所があるのは、神馬の風習の名残である。 また、祭りなどにおいて多量の馬を使用する場合もあり、一時的に神馬と呼ぶ場合もある。競走馬を引退したサラブレッドが、神馬として奉納されるケースもある。(wikipedia 神馬より) 大山神社には黒い馬が居ますが、実は鈴ヶ峰側には白い馬がいたと伝わっています。 この神馬に願うことで雨乞いを祈願していたようですが、『古代村落より見たる式内社の研究(八)』では「天村雲神は雨神であり、伊自波夜比賣神は水のイヅムことを早からしめる姫神」とし、祭神二神を天地の水神であるとしています。 絵馬(えま)は、神社や寺院に祈願するとき、あるいは祈願した願いが叶ってその謝礼をするときに社寺に奉納する、絵が描かれた木の板である。 ●歴史 かつて、神々は騎乗した姿で現れるとされ、神輿の登場以前は神座の移動には馬が必須と考えられた。常陸国風土記によれば、崇徳天皇の代より神事の際に馬を献上する風習が始まったとされる。奈良時代の『続日本紀』には、神の乗り物としての馬、神馬(しんめ、じんめ)を奉納したと記される。一方、馬を奉納できない者は次第に木や紙、土で作った馬の像で代用するようになり、奈良時代からは板に描いた馬の絵が見られるようになった。 平安時代には神仏習合思想が普及し、観世音菩薩も騎乗して示現するという説が広まることで神社だけでなく寺院にも絵馬を納める風習が及んだ… …また17世紀前期より海運の発達とともに、船主や船乗りなどのあいだで住吉信仰や金毘羅信仰が高まり、航海の無事を祈願するため、自分の船を描いた船絵馬を奉納する風習が見られるようになった。初期の朱印船の絵や江戸後期の写実的な絵など、日本の船舶史を研究する上で重要な図像資料となっている。(wikipedia 絵馬より抜粋) 日本では古くから馬は神様の乗り物=神馬(しんめ)とされ、神聖視されており、祈願の時や祭礼の際、神の降臨を願って生きた馬を奉納する風習がありました。 しかし祭礼の度に奉納するのは大変なので、次第に生馬を奉納する代わりに馬像や板に馬の絵を描いたものを奉納するようになったのが起源とされています。 古代の神社は主に山上等に築くことが多く、この大山神社もそうですが、金刀比羅宮は相当に厳しい立地場所となっています。 恐らく神馬奉納も絵馬の風習も金毘羅さんから始まったのではないのでしょうかね。崇徳天皇祀られてるし、ゴニョゴニョ…。 大山神社ではすでに木馬となっておりますが、金刀比羅宮では現在も神馬が奉納されています。 両社はこの神馬の相当に古い伝承を共に残したと考えます。 ◆金刀比羅宮の神馬、白馬の月琴号と、黒馬のトウカイスタント号 木馬舎もきっちりありますね(´・ω・`) また履中紀には馬の話が随所に見られ、この頃から中国・朝鮮経由で馬をもたらし、移動用にまた軍用としての早期生産に着目したことで、後のヤマト王権が他国を凌駕し全国を征していった勝因の決め手になったのはないかと考えられます。 また、箸蔵寺と金刀比羅宮との共通点は古くから言われており、箸蔵寺は金毘羅奥の院といわれています。 ◆箸蔵寺の鴉天狗と天狗 ◆金毘羅さんの鴉天狗と天狗 二社の共通点はたくさんありますので、探してみるのも面白いかも知れませんね。 さて、須佐之男命の息子である五十猛命(=天村雲命)なのですが、「天(あま)」と付くからには「海人(あま)」族であり、 阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良とも書く)は、神道の神である。海の神とされ、また、安曇氏(阿曇氏)の祖神とされる。磯武良(いそたけら)と称されることもある。阿度部磯良(あとべのいそら)とも。神楽に誘われて海中より現れ、古代の女帝神功皇后に竜宮の珠を与えたという中世の伝説で知られる。 ●概要 石清水八幡宮の縁起である『八幡愚童訓』には「安曇磯良と申す志賀海大明神」とあり、当時は志賀海神社(福岡市)の祭神であったということになる(現在は綿津見三神を祀る)。同社は古代の創建以来、阿曇氏が祭祀を司っている。 民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある(磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。 『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より) 阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある(ほかにも諸説ある)。宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(あちめ)]は阿曇または阿度部のことである。 ●伝説 『太平記』には、磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記している。神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔にアワビやカキがついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(日本神話の海幸山幸神話にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。 海人族安雲氏の本拠である福岡県の志賀海神社の社伝でも、「神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護した」とある。北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。 海神が干滿の珠を神功皇后に献じたという伝説は広く見られ、京都祇園祭の船鉾もこの物語を人形で表わしている。 ●舞い 磯良の伝説をもとにした舞として、志賀海神社国土祭の磯良の舞、奈良春日大社の春日若宮おん祭の細男(せいのう、ほそお、ほそおのこ)の舞などがある。春日大社のそれは、筑紫の浜で老人から「細男の舞をすれば、磯良が出てきて干珠・満珠を授ける」と聞いた神功皇后が舞わせたところ、貝殻のついた醜い顔を白布で隠した磯良が現れたという物語を表現したもので、白布の覆面姿の男たちが舞う。細男は、平安期の記録に「宮廷の神楽に人長(舞人の長)の舞いのあと、酒一巡して才の男(才男)の態がある」と次第書きがあり、この才の男から転じた言葉で、滑稽な物真似のような猿楽の一種であろうと推測されている。『風姿花伝』では、天の岩戸に隠れた天照大神を誘いだすために神楽に合わせて行なった滑稽な演技「せいのう」を猿楽の起源のひとつとして挙げている。 また、大分県中津市の古要神社には、操り人形による細男の舞があり、同様に白布で顔を隠した磯良の人形が使われる。同様のものは、福岡県吉富町の八幡古表神社にも伝わる。(wikipedia 阿曇磯良より) ここでようやく金印のあった「志賀島」や「鹿」・「鹿島」が繋がって来た感じがしますね(´・ω・`) 須佐之男命の娘である宇迦之御魂神を娶ることにより、事代主命は須佐之男命の「孫」でありながら義理の「息子」になりますね、ゴニョゴニョ…。 また、天村雲命も大国主命の実弟ではないのに「弟」になるには、大国主命の妹を娶るしかないですよね、ゴニョゴニョ…。 とまぁ、独り言は置いといて、 伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と、奈良県天理市布留町にある「石上神宮(いそのかみ)」は何らかの関係があるとされています。 石上神宮の社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。 その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。…とあります。 伊勢神宮の外宮の禰宜は天村雲命の後裔である度会氏(磯部氏)、元伊勢籠神社の宮司は海部氏、そして石上神宮の祭主は物部氏です。 海部氏の祖は物部氏で、その祖神は饒速日命(=天火明命)、天村雲命はその3代孫です。 鷲住王の痕跡を辿るとその全ての神社は後に神仏習合されたもので、山上に鎮座し、祭祀されている神は大物主神(=事代主命)と縁が深いものとなっています。 また阿波忌部、更には海人族との痕跡とも合致し、布都御魂剣や天叢雲剣などの神宝となる「つるぎ」ともリンクしています。 中でも「いそ=石祖=石=磯」の謂れが付く社は、須佐之男命の子である五十猛命(=天村雲命)と密接に関係しており、祭祀用の宝物殿として常に時の皇居と共に移動していった痕跡なのではないでしょうか。 ◆鷲住王の痕跡地と履中天皇の痕跡 ちなみに香川県仲多度郡(旧那珂郡)多度津町にも「堀江」の地名があり、 空海が改修したことでも知られる日本最大の灌漑用のため池である満濃池は、金倉川を堰き止めて作ったとされます。 その歴史は古く、701年-704年頃(大宝年間) 讃岐国の国守 道守朝臣が創築とありますが、当地が多度「津」とあるように、古くから海上交通の要所として栄えた港町で、この地も川を掘って江にした地名が付いています。 仁徳紀に、わざわざ「難波」の堀江と書いているのは、徳島の「堀江」と区別したとも考えられますが、案外その「堀江」はこっちだったかも知れません。 また奈仁波乃海も実際は岩利大閑氏の考える場所よりも、もう少し西側まで含んでいたのかも知れません。 海人族であれば、「金毘羅船々」の歌の如く、讃州那珂の郡から船で回れば、難波津、住吉津そして和那散へと行けますね。 恐らくこの辺りの話は倭健命、弟の神櫛皇子・武卵王・讃留霊王とも関連して来ます。 海陽町にある芝遺跡からもサヌカイト片が出てきますしね。 今回ゴニョゴニョ多いし…。 履中天皇の「義弟」である鷲住王、そして履中天皇とは一体 おおよその想像が膨らんだところで他の方面からも検証考察してみたいと思います(´・ω・`)ノシ

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      テーマ:
  • 29Jan
    • 鷲住王から考察 ③

       西讃における鷲住王の痕跡は前項にて確認致しましたが、その鷲住王が阿波からどのようなルートを辿って讃岐へ入植したのかを少し考察して参りたいと思います。 そもそも阿波忌部が讃岐国へ入植したとされるルートなのですが、wikipediaには、 穀(かぢ)や麻の栽培など農業に優れた、天日鷲命を祖神とする阿波忌部氏は、吉野川上流域から三好市池田町の猪ノ鼻峠を越えて讃岐平野まで入植した。 式内社「大麻神社」の社伝には、「神武天皇の時代、当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え、殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め、その祖神天太玉命を祀り、大麻天神(おおあさのあまつかみ)と奉称し、村の名を大麻と云う。」とある。 阿波忌部は麻や穀物の普及をしながら、この大麻山を中心とする讃岐平野の他、西讃、仲多度郡まんのう町から琴平町、善通寺市、三豊市高瀬町に至る地域と、観音寺市粟井町を中心とした三豊平野および三豊市財田町、豊中町などの地域に進出していったと考えられている。 また、18代履中天皇(17代の間違いか)の妃の兄にあたる阿波忌部族の一派であった天富命(あめのとみのみこと)の孫である鷲住王(わしずみおう)は、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興した後、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構え、讃岐国造になった。 飯野山の南山麓には、鷲住王を祭神とする「坂本神社」が祀られ、その背後には鷲住王が眠る「鷲住王塚」が残っている。なお、氏子にはその末裔の高木氏がいる。(wikipedia 讃岐忌部氏より抜粋) …とあり、阿波忌部が現在の徳島県と香川県との境となる猪ノ鼻峠を越え、西讃側より入植したと考えられています。 猪ノ鼻峠(いのはなとうげ)は、香川県三豊市から徳島県三好市にかけて存在する峠である。讃岐山脈の若狭峰と二軒茶屋の間に位置する。(wikipedia 猪ノ鼻峠より抜粋) 阿波側から阿讃山脈を越えた先は、現在の香川県三豊市となり、三豊市豊中町笠田には讃岐忌部の根拠地であったとされる忌部神社が御鎮座します。 忌部神社(いんべじんじゃ)香川県三豊市豊中町笠田竹田214 ◆祭神 手置帆負神 ◆合祀 高皇産龗神、神皇産龗神、武甕槌神、経津主命、高龗神、闇龗神、素戔嗚尊 香川県神社誌には、「御祭神手置帆負命は、讃岐国忌部氏の祖神にして、手置帆負命の子孫この地に住みし祖神を奉齋せしものと傳へられる。」とあり、また「當舎は前述の如く讃岐忌部氏の創祀せし神社にして、往古は広大なりしが如きも中古衰頽して五社大明神と奉称せられ…」とも「一時は、五十鈴神社と奉称されたことありしも、明治十一年四月忌部神社と復帰せり…」とある。 讃岐忌部の祖である手置帆負命(たおきほおいのみこと)は、文献によれば、手置とは、古語拾遺によると「手を置いて物を計量する」と解釈されています(帆負は解釈が困難としている)。 しかし、手置帆負とは名前をそのまま解すると、手を置いて帆を負う(手を使わない帆を張った船)神となり、海洋民族であることを表しています。 また、建物を新築する際、棟木を棟に上げた後に行われる儀式を上棟式、上棟祭または棟上げといい、上棟式は、地鎮祭、竣工式と並ぶ建築の三大祭式の一つで、木造建築の儀式が起源となった祭式で、この上棟式の諸祭神の中に、手置帆負命(たおきほおいのみこと、讃岐忌部の祖)と彦狭知命(ひこさしりのみこと、紀伊忌部の祖)の神名を見ることができます。 両神は共に山から木を切り出す、或いは工匠の守護神といわれており、天照大神が天の岩屋に隠れてしまわれた際、二神が天御量(あまつみはかり)をもって木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営しました。 天児屋命らが祈りを捧げ、天細女命が舞を奏したところ、天照大神は岩屋を出て、この瑞殿に入られました。 後年天降りした大国主命の笠縫として仕えたとされ、手置帆負命は雨から身を守る笠を作る神、彦狭知命は盾を作る神、鍛冶屋の神などとされています。 これらの祭神名は、上棟の時に工事の概要などを記した後世への記録とする棟札に墨書きされ、祝詞奏上の際に奏上されます。 また、阿波忌部入植の痕跡が見られる社として、猪ノ鼻峠を越えて西へ直線距離にして約9km程の所に、式内”粟井”神社が御鎮座致します。 粟井神社(あわいじんじゃ)は、香川県観音寺市にある神社。讃岐国苅田郡(後の豊田郡、次いで三豊郡)の式内社(名神大社)。旧社格は県社。藤目山山麓、岩鍋池の畔にある。 ◆祭神 天太玉命 ◆配祀 天照皇大神、月讀命、保食命 ●由緒 創建時期は不明。讃岐忌部氏がこの地を開墾した際、氏神の天太玉命を祭ったのが始まりと伝えられる。「粟井」は阿波国または安房国から転じたという。かつては刈田大明神と称し、苅田郡(刈田郡、神田郡とも呼称)の由来となったという。 かつての鎮座地は、現在の鎮座地より南方約600mの所という。大同2年(807年)に焼失し、寛弘元年(1004年)に杉尾神社(現・粟井神社境内社杉尾神社)の地(現在地)に遷座したという。(wikipedia 粟井神社より抜粋) ◆3つの鳥居 ◆それぞれの狛犬 神紋は鎌の打ち合いですか(´・ω・`) 社伝によると、「鎮座年月素ヨリ不詳ナリト雖モ忌部氏ノ族天乃日鷲命ヨリ三十一代目武持ノ二男久男ト云人ノ時代本社ヘ奉遷スルコト明ナリ。」(明治三十二年昇格請願書控) 「白鳳十二年…阿波國板野郡河田村六衛門なる者神托ありて…豊ヶ岡に御造営の上天太玉命月読命保食命の三神を勧請せり時に米鳥元年…是氏神始也。」(社伝) 境内社3社の奥にある当地に元よりあったとされる杉尾神社 当社は忌部氏による創建と伝えられ、忌部氏が阿波あるいは安房から来住・勧請したため「アハ居=あわい」を称したといいます。 上記社伝は阿波からの奉遷説ですが、別に安房からの奉遷説をとる社伝もあったようです。 元々は現社地東南にある岩鍋池の南岸に鎮座していたとのこと。 当地は古代苅田郡紀伊郷に属し、武内宿禰の後裔を称する苅田氏のいた土地で、苅田神は苅田氏の氏神と見られます。 式内社調査報告では苅田氏の祖とされるのは武内宿禰を挙げています。 …この辺は今後もう少し詳しく調査する必要があると思いますが、他にも讃岐忌部氏に纏わる神社を調べてみますと、その多くは象頭山を中心に密集しており、そこから拡散していることがわかります。 ◆讃岐忌部氏聖跡マップ ●五社明神(三豊市三野町大見竹田:祭神 手置帆負命) ●荒魂神社(三豊市仁尾町仁尾江尻:祭神 大國魂命、合祀祭神 手置帆負命、彦狭知命等) ●宇賀神社(三豊市豊中町笠田笠岡:祭神 宇賀魂神、笠縫神) ●厳島神社(三豊市財田町財田上大畑:祭神 市杵島姫命、合祀祭神 手置帆負命等) ●御輿連(およれ)社:天太玉命を阿波よりお迎えしたときに立ち寄った場所とされる。元は地元で「よりの岡」「よんだはん」と呼ばれる新池北岸にあったそうだが、現在は粟井ダムの直下竜王社境内に他の地主神と合祀されている。 ●飛羅岐(ひらき)社:柞田川上流の谷口には天太玉命を阿波よりお迎えしたときに、弁当をお開きになって食べた場所との伝承をもつ飛羅岐社が祀られている。元は地元でひらき岳と呼ばれる地にあったらしいが、今は谷口の集落に移され荒神様としてお祀りされている。 ●鷲尾神社(仲多度郡まんのう町十郷:祭神 天日鷲命) ●麻部神社(三豊市高瀬町上麻:祭神 天日鷲命) ●大麻神社(善通寺市大麻町上ノ村山:祭神 天太玉命)丸亀京極家編纂の「西讃府誌」に「相伝ふ弟橘姫(おとたちばなひめ)は讃岐人穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘なり」という記述があり、弟橘媛の父忍山宿弥は大麻神社の神官を務めたとされる。 ●三所神社(丸亀市本島町浦内:祭神 天照皇大神、手置帆負命、天香山神) ●楠尾神社(高松市国分寺町新居:祭神 玉依姫命、八幡大神)神社の由緒によれば、『古代讃岐の忌部の祖、手置帆負命が当国(讃岐)の国造であった時、国の平和を祈る鎮護神として小祠を祀り、命の次子、手置日下大人道長を宮仕えと定め、楠尾の宮と崇め奉った。そのころ社辺に楠の大木数多繁茂し、朝廷の造船用木に献上したとも伝えられている。別名「甲朕の宮」の号がある。』との記述がある。 ●屋島神社内山祇神社(高松市屋島町東潟元:祭神 手置帆負命、彦狭知命等) ●ちきり神社内工初神社(高松市仏生山町百相上町:祭神 手置帆負命、彦狭知命) ●多和神社(さぬき市前山:祭神 手置帆負命(多和神)、大己貴命) ●誉田八幡神社(東かがわ市引田:祭神 応神天皇)手置帆負命の末裔で大内郡の領主である忌部正國が創祀。 中でも最も代表的な社として有名なのが、 金刀比羅宮(ことひらぐう)は、香川県仲多度郡琴平町の象頭山中腹に鎮座する神社である。こんぴらさんと呼ばれて親しまれており、金毘羅宮、まれに琴平宮とも書かれる。 ●概要 神仏習合により真言宗の象頭山松尾寺金光院となり、象頭山金毘羅大権現と呼ばれた。明治維新の際に神仏分離・廃仏毀釈が実施されて、神社本庁包括に属する別表神社、宗教法人金刀比羅本教の総本部となった。全国にある金刀比羅神社、琴平神社あるいは金比羅神社の総本宮である。 海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の日本特別掃海隊(朝鮮戦争における海上保安庁の掃海)の殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。金毘羅講に代表されるように古くから参拝者を広く集め、参道には当時を偲ばせる燈篭などが今も多く残る。 長く続く参道の石段は奥社まで1368段ある。 かつては、金刀比羅宮と倉敷市にある由加山(蓮台寺、由加神社本宮)の両方を参拝する両参りという習慣があったといわれている。 ◆祭神 大物主命、崇徳天皇 ●歴史 -由緒- 金刀比羅宮の由緒についてはいくつかの説があり、一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。別の説として、『生駒記讃陽綱目』の金刀比羅宮の條によれば、延喜式神名帳に名が見える讃岐国多度郡の雲気神社が金刀比羅宮という記述がある。 海上交通の守り神とされるのは、古代には象頭山の麓まで入江が入り込んでいたことに関係があるとされるとの説があるが、縄文海進での海面上昇は5m程度であり、大物主命が「海の彼方から波間を照らして現れた神」であったことに由来すると考えるほうが妥当である。 長寛元年(1163年)に崇徳上皇が象頭山松尾寺金光院に参籠したことから、修験道の御霊信仰の影響で永万元年(1165年)には、讃岐国に流されたまま崩御した崇徳天皇も象頭山松尾寺金光院に合祀した。 戦国時代には荒廃していたが、別当となった象頭山松尾寺の宥盛が信仰を広め境内を整備した。宥盛は死の直前には神体を守るために天狗に身を変えたとの伝説もあり、死後は本堂付近に祀られる。 明治以降 明治元年(1868年)の神仏分離令で金刀比羅宮と改称して神道の神社になり、主祭神の名は大物主神と定められ、相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った。9月13日に勅祭神社とされた。象頭山松尾寺金光院は廃されて、祀られていた宥盛は厳魂彦命と名を変えた。明治38年(1905年)には現在の奥社へと遷座される。それまで金毘羅大権現の本地仏として祀られていた本尊十一面観音像は信仰の対象から外されたが、社宝として現在も観音堂に納められている。不動明王、毘沙門天の2体の脇侍仏は破却の危機に直面したが象頭山松尾寺の末寺である万福院住職宥明によって救い出された。その後、所在は転々としたが、明治15年(1882年)、裸祭で知られる岡山市の真言宗寺院、西大寺の住職光阿によって同寺に勧請され、あらためて金毘羅大権現の本地仏として祀られ現在に至る。松尾寺は、塔頭であった普門院が再興し、法灯を継承している。 近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に国幣小社に列格し、明治18年(1885年)に国幣中社に昇格した。 古くから信仰を集め、こんぴら講に代表される金毘羅信仰を後世に伝えるため、昭和44年(1969年)8月5日、宗教法人金刀比羅本教の設立認可を受け、金刀比羅本教の総本宮となった。総本部は金刀比羅宮の大門近くにある。金刀比羅本教は神社本庁に属さない独立した包括宗教法人であるが、金刀比羅宮自体は神社本庁の被包括法人であり、別表神社に指定されている。(wikipedia 金刀比羅宮より抜粋) 「こんぴらさん」は民謡としても広く歌われ、 金毘羅船々(こんぴらふねふね) 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば 四国は 讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり) 象頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん) 一度まわれば 誰しも一度は耳にしたであろうキャッチーな歌なのですが、歌の起源については諸説あり、どの説も決め手が無いようですが、古事記の研究を30年されてきたという香川ペトログラフ協会・平井二郎会長によると、この歌は讃岐忌部をうたった歌だと言います。 置手に帆負けて、讃州の那珂郡にある象頭山(大麻山)へ船で回って来た金毘羅大権現(大物主命)ということなのかな(´・ω・`) また、阿波・安房といえば、前項終盤でちょこっと出てきましたが、阿波忌部を語る上で避けては通れない人物であり、鷲住王の祖父でもある、 天富命(あめのとみのみこと)は、太玉命の孫。神武東征において橿原宮を造営し、阿波国に続いて房総の開拓をした。 神武東征においては、手置帆負・彦佐知の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。 そして、天日鷲命の孫の阿波忌部を率いて肥沃な土地を求め、阿波国に遣わして穀・麻種を植え、その郡の名は麻殖となった。続いて更に肥沃な土地を求めて阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国は総国と言われ、穀の木の生育したところをは結城郡と言われ、阿波忌部が住んだところは安房郡と言われた。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てた。現在の安房神社でありその神戸に斎部氏が在る。また、手置帆負命の孫は矛竿を造り、その末裔は今別れて讃岐の国に在り讃岐忌部氏として年毎に調庸の他に八百竿を奉るのは、その事のしるしである。(wikipedia 天富命より抜粋) 「記紀」記載の時系からすれば、鷲住王は17代履中天皇の妃の兄ですので、「神武天皇の時代、当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し…」云々との内容からも、既に阿波忌部が開拓した後に後期入植したであろうと考えるのが通説かと思われますが、実際は天太玉命の「孫」である天富命は、神武東征において、手置帆負・彦佐知の二神の「孫」を率いて云々…とあるように、天富命は自身の「孫」の世代を率いて開拓しています。 鷲住王も天富命の「孫」なのですから、同時期同時代の人物であったはずです。 つまり、阿波忌部が西讃から入植し、後に讃岐忌部の祖となった手置帆負神とは祖父を同じくしていることから、同父兄弟の可能性もあり、また鷲住王は後に讃岐国造にもなっている訳ですから、讃岐忌部の祖である手置帆負神とは同神である可能性も考えられます。 また手置帆負神は工匠・建築の神であり、手を置いて帆を負う=つまり帆船の船頭と同じ意味合いになりますら、その職能から山より切り出した木材から巧みに船を作り、帆船を縦横無尽に操舵する「海」に精通していた海人族の長だったとも考えられます。 加えて鷲住王の父である鯽魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)の神名は、海人族の船師=(船頭・船長)と同韻です。 二神共に海人族との深い関連性が示唆されます。 この1世代飛ばしで「孫」として記載する手法は、一代挟むことで出自を曖昧にさせてわからなくさせるトリックを施していると考えられます。 つまりこの場合、手置帆負神=鷲住王であるという決定的な証拠にはなり得ませんが、鷲住王は時の忌部一族上層部の命令により、猪ノ鼻峠ルートから西讃域へ他の阿波忌部氏族らと共に最初の入植に参加したと考えらます。 この説を補足する材料となるのが、徳島民俗学会会長 湯浅良幸氏編による徳島新聞社発刊の「阿波の民話第8集」宍喰の昔話から、 『鷲住王の剣』 とんと昔、あったと。 宍喰を鷲住王が治められとった時の話じゃ。 塩深の村役人に片岡庄兵衛ちゅう人がおった。この家にみゆきっちゅう娘が働いとった。 みゆきは赤子の時に、両親に死なれたんで、可哀相に思うた庄兵衛が引き取って育ててくれた。 年と共に器量よしになり、心根も優しかったんで、村のもんに好かれとった。 ある日。王が狩りに出た時、庄兵衛んくへ立ち寄って、茶を所望された。みゆきがお茶を差し出した。 王が庄兵衛に 「今の娘はお前の子か、名はなんという」 と聞かれた。 「はい、わけあって私が赤子の時から育てとる娘で、みゆきといいます」 「ほうか、わしのとこへ奉公に出さんか」 ちゅうんで、王の屋敷に奉公に差し出した。 何年かたって鷲住王は讃岐の昼間城へ移られた。みゆきは連れていてもらえず泣く泣く別々に暮らすことになった。 別れの日、王はみゆきに、 「この剣をやろう。寂しい時は、わしと思うてくれ」 って、一振の剣を与えた。 しばらくしてみゆきは、庄兵衛に、 「だんなさま、角坂の地蔵ヶ渕の上へお堂を建ててください」 「何、なんのためじゃ」 「はい、讃岐へ行かれた王様のご無事をお祈りしたいんです」 庄兵衛は早速、お堂を建ててやった。 庄兵衛はある晩、白い着物を着たみゆきが「剣が川へ落ちる、剣が流れる」ちゅうて悲しんどる夢を見た。 あくる朝、庄兵衛がお堂へ行くと、お堂は傾いとって、川へ落ちそうになっとった。剣はまつられとったが、みゆきの姿は見当たらなんだそうな。 おーしまい。 …鷲住王の居た時代にこのような氏姓や地蔵ヶ渕のお堂などがあるかは正直不明ですが、この話の重要なポイントとして、「鷲住王は何らかの目的をもって讃岐の昼間城へ移った。」そして角坂に、「鷲住王が所持していた「剣」を祀っていた。」というところにあります。 昼間町(ひるまちょう)は、徳島県三好郡にあった町。現在の東みよし町昼間・東山にあたる。(wikipedia 昼間町より抜粋) ※ちなみに我が国では他に”昼間”の地名はなく、蛭間町(ひるまちょう):愛知県津島市清州が確認できるのみ。 隣接自治体が、徳島県三好郡辻町、三野町、足代村、箸蔵村、香川県仲多度郡七箇村、十郷村、三豊郡財田村とあり、まさに阿波と讃岐の境にある訳ですが、昔話に書かれてある「讃岐の昼間城」が現在の香川県側にあったのかはわかりませんが、律令され讃岐国造が設置されるまでは、まだ阿波国や讃岐国やらの境界はもちろん無い訳ですから、要するにその周辺にあったであろうという推測はできます。 恐らく、徳島県三好郡昼間にあったとされる昼間城へ鷲住王は移動したということなのですが、一体そのお城はどこにあったのでしょうか その候補の一つとして考えられるのが自然の要所となる「箸蔵寺」なのです。 古代の城は、集落に濠を廻らせた環濠集落や山などの高いところにつくられた要塞集落である高地性集落が数多く確認されています。 猪ノ鼻峠及び東側にある東山峠を通交する場合は、箸蔵寺から一望できる位置にあります。 この箸蔵寺は、こんぴら奥の院ともいわれ、現在は神仏習合を色濃く残す寺院として健在ですが、御詠歌に、「いその神 ふりにし世より 今もなほ 箸運ぶてふ ことの尊さ」にもあるように、『いその神』がキーワードとして現れます。 この御詠歌から「箸蔵寺」=「石上神宮(いそのかみじんぐう)」との繋がりが想像でき、この説は、awa-otoko様のブログ「箸蔵寺に隠された「箸:はし」とは何なのか⁉︎ 」の中で、eizo-iwasa様の貴重な口伝を公表されており、その内容は信憑性の非常に高い内容となっておりますので、ぜひ興味のある方は拝読下さい。  この「いその神」なのですが、実は鷲住王とも関係してきます。 そしてまたまた次項に続くのである(´・ω・`)ノ コレなかなか終わらねーな…

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      テーマ:
  • 22Jan
    • 鷲住王から考察 ②

       さて、本題はここからなのですが、阿波忌部研究の第一人者であるS先生の講話の中で、「鷲住王は阿波忌部を再興した後に讃岐へ渡り讃岐忌部の再興にも注力した」というようなお話がありました。 「紀」に「是讃岐国造」とあるように、鷲住王は、後に讃岐国造になっていますが、その痕跡は香川県の西讃を中心に残っています。 鷲住王の由来のある神社の一つとして、丸亀市飯山町に坂元神社があり、 ※飯野山は、別名「讃岐富士」 坂元神社(さかもとじんじゃ)丸亀市飯山町西坂元字山之越187番地 狛犬が玉を抱えていますね(´・ω・`) ◆祭神 鷲住王 ◆合祀 大國御魂神・大直日神・倉稲魂命・譽田天皇 輝く星の氏子われ -坂本神社由緒- 秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。 国持の里 鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し 古き地名は今もなお、ここだしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。 高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。 南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。 父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。 摂津・住吉また阿波内喰にあり。 一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。 薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。 飯山大権現また力山大明神とも称す。 その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。 初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。 鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。 小さいながら私らも、これにつながり生きる星。 飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。 昭和六十年六月吉日 香川県史編纂委員 草薙 金四郎 選文                     斎賀 雅峯 謹書 また、「讃岐国名勝図会」巻之十に、 飯山大明神 西坂本村にあり。社人秋山氏。 祭礼九月十日。同村産土神。 土人、鵜度越神社といへり 祭神 鷲住王。 本地堂 観世音 末社 荒神、境内にあり。この余四座、所々にあり。 社記に曰く、当社は履中天皇御宇、鯽魚賎別親王の御子鷲住王、大勇力にて相撲を好みたまひ、あるとき宮中を忍び出でて摂州住吉に住居したまふ。その妹君天皇の后となりたまひ、御対面ありたきによりて天皇召させられれけば、直ちに阿州肉喰の里に遁れたまひ、鄙賎と交はり、力業を楽しみ高位に登る事を好みたまはず。阿州にて一子を残したまひ、今同国の野根氏これなり。その後当国那珂郡に来り、勇力の人を集め、力業を楽しみたまひ、ここにても一子を生ず。家の辺に喬木多かりしゆゑ、よりてその子孫高木を氏とす。鷲住王没後この地に葬り、社を建てて飯山明神と崇め奉る。その神をいのれば勇力を得るといへり。高木右馬助およびその甥高松弘憲寺宥遍上人、皆この神の末葉にてその勇力世の知る所なり。 康保元年、菅原氏の人修造して軍神とす。その後村民に託宣ありて、我は観音の化身なり、必ず境内に観音を安置し本地となすべしとありしかば、堂を建てて祀れり。 ※西坂元は飯野山南麓側で、つまり坂元神社のこと。 また、『全讃史』に、(※『全讃史』は、讃岐国出身の中山城山(なかやまじょうざん)が文政十一年(1828年)頃に著したもの) 『全讃史』巻之五 神祠志上 式内祠 飯神社 東二村、飯山の南の邊に在り古傳に云ふ。此の祠は、飯依彦命を以て主と爲せるなり。此の神あるを以て、此の山を飯山と名づく。延喜の時、官社に列せらる。而して中古以來荒凉せり。而して今東二村の社と爲り、飯山大明神と号す。法樂寺其の祠を主どる。 『全讃史』巻之十 名山志 飯之山 坂本河津二村の交に在り。蓋し上古飯依彦の倚る所の城の山なり。故に飯山と曰ふ。又飯依彦神を祠して飯神社と曰ふなり。巓に祠あり。蓋し亦大山祇なり。今俗に藥師と曰ふ又穴藥師あり窟中に之を安ず。 飯神社(いいじんじゃ)は、香川県丸亀市にある神社。讃岐国鵜足郡の式内社。旧社格は県社。「讃岐富士」と称される飯野山の西南麓に鎮座し、飯野山登山口もあるが、山自体を神体山とするという。 ◆主祭神 飯依比古命 少彦名命 讃岐国国魂神。伊予之二名島の顔の一つ。飯依は「穀類が集まる」の意味で、食べ物に不足しない地であることを表したと推測される。 ◆合祀 倉稲魂神 大年神 ◆由緒 創建時期は不明。飯野山山頂の岩石群を盤座としたのが始まりという。飯野山山腹に遷座後、康保元年(964年)に現在地に遷座される。 天正9年(1581年)、長宗我部元親の讃岐国侵攻の兵火により焼失。元和8年(1622年)に再建される。 明治元年(1868年)に飯野村の村社に列し、大正10年(1921年)に香川県県社に昇格した。現在の社殿は明治22年(1889年)改築されたもので、昭和56年(1981年)に修復されている。 ●境内社 幸神社、荒神社、伊勢社、飯天神社 ●その他 菅原道真が讃岐国国司時代、飯神社を深く信仰しており、京に帰任する際、木像を彫って納めたという。境内社飯天神社の御神体がその木像であると伝わる。(wikipedia 飯神社より) 幸神社は大年神、荒神社は五十猛命、伊勢社は天照大神をお祀りしているようです。 ※大年神も五十猛命も共に須佐之男命の子、幸御魂、荒御魂ということかな? ◆飯神社由緒(社頭掲示板) 延喜式内社、元県社の飯神社は、古事記の国生みの神話に登場する讃岐国(香川県)の国魂神、飯依比古命と、大国主命と協力して国土の経営に当たった、少彦名命をお祀りして居ります。 「伊邪那岐命と伊邪那美命が御合いまして伊予之二名の嶋を生みたまいき。 この嶋は身1つにして面四つあり。 面ごとに名あり。 伊予の国を愛比売と云い、讃岐の国を飯依比古と云い、粟の国を大宜都比売と云い、土佐の国を建依別と云う」 昔、御社は飯ノ山の山頂にあり、それが中腹に移り、そして現在地に移ったと云われて居ります。 現御社殿は南に向かって建って居りますが、最初は西に向かって居て、飯ノ山を御神体としてお祀りして居たと云われています。 飯神社は醍醐天皇の勅命で延喜5年(905年)に左大臣藤原時平らが編集に着手し、延喜5年(927年)に完成した全50巻から成る法令集、延喜式の神名帳に記載されて居り、祈年祭には国司より幣帛を奉られた神社です。 延喜式に記載されて居る神社を式内社と云い、全国で3132社あり、讃岐国からは24社が選ばれて居ます。 坂出の神谷神社、城山神社、高松の田村神社も式内社です。 明治初年に村社に列せられ、大正10年2月1日に県社に昇格し、戦前は祈年祭、新嘗祭、例大祭には県より神饌幣帛料が供進されて居ました。 県社は15社あり、滝宮の天満宮、宇多津の宇夫階神社、坂出の城山神社があります。 飯天神は、学問・書道の神様、菅原道真公をお祀りして居ります。 菅原道真公は仁和二年(886年)に讃岐国司として赴任、城山の山頂で7日間雨請い祈願をして大雨に恵まれたと云われて居ります。 菅原道真公は飯神社の崇敬厚く、たびたび飯神社に参拝され、都に帰られる時に御自分で刻まれた木像を飯神社に残していかれ、それをお祀りして居るのが飯天神社です。 飯天神社には書、絵が展示されていて、皆さんのお参りをお待ちして居ります。 ●香川県神社誌 飯依比古命は、讃岐国國魂なり。 当国に於いて飯依比古命を祀れる神社は、当社のみにして、夙に延喜の制官社に列せられ、新年国幣にも預らせ給ふ。 社傳によれば、代々の国司崇敬厚く、紀夏井国司たりし時數次奉幣あり。 菅原道真常に参拝し歸任に際しては自作の木像を献納せりと云いひ、現在境内神社菅原社にはこの像を祀るといへり。 神社は飯の山の山麓に鎮座す。 飯山はその山容富士山に類似せるを以て讃岐富士とも称せらる。 往古は山上に鎮座せしと傳へられ、今も不入山と称する地域ありて或いは大和國大神神社の如く山岳を以て神體となせしに非ずやといへり。 中古に至り山腹に遷座志、更に後山麓に奉遷す。 ●神殿奉納の讃言(石碑) 人に父母ありて子を育む、神に父なる神坐して伊弉那岐大神と讃え、母なる神坐して伊弉册美大神と讃えまつる。 父母を祭らずしてこの道は通らず、父母を祭る神にして初めて世を守り人々を育み給う神と成り給う。 讃岐大神 飯依比古(飯山の大神)をはじめ阿波の大宜都比売 伊予の愛媛 土佐の建依別は、父母の神を同じくして四国をはじめ日本全土を悉く守ります神なり。 飯山にこそ父母の神殿を築き奉れと神命を拝し神道日垣宮主天栄人恭々しく、飯山の岩戸を開き父母の神殿を新たに捧げまつる。 飯大神は、父神母神の恵みを集めて宇迦之魂を生み給ひ、人を育み万象に天明を与えます食物の神なれば、参拝の人々、この神の前に合唱篤く、神恩を拝謝し奉れ神恵豊かなるべし。 …何か意味深なことが書かれておりますが、後回しにして次に進みます(´・ω・`) 飯ノ山(いいのやま) 讃岐平野の中央に佇立する山で、古事記にある讃岐の別名飯依彦のよりましし山として、南麓に飯神社がある。これによる名である。(讃岐ものしり事典) 讃岐の方なら誰しも知っているであろう飯野山(讃岐富士)、その由来は『古事記』にある讃岐国魂神である飯依比古命から由来するもので、南西麓に飯神社があり、飯野山自体が神体山なのです。 当地周辺には他にも鷲住王を祀る神社が確認でき、 坂元神社との位置関係はこんな感じ。 高木神社(たかぎじんじゃ)香川県丸亀市土居字引田町2 ◆祭神 鷲住王 ◆合祀 荒魂神 事代主神 社殿右側には稲荷大明神もお祀りされていますね。 合祀された石祠 西讃府誌には、 「高木祠 高木ニアリ祭神鷲住王、相傳フ昔土器川二白布ニ包ミタルモノノ流レ来レリ村人之ヲ取リシカバ忽チ祟リアリ、因テ神子ヲ招キテ是ヲ問フニ木船神ナリト云、即チ此社ニ納メテ合セ祀レリ、瘧ヲ患フル者履ヲ奉リテ新レバ忽験アリト伝」とある。 末裔となる高木姓の名が玉垣に見えますね。 また、他にも富隈神社があり、 こちらの位置関係はこんな感じ。 富隈神社(とみくまじんじゃ)香川県丸亀市綾歌町富熊 狛犬の顏が何となく怖い… ◆祭神 國之狭槌尊 ◆由緒 第十七代履中天皇在位中 景行天皇 皇子 鯽魚磯別王の子 鷲住王 富熊に在住し、その子孫高木某 初代の祖先である。文明十二年(1480年)高木隼人、祖先をまつる廟を再建し、祭祀が続いていたが、戦火にあい衰退していった。天正年間(十六世紀)近江國山本与惣左衛門義篤(足利氏の臣従五位下対馬守)の子 山本与惣左衛門義重、讃岐國富熊に居住を定め、故郷近江より、八王子大明神を迎えて、合祀社殿を再建文禄二年(1593年)産土の神とした。安永八年(1779年)山本与惣兵衛正義は、内海氏と改め八王子大明神を崇拝しつつ、その傍らに祖先を奉る廟を建て、以後その子孫は、裔々祭祀を行っている。以来八王子大明神と称されてきたが、明治初年(1868年)神仏分離により、富隈神社と改め、村社の社格をもち、現在郷土の氏神として崇拝されている。 香川県神社誌によると、 「傳ふる所によれば、履仲天皇の兄鷲住王の後胤、高木某 當村に在住し、其の始祖鷲住王を奉齋して同族一統の守護神とせしに始るといへり。その後、八王子大明神を当社に合祭し、社殿を再興して産土神となせり」とある。 こちらは鷲住王の讃岐での子 秋津根王を祀る社で、飯野山の東南麓にあります。 一王子神社(いちおうじじんじゃ)丸亀市飯山町東坂元字秋常 ◆祭神 秋津根王 ●一王子神社落成記念碑 今からおよそ千五百年前、履中天皇の皇后の兄にあたる鷲住王が、阿波の国脚咋邑に住まわれた時野根王が生まれ、讃岐の富熊郷に移られて又一王子がお生まれになった。 この方を秋津根王と申し上げる。 王は民意を汲み飯山南麓をよく治められたので、里人は祠を建て一王子神社として崇敬してきた。 今も残る秋常原の地名に遠き古が偲ばれる。 高木氏はその子孫と伝えられている。 ※『古事記』にある大倭豊秋津島の別名である天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)は…(´・ω・`) …さて、讃岐国造についてなのですが、12代景行天皇と五十河媛の間の子、神櫛皇子が讃岐國造の始祖なり(書紀巻7)その三世、須売保礼命の子が魚即魚磯別王とされます。 また、「紀」にある脚咋別は、阿波國海部郡の肉咋(徳島県海部郡海陽町宍喰)で、鷲住王は宍喰川の流域を開拓し農耕を始め、そこに邑を作ったとされます。 古文書の『富田家文書』によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれており、「三代実録」に、鷲住王は阿波の却咋より鵜足郡富隈村に移り住み、讃岐で薨玉し飯山に葬ったと記述があります。 (ということは、鷲住王はやはりここに眠っているのだろうか…) 城山の西方約2km西坂元の国持地区に居館を構えたとされ、西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠「みひ」の傍らに鷲住王についての石碑が建っています。 坂元村史に、「楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる」とあります。 忌部氏系譜からは、鷲住王は「天富命の孫」とされます。 また、天皇系譜からは、景行天皇の後裔となり、「古代史俯瞰 by tokyoblog」さんのブログによれば、 景行天皇 - 神櫛別命(神櫛王) - 千摩大別礼命 - 須売保礼命 - 鮒魚磯別王 - 鷲住王としています。※要するに景行天皇5世孫(奇数ですね) しかし、『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神天皇の御世に、景行天皇の子の神櫛王の3世孫の須賣保禮命を讃岐国造に定めたとしています。 ということは、須売保礼命の後を引き継いで自身の孫の鷲住王が讃岐国造を継いだということになります。 ただし、鷲住王を祀る海陽町宍喰に鎮座する大山神社の由緒書には、「鷲住王は景行天皇の曽孫」としています。※つまりは3世孫(同じく奇数世) ※富隈神社の御由緒書には、「景行天皇 皇子 鯽魚磯別王の子 鷲住王」になっていますね(´・ω・`) 通常の解釈で行くと伝承の相違が見られるとする訳ですが、これまでの考察から「記紀」における天皇系譜は引き延ばされていることが確認できますので、ここでも世代引き延ばし調整がなされていると考えますと、讃岐国造の祖は、神櫛別命の3世孫の須賣保禮命=鷲住王と推測されます。 忌部氏系図から、現時点での私説考察をすれば、 天背男命(あませお=須佐之男命)の子、天日鷲翔矢命(大己貴命)、天比理乃咩命(宇迦之御魂神)で、その夫となる天太玉命(八重事代主命)と天日鷲翔矢命の子である大麻比古命(=猿田比古神)も八重事代主命のことで、この二神は共に祖神として阿波国一宮である大麻比古神社の御祭神として祭祀されています。 天太玉命の孫になる天富命は奇数世飛ばしで再び同神になるように調整されており、(要するに大国主命→事代主命の繰り返し)由布津主命と飯長媛命が共に自身の子となります。 つまるところコレが神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛命ということになり、更に須佐之男命と八重事代主命が同神との私説においては、神武天皇=五十猛命ではないかと推測するのです。 冒頭にある坂元神社の由緒書からも、氏子中は星神の後裔であることを示唆しており、天津甕星こと天香香背男(=天背男命)の説話にある、国譲りの際、天津神であるにも関わらず、「星の神の香香背男だけは服従しなかった」ため倭文神(建葉槌命)によって懐柔させたとあります。 天香香背男は、『日本書紀』に唯一現れる「星神」であり、怪しき光を放つ星神香香背男、即ち須佐之男命のことで、履中天皇の招喚に応じなかった鷲住王の説話と酷似する話になっています。 この須佐之男命を祀る海陽町宍喰にある日本三祇園の一社である宍喰八坂神社の御祭神は、実はその昔、須佐之男命ではなく当初は鷲住王をお祀りしていたと聞きます。(参考:海部風土記【大山神社考】) 祭神が変ってしまったとはいえ、実は須佐之男命と鷲住王が同神であったのであれば、その理由も頷けます。 「紀」の鷲住王の説明にある「强力輕捷」も、須佐之男命の美称「建速(たけはや)」と同じ意味を表していますよね。 また、天津甕星の「甕」は、「御食(みけ)」の連想から飯依比古とも関係し、また、建布都神ともいわれる武甕槌にも関係しています。 『日本書紀』には、火神軻遇突智の首を斬り落とした剣である伊都尾羽張の話と共に、甕速日神(みかはやひのかみ)という建御雷の祖が生まれたという伝承が書かれています。 『古事記』では、経津主神を建御雷神の亦の名としており、この二神は同一神と考えられ、更に布都御魂と経津主神も同一神であると考えられています。 さて、鷲住王についてはもう少し深く考察して行きたいと思いますが、これまでの考察からあえて纏めるなら、 飯山大権現=飯山大明神=飯依比古命=… =鷲住王=須佐之男命(=八重事代主命) (う~ん、須佐之男命=八重事代主命がチョット弱いかなぁ…この辺は今後の考察次第で変わって来るかも。) 個人的には須佐之男命は存在して欲しいけど。

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      テーマ:
  • 20Jan
    • 鷲住王から考察 ①

       ◆鷲(わし)タカ目タカ科に属する鳥のうち、比較的大き目のものを指す通称である。 日本書紀履中紀に、鯽魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)の娘である太姬郎姬と高鶴郎姬が嬪として後宮に入った旨が書かれています。 二人の姫の兄である鷲住王は「讚岐國造・阿波國脚咋別、凡二族之始祖也。」とあり、後に讃岐国造・阿波国の脚咋別(あしくいわけ)の二族の始祖であると記されています。 この”脚咋”は、現在の海部郡海陽町宍喰(旧宍喰町)のことで、播磨国風土記 美囊(みなぎ)の郡 志深(しじみ)の里の条に、「伊射報和気命(履中天皇)が、ここの井戸のそばで食事をなさったとき、しじみ貝が弁当の箱のふちに遊び上がりました。そのとき、天皇が『この貝は、阿波の国の和那散で私が食べた貝だなあ』とおっしゃいました。そこで、志深の里と名づけました。」とあります。 日本書紀では履中天皇が徳島県南部へ行幸された旨は書かれてはおりませんが、二書の事柄を合わせますと、履中天皇は、阿波国の和那散(現在の海陽町那佐)を訪れています。 鯽魚磯別王の子である鷲住王については、履中紀に、 「二嬪恆歎之曰「悲哉、吾兄王、何處去耶。」天皇聞其歎而問之曰「汝何歎息也。」對曰「妾兄鷲住王、爲人强力輕捷、由是、獨馳越八尋屋而遊行。既經多日、不得面言、故歎耳。」天皇、悅其强力以喚之、不參來、亦重使而召、猶不參來、恆居於住吉邑。自是以後、廢以不求」 「この二人の嬪は常に「悲しいなぁ。我が兄王は何処に行ってしまったのだろう」と嘆いた。天皇がその嘆きを聞いて「お前は何を嘆いているのだ」と問うと、「私の兄の鷲住王は力が強く身軽で、ひとり高く大きな家を飛び越えて行ってしまいました。それから幾日も経つのに、会って話ことも出来ません。それで嘆いているのでございます」と答えた。天皇はその力が強いことを喜んで招喚したが応じなかった。また重ねて使いを出しても、猶も応じることはなく、常に住吉邑(すみのえ)に居た。これ以後招喚することはなかった。」 …とあり、天皇は力が強くて軽捷な鷲住王を呼び寄せようとしましたが、居住していた住吉邑から一向に招集に応じる気配が無かったため、これを諦めたという旨が書かれています。  この鷲住王が居たとされる「住吉邑」は、通説では現在の大阪府住之江区もしくは住吉区周辺とされています。 しかしながら、往時の住之江区はほぼ海中(しかも大阪湾周辺は埋め立て地が多い)ですので、現在の住吉大社のある周辺に住吉邑があったのではとされています。 阿讃説をとったとして、徳島・香川両県においても、「住吉」と名の付く地名や神社は、海際の場所を中心に無数に点在しており、あえて比定地のヒントを「記紀」から探りますと、『古事記』仁徳天皇記(履中天皇の父)に、 「又掘難波之堀江而通海、又掘小椅江、又定墨江之津。」 「難波堀江を堀って海に通し、また小椅江を堀り、また墨江津を定めました。」 …とあり、掘って海に通したであろう「難波の堀江」と、墨江というところにあった津(=つまり港)である「墨江之津」と思わしき場所を探すことになります。 畿内説においては、大阪府大阪市西区にある堀江、住吉邑は既に前述の通り。 ちなみにFloodMapsは水位推定+2mにて計算。(実際は+1.5mぐらいだったと予想) 通説の地である大阪府では、「記紀」に見られる地名や河川、或いは港等が全て近隣に揃っており、まるで抜け目がありません。 一般的に通説をプッシュされる諸氏は、安易にこれ等に比定してしまい、逆にそのことによって生じる多くのギャップが認められたとしても、殆どの方々は恣意的に解釈してしまうため、他説など見向きもしないのが人の性分というものです。 今回の場合、あえていうならば、逆に全てがコンパクトに密集しているということが弱点にもなってしまいます。 履中天皇は当初居住していたとされる難波宮から倭へ逃れ、石上神宮に赴きそして磐余稚桜宮(奈良県桜井市池之内)にて即位したとされます。 二人の嬪の兄である鷲住王は常に住吉邑(恐らく仁徳時に定めた”津”のあるところ)に居たとされ、何度か招喚しようとしたが応じず諦めたと書かれてありますので、これが『日本書紀』にある71歳まで過ごした難波宮に居た時代であったとした場合、住吉邑までは僅か8kmというほんの目と鼻の先にあったということになります。 その履中天皇は即位後僅か約5年で崩御されていますから、その5年間を自身の皇居磐余稚桜宮で過ごしたのだとしても、阿波国海部郡海陽町の那佐までそれこそ渡海してまで嬪を娶りに行幸されるバイタリティがあったのであれば、住吉大社から直線距離にして34km程先にある磐余稚桜宮までは馬を走らせると1日で、そうでなくても2日で十分行ける距離でもあり、鷲住王の居所もわかっている訳ですから、どうしても会いたいならば会いに行けたはずです。(あくまで履中は天皇ですから、鷲住王から会いに来いのスタイルなのかな…嫁は自分で貰いに行ってるけどね…) では、現在の大阪府にある比定地が、実は本来の場所から後に移された地名であったとしたならば、実在した場所は一体どこだったのでしょうか 調査を進めていくと、履中天皇、そして義理の兄弟となる鷲住王の痕跡を辿るとおおよそ阿讃地域に痕跡があることがわかります。 ※履中天皇に関してはこれまでに記した来た通り。 ⇒「履中天皇から考察 ①」「履中天皇から考察 ②」 まずは徳島県鳴門市大麻町に「堀江」という地名があり、 ◆徳島県鳴門市大麻町の堀江 FloodMapsで当時を再現するとこんな感じ。  こちらは丁度往古の海岸線辺りとなり、吉野川本流から分かれた旧吉野川と応神町の辺りが分水嶺となって今切川と共に海に流れる形なっています。 地形的にも川を掘り海に通した可能性は十分に考えられると思います。 次に「難波」から探ってみますと、現在のさぬき市にあった津田町立鶴羽小学校は、明治5年から昭和16年まで難波小学校と呼ばれており、この鶴羽小学校も平成22年4月の津田小学校との統合に伴い閉校となっていますが、所在した場所はココ 更に、「地図からみつける千年プロジェクト」というサイトから検索すると、香川県さぬき市にある難波郷はココ つまりこの場合、「難波之堀江而通海」したのは、津田港に注ぐ津田川ということになり、この開けた港が往古の「難波津」ということになります。 そして、徳島県徳島市にも「津田」の地名があり、岩利大閑氏著の「道は阿波より始まるその一」に、 『この讃岐の難波、現在の津田町ですが(今の町は当時は海、山側より内側)、何から何まで以乃津(徳島市)と同じ、以乃津も以乃山(現眉山)下まで当時は海、山下に地下駐車場工事を行った時、地下五、六米の所から船つなぎの杭が数本出土しました。出来州に造られた町の名も同じ富田の庄あり、海辺を津田町。』云々… 現「津田の松原」といわれているさぬき市津田と徳島市津田とが類似している旨が記されています。 ◆さぬき市津田周辺 ◆徳島市津田周辺 阿波の津田が讃岐の津田として移されたところが当時の難波の海、つまり淡路島・鳴門を境に小豆島まで囲まれた海の総称を「奈仁波乃海」といい、この津田の港が難波津であると岩利大閑氏は記しておられます。 更に検証を進めて、時代をもう1世代遡り、仁徳天皇の父である15代応神天皇から「難波」の記述がみられる箇所を「記紀」からピックアップしますと、まずは『古事記』から、 「天皇聞看日向國諸縣君之女・名髮長比賣、其顏容麗美、將使而喚上之時、其太子大雀命、見其孃子泊于難波津而」 「天皇、日向国の諸県君の女、名は髪長比売その顔容麗美しと聞こしめして、使ひたまはむとして喚上げたまひし時、その太子大雀命、その嬢子の難波津に泊てしを見て」 ※日向国から来た髪長比売が難波津に泊していたのを若かりし時の仁徳天皇が見たようです。 この場合の日向国は、現在の宮崎県ではないことはこれまでに記した通り。(応神天皇時代にまだ日向国は存在しない) 恐らく徳島県阿南市周辺(旧阿波国那賀郡領域)のこと。 次に天之日矛の元から阿加流比売が祖国へ帰るという話の中で、 『「凡吾者、非應爲汝妻之女。將行吾祖之國。」卽竊乘小船、逃遁渡來、留于難波。此者坐難波之比賣碁曾社、謂阿加流比賣神者也。』 『「そもそも、わたしはあなたの妻になるような女ではありません。私の祖国に帰ります」 とすぐに小船に乗って逃げていき、難波に辿り着きました。この女神は難波の比売碁曽社に居る阿加流比売です。』  ※小船で祖国へ向かうのにどこから難波に辿り着いたのでしょうかね(´・ω・`) 「於是天之日矛、聞其妻遁、乃追渡來、將到難波之間、其渡之神、塞以不入。故更還泊多遲摩國」 「天之日矛は妻阿加流比売に逃げられたことをしって、すぐに追いかけました。阿加流比売が逃げ込んだ難波に到着するというときに、海の神が遮って入れませんでした。そこで一旦引き返し、但馬国へと到着しました。」 えーっと、但馬国は確かココですよね(´・ω・`)… 通説で解釈すると、難波へ向かうのに海路で但馬国まで引き返すのはいくら何でも間違い過ぎじゃないですかね(日本海側なんですが…) 要するに「多遲摩國」の場所が違うのか、「難波」の方が違うのか、はたまたその両方共が違うのではないでしょうか。 恐らく、『古事記』にある「多遲摩」は日本海側にある「但馬」や海と面していない奈良県の「当麻」ではないことは確かでしょう。 「凡此品陀天皇御年、壹佰參拾歲。甲午年九月九日崩。御陵在川內惠賀之裳伏岡也。」 「応神天皇は御年130歳、甲午の年の9月9日に亡くなりました。 墓は川内の恵賀の裳伏岡にあります。」 大阪府羽曳野市誉田6丁目にある 応神天皇恵我藻伏崗陵(とされる古墳) 実は、京都府長岡京市勝竜寺に恵解山古墳(いげのやま)という名の古墳があり、 ◆恵解山古墳 昭和55年(1980)の発掘調査で、約700点にもおよぶ鉄製武器(直刀146点、鉄剣11点、短剣52点、短刀1点、ヤス状鉄製品5点、蕨手刀子(わらびてとうす)10点、鉄鏃472点)を納めた副葬品埋納施設が見つかりました。このような多量の鉄製武器が出土した例は山城地方ではもちろんのこと全国的にも珍しいものです。こうしたことから、この古墳は5世紀前半頃に桂川以西の乙訓全域を支配した首長の墓と考えられます。 古墳は昭和56年(1981)に国指定史跡(指定面積19,496平方メートル)として、鉄製武器などの出土品は平成11年(1999)に京都府指定有形文化財としてそれぞれ指定されました。(長岡京市ホームページ 国史跡恵解山古墳より) 更に、徳島県にも全く同じ漢字で読みが違う恵解山古墳群があり、 恵解山古墳群(えげやまこふんぐん) 徳島市内の南西部を占める眉山山塊の南麓、恵解山と通称する支脈上に築かれた古墳群。徳島市八万町下福万に所在する。存在が確認された10基の古墳は、いずれも盛土の乏しい小円墳であり、葺石(ふきいし)、埴輪を欠く。埋葬施設には、箱式石棺(1・2・3・8・9号墳)と横穴式石室(5・7号墳)とがある。箱式石棺墳は5世紀、横穴式石室墳は6世紀の築造とみて大過ない。1号墳から人骨、仿製鏡、甲冑、刀剣、鉄鏃が出土した。 (コトバンクより) 例の如く、徳島県の方はwikipediaには記載が無く、やはり天皇陵と目される場所はいずれも眉山周辺に固まっていますが、この場所はどっかでみたような… (現時点ではこの辺にしておいて…) 本土側にある古墳は恐らく後世に移されたものであろうと推測しますが、「紀」にある即位41年崩御から計算すると、上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧から、通常310年となります。 しかし、『日本書紀』にある応神天皇16年条に百済の阿花王が死去とあり、『三国史記』「百済本紀」において阿花王(阿莘王/阿芳王と記載)が死去したと記述されている年(阿莘王14年)は西暦405年であることから、本当の崩御年は120年後の西暦430年ということになり、つまり、神功皇后を卑弥呼に擬定するために干支を二運して紀年操作をしていると推測されます。 …ここでどんどん横道が逸れて掘り下げていくと本当にキリがないので、またいずれこの件も含めて別に考察しようかと思っています。  応神記に見られる「恵解山・堀江・川内」のキーワードから、徳島県の場合はこのような位置関係になり、 地形を見ると旧吉野川と吉野川本流との間の中洲状の土地にできた国、つまり川と川との内側にある国であるから「川内国」となったのではないかという感じもしますが、品陀和気命を祀る旧応神村(現応神町)の別宮八幡神社も元は川内町下別宮・別宮浦にあったとされ、文禄年間(1592年-1596年)に起こった吉野川の洪水により、現在地である応神町中原に遷座したとあり、また川内町を調べてみると、旧板野郡川内村とあり、応神村とは隣接しておりますが、往古はほぼ海の中で、範囲内の殆どが陸地と海が混在するような場所であったはずです。 時代を経て海位が下がっていく過程で、大小河川が集まるこの地は常に地形が変化したと推測でき、当時の”川内”が一体どの辺りまであったのかは不明です。 ちなみに徳島市住吉は、吉野川を挟んで川内町の向かい側となっており、 大阪府住吉区とは紀伊水道・淡路島を挟んで丁度対照のような形なっております。 次に『日本書紀』から、 「廿二年春三月甲申朔戊子、天皇幸難波、居於大隅宮」 「即位22年春3月5日。天皇は難波に行き、大隈宮に居ました。」 「秋九月辛巳朔丙戌、天皇狩于淡路嶋。是嶋者横海、在難波之西」 「(即位22年)秋9月6日。天皇は淡路島で狩りをしました。この島は海に横たわっていて、難波の西にあります。」 『廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢、因以上表。其表曰「高麗王、教日本国也。」』 『即位28年秋9月。高麗の王が使者を派遣して朝貢しました。それで文を伝えました。 「高麗の王は日本国に教える」 』 「卌一年春二月甲午朔戊申、天皇崩于明宮、時年一百一十歲。一云、崩于大隅宮。」 「即位41年春2月の15日。天皇は明宮で崩御しました。その時年齢は110歳でした。ある伝によると大隈宮で崩御したといいます。」 『日本書紀』の方は一貫しており、わざわざ淡路島から難波の場所をわざとらしくネタバレ的に書き記している上、高麗王の使者の失礼な文を当時まだ存在するはずのない「教日本国也。」等と書き、難波の宮の事は「高津宮」ではなく「大隅宮」と記しています。(明宮は徳島側かな?) 恐らく『日本書紀』側の記述は、後に本土に移し替えたものに全て置き換え記した痕跡であるという推測ができるのです。 …さて、話を戻しまして、鷲住王が常に居たとされる住吉邑についてなのですが、 「徳島県の地名集」なるサイトに、鮎喰(あくい):徳島県徳島市鮎喰町 ●吉野川に合流する鮎喰川中流東部に位置する。町名は古くから鮎喰川では鮎を多く産し、住民がこれを食べていたことから起こったといわれ、鮎喰は脚咋(あしくい)とも書かれ「日本書紀」に鷲住王ののちの脚咋別の居住地であったことにもよるといわれている。【角川日本地名大辞典】 同様の項は加茂名小史にも見られるようです。 鮎喰川流域は弥生時代の遺跡・古墳の宝庫であり、鮎喰地域の歴史は、奈良時代に建立されたと伝えられる鮎喰神社と共に始まったと言われています。 「あくい」とは、もともと「低い土地」という意味の「あしくい」「あくり」「あくい」からきているといわれ、鮎喰地域を流れる鮎喰川は、古代には「あくひの川」と呼ばれていました。 阿波志 に「鮎喰祠在荘村、旧在名東東村」とあり、かつて名東東村は「東名東村」と呼ばれていて、庄村、島田村、東名東村、西名東村、蔵本村が合併して加茂名村となり、大正4年(1915年)町制施行により加茂名町になっております。 鮎喰祠、即ち鮎喰神社は、古代において川そのものを神として祀ったものだといわれいていて、古くは鮎喰地域にあったものが、洪水により流され、後に荘村(徳島市庄町)に移ったとされています。 また別伝によると、鮎喰神社は洪水で流されてはおらず、1907年(明治40年) 頃まで存在し、荒廃したため神明神社に合祀されたとされます。 しかも、鷲住王を祀ったもので、いつからか毘沙門天を祀ったと言われだし、理由は分かりませんが「よしのりさん」 と呼ばれるようになっていたといいますが詳細は不明。 当社がどこにあるのかは未確認なのですが、つまりこの鮎喰神社の御祭神は鷲住王を祀っているという謂れもあり、鷲住王の後の脚咋別の居住地であったから「鮎喰」と呼ばれるようになったのではないかということのようです。 つまりは、この徳島市住吉辺りに鷲住王が居住していたとすれば、鮎喰川へは約5kmという距離ですから、当住吉が有力地となるのではないでしょうか。 この鮎喰川流域は、古代遺跡群の痕跡だらけなのですから、古代史を調査している者からすれば往時を想像するのは容易です。 さて次項より、更にこの鷲住王についてもう一歩推し進めて参りたいと思います。 今回は余り鷲住王の話をしてねーな…(´・ω・`)ダガキニシテハイケナイ

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      テーマ:
  • 16Jan
    • 履中天皇から考察 ②

       ①からの続きとなります(´・ω・`)ノ  今回は『日本書紀』履中紀から、物語に沿って考察してみたいと思います。 まず最初に、「去來穗別天皇、大鷦鷯天皇太子也。去來、此云伊弉。」から始まり、去来穗別天皇(いざほわけのすめらみこと=履中天皇)は大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと=仁徳天皇)の太子です。 去來は伊弉(いざ)といいます。  ※伊弉諾神(イザナギ)の「いざ」と一緒ですね。 「母曰磐之媛命、葛城襲津彥女也。大鷦鷯天皇卅一年春正月、立爲皇太子。時年十五。」 「母は磐之媛命です。葛城襲津彦の娘です。大鷦鷯天皇の即位31年の春1月に皇太子となりました。その時、年齢が15歳でした。」 「八十七年春正月、大鷦鷯天皇崩」 「仁徳天皇即位87年の春1月に大鷦鷯天皇が崩御」 とあり、履中天皇は一応まだこのとき太子ですが、上の内容からすでに71歳ということになります。 「未卽尊位之間」 「天皇に即位していないときに」 太子は羽田矢代宿禰の娘の黒媛を妃にしたいと思い、結納品も終え、吉日を告げに住吉仲皇子を派遣しましたが、仲皇子は太子の名を偽り、黒媛を犯してしまいます。 この夜、仲皇子は手の鈴を黒媛の家に忘れて帰りました。 翌日、太子は仲皇子が犯したことを知らないで家に到着。 部屋に入り、帳を開けた時に鈴の音がしたため、太子は不思議に思い黒媛に問います。 履中:「これ何の鈴?」 黒媛:「昨晩、太子が持ってきた鈴ではありませんか? どうして私めに、そのようなことを問うのですか?」 太子は自然と仲皇子が名を偽って黒媛を犯したことを理解し、黙ってその場を去りました。 『古事記』には無かった部分ですが、真偽は別として『日本書紀』では経緯の描写が詳細に書かれています。 しかし、太子はすでに御年71歳時の話でもあり、後述崩御される時に、「三月壬午朔丙申、天皇玉體不悆、水土弗調、崩于稚櫻宮。時年七十。」「3月15日、天皇は病気になって病気で体が臭くなりました。稚桜宮で崩御しました。このとき70歳でした。 」とあり、即位・崩御年の記述に致命的な矛盾点が見られます。 これにより履中天皇が本当に実在したのかも含め、議論されるところとなっております。 また、同母弟の住吉仲皇子の年齢も詳しくはわかりませんが、この後登場する瑞齒別皇子(後の反正天皇)、この項には出てこない雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)も同じく同母弟であり、同時に住吉仲皇子の弟でもあります。 これらを史実と仮定した場合、『古事記』にある三男の反正天皇の崩御されたのが「丁丑年七月」ですから、生年逆算して兄履中天皇より9歳年下となり、次男の住吉仲皇子もすでに相当高齢であったということになります。 内容としては、「記紀」共に住吉仲皇子の人間性の問題点をあげることで、履中天皇が後継者として正当であることを補完した話となっています。 また、類似説話として、景行天皇が美濃国造の神骨の兄遠子・弟遠子という美人姉妹を欲し、迎えに行かせた息子の大碓命に寝取られるという話や、仁徳天皇が隼別皇子を仲人として雌鳥皇女に求婚したが、報告なく隼別皇子が皇女を娶っていたため、天皇がこれを恨むといった話があります。 さて、仲皇子は大事になってしまうことを恐れ、太子を殺そうとし、密かに兵を興して太子の宮を囲みました。 「時、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直祖阿知使主、三人啓於太子、太子不信。」 「その時、平群木菟宿禰・物部大前宿禰・漢直(あやのあたい)の祖先の阿知使主(あちのおみ)の三人は太子に申し上げました。太子は信じませんでした。」 ※ここでは『古事記』と違い、阿知使主以外にもう二人の人物が登場します。 平群木菟(へぐりのつく、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の人物。『日本書紀』では「平群木菟宿禰」「木菟宿禰」、『古事記』では「平群都久宿禰」、他文献では「都久足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称。 武内宿禰の子で、平群氏およびその同族の伝説上の祖とされる。 ●系譜 『日本書紀』仁徳天皇元年正月3日条では、武内宿禰の子とする。『古事記』孝元天皇段では、建内宿禰(武内宿禰)の子7男2女のうちの第四子として記載されている。同様に『新撰姓氏録』では、右京皇別 平群朝臣条等においていずれも武内宿禰の子とされている。 ●記録 『日本書紀』仁徳天皇元年正月条によれば、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれたという。その際、応神の子の産殿には木菟(つく:ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(さざき:ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたという。 ただし上記伝承以前にも記事があり、同書応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、木菟宿禰は紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した。 続けて同書応神天皇16年8月条によると、葛城襲津彦が朝鮮から久しく戻らないため、天皇は新羅が妨げているとし、木菟宿禰と的戸田宿禰を精兵を従えて加羅に遣わした。木菟宿禰らが新羅の国境まで兵を進めると、新羅王は愕然として罪に服し、弓月君の民を率いて襲津彦と共に日本に来たという。 また、同書履中天皇即位前条では、住吉仲皇子(履中の弟)が太子(履中)に対して反乱を起こした際、物部大前宿禰・阿知使主とともに太子に啓したが信じなかったため、3人で太子を馬に乗せて逃げたという。その後、瑞歯別皇子(のちの反正天皇)の仲皇子討伐に従ったが、仲皇子から離反し仲皇子を殺した刺領巾について、自分たちにとっては大功だが主君には慈悲がないとして殺害している。そして履中天皇2年10月条において、天皇が磐余に都を作った時に、蘇賀満智宿禰・物部伊莒弗大連・円大使主らと共に国事を執ったと記されている。 『古事記』では事績に関する記載はない。 ●考証 『日本書紀』では応神・仁徳・履中の3代(130年間)に渡って忠誠を尽くした人物として描かれている。しかしながら、いずれの伝承も父の武内宿禰と酷似することから、木菟宿禰は極めて政治的に造作された伝承的人物と考えられている。 上記のように、平群木菟に関しては仁徳天皇との名前の交換説話(易名説話)が知られるが、このような易名説話は天皇家と武内宿禰および平群氏との君臣関係の締結を示すとされる。またその出産時の説話では、ミミズクやミソサザイがヨーロッパにおけるコウノトリのように霊魂を運ぶ存在として描写されているが、もとより出産の最中に鳥が入り込むことはありえないため、古墳時代の出産ではミミズク・ミソサザイに見立てた鳥形呪具が使用されていたことが伝承成立の背景になったと推測する説がある。(wikipedia 平群木菟より抜粋) ◆ミミズク(木菟) ◆ちなみに名前を交換したとされるミソサザイ(鷦鷯) 物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね) 当人物についてwikipediaに記載がないので、詳しい事績等はこちらで確認くださいませ。⇒【せんせん 物部大前宿禰】 その後三人は酔っていた履中天皇を馬に乗せ難波宮を脱出します。 ここでの流れは古事記と同じ。 「太子、到河內國埴生坂而醒之、顧望難波、見火光而大驚、則急馳之、自大坂向倭」  「紀」では「河内国の埴生坂」と書かれています。 通説での解釈は前回古事記版に記した通り。 燃える難波を見て驚いた太子は急いで大坂から倭へ馬を走らせます。 「至于飛鳥山遇少女於山口」 「飛鳥山に到着して、少女に山口で会いました」 ※現在この山がどの山なのか確認できませんが通説に則すと二上山なはずです。 この山に人は居るか?の問いに答えて、 「執兵者多滿山中、宜𢌞自當摩徑踰之。」 「兵が沢山山中に満ちています。廻って当摩径(たぎまのみち)から越えなさい」 太子はそこで少女の言葉を聞いて歌を歌います。 於朋佐箇珥 阿布夜烏等謎烏 瀰知度沛麼 哆駄珥破能邏孺 哆𡺸摩知烏能流 大坂に 遭ふや乙女を 道問へば 直に告らず 当摩径を告る  大坂で出逢った少女に道を問いたら、直に行くのではなく、回り道の当摩径を行くように言われたよ。 「則更還之、發當縣兵令從身、自龍田山踰之」 「帰って当県の兵を興して、従身して、竜田山を越えました。」 『古事記』同様に大坂越えをしようとした履中太子一行ですが、「紀」では大坂山口ではなく飛鳥山口で少女と出会い、直に行かずに帰って兵を起こした後に当摩径から竜田山を越えたとあります。 ここでは「記」との食い違いが見られ、生駒山南端にある竜田山ルートを選択しています。 この場合、廻道である当麻(たじま)からも遠く離れてしまいます。 これを阿讃に置き換えますと、直越えとなる「大坂峠」の場所が地図で確認できますので確認がてら載せておきますが、 旧寒川郡難波郷(おそらく難波宮があったところ)から大坂峠直越えとなるルートを引き返し、倭(美馬)へは遠回りとなる東側へ逃亡。 逃走推測ルートとして「去來穗別天皇、去來は伊弉(いざ)といいます」の注がある「伊座(いざ)」、「去来」と同意と目される「帰来」の地名が見えます。(”上伊座”の方が南にあるのはなぜかな?) 広域地図だとピンク○の辺り。  更に進むと偶然?かどうかはわかりませんが、「迯田(にげた)」の地名も。 googleMapだとコレ。 位置的には水色〇辺り。 私的にはもう一つの大坂越えとなる讃岐相生から徳島県板野へ抜けるルート。 竜田山の「田」から縦二本線を取って「王」にした竜王山を越えたと予想。  そこに数十人の兵を率いた者が追って来たので太子は山に隠れ、様子を伺うため一人を派遣して問わせました。 「淡路の野嶋の海人です。安曇連浜子の命令により仲皇子のために太子を追っているのです。」 そこで伏兵を出して囲み、安曇連浜子の追手全員を捕らえることが出来ました。 倭直吾子籠はもともと仲皇子を好んでいたため、予めこの計画を知っていて、密かに精鋭を集め太子を阻もうとしていました。 太子はそれを知らず、山を出てから数里進んだところで兵が大勢で道を塞いでいたため、使者を派遣して問いました。 吾子籠はその太子の軍衆が多いのを憚っていうに「聞くところによると、皇太子が非常時であるため、助けようとして兵を準備して待っていた。」 太子はこれを疑い殺そうとしましたが、妹の日之媛を献上するので死罪は許してほしいと請うたため、太子はこれを許しました。 「其倭直等貢采女、蓋始于此時歟」倭直等が采女を献上するのは、このときに始まったとあります。 采女(うねめ)とは、日本の朝廷において、天皇や皇后に近侍し、食事など、身の回りの雑事を専門に行う女官のこと。平安時代以降は廃れ、特別な行事の時のみの官職となった。(wikipedia 采女より抜粋) 「太子便居於石上振神宮」 「太子はすでに石上の振神宮に居ました。」 『古事記』同様に、太子は疑心暗鬼に陥っているため、尋ねて来た弟の瑞齒別皇子(=反正天皇)を疑い会おうとしませんでしたが、反逆の心が無いことを証明するため、「更返難波而殺仲皇子。」仲皇子を倒すべく再び難波に引き返します。 瑞齒別皇子は仲皇子を誅した後の事を考え、不欺であるかを証明するために太子の忠臣である木菟宿禰を付けることにしました。 仲皇子の側近に隼人の刺領巾(さしひれ)という人物がおり、瑞歯別皇子は密かにこれを呼び寄せて、 「わたしのために仲皇子を殺せ。そうすればお前に手厚い報償を与えよう」 といって、錦の衣と褌を脱いで与えました。 刺領巾はそれを信じ、矛を手にとり仲皇子が厠に入ったのを伺って刺殺しました。 木菟宿禰は瑞歯別皇子に、 「刺領巾は他者のために自分の君主を殺したことは我々にとって大きな功績だとしても、自分の君主に対して慈愛があまりに無い。どうして生きていられるというのか」 すぐに刺領巾を殺し、その日に倭に向かい、夜中に石上神宮に詣でて太子に報告しました。 弟王(=瑞歯別皇子)を呼び寄せて、厚く寵愛し、村合屯倉を与え、この日に安曇連浜子を捕らえました。 ※弟である允恭天皇紀に阿波国長邑の海人男狹磯(おさし)の話があり、命に則したが死んでしまった旨が類似します。 またここでは「記」にある”飛鳥”の謂れは書かれていません。 即位元年2月1日、皇太子は磐余稚桜宮で即位。 夏4月17日、阿曇連浜子を呼び寄せて「お前は仲皇子とともに反逆することを謀り、国家を傾けようとした。その罪は死に値する。しかし大きな恩があるので死は免じ、墨(=顏の入れ墨)を科すことにする」 その日に黥(=目に刺青をすること)しました。 これによってその時代の人は阿曇目(あずみめ)といいます。また、浜子に従っていた野嶋の海人たちの罪を許して、倭の蔣代屯倉に使役させました。 ※海人の黥面=阿曇目についての謂れを記している形です。 魏志倭人伝に「黥面文身」と記されてあるように、より古代から倭国の海人が黥面であったことはわかっています。あえて書く必要があったということでしょう。 秋7月4日、葦田宿禰の娘の黒媛を立てて、皇妃としました。 妃は磐坂市辺押羽皇子(いわさかいちのへのおしはのみこ)、御馬皇子、青海皇女ある伝によると、飯豊皇女(いいどよのひめみこ)を生みました。 次に幡梭皇女が中磯皇女を生みました。この年、太歲庚子でした。 ※父である仁徳天皇の妃にも同名の黒日売がいます。 即位2年春1月4日、瑞歯別皇子を立てて、儲君(ひつぎのみこ)としました。 冬10月に磐余に都を作りました。 この時、平群木菟宿禰、蘇賀滿智宿禰、物部伊莒弗大連、円大使主と共に国事を執政しました。円は豆夫羅(つぶら)といいます。 11月に磐余池を作りました。 即位3年冬11月6日、天皇は両枝船を磐余市磯池に浮かべ、皇妃とそれぞれ分かれて乗って遊びました。 膳臣余磯(かしわでのおみあれし)が酒を献上し、その時、桜の花が盃に落ちました。天皇は不思議に思って、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)を呼び寄せて、詔して言いました。 「この花、非時(ときじく=11月だから桜の時期ではない)なのに来た。これは何処の花か? お前が探してこい」 そこで長真胆連は一人、花を尋ね求めて、掖上室山に桜を見つけて、献上しました。天皇は珍しさに喜び宮の名前としました。それで磐余稚桜宮といいます。それはこれが由縁です。 この日に長真胆連の元の姓を改めて、稚桜部造というようになりました。また膳臣余磯を名付けて、稚桜部臣というようになりました。 ※11代垂仁天皇が田道間守に命じて、常世国の時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせた話と少し似ています。 即位4年秋8月8日、諸国に国史を置き、言事を記して四方(よも=国内)の志(ふみ=文=情報)を送らせました。 冬10月石上溝(いそのかみうなで)を掘りました。 即位5年春3月1日。筑紫にいる3柱の神が宮中に現れて言いました。 「どうして我が民を奪ったのか!私は今、お前に恥をかかせてやろう」 天皇は祈祷はしましたが祀りませんでした。 ※この時代の「筑紫」はどこなのでしょうか? 秋9月18日、天皇は淡路島に狩りに行きました。この日に河内飼部(かわちのうまかいべ)たちは従者として付いてきて、轡(おおみまのくち=馬の口につけた手綱)をとっていました。これ以前のことで、飼部の黥(めさきのきず)は皆、癒えていませんでした。その時に、嶋に居た伊奘諾神は祝部に託宣していいました。 「血が臭くて耐えられない」 それで占いによると、 「飼部の黥の匂いを憎んでいる」 これより後、それまで行っていた飼部の黥を止めてしまいました。 即位5年9月19日、風の声のように大虚(おおぞら)に呼ばれました。 「劒刀太子王也。」 「剣刀太子王(つるぎたちひつぎのみこ)なり」 また呼ばれました。 「鳥が往来う羽田のお前の愛する人は羽狭に葬られたぞ!」 また言いました。 「狹名来田蔣津之命(さなくたこもつのみこと)は羽狭で葬られたぞ!」 使者がたちまちやって来て言いました。 「皇妃が亡くなりました」 天皇は大いに驚いて、すぐに馬車に乗って帰りました。 9月22日、淡路から帰りました。 即位5年冬10月11日、皇妃を葬りました。天皇は神の祟りを治めず、皇妃が亡くなったのを後悔して、その祟りの咎を探り求めました。ある人は言いました。 「車持君は筑紫国へ行って、全ての車持部を校(かとる=人民を調査して税金を取ること)して、充神者(かむべらのたみ)を取り上げた罪でしょう」 天皇はすぐに車持部を呼び寄せ問い詰めました。するとこれは事実でした。それで責めて言いました。 「お前は、車持部といって、欲しいままに天子の百姓を検校した。これが罪の一つ。神に配置した車持部をあわせて奪い取った。これが二つ目の罪だ」 それで悪解除(あしはらえ)・善解除(おしはらえ)を負わせて、長渚崎に出で、祓い禊をさせました。そして詔して言いました。 「今より以降、筑紫の車持部を司ることは出来ない」 全て(=人民と車持部)を返して、更に分配して三柱の神に奉りました。 即位6年春1月6日、草香幡梭皇女を皇后としました。29日に藏職(くらのつかさ)を建てました。蔵部(くらひとべ)を定めました。 2月1日、鯽魚磯別王(ふなしわけのおおきみ)の娘の太姫郎姫(ふとひめのいらつめ)と高鶴郎姫(たかつるのいらつめ)を呼び寄せて、後宮に入れて、嬪としました。この二人の嬪は常に嘆いて言いました。 「悲しいかな。私の兄王はどこかに去ってしまいました」 天皇はその嘆きを聞いて、問いました。 「お前はどうして嘆いているのか」 答えて言いました。 「わたしめの兄の鷲住王(わしすみのおおきみ)の人となりは、力が強くて軽くて早い。それで一人で八尋屋を飛び出して行き、多くの日を経ましたが、会えていません。だから嘆いているのです」 天皇は強い力があると聞いて喜んで呼び寄せました。しかし参上しませんでした。使者を重ねて派遣して呼び寄せましたが、参上しません。鷲住王は住吉邑(すみのえのむら)にいました。これ以後、呼び寄せるのは止めて、探し求めもしませんでした。讃岐国造・阿波国の脚咋別(あしくいわけ)の二族の始祖です。(※鷲住王については別に書きます) 3月15日、天皇が稚桜宮で崩御、このとき70歳でした。 冬10月4日、百舌鳥耳原陵に葬りました。 …後半少し走り走りになりましたが、崩御年の矛盾及び陵の推定場所については本項及び前項に前出していますので省略します。 まるっと纏めますと、履中天皇の生涯は波乱に満ちていますが、その生涯の殆どを難波高津宮で過ごしており、倭の五王の「讃」に比定する説があるのもわかります。 また、父である仁徳天皇の妃と同じ名前である黒媛を娶っていることもポイントでしょう。 阿讃説に比定した場合の痕跡の残る地を地図にしますと以下の通り。 履中天皇が訪れた兵庫県三木市志染町(播磨国風土記 志深の里)の地名由来となっている「川の流れ(水流=みながれ)が大変美しい」と言ったことから「みなぎ」と名付けられた播磨三木は香川県の讃岐同様「さんき」とも読むことができます。 脚咋別の記載がある徳島県南部のみポツンと異彩を放っている感じもありますが、これに関しては鷲住王の痕跡と共に解明できればと思っております。 という訳で、次項より義弟である鷲住王からの考察を予定しております(´・ω・`)ノ

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  • 31Dec
    • 履中天皇から考察 ①

       履中天皇(りちゅうてんのう、仁徳天皇24年? - 履中天皇6年3月15日)は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見え、これが正しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆算して369年という事になるが、定かではない。 ●名称 ・大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと) - 『日本書紀』 ・大江之伊邪本和気命(おおえのいざほわけのみこと) - 『古事記』 ・大兄伊射報本和気命(おおえのいざほわけのみこと) - 『播磨国風土記』 ●系譜 仁徳天皇の第一皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛(いわのひめ)。 ・皇妃:黒媛(くろひめ。葛城葦田宿禰の女、一説に羽田八代宿禰の女)  ・磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちのへのおしはのみこ) 仁賢天皇・顕宗天皇の父  ・御馬皇子(みまのみこ)  ・青海皇女(あおみのひめみこ) 皇后:草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ。応神天皇の皇女)  ・中磯皇女(なかしのひめみこ、中蒂姫命) 大草香皇子の妃・後に安康天皇の皇后 ・嬪:太姫郎姫(ふとひめのいらつめ、鯽魚磯別王の女) ・嬪:高鶴郎姫(たかつるのいらつめ、鯽魚磯別王の女) ●皇居 都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市池之内に稚桜神社がある)。 ●略歴 仁徳天皇87年1月、仁徳天皇崩御。住吉仲皇子が皇位を奪おうとして叛するが、弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)に命じてこれを誅殺させ、履中天皇元年2月に即位。同2年、蘇我満智(まち)・物部伊莒弗(いこふつ)・平群木菟(つく)・円大使主(つぶらのおおおみ)らを国政に参画させた。同4年8月、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた。同6年正月に蔵職(くらのつかさ)と蔵部を興し(『古語拾遺』には内蔵を興すとある)、3月に病気のため稚桜宮で崩御した。『書紀』に70歳、『古事記』に64歳、『神皇正統記』に67歳。 ●即位前の試練 古事記では、即位前に婚約者の黒媛(羽田矢代宿禰の娘、葦田宿禰の娘の2説あり。履中5年に神の祟りで急死?)と、大江之伊邪本和気命本人だと偽って通じた住吉仲皇子の反乱を受け、難波宮から石上神宮へ逃げている。その途中、少女に会って、伏兵が居るので、遠回りしろと教えられ、石上神宮で以下の歌を詠んだ。 大坂に遇うや嬢子を道問へば 直には告らず 当岐麻路を告る (おおさかにあうやおとめをみちとへば ただにはのらず たぎまじをのる) 直とは直越えのこと。直越えとは、後世、生駒山を越える道(直越道)で、埴生坂(羽曳野丘陵)から越えようとしているので、現在の穴虫峠。穴虫峠の手前で出会った乙女に道を聞いたのだが、簡単に越えられるはずの直越え(穴虫峠)ではなく、遠くて、標高も高い竹之内峠越えをしろと教えられた。 穴虫峠(二上山の北)は標高約150mに対して、竹之内峠(二上山の南)は標高約300m、数km南に遠い。逃げ込もうとしていた石上神宮は両峠の北東方向にあり、回り道は2倍以上になる。住吉仲皇子反乱の襲撃を受けたとき、難波宮で酒に酔って寝ており、部下に馬にやっと乗せて貰った。 ●陵・霊廟 履中天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市西区石津ヶ丘にある百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は上石津ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長365m)。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 ◆履中天皇 百舌鳥耳原南陵(大阪府堺市) (wikipedia 履中天皇より抜粋) 当たり前ですがwikipediaではあくまで「通説」で記されておりますので、ここは阿波版に置き換えて考察を進めて参りたいと思います。  まず『古事記』履中記にあるあらすじを書いておきましょう。 「本坐難波宮之時」「難波宮に居たとき」から始まります。 地図からみつける千年プロジェクトというサイトから、旧郷地がある程度調査可能です。 履中天皇は新嘗祭の酒宴でほろ酔いし寝てしまい、弟の墨江中王(すみのえのなかつみこ)が天皇の位を奪おうとして宮殿に火をつけました。 倭漢直の先祖の阿知直が天皇を連れ出し、「盜出而乘御馬令幸於倭」馬に乗せ、倭に連れて行きます。 政変にも関わらずなぜか呑気に余裕をかます履中天皇は逃げ行く最中に歌を詠みあげます。 多遲比怒邇 泥牟登斯理勢婆 多都碁母母 母知弖許麻志母能 泥牟登斯理勢婆 多遲比野に 寝むと知りせば 立薦も 持ちて来ましもの 寝むと知りせば 多遲比野に寝ることが分かっていたら、薦(こも=風除けに立てるもの)を持って来たのになぁ。多遲比野で寝るって知っていたらなぁ。 波邇賦坂に到着して難波宮を眺望すると、火が赤々と燃えていました。天皇はここで再び歌を詠みます。  波邇布邪迦 和賀多知美禮婆 迦藝漏肥能 毛由流伊幣牟良 都麻賀伊幣能阿多理 波邇賦坂 我が立ち見れば かぎろひの 燃ゆる家村 妻が家あたり 羽生坂で私が立って見渡すと(「かぎろいの」は燃えるの枕詞。おそらく「陽炎=かげろう」のこと)燃える家や村が見える。妻の家のあたりだ。 波邇賦坂は現在では確認できませんが、一行は大坂山を目指して逃れようとしたようです。 「到幸大坂山口之時」「大坂山口に到り幸しし時」ここで一人の女人に遇いその女人がいうには、 「持兵人等、多塞茲山。自當岐麻道、廻應越幸。」 「兵を持てる人等、多た茲の山を塞げり。當岐麻道より迴りて越え幸すべし」 「兵を持った人たちがたくさんこの山を塞いでいます。當岐麻道を回って越えた方がいいですよ。」 これに対し天皇がまた歌で返します。 淤富佐迦邇 阿布夜袁登賣袁 美知斗閇婆 多陀邇波能良受 當藝麻知袁能流 大坂に 遭ふや乙女を 道問へば 直には告らず 當岐麻道を告る  大坂で会った乙女に道を聞いてみたら、直にたどり着く道を教えてくれずに、當岐麻道を通る回り道を教えてくれた。 「故、上幸坐石上神宮也。」「故、上り幸して石上神宮に坐しましき。」それで石上神宮に着きました。 この石上神宮(いそのかみじんぐう)の比定ですが、 箸蔵寺(はしくらじ)は、徳島県三好市池田町州津に所在する真言宗御室派別格本山の寺院。山号は宝珠山(ほうしゅざん)。 本尊は金毘羅大権現。明治初年の神仏分離令以前、香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮がまだ松尾寺の管理だったころ同じ本尊という縁で交流があり当寺の方は、こんぴら奥の院と称した。そして、神社と寺院として交流が失われた今でもそのように云われており、神仏習合の風習を色濃く残す寺院である。 四国別格二十霊場第十五番札所、四国三十六不動尊霊場第四番札所、四国三十三観音霊場第二十八番札所、阿波西国三十三カ所二十三番札所。 ◆本殿 御詠歌:いその神 ふりにし世より 今もなほ 箸運ぶてふ ことの尊さ ●概要 伝承によれば平安時代前期の天長5年(828年)四国巡錫中の空海(弘法大師)が、当地に霊気を感じ山上に登った。すると金毘羅大権現が現れ「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」というお告げを空海に授けたという。そこで、空海は自ら金毘羅大権現の像を刻み堂宇を建立したことが当寺院の始まりと伝えられている。 江戸時代の寛文7年(1677年)と文政9年(1826年)の火災により伽藍の大半を焼失した。現在見られる建造物は概ね文政の火災以後、江戸時代末期に建立されたものである。 開山以来、毎日朝夕(6:30と18:00)欠かさず金毘羅大権現のもと護摩堂で護摩祈祷が行われる。変わらず継続することが一番難しいことであるが成し遂げられている。また、毎年8月4日には箸供養が行われる。 山麓から方丈脇まで箸蔵山ロープウェイが通じている。境内には階段が多く、本宮の金刀比羅宮の785段には及ばないが、山門より本殿まで600段弱の段数がある。 神仏習合の影響を色濃く残す御寺であり、参拝方法は拍手 (神道)による参拝者と納経をする参拝者に分かれるが、どちらも問題はない。 ●伽藍 ・山門(仁王門):山門の前に駐車スペースがあり、ここから本坊まで徒歩約0.5時間。 ・中門 ・方丈(本坊):納経所や事務所がある。 ・護摩殿 ・鐘楼堂 ・薬師堂 ・天神社 ・本殿:ロウソクは本殿中の係の人に頼む。 ・御影堂(大師堂):大師像が拝観できる。 ・ミニ四国八十八ヶ所:御影堂の背後にあり江戸時代後期に造られた。納経所で満願証を200円でもらえる。 ・観音堂:本殿の右奥にひっそりとある。 ・蔵谷の行場:山門より下の谷間にある。 仁王門(山門)前に駐車して、ここから歩く。広い真っすぐの参道を行くと石の鳥居がありさらに進むと赤い鞘橋があり渡るとここから上へ石段が続き、登り切ると中門があり中に入ると本坊(方丈)である。右に進むと本坊の角に納経所があり左に折れると正面に護摩堂、その右に金属製の四国観音霊場の観音像、奥に進み右の少しの階段を上がると正面に鐘楼堂がある。その左には見上げるような石段がそびえている。登って行くと中ほど右に修行大師像が立ち薬師堂がある。左の脇道を斜めに上がると天神さんの祠がある。もとの厳しい石段を上り切ると正面に本殿が迫る。本殿右に行くと手水舎がありその奥にひっそりと観音堂がある。本殿の左は大柴灯護摩が行われる広い馬場になっており山際に四国不動霊場の不動明王石像が立つ。その向こうに大師堂(御影堂)が見える。なお、ロープウェイの山上駅は本坊の左に位置する。(wikipedia 箸蔵寺より抜粋) 神仏習合とされていますが、どう見ても元は神社。 社の立地する地理や佇まいから、金刀比羅宮(祭神 大物主命)の元社ともされています。 ここも空海の手が加わっており、現在は寺となっておりますが、その痕跡からいかにも当時の朝廷から何かを隠された感が否めません。 なお『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となる。 ちなみに「現在の」石上神宮は、 石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市布留町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 別名として、 ・石上振神宮 ・石上坐布都御魂神社 ・石上布都御魂神社 ・石上布都大神社 ・石上神社 ・石上社 ・布留社 ・岩上大明神 ・布留大明神 ◆主祭神 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ) - 神体の布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊。 ・配神 布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ) - 十種神宝に宿る神霊。 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ) - 天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)に宿る神霊。 宇摩志麻治命(うましまじのみこと) 五十瓊敷命(いにしきのみこと) 白河天皇 市川臣命(いちかわおみのみこと) - 天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)後裔で、石上神宮社家の祖。 ●歴史 古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。 社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。 社伝ではまた一方で、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの十握剣が、石上布都魂神社(現・岡山県赤磐市)から当社へ遷されたとも伝えている。この剣は石上布都魂神社では明治以前には布都御魂剣と伝えていたとしている。 垂仁天皇39年には剣一千口と神宝が納められ、天武天皇3年(674年)には忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こり、使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。 神階は850年(嘉祥3年)に正三位、859年(貞観元年)に従一位、868年(貞観9年)に正一位。『延喜式神名帳』には「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預り、臨時祭も執り行われると記されている。『延喜式』の「臨時祭」の項では殿舎と神門の鑰を宮中で保管し容易には開かないと記されている。 中世以降は布留郷の鎮守となったが、興福寺と度々抗争を繰り返し布留郷一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収された。しかし、氏子たちの信仰は衰えず、1871年(明治4年)には官幣大社に、1883年(明治16年)には神宮号を再び名乗ることが許された。 この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した刀(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造(建造のための1878年の禁足地再発掘でも刀(天羽々斬剣)が出土し、これも奉斎した)。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。 ●摂社 出雲建雄神社 ・祭神:出雲建雄神 (草薙剣の荒魂、縁起では「吾は尾張の氏の女が祭る神である。」とあり宮簀媛を示すとされる)式内社。社殿は切妻造、檜皮葺。内山永久寺(天理市杣之内町にあった寺院、明治時代初期に廃絶)の鎮守社拝殿だった建物を1914年に移築したもの。正安2年(1300年)頃の建立。桁行5間の建物の中央1間分を土間の通路とした「割拝殿」と呼ばれる形式の拝殿である。国宝に指定されている。 天神社 ・祭神: 高皇産霊神、神皇産霊神 七座社 ・祭神: 生産霊神、足産霊神、魂留産霊神、大宮能売神、御膳都神、辞代主神、大直日神 猿田彦神社 ・祭神:猿田彦大神、住吉大神、高靇神 上記4社は拝殿よりも南であるが、石段の上の隣接した高い位置にある。そのため拝殿前の中庭から見ると、楼門がまるで4社の楼門であるかの様に見える。なお、斎宮が居た場所は上記4社(西向)の真裏(東隣)と伝えられる。 末社 神田神社 ・祭神: 高倉下命 祓戸神社 ・祭神: 祓戸大神(聖域につき神職者以外は参拝不可) 恵比須神社 ・祭神: 事代主神 - 境外末社 (wikipedia 石上神宮より抜粋) ※(´・ω・`)まだまだありますが、書くと長くなるので文化財などの説明は省略 ちなみに吉野川の古名が「ふる川」です。 当地布留川との共通点があるかも… 履中天皇が逃げ延び、最終的に行き着いた先である石上神宮の場所の比定位置の関係はこんな感じ 難波郷辺りから南に位置する阿讃の境の山脈を越えることを大坂越えといいます。 つまり、難波郷からそのまま直に南下すれば、「道は阿波より始まる」の著者岩利大閑氏の云ういにしえの古道の難波・奈良街道大坂峠越えとなりますが、兵が待ち構えていたため、こちらを選択せずに引き返し迂回したようです。 その場合、東側に位置する現在の大坂峠、もしくは東かがわ市の水主神社辺りから南下し鵜峠から徳島県阿波市土成町御所に繋がる山道等を移動したのではないでしょうか。 他にも、大山越、一本松越、黒谷越等々の山道があったことが確認できますが、詳細はわかりません(´・ω・`)スマヌ 一応現在の大坂峠越えをご紹介 ◆大坂峠越えコース ◆大坂峠から讃岐相生・引田方面を望む ◆大坂口御番所跡 「於是、其伊呂弟水齒別命」「同母弟の水歯別命が」天皇は弟の水歯別命も墨江中王と同様に同じ企みがあるのではないかと疑い、水歯別命は邪心が無いことを証明するため、引き返して墨江中王を討った後に兄と話し合うことを約束します。 「故卽還下難波」難波に引き返した水歯別命は、墨江中王に仕えている隼人の曾婆加理を欺き、「竊伺己王入厠」「自分の王の厠に入るのを待って」矛で刺して殺します。 「上幸於倭之時、到大坂山口」「故、曾婆訶理を率て倭に上り幸す時に、大坂山口に到りて」曾婆加理は功労はあれど主君を殺すことは義に反するとし、ただその功に報いないのは信義に反するとして、今日はここに留まって、まず大臣の位を授けてから、翌日(明日)倭に上ることにしました。 すぐに酒宴を開いて大臣の位を預け、「今日、大臣と同じ杯の酒を飲もう」といって、王子がまず先に飲み、隼人は後で飲みました。 隼人が飲んだ時に大鋺が顔を覆い、それで席の下に置いた剣を取り出して、その隼人の首を切り殺し、「乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。」明日に倭に上って行ったのでそれでその土地を「近つ飛鳥」といいます。 「上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。故、參出石上神宮」 「倭に上って到着して詔して言いました。今日はここに留まって、祓禊をして、明日参上して神宮で拝礼しましょう」 それでその土地を名付けて遠つ飛鳥といいます。石上神宮に参り出て天皇に申し上げました。 」 暫定ですが、近飛鳥~遠飛鳥の範囲は下図辺りと推測。 当時の水位を推測し(+2m程度)落とし込むとこんな感じ  「飛鳥」の範囲は、おおよそ吉野川中下流域全域(現美馬市~鳴門市まで)と推測され、近飛鳥は、吉野川河口側の旧板野郡域で推定位置は板野町~鳴門市大麻町堀江辺りとなり、ここから更に東側は海と陸地の混在地で、当時の港に成り得る場所のようなところです。 また遠飛鳥は「倭」に在り、そこから翌日に石上神宮に行けるところですから、倭大國魂神社の鎮座する現在の美馬市周辺であろうことは推測できます。  任務を終えた水歯別命は天皇に報告し、まず阿知直(墨江中津王に殺されそうになったときに助け出した人物)を初めて蔵官(くらのつかさ:倉庫の管理者)に任命して、粮地(たどころ=私有地)を与えました。 この時代に若桜部臣たちに若桜部の名前を与え、比売陀君たちに姓を与えて比売陀君となりました。また、伊波礼部を定めました。 「天皇之御年、陸拾肆歲。壬申年正月三日崩。御陵在毛受也。」 「天皇の年齢は64歳。壬申の年の正月三日に崩御しました。御陵は毛受にあります。」 岩利大閑著「道は阿波より始まる その一」より、 「日孁命神陵矢野神山の対岸の以乃山(現眉山)山頂を毛受ヶ原(もうけがはら)といいます。古代語では「いの」とは頭のこと、この以乃山の東、西の両端が毛受の耳原と呼ばれ、古代の大聖地だったのです。」 …とあり、また、眉山山麓にある救世山峯薬師法谷寺「峯薬師如来縁起」にも同様の旨が書かれているようです。法谷寺については、⇒法谷寺wikipedia つまり、毛受=百舌鳥(もず)の漢字の違いと思われます。(古事記では毛受) ちなみに、モズの「耳」は恐らく耳の位置にある模様のことで、 眉山の形がこの模様に類似していることから来ていると考えられます。 履中天皇の陵は、百舌鳥耳原南陵ですから、 雑把ですが、この辺りにあったのではないかなと思われます。 ただし、現在ある大阪府堺市にある履中天皇陵に恐らく飛鳥後期~奈良時代にかけて、当時の朝廷の施策にて都移しと共に大方の天皇墓も移された可能性が高いと考えられます。 これは今後の考古発掘調査に依存することになりますが、発掘された内容物だけではなく、その周辺の年代調査(盛土などの年代等)もする必要があるでしょう。 残念ながら阿波においては、古墳の中身がスッカリ無かったり(盗掘されているとしている、もしくは、追葬という形で中身をすり替えられている)、調査もされず消滅した古墳も非常にたくさんあったり、まだ未調査の古墳が人知れず山ほど埋まっている(鮎喰川流域周辺だけでも数えきれないほどある)のが現状ですね。 …『古事記』履中記に関しての大筋の流れ的な説明は以上です。 また、『日本書紀』履中紀の方ですが、『古事記』よりも内容描写が基本的に細かく説明されています。 「記紀」両面の物語から内容を精査したのちに、もう一歩考察を進めてみたいと思います。ちなみに通説に置き換えますと下図のような経路になります。 難波宮:大阪府難波高津宮(もしくは難波宮) 波邇賦坂:大阪府羽曳野市埴生坂 二上山:大坂山 大坂直越え:穴虫峠越え 大坂回り道:竹之内峠越え 當岐麻道:奈良県葛城市當麻 石上神宮:奈良県天理市布留町 倭:大和 ※一応通説の矛盾点を指摘しておきます。 ①大阪府羽曳野市埴生坂からは到底難波宮の火事の様子など見えるはずもありません。また、石上神宮へ逃げ向かうのに回り道を教えてもらうまでのコース自体が不自然に遠い。またこの時代の大阪府にまだ「難波」の地名は確認できない。 ②「記」の内容から大坂山口周辺が「近飛鳥」のはず。(現在の明日香村とは場所が全然違う) ③大坂山口で女人が教えてくれた、「兵を持った人たちがたくさんこの山を塞いでいます。當岐麻道を回って越えた方がいいですよ。」とありますが、山を抜けた先が當麻であるからむしろ逆道になる。また兵で山を塞ぐほどであったのに、紹介された迂回路と対して距離が離れていない。 ④明日香村は奈良県高市郡にあり、當麻から向かうにしろ、翌日に遠飛鳥のある大和(やまと)から石上神宮へ向かうのにもむしろ遠回りとなる。 ⑤履中天皇の時代の奈良県にはまだ大和國は存在しない。「記」にはしっかり「倭(やまと)」と記されているのに未だに「大和(おおやまと)」でしか解釈しようとしない。⇒大和國wikipedia  ということで、日本書紀版は次項にします(´・ω・`)ノ長くなりそうだ…

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  • 17Dec
    • 塩土老翁から考察

       シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。 ●概要 名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある。 ●伝承 『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。 『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある。(wikipedia シオツチノオジより) …それでは考察をしていきたいと思います。 塩椎神は火遠理命にアドバイスをし、海神の宮へ案内した神。 また、上にもあるように「紀」にある東に良い土地があることを知っており、神武天皇に東征を決意させた神でもあります。 「海幸彦山幸彦の話」では、後に隼人の祖となる兄の海幸彦を服従させた弟の山幸彦(火遠理命)が皇位を継承するという話の流れなのですが、そこには塩椎神のアドバイスにより海神の宮へ赴き、そこで出会った海神の娘である豊玉毘賣を娶り、更にその父の海神の助力を得たことで結果的に成功を手に入れた旨が描かれています。 物語は続き、火遠理命と豊玉毘賣との間にできた子である鵜草葺不合命は、海神の娘である豊玉毘賣の妹の玉依比賣と結婚し、初代天皇となる神武天皇が生まれました。 つまり塩土老翁は、天皇家を常に助ける導き手となっていることがわかります。 一体この塩土老翁とはどのような神だったのでしょうか この塩土老翁を祀る神社として有名なのが宮城県の鹽竈神社。 志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)は、宮城 県塩竈市にある神社(二社が同一境内に鎮座)。志波彦神社は式内社(名神大社)。 鹽竈神社は式外社、陸奥国一宮。両社合わせて旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「塩竈桜」。 鹽竈神社は、全国にある鹽竈(鹽竃・塩竈・塩竃・塩釜・塩釡)神社の総本社である。 ●概要 元は当地には鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」とし1つの法人となっている。鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜(シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられている。また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社・鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られる。 ●祭神 志波彦神社 志波彦大神 鹽竈神社 別宮:塩土老翁神 - 主祭神 左宮:武甕槌神 右宮:経津主神 塩土老翁神は謎の多い神であるが、海や塩の神格化と考えられている。神武天皇や山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。 また安産祈願の神でもある。武甕槌神と経津主神は東北を平定するために派遣された朝廷の神。 ●歴史 志波彦神社は、冠川(七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社である。 中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要な城がおかれた、宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。  元禄8年(1695年)に書かれた縁起によれば、天智天皇3年(665年)に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり、現在のところはっきりとしていない。農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている。 鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。 弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。 さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても祭祀料10,000束を国家正税から受けている。『延喜主税式』によれば当時の陸奥国の税収は603,000束、鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ伊豆国三島社2,000束、出羽国月山大物忌社2,000束、淡路国大和大国魂社800束であった。これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く、式外社となったことと併せて朝廷が一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない。 ●中世 中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の役を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなった。 文治2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)に和泉三郎忠衝より奉納された鉄燈は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。 また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる。加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されていることからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。 ●境内末社 以下の4社は、楼門を入って左手に朱塗木造銅板葺屋根の雨覆を掛けられ並んで鎮座している。明治維新前後に書かれたと言われる『鹽竈社神籍』では社内摂社であるとしている。 神明社 八幡社 住吉社 稲荷社(wikipedia 鹽竈神社より抜粋) 同境内にある式内社志波彦神社の御祭神は、志波彦大神(しわひこおおかみ)とあり、あまり聞きなれない神名なのですが、当地に降臨した神とされています。  wikipediaに書かれてある同体とされる「志波姫神社」は同じ宮城県栗原市に鎮座します。 式内社 志波姫神社(しわひめじんじゃ)(名神大)(宮城県栗原市志波姫八樟新田126)(旧地)伊豆大権現。 ◆祭神 木花開耶姫命 ◆合祀 倉稻魂命 應神天皇 素盞嗚尊 菊理姫命 伊弉册命 大日靈命 軻遇突智命 倭姫命 もと築館の町の東はずれの築館町源光(旧伊豆野原字玄光坊)に鎭座し、伊豆権現(又は伊豆野権現)と称していたが、正保年間火災のために焼失、その後再建する人もなく只、伊豆権現の石宮とその側に八坂神社の石宮が立ちその跡を祀っていたのであったという。 明暦3年(1657)伊達家家臣古内重廣による伊豆野堰の開削にともない、現在地に社殿を再建し遷座という。 源光の旧社地は民家の庭先の畑の中にあり、「伊豆大権現」と刻まれた板碑が建つている。 ●由緒 志波姫神社は、木花開耶姫命を祀る延喜式神明帳栗原七座の内の大社にして、人皇第45代聖武天皇の神亀天平年間の創建といわれ、延暦年間(796~801)に坂上田村麻呂東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられる。社はもと伊豆野権現社と稱し、築館の町裏玄光に鎮座されていたが、正保年中に祝融の災に罹り、社殿のすべてが烏有に帰し、其の後再建されることなく伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。 寛永16年(1639)伊達第二代藩主忠宗公は、家臣古内主膳重廣に伊豆野原の野谷地を賜り、その開拓を命ぜられた。伊豆野原を拝領した古内主膳は、伊達藩の土木技術者であった川村孫兵衛元吉に伊豆野原開拓工事の設計を依頼、正保元年(1644)工事に着手、三年の難工事の末、伊豆野堰の完成をみた。伊豆野堰開削によって、伊豆野原開拓に成功した領主古内主膳は、明暦3年(1658)に至って社殿を造営し、水下十五ヶ村の守護神として此の地に遷座した。 明治22年4月、市町村制の施行により、姫郷村、白幡村、梅崎村の三ヶ村を合併し、この由緒ある社名を唱えて志波姫村とした。町名ゆかりの神社である。 平成4年10月27日、志波姫神社本殿(素木造・一間社流れ造り・目板葺)が江戸時代初期の建築様式を伝えるものとして、宮城県指定有形文化財に指定された。 志波姫町教育委員会 志波姫町文化財保護委員会 (社頭掲示板より) また、論社の志波姫神社が大崎市にもあり、 志波姫神社(宮城県大崎市古川桜ノ目字高谷地205) ◆祭神 天鈿女命 猿田彦命 ◆配祀 武甕槌命 天の岩戸にアマテラスが篭もった祈りの祭祀で、半裸で舞を披露したと言われ、世界に光を取り戻すために大きな役割を果たした女性で、また、天孫降臨の場面にも登場し、ここでは正体不明の神と問答するところで相手の名を明らかにします。これは神懸かりによる神との交信とも言えます。この時に猿田君という名を授かっています。サルメは進化した役を演ずる巫女の称であり、女神・巫女の語源となっています。歌舞や演劇などの芸術を司る神として奉られています。一芸を目指す方々にとって神楽を舞いこの世闇から救った神としてまた芸術や学業などを極めたい方々からも深く崇敬されています。(志波姫神社公式サイトより) ●社記 式内社・志波姫神社の論社の一つで、『三代実録』に「志波姫神従四位下」とある古社。 本社は称徳天皇の天平神護元年(765、奈良)の創祀と伝え(社伝)、もとの鎮座地は、今の地より北方八丁「下り松」(桜芽村)に在りしが、元禄6年伊達公族石母田氏の祖頼章在所を定むるにあたり荒雄川北岸現在の地に移し奉る、(社記)清和天皇の貞観元年(859、平安)即位の恩典により従五位勲四等から従四位下に進められ、延喜の制名神大社に班す。(延喜式)元別当桜目寺あり維新の際伊達藩が封を削られこの地は一時宇都宮藩の取締地となり、旧記、宝物など悉く没収され明治に及んだのである。(社記)明治5年4月郷社に列せられ、同40年3月共進社に指定された。翌41年2月村社鹿島神社を合祀する。 つまり志波姫神社の2社は木花開耶姫命と天鈿女命を主祭神として祀っている訳です。 ※「記紀」によると、木花開耶姫命の夫は邇邇芸命、天鈿女命の夫は猿田彦命です。 次に、鹽竈神社の方に焦点を移しますと、鹽土老翁神は、社伝によれば、東北平定のため、鹿島神宮(茨木県鹿島市)・香取神宮(千葉県香取市)の神さまの道案内役として、シャチに乗って海路を渡ってきたといわれています。 鹿島・香取の神さまは、その後役目を終えて無事に帰ったことから、海上安全とともに交通安全の御利益があるとされてきました。 ●人気No.1の交通安全のお守り 丹塗矢(´・ω・`) 『日本書紀』別の一書では、山幸彦が海浜で悲しんでいたときのこと、羂(ワナ)にかかって苦しんでいる川鴈(かわかり)をみつけ、 憐んで解き放ってやると、やがて塩土老翁があらわれたとある。 雁(がん、かり)(異字:鴈)とは、カモ目カモ科ガン亜科の水鳥のうち、カモより大きくハクチョウより小さい一群の総称。枕詞は「遠つ人」 東西で狩猟の対象であったが、日本では、急速な減少から保護鳥の対象となり、現在では禁猟。日本ではマガン、カリガネ、ヒシクイなどが生息し、北海道宮島沼や宮城県伊豆沼などに冬鳥として飛来する。宮城県の県鳥でもある。家紋の雁金紋(かりがねもん)として図案化され、小串氏、柴田氏、真田氏などの使用がある。ハイイロガンまたはサカツラガンを原種とする家禽はガチョウ(鵞鳥)と呼ばれる。(wikipedia 雁より抜粋) 鹽土老翁神を、住吉神、岐神、猿田彦神などと同神とする説もある。(玄松子の祭神記) …とも書かれており、海路に詳しい神(航海の神)、つまりは道案内の神ということから岐神である猿田彦神と同視されるということなのでしょう。 ◆鹽竈神社の花祭 1778年から始まったようです(´・ω・`) ◆みなと祭 鹽竈神社の神輿が海を渡る、東北で初めての神輿海上渡御は、古来、海からの道案内の役割を果たされ、この地に残られた御祭神の鹽土老翁神を、年に一度海へお連れするという、神社を崇敬する氏子たちの感謝祭といえるお祭りのようです。 ◆御座船「鳳凰丸」 こちらも歴史は浅く、昭和23年から始まったようです。 最近はディズニーなどいろいろな…(ry …詳しくは鹽竈神社のホームページをご覧くださいませ。⇒鹽竈神社HP さて、実はこの塩釜と所縁の深い土地が何と徳島県にあります。 それはずばり竹ケ島。 海陽町宍喰浦にあるこの徳島県最南端の島は、マグロはえ縄漁の基地であり、漁業が盛んな当地から東北へ遠洋漁業により、往古から宮城県塩釜市とは交流が盛んでした。 現在でもマグロ漁船は塩釜港に入港しており、また竹ケ島から家族の移住などもあり、阿波と陸奥との繋がりを垣間見せます。 この竹ケ島には徳島県一早い夏祭りとなる竹ケ島神社夏祭りがあります。(旧暦4月16日)※5月10日前後。 竹ケ島神社(たけがしまじんじゃ)海部郡海陽町宍喰浦竹ケ島 「チョウサジャ、チョウサジャ」の掛け声とともに神輿は石段を一気に駆け下り、広場いっぱいの人々の中を激しく練り歩く。⇒竹ケ島神社祭 二度三度と神輿を海に沈め(神輿の浜入れ)、黒潮の飛沫をたっぷり浴び、陸に上がった神輿は東海岸にある浦磯(うらんそ)のお旅所(浦磯は湾に面した海岸の磯)へ入り、そして、神主の祝詞が上げられ島の人々は年寄りから子供まで全ての人が神輿の下をくぐり抜ける。 浜入れは、竹ケ島出身や在住者、島を母港とする漁船の漁師を合わせた青年14人が神輿を担ぎ、近くの海に飛び込んで神輿を清め、豊漁や航海の安全を祈願します。 宵宮にある子ども神輿もかわいいよ 御祭神は…国常立神、大黒主神、事代主神 境内掲示板には大黒主神(大国主神:だいこくのかみ)とあります。 この国常立神は県南、特に海部郡の神社によく見られ、阿波にあるヤマトの痕跡を抹消されたと思われる重要な神社に多く祀られている感じです。(要するに元の祭神をすり替えてある) 実はこの竹ケ島神社には奥宮があり、昔の島の方はここに祀ってあった祭神を知っていたみたいですが、現在それを知るものがいないとのこと。(ご存知の方見つかればいいのですが) 島内は恐らく神域と思われ、様々な祭祀の痕跡が見られます。 ◆島の頂上、展望所の真横に在る「頂上石」 ◆頂上石の北方には、「頂上石」と同等の笠の形をした巨石が上に載せられているように見える「坊主岩」 探せば恐らくたくさんあるはず。(未調査地域らしい感じですな…) この竹ケ島に住む氏族の殆どは「戎田氏」などの「えびす」に纏わる姓の方。 更に「天宇受賣命から考察」にあった棟上げの際の柱に記されてある産土神が大宮之賣神(猿女君)の御家も竹ケ島の方です。 また、鹽竈市にも「塩竈 de ひなめぐり」という近隣の町あちこちで、ひなまつりイベントが行われているようです。 徳島県、特に長国側の習俗的な文化の共通性がここでも見られますね。(やってることは一緒やね。) この鹽竈神社ですが、社伝によると、高天原から建御雷神と経津主神を塩土老翁神が先導して地上に降り立ち、各地を平定したあとに塩釜の地にやってきた。 建御雷神と経津主神はすぐに去ったが、鹽土老翁神は塩釜の地に残り、人々に製塩法を教えたとされています。 これが塩釜の地名の起こりともなっております。 さて、阿波国那賀郡延喜式式内社に賀志波比売神社というのがあり、 阿波古事記研究会様のご見解では天照大御神(大日女尊)の幼名であるとされておられるようですが、私説において上記宮崎県にある志波姫神社の痕跡からも、こちらは事代主命の妃神である稚日女尊(=大宮能売神=天宇受賣命(猿女君)=宇迦之御魂神=大宜都比賣=阿波女神=櫛稲田姫)と推察します。 (一応、二代目天照大御神と考えれば辻褄はあうということかな。) 賀志波比売神社(徳島県阿南市見能林町柏野22) ◆祭神 賀志波比賣命 ◆創祀 不詳 賀志波比売神社の境内には、天照大神生誕の地と記された石碑が建っているようですが(´・ω・`) この賀志波比売神社なのですが、実は下総国の麻賀多神社奥宮にある境内社に同名神と思われる「加志波比売神社」が御鎮座致します。 麻賀多神社(まかたじんじゃ)は、千葉県成田市台方にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。印旛郡市に18社ある「麻賀多十八社」の総本社である。 ◆祭神 和久産巣日神 稚日霊命(奥宮) ●歴史 社伝によれば、景行天皇42年6月晦日、東征中の日本建尊が当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば、五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるという。応神天皇20年、神八井耳命の8世の子孫である印旛国造・伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として稚日霊命を祀った。また、伊都許利命は杉の木の下から7つの玉を掘り出し、それを神体として和久産巣日神を併せ祀った。この2神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれた。推古天皇16年、伊都許利命の8世の子孫の広鋤手黒彦命が、神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮とした。 延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の1つと同名であるとして、1字取って「真賀多神社」に改称した。後に、一帯が麻の産地であることから麻賀多神社に社名を改めた。(wikipedia 麻賀多神社より抜粋) こちらの神社御祭神は稚日霊命。 下総国にあったのは、阿波国から分祀されたものです。 下総国と同じ房総半島に「安房国」があるように、古代四国から黒潮に乗ってやってきて、房総半島に住みついた民族が居たことを示します。 やはり陸奥にある志波比売神社は、「カシワヒメ」という神を祀る神社というのが正しいと考えられます。 当地の志波姫神社御祭神からも、前回考察させて頂きました系譜(仮)でいうところの、木花之久夜毘命、天鈿女命の夫は共に八重事代主命。 賀志波比売の夫であるから「志波彦」は、(今回の場合=猿田彦神=邇邇芸命)と塩椎神の父イザナギ(=大国主命)ということも、前回の考察と一致しています。(…今のところね(´・ω・`)) また、白鬚神社の神紋も「左三ツ巴」、須佐之男命を祀る八坂神社もご存知「左三ツ巴」、鹽竈神社も… やはり「左三ツ巴」ですね。 国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く、式外社となったことと併せて朝廷が一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない。 …とありますが、 文治6年(1190年)伊沢家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であった。 つまりは仏閣と融合されたため、八坂神社と同じ扱いとなり、延喜式が作られた時代からも純粋な「神社」としては見なされていなかったのではないでしょうか(この辺りは詳しく調べてません(´・ω・`)) また、白鬚神社の御祭神は、猿田彦命 であり、国史に「比良神」と見える神名が当社を指すとされており、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。人格神が猿田彦命とされた由来は不詳であるが、猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起『三尾神社本土記』にも見えることから、両社の密接な関係が指摘される。 創建も社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという(一説に再建)。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。 この比良(ひら)は、金刀比羅(ことひら)であり、事代主命(ことしろ)の訛りとも考えられますが…さてさて 上記を纏めますと、結局のところ、 塩土老翁=志波彦=八重事代主命 志波姫はその妃神である、賀志波比売=大宮之賣神=天宇受賣命=稚日霊命=大宜都比賣=宇迦之御魂神=櫛名田比賣=栲幡千千姫命=天石門別八倉比賣etc…(…あー長いので割愛) …と推察します。 遠くは常陸國、陸奥國など関東東北方面を「常世の国」として東征し開拓していったとされる阿波忌部の痕跡であるのは明白なところでしょう。 縄文時代より本土側との交易を示す出土品(翡翠や土器など)がこの阿波にも無数にあり(海部郡美波町由岐にある田井遺跡等)、海人を介して弥生時代から古墳時代においては更に盛んに交易が行われたと推測できます。 少なくとも弥生時代末期では、当時の中国や朝鮮まで海路を確保して移動をしていたことが分かっていますから、四国から黒潮に乗って東北地方へ行くことは現在考えられているよりももっと普通に行われていたと考えた方がよさそうです。  余談:お祭の掛け声にある「チョウサジャ」の語源考察も諸氏様々なのですが、私は事勝国勝長狭神(=八重事代主命)の長くて狭い国(=長國=葦原中国)の支配者の総称だったのではないかと思っています。(´・ω・`)ノ

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  • 11Dec
    • 火遠理命から考察 ③

       ※一応あくまでも私説考察ですからご了承下さい(´・ω・`)ノ ◆豊玉比売(とよたまひめ) では、②からの続きです。 更に系譜を引き延ばし、最終的に鵜草葺不合命(この場合:八重事代主命)は、大綿津見神(大国主命)の娘である玉依比賣と結婚し、神武天皇が誕生します。 これまでの考察にある「大国主命=大綿津見神=大山津見神」から、同様の説話にピッタリの同神が見つかります。 それがこちら  大山津見神とその娘である八上比売、そしてその子の木俣神です。 八上比売は「稲羽の素兎」の説話で登場し、大国主命の妻となりますが、後に須佐之男命の娘である須勢理毘売を正妻に迎えたため、その嫉妬を恐れ、子を木の俣に残し去っていきました。 つまりこの子が「アエズ」なのです。 この鵜草葺不合命(=木俣神=八重事代主命(ヒルコ))の妻である玉依姫からして豊玉毘賣は「姉」であり、また、大国主命からして「妻」であり「娘」とならなければなりません。 ここでもう一度、別視点で大山津見神のファミリーについて考察をしてみましょう。 こちらが大山津見神とその夫となる神と世代を表した図になります。(めっちゃ横長で見にくいなぁ…) 大山津見神の娘は、足名椎命と邇邇芸命以外は世代こそ違いがありますが、実は全て大国主命と結ばれています。 ここは男系の世代にはあえて注目せずに(引き延ばしているので)、大山津見神からの視点で考察しますと、大国主命には全て自身の「娘」を妃に送っています。 また同時に須佐之男命には「娘」(神大市比賣)と「孫娘」(櫛名田比賣)を妃に送っています。 これを今回までの考察に置き換えますとこちら 考え方としてこちらの方式を採用 その須佐之男命の妻である神大市比賣と須佐之男命のもう一人の妻である櫛名田比賣は共に大国主命を生んでいます。 つまり、足名椎命・手名椎命夫婦は、実は大国主命とその妻である鹿屋野比売の投影となり、その娘は大年神の妹である宇迦之御魂神となります。 系譜上は大国主命と結婚しているため、実質は子を得られず次代にスライドさせます。 もう一つの考え方として、足名椎命・手名椎命はそのまま大山津見神の子である八重事代主命と同妹である高照姫(高照光媛大神)とします。  共に大国主命の子でもあり、また同父母兄妹であったため、子を得ることはできませんが、系譜的にはその子に櫛名田比賣、つまり宇迦之御魂神がいるため、結局のところ系譜的にはスライドしていることになります。 この場合の考え方は、須佐之男命と天照大御神の「宇気比」と同じ構図関係となります。(多分こっちかなぁ…) 大国主命の同母妹である宇迦之御魂神は、大国主命の息子である八重事代主命と結婚します。 八重事代主命は、須佐之男命と天照大御神の「宇気比」の子である同族の渡来系異母妻である宗像三女伸の多岐津比賣との間の子。 この妻が海神でいうところの豊玉毘賣であり、亦の名を神屋楯比賣であり、八上比売ということになります。 言い換えると、神矢上(やたて)比売であり、矢上(やがみ)比売。 つまり、大国主命の同母妹を妻として迎えたことにより、大国主命と事代主命は親子でありながら、実は義理の兄弟という関係になります。(兄:大国主命、義弟:事代主命) 更にいえば、「紀」の高御産巣日神の手の指の俣から零れ落ちた子(つまり同祖の意)、大国主命と共に国造りをし、粟の茎に上って、弾かれて常世の国(恐らく東征の意味)へ行ってしまった少名毘古那とも同神と考えています。 さて置き換えも最終段階。 須佐之男命は全て八重事代主命に、同母妹婚は「宇気比」渡来系の異母別神に、事代主命の妻は玉依比賣であり大国主命の同妹である宇迦之御魂神に置き換わります。 現時点でこちら 残りはピンクの枠3つ、天照大御神、磐長姫命、天道日女命。 天照大御神と磐長姫命に関しましては、結婚したが実際は子を得ることができないエピソードがありますが、天道日女命に関しましては、殆ど情報がありません。 天火明命を祖神として祀る丹後国一宮籠神社のホームページには「大己貴命の娘」としているようです。 つまりココと同じことになります。 大国主命の娘であり、事代主命の妻だが次代スライドした事代主命が子として存在するパターン。 天火明命の子である天香語山命は、『先代旧事本紀』の「天神本紀」に別名を「手栗彦命(たくりひこ)」、または「高倉下命」とあり、「記紀」にある高倉下と同神とされます。 しかし海部氏『勘注系図』では、高倉下命を天村雲の弟としています。 また、天香語山命の兄弟に「記」宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、「紀」可美眞手命(うましまでのみこと)、『先代旧事本紀』では「味間見命(うましまみのみこと)」がいます。 「うまし」も「あじ」も同じ意味で使われており、やはりここも阿遅鉏高日子根神と同神視している八重事代主命で置き換えが可能であるため、古事記側での系譜の考察推理の確認となります。 いよいよピンク枠の考察ですが、宗像大社ホームページに、 “道主貴(みちぬしのむち)”の「貴(むち)」とは最も高貴な神に贈られる尊称で、伊勢神宮の天照大神 「大日靈貴(おおひるめのむち)」、出雲大社の大国主命 「大己貴(おおなむち)」、そして宗像大社の宗像三女神「道主貴(みちぬしのむち)」の三社のみに与えられている称号です。 “道主貴(みちぬしのむち)”はあらゆる道を導かれる最高神として古くから御皇室をはじめ、多くの人々の崇敬を受けており、現在も交通安全はもとより、人生の道、修行の道、芸事の道、商いの道、勉学の道など「すべての道を司る神」として多くの参拝客が訪れています。 …とあり、「あらゆる道を導かれる最高神」、つまり天道日女命と字義が被ります。 そして大国主命と宗像三女神の一人である多岐津比売との間には、事代主命以外にも先述した同母妹の高照姫がいます。 別名を、高比売神、高照光媛大神。 「記紀」にある「天若日子の話」に、天穂日命の妻となる同母妹である下照姫がおり、高御産巣日神の放った宇気比の矢(天羽々矢)が天穂日命の胸に刺さり死んでしまいます。 葬儀のため喪屋を建て殯をし、下照姫の兄の味耜高彦根命も弔いに訪れたが、彼が天若日子に大変よく似ていたため、天若日子の父と妻が「天若日子は生きていた」と言って抱きついた。すると味耜高彦根命は「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、神度剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。喪屋が飛ばされた先は美濃の藍見の喪山だという。 …というエピソードがあります。 そして下照姫が歌った歌に、 「阿米那流夜 淤登多那婆多能 宇那賀世流 多麻能美須麻流 美須麻流邇 阿那陀麻波夜 美多邇 布多和多良須 阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也」 「あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに あなだまはや みたに ふたわたらす あぢしきたかひこねのかみぞや」 「天なるや 弟棚機のうながせる 玉の御統 御統に あな玉はや み谷 二(ふた)わたらす 阿遅志貴高日子根の神ぞや」(本居宣長訳) 「此歌者夷振也」つまりこれを「夷振(ひなぶり)」といい、古今和歌集では「えびす」と言い換えています。⇒夷振(ひなぶり) 親が見て見間違うほど似ていたということ、つまり阿遅鉏高日子根神と事代主命は丹塗矢でも同様のエピソードを持つ訳ですから、やはり同神であると考えた方が自然ではないでしょうか であるとすれば、阿遅鉏高日子根神の妹の下照姫は、=稚国玉、天照高比売神、大倉比売命、天照高日女神と同神であるともいえます。 また、天忍穂耳命と同じく天之菩卑能命は、天照大御神と須佐之男命が「宇気比」をしたときに生まれた五男三女神の一柱。 天忍穂耳命(勝速日)=須佐之男命(粟飯原氏系図より)=八重事代主命であれば、その分身である天之菩卑能命も八重事代主命であり、また丹塗矢エピソードや父がともに同じこと、兄妹構成も同じ、そして夷振のことからも、やはりここでも八重事代主命に集約できてしまいます。 更に、阿波国一宮大麻比古神社の御祭神である大麻比古神(=猿田彦大神)、それと同神と忌部氏系図にもある「津咋見命」も月読命=須佐之男命(粟飯原氏系図より)となり、やはりここも八重事代主命。 つまり、天照大御神の外堀からも、天照大御神は八重事代主命と同父母妹にあたる高照光姫大神命となります。 天照大御神と須佐之男命を高照光姫大神命と八重事代主命に置き換えると、こちらは同父母姉弟婚ではなく、同父母兄妹婚により、子を得られず、実際は栲幡千千姫命=玉依姫(=父の妹である宇迦之御魂神)と結婚し子を得ることになります。(記述の違いが認められてしまう) そこで事代主命は、父の同妹を娶ることにより、父である大国主命が義理の「兄」になり、その娘である高照光姫大神命(実際は事代主命の妹)は、大国主命から義弟となる実兄の事代主命の妻の宇迦之御魂神(大国主命の同妹)=玉依比賣より年齢が上ならば義理の姉になってしまいます。 つまり高照光姫大神命からすれば、義理の妹(宇迦之御魂神)の夫は義理の弟にもなってしまうのです。 事代主命は、高照光姫大神命の実兄でありながら、義弟とすることもできるというややこしい構図が成立してしまうことになります。 また、大年神(=大国主命)と天知迦流美豆比売との子に羽山戸神がおり、その妃神に大気都比売神(天石門別八倉比賣=天津羽羽神=阿波波神=阿波女神)が見えます。 このカップルには八柱の子がいます。 実際に子を生み系譜を継いだ夫婦神が八重事代主命(羽山戸神)&玉依姫命(大気都比売神=宇迦之御魂神=豊受大神)なのです。 また皇位継承の証とも思われる十拳剣の所有者である伊邪那岐命=火遠理命(大国主命)→須佐之男命=阿遅鉏高日子根神(事代主命)→(建御雷神と高倉下※)→神武天皇=天村雲命が、須佐之男命→大己貴命に託された生大刀なのです。 生大刀とは字義の如く生きた大刀。 つまり須佐之男命の子である天村雲命=五十猛命=(いたち=生大刀) そして同時に手に入れた生弓矢は、生きた弓矢であり娘。 矢のエピソードのある神屋楯(矢立)比賣、八上(矢上)比賣の子、勢夜(矢)陀多良比賣=玉依比賣、つまりは天石門別八(矢)倉比賣神のことなのです。 これをもって大己貴命は、大国主神という新たな名を授けられ、その生大刀と生弓矢(自身の子達)で八十神を倒し、葦原中国を治めたとされます。  そして天孫降臨の話は、実は邇邇芸命=八重事代主命となり、猿田彦大神は天津族を手引きをしたのではなく、事績自体が自身の投影であることになります。 ですから、徳島県南部には(私説にて)天孫降臨の地であるとしながらも、邇邇芸命としての痕跡が無いのです。 また、火遠理命の項で、神武天皇(彦火火出見)と大国主命のエピソードが雑じるのは、その父の邇邇芸命が八重事代主命であること、実はそこで一つの話が完結したものを後に大綿津見神の話を付け足し系譜を水増しした痕跡であるといえます。 これは伊耶那岐神から天忍穂耳命までの話にもいえ、 ① 伊耶那岐神~天忍穂耳命(天)→神武天皇 ② 邇邇芸命~火遠理命(山)→神武天皇 ③ 火遠理命~鵜草葺不合命(海)→神武天皇 この3つの話は、それぞれ同じ素材で別のエピソードで書いたものを神武天皇に繋がるまでの系譜をあえて引き延ばさせる目的で作成しているため、後にこれらを接合させた箇所の人格が重なり、違和感が生じている原因といえると考えられます。 ①の系譜は、②③を纏めたものであり、逆に、②③はそれをバラしたものと考えられます。 また、「海部氏系図」にある天村雲命(=阿多の小椅の君)と「妻」の阿俾良依姫命、古事記系譜からは、神武天皇の「妻」である阿比良比売命の別名は、(阿多小椅君妹)であることから、ここでも火遠理命が去って行く豊玉毘賣に歌った歌にある、火遠理命=彦火火出見の「妻」であり「妹」というキーワードが隠されて存在することが一致します。 古事記系譜はあくまで子を得た直系系譜ですので、ここは火遠理命=大国主命が表の系譜に置き換わるのですが、これまでの考察から、実際は子を得なかった系譜が隠されており、これを無理やり系譜に表すと、事代主命とその妹である高照光姫大神命の存在が追加されます。 (※あくまでかわいい妻のことを妹と例えるなどではなく、妹は妹なのである) こう考えると、古事記にある伊耶那岐神から神武天皇迄の七代分の系譜は、実際は最短となる神武を含めての三世代分しかなかった可能性が非常に高くなります。 また、最終的な血縁・親族関係ありきで「記紀」は書かれているということになります。  天照大御神=卑弥呼説をとる場合、大国主命の妹である宇迦之御魂神(豊受大神=臺与(とよ)」は、大国主命とは年の離れた妹となり、また大国主命の娘である高照光姫大神命ともかなりの年の差があったということになります。(この大国主命の妻は大国主命より随分若かったと推測できる) 男性は女性と比べ、高齢でもエ●チして子を得ることもできますから、権力によって多妻を有した時代であれば普通に考えられる範囲ですね。 また別の考察として、末子相続なように見せかけて実はたくさんいる妃の中の本后からすれば長男が皇統を継承し、長女は処女性を保って終生結婚せず鬼道(神道)のカリスマ的象徴となったのでは?などの仮説もアリかも知れません。 また別な考え方として、結局のところ須佐之男命という人物は存在しなかったのではということも考えられますし、須佐之男命は別に、場所場所で八重事代主命と呼ばれたり、或いは大麻比古神・猿田彦神等々と呼ばれたのではないかとも考えられるでしょう。 この考え方ですと、伊耶那岐神にあたる大国主命の「親」は一体誰だったのでしょうかねぇ。 高御産巣日神なのでしょうか、それともここに須佐之男命がいるのでしょうか。 鶏が先か、卵が先か、現時点ではわかりませんが、渡来系氏族とは切っても切れない縁であることはいわずもがなではないでしょうか。 一応比定埋め埋めした完成系譜(仮)を載せておきますね(´・ω・`) 一応の辻褄合わせにより系譜を埋めてみましたが、神社の謂れや伝承、地形や痕跡、所在する場所や文献との一致などの様々な観点から、また別の考え方にも繋がるかも知れませんが、今のところ現考察をベースに検証を進めたいと思います

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  • 10Dec
    • 火遠理命から考察 ②

       ◆火遠理命(ほおりのみこと 別名:ソラツヒコ) ①からの続きです。 ⓫夫が恋しいという気持ちに耐えられず、その御子を養育するという縁で、妹の玉依毘売に託して歌を献上。 【類似】   邇邇芸命の場合 (父:大山津見神系)石長比売(姉)、木花之佐久夜毘売(妹) 火遠理命の場合 (父:大綿津見神系)豊玉毘売(姉)、玉依毘売(妹) ※姉が途中退場するという話は共通していますが、大山津見神の娘である石長比売は邇邇芸命に気に入られず返されたため、当然のことながら子の記載はありません。  そして肝心の歌の方なのですが、 「意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇」 「沖つ鳥 鴨著く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世のことごとに」 「鴨が寄りつく島で、私が共寝をした妻を忘れはしないだろう、私の生きているかぎり」 この歌には今後の系譜のヒントや物語の本質となる要素が含まれています。 まず、「加毛(鴨)」の解釈ですが、意富加牟豆美命=賀茂建角身命=大国主命の子から、八重事代主命=大物主神(全国の鴨・賀茂・加茂などと名の付く神社の名前の由来となっている。)から氏族が分かれたという意味の神名となる可茂別雷命、つまりこれまでの考察で神武天皇と思われる御子が生まれます。 実はこの歌も阿波弁と思われる箇所があり、他地の方には意味があまり分からない部分があるようです。 問題の箇所は、「和賀韋泥斯」(わがいねし)のところです。 まず「和賀」=我(わが)なのですが、一般的に「我」は「自分」のことを指しますが、阿波弁においては、「お前の」、優しく言うと「あなたの」という意味でも使われます。(例:我の子→あなたの子) 次の「韋泥斯」(いねし)ですが、通説では「率寝し」と訳し「共に寝た」、「添い寝」等と訳しているようですが、これも阿波弁においては「いぬ」は「帰る」という意味で使います。(例:もういぬわ→もう帰りますね) つまりこの場合「わが+いね+し」ですから、「(自らの意思で故郷に)帰っていった」という意味になります。 従って、この歌の訳は、 「沖にいる鳥のように、鴨が寄り付く遠い島(故郷)にあなたは自ら帰っていってしまいましたが、私の生きている限り、愛しい妻のことは忘れないだろう。」 …となります。 また、去って行った「妻」である豊玉毘賣のことを「妹」と歌っています。 さて、「宇気比」から考察 ② の考察から、玉依毘賣(活玉依姫等)の父は全て大国主命に繋がるという検証結果から、この場合、大綿津見神=大国主命ということになります。 古事記系譜にこれらを当てはめてみた場合、大綿津見神の娘である豊玉毘賣命と玉依毘賣命は大国主命の娘たちと仮定することができます。 そうすると、妹の玉依毘賣命は大国主命の息子である八重事代主命(=もしくは同父異母の可能性を残す阿遅鉏高日子根神が鵜草葺不合命に対応)と結ばれ、神武天皇がお生まれになるということから、姉の豊玉毘賣命は八重事代主命の母、神屋楯比売(=多岐都比売命or多紀理毘売命)となります。 次に、豊玉毘賣命の夫となる火遠理命の比定なのですが、神屋楯比賣(=多岐都比売命)の夫であるのは大国主命であると同時に、火遠理命と説話が最も類似しているのも大国主命ですから、すんなり火遠理命に比定した場合、豊玉毘賣命との結婚は系譜的には自身と自身の娘との結婚となってしまいます。 そこで自身と同族の渡来系の「異母の妹」である(須佐之男命の宇気比により化生した多岐津比賣命)を娶ることになります。 つまり、玉依比賣からは「姉」となる豊玉毘賣命と結婚します。 また、大国主命を須佐之男命の息子である大年神と仮定した場合、火遠理命の父母である邇邇芸命&木花之久夜毘命は、須佐之男命&神大市比賣に置き換えることができ、仮に比定してみますと下図のようになります。  神大市比賣は大山津見神の娘であることにも共通点があります。 この場合、火照命は八十神に、火須勢理命は須佐之男命から見れば娘である須勢理毘売であり、大国主命から見れば妻であり兄弟でもある須勢理毘売となります。 須勢理毘売命は大国主命の正妻でありながら、後にその子の記載が記されていないように、全姉弟である火遠理命との婚姻、つまりこちら側に子を成せない「実姉」が隠れています。 これは須佐之男命と天照大御神の関係と同じ構図です。 また『古事記』系譜では、天津族である天照大御神の系譜に妃神を送り込む形で、大綿津見神・大山津見神がいるのですが、一見別族のように描かれていますが、同神融合させていくことで、いわゆる高天原の天津族とは同祖同族であるということがわかります。(以下に書く) そもそも神生みの段では、大山津見神・大綿津見神は共に伊耶那岐神&伊耶那美神の子である。 他にも別な考察があるかもしれませんが、それはまたその時にでも考えるとします(´・ω・`) ⓬鵜草葺不合命が、叔母の玉依比売を娶って産まれた子が神倭伊波礼毘古命。 これまでの考察から他の玉依毘賣(=玉櫛姫・活玉依毘売)を娶ったのは、阿遅鉏高日子根神(火雷神)と八重事代主神(大物主)、(※「紀」一書にある天忍穂耳命)であり、これらを纏めると大国主命の孫が神武天皇となります。 ただし、これまでと同様に、神武天皇も実は他神と同神、或いは投影や架空人物であるかについては、今後の宿題となります。 何故ならば、他の諸氏の考察と同様に、事績の整合性などから実在自体が怪しいと目されているからです。---------------------------------------------------------------------------------------- …それではそろそろ今回の考察のまとめに入ります(´・ω・`)ノ 『古事記』における伊邪那岐から神武天皇までの系譜は、 A:伊耶那岐神&伊耶那美神→三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命) (同祖同親→同祖同親) 妻である伊耶那美神は火の神を生んだことで死んでしまう。 B:三貴子(天照大御神&須佐之男命)→天忍穂耳命&ぽっと出の栲幡千千姫命 (同祖同親→同祖別親) あくまで「宇気比」という形をとるが、実際は子を産めない。よって母系は同族の別の親となる高御産巣日神の娘の出現となる。 ※この時点で天照大御神と栲幡千千姫命(思兼神の妹)は姉妹の記載はない。 C:天忍穂耳命&栲幡千千姫命→邇邇芸命&木花之久夜毘命(+磐長姫命) (同祖別親→別祖別親) 史実では「宇気比」の子であるため、実際は全姉弟婚となり存在し得ない子と、ぽっと出の高御産巣日神の子との間にできた息子と国津神である大山津見神の娘と結婚する。 天照大御神=卑弥呼であるならば、何度も記すように実子はいないため、血が完全にリセットされていないのであれば、この時点で皇祖側の直系に残るのは実は須佐之男命側となる。 「記紀」では、いかにも天照大御神の孫という形で書かれていますが、実際の天孫は、須佐之男命側の直系と大山津見神の姉妹の娘の「妹」にあたる木花之久夜毘命との婚姻となる。 また、大山津見神の娘は姉妹で描かれており、姉は途中で帰されてしまう。 D:邇邇芸命&木花之久夜毘命→火の三兄弟の火遠理命&豊玉毘売命(+玉依比賣) (別祖別親→別祖別親)  結婚し、子を成すが、後に妻と別れる。 Aパターンに類似しているが、妻は死んでいない。 大綿津見神の娘は姉妹で描かれている。  E:火遠理命&豊玉毘売命→鵜草葺不合命&ぽっと出の玉依比賣 (別祖別親→同祖同親) 天孫と姉側の子を同族の「妹」が育てる。 一見血統的には、{(天+山:ソラツヒコ)+(海:豊玉毘賣)}=(鵜草葺不合命)+(海:玉依比賣)の構図ですが、大綿津見神=大国主命の考察から、「(天+山)=海」と同じとなり、結果、この時点で系譜は「海+海」になり、再び、同祖同親に戻っていることになる。 これは大山津見神の別名である「和多志大神(わたしのおおかみ)」、和多(わた)は綿津見(海神)のわたであり、海の意味と同じでつまりは大山津見神=大綿津見神とも同じとなることと共通します。 F:鵜草葺不合命&玉依毘賣命→神武天皇兄弟&媛蹈鞴五十鈴媛命 古事記系譜にある玉依比賣は、皇祖直系の表の系譜には現れていない事代主命の妻であるが、神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命は事代主命の娘と記紀に書かれているため、事代主命の息子と娘という構図になり、ここで完全に同祖同親集約されてしまう。 つまり(同祖同親→同祖同親)が確定。 ※事代主命は須佐之男命の子(子孫)の大己貴命の子が事代主神ですから、やはり直系は須佐之男命になり繋がる。 次に、今度は系譜の上から埋めていきます。 ヒントは『日本書紀』第九段一書(七)に、 『一云、高皇産靈尊兒萬幡姫兒玉依姫命、此神爲天忍骨命妃、生兒天之杵火火置瀬尊』 「別伝によると… 高皇産靈尊の娘の萬幡姫の娘が玉依姫命です。この女神は天忍骨命の妃となって、天之杵火火置瀨尊を生みました。 」 つまり天忍穂耳命の妻が玉依姫命で邇邇芸命を生んだということ。 これまでの考察から、玉依姫命の夫は事代主命or阿遅鉏高日子根神で、父は大国主命なのですから、当てはめていきますと、次の通り。 粟飯原氏系図により月読命=須佐之男命、勝速日(天忍穂耳命)=須佐之男命で、その須佐之男命の妻に、栲幡千千姫命※別名玉依比賣の構図となります。 玉依比賣の夫はこれまでの検証で大国主命の子である事代主命のはず。  つまり本当は、須佐之男命=事代主命ということになります。 wikipediaに、「コトシロ」は「言知る」の意で、託宣を司る神である。言とも事とも書くのは、古代において「言(言葉)」と「事(出来事)」とを区別していなかったためである。 …とあり、この「事代主」は、役職の総称名ともいわれており、本来の実名ではない。 チョット衝撃的な考察ともなりますが、推し進めて須佐之男命を事代主命に更に置き換えますと次の通り。 ここでの最大の特徴は、「須佐之男命を事代主命に置き換える」ということ。 「玉依比売の子=神武天皇」がキーワードであり、そこで一旦系譜が完結されるというものです。 つまりまず最初は邇邇芸命(=神武天皇)で一旦完結した物語でした。 邇邇芸命を神武天皇とした場合、その妃が媛蹈鞴五十鈴媛命なので、上記系譜の置き換えでいえば、邇邇芸命の妃である木花之久夜毘命が対応し、その父である大山津見神が事代主命ということになります。 従って、全国にある三島神社系の御祭神の多くが八重事代主命であると考えられたものと推察されます。  しかしよく調べてみますと、 三島鴨神社 現在の祭神は以下の2柱。 ●大山祇神 (おおやまづみのかみ) 『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神(大山祇命に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたという。「津の国の御島」とは摂津国三島(現 高槻市三島江)を指すとされ、この記述によれば大山祇神社(愛媛県今治市)の祭神は元々は当地の神とされる。なお、この「大山積神」は記紀の記す大山祇神と別の神格であるという指摘もある。 ●事代主神 (ことしろぬしのかみ) 事代主神は鴨氏の氏神とされ、当地に鴨氏の進出が背景にあるとされる。 『日本書紀』神代巻には、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。三島溝橛耳一族の氏神として、当社近くには溝咋神社が祀られている。(wikipedia 三島鴨神社より抜粋) つまり、三島溝橛耳の一族の娘を娶った八尋熊鰐となった鴨氏である事代主命を祀っているということ。(※実際は三島溝橛耳は大国主命ですから事代主命はその息子ではある。) 従って、大山津見神=事代主命ではなく、あくまで系譜として神武の后に繋がる三島鴨の系譜であるからなのです。 それぞれ一宮の御祭神を改めて見てみますと、 ・大山祇神社 (伊予国一宮) 祭神:大山積神  ・三嶋大社 (伊豆国一宮) 祭神:大山祇命 積羽八重事代主神 要するに、大山祇神社系=大山津見神とその娘等をお祀りしているのであり、また、三嶋神社系=大山津見系&事代主命ファミリーをお祀りしているのです。 また、大山津見神は、上にも書いたように別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも呼ばれており、和多は綿津見(海神)のわたであり、海の意味と同じ。 つまり、大山津見神=大綿津見神と同じ意味になります。 そもそも、大国主命=三島溝橛耳=鴨建角身命。 三島(三嶋)の祖は大国主命のはずなのです。 これまでの考察により、大綿津見神=大国主命なのですから、上の系譜からはまだ火遠理命の代へ続きますので、次のようになります。 更に1代引き延ばした結果、これが『日本書紀』の一書にある、火遠理命のことを火折彦火火出見尊とも書かれ、また同書に、初代天皇神武天皇の実名が、彦火々出見とある痕跡、つまり2回目の神武天皇誕生となります。 この場合、兄弟は五瀬命、稲飯命などが対応、妃は勿論媛蹈鞴五十鈴媛命が豊玉毘賣に、妹の玉依姫は五十鈴依媛命(2代綏靖天皇妃)となり合致し、その観点から行きますと、大綿津見神は事代主命となってしまいます。 しかし、これだと大山津見神と大綿津見神の比定が大国主命と事代主命の入れ替りになっただけで、大山津見神=大綿津見神にはなりません。 よってまたまた系譜を足していくことになります。 いよいよ大詰め。 この1回で書こうとしましたが、長くなったので次回に持ち越します(´・ω・`)ノ

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  • 27Nov
    • 火遠理命から考察 ①

       ◆火遠理命(ほおりのみこと) 火遠理命(ほおりのみこと)は、日本神話や記紀に登場する人物。別名は、彦火火出見尊・日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)、虚空津日高(そらつひこ)。正しくは、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ(たか)ひこほほでみのみこと)と言う。「海幸山幸(うみさちやまさち)」の説話に登場し、一般には山幸彦(やまさちひこ)(山佐知毘古、やまさちびこ)の名で知られる。神武天皇の祖父に当たる人物。 ●古事記 『古事記』によると、日子番能邇邇藝命(ひこほのににぎのみこと)と木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)との子で三男。日子番能邇邇藝命に「自分の子ではない」と疑われ、佐久夜毘売がその疑いを晴らすために産屋に火をかけて、その火の中で生んだ三人の子の末で、火が消えかけた時に生まれたので火遠理命(ほおりのみこと)と名付けたとする。兄に火照命(ほでりのみこと)(海幸彦)、火須勢理命(ほすせりのみこと)がいる。 大綿津見神の娘のトヨタマビメ(豊玉毘売)を妻とし、「日子波限建鵜葺草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)(神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)の父)」をもうけた。高千穂宮で伍佰捌拾歳(580年)で亡くなったとある。(wikipedia 火遠理命より抜粋) 山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、『記紀』に記された日本神話。主に「海幸山幸(うみさちやまさち)」と呼ばれ、神話に多い神婚説話、理想郷に留まる内容であり、民話「浦島太郎」のもととなっている。誕生地、生活などの伝説は宮崎県の宮崎市を中心とした宮崎平野に集中している。 ●記紀の名称表記山幸彦 - 火遠理命(古事記)・彦火火出見尊(日本書紀)海幸彦 - 火照命(古事記)・火闌降命(日本書紀) 名前のごとく、山の猟が得意な山幸彦(弟)と、海の漁が得意な海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。困り果てていた所、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴く。 海神(大綿津見神)に歓迎され、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結婚し、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていた。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせたという。この海幸彦は隼人族の祖である。その後、妻の豊玉姫は子供を産み、それが鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、山幸彦は神武天皇の祖父にあたる。 ●古事記 海佐知毘古と山佐知毘古 古事記では火照命(ほでりのみこと)は海佐知毘古(うみさちびこ)(漁師)として大小の魚をとり、火遠理命(ほおりのみこと)は山佐知毘古(やまさちびこ)(猟師)として大小の獣をとっていた。火遠理命は兄の火照命に互いの道具の交換を提案した。火照命は三度断ったが、少しの間だけ交換することにした。火遠理命は兄の釣針(海佐知)で魚を釣ろうとしたが1匹も釣れず、しかもその釣針を海の中になくしてしまった。兄の火照命も獲物をとることができず、「山佐知も己が佐知さち、海佐知も己が佐知さち(山の幸も海の幸も、自分の道具でなくては得られない)」と言って自分の道具を返してもらおうとした。火遠理命が釣針をなくしたと告げると、火照命は火遠理命を責め取り立てた。火遠理命は自分の十拳劔から1000の釣針を作ったが、火照命は「やはり元の釣針が欲しい」として受け取らなかった。 火遠理命が海辺で泣き悲しんでいると、塩椎神(しおつちのかみ。潮流の神)がやって来た。火遠理命が事情を話すと、塩椎神は小船を作って火遠理命を乗せ、綿津見神(海神・わたつみ)の宮殿へ行くように言った。 綿津見神の宮殿 綿津見神の宮殿へ行き、そこで待っていると、海神の娘の豊玉毘売命の侍女が水を汲みに外に出て来た。火遠理命が水を求めたので、侍女が水を器に入れて差し出すと、火遠理命は水を飲まずに首にかけていた玉を口に含んでその器に吐き入れた。すると玉が器にくっついて離れなくなったので、侍女は玉のついた器を豊玉毘売命に差し上げて、事情を話した。 不思議に思って外に出た豊玉毘売命は、火遠理命を見て一目惚れした。父である海神も外に出て、そこにいるのが天孫邇々芸命(ににぎ)の子の虚空津日高(そらつひこ・火遠理命の尊称)であると言い、すぐに豊玉毘売命と結婚させた。こうして、海神の元で三年間暮した。 三年たって、火遠理命はここに来た理由を思い出し、深い溜息をついた。海神が溜息の理由を問うたので、火遠理命は事情を話した。 火照命の服従 海神が魚たちを集め、釣針を持っている者はいないかと問うと、赤鯛の喉に引っかかっているとわかった。海神は釣針と鹽盈珠(しおみちのたま)・鹽乾珠(しおひのたま)を火遠理命に差し出し、「この釣針を兄に返す時、『この針は、おぼ針、すす針、貧針、うる針(憂鬱になる針、心が落ち着かなくなる針、貧しくなる針、愚かになる針)』と言いながら、手を後に回して渡しなさい。兄が高い土地に田を作ったらあなたは低い土地に、兄が低い土地に田を作ったらあなたは高い土地に田を作りなさい。兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」と言った。そして和邇(わに/鮫のこと)に乗せて送って差し上げた。その和邇は今は佐比持神(さいもちのかみ)という。 火遠理命は海神に言われた通りに釣針を返し、言われた通りに田を作った。海神が水を掌っているので、火照命の田には水が行き渡らず、火照命は貧しくなっていった。さらに火照命が荒々しい心を起こして攻めて来た。すると火遠理命は塩盈珠を出して溺れさせ、火照命が苦しんで許うと、塩乾珠を出して救った。これを繰り返して悩み苦しませると火照命は頭を下げて、火遠理命を昼夜お守りすると言った。 豊玉毘売命の出産 豊玉毘売命は海宮で懐妊したが、天神の子を海の中で産むわけにはいかないとして、陸に上がってきた。浜辺に産屋を作ろうとしたが、茅草がわりの鵜の羽を葺き終えないうちに産気づいたため、産屋に入った。豊玉毘売命は、「他国の者は子を産む時には本来の姿になる。私も本来の姿で産もうと思うので、絶対に産屋の中を見ないように」と彦火火出見尊に言う。 しかし、火遠理命はその言葉を不思議に思い産屋の中を覗いてしまう。そこに豊玉毘売命が姿を変えた八尋和邇(やひろわに)が腹をつけて蛇のごとくうねっているのを見て恐れて逃げ出した。 豊玉姫は彦火火出見尊に覗かれたことを恥じて、生まれた子を置いて海に帰ってしまう。その生まれた御子を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへず)と言う。 しかしその後、火遠理命が覗いたことを恨みながらも、御子を養育するために妹の玉依毘賣を遣わし、託した歌を差し上げ、互いに歌を詠み交わした。(wikipedia 山幸彦と海幸彦より抜粋) 表題は変わりましたが、今回の考察は前回からの続きとなっております(´・ω・`)ノ wikipediaに書かれてある物語の要点のみをピックアップします。 ※詳細についてはネット等で確認してね ➊父はニニギ、母は神阿多津都比賣(=木花之佐久夜毘売、姉に磐長姫、父は大山祇神)、火照命・火須勢理命・火遠理命(別名 日子穂穂手見命)三兄弟の末っ子。 ❷兄から借りた釣り針を失くした火遠理命は、十拳の剣をつぶして五百の釣り針を作ったが兄は受け取らなかった。 ❸火遠理命が海辺で泣き悲しんでいると、塩椎神がやって来て、事情を話すと綿津見神の宮殿へ行くように勧められる。 ❹火遠理命は首にかけていた玉を口に含んで器に吐き入れた。 ❺豊玉毘売命は、火遠理命を見て一目惚れし結婚した。 ❻見つかった針を兄に返すとき呪文を唱え後ろ向きに渡しなさい。 ❼海神は、火遠理命に「塩盈珠」と「塩乾珠」のあわせて二つを授けた。 ❽火遠理命を送り届けた一尋の鰐はいまでも佐比持神(サヒモチ)という。 ❾そこでいまに至るまでホデリの子孫の隼人は、その溺れたときの様々な仕草を演じて天皇にお仕えしている。(これを隼人舞とする) ❿豊玉毘売命は出産の際、八尋の鰐となって腹這いになってのたうち回っていたので、火遠理命は驚き、恐れ、逃げた。姿を見られた豊玉毘売命は恥じ、海神の国とこの国の境をふさいで海神の宮に帰っていった。 ⓫夫が恋しいという気持ちに耐えられず、その御子を養育するという縁で、妹の玉依毘売に託して歌を献上。 ⓬鵜草葺不合命が叔母の玉依比売を娶って産まれた子に神倭伊波礼毘古命がいる。---------------------------------------------------------------------------------------- …では要点をそれぞれ考察していきます。 「記紀」内にある別項と類似箇所がある場合は文頭に【類似】の印をつけておきます。 ➊父は邇邇芸命、母は神阿多津都比賣(=木花之佐久夜毘売、姉に磐長姫、父は大山祇神)、火照命・火須勢理命・火遠理命(別名 日子穂穂手見命)三兄弟の末っ子。 【類似】 両親から三兄弟の子、その末っ子の男性が主人公という構図は、伊邪那岐命&伊邪那美命、三貴子(天照大御神・月読命・須佐之男命)と同じです。 同様に、父母:鵜草葺不合命&玉依比売、『古事記』・『日本書紀』本文・第一・第二・第四の一書では第四子とし、『日本書紀』第三の一書のみ第三男子とする。兄に五瀬命、稲飯命、御毛沼命がいる。 ❷兄から借りた釣り針を失くした火遠理命は、十拳の剣をつぶして五百の釣り針を作ったが兄は受け取らなかった。  十拳剣は、天照大御神が須佐之男命との「宇気比」の際、須佐之男命の十拳剣を噛み砕き、吹き出した息の霧からの宗像三女神が生まれました。 歴代の所持者と記載箇所は次の通り。 【類似】 ●伊邪那岐命:(火之迦具土神を斬る場面、この剣には、「天之尾羽張」(あめのおはばり)または「伊都之尾羽張」(いつのおはばり)という名前がついている) また、黄泉の国から逃げる際に、十拳剣を後手(しりへで)に振って追っ手から逃れている。 ●須佐之男命:八俣遠呂智退治の時に使った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」。 天照大御神と須佐之男命の誓約の場面などで記述される。 ●阿遅鉏高日子根神:天若日子の葬儀に訪れた際、怒って十掬剣で喪屋を切り倒している。この剣は「神度剣」(かむどのつるぎ)または「大量」(おおはかり)という名前がついている。 ●建御雷神:天鳥船神と建御雷神の二柱は、出雲の伊那佐の浜に降り立った際、十拳剣を抜き、逆にして海に立てて、その剣の刃の上にあぐらをかいて、大国主神に問う。この剣は後に神武東征の場面において神武天皇の手に渡る。そこに、この剣が「佐士布都神」(さじふつのかみ)、「甕布都神」(みかふつのかみ)または「布都御魂」(ふつのみたま)という名前であると記されている。 ●火遠理命:自分の十拳剣を鋳潰して大量の針を作っている。 ●高倉下:夢の中で天照大神と高木神が、葦原中国が騒がしいので建御雷神を遣わそうとしたところ、建御雷神は「自分がいかなくとも、国を平定した剣があるのでそれを降せばよい」と述べ、高倉下に「この剣を高倉下の倉に落とし入れることにしよう。お前は朝目覚めたら、天つ神の御子に献上しろ」と言った。そこで高倉下が目覚めて倉を調べたところ、はたして本当に倉の中に剣が置いてあったため、それを献上したのである。この剣は佐士布都神といい、甕布都神とも布都御魂ともいい、石上神宮に祀られている。 これとは別に、生大刀という須佐之男命が所持していた神剣があり、その後大己貴命が根の国から持ち帰り、大国主を名のることを許られる。 ここ要チェックやで ❸火遠理命が海辺で泣き悲しんでいると、塩椎神がやって来て、事情を話すと綿津見神の宮殿へ行くように勧められる。 【類似】 海で泣いていた須佐之男命は、根之堅洲国に行きたいと願い、父の伊邪那岐命の怒りを買って追放され、姉に別れの挨拶をするために高天原へ上る。 大己貴命の母である刺国若比売は、泣きながら木の中から大国主命を探し出し、「あなたはここにいたら、八十神に滅ぼされてしまうだろう」といい、木国の大屋毘古神のもとに遣わせた。大屋毘古神は大己貴命を木の股を潜り抜けさせて逃がし、須佐之男命のいる根の堅州国に向かうようにいった。  ※また別に、ここで塩椎神が、山幸彦のことを虚空津日高(ソラツヒコ)と呼んでいることにも注目。 ❹火遠理命は首にかけていた玉を口に含んで器に吐き入れた。 【類似】 須佐之男命は「宇気比」により、天照大御神の「八尺の勾玉」を受け取って噛み砕き、吹き出した息の霧から五柱の男神が化生した。 ❺豊玉毘売命は、火遠理命を見て一目惚れし結婚した。 【類似】 高天原に赴いた須佐之男命は、天照大御神(同父の娘)と会い「宇気比」という形で結ばれた。  根の国に赴いた大国主命は、須勢理毘売(同父の娘)と会い、様々な試練の末、結婚し正妻とした。 ❻見つかった針を兄に返すとき呪文を唱え後ろ向きに渡しなさい。 『古事記』原文にある、 「於後手賜」=「後ろ向きに渡しなさい。」 ⇒ 両手を背に回す× 後ろ向きに〇 「後ろ手」というと、 一般的には「両手を背に回す」ことを「後ろ手」といいますが、(例:後ろ手に縛る→両手を背後で縛る)古事記現代語訳にもあるようにこの場合、「後ろ手」とは「後ろ向き」という意味で書かれています。 基準となる人物が近くにいることが前提となる「方向」を「手」に充てる言葉は、阿波弁にあり、阿波弁を知っていないと読解が難しい表現でもあります。 『古事記』が阿波弁で書かれているという主張の一つにもなっています。 そしてこの記述も伊邪那岐命が黄泉国から逃げて来た時に、 「副千五百之黄泉軍令追 爾拔下所御佩之十拳劔上而 於後手布伎都都此四字以音逃來」 「黄泉の国の軍を付けて伊邪那岐命を追わせた。そこで伊邪那岐命は佩いていた十拳の剣を抜いて、後ろ向きに振りながら逃げていった。」 一般的な「後ろ手=両手を後ろに回す」状態では、剣を振ることなど到底できませんよね(´・ω・`) そして後ろ向きの逸話があるところは… ❼海神は、火遠理命に「塩盈珠」と「塩乾珠」のあわせて二つを授けた。 【類似】 須佐之男命の元を離れる際、大国主命は、「生大刀」と「生弓矢」を持ち出した。 ❽火遠理命を送り届けた一尋の鰐はいまでも佐比持神(サヒモチ)という。  『古事記』では、 「其和邇將返之時 解所佩之紐小刀 著其頚而返 故 其一尋和邇者 於今謂佐比持神也」 「その鰐を返そうとするとき、佩いていた細い小刀を外してその頸に付けて返した。そこでその一尋の鰐はいまでも佐比持神(サヒモチ)というのである。」 …とありますが、『日本書紀』では、火遠理命が海神の宮殿から戻る際にはこの”サヒモチ”の文字は現れず、代わりに「神武東征」で稲飯命が熊野に進んで行くときに暴風に遭った際に、 『時稻飯命乃歎曰「嗟乎、吾祖則天神、母則海神。如何厄我於陸、復厄我於海乎。」言訖、乃拔劒入海、化爲鋤持神。』 「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか。そう言い終わると、剣を抜いて海に入って鋤持神となりました。 」 鋤(すき)とは、農作業や土木工事に使用された、地面を掘ったり、土砂などをかき寄せたり、土の中の雑草の根を切るのに使用される道具、農具である。(wikipedia 鋤より抜粋)  「鋤持(さひもち)の神」は「鋤を持つ神」という意味であり、また、”稲飯”命という名からも、農耕の神と考えられます。 ただし『新撰姓氏録』では、右京皇別 新良貴 - 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の男の稲飯命の後。続けて「是出於新良國。即為國主。稻飯命出於新羅國王者祖合」と記し、稲飯命は新羅王の祖である。とあり、「海に入る」=「朝鮮へ向った」とも考えられます。 また、稻羽之素兎の話にも登場する「和邇」ですが、一般的には「鮫」として解釈されています。 和珥氏(わにうじ)は、「和珥」を氏の名とする氏族。 5世紀から6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。和珥は和邇・丸邇・丸とも。一説には海人族でもあったという。 ◆和邇氏系図 主な枝氏に、春日氏、大宅氏、小野氏、粟田氏、柿本氏(柿本人麻呂を輩出。)、和仁氏。(wikipedia 和珥より抜粋)  こちらの皇別氏族もしくはその祖から、何らかの手助けがあったとも考えられます。 ❾そこでいまに至るまでホデリの子孫の隼人は、その溺れたときの様々な仕草を演じて天皇にお仕えしている。(これを隼人舞とする) ここにある「溺れた時の様々な仕草を演じる舞」=隼人舞という大隅、薩摩地方にいた隼人族の古代風俗歌舞だそうですが、『古事記』に、これとよく似た踊りの所作の表現が天岩屋戸の項にあり、天宇受売命が天照大御神の気を惹く際に、 「天之石屋戸伏汗氣此二字以音而蹈登杼呂許志此五字以音」  「天の岩屋戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし」  シ+于と氣で(「于」はヲとも読めるため)、殆どの現代訳でこれを「桶(ヲケ)」としています。 ただし「于」は通常「ウ」と読みます。 「而」:しかして。しこうして。そして。順接を表す語。 しかも。しかるに。しかれども。それでも。逆接を表す語。 すなわち。しかるときは。そのときは。なんじ。おまえ。 「桶(ヲケ)」は名詞で、その後にある「而」で順接(逆接)を表す語としては不自然になります。⇒「伏せた桶そして(しかも)踏み轟こし」 ここの読みは、「あめのいわやど ふせうけて ふみとどろこし」であり、従ってここの訳は、「天の岩屋戸で伏せ受けて踏み轟こし」となります。 つまり、伏せた(屈んだ)時に手を挙げ頭を抱えるような仕草(受け身の様)をしながら足は踏み轟かしいているということ。 日本神話では、火照命が隼人の阿多君の祖神とされ、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるとのことですが、申し訳ありませんが実際にその踊りを見ても全くそのようには見えません。⇒「大住隼人舞」 弓矢を持った両手を一瞬仰ぐ様がそうなんですかね 前後の所作から含めても『古事記』にある「其溺時之種種之態」=「溺れたときの様々な仕草を演じて」には見えないんですけどね。 上にある天宇受売命での表現や「溺れた時の様々な仕草」(=手足を激しく動かす)に最も近いのはやはり現代にもある「阿波踊り」(当時は阿波踊りとは呼ばれていなかったはず)ではないでしょうか ⇒wikipedia「阿波踊り」 wikipediaにも書かれておりますが、「精霊踊りや念仏踊りが原形であるといわれるが、起源は明らかになっていない。」とあり、一般的には400年の歴史と紹介されておりますが、本当はいつからあったのかすらわかっていません。 この阿波踊りの囃子ことばにもある「ひょうたんばかりが浮き物か 私の心も浮いてきた 浮いて踊るは阿波踊り」ともあるように、海人族の象徴ともいえる「瓢箪」を下げています。 ◆阿波踊りグッズのひょうたん 今は印籠みたいに小さくなってるものが多いですが(´・ω・`) 瓢箪は、現代風にいえば、水筒に使ったり、浮き輪に使ったりと古代の海人族には欠かせない代物であり象徴でもあります。 「火照命此者隼人阿多君之祖」=「火照命(ホデリ)、これは隼人阿多君の祖である。」  …ともあるように、通説での「隼人」や「阿多」は日向国(大隅・薩摩国を含む)のこととされていますが ❿豊玉毘売命は出産の際、八尋の鰐となって腹這いになってのたうち回っていたので、火遠理命は驚き、恐れ、逃げた。姿を見られた豊玉毘売命は恥じ、海神の国とこの国の境をふさいで海神の宮に帰っていった。 【類似】 伊邪那美命は伊邪那岐命に腐敗した自分を見られたことに恥をかかされたと大いに怒り、恐怖で逃げる伊邪那岐命を追いかける。しかし、黄泉国と葦原中国の境となる黄泉比良坂の出口を大岩で塞ぎ会えなくしてしまう。 ②へ続きます(´・ω・`)ノ

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日本の古代史考察をしています 大好きなマリンアクアリウムもやってるよ

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