『古事記』によると、イザナギとイザナミの二柱の神は、天の沼矛を海に突き刺してかき回し、塩が垂れ落ちて積もり重なって出来た島が淤能碁呂島であると記します。

 二柱の神はその淤能碁呂島に降り立って、天の御柱と八尋殿(大きな宮殿)を建てました。

 そこで結婚をし、子をなすわけですが、

 

 久美度邇此四字以音興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。」

 「二柱が床で交わって作った子は水蛭子でした。この子は葦で作った船に乗せて流して捨ててしまいました。つぎに淡島が生まれましたが、これも子とは認めませんでした。」

 

 …とあり、久美度邇興而生子つまり”セ●クスをして生んだ子”とあることから、字面の意味からも間違いなく自身の子でありながら、出来の悪さから子としては認めず、結局は水蛭子と次子の淡嶋と共に葦船に乗せて流したとあります。

 その原因を探るために天神に相談し、よくなかった点を修正して再度国生みに挑戦したところ、

 

 「如此言竟而御合生子淡道之穗之狹別嶋。」

 「そう言い合って交わって出来た子は、淡道之穂之狭別島(アワジノホノサワケシマ=淡路島)でした。」

 

 …とあり、ここでも、”みあひして生みませる子”、つまりこちらも先とは別の言い方で”セッ●スして生んだ子”としております。

 淡道之穗之狹別嶋は、水蛭子・淡嶋に次いで3番目の子になりますが、子と初めて認められたのが「淡道之穗之狹別嶋」という事になります。

 今回はこの「淡道之穂之狭別嶋」から一体何がわかるのかについて例の如く穿った私説考察をして参ろうと思います。

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 

 まず最初に、『古事記』に記される二柱の最初の子の「淡道之穂之狭別嶋」についてですが、通説では当然といっては何ですがこれを淡路島であるとします。

 何故ならば、『日本書紀』においてこれを「淡路洲(あわじしま)」と記されているからに他なりません。

 私説解釈とはなりますが、712年に完成した『古事記』と、僅かその8年の後に完成された『日本書紀』との内容の大きな違いは、『古事記』を原典としてそれを701年に施行された大宝律令後の国々に置き換えなおしたものではないかと考えられる節が見られるからです。

 つまり、この最初の子として数えた『古事記』の「淡道之穂之狭別嶋」と『日本書紀』の「淡路洲」は厳密には違う可能性があると考えられるのです。

 ではまずこの「淡道之穂之狭別嶋」の神名の意味するものが何であるのかについて見てみることにしましょう。

 

 福岡大学人文学部教授である岸根敏行(日本の宗教学者、神話学者 早稲田大学第一文学部卒業。1995年東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学)氏の論文、「古事記神話における淡道之穂之狭別嶋をめぐって」によりますと、

 「二「淡道之穂之狭別嶋」という名称の問題点①ー語義解釈」にて、

 

 「最初の「淡道」が淡路嶋を指していることについては特に異論はないと思われるが、その直後に「之」と漢字表記される格助詞「の」が続いていて、「淡道之」はそのまま後続の語句に掛かると考えることができる。

 「穂」は穀物の茎先に花や実がついた状態を指す語で、本居宣長が『古事記伝』でそれを稲の穂であると捉えたのに対して、それに同意せず、粟の穂であると指摘する先行研究がいくつか存在している。「淡道之穂」であるから、それは粟の穂のことであると考えているのである。しかし、一見して明らかなように、「淡道」はけっして「粟」そのものではない。粟の国(阿波国)に至るための道であるから、そのように呼ばれていただけであって、淡路嶋そのものが粟と直接に結びついているわけではないのである。(中略)

 古事記神話のその後の展開を見るかぎり、地上の国土において稲が成長して実り豊かな大地になることこそがもっとも重要な点なのであるから、地上の国土で一番最初に登場する嶋が粟の穂と結びつけられなければならないという必然性は特に見出されないように思われる。したがって、筆者はこの「穂」を粟の穂であると断定することに対して同意できないという点をここで明示しておきたい。」

 

 …とし、まず島の名である「淡道之穂」の「穂」については、本居宣長の説と同じく”稲の穂”のこととしております。続けて、

 

 「さて、この「穂」の後に「之狭」という語が続いている。ここで問題となるのは、「狭」という語の意味と、「穂」と「狭」をつなぐ「之」と漢字で表記される格助詞の「の」をどう捉えるかという点である。

 まず「狭」についてであるが、本居宣長が「穂之狭」を「穂之早」と捉え、出始めた穂、すなわち、初穂のことではないかと主張して以来、現在に至るまで、それに異を唱えるような主張は現れていないように思われる。

 それに続いて、「穂」と「狭」をつなぐ「之」という語がどのように捉えられるかという問題であるが、古事記神話には「穂之邇邇芸」という神名が登場しており、ここで問題にしている「穂之」と同一の表現が現れている。「邇邇芸」は「にぎやか」「にぎはふ」のように、豊かであることを意味する「にぎ」が重ねられた「にぎにぎ」が縮まったものであると指摘されている。「穂」は「之」という語を介して、この「邇邇芸」と結びついているのである。「之」と漢字表記される格助詞「の」には様々な用法が見られるが、この場合は「穂」と「邇邇芸」を主語・述語として関係づけているとして、「穂がたわわである」と理解するのが適切であろう。そして、それがそのまま神名になったと言えるのである。

 「穂之狭」についても同様に、「之」は「穂」と「狭」を主語・述語として関係づけていると考えることができるであろう。「之」という漢字をわざわざ挿入することによって明示される格助詞「の」が、古事記神話において、このように二つの語を主語・述語として関係づけている事例については、先行研究でも指摘されている。

 したがって、「穂之狭」は従来指摘されているようにな「早い穂」ではなく、「穂が早い」という一つの状況に対する表現として捉えられるであろう。結局は最初に目を出した穂という同じことを意味するようであるが、このような表現がどういう意味をもちうるかについては、考慮すべき余地があるように思われる。」

 

 「穂之狭」については、邇邇芸命の神名を例に出して、”最初に目を出した穂”という意味としては変わらないが、「早い穂」ではなく、「穂が早い」という一つの状況表現であるとします。つまり「の」の上と下の語が逆の語として使われているが最終的な意味としては同じになると記しております。更に続けて、

 

 「「早苗」や「早乙女」などに表れる「さ」のように、「狭」を稲という意味で捉えるというものである。古事記神話には登場していないが、日本書紀神話に登場する「事勝国勝長狭」という神名の「狭」が従来、そのような意味で捉えられている点からも、その可能性は十分考えられるのではないかと思う。」

 

 ここでは、「狭」は「さ=稲」と捉える考えがある旨を記します。次に、

 

 「そして、その後に続くのが「別」という語である。この「別」は、「沼帯別命」「大鞆和気命」などのように、古代の一時期に、皇族の男子に付けられていたもので、のちには姓(かばね)としても用いられている。「比古(ひこ)」や「男(を)」と同様に、ここでは男子であることを示すために付け加えられた語と考えてよいであろう。」

 

 「別」は皇族男子の姓であり、「比古(ひこ)」や「男(を)」と同じ意味で、つまりイザナギ・イザナミの最初の男児という事になりますね。結論として、

 

 「以上のように、「淡道之穂之狭別嶋」はという名称について検討してきたわけであるが、検討の結果として、この名称は「淡道という、(稲)穂が早くついた男子という嶋」、あるいは、「淡道という、穂をつけた稲の男子という嶋」という意味で捉えることが可能であろう。」

 

 …としております。

 確かに國學院大學古典文化学事業神名データベースにも、

 「淡道之穂之狭別島は、「穂之狭別」のホノサの名義は、ホを粟の穂、サを「早」で穂がはじめて出ることとし、初穂の意とする説がある。また、ホを穂、サを稲と捉え、穂をつけた稲とする説もある。」とあります。

 

 お次に、『古事記』に書かれてある国生みを併記される神名と共に順に列記し比較しており、

 

 ①「淡道之穂之狭別嶋」神名なし

 ②「伊予之二名嶋」愛比売・飯依比古・大宜都比売・建依別

 ③「隠岐之三子嶋」天之忍許呂別

 ④「筑紫島」白日別・建日向日豊久士比泥別・豊日別・建日別

 ⑤「伊岐嶋」天比登柱

 ⑥「津嶋」天狭手依比売

 ⑦「佐度嶋」神名なし

 ⑧「大倭豊秋津嶋」天之御虚空豊秋津根別

 ⑨「吉備児嶋」建日方別

 ⑩「小豆嶋」大野手比売

 ⑪「大嶋」大多麻流別

 ⑫「女嶋」天一根

 ⑬「知訶嶋」天之忍男

 ⑭「両児嶋」天両屋

 

 氏は、これについて、

 

 「イザナギとイザナミという一対の男女の神により、出生という形で地上の国土が生成されるのであるが、これらの嶋や国はその子として位置づけられるのである。それゆえに、嶋や国が同時に神名を伴うというのは、すべてを神として捉えようとする古事記神話の構想からすれば、いわば当然のことなのであって、淡道之穂之狭別嶋や佐度嶋のように、神名を伴っていないということ自体が実は異常であると言わなければならないであろう。なぜなら、神名がなければ、イザナギとイザナミの子とはなりえず、その存在は神話的な世界のなかで明確に位置づけられないことになってしまうからである。」

 

 …との理論を記しておられます。

 氏の論文からの引用はこの辺りまでにしておきますが、これを私説解釈にてご説明させて頂きますと、上に列記した二柱の子とする島々の中に、自身の子でありながらも、自身の子として認めていない子、要するに神名を意図的に併記していない二つの島が存在します。

 この二つの島が、系譜上では次代に存在する”自身の投影神”ではないのか…と考えられる訳です。(もちろん別神名でねウインク

 

 したがってここでは取りあえず一旦、

 

 「淡道之穂之狭別嶋」右矢印イザナギ(伊弉諾神宮が存在のは現在の淡路島であるため)

 =水蛭子=次代の別神名の男神として登場している

 

 「佐度嶋」右矢印イザナミはてなマーク

 =淡嶋=次代の別神名の女神として登場している

 

 …に仮定しておきましょう。

 お次に、島々の比定についてですが、通説を一応記しておきますと、

 

 ①「淡道之穂之狭別嶋」淡路島

 ②「伊予之二名嶋」四国

 ③「隠岐之三子嶋」隠岐の島

 ④「筑紫島」九州

 ⑤「伊岐嶋」壱岐

 ⑥「津嶋」対馬

 ⑦「佐度嶋」佐渡島

 ⑧「大倭豊秋津嶋」本州

 ⑨「吉備児嶋」児島半島

 ⑩「小豆嶋」小豆島

 ⑪「大嶋」周防大島

 ⑫「女嶋」姫島

 ⑬「知訶嶋」五島列島

 ⑭「両児嶋」男女群島

 

 ●『古事記』国生み 通説の比定地図

 

 国土創成を記しているという観点から、通説では北海道を除く現在の日本列島に充てております。

 これは最もな理屈ではありますが、『古事記』の原文には、

 

 「…謂大八嶋國。然後、還坐之時、生吉備兒嶋…(中略)…次生兩兒嶋、亦名謂天兩屋。」

 「…大八嶋國(本州)という。然る後、還ります時に生まれたのが吉備の児島半島…(中略)…次に生まれたのが兩兒嶋、またの名を天兩屋といいます。」

 

 …と書かれてあり、これは淡道之穂之狭別嶋を出発してから大倭豊秋津嶋を経由して、そこから”還ります時に”…の流れから、最終帰着地である兩兒嶋に至るという意味となります。

 従ってこれは移動経路を順に表しており、これを通説の比定地図に当て嵌めてみますと、

 

 見事なまでに右往左往しており、淡路島-四国まではよいとしても、そこから隠岐の島に先に行ってから再び九州に戻り、そこから壱岐→対馬。

 そして今度は隠岐の島を飛び越してからーの佐渡島まで一気に移動し、ようやくこの後、初めて本州に上陸。

 そこから問題の「還って来る時に」(この場合出発地である淡路島に帰って来るという意味となりますので)、吉備児島半島→小豆島からーの、何故かここで引き返して周防大島に戻ってしまいます(゚Д゚)…どこいってんねん

 最終的には淡路島には帰って来ずどんどんと離れて行くことになり、大分県の姫島→五島列島→男女群島...という風に結果的にとんでもないところに行ってしまいました(´・ω・`)

 つまり「然後、還坐之時」と書かれてある意味からも、通説の比定地が明らかに間違っているという事に他なりません。

 

 では、阿波説(私説)であればどうなるのかを示してみますと、

 

 まず最初に最も分かりやすいのが②の「伊予之二名嶋」。

 これにつきましては『古事記』に記載されてありますとおり、その四面に充てられる神名からも通説同様に間違いなく四国であると断定できます。

 

 その次が問題の隠岐之三子嶋(隠岐の島)ですが、兼ねてより隠岐諸島は四つの島から形成されているため、三つ子の嶋ではないとの指摘が御座います。

 

 つまり、通説では異常な経路を示す原因となっている隠岐之三子嶋の解釈が現在の隠岐の島ではないということになります。

 では『古事記』に記される「隠岐之三子嶋」はどこの島のことなのでしょうかはてなマーク

 経路として、四国の次にあって、その後の行程が九州となり得る島。

 

 

 沖の島(おきのしま)は、日本の四国・高知県の南西部、宿毛湾および大月半島の南西沖、北緯32度43分・東経132度32分の太平洋上に所在する島である。

 

 裸島・二並島・沖の島・鵜来島・三ノ瀬島・姫島・水島の7島などで沖の島町(おきのしまちょう。宿毛市の成立以前に存在した沖ノ島村と地域的変更なし)を構成する。

 古称は「いもせのしま(妹兄島、妹背島)」であった可能性が高い(推定し得る語形変化:いもせじま)。日外アソシエーツ編『島嶼名 漢字よみかた辞典』は、別名として、沖ノ島(おきのしま)、土佐沖の島(とさおきのしま)、妹背島(いもせじま)を挙げている。

 

 開拓伝説 

 島の北西部の母島部落には鎌倉出身の山伏の開拓伝説が、南西部の弘瀬部落には島祖といわれる三浦則久一族の開拓伝説がある。弘瀬の三浦家は、関東武士団の一つで相模国の三浦半島を本貫とする三浦氏の一派と考えられる。本貫の三浦氏は宝治元年6月5日(1247年7月8日)に起こった宝治合戦(三浦氏の乱)に敗れて鎌倉を追放されているので、歴史上の整合性は高い。これら2つの伝説が事実を反映しているとすれば、いずれにしても沖の島に人が住み始めたのは鎌倉時代の前期か中期であった。

 ただし、より古い平安時代の妹兄島伝説なるものもあり(※『今昔物語集』出典)、この時代にはすでに定着民がいた可能性も無いわけではない。間違いなく脚色されている妹兄島伝説のどこかに最初期の開拓者たちの事実が含まれているのか、それともそのようなものは無く全て架空の創作物語なのかは、今日まで伝えられた事柄だけで判断することができない。そのため、妹兄島伝説は絵空事同然という見なされ方をしている。(wikipedia 沖の島より抜粋)

 

 ◆土佐國の妹兄、知らぬ島に行て住む語:今昔物語集巻二六第十

 

 「今は昔、土佐の國幡多の郡に住みける下衆有りけり。己れが住む浦にはあらで、他の浦に田を作りけるに、己れが住む浦に種を蒔きて、苗代と云ふ事をして、殖うべき程に成りぬれば、其の苗を船に引き入れて、殖人など雇ひ具して、食物より始めて、馬齒・辛鋤・鎌・鍬・斧・たつきなど云ふ物に至るまで、家の具を船に取り入れて渡りけるにや、十四五歳ばかり有る男子、其れが弟に十二三歳ばかり有る女子と、二人の子を船に守り目に置きて、父母は殖女を雇ひ乘せんとて、陸に登りにけり。
 あからさまと思ひて、船をば少し引き据ゑて、綱をば棄てて置きたりけるに、此の二人の童部は船底に寄り臥したりけるが、二人ながら寢入りにけり。其の間に鹽滿ちにければ、船は浮きたりけるを、放つ風に少し吹き出だされたりける程に、干潮に引かれて、遙かに南の沖に出でけり。沖に出でにければ、いよいよ風に吹かれて、帆上げたるやうにて行く。其の時に、童部驚きて見るに、かかりたる方にも無き沖に出でにければ、泣き迷へども、すべきやうも無くて、只吹かれて行きけり。父母は、殖女も雇ひ得ずして、船に乘らむとて來て見るに、船もなし。暫くは風隠れに差し隠れたるかと思ひて、と走りかく走り呼べども、誰かは答へむとする。返す返す求め騒げども、跡形も無ければ、云ふ甲斐無くて止みにけり。

 然て、其の船をば遙かに南の沖に有りける島に吹き付けけり。童部、恐る恐る陸に下りて、船を繋ぎて見れば、敢へて人無し。返るべきやうも無ければ、二人泣き居たれども甲斐無くて、女子の云はく、「今はすべきやうなし。さりとて命を棄つべきに非ず。此の食物の有らむ限りこそ少しづつも食ひて命を助けめ、此れが失せはてなん後は、いかにしてか命は生くべき。されば、いざ、此の苗の乾かぬ前に殖ゑん」と。男子、「只、いかにも汝が云はんに随はむ。げに然るべき事なり」とて、水の有りける所の、田に作りつべきを求め出だして、鋤、鍬など皆有りければ、苗の有りける限り、皆殖ゑてけり。さて、斧、たつきなど有りければ、木伐りて庵など造りて居たりけるに、生物の木、時に随ひて多かりければ、其れを取り食ひつつ明かし暮らす程に、秋にも成りにけり。さるべきにや有りけん、作りたる田いとよく出で來たりければ、多く苅り置きて、妹兄過ぐす程に、漸く年來に成りぬれば、さりとて有るべき事に非ねば、妹兄夫婦に成りぬ
 然て、年來を經る程に、男子・女子數た産みつづけて、其れを亦夫妻と成しつ。大きなる島なりければ、田多く作り弘げて、其の妹兄が産みつづけたりける孫の、島に餘るばかり成りてぞ、今に有るなる。「土佐の國の南の沖に、妹兄の島とて有り」とぞ、人語りし。
 此れを思ふに、前世の宿世に依りてこそは、其の島にも行き住み、妹兄も夫妻とも成りけめとなむ、語り傳へたるとや。」

 

 「今は昔、土佐の國幡多の郡というところに、ある百姓が住んでいた。その百姓は自分が住んでいる浦ではなく別の浦に田を作っていた。
 自分の浦で種まきをして、それを苗代にして田植えできるまで育てると、いよいよ別の浦に植えようとして、苗のほか用具や食べ物など沢山のものを船に乗せて出発した。その途中、十四五歳ばかりの男の子と十二三歳ばかりの女の子の兄妹を船に残して、父母は殖女を雇うために陸に上がった。
 ほんのちょっとの間と思い、船体を砂に据えた状態で綱もかけないでおいた。兄妹の子どもたちは船底に臥していたが、二人とも寝てしまった。その間に潮が満ちてきて、船体が浮き上がり、風に吹かれるままに動き出したかと思うと、潮に引かれてはるか南の海に流された。
 沖に出ると船は帆を上げたように勢いよく進んでいく。子どもたちは驚いてみていたが、泣けどもその甲斐もなく、船はいよいよ進んでいった。
 父母が、殖女を雇えないまま、船に戻ってくると、姿が見当たらない。風に吹かれたのかと、そこらじゅうを走り回り叫んでみたが、答えるものとてない。とうとうあきらめて探すことをやめてしまった。
 船ははるか南の沖のある島に吹き流された。子どもたちは、恐る恐る陸に降りて、船をつないであたりを見たが、人がいる気配もない。帰ることも出来ず、二人は泣いていたが、そのうち女子がいった。
 「いまとなっては、どうすることもできませぬ。といって、死ぬこともいやです。船の中の食べ物がある間は、それで命をつなぎましょう。なくなってしまえばそれまでなので、この苗が乾かない前に、これを植えておきましょう。」
 そこで男子は、「おまえがいうことはもっともだ」といって、水があるところに田んぼを作り、船の中から道具を持ち出して、数の限りの苗をみな植えたのだった。
 ほかに斧やたつきなどもあったので、木を切って庵を作り、二人で住んだ。島には木の実などもなっていたので、それをとって食いつなぐうち、秋になった。すると田んぼも豊かに実ったので、刈り取って食料にした。こうして数年を島で過ごすうちに、兄と妹で夫婦になったのだった。
 さらに年数がたつうちに、多くの子供を生み、その子どもがまた互いに夫婦となった。大きな島であったが、こうして生まれてきた男女が、島いっぱいに広がった。今も人々が、「土佐の国の南の沖の妹兄島」といっている島のことである。
 思うに、前世の因縁によることかもしれぬ。」

 

 島の伝承がイザナギとイザナミ神話とソックリですな(´・ω・`)

 wikipediaによりますと、沖の島町は周辺の7島からなっているようですが、実際には、現在の沖の島町をみましても、

 

 裸島・二並島・三ノ瀬島・水島は非常に小さく、もはや磯レベルですので、往古島と呼べたのは沖の島・鵜来島・姫島の3つの島と考えられます。

 また釣り人などのブログからも、天気がよければここから九州が拝めるとありますな。(これ何気に重要なことですぜ)

 

 したがって私説におきましては、イザナギとイザナミの国生みの順番から考えますと、伊予之二名嶋(四国)の次が隠岐之三子嶋(高知県沖の島)となり、この時点で四国南岸ルートの可能性が指摘されるでしょう。

 

 そしてお次が筑紫嶋(九州)。

 これも通説と比定は同じで、この後も伊岐嶋(壱岐)→津嶋(対馬)、これも通説と比定は同じ解釈でよいでしょう。

 今のところ順調に海路を通交する形で来ておりますが、ここで最大の謎ともいえる、淡道之穂之狭別嶋と同様、神名の併記がされていない「佐度嶋」に行くことになります。

 ここも通説では異常航路を示すことから、この島が現在の佐渡島ではないのは想定できます。

 では、一体この「佐度嶋」はどこの島のことなのでしょうかはてなマーク

 

 先に考察したように、これまでに通って来た道が「水行での航路」であるということにお気付きになっていれば答えが導き出されます。

 →九州→壱岐→対馬→ そしてその先に「佐度嶋」が存在しないと行けませんので…

 

 ●大韓民国 チョルラ南道 ヨス市 沙島(さど)

 

 ●西暦200年~250年頃の倭国の領域と考えられるところ

 

 

 「東夷伝」に記される、往古倭の領域であったとされる狗邪韓国。

 

 『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。 

 『後漢書』では「倭(現在の日本)の西北端の国」とする。伽耶、任那(みまな)との関連性が指摘されている。(wikipedia 狗邪韓国より抜粋)

 

 海を渡って朝鮮半島南部の倭の地へと赴くのには様々な理由があると考えられる訳なのですが、その理由の一つに、訪れた先で入手することができる物品を船積みし持帰すること。

 つまり現在の朝鮮半島南部で入手した荷物を搭載してから、次の航路先となる場所でそれら(荷物)をおろしたのではないのか…と考えられるわけです。(構造上貨物船は何かを積まないとバランスが取れず航行できないのでスッカラカンでは移動しません。)

 

 『魏志韓伝』(二.辰韓)によりますと、

 

 國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡」


 国は鉄を出し、韓、濊、倭はみな従いてこれを取る。諸市で買うにみな鉄を用ひるは、中国が銭を用ひるが如し。また、以って二郡にも供給す。」

 

 …とあり、当然のことながら当地で得た色々な交易品等もあったと考えられますが、メインは恐らく辰韓側で採れた鉄であり、それを積載して次なる行先である「大倭豊秋津嶋」(本州)へと旅立ったと考えられます。

 本州では、この鉄を降ろしてそれを加工し、再度船積みした後、次の行先地へと渡って行ったとも考えられるでしょう。

 そして先述しました、「然後、還坐之時」(還って来る時に)、本州から瀬戸内海北岸を沿うように吉備児嶋(現在の岡山県の児島半島)へ、

 

 ●往古再現による吉備児嶋(児島半島は昔は海に浮かぶ島)

 

 再び瀬戸内海の北側を航行しながら「小豆嶋(あづきじま)」。

 これも通説どおり、現在の香川県に属する(小豆島:しょうどしま)まで移動したと考えられます。

 

 さて、ここまではよいとして、再び通説では瀬戸内海を遡ってしまった位置に存在する「大嶋」(周防大島)に移動したことになっています。

 

 屋代島(やしろじま)は、山口県の島。周辺の島々を合わせ周防大島諸島を構成する。

 国土地理院が定める正式名ではこの「屋代島」とする。「屋代」の名は島内の地名に由来する。

 ただし歴史的には周防国の大島であったことから周防大島(すおうおおしま)または単に大島と呼ぶことが多く、現在も、屋代島と呼ぶことは少ない。地図を見ると金魚のような形をしていることから「金魚島」とも呼ばれている。

 古くから瀬戸内海海上交通の要衝とされ、『万葉集』にもこの島を詠んだ歌がある。『日本書紀』、『古事記』の国作り神話の中にも現れる。

 

 歴史

 縄文時代や弥生時代の遺跡により、当時からこの島に人間活動のあったことがわかっている。

『日本書紀』ではイザナミが生んだ大八島の一つ、7番目に生まれた島とされ、『古事記』では大八島に続けて産まれた6島の3番目とされる。古代の主要交通路だった瀬戸内海の要所だったことの表れと考えられている。

 『国造本紀』に大島国造が見える。平城宮の長屋王邸跡から大島郡の物産であることを示す木簡が多く出土しており、長屋王の封戸が大島郡内に設定された可能性が指摘されている。また、畿内と九州の筑紫国を結ぶ海路において、風光明媚な要所であることから、歌枕としても知られていた(『万葉集』巻15・3638番田辺秋庭、『後撰和歌集』恋4・829番大江朝綱など)。また、『源氏物語』「玉鬘」巻には大島を歌った和歌が登場する(wikipedia 屋代島より抜粋)

 

 …ということで、万葉集の該当する歌をご紹介致します。(原文:万葉ナビ使用)

 

①『万葉集』の天平八年六月の遣新羅使の歌

 「周防国玖河郡の麻里布の浦を行く時に」詠んだ歌

 筑紫道能 可太能於保之麻 思末志久母 見祢婆古非思吉 伊毛乎於伎弖伎奴」

 筑紫道の可太の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ」(15・3634)

 

過大嶋鳴門而經再宿之後追作歌二首」

 「大島の鳴門を過ぎて再宿を経ぬる後に」詠んだ

 「巨礼也己能 名尓於布奈流門能 宇頭之保尓 多麻毛可流登布 安麻乎等女杼毛」

 「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども」(15・3638)

 

 まず、一首目の歌の解説をしますと、「筑紫道」は遣新羅使として九州へと向かう海路のことで、その途中にある周防国近辺の大島を指しています。

 従って一般的には国生みの大嶋をこの歌にある周防大島に比定しているわけです。

 しかし、ここには一つ不可思議な疑問点があり、歌には「筑紫道の可太の大島」と書かれてありますが、この「可太」を大島にある地名であると考えられているようです。

 しかしながら、残存する地名や記録・文献等にはこの「可太」は見当たらず、よくわかっていないが恐らくそうであろうとしているみたいです。

 

 「万葉集 大畠の鳴門」From日積様 のサイトによりますと、

 

 「可太」は、『万葉代匠記』に「筑紫路の方の大島」の意か、それとも「可太の大島」という地名かといい、井上『新考』には「案ずるに可太は方なり。…大島は諸国にある名なれば取分きて筑紫路の方の大島といへるなり」とする。鴻巣『全釈』は、「可太はこの附近の古名らしい」とするがこれも根拠にとぼしい。

 

  …とあり、研究家からは、「可太」は「筑紫路の方の大島」という意味が最もな考え方なのではないか?という見解です。

 つまり、周防大島の他にも別に「大嶋」と呼ばれていた島が存在し、どちらの大嶋かわかるようにこの歌では「筑紫路の方の大島」と歌ったということになります。

 この事由でいくともう一方の「大嶋」が別に存在するということになるわけですが、それがニ首目の歌の、

 

 「大島の鳴門を過ぎて再宿を経ぬる後に」詠んだ歌とあり、歌の題目からは徳島県の鳴門近辺にこの大嶋が存在していたことになります。

 歌の内容も、「これやこの名に負ふ鳴門の渦潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども」となっており、鳴門で有名なワカメを刈る海人の娘子どもの様子を詠った歌であり、恐らく『記紀』に載る方の大嶋は徳島県の鳴門周辺にある大きな島の名称であったということになります。

 

 ●「還坐之時」大倭豊秋津嶋→吉備兒嶋→小豆嶋→大嶋?

 

 次の想定航路上では小豆島の東側にこの大嶋が位置すると考えられ、「鳴門」と接している大きな島が万葉集に詠われる大嶋となり、これこそが”現在の淡路島”であると推測ができます。

 

 大嶋の併記神名である大多麻流別という名前の意味は、

 「多麻流」を「溜る」に解して、瀬戸内海の鳴門の渦潮を乗り切るために、多くの船舶が集まり留まることから「大溜る」といったかとする説や、「多麻流」を船の停泊の意に取り、同じく渦潮を乗り切るのにこの島に船を停泊させたことによるかとする説、また、水が大いに溜まる港湾の様子を表したものかとする説がある。

 また、『古事記』の大八島国誕生譚に付随する六島誕生の伝承については、これを大八島国誕生譚より遅れて成立し附加された後次的要素とし、大宝年以後の遣唐使の南路航路の開発を反映させて創作された神話とする説がある。
 大島は、『古事記』の伝および『先代旧事本紀』の二種の伝では大八島に含まれていないが、一方で、『日本書紀』四段本書・一書六・九では、大八島の一つに大島が誕生しており、一書一・七・八・十には誕生自体が語られていない。『日本書紀』の諸伝のうち、大島が大八島の一つとして誕生しているものは、淡路島が「胞」となって大八島から除外されている伝であることが指摘されていて、大島が大八島に編入された原因は、そうして除かれた淡路島の分、一島を新たに加えて大八島の島数を八に合せるためとする説がある。伝承成立の前後関係としては、『日本書紀』で、大島が大八島として誕生する伝は、大島の誕生が語られない伝よりも新しいものとし、さらに、そこからやがて大島が大八島にふさわしくないと見なされるようになった結果、『古事記』『先代旧事本紀』の、大島が大八島に含まれずに誕生する伝が発生したとする説がある。(國學院大學「古典文化学」事業神名データベースより)

 

 「鳴門」の名称についてですが本質的には、渦を巻いて流れる潮流のことを示していると考えられます。

 現在の徳島県鳴門市には島田島と大毛島の二つの島が存在しますが、歌にある「鳴門」は、鳴門という地名そのものの事ではなく、徳島県側の鳴門市と兵庫県南あわじ市の鳴門岬との間に湧く「渦潮」を意味しているものと考えられ、少なくとも淡路島北岸側の明石海峡の海ではないという事になります。

 万葉集の内容から行程航路を考えた上で、大嶋の併記神名である大多麻流別(多くの船舶が集まり留まる)の字義や「大島の鳴門を過ぎて」云々の意味から推測しますと、恐らく第一候補は徳島県側からは対岸に位置する現南淡町福良港であると想定されます。 

 

 また上の國學院大學データベースの内容からも、『日本書紀』に大嶋を記録する際に、原典となる『古事記』に記される「淡道之穂之狭別嶋」を現在の淡路島を『日本書紀』の「淡路洲」として位置付けることにしたので、その混乱から大嶋自体の存在を付加したり抹消したりした痕跡ではないのか…とも考えられます。

 これらの経緯から、現在の淡路島が『古事記』の大嶋のことだと考えられることと同時に『古事記』の「淡道之穂之狭別嶋」が実は淡路島のことではない…という考え方の補完材料になる要因ともなり得るでしょう。

 先述した岸根敏行氏の論文では、国生みにおける格助詞「之」の扱い方についての考察がされてありましたが、そもそも淡路島を登場させる場合に、とりたてて格助詞の「之」を2度も使用して「淡道狭別嶋」等と回りくどく呼ばなくとも、他の島の名と同じく後出の『日本書紀』のように淡路洲(州)とすればよいはずですよね。

 

 では、「国生み」における格助詞「之」について注目してみますと、これを1度だけ使用しているのが「伊予之二名嶋」と「隠岐之三子嶋」の二例があります。

 敢えての説明とはなりますが、これは前文と後文の間に格助詞「の」を挟むことで、前文を後文が補う形となり、この場合は島そのものに、より詳細な情報を付加した意味合いになっております。

 これを更に手近な例にしますと、「サッカー日本代表長友佑都」と書くと意味としてはわかりやすいですよね。

 「サッカー日本代表」の情報だけではまだよくわかりませんが、この前文を補完する形で後文に「長友佑都」と接続することでサッカー日本代表の長友佑都と断定できるわけです。これが2度の格助詞を使用しますとどうなるでしょうか?

 例えば、2度目の「の」の後文次第では、「サッカー日本代表の長友佑都の妻」や「サッカー日本代表の長友佑都の出身県」等となってしまい、本人と縁を持つ反面、実際は本人そのものでは既になくなってしまっていることになりますな。

 

 さて話題を戻しまして、

 本土を経由して後、吉備兒嶋から小豆嶋、そして鳴門近辺の大嶋まで還って来ておりますから、出発点を通説どおりに淡路島(=淡道之穂之狭別嶋)とした場合に既に到着していることになってしまいます。

 しかしながら『古事記』に書かれてある「還坐」ところはまだ先へと続いており、「女嶋」→「知訶嶋」を経て最終到着地である「両児嶋」まで、”還って来た”という解釈となるわけです。

 

 したがって、お次に訪れる島の「女嶋」についてですが、

 

 日峰神社(ひのみねじんじゃ)は、徳島県小松島市中田町にある神社。市の北側、阿波三峰の一つである日峰山(標高191m)の山上に鎮座する。

 

 ◆祭神 主祭神に大日霊貴神、相殿神に少彦名神、市杵島比女神。境内社に船玉大神(ふなだまのおおかみ)がある。(wikipedia 日峰神社より抜粋)

 

 二人の女神が御鎮座されるこの日峯山は往古、島であったと想定されます。

 

 ●本稿推測による『古事記』の女嶋の比定地

 

 また日峯には、大神子・小神子の地名が残り、社の御祭神から、大神子→大日霊貴神、小神子→市杵島比女神との推測もできますかな。

 現在は既に島ではないので、島名としては消失しているものと考えられます。

 

 通説の女嶋は、大分県の国東半島沖に浮かぶ姫島を充てており、

 

 これを阿波版に置き換えますと、以下のようになります。

 

 ●類似地形の謎を解き明かすと浮き上がってくる本当の女嶋

 

 そして更に知訶嶋へと行程を進めますが、通説ではこれを五島列島に充てております。

 

  ●『肥前国風土記』小城郡 三、郷里駅家 土蜘蛛の大耳(オホミミ)・垂耳(タリミミ)

 「昔、同天皇(景行天皇)が巡幸した時、志式島(ししきのしま)の仮宮から西海を見ると、海上の島から多数の煙が立ち上っており、その煙が辺りを覆っている様子が見えた。
 そこで、天皇は阿曇連百足(アヅミノムラジモモタリ)を遣わせて偵察させると、そこには80余りの島があり、そのうち2島にはそれぞれに人が住んでいた。第一の島を小近(をちか)と言い、そこには土蜘蛛の大耳(オホミミ)が住んでいた。第二の島を大近(おほちか)と言い、そこには土蜘蛛の垂耳(タリミミ)が住んでいた。その他の島には人は住んでいなかった。
 そこで百足は大耳らを捕えて報告すると、天皇は「誅殺せよ」との勅命を下した。その時に大耳らは頭を下げて「我々の罪は実に極刑に値します。これは万回殺されても足りない罪です。しかし、もし恩情によって生かして下さるのならば、御贄を作って奉り、御膳を恒に献上しましょう」と申し上げ、すぐに木の皮を取って、長鮑・鞭鮑・短鮑・陰鮑・羽割鮑などの料理を作り、それを見本として献上した。すると、天皇は恩赦を与えて放してやり、そこで「この島は遠いが、まるで近いようにも見える。よって近島(ちかしま)と呼ぶが良い」と言った。これによって値嘉(ちか)という。

 

 …とあり要約しますと、12代景行天皇が立ち寄った志式島から遠いようで近いとの謂れから値嘉島と名付けられた旨が記されております。

 このことから、遥か昔の神代に存在していた”知訶嶋”のことではなく、時代が遥かに下った景行天皇によって名付けられた島のお話が記録されているということになります。

 また、これだけたくさんの群島の中で名称が類似しているからこれを(小値賀島及び中通島以南の17の島々を大値賀島とする)知訶嶋であると決定付けるのには根拠として甚だ乏しいと感じざるを得ません。

 ただし、同風土記に記録される説話の内容から、本当の知訶嶋がどこにあったのかの推測ができそうです。

 

 ここに記されてあるのは大耳&垂耳のダブル耳の住んでいた地で、景行天皇が仮宮を置いたのが志式島(ししきのしま)とあります。

 したがってこれを阿波版に置き換えますと、女嶋から出発した先は、徳島県海部郡海陽町宍喰(ししくい)となり、その”近くの島”となるのが、

 

 現在の高知県境に位置する竹ケ島(たけがしま)と考えられます。

 

 そしていよいよ最後の子(島)として書かれてある「両児嶋」ですが、この竹ケ島の隣の県境ギリギリラインに位置するのが、

 

 ですが、この二子島は現在島の殆どが水没しており、非常に小さな島となっておりますな。

 

 状況からしますと、往古はこの島全体が水没していた可能性も考えられますが、当島周辺は南海トラフ系の地震に因る津波で多くの人や家などが流されてしまった伝承があり、島自体も再三の津波の影響で小さくなってしまった可能性も考えられますね。

 

 二子島(ふたごじま)は、徳島県海陽町と高知県東洋町に位置する無人島。別名は双子島。

 

 ●地理

 徳島県海陽町の高知県東洋町の境界に位置。島は二つ並びに浮かび、高知県の最東端となっている。

 約1200年前、紀州の熊野神社のご神体が12に分かれ、うち一つが金の鳥になり、この島の松の木に止まった。これをお迎えして熊野神社を創建したという伝説が残されている。(wikipedia 二子島より抜粋)

 

 この二子島には金の鳥が止まったという伝説があり、恐らくこの「金の鳥」が最終的に「還坐」した地が徳島県海陽町ということになります。

 さてさて、この海陽町にはこの島とは別に、那佐湾内にも双子の体を成す同名の「二子島」が存在します。

 

 因みにgooglemapで表示されてある左側の二子島は、

 

 『阿波國海部郡村誌』によると、三島神社が御鎮座していた”三島”と呼ばれていた島で、現在は一の島と呼ばれている島となっております(´・ω・`)ややこしいわ

 

 この三島神社の御祭神が、溝咋耳命とあり、この神の別名が八咫烏鴨武角身命(下鴨神社の祭神)こと金鵄(きんし)、つまり当島に降り立った伝承のある「金の鳥」に他ならないため、恐らくこの那佐湾の方の「二子島」の伝承が同町の宍喰側の二子島伝説に置き換わったものであると考えられます。

 

 いよいよ本稿も大詰めとなりますが、これまでにイザナギとイザナミによる「国生み」の子として数えた島々について、ここでは海路として考察して参りました。

 『古事記』に書かれた最初の出発地「淡道之穗之狹別嶋」から、「還坐」し最後に到着したところも、本考察では「両児嶋」のある那佐となることからこれに比定させて頂きました。

 つまり出発地と帰着した地が共に同じ地になっていることから、この那佐に「淡道之穗之狹別嶋」が存在しなければ理屈が合いません。

 

 ではこの「淡道之穗之狹別嶋」は一体何を示しているのでしょうかはてなマーク

 

 視覚的に説明致しますと、こちらが「稲」で、

 稲の中の「穂」がこれで、

 更にその穂の「狭別」部分、つまり果実の部分が

 籾(もみ)

 ●穗之狹別嶋

 

 また、淡道の「道」につきましても、

 

 「道」の起こり

 人間や獣たちが、食物や餌を求めて探し歩いていくうちに草が踏み分けられて、自然にできた小道が道路の起源だと言われている。

 狩猟採取を行っていた原始社会では動物の移動にともなってできるけもの道が狩猟民らによって利用される場合もあった。そして、もうひとつの原初的な道は「踏み分け道」である。人が生きていくために木の実を採ったり狩猟に出たり、あるいは魚を捕りに行ったりしながら、何度も同じところを行き交うことをくり返すうちに、地面は踏み固められて自然と草が減って土が出た筋状の「みち」になった。人類が農耕を始めて集団で定住し、そうした集落間で物や情報の交換や婚姻などが行われるようになると人の往来が頻繁になり、初めは人ひとりがやっと通れた道が何人もが行き交うことで幅の広い道へと変わり、生活していく中から自然発生的に発展していった。(wikipedia 道路より抜粋)

 

 したがって「道」は通行で繰り返し行き交うところから発生した言葉

 

 というわけで、今回も長々と考察して参りましたが、

 冒頭の岸根敏行氏が結論付けした「淡道之穗之狹別嶋」の神名の意味は、

 

 「淡道という、(稲)穂が早くついた男子という嶋」

 「淡道という、穂をつけた稲の男子という嶋」

 

 つまり「淡道之穗之狹別嶋」の解は、

 

 「阿波の道という、稲が狭(早くついた)+別(男子)という嶋」

 

 したがって、

 

 「阿波-枳閇(来経=道)-委奈佐-比古命」の意となり、

 

 現在の淡路島の事などではなく、式内社 和奈佐意富曾(わなさおおそ)神社が御鎮座されるこの海陽町の那佐(往古の和奈佐)のことだったのです。

 

 そんな訳でこれまで記した行程を改めて見返してみますと、以前からご紹介しております、『出雲国風土記』船岡山の段に、

 

 「船岡山。郡家の東北一里一百歩。阿波枳閉委奈佐比古命、曳き来居ゑし船、則ち此の山、是矣。故、船岡と云ふ。」

 

 …とあるということは、恐らく前行程である佐度嶋から鉄を船に乗せて持ち帰って来た阿波枳閉委奈佐比古命が船岡山周辺で製鉄加工した後、次なる地へと海路で移動していったと捉える方が自然な考え方なのかも知れませんな(´・ω・`)島根県は製鉄で有名ですからな。

 ※余談ですが、海部刀は島根県の良質な鉄を使っていたこともわかっております。

 

 この阿波枳閉委奈佐比古命の正体がイザナギであったとするのか、はたまた子の代の別男神となるスサノオとするのか、この手の考察には終わりがないですが、今回は一旦この辺で置いておきます。

 個人的にはかなり核心に迫って来たと思っておりますが...(;´▽`A``

 

 ※重ねて申し上げますが、これはあくまで私説考察ですので、信じる信じないはご自身の判断にお任せ致します<(_ _)> まぁ何かのヒントになればいいかなと。

 

 それでは、国生み(私説阿波版)比定地図を想定航路付きで置き換え直しておきますね。