突然ですが、あなたは日本人ですか?

 

 と唐突に聞かれた時にあなたはどう答えますか?

 

 「日本生まれの日本育ちだから生粋のジャパニーズだ。」と答える方もいれば、「私の人種的ルーツはヨーロッパ人ですが、日本国籍を獲得したのでれっきとした日本人です。」等と答える方もいるだろう。

 今回の稿は、以前に一度書いたことがある「大和民族のDNAから考察 ①」及び「大和民族のDNAから考察 ②」に関連した、いわゆる日本人のルーツについての考察となります。

 

 あくまで私説考察ですのであしからず。何かの参考になれば幸いです<(_ _)>

 

 我々の祖先である日本人の成り立ちについて、これまでの考えでは現代日本人に至るまでの形成過程を、石器時代に移動してきた東南アジア起源の縄文人(原アジア人)を基層集団とし、そこに弥生時代から古墳時代にかけて移動してきた北東アジア起源の渡来人が覆い被さるように分布した(二重構造)とした上で、やがて2集団は混血していくがその進行度には地域差があり、形質的な差異を生み出していったと推測されて来ました。

 しかし、近年の国際共同研究グループの最新のゲノム解析では、旧石器時代(20,000~15,000年前)に大陸の基層集団から分かれた千人規模の小さな縄文人の祖先集団が日本列島に渡来後に適応して縄文人となり、時代を経て弥生時代に北東アジアを起源とする弥生人が渡来し融合していったと考えられ、そこに、続けて古墳時代の間に東アジアを起源とする「古墳人」が渡来し、以後混血融和しながら現在の日本人を形成していったとする「三重構造モデル」が注目されています。

 

 ●「パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造

 

 日本では今のところ類人猿・猿人・原人等のルーツを持つ人骨の出土が見られないため、それらが存在していた大陸とは違い、氷河期に陸続きであった頃に日本列島に最初に足を踏み入れた集団がいわゆる縄文人(の祖先)であると考えられています。

 

 ただし注意すべき点があり、「日本列島は大陸と陸続きだった」という言い方には注意が必要によりますと、厳密には、これまでの海洋調査により、海面が現在より120~130m低かったことがわかっていますが、対馬海峡は深いところで200mに達しており、津軽海峡もそれ以上の深さを持つことから、完全に陸続きであったとは考えられておらず、このことから縄文人は海を渡って来たとされています。

 

 ●約2万年前の再現地図

 

 往古の日本列島は大陸と陸続きであったとされておりますが、人類が日本周辺に現れた4万年前頃から現在に至るまでの間は、日本列島が大陸と完全に繋がっていたことはありません。

 そんな中、日本列島でまず人類が現れたのは、古本州島(現在の本州、四国、九州)になります。

 人類は38,000年前頃に古本州島に現れ、少し遅れて琉球列島、そして大きく遅れて古サハリン・北海道半島に現れます(Izuho 2015)。

 つまり、日本列島に最初にやって来た人々は、海を渡ってやって来たということになり、これは確かな航海能力・航海技術を持っていたことを示しています。

 

 ではその縄文人についてですが、縄文人の持つDNAで最も割合が多いのがハプログループD2系統とされ、

 

 ●現在日本で約40%を占めるハプログループD2(現D1a2a)

 (上図から韓国でごく僅か、その他の近隣諸国では見られず。)

 

 ハプログループD1a2a(D-M55)は、主に日本列島で観察される。日本人の約32% - 39%にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占める。アイヌの80%以上もこれに属する。ハプログループD1a2aは、日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過していると考えられている。

 当時無人の日本列島に到達したハプログループD1a2系統は、海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。大陸と半島から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、日本列島においてハプログループD1a2の中からハプログループD1a2aが誕生したと考えられる。(wikipedia ハプログループD1a2a (Y染色体)より抜粋)

 

 ●各地における頻度

 

 D系統はいわゆる縄文人に起因する遺伝子集団で現代では日本列島各地に散らばり、北は青森、南は沖縄に近づくにつれて比率が高くなることから、これらの結果から後に訪れた渡来系集団の流入によるものであると考えられています。

 

 

 これを補足するデータとなるのが近年少し話題となった

 

 ●東京大学の大橋順教授の示すデータ

 

 記事の内容を少し抜粋しますと、

 渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違うように思える。上陸地点である九州北部よりも、列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高いからだ。大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」日本経済新聞 渡来人、四国に多かった?ゲノムが明かす日本人ルーツ より抜粋)とありますな。

 これ等のデータから考えますと、人流から鑑みますれば北部九州にも多くの渡来型遺伝子が残るはずですが、それが見られないのは渡来人はまずは四国を目指した、或いは四国に連れて来られたと考えた方が自然であり、その後、畿内域へと流入していったとの考えが成り立ちます。

 

 因みに縄文系遺伝子の祖型の一つであるD系統の分布図は、

 

 

 D系統が最も多くみられるのは山岳チベット、次いで離れた日本。

 こちらも先程の話と同じく、後にO系の漢民族の流入により、D系統が分断された可能性を示唆しております。

 

 これら父方のハプログループ(Y-DNAとも呼ばれる)遺伝子は、D1a2(旧D2系統:32~39%)、C1a1(約5%)、C2(約2~7%)が縄文遺伝子に分類されるようです。

 

  そこに、約2,800年程前以降に大陸から渡って来たのが北方系の顔を持つ「渡来系弥生人」です。

 wikipediaによりますと、一般には、弥生人は朝鮮半島、山東半島から水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。崎谷満によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのはY染色体ハプログループO1b2に属す集団である。

 また、日本人の約20%に見られるO2系統も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。ともありますな。

 

 ハプログループO1b2とは、分子人類学で用いられる、人類のY染色体ハプログループの分類のうち、ハプログループO-M268のサブクレード(細分岐)の一つで、「M176」の子孫の系統である。2015年11月に ISOGG系統樹 が改訂されるまではハプログループO2bと呼ばれていた。

 

 誕生

 最も近縁のハプログループO1b1との分岐は約31,108(95% CI 22,844~34,893)年前とされている。

 O-M175のサブクレードのひとつで、稲作文化を伝えた弥生人(倭人)と推定される。

 分布

 ハプログループO-M176は日本人及び朝鮮民族の約30%の男性に見られる。

 

 ●O1b2の発祥場所から日本へと移動したと考えられるルート

 

 D系O系の遺伝子系統図を見ると、わかりやすく分断されていった感じが現れておりますな。

 

 従って、日本列島に渡って来たイメージ化すると下図のようになります。

 

 これが従来の「二重構造モデル」の考え方ですな。

 そして冒頭で記したように、最近の研究結果により、弥生時代以後、古墳時代(3世紀中頃〜7世紀頃)に大量の人口流入があったとされるのが「三重構造モデル」となります。

 ただし、これまでに分かっている研究データからは、「現在の「日本人」のルーツは「3つ」ある?」に記されているように、「大陸からの移入が、どの程度国家の成立に影響を与えたのかは今後の課題です。我々がゲノムデータを生成した古墳時代の個体は前方後円墳ではなく、横穴墓に埋葬されておりましたので、我々の研究では、おそらくエリート層ではない個体の遺伝学的背景をみていたことになります。今後、エリート層のゲノムを調べていくことで、階層社会において大陸からの影響がどこまであったかを議論することができると考えております。」と付け加えてあり、今後の研究結果次第で、ヤマト王権の成り立ちに対する推測内容が大きく左右されるものと思われます。

 

 ●三重構造モデル(イメージ図)

 

 では自分の祖先は一体どのような経緯で現在の日本の地に定住し、現代の日本人へとなっていったのか、俄然興味がわいた私はこの際に自分のDNAを調べてみることにしました。

 これはあくまでいち日本人の例ですので、必ずしも全ての日本人が同様の結果になるものでは御座いません。

 更にいえば、上にも挙げましたように、幾度と訪れる様々な系統の人たちの流入の波が日本列島に押し寄せて現代の日本人が成り立っているということをご留意くださいませ<(_ _)>