マイドオオキニ 本年モヨロシュウ(´・ω・`)ノ

 

 さて、まず最初にお断りさせて頂きますが、今回の稿は何時にも増して自説色がてんこ盛り盛りとなっておりますので、特に阿波説の類に過剰なアレルギー反応を示される方はこの時点でお戻り頂くか、お覚悟下さいますようお願い致します

 それでもまぁ一応は読んでみたろかという斜め上路線がお好きなアナタ様向けの考察となっておりますので予めご了承下さいませ<(_ _)> …という訳で、

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 早速ですがこのお写真を見てココがどこかお分かりになられた方はかなりの阿波マニアです!!

 

 …という訳で、そんなん知らんという方のために早々にお答え申し上げますと、お遍路さん御用達の「太龍寺ロープウェイ鷲の里駅」なんですなぁ。

 こちらの駅からロープウェイをご利用致しまして、山上の太龍寺へとラクチンでチートなアクセスが可能になっております。

 

 さらば地上バイバイ

 モイーーーンと登って行きまして...アップアップアップ

 更に更にドンドコ登って行き...アップアップアップ

 ニホンオオカミ(像)さんを眺めつつ...

 修行中の空海さんを横目に...

 高天原へと到着

 

 その距離何と全長2,775mで西日本最長を誇り、この距離を約10分でアクセスしておりますので、現代のお遍路さんにとって非常に便利な移動手段となっております。(文明の賜物やで)

 

 

 太龍寺(たいりゅうじ)は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。

 舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所の第二十一番札所、阿波秩父観音霊場の第10番札所。(wikipedia 太龍寺より抜粋)

 

 

 ご詠歌:太龍の常にすむぞやげに岩屋 舎心聞持(もんじ)は守護のためなり

 

 この太龍寺のご詠歌には、太龍が常に住んでいた岩屋について触れておりますが、近年に入ってからのお話ですが、石灰石の採掘場になったため、非常に残念な事に既にこの岩屋は跡形もなく現存しておりません…(´・ω・`)

 これについて長々書くのもアレなので、当岩屋について詳しく知りたい方は下記のブログ様にてご確認下さいませ<(_ _)>

 

 ●awa-otoko氏ブログ「太龍寺窟へご案内」 や、

 ●桃山日記さんブログ「太龍寺 その4 今はない龍の岩屋を江戸初期の日記に見る」

 

 この岩窟(鍾乳洞)には、史跡名勝天然記念物として、タヌキノショクダイという珍しい植物もあったようですな(´・ω・`)右矢印「沢谷のタヌキノショクダイ発生地」

 

 

 因みにこの石灰石の採掘をしている場所がココ下矢印

 

 …で、大昔は太龍寺に行くのに当然のことながらこんな近代的な乗り物は存在しておりませんので、山道を利用しましてエッチラオッチラ登っておりました。

 件の岩屋のあった道は「いわや道」の名が残り、

 

 太龍寺のある加茂町のお隣の阿瀬比町からモリモリ登っていくことになります。

 

 さて、この太龍寺の東隣側には津乃峰があり、そこの頂上に津峯神社が御鎮座されております。

 

 ご祭神は、

 賀志波比売大神(かしはひめのおおかみ)

 大山祇大神(おおやまつみのおおかみ)

 

 wikipediaによると、開運延命・病気平瘉・海上安全の神として信仰される。賀志波比売大神は主として人の寿命を司り、一日に一人の命を助けるという。

 

 …とあり、延命長寿の神として地元では厚く信仰されております。

 また、当社にカップルでお参りをするとお別れてしまうとの俗説も方々より耳にします。

 では何故このような伝承があるのでしょうか?

 

 実はこれにつきましては、以前に当ブログ「御刀媛から考察 ①」にてそれなりに記させて頂いており、津峯神社の南方の海部郡の明神山に御鎮座される峯神社の御由緒には、

 

 當峯神社ノ祭神ハ遠ク二千六百五十有餘年ノ昔皇室ノ祖神ニ當ル

 天照大神ノ天孫瓊瓊杵尊ノ妃神、木花開耶姫ノ命ヲ祀ル

 基ヨリ東方ノ静岡縣富士山ニ祀ル浅間神社ハ此ノ神社ノ本宮ニ當リ

 茲ニ対峙シ會フハ方ニ宜ベナラン亦タ西方ノ愛媛縣大三島ニ祀ル大山祇神ハ

 父君ニ當リ逢カニ父子ノ絆拘ヲ維ネル如ク亦タ此ニ対峙シ會フハ如斯

 猶北方ニ望ム津乃峰ニハ姉君賀志波姫命ガ祀ラレシコト洵ニ奇ナルベシ

 

 …とあり、峯神社の御由緒から、賀志波比売大神の正体が相殿にある大山祇大神の娘の木花開耶姫命の姉である石長比売であるということがわかります。

 更にいえば、この賀志波比売大神はアマテラスの別名ではないか?との説も御座います。

 

 石長比売(いわながひめ)は、日本神話に登場する女神。

 

 概要

 『古事記』では石長比売、『日本書紀』・『先代旧事本紀』では磐長姫と表記する。他に苔牟須売神とも称される。

 大山津見神(おおやまつみ)の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)の姉。

 木花之佐久夜毘売とともに天孫邇邇芸命(ににぎ)の元に嫁ぐが、石長比売は醜かったことから父の元に送り返された。大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。

 

 考証

 石長比売は岩の永遠性を表すものとされる。名義は「岩のように長久に変わることのない女性」と考えられる。(wikipedia イワナガヒメより抜粋)

 

 wikipediaにも書かれてありますように、これらの伝承から、岩のように固く=永遠のもの、つまり「長寿延命」の御利益となり、また『記紀』にある邇邇芸命に結婚を断られた石長比売のエピソードから「縁切り」の俗説となっているのでしょう。

 それ故に、津峯神社の西麓の参道側の町名も、長生町(ながいけ)であることからも、”岩のように長く生きる”の意から由来したものであると考えられます。

 また、社の御祭神である「賀志波(かしわ)比売」の神名も、堅石(かたしわ)が元来のいわれであると考えられ、

 

 『古事記』上巻・天の石屋には、

 

 「取天安河之河上之天堅石取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅而麻羅二字以音、科伊斯許理度賣命自伊下六字以音、令作鏡」

 

 「天の安河の川上の天の堅石を採り天金山の鉄を採り鍛人天津麻羅(あまつまら)を探し出し、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に鏡を作らせた。」

 

 …と書かれており、

 

 かたしわ かたしは【堅磐】

 〘名〙 堅い岩石かきわ

 ※古事記(712)上「天の安河(やすのかは)の河上の天の堅石(かたしは)を取り、天の金山の鉄(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に科(おほ)せて鏡を作らしめ」

 

 かちわ かちは【堅磐】
 〘名〙 (「かたいわ」の変化した語) 堅い岩。堅く大きな岩。かきわ。

 ※延喜式(927)祝詞(九条家本訓)「皇御孫(すめみま)の命の御世を手長(たなが)の御世と、堅磐(カチハ)に常磐(ときは)に斎(いは)ひまつり」

 

 かきわ かきは【堅磐】

 〘名〙 堅固な岩。永久に変わらないことを祝っていう語。かちわ。

 ※延喜式(927)祝詞(九条家本訓)「汝天穂比命は天皇命の手長(たなか)の大御世を堅石(カキハ)に常石にいはひ奉(たてまつ)りて」(コトバンク 精選版 日本国語大辞典より)

 

 また、

 

 いわと‐かしわ いはとかしは

 ① (「いわとがしわ」とも) 語義未詳。岩と柏(かしわ)の意か。または、岩石や岩礁の上に生える植物の一種か。永遠であることのたとえ

 ※万葉(8C語)七・一一三四「吉野川石迹柏(いはとかしは)と常磐なす吾は通はむ万代(よろづよ)までに」

 ※常縁15C語)冬「谷河や岩とかしはに降しぐれふるとてかはる色をやはみる」

 ② (①の「常縁集」の歌から) つれないことのたとえ。

 ※浮世草子・小夜衣(1683)恋詞の抄「いわとかしわとは時雨に葉のそまぬ物なれはつれなき事にいふ也」

 [補注]①は古来諸説がある。岩に生えた柏の意とする説、古く、石を柏といったとする説、「石門堅石(いはとかたいは)」の変化したものとする説、「石常磐(いはとこしは)」の変化したものとする説など。(同コトバンクより)

 

 これらの意味から、時代を経て、堅石(かたしは)から”かたしわ”に、そして、かしわ・かちは・かきは等に転訛していったものと考えられます。

 

 因みに、上にある「石門堅石」に想定されそうなモノもココに御座いますゾ

 

 津峯神社の長生側参道にある石門(せきもん)

 こちらにある岩窟でも修験者が籠って修行をしていたと伝わりますが(´・ω・`)

 

 さて、『古事記』天の石屋の条に記されてある場所を、例の如く徳島県内で探してみる訳なのですが、説話によると、スサノオの狼藉に耐えかねた姉のアマテラスは、見畏れて天の岩屋に引き籠もってしまいます。

 そこで八百万神は、天安之河原に集まり、何とかしてアマテラスを天の岩屋から引き出すために様々な道具を作ります。その一文が先の、

 

 「天の安河の川上の天の堅石を採り、天金山の鉄を採り鍛人天津麻羅(あまつまら)を探し出し、伊斯許理度売命に鏡を作らせた。」

 

 文脈上は、天堅石を取り、天金山の鉄を取り、鍛人天津麻羅を求めて、その上で伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせるということになり、鏡を作るための準備として必要とされた素材を集めています。

 

 こちらの部分は、阿波国式内社である、

 

 山方比古神社(やまかたひこじんじゃ)は、徳島県徳島市多家良町に鎮座する神社である。

 

 歴史

 創祀年代は不詳である。『延喜式神名帳』に記載される式内社とされるが、末社として所管する立岩神社を充てる説もある。

 昔、この地に銅のたたらがあったと言う。また、周辺からは弥生土器や金属器が出土している。御火社(こひしゃ)、金谷権現とも称する。別名、金山神社。近代社格制度上は無格社であった。

 

 

 ◆祭神:金山比古神

 

 

 ●境内社:立岩神社 - 祭神は天津麻羅。巨大な岩を神体とし、社殿は小さな祠である。10月17日に祭礼が行われる。(wikipedia 山方比古神社より抜粋)

 
 
 
 こちらの陽石が御神体ですな(´・ω・`) 
 詳しくはこちらでご確認下さいませ右矢印awa-otoko氏ブログ「天津麻羅と八咫の鏡」
 
 従って、「天金山の鉄」は、当山で採れる銅鉱石であると解釈ができ、
 
 これを「鍛人天津麻羅」に精銅させた上で、
 
 「伊斯許理度売命」に鏡を作らせた。…ということになります。
 従ってここで「純国産の銅鏡を作った」ということですな。
 
 伊斯許理度売命の神名の名義についてwikipediaによりますと、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意。
 
 …とあり、つまり石から作成した「鋳物」によって作られた鏡であると考えられます。
 ということは当時の中国から輸入した鏡などではなく、素材も純国産製の銅鏡、即ち我国のみでしか出土しない「三角縁神獣鏡」の可能性もありますな。
 
 ●弥生時代における銅鏡製作過程の時代による変化
 
 ひょっとすると「天の安河の川上の天の堅石」は、鋳型に使用した当地付近で採れた堅い石のことなのかも知れません。
 
 因みに『古事記』のこの項に書かれてある鏡は、後の三種の神器の一つとされる「八咫鏡」のことでありますが、先程の山方比古神社のすぐ西隣の町名がなんと「八多町」となります。
 
 
 そこから西へと山に登り進めて参りますと、『先代旧事本紀』に「夫手刀雄神此者座ニ佐那県一也と書かれてありますように、佐那県は徳島県名東郡佐那河内村の古地名ですが、当地に御鎮座されるのが天岩戸別神社(徳島県名東郡佐那河内村上)その御祭神は、天手力男神(他 天照皇太神 豊受皇太神)です。
 
 天之手力男神(あめのたぢからおのかみ)は、日本神話に登場する神。
 
 神話での記述

 岩戸隠れの際は岩戸の脇に控えており、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせた時、アマテラスを引きずり出して(『日本書紀』の一書や『古語拾遺』では「引き開けて」)、それにより世界に明るさが戻った。

 天孫降臨の際、アマテラスが三種の神器にオモイカネ、タヂカラオ、天石門別神を副えたとあり、その後伊勢の佐那県(三重県多気町佐奈)に鎮座したとしている。(wikipedia アメノタヂカラオより抜粋)

 

 相変わらずwikipediaには三重県の「佐奈」の方になっておりますネ(´・ω・`)...

 

 …で、その天岩戸と考えられるのが、

立岩神社(徳島県名西郡神山町鬼籠野元山746)

 先述した立岩神社の御神体は男根石(陽石)でしたが、こちらの立岩神社の方は女陰石(陰石)が御神体となっており、上の御神紋も如何にもソレっぽいですな。

 そして、更に更に西の山奥へと進み剣山付近まで来ますと、そこに御鎮座されるのが、天磐戸神社(天の岩戸神社:徳島県美馬郡つるぎ町一宇法正2667)
 当社は猿田彦大神像と天宇受賣命像、そして大きな神楽岩が特徴的です。
 神楽石
 
 当社にも小さいながらも天岩戸が御座います。
 
 んじゃ阿波説においてもどれがホンマの天岩戸かわからんやんけ!!…となりますね。(ノ∀`)
 ただし上に挙げました神社の「天岩戸」は、岩と岩の僅かな隙間(空間)が確認できるのみであり、実際に大人の人間サイズのモノが入ったり隠れたりしたとしても、そもそも隠れることができない、もしくは隠れることができたとしても直ぐに引っ張り出せてしまうぐらいのごく狭いスペースしかありませんな。(一応ですが、あくまでも『記紀』に書かれてある内容を信じて、素直に解釈したならばのお話です)
 つまり、これ等の神社の痕跡は、大昔から天岩戸神話を信仰し、お祀りしていたことを示す遺跡群であると考えられそうです。
 
 また『記紀』によると、アマテラスの岩戸隠れに関わったとされる神々は、天児屋命や布刀玉命、天手力男神、それに天宇受賣命やわざわざ「粟國忌部遠祖天日鷲」と説明付きで紹介されるなど、主に阿波忌部の根幹地と考えられる名方郡(神山町)~麻植郡~美馬郡の山間部を中心としてお祀りされている神々であり、これらとリンクするかのように天岩戸神社群も点在しております。
 
 ●徳島県神山町を中心とした山間部
 
 したがって、当地付近が往古の「高天原」と呼ばれた地域であると考えられますな。
 ではこの天の岩戸についてもう少し調べてみますと、
 

 天の岩戸(あめのいわと、あまのいわとは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。天戸(あめと、あまと)、天岩屋(あめのいわや)、天岩屋戸(あめのいはやと、あまのいわやと)ともいい、「岩」は「磐」あるいは「石」と書く場合もある。

 太陽神である天照大御神が隠れ、世界が暗闇に包まれた岩戸隠れの伝説の舞台である。

 
 ●古事記

 天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。

 これを聞いた天照大御神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。

 天宇受賣命が「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と布刀玉命が天照大御神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大御神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。

 すぐに布刀玉命が注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大御神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。

 
 ●日本書紀
 『日本書紀』の第七段の本文では、素戔嗚尊が古事記と同様の暴挙を行う。最後には天照大神が神聖な衣を織るために清浄な機屋(はたや)にいるのを見て、素戔嗚尊が皮を剥いだ天斑駒を投げ込んだ。すると、天照大神は驚いて梭で自分を傷つけた。このため天照大神は怒って、天石窟に入り磐戸を閉じて籠ったので国中が常に暗闇となり昼夜の区別もつかなかった、とある。(wikipedia 天の岩戸より抜粋)
 
 『記紀』に記載されてある天石窟の記述を抜粋しますと、
 
 『古事記』
 「故於是、天照大御神見畏、開天石屋戸而、刺許母理此三字以音坐也。」
 「これを見た天照大御神は恐れて、天の岩屋の戸を開いて、中に籠った。」
 
 『日本書紀』
 「乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉。」
 「天の岩屋に入られて、磐戸を閉じて、幽(こも)ってしまわれた。」
 
 「吾比閉居石窟、」
 「私はこの頃岩屋に閉居(こも)っているから、」
 
 一書(一)
 「乃入于天石窟而閉著磐戸焉。」
 「天の岩屋に入って、磐戸を閉じられた。」
 
 一書(二)
 「廼居于天石窟、閉其磐戸。」
 「天の岩屋へお出でになり、その岩戸を閉じられた。」
 
 一書(三)
 「至於日神閉居于天石窟也、」
 「日神が天石窟に閉(こも)り居すに至って、」
 
 と、我が国最古の引き籠もりの説話は、文面からはいずれもアマテラスが自ら天石窟まで行き、岩屋の中で住むことができる程度の空間が確保されてあった場所に引き籠もったであろうと考えられる訳なんですな。
 また、漢字からも、
 
 (いわ:岩)でできた、
 :①いえ。すまい。 ②やね。
 :①いわや。ほらあな。 ②人の集まる所。すみか。
 
 …の意味となりますね。
 
 ということで、冒頭のお話に戻しますと、
 太龍寺のご詠歌にある「太龍の常にすむぞやげに岩屋」は、スサノオの狼藉行為により、この時にアマテラスはもともと住んでいたこの岩窟に仕方なく戻って来た可能性も考えられますな。
 ところで、下に動画を貼っておきますが、
 
 ●【採掘現場へ!】国会を支える大理石 "阿南の石"の正体 徳島 NNNセレクション

 

 動画をご覧頂くとわかりますが、実は既に消滅してしまった太龍寺の岩屋のあった太龍寺山の石灰岩採石場は、遡れば元は大理石採掘場所だったんですな。

 

 国会議事堂の御休所(ごきゅうしょ)の案内には、「中央広間から中央階段を上がると、天皇陛下の御休所があります。開会式の当日、陛下は議事堂にお着きになると、まずこちらにお入りになります。」とあり、「御休所」の出入口扉は、額縁のように「時鳥(ほととぎす)」という徳島県産の大理石で飾られています。

 

 それ以外の大理石も多数使用されており、色がついている部分が全部徳島県内産のものだそうです。

 

 赤囲いした黄色い箇所が、徳島県阿南産の大理石「時鳥」

 

 ●御休所

 

 因みに説話にある「堅い石」=大理石(の可能性もありますが)、採掘がされていた場所は、「日本の歴史的重要建造物における徳島県阿南市産大理石の使用とその意義」によりますと、
 
 動画にもありましたが、この地域は非常にたくさんの種類の大理石が採れていましたが、その中でも「時鳥(ほととぎす)」が採れた場所は、やはりいわや道があったところのようですな。
 

 当説の解釈にはなりますが、国会議事堂で今上天皇がお休みになられる場所は、皇祖(と考えられている)アマテラスが引き籠もりお休みになっていた住居の岩で意図的に造られているとは考えられないでしょうか?

 

 また持統天皇の和風諡号である「大倭根子天之廣野日女尊」「高天原廣野姫天皇」とあることからも、高天原はやはり...

 

 ココにあった、もしくは当地も含む山間部がそう呼ばれていた痕跡ではないのでしょうか。

 更に今回の考察にて、「天」の岩屋の名称からも、広くは太龍寺近辺も含めてそう呼ばれていた可能性もあるのではないのかという考えに至りましたので、私説においては当地も高天原圏内に付け加えさせてもらいます

 

 従って、私説においては、石長比売天照大御神卑弥呼

 の線で(今のところは)考えていく方向でおりまする(´・ω・`)ノ

 

 一つの考え方として、天照大御神は、中つ国(長國)側では石長比売といわれていたのかも知れませんネ。

 

 さて、今回も壮大に私説展開を記しましたが、そこは人それぞれの考え方がありますから、あくまでこのような考え方もあるんだなぁと

 いろいろ想像も膨らみますが、既に長くなって参りましたので一旦ここで終いにしておきます。