日向之美波迦斯毘賣(ひむかのみはかしびめ)

(※画像はイメージ図です)

 

 みなさんお久しぶりです(´・ω・`)ノ

 

 以前からため込んでいる記事の続きや小ネタでも書こうかなと思っていたところ、命の次ぎの次ぎのだいぶ次ぎぐらいに大事なパソコンが電源を入れてもウントモスントモ言わなくなったので、泣く泣く購入店に修理に出しましたら、めん玉飛び出る程の修理費だったので、修理をするのか、はたまたオニューを買うかと散々悩んだ結果…最終的に修理を依頼。

 後日晴れてパソコンは修理され帰還、現在はすこぶる快調デスヨ\(^o^)/

 まぁ、その間にブログを書くモチベがダウンしたのは言うまでもない(´・ω・`)…

 

 …さて、ややモチベも回復して参りましたので久々に何か書こうかなと。書きかけの稿の方はどうした?

 

 今回はこれまでの記事のおさらいも兼ねまして、いつも通りの個人的歴史考察をして参りたいと思います。

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 「記」:日向之美波迦斯毘賣、「紀」:御刀媛 御刀、此云彌波迦志(みはかし)は、12代景行天皇の妃であり、『日本書紀』に「生豐國別皇子、是日向國造之始祖也」と書かれてありますように、日向国国造の始祖である豊国別皇子(記:豊国別王)の母です。

 

 豊国は、『古事記』・国産み神話に、「次生、筑紫島。此島亦、身一而、有面四。面毎有名。故、筑紫国謂、白日別。豊国、言、豊日別」とあるように、現在の九州の北東部で福岡県東部および大分県全域に相当します。

 

 場所はココ下矢印(wikipedia豊国より)

 

 当たり前のことですが、母の名にある”日向”国(宮崎県)の北側に位置しますネ。 

 

 その御刀媛がお祀りされておりますのは、お隣の肥後国(熊本県)にある名石神社(めいしじんじゃ:熊本県玉名郡長洲町上沖洲298)

 

 

 ◆祭神 景行天皇 御刀媛尊 豊国別尊

 

 ◆由緒 日向御刀媛(ひむかのみはかしびめ)が景行天皇のあとを追って、長洲に来たものの既に天皇は発った後で、悲しみのあまり女官と共に海に入水し身を投げてになったと伝えられる。その石は名石神社(めいしじんじゃ)に祀られている。

 

 こちらがその「石」だそうです下矢印

 

 さて、阿波国(徳島県)に目を向けますと、現在の阿南市にご鎮座する阿波國那賀郡式内社 室比賣神社(徳島県阿南市新野町入田136)

 

 

 境内石碑によれば、
 ◆室姫神社の由来 当時の昔話より

 当社の御祭神は淳仁天皇の御内室「室妃」で奈良時代の末期に、姫が天皇を慕って小舟で淡路へ向かう途中、荒天の為阿波の東岸に漂着。ここに安住の地を求めて土地の人たちの親愛を受けていたが、ついに黄泉の客となった。その時、身重であった姫は村人たちの親切を謝すとともに、世の人々の安産を願う旨を遺言に残したという。
 村人は姫をねんごろに葬り、塚を設け、塔を建てて供養していたが、いつの頃からか室比賣神社として祀るようになり明治七年、式内社の一つとして室姫神社と改称された由緒ある古い神社で、安産の神として広く崇敬さている。

 

 なお、当社の御祭神としての室比賣命は現在、木花開耶姫命と同一神として祀られているようです。

 

 現海部郡海陽町にご鎮座する阿津神社と同社同祭神ですね。

 

 こちらも天皇を慕って海を渡って追いかけて来た妃が結局亡くなったという謂れを持ちますね。

 

 こちらの社がご鎮座する場所は、

 

 記録がほとんどない岡山城跡ですね。(岡山県は旧国では…ボソボソ)

 

 なお、「玄松子の記憶 室姫神社」によれば、当社に関する記録はほとんどなく、衰退していた一時期、近くの轟神社と置き換えられ、そのため、王子権現とも称されていたが、明治3年、王子神社、明治7年室姫神社と改称した。

 

 また、「室比売神社 - 延喜式神社の調査」によれば、この地域に住居を権えた人々によつて、いつの頃からか室比売神社を祀つたのがはじまりで、その後衰頽廃絶してある時期には轟明神と置き替えられたこともあつたが、轟明神が級長津彦命。級長津姫命を祭神として、南荒田野村(後の豊田村)字宮久保に移転するに伴い、王子大明神として祀られていた。明治3年王子神社と改称、明治7年室姫神社として復活した。…とほぼ同様の旨が記されています。

 

 ではこの室比賣をお祀りしている阿南市にあるもう一つの式内社 賀志波比売神社を見て見ますと、

 

 賀志波比売神社(かしわひめじんじゃ:阿南市見能林町柏野22)

 

 当社は創祀年代不詳ですが、「阿南市史」より、「聖武天皇御宇神託有リテ遷座ス」とあり、また一説に神亀元年(724年)の創祀であると伝えられています。

 

 社殿内案内板によれば、

 賀志波比売神社は見能方八幡神社飛地 境内の見能林町柏野二十二番地にあり延喜式内社で津峯神社(祭神賀志波比売命)の本宮である。
 昭和二十七年社地の大部分が見能方保育所が建設され、そのため社殿は北西隅に移転鎮座していたものである。
 昭和六十三年保育所の新築移転に伴い、阿南市から整地返還をうけ、当社も念願の 現在地に移転改築を行ったものである。

 

 「阿府志」には、「賀志波比売神社、夏之売命(なつのめのかみこと)を祭る。羽山戸神、大宣都姫を娶て夏高津日神(なつたかつひのかみ)亦名夏之売神を生む」とあり、夏之売神は、羽山戸神と大気都比売神の子です。

 

 この羽山戸神(山の麓を司る神)は、スサノオの子である大年神(食物神)と天知迦流美豆比売との間の子で、日吉大社・松尾大社の祭神である大山咋神(別名 山末之大主神)らの同母兄弟です。(”ヤマト”の謂れが見えて来たのかな…?)

 

 つまり羽山戸神は、スサノオの「孫」で、ここに出てくる大気都比売神は古事記にある阿波国の女神です。

 

 では論社である津峯神社を調べてみますと、

 

 

 ◆祭神 賀志波比売命を主祭神とし、相殿に大山祇命を祀る。開運延命・病気平瘉・海上安全の神として信仰される。

 

 旧郷社、神饌幣帛料供進社、延喜式内社。聖武天皇神亀元年(724)神託ありて国家鎮護、長寿延命の神として奉斎。爾来国主の尊崇篤く、阿波蜂須賀歴代の家運長久を祈願せられ、富岡情趣と共に正月参拝祈願せらるること久し、寛保神社帳に「答島村津峰大明神、別当見能方村千福寺」、阿波志に「津峰祠答島に在り、其祠舊山麓に在り、古樹鬱蒼今移して此地に在り、四望広蔽、除夜聖燈燃ゆ、東南隅に斥候台址在り」「賀志波比売延喜式亦小祀と為す、水潟村南津峰に在り、今津峰権現と称す、旧北麓に在り、木材蒼然古松一株其の大きさ比なし、昔日封田若干在り」と見える。また阿波志には「賀志波比売神社、夏之売命を祭る、見能潟に在り俗に津峰権現と号す、別当千福寺、古事記に日羽山戸神大宣都姫を娶て夏高津日神亦名夏之売神を生む、述者の按に羽山戸は伊予の大山祇今云う三島の神是なり、大宣都姫は阿波の国主也、当社は山の麓に在りしを所の郷民に因て今の山上に遷す、是は年歴久しからずと尤も麓の社も猶存せり、此社真に古し、樹木繁茂せり、毎年臘晦の夜竜燈あがる」と述べている。

 

 元々は麓の「柏野」の地に祀られていたものを山頂に移した社で、見能方(みのがた)、水潟(みのがた)=現在の見能(みの)林にあったのを聖武天皇御宇時に当地に移したとあれば、恐らく現賀志波比売神社ご鎮座地が元地なんでしょうな。

 

 境内案内より、

 ◆津峯神社由緒 御神徳

 大神は主として人の寿命を司り給うを以って、危篤の病人と雖も其の親威、知人鶏鳴を期し、清水に浴し、至誠をこめて祈願すれば寿命を延べ給うといい、また日に一人の命を助け給うと伝えらる。されば古来上下尊心益々厚く遠近その慰霊仰がざるものなし。当国の大守蜂須賀阿波守累代武運の神として崇敬し、富岡城主加島政慶代々家例として、正月三日諸臣を具して参拝せられ、大正九年三月二日蜂須賀正韶侯爵閣下、近くは昭和二年六月十二日伏見宮博義王殿下御参拝の節は御記念のため、それぞれ月桂冠の御手植の栄を賜りたり。(昭和二十五年別表神社に加列)
 交通安全 病気平癒 海上安全 息災延命 守護

 

 当祭神である賀志波比売命は、病気平瘉や長寿延命の神のようです。

 

 「応神天皇の痕跡から考察④」でも書きましたが、橘湾を挟んで津峯神社の南方に聳える明神山にご鎮座する峯神社(みねじんじゃ:徳島県阿南市椿町旭野221)。

 

 

 

 こちらの謂れを見ますれば、

 當峯神社ノ祭神ハ遠ク二千六百五十有餘年ノ昔皇室ノ祖神ニ當ル

 天照大神ノ天孫瓊瓊杵尊ノ妃神、木花開耶姫ノ命ヲ祀ル

 基ヨリ東方ノ静岡縣富士山ニ祀ル浅間神社ハ此ノ神社ノ本宮ニ當リ

 茲ニ対峙シ會フハ方ニ宜ベナラン亦タ西方ノ愛媛縣大三島ニ祀ル大山祇神ハ

 父君ニ當リ逢カニ父子ノ絆拘ヲ維ネル如ク亦タ此ニ対峙シ會フハ如斯

 猶北方ニ望ム津乃峰ニハ姉君賀志波姫命ガ祀ラレシコト洵ニ奇ナルベシ

 北麓下レバ椿町働々乃至ハ船頭ヶ谷傍示ノ氏子達七拾有餘ノ者ガ

 奉持スル本殿ニ於イテ毎年九月十八日十九日ノ両日ニ渉リ秋季例祭ヲ行ナフ

 亦タ南麓ノ由岐町阿部乃至ハ伊座利傍示ノ人々ニ篤ク信仰スル者多ク

 四季ヲ通ジ其ノ禮拜跡ヲ絶タズ復タ参詣人克ク謂フ處

 木花開耶姫命白蛇トナリテ屡々現ハルヲ以ツテ正ニ霊験顕カナリト

 蓋シ斯ル神秘ナルコト他ニ慮リ識レス仍而実ニ神聖ナル霊峰ト謂フベシ

 平成七年十一月吉日 峰神社氏子一同建立

 

 『古事記』邇邇芸命の段に、

 「我之女二並立奉由者、使石長比賣者、天神御子之命、雖雨零風吹、恒如而、常不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者、如木花之榮榮坐、宇氣比弖自宇下四字以音貢進。此令返石長比賣而、獨留木花之佐久夜毘賣。故、天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」故是以至于今、天皇命等之御命不長也。」

 

 「二人並べて送ったのは、石長比売を仕えば、天津神の皇子の命は雪が降り風が吹いても、の如く永遠にく動かず変わらないもの、また木花之佐久夜比売を仕えば、木の花が咲くように繁栄したでしょう。といい、邇邇芸命は石長比売を返したことで、木の花のように儚い命になり、これ以降、天皇の寿命は長くは無くなってしまった。」

 

 とあり、上記にある社のご祭神及び『古事記』の内容からも、賀志波比売命は長寿延命の神である大山津見神の娘である石長比売のことでしょう。

 

 スサノオとアマテラスから繋がる「孫」の代は言わずと知れた天孫邇邇芸命。

 こちらではスサノオの「孫」の羽山戸神。(まぁここはわかる)

 

 その妻は、記紀によれば大山津見神の娘である木花開耶姫命であり、ぶちゃいくなので返されたのは姉の石長比売だったはず。

 

 この稿の祭神に置き換えれば、妻は大気都比売神(=木花開耶姫命)で、ぶちゃいくで返されたポジションにあるのは「姉」であるはずの「娘」の夏之売命(賀志波比売)。(´・ω・`)…

 つまり羽山戸神(=邇邇芸命)の妻は、ナギ・ナミ神の娘である大宣都姫(=木花開耶姫命)で、その子が夏之売命(=木花開耶姫命の姉の石長比賣)であるということになりますね。(もうここでは深くは追求しませぬよ)

 

 この世代のズレは萬幡豊秋津師比売命のところでも見ましたな。 

 ではこの夏之売命ですが調べて見ますと、

 

 夏高津日神(なつたかつひのかみ 別名:夏之売神 なつのめのかみ)

 

 『古事記』によると、大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。
若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。

 これらの神々は植物(特に稲)の成育を示すと思われる。

 稲作に関る夏の日の神。日が高く昼が長いという意味か。夏高津日神:玄松子の祭神記より)

 

 これもどっかで見ましたな…

 

 アシナヅチ・テナヅチは、日本神話のヤマタノオロチ退治の説話に登場する夫婦神である。『古事記』では足名椎命・手名椎命、『日本書紀』は脚摩乳・手摩乳と表記する。

 

 ●神話の記述 

 二神はオオヤマツミの子で、出雲国の肥の川の上流に住んでいた。8人の娘(八稚女)がいたが、毎年ヤマタノオロチがやって来て娘を食べてしまい、スサノオが二神の元にやって来た時には、最後に残った末娘のクシナダヒメを食いにオロチがやって来る前だった。二神はスサノオがオロチを退治する代わりにクシナダヒメを妻として差し上げることを了承し、オロチ退治の準備を行った。このとき、スサノオによって娘のクシナダヒメは櫛に変えられた。

 スサノオが無事オロチを退治し須賀の地に宮殿を建てると、スサノオはアシナヅチを呼び、宮の首長に任じて稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)(『日本書紀』では稲田宮主神)の名を与えた。

 

 ●解説

 ・「ナヅ」は「撫づ(撫でる)」、「チ」は精霊の意で、父母が娘の手足を撫でて慈しむ様子を表すとする説

 ・「アシナ」は浅稲(あさいね)で晩成の稲の意、「テナ」は速稲(といな)で早稲の意とする説

 ・「畔(あ)の椎」、「田(た)の椎」の対であるとする説

 ・古語で蛇を「ミヅチ(御づち)」とするように「ヅチ」は蛇を指すことから、「脚無し蛇」「手無し蛇」という手足を持たない蛇の造形を示した蛇神を示しているとする説

 ・古田武彦は、「手名椎(テナヅチ)=「てのひら」のように拡がった地の港の神 足名椎(アシナヅチ)=「ア」は接頭語、「わが」の意。「シナ(支那)の港の神」 「足名椎」は、浙江省出身の「港の神」だった」(『盗まれた神話』431~432頁、ミネルヴァ書房発行)とする。(wikipedia アシナヅチ・テナヅチより抜粋)

 

 名前の由来の解説を見るに諸説あるようですが、手も足もない「蛇」のことでしょうな。

 峯神社の謂れにもあるように、同じく大山津見神の娘である「木花開耶姫命白蛇トナリテ…」云々とあるように大山津見神の子は蛇に所縁があるのです。

 そして世代がずれてのスサノオの妻となったのは奇稲田姫ですね。

 

 さて、この「蛇」についてですが、

 

 ●文化の中のヘビ(信仰)

 民俗学者の吉野裕子によれば、日本の古語ではヘビのことを、カガチハハ、あるいはカ(ハ)等と呼んだ。また、これらを語源とする語は多く、鏡(ヘビの目)、鏡餅(ヘビの身=とぐろを巻いた姿の餅)、ウワバミ(ヘビの身、大蛇を指す)、かかし(カガシ)、カガチ(ホオズキの別名、蔓草、実の三角形に近い形状からヘビの体や頭部を連想)などがあり、神(カミ=カ「蛇」ミ「身」)もヘビを元にするという。 ただし、カガチはホオズキの古語、鏡の語源は「かが(影)+み(見)」、カカシはカガシが古形であり、獣の肉や毛髪を焼いて田畑に掛け、鳥や獣に匂いをカガシて脅しとしたのが始まりであって、それぞれ蛇とは直接の関係はないというのが日本語学界での通説である。(wikipedia ヘビより抜粋)

 

 …とあるように古語ではカガチ、カカシ、カガシ、ハハ、ハカ、ハミ、ミなどと呼ばれ現在でも使っている地域もあろうかと思います。

 農業における「かかし」や鏡「かがみ」についてもたいへん興味深いのではないでしょうか。

 

 さて本題の景行天皇妃である御刀媛

 『日本書紀』には、御刀媛(御刀、此云彌波迦志)読みは、「み-はかし」と注があります。

 言葉遊びが大好きなご先祖様は、刀(たち)を(はかし)と読みなさいとヒントを出している訳なんですなぁ。

 つまりこれが、御刀(みと)でもあり、

 

 ほとは古い日本語で女性器の外陰部を意味する単語。御陰、陰所、女陰の字を宛てることが多い。(wikipedia ほとより抜粋)

 

 これ等が関係する人物であるということなんでしょう。

 

 日本一社とする津峯神社のご神紋は「八角御紋」

 

 往古、食物を柏の葉に盛る風習があり、それから転じてカシワは食器の総称とされ、現在でも携帯する食器をカシワと言います。 …とあり、如何にも御食の女神らしい謂れですな。

 

 ホームページには御祭神が、

 本社 賀志波比賣大神(かしはひめのおおかみ) 大山祗大神(相殿) 
 末社 恵比須大神 大國主大神

 

 …とあるように、これ等の神に密接な関係があるようです。

 

 久々にブログを書くとチョット疲れてきましたので、続きはまた次回に書こうかな(´・ω・`)いつになるのかは保証できない