●石長比売(いわながひめ)
応神天皇の妃である迦具漏比売の考察で引っ張っています
それでは続けますヨ(´・ω・`)ノ
迦具漏比売の唯一の皇子に、「記」迦多遅王(かたぢのみこ)/堅石王(かたしわのみこ)がいます。
痕跡候補地として、岩利大閑氏や高木隆弘氏が3代安寧天皇の皇居である片塩浮孔宮の場所に比定しておられる徳島市勝浦町片志(かたし)で、旧片汐郷(かたしお)のあった場所と考えられますが、
この迦多遅王は、別に「かだち」とも訓め、そうなるともあるかなと
双方の間に位置するのは徳島県南部、現在の阿南市のいわゆる那賀川河口流域で、長國域内で最栄を迎えたであろう所と考えられます。
賀立の場所は、四国の東端の蒲生田岬とカダチノ鼻との間の場所、賀立神社(かだちじんじゃ)がご鎮座。
ここは阿波古事記研究会によると、「記」の「稻羽之素菟」の舞台地に比定しておられるところ。(ちなみに「紀」には記録なし)
内部の彫刻は波乗り兎
ということで、撫でるとご利益がある「撫でうさぎ」があります。
当社周辺の椿泊町の佐田神社や福井町の金刀比羅神社にも、
「うさぎ」があり、当地と兎には浅からぬ関係があるはずです。
「記」:「稻羽之素菟」に、
教告其菟「今急往此水門、以水洗汝身、卽取其水門之蒲黃、敷散而、輾轉其上者、汝身如本膚必差。」
大穴牟遲神が兎に「今すぐ水門へ行き、水で体を洗い、その水門の蒲(がま)の穂をとって敷き散らして、その上を転がって花粉をつければ、膚はもとのように戻り、必ず癒えるだろう」
とあり、当地名は「蒲生田」というだけあって当然近くには蒲が自生する蒲生田園池があります。
確かにこれだけのものが人知れずある訳ですから、ここが「稻羽之素菟」の地であると主張してもよいでしょう
さて、応神天皇条の末尾では、堅石王(かたしわのみこ)と記載があり、また天皇が須須許理(すすこり)の造った酒に酔った場面で、
如此歌、幸行時、以御杖打大坂道中之大石者、其石走避。故、諺曰「堅石避醉人也。」
そう歌って出かけて、杖で大坂の道の大きな石を打つと、その石が走って避けました。それで、諺に「堅い石も酔った人を避けて通す」というようになりました。
とも記され、この条ではやたらと「堅石」がキーワードとして出現しますが、系譜には素っ気無く名前の記録があるのみ。
少しこの辺を探ってみますと、
カダチノ鼻から橘湾を越えた先の阿南市見能林町柏野22に式内社 賀志波比売神社(かしわひめじんじゃ)がご鎮座します。
当社は創祀年代不詳ですが、「阿南市史」より、「聖武天皇御宇神託有リテ遷座ス」とあり、また一説に神亀元年(724年)の創祀であると伝えられているようです。
賀志波比売神社は見能方八幡神社飛地 境内の見能林町柏野二十二番地にあり延喜式内 社で津峯神社(祭神賀志波比売命)の本宮 である。
昭和二十七年社地の大部分が見能方保育所 が建設され、そのため社殿は北西隅に移転鎮 座していたものである。
昭和六十三年保育所の新築移転に伴い、 阿南市から整地返還をうけ、当社も念願の 現在地に移転改築を行ったものである。
- 社殿内案内板より -
「阿府志」には、「賀志波比売神社、夏之売命(なつのめのかみこと)を祭る。羽山戸神、大宣都姫を娶て夏高津日神(なつたかつひのかみ)亦名夏之売神を生む」とあり、夏之売神は、羽山戸神と大気都比売神の子です。
当地では、賀志波比売命は天照大神の幼名としています。
では論社のもう1社である津峯神社を調べてみますと、
津峯神社(つのみねじんじゃ)は、徳島県阿南市の津乃峰山山頂にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。現在は神社本庁の別表神社。
◆祭神 賀志波比売命を主祭神とし、相殿に大山祇命を祀る。開運延命・病気平瘉・海上安全の神として信仰される。
旧郷社、神饌幣帛料供進社、延喜式内社。聖武天皇神亀元年(724)神託ありて国家鎮護、長寿延命の神として奉斎。爾来国主の尊崇篤く、阿波蜂須賀歴代の家運長久を祈願せられ、富岡情趣と共に正月参拝祈願せらるること久し、寛保神社帳に「答島村津峰大明神、別当見能方村千福寺」、阿波志に「津峰祠答島に在り、其祠舊山麓に在り、古樹鬱蒼今移して此地に在り、四望広蔽、除夜聖燈燃ゆ、東南隅に斥候台址在り」「賀志波比売延喜式亦小祀と為す、水潟村南津峰に在り、今津峰権現と称す、旧北麓に在り、木材蒼然古松一株其の大きさ比なし、昔日封田若干在り」と見える。また阿波志には「賀志波比売神社、夏之売命を祭る、見能潟に在り俗に津峰権現と号す、別当千福寺、古事記に日羽山戸神大宣都姫を娶て夏高津日神亦名夏之売神を生む、述者の按に羽山戸は伊予の大山祇今云う三島の神是なり、大宣都姫は阿波の国主也、当社は山の麓に在りしを所の郷民に因て今の山上に遷す、是は年歴久しからずと尤も麓の社も猶存せり、此社真に古し、樹木繁茂せり、毎年臘晦の夜竜燈あがる」と述べている。
元々は麓の「柏野」の地に祀られていたものを山頂に移したという。
見能方(みのがた)、水潟(みのがた)ですか(´・ω・`)ふむふむ
●津峯神社由緒 御神徳
大神は主として人の寿命を司り給うを以って、危篤の 病人と雖も其の親威、知人鶏鳴を期し、清水に浴し、 至誠をこめて祈願すれば寿命を延べ給うといい、また 日に一人の命を助け給うと伝えらる。されば古来上下 尊心益々厚く遠近その慰霊仰がざるものなし。当国 の大守蜂須賀阿波守累代武運の神として崇敬し、富岡 城主加島政慶代々家例として、正月三日諸臣を具して 参拝せられ、大正九年三月二日蜂須賀正韶侯爵閣下、 近くは昭和二年六月十二日伏見宮博義王殿下御参拝の 節は御記念のため、それぞれ月桂冠の御手植の栄を賜りたり。(昭和二十五年別表神社に加列)
交通安全 病気平癒 海上安全 息災延命 守護
- 境内案内より -
当祭神である賀志波比売命は、病気平瘉や長寿延命の神のようです。
◆津峯神社から見渡す橘湾
超絶景ポイント
そして、橘湾を挟んで南側の阿南市椿町に、津峯神社から「津」を除いた社名となる「峯」神社がご鎮座します。
峯神社(みねじんじゃ:徳島県阿南市椿町旭野221)あちらは柏野こちらは旭野。
●祭神ノ謂ワレ
當峯神社ノ祭神ハ遠ク二千六百五十有餘年ノ昔皇室ノ祖神ニ當ル
天照大神ノ天孫瓊瓊杵尊ノ妃神、木花開耶姫ノ命ヲ祀ル
基ヨリ東方ノ静岡縣富士山ニ祀ル浅間神社ハ此ノ神社ノ本宮ニ當リ
茲ニ対峙シ會フハ方ニ宜ベナラン亦タ西方ノ愛媛縣大三島ニ祀ル大山祇神ハ
父君ニ當リ逢カニ父子ノ絆拘ヲ維ネル如ク亦タ此ニ対峙シ會フハ如斯
猶北方ニ望ム津乃峰ニハ姉君賀志波姫命ガ祀ラレシコト洵ニ奇ナルベシ
北麓下レバ椿町働々乃至ハ船頭ヶ谷傍示ノ氏子達七拾有餘ノ者ガ
奉持スル本殿ニ於イテ毎年九月十八日十九日ノ両日ニ渉リ秋季例祭ヲ行ナフ
亦タ南麓ノ由岐町阿部乃至ハ伊座利傍示ノ人々ニ篤ク信仰スル者多ク
四季ヲ通ジ其ノ禮拜跡ヲ絶タズ復タ参詣人克ク謂フ處
木花開耶姫命白蛇トナリテ屡々現ハルヲ以ツテ正ニ霊験顕カナリト
蓋シ斯ル神秘ナルコト他ニ慮リ識レス仍而実ニ神聖ナル霊峰ト謂フベシ
平成七年十一月吉日 峰神社氏子一同建立
椿町と伊座利、阿部の境となる明神山は「古代石積神殿と巨石群」と記され、明神山の山頂付近には古代石積神殿とされる峯神社本殿が鎮座する。由岐町が合併する前に作られた郷土事典に記載があり、
【峯神社】
明神山山頂にあり、阿南市に属するが伊座利の人たちは海上安全、豊漁祈願でお参りを欠かさない。例祭は10月1日。またこの神社について平成11年(1999)初め、阿波古代研究会や阿波ペトログラフ協会から、この神社は「ヘイアウ型古代神殿」であると発表され研究者の話題を集めている。それによると、この神社の周囲6m四方に高い所で7mもある石垣が築かれており、これが先史時代後期(考古学上の時代区分で日本では縄文時代に当たる)の石積神殿(ヘイアウ型)であるというもの。なおこの神殿の事例は同年9月のポルトガルでの国際岩石芸術学会でも発表されたと報道されている。
【由岐町郷土事典 p63】
本殿(明神山山頂:巖座龍宮総宮社)は石積みで立派に守られ石の猪が2体設置されている。
麓の椿町に峯神社が鎮座しており、山頂の祠が本殿なので社はこちらに降りてきたと思われますが、何故か徳島県神社誌には記載が無いようです。
◆本殿から望む橘湾
こちらも絶景
「かいふのほそみち」様には、「石積神殿の二頭の猪が向かい合っている。その真ん中には太龍寺がある。なにか意味があるのだろうか。」
…とありますが、大いに意味がありそうですよ
以前「深曽木の儀から考察」にて、海部郡海陽町にある室比賣神社については、『阿府志』には「室比売神社、相川村室津と云ふ所に在り。安津明神と号す、吾田鹿葦津姫を祭る。又木花咲耶姫、大山祇等大宣津姫之娘也と。」あるように、木花咲耶姫は大山祇等大宣津姫の娘です。
つまり、大山祇大神=羽山戸神と大気都比売神の子の姉妹が賀志波比売と木花咲耶姫ということですね。
では一体、賀志波比売とは誰なのでしょうか
「記」:邇邇芸命の段、大山津見神の発言で、
「我之女二並立奉由者、使石長比賣者、天神御子之命、雖雨零風吹、恒如石而、常堅不動坐。亦使木花之佐久夜毘賣者、如木花之榮榮坐、宇氣比弖自宇下四字以音貢進。此令返石長比賣而、獨留木花之佐久夜毘賣。故、天神御子之御壽者、木花之阿摩比能微此五字以音坐。」故是以至于今、天皇命等之御命不長也。」
「二人並べて送ったのは、石長比売を仕えば、天津神の皇子の命は雪が降り風が吹いても、石の如く永遠に堅く動かず変わらないもの、また木花之佐久夜比売を仕えば、木の花が咲くように繁栄したでしょう。といい、邇邇芸命は石長比売を返したことで、木の花のように儚い命になり、これ以降、天皇の寿命は長くは無くなってしまった。」
とあり、上記内容からも長寿延命の神である石長比売=賀志波比売命であることは確実でしょう。
また、15代応神天皇から遡って、「記」12代景行天皇条に、
「又娶倭建命之曾孫、名須賣伊呂大中日子王自須至呂四字以音之女、訶具漏比賣、生御子、大枝王。」
「また倭建命の曽孫、名は須売伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこ)の女、訶具漏比売を娶して生みましし御子、大枝王(おおえ)。」
とあり、倭建命の曾孫、父景行天皇からすれば玄孫となる訶具漏比売を娶ったとあります。
確かに応神天皇妃の一人である迦具漏比売の系譜上は、「倭建命 - 若建王 - 須売伊呂大中日子王 - 迦具漏比売」ですから辻褄は合いますが、応神天皇との子に大枝王は見えません。
この妃との唯一の皇子で記録される迦多遅王と同人物であろうかと思われますが、あくまでこの皇子は景行天皇との間の子であるので、別に大枝王を記載したとも考えられます。
他に応神代で類似名の皇子を探しますと、日向泉長媛の子の大葉枝皇子(おおはえのみこ、大羽江王)という人物がいます。
しかし、当然のことながら自身の息子の曾孫との婚姻があったとするのは常識的には考えられません。
もう少し系譜をじっくり見てみましょう。
応神天皇妃の一人である「紀」宮主宅媛は「記」では宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)と訓んでおりますね。
つまり「枝」を「はえ」と訓んでいますから、大枝王は「おおはえのみこ」。
また「紀」には、
「女鳥王が速総別王に言うには「大后の嫉妬が強く、八田若郎女はお召しに預かれておりません。」
とあり、八田若郎女が19代允恭時の衣通姫(弟姫=登富志郎女=藤原之琴節郎女)と同じ説話を持ち、その母が迦具漏比売なのですから、応神天皇条に記載ある和珥日触使主の娘の宮主矢河枝比売と日向泉長媛と訶具漏比賣も同人物であろうことが伺えます。
ということでこちらも橘周辺に痕跡を探すと
堅石(かたぢ)に引き続き、大江(おおえ)も「日向(東端)」の海際の小集落地名ですね。
「紀」の景行天皇妃に、日向之美波迦斯毘売(ひむかのみはかしきびめ)/御刀媛(みはかしひめ)が見え、景行天皇十三年夏五月条に、
「悉平襲國。因以居於高屋宮已六年也、於是其國有佳人、曰御刀媛御刀、此云彌波迦志、則召爲妃。生豐國別皇子、是日向國造之始祖也。」
「完全に襲国を平定しました。高屋宮に居るようになって既に6年です。その国に佳人(かおよきおみな)がいました。御刀媛といいます。 御刀は彌波迦志(みはかし)といいます。すぐに呼び寄せて妃としました。 豊国別皇子を生みました。 この皇子は日向国造の始祖です。」
ここに書かれてある「襲國」はどこなんでしょうかね。ボソ…
そして、筑紫島の2番目の顔の名前である豊日別、通説では九州の日向国は律令以前は襲国(そのくに)と呼ばれていたとされています。
神名の「豊」は、豊国(豊前・豊後)の意で、豊国自体を神と見たもの、即ち国魂の神名ですが、後に豐國別皇子が是日向國造之始祖也なのですから、その理由はもうお分かりかと思いますが、
当地徳島県の「日向」でお生まれになった日向之美波迦斯毘売と景行天皇との子の豐國別皇子が、後に「九州」の豊国を治めたので、豊日「別」となったものです。
※私的には、「日向高屋宮」は津峯神社に比定しておきます。
この豐國別皇子は、旧事本紀景行天皇紀末段では、喜備別祖でもあるのです。
また、この迦具漏比売の系譜を遡ると、母は、「記」:柴野比売(しばのひめ)で、その父も淡海之柴野入杵(おおみのしばのいりき)です。ということで、
◆徳島県海部郡海陽町芝(しば)
当地は須佐之男命の根幹地である脚咋族の地。
母なる川が流れる当地の寺山古墳は、卑彌呼が存在した時代と同年代頃であることが近年になり分かっております。「羽衣伝説 Vol.阿波 神宝・遺物から考察」
また芝遺跡は全国的に類を見ない在地型土器より外来系土器の種類の方が多い「物」が集まるマーケットの場所。
もちろんのことながら、中国鏡片も出土しています。
そして須佐之男命をお祀りしている日本三祇園に数えられる宍喰八坂神社の祭神は須佐之男命、それ以前は鷲住王をお祀りしておりました。
そして、淡海之柴野入杵と名にある「淡海」は、同音にある「近江」(おうみ)ではありません。
大宝令の制定(701年)施行を境にして近江国の表記が登場し、浜名湖を「遠つ淡海(とおつあはうみ)」というのに対し、都に近い湖の琵琶湖の意味で「近つ淡海(ちかつあはうみ)」というのが古称です。
要するに淡水の海=淡海(たんかい)=湖のこと。
これが後に「ちかつ」がなくなり、「あはうみ」から「あふみ」となり「おふみ」が更に転じて「おおみ」となったもの。
時代的にも8世紀頃に移された地名ですから、「記」に書かれてある本来の場所とは一致しないはずです。
これにつきましてはwikipedia近江国にも記載あるように、『万葉集』をみても、「近淡」「近水海」「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」等多種の記載があり、既に混同されておりますが、全く同様に、古代の倭(やまと)も律令後に置かれた大和(おおやまと)も後に「やまと」と呼称されますから、後世の人が混同される要因となっています。
上のように「吉備」も「襲国」も然りで、全て元を辿れば阿波のそれも長國(那賀)に至ります。
葦原「中」国がどこにあったのかお分かり頂けたでしょうか
「淡海」は、漢字でも分かるように淡の海、(あわのうみ:阿波の海)つまり淡路(あはぢ)のこと。
ただしこちらとて後に移された名前の可能性もありますよ。
◆香川県坂出市青海(おおみ)
青海神社(おおみじんじゃ)別名:煙ノ宮 坂出市青海町759
当地は旧青海村で、現在は崇徳天皇を祀る神社となっています。
この辺りは鷲住王の活躍した場所と被りますね。
同じく坂出には崇徳天皇をお祀りする…
高家神社(たかべじんじゃ)別名:血ノ宮(ちのみや)坂出市高屋町878
この地で無念の最期を遂げた崇徳天皇の棺を白峰に運ぶ途中雷雨に遭い、この神社で棺を休めたところ棺から血が流れた落ちたことから「血の宮」と呼ばれるようになったとの謂れがあります。
◆創建 不詳
◆祭神 天道根命、崇徳天皇、待賢門院
配祀神 大鞆和気尊、息長足姫尊、大己貴神、埴山比賣神、少彦名神、倉稲魂神、大山祇命、木花咲耶姫命、伊弉那伎命、伊弉那美命、豊受大神
崇徳天皇が祀られている神社は他にも坂出だけで、鼓岡神社、白峰宮、天皇神社があり、やはり何やら怪しいかほりがプンプンですヨ。
讃岐国からは、さぬき市にあった「難波」や仲多度郡にあった「垂水」も神戸市垂水区に地名があり、これらは後世に本土側に移されています。
◆讃岐國 難波・垂水
時と共に他ならぬ忌部が他地へ移していった痕跡ではないでしょうか。
そもそも讃岐国造は阿波から移ってきた鷲住王です。
確か蝿伊呂泥・蝿伊呂杼姉妹の父和知都美命は、磯城津彦玉手看天皇/3代安寧天皇条に、
「和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥、亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。」
とあり、和知都美命は「この時」淡道之御井宮に居たようです。
この辺りはもう少し検証を要しますが、
和知都美命の娘から、意富夜麻登玖邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)/倭國香媛と、妃方に初めて「倭(やまと)」を冠する名が見られるようになり、7代孝霊天皇との子である夜麻登登母母曽毘売や弟の吉備津彦命/比古伊佐勢理毘古命(吉備上道臣の祖)、妹の蠅伊呂杼の子から、若日子建吉備津日子命/稚武彦命(吉備下道臣の祖)がおりますが、これが代を経た12代景行天皇と御刀媛の子である豊国別皇子が何故、喜備「別」祖であるのかを考慮しないといけません。
また、鷲住王は香川県の富隈神社では「景行天皇皇子鯽魚磯別王の子」、海陽町にある大山神社では「鷲住王は景行天皇の曽孫」で、大山社の由緒の方が17代履中天皇に時代を合わせた格好になります。
履中天皇の「弟」になった鷲住王、その実、同母であったなら、住吉仲皇子、瑞歯別尊、雄朝津間稚子宿禰尊の誰かに対応する可能性がありますね。
また、これまでの天皇系譜の慣習から、母系は全て事代主命(和珥)系となりますので、系譜上の鷲住王も同様であると考えられます。
(´・ω・`)ノ 既に何の考察になってるのかすら異次元の域