結構長編シリーズとなっておりますが、

 まずは、元伊勢 籠神社のご神宝をご覧いただきましょう。

 

 ◆神宝  海部氏伝世鏡

 

  息津鏡(学名 内行花文長宜子孫八葉鏡)・邊津鏡(学名 内行花文昭明鏡)

 

 

 昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えたこの二鏡は、元伊勢の祀職たる海部氏が當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され来ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。

 又、息津鏡は後漢時代で今から一九五〇年位前のものである。そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替りごとに、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。

 現存最古の国宝海部氏系図並びに二千年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう。(籠神社HPより)

 

 羽衣伝説シリーズでいうところの徳島県の出発地(出港した場所)と予想される海陽町鞆浦字那佐(旧 和奈佐)から程近い距離にある、同町野江に、3世紀初頭の墳丘墓とされる寺山古墳群がある。

 当時の記事が確認できるので貼っておきます(^ω^)ラクチン

 

 

 この寺山3号墳から内行花文鏡が出土しています。

 記事によれば、現在全国で最古の前方後円墳の原型とされる萩原墳丘墓(徳島県鳴門市大麻町萩原)からも同じく内行花文鏡が出土していることから、少なくとも徳島県の海岸沿い側にあったとされる長國には、大陸側(当時の中国)と交易ができる程の航海術があったことが確実となっております。

 

 この寺山古墳群のある場所から僅か北東200mの位置にある芝遺跡

 

 ◆芝遺跡

 

 

 この芝遺跡の発掘に携わった林田真典氏によるレポートから内容を抜粋掲載させて頂きますと、

 

 古墳時代初期(約1800年前)の遺構から、出土した土器は概ね、弥生時代終わり頃~古墳時代初め頃に製作されたと考えられ、徳島(東阿波型土器)、香川(下川津B型土器)、高知(ヒビノキ式土器)、岡山、関西地域(布留式土器)と、他地域で製作された土器が多く出土。

 最も多いのは徳島で、おそらく吉野川下流域や鮎喰川流域で製作された土器が運ばれたと考えられます。

 今の所、これだけ多くの他地域産の土器が出土した遺跡は、県内では見つかっていません。

 特に、「布留式土器」と呼ばれている関西地域で製作された土器となると、出土点数は限られてきます。

 ところが、芝遺跡では、頻繁な交流が行われた結果として、多く土器が出土したと考えられます。

 おそらく港的な役割を果たしていたと考えられ、寄港地、宿場地として盛況していた。

 芝遺跡では弥生時代前期後半頃には吉野川下流域紀伊からの搬入品が認められる。

 弥生時代終末頃になると吉野川下流域時の他に、畿内・讃岐・土佐・吉備からの搬入品が認められるようになる。

 古墳時代前期前半頃になると吉野川下流域時が主体であることに変わりはないが、一定量の畿内系土器の搬入が認められるようになる。

 この在地土器と外来系土器の混在する状況が、本地域の特徴であると意義付け、海人の存在が想定されている。

 この他、吉野川下流域地域で畿内系土器が出土しているのは黒谷川郡頭遺跡(菅原1989)や石井城ノ内遺跡(日下1999)などに限られ、出土点数も数点しかない現状では、阿波南部地域の特異性が窺える。

 

 ◆和奈佐との位置関係はこんな感じ

 

 

 ついでに萩原墳丘墓との位置関係を地図で示しますとこんな感じ。

 

 

 これは往古徳島県の海岸沿いにあった長國の範囲内とも一致します。

 

 萩原墳丘墓は、弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されています。

 1号墳からは中国鏡と確認ができる画文帯神獣鏡も出土しています。

 

 ◆舶載画文帯同向式神獣鏡 面径16.1cm、内区欠、3世紀楽浪・帯方郡を通じ輸入(優品)

 

 

 ◆楽浪出土画文帯同向式神獣鏡

 

 

 萩原墳丘墓が発見され、発掘される前までは、奈良県にあるホケノ山古墳が日本最古の前方後円墳とされておりました。

 

 ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳である。

2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。現在、復元整備され一般に公開されている。

 

 地図にするとこの辺り下矢印

 

 

 

 ●概要

  • 所在地:三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側の丘陵。
  • 被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。
  • 築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。前方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものであるとする見方が出されている。
  • 墳形:纒向型前方後円墳(葺石あり)、円墳に短い前方部を東南方向に付けている。
  • 規模:全長約80メートル。後円部径約55メートル(約60メートル)3段築成、前方部長約25メートル(約20メートル)、後円部高さ約8.5メートル、前方部高さ約3.5メートル。周濠幅約10.5-17メートル(西側のほうが広い)。
  • 発掘調査:1999年9月から奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって実施された。

 ●埋葬施設

  • 墳頂部(後円部)の中央から「石囲い木槨」出土。大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設。その内部にコウヤマキ製の5メートルの刳抜式木棺を納めた大規模な木槨。広義の割竹形木槨。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいる。棺内は水銀朱で覆われていたと思われる。
  • 前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬している。くびれ部に簡単な埋葬施設1基あり。
  • 上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室がある。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に営まれたものと考えられる。石室全長14メートル以上。玄室に組合式家形石棺。

 

 

 ●副葬品・出土遺物

  • 大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
  • 中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
  • 銅鏃 約60本
  • 鉄鏃 約60本
  • 素環頭大刀 1口
  • 鉄製刀剣類 10口
  • 加飾壺
  • 画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
  • 画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
  • 鉄製農工具
  • 二重口縁壺20体(庄内式)
  • 布留0式土器3点
 (wikipedia ホケノ山古墳より)
 

 昨年徳島県海陽町で開催された「古代阿波の海洋民と大和」と題した石野博信氏(ホケノ山古墳発掘に携わった)の講演時の資料を見てみますと、

 

 ◆ホケノ山古墳 金属製品出土状況模式図

 

 

 この中にwikipediaには記されていない鉄製品の「ヤス」があります。

 

 やす【 簎 ・ 矠 】

 長い柄の先に数本に分かれたとがった鉄の金具を付けた漁具。魚介類を刺して捕らえる。銛(もり)に比べて小形で,普通,手に持って刺して捕らえる。(Weblio 辞書 歴史民俗用語)

 

 簎/矠 ヤス

 漁具の一。長い柄の先に数本に分かれた鋭い鉄をつけ、魚介を突いて捕らえるもの。(コトバンク)

 

 要するに、奈良県の山の上の古墳から、海人の遺物が出土したということ。

 皆さんご存知の通り、奈良県には海はありません。

 これは海人の入植を意味示すと捉えた方が自然ではないでしょうか?

 他の出土物から見ても、先進技術を持った祭祀集団であったことがわかります。

 

 また、同資料に、箸中山古墳(箸墓古墳)のことが書かれており、

 

 

 4世紀前半の鞍と鐙が付いた馬の埴輪が出土しています。

 このことからも箸墓古墳を卑彌呼の墓と比定しておられる方はどのような主張があるのでしょうかはてなマーク

 まさかそこから出たものは関係が無いとか、更に60~80年後に埴輪を埋めなおしたとでもいうのでしょうかねはてなマーク

 

 ここに私が入手した昭和55年の寺山古墳発掘調査概報というのがあり、中身を見てみますと、

 

 

 

 後方部北面は墳丘が崩れて裾が明瞭ではない。またくびれ部東辺りも墳丘の崩れが大きく等高線がみだれている。

 後方部は完全な方形を示すのではなく、中央部がややふくらんだ状態になっている。後方部頂部に河原石列が露呈しており、埋葬施設の一部と考えられた。

 

 とあり、1号墳が円墳であるのに対し、3号墳は当時前方後方墳であるとされてきましたが、このような記述と、昨年の講演時の資料にあった菅原康夫氏による寺山墳丘墓復元図を見てみますと、

 

 

 これは明らかに前方後円墳として見られているのではないのでしょうかはてなマーク(この時にはそのような発表は無かったと思われる)

 

 寺山古墳発掘調査概報の内容と照らし合わせると、その可能性が高まっているといったところでしょうか。

 この3世紀初頭の墳丘墓はすでに跡形も無く消滅し、現在は保育園のお芋畑に変化しております(´・ω・`)

 

 上記から時代を追って行きますと、海を駆け巡った長國の海人族を通じて、中国から阿波に、そして更には畿内域(この場合丹波・奈良)へと進出した痕跡を標すものではないのでしょうか。