皆様お久しぶりで御座います。(´・ω・`)ノ

 生存確認ブログです。

 という訳で、本来であれば、『新『魏志倭人伝』における各比定考察』の続きを書く予定だったのですが、年度替わりを挟んでタイミング的に多忙を極めたことにより、随分と間が空いてしまいモチベダウン状態にありました(´・ω・`)ショボーン

 今回は少しだけブログを書く時間が確保できましたので、えっとぶりに一稿完結でチョロっと書いてみたいと思います。

 個人的には、自ブログのおさらい+α回となります。

 

 本稿は阿波・徳島説となる私説となりますのでご注意下さい。

 

 

 まずは「元伊勢」と称される丹後国一宮の籠(この)神社。

 

 「元伊勢籠神社御由緒略記」によりますと、

 

 

 主祭神は彦天火明命で、別名として、彦火火出見命の名が見え、亦の名に、饒速日命、賀茂別雷神(同神)等と記されております。

 

 この彦天火明命の后神が、スサノオの姉のアマテラスとの誓約(うけい)により化生したことから、スサノオの娘とされる市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)で、高天原から夫婦で船でやって来た情景を描いたお守りも御座いますネ。

 

 『記紀』によりますと、彦火火出見尊(火遠理命/山幸彦)の后神は、海神の娘である豊玉毘賣であり、その孫にあたるのが初代神武天皇になりますから、れっきとした皇祖系譜ということになります。

 

 籠神社HPに載る天皇家との関係図に記しますと、赤囲いの部分となり、

 

 

 一方で、上図右側になる海部家の系譜にも天火明命の名が見え、その別名が彦火火出見命とお后の市杵嶋姫命のセットで見えますから、

 

 

 これら赤囲い青囲いのペアが同じである可能性を示しております。

  ただし上の図にもあるように、天火明命は大己貴命の娘である天道日女命もお后としたとされていますので、考え方のポイントとしては、

 

 ①スサノオの娘が市杵嶋姫命で、そのスサノオの養子である大己貴命の娘が天道日女命であることから、実は市杵嶋姫命の方が一世代上の女性という解釈になる。

 ②天道日女命と市杵嶋姫命は実は同神であり、別名にて2世代に渡って結婚してる。

 

 …等といった考え方もできますね。(ここではあまり深く考え過ぎない)

 

 さてお次にですが、徳島県海部郡牟岐町に鎮座する牟岐津神社。

 

 「牟岐町神社明細帳」によりますと、

 

 ご祭神は小碓命。つまり12代景行天皇の息子である倭建命(日本武尊)のこと。

 この牟岐津神に関連して、その沖に浮かぶ大島には、

 

 阿波志に、「姥祠あり大島に在り土人曰く牟岐津神の妃也…とあり、

 

 で、再び「牟岐町神社明細帳」を見ますと、

 

 大嶋神社の御祭神は、豊玉日女命となっております。

 

 この理屈でいうと、神代の物語で描かれる海神の娘の豊玉毘賣と、時を隔て人皇12代景行天皇の子の小碓命(倭建命)は夫婦であると。

 もちろんそのような伝承は『記紀』には書かれておりませんから、一見すると何の繋がりもないようにも感じますが、宮崎県の高屋神社のように、

 

 景行天皇の伝承が多く残る九州の神社では、これ等の時代の人物と一緒に豊玉姫命との組み合わせでお祀りされていることが多く見られます。

 

 この時代の開きの解釈については話が長~くなりますのでこの稿では説明致しませんが、豊玉日女命の夫はwikipediaにもあるように、『記紀』には、火折尊/火遠理命(ほのおりのみこと)、彦火火出見尊と記されており、これが当地徳島の伝承と照合させると、小碓命(日本武尊)でもあるということになります。

 そこでそれぞれの先代となる親の代に目を向けますと、

 

 彦火火出見尊の親にあたるのはアマテラスの孫であるニニギ。

 天孫降臨の説話にて国譲りの後、高天原から天より地上へと下って来たという説話となっており、旧事記においても饒速日命=天火明命もまた下界へ下って来た説話があります。

 この高天原から葦原中国へ降臨されたことを示すために小碓命の父である景行天皇の諡号には、

 「記」:大帯日子淤斯呂和氣天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)

 「紀」:大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)

 

 と、「たらし」という文字が使われており、同時に同天皇から「わけ」の文字が入ります。

 この「帯/足:たらし」は、阿波弁でいうところの「ふんどし」の古語であり、海に入るときに長いふんどしを垂らして潜ると鮫から身を守るといわれており、潜水をする海人族のの古くからの風習です。(鮫は自分より大きくて長いものは襲わない)

 これを天孫降臨説話に因み、天から降る、天から垂れて来たということから、「天からふんどし降って来た。長い長いふんどしが降って来た。」の阿波の民話が今も伝わっています。

 古事記序文には、「於名帶字謂多羅斯」「帯を”たらし”と読む」と書かれてあるように、ふんどしの阿波弁であったからわざわざ注釈したと考えられます。

 

 また、旧事記「国造本紀」に、「伊勢国造。橿原の帝[神武天皇]の御世に、天降る 天牟久怒命(天村雲命)の孫天日鷲命を勅し賜いて国造に定む、即ち伊賀伊勢国造 の祖。」と記されてあり、

 以前に『天村雲命から考察』にて、天村雲命はスサノオの子(五十猛命)と同神であるとの考察も相まって、『記紀』の内容は時代を繰り返して記しているということを証明する形となります。

 

 従って、本稿での解釈(照合させる)では、

 

 ニニギ(彦火火出見尊の父)景行天皇(小碓命の父)

 五十猛命=天村雲命(倭建命)の父はスサノオ

 

 …として考えますと、それぞれの説話がガッチリ合いますね。

 

 また当地の神社の御由緒によくみられる「景行天皇の孫・曾孫」等、何故か景行天皇を基準に記されてあるのは、ニニギ(皇孫)として置き換えればイメージができるのではないでしょうか。(´・ω・`)「ワケ」よワケ

 

 これらを推測する手がかりとして降臨後のニニギの説話の中で、妻となった木花之久夜毘命との一夜で身篭った際に「国津神の子ではないかと疑う」ことから、実は自身の子ではないというエピソード話として垣間見ることができます。

 

 そして、生まれた子の名は、火が赤く照り輝くことを意味する(ホデリ)、火が盛んに燃え立つときに生まれた(ホスセリ)そして、「熱を避りて居たるときに生り出ずる児」であるという意味から火遠理命(ホオリ)と名付けられたというエピソードを記しますが、その名も音の「ほおり」から、実は、祝(ほふり)であると解すれば、これまでの考察から、祝/斎主神である経津主神と同神と読み解くもできるでしょう。

 山から下ってやって来た山幸彦こと火遠理命は徳島説風にいえば「忌部(いむべ)」ということになりますね。

 そしてこれが実は『記紀』では八重事代主命、岐神、大物主そして猿田彦大神が同神であり「国津神の海部(あまべ)」ということがわかります。

 

 これらの解釈も割愛させて頂くためひじょうにわかりにくい説明になっていますが興味のある方は過去ブログ等でご確認下さいませ<(_ _)>

 

 ➨『大幡主命から考察 ①』 ➨『本家の元祖考察 オマケ

 

 よく言われている天津神と国津神の区別や忌部と海部の違いに拘っておられる方がおられますが、少なくともこれらの説話の内容解釈を察すれば、彦火火出見尊はニニギの実子ではなく、あくまで国津神の大国主神の子、つまりニニギからすれば養子の八重事代主命が正体であり、従って神武天皇は国津神の子孫であるということになりますなぁ。(まぁあくまで私説解釈ですからネ)

 

 さて、彦火火出見尊の話にスポットを当てますと、『古代の丹波国について考察』にも少し書きましたが、抜粋しますと『古事記』海幸彦と山幸彦の説話の中に、

 

 「傍之井上、有湯津香木。故坐其木上者、其海神之女、見相議者也。」訓香木云加都良、木。」

 「その傍の井戸の上の、湯津香木(神聖な桂の木)があります。その木の上に座っていれば、海神の娘が取り計らってくれますよ。」香木は加都良(かつら)と訓む、木。」

 

 「有人、我井上香木之上、甚麗壯夫也、」

 「人が来ています。私の井戸上の香木の上に座っています。とても美しい男性です。」

 

 …と記され、『古事記』の「加都良(かつら)」は木で、火遠理命がその木の上に登って「座」すれば、そこから海神の娘が取り計らってくれるとあります。

 私説に置きましては、猿田彦大神をお祀りする徳島県鳴門市の大麻比古神社が御鎮座されている場所が葛城

 

 大麻山(おおあさやま)は、徳島県鳴門市にある山である。標高538m。別名「弥山」、「十八山」。「大麻さん」とも呼ばれる。讃岐山脈に属している。(wikipedia より抜粋)

 

 ここから往古の海抜域を想像しつつ、

 

 この葛城にある大麻山(弥山)に登り座して眺望しますと、

 

 

 のちに彦火火出見尊の妻となった、海神の娘である豊玉姫命をお祀りする式内社の和多都美豊玉毘賣神社が見えますネ。

 

 さて、広島県にも、

 

 弥山(みせん)は広島県廿日市市宮島町の宮島(厳島)の中央部にある標高535 mの山。古くからの信仰の対象になっている。

 

 ●概要

 平安時代の大同元年(806年)に空海(弘法大師)が弥山を開山し、真言密教の修験道場となったと伝えられる。

 山頂付近には御山神社(みやまじんじゃ)、山頂付近から山麓にかけては大聖院の数々の堂宇、裾野には厳島神社を配し、信仰の山として古くから参拝者が絶えない。

山名については、山の形が須弥山に似ていることからという説や、元は「御山」(おやま、みやま)と呼んでいたのが「弥山」となったという説などがある。なお、山頂にある三角点の名称は「御山」である。

 山頂一帯に見られる巨石群は磐座とみられる。磐座を祭祀対象とする山岳信仰の開始は一般に古墳時代以降とされる。(wikipedia 弥山より抜粋)

 

 こちらにも阿波と同名の弥山があり、その弥山の山頂から海を眺望しますと、

 

 そこには浮かぶ神社のお姿が。 

 

 広島湾に浮かぶ厳島(宮島)の北東部、弥山(標高535m)北麓に鎮座されるのが、「安芸(あき)の宮島」として名高い日本三景にも数えられ、ユネスコの世界文化遺産にも登録された安芸国一宮の厳島神社

 

 天火明命の后神である市杵嶋姫命をお祀りしている最も有名な神社であり、全国に約500社ある厳島神社の総本社ですな。

 

 

 往古の海神の宮(豊玉宮)はこのようなお姿だったのではないでしょうか?にやり

 

 『記紀』にある日本武尊の妻、弟橘比賣が海に帰るのも(長国側の神事はこれが多い)、徳島県の昔話の姫が池(いげ=えげ・恵解)に帰るのも、全て徳島県の海側、特に眉山周辺に痕跡を残していることになりますネ。

 

 私説としましては、天火明命(彦火火出見尊・八重事代主命・猿田彦大神・日本武尊)の妻が実はスサノオの誓約の娘である市杵嶋姫命(豊玉毘賣・阿波咩命・天宇受賣・弟橘比売)であるということについて、更に深掘って調査を進めていく方が正解の近道なのかも知れません。…たぶん

 

 この理屈で行けば、『魏志倭人伝』に書かれている卑弥呼をアマテラスと仮定した場合、宗女(一族・血縁・姓の女性)臺与は、アマテラスの弟スサノオの娘である豊受大神(宇迦之御魂神)と考えた方が自然でしょう。

 留意点として、あくまでスサノオの娘の市杵嶋姫命と結ばれたのが彦火火出見尊であるということ。(これがベース)

 父イザナギより海を治めよと命ぜられたスサノオは、豊玉毘賣の父の大綿津見神として上図の周辺に宮を構えて居たと考えれますなぁ。

 

 さて今回の考察として、市杵嶋姫命の正体は、

 

 市杵嶋姫命=豊玉毘賣

 

 とさせて頂きました。

 まぁ上にもそれぞれ同神と考えられる人物をある程度載せておりますので、興味のある方はそっちの線で考えてみても面白いかも!?

 

 そして、もう一つ私が申したいのは、

 

 厳島神社は、阿波国の和多都美豊玉毘賣神社のコピーである。

 

 …と私は考えております。

 厳島神社内でお祀りされている其々の御祭神なんかも非常に興味深いですなぁ。

 

 今回は市杵嶋姫命について掘り下げた考察は一切していませんが、同神考察についいて進展させてみました。

 もっと詳しくきれいに纏めて書きたかったのですが、あまり纏まらず結局は久々の長文カキコでこの辺りでダウンしました。

 毎回浅い考察でスマソ…ということで今回はこの辺で (´・ω・`)ノシ