ヒマジンノ国 -34ページ目

 ヒマジンノ国

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給付金が届きました。こういうのは正直にありがたいと思います。ありがとうございます。しかし反面、政府は「Go to トラベル」なるものを本気でやるつもりなんでしょうか。こんな企画を制作した、政治家か、官僚かは分かりませんが、政治に関わってはダメなレベルですよね。この時期に第2派が来る可能性なんて、素人でも吟味します。

 

今の政治家は、ほとんど誰もが何ものかの傀儡です。自分で物を考えれない状況にいる、ということでしょう(8/24後記、偉そうなことを書きましたが、どうも7月後半にコロナはピークアウトしたという感じでしょうか。正直、Go toが始まってどれぐらい全国にコロナが広まるのかと思いましたが、一部を除いてそれほどでもなかったということでしょうか。一体どういうメカニズムで、コロナが広まっているか理解に苦しみます。逆にいえば、政府の専門家たちはこうしたことを良く分かっていたということなんでしょうか?間違った情報については謝罪いたします。m(__)m)。

 

 

コロナのせいでもあるんでしょうが、ここ1年ぐらい映画館には行ってないです。今日は部屋でプチ映画館気分を味わおうと思って、ハンス・ジマー(1957-)のレコードを聴きます。先日映画音楽の巨匠、エンリオ・モリコーネ(1928-2020)が亡くなりましたが、ハンス・ジマーは現代の映画音楽の巨匠でしょうか。

 

 

自分の所持しているのものは、ハンス・ジマーのヨーロッパ・ライヴを収めたLPです。「ライヴ・イン・プラハ」と題された4枚組。2016年の録音です。映像もでているようですが、自分は観ていません。

 

誰もが彼の手掛けた映画は、どれか1つぐらいは観たことがあると思います。パイレーツ・オブ・カリビアン、ライオン・キング、ダ・ヴィンチ・コード、インターテスラ―、バットマン・ダークナイトなど。

 

 

こういった有名な音楽が繋ぎ合わされて、コンサート用に構成されています。音楽によるアトラクションのようなものです。映画を観ている人には懐かしく聴き入ることができます。

 

しかし今風の音楽ですね。古い音楽を聴くことが多い自分にとってみると、こういうのは新鮮です。洗練された透明感など、良い部分はすごく素敵ですね。ちょっとロックぽい、金属的な音楽はそれほど魅力は感じませんけど、映画を観ているような気になってきます。ただ、後半はちょっとだらけますかね。

 

お休みに気楽に聴くにはちょうど良くて楽しいです(特に前半)。今の時代に生きている、っていう気にさせてくれるかな。

 

 

モーリン・オハラ(1920-2015)の「ラヴ・レターズ  フロム  モーリン・オハラ」。いつ頃の録音かは分からないです。ジョン・フォード監督の秘蔵っ子、往年のハリウッド女優が歌うアルバム。というか、彼女が歌を歌えるとは知りませんでした。

 

ジャズのアルバムですが、モーリン・オハラの声はジャケット写真並みにセクシーで、色気がありました。落ち着きますね。

 

国内盤レコード。

 

 

ビング・クロスビー録音集。アメリカ盤、8枚組。

 

往年の名俳優、ビング・クロスビー(1903-1977)の録音集です。こちらは歌が得意な俳優で、甘い歌声はまるで日本の加山雄三を思いおこさせます。いや、加山雄三がクロスビーに寄せているというべきでしょうか。

 

ちょっと歌が沢山ありすぎて覚えきれません(96曲!)。どれも聴いていると、昔の人らしく切迫感というものが微塵もありません。のんびりしていますが、そこがいいところです。ムードがでて素敵です。

 

70年代のレコードで、少し音に不満があります。オリジナルはどんな音なんでしょうか。

最近またコロナが広がり始めています。一々反応していてもしょうがないですが、政治家の保身ばかりの発言にはちょいちょい頭に来ます。今後どうする気なんでしょうか?せめてもう少し正確な情報ぐらいは流さないと、いかんのとちゃいますか。

 

 

ルーマニア生まれの指揮者、オットー・アッカーマン(1909-1960)がモノラル期に録音したオペレッタ5作品をレコードで揃えました。全て1950年代の録音で、キャストはニコライ・ゲッダとエリザベート・シュワルツコップ、エーリッヒ・クンツなどほぼ固定メンバーです。

 

指揮者のアッカーマンは当時オペレッタのスペシャリストと考えられていたようで、オペレッタの名作「こうもり」は後にステレオ録音しているようです。落ち着いた雰囲気、優雅な音楽、気取らない歌唱を、コロンビアのレコードで楽しめるのは素晴らしいことだと思います。

 

↑、ニコライ・ゲッダ、20世紀を代表する歌手の1人。

 

5作品はそれぞれ、J・シュトラウスの「ジプシー男爵」、「ウィーン気質」、「ヴェネツィアの一夜」、F・レハールの「メリー・ウィドウ」、「微笑みの国」です。以前「ジプシー男爵」、「メリー・ウィドウ」、「微笑みの国」については、少し書きました。

 

どれも廉価なレコードですが、見つけるのが大変です。集められるとは思ってなかったですが、運が良かったようです。各々オリジナル・ジャケットのデザインが素晴らしく、好きです。

 

↑、メリー・ウィドウ(1953)。

↑、ジプシー男爵(1954)。

↑、微笑みの国(1953)。

 

「ウィーン気質」はJ・シュトラウスの3大オペレッタの1つです。シュトラウスの絶筆で、本人は作品を完成させずに世を去りました。「こうもり」を下書きとして、彼の過去に書かれたワルツをふんだんに用いた曲になっています。

 

↑、ウィーン気質(1954)。

 

33CXS1186、1187

 

 

筋書きは非常に複雑で、台本だけ読んでいても理解するのが困難です。素性と身分を隠した男女が入り乱れ、一体誰と誰が会話をしているのか分からなくなります。映像があるのなら、そちらを観たほうが良いのかもしれません。

 

音楽は美しく、沢山のワルツが楽しめます。過去作からの引用が多くあるという話ですが、ワルツに詳しくない自分には、どれがどの曲かまで見分けは付きませんでした(彼の生涯作品数は400とか500とかいわれるので、見分けられる人は日本ではまずいないでしょう)。

 

しかしそんなことを知らなくとも、おっとりした優雅な雰囲気のワルツが次々に流れてくるので楽しいと思います。最近の機能的なオーケストラ演奏とは違う、愛情ある演奏だと思いますね。

 

↑、ヴェネツィアの一夜(1954)。

 

33CX1224、1225。

 

 

「ヴェネツィアの一夜」は脚本を書いた、F・ツェルとリヒャルト・ジュネーなる人物が盗作のプロだったせいで、物語にオリジナリティがなく、シュトラウスの作品でも一段落ちるとされています。

 

確かに下らない筋書きはいつものオペレッタですが、「こうもり」、「ジプシー男爵」などと比べて深みにかけるきらいがあります(名作といわれるオペレッタでも内容はオペラよりは深みがありません。その分気楽に聴けるということです)。そう考えると「ジプシー男爵」などはシュトラウスにしては土着的な雰囲気と、奇想天外な筋立てで特徴的に思えますね。

 

↑、ジプシー男爵のザッフィを演じるシュワルツコップ。

 

「こうもり」と「ウィーン気質」は内容も音楽も近く、聴いていると少し既視感があります。しかし、「ヴェネツィアの一夜」の叙情的な雰囲気もまた、「こうもり」などと違い、シュトラウスの異なる音楽を聴く面白さがあります。緩やかに音楽は流れ、カラメロの歌うアリアなんかはロマンティックで結構耳に残っています。後半は合唱なども多く、楽しいです。

 

「ヴェネツィアの一夜」は、筋書きを補う、シュトラウスの音楽が魅力で、素敵です。

 

「アニーよ銃をとれ」、1950年のアメリカ映画です。笑わせてくれる作品だと思いました。

 

山だし娘が、銃の腕を買われて、ショウビジネスのスターになっていく物語。元々ミュージカルだということで、歌あり、踊りありの楽しい作品。23回アカデミー賞、ミュージカル作曲賞を受賞。

 

当初、主人公のアニー役にはジュディ・ガーランドが予定されていましたが、精神異常をきたし降板、代役としてベティ・ハットン(1921-2007)が選ばれました。

 

この映画の魅力はこのベティ・ハットンにかかっているといって過言でなく、体当たりの演技と歌は、何をするか分からないような過激な動きなどを伴って、思わず笑顔にさせられます。決して上品な感じの作品ではなかったのですが、下品さも吹っ飛ばしてしまうほどの、溌溂とした内容がありました。底抜けの楽しさがあります。

 

ベティ・ハットンはこの作品がはまり役だったせいで、一躍スターに。しかしその後、ハリウッドを去り行方不明に。後に「ハリウッドは人生を無茶苦茶にした」と語っているようで、何があったかは分かりませんが、母親が焼死したり、自分はアルコールにおぼれたりと散々だったようです。1974年にロードアイランドの教会で家政婦として働いているところを見つかり、世の中に衝撃を与えました。

 

 

しかし、この映画は、そんな悲惨な彼女の人生を微塵も思わせないほどの、全編テンションの高い映画です。このような陰りの多い世の中で、彼女の信念に満ちた強い演技は私たちを幸福にしてくれます。

 

 

映画とは関係ないです。

 

当初顔の見えない歌手として話題だったシーア。実際は有名なポップスターたちに楽曲を提供してきた、20年ものキャリアがあるシンガーでした。2014年のシャンデリアがブレークのきっかけですかね。アルバム、「This is acting」のバード・セット・フリーが好きで良く聴きます。

 

でも内側では悲鳴を上げている

みんな隠そうとする

ああ、私たちは必至でしがみつく

でも否定はできない

食い物にされる、ああ、食い物にされる 

ええ、内側では悲鳴を上げている

みんな隠そうとする

ああ、私たちは必至でしがみつく

私は死にたくない

私は死にたくない

 

と歌い、アライヴでは、

 

全ての悪が向かう場所への片道切符を持っていた

そこでは風は変わらない

地では何も育たない

望みは無し、偽りだけ

枕に伏して泣くように教えられる

でも生き延びたわ

 

と歌います。

 

聴いていると、とても人生を感じます。確かに私たちは「悪が向かう場所への片道切符」を持っていると思います。どんなにあがいても人生は続き、嘆いても自分以外に自分を救う人はいません。

 

どんな悲劇にあっても、人はそれを克服していかなければいけないということ、それに尽きるということ、そう感じざるを得ない、彼女の歌声だと思います。

 

ちょっとずつアナログ・レコードを増やしてきました。ほとんどがクラシックのレコードです。奥が深い趣味というのは世の中沢山あると思いますが、レコードでクラシック音楽を集めるのは、その奥が深い趣味の1つなのだと思います。

 

CDを集めていた時、大体聴きたいのもはのは聴いた、とそう考えてました。ところがどっこい、物事はそう単純ではなく、レコードを聴くようになって、よくCDを紹介する本で知れる音源は、全く狭い世界のことだと思うようになりました。

 

レコードを探しに行くと、聞いたことも無いような演奏家の名前が、沢山並んでいます。アナログ・レコードとCDとでは作られた時代が異なるため、アーティストの種類もずれるのです。当然時代を超えて有名な演奏家もいます。彼らは素晴らしいですが、他方でそこには「何者かの意見」というものが反映されていて、彼らをもちあげる者によって、勝手に神格化されていることもあります(当然その数が多ければ多いほど、メディアには紹介されやすいでしょう)。

 

しかし、ほとんど名前を知らないような演奏家の演奏を聴いても、感動することも実際には多々あり、本当に不思議です。

 

有名な演奏家にしても、必ずしも「名盤」とCDではいわれてこなかったものを、レコードで聴いても、これも良いものがあります。

 

そう考えると「情報」とは恐ろしいもので、誰かが「こうしたい」あるいは「こう聴かせたい」と思っている演奏家のものがカタログには並び、そうでないものはどんどん無視されていっているわけです。それは、仕方がないといえばその通りですが・・・。

 

そしてCDで聴いてきたときには知らなかった演奏家の音源のレコードが、高値で取引されているのを知るとき、その価値を確かめたいと思うのは、人情というものでしょう。

 

最近は余裕があれば初期ステレオのレコードを買う時もあります。クラシックのレコードで1番人気があって、値段も高くなる部類です。確かに聴くと、音の鮮度が素晴らしくて、良い気持ちにさせてくれます。

 

それで気づいたのが、この初期のステレオのレコードが割とノイズが多いという事実です。理由は良く分からないですが、モノラル録音よりノイズが多いことが目立つような気がしてます。そこそこお金も出したし、いい音で聴きたいし、ということでこの頃はレコードを洗ってばかりいます。気になるものは3、4回は洗っていますかね。もうちょい綺麗にならないかな、ということです。音を聴くにも手間がかかります。

 

 

ASD264。

 

 

その中の1枚がメニューインの演奏する、ブラームスのヴァイオリン協奏曲(1957)です。伴奏はルドルフ・ケンペとベルリン・フィルで、豪華な組み合わせですね。メニューインもケンペも非常に真摯な語り口で、大げさなところがありません。2人ともアクが強くなく、特有の繊細さがあるというか、響きが比較的透明で新鮮です。

 

ケンペよりもメニューインを聴く録音で、しみじみとして、透明感のあるメニューインの地味深い音色が楽しめます。それほど有名な演奏ではないんでしょうが、中々の好演です。メニューインのステレオ初期盤は数が多いらしく、割と出回っているようです。

 

自分が手に入れたものはノイズが多くて困りました。本当にずいぶん洗いました。そこそこ良くなってきたんですがもう少し良くなりそうです。

 

初期ステレオで有名なのはデッカのSXLシリーズ、HMVのASDシリーズ、そしてコロンビアのSAXシリーズですどれもレコードの本場イギリスを思わせる素晴らしい音がします。

 

デッカは鮮明で鮮烈な音がし、野性味も感じられます。それに比べるとHMVは鮮明で緻密、気品のある音です。この両者はとにかく音が前面に出てきて、聴き手に迫ってきます。

 

これに比べると、初期ステレオでも1番人気のあるコロンビアのレコードは緻密で品があり、音が若干奥ゆかしくなっています。そのせいで聴き手に「迫る」というよりは、聴き手の気持ちを高めてくれるような、独特の響きがあります。確かに聴いている時の幸福感は、これが1番でしょうかね。

 

 

カルロ・マリア・ジュリーニによるファリャの「三角帽子」とラヴェル、「ダフニとクロエ、第2組曲」(1957)。SAX2341。

 

 

これはノイズが少なくて助かりました。ジュリーニのファリャやラヴェルは初めて聴きます。三角帽子もダフニスもオーケストラの色彩感が発揮される曲で、素晴らしい充実感を味わえる一枚です。

 

聴いていてこれがあのジュリーニかなと思えるほどの、潤いと色彩感を発揮しています。特にラヴェル。各声部の緻密な音色が繊細に浮かび上がり、みずみずしい音色の洪水となります。

 

聖なる水を全身で浴びるような喜びがあります。不思議ですこの曲はデュトワ当たりのCDで聴いたことがあるんですがこちらのほうが美しいです。多分これはレコードの音色のせいなんでしょうが、ちょっと比類がないですね。

 

最近は古い映画を観ることが多いんですが、その後に古いレコードをかけると同じ時代の空気感を漂わせていることが分かります本当に古い時代に戻ったかのような。これがCDになると消えてしまうんですね逆に古さが目立つ感じになってしまいます。

 

当時の雰囲気そのままに、みずみずしい音色を味わうのはレコードでしかできないと思います。

 

時間がなくて、ブログの準備をする余裕がありませんでした。余裕ができれば数日内に何か書こうかと考えています。

最近は日本の「お笑いタレント」の風俗嬢に対する発言や、不倫騒動などもあってこういう話題を書くことにためらいもありますが、個人的な読書の記録として書いておきます。

 

 

ナボコフの「ロリータ」、若島正訳。

 

ウラジミール・ナボコフ(1899-1977)の「ロリータ」を、幾度となく挫折しそうになりながらも、やっと読み終わりました。主人公、ハンバート・ハンバートが「12歳の義理の娘に手を出す」話・・・で、要は性的倒錯者の物語になります。

 

色々いわれているようですが、やはり「ロリコン」の体の良い、弁護になっていることは否定できないでしょう。

 

内容はともかくとしても、「アメリカ文学の古典」などといってしまえば、社会的認知はないとはいい難く、それは明らかな弁護になるでしょう。性的な嗜好は個人ごとに異なり、「少女趣味」を理解できない自分にとって、この著作の6割から7割は読んでいて苦痛でしかなく、何度となく読むのをやめようかと思いながらも、「有名だから」、という理由のみで何とか最後までたどり着きました。

 

「デクスター」という、人殺しのサイコパスを主人公にした、アメリカのテレビ・ドラマがありますが、この「ロリータ」も少女を愛し、そして、自分から少女を奪った相手を殺すまでを描いており、読みながら、ずっと「主人公」という犯罪者のことを追う羽目になります。そこに性的嗜好が加わると、読む人を選ぶのは当然といえば当然なわけで、自分は相当に「ぞっと」しながら読みました。

 

人生で初めて、ナボコフは読んでみて、天才だとは思います。各所に込められた「こだわり」、あるいは「美意識」。小説の細部が、他の部分の細部と重なり合ったり、あるいは関係性を持たせることで、何度も読める(繰り返して読めば、新しい発見があるようになっているようです)。

 

ドリーとハンバートが2人でアメリカを車で旅する様子なども、当時の空気感などが伝わってきて面白いです。そういう意味ではナボコフの作品は、この「ロリータ」以外なら、また読んでみたいと思います。

 

しかし、中々きつかったので、もう「ロリータ」を読み返したいとは思えませんね。この小説を心から絶賛する人ととは自分は意見を同じくすることはできません。それは明らかです。実際に自分以外でも、読んでみて、途中でやめる読者も多いといいます。

 

この「ロリータ」ははじめ出版してくれる会社がなく、やむなくパリの「ポルノ小説」を出版している「トラヴェラーズ・コンパニオン」社から発売されました。その後にベストセラーになり、ナボコフが作家として経済的に独立できるもとになった作品のようです。しかし、最近のアメリカのエプスタインの事件などのことも考えると、このナボコフの作品が、(ロシア人が書いたにもかかわらず)アメリカ文学の古典などといわれるのは、何の皮肉なのでしょうか

 

 

「ポルノ・ムービーの映像美学」、長澤均著。

 

ナボコフの小説のことを腐しましたがでは今、この文章を書いている自分が「まとも」かといえばそうでもないわけです。

 

10台の終わりごろ、周りの友人たちが「おニャン子クラブみたいなアイドルを好んでいるときに、自分はアメリカのポルノ女優、サヴァンナが自殺(ヘロイン中毒だったといわれている)したと聞いて、ものすごいショックを受けたものでした。その年齢でアメリカのポルノに興味を持つというのは大概、頭が狂っています

 

 

<↑、サヴァンナ(1970-1994)。トレイシー・ローズとジェナ・ジェイムソンの間ぐらいに位置するスターといって良いんでしょうか。久しぶりに本を読んでいて思い出しました。飲酒運転で事故を起こしたのち、ピストル自殺をしました。ものすごくショックだったことを思い出します。>

 

日本でこれぐらいアメリカのポルノ史について詳しく書いてある本は珍しく、分かる部分もあるので、読んでみました。著者は欧米のこと、映画のことに知識がある方で、読みごたえがありました

 

ただまあ今の自分としてはこういったポルノを薦める、みたいな態度には、最近ものすごく抵抗を感じているので、各作品の肯定的な批評や、この世界の魅力を語っている部分を読んでいるとちょっと辛いものがあります。

 

この業界には、自殺が多く、交通事故(飲酒運転など)で亡くなる人も多いですね。また、脳や心臓をやられたりする場合もあり、薬物などの影響もあるように思われます。暗い世界だと思えます。

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<おまけの意見>

 

「ポルノ」なんてのは「性の解放」ということなんでしょうかね。人によってはそれを「進歩的」とかいってきたのでしょうか。しかし、おそらくその90パーセント以上が「嘘の発言」、だとは思いますけど。体の良いいいわけです。

 

世の中、なんでも「自由」だというと実際それは違うわけで、「性の解放」は常識的な人間にはコントールできない、「獣性の解放」を呼び起こすことになるのが普通かと思います。やって良いことと、いけないことがある、という古来からの考えは至極まっとうな思考のように思えます。

 

ではそのために「規則」を増やせばそれでいいのか、といわれればそうでもないわけで、それはそれで歪んだ考えになりがちです。

 

物事の本質を「一言」でいえるケースなどは、まずほとんどなく、せいぜい「比喩」か「例え」がその本質を答えてくれることがあるぐらいです。

 

倫理観というのは言葉で説明するのが難しくてその人の実際の人生と経験から導き出されるしかなく、自分にいわせるのならば、「性をエンターテインメントにする」とそれは人生を狂わせるだけでなく、人間性の崩壊をも招くと思います。

 

一番初めにも書きましたが、最近のお笑いタレントの発言や、行いなども、「性」についてまじめに考えることをしてこなかったからでしょうね。本当にこうしたことは恐ろしいことだと思います

 

そういう意味では、自分にとってみれば、幾分反面教師的に、この手の本を読んだといえるのかな、と思います。 

 

しかしそれは、同時に、人間の本性を知った時にこそ、体験しうる実感でもあるのでしょうけども。

ジュゼッペ・ヴェルディによって、1873年に亡くなった、詩人のアレッサンドロ・マンツォー二のために書かた「鎮魂ミサ」です。

 

 

トゥリオ・セラフィンによるヴェルディ「レクイエム」(1959)。ASD353、ASD354。

 

 

素晴らしい作品です。

 

しかし、オペラティックな燃え上がるような歌唱と、劇的なまでの咆哮を見せる管弦楽によって、圧倒的な「効果」を発揮する作品であるため、初演時は「レクイエム」としては(魂を鎮める、という意味において)、その迫力から必ずしも称賛ばかりではなかったようです。やりすぎ、ということでしょう。

 

特に怒りの日の表現は「力づく」で聴き手を感動させる力があり、ミケランジェロの壁画さえ想起させるような、「力による感動」は、楽曲の表現する絶望と哀願とのはざまで、人間の心を激しく揺さぶります。

 

しかし、時間がたった今日では、イタリア芸術の偉大な成果の1つと見られている、といっても過言ではありません。

 

これはトゥリオ・セラフィンによる2回目の録音(1959、ステレオ)です。旧盤(1939)はジーリなどが歌っていて比較的話題になるようですが(未聴です)、この盤はあまり聞きませんね。名演だと思うんですけど。

 

 

(↑、トゥリオ・セラフィン。イタリア・オペラに対する確かな手腕は特筆されるべきでしょう。職人的な手堅さ。穏健な楽曲に対する理解。誰もが受け入れられるスタイルではないでしょうか。)

 

トゥリオ・セラフィン(1878-1968)はトスカニーニ以後のスカラ座の音楽監督で、安定した手腕を見せた名指揮者です。マリア・カラスを育てたことでも有名。叙情性のある指揮は確かな歌心に支えられて、安心して音楽に身を任せられます。個人的にはムーティやアバドなどよりもずっと好きな指揮者です。

 

 

ヴェルディ「レクイエム」の、歴史的な録音としては1951年のトスカニーニのものが挙げられます。これはその有名な録音のステレオ・バージョンです(CD)。

 

SP時代は、原盤の脆さのためにモノラル録音でもマイクを2本立てていた場合があったらしく、今日それを利用してステレオ合成が行われています。トスカニーニのレクイエムも同じように合成されたステレオです。

 

「華やか」、とさえいえる灼熱の情熱、鋭い、暴力的ともいえるような迫力はトスカニーニの独壇場で、「オテロ」同様、この手の作品の再現において彼の右に出るものは少ないでしょう。

 

 

はたして、スカラ座の監督ともなればこの「レクイエム」を録音することは義務のようなものです。ヴィクトル・デ・サバタ(1892-1967)もトスカニーニの後任の1人でしたが、1954年にスタジオ録音しています。

 

 

しかし今自分の手元にあるのは、ヴェルディ没後50年を記念して演奏された録音(多分ライヴ)です(1951、CD)。シュワルツコップでなくテバルディが歌っています。

 

サバタは地味で、泥臭いともいえるような指揮ぶりですが、内に秘めていく集中力と、手堅い進行で聴かせます。独特の魅力があります

 

 

(↑、夭折が悔やまれる、ヴィクトル・デ・サバタ。トスカニーニ同様、カラヤンが尊敬した数少ない指揮者です。聴く人が聴けば、理由は分かると思います。内へと向かう集中力があります。マリア・カラスとのトスカは歴史的名演。)

 

さらに後年、スカラ座の監督として、有名な録音はカルロ・マリア・ジュリーニ(1914-2005)のステレオ(1962-1964)ですが、個人的にはそれほど好きではありません。良く歌う演奏ですが、テンポを落としすぎてもたれます。

 

トゥリオ・セラフィンの指揮も良く歌う表現で、トスカニーニやサバタよりはジュリーニに近いとも思えますが、なぜCDでほとんど復刻もされてないのか、理解に苦しみます。ジュリーニのようにもたれることも無く、ずっと自然に聴こえます。怒りの日の迫力も充分出ていますし歌の歌わせ方の味わいは素晴らしく、滑らかな旋律の表現はジュリーニのように重苦しくありません。

 

メロディアスな部分にくると味の濃い、素晴らしい歌が聴ける名演だと思います。

世の中の動きを追うことに少し疲れました。今日は音楽のことを書きます。

 

 

ユーディ・メニューイン(1916-1999)によるベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルト(1960)。ASD377。コンスタンティン・シルヴェストリ、ウィーン・フィルとの共演。

 

 

20世紀に最も活躍したヴァイオリニストであり、レコードが意識されるようになって、国際的な活躍を見せた、最も初期のヴァイオリニストといっても過言ではないのがユーディ・メニューインでしょう。若いころから絶賛され、高貴な人間でありました。

 

その彼が得意にしたのがベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトでした。彼はこの曲を何度も録音しているようで、自分はちょっと全部は追い切れません。

 

おそらく、1番有名なのが1953年のフルトヴェングラーとの共演版(フィルハーモニア)でしょう。

 

 

1953年版。アメリカ盤。LHMV1061。

 

 

メニューインというのは大げさな表現をしないヴァイオリ二ストで、テンポもそれほど崩しません。

 

それに比べるときわどい表現もできるフルトヴェングラーですが、ここでは大人しくほとんどテンポも動かさず、真摯な表現でメニューインにぴったり合わせています。深い呼吸と、意味深さはそのままに、いつもとは違うフルトヴェングラーを聴くようです。メニューイン中心の録音だと思いますが、フルトヴェングラーの個性にも目が行く演奏だと思います。

 

1960年に録音したシルヴェストリとの共演盤は、フルトヴェングラーのようなスケールの大きな伴奏ではないために、メニューインがもっと目立ちます。

 

ステレオということもあり、メニューインのヴァイオリンの音色が楽しめる演奏です。

 

先もいったように、メニューインは比較的大人しい演奏をするので、フルトヴェングラーとの共演では、メニューインがやや後方に下がっているような印象もありましたが、ここでは彼のヴァイオリンが前面に出てきており、その意味合いを確認できます。

 

その音色を聴いていると、やや線が細めの、繊細な音色で、内に秘めた真摯な心が感じられます。CDで聴くとヴァイオリンの音色は中抜けを起こし、フラットになりすぎて、芯の部分が消えてしまいますが、レコードだと芯が綺麗に響くのが感じられます。ヴァイオリンの音色が立体的に感じられるのが良いです。

 

 

↑、若いころのメニューイン。若いころは本物の神童として絶賛されたそうです。後にジョルジュ・エネスコに師事。20世紀を通じて、多くの名演奏家とともに演奏し、録音を残しました。高い人格の持ち主で、尊敬に値しうる人物だと思います。)

 

メニューインの内へと向かう情熱、それは一見繊細でありながらも、真摯な力強さを感じさせるものであることがはっきりしました。

 

 

アルフレード・カンポーリによるベートーヴェン・ヴァイオリン・コンチェルト(1962)。SXLP20043。

 

 

イタリアのヴァイオリニスト、アルフレード・カンポーリ(1906-1991)による演奏。カンポーリは元々軽音楽(サロン音楽)の名手で、一流のホテルや楽団と演奏し、SP時代に大量の音楽を録音したといわれています(自分は未聴)。当時は大変な人気だったそうです。

 

クラシック音楽に向き合いだしたのは第二次世界大戦後で、そこでもまた人気を収め、一世を風靡しました。

 

特有の節回しのあるヴァイオリンの歌わせ方はヴェル・カント・ヴァイオリンと呼ばれ、甘美な魅力があるとされます。

 

ベートーヴェンでも強弱をつけながら良く歌っています。しかしベートーヴェンのこのコンチェルトはやや曲が単調ですからあまり表情を付けすぎると曲の内容をはみ出しかねませんそういう意味ではカンポーリの個性を聴く演奏だと思います。

 

求道的なメニューインなどと比べると、やや俗っぽさというのはあると思います。少し品が落ちるというか。ただまあ、そこが面白いところではありますけどね

 

日本ではあまりカンポーリの名前は聞きません。クラシック音楽にある普遍性、その部分の表現が少し弱いのかもしれませんただその時代に活躍した人間の持っている独特の雰囲気というのか、それが面白いです。

 

 

(↑、ユーモアと魅力ある人物だったそうです。クラシック音楽はデッカに沢山の録音を残しているようです。)

 

アメリカがWHO脱退を決めたのち、ミネアポリスの黒人が警察官に殺害されたということで、巨大な暴動(デモ)が起きています。

 

中国が香港に国家安全法を導入することを決定したことで、こちらもデモ(暴動)が起きています。

 

コロナ以降世の中の雰囲気が変わってきているように思えます。

 

昔ならちょっとした不安事項だったことも、やや大きな不安として感じていることも多いのではないでしょうか。

 

以前この世の「大峠」みたいなことを少し書きましたけど。その傾向が少しづつはっきりしてきているように思えます。

 

この手の話はまず信じてはもらえませんが。

 

アセンションなどという言葉を使う人もいますが、新しい世界は「不安」が少しもない世界だといいます。ですから「不安」を持つもの、あるいはその種を持つものはその世界には行けないといわれているようです。

 

ですので、それを持つものは徐々にそれを自覚させられることが起きてくるということらしいですね。事故や災難など。そしてそれを解消する気がなければ、より強く自覚を促される事件が起きる、という話を聞きました。

 

今後こういう事件がより大きくなっていくのだとすれば、それは我々一人ひとりに対する「試金石」となっていくでしょう。

 

人がこういう話を信じないのは、自分もよくよく分かっています。

 

当然人生は各自の選択によっています。他の人間が他人の選択を決めることもできません。

 

何を選ぶのか、何を考えるのか、そういったことが今後余計にクローズアップされてくるかと思います。しかし、結局人生がどのような結末を迎えたとしても、それは本人の選択であったとしかいえないのです。

 

緊急事態宣言が解かれるというので。良かったかな、と。

 

自分も何時も勝手なことを色々と書いているので、偉そうなこともいえませんが・・・。

 

それに安倍応援団になりたいとも思わないけど。

 

今回の安倍さんですが、さすがに疲れてそうなのを見ると、あんまり文句ばっかりいうのも気が引けます。色々あったと思うけど、とりあえずは、死亡超過の議論もありますが、日本は死者も少なくて良かったと思います。その辺は喜んで良いんじゃないのかと思いますけどね。同じ政策をとって、外国で成功するかは分かりませんが、オーバー・シュートはなかったわけなので、コロナ対策を全否定するのは抵抗があります。

 

個別の法案についてはいいたいこともあるんでしょうけど、最近のツイッターを見ていると一個人が全部悪い、みたいなことはさすがにないかと思いますけどね。問題は確かにあるとは思うけど。あんまりやりすぎると、文句いう方も火事場泥棒みたいだ。

 

一旦時間をおいて、落ち着いてから、もう一度個別の法案について議論し直したりしたら良いですよ。

 

その辺は安倍さんも気の毒だとは思います。