最初っから「ブラック」でした…。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

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「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 今日から4月。

 本日から社会人となる新卒の皆さんの中には、せっかく入社した企業が実はブラック企業だったと知ってショックを受けている人も居るかもしれませんが、そういう人達は、下記の私の体験談を読んで、くじけずに頑張って下さいあまり励ましになってないかもしれませんが…)。

 

 私が就職活動を行なっていた当時は就職氷河期の真っ只中で、仙台のどこの業種の企業で面接を受けても、「おめーの勤めっトゴ無ェがら!!仙台弁)」と言わんばかりにお祈り」を喰らいまくってなかなか内定を貰えずにいました。かつては東北中から就職の為に上京しようとする若者を東北に引き留める「ダム」の役割を果たしていた仙台でしたが、その「ダム」も、どうやら私の年代で決壊してしまったようです…。

 そんな有様でしたから、仙台サンプラザで開催された合同面接会の時に面接を受けた某企業から、後日唯一の内定の電話を貰った時は、それはもう嬉しかったモノでした。その企業は中小企業にありがちな同族経営で、本社の社長の次男が社長を務めていた東京の子会社に、営業職として採用される事になったのでした。これは、かねてから仙台を出て行きたいと願っていた私にとって、「脱北」のいい機会でもあったワケですが、そこからがまた苦難の連続でした…。

 

 出社初日に、いきなり新幹線で滋賀県の米原市まで行かされた時は、面食らってしまいましたよ。なんでも、その会社の別の部署で生産した製品にエラーが見つかったというので、その納品先での検品の人手に駆り出されたのでした。

 おかげで、自分の本来の部署の上司である課長に挨拶したのが翌日になってしまったのですが、その課長は開口一番「挨拶も無しに帰るとはいい度胸だな!?」…しょうがないだろ、別の部署の検品に駆り出されていたんだから…って、その事を知っていた上での発言だったのでした()。そのデブ課長は、その後も何かにつけて「お前は何かにつけていい加減なヤツだな!!」「何で本社の連中はこんなヤツを東京によこしてきたんだ」などとネチネチと嫌味を垂れてきたりして典型的な仙台人と言うべきヤツでした。新入社員が手前ェの思い通りに仕事がこなせるんだったら、苦労はしないだろうがよ…

 その年のGWに、私にとって最初で最後の社員旅行(もはやどこの中小企業も社員旅行なんてやる余裕は無くなってしまいましたからねぇ…)で北海道に行った際、その行きの飛行機内(当時、青函トンネルにはまだ新幹線が通ってませんでした)で、何故か本社の老社長の隣に座らされるハメになって、緊張しまくりでした。で、その社長が、機内だというのにいきなり懐からライターを取り出して喫煙しようとしたので、慌てて止めたのですが、その事を「新入社員のクセに…」と根に持たれたのか、サッポ◯ビールの工場見学の際、その社長からしこたまビールを飲まされるハメになってしまいました…。おかげで、他の社員が夜の札幌を堪能していた(ススキノとかに行ってたんだろうなぁ)のに対して、私はホテルのベッドでブッ倒れていました。そんなワケで、私には、北海道にもビールにも良い思い出がありません…

 そんなある日、会社に「◯◯だ! 社長を出せ!」との横柄な口調の電話がかかってきました。この「◯◯」という名字はごく一般的な名字だったので、「…どちらの◯◯様でしょうか?」と応えたら、いきなり「◯◯だっつうの! 覚えろ、馬鹿野郎!!」などと言われてしまったので、ヤクザが因縁を付けに来たのかと思いながらも社長に代わったら、その電話の主は、何と、本社の専務だったのでした。いくら専務でこちらが新入社員だからって、見ず知らずの人間を「馬鹿野郎」呼ばわりするとは、これまた典型的な仙台人だなぁ。社長も社長で、「これから気を付けろよ」などと言って、笑って済ませてましたし…。その専務は、上京する度に、私が駅から会社まで車で送迎させられ、その車中でもやたら威張り腐ってたので、不愉快な事この上ありませんでした。

 新入社員という事で夜遅くまで残業させられたり説教されたりで(仙台の両親が、気を利かせたつもりで宅急便でブドウを送ってよこした事があったのですが、先述の理由で帰りがやたら遅かったモンですから、1週間後にようやく受け取れた時には、そのブドウは当然腐ってました(泣)。せめてクールで送ってくれよ…)、精神的にすっかり参っていた私は、そのデブ課長の下で働く事に限界を感じてました。そんなワケで、社長に配置転換を直訴したら、その後数ヶ月程して、事務課の方に回される事になりました。ところが、この事務課のデメキン課長ってえのが、仕事が終わる度に報告書を書かせては、「字が汚い、文法がどーの」などと揚げ足を取っては悦に入ってやがってたり、「僕の言葉は社長の言葉と思え」などと威張り腐ってたりで、営業のデブ課長以上に嫌味ったらしい典型的な京都人ってヤツでした。その課長の言い草が、いちいち癪に障る物言いだったので、「そこまで言いますか?」とばかりにちょっと反論したら、「お前さん、ちょっと頭がおかしいんじゃないの!?」だと…()。ぶん殴ってやろうかと思いましたよ。ただ、この課長も、たった一つだけ良い事を言ってくれまして、それが「僕は遊ぶ為に働いてるんだ」という言葉でした。もっとも、その課長は言行不一致なヤツで、この課長のデブな部下が有給休暇を申請していたのを、「仕事を優先しろ」と拒否していたのでした。そしてこの課長の部下も部下で、普段は先輩風を吹かして、私に対して「会社が自分に何をしてくれるかよりも自分が会社に対して何が出来るかを考えろ」などとケネディをパクった説教を垂れてきたり、二言目には「違うか!?」などと強引に同意を求めたりと、まるで課長の金魚の糞の如く威張り腐ってたクセに、この休暇申請が拒否されたのを受けて連続欠勤した挙げ句、退職してしまったのでした。図体がデカいクセに、豆腐メンタルなヤツ…。

 一人暮らしも初めての経験でしたから、イロイロと苦労が多かったモノでした。私の「第1プラント」は、会社が浦安に借りていたアパートだったのですが、その土地の治安の悪さには辟易させられてしまいました。それについては、以前書いた通りです。その第1プラントは、私が退去したしばらく後になってオートロック方式になったのですが…遅ェえよ、バカ!! 更新期限の2年を以て、都内の高円寺第2プラントに転居する事にしたのですが、その報告を先述のデメキン課長にした時、「せっかくオレが選んだ部屋が不満だってえのか…!?」とばかりに、露骨にイヤな顔をされましたあぁ、不満でしたとも。もっとも、その第2プラントも、治安の悪さでは浦安の第1プラントとどっこいどっこいだったので(特に上の階のクソガキ共足音うるせぇの何のって)、大家に苦情を入れて、更に中野の第3プラントへの転居を余儀なくされるハメになりました…(泣)。

 それから入社2年目にして、更に工場勤務に回される事になってしまいました。工場では、部長直属になったのですが、この部長がまた、先述の課長二人に輪を掛けて嫌味ったらしいヤツで、私が食中毒で休んでしまった時に「診断書を持ってこい」と言うので提出したら、その診断書をわざとらしく床に落としては、顎をしゃくって私に拾わせてました…って、この会社にはこんな腐った上司しか居ないのか!? そして、このクソ部長長時間に及ぶ説教の所為で、仕事に支障を来たす事もしばしばでした。今で言うクラッシャージョウ…もとい、「クラッシャー上司」ってヤツですな。実際、このクソ部長と喧嘩した挙げ句に退職した工場の人も居た程です。このクソ部長、取引先の文具メーカーのPLUSを「プリウス」なんて読んでたり、「送り状」を「送り状」と書いてたりして、何でこんな学の無いヤツが部長をやってられるんだ、と思いましたよ。プリウスで事故って地獄送になっちまえよ…。

 中小企業、それも十数人程度の子会社だったモンで、相談できるような信頼に足る同僚も居らず、上司は上司で上記の通りのクズ揃いだったモンですから、商品の納品の為に一人で車で外を回っている時間が、勤務中一番気楽になれる時間でしたよ。しかし、当時はまだ「終身雇用」という意識が根強い時代でしたから、これから定年までこんな黒い会社(当時はまだ「ブラック企業」って言葉はありませんでしたが)に勤め続けなくてはいけないのかと思うと、気が滅入る思いでした…。「まあ、これも新社会人としての洗礼だ。某合唱団に居た頃よりは、給料を貰える分ずっとマシだろ」と自分に言い聞かせつつ、耐え忍ぶ日々が続きました。

 

 ところが、入社して4年が経とうとしていた2月の14日、いきなり全社員が集められたので、何事かと思ったら、何と、この会社は銀行の貸し渋りを受けて経営が悪化していたので(こんな会社じゃあ、どこの銀行であっても融資したくなくなるでしょうが)、この東京の子会社を解散して仙台の本社と合併した上で、その東京支店として再出発する事になった、と社長の口から告げられたのです。当時は、アチコチの銀行やら証券会社やらが潰れまくっていた金融危機の真っ只中でして、その波が遂にこの会社にも押し寄せてきたというワケです。その為のリストラの一環として、工場の閉鎖を行なうとの事でした。まさに「血のバレンタイン」でした…。

 この急な決定には、当然ながら私以外の工場の人間も納得が行かなかったようで、このリストラ策発表の直後、数日前に新しく作ったばかりの社名入りのツナギが、まだビニールから開封もされないまま、腹立たしげに悉くポリバケツへと放り込まれてました。社名さえ入っていなければ、他の会社に転職した際にも使えただろうに、何と勿体ない…

 実は、その際、仙台本社で再雇用するという話もあった事はあったのです。先述のバカ専務の送迎の時に、車中で「いずれ仙台に戻るんだろ?」と訊かれた事もありました。しかし、そのバカ専務の下で働くのはまっぴら御免でしたし、大体にして、これまで何度も書いてきた通り、仙台では学生時代に酷い目に遭わされ続けてきたモンですから、戻りたくありませんでしたしね。そればかりか、恐ろしい事に、仙台での合同面接会の時に私を応対した本社の人事部の課長が、その後、上からのパワハラを受けて自殺に追い込まれていた、という話も漏れ聞いていたのです。あのチンピラまがいの専務の下では、さもありなんと思いましたよ…。この東京の子会社ですら上記の有様だったってえのに、そんな一層ドス黒い本社に勤めるハメになるなんて冗談じゃ無ェやってんで、結局、退職を余儀なくされてしまいました。デメキン課長が私に退職手続の説明を行なっていた時の、嬉しそうなツラったらありゃしませんでしたよ…()。

 で、その1ヶ月位後に、会社の近くの中華料理店で「解散式」を行なったのですが、その際の私は、クソ部長からビールの酌をされそうになったのを、巧みに避けていました。もし酌をされていたら、そのクソ部長の憎ったらしい顔面にビールをぶちまけて乱闘騒ぎを起こしていたトコでしょうからね。その解散式の席では、周囲から口々に「仙台での再雇用に応じれば良かったのに」と言われたのですが…お前ら、今度はオレを自殺に追い込む気か!? 

 …とにかく、私にとって初めての勤務先であったこの会社は、上から下まで真っ黒けでした。この会社の団塊~バブル世代上司共は、新卒だった当時の私に対して、事ある毎に「社会人経験が長いオレ達こそが絶対正義なのだ、黙って従え!」と言わんばかりの態度で接していましたが、その会社が、先述の通り経営悪化によりリストラを余儀なくされている時点で、その「正義」なんてのはお察しというモノです。皆さんも、「上から目線で能書きを垂れてくる輩」には充分気を付けて下さい

 

 それからは、しばらくコンビニでバイトして糊口を凌ぎながら求職を行なう日々が続きました。現在みたいにネット上の求人が充実していて気楽に応募できる時代では無かったモンですから、ハロワに通ったり、求人情報誌を毎週読んだりしていたのですが、当時は先述の通り金融危機の最中だった事もあって、なかなか次の職場が見つからずに限界が来てしまったので(カラ求人も多かったですしねぇ)、一時的に仙台への撤退を余儀無くされてしまいました(泣)。その仙台でも仕事がありゃしなかったので(元々仙台で職に就けなかったから上京したんですしね…)、七転八倒の末に再び上京する事になってから1年後、最初の上司だった男と門仲でバッタリ出くわして(もう金輪際ツラも見たくなかったってえのに…)、「おぅ、元気だったか!?」と声を掛けられたのですが、それっきりでした。あと、社長(もう子会社ではなくなったので「支店長」か?)とも街中ですれ違った事があったのですが、もう私の顔も忘れてしまったのか、それとも強引なリストラを行なったので私に合わせる顔が無かったのか、無視されてしまいました…

 その会社は、現在は何やら某三流特撮会社みたいなダセェ社名に変わっていて、いまだに存続してはいるのですが(ちなみに、改名前は某セカイ系アニメみたいな社名でした)、東京支店は移転して単なる事務所と化してしまうなど、もはやかつての勢いはありません。いい加減に潰れちまえよ…。もっとも、ブラック企業だからこそ、社員を食い物にして、使い捨てにして生き長らえてやがるんでしょうが。

 

 ちなみに、後年、偶然にもその会社の跡地に移転してきた会社に度々納品に行った事がありまして、そこの営業さんはいつもは普通に接してくれていたのですが、最後に納品に行った時には「個数が違う!」などとクレームを付けられてしまいました。しかし、急いで会社に戻って発注書を確認したら、ちゃんと個数は合っていたので、それを説明しに行ったら、「先に言ってよ~!」と逆ギレされてしまったのです()。その営業さんの態度は、その時に限ってすっかり豹変していて、まるで上記の初勤務先のクソ上司憑依したかのようでした…あの社屋は何か呪われてるのか!? 

 

 東京に戻ってからも、バイト並の安い賃金年金すら払えなかったり、世間話や説教がやたら長ったらしいスモハラ先輩社員から不当に罰金を徴収されそうになったり、社内中から罵倒されまくった挙げ句に辞める当日も23:00頃まで残業させられたり、精●村…もとい町くんだりまで会社ごと移転させられて残業・休日出勤の連続だったり年度末の繁忙期に泊まり掛けで仕事させられたってえのに突然難癖を付けられて辞めさせられたり、肌の合わない同僚と組まされた挙げ句にそいつの讒言で辞めさせられたり、やたら扱いが難しい機械を扱わさせられて会社の行く末に不安を感じたり…と、現在の会社に落ち着くまでに、アチコチの会社で散々苦労させられてきた私ですが、やはりと言うか何と言うか、同じような苦労をさせられてきた氷河期世代は多いみたいです。その現在の会社で、私と同様に中途採用された同い年の同僚なんか、早くも総白髪だったりして、どんだけ苦労してきたんだよ…

 そして、私が就活を行なっていた当時は、その採用を拒みまくっていた仙台の企業群も、震災もあってか、今頃になって「人手不足」などとぬかしよるようになりました…馬鹿野郎共めが!! お前等は、反捕鯨一辺倒で日本に脱退されて資金難に喘ぐIWCか、日ハムを散々食い物にしてきた挙げ句にエスコンへと逃げられて今や「オワコンフィールド」とまで呼ばれている札幌ドームか!? 我々の世代を切り捨ててきた報いだろが!!

 そうした無能な経営者共が、求職中だった時の我々に対して、仕事の憂さ晴らしとしか思えない圧迫面接メンタルをへし折ったり、反対に面接の手応えが良かったと思わせておいては後日「お祈り」を喰らわせたり(酷い会社ではそれすらもありませんでした…)、採用したとしても低賃金パワハラ長時間の拘束散々苦労させた挙げ句に切り捨ててきた所為で、我々の世代の大多数は、ロクに結婚も出来ずに少子化へと繋がってしまい、そのツケ日本そのものの屋台骨を揺るがしつつあります…。その経営者共は、「氷河期の連中を雇う位なら倒産した方がマシだ」とでも考えてやがるんでしょうが、だったら勝手に潰れちまえ!!