西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算348枚目】
カルビー1985年 No.44(表面)
カルビー1985年 No.44(裏面)
裏面は、「プロ野球選手の似顔絵大募集!!」になっています。
前回Part.1 からのつづき
【1985年の田尾安志】
西武在籍:1年目(31歳)、※杉本正・大石友好との交換トレードで中日から移籍、背番号2
打撃成績:127試合、477打数128安打、打率.268(リーグ25位)、13本塁打、60打点、1盗塁
【1985年 田尾安志 名場面①】=40年前の今日!!
1985年4月23日(火) ○西武12-7ロッテ●
田尾「パ」1号
開幕から57打席目。
3回無死一塁から、田尾がパ・リーグ初アーチの2ランを右中間へ運んだ。
田尾「やっとでたという感じだね。やっぱり自分で打ち上げる花火は格別だよ」
西武球場名物のホームラン花火を自らのバットで打ち上げ成功し、ヒットを打っても喜ばないという長男にもやっと胸が張れる。
(西武球場:観衆1万2千人)
昭和60年(1985年)4月24日(水)付 報知新聞より
Part.3 名場面② へつづく…
★2020年6月5日(金)に掲載したブログのアップデート版です★
西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算344枚目】
カルビー1984年 No.550(表面)
カルビー1984年 No.550(裏面)
裏面コメントは、No.83、No.217のカードと全く同じになっています。
■40年前の今日■
1985年(昭和60年)3月24日(日)の西武ライオンズニュース
田淵幸一男泣き 感激の引退式
この日前年シーズンを最後に現役引退をした田淵幸一の引退試合となるオープン戦・西武-ヤクルト(西武球場)と試合後には引退式が行われた。
試合前には、次世代のホームランアーチストへの期待がかかる西武・秋山とヤクルト・広沢によるホームラン競争が行われた。
秋山5本、広沢2本で秋山に軍配。
そのあと田淵の親友の一人星野仙一が惜別のマウンドに上がり、打席に立った田淵は10スイングで4ホーマーした。
始球式は、3歳になる田淵の長男が投手、田淵は捕手になって行われた。
ホームベース3メートルほど前から、パパのミットめがけて見事「ストライク」投球。
同時に西武球場名物の打ち上げ花火が「ドカーン」「ドカーン」と150発打ち上げられた。
引退試合に田淵が登場したのは7回裏、二死三塁の場面で岡村の代打として指名された。
相手のヤクルト・大川投手は真っ向から速球を投げ込んだ。
初球ストライク。
2球目、3球目はボールとなり、4球目は空振りした。
そして次の5球目が最後のスイングとなった。
最終打席は空振り三振で田淵はよろめいた。
試合後に行われた引退式では、電光掲示板で約3分間、栄光の足跡を放映した後、ファン代表、星野仙一氏、ヤクルト・若松が花束を贈呈。
仲良しの広島・山本浩二から寄せられたねぎらいのメッセージも電光掲示板に。
引退式で田淵は泣いた。泣きながら球場につめかけた3万人のファンを前に約束した。
「田淵幸一、グラウンドから生涯、離れません」
いつの日か必ず監督としてグラウンドに戻ってくると誓った。
最後は、別れを告げる場内一周。
花束をかざして声援に応えるつもりでいたのに、目頭を押さえなければ前に進めなかった。
田淵は昭和49年の長島茂雄の引退式を大阪のマンションで観て田淵も男泣きに泣いた。
「あんな感動的な辞め方をオレもしたい…」
それが現実になったいま、田淵は野球人生の幸福を全身で受け止めていた。
場内一周から戻った田淵は真っ先に広岡監督に握手を求めた。
確執が噂されていた二人だが、この知将から得たものも大きかった。
田淵がまた泣いた。
※記事内容は1985年(昭和60年)3月25日(月)付 報知新聞一面より一部抜粋
★2020年6月12日(金)に掲載したブログのアップデート版です★
西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算343枚目】
カルビー1984年 No.539(表面)
カルビー1984年 No.539(裏面)
裏面コメントは、No.322のカードと全く同じになっています。
昭和60年(1985年)3月6日
台湾出身の注目のルーキー、郭泰源投手が西武球場での紅白戦に先発
【1回の投球】
先頭打者・青山は、カウント2-2からの5球目の149キロのストレートで空を切らせた。
前回の紅白戦では球速146キロが最速で、この時投じた149キロは日本に来てからの最速を計測した。
青山「速かった。でももっと速くなるんじゃないですか」
次打者金森には左前に合わせられたが、石毛を投ゴロ併殺打に打ち取り初回は無得点に抑えた。
【2回の投球】
先頭のスティーブに死球を与えると、井上にも四球とコントロールが乱れ始めた。
一死後、駒崎にやや高めに浮いたボールを投手強襲安打。
ひやりとさせた駒崎の強襲打はワンバウンドで左足のふくろはぎに当たった。
郭本人は大丈夫ということで続投すると、その後は速球にシュート、スライダーなどの変化球を織りまぜてのピッチングで大久保、浜本から連続三振を奪って見せた。
3回は三者凡退に退けた。
結局、3イニングを投げ、3安打、2四死球で2点を奪われたが、軽々と149キロの速球を記録するなどオリエント・エクスプレスの本領をたっぷり。
それでも郭本人は「いろんな球を投げてみた。スピードはまあまあ」、「春野より調子は上がってきている。八分くらいのデキ」と2失点もまったく気にしない様子だった。
広岡監督「手加減して投げていたね。味方だから内角は投げにくいよ」
宮田投手コーチ「はじめはよかったけどね。(制球が乱れた)2回は始まる前のキャッチボール不足だね。今後は本人と話し合って投げさせていきたい」
当時の郭泰源は注目を浴びており、マスコミ報道も過熱気味であった。
それを象徴するする出来事がこの日球場で起きていた。
広岡監督怒る!フジの高速度カメラはスパイ行為
紅白戦終了後、広岡監督はネット裏に陣取ったカメラの中に高速度カメラがあったことをさし「今日、郭が投げることを誰かが教えたのではないか?」と発言した。
高速カメラをまわしたのはフジテレビ。日曜日のスポーツ番号の中で、特集として郭を取り上げる予定で、投球する際に球の握り方などを映し出せるカメラを持ち込んだ。
そのカメラを使っての取材が広報を通していないものであった為、広岡監督は「この大切な時期にテレビ番組で流すなんてめちゃくちゃですよ。いまの段階でハダカにされるのは、開幕前にマイナスだ」とカンカン。
昭和60年(1985年)3月7日(木)付 報知新聞より一部抜粋