はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~ -2ページ目

はっきりいってライオンズびいきでした。~西武ライオンズの記憶~

1979年~2008年までの西武ライオンズを中心にプレイバック!
古き良き、そして青き「ライオンズブルー」の懐かしの選手や、思い出の名場面などを私が所有している当時の野球カードや記事などを紹介しながら振り返っていきます!

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算350枚目】

カルビー1985年 No.75黒文字版(表面)

 

カルビー1985年 No.75黒文字版(裏面)

 

西武ライオンズ カルビープロ野球チップスカード【通算351枚目】

カルビー1985年 No.75赤文字版(表面)

 

カルビー1985年 No.75赤文字版(裏面)

 

No.75田尾安志のカードは、表面選手名、チーム名の色が黒文字バージョと赤文字バージョンの2種類が存在します。

2種存在した明確な理由は不明ですが、私個人の推測としては、最初に発行されたのは黒文字版ではないかと考えています。

表面田尾のユニフォームのLionsのロゴ部分に名前が被ってしまっており、少し見難いと制作担当が差し替えの判断をした、もしくは球団からロゴが隠れてしまっているとクレームが来ての差し替えなどが理由ではないかと考えています。

■40年前の今日×西武ライオンズニュース■

1985年(昭和60年)6月22日(日) 

【東尾4安打完封10連勝 145与死球の日本新も】

 

○西武1-0近鉄●

登板条件は悪かった。

中9日、先発予定の6月18日、スライドした19日を雨で流した。

こんな時、投手はコンディションづくりに苦しむ。

東尾は「一度、頭をカラッポにしなきゃならんかった」。

そしてかすかな痛みがつづく右肩は、まだ全力投球を許してくれない。

「頭と顔と意地やろうねえ、オレを支えとんのは」遅い球を速く見せる工夫、変化球のコントロール、200勝投手の顔が効果的に働く。

味方の援護はたったの1点。

それも終盤の7回、西岡のスクイズでやっと取った点だ。

東尾は「シンドかったさ」と言ったが、緊張を楽しんでいるようにも見えた。

一番のピンチは4回一死一、三塁で打席に迎えた梨田をジロリとにらむと、お得意のスライダーで、二塁ゴロ併殺打に打ち取って切り抜けた。

6回以降、近鉄をパーフェクトに抑えた東尾は完封で無傷の10連勝。

今季三度目の完封だったが、面白いことに3試合ともスコアは1対0。

「点差に応じて投げるのが投手の醍醐味」とうそぶくエースだ。

 

また、初回にデービスにぶつけて通算145与死球。

日本新記録を更新したがこれも打者の内角を攻め続けた勲章だ。

「死球日本記録?セ・パ両リーグで表彰してくれんかなあ」完封劇にご機嫌だった東尾は相変わらず一言も二言も多く笑わせてみせた。

(藤井寺球場:観衆7千人)

 

【写真】

【上】強気の内角攻めが売りものの東尾は1回、デービスにぶつけて与死球の日本新記録。

【左上】にぎりはフォークボール。完封で無敗の10連勝

 

昭和60年(1985年)6月23日(日)付 報知新聞より一部抜粋

■40年前の今日×西武ライオンズニュース■

1985年(昭和60年)6月4日(火) 

【郭泰源 ノーヒットノーラン達成 史上54人目の偉業

 

西武7-0日本ハム

回を追うごとに、そしてアウトが重なる度に、平和台球場は興奮と熱狂のボルテージを上げていった。

9回最後のマウンドも郭はいつものクールフェイスで上がっていった。

二死から高代が一塁へフライを打ち上げ、偉業の瞬間が訪れるはずだった…。

ところが途中から一塁の守備についていた広橋がまさかの落球。

興奮して怒ったスタンドのファンから座布団や缶ビールなど投げ込まれ、一時中断したが、その間も郭は冷静さを保ち淡々として見守る。

仕切り直しとなった次打者・津末を2ストライクまで追い込み、最後は外角高めのカーブで見逃しの三振に仕留め、ノーヒットノーラン達成となった。

「ノーヒットは8回ごろから意識したヨ。今日はストレートとスライダーが良かったけど、それよりもコントロールが良かったネ」

「台湾でもノーヒットノーランはなかったから。珍しいから(記念のボールは)保存しておくヨ」興奮気味の報道陣とは対照的に、いつも通りうつむき加減でボソボソと話しインタビューに答えた。

外国人選手としては阪神・バッキー以来の二人目の快挙。

人工芝球場では初の快挙となった。

 

唯一危なかったシーンは7回二死後に古屋が放った高いバウンドの三塁ゴロは「内野安打」かに見えたが判定はアウト。

日本ハムが抗議しても判定は覆らなかった。

 

打者30人で許した走者は2死球と1失策の3人だけ。

27のアウトの内訳は、内野ゴロ15、内野フライ2、外野フライ6、三振4。

投球数も103球でまとめた。

9試合目の登板だった郭は4連勝で6勝目(2敗)。

防御率1.67でリーグトップを奪取した。

(平和台球場:観衆2万5千人)

 

(上)ノーヒットノーランを達成した郭は、両手を上げて博多のファンの声援にこたえた。

(下)郭は最後の打者津末を見逃しの三振に打ち取って達成。

 

昭和60年(1985年)6月5日(水)付 報知新聞より一部抜粋

■40年前の今日×西武ライオンズニュース■

1985年(昭和60年)5月26日(月) 

【秋山17号 5試合連続だ 日本記録月間16発にあと3】

 

○西武10-5近鉄●

6回表二死二塁。

代わった近鉄・住友のシンカーを秋山幸二が振りぬいた。

打球は羽根が生えたように軽々と左中間席へ飛んでいった。

5試合連続の17号が生まれた。

 

5月絶好調の秋山は自ら「強運」をも引き寄せた!?のかもしれない。

6回表チームは秋山の打席直前に近鉄先発・村田辰美投手を攻略し逆転に成功していた。

そして秋山が3打席目を迎えるタイミングで近鉄ベンチは左の村田から右の住友に交代。

秋山は最初の2打席、村田の前に捕邪飛、一飛とまるでタイミングが合っていなかったのだ。

「村田から住友に代わったとき、しめたと思ったスね。打ったのはシンカーかな。村田が投げていたら?打てなかったんじゃないですか。」試合後西武の若大将は正直に告白した。

連続試合本塁打のパ・リーグ記録6試合に王手、日本記録7試合にあと2。

そして月間本塁打日本記録16本にあと3本と射程圏に入ってきた。

(ナゴヤ球場:観衆2万8千人)

 

⇒結局、連続試合本塁打は28日南海戦でストップ。

月間本塁打記録も上記が最後の一発になり5月13本塁打でした。

 

【写真】6回2死二塁、5試合連続のダメ押し17号2ランの秋山はナインに迎えられ大喜び。

 

昭和60年(1985年)5月27日(月)付 報知新聞より一部抜粋

 

「ミスター・メイ」の由来

1985年5月秋山幸二の月間成績は打率.366、13本塁打、28打点。

5月19日~26日にかけて5試合連続本塁打、5月17日~30日にかけて 9試合連続打点の大活躍で秋山自身初の「月間MVP」を受賞した。

 

秋山は、その後のキャリアでも「5月」に限ると1987年に5試合連続勝利打点、1991年に5試合連続本塁打で5月2度目の月間MVP受賞など、5月に活躍することが多く、「ミスター・メイ」と呼ばれるようになった。

メイとは英語の「May」で日本語だと「5月」でいわゆる「5月男」である。

■40年前の今日×西武ライオンズニュース■

1985年(昭和60年)5月17日(金) 

【黒原プロ初勝利 教育リーグで勝てた!!大きい白星 西武20勝一番乗り】

 

○西武5-2阪急●

20勝一番乗りの西武・広岡監督は試合後「教育リーグで勝ったこの1勝は大きいよ」とご機嫌だった。

 

順当なら中5日空いている高橋直樹の先発が予想されたが、そこに川村一明をもってきた。

プロ入り初先発の二年生に経験を積ませるのがこの試合の目的だった。

チャンスを与えられた川村だったが緊張からか2回無死一、二塁で一塁へ擬投する単純なボークをおかして降板。

「教育」は失敗に終わるのかに見えた。

 

そこを救ったのが七年生の中継ぎ専門家・黒原祐二。

2回のピンチを無失点に抑えると、6回まで阪急打線を抑えてしまう。

「ええ、黒原のリリーフにつきます。あの子はストレートさえ走っていればいけると思っていた」広岡監督は当然といった顔をしながら内心は、ほくそ笑んでいた。

 

黒原が好投する間に本塁打&2本のタイムリー安打を放った田尾の大活躍などで西武がじわじわと点差を広げていく。

広岡監督は7回には不振でミニ・キャンプ中の森繁和をテスト登板させる余裕を見せ、最後は森の代役・19歳の新ストッパー渡辺久信がプロ入り初セーブで締めた。

黒原はプロ7年目で嬉しいプロ初勝利。

西武は両リーグ最速で20勝一番乗り。

先発ローテーションの「谷間」の試合をものにしてレオはいよいよ独走態勢か?

(西武球場:観衆1万8千人)

 

【写真】

(上)プロ入り初勝利の黒原と4安打3打点の田尾。二人の活躍で西武は早くも20勝。

(下)阪急・ブーマーはユニホームを忘れ山沖からの借り物で出場。

 

昭和60年(1985年)5月18日(土)付 報知新聞より一部抜粋

■40年前の今日×西武ライオンズニュース■

1985年(昭和60年)5月10日(金) 

【連敗止めた 東尾完封4勝、大田が決勝タイムリー、頑張った34歳オールドレオ

 

○西武1-0日本ハム●

いまや西武が出す一切の印刷物から「西鉄ライオンズ」の輝かしい歴史は除外されている。

福岡を去り埼玉・所沢に移転しても「ライオンズ」に変わりはないのだが…。

 

この試合の勝利の立役者・東尾修と大田卓司は西鉄時代から一緒に戦い、それぞれ投打の主軸としてチームを支え続けてきた。

非管路野球の権化みたいな西鉄で育った二人だから西武の管理野球の枠に収まりきらないのだろう。

だからというわけではないが、二人は西武の中のアウトロー的な存在として見られることも。

こんな二人だから、反発心をうまく生かせるのだ。

「投げてやろうやないか。文句言われない投球を見せてやろう」東尾はそう思ってマウンドに上がり、投げ続けた。

ストレートが伸び、スライダーが切れた。

自ら「今季一番」というデキで日本ハム打線を3安打に抑えこみ、今季2度目の完封勝利だった。

 

東尾に勝利をプレゼントしたのが大田だ。

8回裏二死一、二塁から二遊間をゴロで抜ける中前タイムリー安打で貴重な1点をあげた。

キャンプから不振にあえぎ打率も自身の身長並の1割台で、広岡監督は何度「二軍」を口にしたことか。

今季初めてフラッシュがたかれる中「毎日特打ちしたし、ビデオをよう観た。生まれて初めてこんなに練習したんやから」と打のヒーローは笑った。

愛したチームが身売りされる中でプロ魂を身に着けていった東尾と大田。

ともに34歳のオールドレオがチームの窮地を救い、チームは一夜で首位に返り咲いた。

(西武球場:観衆1万2千人)

 

【写真】

(右上)完封で4勝目をあげた東尾はウイニングボールをスタンドへ。

(左下)8回2死一、二塁、大田は中前へ決勝タイムリー。

 

昭和60年(1985年)5月11日(土)付 報知新聞より一部抜粋

■40年前のゴールデンウィーク×西武ライオンズニュース③■

1985年(昭和60年)5月5日(日) 

【また金森だ 今季2本目逆転サヨナラ3号】

 

○西武13X-11阪急●

両軍毎回の計33安打、24得点の乱打戦は西武に軍配。

 

西武は初回に田尾、秋山、伊東のタイムリー安打で一気に5点を先制し、2回は金森2号ソロ本塁打で6-0とした。

5回にも田尾の2号本塁打などで3点を追加し、6回にも1点を追加し二桁10点目をあげた。

だが先発・東尾が5回途中5失点で降板、西武が試合の主導権を完全に握れないでいると流れは阪急へと傾く。

東尾の後を託された黒原、永射、森の西武救援陣は阪急の反撃を止めることができずに5回以降は毎回失点を重ね前半のリードを使い果たした。

ついに8回に10-10の同点に追いつかれ、9回には逆に1点リードを許し10-11となった。

 

楽勝ムードの展開から一転「大逆転負け」が頭をよぎり始めた9回裏西武最後の攻撃。

勝利の女神は最後までどちらに微笑むかを悩んでいたような展開が待ち受けていた。

 

先頭の伊東が四球で出塁すると広岡監督は代打の切り札・大田を指名。

大田は二塁ゴロで併殺かと思われた瞬間、併殺をあせった阪急・福原が打球をそらし無死一、二塁とチャンスは広がった。

だが次打者・石毛の打席中に二塁ランナーの伊東が牽制で刺されてしまう痛恨のミス。

そして石毛はレフトへフライを打ち上げてしまう…。

イージーフライと見えた打球を阪急・吉沢が打球を見失って二塁打に。

一死、二、三塁となり一気に西武サヨナラ勝ちのチャンスへと変わった。

 

この場面で打席に立つのは4月25日ロッテ戦で延長10回にサヨナラ本塁打を打っている金森だった。

金森は阪急・山沖の投じた初球の真ん中高めストレートに「大根切り」でバットを振り下ろすと、ライト芝生席に打球ははずんだ。

乱戦に終止符を打つサヨナラ3号。

最大6点差あったリードを守り切れず、9回表に阪急にひっくり返されシーンと静まり返っていた西武ベンチがお祭り騒ぎになるのも無理はなかった。

試合後インタビューで勝負強さの秘訣を問われた金森は「勝負強さなんてない。自分で強いんだ、強いんだと思い込もうとしているから」と言ってみせた。

この試合、NHKが全国中継していたが、サヨナラ劇は放送終了後で「(石川県に住む)父ちゃん喜んだのになあ」と悔しがりながらも周囲を笑わせた。

(西武球場:観衆4万6千人)

 

【写真】逆転サヨナラホーマーした金森。今季2度目の快挙に万歳。

 

※昭和60年(1985年)5月6日(月)付 報知新聞より一部抜粋

■40年前のゴールデンウィーク×西武ライオンズニュース②■

1985年(昭和60年)5月4日(土) 

高橋直樹35年ぶりの偉業、40歳での完投勝利投手】

 

○西武8-3阪急●

西武先発・高橋直樹投手は、4月19日の阪急戦で一死も取れずにKOされたあの夜から、この試合にかけてきた。

下半身をしめるために走り込み、フォームを固めるために投げ込んだ。

今日のデーゲームに備え、三日前から横浜の自宅を離れて西所沢の旅館に泊まり込んでもいた。

すべては「勝つため」の準備だった。

この間、緊張のため、神経性の下痢に苦しみ、薬で抑える日が続いていた。

 

今季二度の先発は連続KOで引退をにおわせながら広岡監督は早大の後輩に「若いころの投球を捨てよ。ゆるい球を織り込め」と指示した。

高橋の投球はシュート、スライダーなどストレート系主体。

ゆるい球を混ぜるのに不安があったが、この日の試合は3回までに7得点と味方打線の早い援護を受け余裕が出た。

4回からスローカーブを混ぜ始めた。

逆にストレートが生き、阪急打線は面白いようにフライを打ち上げた。

3年ぶりの完封は逃したが完投勝利で結果を出して見せた。

「自分にとって大事な試合だと常に意識していたんですよ。」試合後ようやく高橋の口元がゆるんだ。

 

そして40歳投手の完投勝利は35年ぶりの大偉業だ。

加えて高橋自身の目標だった、東映時代師事した土橋正幸を一つ抜く通算163勝目も。

だが、現役最年長投手にとって、それも通過点のひとつに過ぎない。

(西武球場:観衆2万9千人)

 

【写真】40歳の完投投手・高橋は、若い伊東、秋山らに握手を求められ心からの笑顔を見せた。

 

※昭和60年(1985年)5月5日(日)付 報知新聞より一部抜粋

■40年前のゴールデンウィーク×西武ライオンズニュース①■

1985年(昭和60年)5月3日(金)

【渡辺トップ4勝、代役女房仲田との19歳バッテリーで完勝、西武首位再浮上】

 

○西武8-1日本ハム●

西武先発・渡辺久信投手は1回から7回まで毎回の8四死球を与えながらも打たれた安打はたった2本。

荒れ球が逆に功を奏し日本ハム打線に的を絞らせなかった。

8回に一発を打たれ完封を逃すも1失点完投でハーラートップに立つ4勝目。

 

そして、この試合で女房役として渡辺を支えたのが、同期生の仲田秀司捕手。

右膝打撲の伊東勤に代わって初めてスタメンでマスクをかぶった。

渡辺は仲田のサインに3、4球首を振ったが、それ以外は仲田のリードにまかせて投げた。

試合後渡辺は「たぶん仲田が相手でリラックスできたからでしょう」とたたえた。

同年の仲田とはウマが合い、よく連れ立って食事に出かける仲。

息の合った19歳バッテリーが西武を6日ぶりの首位に引き上げた。

(西武球場:観衆4万2千人)

 

【写真】試合後お立ち台に上がった渡辺と仲田の19歳バッテリーはスタンドのファンからの声援に応える。

 

※昭和60年(1985年)5月4日(土)付 報知新聞より一部抜粋