※2022年9月23日に書き換えました。

 

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明治維新後、敵国艦隊の襲来に備えて陸軍による海岸防御事業が進められました。欧州から陸軍士官を招へいして指導を仰ぎつつ、重要とされる全国各地の港湾、海峡に堡塁/砲台を設置する計画が立てられましたが、下関海峡(関門海峡)の防御を担うべく立案されたのが「下関要塞」でした。

 

山口県西部の「下関」(当時は“関”の旧字体“關”を使い、“下關”もしくは“下ノ關”と表記)は本州の西の端に位置しています。(※下関の歴史は最後に記載)

本州と九州の間には下関海峡があり、外海から瀬戸内海に入る玄関口となっていましたので、いかにして敵艦の海峡通過を阻止するかが焦点となりました。そこで下関海峡は東京湾、大阪湾/紀淡海峡に次ぐ重要防御地区とされましたが、当時の我が国の財政は窮乏していましたので、思うように砲台の建設ができませんでした。これに憂慮した明治天皇は海防費として30万円を下賜せられ、その後富裕層の献金も積み重なった結果、海岸防御事業は前に進むことになり、明治20年(1887年)9月、下関要塞で最初となる田ノ首砲台と田向山砲台の建設が始まりました。

 

瀬戸内海沿岸に置かれた要塞の配置図です。

 

さて下関海峡の防御は、海峡最狭部(約600m)の早鞆瀬戸(はやとものせと)を含む東北側の出入口と、海峡がカーブする西南側の大瀬戸(おおせと)、さらには下関本土と彦島間の狭い水路である小瀬戸を閉塞することにありましたが、敵の上陸に対しての陸正面防御も計画に織り込まれました。

 

簡単に地図で示すとこんな感じです。

 

写真でも見てみます。

 

下関の火ノ山砲台跡から見た最狭部の早鞆瀬戸です。関門橋の右手が下関、左手が北九州市門司区となります。

 

カメラを左に振ると海峡東北側の出入口で、この先の海は周防灘(瀬戸内海)です。

 

矢筈山堡塁跡から海峡がカーブする大瀬戸を見ています。右カーブをとって進むと海峡西側の出入口で響灘に出ることができます。少し分かり難いですが小瀬戸も写っています。

 

田向山砲台跡から角度を変えて大瀬戸。

 

今度は関門海峡に背を向けて新門司・苅田方面。前面に広がる海は周防灘で、右奥に北九州空港が見えます。こちらは企救半島の陸正面防御となります。矢筈山堡塁跡より撮影。

 

以上、地図と写真で示した通り、現在の下関市南部から北九州市の大半が防御地区とされました。陸正面防御を見てみると、下関地区の防御は後背の下関市街地と沿岸砲台を守ることでしたが、企救(きく)半島の防御は、当時はまだ豊予要塞が設置されていなかったため(建設開始は大正10年より)、豊予海峡(豊後水道)を抜けて東側の周防灘から上陸してくる敵に対することを想定していました。なお洞海方面の防御は建設期間中の防御要領に追加された計画でしたが建設は中止となりましたので何も作られていません。

 

砲台建設は下関海峡防御要領に従い明治20年から始まりましたが、工事期間中の明治27年(1894年)7月、日清戦争が開戦しました。当時はまだ要塞司令部が設けられていませんでしたので臨時下関守備隊司令部が組織され、要塞砲兵第四聯隊が完成していた砲台(19個中10個)で配置に就き、戦闘準備が進められました。

明治28年(1895年)4月には下関要塞司令部が下関市内に設けられましたが、ほどなくして日清間での講和が成立して戦争は終結しました。

 

日清戦争の勝利後再び砲台の建設が進み、明治33年(1900年)に19個目となる高蔵山堡塁が完成しました。その後も新たに計画に追加された洞海方面の堡塁や框舎などを建設する予定でしたが、明治34年(1901年)に経費の都合で中止となりましたので、13年間の建設期間において砲台11個、堡塁8個、合計19個が築城されました。

 

堡塁/砲台の配置図を掲載します。

 

明治37年(1904年)2月、日露戦争が始まりました。下関要塞には警急配備が下令され各堡塁/砲台で配置につきましたが、結果的に本土に攻め込まれることはなく翌年9月に日本の勝利で終わりました。

 

戦勝後は海岸防御の見直し気運が高まり、明治末期になると要塞整理の議論が始まりました。下関要塞においても新たな防御ラインの策定と砲台建設、ならびに既存堡塁/砲台の廃止が大正から昭和初期にかけて検討された結果、明治期に築城された堡塁/砲台のほとんどが廃止となりました。

 

なお要塞整理以降については「昭和期の下関要塞~概略」で解説していますので、続きはこちらのリンクからどうぞ。

 

 

以上が明治期の下関要塞の概略でしたが、築城された堡塁/砲台の履歴を防御地区毎に掲載します。なお砲台名の数字は起工した順番で、『探訪記』は以前の記事にリンクを貼っています。

 

【大瀬戸】

 

田ノ首砲台  ※『探訪記』(2021年1月)

・起工:明治20年(1887年)9月28日

・竣工:明治21年(1888年)12月28日

・備砲:加式鋼製二十八口径二十糎加農 4門

・廃止:昭和10年(1935年)3月・全部除籍

 

田向山砲台  ※『探訪記』(2020年6月)

・起工:明治20年(1887年)9月28日

・竣工:明治22年(1889年)3月31日

・備砲:二十四糎臼砲 12門

・廃止:昭和13年(1938年)9月・全部除籍

 

笹尾山砲台  ※『探訪記』(2021年9月)

・起工:明治20年(1887年)10月26日

・竣工:明治22年(1889年)9月30日

・備砲:二十八糎榴弾砲 10門

・廃止:大正5年(1916年)4月・全部除籍

 

筋山砲台  ※『探訪記』(2020年6月)

・起工:明治21年(1888年)4月4日

・竣工:明治22年(1889年)8月31日

・備砲:二十六口径二十四糎加農 6門

・廃止:昭和10年(1935年)3月・全部除籍

 

【大瀬戸/小瀬戸】

 

老ノ山砲台  ※『探訪記』(2022年1月)

・起工:明治20年(1887年)10月26日

・竣工:明治23年(1890年)1月31日

・備砲:二十八糎榴弾砲 10門

・廃止:昭和17年(1942年)6月・全部除籍

 

【早鞆瀬戸】

 

⑦⑧⑨⑩火ノ山第一、第ニ、第三、第四砲台  ※『探訪記』(2021年9月)

・起工:明治22年(1889年)1月4日

・竣工:明治24年(1891年)2月28日

・備砲:

(第一砲台)二十八糎榴弾砲 4門

(第二砲台)二十八糎榴弾砲 4門

(第三砲台)二十四糎加農    8門

(第四砲台)二十八糎榴弾砲 2門、十二糎加農 4門、十五糎臼砲 4門 

・廃止:昭和10年(1935年)3月・全部除籍

 

古城山砲台  ※『探訪記』(2020年6月)

・起工:明治21年(1888年)2月22日

・竣工:明治23年(1890年)6月7日

・備砲:二十四糎臼砲 12門

・廃止:大正15年(1926年)4月・全部除籍

 

古城山堡塁  ※『探訪記』(2020年6月)
・起工:明治27年(1894年)10月12日
・竣工:明治28年(1895年)10月31日
・備砲:機関砲 4門(戦時のみ備砲)
・廃止:大正15年(1926年)4月・全部除籍

 

門司砲台  ※『探訪記』(2021年2月)

・起工:明治26年(1893年)11月1日

・竣工:明治28年(1895年)7月31日

・備砲:加式及び安式二十四糎加農 2門

・廃止:昭和10年(1935年)3月・全部除籍

 

【下関地区陸正面防御】

 

金比羅山堡塁  ※『探訪記』(2021年2月)

・起工:明治23年(1890年)6月1日

・竣工:明治26年(1893年)4月30日

・備砲:十二糎加農 4門、二十八糎榴弾砲 8門、機関砲 4門

・廃止:昭和10年(1935年)一部除籍も、終戦まで演習砲台として残置

 

戦場ヶ野堡塁  ※『探訪記』(2021年1月)

・起工:明治24年(1891年)4月1日

・竣工:明治25年(1892年)10月22日

・備砲:十五糎臼砲 4門、十二糎加農 8門、機関砲 4門

・廃止:昭和10年(1935年)3月・全部除籍

 

一里山堡塁  ※『探訪記』(2021年1月)

・起工:明治28年(1895年)10月9日

・竣工:明治30年(1897年)7月1日

・備砲:十二糎加農 4門、十五糎臼砲 4門、機関砲 4門

・廃止:昭和10年(1935年)3月・全部除籍

 

龍司山堡塁  ※『探訪記』(2021年1月)

・起工:明治30年(1897年)11月4日

・竣工:明治33年(1900年)2月3日

・備砲:十五糎臼砲 2門、十二糎速射加農 6門、九糎臼砲 4門、機関砲 4門

・廃止:昭和10年(1935年)3月・全部除籍

 

【企救半島】

 

富野堡塁  ※『探訪記』(2021年1月)

・起工:明治26年(1893年)3月9日

・竣工:明治28年(1895年)10月30日

・備砲:十五糎臼砲 2門、十二糎速射加農 8門、機関砲 4門

・廃止:昭和7年(1932年)3月・全部除籍

 

矢筈山堡塁 ※『探訪記』(2020年8月)

・起工:明治28年(1895年)8月21日

・竣工:明治31年(1898年)3月31日

・備砲:九糎加農 4門、十五糎臼砲 4門、機関砲 2門

・廃止:昭和7年(1932年)3月・全部除籍

 

高蔵山堡塁 ※『探訪記』(2022年1月)

・起工:明治32年(1899年)2月20日

・竣工:明治33年(1900年)12月27日

・備砲:十五糎臼砲 6門、十二糎加農 6門、機関砲 4門

・廃止:昭和7年(1932年)3月・全部除籍

 

 

以上、下関要塞の概略でした。

引き続き下記の下関の歴史もご覧下さい。

 

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「下関」は本州の西の端、山口県西部に位置しており、古来より五畿七道の一つである山陽道(兵庫県の西宮~下関)の起終点であったため、九州に渡航する中継点となっていました。

下関の港は馬関港と呼ばれ、九州との往来をはじめ北前船(北海道~日本海~大阪)の寄港地としても栄えましたが、幕末の1864年に欧米4か国と戦火を交えた下関戦争での講和によって馬関港は開港され、外国船の出入りが増加することになりました。

さらに明治34年(1901年)には山陽鉄道の神戸~下関間(現在のJR山陽本線)が開通しましたが、その4年後には下関と朝鮮半島南部の釜山を結ぶ関釜連絡船が就航したことで、下関は本州と九州を繋ぐ交通の要衝のみならず大陸との玄関口としても発展を遂げていくことになります。

 

参考リンク

 

さて、山口県南側の海である周防灘(瀬戸内海)には、古来より「防長三関」と呼ばれる上ノ関(現在の上関町)、中ノ関(防府市)、下ノ関(下関市)の三つの要衝地があり、各々に関所(船番所)が置かれていました。これが「下関」の名前の由来と言われていますが、下関の地はこの名前以外にも、「赤馬関」や「赤間関」(あかまがせき)、「馬関」(ばかん)と言った名称でも呼ばれていました。

由来は諸説あるようですが、元々「赤馬関」だったのが馬が間に変わって「赤間関」になったり、赤が抜けて「馬関」になったらしいです。

下関の市政施行は明治22年(1889年)ですが、当初は「赤間関市」として発足し、その後明治35年(1902年)に「下関市」と改称されました。また「馬関」の名称は「馬関駅」(下関駅)、「馬関港」(下関港)、「馬関海峡」(下関海峡(関門海峡))などに使われました。

現代では「下関」に置き換わり旧呼称を目にすることがほとんどなくなりましたが、「赤間神宮」や「馬関まつり」でその名に触れることができます。

 

以上、簡単ですが下関の歴史でした。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)