◆起工:明治20年(1887年)9月28日
◆竣工:明治21年(1888年)12月28日
◆備砲:加式鋼製二八口径二十七糎加農砲 4門
→明治29年(1896年)9月 備砲完了
→大正8年(1919年) 十二糎速射加農砲に改む
→大正12年(1923年) 二十七糎加農砲に復す
◆設置標高:16.85m
◆廃止:昭和8年(1933年)・廃止決定→昭和10年(1935年)3月13日・全部除籍
◆参考リンク:「下関要塞の概略(明治期)」はこちら→→→
1か月半に亘ってレポートしてきた対馬要塞が終わりましたので、再び下関要塞に帰ってきました(・∀・)
田の首砲台は、下関要塞で初めて竣工した砲台で、関門海峡の南側出入口(大瀬戸)にあたる下関市彦島の南端に構築され、近隣の筋山砲台とともに関門海峡に侵入せんとする敵艦を平射して撃退する任務を持っていました。
関門海峡周辺の地図を掲載します。
なお田ノ首砲台の遺構ですが、戦後の再開発で市営墓地が建設されたことから、砲台は破壊され消滅しました。ただ、後背の山の中に陸軍境界標石が数本残っており、砲台のあった痕跡をとどめています。
これまで遺構が残っていない堡塁・砲台は、見るものなしと言うことで記事にしてきませんでしたが、標石1本でも残っているのなら、、、と書くことにしました(^^)
では砲台の見取図を掲載します。
見取図にはお隣の筋山砲台も合わせて書きましたが、現地探索の結果ならびに『日本築城史』に掲載の要塞竣工図や戦後米軍が撮影した空中写真を参考に作成しました。
左翼砲座のあった場所は下関南霊園の駐車場になっています。
ココを上がって陸軍境界標石を辿っていきます。
1本目を発見(・∀・)
続いて2本目。
3本目。
標石の裏面には「防〇〇」。〇の部分には数字が入っていますが判別不能です。
同じく3本目ですが、表面には「陸軍」ではなく「陸」の一文字です。
4本目は埋もれています。
5本目です。
今回確認したのはこの5本。探せばもう少しあったかもしれませんが、同じ物ばかり載せてもアレなのでこの辺にしておきます^^;
最後に、田ノ首砲台の前面の景色を掲載します。
関門海峡(大瀬戸)を挟んで九州の門司、小倉を見ています。
明治期に構築された笹尾山砲台、田向山砲台、冨野堡塁の場所もマークしました。
以上、田ノ首砲台でした。
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[参考資料]
「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)