下関要塞火ノ山砲台については昨年2020年6月11日のブログにてレポートしましたが、その後に新しく発見した遺構や考察によって判明したことなどがありますので、前回の笹尾山砲台と同様に記事を書き直すことにしました。

 

火の山砲台は下関市側から関門海峡を見下ろす火の山(標高268m)の山頂一帯に築城されました。第一から第四の4つの砲台で構成されており、配備された火砲は合計26門下関要塞13か所の堡塁/砲台の中では最大の攻撃力を誇りました。

周防灘から早鞆瀬戸(関門海峡の最狭部)に向かって侵入してくる敵艦を射撃・撃退することが主な任務でしたが、下関湾内に闖入された場合は火砲の方向を変えて撃つことも可能でした。さらに敵に上陸された場合は、下関市背面に配備された堡塁とともに陸上防御を支援する役目も担っていました。

 

下関要塞の全体図を掲載します。

 

明治24年(1891年)に竣工したのち、日清戦争(明治27-28年)と日露戦争(明治37-38年)では部隊が配備されて守りにつきましたが、大正期に実施された要塞整理にて同砲台は廃止となり、昭和10年(1935年)には防御営造物から除籍されました。

沿岸砲台としては射撃することなく終わりを遂げたわけですが、大東亜戦争時には西部軍が高射砲隊、照空隊、電測隊と言った部隊をこの地に設置し、防空の拠点として終戦まで機能しました。

 

では火ノ山砲台の履歴を掲載します。

◆起工:明治22年(1889年) 1月4日

◆竣工:明治24年(1891年) 2月28日

◆備砲([ ]は設置標高、『』は備砲完了時期):

(第一砲台)28㎝榴弾砲 4門 [228m] 『明治25年6月』

(第二砲台)28㎝榴弾砲 4門 [258m] 『明治24年10月』

(第三砲台)24㎝加農砲 8門 [260m] 『明治26年3月』

(第四砲台)28㎝榴弾砲 2門 [266m] 『明治24年9月』、12㎝加農砲 4門、15㎝臼砲 4門 [263.5m]

◆除籍までの経過:

・大正8年(1919年) 要塞整理要領にて廃止の部類に入る

・大正15年(1926年) 随時廃止と決定

・昭和10年(1935年) 3月12日 全部除籍

・昭和15年(1940年) 第一、ニ、四砲台の28㎝榴弾砲を撤去

◆特記:大東亜戦争時(昭和16-20年)には高射砲隊など防空部隊が設置された

◆参考リンク:下関要塞の概略はこちら→→→

◆2020年6月11日(過去記事)のブログはこちら→→→

 

明治期における火ノ山砲台の見取図を作成しましたので掲載します。

範囲が広すぎて見難いですがご容赦ください。

 

戦後、砲台跡地は「火の山公園」(1956年開園)として整備されて多くの遺構が消滅しました。また造成されて地形も変わっていますので、往年の姿を留めるところは非常に少ないです。ただ第四砲台は比較的よく残っていますので、ここだけでも見応えは十分あります。

なお、公園までは車でも、ロープウェイでも、歩いてでも登ることができますので、非常にアクセスしやすい場所となっています。

 

現在における遺構の残り具合は以下の通りです。

※紹介記事のリンクも併せて貼りましたので、よろしけばご覧下さい。

 

第1砲台・・・ロープウェイ駅、公園整備、レーダー局設置によりすべて消滅

 

第2砲台・・・砲側庫、観測所の指令室が残る

 

第3砲台・・・手を加えられた砲側庫が3つ残る

 

 

第4砲台・・・地下棲息掩蔽部や砲座など当時の姿を残す

後方施設群・・・立体駐車場建設ですべて消滅

 

軍道沿い施設・・・井戸や石垣が残る(アクセス難)

 

低観測所・・・4つの観測室が残る(アクセス難)

 

⑥⑦は公園外で登山道からも外れますのでアクセスは困難です。

 

火ノ山砲台から関門海峡を見下ろしたパノラマ写真掲載します。

クリックすると大きく表示されます。

 

大分~愛媛間の豊後水道を抜けて周防灘に現れた敵艦を、古城山砲台と共に遠方にて撃退することが第一任務。砲撃をかいくぐって海峡内に侵入された際は、門司砲台とともに火力を集中して撃退するのが第二任務でした。

 

以上、火ノ山砲台の概略でした。次回から各砲台をレポートしていきます。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「下関重砲兵連隊史」(下関重砲兵連隊史刊行会)

「下関要塞総合図の内 彩色平面図 火ノ山砲台」(防衛大学校総合情報図書館蔵)

「国土地理院地図・空中写真閲覧サービス」