今回から各砲台をレポートしていきますが、まずは一番見ごたえのある第四砲台を紹介します。

 

火ノ山第四砲台の履歴です。

◆起工:明治22年(1889年) 1月4日

◆竣工:明治24年(1891年) 2月28日

◆備砲:28㎝榴弾砲 2門(明治24年9月備砲完了)、12㎝加農砲 4門、15㎝臼砲 4門

◆設置標高:榴弾砲/266m、加農砲・臼砲/263.5m

◆廃止:大正8年(1919年)要塞整理にて廃止決定→昭和10年(1935年)全部除籍→昭和15年(1940年) 1月、28㎝榴弾砲を撤去

◆その他:昭和期に防空兵器を設置するために砲座を改修

◆参考リンク:下関要塞の概略はこちら→→→

 

第四砲台は海上射撃と陸上防御の両面を担っていました。

① 第一~第三砲台と同様に関門海峡に侵入せんとする敵艦を射撃・撃退する

② 敵が上陸してきた際には火ノ山の他の砲台を守るとともに、下関市街地の後背に置かれた堡塁と協力して陸上防御を行う

 

第四砲台の周囲は土塁と石垣(堡塁)が築かれ、移動が容易に行える軽砲が配備されて四方に砲座が設置されました。コンパクトな堡塁って感じですね。

 

明治期の状態で見取図を描きました。

 

現在は公園化に伴って砲座は消滅したり若干地形が変わっている部分もありますが、往年の姿はしっかりと残っています。

なお北側の砲座は昭和期に防空兵器設置のため円形に作り替えられており、今はその状態で保存されています。

 

では早速行ってみますが、掲載する写真は2月と9月に撮影した物が混在しますので、色合いや草木の伸び具合が異なりますのでご容赦を。

 

第三砲台のある南西側からスロープを上がって第四砲台敷地に入りました。

正面の階段をあがると28㎝榴弾砲座や観測所がありますが、この小高い部分を中心として周囲に交通路(今は舗装された遊歩道)、その外側に土塁と石積みの壁が設けられています。

 

周囲を回る前にまずはこちらから。

上の写真を撮った位置から右手を見ると階段があるのに気づきます。

時期によっては草木に隠れて気づかないかもしれません(^^;

 

階段を上がると、外側に向けて凸状に石積みが築かれた空間があります。

 

内部を見ていますが草木があって見難いですね。

 

凸部の前面の壁にかまぼこ状の凹みがあります。

 

この遺構は、他の砲台でも見られる大きさと形であることから、砲台長もしくは小隊長が指揮するスペースであると推測し、見取り図では「砲台長位置」としました。

 

ちなみに『日本築城史』では「第三砲台の両翼に観測所を置く」と書かれていますので、もしかしたら第三砲台に隣接するこの場所に観測所が置かれていたのかもしれません。それが正しければこの「砲台長位置」は第三砲台所属の遺構となりますが、真相は不明です。

 

では外側の堡塁を眺めつつ左回りで歩いていきます。

土塁に石垣、その上にあがる階段が見えます。

 

しばらく歩いて振り返って見ています。

堡塁の形がしっかり残っていますね。なお写真右手は地下棲息掩蔽部です。

 

上の写真を撮った場所から振り返ると「第9号砲側庫」があります。

理想的な偽装植樹ですねw

 

ちょっと見難いですが、入口上部に「第九號」と彫られています。

 

火ノ山砲台における弾薬置場として使われた砲側庫にはすべてこのような番号表示がなされていたようです。第四砲台には第9号から第13号まで5つ存在します。なお火の山全体では13個あったと思われますが、この番号表示に関しては第二砲台の記事を書く時に考察していきます。

 

内部。防湿・防火対策で漆喰が塗られているので白いです。

比較的小さめですが、15㎝臼砲や12㎝加農砲の弾薬庫ですのでこれくらいの大きさでも事足りたのでしょう。なお同サイズと思われる砲側庫があと2つ(第10号、第11号)あります。

 

ここで砲側庫の壁についての説明(考察?)を加えます。

 

写真を見ても分かる通り、砲側庫の壁には石が使われていますが、石を組み上げて作った石垣のように列をなして積まれておらず、様々な大きさの石が互いに接することなく、あっち向いたりこっち向いたりしていますね。(語彙力^^;

これは「人造石工法」と呼ばれる土木技術を用いて作られたものだと思われます。

明治期に入ってセメントが輸入され、次第にコンクリート工法が普及していきますが、その過渡期にあった明治初期、風化花崗岩と消石灰を水で混錬してたたき固めた「たたき(三和土)」と言う技術を土木工法に応用しました。この工法は発明者の服部長七の名を取って「長七たたき」と呼ばれ、のちに「人造石工法」として日本各地で広く使われるようになりました。

「人造石工法」であることの見分け方としては、互いの石が接触していないこと、石と石との間の目地部分にモルタルではなくたたきの練り土が使われていること、だそうです。でも実際この砲側庫の壁を見ても、石と石が離れているのは分かりますが、目地の素材が何なのかは素人では分かりませんね。パッと見、セメントモルタルにしか見えないし(^^; なのでこの壁は、「人造石工法で作られたと推察される」と言うところで留めておきたいと思います。

ところで、この壁の工法は第四砲台の掩蔽部で広く使われていますが、下関要塞以外の他地域の堡塁/砲台では見たことがありません。だいたい普通の石積みかレンガかコンクリートですもんね。下関要塞界隈でしか見れない特別なものとして取り上げておきます。

 

では周回に戻って、、、。

「第9号砲側庫」前からスロープを上がると「砲座A」があった場所ですが、現在はテレビ塔が建っているので消滅しています。

 

「砲座A」の場所を南側(海側)から。

 

砲座に備えられた火砲の説明があります。

 

堡塁周囲の4つの砲座には15㎝臼砲4門と12㎝加農砲4門(1砲座2門で4砲座)が備えられていました。移動がしやすいように車輪付き(臼砲は移動時に車輪を付ける)だったようですが、どの砲座にどの火砲が置かれたのかについては情報不足もあって確かなことは言えません。

ただ、砲座Dの砲床と思われるコンクリート遺構から推測すると、砲座BとDに臼砲、砲座AとCに加農砲が2門ずつ置かれていたと考えています。この点は後ほど説明します。

 

では周回を続けます。

北東側に残る堡塁。石積みの上にレンガが置かれています。

左に赤い遊具が写っていますが、その場所に「砲座B」がありました。

 

振り返ると先ほどのテレビ塔です。

 

「砲座B」の場所にはアスレチック遊具が置かれています。

 

黄色い矢印の所にコンクリートが露出しています。砲座のどこかの部分だったと思われますので、見取り図では「砲座の残骸?」としました。

 

「砲座B」に隣接して「第10号砲側庫」があります。

ドアが閉まっていて中は窺えませんが、第9号と同型同サイズと思われます。

 

「第10号」の対面に「第11号砲側庫」です。

 

「第拾一號」と彫られています。

 

広場中央に置かれたアスレチック遊具にあがると配置がよく分かります(・∀・)

右が10号、左が11号、奥が「砲座C」のあった場所です。

 

「砲座C」は円形に改修され、多角形のコンクリート台座が設けられています。

現地看板には昭和期に高射砲配備のため造り直されたとあります。

ただ高射砲を置いていたとは断定できませんので、高射砲、電波標定機、空中聴音機、照空灯と言った防空兵器の何かを置いていたと考えます。

 

周回も終盤に近付いてきました。

「第11号砲側庫」の南側に六角形コンクリートの遺構が2つ並んで置かれています。「砲座D」と推測した場所にありますので、砲座Dの砲床と考えました。

 

斜め前より見ています。

 

後方より。コンクリートの厚さが分かりますね。

 

1つの砲座には2門の火砲が置かれていました。そして似たような形のコンクリートの遺構が2つ、、、。以下の理由からこれを臼砲の砲床と推測しました。

 

薄い平板が敷かれていること

 

写真は15㎝臼砲の操法訓練風景です。(『日本の大砲』より掲載)

 

写真を見ると臼砲は薄い平板の上に置かれていますが、六角形コンクリートの遺構にも同じような薄い平板が敷かれているのが確認できます。

平板は2枚重ねですが、上の1枚が六角形に縁取られています。

 

砲座前方部分に固定ボルトが残っていること

 

前方部分に長方形の凹みがありますが、その中にアンカーボルトが2本残っています。

このアンカーボルトは臼砲を固定した物であると考えました。

 

12㎝加農砲の据付部分には方形と弓型の凹みがあったと思われること

 

第四砲台には15㎝臼砲とは別に12㎝加農砲も配備されていましたが、初期の12㎝加農砲には駐退機が付いていませんでしたので、砲座の砲床部分には、車輪を置く方形の凹みと砲尾を据える弓型の凹みが設けられていたと思われます。

写真のような感じですが、六角形コンクリート遺構にはありませんね。よってココに置かれたのは加農砲ではないと。

 

と言うことで、この3点から臼砲の砲床と推測したわけですが、根拠に乏しいような気もしますので、間違っているのなら「そりゃちゃうやろ!」と反論して頂けると幸いです(^^)

 

ちなみに配備されていた15㎝臼砲の現物はコレです。

萩市の明倫学舎に展示されている明治28年製の臼砲ですが、現存していることはもちろん非常に状態が良いので驚きです。

 

では最後に、北側から砲座Dの砲床跡と右横にわずかに残る堡塁を見てみます。

矢印が堡塁跡です。現在では遊歩道が広がっていますが、当時堡塁が築かれていたのはこのラインだったと思われます。

 

これで周回が終わりました。

次回は28㎝榴弾砲座、観測所、地下棲息掩蔽部を見ていきます。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「下関重砲兵連隊史」(下関重砲兵連隊史刊行会)

「下関要塞総合図の内 彩色平面図 火ノ山砲台」(防衛大学校総合情報図書館蔵)

「日本の大砲」(竹内昭/佐山二郎共著、出版協同社)

「国土地理院地図・空中写真閲覧サービス」