2年ぶりに高蔵山堡塁を再訪しましたので、見取図と記事の書き直しを行います。
まずは明治期の下関要塞配置図にて場所を確認します。
高蔵山堡塁の履歴です。
◆起工:明治32年(1899年)2月20日
◆竣工:明治33年(1900年)12月27日
◆備砲:十五糎臼砲 6門、十二糎加農砲 6門、機関砲 4門
◆設置標高:273/276.6m
◆廃止:大正2年(1913年)・要塞整理にて廃止の部類となる→昭和10年(1935年)3月23日・全部除籍
◆特記:大東亜戦争時に高射砲陣地もしくは照空陣地が置かれた模様
◆下関要塞の概略はこちら→→→
※過去記事:2020年6月24日
下関要塞の築城工事は明治20年(1887年)に始まりましたが、最後に竣工したのが高蔵山堡塁でした。
当時は豊予海峡に要塞が置かれていなかったため、豊予海峡を通過して周防灘から上陸してくる敵に備える必要がありました。そこで、関門海峡を背にして防御の拠点となるべく、本堡塁が高蔵山(標高356m)ピークの南方に置かれました。
なお、日露戦争勝利後の要塞整理議論において豊予要塞の設置が決まったことから、大正期に入ると早々に本堡塁の廃止が決まりました。
さて、高蔵山堡塁までは登山道が整備されており、高蔵山森林公園登山口から30分ほどで到着します。堡塁の跡地は「高蔵山広場」と銘打たれていますが、整備が行き届いていないため草木が伸び放題となっています。ただ遺構はよく残っており、当時の様子を留めています。
見取図を掲載します。
棲息掩蔽部前方の付属建物が立つ広場は激しくヤブっているのに対して、砲座周辺は逆にヤブ皆無なので非常に見やすくなっています。
なお、本堡塁の横墻上には複数の石垣を配した円形掩体が築かれています。大東亜戦争時の高射砲もしくは照空陣地跡だと思われますが、見取図ではこの陣地跡を記載していません。ちなみに書くとこんな感じです。
これに関しては「北九州の防空」カテゴリーで後日紹介するつもりです。
では堡塁に向かいますが、登山口には2年前にはなかった丁寧な案内看板が置かれています。
道沿いに陸軍境界標石が現れると、いやが上にも高ぶってきますね(^^)
登山道から軍道と思われる広い道に上がります。
道沿いに排水溝の石積みが見られます。
軍道の谷側に陸軍標石・防六〇がありました。
標石の発見率からすると、先ほど載せた“陸軍”とだけ彫られた標石ばかりですので番号付きは珍しいです。
堡塁入口に到着。瓦礫が出迎えてくれますw
見取図で瓦礫マークを記載した平坦地ですが、レンガ、瓦、御影石などが散乱しています。史料にはこの位置に建物が立っていた記録はありませんが、何か存在したのかもしれません。もしかしたらこちらが監守衛舎なのかも。
見取図で監守衛舎とした場所は一段高い位置にあり、地面には建物基礎らしき物と瓦礫が転がっています。
堡塁内に入って広場を見ています。
草木が繁っていなければ、正面に8連の棲息掩蔽部がキレイに見れるんですけどね。冬枯れしているからまだマシですが夏場ならボーボーです(・。・;
これでマシか?って聞かれると無言になりますが(^^;
この先にある烹炊所の痕跡を見るべくヤブに突入します。
どうやらかまど跡のようです。
近くに井戸があります。
相当深いので落ちたら大変です(;゚Д゚)
探索していて縦穴ほど怖いものはありません。
烹炊所から奥に進むと階段があります。
階段を上がって一段高い平坦地です。ここには砲弾の火薬の調整や填薬などを行う弾廠、炸薬填実所、装薬調整所があったと思われます。
まぁココもヤブがヒドいんですけどね。
めげずに奥に進むと建物基礎がありました。
山側には石垣が施されています。
先ほどの階段を下りて南側に兵舎の建物基礎が残っています。
堆積物で見難いですが横長です。
白矢印が建物基礎、赤矢印は床下の束石のようです。
兵舎西側部分です。奥に見えるのは便所です。
こちらが便所。左が小、右が大便槽ですね。
大便槽は7つ並んでいます。
手洗い場とその奥に排水溝が見えます。
排水溝も深いので落ちたくないですね(・。・;
いよいよ(ようやく?w)最後の付属建物、砲具庫です。
矢印の箇所に建物基礎とレンガ積みが残っています。細長い御影石も転がっていますが、砲具庫の物かどうかは分かりません。
レンガ積み、建物基礎、床面はコンクリートかな。
以上、すべての付属建物の紹介が終わりました。
写真は2年前の4月。今年1月より掩蔽部手前の茂みが薄いです。草刈りしないと年々繁っていきますね、、、。
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[参考資料]
「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)