◆起工:明治24年(1891年)4月1日

◆竣工:明治25年(1892年)10月22日

◆備砲:十五糎臼砲 4門、十二糎加農砲 8門、機関砲 4門

◆設置標高:50m/54m

◆廃止:大正8年(1919年)・廃止決定→昭和10年(1935年)3月13日・全部除籍

◆参考リンク:「下関要塞の概略(明治期)」はこちら→→→

 

戦場ヶ野堡塁は下関市街地北方(現在の後田町)に構築され、近隣の一里山堡塁と共に、上陸して市街地に侵入せんとする敵兵を撃退する任務を持っていました。

 

現在の下関の空中写真に当時の施設を重ねてみました。

 

下関市街地の背面防御として、明治25年から33年にかけて4つの堡塁が構築されましたが、市街地には重砲兵聯隊の衛戍地や要塞司令部が置かれており、これら重要施設を守る必要がありました。

 

戦場ヶ野堡塁の跡地ですが、昭和40年ごろに「戦場ヶ原公園」として再開発されましたので遺構は消滅しています。

菱形の堡塁で外堀を張り巡らした独特の形をしており、800人を収容できる地下室や飲料水の貯水所などが数か所に設けられ、わが国の要塞モデルとして陸軍大学の学生が見学に来ていた、と言われています。

 

そんな堡塁の遺構を見ることができないのは残念ですが、当時の菱形は公園化されても引き継がれています。

 

現在の空中写真に堡塁の見取図を重ねてみました(・∀・)

見取図は「日本築城史」を参考に作成しています。

 

遺構は消滅していますが、写真に掲載したように、陸軍境界標石や当時の物と思われる境界柵の支柱が残っています。

公園周辺の茂みに入ってウロウロすればさらに見つけることができるかもしれませんが、人が多く訪れる公園で不審者と思われそうなので辞めておきました(^^;

 

展望台から西南西の市街地方面を眺めています。菱形ですね(^^)

右端に写る島は六連島、左端には海峡ゆめタワーが見えます。

 

こちらは東北東方面。写真中央に砲台が置かれた火の山が見えます。

 

公園の右端に、このような支柱が並んでいます。

 

結構広範囲に亘って設置されています。

 

入口から公園内を見ています。

 

金具部分に鉄条網が張られていたのかな。

 

これらの侵入防止柵とも言える境界支柱ですが、場所としては堡塁の外周外側に設置されています。

堡塁が稼働していた明治~大正期に設けられたのか、それとも廃止後に侵入防止目的で設けられたのか、はたまた戦後だったのか、、、。その辺は定かではありませんが、戦後と考えると浪漫がなくなるので(^^;、それ以前だったと推測しておきます。

 

支柱の外側に陸軍境界標石が1本埋設されています。

 

引きで見ると、このような位置にあります。

 

 

最後に、忠霊塔周辺を見ていきます。

忠霊塔は昭和17年に建立されました。おかれた場所は広場になっており現在では公園内になりますが、当時の堡塁南部の外側にあたります。

 

建立の由来が書かれています。

 

 

以上、戦場ヶ野堡塁でした。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)