◆起工:明治30年(1897年)11月4日

◆竣工:明治33年(1900年)2月3日

◆備砲:十五糎臼砲 2門、十二糎速射加農砲 6門、九糎臼砲 4門、機関砲 4門

◆設置標高:283m/285m

◆廃止:大正3年(1914年) 廃止予定→昭和10年(1935年)3月12日 全部除籍

◆下関要塞の概略はこちら→→→

◆探訪年月:2020年2月

※2021年1月 見取図挿入に伴い加筆修正

 

※2022年1月、付属施設群の追記を行いました。合わせてご覧ください。

 

龍司山堡塁は、火の山の北方に位置する霊鷲山(りょうじゅせん)の山頂に築城されました。火の山砲台の後背防御を担い、近隣の戦場ヶ野堡塁と一里山堡塁とともに綾羅木方面から上陸侵攻してくる敵を撃退するのが任務でした。

 

関門海峡周辺の地図で場所を確認します。

 

なお龍司山堡塁には車で行けませんので歩いて向かうことになります。

探索したこの日は、火の山の中腹にあるハイキングコースを進みました。全行程アスファルトの舗装路で歩きやすいのはいいですが、山頂までの距離は4.2㎞となかなか長いです。

朝9時半からスタートしましたが、入口にある駐車場はほぼ満車で、道中も多くの人たちとすれ違いました。ウォーキングコースとしてはメジャーですが、平日の朝から皆元気だなぁと(^-^;

 

さて、まずは龍司山堡塁の見取図を現在の地図に重ねてみました(・∀・)

 

山頂は公園広場として整備されており、棲息掩蔽部のみ保存されています。

また、堡塁を取り囲んでいた壁が4分の3ほど残っており、壁を辿ってぐるりと歩くとなかなか面白かったりします(^^)

 

今は遊歩道(舗装路)となった当時の軍道を歩いて行くと、山頂手前にレンガ造りの構造物が現れます。(見取図左側の赤線部分)

 

藪に覆われておりさらに内部には土砂が入り込んでいますが、かまぼこ型の開口部が3つ(西側に2つ、南側に1つ)確認できます。

初めて見た時はトーチカかと思いましたが、見取図を見て考察した結果、トーチカのような独立した施設ではなく、壁に開いた「銃眼」であると推測しています。

 

西側に並ぶ2か所の銃眼。

 

では取り囲む壁(堡塁)を見ながら左回りで歩いていきます。

 

舗装路上方の西北側の壁を辿ります。

 

北側の壁を右に曲がります。

 

真北部分は遊歩道建設のため分断されています。



分断箇所から東方向に壁が続いています。ココからは苔に覆われていません。

 

壁の内側です。レンガ積みモルタル張りとなっています。

 

壁から外を見下ろしています。

だいぶ高さがありますが、北東~東方面にかけては壁が高くなり、さらにその外側は堀となっています。まさに攻城対策そのものですね(・∀・)

 

再び外側に下りて進んでいきます。

 

進むにつれてどんどん堀が深くなっていき、こんな立派な石垣に!w(゜o゜)w

 

立派な石垣です(*´Д`)

 

さらに進むと壁は右に曲がりますが、ちょうどその部分から石垣からレンガ積みになります。なお見取図だと東側(右側)です。

 

レンガ積みの壁はほどなくして上部が崩れていましたが、回り込んでその壁の下部を見ると、レンガがアーチ状に組まれているのが確認できました。

アーチの下部はかまぼこ型の開口部。左翼(西側)と同じく「銃眼」ですね。

 

藪化と破壊で非常に見難いですが、「銃眼」は2つ並んでいます。


内側からも見てみます。

土砂流入や破壊がひどいです。

 

銃眼付近の壁の様子。

 

先を見ると、東から南東方面に壁が続いています。

レンガではなく再び石垣となりました。

 

壁の外側は藪が凄くて進めなくなりましたので壁の内側へ。一部階段になっています。


さらに先に進むも壁は崩壊しており、さらに藪化で進めなくなりました。そこで、上に向けてよじ登ると、山頂広場に出ました。

ちなみに丸い建物はパゴダです。

 

これにて壁を辿る旅は終了です(^^)

後編では棲息掩蔽部や建物跡を見ていきます。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用