老ノ山砲台の跡地は公園となっており時間調整の休憩などでよく利用しますが、先日園内を散策していたら昭和期の高射砲の砲床と思われる遺構を見つけました。これについては「北九州の防空」カテゴリーであらためて紹介しますが、その前に老ノ山砲台の記事を書き直すことにしました。

 

まずは明治期の下関要塞配置図で場所を確認します。

 

砲台の履歴です。

◆起工:明治20年(1887年)10月26日

◆竣工:明治23年(1890年)1月31日

◆備砲:二十八糎榴弾砲 10門(明治25年4月 備砲完了)

◆設置標高:100m

◆廃止:昭和12年(1937年)・要塞再整理にて廃止決定、昭和15年(1940年)・備砲撤去、昭和17年(1942年)6月・全部除籍

◆特記1:明治26年、砲台の西南約300mに電燈所を設置

◆特記2:大東亜戦争時、砲台敷地内に高射砲および電測陣地を構築

◆参考リンク:「下関要塞の概略(明治期)」はこちら→→→

※過去記事:2021年2月3日

 

老ノ山砲台は下関要塞で3番目に着工された砲台です。下関市彦島の響灘を望む丘陵地に構築され、前方の海面を射撃の首線とし、時機においては逆方向にある下関湾内への射撃も任務となっていました。なお配備されたのは360度旋回可能な28㎝榴弾砲でしたので、逆側にも射撃が可能でした。

 

さて、冒頭にも書いたように同砲台跡は「老の山公園」として整備されています。多くの遺構は消滅・埋没していますが、本項では僅かに残る痕跡を辿りつつ、平成の公園改築工事の際に砲台の遺構調査を行った下関市のレポートも紹介していきます。

 

現代の地図に砲台の見取図を重ねてみました。

 

白字で示した箇所が現存する砲台の遺構です。

砲座の置かれている場所は一段高くなっており、後方から地下通路を通って砲座に上がるスタイルでした。なお地下には各々の砲座に付属する砲側庫と兵員室が置かれており、1ヵ所だけ地下通路が残されています。もちろん中には入ることはできませんが、入口の金網越しに通路の奥を窺うと兵員室の顔が確認できます。

 

なお赤字の高射砲の砲床については別カテゴリーで紹介しています。

 

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それでは砲台跡を見ていきます。

 

公園内の駐車場から砲座の置かれた丘陵地を見ています。

右翼観測所は東屋設置で消滅していますが、地下通路の入口や壁が残っています。

 

地下通路入口です。

 

埋もれていてアーチ部分しか見えません。なおこの周りに植えられているのはツツジですので刈られることはありませんし、春の咲く時期には埋没して完全に見えなくなります。

 

少しヨリで。

 

道筋がありますので入口前まで進んでみました。

 

外側は石積みでしたが入口の内側部分はレンガ積みですね。なお入口は壁と金網扉が設けられて立入禁止となっています。

 

金網越しに中を窺っています。

 

地下通路はキレイな石積みです。写真は中が見えるように明度を上げていますが、奥に掩蔽部の顔の特徴である扉と窓の開口部が確認できます。

 

拡大してみました。扉の上に「第一号」の文字が確認できます。なお下関市のレポートによると兵員室のようです。

 

老の山公園は平成半ばに改築されましたが、工事の際地下施設が確認されたため下関市が調査を行いました。記録は埋蔵文化財年報に纏められており図書館で閲覧できますが、昨年開催された「下関要塞展」で写真が展示されていましたので、そこから数枚掲載します。

 

地下通路の先はこのようになっています。

 

先ほど見えていた兵員室の奥が弾薬庫となる砲側庫、兵員室から階段を上がると砲座と右翼観測所司令室を行き来する地下通路が配置されています。

同様の作りの地下施設が各砲座間に置かれていたと推察されますので、全部で5ヶ所あったと思われます。なお調査した箇所は右が観測所司令室、左が砲座ですが、他の4ヵ所は両側が砲座となります。

また、構造図の揚弾筒の下に階段が書かれていますが、これは地上に設けられた小隊長の指揮位置に上がる階段だと思われます。同様の階段は由良要塞友ヶ島第三砲台で確認することができます。

この階段だけではなく全体の構造が老ノ山砲台と非常によく似た造りになっていますので、参考までに過去記事のリンクを貼っておきます。

 

 

砲側庫に置かれた砲弾は、揚弾筒から通路に引き揚げて、通路の運搬用レールにて砲座に供給するスタイルです。簡単に図解するとこんな感じです。

 

ところで、地下通路右側の司令室はドーナツ状になっています。

 

レポートによると、「天井に円形の穴が1つ見られ、ここから上部の観測所に上がったものと思われる」と書かれています。

特徴的な作りですが、由良要塞友ヶ島第四砲台が似たような構造となっています。こちらは螺旋階段で上部に上がるようになっていたようですが、この砲台は長らく立入禁止となっているので実際見てはいないのですけどね(^^; 立ち入れた頃に書かれた方のブログを参考にしています。

 

地下施設はこれくらいにして周囲を歩いてみます。

 

右から2番目の地下通路入口があったと思われる箇所にコンクリートの壁が露出しています。

 

ヒキで。

 

ヨリで。コンクリートではなく石積みモルタル塗りかもしれません。

この下に地下通路入口が埋没しているものと思われます。

 

ところで下関市のレポートには築城年月が刻まれた銘板の写真が掲載されています。

もしかして銘板がコンクリート壁の遺構に残っているのではないかと見てみましたが、残念ながらありませんでした。

 

コンクリート壁が残るラインに並行して石積みが2ヶ所見られます。推定する地下通路入口部分にありますが、この石積みは遺構ではなく公園造成時に積まれたものではないかと思われます。

 

砲座があった場所は整地されて何も残っていません。

奥の小高い所に見える東屋が右翼観測所があった場所です。

 

次に、遊歩道を歩いて左翼観測所跡に向かいます。

奥が観測所ですが、この石積みは当時の物かもしれません。

 

左翼観測所跡です。右斜め前方から見ていますが円盤の形がよく分かりますね。

 

今度は左斜め前より。

右翼観測所は砲座より一段高い場所に置かれていましたが、こちら左翼側は逆に低い場所にあります。

 

後方より。測遠機が置かれた観測室は埋められています。

 

続いて公園外周の遊歩道を歩いてみると、駐車場裏の谷側に建物基礎と思われるレンガ積みの遺構が残っています。

 

細長い建物だったようです。便所だったのではないかと思われます。

 

角っこの凹み。

 

以上が老ノ山砲台の僅かに残る遺構でした。

最後に公園からの景色を掲載してお終いとします。

 

射撃の首線方向である響灘を見ていますが島だらけです(^^;

 

首線とは逆の関門海峡側。こちら側への射撃も想定していました。

 

以上、老ノ山砲台でした。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「下関市埋蔵文化財年報3 平成20年度(2008年)の記録」(下関市教育委員会 2011.3)