ぼんやりとしていたことが
輪郭を帯びてきている。



「使命」

「生きがい」

「幸せ」



10代の頃は
胸弾む高揚感を「幸せ」と表現し
何かにつけて誰かに向けて
「幸せ!」とアピールしていた。


20代の頃は
「使命」という言葉にトキメキを感じ
「使命」を生きることが
「生きがい」に直結すると信じ
人生でつまづくたびに
ホロスコープで星を読み
自分の「使命」について考察していた。














20代が終わりに差し掛かる頃
サターンリターン(♒︎)が訪れ
人生がハードモードに切り替わった。


「幸せ」とは何か考える余裕も
「使命」を探す気力もなく
「生きがい」もよくわからない日々の中で
私の中でパチンッと音がして
スイッチが切り替わった。


思考も感情も袋小路にはまり
身動きが取れなくなった時
何かが吹っ切れたように

「とにかく目の前にある
やるべきことをやろう」

そんな結論に至った。





▼その時に書いたこと。
 この時は今よりぼんやりしていた。













諦観


この時に私がしたことは
そんな感じのことだったと思う。


いつも頭の片隅にあったこと。


" 自分にもキラッと輝く才能があり
その才能が開花する日が来るし
その才能で使命を生きることが
私の生きがいであり幸せなのだ "


そんな方程式に取り憑かれていた。














私はあの瞬間、
この考えをまるっと手放した。


手放した途端に
視界がクリアになるのを
はっきりと感じた。



まず取り掛かったのは
やるべきことについて。


与えられた仕事をこなし
期待されていることに
誠意を持って応えようと決めた。


第一優先は家事と育児で
その次にカフェと雑貨店の仕事。


自分がすべきことで
自分にできることをやろうと。


家事も育児もこれまでもしていたし
仕事も真面目にこなしていた。


今までと違うのは
これが今の私が
やるべきことだ
という責任と覚悟。


何者かになる前の仮の姿ではなく
これが私のやることだと考えたら
妙に納得してしまった。














やるべきことの中から
できることをやる。


これが「使命」だと直感した。


かつてトキメキを感じていた
「使命」とイメージに比べて
地味で魅力なんて全くないが、
「使命」は命の使い方なんだと思った。


自分のためではなく
誰かのために使う命。


夫と娘のために暮らしを整えることは
人生において必要なことだし
偶然にも私にはそれができる。


カフェを運営するにあたり
必要不可欠なお客様への接客が
奇遇にも私にはできる。


オンラインショップで
雑貨店の商品を販売することは
お店の周知と売上に繋がる
大切な仕事であり
ラッキーなことに
私はそのシステムづくりができる。


私は、家事も育児も仕事も
大きな努力をしなくても
なぜかはじめからある程度できた。


取り立てて得意ではないけど
苦労なくできる、そんな感じ。


私がやるべきことだから
ちゃんとできるようになってる
そんな風に感じるし、
それが「使命」なんだと思う。














「使命」と「生きがい」は別物だ。


家事・育児・仕事を
いくら意欲的にこなしたところで
それは「生きがい」とは
呼べない気がする。


使命が人のために使う命なら
自分のために命を使う
それが「生きがい」になるのだと思う。


「生きがい」とは魂の喜びだ。


理由はわからないけど
私は沖縄を訪れた時にそれを強く感じる。


全身全霊で喜びを感じるのだ。


" 沖縄に行くことが私の生きがい "
そんな風に思う。


もちろん他にもある。


・本屋さんで本を選ぶ
・カフェでひとり時間を過ごす
・本から何かを学ぶ
・おうちを整える
・温泉やスパでリラックスする
・マッサージに行く
・きれいな海を見る


こんなことも私にとっては
最高の「生きがい」であり
価値ある時間とお金の使い方だ。


「生きがい」には後ろ盾も意味もない。


理屈では説明できないけど
どうしようもなく
魂が喜びを感じてしまうことが
「生きがい」なのだと思う。


「生きがい」は
魂にエネルギーを注いでくれる
人生のガソリンスタンド⛽️だ。














では、「幸せ」とは何か。



これらが最近私が感じた幸せたち。


「幸せ」は空気みたいなもので、
目には見えないし
意識を向けなければ
常に存在していることに
気づくことすらできない。


「幸せを手に入れよう!」
という言葉があるが
これは本質的ではない。


「幸せ」はいつだってある。
気付いてあげるだけでいいのだ。


今日、
大好きな祖母が目眩で倒れ
肋骨を骨折して入院した。


入院する祖母を思うと可哀想で
とても悲しく心配な気持ちと共に
今ベッドで寝ている娘が
健康であることの奇跡を強く感じた。


今年は身内の怪我が続いている。


そのたびに心が揺さぶられるが
なによりも大切な娘が
元気で笑顔でいてくれていることが
私の心をどれだけ穏やかに
保たせてくれていることか。本当に。


これが私が今日感じた「幸せ」だ。














どうやらこの世の全ては
陰陽のバランスでできているらしい。


「幸せ」は単品でやってくるのではなく
裏っ側に " 陰 " をくっつけてやってくる。


ひっくり返って
" 陰 " のパッケージでもって
現れることもよくある。


パッケージに騙されて
ビリビリに破って捨てたゴミから
「幸せ」が発見されることも
珍しいことではない。


「幸せ」を感じるために必要なのは
丁寧な生き方センスに尽きる。


丁寧な生き方とは
表面的な出来事に
一喜一憂するのではなく
心の動きをじっくりと観察し
変化を奥深く味わうこと。


センスは五感を磨くことだ。


頭にはお休みしてもらい
感覚でキャッチすることが
幸せを感じるコツで、
そのために五感のアンテナは欠かせない。


五感が触れる刺激や情報を
ちゃんとコントロールして
上質なものを取り入れることで
五感は磨かれていく。















「使命」とは
人のために
自分の命を使うこと。


これは自分自身にとって
楽しいことではなくても
なぜかはじめからできてしまう
という特徴がある。


できてしまうけど
やりたいわけではないから
時に立ち止まりたくなるが
覚悟と責任感をもって
やるべきことのように思う。














「生きがい」とは
自分のために命を使う時に感じる
魂の喜びであり
魂にエネルギーを注いでくれるもの。


理屈では説明できないが
損得勘定を抜きにして
「私はこれがやりたい」と
確信めいたものを感じる。


価値ある時間とお金を注げるし
価値ある時間とお金の創造もしてくれる。














「幸せ」とは
いつもそこに在るもの。


ひとつの特別なものではなく
日常にありふれていて
だからこそ気付きにくいもの。


頭で考えるのではなく
感覚的に感じるもの。


たぶん本当の「幸せ」は
外にアピールすることなく
内でじんわり味わいたくなるもの。















「使命」と「生きがい」は
どちらも存在していて
私たちは人のためにも
自分のためにも命を使う。


誰もが誰かを生かしているし
誰もが誰かに生かされている。


この境界線はいずれぼやけて
統合されるのだと予期している。


そんな人生の中で芽生える
感謝の心が「幸せ」に繋がっていく。


人生は感謝にあふれているから
同じだけの「幸せ」がある。












今日もこうして
家族の寝息をききながら
自由気ままに言葉を紡ぎ
ふかふかのベッドで
眠ることができて嬉しい。


最後まで読んでくださり
ありがとうございました。


それでは、おやすみなさい🌙